2012年12月31日月曜日

[く] グレン・グールド~演奏家という存在形態~

[く] はじめに~一本の映画~ 表題は濁音。でもそのピアノはどこまでも清音。今年もいろいろな映画を観てきたが、グレン・グールド(193282、カナダ人)に関する映画もその一つ。映画の題名は『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』(ただし封切りは昨年秋)。原題は『Genius Within The Inner Life of Glenn Gould』。「愛」の解り方次第だとしても原題の方が良い。ドキュメンター映画である。グールドに関する映像(演奏風景やインタビューなど)はWeb上でも多く流れているが、本作品は伝説的なベールを取り去ってグールドの内面を追求し、彼の音楽の前提となる人間グールドを掘り下げようとした意欲的な作品(監督:ミシャル・オゼ/ピーター・レイモンド、2009年、カナダ、108分)である。

 
 Ⅰ グレン・グールドの音楽

 希代の異端児 この映画を観たのはブログを見込んでいたからではない。以前、良く聴いていたピアニストの一人だったからである。それに音楽的源泉に人を誘う上に特別な存在であったからである。いうまでもなくその斬新さによってその名を一気に世に知らしめることになったグールドのバッハ(「ゴルトベルク変奏曲」1955年録音)の演奏である。そして、「ゴルトベルク変奏曲」をはじめとした「バッハの音」を基点とするグールドのピアニズムが創る既存の音に対する否定的な響きに長く囚われていたからである。たとえば、グールドのモーツァルトやベートーヴェンの演奏である。同時代に対して挑戦的すぎる演奏である
映画の中にはそんなグールドを彷彿させるレナード・バーンスタインとの共演シーンがある。演奏に先だって指揮者が会場に向けて説明する場面である。しかも弁解シーンである。異例中の異例である。曲目はブラームスのピアノ協奏曲第1番であるが、これから演奏する協奏曲のテンポはグールド氏の選択によるものであって「(私には)まったく同意できないものである」というコメントである。指揮者は致し方なく従ったのだと但し書きして演奏を開始した(しなければならなかった)のである(19624月ニューヨークでの演奏会)。指揮者を困惑させるエピソードには事欠かないグールドである。しかも紛う方なき〝異端児〟である。奇行だけでなくそれ以上にその音楽がである。その折の演奏会のテンポも、(非常識に)極めて遅いものだったのである。

 
グールドのピアノ 一冊の本を読んだ。グールドに関する最新作である。題名は『グレン・グルード 未来のピアニスト』(筑摩書房、2011年)。執筆者は青柳いづみこ。彼女はピアニストでドビッシーの研究家としても知られているが、文筆家として多くの音楽評論を手掛けている。本書は昨年7月の出版で、映画の封切り(20111029日)前であるが、「あとがき」(同年4月)では上記映画の感想にも触れている。カナダ在住者(グールド関係書籍の翻訳者)から先に送られてきたようである。それはともかく、本書は、さすがに「実演家」であるだけに指使いについて同業者でなければ気がつかない奏法についての数々の指摘があるが、エッセンスとなるのは、著者自身の演奏家という在り方を重ね合わせるようにしてグールドの本質的課題に迫っている点である。小文が副題とした「演奏家という存在形態」に関する課題についてである。音楽芸術における演奏家の位置付けを自問自答的に問い、その問題をもっとも先鋭化させている存在としてグールドを捉えているのである。
グールドは、上記した「ゴルトベルク変奏曲」のレコード録音をはじめとした斬新な解釈によってバッハに新しい光を当てた。解釈だけではなかった。20世紀半ば、一時タブー視されていたピアノによるバッハ演奏*を再建的に復活再生させた(吉田秀和1975)。しかも単なる再生ではない。ピアノという鍵盤楽器だけが創り得る「音」を発見したのである。「ゴルトベルク変奏曲」の演奏は、その「音」の具現である。グールドのバッハは、ピアノ故に生み出せる「音」のなかに発見された音楽芸術である。絶対音感の保持者ならぬグールドの絶対的な自信(確信)だった。あらゆるスコアに曲想を超えて「音」を聴くことができた。彼の解釈の前提であり、「音」を発見した自分自身に向けた確信だった。
 
* バッハの時代の鍵盤楽器は今のピアノ(打弦鍵盤楽器)ではなく音の響きが構造的に違うチェンバロ(撥弦鍵盤楽器)であった。またバッハが使用していたのは二段鍵盤である。したがって、平面的には二段を一段にした鍵盤楽器がピアノである。二段用に作曲されたバッハの鍵盤曲を一段で演奏することは矛盾である。極めて複雑な手の交差や差し込みが要請されることになる。グールドはそれをいとも簡単にこなす(以上は青柳著から)。
グールド以前、この楽器上の矛盾(音の矛盾)に立脚して、本来の正しい音(正しいバッハ)の復権を求めて、バッハはチャンバロで弾くべきとピアノとの違いを実証してみせたのが、チャンバロ演奏の復活を主導したワンダ・ランドフスカであった。その後、彼女がアメリカに渡ったこともあり、「合衆国では若い世代のピアニストにとってバッハをピアノでひくのはタブーであり、時代遅れの愚劣な行為に近く見られるようになった」(吉田著、177頁)というのである。

モーツァルトの演奏 しかしその確信が為さしめたともいうべきモーツァルトはどうだろう。とくに物議を醸した「ピアノ・ソナタ第11番イ長調K.331」の演奏である。青柳によって「危険な領域」(321頁)とさえ譬えられるほどの演奏である。「実験的演奏」かもしれないが、モーツァルトへの挑戦である。聴き方によっては〝嘲笑的な演奏〟でさえある。そのモーッアルトに関してグールドはかく言う(青柳著孫引き)。

私がモーッアルトの音楽に対してやっていることに彼自身は賛成しなかったに違いないと思うことがよくあります。演奏家は、たとえ盲目的であれ、自分が正しいことをしているのだという信念を持たなくてはなりません。それは、作曲家本人すら十全に実現できなかった解釈の可能性を見出しつつあるかもしれないのだという信念です。(『発言集』)

 流れるように弾かない。響かせない。優雅になどしない。してその演奏はと言えば、第1楽章の途中までの極端に遅いテンポに、一音々々を区切るようにして弾く奏法(ノン・レガート)で、止まってしまうような音をやっと繋ぎ止めている。ぎりぎりの停止状態に挑んでいる。まさしく実験台にしている。あえて嘲笑的なと言ったのも大胆すぎるためである。でも『発言集』のとおりである。彼は信念以上に理論――「作曲家本人すら十全に実現できなかった解釈の可能性」で遂行していたのである。しかも事実、聴こえなかったモーツァルトが鳴っているのも事実である。
一体に遅いテンポをとる場合には、しばしば予期せぬ音楽的効果が期待されることがある。これはシンフォニーの例ではあるが、良く知られた例にセルジュ・チェリビダッケ(191296)の指揮がある。ブルックナーの音楽に〝耳が肥えていた〟我々には余りに遅いテンポだった。客演した場合、楽団員のなかには棒が振り下ろされるのを待ち切れず先に音が出てしまうほどだったというエピソードも生れた。しかし、耳が馴れてくると従前のクレッシェンドでは味わえないような悠揚とした音の、時間の過ぎてしまうのを惜しむような高まりに包まれる新鮮な体験もした。それにテンポに馴れてくると、底流する熱いロマンチシズムの響きを聴き取ることもできる。むしろそのテンポは、より奥行きのあるロマンチシズムに辿り着くための手段であった。実際、彼の音楽の出発点にはフルトヴェングラー(後述)があった。
 このようにチェリビダッケを引き合いに出すと、同じテンポの遅さでもグールドの(K.331での)異質さに気づかされることになる。なるほどチェリビダッケはブルックナーを否定していたわけではない。逆だった。演奏史上でブルックナーを同時代的に「否定」しただけだった。しかるにグールドは違う。外面的にはチェリビダッケ同様にモーツァルトの既存の演奏を否定していたが、同時に内面にも及んでいた。行きつくところは作曲家の否定だった。これは単なる好みの問題ではない。事実、彼がモーツァルトを好んでいなかったとしても、意味内容が違う。「理論」の範疇である。「作曲家本人すら十全に実現できなかった解釈の可能性」が為せる「否定」であった。
冒頭からの超スロー・テンポで、モーツァルトのア・プリオリな音ともいうべき淀みなく流れ下る調べを唐突に止め、ノン・レガートで音の頭出しを顕在化させた。さらに、伴奏的な左手の従属性を解き放って、主旋律を奏でる右手に対等的(以上に)に対峙させて既存の響きを相殺した。あるいは別な響きにした。かくしてモーツァルトの内面(優雅ながら〝疾走する悲しみ〟と喩えられる内面)は失われるに至った。

 
時代の音楽事情 グールドのデビュー同時(1950年代)の音楽界は、戦前のヴルトゥオーゾ的な過剰気味な演奏から楽譜に忠実な演奏が志向されていた。楽譜に書かれていることを深く読みとり、作曲家の意図を忠実に反映させるのが正しい演奏スタイルであるされていた。前代に対する反動の上に求められた楽譜主義的(「楽譜に忠実派」的)な態度であった。技巧主義に対抗的なのはグールドも同じであったが、楽譜至上主義は彼の容れられるところではなかった。したがって時代は彼に反作用的に作用し、グールドの反楽譜主義的な立場をより昂じさせ、一層、理論化に仕向けていくことになった。
しかし、時代はその一方で録音演奏というあらたな時代に入っていき、音楽を一回性の制約から自由にして、異なる音源の組合せによる再編集的な演奏を可能にした。レコード芸術(再生的音楽表現の世界)の台頭である。この新時代の録音技術の進展によって、グールドの演奏理論は、彼を演奏会場からスタジオに回避させ、録音に結実する音楽芸術へとその演奏家的態度を硬化させていった。ステージ演奏の拒否である。デビューから10年と経たない1964年のことであった。

 体現者グールド それはそれでよい。ここで問題なのは、こうした態度の硬化も、作曲家を乗り越える手段に転化していたことである。フレーズの長さで組み替が可能な再編作業を通じて、楽譜が作曲家の手を離れ自分の側に近づく。スコアの読み替えである。書き換えでさえあった。すでに意識内行為であった。ステージ演奏の否定は、グールドを演奏家から「作曲家」へと変質させていく。今や作曲家を乗り越えるためにこそ演奏家としての自己存在がある。見出されていったのはアイデンティティであった。一見奇抜とも思える数々の解釈(「作曲」)が正統化されていた背景である。そして、青柳いづみこが、グールドを20章(序章・終章込み)の長きに亙って評するのも、恐らく、この既定の演奏家の域を飛び越えた「意識内行為」の著しさのためである。演奏家の存在形態が問われていたのである。それを一身に体現していたのである。青柳は体現者としてのグールドのことを次のように語っている。

彼は、作曲家と演奏家が分離して以来の本質的矛盾に立ち向かったのだ。
                                     (「終章 未来のピアニスト」353頁) 

 グールドの矛盾 まさしく「矛盾」なのである。演奏家がその演奏を突き詰めることが、「作曲家」である自分に出会ってしまうことは。もちろん表面的には歓迎されることである。より高い課題に自らを晒すことになるからである。当然、新しい演奏に反映されることにもなる。しかし、それだけでは(新しい演奏に出会うだけでは)、「矛盾」とは言えない。また、演奏家を辞めて作曲家に転じていくとしたなら、その場合も「矛盾」ではない。修辞的に言い表せば作曲家になれない「作曲家」なのである。だから「矛盾」なのである。しかもなれなくてもならなければならないから、この「矛盾」は、なおさらに「本質的矛盾」なのである。
この「矛盾」から解かれるためには、作曲家にならなければならないとする態度を捨てるだけでは果たせない。同時に演奏家であることを放棄しなければならない。しかし「矛盾」に近ければ近いほど放棄されない。むしろ「矛盾」のなかでより高い演奏を演奏家に見出させていく。外見的には楽譜の深い解釈でしかないが、単なる解釈法とは異なる。解釈法だけでは作曲家を乗り越えられないからである。しかしグールドは違う。少なくとも彼の中では作曲家を乗り越えている。乗り越えたことに自覚的な演奏だからである。
 たしかに内面観として問い詰めていくと、演奏家とは不思議な存在である。青柳のように現役のピアニストで同時に文筆家である異なる表現手段に自己を表出する立場にあっては(グールドもそうだが)、「矛盾」はより先鋭化されることになる。ピアノは、その顕在化の上で特殊な楽器的役割を果たしていた。楽器の中で唯一オーケストラに匹敵できるような機能を兼ね備えているからである。しかも音楽の全体に作曲家のように個人として亘れるからである。


 Ⅱ 指揮者の音楽芸術

フルトヴェングラーの場合 ところでこの個人の立場をより以上に体現するのが指揮者である。作曲家と演奏家の両者が分離する以前の未分離状態を今現在でも継いでいるのも体現性の大きさ故とも言えるが、グールドとの対比で興味深いのは、フルトヴェングラー(18861954)の存在である。20世紀最大の指揮者であった彼は、一方で作曲家であることを自認するに相応しく、交響曲3曲ほか室内楽曲、歌曲、器楽曲の作品を残している。交響曲は60分から80分を要する長大さで、室内楽曲もそれに近い長さである。
フルトヴェングラーの存在が問題なのは、指揮者によって達成される音楽芸術の域が「作曲家」(自己内他者)によって達成されるそれを大きく超えている点である。しかもその超え方が問われる。グールドとの違いとなる点でもある。グールドの場合は、自作(「弦楽四重奏曲作品11955年、約35分)の作曲内容が、彼の演奏や音楽観が否定したロマン派的な範疇を抜け出していなかった。ポスト・モダン的な演奏と齟齬していたのである。結局、終始「作曲家」を志向しながらも挫折を繰り返すしかなかった。
その点、フルトヴェングラーの場合は、彼自身が敬愛する、自身の血脈でもあるドイツ・オーストリア系の重厚なロマン派作曲家の強い影響(なかでもブルックナーの影響)を受けた作曲内容で、指揮(演奏)と作曲が一致していた。ただし、そのために(旧態依然としていたために)、内省的な深い響きを重々しく聴かせる大作でありながらも、作曲家としては音楽史上に名を留めなかった。それはともかく、作曲内容から見ても演奏による作曲家の否定はなかった。ありえなかった。むしろ事態は逆だった。ドイツ・オーストリア系の音楽の絶対的肯定である。肯定のための指揮だった。しかし、この肯定的な(絶対的な)指揮が否定ではなく、乗り越え――作曲家の乗り越え――という新たな事態を齎すことになった。フルトヴェングラーの存在が問題であると同時に興味深いのはとりわけこの点である。

彼の乗り越え 具体的に掲げれば、フルトヴェングラーによるベートーヴェンやブラームスの演奏(とくに交響曲演奏)である。しかもグールドが否定したライブ演奏においてである。作曲家への敬愛と楽曲への陶酔的解釈は、その指揮をして指揮者自身を作曲家より高みに押し上げてしまったのである。誤解されかねない言い回しである。言い方を換えれば、作曲した作曲家本人でも実現できない指揮(楽音)の高さである。指揮が上手いとか下手とか、あるいはオーケストラのレベルが高いとか低いとかいう類の次元ではない。楽想に胚胎されていなかった響きだからである。
乗り越えも外面的にはスコアの深い解釈としてしか顕れないが、解釈の在り方が問われることになる。解釈ではなく作曲だからである。しかも作曲的解釈を超えた作曲的作曲なのである。だからベートーヴェンやブラームスを超えるのである。しかも、それだけに(高すぎたために)自分にも還されて、自身の作品も乗り越えられてしまうのである。指揮の高みに作品は届かない(及ばない)のである。
再び「矛盾」が顔を出す。この関係性(作曲家=「他者」―指揮者=「自己」―「作曲家」=「自己内他者」)それ自体が矛盾だからである。①まずフルトヴェングラーから見た場合に「矛盾」なのは、ベートーヴェンやブラームスを乗り越えたとしても前提となるのは二人の作曲家の作品(交響曲)だからである。この前提は乗り越えられないのである。②今度は反対にベートーヴェンやブラームスから見た場合である。作曲ではフルトヴェングラーの上位に立っていたとしても、フルトヴェングラーによって振られた自分たちの楽曲が創り上げた高みは、フルトヴェングラーの存在が前提なのである。前提と共にある高みである。自らの曲でありながら「他者」(この場合の関係性では指揮者が「他者」になる)に左右されるのである。フルトヴェングラーの指揮ではすでに所有関係も「他者」の側に移行している。関係性自体が「矛盾」となる所以である。


Ⅲ グールドの回帰点

音楽芸術の根源 いささか極論に過ぎていたかもしれないが、あえて「矛盾」の構造を際立たせるためである。自作の最高の指揮者(演奏家)が、かならずしも作曲家自身でない根拠を開示するためである。あるいは明示するためである。両者未分離の時代であれば惹起しない「本質的矛盾」である。「自己内他者」を抱えこむ演奏家の立場だけが引き受けられ、関与できる音楽的矛盾である。あらたな創造性と向き合う音楽芸術の未知の領域でもある。
話をグールドとモーツァルトとの関係に戻せば、グールドはフルトヴェングラーの立場とは異なる。「前提」すなわち「他者」(作曲家)に対する立場が異なるからである。青柳が「危険な領域」(321頁)と譬えるモーツァルトの演奏(すべての演奏ではないが)は、前提を前提として認めないところから開始されているからである。これも〝独りオーケストラ〟であるピアニストに特権的な権利であるにしても、時には独善的にすぎる演奏は、外形的には演奏でも内実はすでに演奏ではない。そうかと言って編曲でも作曲でもない。作曲家と演奏家の分離が齎した一種の極論的領域である。しかし究極的には音楽芸術の性格に規定されるものである。演奏の介在を条件とする芸術的特性にである。グールドは気づいていたのである、その音楽芸術の根源であるとともに演奏の「哲学」であるものに。しかも20代そこそこの若さで(「ゴルトベルク変奏曲」の録音は22歳時)。

「北の国」の住人 まさしく天才たる所以であるが、青柳はその天才ぶりをアルチュール・ランボーやレイモン・ラディゲに喩えた(同著「はじめに」)。気の利いた比喩である。しかし、グールドが二人の天才と異なるのは、世界文学の渦中(フランス)に生れた二人が、一時とはいえその文学サロンに身を置いていたからである。しかも作品の輝きは、いまも輝きを失っていないとは言え、時代の文学観(象徴詩・シュールレアリスム)の中に止まる。その点でグールドは二つともに異なるのである。一つは「音楽の都」ではなく周辺のカナダであったこと、一つは時代の音楽観(楽譜主義)に背反的であったことである。別にグールドの人間性を追い求めようとすれば、カナダで生れそして音楽を学んだことは、必須の分析対象になるはずである。音楽的環境とともにカナダのもつ文化的・自然的環境がグールドの人間形成(とりわけ哲学的志向)に大きな影響を与えたからである。
グールドの内面を綴る文章がここにある。作者はミシェル・シュネデールで著書名は『グレン・グールド 孤独のアリア』(千葉文夫訳、ちくま学芸文庫、1995年、初出は1991年)である。「訳者あとがき」によれば、著者のミシェル・シュネデールは、多彩な才能の持ち主で多面的な顔(行政官・精神分析家・音楽評論家・小説家)を合わせ持っていたようであるが、両親は音楽家で自身もアマチュア演奏家であったと記されている。味わい深い文章(訳文)の素地である。ゴルドベルグ変奏曲の30の変奏に倣って30章からなり、最初と最後を「アリア」で挟んでいるが、その「第21章」にグールドとカナダのこと、正確にはカナダを含む「北の国」のことが綴られている。「彼は北の国が好きだった」ではじまる「第21章」は、「好き」の真の意味は実際の国である以上に北の国が広げる「心の風景」であるとする。「自己のメタファー」ともなる内景観である。続けてシベリウスを引き、両者に同じ影を見る。別に北欧(フィンランド)の作曲家だからではない。魂が繋がっているからである。そして、「魂」を生んだ「北の国」ついて綴る。

北の国、それはまた寒さであり、性的なものの凍結のことだった。北の国、それは事物の透明度を高める冷たさのことだった。凍てついた大気が、目に見える事物の輪郭をはっきりとさせ、熱気のなかだと曖昧になって輪郭がぼやけてしまう音に精確さをもたらすように、凍てついた手によってたどられるグールドのピアノ演奏の線と曲面と稜辺は、氷結した国に夜明けをもたらす厳しい光のなかで姿をあらわす。北の国、それは孤独の超越的な規則性だ。
               (ミシェル・シュネデール『グレン・グールド』第21章冒頭)
 (引用注:文中「性的なもの」と出てくるのは生涯独身であったグールドが「中性的」と言われることがあるからである。)
 
 シベリウス(18651957)が最終的に辿り着いた「音」(とくに後期交響曲)、それは重厚なドイツ・オーストリア系の楽音を借りながらも、その延長では聴き取れない「音」――たとえばグスタフ・マーラーとは異質な「魂の音」――であった。それを聴き取らせたのが「北の国」の力なのか知らないが、その「音」の正体は実に微妙である。グスタフ・マラーを最後ににして先に続かなかった(?)西洋音楽の「王道」が、血脈の外で繋がったからである。しかもマーラー以上の響きは期待できないと思っていた楽曲系のなかにおいてである。微妙なのはそのためである。「北の国」であることはやはり必要であった。やはりそう思われることになる。
 そして、同じ微妙さで別の「音」を手に入れたのがグールドであった。シベリウスが、ドイツ・オーストリア系の重厚な対位法の中に聴いたものを、グールドは外に聴いた。外に聴くことができたのがグールドの天才であった。しかも作曲家としてではなく「自己内他者」と同体の演奏家としてである。

「反楽譜」の音楽観 再び青柳いづみこの著作に戻る。グールドの楽譜批判の件である。楽譜は記号以上ではなく、しかも不十分な記号だということである。楽想が転位し切れないからだけではない。同時に楽想の喪失に手助けにしているからである。ここにこそグールドの楽譜批判(「反楽譜」の音楽観)の根源があり、別に「音」を再生しなければならない「理論」の必然があった。以上は、音楽の門外漢に過ぎないブログ執筆者が(真似ごと程度にすこしだけピアノを弾くが)、青柳の著作を知ることなしには知りえなかったことであるが、青柳はグールドの想い(「理論」)を代弁させる形で一人の指揮者と一人の作曲家のことば(楽譜観)を紹介し途中を自己見解で繋ぐ。
一人はグールドも共演したことのあるストコフスキー。一人はブラームスである。ストコウスキーが楽譜の限界性――表せる限界性とそれ故に果たさなければならない演奏家の役割――を指摘するインタビューを前置きにして、青柳はこう続ける。

しかしグールドは、楽譜そのものを疑う。作曲家もまた、そのときえられた霊感を正しく楽譜に書き留めていない可能性があるからである。書き方が悪いか、霊観がとんでしまったか。(同著「第18章 受肉の音精神」337頁) 

 楽譜への根本的疑念である。しかも事実なのであろう。補うようにブラームスの言(インタビュー中の言)を引く。

  意識しつつ求めていた着想がかなりの力とスピードを伴って流れ落ちて来るが、つかもうとするのが精一杯で一部しか覚えていられない。すべて書き留めるのは絶対に無理だ。一瞬輝いたかと思うと、紙に書いておかなければたちまち消え失せてしまう。私の作品に残る主題というものは、すべてこんな具合にやって来る。(アーサー・M・アーベル『我、汝に為すべきことを教えん』)

 おそらく消え失せて書き留めらなかった「着想」が、一度自己完結してしまって失われたものを回想し切れなくなっている楽譜からではなく、鍵盤上で再発見されていく。再発見の程度にもよるが、時には作曲家(初譜稿)を相対化してしまうものとなる。演奏家というより演奏行為だけが切り拓いていくことのできる、まさに作曲家と演奏家との分離以降の創造性である。しかも音楽という再現芸術の根源として再発見されるものである。音楽に占有的な創造世界**である。

 ** 同種の創造世界に詩作がある。誰もが詩人になれるが、実は誰もなれないのである。音楽芸術に見るような「本質的矛盾」の先に立てる者だけが詩人たる資格を得ることができるのである。ことばを意味から、それも自分のなかにある意味から解ける者だけが詩人なのである。極めて困難である。他者関係で形成される意味から解くことはできても、他者の介在しないなかで解くのは。なぜならことばは他者関係そのものだからである。その難しさは、ベートーヴェンとフルトヴェングラーの両者を生きることと置き換えることができる。まさに逸脱である。でもそれが詩人である。またその行為(詩作)である。だから誰でもなれるわけではないのである。しかし、なれないこと(の構造)を知ることは、立場は詩人の外にあったとしても、詩の側に立つものである。なお、本ブログ執筆者もまたなれない側に立つ者の一人である。


おわりに

身体としてピアノ かくしてグールドは作曲家が自室に閉じ籠って作曲に勤しむように、コンサート会場を離れ録音スタジオに閉じこもるのであった。「作曲」だからである。絶対的静寂が必要であった。さらに必要であったのは、専用のピアノだった。グールドの場合、「作曲」は五線譜ではなく鍵盤の奥(弦やハンマー・ダンパーなど)にあったからである。物質としてのピアノは同時に彼の精神でもあり、「作曲」の具体的な形象でもあった。「作曲家」はピアノとともに生き死ぬのである。大袈裟でもなんでもない。上掲シュネデールの著書(第7章)には、一度「死にかけた」エピソードが紹介されている。
19573月のことであった。愛用の「スタインウェイ174」(1955年入手)がコンサートの帰路トラックから落ちて大破してしまう。「喪の悲しみ」にくれてたグールドは脱力感のなかで呟く――「スタインウェイはいなくなってしまった。何年後かには、ぼくもまた引退するだろう」と。結局、1960年に至って新たに「スタインウェイCD318」を手に入れ(欠点はあるものの)、以後の録音(レコード録音)の大部分を共にしていくことなる。
 このエピソードを踏まえて、シュネデールはピアニストとピアノの関係に触れ、「ピアニストにとってピアノは演奏者の身体に仕える楽器ではない。ピアノは演奏者の身体そのものなのだ。そしてある種のピアニストはたぶん身体を獲得するためにピアノを必要とする」(094頁)と記す。まさに身体***である。病的なまでに寒がりであったグールドにも同じように身体であった。しかもピアノと化した身体は、まるで無音界に音を求めるような舞踏家の手先に似て、空いた左手を掲げ撓らせて架空のオーケストラを指揮する。「奇行」の一つとされる左手の指揮(〝舞踏〟)である。

*** この「身体」に関する話として、グールドとは別に観た映画があった。やはりドキュメンタリー作品であるが、こちらは調律師の仕事(究極の仕事)を追った映画である。題名は『ピアノマニア』(原題に同じ)。各地の映画祭で受賞している。制作年代も同じ2009年である。この映画(監督:リリアン・ブランク/ロベルト・シビス、オーストリア・ドイツ合作、97分)は、演奏家の音に対する拘りがいかに強いものか、拘りを超えて演奏の唯一無二の条件でさえあるのを生々しく知らせてくれる。まさに「身体」であった。映画に準主役として登場するピアニスト/ピエール=ロラン・エマールの拘りは、やはりスタンウェイを選定する場面を通じてグールドのそれを彷彿させるのである。なお、映画のなかでピエール=ロラン・エマールが究極の調律師シュテファンと共に求めていた音とは、やはりバッハの音(ただし「フーガの技法」)であった。

〝未来のピアニスト〟 そう、まさに「トランス」状態だった。「自作」に陶酔していたのである。すでに観客はいない。まさに映画の題名ではないが「天才ピアニストの愛と孤独」の独演である。しかし演奏の極地である。彼のトランス状態は音楽の真相でもある。多くの映像に彼のトランス状態が捉えられているが、青柳が引くなかに(オストウォルド『グールド伝』)トランス状態の意味を説く一文がある。「彼の演奏の本当の説得力は、音楽へのエクスタティックな没入をとらえた映像でこそ最良の形で鑑賞できる。そこでは、ピアニスト、作曲家、鍵盤楽器が、魔法の融合を成し遂げているように思える。そしてそれは、宗教的ともいえる霊妙な要素や神秘的な要素をグールドの奏でる音楽に与えるのである」(342頁)。
すでにピアニストを超え、超えたことで再びピアニストに立ち戻る。超えた場所は「未来」であり、また戻って来た時空も「未来」であった。生きていることが「未来」だった。青柳はそれを「未来のピアニスト」と呼んだ。その見えない「未来」を現実の中に生きた姿が彼だった。演奏家としての存在形態だった。


引用・参考文献

青柳いづみこ『グレン・グルード 未来のピアニスト』筑摩書房、2011
ミシェル・シュネデール/千葉文夫訳『グレン・グールド 孤独のアリア』ちくま学芸文庫、1995年(初出は1991年)
吉田秀和「ピアニストについて」『吉田秀和全集』6、白水社、1975



[付記]

◆ ブログを読んで下さる皆様に(お礼) ◆
1年の大詰めを迎えるに当たって、日頃のお礼を申し上げます。

五十音を道しるべとして拙くもアップし続けてきました。一つの方法論ですが、「他者」に導かれる――では本当はいけないのかもしれません。
なおブログ名の「インナーエッセイ」は、開設当初、次のステップに進むために仮題としていたつもりが確定されてしまったものです。スキル未熟もあって未訂正のまま月日を重ねてしまいました。いささか気恥ずかしいので改題したい思いはいまだに強いのですが、いまさらの心境となりました。
でもエッセイらしいエッセイがなく、表題に偽りありの状態です。いまだ成果に乏しいエッセイを含め、何を書くのかの自問もブログをはじめてより高まったものです。ブログが教えてくれた緊張感です。不思議な感覚です。エッセイになるかもしれません。

いずれにしても読んでいただけるのは日々の喜びです。読者の皆様への感謝を籠めて1年を締めくくりたいと思います。
 
どうぞ良いお年をお迎えください。

2012年11月30日金曜日

[き] 北村透谷~叙事詩の誕生~



[き] はじめに 北村透谷は、戦後、とくに熱烈な愛好者によって支えられている。後述する北原白秋を引き合いに出すと、白秋の場合は「国民詩人」として当時から多くの愛好者を得ている。両者の生没年月日は、北村透谷が明治元年(18681229日―明治27年(1894516日、北原白秋が明治18年(1885125日―昭和17年(1942112日であるから、存命期間を較べると、透谷がほぼ25年と5か月であるのに対して、白秋はほぼ倍強の57年と9か月である。活動期間は透谷がわずか5年。白秋は明治末期から大正を経て戦前を通じ、休むことなく第一線に立っていた。したがって両者の作品量は較べようもなく差が大きい。共に岩波書店から全集が刊行されているが、透谷は全3冊、白秋は全39冊である。このような比較はほとんど意味をなさないが、圧倒的な作品量の差にもかかわらず、それを超えて両者の比較に意味があるとしたら、それはまさに両者の詩の在り方においてである。しかもその在り方が作風の違いという個人的範疇を最初から飛び越えて、いきなり普遍の形として立ち現れていることである。とりわけ副題としたような「叙事詩の誕生」の形としてである。


 Ⅰ 透谷詩へ至るまで

透谷体験 ところで、本稿執筆者の透谷体験は、吉増剛造を通じて行なわれた。吉増剛造が、北村透谷詩集(『現代詩文庫』1975年)の解説を担当していたからである。吉増剛造には初期の代表詩集に『黄金詩篇』(1970年)があるが、その詩は詩集の題名のように黄金に輝いていた。詩の根源から発光している輝きだった。
詩が書かれることの意味や詩を読むことの意味が、諸共に詰め込まれていた。まさに吉増の詩は、詩の意味そのものであり、意味そのものとして書かれていた。違うことなくその後の詩活動は、常に先鋭として精力的に継続されていくわけであるが、それだけに(将来の予感に溢れていただけに)当時の印象はことさら強烈だった。その詩(部分)は、以下のように「声」をなにかに叩きつけるように張り上げる。

黄金詩篇

おれは署名した
夢……と
ペンで額に彫りこむように
あとは純白、透明
あとは純白
完璧な自由
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生える、なぜ下北沢、なぜ
(中略)
ものみな白く純白
数千の扉へ数千の感覚が走る
血が走る、自殺が走る、壁が走る
純白、アッ浜村純、太平洋で叫んで走る
なぜ純、なぜ純、なぜ
壁がふわっ、と走る
死骸がふわっ、と走る
純白の糸にとりついて垂直に走る
扉が左手上方へ飛ぶ
あとは純白、あとは純白、純白
ひらく
外へ出る
思惟
ゆるい坂道をゆっくりくだってゆく
言葉の波をゆっくりはねのけながらくだってゆく
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ
ここには湖がない
(後略)
 
本当に「湖がない」と思ったものだった。その詩人が解説を担当している。読まないわけにはいかない。そしてその読後感――それはもうひとつの吉増剛造詩のようにも思えたものだった。したがって「解説」は自詩集へのそれでさえあった。そうした語り口であった。後年、詩人は「透谷ノート」(『短歌』昭和50年(19754月号~昭和515月号ほか。後に『螺旋形を想像せよ』(小澤書店、1981年)に収録。さらに単行本化『透谷ノート』(同書店、1987年))を刊行する。吉増剛造の詩人自身の内面を訪ねる旅として読めるものであった。その詩人がとりわけ強く惹かれた透谷詩のある箇所。代表作である『蓬莱曲』の一節である。まずはその掲示から入りたい。なお、以下を含めて透谷詩の引用は、常用漢字に改められた『現代詩文庫』版によっている。そのルビも必要な範囲でしか残さなかった。

 
  大地は渺々、天は漠々、
  三界諸天の境際明らかなり。
  万景万色一様(ひとつ)になりて広がりつ、
  山河都邑無差別夜陰の(うち)
  六道八維雲に隠れ雲に現はれつ、
  凡てわが脚下に瞰おろすなり。
 
 ここに掲げたのは、北村透谷が明治24年(1891)に出版(自費出版)した長編『蓬莱曲』の第三齣第二場の「蓬莱山頂」の冒頭部(「(柳田素雄山頂に達して四望眺矚する所)」)のその最初の数行である(同部分の全篇は後掲)。当該箇所の吉増剛造による引用は、透谷の心の中にある「壁」――「底は見えず断崖幾千仭、/誰が立掛けしぞこの壁を。」――を詩評の根底におくためであるが、幾千仭の壁(断崖)に立ち向かう激しい息遣いを、蓬莱曲の全篇を貫く「トーン」として聴きながら、かつ自身に送り返されてくる呼気としても聴いている。そして、「『蓬莱曲』をくりかえし読み、この作品のもつ熱力の照りかえしをうけて、わたしはわたしの自我の亀裂状態、意識と無意識の通行路を言語化してみたい誘惑にかられ」(「小息なき声を振り立つるが如く」『透谷ノート』)と綴る。まさしく吉増剛造の初期詩篇のめくるめく詩行の数々の息遣いそのものである。ここに透谷が生きた明治のその年以降80年を経て、昭和40年代に再現された「近代人」の息遣いがあり、その「息遣い」そのものが詩として成った近代詩がある。賛否両論が並び立ち、早くは日夏耿之介の否定的言辞(日夏1928)ほか、詩としてさえ認めない立場から透谷には詩は必要ない、批評だけでよいという「確信論」(批評至上主義論)さえ聞こえるほどである。

 近代詩の草創 透谷(ただし詩)に対する評価が二分するのは、まさに混沌である。しかも「近代詩」の草創期である明治(中期)が生んだ混沌である。この混沌は、表向きには「新体詩」が軽佻浮薄としてしか現れなかったからである。したがって、その浮薄を嫌う人々は、同時代的内面を古雅の調べで抒情に詠い込むか、精神の髄に読み替えて従前の漢詩に拠った。明治15年(1882)の『新体詩抄』から5年を経た明治20年でも、新体詩は児戯にも等しい範疇を抜け出ることはできなかった。こと内面の言語化に関しては、言文一致の小説世界に先を越されそうな時、一人透谷のみがほとんど孤立無援の状態で内面化の自己表出に喘ぎ苦しんでいた。
当時の言語文化を知れば知るほどその苦しみの程度が深く理解される。たとえば『新体詩抄』及びその周辺からいくつか引いてみよう。ただし引用は各詩の一部。「/」は改行、任意に常用漢字化かつ新仮名遣い化(テクストは『明治詩人集(1)』明治文學全集60、筑摩書房、1972年、ただし②は日夏耿之介の孫引き)
 
①『新体詩抄初編』(明治15年(1882))より
  昔し唐土の朱文公/よに博學の大人(うし)ながら/わが學門をすゝすめんと/少年易老の詩を作り/一生涯は春の夜の/夢の如しとは嘆きけり/國の東西世の古今/人の高卑を問はずして/學の道に就くものは/いかに才能ありとても/同じ多少の感慨を/起こさぬことのあるべしや(後略)
尚今居士(矢田部良吉)「勸學の詩」
我は官軍我敵は/天地容れざる朝敵ぞ/敵の大将たる者は/古今無雙の英雄で/之に從ふ(つわもの)は/共に慓悍決死の士/鬼神に恥ぬ勇あるも/天の許さぬ叛逆を/起しゝ者は昔より/榮えし例のあらざるぞ/敵の亡ぶる夫迄は/進めや進め諸共に/玉ちる劒抜き連れて/死ぬる覺悟で進むべし(後略)
ゝ山仙士(外山正一)「拔刀隊」
 
②竹内節編『新体詩歌』第一~第五集(明治1517年(1884)、合冊本明治19年刊)より
天には自由の鬼となり/地には自由の人たらん/自由よ自由やよ自由/汝と我れがその中は/天地自然の約束ぞ/千代も八千代も末かけて/此世のあらん限りまで/二人が中の約束を/いかにぞ仇の破るべき/さはさりながら世の中は/月に村雲花に風/ままにならぬは人の身ぞ/話せば長いことながら/古し羅馬の國と聞く/その人民を自由にし/共和の政治を建てんため(後略)
                                                  小室屈山「自由の歌」

③半月湯浅吉郎『十二の石塚』(明治18年(1885))より
なつかしきカナンの國の/山のすゑ水の行衛を/はるばるとうちながむれば/エリコより二人のつかひ/歸り來て敵の本城(ねじろ)も/その(みち)もしられにけりな/唐錦旌旗(はた)ひるがへし/雲なして槍と槍とは/朝日さす林のごとく/くろがねの楯と楯とは/岩垣のかたくつらねて/武士(もののふ)のますら武男は/大将(いくさぎみ)ヨシアのあとに/したがひて水際(みぎわ)に下る(後略)
「二囘 古塚(ふるづか)
 
 大著『明治大正詩』上中下の三巻(昭和3年、改訂増補版昭和23年)を著した日夏耿之介は、言わずと知れた日本高踏象徴詩の高みに光輝く「詩聖」であるが、批評文はまことに辛辣極まりない。しかし核心を衝いて深く抉りこんでいるので、只管、畏まって拝聴するのみである。その手厳しい評価に晒された上掲各詩の評は次の如くである(繋ぎ引用)。
 まず①に関しては(引用詩以外を含む)、「此詩集は、事実上に於いて明治新詩の意識的草創第一歩を踏み出した歴史的に有意義な記念すべき公刊であつたが、内容の芸術価は全くいふに足らぬ、駄作の偶集にしぎなかつた」とさんざんである。同詩抄の訳詩文のでき具合ほか「勸學の詩」などに至っては、「たどたどしさは中学生の作文にも劣る。(略)これ等の作を見て、国学者や漢詩人や歌人や俳人が嘲笑し又はもんだいとしなかったのも無理はない」と断ずる。まことに辛辣かつ手加減を知らないが、根拠もなしに放言極まりないわけではない。形ばかりは新しいがそれに釣り合う詩的内容に欠ける点に殊のほか手厳しいのである。しかも見せかけの新しさであったことが、「詩聖」を擁護に廻らせるより持ち前の気質(厳格さ)もあって断罪に向かわしめることになる。「此新体詩は、詩形としては必ずしも新体のものではなかった。(略)新体詩は直ちに西詩の精神に範を取り、在来の七五を復活して、漢詩、俳句、和歌の何れにも非ざる、又、それらの表現し得らざる特色を発揮せんとしたものであるが、(略)内容は、西洋詩の粗笨なる外貌模倣に過ぎなかった。一行は七五調として数行を一連として拙劣極まる脚韻をさえ試みているが凡て形の上だけの事で、何等芸術上の約束を経たものではなかった。」そして「此詩集の欠点は雅俗和漢混交語の点ではなく、詩そのもになり切っていない作が多い点である。」と結論づける。
 ②の「自由の歌」に関しても一蹴して顧ない。同詩書の序文は屈山の手になり、詩語の範囲(俗語から異国語)の拡大と使用法(自国語化)について高論を吐いているが、その詩論を念頭に据えて論じられた「自由の詩」に対する評言は、「此様な拙劣と陳套との措辞を事として而もかへつて論じる点(上記詩語論のこと・引用注)のみが比較的進んでいたのは屈山のみでない此当時の人の常である」とし、さらに返す刀で批判を小説世界にも及ばせ、近代文芸草創期の稚かさに対して頗る苦笑気味である。すなわち、「例えば坪内逍遥の『小説神髄』は今見て難点こそあるが史的見地より考へて立派な立論であるに関わらず、その例證作品としての『書生気質』は持論を裏切る様な陳腐の文体であったなど適例である」と。
 ③の詩集(近代初の個人詩集)は、基督教徒(牧師)の作品である。個人的立場(牧師)もあって信仰と一線を画した①の提起(新詩の意義)には端から無関心で、かえってその詩情は、「讃美歌」などに触発されながら「卓れた天分の所有者」を詩界へと刺激したという。しかし「宗教的信仰の直写に急で芸術(アート)の効果を顧みないため折角萌み出しかゝつた詩才もそのままになつてしまつたのが多かつた」ようであると繋げると、「詩材を旧約聖書イスラエル民族説話に採り(略)一条を和文体五七調長歌風に詩形でうたつた叙景詩の種類である。別に詩才の卓越も形式の斬新さもないが、当時にしては未だ珍しかつた西方旧約の故事を採つたということは、『新体詩抄』の蕪雜な詩語に反して、柔らかな古雅な言葉をわり合いに難なく使用した点などは特色といはねばならぬ」とまだ穏やかな口調である。

 透谷詩の出現 こうした状況の中で透谷の詩が、後の『蓬莱曲』に遡って世に問われる。『楚囚之詩』である。時に明治22年(1889)。世の中が「新体詩抄」を経験して7年が過ぎた時であった。同時代詩を一瞥し終えた後に接する『楚囚之詩』には、違和感を伴う或る種戸惑いをさえ覚える。まず目に飛び込んでくるのがその姿形である。詩行の布置である。就中、詩行の頭の揃え方である。字下げの激しさである。しかも、1字下げだけではなく、24字下げに及んで統一的でなく、自在である。分量にも目が奪われる。「第一」にはじまり「第十六」に及ぶ。総詩行数は341行を数える。記号(「!」「?」)の多用がある。途中に解説付きの挿絵まで用意されている。かくして戸惑いは視覚に先行されるのである。
今度は数行を読んでみる。一渡り目を通してみる。詩章が16聯に分かたれているような長編詩であっても、一気呵成に読める。詩章を吹き抜ける疾風感のようなものがある。漢文調的な音韻の上下向があって詩的高まりに効果的である。詩行の不揃いも同様の効果をあげている。適度に終止形の詩行が配されていて息継ぎもできる。
冒頭第一行に立ち戻って再読。一行一行をなぞる。語り声で創られた詩行であるのを実感する。畳みかけがあるはそのためである。人声が悲痛を突き上げているのである。引き裂かれた闇間に洩れる楚囚の語り掛けがやがて獄舎を内と外に分かっていた壁を取り払う。真向かいになる。すえに100年を疾うに超えた現在とは言葉遣いが異なり、時空間も異なる。そう容易に迎えられるとは思っていない。それが瞬時である。先だと思っていた対峙の場面が目の前にある。待ち構えていたように高揚感が一気に膨らむ。最初から彼(楚囚)との関わりを要求する近親感が備わっている。楚囚の側に立ってしまうのは折り込み済みのことであった。
この長編詩を読むということは、自らも獄中の楚囚となることである。一行の意味を理解するからではない。なるほど詩行は散文調である。散文的であるとは読解力と入れ替わりやすいことに繋がる。詩読が意味の体系をなぞることになる。しかし「楚囚之詩」の散文調は、意味を超えて「声」を生み出す力に寄与している。逆に意味が解けることが「声」に実態を付与している。だから散文に流れていない。意味を接がない、意味が次の意味を引き寄せるためにだけ発想されているわけではないからである。まさに発語体系を異にして発想されているのである。それが、散文とは違う「意味」を散文形に見出しえたのである。
透谷詩が始めたもの、それは先が見えないもの、見えない出口を予定したものである。この未明を前にした進入感だけで存在形態足りえていたもの、透谷詩が意識的に対峙していたもの、それは、結果として近代詩と呼ばれるものの<奥行き><高さ><深さ>あるいは<重苦しさ>を一体として我が身に引き込んでしまったものである。しかも出口は見出されず、未明の渦中に止まったままである。
別段、透谷詩の責任ではない。所詮、後付けの理解でしかない。しかし詩とは(散文にもその要素はあるが)、もともと後付け的である。いうまでもなく、同体化が容易な散文とは本質的に異なるところである。だから詩を書くことは、万人に用意されていることでもある。容易だからということでない。意味が必要ないからである。単語を並べ立てるだけでも成立する。それなら字を習い立ての子供でもできる。乱暴な「詩論」だが、透谷詩の画期性を申し立てるには、たしかにこうした詩の書き方の極論を引き合いに出さなければならないところがある。やはり彼も近代詩草創期の一人だからであるし、新体詩の「児戯」と同時並行的であったことの詩史的意義(位相差)に、後述(Ⅳ)するように彼の「詩論」(『楚州之詩』「自序」)が原点を尋ねたていたからである。


Ⅱ 透谷詩の世界
1 「楚囚之詩」再読 
しかし、「詩論」に分け行ってしまうと(必要なことではあるが)、実態から遠ざかってしまいかねない。「楚囚之詩」の詩行に戻る。辿り直してみたい。なお一重鉤括弧を使う場合は一作品として扱う場合である。出版物を指す場合は二重鉤括弧を付す。ただし透谷は、刷り上がった「出版物」を破り棄ててしまう。激しい自己否定と一体的であった精神の為せるところであった。

第一
曽つて誤つて法を破り
政治の罪人(つみびと)として捕らわれたり、
余の生死を誓い壮士等の
数多あるうちには余はその首領なり、
(以下、同じ囚人となった「花嫁」を詠う4行略)
この詩は、劇詩風であり、したがって予定された筋書通りに展開していく。長編で詩空間は詩題中に固定的で狭い枠組に嵌め込まれている。冒頭「り」音のリフレインが響きとして効果的である。深層に木霊している。以下筋書を辿る。
語り主(「余」)は、同じ囚われ人となった彼の「花嫁」や、同士への熱い思いを通じて世を問い、人生に感慨を及ぼすために必要な詩行を費やす。さらに獄舎のさまざまな叙景に、入獄に至った志しの再掲に、獄に繋がれた自分たちの現状に、各自の身の上に(とくに花嫁の身の上に)費やす。そして二人の愛に費やす(「第一」~「第五」)。以上を前置きにして詩行は語り主の内面に転じ、獄舎に射しこんでくる太陽や月の光に思いを深め(「第六」)、獄舎を昼夜を分かたず占める深い静寂なかで想像の高みに心を合わせていく。
やがて(「第八」)、「想いは奔る、往きし昔は日々新なり/彼山、彼水、彼庭、彼花に予が心は残れり、」と。そして、併せ思う現下のなかでの昔日。その時、獄窓に漂ってくる菊の香――「こは我家の庭の菊の我を忘れで、/遠く西の国まで余を見舞うなり、」(「第八」)と獄舎に張り詰めた孤独と隣り合わせの胸中に詩行を重ねていく。詩想を浮かび上げ、忍び寄る寂寥感を獄舎に深める。
さらには(「第九」)、「またひとあさ余は晩く醒め、」とか「倦み来りて、記憶も歳月もみな去りぬ、」(「第十」)とか、終には「余は日と夜との区別なし、」(「第十一」)の状態に鬱屈を積もらせていくが、その時、獄窓に舞い込んできた「生物」が「余の顔を撃」つ。見れば一羽の「蝙蝠」であった。彼は、かの生物を「花嫁」が姿を変えて飛来してきたものと覚え、纏っていた衣類で捕獲する――「嗚呼! 是は一つの蝙蝠!/余が花嫁は斯かる悪くき顔にては!」(「第十二」)。
挿絵は、この捕獲場面(衣類を投げ掛けんとしている場面)である。同挿絵左上には彼の心のなかを表すかのように丸窓が設けられており、「花嫁」の姿が描き込まれている。しかし結局は我が身にない「自由」を与えるべく、獄窓から放ってしまう――「余は彼を放ちやれり、/自由の獣……彼は喜んで、/疾く獄窓を逃げ出たり。」(「第十二」)。次の「第十三」は昇り詰めた心情の全的吐露。透谷詩が明治近代詩の草創期に打ち立てた一金字塔ともいうべき輝かしい詩行の重畳である。全体を掲げる。
第十三
恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
若き昔時(むかし)……その楽しき故郷!
暗らき中にも、回想の目はいと明るく、
画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を載きし冬の山、霞をこめし渓の水、
よも変わらじ其美くしさは、昨日と今日、
――我身独りの行末が……如何に
浮世と共に変わり果てんとも!
嗚呼蒼天! なお其処に鷲は舞うや?
嗚呼深淵! なお其処に魚は躍るや?
春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存るや?
曽つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴きし渓の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
有る――無し――の答は無用なり、
常に余が想像には現然たり、
羽あらば帰りたし、も一度、
貧しく平和なる昔のいほり。
 
しかしこれだけなら抒情詩の先蹤で終わりかねない。とくに最後の二行は詩行として弱い(甘い)。望郷歌にも聞こえかねない。おそらく作者も承知の上であったはずで、推敲の果てに残したのは、おそらく次の「第十四」の書き出しを強調(フォルテ)するため、そのためにあえてピアノ(弱音)にしたのであった。「冬は厳しく余を悩殺す、/壁を穿つ日光も暖を送らず、/日は短し! して夜はいと長し!/寒さ瞼を凍らせて眠りも成らず。」――かく抒情の余韻は寸断される。
透谷詩は上昇する。苦悩もその浮揚力を一義的契機としている。冬も寒さも覚醒でこそあれ、暖を求めて詩人を閉じ籠らせはしない。あえて闇を求め、正体を探らずにはいられない。透谷詩(長詩)には微睡みがない。瞬時の対峙に備えて常に双眸を輝かせている。闇間を見据え、潜む者の正体を暴きださずにはいられない。それが詩を創らせる。この時、新体詩の無慙は、たとえば語脈に漢文調的な骨格に響く調べを聴き取らせようとしたかもしれないし、皮膚感覚を刺激する雅語の音律に耳を傾けさせようとしたかもしれない。しか漢詩も和歌も漢文も和文も何れとして採るべき新体詩的な内在律から遠かった。未確定を立場と定めた時、詩行を重ねることのみが、そして行間から浮かび上がる詩想だけが答えだった。感性でもあり同時に理知でもあった。その語感は生と死の鬩ぎ合いにも響き渡るものだった。新体詩を突き抜ける透谷詩の響きだった。
かくして「第十五」を迎え、冬の獄舎を耐えた彼の許に春が訪れる。春は鶯の声として訪れる。彼は鶯の声に再び「花嫁」への思いを呼び覚まされる。そして鶯に「花嫁」の化身を見る。しかし、彼の内面は彼に向かって告げる。その鶯の歌声は、「余を泣かしめ、また笑ましむれど、/卿の歌は、余の不幸を救ひ得じ。」そう告げ終わるが早いか鶯は彼の許を飛び去っていく。そして以下の詩行へと続く。
第十五
 
(前15行略)
我が花嫁よ、……否な鶯よ!
おゝ悲しや、彼は逃げ去れり
嗚呼是れも亦た浮世の動物なり。
若し我妻ならば、何ど逃去らん!
余を再びこの寂寥に打ち捨てゝ、
この惨憺たる墓所(はかしょ)に残して
――暗らき、空しき墓所――
其処には腐れたる空気、
湿りたる床のいと冷たき、
余は爰を墓所と定めたり、
生きながら既に葬られたればなり。
死や、汝何時来る?
永く待たすなよ、待つ人を、
余は汝に犯せる罪なき者を!
最終章(終結聯)「第十六」は、収め方としては、別段、破綻というわけではないが、直前で内在律をニヒリズムにまで深めておきながらも、結果として大団円で終わらせる。しかし、この終わらせ方が、透谷に次の詩を創らせることになる。この一作だけでも後代に投げかけた詩的課題の大きさは小さくないのに、次の『蓬莱曲』に至っては、課題さえも容易に見出せない程の高みを覗かせる詩的景観を近代詩の詩苑に延べ広げることになる。

2 「蓬莱曲」の「上演」
「蓬莱曲」は劇詩として創作された。ただ上演を前提としない読むためのものである。したがって創作的意識の高さは詩作品の範疇である。ただし、その後の明治後半から大正・戦前・戦後の現代詩へと続く日本の詩の展開過程から見ると、それを詩作品と認めないような意見を輩出する創り方である。しかもシナリオのように冒頭部に「曲中の人物」(登場人物)が書き上がられる。固有名詞を持った者だけで6名、大魔王、鬼王、小鬼ほか魔界の登場者も賑やかである。物語(劇)の筋書きに気を取られる(詩と読まれない)のも致し方ないことである。しかし、未登峰の高みに聳える頂上部は、その時代にあって詩圏を突き抜けている。
「曲」は「三齣」で構成され、さらに「別編」が付けられている。舞台は蓬莱山であるが、幕開けは山裾に広がる森の中からである。大筋は主要人物(柳田素雄)の蓬莱山登頂に至るまでと登頂後からなる。長大な「劇詩」である。以下、各齣・各場に付けられた見出しを掲げながら内容を辿る。
まずは「第一齣(一場)」「蓬莱山麓の森の中」である。日没後である。登場人物は世捨て人素雄(主人公)と従者(清兵衛)。雲中に見えない蓬莱山(嶽)を遠望しながら当て所なく彷徨い続ける漂泊の身を回想的に振り返る場面。それだけで130行を越える長さである。この長さに辟易して劇場を後にする観客も少なくないに違いない。
やがて何処からともなく聞こえてくる声(「空中からの声」)。霊山に棲むもの正体を明かす。遣り取りの後、聞き分けのない素雄を罵るように山に登れと促す。そうすれば「誤れる理の夢の覚めもやせん」と仄めかす。「誤れる理」とは素雄の生の迷いを衝いたその「声」が暴き立てる言葉である。ここで従者と別れる。
次は「第二齣」。その「第一場 蓬莱原の一」。愛用の琵琶を抱えて浮世に「おさらばよ!」と勇躍して蓬莱原(「神が原」)に分け入っていく。前景には雲の上に頂きを覗かす蓬莱嶽。心は次第に昂ぶっていくばかり。思い出したように琵琶を手に取って掻き鳴らす。あたかも神が原の鬼神を「驚かすまで!」ばかりに。ほどなくして琵琶の調べに釣られるように歌い出された声。空中での唱歌。歌声のなかに潜む人の気配。やおら鹿を伴って山乙女=姫が現れる。「山姫」に呼びかける素雄。透かさず返される姫からの訝りの声。世の人の声が立つはずもないところ(神が原)にその声は(?)とばかりに問う姫。
正体を明かす素雄。「これは登山(とうざん)のものよ」と。代わりに聞き返す素雄。なぜ此処に棲むのかと。怪しむに足らぬと山姫。しかしその声には聞き覚えがあると、再び素雄からの問い。「はていぶかし、その声音の/むかしのわが(いも)に能く()つる。」しかし「妹」はすでに墳墓(おくつき)に入ってすでに幾歳のはず。さらに話は続けられるが、思い余って思わず「露姫!」と呼びかけてしまう素雄。妹の名前である。訝る山姫(「露姫と!」)。怪しみを後にしながら迎えに来た仙童とその場を立ち去る山姫。
そして「第二場 蓬莱原二」に続く。今度は道士との遣り取りの場面。道士の名は「鶴翁」。素雄の迷い(「煩累(わずらい)」)をその術(「わが道の(すべ)」)で晴らそうと語りかける件である。語り合いは延々と続く。噛み合わない二人の遣り取り。素雄の「煩累」とは例えば次のようなものであるからであった。
「わが世を捨つるは紙一片(ひとひら)(すつ)るに異ならず、/唯だこのおのれを捨て、このおのれを――/このおのれてふ物思はするもの、このおのれてふあやしきもの、このおのれてふ満ち足らはぬがちなるものを捨てゝ()なんこそかたけれ。」
その「おのれてふもの」を癒すことこそわれが使命(術)と諭し聞かす道士鶴翁。自然に逆らわぬがその術の基であると。わが済度により煩いや憤りから「自由」をも手に入れられようと。思いが達しない素雄は激しく拒む。「()(や)めよ()めよ」と。抗う素雄。「自由?」それは「頑童(わらべ)の戯具」にすぎないと。また世の「望?」についても、「老いたる嫗の寝醒の襼言(うわごと)」にすぎないと。そして「唯わが(おもい)は」と前屈みになって吐く。「空間を馳する雲」「峯を包める精気」――否、それもまだ違う、「まことの(ねぎ)ならず」であると。そして告げる、「然はあれども人界(にんがい)とこの『己れ』とを離るゝばかり今の楽しき欲望(のぞみ)なるべけれ」と。
道士は不満を言うものぞと諌め、そんなことでは譬え人界を離れ得たとしても「(いまし)(ねぎ)()つまじきぞ」と難じる。素雄の想い(「意」)は、道士の位相を超えている。理解されようもない。「願を盈つ」? そのようなことなど思いもしないこと。およそ「世」に纏わることこそ「意」の外のこと。この「偽形の世」「詐猾(ぎけい)の世」を思えば、そこに生を営むよりその地の下に棲む「地竜子(みゝず)」こそ我の「意」に隣する者なりと。時に魚の料にされるとも「我」を肯定し、その棲む処(地の下)を美しとし、家とも思う。夜を通じて(不思議な声で)鳴きつつ自らもその声を面白しとし、「(こころ)」を通わせて楽しみ、わが生を「短き世に(ほこ)」るその様。かくして夜の白むを俟ち、しかも「おのれを見る(まなこ)さえあらず」の身で、と。
以下に引く詩行は、以上の問答を締めくくるべく目論まれた、素雄の「情」の奔濤ともいうべき激白である。そして近代詩の草創期が創った、紛れもない一つの「過激」である。
 
おのれは怪しむ、人間(ひと)が知徳の窓なり、
美の(かど)なりとほめちぎる雙の眼の、
まことに開けるものなりや?
開かば、いずれを観る? まことに開かば
観る可きに、あわれ人の世の(さま)を、
その穢れたる鼻孔(はな)を、その爛れたる口を、
その渇ける状を、その饑ゆる態を、
その膿める(はらわた)を、その(くづ)れたる内神(うち)を。
聖しとて、気高しとて、厳格(おごそか)なりとて、
万類(よろずのもの)(おさ)なりとて傲り驕れる人類(ひと)
わが涙の色を(くれない)になすもの、
いかでいかで、わが安慰(やすみ)を人の世に得ん、
いかでいかで、導師が優しき術にて
この()れたる心の風を静め得ん。
(「第二場 蓬莱原の二」の一部)
 
終に道士鶴翁は、我が術にては如何ともなし得ず、好きなようにするがよかろう、と突き放す。そして告げる、「()きね、()きて(いまし)が心の儘になせよ、/極楽――地獄――(ちまた)は明らかに/この(ふたつ)道に別る、其の何れをも(いまし)(えら)ぶまゝならん。」と。
 「第三場 蓬莱原の三、広野」で素雄は一人の樵夫と出会い、語らいに自分が往くべき場所を見出す。それは樵夫が告げた「死の(あな)」(地獄)であった。なんとなればその坑のなかで機を織る美しき姫があり、「恨める男」が自分を訪ふまでは機織りの音を止めぬと教えられたからである。素雄はその姫こそ「露姫」と確信する。
 そして、「第四場 蓬莱原の四、坑中」へと続く。冒頭から死のアリアとも言うべき詩行が20行以上に亘って奏でられ――「闇の源なる死の坑よ/人生(じんせ)の凡ての業根を焼尽くして、人を/善ならしむと聞ける死の坑よ!/吾人の限りなき情緒(きづな)を断切りて、/黒暗(くらやみ)のうちに入らしむると言ふなる/死の坑よ!」――その声に誘われるように「死の坑」から一魑魅が出現する。姿を現したのは、数ある中でも「『恋』てふ魔」。魑魅はその魔たる所以を語り聞かせるが、素雄は拒んで、まずはその醜い姿を汝が役目に相応しく、「美しき恋しの姫の姿」となってからにせよ、と咎めるように要請する。
そして現れたのが露姫。しかし露姫は一言も口にしない。何度語りかけても「物言わぬ」ままで、五度に及んだ呼びかけにようやく語り出す気配を窺わせたかと思うと、やおら唄を歌い出す。「露なれば、露なれば、/消え行く可しと予て知る、/露なれば、露なれば/草葉の陰を宿と知る。」そして、そのまま第四場は閉じる。
 「第五場 蓬莱原の五」。激しい滝に対峙して崖径に立つ素雄。瞑想に詩語を重ね「懸瀑」の音に「汝こそ友」と詠じ、「このわれを汝に任してむ」と念ずる。そこへかつて遭遇した山(仙)姫が上がってくる。素雄の気配を悟らずに歌い出だせされる仙姫(やまひめ)の歌声。止むのを俟って語りかける素雄。何故このような場所にと仙姫に問われ、水底に(我が身を)沈めよと瀑布に命じていたところ答える素雄――。
哀しげな悲痛なる素雄の表情に思いの深さを探る仙姫。悲しみを齎すのは「露姫なる!」と嘆く素雄は、仙姫を露姫に重ね「君は其儘露姫なるよ」と詰め寄る。仙姫は然かとは答えず、かわりに(いおり)へ素雄を誘う。そして「第三齣」を迎える。
 「第三齣 第一場 仙姫洞」の場面。安らかな眠りに就く仙姫を洞のなかに眺め見ながら一人安らぎを得られない素雄。冒頭には、露姫に重ねた仙姫への無言の語り掛けが長大に続けられる。――「さても美しきや仙姫、いずこの宝の/山よりぞ、このめづらしき珠玉(たま)を取りもちて/来て、誰がたくみの(わざ)にてや()り成せるぞ/この姫を?」―― やがて彼の許に青鬼が訪れる。そして露姫(仙姫)への想いに心苦しむ素雄の様を憐れむように嘲笑ってみせる。ならばと終には仙姫を呼び覚まそうとする。その恋心の真相を尋ねんためと。素雄は押し止める。代わりに告げて鬼を誘う。「鬼よ、来たれ、(いまし)と共に山に登らん」と。しかし青鬼は突き返す。山に登れるのは鬼と魔のみと。それに答えて素雄が返す。「おろかや、われは人の世に()くとは言えども風を御し雲を(つか)むことを難しとする者ならず」と。しかも「(たま)」を洗い清める目的が故に「御山」に上り得るなりと。それを聞いた鬼は、「然らばひとり行きね」と素雄の単独登頂を促す。自らはここに留まらねばなら故(そう御山の王(大魔王)に命じられているので)行けぬとも。
 そして、「曲」はいよいよ最終場面へと向かう。「第二場 蓬莱山頂」。山頂に達した素雄は、四方を眺望して絶唱する。冒頭に一部を掲げたその箇所である。引用が長くなるが同部分を書き出し部分からから全篇掲げる。
大地は渺々、天は漠々、
  三界諸天の境際明らかなり。
  万景万色一様(ひとつ)になりて広がりつ、
  山河都邑無差別夜陰の(うち)
  六道八維雲に隠れ雲に現はれつ、
  凡てわが脚下に瞰おろすなり。
  鉄囲――金剛――須弥、幻現二界の中に
()る。
  無辺無涯無法の仏法も、玄々無色(むしき)の自然も、
この霊山に於いてこそ悟るなれ、
  こざかしき(こおに)! 無益なる世の智慧!
  大地大ならず、蒼天高からず!
  我(まなこ)! 我心眼! 今(しん)に入れよ、
  この瞬間(ひととき)をわが生命(いのち)の鍵とせん。」
  いで御雪を蹈立てゝ彼方なる危巌(いはほ)の上に立
たむ。
(危巌の上に登る)
(雪崩の響凄まじ)
  大地今崩壊(くづる)るや?
  用なき大地今崩壊や?
  くづるゝも惜からず。いな、いな、いな、
  聞くは雪崩の響なり。」
    (俯瞰して)
  底は見えず断崖幾千仭、
      ()が立掛けしぞこの壁を。
  鬼神(おにがみ)とても、よもやこゝをば飛登らじ、
  雷光(いかづち)とても鳴神とても、この山側には
  住まざらむ。
  思へがわが身は羽毛らなぬに、
  雪さえ積れるこの巌の、角に
  立つとは如何、如何。
  人か? 神か? 人の世は夙く去りて
  神の世や来れる?
  神ならねば、いかで、この(わざ)は?
  神かわれ? われ神か? 咄!
  咄! いかでこのわれ!
  依々(なほ)形骸(むくろ)! 形骸、形骸!
塵の形骸! 昨日の儘の塵の
  形骸! 咄、なほ人なる。
われ神ならず。天地の神は父なる。
いで父を呼ばむ。神を祈らむ。
  (巌上に危坐して祈請す)
天地に盈つる霊、照覧あれ照覧あれ、
日に鋳り、月を(まろ)めしもの、耳を傾け玉へ、
われ世の形骸を脱ぎ去らんと願ふこと久し、
霊山に上りて、(たま)は、魂は浄められしかども、
未だ(のこ)る形骸やわが仇の巣なる。
悪鬼夜叉に攻め立られて今までの生命(いのち)は、長
き一夜の。(いね)られぬ闇の中。
脱去らしてよ、この形骸、この形骸!
(そゝ)ぐ可き恥辱(はじ)の山高み、
払う可き迷の虚空(そら)広み、
形骸ゆゑぞ、形骸ゆゑぞ、
脱去らしてよ、この形骸、塵骸」!
(「第二場 蓬莱山頂」の冒頭部)
 
この熱唱後、詩行は最終行まで涯なく続く。素雄の前に現れる数個の鬼王・小鬼。ここを去れ、往け、世に戻れと威嚇する。その一々に対峙する素雄。終には容れぬ素雄を山頂より放擲せんと――「しれもの()(なま)ざかしき(をのこ)、/諸共に撃ち砕きてこの岩より投うぞ。/いざ、いざ皆のもの――来れ、来れ」と、一個の小鬼が喚くにいたる。危うし素雄! そこに満を持して現れたのが大魔王。配下の鬼王どもに立ち去れと命じる。ここに(山頂)に呼んだのは我の意志なればと。
再び交わされる素雄と大魔王の問答。しかし「空中よりの声」に身を窶していた時とは違い、天も地も支配する身なればと大魔王は素雄の「意」「情」すべてを見透かすばかりにして、素雄の「始め終わり()な知る」と告げ聞かす。しかし素雄は肯わない。「悲しみ」「憤り」「人生の奥」を語り出すや声高になる。大魔王にも解せないとも吐く。大魔王は、ただ「をかしやな、をかしやな」と冷淡に受け止めるばかり。そして世の様を指し示し、楽しみに満ちた極楽であるはずではないかと聞かせ、それなのに「何を左は苦しみ悶ゆるぞ」と呆れかえって見せる。
素雄は強く(言い)返す。世の偽り、欺きを向こうに、〈形而上〉を注視し、蒼穹に精魂を舞わしめる先にはじめて恋にも思いを返すとも、さてそれも一時、「恋てふ者も果(はか)なき夢の迹」なりと。聞くべきものがあったのか、大魔王はさらに語れと先を促す。続ける素雄の口から語り出されるのは、行き先も定まらない哲理の闇。素雄の裡に対峙する二つの(さが)――「神性」と「人性」。その鬩ぎ合い。素雄を死の先にまで惑わすもの。疲れさせては悩ましき性。しかしここに来て(まるでその告白を待っていたかのように)それ以上「説くなかれ」と素雄を遮る大魔王。そしてその悩ましさを楽しみにさえ転じてあげよう、と素雄を「彼方の巖」に誘う大魔王。しばし素雄を一人にする大魔王。大魔王が彼を独りにさせた狙いはその岩場の先にあった。はるか下界が一望されるからである。
元の世であった。素雄が望んで後にした世であった。その世に浮かぶ景色に今まさに眼を向ければ、猛火に包まれてすべてが焼き尽くされんとしている光景であった。「嗚呼、わがみやこ! あれ、あれ、みやこ!/捨てたりとは言え、還へるまじとは言えへ、/わがみやこ、悲しきかな、あの火!」、そこへ徐に現れて大魔王は問う。「何を左は悲しむぞ」と。見越していた大魔王は「おろかやな!」と嘲り笑う。素雄はさらに下界に眼を下す。すると劫火の中には神・仏の姿もある。何故? 神仏が(焼かれなければならぬ)――。
大魔王は言う、「彼(神仏)の権威」を奪い取った者の正体を知らぬのかと。素雄は訝る。「其は誰ぞ。何物ぞ?」と。知らばお前は我を崇めて汝が王とするや、如何にと問う。素雄は即答する。もとよりと。ならと語り聞かす大魔王。「それはわれぞ」と。さあ平伏せと。しかし素雄は黙然とたまま「奮然として立ちつくし」、応じようとしない。怒りを露わにする大魔王。「いまだ俯伏さずや」「口さかしや! 降らずや!」「わが力知らずや」と。しかし、なにか思うところがあったのか、怒りを収め滅ぼすのを思いとどまると、「あわれのものかな!」と突き放すようにして、「空しく時を費やしけり」「おさらばよ!」とその場を立ち去る。
 しかし、一時は怒りを露わにした大魔王の前に視力や手足の自由を失った素雄は、大魔王が立ち去って再び視力や体の自由が回復されるに及んで、己の無力と反対に大魔王の威力を知ることになる。そして「(世に)降れ!」との命令が再び頭を過る。己が「行くべきところいづこぞ?/世か、還るか、世に?」やはり世には還るべきところはない、またそれに世の側でも我を待っていない。「咄! 咄! 魔、われをいかにせんずる?」煩悶の最中、その岩場から見下ろせば素雄の眼に映ずる「(かぎり)知られぬ山の底」、怪しい火も立ちのぼる。地獄? いかにも我が行くべき処なり! 激しい死の水の流れ。下すべきは筏。その「陰市道(よみのみち)」へ。さあ落ち下らん! 舞い下らん! 「いま去らん、消え失せん、世の外に。」
 そこに素雄を押し止めるべく立ち現れた一人の人物。蓬莱原で出会った樵夫(源)。振り切るように「奈落の旅路を急がん」とする素雄。「あわれ旅人の狂ふかな」「何どて、左はもがくらん」そう言って素雄を捉える樵夫。しかし数多の鬼にあって疑い深くなっていた素雄は質す。「汝も小鬼(こおに)のひとりなるべし」(?)そして「徃け樵夫、われ鬼の世には還らじ」と声を強める。
そこに取り出された琵琶。素雄が手放したもの。これでも我を鬼と言うかと、この琵琶がそうでないことを証かしているはずと。差し出された琵琶を見て一滴の涙を頬に下す素雄。我が「精神(たま)」のいとも親しき者」。しかしいまさら此処(山頂の岩場)で鳴らすべき音やある? ――「いまは早や(いまし)のいとま取らす可し」「汝も自由の身! 琵琶よ汝も不羈の身!」そしてその手から投げ出された琵琶の風に翻る様を見下ろす素雄。
その音?――「ヱー、ヱー其音(ね)は、ヱー、ヱー其の琵琶の、/ヱー、ヱーわが琵琶の其音はわれに最後を促すなる!」そして「いかでわれも行かん」と振り切ろうとする素雄。さらに強く押し止める樵夫。「危ふし、危ふし、さても怪しの旅客(たびゝと)かな。」しかし、「怪しと? 世の生涯(いのち)こそ怪しけれ」とさらに振り切ろうとする素雄。そして、死の底に向けて咆哮するが如く、命の限りを傾けて叫ぶが如く、絞り出すように吐きだされたその声の先には――。
来れ死! 来れ死!
この崖を舞い下らでも、わが最後の力、世
に充つる精気の力と相(かな)ひてわが死を致す
に難きことやある、
いでわが命ずるに……いでわが命ずるに
……いでわが命ずるに……わが()ぶに
……わが召ぶに……
死! 来れるよ汝!
来れるよ汝! ()めるもの!
来れ、来れ、疾く刺せよ其針にて、
いま衰ろへぬ、いま物を弁へぬ、いま消え
行く、いま死、いま死! 死よ、(いまし)を愛す
なり、死よ、汝より易き者はあらじ。
あさらばよ!
(「第二場 蓬莱山頂」の末部)
その一言を最後に素雄はその場に倒れる。気絶ではない。事切れたことによる昏倒であった。樵夫は、倒れた(事切れた)素雄に向かい嘆き語りかける。
 
こはいかに、こはいかに、舞下りもせでこ
こに終わりぬるか、あやしやな、ああ無残!
たび人よ、たび人よ! 早や起きず、其の
魂はいづこに行くならん、
おそろしや、おそろしや!
あはれ、あられ、死なしけり、()なしけり。
(前掲に続く「第二場 蓬莱山頂」の冒頭部)
 
 この後、「蓬莱曲別編(未定稿)」が続くが、ここで追跡を終える。別編の出来不出来を問いたくないからではなく、すでに当初の目的は十二分すぎるほどに達することができたからである。すなわち、今ここに辿ってきたもの(リトレースしてきたもの)が、前人未到の詩想に言い及んだ驚異的な詩的世界であったことが再確認されたからである。しかし、上記のようにこの作品(「劇詩」)を詩作品として認めないか、(大)失敗作としか見ない評価がある。その言い分も分からないわけではないのである。しかしその実態は、それに故にこの作品の真価が高まる逆説的評価であったこと、そして透谷詩は否定を明日の糧とする詩(叙事詩)であったことである。
 
 
 Ⅲ 北原白秋の〝罪〟
 
 1 抒情の詩苑
 
 
ところで、一般論的に見て、三齣で総行数が約1750行に及ぶような透谷詩をどう捉えるべきか。長大さを詩としてどう見るべきか。劇詩とは言えやはり長さは問題であるからである。さらに構成もある。各場の冒頭に詠唱(独唱(アリア))を置き、次に対話部分(筋書き部分=レチタティ-ヴォ(朗読調歌唱))に繋げる。必要に応じて詠唱を対話中に挟む。当然ながら対話部分は、相対的に「詩」的語り口ではなくなる。この時、詩とはなんであるか(あったか)が問われることになる。詩をどのように読むべきかの問いでもある。
そこで必要上、『若菜集』以降今に至る日本の詩を大観する時、抒情が占める大きさがあらためて痛感される(もちろん言わずもがなのことである)。明治後半期の詩の潮流が、透谷詩を外に置いた状態で推移してきたことと軌を一つにしている。雅文の甘美な韻律を基底においた「浪漫」的な詩と、漢字漢文の硬質な韻律を基底に置いた「象徴」的な詩は、表出する詩想の趣を異にすると言え、ともに散文的意味の連続やそれに繋がる措辞を良しとしない。それでも行うなら最初から散文詩として始められる。そうれば定量性(長さ)は確保される。また韻律も絶対条件とはならない。以下は初期散文詩の試行錯誤を前にした言である。
たとえば、小説仕立てで装い、詩とも小説ともいずれとも区別のつかない試作もあるが、それはそれで区別がつかないことを逆手にとっている。抒情への抵抗である。克服的態度である。「詩論」を誘発する態度でもある。しかし対極に抒情を据えている限り、散文詩といえども実は抒情を「反歌」的存在とした内的機構から成っているにすぎない。いくら技巧をこらしても心が透けて見えてしまうのである。
実際、韻律に拠らないことや否定的に構えることから生み出されるのは、公式的には抒情の対極である叙事でなければならないはずがそうならない。なるほど韻律は封じ込めた。あるいは新しい韻律を得た。散文形式に拠り、それを詩文と読み替えることで齎らされる意趣は、従来の抒情の範型の外に出ていた。「物語性」を複雑にすることで、意味が意味を生む時空間とは一線を画すことができた。それでも抒情詩が、韻律的な感興に差し障る詩語(詩句)の意味的部分を後ろに送って省みないのと五十歩百歩だった。詩的感興の獲得方法としては、致し方なく抒情に横並ぶのである。叙事に繋がる意味性の克服は見かけ倒しで終わっていた。それが日本近代詩の歩みであり、必然だった。そうだとすれば、何故、叙事詩は系統樹の枝を伸ばせなかったのか。否、その前に根を張れなかったのか。 
 
2 薄田泣菫と蒲原有明~天才の前夜~
短絡的ながら一人の天才の〝罪〟である。北原白秋である。しかし白秋の詩が生れるのは明治末期である。その間、つまり『蓬莱曲』の明治24年から『邪宗門』刊行の明治42年までには18年の歳月が流れている。かりに北原白秋に罪を着せるとしてもこの18年間は彼(白秋)を育て上げた期間である。そういう意味では予備罪が適用される期間(胚胎期)である。
そこで告訴に当たって罪状認否に用立てられるものの一つに北原白秋著の詩評『明治大正詩史概観』(昭和41929)がある。改造社版現代日本文学全集の第37編『現代日本詩集 現代日本漢詩集』の「巻末付録」として執筆された解説風の概観ながら、明治・大正詩の全般に及んで分量も付録の域をはるかに超え、取上げた詩人の数は、明治期だけでも50人を超える。因みに『白秋全集』21巻(岩波書店、1986年)の冒頭に納められているが、241頁分を割くほどである。明治編の記述の多くは、自身を生んだ先行詩に向けられたものである。穿った読み方をすれば、白秋による自詩の詩史的評価に読み替えられるものでもあるが、白秋の〝罪〟を暴くには、出生(詩的出生)から辿り直すという点でも欠かせない基礎資料である。しかしこれでは日本詩史論(大裁判)の域になってしまう。上掲日夏耿之介に至ってはさらに精緻で、両著の上に論陣を張るなど及びもつかないことである。ここでは直近で行く。
幸い、白秋の詩史概観には、興味深いことに詩史略年表の一環として明治期の「叙事詩・劇詩略年表」が掲げられていて、透谷以後の慷慨を知ることができる。そのなかには問題の18年間においてもっとも重要な(言い換えれば罪の重い)二人の詩人の叙事詩も掲げられている。薄田泣菫と蒲原有明である。透谷詩がなぜ後継を得なかったのか(恵まれなかったのか)、逆に透谷詩と詩想を異にする白秋に収斂していったのか。
唐突ながらここには「死」がないからである。それは『蓬莱曲』の刊行後の2年後(刊行月と同じ5月)に透谷が自死したからとう具体的な「死」が先にあり、透谷の死というと、とかく個別事項として解られがちだが、そういう「死」ではではない。ここでいう「死」とは、また「生」でもあり、死を生きることが生の支えになっているそういう「死」である。詩に形を与える生の動機であるとも言える。叙情的動機とは異なるものである。その鬩ぎ合いの中心にいる「我」とか、両者の対立が齎す「苦悩」を試めす「死」である。具体例に当ってみよう。その違いは一目瞭然である。
こよい(あつ)るる病臥(いたつき)の悩みのもなか、
世はとみに鴉羽いろの焔して、
蕩けたゆたふ火の海に、吾や落葉の、
左視右顧(とみかうみ)、ゆくへも知らぬ途すがら、
ふと遠方(おちかた)に目馴てし人がたちを見て、
(ひた)みちに追いすがりつゝ失聲(ひごゑ)して、
『君よ』と呼べば、立ちどまり、振向き様に、
『見悩ひの時こそきこそ()れ。』と脱ぎすべす
被衣(かつぎ)のひまに見入るれば、あな『我』なりき、
驚駭(おどろき)に胸はふたぎむ、危篤(あつし)れぬ。
薄田泣菫「妖魔『自我』」六(最終聯)(傍線引用者)
 「妖魔『自我』」は、薄田泣菫の第四詩集『白洋宮』(明治39年)の一篇である(『明治文學全集』58より引用。以下蒲原有明も同じ)。同詩集は、泣菫の代表詩集であるとともに近代詩の代表作の一冊でもある。全篇は掲載できながいが、一先ず最終聯の「六」を引くだけで十分である。妖魔であった自分を最後に発見して昏倒するに至るという展開であるが、そのための伏線を「一」~「五」の各聯に延々と巡らす。各冒頭に「妖こそ見しか」を置いて、いかにも妖しい行状や現象を記しおくために、雅語を駆使して雅韻を忍ばせながら規則正しく一聯10行に横一列に仕立てる。すでにその詩形だけで散漫さは免れない。
若干補足すれば、「被衣」は第一聯で妖しき行ないをする人(矮人)が打ち纏っていたものである。つまり最初から自分の姿(行状)を自分で見ていたことの物証である。中間部(「二」~「四」)を「幻視」ないし「幻影」に読み返させるための小道具である。いずれにしても「自我」と大上段に銘打ちながらもどんでん返しに意を用いただけにすぎない。そのために「見悩ふ」の「自我」(「我」)にも、その「自我」を取り囲む「鴉羽いろの焔」や「たゆたに火の海」にも対峙する「生」にも緊張感はない。浪漫派的な幻想小説として読むべきだとしたなら、泉鏡花にはとても勝てない。もとより勝つつもりではなく、只管、新しい抒情を生み出そうとしていただけである。繰り返せば、「自我」もそのための素材(詩料)でしかなかった。かりに一次的な素材でなかったにしても、泣菫詩が詠う他の「哲学」的詩篇もこの域を出ない。たとえば、『白洋宮』で「霊魂」と詠うものも「旅魂(旅情)」でしかない。
ああ、()は野に、宮に、夜ごもりに、
あくがれまどひにし日はあれど、
果しは、野ごころの伸羽(のしば)して、
歸るや、なつかしき君が手に。
たゆげの片ゑまひ、優まみの
うるみよ、うら若き霊魂(たましい)
旅路に(あつ)れては、掬みつべき
うべこそ、真清水の常井なれ。
「魂の常井」最終聯(傍線引用者)
あるいは「感傷」でしかないもの。
浄まはる(たま)の深み
(ひじり)ごごろととのひて、
美し音のさこそ(どよ)
日のあなたに()かまほし
「夕ごゑ」最終聯(傍線引用者)
このほか「望郷詩」での内面的な自己表出と言っても、同詩集で佳品の誉れ高い「ああ大和にしあらましかば」の詩情の詠い替えでしかない。ただ上掲「妖魔『自我』」の場合、「和魂」から「西魂」へと傾いている点は「哲学」的であるかもしれないが。
新墾路(にひばりみち)切畑(きりばた)に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日かな、
そことも知らぬ静歌(しずうた)の美し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)
あり樹の枝に、矮人(ちいさごの)楽人(あそびを)めきし
()ればみを。尾羽身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
(ませ)に、木の間に、――これやまた、野の法子児の
()のものか、夕寺深に聲ぶりの、
読経や、――今か、静こころ
そぞろありきの在り人の
(たましい)にしも沁み入らめ
「ああ大和にしあらましかば」第二聯(傍線引用者)
 同じ「魂」で行くと、蒲原有明には次のようながある。
魂の夜
午後四時まえ――黄なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代(ちかつよ)
栄の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは(せい)の戸も。
(第二聯略)
見よ、簿冊の金字――
星なり、運命の
巻々音もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償ふたよりなさ、
囚獄(ひとや)(やみ)ふかき
死の(つか)、――いかならむ、
嗚呼、その(たま)の夜。
(波線・傍線引用者)
 明治39年刊行の『春鳥集』の一作品(象徴詩)である。「銀行」「近代」「簿冊」と「栄の宮」「おひめあるともがら」などとが、新旧に時間性を交錯し合って情趣を新たにしているが、斉一な韻律に規定されて、詩境は意味を昂進するのではなく情感にも拓かれる。詩の系譜としてはそれが抒情詩から象徴詩へと転回したとしても異系統を生むわけではない。明治41年の『有明集』には、『蓬莱曲』の柳田素雄の懊悩を彷彿される「苦悩」と題された作品が収載されている。
 
苦悩
 
傳え聞く彼の切支丹(キリシタン)、古の悩もかく――
影深き胸の黄昏、密室の戸は()しもせめ、
(おのゝ)ける(おもひ)の奥に「我」ありて伏して沈めば、
(たましひ)は光うすれて塵と灰「心」を塞ぐ
(おそろ)しき「(うたがひ)」は、噫、自の身にこそ宿れ
(あだ)()責めも来なくに空しかる影の(たは)わざ、
こは(なに)ぞ、「畏怖」の(ともがら)群れ寄せて我を囲むか。
脅す仮装ひに松明の焔つづきぬ。
(第二・三聯略)
硫黄沸く煙に咽び、われとわが座より(まろ)びて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦悩に疲れ、
死せて又生くと思ひぬ、――夢なりき、夜の神壇、
蝋の火を点して念ず、仮名文の御経の秘密。
待たるるは高きを洩るる啓示(みさとし)の声の輝き、――
信のみぞ其證人(あかしびと)、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌の聲朗かに、
事果て、『汝を恕す』と(のたま)はむその一言を。
(傍線引用者)
 
 傍線部は透谷詩を思わせ、かつ近い語り口である。詩を離れて議論したとしても、「我」の捉え方や苦悩の在り処および在り方は、透谷の内面を手鏡とした時、その鏡面に映る言葉でもある。反転して写しだされた透谷の貌には「他の人」の相貌は消えている。詩句には力がある。詩行には韻律を突き抜ける先鋭がある。それが自分一人の裡で終わらせない連帯感を生んでいる。叙景(「火の山の地獄の谷」)にも「蓬莱曲」のようなリアルな彫刻感が漲っている。しかし、結局、最後には抒情バージョンに還ってしまう。「切支丹」との対立的な問いに深められなかったからである。最初から最後の一行が決まっていた。その語り口も含めてである。そして、他の作品と肩を並べ(並べるために)、『有明集』を整える一掲載詩たる指定席を与えられることになる。
いずれにしても、この「苦悩」をやや例外にして、その他の作品と透谷詩――「魂」を破つるほどの迷いに苦悶しつづけるその詩叢――との間には越え難い縣隔があることが痛感される。しかし、詩は「哲学」ではない。ただ詩であればいい。詩として優れていればいい。そして『若菜集』の跡を襲いかつ超えているとされる泣菫と、さらにそれを象徴詩に呼び込んで詩想を深めた有明の両詩才の作品は、明治近代詩の夜空に燦然と光輝く詩星であることは間違いない。それだけに逆に言えば、透谷詩との隔たりを確かなものにする上で、その先がけを果たした点(準備罪)もあらためて疑えないところである。しかも二人が「長詩」(叙事詩)を手掛けていた事実は、その罪状がけして軽くないことを物語っている。
3 「泣菫有明時代」の「長詩」
上記した白秋による明治時代の「叙事詩・劇詩略年表」によれば、その嚆矢は明治18年の湯浅半月の「十二の石塚」(旧約聖書イスラエル民族説話に詩材を採った叙事詩)で、明治45年の平木白星「平和」(劇詩)に至るまでに46作品が掲げられている。因みに半月のそれは明治期にける「単行個人詩集の嚆矢」と言われ、また透谷の「蓬莱曲」(明治24年)は一覧中三番目で、二番目には落合直文の「孝女白菊の歌」に挙げられているが、同作品は漢詩(井上巽軒)を邦語(七五調)に訳した(移した)ものである。したがって「蓬莱曲」は本邦初発の「劇詩」となる。それはともかく、泣菫と有明の場合は、前者が45)本、後者が7本である。その分量は全体の2割強に当たっており、とくに有明の場合は、岩野泡鳴(8)に次いで一覧中の上位の座を占める(他は白星6、晩翠3、鴎外3、紫紅3など)。また作詩年代としては、明治3638年に集中的であり、約5割強の26本がその3年間に上梓されている。
まさに「泣菫有明時代」に重なるわけであるが、この趨勢は新体詩以来の試行錯誤を経て、藤村・晩翠二詩人以降、明治30年代中頃の停滞感が新たな詩形を求めてそれが一気に噴出したかのようである(日夏耿之介「第六節 史詩譚歌及劇詩における試練」巻之上404頁)。また陳腐な作が多い中で個性を失っていないのが両者であるとも評されている(同)。しかしこの評言は微妙で、問題とする「詩形」に言及しているわけでない。それがあらためて新機軸の一時的模索に終わって模索以上でなかったことを教え、同時に透谷詩の孤絶感を深めずにはいないのである。
泣菫が明治36年に作詩した二つの叙事詩「雷神の歌」と「金剛山の歌」の内前者は400行を越える長大な詩である(さらに白秋が上げなかった「天馳使の歌」があり、700行を越える)。後者はその半分程度の約170行ながらやはり長詩である。両者は泣菫の第三詩集『二十五絃』に収められている。同詩集は、前二詩集(『暮笛集』明32、『ゆく春』明34)の初期泣菫体とも言うべき「絶句(ソネット)」形式から意図的に離れたもので、新たな試作には勇躍然とした意気込みが漲っている。
それ以外も総じてその詩的営為を体現した叙事詩(史詩)スタイルである。当時の史詩(及び劇詩)に対して日夏耿之介はこう述べる。「一言にしていへば少しも面白くないのである。詩形化する必要が感ぜられないのである」(406頁)と。泣菫をその例外とした全般的な評価ながら、「詩形化」の必要性においては泣菫も同様であって、彼にとってそれが必要であったのは、彼の並はずれた知的卓越であっても、内的欲求ではなった。事実、詩の破題には、「ことし(明治36年・引用注)一月十七日、空に雷鳴ありて、大粒の霰さへおびたゞしく降り注ぎぬ。春雷と名けむには餘りに時はやかるべし。當時病みて床にあり、覺えず興に入りたるまゝ、病おこたるを待ちてこの篇をものしぬ」(引用時改行無視)とある。
もちろん、謙遜を示すための「端書き」であるが、同時に「興」の深遠であることを暗に示すためでもある。しかし、その深遠は詩形にではなく、詩句においてである。詩句がそのまま「絶句」スタイルの発声(発吟)としても事足りる限り、端書き(破題)は、「必要」の観点ではかえって嫌味にさえ聞こえかねない。
ともかく「必要」は、分量を必然としなければならない。「必然」は、叙事詩の生命と一体である。物語性はそのままでは散文的である。吟誦によって非日常化を達成する。口頭伝承(たとえば日本でいえば、アイヌのユーカラなど)が文字を知らないで時間を超える所以でもある。近代詩が創る叙事詩は、文字により文字を出ないものである。したがって叙事詩は、本来抒情詩以上に文字の反作用化に晒される。物語性とはそれを文字から解こうとする時、必然的に口辺を求め、求めることなしには解消に向かわざるをえないからである。しかも叙事詩はそれを求めるのである。叙事詩の困難の源である。両詩才を問う「必然」に対する説明不足である。
いずれにしても「必然」から遠からず撤退する。泣菫は『白洋宮』(明治39年)へ、有明は『有明集』(明治41年)へ自己を再発見して発展的に自らの詩境に深く分け入っていく。本旨に引きつけて言い表すなら、透谷から遠くしかも決定的に遠ざかっていくと言い換えられる。やがてその遠ざかりを一大芸術に仕立てた白秋が、満を持して日本近代詩の檜舞台に登り上がってくる。白秋に至って透谷詩(正しくは透谷叙事詩)との隔たりはついに回復不可能なものになってしまう。
 
 4 北原白秋の詩~抒情詩の慈母~
 『邪宗門』の詩境 北原白秋の文学的軌跡は、在郷中から投稿していた『文庫』での高い評価(選者河井酔名)とそれを受けた作品(「林下の黙想」)の一挙掲載、『早稲田学報』懸賞詩一等入選と掲載(「全都覚醒賦」全280行)などを経て華々しく開始されるが、その天啓的な詩才の開花に大きく寄与したのは、『明星』誌上である。白秋が新詩社に参加したのは、明治39年から411月までの限られた時間ではあったが、明治浪漫主義の一大詩(歌)苑に集った多くの才能との遭遇のなかで発表された多くの作品は、脱会後一年で刊行することになる『邪宗門』(明治42年)に結実することになる。そしてこの『邪宗門』や続く第二詩集『思い出』(明治44年)から第三詩集『東京景物詩其他』(大正2年)及び第四詩集『真珠抄』(大正3年)までの四冊の詩集に、二冊の歌集(『切り花』大正2年、『雲母集』大正4年)を合わせた詩歌群によって、日本詩歌壇の太白を自他ともに任じていくことになる。
 透谷詩との乖離が決定的になり、さらに固定化してしまうのは、言葉が原義を失うからであるが、問題なのはそれが眈美を至上としたための犠牲であって、ただ字義を失うだけではないからである。字義は永遠に喪失されてしまうのである。しかも詩想に高められた喪失感は、言葉を倫理観から解き放たって既知的な了解事項を痴態化し、個人の人格を惑溺して慎まない。その誘惑の「扉銘」(「邪宗門扉銘」はかく告げるからである。――「ここを過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、/ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、/ここ過ぎて神秘のにがき魔睡に。」では誘われるままに「ここを(門)」を潜ってみよう。『邪宗門』は「魔睡」「朱の伴奏」「外光と印象」「天艸雅歌」「青き花」「古酒」の6章から編まれている。以下、関心の赴くままに各章からその断片(詩行)を拾い集めてみよう。
A われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭(におひと)きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉(あらき)(ちんた)の酒を。
「邪宗門秘曲」冒頭部(「魔睡」)
B 曇日の空気のなかに、
狂いいづる樟の芽の憂鬱(メランコリア)よ……
そのもとに桐は咲く。
Whisky(ウイスキイ)の香のごときしぶき、かなしみ……
曇日(くもリび)」第一聯(「魔睡」)
C 空に真赤な雲のいろ。
玻璃(はり)に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
「空に真赤(まつか)な」全篇(「魔睡」)
D ひと日、わが精舎の庭に、
晩秋(おそあき)の静かなる落日のなかに、
あはれ、また、薄黄なる噴水(ふきあげ)の吐息のなかに、
いとほのにヸオロンの、その(いと)の、
その夢の、哀愁(かなしみ)の、いとほのにうれい泣く。
謀叛(むほん)」第一聯(「朱の伴奏」)
E 君は切る、
色あかき硝子の板を。
落日(いりひ)さす暮春の窓に、
いそがしく撰びいでつつ。
硝子(がらす)切るひと」第一・ニ聯(「外光と印象」)
F いでや子ら、日は高し、風立ちて
棕櫚の葉のうち戦ぎ冷ゆるまで、
ほのかなる蝋の火に羽をそろへ
鴿(はと)のごと歌はまし、()が母も。
好き日なり、(おうな)たち、さらばまづ
(いの)らまし讃美歌の十五番、
いざさらば風琴(オルガン)を子らは弾け、
あわれ、またわが(をぢ)よ、なにすとか、
老眼鏡(おいめがね)ここにこそ、座はあきぬ、
いざともに禱らまし、ひとびとよ。
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
「ほのかなる蝋の火に」冒頭11行(「天艸雅歌(あまくさがか)」)
G そは暗きみどりの空に
むかし見し幻なりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜も知らず、
国あまた巡りありきし
そのかみの
われや、わかうど。
「青き花」第一聯(「青き花」)
H 神無月、下浣(すえ)の七日、
()ましげに落日(いりひ)黄ばみて
晩秋の乾風(からかぜ)光り、
百舌啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝(ほづえ)
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那、野を北へ人霊(ひとだま)
鉦うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる(ゆふべ)に。
「晩秋」全篇(「古酒」)
 
 白秋は自詩を指して「邪宗門新派体」と呼んでいたとおり、一派を成して余りあるものがある。思わずその言葉遣いに惑わされ、同じ口調を真似たくもなる。曰く、当時の「日本語」(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字・横文字)を駆使した措辞の全てを「新派体」の具とし料としてあるいは薬味として、時には秘薬・媚薬として香り高く綯い交ぜにして、詩苑の卓上に和漢欧の新種の滋養に溢れた糧を載せる。好まぬ人も奇を頭ごなしに詰るには余りの馳走、傍らの美酒、卓中央の活花、卓を囲む頬を染めた女人たちの待ち侘びる口ベ……などなど釣られて手を伸ばしてしまいそうになるのだが、「好まぬ人」の立場ではなく、「認め(かね)ぬ人」の立場(ただし立論上の立場)に立ち返れば、贅言は要さずとも、本旨(本訴)の目論むところはすでにA~Hの出廷(証人喚問)によって明瞭然としている。
たとえば、Hに詠いこまれた「人霊」や「死の歌」が、なによりもその字義の負っている荷重も責務も容易に擲って時季(晩秋)の趣に繰り入れて、「古酒」の味わいに添える一点景にさえしている。これでは「死の歌」も届きはしない。
『思い出』の詩境 身近に多くの死を知っている白秋であった。早くは乳母。それも自分(のチフス菌)が原因で死なせてしまったと自責の念を長く引きずることになる幼年期の身辺の死。あるいは当時(白秋7歳時)のコレラの大流行による周辺の死。これらの死は版を分かって『思い出』に載せられている。同詩集はその後の白秋を思えば、『邪宗門』よりその心性に親和的である。したがって、まだしもその死は、厳粛であり重みもあり、責務も分有している。詩としても「憂鬱(メランコリア)」だけではない。それ以上に「厳粛(シリアス)」である。
I 母なりき。
われかき抱き、
ザボンちる薄き陰影(かげ)より
のびあがり、泣きて透かしつ。
『見よ、乳母の棺は往く。』と。
時に白日(ひる)
大路青ずみ、
白き人(つら)なし()んぬ。
刹那、また、火なす身熱、
なべて世は日さえ爛れき。
身熱(しんねつ)」第一・二聯
J 『青甕ぞ。』――街衢(ちまた)に声す。
大道に人かげ絶えて
早や七日、(どぶ)に血も()え、
悪虫の羽風の熱さ。
日も真夏、日の(そら)爛れ、
()りぬ。――大家(たいけ)の店に、
人々は墓なる恐怖(おそれ)
(かう)くすべ、青う寝そべり、
煙管とる肱もたゆげに、
蛇のごと眼のみ光りぬ。
(第二聯略)
『青甕ぞ。』――日もこそ青め、
言葉なし。――蛇のとぐろを、
香匐ひぬ、苦熱の息吹。
また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
母なりき。――(母も座にあり。)
がらす戸の冷たき皺み。
やがてまた一列、――あなや、
我なりき。――青き小甕に、
歔欷(きぐ)りつつ黒き血吐くと、
刹那見ぬ、地獄の恐怖(おそれ)
「青き甕」第一・三聯
 
 Iは、乳母の死(葬儀)の詩。Jはコレラで亡くなった町の人の葬列の詩。白秋の身辺に起った死には、ほかに親友の自死がある。親友(中島静夫)はロシア語を自習していたのを、ロシアのスパイ(「露探」)との嫌疑をかけられことで喉を突いて自刃してしまう。日露戦争の最中(明治373月)のことである。
血に染まった亡骸の傍らにいて子供のように泣いたとある。親友中島の号は「白雨」。白秋とは「白」を分かち合う仲だった。白秋19歳の強烈な出来事だった。「君死にき、かかる夕に」の「君」が、親友と重なっていたかは判然としないが(詩のなかの季節は「神無月」の秋)、『思い出』には、一章を構成する「TONKA JOHNの悲哀」のなかに、「詞書」を置いて「たんぽぽ」の詩題で詠われている(因みに「TONKA JOHN」とは子供の頃の自分の呼び名)。
まずその「詞書」から――「わが友は自刃したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より静かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添うもの一両名、痛ましき夕陽のなかにわれらはただたんぽぽんの穂の毛を踏みゆきぬ。友、時に十九、名は中島鎮夫。」
K あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく……
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めていく、
君がかなしき傷口に
春のにほひも沁み入らむ……
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸れていく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穂の毛に、そよかぜに……
あかき血しほはたんぽぽの
けふの入日もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも(たましい)もたんぽぽに。
あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりていく
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く()も消え入らむ……
あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく……
「たんぽぽ」全篇
 同じ「君」でも「晩秋」の「君」とは似て非なる研ぎ澄まされた精神性が全篇を貫いている。いまだ「生」の痕跡を引きずる「あかき血しほ」に激した心を鎮めるかのように、言の葉を水平に揺れるリフレインに敷き延べて、二人して還る「逕」を往く。白秋は「死」とともに歩んでいる。座して落下した柿に死を読み解く別の白秋ではない。『思い出』の作詩時期は、『邪宗門』と重なっている。二人の白秋の一方は、『邪宗門』で蒲原有明の象徴詩をあらたな詩境で読み替えるべく、同じ時期に別な「死」を創った。あたかも愛でるに似た「死」をである。さすがに露わには綴られなかったが、「古酒」の香りや色合いは「Whisky」(B)のそれである。水割りを作るが如く、「Whisky」を「死」で割っている。
白秋詩と「日本語」 「不徳」は冒頭からの「破題」(第一章「魔睡」)のとおりである。曰く、「余は内部の世界を熟視(みつ)めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。(以下略)」と。「死の節奏」とは「死の調べ」のことである。いうまでもなく「邪宗門」(基督教)も同じ調べ(「秘曲」)の一つである。明治の文学者が対峙した基督教との内的対峙ではない。白秋は信者でもない。信仰心なき邪宗門徒である。白秋(もう一人の白秋)にしてみれば、すべて承知の上のことである。分かっていて行なっていることである。まさしく『邪宗門』の「例言」のとおりである。「一、余が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て余が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と、刺激苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強いて詩を作為するが如きを嫌忌する。(以下略)」と。
 それはそれで構わない。むしろその趣意には与したい。しかも『邪宗門』は「趣意」=「詩論」を超えてはるかに高く「作為」を形にしている。彼が天才であることは、しかも稀に見る「日本語」の天才であることは、衆目の一致するところである。『邪宗門』に限らず白秋を読み返すたびに、本稿の立場を越えてその思いを強めるばかりである。しかし、「詩論」は達成されたが、深まらなかった。白秋の「象徴詩」は、「南蛮趣味」に一気に開花し、しすぎたために次の華を咲かせるには最初から限界のある「詩論」だった。異なるカテゴリーに趣を求めるしかなかった。使い果たしてしまったからである。意味は増殖するが趣は枯渇するのである。
しかし、そのことでかつてないほど意味の縄目を解かれた「日本語」が、韻律に新生を懐妊さすることはなかった。民族言語の極域にも達していたのである。そのなかにはその先に開拓されることになる童謡も含まれる。彼の到達点が童謡であることを考えれば、そこには「日本語」の純粋が見出されたはずである。彼の自負は、童謡に真理を見出したことで永遠のものになったに違いない。異国の神に礼拝することはなくても、「日本語」の神(言霊)には礼拝するのである。
  おお、この日本の言葉について感謝しよう。私たちのこの日本の言葉、言霊の幸ふ国の言葉、まさに掌を合わせて礼拝すべきこの言葉。
この比類なき日本の言葉を貧弱だといふ人、その人は恐らく最も貧弱なる理解と、又最も貧弱なる用途しか為し能はぬ技巧凡下の当人ではないか。
                                 詩論集『芸術の円光』(昭和2年(1927))より
 「技巧凡下の当人」とは誰に向かって発せられた文句であるのか。当時の詩の情況は必ずしも白秋の「詩論」に沿うものではなくなっていた。誰か個人を諌めるためではなく、詩界全体に対する警句だった。同じ「円光の芸術」のなかで、「(略)思想のまま素材のまま埒もなく投げ出したものに現今の詩の殆どがある。詩として気品も香気も韻律も乏しき是等の散文系の自由詩なるものは詩ではなく詩となる前の何物かである」と声高に難ずるからである。
しかし、どれほどの人々がこの声に耳を傾けたのであろう。否定的にならざるをえない。白秋の「不足」が、当時の新たな詩の課題になって久しいからである。したがって白秋の自己責任でもある。『邪宗門』の先を切り開くことができなかったからである。しかもそれ以前にすでに詩的必要性を感じていなかったからである。象徴詩をその雰囲気として利用し、後は用済みとするかぎり、日本象徴詩(高踏的象徴詩)の「職人」にして「学匠詩人」である日夏耿之介の手厳しい批判に晒されなければならなくなる。
白秋詩の透谷詩から如何に遠かったか、しかもその遠隔さが、白秋に続く大正から昭和前半の詩人の道を、自らの「不足」のなかに見出させたかを、以下に掲げる日夏評に再確認し、透谷詩へ舵を切り直すことにする。着岸地点はもうはっきり見えている。
白秋詩の強味は、南国人のあくどい官能の弾力である。つぎには、鋭くはないが甘くゆるやかに顫動する感情と神経とである。かれは文明の近代性を情緒から享受とする。かれに近代理知の成長はない。時代の雰囲気を官能によつて味ははんとする。かれに輓近概念の収得はない。この明治が生んだ近代詩人は、時代の少数の鋭感者のみが憧れたものを、いち早くその独特の飽くどい感覚から想像して、五彩燦やかな頽廃の色調たゞよふ「ありふべからざる世界」を官能で幻視して、詩歌の世界の上に築きあげてわれらに示してくれる。この風景は、凡て白秋の太つた南国人らしく日に焼けたその五官の壁を通してのみ覗きうる幻想界である。(中略)ともあれ、白秋詩の中から悉く誇張と架空とを取り去つてしまえば、満身の油のぬけ去つた大鰻魚のやうな腐屍が横たわるだけである。
(間6頁略)
白秋の詩は、愛されるべきものであるが、尊敬されるものでない。華美で濃麗で眩惑的だあるが、かれのせい一ばいの天凜が出限つたもので、相当よい詩に相違はないが、事実あれだけのものにしかすぎない。もつと何かあらう。白秋詩の世界以外の落付いた思考の青ざめた結果が、なよびやかにじつくりと、緻密に出た詩がありさうものだ、思策の詩はないか、想念の詩はないのか、白秋はうち見にはよいが、長く読んでゆくと、飽き飽きしてしまふ、年をとるといやになる、青年にも老年にも、飽くことを知らぬ、尊敬すべき、深刻な思想詩は出ないものか、と時代は強い要求を露わに示してゐた。
                     日夏耿之介『改訂増補 明治大正詩史』巻ノ中(263271頁)
 
 Ⅳ 「長歌」の詩論
 1 透谷の態度表明
透谷の詩的葛藤 透谷詩が顧られなかったのは、透谷自身が「自序」のなかで「元より是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似てい居るのです。左れども、是でも詩です、余は此様にして余の詩を作り初めませう」(『楚州之詩』「自序」部分)と詩体への自問自答を公言しているからである。その向こうには予想される非難への予防線がある。もちろん多くの否定に晒されたとしても凡てを受け容れられる覚悟はあった(現実には自らが禁を犯してしまうにしても)。さらに二年後の『蓬莱曲』になると、詩想はさらに強化されて、信じるままに我が道を突き進む態度を露わにすることになる。しかし確信犯は敵対ではなく否認に晒される。なるほど詩ではないと決められ、さらに後代の人からは劇詩は詩(「日本詩」)であるのかと怪しまれることになる。
その「序」が語るところの核心部分を引くと、「余は直ちに之(友人にあえて「新奇」を衒うのかと訝しがられたこと・引用注)を遮って曰く、わが蓬莱曲は戯曲の躰を為すと雖も敢えて舞台に曲げられんとの野思あるにあらず、余が乱雑なる詩躰は詩と謂え詩と謂はざれ余が深く関する処にあらず、韻文の戦争は江湖に文壇の良将あり、唯だ余が此篇を作す所以の者は、余が胸中に蟠踞せる感慨の幾分を寒灯の下に、彼の蚕娘の営々として繊糸を其口より延べ出る如く余が筆端に露洩せすむるに過ぎざるにみ」と。
 時に(明治20年初年)『新体詩抄』が江湖に頒かたれて5年余が過ぎたとはいえ、いまだに論争に発展するような「詩論」があったわけではない。「自序」も従来の詩歌(漢詩・和歌)の殻を破ってあらたな「詩躰」を手にしたいと言及するにとどまる。具体的な詩形が見えていたわけではない。しかしそれが幸いした。混沌とした未明裡が、偶然の成せる業とはいえ、時代状況も重なって彼の個体(精神的資質)を一個の照明弾と化した。「日本語」が、一端、途絶えたのである。
この言い廻しでは、彼の漢文調から見てまるで見当違いに解られかねないが、謂うところの意味は、ながく日本の国の表記法であった漢文と和文が体現してきた言語(学)的気分(こんな用語はもとよりないが)に「赤の他人」を感じたということである。しかもこの先も心を通わせる気にもなれなかったとうことである。このような俗っぽい言い方だと、とても夜天を照らす強烈な閃光となれないどころか、路地の暗闇を揺るがす蝋燭の薄灯りにしかならない。あえて俗言を用いたのは、それが(「反気分」が)その後、彼を忘れる浪漫的なもの、象徴的なものを予見していたからではない。彼の人付き合いは不真面目ではない。その両者(浪漫・象徴的感性と理性)の資質を合わせもったかのような、凡そ俗世間に超絶的な透谷氏自身が、身辺ではなく自分に言向けた文句(詩的葛藤)であったのを、あえて町人風に言づけたかったからである。
透谷の中の「小説」像 彼は確かに俗っぽくなかった。江戸文学を論じても理知の成せる技のなかであって、江戸趣味を感性に迎え入れる気質ではなかった。しかし、彼は小説に未来を見ていた。なにかが成される予感に敏感だった。「自序」に一段上にあるものとして小説を引いたのはそのためである。なら小説に拠ればよかった。なるほど習作はある。しかし、それを超えるものにならなかったのは、才能というよりは、小説にも結局は心を寄せることができなかったからである。
まだ小説は、彼の「気分」を容れられる文体を発見していなかったのである。気分からはじまり気分を存在形態に昇華する「俗言」をものするのは、異国語より縁遠い世界だった。それでも小説が上にあったのは、その「躰」が、当時の「日本語」にとって意味があるからだった。拠れないにしても「意味論」に内部転化して、彼を「詩論」に仕向けていたからだった。その詩論が結果として理論を経ないで彼に「詩躰」を見出させた。しかも彼で焉わるような、続くものがないような(実はそれは彼自身においてでもあったが)「躰」としてである。
まさしく「序」がその忸怩たる思いを表明するところである。「余が乱雑なる詩躰は詩と謂え詩と謂はざれ余が深く関する処にあらず、(略)唯だ余が此篇を作す所以の者は、余が胸中に蟠踞せる感慨の幾分を寒灯の下に、(略)露洩せすむるに過ぎざるにみ」と。
そして、透谷が挑んだ「胸中に蟠踞せる感慨」の「露洩」に馳せる「詩稿」こそは、繰り返すが、時代と個人の邂逅がなせる偶然の所産であって、「詩(うた)」に関する限り、日本のなかに訪れた歴史的次元に類するものだった。場合によっては『万葉集』創成時のとりわけ柿下人麻呂に比べられるほどの――。
 2 柿本人麻呂の「長歌」~非個人の詩境~
 日本語表記と古代 昨今の日本語表記の成立過程にかんする研究現場の成果を仄聞した立場によれば、文芸(とくに「叙事文芸史」)の成立過程にかんする研究成果の知見は、透谷詩の意味を再確認させる上でも刺激的なものだった。文字と人の緊張関係が手に取るように理解されたからである。
いうまでもなく日本(倭)には文字はなかった。漢字が将来した23世紀以降とくにヤマト王権が外交関係や国内統治の必要性から文字(漢字)を導入しても、書き手(書記)の多くは渡来人であって、いまだ倭人ではなかった。また文字が使われた範囲も、出土遺物(金錯銘鉄剣・銀錯銘鉄刀など)や遺存資料(鏡背銘・仏像光背銘など)を見る限り、いまだ文芸以前である。仏教伝来も基本的には同じである。写教の必要は書き手の範囲を広げたが、6世紀から7世紀中頃段階の信仰範囲に現れる個人の精神生活はいまだ痕跡を留めていないし、氏(うぢ)族単位であっても形式的である。
日本語表記もまた訓読も、漢和間の「翻訳者」を介しない限りは困難であった。和(倭)訓を文字化する即ち漢文化するのも、今日の和英・和仏・和独等の作文と事情は変わらない。文字(漢字)は人(倭人)の外にあった。無文字社会一般のように(日本で言えばアイヌのように)精神生活は、口頭ないし身体動作で行なわれ、記憶(文芸を含む)は口頭伝承に拠った。伝統的な精神文化にかかわる宮廷生活も多くはこの方法に拠っていたはずである。したがって文字が個人にかかわること、さらに精神生活に関わることは、文字の歴史の上からも画期的なことであった。
今日の文字が社会化した時代では喚起しにくい文字(呪物)との緊張関係も人や社会を支配していた。7世紀後半は、いまだ限定的とは言え、そういう意味でも、つまり緊張関係が個人に下がって来た意味でも、個人と文字が個別の関係を取り結ぶ画期であり創成期であった。万葉仮名の発明が齎した日本人の精神活動の転換期でもあった。先行していた開始されていた漢字の和順(訓序)表記(変体漢文)が、万葉仮名を取り込むと、さらに抒情面でも長文の表記化への途も開かれるようになった。心の表象化が文字に実現された時、それは文芸のはじまりでもあった。しかし、念頭に置いておかなければならのは、文字が個人と関係を持ったと言え、それは「伎人(わざひと)」が創る関係性の中においてであり、むしろそこには(表記には)個人はなかったことである。葬歌から挽歌への展開過程がその事情を説いてくれる。
 
葬・挽歌と文芸史 葬・挽歌とも死者儀礼に伴い誦唱されるものである。具体的には『古事記』におけるヤマトタケルの葬歌(四首)、『万葉集』初期の天智天皇挽歌(「「女挽歌」」(九首)などにかかる歌謡論である。早くは江戸時代(本居宣長『古事記伝』)から行なわれ、戦後には西郷信綱の『詩の発生』を生んでいるが、その後も旺盛な研究が展開されている。ここではそうした過去の研究を見通し、南洋歌謡(沖縄のノロ歌など)の分析をあらたに取りこんで体系的な歌の発生(成立)論に仕立てた近年の成果に学んだ点を以下の人麻呂長歌論の備えとして紹介したい(居駒永幸「歌謡・和歌における境界の場所」(同著『古代の歌と叙事文芸史』第2章、笠間書院、2003年)。「詩人」(宮廷歌人)でありながら個人でないことの意味、非個人的立場で行なわれる作歌の文学性と文学的動機の現在性は、そのまま透谷詩の詩的意味を照射するものと理解されたからである。
しかし。主題と乖離しかねないので手短に済ませるためにも、以下、知見(関係部分)を箇条書きで示すこととしたい。
①葬歌が身体動作と実証性を伴っているに対して初期挽歌からは身体的動作が欠落。欠落はことばだけ成り立つ抒情詩へと展開し、柿本人麻呂に代表される初期挽歌群を誕生させるが、その作歌は、葬歌の実証的表示性を継受。たとえば場所(境界)表示部分。万葉後記挽歌ではこの実証性の継受に加えて観念的要素が卓越した作歌で編成されるようになること。
②しかし後期挽歌段階では観念的要素を元にした哀傷歌が一般化する一方で、表現の形式化を生み挽歌の衰退を招来することとなること。
③ヤマトタケル葬歌(身体的動作(「匍匐(はふ)」などを伴う民謡的呪歌)と南島歌謡(ノロ歌ほか)の関連が注目されるが、「本土」に未見(非存)であること。その背景として仏教の浸透が予想されること。
 ④葬歌と挽歌の断層とは抒情詩として言葉だけで自立する挽歌に対し、葬歌の場合は身体動作(身体表現)と一体的な呪歌で成り立っている点に求められること。
 人麻呂の挽歌 以上は、言葉だけで成り立つ文学世界に慣れ親しんでいる現代人に、根源的な覚醒を迫る知見の数々であるあるが、その覚醒は、挽歌の歌人ともいうべき柿本人麻呂にも及ぶ。そして人麻呂とは①~④として実現される作歌を、非個人(宮廷歌(詞)人)として引き受けなければならかった「詩人」であるが、作歌(作詩)とは元来非個人のなかに発生したものであって、それがそのまま「詩の発生」の実態であったわけである。
このような断定的な言い方は、文芸成立史を学んだ後でも容易に口にすべきことではないが、本稿の場合、その当否を恐れないから面が強い。近代詩(及び現代詩)に対してもっとも対極を措定することによって、透谷詩へ向けた逆説の側に立てるからである。人麻呂こそは逆説そのものであって、その逆説を証明するのが彼の歌(とくに長歌)であるからである。
非個人(の立場)であることが創る詩は、個人以上に言葉の高みに届いている。怪しむべきことでもある。彼を可能にした仕組みに関心をもつ時、①一つは、「近代的個人」の場合、人麻呂よりはるかに1200年先(明治時代基準)に生れた「人」であると言え、そして創作現場に人格的制約(仕奉関係)が介在しない自由を獲得していると言え、それが「作品」を優位に立たせるとは限らないこと、②一つは、「言葉」が言葉として生きた時代によっては、時に個人・非個人の別を越えて「人」を超時間的な同じ高みに押し上げること、の2点が当面課題である。
ここに掲げる人麻呂の創った(創らされた)挽歌の詩的緊張感は、①が決して大袈裟なものではないこと、言い過ぎでないことさし示してくれるはずである。人麻呂長歌中最大(かつ万葉集最大)の作品であるため些か引用が長くなるが、その流れを途中で切り難く、また人麻呂の代表作の一つでもあることもあり全体を載せる(岩波古典文学大系4『万葉集一』)。
 
高市皇子尊(たけちみのみこのここと)城上(きのへ)殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首 幷に短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし わが大君の 聞こしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天の下 治め給ひ ()す国を 定めたまふと (とり)が鳴く 吾妻の国の 御軍士(みいくさ)を 召し給ひて ちはやぶる 人を(やは)せと 服従(まつろ)はぬ 国を治めと 皇子(みこ)ながら ()け給へば 大御身(おほみみ)に 太刀(たち)取り()ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ (ととの)ふる 鼓の音は (いかづち)の (おと)と聞くまで 吹き()せる 小角(くだ)の音も (あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡の(なびき)は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに ()きてある火の 風の(むた) 靡くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)(さわき) み雪降る 冬の林に 飄風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの(かしこ)く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来たれ 服従(まつろ)はず 立ち向ひしも 露霜の ()なば消ぬべく 行く鳥の あらそふ(はし)に 渡会(わたらひ)の (いつき)の宮ゆ 神風に い吹き惑わし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆い給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わが大王(おほきみ)の 天の下 申し給へば 万代に (しか)しもあらむと 木綿花(ゆうはな)の 栄ゆる時に わが大王 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしい 御門の人も 白妙の 麻衣着(あさごろもき) 埴安(はにやす)の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿(しし)じもの い這いひ伏しつつ ぬばたまの (ゆふべ)になれば 大殿を ふり()け見つつ 鶉なす い這ひもとほり (さもら)へど 待ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに (おもい)ひも いまだ尽きねば (こと)さへく 百済の原ゆ 神葬(かみはぶ)り 葬りいまして 朝裳よし 城上の宮を 常宮と     高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わが大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて思はむ (かしこ)かれども
 
短歌二首
久方の天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも
埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人はまとふ
                                                (巻二・一九九-二〇一)
 言葉に密度があり、繋がりがあり、そうした言葉の連携性が重層や波動を胚胎して内声を自ずから発生させている。布置された地名が景叙として活かされ、さらに心意に高められる。観念性に遠ざかる措辞ではなく、より厳かな秩序の発声で占められて、言葉の原初はかくありなんの始原性が横溢している。物の名も人の動作もそれを知らす大君と取り結ぶ時空間は、仮想でもなんでもなく、現し世に折り重なり生命に重なる。しかも誦詠される。場は葬送儀礼である。現代詩の朗読は、一次的には黙読を環境としている。人麻呂の挽歌は、殯の宮(仮死空間)に響く調べの高さあるいはしめやかさを推し量って作歌される。しかも仮死者が最初に聴きとる声として再生的に斉えられなければならない。死者と化した時の声も用意されなければならない。もちろんそのためには鎮魂の声を忍ばせなければならない
作歌の動機も伎に命じられたものに開始する。「泣き女(め)」(「俳優」)のように代役的な立場であっても当事者を生きられるのが前提である。伎のなかに求められているものである。人麻呂は人である以上に伎であった。長歌は、感情移入を他人であり本人である両属関係で行う上に優れた詩形であった。単純に比較できないが、短絡的に譬えればその立場は小説家的である。他者に転移するからである。前提事項だからである。このように最初からそれが発語構造でそれ以外に在り様がなかったなかで創りあげた言語空間であるとしたなら、まさにそれが「非個人」の外形でもあり同時に内在でもあった。その存在形態のなかに長詩が生れた。近代詩の概念では捉えられない詩的世界である。抒情詩でも叙事詩でもないその両者に分たれる以前のあるいはその時代が時代として作った個別の姿態である。しかしけして散文(『日本書紀』)ではない。言葉に求められていたものは、仮死者や殯を経て埋葬された死者に直接届く呼びかけの力だった。呪力だった。韻文でなければならなかった。
 言葉が、意味で重みを付けたり、語感で心を震わしたりする言語世界に生きる我々には、当時の言葉と人の関係は体験的には実感できない。遺された作品の水準だけが頼りである。考古学に「型式」という概念がある。時間と共に変化する物(製作物)の形には変化の普遍性があるからである。面白いことに型式は退化の方向に向かう。出現時の水準が最も高い。まるで人麻呂の長歌はこの型式論でいう出現時の姿を踏襲するかのようである。しかも物が型式を開始するのは通常の社会関係のなかではなく激動期のなかにおいてである。社会の画期(大画期)に相即的であるのが「型式」だった。実に人麻呂の歌(長歌)がそうであった。7世紀後半を生きたことが決定的要因であった。

人麻呂の「言葉」 それは壬申の乱である。「乱」という言葉に惑わされてしまうが、歴史の重みとしては、国内的には関ヶ原の戦い、近くは戊辰戦争に匹敵する。戦乱の規模ではなくその後の歴史を動かしたという意味である。乱の当時、人麻呂は10歳程度だったという。天武天皇が勝利する。しれが強大な律令制国家の推進力になった。「日本」という国号も「天皇」をいう言葉が生れたのもこの時代(7世紀後半)である。国史編纂も開始された。「日本語」の画期についてはすでに記した。その時代にはじまることは少なくない。天武天皇は別格だった。明治天皇のようだった。その神格化(「現御神」)はそれ以上だった。
その殯期間は最長規模で22箇月の長きに及んだ。新しい儀礼も採り入れられた。本来神祇に属する葬送儀礼にはじめて仏僧も参加した。とくに崩御月(6869月)に認められる度重なる僧尼の発哭や発哀である。伝統的な誄(しのびごと)も頻繁に行われた。万葉集巻二の「挽歌」には大后(後の持統天皇)の御作歌(長歌)が載せられている。殯の宮で誦詠されたのかもしれない。そうだとすれば誄に派生する御作歌の誦詠も新儀礼(中国的儀礼)である。宮廷歌人の必要性を高め、歌の内容を質的に高める動機でもある。
これが幼少年代に人麻呂が吸いこんでいた社会の空気であった。まさに変革期のそれである。後に「言葉」を身分とする人格に摂りこまれる将来が、すでにその時(少年時)決められていたのかは知らないが、史上最大の長歌歌人(詩人)がこの世に誕生することはすでに時代が決めていた。天武天皇の政治を引き継いだ妃の持統天皇の藤原宮期のことだった。
その「身分」には、常に「現御神」への讃仰を一身として体現しなければならない使命を帯びていた。生存の条件であった。そして、条件を保障するのが「言葉」だった。ともかく当時の言葉には人知を超えた呪力が宿っていたからである(詳述略)。それがとくに「挽歌」に向かう時はまさに呪力そのものだった。仮死にも亙ることができ、死を鎮めることのできるものだった。視覚化された呪力だった。それが「言葉」だった。
 
最大の挽歌 上掲挽歌は大きく二部形式からなりそれに終結部(「結束部」)が合わさる形になっている。「現御神」への讃仰を頭はじまる第一部は、それを「枕詞」にして天武の命を受けて「食す国を 定めたまふと」立ち上り、東の国の御戦士(具体的には美濃(野)国を中心とした勢力(戦士))を召すに至って進軍に至る様を叙事し、戦い振りを活写する中間部(「斉ふる 鼓の音は」から「定めてし 瑞穂の国」)に至る。歌中の圧巻部分である。その筆致は、高まりを保ったまま息継ぎも儘ならぬままに直走り、結末にむけて一気に流れ下る。その「叙事」の活写振りに平和主義者を持ち込んでもはじまらない。反戦を説いてもはじまらない。死に対面する時がそうであるように、血を血で洗う生(せい)の対極に立ち向かう時、人は生理的に激した発声状態に衝き上げられる。致し方ないことである。しかも往々にしてナルシックになる。ときには猛けりかねず、そのときこそ反戦主義者に厭われかねないことになる。それがそうならない。人麻呂の措辞は、人を「生理」のなかに晒さない。もとより生理(妻への挽歌にしても)などない。最初から異なっている。声を出す源がである。
第一部のフォルテッモの余韻のなかで第二部がはじまっていく。高市皇子は天武の下で壬申の乱を戦い抜いた。最大の功績者の一人である。その定まった国のなかでまだこれから末永く政を執るべき時に薨かられた。その悲しみを低声で静々と詠い、その響きを空しさに行き渡せる。人々の哀悼の想いを誘いこむ。人だけではない。生き物も加わる。「猪鹿じもの い這いひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い這ひもとほり 侍へど 待ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば」の如くである。
ここには、二声があり三声があり、かくして多声部が皇子の死(仮死)を取り囲む。しかし嘆きも収まらぬのにその時は来てしまった。葬の時である。「百済の原ゆ 神葬り」たのである。今はその魂の神ながら鎮まったのを「常世」に仰ぎみるのである。永く万代にわたるべき皇子が現世の宮を傍らにして。
そして哀傷の「短歌」二首が添えられる。長歌を承けた短歌は、すでに哀傷を心の片隅に留め置きはしない。長歌を辿り終えて、これはシンフォニーのごとき響きだと思ってしまう。二首はまるでマーラーの長大な交響曲で歌われる歌手の歌声のようにさえ聴こえてくる。マーラーもまた鎮魂の作曲家であった。時代も地域もなにもかもが違う。違ってもすでに普遍化された響きは時間も地域(民族)を超える。そういうことだろう。
 
 
Ⅴ 結語~叙事詩の誕生~
 叙事詩の響き ようやくにして透谷詩に辿り着いた。さらに書かなければならないこともあるがもう十分だ。透谷詩は、その詩句がどうであろうとも、詩形(長さを含めて)がどうであろうと、その内容が疑われようと、ともかく声に響きがある。それは詩としてか発せられない響きである。現代からみても力のある響きである。むしろ現代にない響であることが、新たな再生力の条件にさえなっている。透谷が当初(「楚州之詩」)は迷い、一度は否定し(「楚州之詩」の廃棄)、再思(「蓬莱曲」)に及んでも未明のままに推し進められた言葉との対峙が、いまだその時代の言語環境もあって漢文調に拠りながらも、本人の見込みを越えてはからずも時代の言語空間を超え、未定の域を切り開く力となった。劇詩が一線を越えた瞬間である。叙事詩の誕生である。
 いずれにしてもこの響きを人麻呂挽歌の声域で聴こうとすれば、抒情詩のなかには聴けないものである。長さ(分量)は二次的なものであれ、叙事詩はその詩形の必然として定量的な詩句を必要とする。先に見た泣菫の場合も事情は同じである。構造に由来するものである。しかし詩行を繋ぐのは抒情でしかなかった。「物語(筋書き)」は抒情の料でしかなかった。長編叙情詩にしかならなかった。したがって容易に放棄された。劇詩も同じである。物語性がより自覚的になっただけであった。その自覚が叙情に否定的であるわけではない。
この時、一人、透谷詩だけが自己の内圧を覆うもの、あるいは立ち塞がる圧力壁のようなもの(断崖幾千仭の壁)が、抒情でないことに覚醒的なった。たとえ感情に由来するものであっても、北原白秋に収斂するような抒情ではなかった。むしろ白秋を言葉の一極とすれば、対極に立った心的作用に由来するものだった。その声であり、声と一つになった響きだった。
源は、おそらく「批評」だった。しかも核心に韻律を聴くことのできる批評だった。批評が韻文を創った最初の言語力だった。すなわち叙事詩だった。彼が時代を越えた最初の批評家でありえた所以でもあった。批評が創る「響き」によって批評家足りえたのである。
 
透谷と時代 いずれにしても、人麻呂がそうだったように透谷の場合も時代がその存在に先行していた。個人の資質や才能(天凜)は常に後付けながら、やがて先回りできるのもまた才能である。時代の激変期においては、その前後関係は時に劇的である。透谷にとって激変であったものは、「近代」だった。国家であり社会であった。自由民権運動だった。過激な政治闘争(大阪事件)からの退却が彼に齎した挫折感だった。時代の男女関係が惹起した新たな苦悩でもあった。哲学(的思考)で武装させるほどの、その先に待ち構えているのは敗北しかあり得ない感情との対決だった。挫折や対決に彼を導く「日本語」でもあった。以上に加えて彼の気質(精神疾患的気質)との確執もあった。
かくして彼が最後に選んだ存在形態である言語生活(作詩・創作・批評)を生存条件とした時、非個人を条件としていた人麻呂に対して、限りなく個人であり続けなければならなかった。他者の完結が前提であった人麻呂長歌(挽歌)に対して、自己完結を所与の条件とした詩(劇詩=叙事詩)だった。近代であればすべての人の条件であるが、透谷詩が続かなかったのは(戦後詩は別枠)、必ずしも条件ではなったことを意味している。
蛇足ながら、日本の場合、叙事詩は、その人の生存条件の程度を見極めるバロメーターでさえある。同じ明治時代であれば、石川啄木は叙事詩を理解した人だった。北海道漂泊以後だった(本ブログ5月[い]3)。しかし命が足りなかった。代わりにその人生が叙事詩だった。日夏耿之介が斯く称えるからである――「啄木の一生は彼の詩以上に詩であった。明治文化が個人の魂に影響した径路を僅か二十七年の短時間のうちに日本映画の如き速力と起伏とその程度の価値とを示すものは啄木の生涯詩(・・・)である」と。因みに透谷については、「空想に焼かれて、そして実想に悶死したのは彼である」と言っている。当然ながら透谷詩(二つの劇詩)を容れようとしない日夏耿之介(引かなかったが)も、その生涯(生き方)については捉えるべきところを捉えている。しかし啄木観と違って外形的である。悶死ではなく自死である。その死は、「あさらばよ!」(素雄)だったからである。抒情の死ではなく叙事の死であった。
 
 
 おわりに
 
 実はこの草稿は、戦後詩に一大叙事詩をなしたある詩人を念頭に置いて始めたものである。アジア・太平洋戦争に挫折し、戦後間もなく北海道の未開の原野に自らを追い遣った一人の詩人がいた。流謫だった。詩人(故人)の生涯とその詩営が辿り着いた壮大な叙事詩から伸びる影が、透谷の影に重なったのである。二人の影から浮かび上がる「生」をその詩にあらためて読み深めてみたい。思いを先行させたのが本稿である。
 なお、北村透谷には研究会(「北村透谷研究会」)があり、同会編による文献紹介を見ても膨大な研究が現在進行で行なわれていることが分かる。日本文学研究大成(国書刊行会)の一冊として刊行された透谷にかかる研究書(1998年)に載る文献紹介は実に体系的な研究史であるが、最初にこれを目にしていたなら研究史の厚味に筆を執る気も削がれる。ほとんど言い訳であるが、同研究史を参照して透谷研究の大きな流れ(画期)を知ることができたことは安心に繋がった(逆に多くの見落としを生んだ)。ひとまず自己確認として本稿を記す意義を見出すことができたからである。
参照した文献が若干量ある。書きなぐりの草稿に近い本稿には、もともと参考文献を掲げる要もないが、同文献はそれぞれ画期に位置付けられる一冊であるという。その見解を具体的に引くことはなかったことが、透谷をより深く知ることができたので、本文中に掲げた文献の再掲及び透谷以外の参考文献(一部)と合わせて以下に掲げる。
◆参考文献(テキストを含む、ただし北村透谷のみ)
勝本清一郎編『透谷全集』第1~第3巻、岩波書店、195055
『北村透谷詩集』現代詩文庫第Ⅱ期1001、思潮社、1975
桶谷秀昭『近代の奈落』国文社、1968
  同  『北村透谷』ちくま学芸文庫、1994年(初出1981年の文庫化)
小田切秀雄『北村透谷論』八木書店、1970
北村透『〈幻境〉への旅 北村透谷■試論Ⅰ』冬樹社、1974
同 『内部生命の砦 北村透谷■試論Ⅱ』冬樹社、1976
同 『〈蝶〉の行方 北村透谷■試論Ⅲ』冬樹社、1977
吉増剛造『透谷ノート』小澤書店、1987年(『螺旋形を想像せよ』同社、1981年から独立刊行)
中西 進『柿本人麻呂』講談社学術文庫1006、講談社、1991年(初出1970年の文庫化)
三木 卓『北原白秋』筑摩書房、2005
日夏耿之介『明治大正詩』上ノ巻・中ノ巻・下ノ巻、改造社、昭和3年、改訂増補版昭和23
北原白秋『白秋全集』21詩文評論1、岩波書店 1986