2012年5月24日木曜日

[あ]2 『愛』―左手のピアニスト


[] 2 先夜(2012.5.22)の「クローズアップ現代」(NHK総合、19301956)。番組で取上げたのは「左手のピアニスト」舘野泉。タイトルは「音楽に身をゆだねて」。放映は、今年の5月(518日)から2年に亘る「左手の音楽祭」(「左手のピアニスト」としての集大成的なツアー)の開催に合わせて。

65歳の時、コンサートの舞台(在住地フィンランド)の上で最後の一曲を弾き終え、会場に向けてお辞儀をしている最中に脳出血で倒れた世界的ピアニスト。手術は不可能で残された回復の道は自力回復(リハビリ)しかない。「もう昔のようにピアノを弾くことは諦めるしかない」。苦悶の日々。そのピアニストが、絶望の淵から這い上がって「左手のピアニスト」になって8年。今や冒頭の「フェスティヴァル~左手の音楽祭 2012-2013」(全7回)を開催するまでになっている。「左手の音楽祭」だけではない。「坂の上のコンサート~舘野 泉と仲間たち」(全4回)も同時開催される。すでに往年のコンサート歴に匹敵するほどである。

現在75歳。右手の自由を失ってはじめて知った真の音楽。新たな音楽家としての再びの人生。その軌跡(奇跡)を辿った30分。最後はスタジオで国谷裕子キャスターによる本人インタビュー。圧巻の場面。

「恥ずかしいわ。自分が」(子秋)
「舘野泉のことね。わたしも観たわ。じゃもう一度訊くわよ。あなたなら『あ』で始まるものなに?」(顕子)
「『愛』……」
「そうよね、『愛』よね」

 
 倒れて1年半、何もできなかった(する気が起きなかった)と舘野泉は国谷キャスターの質問に答えた。左手のための曲があることは知っていた。両手で弾いていた頃も自分のプログラムで使ったこともあった。でもつまらないと思っていた。左手だけの曲は。本当の音楽ではなかった、そう思っていた。1年半とは本当の音楽から永遠に断ち切られることを受け容れなければならない時間(絶望的な時間)でもあった。

でも1年半後、アメリカに留学していた息子(長男)が一つの作品の楽譜を携えて(フィンランドの自宅に)帰ってきた。「こういう曲もあるんだよ」。左手のための曲だった。息子の思いの籠った楽譜だった。気がついた。その曲の真価に。「本の23秒だった」。気がついた時には自分のなかに「音楽」が戻っていた。「左手のピアニスト」が誕生した瞬間だった。

舘野泉のブログ(『風のしるし』www.izumi-tateno.comの「プロフィール」)にその間の経緯が記されている。
 
 「200219日、その年の初のステージをフィンランドのタンペレ市でもったが、最後の曲を弾き終え、お辞儀をしたところでステージ上に崩れ落ちた。脳溢血だった。右半身不随となり、リハビリに努めたが、一度破壊された神経組織はなかなか元には戻ってくれない。音楽に見放されたと思う日々は辛かった。友人たちは、「ラヴェルの左手のための協奏曲を弾けばよい」と慰めてくれたが、却って「おまえのピアニストとしての寿命も終わりだな」と宣告されたようで情けなかった。左手のピアノ曲なんて糞食らえだと思った。
 
 そんな私に生きかえる力を与えたのは、4年間シカゴに留学していた長男が、帰省する時に持ってきてくれたひとつの楽譜、ブリッジ作曲の「3つのインプロヴィゼーション」だ。

第一次世界大戦で右手を失った親友のピアニストのために書かれた左手の作品である。弾いてみると蒼い大海原が現れた。水面がうねり、漂い、爆ぜて飛沫をあげているようだった。自分が閉じ込められていた厚い氷が溶けて流れ去るのが分かった。音楽をするのに左手だけあればなにひとつ不足はしない。充分にして十全な表現が出来る。そのことをしっかりと納得した。」

                                       ――「新たな旅へ」の第2回リサイタル・シリーズを迎えて(一部)
                                                 (2006年 「新たな旅へ」第2回リサイタルでのプログラムより)

  この話を思い起こすように語った舘野泉は、国谷キャスターの前で声を詰まらせた。話の途中だった。涙こそ堪えていたが、却ってそれが舘野泉の魂の震えであったことを物語っていた。しかもこの震えが観る者の胸をも詰まらせるのは、当時の絶望の深さや長男の愛情が麗しく偲ばれるからだけではなく、「左手のピアニスト」という在り方が、単なる不自由な身体の克服の証としではなく、音楽の再発見のそれであった、すなわち芸術家としての存在証明であったからである。

両手でなければ音楽ではない、単音だけの(ポリフォニーから切り離されてしまった)左手には音楽の深身がない、左手だけでは意味がない、舘野泉はそう思って自ら絶望を深めてしまう。だから左手の発見は、それが右手と違って使える手であっただけに劇的な出来事だった。啓示だった。たとえばよく言われることに何かを失ってはじめて何かを知るという格言めいた話され方がある。舘野泉の体験も表向きこの格言のなかにある。でも「左手のピアニスト」が体現していたのは「格言」ではなかった。何かを失ったのではないからである。右手は失われていなかったのである。あえて失われていたというなら、それはむしろ左手だった。その発見が心を打つのであった※※
 ※つまり右手によって左手ははじめて動かされた。しかも右手は左手を発見してそれで役目を終えない。右手の不自由は左手の前提であり、あり続けるからである。右手は左手によってしか知りえない音楽の真実を聴き分け続けるための条件だった。片側のための条件でもあり、同時に両側の条件でもあった。
 ※※それとも人によっては哀しい「条件」と言うだろうか。舘野泉の左手が創りだした音を聴いた人はそうは思わない。左手の音楽に自らも音楽を発見したからである。しかも左手はポリフォニックな音を創り上げるまでに進化する。「左手だけで弾くという制約から、舘野さんは左手の親指と人差し指でメロディ、残りの指で和音を弾き分けるなど常識を覆す奏法で、独特のうねりを生む」(「クローズアップ現代」HPより)までになっていたからである。

「まさに片側の『愛』……」(子秋)
「痛々しいほどにね」(顕子)
「だから『愛』」
「『愛』で埋められている。音楽という愛にね。左手が。左手だけであることが」
「決められてしまった変えられないこと、つまり左手であることは。そして左手だけであることのなかでのはじまり。決められていること、次を決められていることのなかでのはじまり。でも『愛』に包まれたはじまり。知らずにいた片側の『愛』……」
 二人はそれぞれの「片側」について思いを巡らせた。心地良かった。辿ってきたこれまでの生活に意味を感じられた。最初から語りあえる同士であったこともある。
 そして都会の中の公園。人々の空間であり自分の空間でもあること。他人でもあり自分でもあること。名乗らないだけで心を明け放っていること。明け放たれること。
 二人の出会いのきっかけ。それは公園の条件を語り合ったことだった。
 ――隔絶しているようでいないこと。
 ――中にいて外、外にいて中。
 ――もちろん名園は要らない。
 ――でも単なる避難所ではだめ。
 二人はここで昼食を摂る。近寄ってきた顕子が「よかったら」と言って差しだした食後のコーヒー。出会いの瞬間。

 そして今日は二人して「左手」で飲んでいる。

                     ――傍らのベンチから
                 (筒井康隆『愛のひだりがわ』を手にして)

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