2013年11月29日金曜日

[て] 「てふてふ」の詩人~安西冬衛断想~

[て] 前置き 今回選んだテーマは、当時の詩(「レスプリ・ヌーヴォ」(新詩精神))の概観を含め、出来れば腰を据えて取り組みたいところであるが、ひとまず「断想」でアップし、詩人論を含めていずれ再述の機会を俟ちたい。
なお、「てふてふ」とは、以下でも掲出する安西冬衛の有名な一行詩「春」に掲げられた「蝶々」のことで、表音上からいくと[て]音を逸脱することになるが、ここでは表記上から「て」の標題としたものである。

詩の絵画性 ところで、詩を書かない(書けない)ブログ執筆者にとって、詩を語ること(読むこと)は、この上ない喜びである。そこには、言葉の守備範囲を超えた、どこか絵画を前にした時のような出会いの感覚に近いものがある。詩の一頁がつくる、目に訴えかけてくる視覚性である。詩を生み出す文字は、意味を媒介する手段で事終えるだけではなく、意味性と同時に、あるいは時にはそれ以上に、文字の絵画性を詩の一頁上に構成して止まないのである。
ただし同じ文字世界と言っても、書の芸術と呼び習わされる書道とは違う。書が表す絵画性は、筆先に実現されるものであるが、詩の場合は活字体の先に見出されるからである。むしろ、絵画性にこだわるなら筆跡を抑えて実現される必要がある。姿形としては書き癖が消された状態(たとえば明朝体)が望ましいからである。この書との在り方の違いは、表記差を超えて、書が対象とする和歌や漢詩文(以下[漢詩])の持つ文学性の相違とも繋がっていくことになる。
なるほど、短冊や色紙に認められた和歌は、文字の伸びやかな美しさのなかで歌自体の味合いを深める。漢詩にしても同様である。表装されて床の間に飾られた軸物には威厳が備わる。骨格も浮き彫りにされる。それはそれでよい。問題は、詩文的な格言・金言の類を書にした場合である。それも自筆の額装の場合である。かりに額装されたことで意味が深まっているならば、おそらくそれは体裁だけが「詩」である類である。ひとたび活字体に組み替えられた時に露わになる如何ともしがたい無実性を、書き癖(能筆!)と額装によって隠蔽したのである。この場合は造形性(書の芸術)の〝悪用〟である。アフォリズムと詩とを取り違えてはならない。「文人」は心しなければならないのである。

 書と詩歌 それでは、格言・金言はともかく、和歌や漢詩(以下「詩歌」)は対象となっても詩がならないのは何故か。別段、書道の世界を窺うわけではないが、詩の本質に触れることだと思われるのである。文字の造形芸術である書道の条件は、文字一字の結構だけではなく、料紙への納まり具合(布置具合)といった紙幅と取り結ぶ全体感(構成感)の調和からも逃れられない。しかし詩の場合は、文字から成り立っている点では同じでも、詩歌が引き受ける造形的条件とは疎遠である。無縁と言ってもいい。
おおもとは「形」である。詩(ただし口語自由詩。以下断らない限り「詩」といった場合は口語自由詩を指す)には「形」がないからである。その点、明らかなように和歌には決められた文字数(三十一文字)があり、また漢詩にも同様に決められた語数・句数(五言絶句・七言律詩など)がある。すなわち制約文学であることこそが、書の条件(芸術的条件)を整えることになる。なんとなれば、書の対象が一次的に制約されていることによって、書のデフォルメ的精神が存分に具現されることになるからである。すなわち制約性の解き放ちである。造形的に言い直せば、デフォルメ的精神による内在性の新規再編あるいは再生である。顕現である。
 *ギリシア・ローマ以来の韻律の伝統を重んじる自由詩以前の西洋詩は、むしろ「形」(韻脚ほか)に拘る。詩型としてもソネットなどの定型詩を生み出している。事実、活字書体の工夫によって同様の効果(絵画性)を上げている。

 
 詩と「空白」 その点、制約下にない詩の一行や一聯は、最初からデフォルメ状態に置かれていると見ることもできる。なによりも改行が自由だからである。字下げも同様である。聯と聯との間に空白を差し挟むことも広くはその範疇である。同じ聯のなかでも行なわれる場合はよりデフォルメ的である。かくデフォルメ的精神と最初から一体的に開始されるのが詩の在り方である。
ところでレトリックのレベルから見れば、改行や空白は、それが正反合的な反転や展開でないかぎり、ことば(ここでは「文字」)の必然である意味の連続に対する背反的行為(デフォルメ的行為)である。散文的文字列に対する反意は、単なる意味の不連続を物語るだけでなく、本来、以下に続くはずの文字列を白地に置き換えることにより、用紙上に未見の空白を生み出すことになる。冒頭に触れた詩の絵画性の真相に触れる部分であるが、かりに詩が書として考案された場合には、この空白の保全が保証されなければならないことになる。
それにしてもなぜ(そこで)改行されなければならないのか。詩を書かない(書けない)立場から言えることは、改行の必然性を詩作上に認められるかである。あるいは必然の「空白」であるのかを質すことである。とはいえ、それでは全体の流れを損ねてしまう。実際は、詩の側から立ち止まりが求められている場合以外は、いちいち立ち止まって確かめるようなことはなく、「改行」を「読む」より早く次行の頭に目線を移してしまっている。おそらく詩読上の常態である。「詩人」の水準にある作品の改行は行き届いているからである。暗黙の了解事項である。詩作にとっての改行とは、作文でいえば正しい言葉遣いができているようなもので、正しい「改行遣い」は、詩人である上に当然修得していなければならない「作文力」なわけである。
それでも、「空白遣い」までとなると少し事情が違う。とりわけ標題の詩人である安西冬衛の場合がそうである。その詩は、実際の文字列以外に空白行を一行とし、さらに生み出される余白を「空白」として強く意識している。まさしく詩体として企図された「空白」である。

『軍艦茉莉』の刊行 手許に第一詩集『軍艦茉莉』の復刻版(ほるぷ刊「名著復刻詩歌文学館<山茶花セット>」1975年)がある。昭和4年、「現代の藝術と批評叢書 第2編」として厚生閣書店で発刊された復刻版である。詩史に通じた人なら誰でも知っている『詩と詩論』(昭和3年創刊)の編集者である春山行夫絡みの出版物(叢書)である。
同叢書の第1編は訳書(ジァヤン・コクトオ/堀辰雄訳『コクトオ抄(選集)』)であるので、安西冬衛の詩集『軍艦茉莉』は、実質、国内詩人の劈頭を飾っていることになる。多少の身贔屓があったにしても、単に仲間内(同人仲間)であるからという、なれ合い的な関係によって刊行されたわけではない。高い詩論を掲げる春山行夫の詩観にかなう一冊だったからである。そして、その期待に見事に応えたのである。
新進の詩人であるとは言え、叢書最初の国内詩集を担うには著者は一般的には広く知られた存在ではなかった。しかし、最終的には完売(1400部)に近い売れ行きだった(詩人自身の弁であるという(冨山1989))。単に編集に報いただけではなく、その後の編集活動に還されるものも少なくなかった。さらなる叢書の刊行や詩誌『詩と詩論』の編集に対する思いが更新されることもなった。叢書は22冊を数えることになり、詩誌(季刊)は14号(後続「文学」6号)を刊行することになる。まさに大正詩から昭和詩への架け橋を果たすに相応しい活況振りであった。安西冬衛の詩が果たした詩史的意義でもあり、「抜擢」した春山行夫の功績でもあった。

詩体の構造 詩集のタイトルは、モダニズム詩を代表する一冊に相応しい名前(叢書の表紙名は『詩集 軍艦茉莉(マリ)とカタカナルビが付されている)であるが、同タイトルで飾る冒頭詩「軍艦茉莉」は、開扉とともに齎される香気をさらにモダニックなものに強めている。

「茉莉」と讀まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を()れてゐる。岩鹽のやうにひつそりと白く
 
私は艦長で大尉だつた。娉娉(すらり)とした白晳な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思はれた。私は艦長公室のモロッコのディヴ夜と晝となくつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。さういふ私の裾には一匹雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由を喪つてゐた。私は監禁されてた。

                      (同詩「一」、傍線引用者)

 しかし、今ここに引用したのは、同時代的な詩の香気を嗅ぐためではない。傍線した「白く」に触れるためである。詩の上での「白く」の意味するところは、「茉莉」=「軍艦」で一見物質的に違和感のある両者を繋ぎ合せ、さらにそれを「白い」に結びつけ、詩題の「軍艦茉莉」を女体の白さに夢想させるエロテックなイメージに導こうとしているが、「白く」の使われ方を、ここでは「空白」に読み替えてみたのである。「空白」が、安西詩にとってもう一つの詩行であり詩聯であることが痛感されるとき、あらためて「空白」が詩集の構造そのものでもあることを教えられるからである。
第一詩集『軍艦茉莉』は、散文詩と一行詩(最短詩)を詩のスタイルの両極に置いた、対位法的な構造である。一頁をまるまる使い切っている一行詩がつくる面的な「空白」は、当然に字数(字面)だけではなく「空白」の上でも両極性を際立たせることになる。安西詩だけでなく、『詩と詩論』にとって散文詩とは、彼らの詩論を具現する新詩体の一つとして提示されたものであるが、安西詩がつくる両極性には、新詩体の理解にとどまらず、それ以上に散文と散文詩との相違をより一段高い地点で理解させる、今に有用な今日性に繋がっている。
なぜなら、詩行を埋める字の羅列によって散文詩は、表向き「空白」に対して否定的な態度をとるが、安西詩ではその散文詩体にも一行詩的な「空白」を埋め込んでいるからである。ただし「空白」と言っても、具体的には後述するように「意味の空白」として顕わされるものである。いずれにしても、「空白」を間に置くことによって、散文詩が、散文と散文詩との字面上(外見上)の類似感とは裏腹にはるかに一行詩側に近い存在であるのを知らされることになる。なぜなら散文は、「空白」と無縁のところで成り立っているからである。むしろ「空白」を容れられない、それが散文の言語学的特性だからである。

 
詩的圧縮度の前世紀 第一詩集『軍艦茉莉』に収載された詩の多くは、安西冬衛主宰の同人誌『亜』から採られたものである。86編中の55編を数えるという(冨上1989)。『亜』の創刊は、大正13年(1924)で、昭和2年(1927)で終刊を迎えるまでに35号を発行した。今、『詩と詩論』に繋がる『亜』の詩史的意義に触れることはできないが、差し当たって注目しておきたいのは、発刊年のことである。数えてみると、『新体詩抄』(明治15年(1882))からまだ半世紀にも達していないからである。にもかかわらず、目を見張るばかりの斬新性かつ先進性である。
島崎藤村の『若菜集』(明治30年(1897))からならわずか30年である。かりに2013年から30年前を数えれば、1983年である。つい昨日のことである。その頃の『現代詩手帖』(12月号)のアンソロジー(「現代詩年鑑」)と昨年のアンソロジーを読み比べると、両者を一冊に再編したとしても決定的な違和感を覚えることはない。しかしそれが、『詩と詩論』と『若菜集』となるとそうはいかない。違和感というより異分子混入の騒ぎを呼び起こすことになる。
まさしくこれは、明治詩から大正詩(後期)までの詩的圧縮度の目覚ましさ以外の何物でもない。文語から口語への転換は、言葉遣いの変更に収まらず究極の詩体にまで及んだのである。西洋詩の「知恵」があったとはいえ、「空白」という詩体である。わずか30年で詩体の極相ともいうべき地点に達してしまったのである。これはいったい何であったのか。

反口語指向の先 言葉遣いの世界だけなら、和語と漢語にカタカナや外来語を綯い交ぜにした明治の象徴詩や、浪漫主義的な言葉遣いの極地を窺う北原白秋の「邪宗門新派体」に口語は叶わない。文語と口語では格が違う。言語的資質においてまともには勝負できない。定型的な五七調が浮べる調べは、その穏やかな様とは裏腹に軽んずる者に対しては厳しいしっぺ返しで応じた。目には見えなくてもはっきりとした高い壁だった。口語詩の前に立ちはだかる高い壁――その乗り越えが、明治末の口語詩運動から大正詩の口語自由詩への展開として大正詩人たちの個別の詩的格闘に繋がっていくことになる。
ここでは、その一々を辿ることはできないが(準備もできていないが)、口語詩運動以降の大正詩に浮かび上がるのは、言文一致の趣旨で開始されたその運動が、結局、非言文一致に向かっていく、反口語指向であったことである。といっても文語回帰(「日本回帰」)ではない。反口語といってもそれを口語の枠内で果たさなければならない、最初から矛盾を抱え込んださらなる高い壁に立ち向かわなければならないポエーシスであった。
口語が日常語であるかぎり、反口語をそのまま読み替えれば反日常語となり、さらに反日常指向となる。この場合、反日常指向から口語にアプローチし、手っ取り早く成果を上げようとすれば、日常の停止に限る。沈黙(無言)を決め込む手もあるが、なんといっても究極的には失語に限る。日常関係が成立しなくなるからである。まさしく反口語の極究的な姿である。すなわち「空白」の存在形態である。そして、この存在形態を文字化したのが『軍艦茉莉』である。とりわけ、象徴的なのが、一頁(右頁)を費やして掲げられた一行詩「春」である。よく知られた安西詩の代表作である。

  春

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

ちなみに、見開き関係にある左頁には同詩題の次の一行詩がある。あたかも屏風絵のごとく二曲一隻仕立てである。意図した絵画的配置である。

   春

  鰊が地下鐡道をくぐつて食卓に運ばれてくる。

ただし、断っておかなければならないのは、「空白」の成立に関する前後関係である。自身が(「空白」が)先にあるのではないことである。先にあるのは文字であり、文字が構成する詩語・詩句・詩行に要請されてはじめて成立する、言ってみれば他律的なものである点である。これが「空白」のポエーシス的な前提条件である。
それでも受け身な側にばかり回りこんでいるわけではない。この点もしっかり押さえておかねばならないだろう。実はおおもとには詩作上の契約関係があり、事前の契約に際しては、むしろ主体的な立場に立っているからである。なんといっても反日常を約款とした契約だからである。したがって契約関係を再確認すれば、契約者は「空白」であり、詩語等は被契約者の側なのであった。そして契約内容は、「空白事業」なわけである。

 
 大陸の詩人 以上のように「空白」は安西詩の核心部分であるが、ここからは実態的な議論に切り替える。ポエーシスの実作情況を時代背景のなかで見ていきたい。とりわけ興味深いのは、口語機能の停止である「反口語」の行き着く先の一つとして「空白」が強く詩想に盛り込まれたのが、大正詩のなかでも、国内ではなく大陸者によるものであった点である。考えさせられるのは、というより思いを致さなければならないのは、口語自由詩の展開からダダやシュールレアリズム、モダニズムといった華々しい詩史的な表舞台の裏側である。そして「大陸の詩人」のポエーシスに対するある種の痛々しである。
 大陸進出という時代性の内側に浮かび上がる大正詩のもう一つの姿――それは、一種異様な響きをもつ租借地という異空間の中で行なわれる、詩論より先に現実と向かい合わなければならない近代日本詩の一断面である。同時に近代日本詩にとって未体験の詩的行為であった。
詩誌『亜』は、亜細亜の『亜』である。命名者は、主催者である安西冬衛である。参集した詩人も大陸に籍を置く者である。彼らを取り囲むのは、詩以前にまさに「地理」という言葉が相応しい身辺感である。自然と同化し身体の一部としている内地では対自化できない地理的問題である。「地理詩」でもある安西詩にとっては、なおさらに内実的な現実感であった。「地理」の先には、広大な大陸の先に霞む長い地平線が横たわっていた。あるいは逆向きには、陸地を背にした奥深い地上感から黄海に張り出した半島(遼東半島)の突出感があった。いずれも内地にいては体験することになかった量感に迫る風景である。
堺市在住であった詩人は、大連市に赴任していた父の誘いもあって、大正9年(1920)の22歳時に同市に転居(渡満)し、翌年満鉄(南満州鉄道)に入社した。その後、身体的危機(右足切断手術)を経て、大正13年(1924)に同市にて『亜』を創刊する。同人は、安西冬衛ほか富田充、北川冬彦、城所英一であった。以後昭和212月に至るまでの間、定期的に35号までを発刊して終刊。翌昭和39月、創刊された『詩と詩論』の同人となり、同誌終刊(昭和6年)まで中心人物として作品を寄せ続ける。昭和9年(1934)父の死去を機に離満帰国し堺市に転居。10年に及ぶ大陸生活であった。
この間、生前刊行した6冊の詩集の内、三冊が在満中に刊行される。昭和4年刊行の第一詩集『軍艦茉莉』以下、第二詩集『亜細亜の鹹湖』(昭和81月)、第三詩集『渇ける神』(同年4月)である。因みに離満後の刊行は戦時下の昭和18年までを待たなくてならない。『大学の留守』(第四詩集)である。その後は、終戦後の昭和228月に『韃靼海峡と蝶』(第五詩集)が、そして最後の第六詩集『座せる闘牛士』が昭和2411月に刊行される。その後も亡くなる年(昭和40824日)の5月まで長く詩作活動に勤しみ雑誌ほかに発表されてきたが、詩集として刊行されることはなかった。没後一年で刊行された『安西冬衛全詩集』(昭和41年)及び『安西冬衛全集』(昭和5261年)には多数の未刊詩篇(全集第3巻・第4巻)が収録されることになった。なぜ編まなかったのか。大陸から延びる影に佇む詩人の姿が浮かぶのである。ポエーシスの深淵を窺う想いである。
 *詩体の「空白」で言えば、時系列では高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(辻潤編)が大正12年刊で安西冬衛よりわずかに早いが、「断言はダダイスト」(大正11年)で正真正銘の日本ダダイストになった高橋新吉のそれは、「空白」というより「空隙」である。あるいはよく知られた「るす」(昭和3年)の詩篇「留守と言え/ここには誰も居らぬと言え/五億年たったたら帰って来る」をもじって言えば「居留守」的である。安西冬衛の「空白」は作為的なもの(ダダ的なもの)ではない。万物に照応(コレスポンダンス)するものである。

 外にある「体験」 戦後、長い時間が過ぎた。それにともなった戦争は、関係性から解かれた過去のことになりつつある。戦時の記憶も薄れるに任される。戦時でさえそうでるなら、戦時の先にある戦前史(満州事変以前)は、現代社会にとって過去以上の過去になりつつある。記憶以前である。記憶に止まるうちは、まだ関係性からは完全に截ち切れていないが、記憶とは別の部類に移行してしまっている。
おおもとは侵略の歴史体系を空無化する戦後意識が、日本人全体だけではなく、個人レベルでの受け継ぐべき「体験」までも空無化させていることにあるのだが、本来、「外地」とは、歴史的概念で捉えられる以上に文学的(同時に芸術的)概念としても捉えられなければならない。現状は歴史的概念で止まって、それも不十分であるなかでは文学的概念は「遺骨収集」にも及んでいない。「外地」が侵略の先に存在する日本近代史のなかでは、同じ侵略でもキリスト教を背景した「正しい侵略」下の欧州列強の「植民地」では、多くの優れた文学・芸術を生み出し、共有すべき文学的成果となって引き継がれている。
体験を引き継げないのは、実に自身(戦後を生きる人々の自分自身)に対する背反行為でさえある。単なる体験の喪失ではない。「思考体験」の喪失である。「思考体系」と言うべきかもしれない。列島史の外で体験された未発の内部体験だからである。あるいは未知の言語体験でもあった。失ったのは未知の「日本語体験」であった。その体系的記憶であった。問題は失ったことも顧みられないことである。したがって問題の本質は、背反行為である以上に自己喪失であったことである。

 
「外地」文学 今、安西冬衛の『軍艦茉莉』を「外地」の文学(黒川創1996)の視角で読み直すとき、あらためて「空白」の先に大陸という「外地」の貌を思い浮かべずにはいられない。和歌と「一行詩」との違いも浮かび上がる。同じ顔付き(「一行詩」)でも、和歌が紙料に生み出すものは、「余白」でしかない。「空白」とは体系の異なるものである。詩学的相違である。そこには「大連デモクラシー」(上掲黒川)という見かけ上の自由と華やかさに包まれていた在籍地(大連市)の「外地」的条件が背景をなしていたことは容易に想像がつくものの、それが「余白」ではなく、あくまでも「空白」であったのは、それだけではない、租借地(旧関東州)住人という、近代日本人に未体験の立場が、内地でなら問うことのなかった日本語体験を詩人に強いたからにほかならない。
租借地大連の多国籍的環境に加え、支配者言語である日本語は、それ故にただでさえ言葉に敏感な詩人をさらに後ろ向きの言語体験に導く。普通の言語体験ではない。人口比では圧倒的に少数派であった。中国語や朝鮮語あるいはロシア語のなかの一言語でしかなかった。安西冬衛の渡満時代には、中国人作家(「東北作家」)による反帝国的文学活動も展開されていたという。抗日的な文学活動を含めて「満州の日本語文学は、これらの諸言語かなる海に浮かぶ、一つの島である」と語られる(黒川1996)。
今や言語体験を超えてより深い痛覚的な心理体験であった。相変らず「一つの島」でしかなかったからである。しかし「島」(在満日本人)の先には、大陸の地上の広がりが待っている。巨大な塊と化した赤い落日から長く延びる影の先は杳として測れない。自分の影ではなく、他者のものでしかないからである。それが租借地で生きる条件である。影を踏みしめることができない異民族(他者)としての――。
すべては「空白」に生まれ、「空白」に還される。内実はない。これが「現実」である。そして現実が求めた日本語体験である。その先に見出された詩語・詩句・詩行であり、同時に「空白」の詩境・詩想であり詩体であった。やがて「空白」は、「日本」「日本人」である自身からの離半の証となっていく。以下はその経緯を直接的に表した詩である。

   新疆の太陽

  新疆(シンキヤン)の太陽が、私を奪った。
  既に罪悪的な省城は、大流沙の彼方、地平線に出現を始めた。再現の世界に於いて、辛うじてオペラのみがもつ、これは無上の接待である。
  曾て私が投げかけた狭い世界、一つの記憶がみるみる後退する。
  迅速する大流沙を(わた)る困憊の中、
  (つちふ)る曙の中に。

 詩の試行的分析 しかし、現実はそうであっても、言及したような状況論も安西詩の条件の一つでしかない。肝心の作品世界を見失ってはならない。終筆前に一度実作的な作品分析を行なっておきたい。
 第一詩集『軍艦茉莉』は、86編の詩を5部に分かつ。大半は自誌『亜』に掲載されたものである(上述)。冒頭と末尾に「茉莉」名をもった作品が配される。「軍艦茉莉」(冒頭)と「物集茉莉」(末尾)である。ともに散文詩である。読みやすいし解りやすい作品である。うっかりすると安西詩の核心を見逃してしまうことになる。ここで終わってしまうと、一行詩と散文詩とがつくる構成上の緊迫感もいま一つ迫ってこないし、散文詩にしても「散文」の範疇との境が再度問われることになる。これはこれで有意義な議論が見込まれるが、今回はその余裕はない。
ここでは代わりに対照的な一例を示す。散文とは似て非なる「散文詩」の実作情況を目の当たりにすることになるはずである。

   海


海は私の健康にどんな影響を與へたか。

 
明媚な風光を賞め稱へ乍ら、私はサンマー・ホテルの支配人から、さまざま土地の事情を聽く。あれなる清朝宗廟の結構を模した、熱河鐡路局總辦(マー)大な別。それから、ダルニー・ルフクブ・グリーン・コンミッティ・ドクター・ビリヤード氏の午餐にるアスパラガスの枚。それよりもこの先見える、スープに浮かせるビスケット製造所の、額面五十圓十二圓五十銭拂込株式の、當時約四分の一のもしないとふことが、思ず私の椅子を前にうはかせる。歸りの乗物の中で、私は片道りをして、辛うじて一株券の時價にする怪しい懐中を、そつ調めてみる位浪漫的な健康に激しく染まつてゐる。そのくせ興奮して舐めぎた、先程の牛の骨のソップが、れた私のチョッキの下で、酷にもダブついてゐる――


海は私の健康にどんな影響を與へたか。


 散文との違いで、まず気がつくのは、視覚性である。冒頭一行と最終一行が、本の表と裏(面表紙と裏表紙)になっていることである。2行空けの根拠である。おそらく上製本なのであろう。しかも上製仕立てに見合う固い内容である。字面だけ分からせる安西詩一流の絵画性も潜んでいる。
 しかし、「固い」と思われたのは上辺だけで、実際はなんたる「戯言」であることか。思わず苦言を呈してしまう程である。固さを見こんでいた分、戸惑いが待ち構えていたのである。実は仕掛けであった。この仕掛けにこそ散文と散文詩との違いがある。ここでは戸惑いがなによりの証拠になる。
散文は、一文の前後関係を理知で繋ぐ。理知は理解を生む。さらに理解を理解で繋いで意味を構成していく。読解力を整える。レトリックが難しくても投げ出すことはない。苦痛であるよりも高い知性の呼びこみを前にした期待感に高揚気味である。散文とは、次に向かう推進力とともにあるものである。
しかるに、問題の詩(「海」)は、遅々として前に進まない。進まないどころか複数の縦軸方向を横並び状態で並置する。縦軸方向とはセンテンスとセンテンスからなる構文のことである。散文体であることは、実に始末が悪いことになる。当然にセンテンスを接続状態で繋げる内引力として作動するからである。横並びであるとは破格以上の反レトリックである。
そこでここに並置を並列に変えてみる。具体的には改行による散文詩の編成である。散文的直進性に対する視覚的改変(改行詩への改変)である。遅滞感も戸惑い感も緩和されるはずである。以下のとおりである。
 *絵画性を「映像性」と表記する見方もある。すなわち「詩の音楽性よりも詩の映像性を重視し、そこにポエジーを見出しているという意味で、短詩も本質的には散文詩の形態であると考えられる」(冨上芳秀1989年、276頁注(6))

   海(改行詩版) 

海は私の健康にどんな影響を與へたか。

明媚な風光を賞め稱へ乍ら、
私はサンマー・ホテルの支配人から、さまざま土地の事情を聽く
 
あれなる清朝宗廟の結構を模した、熱河鐡路局總辦(マー)氏の壯大な別業。

それから、
ダルニー・ゴルフクラブ・グリーン・コンミッティ・ドクター・ビリヤード氏の
午餐に攝るアスパラガスの枚數。

それよりもこの先に見える、
スープに浮かせるビスケット製造所の、
額面五十圓、十二圓五十銭拂込株式の、
當時約四分の一の價もしないといふことが、
思はず
私の椅子を前にうはつかせる。

歸りの乗物の中で、
私は片道券を購ふふりをして、
辛うじて一株券の時價に相當する怪しい懐中を、
そつと調めてみる位の
浪漫的な健康に激しく染まつてゐる。

そのくせ興奮して舐めすぎた、先程の牛の骨のソップが、
釦のとれた私のチョッキの下で、殘酷にもダブついてゐる――

海は私の健康にどんな影響を與へたか。

 安西詩の詩的魅力 上製仕立てを解かれた後では2行空けも要らない。通常の一行である。それはともかく、あらためて教えられることは、散文詩の詩体から伝わってくる面を付き合わせたような直接的な息苦しさである。散文性(必然的連続性)を裏切ってさらに裏切り続けるからである。おそらく推進力が空回りしていたたまれないのである。
それが改行詩の場合ではなくなる。喩えれば窓開けである。部屋の窓を開けて息苦しさを薄めるのである。改行はいってみれば窓開け行為みたいなものである。それが原型(散文詩体)では逆になる。窓を閉じてしまう。窓だけではなく扉も閉めてしまう。閉め切ったまま開けようとしない。
しかるに詩の題名はといえば、「海」である。表紙の文字は「健康」である。しかも見込みを違えて肝心の詩文は「戯言」である。それも多弁でありながら内容は至極空文的である。いい加減辞退したくなるが部屋からは出られない。出口があっても出られない。饒舌振りを止めさせることもできない。つけ入る隙がないからである。句点の前後で散文的連結を抜け目なく果たしているのである。それが堪らないし苛立たしいのである。意味を繋いでいない、それも故意に繋いでいないからである。
散文のなかでの言葉の連続が保証されるのは、既得的なものに属するが、その大前提をものの見事に失うのである。しかも不用意までに。埋め合わせもされずに。かえって高みに立って素知らぬ顔をされてしまうのである。
しかしそれが、安西詩の詩的行為の力の源になっているのである。知らない抒情を誘発することにもなるのである。同じカタカナの多用でもかつての文語調の異国情緒(「メランコリヤ」)や、同じ都市でも「青い影」の差す街角とは異なる、真空地帯のような「外地」の地上観に生じた新たな言葉の響き(確執)である。詩作力の成せる業と言ってしまえば簡単に済んでしまうが、詩論を実作で問うことのできる、言葉への自信に支えられた固有の詩才である。安西冬衛の尽きない詩的魅力である。


◆参考文献(テキストを含む)
名著復刻詩歌文学館<山茶花セット>『「安西冬衛著 詩集 軍艦茉莉」現代の藝術と批評叢書2、厚生閣出版(昭和4年)』ほるぷ出版、昭和55年(1980
山田野理夫編『安西冬衛全集』第3巻及び第4巻、實文館出版、昭和58年(1983
冨上芳秀『安西冬衛 モダニズム詩に隠されたロマンティシズム』未來社、1989
黒川 創「解説 螺線のなかの国境」同氏編『満州・内蒙古・樺太』<外地>の日本語文学選2、新宿書房、1996