2014年12月31日水曜日

[み] 宮沢賢治と短歌~「現場」への橋~


はじめに

 与えられた顔 不思議に思うのは、宮沢賢治(以下「賢治」とのみ)が普通の文学者にない顔をもっていることである。「異稿」「補遺」「補遺詩篇」「詩稿」「文語詩稿」「文語詩未定稿」「詩稿補遺」「歌稿」「詩ノート」「手帳」「ノート」などと、一部を除くとそのすべてが、未刊行の「稿」で占められていることである。しかも自分でつくった貌ではないことである。また「稿」が多様で複層化しているのも特徴である。ここで取上げる短歌で言えば基となる「歌稿」だけでもAB2種類があり、さらに「異稿」にも推敲歌、派生歌があり、その他にも「書簡中短歌」「原稿断片中短歌」がある。しかも「定稿」化し切っていない。

また童話で言えば、「先駆形」「初期形」「改稿形」があり、さらに「初期形」には「初期形第一次稿」から「初期形第三次稿」まである(「銀河鉄道の夜」)。『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、19952009年)では一冊の箱の中に同じ程度の厚みをもった「本文篇」と「校異篇」をそれぞれ収めて一巻とする。我々が賢治を今こうして読めるのは、新校本と同校本に至るまでの過去の校訂作業のお陰である。しかし、新旧校本編集者たちの熱の入れようは、通常の編さん事業の域をはるかに超えている。彼らを捉えたもの、捉えたものを形にすることが、文学として意味ある作業と確信させたもの、それが「普通の文学者がもたない顔」であり、与えられた顔を含めて宮沢賢治自身でもある。


賢治との距離感 従ってその魅力は、その世界に強力に魅せられた編さん者たちにとどまらない。とどまらないものを知りたいと思う気持ちが、賢治文学を求めて読み手を急き立てることになる。急き立てられる自分自身を知りたいと思うことになる、そう言い換えられることにもなる。しかし杳として近寄ってこようとしない。時空に繋がっていかない。実感である。でも閉め出されていないで抱えこまれている感じは、それはそれで偽りない実感でもある。草野心平が、「誰が賢治詩の系譜を彼以前に見ることが出来るだろうか。出来ない。何故なら無いからである」(同著「宮沢賢治・人と作品」(同編『宮沢賢治』日本詩人全集20、新潮社、1967年)21頁)ということも、接近度を実感させないことの一因であるかもしれないが、宋左近の次の一文は、それ以上に、賢治が生み出す「距離感」の本源を衝いているようである。

彼が賢治と出会ったのは、駒場の寮生時代(旧制第一高等学校時代)であったという。寮生仲間の一人が朗読してくれたという「無声慟哭」であった。朗読者が福島市の出身者だったこともあり、「独特の東北なまりをもった読み方」に「なんとも言えない思いに打たれた」のであった。続いて別の寮生(大野晋)が、「永訣の朝」を読む。その朗読は、「江戸っ子の、濁りのない標準語による」もので、「悲しみがそのまま光となった光」を彼に浴びせる。そして最後に自身でも朗読する。「松の針」であった。すでに二篇で強い感動に浸っていたことに加えて、自分の声が生み出すさらなる感動が彼を強く襲う。だが、しかしと言う。以下が核心部分である。少し長いが引用する。

なるほどこの世界(「無声慟哭」三篇・引用注)に打たれる。打たれるけれども、打たれて、しかしそのままなのです。その三篇の載っている『春と修羅』、目の前の舘野君(寮生仲間・同注)によって示されたその本を借りるとか、あるいは街へ行って買ってくるとか、そういうふうに受けた衝撃をもっと広めたり深めたりすることをしたいとは、けっして思わなかった。
  それはなぜか。この三篇がもっている一つの特色は、現場にいて現場を離れない発語aと言うことです。現場という直接性がひどく強くて、それがきらめく光をこちらに投げかけていて、そのために、ある〈わからなさ〉のようなものbが出てくる、そのせいではないかと思うのです。その作者の体験の現場、それをいったん離れて、時間や空間の広がりの中に対象化する、そして、個人の歴史または広い同時代の歴史の中に、その現場=直接性cを位置づける、あるいは意味を与えるという操作を、作者はけっしてしていないのです。そういう操作をする以前の現場の感情――しかも、きびしく抑えている感情――の、なまなましさ、それがわたしを激しく打つd。しかし、それが、私を遠くへ連れて行ってくれない、作者の世界の内部やその世界の広がりを追っかけていかないようにわたしをさせる、その一つの理由であったと思います。(傍線引用者)(宋左近『宮沢賢治の謎』新潮選書、1995年。1213頁)

宋左近がここで使う「現場」は、最愛の妹トシの死(24歳)という特異な極限的な場面下にあるものである。したがって、必ずしも一般的ではない。むしろ限定的であることを強調するために使われた用語であるかもしれない。でもそれを分かっていて、あるいは分かりやすい例証として使っている。それが一文の意図するところであろう。そうでなければbdのくだりにならない。賢治との距離感であり同時に執着のあり様である。故に賢治詩の特徴としてのaは、我々を急き立てる源でもあり、「現場」に繋がれない不如意をして人々を賢治に向かわしめることになる。そして稀に見る膨大な校異を施された、通常の生前活動の集約とは一線を画す「個人全集」を生み出すに至る。

 では「現場」とはなにか。以下のテーマながら、実は確たる方法論をもたない。むしろ思いのまま綴るなかにあるいは手掛かりを得られるかもしれないとする態度を採ろうとしている。とても賢治論を切り拓くものではないが、いまは「現場」を探る一手立てとして、成果の程は総括を侍して俟つことにしたい。以下は歌鑑賞に「現場」を訪ねる旅であるが、「賢治と短歌」とはひとまず旅名として付けたものである。



 Ⅰ 賢治の短歌を読む

 1 二人の少年歌人

啄木少年の歌 まず直感で分かるのは、テーマとした、そのような「現場」が生み出されるのは、賢治が「日本人」に対して他者だからである。「他者」の出身を問わなければならない。だからと言っていきなり郷土論として語り出すのでは、明らかな落胆を自らの手を招き寄せるようなものであるが、岩手を「イーハトーブ」と命名した賢治である。それに文学のはじまりが、短歌にあり、それが盛岡で歌われたことも考慮に入れてである。石川啄木(以下「啄木」とのみ)と比較できるからである。ともに盛岡を生地としているわけではないが、文学の開始場所としては、場所だけではなく、文学ジャンルとしても歌詠みからである。共通事項で結ばれた二人である。

賢治にとっての啄木は、同じ盛岡中学校の先輩(10年先輩)である以上に文学的な影響を受けた同じ郷土(岩手県)出身者だった。作歌開始も啄木の『一握の砂』の刊行(明治43年)を承けたものであった。後に自身の手によって編まれた「歌稿」(「歌稿B」)は、「明治四十四年一月」(15歳)から始められている。作歌開始段階から「他者」がすっかりたち現れている。啄木歌と較べ見てみよう。

a たまはれのみこゑよほそき春の宵を花より出でゝ歌ねびる神
b 見ずや雲の朱むらさきのうすれうすれやがて()りくくる女神(めがみ)のとばり
c 聖歌口にほゝゑみうたふ若き二人二十歳の秋の寂しさをいはず
d さらでそのたゞかりそめの惑ひよとそとほゝゑみし君や悶えの
e さびしげの裳裾やながき秋のみ神か細きこゑを松の梢に
f 今日の秋あかぜよあめよの野の中にすくせやなにぞ一本(ひともと)女郎花
g 野の月に冴えしや銀の笛の()の清しさびしのそゞろの調べ
        (回覧雑誌「爾伎多麻」(明治349月)所載「秋草」より)

以上は、啄木が仲間たちと発刊した校内回覧詩(盛岡尋常中学校)に掲載した30首中の7首である。翌年からはやはり仲間と結成した「白羊会」の会誌「白羊会歌草」ほか「盛岡中学校校友会雑誌」に発表した作品にも若々しい詠嘆調を響かせているが、17歳時に『明星』に収載された一首がこの間の作歌の集約歌として一際輝きを放っている。ここでは賢治との比較もあり、意図的に最若年段階の歌を挙げている。とくに意識的に選択したわけではないが、情感に自己の歌心の確かさを恃む作調は、新詩社の浪漫主義の影響もプラスされて、どこか確信的で自己の才能に陶酔的である。やはり、『明星』収載歌を掲げておこう。

血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋
(明治3510月第三「明星」5号)


賢治少年の歌 次に同じ地(盛岡)の同じ学舎(盛岡中学校)にて歌を読み始めた頃の賢治の短歌から任意に引く。冒頭番号は記述の都合で振ったもの、また末尾番号は「歌稿」に付された編集番号である。テキストは『文庫版 宮沢賢治全集』(築摩書房)である。

①み裾野は雲低く垂れすゞらんの
白き花咲き  はなち駒あり (1

 「歌稿」の冒頭歌であるためもあるが、掲げたのは、同じ叙景歌でも視座が重層していて色添えも軽妙であり、加えて開放的な景色に突如として「駒あり」でなく「はなち駒あり」の形で動態感をもってたち現れる、溢れる瑞々しさを響かせているからでる。

②臥してありし
丘にちらばる白き花
黎明のそらのひかりに見出でし (5

 修飾句に奇抜さが添えられている故である。すなわち、一つには丘を「臥してありし」という生き物扱いにするところ、一つにはせっかく清楚な感じで白色に咲いているのを無造作に「ちらばる」と乱雑にするところである。奇異なる感覚性は嫌われるより、この場合、新鮮さに訴えている。

③河岸の杉のならびはふくろふの
声に覚ゆるなつかしさもつ (11

 なによりも歌句の「ならび」が、なんとも嬉しく・愉しいためである。「ふくろうの声に覚ゆるなつかし」とはどのような成り行きを経てか、わけを問わずにいられなくなる仕儀である。見越しての作歌である。

④とろとろと甘き火をたきまよなかの
み山の谷にひとりうたひぬ (12

 歌心が、言い訳もせぬ構えに遠ざかって、独り「時間」を抜け出している故である。「紙芝居歌」とも名付けたくなる、人工的な三次元性を帯びている。

⑤竜王をまつる黄の旗紺の旗
行者火渡る日のはれぞらに (13

⑥楽手らのひるは銹びたるひと瓶の
酒をわかちて  戯れごとを言ふ (14

 人物歌ながら歌中の人(「行者」「楽手」)の存在感がどこか即物的である故である。それも同じ即物的でも、目線の先には人物の躍動感を愉しむ親密感が、再度人物の実在感に働きかけ、非日常者の影までも地面に伸ばしている。深読みか。

⑦あわれ見よ月光うつる山の雪は
若き貴人の死蠟に似ずや (22

⑧せともののひびわれのごとくほそえだは
さびしく白きそらをわかちぬ (27

⑨うす白きひかりのみちに目をとづれば
あまたならびぬ 細き桐の木 (31

いずれも神経線に触発的で異常気味に冴え切った繊細さながら、冷めた目線で場面の張りつめ感を病的になぞろうとしているわけではない。「死蠟」「ほそえだ」「桐の木」のいずれにも自分を投影しているわけではない。一体、如何なる語り口をもってすれば可能なる歌詠みの調べであるのか、また歌詠みの態度となるかに不思議な思いを抱かされる故である。

⑩暮れ惑ふ 雪にまろべる犬にさへ
狐の気ありかなしき山ぞ (29

さらなる不思議で奇異なる感覚を一繋ぎに短縮して、事象が最初からそうであったかのように言い切り気味にまとめ上げている故であろうか。不思議で奇異なる感覚とは、ここでは同時生起的である。「暮れ惑ふ」と「かなしき山」という既定的な情感で頭尾を挟んでいるだけに、「犬」と「狐」によるアンビバレントな動物画は、一首の結束になにを働きかけようとしているのか、求めようとしているのか。かく詠われてみると、結果的に「正調」をさえ聴きとることになる。この逆説性が不思議で奇異なる感覚に扇動的であるのも〝加点〟の要因である。

⑪黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり (32

⑫泣きながら北に馳せ行く塔などの
あるべきそらのけはひならずや (37

大岡信の賢治短歌評(a「詩人の短歌について」『ことばの力』花神社、1978年、b「丁丁丁丁丁」『日本詩歌紀行』新潮社、1978年)に学んだことであるが、賢治が抱える物質感である。普通の少年のもつ「センチメンタリズムの影」が希薄である感覚について、「いわば物質の背後に、ある非物質的なもののけの気配を感じとってしまう感覚」(b48頁)と評して見せたのである。⑫は、中村稔が⑪⑯とともに三首並べて、「退寮事件」という年譜をもとに「自らうけた傷」「責苦」から解している。「これらには黒板の傷を自らうけた傷と一体化する、また、凍てついた夜空をとびゆく烏のいたみを自らのいたみと一体化する、苛烈な心情の昂りがある」(同著『宮沢賢治ふたたび』思潮社、1994年、15頁)として、心情を重ねて読むのである。

直接言及がない⑫も、「泣きながら」の「傷んだ心」を主格とすれば、やはり心情歌の一首で三首並べたところとなる。それでも時間を措くと、歌唱の動機や背景は沈んで歌の上だけに世界が再浮上する。「黒板」「赤」「傷」「すすり泣く」が再び繋がり、読む側にとってもなにか心的体験の原点みたいな部分に刺戟的に働きかけてくる。⑫も同様に主格を「塔」に仮定(二重仮定)すれば、異常な気配が湧きおこり辺りをにわかに包みこむ。「北に馳せゆく」を塔から延びる電線に解すれば、「泣きながら」は、かの水彩画(「月夜のでんしんばしら」(『注文の多い料理店』))の〝泣きべそ版〟を彷彿とされる。この場合でも、泣くのはあくまでも塔と次の塔に延びる電線でしかなく、それ以上でも以下でもない。しかも「擬人法」に特有の物語性がある故である。

* 中学校時代の歌を味わい深く読み解き、賢治短歌の本質に迫る、自身も歌人である佐藤通雅は単なる擬人法ではないとして、黒板の歌を次のように評する。「黒板の歌にしても赤い傷を受けたり、すすり泣いたりしているのは黒板である。こういうのを人は擬人法といって、人の動作に似せた表現法と説明しがちなのだが、実は擬人法でも何でもない。そういうよけいな手続きを踏んだのではなく、黒板の直接的動作なのだ」と(同著『新装版 宮沢賢治の文学世界』泰流社、1996年、28頁(初出1974年))。大岡信の「物質の背後に、ある非物質的なもののけの気配を感じとってしまう感覚」の別の表現である。本稿も通常の擬似法で物足りるとは考えていない。

⑬から草はくろくちひさき実をつけて
風にふかれて秋は来にけり (40

 秋を多作する啄木歌と比較するために挙げたもので、作としては凡庸である。啄木の場合、「秋草」を標題として詠まれた計30首であっても、秋草やあるいは秋・秋風が個別具体的に叙景されるわけではない。標題の趣意とするところは、秋草が浮かべる既定の嘆詠でしかない。それでも30首が目指すのは、既定的な抒情から浪漫への格上げである。自認する天才性を試すに相応しい標題であった。

 賢治の⑬は、歌自体としては平凡ながら、「秋」をイメージさせる以上に植物に対する観察眼を歌意とし実践している。同歌の派生歌ではさらにそれが明らかである。「こぬかぐさうつぼぐさかもおしなべて/かぼそきその実 風に吹かるゝ」。啄木との位相差に浮かび上がる、センシティブな少年賢治像が、物象性の先にあらためて浮かび上がる。

⑭専売局のたばこのやにのにほひもちてつめたく秋の風がふくまど (47

 おなじ「秋」でも⑭では啄木に近いことになる。でもそこのある近さは、少年啄木の姿ではなく、『悲しき玩具』のなかの啄木の最期の姿(心)に重なるものである。啄木が辿り着いた虚無感は、即物性に支えられている。もしそうだとすれば、賢治はすでにその年齢(15歳)で生を深く生き感じとっていたことになってしまうが、それは成り立ち難いので、人生経験とは別な軌道上に延びる、賢治に生得的な生の回線を想定することになる。同じ即物性でも啄木との違いである。やはり賢治の資質が、存在として抱え持っていたものである。それでも⑭の歌い振りは、賢治に似つかわしくない。とくに「やにのにほひ」のくだりはとくにである。本能的に汚れを避ける歌の体質と合わない。無理な感じがしてならない。

⑮わが爪に魔が入りてふりそそぎたる、月光むらさきにかゞやき出でぬ(49

 歌の上手さには届いていないが、上手さとは別な味わいが歌の気分を独特な調べに取り替える。注視すべきとするからである。幻想歌ではなく幻惑歌である。はたしてこの発想に歌い出しを求められる歌人とは何人なのか、受け取る側の気分としては、不思議を思うより奇態な行ないに疑念を募らせるばかりである。試しに自分の「爪」を見つめてみる。もちろんなにも写らない。思いも浮かばない。それでもこの一首を除けようとしない。どこかで感応しているし、しようとしている。それが「、」(読点)だとしたなら落ちにもならないが、異界はかくして二分法に落ち着き、見開きの一面をつくるからである

⑯凍りたるはがねのそらの傷口にとられじとなくよるのからすらなり (54

 ここに演じられようとしている様(夜の様)の実相は、見えない世界に向かい開かれている。いうまでもなく夜の烏だからである。しかも嫌われ者の烏に全役を担わせているのである。烏に加勢する気分より彼(「からす」)にこのような意志が備わっていたことがなにかショックである。童話ならそうならない。気分は違ってくるはずだ。たとえ詠い方は散文調であっても、詠われ方を超えた斬新な意趣と響きは、およそ和歌史から生まれようがない一首である。この作品だけでも賢治歌は、賢治文学に一ジャンルとして高く参画する資格を有する。


「現場」から見た両歌人 以上の賢治少年の短歌を鑑賞してあらためて啄木との違いが際立つことになる。一見、机上歌に思える⑮⑯であっても、賢治は「現場」に就いていた。⑮では空に上る月を見つめ、⑯では夜の空の下に立って不図暗い天を仰いでいた。かく「現場」に身体を晒していた。確かめてもいた。けして極端ではなく現場を離れては歌えなかった。

その点、啄木は現場に居ながらも現場を離れていた。「秋草」は現場を詠う歌集ではない。創意は、現場を離れ内なる現場(=浪漫)に就く。もし「現場」と言うなら、盛岡でなければ歌の着手には至らなかったことである。「歌ねびる神」(a)、「女神のとばり」(b)、「聖歌口にほゝゑみうたふ若き二人」(c)、「君や悶え」(d)、「み神か細きこゑ」(e)などの歌句に明らかなように、生誕地日戸村や生育地渋谷村には似合わない修辞だからである。教会のある盛岡とその市街の佇まいとが要請されてはじめて歌詠みに移行する。「神」や「女神」に頼らないf・gでも同じである。田舎の自然ではなく、盛岡近辺の「野の中」(f)であることで、「すくせ」「一本女郎花」は、発意を浪漫に仕向けることができる。「銀の笛の音」(g)も同じように盛岡近辺あるいは市内のどこか野原の「野の月」であることで、はじめて一首の意味付けに自己納得的でいられることになる。

 しかし、賢治の場合は事情を異にする。「現場」に拠って作歌し、作歌に拠って「現場」に還るのである。たとえば啄木が「神」や「女神」を導き出した盛岡の宗教風土から賢治が導き出すのは観念ではない。一篇の叙景である。「やうやくに漆赤らむ丘の辺を/奇しき袍の人にあひけり」(21)の、「奇しき袍の人」が教会関係者である。神父の格好を怪しんで、怪しむだけでは物足りない思いながら、「漆赤らむ丘の辺」という宗教外の景色で臨んで、それ以上に作為的視線は浴びかけないのである。一篇の叙景である。それが(無作為が)かえって位相差を現実との間に生じさせ、「やうやくに」の初句が、その動き様を図らずも一首全体に効かせることになる。つまり、「やうやくに(…)あいけり」となって、中学校や寄宿舎近くに建つ教会(四ッ家教会)に日頃から好奇心を抱く姿にまで還るのである。

とは言え、これは後付けの解釈である。筆者を含め一般読者には「四ッ家教会」は知見外のことである。「袍の人」も同様である(小川達雄『盛岡中学生 宮沢賢治』河出書房新社、2004年)。賢治にとって読者は自身でしかない。したがって叙景は、読む側にとってそうであっても賢治にとっては「物語」そのものであり、「物語」である故に「現場に還る」ことを可能とさせる。この構造式が同じ「物質」に発語する作歌態度であっても、賢治の短歌を読む側にも単なる即物的な叙景で終わらせないのである。事実関係を超えて「物語」を発生させ、同時体験的に読む側もそのなかに引き寄せられる。しかも同じ一次体験としてである。「現場」の存在と「現場」との往還・帰還を条件とする作歌態度が然らしむる賢治短歌の世界である。



 2 賢治短歌の通覧

作品の年代比較 それにしても「歌稿」に付された編纂番号だけでも800首を超える作歌量があるなかで、作歌開始段階の盛岡中学校時代後半の3年間がもっとも面白いのは何故か。作歌は、童話を本格的に書きはじめる大正10年頃まで続く。短歌は賢治がはじめて出会った表現行為である。しかもその間に例外的に散文(初期童話を含む)が書かれたとしても、賢治文学にとっても最も長い約12年間を費やした表現形式であった。以下は、中学校時代歌以降7年間の通覧であるが、その前に中学校時代に思い入れが強すぎていないか確認しておく。対比しやすいように同じ名詞が読みこまれている「からす」を挙げてみよう。参考に年代を付しておく。

* この場合、念頭に置いておかなければならないのは、賢治の後年の推敲である。中学校歌に推敲がどの程度加えられて「歌稿」に至っているか、場合によっては「少年歌」の面影は痕跡もとどめない場合もあったのかなど前提に関わる問題であるが、判断材料を持たない。ここで中学校時代の作品を高く評価するのは、削除されない限り推敲では消えない着想部分である。

⑰からすにはよもあらざらんその鳥の
その黒烏dの
羽音ぞ強き (141)(大正3年)

  ⑱花さける
ねむの林のかはたれを
からす尾ばね齅ぎつゝあるけり (197)(同年)

  ⑲いまははや
たそがれぞらとなりにけり
青木のかなた
からす飛びつつ (651)(大正7年)

  ⑳錫病の
そらをからすが
二羽飛びて
レースの百合も
さびしく暮れたり (704)(同年)

  21編物の
百合もさびしく暮れ行きて
灰色錫のそら飛ぶからす (705)(同年)

  22みそらより
ちさくつめたき渦降りて
桐の梢に
わななくからす (708)(同年)

大正3年の⑰⑱には、中学時代の短歌に顕著な異彩を放った歌われ方の面影が十分残されている。⑰の音楽性や⑱の嗅覚性に対して刺戟的な詠い振りに対して、短歌時代後半の⑲~22は一体に凡庸である。⑳21は、「天窓二首」として歌われている。天窓から下がる百合を編んだレースのカーテン越しにからすが飛んでいくのを眺めている。同じ室内歌でも⑰の生彩はここにない。なくても構わないが、異なる趣きにもなっていない点は、賢治のなかで短歌に対する態度が後退気味になっているのを教えている。ただし後述するように正確には単体歌に対する態度である。

ちなみに⑰には、「文語詩」中に「黄昏」と題する関連作品がある。「花さけるねむの林を、 さうさうと身もかはたれつ、/声ほそく唱歌うたひて、  屠殺士の加吉さまよふ。/いづくよりか鳥の尾ばね、  ひるがはりさと堕ちくれば、/黄なる雲いまはたへずと、  オクターヴォしりそきうたふ。」文語詩と並べることでまた味わいを増すのも、ベースとなる短歌の一次性が優れているからに他ならない。胚胎するものの相違でもある。対して⑲以下の後期短歌は、刺戟に乏しい点と合わせて歌の中で場面を閉じている。もし「現場」というなら「現場」にはなりえず、「場面」で止まっていると言える。

それでは未発なままに惰性で作歌を続けていたのだろうか。短歌に飽きたわけでも、次の表現手段を探し求める契機を歌に探っていたわけでもない。なぜ歌詠みを続けていたのか。中学時代以降の歌内容を「歌稿」(「歌稿B」)が区分する年月ごとに、「賢治と短歌」の関係性の観点から通覧してみよう。

病床と恋慕・鬱積 先ずは「大正34月」の「歌稿」(80230)からである。この間の出来事を簡単に追っておく(天沢退二郎編集評伝『新潮日本文学アルバム12 宮沢賢治』新潮社、1984年)。県立盛岡中学校を卒業した賢治は、翌月の4月から5月末までの間、鼻炎手術のため盛岡市内の病院に入院することになる。これが「病床」である。入院期間中に一人の看護婦に熱い恋心を抱く。「恋慕」である。その思いは退院後も引きずるが、実家に戻って家業を手伝う賢治を待っていたのは、合わせて進学を認めてもらえない鬱屈した日々であった。これが「鬱積」である。しかし、その年の秋になって進学の許可が父から下りてからは、鬱積を一気に受験勉強の勉励に転換する。翌大正41月からは盛岡市の時宗寺院(教浄寺)に下宿してさらに受験に励み、4月、見事首席で盛岡高等農林学校への入学(農学科)を果たす。

生涯独身であった賢治と女性の関係は、賢治の意識下に強く偲び寄った場合でも双方向性を欠くもので、看護婦への恋慕の件はその典型であった。それでも作歌契機としてみれば新しい歌趣の開花が期待されるし、万人共通の一般項目だけにその現れ方が個別に偏するのか注目に値する。しかし時系列的にはまずは「病床歌」からである。

23そらにひかり
 木々はみどりに
 夏ちかみ
 熱疾みしのちのこの新らしさ (87

24ゆがみひがみ
 窓にかかれる赭こげの月
 われひとりねむらず
 げにものがなし (90

関連歌は約30首に及ぶ。ここに挙げたものは、賢治歌らしき響きのある2首である。歌の水準としても関連歌中では高いものである。ここでは病室の窓を「現場」として片や真昼、片や深夜と相異なる時間を歌中に詠み替えている。23では、初句と二区に「に」を畳語にして、かつ初3区までを脚音風にイ音で連ね、全体をリズムカルに整えている。それが「夏ちかみ」の響きをより活性化に高めることになる。「この新らしさ」は、まさに賢治歌のなかでの新しさでもあった。字余りもそれを厭わずに筆を走らせれば、あらたな歌境を拓くことになる。それが24である。新鮮な映像歌に仕立て上げられているからである。下2句をとりはらって、「ゆがみひがみ/窓にかかれる赭こげの月」と、俳句に作り替えれば、病床歌ではなくなってしまうにしても、さらに賢治らしい映像美の輝きを増すことになる。

なお、常套句を連ねた歌も少なくない。賢治と短歌を全体的に捉える時、常に念頭に留め置かねばならないことだし、上記したような中学時代の煌めきが総体的に薄れていく点からも、その都度の確認を怠らないようにしなければならない。次に恋慕歌をとり上げる前に、病が癒えた時の1首を掲げておこう。やはり賢治調である。

25雲はいまネオ夏型にひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり (117

次は一番苦手なはずの恋歌。最初は病床中に歌われたものである。

 26十秒の碧きひかりの去りたれば
  かなしく
  われはまた窓に向く (111

 27すこやかに
  うるはしきひとよ
  病みはてて
  わが目黄いろに狐ならずや (112

次は退院して盛岡を離れ実家に戻ってからのもの。

 28きみ恋ひて
  くもくらき日を
  あひつぎて
  道化祭の山車は行きたり (174派生歌)

 29君がかた
  見んとて立ちぬこの高地
  雲のたちまひ 雨とならしを (175

 真剣に「道化」を演じていたにしては、つまり本気で恋焦がれていたにしては、意外と作歌数は少ない(廃棄したのだろうか)。自分の切なる思いを歌にする上にも契機となる「物質」あるいは「物象」を必要としていたからか。26で言えば、「十秒の碧きひかり」となるもの(「物」)、27なら「狐」(「わが目」)、28なら「山車」、しかし29ではそれを欠く。「雲」「雨」では代役にならない。「高地」もまた然り。契機を欠くと勢い歌の水準まで問われることになる。かりに同じように低い評価でしか与えらないとしても、「契機」が見出せる場合は、どこかに賢治調が余韻として漂う。名歌を生みやすい恋慕においてさえ想念だけでは詠い出せないことは、賢治と短歌の関係を恋歌によって教えられることになる。

 恋心と同じようにもの想いの上に発語するのが、メランコリーである。賢治の場合はどであったか、退院して花巻の実家に帰った賢治は、上記したように父親から進学の許しがもらえずに沈んだ気分を引きずっていた。加えてまだ癒え切れない病に鬱々とした状態に気分は投げやりになっている。以下はその自暴自棄気味の3首である。寸評は省く。

  30なんのために
   ものをくふらん
   そらは熱病
   馬はほふられわれは脳病 (162

  31ものはみな
   さかだちをせよ
   そらはかく
   曇りりてわれの脳はいためる (167

  32雲ひくし
   いとこしやくなる町の屋根屋根
   栗の花
   すこしあかるきさみだれのころ (172


 心機一転 次は「大正四年四月」とある中から採る。父の許しが得て受験勉強に励んだ甲斐あって盛岡高等農林学校に入学(農学科第2部首席入学)。まずは心機一転を気分的に前半に解き放った如き1首。冒頭歌である。

  33かゞやける
   かれ草丘のふもとにて
   うまやのなかのうすしめりかな (231

 中学校時代を彷彿とさせるような、進学で再び出会った野山に動物たちの姿を見る叙景歌が立て続けに作られる。歌作りは幾許か巧みになる。それでも中学校時代に拓かれた歌境のなかで作られる、作歌の大枠によって、歌の巧みさは却って一首の刺戟度を弱める方向に働いてしまう。

  34野うまみな
   はるかに首をあげわれを見る
   みねの雪より霧湧き降るを (244

 対比できるのは、「雲垂れし裾野のよるはたいまつに/人をしたひて 野馬馳せくる」(16)である。野馬(野うま)の捉え方が違う。動態感に遠近法を巧みに取り入れて引き締まった一枚の画幅に仕上がって小気味よいが、それだけで動きが止まって見る人(歌う人)に詰め寄らない自動詞的な「野うま」の34に対して、歌い方はたしかに一本調子で言葉の躍動感にも欠けるが、「人」にも「野馬」にも均質な時空が被さる中学校時代の作歌には、他動詞的な対象への作用を条件とするなかに物語性が惹起される。その違いはさらに拡大生産され、結局最後まで埋められず、歌の題材の遣り繰りと、連作形式を含めた技巧的な試行錯誤に短歌制作の意味を繋げ維持していく。それはそれとし注目されるが、そのことで中学校時代の作品が乗り越えられたわけではない。


 体験の追加 年次は「大正五年三月より」となる。まずは歌の題材の遣り繰りだが、幸いに関西方面への修学旅行がその先鞭をつけることになる。しかし、我々が期待し望みもする賢治調はここにはない。悲惨な結果とは言わないまでも、題材が期待感を膨らませる分、大きな落胆として返されることになる。たとえば冒頭3首。「日はめぐり/幡はかゞやき/紫宸殿たちばなの木ぞたわにみられる」(256)、「山しなの/たけのこばたのうすれ日に/そらわらひする/商人のむれ」(257)、「たそがれの/奈良の宿屋ののきちかく/せまりきたれる銀鼠ぞら」(258)。固有名詞としての地名(「紫宸殿」は京都を含意)はあっても、実感は伴わない。旅先をなぞっただけの歌である。賢治調はこと異郷に無反応であるばかりか、実は拒否反応をさえ起こしてしまう。賢治の体質を超えて真理を窺わせる特徴である。

 関西で解散した後の有志との自由旅行では、伊勢神宮、箱根から東京見学を愉しむが、ここでは東京2首を挙げておく。血流が滞ったような体から踏み出す足取りは、どこか重たげである。歌いながらも歌っていない。実は歌えない。首府を異郷どころか異国としなければならないからである。

  35しろきそら
   この東京のひとむれに
   まじりてひとり
   京橋に行く (274

  36浅草の
   木馬に乗りて
   哂ひつゝ
   夜汽車を待てどこゝろまぎれず (275


 短歌の量的変遷 将来の賢治を知っているからここには賢治がないと言ってしまうのだろうか。そうではない。ないという事態は、中学校時代に遡って同時代の歌と比較した上での判断である。それでも歌の量は多い。一見矛盾である。賢治と短歌の関係を知るには、一度作歌量の推移(ただし「歌稿」の上の推移)を確かめておく必要がある。

あらためて中学校時代から追うと、(a)中学校時代が79首、(b)高農入学までの1年間(大正3年4月~翌43月)が150首、高農時代(年次は多少前後する)は、(c1年次(大正44月~翌52月)が25首、(d)同2年次(大正53月~63月)が194首、(e3年次(大正64月~翌74月)が196首、(f)研究生1年目(大正75月から大正87月)が65首、(g)それ以降(すなわち大正88月)から研究生2年目を経て修了後(大正95月)の大正103月までが52首である。この間、大正101月には国柱会本部を訪れるために上京(無断上京)。(h)「歌稿」最後の「大正104月」は、出奔してしまった賢治を訪ねた父との関西旅行歌群であるが、その数は48首である。

一覧表記すると、(a79首→(b150首→(c25首→(d194首→(e196首→f65首→(g52首→(h48首のとおりである。契機的要因から見ると、(b)が多いのは病床・恋慕・鬱積のためである。最多の(d)・(e)の場合は、高等農林での学業の充実とともに、発表意欲が旺盛になったことによるものである。(d)では「校友会会報」、そして(e)では自主創刊誌「アザリア」が、その契機をつくることになる。逆に寡作は如何なる理由からか、(c)の場合は、普通に考えて、入学し立ての向学心に燃える者の関心が違う方に向いていたからであろうが、(f)以降は、外的要因(肋膜炎治療、妹トシの看病)に加えて、短歌自体に対する内因的な距離が生じていたことが推定される。中学校時代歌に高い評価を与える本稿の場合は、多作と寡作の違いを超えて〈賢治調の不発〉を見るのであるが、それでもなにが多作を誘発したかを、同じ契機的要因でも歌の上から確かめておかなければならない。「大正五年三月より」の続きから思い当たる箇所を挙げてみたい。


 標題歌の導入 最初に挙げられるのは、「標題歌」の積極的な導入である。標題歌とは見出し付きの歌を仮称したものである。年次としても「大正五年七月」が打たれている。新たな作歌態度の更新に向け打たれているかのようである。

  37     石ヶ森
こゝにたちて誰か惑はん
これはこれ岩頸なせる石英安山岩(デーサイト)なり (336
       
  38      沼森
    この丘の
   いかりはわれも知りたれど
   さあらぬさまに 草穂つみ行く (337

 この他、標題としたものを掲げると、「湯船沢」「新網張」「大沢(オサ)坂峠」「同 まひる」「茨島野」「東京[博物館]」「神田」「植物園」「上野」「小鹿野」「荒川」「三みね」「岩手公園」「農場」「仙台」[福島][山形][福島][盛岡]である。地名が圧倒的に多いことが分かる。地名はそのまま「現場」である。賢治の発想と発語の原点である。そのことで多作されたとしても、しかしこのの歌には魅力乏しいものが少なくない。繰り返しは、刺戟を高めるより減じる方向に作用してしまう。

標題を設けることは、叙景歌に扉を設けることである。内側から開けようとする内発力が自然と高じ視覚的効果をも高める。標題歌を必要とした内因であろう。しかし掲げた標題に明らかなように異郷が多い。東京も再出する。しかし結果は同じである。再挑戦に見合った成果が生みだされるわけではない。それでも「東京」の場合は、一連の地名のなかの一つとして再掲されことで、賢治と地名の関係を浮き彫りにさせる上に、反証事例として逆説的な役割を果たすことになる。

いずれにしても賢治の場合は、感覚的にも同じ地名でも限定的なものにより感応的である。掲げた2首が、標題に森を掲げ、かつ森に名前が付けられているそれだけで、歌が歌として自ら悦び息づいていることを教えられる。会話が聞こえてくるのである。それも物象や事象のなかから、それ自身の肉声として。まさしく賢治に特徴的と言われる「擬人法」の範疇である。菅谷規矩雄は言う――「この手法(擬人法・引用注)だけが、宮沢賢治の短歌の初期的な特徴であり、かつまた、この手法において短歌が宮沢の(文学的表現の)初期的な特徴をなすものであったといって過言ではない」(同著『宮沢賢治序説』大和書房、1980年、143頁)と。標題歌自体もあり方としては「擬人法」である。

それはともかく、歌の気息が、作為的でない伸びやかさに歌を包みこんでいるのは、大きな自然の法則と一体的なナリュナルなものに連携している感じである。「石ヶ森」と「沼森」は、劇中人物の一役者であるかのような配役性を帯びている。それが、「これはこれ」や「さあらぬさまに」を「台詞」として効かし聞かせることにもなる。いまだ漠然としていても、やがて歌に感じた世界の構築が、別ジャンルの上に新たな標題を得てより大きく展開されていくことになる。その意味でも「標題歌」の導入は、歌の内容より外形としてより多くの意義を賢治と短歌の関係に見出すことができるのである。


連作歌の導入 次が「連作歌」の導入である。「大正六年一月」の年月名で括られた一群が、その最初であり、ここでは日誌風に日を継いで連作されていく。日誌連作歌とも言うべきもので、この初出形態は、「第一日昼」から開始されて「第七日夜」まで続き、最後に抽象的な「第x日」を措いて終わる。標題に「ひのきの歌」を掲げ、構成歌数は計20首からなる。雪を被ったひのきのさまざまな瞬間的な姿を寄せ集めて、「ひのき」による「ひのきの」ための、あたかも独り舞台劇としての連作歌である。はじまりは昼の窓から外に見えるその姿――あらしを呼ぶ気配に枝を揺れ動かしている。

39あらし来ん
 そらの青じろ
 さりげなく乱れたわめる
 一もとのひのき (431
 
 次(二日目)は、翌日の夜の場面――雪を被った姿に菩薩の姿を重ねて見せる。

40雪降れば
   今さはみだれしくろひのき
   菩薩のさまに枝垂れて立つ (434

 次(三日目)の舞台は、夕暮れ時――緩徐楽章のようなアダージョの調べを浮かべて見せる。

41たそがれに
 すつくと立てるそのひのき
 ひのきのせなの銀鼠雲 (436

 次(四日目)は、再び夜――しかし今、雪は降っていない。降り止んだ夜空に月が浮かび、薄くかかった雲を背後から鈍く照らしている。幻想的な場面を浮かべて見せる。演出にも余念がない。

  42くろひのき
   月光澱む雲きれに
   うかがひよりて何か企つ (438

 次(五日目)も舞台は夜――一度降り止んだ雪は、天に月の夜空をひろげている。その天のもとに立つ「ひのき」は、着せ替え人形のように姿を変える。ここにも演出の妙を目の当たりにすることになる。

  43雪落ちてひのきはゆるゝ
   はがねぞら
   匂ひいでたる月のたはむれ (440

 次(六日目)は、昼と夜2場――ともにスケルツォである。

  44年わかき
   ひのきゆらげば日もうたひ
   碧きそらよりふれる綿ゆき (443

  45ひまわりの
   すがれの茎のいくもとぞ
   暮るゝひのきをうちめぐりゐる (444

 次(七日目)が実質的な終場面となる。夜である。これまで劇場の外に身を置いて――技法的には括弧を用いて、そのなかで独語する形をとる――表に出ることのなかった人間が、括弧に身を潜める形は踏襲するものの、「ひのき(よ)、ひのき(よ)」と、対話形に身を乗り出すように呼びかけて、自らの正体と自分と「ひのき」との関係(宿世)を解き明かそうと、はっきりとしたかけ声をもってして(大詰めを)見せようとする。この最後の2首によってこれがあらためて劇(雪中劇)であったことが明確となる。

46たそがれの
 雪にたちたちくろひのき
 しんはわづかにそらにまがりて (445

47(ひのき、ひのき、まことになれはいきものか われとはふかきえにしあるらし
48むかしよりいくたびめぐりあひにけん、ひのきよなれはわれをみしらず)
                                                     (446)(447


 しかし、46で終え、最後まで「ひのき」を主役にして人間を括弧以上の声にしないで幕を下ろす方が、歌としてははるかに高い境地を望めるはずである。歌詠みには自明ともいう余韻を捨てたことは(それが一つには賢治短歌の評価を低い方向にも導くことになってしまうのであるが)、すでに賢治が、短歌を別の目的で詠みはじめていたことを物語っている。標題を伴った連作歌が、言ってみれば短歌に書かれた物語(短歌物語=散文)である所以である。


 多作の季節 多作期(e)も同様な形で歌い続けられていく。高農3年次に進級した4月の「大正六年四月」の年月名で括られた一群では、標題を掲げない一首単独歌でも連作を意識した作歌が実現されるようになる。賢治の想像力(創造力)を刺激してやまない「森」に題材を採ったものである。曰く「箱ヶ森」「七つ森」の歌群(4828348890)がそれである。歌群はあくまでも歌群であり物語歌的な連作歌として作られていない。一首に完結を求める中学校時代の歌作りの愉しさを取り戻しているかのようである。各「森」(と言っても、同じ森の別名のようであるが)から1首ずつ掲げておく。

  49箱ヶ森
   あまりにわぶるその木立
   鉛の海をなほ負ふがごとく (484

  50おきな草
   とりて示せど七つ森
   雲のこなたに
   むづかしき(おも) (488

 無理のない自然な形の擬人化である。しかも意外性を宿している。それが一首単独で「物語」に繋がろうとしている。手を伸ばしてつかまろうとしている。今や短歌は、歌振りの冴えを捨てて、否、棄てることによってリズム感に浮き立つような、新たな境地を迎え入れようとしていた。なお、「箱ヶ森」「七つ森」には、「歌稿」とは別に雑誌(『校友会会報』第34号、大正67月)に発表した連作があるが、「箱ヶ森」の配列を確かめると前後が入れ替わっている。「歌稿」のなかではより時間軸上の配列に近づいている。一首単独の場合であっても物語性をより強く意識する、それが「歌稿B」の成立段階(推定大正10年秋~11年前半)の賢治の態度である。

 次の「大正六年五月」では、ほぼ標題歌で埋められる。目立つのは、対照的な「時」の設定で作った全9首。「夜の柏ばら」(6首)と「まひるのかしはばら」(3首)がそれである。「時」も夜の設定では、「銀河」と「あまの川」にあい対して天を高く見上げる、遠大な視線の先に広がる「柏ばら」が立ち上がっていたが、昼のそれではまるで一夜の遠大さから疾く醒めてしまったかのように、もっぱら地上の広がりにしか目が行き届いていない。とりわけ内に膨らむ思いは、同じ「時」でも「夜」において自由伸長である。その時、賢治の短歌は、見えないものを見定める遠眼鏡となって賢治の想像力に働きかける。あらたなリアリズムとの対面である。上手下手を意に介さない歌境のなかでの歌詠みが繰り返され、成果を積み重ねていく。以下は「夜」からの二首である。

  61天の川
   しらしらひかり
   夜をこめて
   かしはばら行く鳥もありけり (523

  62あまの川
   ほのぼの白くわたるとき
   すそのをよぎる四ひきの幽霊 (525


 人物歌の再詠 その一方で地上の「リアリズム」も賢治の歌作りに勢いをつける。ここでは中学校時代にも作られた「人物歌」の盛り返しを指摘しておきたい。ただし再詠の兆しは、一時期前のd期に遡る。「調教師の/汚れて延びしももひきの/荒縞ばかりかなしきはなし」(316)、「学校の郵便局の局長は/(桜の空虚)/齢若く死す」(393)の如くである。中学校時代の「人物歌」(⑤⑥)に潜んでいた妙味を削いでしまったような、いささか生彩を欠く単調気味のものであるが、呼び覚まされた「人」への関心はより鋭角的になるとくに(393)の死と二行目の括弧遣いとの文脈関係。それが物語性の凝縮を促すことになる。

  63そらひかり
   八千代の看板切り抜きの紳士は
   棒にささへられ立つ (573

  64あをじろき
   ひかりのそらにうかびたつ
   切り抜き神士 二きれの雲 (574

さらに「土地感覚」を内包した新作人物歌も生まれる。同歌には新奇性があり、人物歌は「異人歌」の様相を帯びることになる。

  65うす月に
   かがやきいでし踊り子の
   異形を見れば こゝろ泣かゆも (593

  66わかものの
   青仮面の下につくといき
   ふかみ行く夜をいでし弦月 (605

 65は、「上伊手剣舞連」を掲げた4首連作からなる標題歌の冒頭歌である。同様に66も標題に「原体剣舞連」を掲げた2首構成のうちの1首である。後年の賢治の作品(詩・童話)に再生される世界観の先触れを、この「異人歌」に見出すことができる。


 物語指向の高揚 以上が高農時代である。以下は卒業後、研究生として同高農に残った(f)期の歌である。歌の総数が約三分の一にまで減ずるのは、マンネリ化に加え新しい視点が見出せないためであるが、同じ連作歌であっても事実関係的な地名などからあらたに観想的な標題(「青人のながれ」)が現れている点と童話文学に拠った標題(「アンデルセン白鳥の歌」)が同時期の巻末を飾っている点は新規な試みである。短歌内に別な発想が生まれたことを物語る標題である。しかし、それぞれ10首と9首からなる連作歌は、さらに物語性を強め、一首としての完結性を欲しない。新発想は、同時に短歌との決別を用意することになる。ちなみに初期童話作品はすでに書きはじめられている模様である


  67青じろきながれのなかにひとびとはながきかひなをうごかすうごかす(682

  68白鳥の
   つばさは張られ
   かゞやける琥珀のそらに
   ひたのぼり行く (698
 
任意に選んだ2首である。すでに歌は賢治の心を物語のなかに誘うだけのために歌われている。眉をひそめる人の顔は浮かんでいない。地獄の河を流れ下る、さ迷える死人の群れながら「うごかすうごかす」(67)も、またアンデルセンの想像が創りあげた「白鳥」(王子たち)による飛翔たる「ひたのぼり行く」(68)も、ともに物語性が先行しているために、短歌を編んだ瞬間から主語は、いち早く賢治の創意に溢れた物語指向に取って代えられてしまう。

* 弟清六は言う――「この夏(大正7年・引用注)に、私は兄から童話『蜘蛛となめくぢと狸』と『双子の星』を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりとおぼえている」と(同者「兄賢治の生涯」『新文芸読本 宮沢賢治』収載(14頁)、河出書房新社、1990年(初出1987年))。


 台本歌への挑戦 そして実質的には最終期とも呼び得る(g)期を迎える。物語歌の最後を飾るに相応しい標題が掲げられる。曰く「北上川」である。連作は「第一夜」から「第四夜」にわたる。すべて「夜」である。「第一夜」では、別標題が入れ子状に組みこまれる。曰く「夜をこめて行く歌」がそれである。いかにも賢治好みの単語や修辞が頻出する。「錫の夜」「みをつくし」「わがすなほなる/電信ばしら」「北上川にあたふたと/あらわれ燃ゆる/いさり火のあり」「銀の夜」「いさり火」「夢の兵隊」「月の幻師」等々である。

「第一夜」に集中するこれらの響きは、しかし第一夜限りで、1首で構成される「第二夜」は、「歌稿A」にしかなく、「第三夜」も本体の歌だけは「歌稿B」であっても、標題名は「歌稿A」にしかない。そして歌・標題とも「歌稿B」として成立していても、3首からなる「第四夜」の場合では、「第一夜」を否定するかのように初句に「黒き雲」「黒雲」を揃えたように措く。歌群を結束する歌振りにも内容にもなっていない。むしろ最初から果たしていない。標題の付け方と、全体の約7割を賄う「第一夜」の意気込みだけ見ると、なにか台本を綴ろうとしているかのような、大きな構えで詠いだされる。それだけに連作歌は、一方に偏した体裁上からも、また後に続かない内容上からも破綻気味で、どちらかと言えば途中で放棄された感が強い。それに替わる散文物語の構想が着実に進行していたからであろうか。以下は、いまにも新しい筆が執られそうな歌(「北上川第一夜」)として掲げる。

* 歌の繋ぎ具合に関しては、岡井隆の考察がある(「宮沢賢治短歌考」同著『ロマネスクの詩人たち』国文社、1980年、825頁、初出1975年)。

  69ほしめぐる
   みなみのそらにうかび立ち
   わがすなほなる
   電信ばしら (718

  70錫の夜の
   北上川にあたふたと
   あらはれ燃ゆる
   いさり火のあり (720


 旅歌の再出 形式的には最終期となる(h)期は、上記したように予定していなかった父との旅日記的な歌(旅歌)である。〝手すさび歌〟とまでとしては言い過ぎながら、踏襲された歌形式(標題連作歌)からは新たなものは生まれていない。もし賢治歌の短歌評として読みこむならば、あらためて「異郷」が歌に対して制約的に作用していること、それは基本的に高農2年次の関西方面の修学旅行やその後の自由旅行の際と変わらなかったことを教えられることになる。強いて取り上げれば、仏教世界に深く足を踏み入れていたことが、比叡山参詣に伴う「信仰歌」(12首)を篤く詠ませていた点(「うち寂む大講堂の薄明にさらぬ方してわれはいのるなり」(778))、同じ異郷でも動物(奈良公園の鹿)を前にして、一気に歌を息づかせる賢治調の回復(自己回復)が認められる点(「おおそれにて鉛の鹿は跳ねる踊るなれは朝間をうちやすらへよ」(796))に興味深い歌振りの息遣いが感じられることである。

 最終期として掲げておきたいのは、東京を歌った7首の内の1首である。異郷を異郷として自覚的に詠った歌だからである。

  71かゞやきのあめにしばらくちるさくらいづちのくにのけしきとや見ん(807

 「いづちのくに」とは、まさに賢治にとっては「異国」であった。それかあらぬか、「異国」のままでは閉じられぬ思いからか、派生歌で実質『歌稿』を終えさせる。

  72岩出山いたゞきをふゞきこめたれば
   谷は天へとつらなるごとし (811派生歌b



 Ⅱ 賢治と短歌

 非習作としての短歌 賢治とって短歌とはなんであったのか。ちくま文庫版全集の「後記・解説」(入沢康雄)でもこの当然の問題に言及し、筆者も参照した大岡信と岡井隆の二人の考え方を踏まえた上で、短歌時代が童話作家や詩人としての出発のための「予備段階」であるとの見解を示す。しかし、従前の童話や口語自由詩のための「習作」説とは一歩も二歩も距離を置く。12年にわたる短歌は独立した表現期間だったと評価する。「予備段階」と「習作」との違いは、次を意識しているか否かの違いにあった。「習作」ではそれを前提とするのに対して「予備段階」ではそうしない。入沢は、次を意識しているとも解られかねない「予備段階」という用語への自己規定を再確認しておく必要もあって、「習作」説について次のように態度表明を明らかにしてみせる。「結果としては、たしかにそう(「習作」・引用注)みえる。しかし、現に短歌を書いているときの賢治に、これが後の作品のための「習作」であるという意識があったかどうか」(714頁)と、『春と修羅』の場合とは事情が違っていたはずだと。

 入沢の習作説に対する疑念は、あらためて賢治と短歌の関係が純粋に表現行為の問題であることを再確認させてくれる。賢治短歌の通覧もその意識のもとで行なった。その上で確認できた点を集約的に挙げれば次のとおりである。

1)開始段階の中学校時代作品には賢治調の横溢が顕著であったこと。
2)歌の題材は常に身辺に見出されていたこと。
 (3)内容以上に外形的刺戟(標題化・連作化)に求めて作歌を継続していたこと。

 
「秀歌」と賢治 ただし、(1)~(3)のまとめ方は、最初から(1)をいささか偏向的に先決めしていたことにより、通覧には秀歌論の観点が欠落的であったことは否めない。とりわけ(2)においてその可能性が高い。しかし、「秀歌」の見逃しは、「賢治調」のそれにまで繋がるわけではないし、賢治短歌の味わい方を弱めているわけでもない。賢治調が歌の破格により多く見出される点は、賢治短歌がそもそも最初から「秀歌」とは一線を画した世界であることを教えている。だからと言って「秀歌」に背を向けた態度で賢治が作歌に当たっていたことまでは意味しない。むしろ(3)は結果であって、一義的には「秀歌」的契機を兼ねる(2)に短歌的発意の本質があり、歌人としての基本がある。賢治もまた例外でない。12年を生む内発力は、より深い歌人指向に伏在していたはずである。

その時、「秀歌」とは身分の保証であった。終に賢治が得られないものであった。破格は破格以上ではなかった。実験的な短歌には成長しなかったのである。否、最初から賢治の意識からは脱落していた。もし、再び比較論を持ち出すならそれが「短詩」を生み出した啄木との違いだった。賢治にはコンテンポラリーな野心性は備わっていなかった。たとえば会話の歌――「(なん)()だ。(さげ)の伝票。(だれ)だ。名は。高橋茂(ぎつ)よし。(びゃ)こ、待で。415)、あるいは方言の歌――いしょけめに/ちゃがちゃがうまこはせでげば/夜明げの為が/泣くだぁぃよな気もす(539)は、一回性にとどまった(ただし(539)は『アザリア』で標題連作歌(計8首)として「第一号」を飾っている)。


二人の早熟性 また早熟性で言えば、出発時点では同じように高い作歌力を見せながら、資質の高さを踏み台(バネ)にした経過は、同じようにな地点到達には至らなかった。より短い生涯を終えなければならなかった啄木の短歌人生は、賢治の12年にも満たなかったが、最後には皮肉なことに短歌に背を向け、「暇ナ時」に作る程度に反短歌的になっていた醒めた心が、より短歌史上に多くの「秀歌」を遺すことになった。しかも「異郷」において異郷歌を普遍的な歌境に止揚するなかに真の天才性を発揮することとなった。この両者の決定的な相違点は、資質性の違いに還元されるものであるが――だだし、郷土があってはじめて異郷があるなら、啄木にも「岩手」は必要不可欠であった。見方によっては一なる根元を共有していたとも言えるが、今は不問に付しておかなければならない――対立的な異郷論だけでは、賢治の資質の深層には手が届かない。

賢治の聴覚は、「異郷」に対しては無音しか聴きとれなかった。故に賢治の異郷歌は、響きに乏しい机上の創作歌だった。上掲(1)を賢治歌の特徴に挙げられる根拠は、自然の摂理的な響きのなかで、それ等が深く広くかつ高く実現されている点であった。異郷歌が逆説的に物語るとおりである。大岡信によって捉えられた、賢治歌の深層に届く響きが生まれる原風景でもあるが、それが(2)によって必ずしもそれ以上に響かせられなかったのはなぜか。今一度自己批判的に12年を振り返って、一先ず一文を閉じることにする。


賢治と短歌 つまり後年歌の方が相対的に低調と見立てるのは、実は読み方が誤っていたかもしれないのであって、12年に重きを置く限りは、その都度賢治の中では再現されていた、同じ響きを聴き取っていた、と捉える方が実態に合っている、そうした態度で再度臨むべきではないかという立場(自己批判)である。そうなると作品の出来栄えを問うのも、我々の側の事情であっても賢治のそれではない。再現((1)の再現)の場として短歌は有効に機能していた。そういうことになる。この見方の方が、(2)の占める位置をより高めることもなる。身辺に不断に動機付けする、そうせずにはいられない賢治が、力強くここに佇んでいるからである。

その上で異郷論が再び問いをなげかけてくる。今度は身辺論の形を採ってである。異郷に疎く、同郷に密なる賢治は、(2)を常に密なるものと企てずにはいられない。(1)では身辺と動機が言葉を介して一体化していたとしても、元来、言葉は他者でしかなかった、それが多作化で失地回復を図る(2)に顕れた発語性となる。加えて(3)も、(2)に伴う編集性が形となって現れたものと見る時、連作歌(とりわけ標題連作歌)が、一首の推敲にとどまらず、「歌稿A」「歌稿B」の二度にわたってまで一書(一綴り)の形を採らずにはいられなかった、単なるまとめ以上の内的必然として行なわれたものであったこと、すなわち(2)の要請形であったことを知ることにもなる。それを含めて賢治にとっての短歌の意味となり、後年(晩年)、文語詩が強い編集形を再現するのも、あるいは(2)のその延長であったと見ることも可能となる。

それでも(1)の再現はできなかった。編集性は(2)にあっても(1)にはなかったからである。まさに(1)の姿は未分化のなかにあった。それが異郷に対峙する「身辺」の真意であった。やはり(3)は、「身辺」を離れたところに象られた「復元身辺」であった。ただそれが賢治の生を離れていなかったことで、「自己批判」は、それはそれで正当である。しかし、それも(1)との間の自己矛盾が生んだことによるものでる。故に修正は要しない。

ここに来て冒頭に立ち戻ることができる。「異郷」も「同郷」も、また「身辺」も「復元身辺」も揃って「現場」にたち返るからである。それでも質しておかなければならないのは、宋左近にとっての「現場」である。彼にとっては呪縛にも近い「現場」であるが、経緯を記したように自由口語詩に発する「現場」である。自由口語詩と(1)の関係を問わないまま短歌に「現場」を持ちこむのは、あるいは自由口語詩をまってはじめて発生すると聞かされれば、たちまち行き止まってしまう。

おそらく「無声慟哭」から受ける強さは、短歌では得られない。しかし、実は「無声慟哭」には(1)の要因が乏しい。このことについてはかつて言及したことだが、まさに「慟哭」が生む生理的な性格のもので、むしろ「現場」は、一時賢治自身をも離れていた。したがって「現場」は、賢治をも超えていた。超えたところに在ることで、短歌と口語自由詩の違いも捨象される。むしろジャンルの違いに見出された概念が、次の弁証法を生み出す。

宋左近が直感した「現場」は、「現場=直接性」(冒頭引用部のc)だった。そのことによる遠大な距離の逆説的な発生だった。とすれば、賢治調の横溢という(1)は、一気に「距離」を内に縮めた賢治と「現場」との出会いを、短歌という表現行為の上にとどめた証であった。この結論が得られるのである。

すなわち、短歌は「距離」の上にかけられた橋だった。しかも一本橋だった。12年を通じた永久橋だった。橋を支えたのは、(2)=「時間」と(3)=「空間」だった。その時(1)は「質量」だった。「現場」に立ち続けるためには、すべての要件が必要だった。でも三次元だった。「現場」は、実は次元をも超えていた。超次元だった。短歌後の賢治文学を念頭に措くとき、短歌とはなんであったかを考えなければならない。それを含めて橋渡し役だったのか、渡り切った者にとっては無用な代物でしかなかったのか。そうではなかった、役目を終えたのではない、賢治に新たな役目を与えたのである。しかも立ち戻る橋だった。それを含めて「『現場』への橋」だった。「賢治と短歌」の意味だった。


テキスト
『文庫版 宮沢賢治全集3 短歌 冬のスケッチ 三原三部ほか』筑摩書房、1986
『新校本宮澤賢治全集第1巻 短歌・短唱』筑摩書房、1996
引用参考文献
天沢退二郎編集評伝『新潮日本文学アルバム12 宮沢賢治』新潮社、1984
入沢康雄「後記・解説」(同上『文庫版 宮沢賢治全集3』)
大岡 信『ことばの力』花神社、1978
大岡 信『日本詩歌紀行』新潮社、1978
岡井 隆『ロマネスクの詩人たち』国文社、1980
小川達雄『盛岡中学生 宮沢賢治』河出書房新社、2004
草野心平編『宮沢賢治』日本詩人全集20、新潮社、1967
佐藤通雅『新装版 宮沢賢治の文学世界』泰流社、1996
菅谷規矩雄『宮沢賢治序説』大和書房、1980
宋左近『宮沢賢治の謎』新潮選書、1995
中村 稔『宮沢賢治ふたたび』思潮社、1994年、
  宮沢清六「兄賢治の生涯」(『新文芸読本 宮沢賢治』河出書房新社、1990年)

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