2015年11月30日月曜日

[り] 《リンツ》シンフォニーの響き~モーツァルト再試聴~



はじめに ここのところ読書の中心に詩論を置いている。必要もあって体系的に読んでみたいと思ったからである。一方で佳境を迎えた本エッセイに対する自己債務の完済に向けた足取りを一歩前に進めたい思いもある(残り後5本で債務完済)。なら両者を兼ね合わせてみたらと思い立ったのが本稿である。ただし結果としては、前者に対しては以後の視座を得た程度に終わり、後者に関しても再試聴の手掛かりを得たところで終わってしまう。それでも視座にせよ手掛かりにせよ、これからの詩論、モーツァルト論(音楽論)を一歩前に進める上に、あるいは一里塚にならないでもない。思いとしては多少なりとも手応え確かなものをつかんだ感じである。

以下ではモーツァルトのシンフォニーを、いわゆる《リンツ》と呼び慣らされているシンフォニー第36番ハ長調、K.425を取上げることから課題に取り組んでみたい。以前、ベートーヴェンを考える上にハイドン、モーツァルトのシンフォニーについて彼等の作曲歴での位置について若干言及した(本ブログ「へ」)。今回はその発展形であり補筆を兼ねるものである。《リンツ》シンフォニーとは、モーツァルト個人にとってだけでなく、シンフォニーの歴史の中でもターニング・ポイントをなしているからである。そのことを確信したからである。


一冊の大著 以上の文脈上から関係するいくつかの文献に目を通した(巻末)。そのなかでももっとも浩瀚な一冊は、ニール・ザスラウの書名もズバリ『モーツァルトのシンフォニー』(磯山)である。翻訳本は2巻からなり(以下では『Ⅰ』『Ⅱ』のように記す)、総ページは実に1200頁に及ぶまさに大著である。徹頭徹尾モーツァルトのシンフォニーに特化した、情報量が多いだけでなく、示唆に富んだ内容の濃い深い大研究書である。監修・翻訳にあたった磯山雅は、「モーツァルトの交響曲に関してあらゆる情報を収集したと言っても過言でないほどの情報量をもつ、画期的な著作である」と高く評価し、同氏も多くの示唆を得たという(磯山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、2000年。後に『モーツァルト』と改題・補筆して文庫化(ちくま学芸文庫、2014年))。

得た知見は多岐にわたるが、モーツァルトの時代のシンフォニーが、我々が知っているようなコンサートの華(磯山は「真打ち」とウイットに富んだ言い回しをしたが)とは反対の脇役(前座)でしかなかったことを、具体的なコンサートプログラム等を通じて再認識させられた点である。このシンフォニーの時代観は、既成概念の変更だけにとどまらず一部ではその崩壊にまで及びかねないことになる。たとえばモーツァルトの天才性の象徴である作曲における早熟性の場合、器楽のソロ楽器にとどまらず交響曲に及んでいることが、原題から見ると天才性を高め本物としているわけであるが、18世紀とりわけ中ごろのそれが脇役でしかなかったことで、交響曲作曲から浮かび上がる神童的な姿にしても、単純に高度で難解なジャンルに挑むのとは別なイメージを浮かべ上げることにならざるをえない。この点一つをとっても、音楽史の重みを痛感しなければならないことになるわけであるが、あわせて10代に作曲されたシンフォニーの内容理解を深める上にも示唆的なわけである。その意味からもあらためて当時のシンフォニーが置かれていた位置を再確認しておきたい。


18世紀シンフォニー すなわち当時のシンフォニーは、コンサートにおける「開幕曲」であったという点、あるいは区切りをつけるための「幕間曲」であり、さらには「閉幕曲」でもあったという点である。音楽会の開始を告げ(盛り上げ)、途中を区切り(転調し)、さらには締めくくる(収束する)ためである。しかも「閉幕曲」の役割には、たんに締めくくるだけなく、メインプログラムが誘いこんだ陶酔状態(夢見心地)から聴衆の目を覚まさせるという、非現実から現実への覚醒作用を籠めた、現実回帰を促す役割があったという指摘を聞かされるのである。このあたりを楽曲の響きとしてどう聴き直せばよいのであろうか。

また、コンサートをかりに対比的に《俗》とすれば、《聖》なる側の教会内での演奏でも事態は同じであったという点である。《聖》空間にあっても荘厳ミサの前座としてあるいは途中の区切りとしてまたは終曲として機能していたというのである。ただし、祝祭的な響きが求められていた《俗》の場合と違って、教会の場合ではそれなりの厳粛さが要請されたようである。当然といえば当然である。

次は、18世紀の著述家たちが、《俗》の場合として――「序曲」的性格を帯びた、どちらかと言えば盛り上げ的な音楽あるいは大団円で終わらせることを念頭に置いた場合のシンフォニーに触れた一節である(『Ⅱ』437頁)。

ソナタの旋律は、個人の感情を描写するものなので、高度に洗練されていなければならない。それと対照的に、シンフォニーの旋律は、そのような繊細な表現を通してではなく、力と強調によってそれ自体を際立たせるものでなければならない。

シンフォニーの特質は次のようなものを要求する。より洗練されたソナタにふさわしいであろうものよりも、いっそう単純な種類の主題、いっそう壮大で、いっそう男性的な仕上げである。

 さらに念頭に留めおかなければならないことは、シンフォニーが多作された点である。たとえば故郷ザルツブルグの例で見れば、およそ70曲を数えるという父親レオポルトをはじめとして、その父親を基準にさたに「数知れぬ」や「きわめた多数」と表現される作曲家たちが控えていたという点である(『Ⅰ』63頁)。全体としては、「18世紀の最後の60年間に、何千曲ものシンフォニーが作曲された」(『Ⅱ』449頁)と指摘されているのである。我々が浮かべるベートーヴェン以降のシンフォニーと比べて桁外れた数だというだけでなく、数の向こうに教えられるのは、多楽器に拠っていても音楽性としてはまるで別物であるとしておく必要があることである。

以上は、ハイドンの多作の背景を知ることでもあり、モーツァルトにおけるウィーン在住以前の、ザルツブルグ時代の「多作」の時代的な背景を教えるものである。かりにマンネリズムを感じるとしても、そうした18世紀のシンフォニー事情を念頭にとどめた上で聴かなければならないし、そのなかからも聴こえてくるものに耳と傾けなければならないことになる。


 音楽のミューズ ただしこれで終わってしまっては、分かったような気になってしまっては、意味がないに等しい。むしろ知らない方いいくらいである。芸術の「普遍性」の上からも、またモーツァルトの芸術性にとっても逆の効果しか生み出さないからである。要らぬ知恵に近い。

真実は、「それにもかかわらず」の視点(原点的態度)で聴き直したときにあり、そのときはじめてこの歴史的事実も事実として生きてくることになる。たしかに多作は因襲が生み出したものである。8歳時の作曲が可能だった点もジャンルに対する気軽さが作曲時の前提をなしていたと言えよう。しかし、モーツァルトの(広義の)ザルツブルグ時代のシンフォニーが終始因襲的に終わっているわけではない。モーツァルトの天才は、脇役たる楽曲にも「音楽のミューズ」を舞い降ろしているのでる。もとより「脇役」のなかに、K.183のト短調(第25番、177317歳時)や、K.201のイ長調(第29番、177418歳時)あるいは《パリ》シンフォニー(第31番ニ長調、K.297177822歳時)があるのを知っているからである。まさにミューズの手になる楽曲である。しかも「多作」としての一曲ごとにも十分にモーツァルトを聴くことができるのであり、それが時代性に対する働きかけであるのを感じ取ることができるのである。地上に舞い降りた音楽のミューズの囁きを聴く思いである。まさにこれが天才の意味にほかならないのである。モーツァルトであることである。


音楽の旅 ただしこのとき忘れてならないのは、天才であっても天才ごとの個別性への認識である。音楽のミューズは、天性の才能だけを条件にして舞い降りてきたわけではなかったことである。ここには天才にとって運命ともいうべき一人の父親がいたのである。レポルトだった。父親レオポルトによる一連の「音楽の旅」による、当時としても稀有な体験を個別的条件として、体験と一体的に生み出されたものであったのである。幼少年期における特異な旅体験なしには望みえない音楽、それこそがモーツァルトの芸術であったのである。一人モーツァルトに許された響きなのである。

最初の大旅行(マンハイム―パリ―ロンドン―オランダ)とシンフォニーへの関心の高まり。その延長に誕生したシンフォニー(1764年ロンドン、8歳)。後年のウィーン定住以前の、少年期における数回のウィーン訪問(最初は6歳時)と新たなシンフォニー(ウィーンのシンフォニー)からの刺戟、そしてある意味、音楽の旅というより人生の旅ともいうべき都合三度にわたるイタリアへの旅(同時に就職活動)。それが多感な少年期から青年初期にかかっていたことで、シンフォニーの上だけではなく、個人の感性を養う上からも最大の旅であったのである。イタリア語に通じたことも大きな成果であった。旅はまだ続く。旅の途次で同行の母を喪う、まさに悲嘆の旅でもあったマンハイムからパリの旅。実は母の死以前には失恋も味わっていたのである。

以上の幼年期から青年前期の遍歴は、伝記だけではなく作品論のうえからも叙述や議論のパラグラフをなすものと位置付けられている。モーツァルトに限ったことではないにしても、これが、コンサートや教会におけるミサ演奏会において主役(ソナタや声楽曲、宗教曲)の引き立て役とでしかなかった、言わば時代的な共通認識のなかにあっても、踏襲的な繰り返しと安易に先行契約しない、大枠を大枠としながらもそのなかで音楽性の発露に音楽のミューズを試す作曲態度に作曲家を仕向け、やがてシンフォニーの歴史の上に不滅の作品(最後の三大シンフォニー)を生み出すおおもとなるモーツァルトに特化した個別性であることを考えると、たんなるパラグラムでは終わらないのである。芸術論上のそれとすべきことを求めるのである。モーツァルトに個別の天才論の骨格でもある。

そして、このとき、《リンツ》シンフォニー(第36番)とは、因襲的な18世紀的シンフォニーから飛躍的に新しいシンフォニーの響きを生み出した、モーツァルトのシンフォニーに転換点となる記念碑的な作品だったのである。ある意味、遍歴の総決算だったとも言えるのである。


《リンツ》の意義 再び大著に戻れば、《リンツ》の画期性についてこう語るくだりがある。

たまたま、このような状況(18世紀的シンフォニー観であるべき響きが語られる状況・引用注)を変えるなにかが起きた。再説するが(すでに《リンツ》については前述で各説的な分析がなされているので・引用注)、1783年の《リンツ》シンフォニーは、長さ、演奏の困難さ、《表現の繊細さ》の点で、又緩徐楽章におけるトランペットとティンパニーの使用に於いて、新しい様式への傾斜をはっきり示している。(『Ⅱ』438頁、傍線筆者)

 さらに「各説」で補うと、次のとおりである。4楽章を個別に分析しているが、ひとまず第1楽章のみとする。

  アダージョの冒頭で、気高い二重符点のリズムが鳴り響いた瞬間、聴き手はモーツァルト晩年の傑作がもつ音楽の世界に、たちまち入り込んでしまう。(略)スケールの大きな第1楽章、完全に均整のとれた形式をもち、オーケストレーションの技巧を尽くしており、急いで作曲(計4日間・引用注)されたという様子を微塵も見せない。1783年当時に、《リンツ》と比較できるシンフォニーを作曲できる能力をもっていた他の作曲家は、ひとりヨーゼフ・ハイドンだけであった。(『Ⅱ』192頁)

 モーツァルト27歳時の作曲である。そして5年後には、「交響曲の父」ハイドンさえも辿りつけない、不滅の三大シンフォニーの、時代が一人の天才に創らせた音の極地に至ることになる。三大交響曲は――磯山もそう語っているように、《リンツ》を迎えてえシンフォニーから「交響曲」と呼ぶに相応しい楽曲となるのである――単独の曲ごとの新境地に加え、三曲が一つとなってまた別の「交響曲」を鳴り響かせているのである。「不滅」のなかにはこの「奇跡」の技も含まれるのである。

ちなみに《リンツ》がそうであったように、ここでも天才の名に相応しい早技振りが惜しみなく費やされている。三曲合わせて要した時間はわずか3か月にすぎなかった。同じ3か月でもほかに5曲を仕上げてのそれである。

 
画期への道 それはともかく、画期的な《リンツ》といえども予知段階とも言える前段を具えていた。当然であるが一気に新しい境地に辿りついたわけではないのである。大著は1775年にはじまり《リンツ》の1783年に至る間のシンフォニーの分析を行い《リンツ》シンフォニーへの道を探る(『Ⅱ』43237頁)。大きく3点が挙げられる。その一つは、「バス・ラインの分離」として把握された点である。

専門的表現が使われているが、要は通奏低音的な主音に埋没的な響きから音響上に独立的なポジシュンを与えられたということであろう。楽器状態として言いかえれば、「チェロ、コントラバス・ファゴット、(通常)チェンバロまたはオルガンが一体をなして[コッラ・パルテで(「主パートにしたがって」・引用注)]音響化」されていたものから、「チェロ、コントラバス、ファゴットのパートへと分離」したこと、記譜状態でいえば、記譜の外にあったバス・ライン(バッソ)が一パートとして「分割で記譜」されるようになったことである。この「分離」によって「オーケストレーションの重量化」が果されることになる。響きの深化や厚みとして結果することになるのである。

 2点目は、既述に関わる部分で、《リンツ》直前で「序曲シンフォニーとコンサート・シンフォニーの分離」が果されるようになった点が認められという。それ以前(《リンツ》以前)では、最初に歌劇の序曲として書いたものを後で楽章を追加してシンフォニーに書き直した作曲方法も散見されていたのが、その後の序曲は、書き換えを許さない、自己完結したものになる。1780年の《イドメネーオ》序曲がその最初であるという。以後の《魔笛》から《コシ・ファン・トゥッテ》にいいたる序曲も同様である。名称上からも「序曲」と「シンフォニア」とが互換関係にさえあったそれまでのシンフォニー(18世紀シンフォニー観)から、後のシンフォニー(交響曲)に飛躍する転換が果されたことが、楽曲上に意味するのは、「両ジャンルが分離した結果、シンフォニーは、かなりの長さと重さをもち、内部にしばしば反復を備えた3楽章ないし4楽章の形式へと標準化された」ことであったという。

 3点目は、「新しいオーケストレーション」とされる点である。具体的には管楽器の使われ方の変化である。コンチェルト・グロッソ風な弦楽器との対抗的な掛け合いあるいは独奏楽器への機敏な転身を見せたバロック期の管楽器は、18世紀半ばには「和声の背景を支える役割」を果たすようになる。それが《リンツ》に至って新たな役割が付加されることになる。それは、「重要な主題素材の提示、分解、展開に関与する役割」であるという。新たな役割の上の前提条件となるのは、管楽器奏者の奏者としての技能的自立であったというが、それが予告的に明示されたのが《リンツ》であったのである。ただし全面的な開花は、《プラハ》シンフォニーを待つことになる。優れた管楽器奏者の存在を必要不可欠していたからであった。これはプラハが優れたオーケストレアを抱えていたことを意味しているようである。

いずれにしても、管楽器の新しい役割は、他のパートにも従前以上の複雑で高度なテクニックを要求し、「深化した構想」の結果、「曲が長くなり、対位法的テクスチャーや半音階が増え、それらがあいまって、ジャンルとしてのシンフォニーに、新たな真摯さと複雑」をもたらすに至る。モーツァルト個人を越えて、これは「現代のオーケストレーションに対するモーツァルトの最も重要な貢献」であったという。その先陣を切った意味でも《リンツ》シンフォニーの画期性**が、あらためて痛感されるのである。
 
* 逆に楽章を削除してシンフォニーに仕立て直すこともあった。《リンツ》直前の第35番《ハフナー》シンフォニーがその例として有名である。

** 冒頭にあげた磯山雅の著作で興味深いのは、文庫化段階の補筆である。大きいのが《リンツ》部分だったことである。原書では、ザラウスのシンフォニー深化の条件とした三点(上記)を紹介したあとの最初の筆で、「《リンツ》も名作だが、モーツァルトのシンフォニーが《プラハ》から新しい段階に達することは衆目の一致するところであろう」としていたものを、この部分を削除して、文庫化ではあらたに「管楽器の使われ方」「《ハフナ―》から《プラハ》まで」の二項を追加して再説することになる。《リンツ》のシンフォニー史上の再考あるいは再確認である。
結果、第1楽章のアダージョにみられる新機軸から18世紀的なシンフォニー観(祝典的幕開けシンフォニー)の常識を覆す試みを認めるほか、ザラウスがいう管楽器の使い方からもたらされる響きの潤いや、ホ短調からはいる第2主題の深い味わいの再評価となる。緩徐楽章のアンダンテがつくる「ドラマの広がり」の指摘にも評価は及ぶ。その上で前著の結論に結び付ける。「ただし、こうして忍ばされた陰影がメヌエットとフィナーレにおいてからりと晴れ上がるのが、このシンフォニーの『まだ軽い』ところと言えるかもしれない」と。しかし、まだ「まだ軽い」には鉤括弧が付けられている。さらに「かもしれない」と推量形によっている。自然、「まだ軽い」を額面どおりに受け止められないことになる。
 

 文学的理由 以下若干、《リンツ》シンフォニーを取上げた文学的理由に触れておかなければならない。それは本稿が音楽論の紹介のためだけのそれではなかったことを断る必要があるからである。それだけのためなら最初から難しく起筆する必要がないからである。と言っても門外漢にとって演奏の聴き比べだけではその先の楽曲理解に至ることは難しい。とりわけ音楽を「言葉」で聴く上には音楽論の紹介に頁を割くのは、不可欠となる途中経過である。問題は、その先に音楽的叙述を試すことの動機である。

なぜ音楽を書かなければならないのか。聴くだけでよいのではないか。あるいは音楽論を読み学ぶだけでよいのではないか。だめなのである。あえてそう言う、言わなければならないのである。楽曲理解がそれを求めるのである。つまり音楽を受け止めるとは、最終的には、素晴らしい演奏の発見でも、鋭い作品分析の発見でもなく、感動を自己発見に転換しなければならないことである。

そのときモーツァルトの感動とは、自己否定の前に我が身を投げ出すに近い行為そのものなのである。このように自己発見には、まず不定的に投げ出された状態があり、その不安定な状態が楽曲の再認識を希求していくことになる。楽曲理解とは実に自己否定のことなのである。故に最初から自己肯定的になるときの音楽は、耳もとにとどまり、言葉の底に下りてこない。必要がないからである。心地良さとは言葉ではなく耳もとにあるからである。単純化してよければ、鼓膜の刺戟によるものなのである。比喩的に言えば、イヤフォンによって得られるのである。


音の「人格」 ここにモーツァルトを再度取り上げるのは、リリック(抒情)論として聴き直しているからである。偏向的な聴き方かもしれないが、詩論として聴き直しているのである。そして再試聴するのは、リリックが見出せないからである。正確には聴きとれないというべきかもしれないが、これはリッリックだけではない、エピックにしても同様である。

自己否定に引きつければ、このリリックもエピックもない音が創る気分の在り処が、強い否定として送り還されてくるのである。言い換えれば、モーツァルトの音の前では自己が喪失されるのである。これではほとんど「小林秀雄モーツァルト」になってしまう(前稿)。そこで思い立ったのが詩論である。喪失の埋め合わせに詩論を使う算段なのである。詩論を否定する音だからである。自己否定以上に音の秘密を探らずにはいられなくなるのである。道理というものである。

しかし専門家でないと立ち入れない領域である。楽譜分析を必須作業とするからである。それが思うように適わない立場はいかなる手段が残されているのか、忸怩たる思いから解かれていないのであるが、思い至ったのがモーツァルトの「人格」である。思い立ったと言っても内的必然としてである。それでもこのアプローチでは、本当はベートーヴェン以降でなければ有効な手段とはならない。人生に構築された人格がそのまま音を構成する仕組みが、時代性もあってモーツァルトには当てはまらないからである。

しかし、同時代のハイドンを聴くとき、一方では時代性だけではモーツァルトが捉えられないのも事実である。ハイドンのシンフォニーは、素晴らしいものであったとても時代のなかにあり、むしろ時代を生き抜く様式的な完全性のなかに鳴り響く。「交響曲の父」を聴くことができるのも、そうした音の完全性からである。詩論の視点から言えば、ハイドンの音は詩論を否定しないのである。「人格」に意味があるのはこの点からでもある。

ベートーヴェンからも離れ、様式的にはハイドンの近くにありながらも、ハイドンが前提とする同時代性からも離れているのがモーツァルトである。なにがそうさせているのか、まさに「人格」とは、ある意味、モーツァルトをその音を介してこの世に繋ぎとめる唯一の存在証明であるかのようである。同時に我々に対する不在証明としてあるものである。ベートーヴェンのそれが我々にとっての存在証明であるのとは根本的に異なっているのであるが、まさにそのようにして在ることがモーツァルトの「人格」にほかならない。現代が知らない「人格」である。詩論でもリリック論から言えば、「自己」を伴わない、あるいは必要としない世界である。


機会音楽 このような言い方は、正確でなく恣意的にすぎているかもしれないが、モーツァルトの音楽(ここではシンフォニー)を先行させているためである。つまり音楽がそうだと語っているからである。自分のために書かないだけでなく、書く理由を知らずにいるのである。徹底的に機会音楽なのである。

三大シンフォニーがなぜ書かれたのか、ロマン的観点に立てば、トータルな自己表現を追求した音楽とでもともなるだろう。しかし機会音楽ではこう語られるのである。ザラウスである。実態は自己追求のためなどではまるでないのである。三大シンフォニーの響きといえどもベートーヴェンからは遠くに控えているのである。

(前略)モーツァルトが、前例のない長さと複雑さをもつこれらの三曲のシンフォニーを、単に自分の慰みのために、あるいは霊感が下ってきたために作曲したという考えは、よく知られている彼の音楽と人生に対する態度と相容れず、(略)霊感を受けたがゆえに作曲したのではなかった(霊感は、なぜ彼が素晴らしい作曲をしたかの理由にはなるだろうが)。彼は、作曲にしばしば大きな個人的喜びを見出したことだろうが(略)、彼は家賃を払うために、また社会の有益な一員でいるために作曲し、家庭用にはそれに応じた小規模な作品を、また公の場のためには大規模な作品を提供したのである。名誉ある作曲の依頼以上にモーツァルトの霊感をかき立てるものはなく、こうした依頼があってこそ、彼は持ち前の卓越した音楽的想像力を発揮することができたのだと思われる。作曲依頼や上演の機会がなくなると、彼は突然「無駄に」なった霊感あふれる作品を、放棄するのに躊躇しなかった。モーツァルトのシンフォニーは芸術のための芸術ではなく、実用のための音楽であった。(『Ⅱ』266頁)

実用のための音楽、とは実用の求めに応じてそれを契機として作られた音楽の謂いであるが、この場合の実用の求めとはロンドン行きのためであった。そこに自分の場所(あらたな活躍の地)を見つけるための、ロンドンの関係筋に売り込むためにものであった。そう説得力のある分析がなされている。ここでの実用の求めとは、「売り込み」のことである。これも機会音楽の範疇である。その思いで三大シンフォニー(交響曲)を聴き直すとき、さらに深く強い響きに晒されるのである。これも「詩論」の範疇である。

* 井上太郎は、その味わい深いモーツァルト論『モーツァルトのいる街』(ちくま学芸文庫、1996年(単行本1991年))のなかで、イギリス旅行のために多額(500万円ないし1000千万円)の借用金を知人に申し込んだモーツァルトが、その手紙の後の方で「私は当地より国外で、より多くの後援者を見つける望みをもっています」と記している部分を捉えて、「そこで私は、三大シンフォニーはロンドンで演奏するために書かれたと考えるのだ。理由はこうである」として大きく6点の根拠を掲げる。さらにイギリス行きが実現した折のコンサートのプログラムを予想してみせる。実現されなかったイギリス行きである。掲げられたプログラムの楽曲の並びには胸の詰まる思いを禁じえない。(同書、27880頁)


音と「気分」 したがって《小ト短調》シンフォニーK.183をはじめとした短調作品も、モーツァルトの個人的な気分を作品解釈の前提としてしまうような聴き方はもはやできない。できないといよりより豊かな響きを聴き逃してしまいかねない。前後のシンフォニー作品の一環として、まさに40番のト短調がそうであったように聴かなければならないのである。

「哀しみのアレグロ(疾走)」は事実である。しかしそれは、われわれにとって事実なだけであり、気分の差別化に思い入れたっぷりな試聴態度に出たとしても、モーツァルトには一過性のものでしかなかったことである。ではなんのための一過性化かといえば、「気分」が作曲技量を向上させることを会得したからである。かといって先行するのは技量であり、気分ではない。つまり「自分」などではないのである。それが証拠に気分としての短調は、一過性(一回性)に完結的であり、次作への連続的な契機とはならなかったのである。あいかわらず長調作品を行くのである。

モーツァルトにとって「気分」とはなんであったのか。膨大な手紙を残したモーツァルトである。おどけた、ときにはスカトロジックな一面を覗かせる文面には、そのときどきの気分が転写されている。でもこの気分のことではない。作曲行為と手を結ぶときの、創作を推し進める上での気分である。その気分が見えてこないのである。たとえばバッハやベートーヴェンのようにはである。実態はそれ以前である。繰り返せばそもそも人生が見えてこないのである。稀有な人生体験であるにもかかわらずである。

学校に上がったという形跡がないという。それもそのはずである。旅に次ぐ旅の幼少年期である。早くは6歳の誕生日を迎えた1月から2月にかけてミュンヘン旅行、同じ年の9月から翌年1月にかけてウィーン旅行、そして最初の大旅行(西方)はその年の7歳から10歳までの長期となり、帰郷しても今度は1年も経たない内に今度は長期ウィーン滞在(11歳から13歳の誕生日の直前まで)となる。次はイタリアへの3次にわたる大旅行である。1次が13歳から15歳までの1年4か月、2次が約4か月(15歳時)、3次が16歳時から17歳時にかけて約半年。これでは学校に上がる暇があるわけはない。音楽以外の教育も旅先の父親から個人教授を受け、教養を身につけていたのである。バッハやベートーヴェンと比べても、実際、稀有なる体験というしかない。

この体験を作曲上の「気分」としてどう見ればよいのであろうか。特異な気分を醸成したのであろうか。おそらく醸成されていたにちがいない。しかし、やはり技量を越えて独り歩きすることはないのである。そのことで技量が高まるなら、高まるなかに埋没してしまう類のものである。個性を前提とする、個性から作品が生み出される、近代の「気分」はここにはない。このないことの意味が、すべての始まりである。作曲の必然が問われるスタート地点である。特化していえば機会音楽のなかにある必然である。当時の同時代性としれの必然でもあるが、それ以上に一人モーツァルトに見出される「必然」である。


音の「必然」 結局、個人に発するもの、ここで言えば個性とか個性から送り出される気分は、「必然」を構成しないのである。外にあるものなのである。それでいて確実に個人が作曲するのである。しかし、個人=「自分」という経緯では作曲しないのである。できないのである。人生体験が、かりに稀有なるものであったとしても、「自分」にとどまるかぎり――モーツァルトでいえば「手紙」で相殺されてしまうようなもの、あるいは等価関係にあるようなものであるかぎり――事情は同じことになる。こと作曲に限って言えば、「自分」には意味がないのである。背景的には時代性で説明がつくにしても、それが作曲論(創作論)として現代の眼から再評価されるとき、大きな意味をもつことになる。

最初から「自分」を離れた音の希求とはなんなのか、その問い自体が、現代(近代)に対するアンチテーゼである。言いすぎかもしれないが、情緒をも伴わない(要しない)音との対峙がここにある。発想に構造体なるものがあるなら、「必然」の原理の違いを痛感させられるのである。

それはともかく「必然」とは、それが宮廷に鳴り響いて過不足なく終えられる限りはその都度相殺される。それが容量的に「サロン」の空間を超えるだけではなく、その場に集った貴族たちの心の空間を超える響きになったとき、はじめて姿を顕わすことになる。その具体的な姿こそが「人格」である。「個人」を超えたものである。超えているが故に貴族たちも耳を傾けるのである。同時に音楽家たちが宮廷楽師から一人の人間の立場を勝ち得るときでもある。近代と違うのは、勝ち得る意味が違うことである。社会関係にはなんら変化はないからである。

モーツァルトも同じである。「人間」を望んでいたわけでないからである。「立場」を望んでいただけである。あまりに簡単に書きすぎている。一つのエピソードを紹介する。間接的ながらこの間の経緯――「人間」「立場」の意味を位相の違いとして教えられ、モーツァルトが前にしていた「必然」の一端を推し量ることができるかもしれない。


エピソード 息子の売り出し(音楽修業を兼ねる)を図ったイタリア旅行の途次、父レオポルトが味わった一つの挫折である。演奏会(自作曲)の甲斐あってイタリアでのモーツァルト(ヴォルフガング)の評判は大いに高まる。そのなかで起こった(もたらされた)就職話である。もたらしたのはロンバルディアのフェルディナント大公である。大公はヴォルフガングを息子にもつレオポルトを自分の宮廷楽団に召抱えようと考えていると申し入れたのである。当然息子が目当てである。ただし即決ではない。最終決定は母の承諾にかかっていたからだった。母とはかのハプスブルグ帝国の女帝マリア・テレジアであった。大公は女帝の二男だった。大公のもとに届けられた返書にはこうあったのである。よく知られたた返書(177112月)である。

あの若いザルツブルグ人を召抱えたいとあなたはおっしゃいます。あなたが作曲家とかその類の役に立たない者どもを必要としているとは思いませんので、私には召し抱える理由がわかりません。しかし、それでも召し抱えたいのなら、私が邪魔するつもりはありません。私がこんなことを申し上げるのは、あなたが役に立たない者を抱え、その種の人間に地位をやるという負担を免れるようにと思ってのことです。あの父子を召し抱えたとすれば、あの者たちは乞食のように世間を歩き回り、お勤めに傷をつけます。そのうえ、あの者には家族が大勢います。(メイナード・ソロモン/石井宏訳『モーツァルト』新書館、1999年より、傍線筆者)

返書を待っていたのは、一義的にはモーツァルトの世評が高かったからにちがいないが(なお返書には、女帝としての政治的側面(配慮)も筆に影響していたかもしれないというが(ソロモン))、その女帝マリア・テレジアは、かつて父親に連れられて伺候した神童モーツァルトの頬にキスをしてくれたことがあるのである(176210月、6歳時)。人口に膾炙した逸話であるが、神童は女帝の膝の上にとび上がり、「あなたを心から愛しています」と口にしたのである。キスはその〝お礼〟である。

さらに伺候は再現されたのである。1768112歳時である。今度は一家を挙げてその名誉意に与ったのである。レオポルトの手紙が遺されている。「とてもお分かりいただけないかと存じますが……女帝は大変親しげに私の妻と話をされ、子供たちの天然痘のことや私たちの大旅行でのできごとなどをきかれました。そのうえ想像もつかないと思いますが、女帝は妻の頬を撫で、手を握ってくださるのでした。一方、皇帝はヴォルフガングや私に音楽をはじめもろもろのことをたずねられ、しばしばナンネル(モーツァルトの姉・引用注)が顔を赤らめる場面がありました」。さらに再現される。17738月である。返書が認められた19が月後のことである。「あの種の人間」「乞食のように世間を歩き回り、お勤めに傷をつけ」る者たちに対してである。


音楽的人格 このエピソードが物語るのは、「役に立たない者ども」と綴りながらも伺候を許すのは、音楽家とりわけモーツァルトの音楽に力があったからにちがいない。たとえ息子の皇帝ヨーゼフ2世のように深い音楽心が欠けていたとしても、そしてその折(3回目)の伺候がかりに皇帝の意を汲んだものだったとしても、前提にあるのは音楽である。音楽が伺候を許したのである。そのとき女帝にとって音楽は、「個人」ではなかったからである。たまたまヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトという名前を戴いていたにすぎないのである。音楽の方がモーツァルトより先にあったのである。

すでに神童の歳を大きく超えていた青年に女帝が見ていたのは、「個人」を容れる必要のない抽象的なものだった。皇帝ヨーゼフ2世は、コンサートでモーツァルトに向かって何度も「ブラヴォー!」を叫んだ。それでも結局同じだった。皇帝ヨーゼフ2世が叫んだ対象も個別性としてはモーツァルトであっても、「個人」としての彼ではなかった。抽象的なものだった。母親テレジアと同じだった。違うのは、同じ抽象的なものでも、皇帝ヨーゼフ2世にはそれが「音楽的人格」として受け止められるような、それを容れることに同意できる自分があったことである。皇帝を捉えていた啓蒙主義の力だった。

モーツァルトの立場に立てば、皇帝や貴族などの上層階級に音楽を提供できるのもこの「音楽的人格」の力であった。それでも抽象的な範疇である。時代が創ったのは、相手側(貴族側)だけでなく、本人(楽師)にも抽象性を要求していた点である。

しかしそれでも、「音楽的人格」とはたんなる第三人称ではない。サロンに限って限定的に第一人称足りえたのである。あるいはその契機を蔵していたのである。それが「なにか」があって、「音楽的」なる冠詞がモーツァルトから外れ、サロンに限定されない、場に非限定な「人格」が形成されるにいたる。モーツァルトが、「個人」としてあるいは「人間」としてそうさせたのではない。彼の音楽がそうしたのである。音の要求である。この要求こそが、「必然」を生み出すのである。「人格」の再生産でもある。

《リンツ》シンフォニーこそは、「人格」が機会音楽の真に「主語」(シンフォニーの「主語」)となった瞬間である。4日間という作曲期間が物語るのは、「序曲」から「交響曲」への飛躍に伴う瞬発力と読み替えるとき、より音楽史的な意味合いの増幅である。状況による単なる早書きではないのである。


感謝 その意味でもわれわれは、その時の偶然と作曲の依頼主に感謝しなければならないことになる。偶然とは、その時、モーツァルトがシンフォニーを手にしていなかったこと、手もとに携えていなかったことである。その時とは、新妻コンスタンツェを伴ってザルツブルグの父親や姉のもとに里帰りした後の帰路のリンツに立ち寄った時のことである。そして、旧知の伯爵の館に招待されたことであった。トゥーン=ホーエンシュタイン伯爵である。

伯爵は、夫妻の到着を首を長くして待っていたという。当地で演奏会を開催してもらいたいからだった。その依頼をするためだったのである。「とてもお伝えできない」ほどの歓待であったという。父親への手紙の一節である。同時に新作を依頼されたのである。モーツァルトの結婚を快く思っていなかった(それは新妻へのことでもあったのであるが)父や姉への対面を無事果たした後である。ただでさえ解放感に包まれていた帰路だった。そこへきての伯爵の大歓迎である。自分を恃んでの作曲依頼である。喜々として作曲に当たる姿が浮かぶのである。以下はその部分を手紙の一節に拾ったものである。新しいシンフォニーの開幕を告げる〝経過過程〟として掲げておく。

翌日、僕らがリンツの門に着くと、一人の従僕がすでに待っていて、老伯爵のところへ送り届けてくれました。そこでいま、ぼくらは泊っているというわけです。この家で、ぼくらがどんなに歓待されているか、とてもお伝えできないほどです。
114日、火曜日、ぼくはここの劇場で演奏会を開きます。そして、ぼくは1曲もシンフォニーを持参していないので、大至急、新しい曲を書きます。その日までに完成しなくてはなりません。さて終わりにしないといけません。もちろん仕事をしなくてはならないので。

あらためて《リンツ》シンフォニーの第1楽章を聴くとき、冒頭(序奏)の力強いトゥッテが、あたかも後年のベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭のように――といっても意識的でないと聴き逃してしまうが、なにかを切り拓く響きに聴こえてならないのである。ベートーヴェンが、あきらかに運命的なものをそれとして自覚していたとき、はたしてモーツァルトの心のなかにはなにがあったのか。自覚すべきものはあったのか。ここでもまた言わなければならない、おそらく自覚以前だった、それが正解だっただろうと。そう思うにつけ、《リンツ》の響き――あの高まり、急迫、一転した弦のふくよかな伸びあがり、再びの鋭い上昇と下降の音のドラマチック、収束へ向けての果敢なるめくるめく快走――にしばし言葉を喪うのである

* オイゲン・ヨッフムの最晩年の《リンツ》は、モーツァルトの要求する「できるだけ速く」のプレスト(第4楽章)に対して、同楽章を含めてあえてゆったりとしたテンポを採用する。壮年期の演奏は、ヴァルターはじめ多くの《リンツ》がそうであるように急速である。モーツァルトの《飛躍》をじっくり味わいたい、そうさせて欲しいとモーツァルトに語りかけるような演奏である。


冒頭回帰 かくして「喪失」のなかで詩論への道も実は喪われるのである。断たれてしまうのである。これも《リンツ》の響きであるといえばそうかもしれない。いま残されるのは、残されようとしているのは、問いを立てた、冒頭回帰の思いだけである。それでも立てたことに意味を感じるのである。あるいはモーツァルトへの理解が深まったことに繋がっているのかもしれない。

詩論への道は、あらたな題材如何である。見出せない現状を引きずるよりはという思いを根拠に(それに切迫した個人的事情もあるので)、しばらくはモーツァルトの音楽を再試聴することからはじめる。あわせて題材を求めてである。


参考・引用文献
磯山 雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、2000
磯山 雅『モーツァルト』ちくま学芸文庫、2014
井上太郎『モーツァルトのいる街』ちくま学芸文庫、1996年(単行本、1991年、新潮社
 海老沢敏・吉田泰輔監修『モーツァルト事典』東京書籍、1991
ニール・ザスラウ/磯山雅監修・訳、永田美穂・若松茂生訳『モーツァルトのシンフォニー』Ⅰ・Ⅱ、東京書籍、2003
 メイナード・ソロモン/石井宏訳『モーツァルト』新書館、1999
 モーツァルト/柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』上・下、岩波文庫、1980