2015年12月31日木曜日

[る] ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの《クロイツェル》~一人の女性演奏者の弓~


はじめに 年も押し詰まったところに来て一枚のCDを入手した。「12th Violin Concert in Yokohama 2014 Ito Kanoh(加納伊都)」である。ちょうど1年前(2014.12.22)のコンサートのライブ・レコーディングである。今年のコンサート会場(2015.12.22、横浜みなとみらいホール 小ホール)で入手した。初出しとのこと。昨年から機会があって演奏会に足を運ぶようになった。ほかにミニコンサートやコラボを聴く機会を得た。CDには別に2012年版リリースがある。こちらも手許にある。「加納伊都ヴァイオリン小品集CDIto Kanoh 1st Album」」、こちらは室内録音である。

昨年のコンサート同様に今年のコンサートでもあらためて大きな感動を受けた。モーツァルト/エネスコ/ブラームス/ラベル。多彩で構成的なプログラムである。3曲を弾き切って圧巻の「ツィガーヌ」で締める。興奮覚めやらぬところにきての帰りがけに入手した、思いがけないCDだった。ともかく逸材。個性的な音色を伴った表現力が秀逸。もっぱら文学的関心から聴いているだけで専門家でもない筆者が、声高に叫んだとしてもどこにも届かないかもしれないし、かえって演奏価値を損なわせかねないが、本格的なパフォーマンス振りは、ホール内に留めおくだけではあまりに惜しい。CDでその思いをさらに強めた。


原点的体験 表題の《クロイツェル》は昨年のメインプログラムである。筆者に関する限り、同曲はベートーヴェンへの関心を高める上に大きな位置を占めている。レコードを入手したのは、回想的に振り返ると1970年代前半である。メニューイン/ケンプ版である。今でもよく覚えているのだが、勇んで買い求めたのにいざ針を下ろしてみると、思惑が外れて見こんだ響きが得られない。不完全燃焼気味な気分にさせられる。とくに1楽章の演奏である。どこに手違いがあったのか思い出せないのだが(貧乏学生たちは多く古レコードを漁っていた、値段に目が眩んだ、おそらくそんなところだろう。でもメニューイン/ケンプである。後日知ったのだが、1968年版はすでにピークを過ぎた頃のレコーディングであったようである)、でも当てが外れたことで、かえっていろいろな演奏を探し求めることになる。それが深く聴かせることにもなる。

その《クロイツェル》であるが、正式にはヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調作品47で、標題の《クロイツェル》は、よく知られているように献呈者ロドルフ・クロイッェルの名前からとられたものである。「クロイツェル・ソナタ」と呼ばれるが、ここでは後述の関係からも、紛らわしさを避けるために《クロイツェル》と略称する。なお、献呈を受けた当の本人は、余り有難がらなかった様子――正確には「見向きもしなかった」(佐々木1987)ようであるが、ベートーヴェン33歳の時の中期を代表する1曲である。

この鑑賞体験は、ベートーヴェンだけに終わらず、ヴァイオリン曲の深みを教えることになる。楽器から受ける刺戟という意味では、筆者の場合、ダイレクトに心に響き渡るヴァイオリンの音は特別である。甘美な切れあがりには、いつも胸が締めつけられる思いである。その一方で低弦は低弦で、厚く語りかけてくる響きには、しばしば魂を揺すぶられる思いである。両極性に瞬時に行き渡ることができるのは、ヴァイオリンが有する楽器としての高い特性である。ところが《クロイツェル》の場合は違う。どちらかと言えば反ヴァイオリン的な響きなのである。

序奏部アダージョ・ソステヌートの18章節。とりわけ冒頭部のヴァイオリンのみの4小節。4音の和音とその後の下降スラー。続く3小節も2音ないし3音の和音と下降スラーを適宜組み合わせて、まるで弦楽四重奏曲のアダージョ楽章の、任意のパッセージが唐突に奏ではじめられた感じである。なんとも渋く重い響きであることか。しかも響きの持続性に対しては、渋みを増幅することはあっても、スラーで和らげることはない。陶酔気分に浸らされるヴァイオリンの響きはここにはない。反美的である。序奏を貫く「美学」である。その直撃を受けたのである。それが《クロイツェル》を聴くということであった。ある意味、ヴァイオリンの原点的体験だった。


コンサートプログラム そうは書きながらも譜読力が備わっているわけではない。とくに演奏に関する技術的なことはまるで素人である。それでも書き表したい思いに駆られる。良い演奏に出会うと筆を執らずにはいられなくなる。でもそのままでは言葉にならない。なにか手立てが必要である。繋ぎの駒である。幸いいなことに今回それがCDの主によって与えられていたのである。当夜のコンサートプログラムである。通常の楽曲解説にとどまらない、演奏にたち向かう奏者としての思いが綴られていたのである。エッセイ・リーフレットとでもいうべき味のあるプログラムである。文責は演奏者本人である。以下は、作品47の解説からの抜き書きである。

このソナタに触発され、執筆されたロシアの文豪トルストイの「クトイチェル・ソナタ」という小説があります。嫉妬心にかられ妻を刺殺してしまった男の悲劇の話なのですが、その妻の相手がヴァイオリニストで、二人はこのソナタを演奏することで思いを通いあわせてしまい、そして男は演奏を聴くことでその思いに気づき、嫉妬にかられて殺してしまうという、要はこの曲がなければ殺さなくて済んだのに…という話です。もちろん、テーマは愛とは何かというものであり、男女の愛の核心はどこにあるのかという、ストイックで純粋な愛を理想としたトルストイならではの作品で、面白く、考えさせられる作品なのですが、ともかく物語のポイントはこのソナタであり、主人公はこの1楽章を「これは貴婦人の前で演奏してはいけない曲だ」と述べます。それくらい人の心を翻弄する危険性があるというのです。概してベートーヴェンの作品にはパワーと密度がありますが、このソナタは特にエネルギーと何か人を駆り立ててしまうドラックのような作用があるのかもしれません。

そして、それ(ドラック作用)が、これまで繰り返し小説の映画化を呼び込んだことや、小説の刺戟が同じ題名の楽曲(ヤナーチェク弦楽四重奏曲《クロイツェル・ソナタ》)を生んだことに触れ、その上で、当時のベートーヴェンの身体性(耳疾)を踏まえて、その夜の自身の演奏へ向けての思いの丈を綴る。

    (略)アスペルガー症候群(自閉症の一種といわれるもの。知的障害は伴わない。)で、躁うつ病であり、非社交的で潔癖症だったというベートーヴェンの、頭に響き渡る音楽への絶望、希望、計り知ることのできない情熱を思いながら、このソナタにみなぎる力を表現できればと思っています。(傍線引用者)


音の「三元素」 この楽曲を演奏する者は、引用に語られた「このソナタにみなぎる力」を等しく抱えこむ。その「力」を自分の力とする。そのまま演奏になる。あるいは演奏力とする。名曲とは、すでに一定程度の「名演」を各自に約束するものである。逆に言えばそれが名曲を演奏することの難しさだと言える。

《クロイツェル》の場合で言えば、「みなぎる力」を如何に引き出すかが問題となる。直訳的になりやすい「力」である。自己に直結しがちな翻訳(自己翻訳)は、ときにベートーヴェンの楽想から逸れかねない。逸れても構わないが、往々にして自分からも逸れてしまう。「みなぎる力」の分析が必要である。それが傍線部分である。当夜の奏者の自己課題である。「絶望・希望・情熱」――生命の三元素ならぬ音、すなわち《クロイツィル》の「三元素」である。

三元素をいかに響きに甦らせるか、奏者が楽譜に見出したテーゼである。トルストイはテーゼに対する、楽曲解釈のための「引用・参考文献」である。ではトルストイはどのように《クロイツィル》を捉えていたのだろうか。そして、加納伊都の演奏は、その楽曲解釈(すなわち小説)といかに対峙したのであろうか。そのために小説『クロイツェル・ソナタ』と楽曲の関係を先に見ておく。見方としては「トルストイという楽曲解説」である。


トルストイという楽曲解釈 たしかに、指摘のとおり「ともかく物語のポイントはこのソナタであり」、トルストイの『クロイツィル・ソナタ』(原卓也訳、新潮文庫、1974年)は、ベートーヴェンのソナタがそのエッセンスをなしている。ベートーヴェンの作品がなかったなら、この小説作品の誕生は見込めなかった。間違いないところである。

トルストイの同曲への思いは、すでに同題を採用しているところに表明されているが、たんなるオマージュではない。音楽が直接小説を書かせたものである。小説の動機が音楽であり、原因であり、しかも結果でなければならなかった、それがトルストイの『クロイツィル・ソナタ』である。ある意味すべてであった。

それでも、トルストイを捉えたのは、「これは貴婦人の前で演奏してはいけない曲だ」と述べた、1楽章部分にいささか偏向的な楽曲解釈だけであったのも見逃すことはできない。妻への猜疑心、嫉妬心、挙句の果ての刺殺、このすべては、1楽章だけにしか惹かれなかった鑑賞結果とも言える。もし、他楽章にも十分耳を傾けていたなら、あるいは違った結末を迎えるだけではなく、筋書きも違っていた可能性がある(後述)。次は、23楽章に対する手の平を返したような言い草である。

 このあと、二人は通俗なバリエイションをつけた、美しくこそありますが月並みで新味のないアンダンテと、まるきり迫力のないフィナーレを奏し終えました。

ただそれも見方によれば、1楽章から受けた衝撃を、さらなる激烈さに高めるための、必要以上の冷淡さであったのかもしれない。それほどの1楽章とはどういうものであったのか。「貴婦人の前で弾いてはいけない」の後にそれが綴られている、「少なくてもわたしに対しては、あの作品は恐ろしく効き目がありました」と。

なんの「効き目」かと言えば、《クロイツィル》のもつ逆作用である。捌け口を知らないところにおける、「かきたてられたエネルギーや情感」がもたらす「破滅的な作用」である。本来、起承転結をもった完結性のある場所(儀式など)で演奏されなければならないのである。儀式の場なら、高まった気分も、儀式のパフォーマンスによって眼に見える形で鎮められるからである。それがもっともいけない形(望ましくない形)で演奏されたのである。「貴婦人の前」である。演奏の後にはティーを啜るほかないような場(夜会)である。

しかし当夜の主人公には、破壊性もいまだ発奮剤でしかない。むしろ捌け口のなさは、望むべき好ましい精神状態(躁状態)を彼にもたらすほどであった。おそらく真の破壊性は、それがあまりに残酷で恐ろしい結末を求めていただけに、嵐の前の静けさのように、一時、なりを潜めていたのである。冒頭部の繰り返し形で引用してみよう。

 少なくともわたしに対しては、あの作品は恐ろしく効き目がありました。気のせいか、まるでそれまで知らなかった、まったく新しい情念や、新しい可能性がひらけたかのようでした。ああ、こうでなければいけないんだ、これまで自分が考えたり生活してきたやり方とはまったく違って、まさにこうでなければいけないんだ、と心の中で告げる声があるかのようでした。(傍線引用者)

    「新しい可能性」はともかく「新しい情念」がなにをもたらしたか、猜疑心が爆発的な嫉妬心となって彼を異常な行動に駆り立てることに寄与したのである。猜疑心は前から抱いていた。嫉妬心も燃え立たせていた。それだけで終わってもよかった。でもそこに一つの音楽が介在する。音楽の介在さえなければ、狂気に近い感情的爆発は起こらなかった。「要はこの曲がなければ殺さなくて済んだのに…」ということである。

つまり一つの原因でしかなかったものが、同時に全ての原因となる手合いのものだった。「トルストイという楽曲解釈」が、《クロイツィル》から入手した我が身を滅ぼすエキスであった。一瞬にして極限化を達成してしまうのである。こと狂気に関しては途中経過がないのである。奏者トルストイが弾く(弾き立てる)ヴァイオリン奏鳴曲である。


     奏者の性差 女性奏者が、日常的に《クロイツィル》をプログラムに採り入れたり録音したりするのはいつ頃からなのだろうか。よく承知していないが、伝統的には男性奏者の力強い弓がよくするところのはずである。男性的な自己顕示欲に打ってつけである。たとえばレオニード・コーガンの激昂的な演奏は、劇的瞬発力をさらに攻撃的にしたものである。近づき難いほどである。女性奏者にとってもっとも遠くに立つ男性奏者の一人である。遮断性の強い響きは、女性性を容れないからである。コーガンが、後に続く女性奏者を得たいとしたなら、修辞的な言い回しながら1楽章は聴かせるべきではない。女性が受け容れられる限度を超えている。それでも音楽教育にも携わっていたので教え子に女性も多い(後出のムローヴァもその一人)。

ここには一つのヒントがある。限度超えである。受け容れがたいという一線超えである。いくら修辞的とはいえ、厚かましくも超一流の奏者に対して暴言じみたことを吐くのもこのためである。あえて偏向的に捉えたのである。女性奏者が構想する「力」の源に思いを寄せたいからである。同じ力強さでも異なる文脈に由来するのである。「限度超え」を相対化したところに出処進退を有する力強さである。あたらしいベートーヴェンを聴くことができるのである。当夜の演奏も然りである。


女性演奏者(海外) 幾人かの女性奏者の《クロイツィル》を聴いた。意識的に「相対化」の度合いに基準をおいて聴く。確信犯的な響きを聴かす女性奏者がいる。ヴィクトリア・ムローヴァである。驚くほどの伸びあがりである。強奏に打って出ても響きの澄明さは汚されない。純粋無垢なほどである。高い透明性を保持する。かといって音は弱くも軽くない。逆である。強い(ただし重くない)。精神性のある芯の強い音である。それにしても独特な響きである。一見反ベートーヴェン的ありながら、作曲者をも意向に従わせてしまうような、有無を言わせぬ強靱な意志に貫かれている。それが澄明な音で実現されているのである。女性奏者にしてはじめて創りだせる、しかし彼女だけにしか許されていない響きである。

パトリシア・コパンチンスカヤを聴く。ムローヴァの反対を行く演奏である。ただし確信犯的なところは似ている。驚いたことに男性に引けを取らない腕力的な強い弓さばきである。かえって男性の上を行くほどで、男性顔負けの圧倒的な演奏力の披歴である。一気呵成である。猪突猛進的でさえある。しかし男勝りの腕力に恃むだけではない。甘美さと背中合わせである。切れ味も繊細である。やはり女性奏者の音である。

ベートーヴェンが二人のどちらを取るのかを考える。補足説明のための一レトリックでしかないが、ベートーヴェンを顧みないようなムローヴァの響きには、自分を軽くあしらったジュリエッタの後ろ姿を思い浮かべるかもしれない。ただしムローヴァの後ろ姿は、ジュリエッタと違って、送られた曲(《月光》)に哀しみを浮かばせていたに違いない。透明な音色がそれを(つまり彼女の真心を)物語っている。コパンチンスカヤにだれを思い浮かべればよいかは思い当たらない。周辺にいそうもないからである。それがかえってベートーヴェンの作曲的関心を惹くかもしれない。彼女を奏者に想定したソナタに思いが至る。ありえそうである。


女性演奏者(国内) 次は二人の日本人奏者。ただし現在の本拠地は二人とも国外。一人は庄司紗矢香である。10年近い開きのある二つの演奏を聴く。20歳直前と20代後半である。随分と演奏スタイルが変わっていたので違いに耳を傾けた。20代後半の演奏は、弦楽四重奏の奏者ともいった思索者然とした感じである。一音の押さえにずいぶんと拘る。20歳直前に見せた果敢なハイテンポの演奏はここにない。当時の直行性に対し、疑念を抱くがごとき音の紡ぎ出し方である。持ち前の伸びあがりにも懐疑的な弓使いである。音の魅惑に抗してでも別なもの(内省的な音)を生み出そうとしている。別な音の流れを創造しようとする試みである。

でもなかなかに難しい。途次の感がある。20歳直前の演奏に遺憾なく発揮された、彼女の持ち味であるエネルギッシュな切れ味から生み出される戦慄的な音の厳しさ。10年後の内省的な音への挑戦。両者の先に期待されるのは、女性奏者によって切り拓かれる《クロイツェル》のあたらしい地平である。達成されれば、20歳直前の演奏と合わせて、日本人女性奏者による《クロイツェル》演奏史の一頁を飾るだろう。

もう一人は神尾真由子である。庄司紗矢香が、一音の押さえと切れの凝縮に始まるとすれば、神尾真由子は、フレージングの鋭さに始まる。喩えに過ぎないが、そのために構えの大きな音が生み出される。ダイナミックなところは、一瞬コパンチンスカヤを思わせる。ただし常に前方に音をつかみ取ろうと、前のめりに音を繰り出すコパンチンスカヤと違い、その場その場での完結的な弾き切りに全身投下的である。ここからスケール感に緊迫感の備わった《クロイツェル》が生まれる。彼女に独自な、自信に溢れた演奏スタイルである。


日本人の演奏 二人を聴いていて日本人の良さ(特質)を痛感する。可能性に目を見開かされる。西欧文化圏以外では稀なるクラッシック好きの日本である。ドイツ音楽にも同じ血の流れを感じるような精神性でできている。いまやそれだけではない。従来の文脈とは異なったところで高い音楽性を導き出すまでになっている。こと女性奏者に限ってみれば、昨今とみに独創的な響きを聴かせながら普遍性をうかがわせるような演奏に出会うことが多くなってきている。上記二人だけではない。ファンからはなぜ諏訪内晶子に触れないのだと叱られてしまう。《クロイツェル》のCDをリリースしているからである。残念ながら今回は聴くことができなかっただけである。その他の曲なら知らないわけではない。

コンサート歴で言えば、筆者はながく前橋汀子を聴いている。五嶋みどりも直接に聴いてみたい一人である。凄い演奏に違いない。かりに世界に通用する響きを生み出したという点では、前橋汀子はもっとも早い一人である。ここでは一番若い神尾真由子を含めて、彼女たちの演奏を貫くなにかを感じる。それが特質としての日本女人性の精神性を含めた感性であるとすれば、その上で各自に開花する独自性は、彼女たちに限ったことではない。ひろく知られていないだけで(筆者が知らないだけかもしれないが)、同質の個性を高い表現力に置き換える内省力を身につけ、それを武器に世界に打って出て活躍している女性奏者は少なくないはずである。加納伊都はそうした一人である。


当夜の演奏 その演奏をCDに聴き直してその思いをあらためて強くした。しかもここで集中的に女性奏者を聴いてきて、一人の日本人女性奏者が、上記奏者たちと比べても独自に高い響きを生み出している思いを強くした。「みなぎる力」は、全楽章を通じてときには鋭く厳しい精神性を生む。それだけではない。とかく細くなりがちな日本人の感性が、彼女の中では情感の膨らみとなって表情の再活性化に働きかけ、結果、いろいろな「協奏音」を醸し出すのである。

ベートーヴェンは、このソナタに「協奏曲のように、極めて協奏曲風に」と楽譜の表紙に認めた。ピアノとの対峙だけで終わらない、ヴァイオリンが独自に奏でる内部的協奏音が、加納伊都の演奏には遺憾なく発揮されている。ひとわたり聴き比べてもこれは彼女の優れた独自性である。単に強さだけではない。強弱さだけではない。速さだけでもない。一つの結果だけに終わらない演奏がここにある(後述)。そいう意味でもこれは反トルストイ的な演奏である。


トルストイの偏向 再び『クロイツェル・ソナタ』のこと。この小説は、1楽章が創らせた作品である。それがトルストイに偏った聴き方をさせる。「トルストイの偏向」とはそういう意味である。偏向が呼び込んだのは、小説論的には形式の偏狭さである。一方的な内訳話に終始した、地の文を持たない、会話にもなっていない独白気味の語りかけである。その偏重である。いずれ独白を主人公に呼びこむ、起こしの部分を簡単に紹介しておく。

乗り合わせた汽車のなかである。相席の一人の紳士が、近くの席の「議論」に口を挿む。きっかけはこの「介入」だった。介入を誘ったのは結婚論だった。傍らから聞いている内に、思うところがあって我慢がならずに口を差し挟んでしまうのである。

紳士は、結婚の欺瞞を声高に語ってみせる。相手(弁護士、婦人)も敗けていない。紳士も敗けじと昂じる。ここぞとばかりに最後の切札を使う。彼らの反論を完璧に押さえこむためである。素性を明かしてみせたのである。自分の過去だった、妻を殺したことの。切札だったが、紳士にとっての究極の「結婚論」が導き出した過去でもあった。それにしてもあまりにも唐突だった。たしかに相手は黙ってしまう。

ここからである、内訳話になるのは。席に戻ってきた紳士は、小説上の進行役である「わたし」に申し出る。相席を解きましょうかと。素性の所為である。明かしたことに対しての配慮である。「わたし」にも当然届いていたからである。それには及ばない、構わないと「わたし」が返す。「それじゃ、よろしければ」ということになったのである。延々と続く内訳話のはじまりである。

結果論的に言えば、この小説形式ではベートーヴェンの《クロイツェル》は捉え切れない。受け止め切れないのである。肝心の1楽章の範囲内だけでもである。奏者トルストイの弓は、1楽章さえも弾き切れていない。内訳話は、独白調なる故に一方通行的である。応酬を欠くために一面的にもなりやすい。派手なのは表向きだけである。トルストイの一方的な力任せの演奏である。

それに筋の運びにも問題がある。結末部分の締め括り方である。けして後味が良いわけではないからである。まずは啜り泣きである。自分の犯した罪に身を震わして後悔を露わにしてみせる。絶望の裡に固く閉じこもるようにして「毛布にくるまって、座席に身を横たえた」姿を晒す。話すだけ話しておいた後の一方的な閉じこもりである。それまでの外向性は一体なんだったのだと訝しく疑うことなる。裏切りでさえある。

引き籠りに合わせるように小説も終わりを迎える。聞き手だった「わたし」が降りるべき駅を程なくして迎えるからである。到着である。一声、声をかける。毛布から彼の手が伸びる。別れの挨拶である。握手際に紳士がかけた言葉は、「どうも失礼しました」だった。

一体なんに対する「失礼」なのか。話を聞かせてしまったことだろうか。たしかに行きがかりとはいえ初対面の人に聞かせる内容ではない。でも「失礼」の実態は、自嘲を精一杯真似てみせた、ブラック・ユーモア気取りの苦笑だった。でも逆効果である。気詰まりになるだけである。自嘲で済まされるようなことではない明白な事実が、毛布に包まった紳士の今の姿を含めて、行き場のないやり切れなさとなって、小説の結末を切れ味の悪いものにしているのである。これももとを辿れば偏向によるものである。


    絶望の淵 これは《クロイツェル》にはない結末である。絶望に背を向けた後ろ向きの閉じ方は、トルストイが拘った1楽章だけをとってみても楽想の逸脱である。看過しえない逸脱である。なるほどベートーヴェンも紳士と同じように重苦しいものを抱えていた。絶望の淵に立っていたかもしれない。聴こえてくるのは、先の見えない苦しみだったかもしれない。

でも同じなのはここまでである。それに同じ絶望の淵でも、紳士の場合は、最初から絶望の渦中を求めていて、意志としても淵から浮かび上がろうとはしなかった。自己説明のためだった。絶望に向かって突き進むほかなかった、後戻りできない、しかし結局は独りよがりな自己弁解でしかない経過説明である。意志の披歴のためにも身を沈めていなければならなかった。

小説論を戦わせれば、最初から結論が待ち受けているだけの一方向的な展開も形式のなせる業(足枷)である。猜疑心や嫉妬心をいくら前面に押し出してみても話は膨らまない。所詮はモノローグの域を出ない。これでは立体的なソナタ形式にも構成的なロンド形式にもならないし、思いの丈を語って話に抑揚をつけたとしても変奏曲にもならない。頭にあるのはコーダがつくる最高潮だけだった。それもスフォルツァンド(sf)後の絶望の淵に深く身を沈めるためである。絶望の淵で嘆き悲しみ自分の愚かさを呪うためである。次は最終場面における紳士の最後の言葉(呪い)である。

 「妻の死に顔を見たときにやっと、自分のしでかしたことのすべてをさとったのですよ。わたしが、このわたしが妻を殺したのだ。元気で動きまわっていた温かい身体の妻が、身動き一つせぬ、蝋のような冷たい姿に変りはてたのも、わたしの仕業なのだ、このことは永久に、どこへ行こうと、何をしようと取返しがつかないのだ、ということをさとったのです。この苦しみをなめたことのない人には、わかるはずもありませんが……う! う! う!」

     一方、同じ絶望の淵でも、川の流れの外に立っていたのがベートーヴェンである。いっそ身を投じてしまう方が楽であっても、身を沈めることなく、身を保って内なる苦悩に耳を傾け、苦悩を引き受ける立場を自分の創作的立場としたのである。「ハイリゲンシュタットの遺書」を知らなくても聴こえてくる魂の音である。

重い足取りの1楽章序奏部に自己決別が予告されている。次への移行を前にして、序奏部が最後に紡ぎ出す最弱奏(pp)からプレストに急転して強奏/弱奏(sfp)で開始される主要部への移行過程は、決意への決然とした起立である。決意に背中を押されるようにしてベートーヴェンが楽曲(1楽章)に求めたのは、自己格闘の赤裸々な弁証法ともいうべき、音の上昇下降の頻発性、畳みかけるような強奏の繰り出し、さらなる飛翔感への駆け上がり、テンポの自在な緩急などを取り合わせた、ダイナミズムの再生再編過程をいかにドラマチックに仕立てるかであった。もしモノローグというならアダージョやドルチェが名乗りを上げるかもしれない。しかし書法としては独白場面への沈みこみを意図したものではない。さらなる激越への前触れを告げるためである。意志の立体的な立ち上げを画さんがためである。


深読み 言えることは、トルストイが原曲に得ようとしたものは、原曲の内的構造ではなく一断面、それも極論に直結する破断面を手中にすることだけだった。極論は過程を経ない。故に叙述は終始平板となる。説明を要しないからである。しかも平板をよしとする。かえって異常さが際立つからである。計算づくであった。ちょうど、身を乗り出して隣の席の会話に介入した時のようにである。

少しは熱を帯びていたとはいえ、遣り取りされていたのは、あくまでも一般論としての恋愛や結婚観である。そこに「今あなたがほのめかした、危機を孕む事件とやらを起こした当人です。つまり、妻を殺すという事件をね」と、相手の困惑を承知で、否見込んで、唐突に告げたのである。突然の屹立である。手法としては同じである、妻に手をかけなければならなかったことも。

経過とは必然性のことである。しかしあるのは、思いこみだけである。所詮思いこみなら蓋然性でしかないはずである。欠落しているのは、蓋然性を必然性にするリアリズムである。それが抜け落ちているのである。

故に、あるいは我々はベートーヴェンの原曲によって実際以上に小説を深読みしているだけなのかもしれない。省略された経過を、作者だけでなく、我々の側としても知らずに原曲で補っていたのである。これも題名のためである。『クロイツェル・ソナタ』だからである。でもベートーヴェンの《クロイツェル》はここにはない。あったとして破断面だけである。つまりトルストイからベートーヴェンは読めない、深読みはありえない。逆もまた真なりはここにはない。成立しない。トルストイから導き出せるのはこのことである。

原曲を知らない読者とても同じである。《クロイツェル》で補えなくてもベートーヴェンの曲として出てくるからである。《運命》や《第九》をまるで知らない人は考えづらい。十分とまでは言えなくても「狂気」への理解者になることを妨げない。


再読法による再鑑賞 したがって再読では異なる結末を要求することになる。経過過程の再述も求める。叙述形式の再考もである。いずれにせよ端的には惨殺は求めない趣旨の要求となる。それをこちら側で行ってよいなら登場人物の立て方に遡って変える。変えるだけでなく彼らにそれぞれ主語を立て、必要に応じて彼らの側から自分を語らせる。

とりわけ妻には紳士同様の応分の役割を与える。主題追加だからである。妻という第2主題の立項なのである。恋愛劇のフレームの再構築も望まれる。紳士(第1主題)に女友達をつくる。三角関係ではなく「四角関係」ならぬ四者関係にする。女友達だと正確な恋愛論にはならないが、ここでは女友達として紳士を客観的に相対化しうる方が大事である。それに妻には勝手に誤解してもらえば済む。容易いことである。女友達は、いずれ三角関係にも批判的に参入することになるだろう。イ長調ならぬ変イ長調的参入である。

いずれにしてもこれで作品は紳士の一人だけのものではなくなる。感情的な発露も多面的になる。激情(sf)は、もって行き方を変えなければならなくなる。2楽章以下への態度という点でも、1楽章にとり憑かれた聴き方は変わる。したがって再読法に拠るとは、1楽章だけで事は収束しないことの再認識を小説の上に知ることである。

1楽章の終わり方にあらためて耳を傾ける。繰り返しに繰り返しを重ねて感情を高めるだけ高めた後、一呼吸ついて――アダージョによるテンポの抑制的な切り替えを間において――その分を開放的な上昇気分に転じ、ピアノとの掛け合いでのなかで後ろを振り返ることもなく再度疾駆に身を投じてみせる。書法としてはアダージョ用法の繰り返しパターンである。リフレイン的効果を狙ったものである。しかし、今回は、再奏(リフレイン)をにおわせながらわずか10小節で急激に打ち切る。裏切りの終結である。

このリフレインを見せかけにした一方的な打ち切りは、楽章の閉じ方の常套手段であるにしても、3和音を休符によってffで画然と縦に切りながら、激しく追い詰めるような切迫感のなかで煽り立てられるように聴かされる側としては、高止まり状態下での一方的な打ち切りに等しい。もたらされるのは不安定感である。しかも解かれないままに上昇気分に預け置かれた気分なのである。

だから1楽章では収束しない。しえないのである。聴き方の問題なのである。作曲者としても十分に意図的であったはずである。1楽章only方式のトルストイ的な聴き方では、作曲家の意図も自己激化への邪まとなるしかない。その点でも「四角関係」は、草案を超えて意味ある仮定となるはずである。女友達がそれを許さないからである。ここまでくれば次のように言い換えることも可能なはずである。つまり女友達とは、ほとんど奏者の立場を重ねたものの人格であり、その別名であるとの……。


「最後」のヴァイオリン・ソナタ ベートーヴェンは10曲のヴァイオリン・ソナタを遺した。第9番《クロイツェル》は、実質的には最後のヴァイオリン・ソナタである。内容的に同ジャンルの総決算になっているからである。第1番から第9番までは年代的にも連続している。内容的にも前後関係を意識化して作曲されている。この作曲状況に対して第10番だけは第9番との間で10年の開きをもって書かれている。年代的な孤立だけではない。内容的にも献呈先のルドルフ大公が弾くことを目的にした、したがって内輪的な曲想を帯びた軽妙な作品である。気持が和やかになる爽快な音色で、かえってベートーヴェンの深窓を覗く思いであるが、とりあえず第10番は除外する。

《クロイツェル》が総決算であるのは、第1番から第8番までのすべての要素を一曲の中に凝縮的に集約しているからである。交響曲の例が分かりやすいが、ベートーヴェンは短調作品と長調作品に対して交互的な態度を保持していた。とりわけ同じ作品番号ではその傾向が強い。同時期作品の例(中期例)では、三つのピアノ・ソナタ作品311802年)が、ト長調-二短調-変ホ長調、弦楽四重奏曲作品59《ラズモフスキー》(180506年)が、ヘ長調-ホ短調-ハ長調である。ベートーヴェンのなかの〈暗〉と〈明〉との二つの気質のなせる業である(わたなべ2012)。それが時として一つになる。分化していたものの合一である。短絡的ながら、《クロイツェル》がこの「合一」の一つの姿を呈するとするなら、この楽曲ジャンルにおいて第9番《クロイツェル》をもって筆を擱いたのも頷ける。合理的な作曲的態度だからである。

ヴァイオリン・ソナタの変遷 ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの変遷を第1番から第9番まで辿ると、大きく二つの山があることが分かる。同じ作品番号を付けられた作品12と同30の二グループである。ともに3曲からなる。作品12の作曲年代は、1797年から98年にかけてである。ウィーンに来て5年目である。すべて長調である。独創性がちりばめられているが、まだモーツァルトが彼処から聴こえてくる段階である。〈明〉〈暗〉の対比的な顕在化もまだ深層を切り開くまでにはいたっていない。第2番イ長調の2楽章のイ短調がそれである。同じ陰影でも哀愁感の勝ったロマンチックな音色である。

後続との関係では、第1番ニ長調の第2楽章が変奏曲(4変奏)になっている点は、同じ4変奏で第3変奏だけが短調(イ短調)になっているなど、形式的には《クロイツェル》2楽章の先駆形である。ちなみに2楽章を変奏曲にするのは第1番と第9番だけである。

2グループ作品30との間を繋ぎ、かつ作曲上の水準を保証する連携作になっているのが、第4番作品23と第5番作品24《春》である。明確な〈暗〉〈明〉の関係にあるもので、作曲年代も同年代(1801年)である。当初は2曲とも同じ作品23で括られていた。

1801年といえば、耳疾に苦しみはじめ頃である。難聴への懸念は、手紙の文面にも影が射すようになる。一方では恋愛感情の昂進もある。《月光》である。貴族社会のなかでの生活もそろそろ10年近くになろうとしていた。鬱屈した気分になることも少なくなかった。主に当時の作曲家の置かれていた身分関係に起因するものである。克己心が人一倍強かったベートーヴェンである。鬱積した思いを、コンプレックスした〈明〉を間に置きながら〈暗〉の形で書き表したのが、第4番イ短調である。

1楽章には、後の《クロイツェル》を思わせる、強くて厳しい音が刻みつけられている。背中合わせに明るくおおらかな響きを聴かせる第5番へ長調《春》がある。伸びやかである。〈暗〉とはまた性格の違った力強さがある。充足感を満たす、自発的な輝かしい響きである。両者を聴く。ベートーヴェンを聴くとは、一体的に聴くことの謂いでもあるのをあらためて知らされることになる。
 
そして作品30の第68番のとなる。イ長調-ハ短調-ト長調である。第7番は、ベートーヴェンにとって特別な調性の、運命的調性ともいわれるハ短調の精神を如何なく発揮した一曲である。裏返しに第8番がある。第7番の〈暗〉が強烈なだけに一際〈明〉の響きが耳に快いことになる。問題は第6番イ長調である。

《クロイツェル》の3楽章は、当初第6番のそれとして作曲されたものである。第6番の元の3楽章が、第9番の12楽章の作曲に先行していたのである。第9番に付けられたのは、第6番に合わないからという理由である。問題となるのはこの先行性である。先行性が物語る楽式的意味や、それが新たな作曲に及ぼす影響は知らないが(ただ第9番の3楽章が、とりわけ1楽章に比べて2声的であるのはその残影なのであろうか)、第1only方式は、後付け的見方だとしても、この事実関係からいっても根底から覆らせられてしまう。楽章の由来が物語るは、あらためて3楽章を一体的に受け止める必要性である。

交互方式でいけば〈暗〉の出番である。第9番は、導入にイ長調の序奏部を置いて直後の主要部ではイ短調に転ずる。転調に加えテンポにも変化をつける。アダージョからプレストへの転換(急転)である。いずれにしても今回は機会的な交互方式というわけにはいかなかった。第7番との差別化を必要とした。第7番の完成度が高いからである。〈暗〉の完結的な位置に達するほどだった。しかも時間的にも近作である。明るい第8番の後だからという従来型では作曲は開始できなかった。筆者の立場を逸脱してしまっているが、序奏部18小節の理論的意味合いをあらためて考えさせられる。


初演と献呈先変更 結果生み出されたのが、機会的ながら〈暗〉と〈明〉の合一である。後期境地の先取りである。ヴァイオリンの名手ブリッジタワーを初演の奏者に予定していたことも合一を果たす上の好条件であった。ヴィルトゥオーソなヴァイオリン・パートの作曲化が可能だったからである。どういう初演だったのであろうか。ピアノはベートーヴェン自身である。献呈先がクロイツェルに変更になったのは、両者の気質の違いだと説明されている。気性が合わなかったのである。初演は満足のいくものだったのか。「ブリッジタワーは、ベートーヴェンの写譜した第2楽章のパート譜に目を通して、肩をすくめた」(ウィキペディア)と書かれている。「合一」の理解には達していなかったのである。「肩をすくめた」とはそういうことであろう。

したがって、単なる気性上の「合一」関係だけではなかったのではないか。意に反した(2楽章の)演奏であったのが、献呈者の変更の実質的契機をなしていたのではないのか。その場合、気質の違いは後付けということになる。身勝手な想像であるが、ブリッジタワーは混血児(黒人とポーランド女性)で、「彼の演奏は非常に情熱的であったのウィーンで大いにもてはやされた」(佐々木1987)という。2楽章はお好みではなかったのであろう。


2楽章の主題 ではその2楽章である。1楽章の高止まり状態が不安定感を引きずるなかに、2楽章がピアノソロで静かに主題を開始していく。一瞬にして安堵感に襲われる。〈暗〉から〈明〉であるが、二極化ではない。アウフタクトで開始してスラーで閉じるpの直後にはsfが繰り返される。1楽章の高音が頭をよぎる。sfはかえって安心を呼ぶ。繋がるからである。《クロイツェル》が作品として傑作性に届いているのは、3楽章の開始(強打)と対照をなす2楽章の開始に与るところも少なくないはずである。

7小節にわたる脈動性を帯びたピアノソロを承け、8小節目の1拍半後の8分休符に、満を持してヴァイオリンがアウフタクトではいって伸びやかにpからsfをさし入れながら音を引き伸ばす。メッゾ・スタッカートで1音ずつに軽く耳を傾けたかと思うと、クレッシェンドをかけながらスラーで上昇し、今度は2度高くから下降に転じるが、クレッシェンドを逆行させながらの下降で、両者の終結点から6度上昇の高さを大きく得て新たな下降スラーに繋ぎ、ピアノにバトンタッチする前を、山なりに振幅感をもたせながらレガートで奏し切る。

受け継いだピアノソロが、しばらく軽やかな響きを鳴らす。トリルを利かせながらの上昇音階も軽妙である。やがてスラーで下降していくなかにヴァイオリンが静かに這入っていく。導入部の旋律の繰り返しである。ピアノも然り。両者和した繰り返しが終わると、ヴァイオリンにあらたなレガートが待ち受けている。次の聴きどころである。新たな開始を受け持つ、吸引力を内に潜めながらのしずかな、相対的に低めに響くレガート。クレッシェンドによる引き継ぎ。大きな呼気と高音域への膨らみのある高い移行。導入部への回帰を見せかけにして新たにつくる伸びのあるレガート。続くピアノを真似たトリルにpsfを取り合わせた効果的な強弱感。待ち受ける、再びの伸びやかなクレッシェンド。第1変奏を直前にした最後の弓。導入部の開始8小節への逢着。閉じられる主題の環。


「声」と「文脈」~当夜の演奏(再)~ 最後に再び当夜の演奏である。先に楽譜を辿ったのは、加納伊都の持ち味が自然な形でよく表されているからである。辿ったのは楽譜というよりレガートの愁いのある響きである。少し説明が必要である。たんなる愁いではないからである。

1楽章からしっかりと聴こえていたものである。言い表し難いが、艶がかった、しかし同時に渋味を帯びた、相反する特徴が凝縮されたような弦の、カオスを芯にした余韻を逃げ場としない音色である。引き伸ばされるのは、あるいは切り上げられるのは、修辞的にすぎるかもしれないが、触発的な心を揺らす蒼然さである。曰く愁いの内的構造である。

たとえば高音域でのレガート。鋭さや強さだけではない。糸を強く張った音があげるような、切れ味は鋭いが線的でか細い感じの響きとは違うのである。彼女の弓が響かせる音は、「線」に終わらず「声」を潜ませているのである。専門的な言い表しができないのがもどかしいが、聴かされるのはこの「声」である。今回、彼女の持ち味としていきなり耳に飛び込んできたものである。

確信的なほどである。驚いたのである。高音域から最高音域に伸びあがるときには、大急ぎで音を待たなければならない。そんな暇はないのであるが、それでも気持だけでも先回りする。かならずと言ってよいほど見込みを超えて聴かされるからである。待ち構えるのはそのためである。感動の襲来を背中合わせにした、見込み越えへの備えである。

それでもリミットの高さでは聴こえないのではないかと思って待ち構える。幸いリミット域では四分音符であったり、2分音符であったりする。さらにタイで音が伸ばされる。あるいはスタッカートで刻まれる。想定は見事に覆される。やはり聴かされたのは「声」である。見込み越えの上にもたらされる感動は、その分、倍加されて送り届けられる。

それが2楽章にきて、アンダンテによる急激な速度変化によって、冒頭部の際立ちとなる。今度は先回りの必要はないのである。奏者と一緒になって聴くことができるのである。冒頭部の主題が奏でる調べは、まるで横並びを見込んでいたかのような運弓法を連ねる形に書かれている。呼びこまれる感動は、楽章によって内的構造を異にする。ここでは見込み越えによる感動というより、同質化を量るなかに逐次的にもたらされるものとなる。量ること自体が、すでに横並びであるのを意味する。奏者と共に聴く。それが2楽章の「声」である。

実に自然な感じである。個性が体質化している証拠である。ふくよかである。のびやかでしなりがある。そして件の愁いがある。高音域や急テンポのためだけはない「声」がある。多様である。どのようにでも応えてみせる。1楽章に戻れば、1オクターヴ飛翔の折りの切り上げが特徴的である。低音域で分厚く奏でる際には、音域間の差別化を際立たせる「声」として、和声的な膨らみに帰納的な深みのある響きとなる。ときに個別化を弾き切り、ときに全体化を引き寄せる。

《クロイツェル》を聴きながらも途中から聴いているのは、この「声」になる。「声」への期待である。期待を期待してしまう。期待を聴くようになる。優れた演奏が等しく抱える演奏会の醍醐味である。エッセンスである。楽曲理解のおおもともここにある。エッセンスが果すのは、もはや演奏の感動だけではない。楽曲理解の内的更新にも及ぶことになる。

とりわけ異なる楽章間を繋ぐ、スコアに直接書き込まれていないものの浮かび上げである。「文脈」である。気がつくと浮かび上がっていたものである。「声」に象徴される一人の女性演奏者の弓の「創作」である。演奏家だけが創り上げられる「作品」である。当の作曲家でさえ教えられる性質のものである。

演奏論あるいは再現芸術論を意識しているわけではないが、《クロイツェル》を異なる弓に聴く意味は、しかも今回のように女性演奏者に聴き意味は、かくして有益に確保される。ひとまずの結語としたいが、「声」によるベートーヴェンの解釈は課題である。


おわりに 加納伊都の演奏の魅力は、2回のコンサート体験だけをとってみても、《クロイツェル》だけで語れるものではない。それでも《クロイツェル》は、彼女の演奏体験の一つの集約になっていたに違いない。思いがけなくCDを入手したこと、同じコンビ(Piano松尾久美)で今年のコンサートを聴けたこともあり、昨年の感動の再現を、《クロイツェル》再考に繋げる意味からも筆を起こした。加納伊都のプロフィールには一切触れなかったが、関心がある方にはHP(下記)が開設されているので閲覧をお勧めしたい。本稿の不足(「声」の由来の一端)を補ってくれるだろう。

HPから一つ紹介すれば、ドイツで行なわれた演奏ツァー(2008年)では、批評家の絶賛を浴び、新聞で特集記事が組まれたようである。どのような批評だったか知りたいところである。現在の本拠地はイギリスである。年末恒例のコンサート以外にも帰国の折には、定例的な演奏会が催されている。あわせて他分野とのコラボなど、コンサートホール以外での活動にも果敢に挑戦している。その成果は小さくないに違いない。

なおHPのコンテンツ「Recording」には、当夜の《クロイツェル》がユーチューブにアップされている。合わせて付け加えておきたい。

「加納伊都のサイトへようこそ」http://itokanoh.com/index.html


  引用・参考文献
   ウィキペディア・フリー百科事典「ジョージ・ブリッジタワー」
佐々木庸一「第15話 フランスは恩知らずだ クロイツェルとロード」(同著『ヴァイオリンの魅力と謎』音楽之友社、1987
トルストイ/原卓也訳『クロイツェル・ソナタ 悪魔』新潮文庫、1974
長谷川武久「ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ」(音楽之友社編『作曲家別名曲解説ライブラリー③ ベートーヴェン』、音楽之友社、1992年)
わたなべ 壱「[へ] ベートーヴェン断簡 [更新版]」(同者ブログ「インナーエッセイ」、20149月)


付記
本稿は、昨年末段階で「当夜の演奏」で止まっていたのを成稿化したものである(2016.1.13)。




いよいよ今年も余すところ1時間。間際までブログとかかわった1年。あと3本で完了。来年からは新しい事が出来そうである。

これまで拙い文章をお読み下さった方々に感謝します。
どうぞ良い年をお迎えください。