2016年7月10日日曜日

[ろ]3 ロマン(連載3) 取調室


婦警は、男の取り調べに立ち会うことになった。理由があって制服のままだった。しかし、女刑事の真似をしているのではなく、実は正真正銘の女刑事だった。婦警の格好は、カモフラージュだった。
街頭刑事という特別任務に就いていたのである。主に性犯罪や痴情犯の焙り出しだった。彼女には特別の能力が備わっていた。道行く人を見分けられるのである。だから交番勤務を装っていた。あるいは巡回の名目で街に繰り出す。街角で屯する輩から怪しい人物を見分けられるのである。
自身から進んで囮になることもあった。怪しい人物を見つけると、素早く私服に着替え、肉薄をも厭わない。体を張っての職務遂行である。美形の上に抜群のプロポーションだった。すべてを職務に捧げていた。
「いつまで黙ってるんだ!」
 刑事の声は威嚇的で、その都度男を怯えさせた。できれば協力的な態度を取りたかった。でもできない。何も答えられない。名前も明かせない。そんなつもりはなかったのに黙秘になってしまっていた。
たとえば名前のこと。明かさなかったのは、明かしたくなかったからではない。明かすべき名前を持たなかったからである。
だからいささか妙な話だが、怯えのなかに喜ばしさを抱え込んでいたのである。嬉しかったのである。久しぶりに名前を問われたので。それも執拗に、何度も何度も「名前は! 名前は!」と、「名前も言えないのか!」と声を荒立てられながらも、その度にまんざらでもない気分を味わっていた。でもそんな内実を悟られてしまっては火に油を注ぐことになってしまう。ひたすら怯えに徹していたのである。
いつも「おい、お前!」とか「貴様!」とか、場合によっては「其処の(奴)!」とか二人称にもならぬ「愛称」で呼びつけられたり、呼び捨てられたりしていたのである。
それが一人前に扱われた気分になる。そうか名前か。そうだ自分だって名前があるんだ。納得する。思わず、満足げな顔を覗かせてしまうことになる。
案の定、刑事を刺激し激高させてしまう。刑事には侮られた顔にしか見えなかったからである。
机が激しく叩かれる。刑事の顔は怒りで震えている。
黙秘には慣れている。でも黙秘には黙秘で意志がある。人がある。人格が感じられる。でもない、意志も人格も。これは黙秘ではない。あるのは黙秘を真似た、ただの嘘つきの顔つきである。俺さまをこれ以上怒らせるな!
男にも刑事の気持は分かっていた。理解できた。自分で自分を責めた。怒られるのも仕方ない。当然である。
当然だが、実は当然でない状況下にある。それが事実だったし、事実だったことが、本人にも刑事にも問題となる。でもどうにもならない。
それというのも明かすべき名前を本当に持っていなかったのである。正しくは持っていたが、今はもっていないのである。明かしたくても明かせないのである。どうにもならないのである。
「なんだ、名前を付けてくださいとは!」
 言うまいと思っていたことを口にしてしまう。怯えがそうさせたのである。
「ふざけているのか!」
 刑事の拳に力が入る。
「馬鹿にしているのか!」
 明らかな侮辱だった。限界だった。叩かれた。
 でも刑事からではなかった。女刑事からだった。取り調べの机を挟んで対面していたのは婦警姿の女刑事の方だった。救ってくれたのである。
 それほど強くなかったが、痛そうに頬に手を遣りながら、女刑事ではなく傍らの男の刑事に面を上げて、「ふざけているわけでも馬鹿にしているわけでも」と、萎れ気味に項垂れる。
そして、「付けてくださいと申し上げたのは、実は」と言う。自分も黙秘はいやです。怒られたくありません。でもお願いですから、我慢して下さい、しばらくの間ですから、真実をお聞き下さい、その間は怒らないでください、そうでないと黙っているしかできなくなってしまいます。でもそれが(黙秘が)一番嫌なのは自分ですから。本当です、と哀願顔をつくる。
刑事は、「ともかく言え! なんでも好いから!」とさらに威圧気味になる。黙秘などと抜け抜けと言われたからである。しかも脅しのようにして。
だめだと男は思う。また怒鳴られてしまうと。
「少し休憩をいただけますか。必ずちゃんとお話しますから」
 回答は迅速果敢だった。
「いいだろう、その代わり正直に話すんだ、いいな! また同じような態度だと、分かったな!」
 一撃を加えるように厳しく言葉を浴びせた刑事は、書記係の若い刑事を一人残して女刑事を伴って退室したのである。図らずも男と刑事両者の呼吸は合っていたのである。

 30分の休憩は、人の気持を鎮める。鬼刑事にしてもそうである。でもそれだけではなさそうだった。休憩の間、女刑事からなにか言われていたのだろう。たとえば、「大丈夫ですよ、もう」と自白を確信してもいいようにとか、それも「さすがですね」とか、適度に煽てられながら。
だから「我慢して聞きましょう」と言われても「そうするか」とかまんざらでもない顔を浮かべることになる。さらに「どうしてもダメなら、また私がなんとかしますから」と声をかけられると、髭の濃い頬がだらしなく弛むことになる。心得ている、まったくのところ、鬼刑事の扱いなどなんでもなかった。すこし目配せを交わせばいいのである。たとえ妖しかったとしても。
実際、再開を告げた時には、もう刑事は、男の肩を揉み解して見せるほどになっていたのである。
「じゃ聞かせてもらうか!」
 そういいながら男から椅子をすこし引いて、間を取る。女刑事の位置は変わらない。 
「実は落としてしまったのです。届け出ました。交番に行って。受付してくれませんでした。『そうか、そうか、それは気の毒に』としか言ってくれませんでした」
 少し間があったが、刑事は「それはそうだろう」と言った。いきなりの話だったが、怒気は籠っていなかった。それを明かすように、「俺でもそう言う」と軽くあしらうように言う。しかも無理に笑って見せる。
「だから別の交番に行きました」
「今度はなんと言われた? やはり『気の毒に』か、それとも『それはご不便なことで』とか?」
 そう言って女刑事を見ながら苦笑いを浮かべる。少し自信がなくなってきたのである。またぞろもたげ出した怒気を早めに女刑事に知らせる必要がある。判断を仰いだのである。
いうまでもなく軽く首を横に振られる。まだ始まったばかりなのだ。
「怒らないから話してみろ」と代わりに言う。
「真剣な顔をしてくれました」
「新米だな、そいつは」
そうではなかったが、刑事に同調した。
「本当は盗られてしまったんです。最初からそう言えばよかったんですが、恥ずかしかったんです。盗ったのは女ですから。押し倒されて首絞められて『分かったわね! その名前を二度と口にすんじゃないのよ!』『マイクを埋め込んでおいたからね。どんな小さな声だって駄目だから。超高性能の集音マイクだからね』『相手の声も入るからね』――教えたどうかすぐ分かるからね、ばれるからねって威すんです」
「新米は付き合ってくれたんか?」
「ええ、だからずっと黙っていてくれました」
「そうか、それはそうだろう」
 少し落ち着きを取り戻したらしい刑事に言う。
「筆談することにしました、これならばれませんから。マイクはカメラではありませんから」と自信顔で。
 刑事が腰を浮かす。
「聞こえるんじゃなかったのか? こんな話していていいのか!」
 我慢しているんだぞ、相当な、と分からせるようとしていた。この先もこんなんじゃ、と一喝しておくべきだと思ったからだが、女刑事と目が合う。腰をおろす。まあいいかと思う。つき合ってやろうかと思う。あとで慰めてもらおうと思っていたのである。帰り際に一杯付き合わせて。
「大丈夫なんです。電池が切れているんです。本当は出頭しなければならないんです。女のところにです。このまま放っておくと、マイクから有害物質が流れ出てくるんです。だから1週間以内に連絡を取らなければならないんです。でも連絡も、出頭もしなかったんです。いいと思ったんです。それで体の調子が悪くなっても、重症になっても。死んでしまっても。ほとんど拷問ですから。名前なしで生きていかなければならないなんて。お分かりでしょう? 普通の生活は送れません。就職も、結婚も。仕事を選らなければ就職は偽名でも大丈夫ですけど。偽名だと犯罪ですかね」
「まあ、ケースバイケースだが」
「有印文書なんとかとか、文書偽造とか、そういうことですか」
「まあそういうことだ」
どうでもよかった。刑事は「それで?」と先を急がせるしかないと思う。
「だから問い詰められたら『筆名』ですと言い直します。大丈夫でしょうかね?」
「まあそうだな。でも今はそれでは通用せんぞ。それに『盗られた名前』だが、それと今回のことは関係しているのか?」
「筆談の話に戻っていいですか」
すこし溜め気味に言って、「手短にしろよ」という刑事に、男は「はい」と子供のように弾んだ声で返す。
刑事はすぐに自分の優しさに後悔したが――柄にもない真似だったので――でも黙りこくられるよりかいいか、と自分を納得させる。
男は、いろいろしゃべり続けた。男は男なりに刑事の苛立ちに気を遣っていたつもりだが、巡り巡って辿り着いたところは、またもや女刑事の手を借りなければならない寸前だった。
でも刑事は、「いいから、いいから、なんでもいいから!」と、もう投げやりを通り越した諦めの気分で、後は若い刑事にいつ任せようか、とそのタイミングを見計らうことでこの場の忍耐力に自分なりの整合性を見出そうと努める。
――手術シテ外シテモラッタラ如何デスカ?
――マイクガ出テキタラ証拠品ニシテモラエマスカ?
――エエソウイウ運ビニナルデショウ。
この一言、正確には一筆がその後を決めたと男は唇を噛みしめる。そして「紹介シマショウカ」と言われたと。
総合病院だった。精密検査ならぬ総合検査が必要だと言われ、数日かかるので入院して欲しいと。
事情は巡査が伝えてあったので、申請書の氏名欄ほか氏名は「筆名」で済んだ。「名無(ななし)」だった。名が姓、無が名だった。事情を聞かされた医師もそれ相応に応じてくれた。
最初は問診だった。予め記しておいた質問表をもとに健康状態がチェックされた。
――ご家族は皆さんお元気のようですね。名無さんだけですかね。オジサンやオバサンに同じようなお悩みを持たれた方はいらっしゃいますか?
――先生、あの?
――分かっていますよ。でももう少し調べてみましょう。外科的なことは外科的なこととして置いておいて、内科的には遺伝的なことも考えられます。頭から処置方法を決めてかかってはよくないと思います。女性のこともです。潜在的な恐怖心をお抱えのようですが、そのことをもう少し内科的にですね、いろいろと。
回りくどく訊かれましたが、結局、女性のことでした。女性環境でした。現在だけではなく小さいときからの。実は被害妄想ではないかと。女性にマイクを埋めこまれたのも。埋め込んだ女性そのものも。そう言われるんです。
見せました。先生に。写真を。送られてきた写真です。これから胸を閉じようとしている前の写真です。はっきりとマイクが見えます。傍らの女も。ほくそ笑んでいる顔も。いかにも冷たい感じです。
すると先生は言われるんです、私には見えないんですが、と。
こんなにはっきり写っているのにこれが見えないなんて、なにか馬鹿にされている気分になって、それで抗議の声を上げました。
すると医師は、回転いすを一回り、二回りさせて言うんです。
――私がだれか分からないの? って。
急に女声になって。でも顔は男です。同じ男の医師です。
目を瞑って、と言われました。言われる通りに目を瞑りました。耳もとで囁かれました。
――変な真似すんじゃないよ。
と、ナイフのような鋭利な声で。
「例の女だったのね」
口を開いたのは、女刑事だった。孤立無援に耐えていた男は、なにか女刑事の手を執りたい衝動にかられる。すぐ近くにまで腕を伸ばすが、刑事がいることを思い出す。男は続ける。
 見破られていたんです。外科手術を受けようとしていたことが。
――自業自得だ、自分を恨むんだね。
また言われました。女声で。そして、今度は完全に奪われました。名前です。根っこから。もう記憶にありません。それまでは口に出すことだけが禁じられていただけなので、頭の中で呼びかけることはできました。許されていました。でも自分を憐れむためです。女の無慈悲は、私の弱点を容赦なく衝いてきます。それでも好いもんです。喩え頭の中だけだとしても名前があるのは。でもそれも許されなくなりました。
――もうこれで言いたくても言えないからね。でも却ってよかっただろう。びくびくする必要はこれでなくなったんだ。
気がついた時には脳外科病棟の病室に横たわっていました。頭部は、幾重にも巻かれた包帯で白く覆われていました。目を開けると、外科医がベッドの脇に佇んでいました。女医でした。満足そうにしていました。
――○○さん、大成功ですよ。ご安心ください。この分だと回復も早いでしょう。
――先生?
――なんですか、○○さん。
――そこだけ聞こえないんですが……。
――だから大成功なんですよ。好いんです。聞こえなくて。そのための手術だったんですから、ねっ名無さん。
――先生は誰なんですか!
――誰って? わたしは名無さんの担当医ですよ。それよりそんな大きな声を出すと痛むでしょう。今は手術の後だからいろいろ心配になるのは分かりますが、大丈夫ですよ。安心してお休みください。
――頼まれたんですか!
――頼まれた? ええそれはもちろん頼まれましたよ。
――あの女にですか!
――なにおっしゃってるの? 変な方ね。ご自分に決まっているでしょう。『名前を捨てたい。お願いします』って。普通なら遣らない手術です。倫理的な問題だけでなく、技術的にも難しい手術ですから。ご事情を窺って、審査会で致し方ないでしょうということになって、私が選任されたわけです。術前におっしゃられたでしょう。『良かった、先生がご担当くださると知らされて。この方面では先生の右に出るお方はいらっしゃらないそうですね。本当によかった、どうぞよろしくお願いします。先生に全部お任せします』って、でもいいんですよ、混乱しているんです。それも予定の範囲内ですから。でも大丈夫。それもすぐ治まります。自然と落ち着きますからね。ご安心下さい。たしかにこの手術に関しては、名無さん、私が担当したことに、後々、必ず満足していただけるはずですから。
何を言いている! 満足も安心もできるわけがありません。絶対にあの女だと思いました。
混乱している? そう女医は言う。ならその混乱ぶりを逆に利用してやろう、そう考えるようになりました。だから頼みました。
――回って下さい。
と。一回転、二回転、三回転。
「で、どうだった?」
 刑事が突然口を挿む。
「変わりません。女医のままでした」
 単細胞だった。その刑事の性格が幸いする。
「まぁ、あえて訊くが、それも、なんだ、お前さんの、つまり、内科医が言うところの女環境というか、ちがうか、『女性環境』だったか、そうか、そうだったな、どうも口が汚くて、お前さんみたいなやつばかりで、本当に、自分で自分が嫌になってくる。で、それだが、結局、それなんじゃないのか。いや、それだ、それだ、そういうことだ」
 自信満々である。
「女への妄執、だ」
そして、こう言い出すのだった。
「おかしいと思っていたんだ。俺の勘から言っても、普通の痴漢には見えなかったかなら。(どういう意味だろう?)そうか、そうだったのか、勘違いだ、俺の。違う、女たちのだ、女性たちのだ。回って欲しかっただけなんだろう? でも回ってくれない。それはそうだ、ベンチの脇に座っただけだ。それだって、いつも女性が座っている場所だ、お前さんは言ってみれば新参者だ。ほかに空いていたんだ。だから移って欲しかっただけなんだ。『すいません、連れが来るんでよろしかったら席譲ってもらえませんか?』そこでお前さんは言った。『回って下さい』って。何度も。怖くなる。当然だ。ベンチを離れようとする。それをお前さんは、前に立ちはだかる。女性の肩に手を掛ける。女性が悲鳴を上げる。お前は驚いて逃げる。何日かしてまだ戻る。女性はいない。怖くて来ない。来れない。気にいっていた公園なのに。で、次はなにも言わないで、黙って女性の後ろに立つ。囁くように声をかける。『回って下さい』って。回るわけがない。やはり悲鳴を上げて逃げ去る。お前さんも立ち去る。そして次だ。今度は自分からだ。そうなんだろう? 回そうと思ったんだろう。抱きついたわけではない。逃げないで下さいって、怖がらないで下さいって。でも無理だ、それは、どう考えても。だから悲鳴を上げられる前に口を塞いだ。『怖がらないで下さい』『なにもしません』『回って欲しいだけです』――いろいろ好き勝手に言ったそうだな。何にもの女性が同じように言いていた。『助けて下さい、ぼくを! ぼくを!』って、そう叫んでいたと。助けてくれるわけがない。助かりたいのは自分の方だ」
 刑事は、徐に椅子から腰を上げて、後ろから両手で男の肩を押さえた。そして、回転力を加えた。椅子に座ったまま男は半回転した。男が椅子を押さえていたからである。刑事と正対することになった男に刑事は真正面から覗きこむように言った。
「そんな手の込んだことを言って、本当の目的は何だったんだ? まさか痴漢したかったわけじゃないだろう。肩触りでも痴漢と言えば痴漢だが、それとも脅迫か? でも『回ってください』じゃな?」
 刑事は喜んでいた。余裕しゃくしゃくだった。
 それを男は簡単に裏切ってしまう。そうではない、結果として裏切ってしまう。男には刑事の話が耳に入っていなかった。入っていたかもしれないが、聞こえていなかたった。別なものが入っていたからだ。
話は戻されることになる。
「やはり思っていた通りだったんです。女医さんではなかったんです。看護師だったんです。回診カードを押さえたボードが裏返されたんです。『見ているからね』そう書かれていたんです。あの女でした。笑い顔です。目の奥に浮かぶあの嘲笑うような笑い顔です。埋め込んだ時と同じ。女医さんは操られていただけなんです」 
 目は刑事を見ていた。でも男の眼には刑事の姿は浮かんでいなかった。
 刑事は肩に置いていた手に力を加えた。半回転して男を正位置に戻す。時間を稼ぐためだった。作戦の練り直しである
「でも正確には女はいませんでした。看護師さんは乗り移られていたんです。優しそうな女性でした。ですから最初はまさかと思いました。でも間違いありません。あの女が体の中にいます。きっと先回りしていたんです。交番に行った時から。そして、分かっていたんです。この病院のことも。内科医のことも、外科医のことも。選んだんです。油断させるためです。相手を看護師さんにしたのは――」
 嘆き悲しんでいるのか、男は両手で顔を覆った。泣いていた。
でも泣いている意味を刑事には理解できない。我が身を儚んでいたのではなく逆だったからだ。感激して泣いていたのである。好いように振り回われてしまう。でもクライマックスだった。
男が立ち上がったからだ。そして振り向いたのである。刑事をしっかり見つめていたのである。刑事も負けず睨みつけたのである。
「初めてでした。回ってくれたんです」
 勇んでいた。自分で演じ出しかねなかった。
「しかも『女』でなかったんです。何度回ってもらってもそうなんです。乗り移っていないんです。分かったんです。探していた女性だったと。出会えたんです。『もう一人の女』に! それが彼女だったんです!」
「で、感激のあまり思わず抱き付いてしまったわけだ!」
 刑事は同じように男を抱きしめていた。現場の再現だった。そして、肩越しに女刑事を見る。予想外に無表情だった。むしろ迷惑そうだった。
 刑事は勘違いしていた。嫌なことを思い出させてしまったかなと。後で慰めんといかんな、これはと。

女刑事は、別な世界のことのように二人を見ている。男に抱きついている刑事の格好は、茶弁劇にも近い滑稽事でしかなく、そう思うと、この取調室そのものが別の世界のように思えてしまう。
それに女刑事が思い出していたのは、抱きつかれた瞬間などではない。男に手錠を掛けた瞬間だった。感じたのである、なにかを、抱き付かれた瞬間に遡って。
その瞬間から「これで!」と、事件が終了したと思った安堵感と感激は、身体の中から消え去っていたのである。どこにもない。残っていたのは消え去った感覚だけだった。
そのためだった。立ち会ったのは。上司から後はいい、あいつ(鬼刑事)に任せるからと言われていたのを、直接の関係者ですから、と自分から強く申し出たのである。
でも途中からなんだか不安になってしまったのである。出鱈目の話を聞かされたからではない。男の状態では起訴できそうにもないからではない。
違う。反対である。男になにかを衝かれた感じなのである。あの時と同じなにかである。『出会い』『もう一人の女』などと思いがけないことを言われた。バカバカしい。そんなわけがない。でも女刑事は怖くなる。
言われるままに回っていた、何度も回り続けていた、あの公園の一角が浮かんでいたからである。そして意外なことを思い始めていたからである。
 自分から抱き付いていたのではなかったか、と――。

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