2017年1月5日木曜日

[ろ]8 ロマン(連載8) 参戦


――貴方は引き受けるわよ、引き受けるべきよ。わたしのためではなく、貴女自身のためにね。
語りかけた窓辺からはなにも返ってこない。ガラス板が女史をぼんやりと薄く映し出しているだけである。

編集室の窓辺から外に広がる景色には、近くに遮るビルがない。いくつか先の駅まで大きく見渡せる。でも女史は階上から下を眺めている。歩道を行く人々の思いを窺っている。
街路樹が季節の風にゆるやかに揺れている。車が風のように流れて行く。タクシーを止めて若い女性が乗り込む。編集部の若い女の子である。印刷所へ出張校正である。よく働く子である。動き出したタクシーはまっすぐに進んでいく。交差点を青で進む。次の交差点も赤に変わらない。
気分を良くした運転手は、ときどきバックミラーを覗く。生き生きとした顔が映し出される。まだ赤信号に引っかからない。風を切って進むタクシー。このままずっと乗せていたい気分になる。印刷所まではちょっとした道中である。上客である。運転手は声をかける。出版社の社員であるか確かめる。会社の目の前で拾ったからである。それに胸もとに分厚い封筒も抱えている。
車内の会話が弾む。心優しい子である。人当たりもいい。誰にでも笑顔を絶やさない。このまま育っていって欲しい。もう自分と引き比べてしまう。この頃はいつもだ。昔の自分を思い出す。自分もそうだったはずだと。
でも今の自分に昔の面影はない。すこしは可愛い顔もしていたのである。それが同じ自分だと思えないくらい疲れてしまった顔。ときにヒステリックに荒立ててしまう言葉遣い。後味の悪い時間が自分の周りを取り囲む。
言われているにちがいない。ヒス女って。ヒスジョともヒスメとも。なるほど「ヒス目」か。ガラスに探す。自分でもそう思ってしまうヒスメの顔を。あの子だけにはきつく当たらない。決意する。
車内の笑い声が聞こえる。忘れてしまった笑顔。わたしから精気を奪った者たち。奪い返さなければならない。でも今はその気力もない。原因は痛いほど分かっている。良い作品が出せない。そのためである。
作家たちに嫌われている。作家たちにとって煙たい存在。変にベテランになってしまったからだ。刺激を与えるどころか創作意欲を削いでいる。以前なら自分のために書きたいとまで言われたのだ。その時の駆け出しの作家の顔が思いだされてならない。
一緒に現状を打破しましょう。曇りのない心で作家たちにかけることのできた言葉。編集者としての言葉。返される大きな頷きと作家たちの目の輝き。
――〇〇さんは、編集者というより同じ仲間って感じ。同志のような。
愉しかった飲み会。文学談義。将来への挑戦。酔った勢いだったかもしれないけど何度も言い寄られたこともあったのだ。今では避けられるばかりでも。
苦笑してしまう。自分を囲んだ今夜の飲み会。編集慰労会。部員にとっては仕事の延長。文学を囲んだお酒ではない。上司につき合わされなければならない嫌なお酒。わざとらしくつくろった部員たちの口許になんて言葉をかけてあげればよいのか。彼らはどう見ているのだろう。こんなはずではなかった今のわたしを。哀しくなる。
翌朝、早めに出社した女史は、その手をキーボードの上に伸ばす。「海外旅行」と打って検索をクリックする。特集号も無事校正を終えられた。後は刷り上がりを待つだけ。今しかない。女史は心を決める。上司に休暇願をだす準備を始める。
そしてもう一つ。出かける前にしておかなければならないこと。もっと大事なこと。肝心なこと。話してしまう。どう思われようが構わない。もう心は決まっていた。そして依頼する。引き受けて欲しいと。
あなたにしか頼めないの。訴える。追い詰められた自分を晒すのは気が引ける。でも構わない。彼女なら理解する。わたしが普通でないのを察する。どうしたのなどとつまらない詮索はしない。相変わらずクールに。なにか大変そうね、やはりそうだったのね、程度に。

女史は、再び窓辺に立つ。
――貴方は引き受けるわよ、引き受けるべきよ。わたしのためではなく、貴女自身のためにね。
なにを言っているのだろう。同じことばかり。
でも訴えてしまう。貴方のため。そう貴方のためと。繰り返し繰り返し。
これは復讐でなければならない。彼女の。わたしに対する。
訳の分からないことを? 彼女は嗤う。
わたしにも分からないの。でもこれは復讐なの。貴方がわたしにできる。わたしが貴方に望む。
わたしはわたしを演じているのだろうか。
自分に復讐を企てているのだろうか。
連絡を入れる。聞いてもらいたい話があるのと。
いつでもいいわよ。
やはり落ち着いている。もう見破られている。
――引き受けて。お願い。引き受けないなんて許さない。
女史はガラスの向こうに彼女を探す。
でも彼女はこう言い返す。
――私のためって? なにそれ?
と。 


 でもそうなる。
なるほど、編集女史の言うとおりだった。彼女は引き受けるのである。
それでも今度は彼女の番である。いろいろに考えをめぐらす。受けるための理由を。自分を納得させるための。
長い付き合いだから? ずいぶん面倒を見てもらったから? 違う。今回は。自分の理由からだ。女史の窮状を見るに見かねて求めに応じようとしているわけではない。
それにそもそもそれは(Ⅹ氏が作品を書けないことは)、言われるような窮状などという手合いかしら、まともに考え直せば、すこしも窮状ではなくなる。いくら編集者と作家の関係だからといっても所詮仕事にすぎない。仕事を超えて義理に縛られる必要はない。見限ってしまえば好いのだ。女史のためだけではない。作家のためにでも。
それ以上に何があるというの? それとも二人の間に特別のなにかでもあるというの? くだらない!
彼女は無償に腹が立ちだしていたのである。我慢がならないくらいに。そう思ったとき、気がつくと、急に引き受けてもいい、と思い始めていたのである。それ以上に引き受けなければならないと思いはじめてしまう。
気持ちは一方的に昂じていく。やらなければならないことのために。自分のためではなく、女史のためでもなく、誰のためでもなくやらなければならないことのために。湧き上がってくる。怒りに近い思いとともに。
一週間のうちに返事を欲しいと言われていた。三日後には連絡を入れる。翌日でもよかった。それではいかにも安易すぎる。でももう待てない。早く連絡しないと腹が立つばかりである。
 しかし編集女史は、不在だった。出張だと聞かされる。戻るのは三日後だと言う。なるほど一週間以内にか(いかにも女史らしいこと)……。何時からだったんだろう。でも訊かない。どちら様ですかと訊かれてしまう。明かせない。
ありがとうございましたと言って電話を置く。耳元に感じの良い若い女性の声が残る。訪れたことがない編集部の姿が浮かぶ。
キーボードに指を置く。気持ちは固まっていた。画面を睨む。画面のなかに浮かぶ〈顔〉を睨む。これが彼女の経緯。はじまっていくための。

 *

対照的な性格の場合、通常、お互いがお互いを補い合うみたいなとられ方になりやすい。でも違う。二人の場合は逆である。補い合わない。むしろ補い合わないから、仕事を超えて長く付き合い続けてこられたのだ。そうとも言える。
楽だった、違うことは。同じところがないことは。会う度にそれを感じるのは。とくに編集女史の場合、女が嫌いだったのに対して、彼女の場合は男が嫌いだった点に関しては。でも口に出して確かめ合うわけではない。それぞれのプライドがそれを許さなかった。
でも素振りも見せない分、逆に二人の結びつけを強める。今度は秘密も絡む。しかも密約である。
断っておけば、女嫌いの編集女史が彼女を容れられるのは、もちろん、彼女にまったく女を感じないで済むからだった。
 でも、自分たちはどこか似ている。編集女史はそう思っていた。彼女もそう思っていた。見かけも性格もまるで違うのに、二人は互いを見、その相手を見る目で自分を見ていた。拒まない。どちらからも。そうであることに。

 一週間が過ぎる。女史はまだ出社していなかった。数日後、女史の方から連絡がはいる。留守をしてしまったお詫びと、「資料」を送ったという連絡だった。判断材料にして欲しいからと。
 さらに数日後、電話がかかってくる。返事を求める電話ではなかった。会ってほしいという連絡だった。返事はそのとき聞かせて欲しいと言われる。
三日後、いつも使っているバーで落ち合う。お土産よと言って南米産の色鮮やかなスカーフが渡される。珈琲豆も。海外出張だったのと訊かれた女史は、ごめん、と言って、実は個人的な旅行だったのだと言う。少しばつが悪そうに。弁解しようとするのを彼女はやめさせる。そんなことはいいわ。そう言って、お見上げ嬉しいわと言いながら、代わりに今度旅行の話を聞かせてよと言う。
簡単に乾杯だけ済ませて(無事の帰還に対して)、肝心の話にはいる。女史から郵送されてきた「資料」がテーブルの上に取り出される。
「訊いてもいい?」
ええなんでもと笑いを浮かべながら答える女史に彼女は単刀直入に尋ねる。
「この『共作用』って?」
 送られてきた「資料」の表紙に書き添えられていた朱書きの文字だった。
「貴方と私との、という意味で入れたの。気分を害した? 勝手に決めつけられてしまったようで」
彼女は表情を変えなかった。女史は捕捉する。
「いずれ好き勝手に使われてしまうわけだから。せめてその間だけでも、自分たちの行為だと思わなければ。痕跡なわけ。足跡ぐらいつけておきたくなるじゃない。いくら下書きだったとしても。でも嫌だった?」
 そう言って無表情を崩さない彼女の反応を心配そうに窺う。
 彼女が表情を変えなかったのは、女史が疑っているようなことではない。彼女にはそう思えなかったからである。女史が言うような、ただそれだけのこととは。
朱書きの「共作用」の言葉の中に込められた女史の思い。彼女が疑う女史の心中。Ⅹ氏との共作だと思ったとしても、自分とのそれだと思うはずがないこと。その真意を隠していること。送られてきた「資料」の「状態」を見れば、それが共作相手へのメッセージを兼ねていたのは明らか。刺激というメッセージである。しかも普通の刺激ではない。いまは措いておくけど。
送るわね、と言われたときは、メモ書きに毛を生やしたようなもの、そう聞かされていたのである。それが、開封してみれば「思いがけず熱が入ってしまって」と断りがあり、「こうした方があなたの負担が少なるかもしれない」と、そう思って(余計な配慮だったかもしれないけど)、「決断してもらいやすくなるかなと思って、書いてみたわけ。あなたの目から見たらとてもなってない代物かもしれないけれどね」と。承知してもらえるなら(心からそう願っているけど)、「添削してほしいのよ。遠慮なく。貴方の文章にしてほしいの。そして「わたしたちの作品」にしたいの」とあったのである。
 言われる「資料」を読み終えたとき彼女は思う。これでは自分はまるで女史のための編集担当ではないかと。なにを考えているの。それとも立場を入れ替えてもらいたくなったの。編集者から作家に。
気持ちは分からないでもない。たしかにストレスも溜まる。若い作家が相手ならならそんなことはない。編集者の方が立場としては上である。それがいつか逆転してしまう。そして相手は嫌な作家になる。始末に負えないことにそれも作家としての成長の一つだと思いこんでしまう。意図的に勘違いして憚らない。作家にとっての手っ取り早い自己確認。その用に供される安物のおもちゃ。女史を日々襲う苛立ち。大した用事でなくかけられてくる電話。思い付きの電話。それを隠すために面倒に語りかけてくる耳元の声。雑音。猥雑な声。ええたしかにそうでしょう。
 でもまさかそのためにこんな手の込んだことを? ばかばかしい。それにそんな煩わしいことをするはずがない。そんな人ではない。いつだって単刀直入。取柄と言えるくらいに。しかもその取柄をフルに活かして手に入れた今の立場。明快な決断力。即決力。いずれも編集者に必要なもの。だから絵にかいたような編集者。それが女史。
 なにを考えているの。「出張」の前の女史とは様子が違う。本人は隠そうとしていても、かえって浮かび上がってしまう、どこか追い詰められた感じ。切迫感だけではなく背後に浮かぶX氏の影。
 それになに? 「あなたのためになる」なんて。もっと素直になりなさいよ。
 担当だからってそこまでするわけ? まともじゃないわ。冷静になって考え直しなさいよ。
 精一杯自分を保っている女史にかける言葉はない。分かっているはず。嫌というくらいに。何をしているのかが。周りが見えなくなる人ではない。ましてや自分を見失うなんてことは。
 分かっていたはず。言われていることが。それともそれも原因の一つっていうこと。あなたを追い詰める。貴女までそんなことを言うのねって。そういうこと?
 いいわよ。書いてあげる。癪に障るからよ。あなたが可哀想だからではなくて、あなたからそう思われることが許せないから。
 でも分かったわとは言いたくなかったの。あの時は。笑っているからよ。二人の遣り取りを聞きながら。
 あなた、隠していなかった? 首実検させていたんじゃないの。私のこと。X氏に。いたわよね。バーに。甘かったわね。知らなかった、わたし、透視力もっていたこと……。
 でも部屋に戻って、わたしが何をしていたと思う。書いていたのよ。もう物語を。「ロマン」をね。我慢がならなくって。なにもかもが。あなたが「出張」している間もよ。
 それがなに? この「資料」。どういうつもり。これじゃ私じゃない。まるで私がなにをしているか分かっているみたいにして。
 でもあなたには透視力はない。そんなものあなたには邪魔だから。だから思ったの。これって、決別状ね。絶縁状ね。でなければ果し状。Ⅹ氏に向けた。
 いいわ。結構よ。そうしてよ。思う存分。
それに「共作用」って、もしかしたら、そういうこと。
「凶作用」ってこと? 
作家以上のものを書いて。突きつけて。そして、その先は知らないけど。枯らすわけね? 
でもどうしたの。なにがあったかは知らないわ。話したくないんなら話さなくてもいい。聞きたくもないわ。でも引き下がるわけにないわ。あなたがもういいと言ってもね。はじまってしまったのよ。私のなかでも。

 ――冒頭は、とある公園。公園の一角。一人の男。力なくベンチに座っている。大きなバックを横に置いて。下を向いて独り言を呟いている。なにかに語りかけている。まさかと思えば、相手は蟻。なんの話? 寓話? それがⅩ氏の好みというわけ?
 どうもそうではなさそう。読み方が変わる。変えなければならない。寓話ではなくなる。
猫たちとのやりとり。両者の神経戦。片意地を張る男の、いかにも幼稚な所。でも男にはなにか訳がありそう。極めこんだスーツ姿。身体を隠してしまうほどの大荷物。小道具にしては大仕掛け。コミカルな彼らを包む、対照的にニヒリスチックでシリアスな感じの公園の空気。
彼女は、さらに読み解く。公園のベンチの男のことを。蟻たちのことを。猫たちのことを。男の奇態を。挑発を。唐突な奇術を。挙句の果ての泣き喚きとただならぬ憔悴を。
やがて男の告白が始まっていく。なされていなかった名乗りが挙げられる。失くしてしまった本名の一件が、まことしやかに語られる。
なぜ失くしてしまったのか。それもこれも記憶に異変が生じてしまっただめだという。消沈する男。慰め。告白の先に現れる女。明かされるのは男を襲った大きな運命。運命とは閉じ込めのこと。男は女に閉じ込められたのである。そのときの音。男の耳を襲する音。息を止めかねないほどの音。女が立てた音だった。女は後ろ足で荒々しく扉を強く蹴ったのである。怒りにまかせて。
彼女は感じる。寓話に潜むはげしい怨念を。怨念のなかに佇む人の姿を。女に身をやつした者の姿を。女の姿に借りた編集女史の心の叫びを。ここにあるのはただ一つ。引き裂かれるような心の叫び。Ⅹ氏であるにちがいない〈男〉に向かう、怨念の限りをこめた叫び声。
もう間違いない。これは、Ⅹ氏を挑発しようなどという、相手を思いやった、心うるわしい類の代物ではない。甘ったるいものではない。
そういうことね。彼女は理解したのである。〈男〉に向けられた挑戦状であるのを。刺し違えを覚悟の果し状であるのを。
おそらく男が抱えている荷物は、書籍。しかも男が書いた男の著書。大量に売れ残った本の一部。男は行商人。売れ残った自分の本を売り捌く。
閉じ込められたのもそのため。完売するため。全部売り尽さない限り戻れないのだ。
でもそれも上辺。真相はその裏に隠されている。〈男〉の存在である。存在そのものが我慢ならないということ。隠された真相であり真意とは。
女史の渦巻く心の闇などこれまで一度も考えたことなどない。もし闇があったとしてもそれ以上に煌めく知性がある。曇りを知らない目の輝きがあり、頬の張りがある。響く声がある。きびきびとした歩き回る姿があり、つかつかと進みゆく躊躇いのない行動力がある。くじけることを知らない心がある。剥き出しの意思が……。
どうしたというの? なにをしたというの? なにをされたというの?
訊きたくも、訊かれてたくもない。ええそう。聞くまでもないことよね。
あなたが聞きたいのは、私の答え。意思。
じらしてるわけではないわ。趣味じゃないわ。
分かってそうね。それならいつものあなた。
それでいいわ。


グラスの触れ合う音が、二人の空間を押し広げる。あの〈公園〉に向かって響きわたる。二人の新たな出会いの場。図らずも抱え込まれた公園。すでに書き始められていた公園のなか。彼方の公園にグラスが掲げられる。
――そう「公園」に!
二度目の乾杯。消えない余韻。余韻の彼方。
彼女と女史の二人の前にあるのは、一台のベンチ。公園の一角に据えられたベンチ。
ベンチに座り込む男。背中を丸めて俯き加減に砂地の地面を見つめる。もう長い時間が経とうとしているのに。
冷ややかな視線を浴びせながら二人は男に近寄る。そして両側に座る。女史が用意してきたグラスを差し出す。彼女は抱えてきたワインの栓を引く抜く。
静まり返った公園の空気にワインの注がれる音が滲みこむ。
女史は差し出す。遠慮は要らないわ。彼女は男に語りかける。
丸めた背中からなにか危険を察知したかのような怯えたような眼で二人の顔を見上げる。
――若竹! 若竹!
男は樹上に向かい叫び声をあげる

* こうして物語は、こんな形でも始まっていくのだった。すでに始められているとしたなら、はじまりを説き起こすもう一つの物語が、先行する一篇とともに相応に相互の時間性を失っていたためである。
                                                            (未完の完)

[付記]
 都合により創作「ロマン」は連載8をもって「未完の完」として中断。「わ」に移って、再帰する形でいずれ再述の予定(時期未定)。


[ろ]7 ロマン(連載7) 婦警


 ――元気?
 カノジョはいつものように声をかける。
 ――ゲンキって? ゲンキなわけがない。
 その人は言う。
 カノジョは携帯用ポットと紙カップを取り出す。出がけに淹れてきた暖かいコーヒーをなみなみと注ぐ。二人の間に置いた麻のショルダーバッグ越しに勧める。
 ――温まるわよ。
 不機嫌な顔を崩そうともしないで差し出されたカップを眺めたままその人は言う。
――また買収する気ってわけだ。
――コーヒー一杯で?
 型通りの、と言って悪ければ、あいさつ代わりのような遣り取りだった。言葉に意味があるわけではない。むしろなにもなかった。
 しばらく何も語り合うこともせずに時間が過ぎていく。その人のコーヒーを啜る口元の遠慮気味な音が、カノジョとの間合いを見計らっている。足元からは身に沁みる寒さが忍び寄ってくる。
 ――元気?
 ――ゲンキなわけがない。
 ――寒くなってきたしね。
 ――それほどでもないけど。
 ――もう一杯どう?
 ――……。
 ――別に買収するつもりなんかないわ。
 その人は、疑い深そうに窺う。そしてきっぱりと言う。
 ――もう手は貸せないから。
 ――いいわよ。気晴らしにお付き合いしてくれれば。
 ――いつもそうだ。後で高くつく。言われるままに付き合うと。
 ――そうかしら……。
 ――そうだよ。
 ――……。
 ――でももう一杯もらうよ。
 コーヒーを飲み終わると、二人してベンチから腰をあげ、公園の中を巡り歩く。都心なのに誰もいない。二人以外には人の気配がない。無音が広がる。静寂とは違う。真空管のなかにいるような透き通った感じの無機質な静まり方だった。足もとに溜まった木の葉を踏みしめる。音がしない。頭上から枯葉が落ちてくる。枯れ枝が風に靡く。常緑樹が緩やかに揺れ動く。でも枝が擦れ合う音も、常緑樹の葉擦れの音もしない。

 *

 某年某月某日某時刻。某所。そして某氏。違う。某女子だった。この際性別を質しておくことは大事なことだ。そのようにして物語は始まっていくからだ。
いずれにしても男ではない。男では意味が違ってしまう。
じっくりと思い浮かべなければならない。そのとき其処にいたのはカノジョであったことを。そしてそのときカノジョが手にしていたのが……。
でもこれでは推理小説だ。思わせぶりにサスペンスがはじまっていくかのようではないか。まるで事件への参入である。参入であるにしてもいろいろな入り方がある。前後関係を重視すれば、どの程度ことは進んでいるのか、まだ前半なのかすでに半ばまで進んでしまっているのか、あるいはどこまで話しを戻すせばよいのか、ストーリーの展開次第だが、話の岐路である。それにカノジョは要求するだろう。もし終盤に近いなら振り出しに戻るようにと。
だからこの際カノジョが手にしていたものが問題になる。今は〈ロマン〉とだけ言っておこう。すでに使われた、目新しくもない言い回しだとしても。それに安易に前言を翻すようだが、今は〈男〉である。はじまりに立っていたのは。いや、座っていたのは。そこは都心の昼下りの公園だった。男はベンチに腰掛けていたのだった。
違うのは、まだなにも始まろうとしていないことだった。これからである。
女と同じように男もなにかを手にしていた。でも〈ロマン〉などではなかった。男が手にしているのは、皺の寄った紙屑だった。舞い降りてきたのである。足許に。開けると書かれていた。
〈警察に通報しましたからね〉と。そして〈親切心だと思ってください〉〈まだ時間がありますから、その場所を立ち去ってください〉〈わたしとしてもこんな真似をしたくなかったし、本意でもありませんから……〉と綴られている。
遅かった。もう警官が前に立っていた。一人は婦警だった。男は見つめた。男にそのような目で見つめられたことはなかった。制帽は役に立たなかった。婦警は気持ちを隠せない。反応してしまう。一瞬、婦警は自分のなかに感じてはいけないものを感じる。
でも職務感が婦警を引き戻す。通報の信憑性を確信する。犯意を感じて男を問い詰める。
男は正直に答える。婦警のためだった。尊大だった男の警察官は、自分の威厳がそうさせていると思っている。
気持は理解してもらえるはずだ。分かってくれているはずだ。男は、男の警察官に隠れるようにして婦警に目線を合わせる。傍らでは男性警察官が、男の運転免許証で記録を問い合わせていた。
あると思っていていた前歴はなにも出てこなかった。
――次は警察署まで来てもらうから、いいね。
男は素直に頷いた。その間も気持を詰めて婦警をベンチから見上げる。婦警は揺れる。男の「犯意」に。屈辱感を味あう。手の平を握りしめる。爪先が肉に食い込んでしまう。「事件」を予感する。外れたなら捏造する。昂じた思いで手錠に手をかける。再び男と目が合う。

 *

彼女が手にしているのが〈ロマン〉であるというのは、実は、この書き出しからも分かるように〈作中作家〉としての彼女、表記の仕方としてはカタカナのカノジョになる人物に始まっていくからだった。作家を主人公にした物語に思案を重ねていた彼女が、そのために生み出した人物(「カノジョ」)だった。
そして、ゴーストライターだった時、仕事の合間によく訪れるのがこの公園だった。時には必要上から訪れる。仕事の開始の時や〈創作〉に行き詰った時はとくにそうだった。順調な時でも訪れる。その時は気分転換のためだった。
公園は、彼女にとって特別な場所だった。領分だった。自分以上の存在だった。
男のことも偶然だった。何気なしにここに男が座っていたらと思っただけだった。特別な思いからではなかった。すぐたち消えてしまうはずだった。それが消えない。居座る。
彼女は、男が好きではなかった。どちらかと言えば嫌いだった。嫌いななかでも最も嫌いな〈男〉だった。本当は考えるだけでも我慢がならなかった。だったら思い浮かべなければよかった。たしかに。
でもそれは〈作家〉の取るべき態度としてはいかにも狭量だった。失格である。選り好みしてはならない。客観的でなければならない。出番はともかく、頭から締め出してしまうわけにはいかない。〈作家〉が用いるべきやり方ではない。
思い浮かぶだけの人材を思い浮かべ、物語を与える。しかしいまは誰一人として始まっていかない。出直そう。
時間も午前一一時を回って三〇分近くになっていた。もう少しすれば公園が混みだす。だから実は口実だった。男のことは。腰を上げるタイミングのための。すぐに消え去る。そんな男など。消去を確認したらすぐ公園を出る。男は、人選以前、「人材」以前だった。
それが腰を上げられない。肩に重しをかけられた感じになる。傍らにまといつく気配を感じる。離れない。早くどいて! 消えて! 彼女は叫ぶ。でもどきも消えもしない。叫べば叫ぶほど体が重くなる。
――嫌ワレタモンダ……。
もう男の声まで聞こえてしまう。
――ソンナニ嫌ナンダ……。分カッタ、消エルヨ……。
横を向く。消えていない。騙される。消える気配がない。それどころか当然の顔をしている。憎たらしく座っている。
そして言うのである。
――当然ノ顔ヲシテ、ト言ワレテモ困ル。
そう言って、
――ナゼカッテ? ソレハ最初カラ決マッテイタコトダカラサ。言ウマデモナイコトダヨ。先約ミタイナモノダッタカラサ。
と訳知り顔に言う。
――ダカラココニイタワケデハナイ、待ッテイタンダ。自分ノ方デ。引キ受ケルタメニ。〈ろまん〉トヤラヲ……。
もう相手のペースだった。でもどう考えてもおかしい。座っていたのは、カノジョの方が先だった。登場の仕方としては、流れから言っても男の方が後である。
割り込まないで!
でもさも当たり前のような当然の顔を見せつけられると、時間の前後関係も入れ替わってしまいそうになる。このままでは主導権も相手に移りつつある気配である。すでに移ってしまっているかもしれない。
その時だった。ある光景を思い出したのだ。一人の婦警の姿だった。今年の四月になって今まで見かけなかった婦警が立ち番をしていたのを。
ほとんど毎日通る駅前交差点の交番である。後ろ手に組んだ手の力で背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、道行く人に、そして車の流れに鋭い眼光を浴びせかけている。その姿が印象的だったのだ。
婦警への想いが膨らむ。膨らむだけではない。婦警の顔を思い出すと、あれだけまといついて離れなかった男の呪縛からも解かれた気分になる。
間違いない。確信を深める。公園からだと歩いても一〇分とかからない。そう思ったときはすでに立ち上がっていた。わけなく。

くだんの婦警は今日も立っていた。嬉しくなってしまう。気持ちを押さえながら、一般人を装って道を尋ねる。難しく尋ねる。意地悪するつもりはない。すぐに立ち去りたくない。それに験さなければならない。許して。
煩わしそうにされたなら見込みちがい。でも正解。そんな気配は微塵もない。それどころか即応できないのを、自分の未熟さとして隠そうとしない。申し訳なさそうに恐縮して見せる。
大丈夫です、今ので分かりますから、ありがとうございました。丁寧にお辞儀して立ち去る。
何日か空けるつもりだったのが、待ちきれずに二日後には前を横切ってしまう。大丈夫。気づかれない。髪形や服装を変えておいてよかった。
再確認(再審査)。いくら合格点だったといえ、まだその場その場をこなすのに精一杯の頃。大丈夫だとは思うけど、念には念をということ。
人通りの多い交差点だった。丁度いい喫茶店が斜向かいにある。しばらく陣取る。その間何度も道を尋ねられる。一人一人丁寧に応じる。人によって態度を変えない。難しそうにしているときもある。その時も自分に見せたのと同じ面持ちを見せる。
小一時間が経ったところで立ち番は終わる。先輩巡査に連れられて自転車で出かける。巡回だった。胸を躍らせている。非の打ちどころがない。見込み以上だった。
事実、一週間と経たないうちに体の硬さがとれている。余裕さえ感じる立ち番姿には、瞬時に次の動作に移れる俊敏性を忍ばせている。道を尋ねられても同時に辺りを窺っている。目を光らせている。
もう毎日見張る。メモをとるのも忘れてうっとりと眺める。物語が始まろうとしている。体が物語を感じてやまない。はじまりの予感だった。

身体と程よくマッチした制服が、カノジョの関心をさらに掻き立てる。制服の下の身体にである。制服を脱いだときの姿は、恋人と並んで歩く姿にどのように変わるのか。制帽をとって髪を垂らしたときの姿。女に戻る顔。恋人はいないのだろうか。いてもおかしくないはずだけど……。
それが恋人など欲しくない感じなのである。顔つきが違う。気配がない。見せない。見せようとしない。たとえ言い寄られたとしても受け付けない。頑として拒む。職務一筋の身体性で。
新しく社会に出た女性なら、それも男中心の職種を選んだ女性ならとくにそうなるに違いない。そのためには自分の「本性」さえ完璧に匿しきる。制服は鎧どころではない。武器である。自分を殺せる。
もうカノジョは我慢ならなくなる。
相談する。婦警が巡回する時間を狙って。公園を横切る隙に。
下調べはついていた。時間にほぼ狂いはない。現れた婦警を呼び止める。
時間を有効に使わなければならない。カノジョは婦警の前で演技してみせる。最初から怯え顔をつくってみせる。精一杯に。すこしぎこちない感じが、かえって真実味を増す。
――見張られている感じとは?
戸惑いを浮かべる。当然である。はじめての経験だった。それにこんな形で相談されるとは思ってもいない。申し訳ない気持ちになる。
ほどなくして婦警は落ち着きを取り戻す。取り戻しながら、情けないと自分を叱っている。心のなかが見えるようだった。
胸元から手帳が取り出される。意を決したように「どうぞ」と言って(自分に言い聞かせて)筆記具を立てる。
カノジョも気持ちを固める。
――辺りから。何処からというのではなく。
そう言ってカノジョは脅迫文をバックから取り出した。
名前が必要だったので名乗った。「サッカと申します」と。漢字では作る花で「作花」と書きます。
「作花殿 昨日は昼下りのひと時を楽しまれましたか。周囲を窺っておいででしたね。なにか見えましたか。ワタシに気がつきましたか。どうも気がついている感じではありませんでしたね。ご心配には及びません。ワタシがお守りします。でも一日中見守っているわけにはまいりません。本当に物騒な世の中になってしまいました。どこか狂っています。いつ何が起こるか分かりません。くれぐれも身辺にご用心を。貴方の忠実な守護神より」
――郵送されてきたのですか?
封筒を見せる。いかにもと言った切り貼りの宛名だった。裏返す。同じように「守護神」とある。文面はありきたりのワープロ文字だった。
――郵送ではなかったのですね。
――ええここに置いてあったのです。まるでわたしが座るのが分かっていたかのように。
――それならたしかに辺りから窺っていたのかもしれません。それらしい人はいたのですか?
――誰もがそんなふうに見えてしまって。申し訳ありません。
――いいえ、謝るには及びませんから。ご無理もないことです。私にも経験のあることですから……。
そう言って、言ってしまったことに婦警はすこし顔を赤らめる。すぐに打ち消して見せる。
――分かりました。
そう言うと、必要なメモを取る。
このままだといっしょに交番に行くことになる。彼女一人で処理してはいけないからだ。分かっていた。だから自分でもかなり突飛もないことを言うことになる。でもそれしかなかった。
――もしかしたら被害妄想かもしれません。周りからは診てもらった方が好いと言われているんです。
当然、婦警は怪しむ。メモの手を止める。
――でも「脅迫文」があるんでしょう、それもそうじゃないんですか?
――ええそうよ、脅迫文よ。でももし自分で書いたのなら、とそう思うと、そんなわけはないはずだけど、脅迫文よりその方が怖くてなってしまって。やはりそうなんだ、被害妄想なんだ。言われる通りなんだ。そう思えてしまって。
婦警は躊躇っていた。かける言葉に。
――でもそんなわけないんです。見張られているんです。妄想だなんてありえません。心当たりがあるわけではないけど、仕事柄、知らない間に人を傷つけていたかもしれないんです。きっとそうなんです。恨まれているんです。でも確かなことじゃないからそんなことはない。あるはずないわって、そう思い直すんです。分からなくなってしまったんです。どうしてよいか。息苦しくなってしまったんです。悩んでばかりで。そこに通りかかられたわけ。偶然とは思えなくて、思わず声をかけてしまたったわけ。ご迷惑だったでしょう。こんな話聞かされて……。
心外です。婦警は言う。
――迷惑だなんて。それに被害妄想だなんて。そんなふうに思ってません。どうしてと訊かれると困ります。勘です。警察官としての。それにかりに事件性がなかったとしてもそれを確かめるのは私の仕事です。
力強く言い切る。
――私では頼りにならないかもしれませんが、精一杯のことはするつもりです。本署の刑事課にも知り合いがおりますから。
と言う。
――でも秘密にしておいていただきたいの。
そう言って、弱々しく、二人の、と付け加える。

 *

同じ公園だった。同じ公園って? カノジョは迷う。カノジョだけではない。男も迷う。男は、もうその頃、「残念無念」なるもう一つの名前で呼ばれ、呼ばれることに安堵感を得ているほどだった。なんですかと尋ねると笑っている。穏やかな顔で。だからカノジョはともかく、男はカノジョの困惑から遠くにいなければならないはずなのに……。


 同じ公園だった。困惑気味のカノジョの前には例の婦警。でも私服だから少し歳の離れた姉妹。そうでなければ年若い母と娘にしか見えない。
緑が目に眩しい昼下りの公園。吹きすぎる風。外目には姉妹・母娘の仲睦まじい会話。でも話はいたってシリアス。例の問題は佳境に入りつつあったから。
 ――怪しそうな人がいたので様子を探っていました。おそらくあの人ではないかと思います。気がつかれましたか? 
疲れているはずなのに、勤務明けの張り込みも厭わない。疲労だけではない。別の問題もあった。職務権限のこと。越権行為だったこと。婦警の立場を大きく逸脱していること。でも拒まない。婦警の行動性が。
――やはりそうでしたか。なんとなくそんな感じがして。やはり思い過ごしではなかったんですね。でも姿は分かりませんでした。気配しか感じません。確かめようとしたんですけど、怖くて見られませんでした。
――作花さんの場所からだと木が邪魔してお分かりにならなかったかもしれません。でも感じられていたというのならきっとその人です。
婦警を危険に曝すかもしれない。分かっていても頼んでしまう。調べていただけませんか。構いませんかと。
カノジョは婦警の顔が一瞬輝くのを見逃さない。必ずご期待に応えられるようにします。安心した生活が取り戻せるようにして差し上げます。お任せ下さい。顔に書いてある。紅潮した顔に。
――でもご無理をなさらないでください。くれぐれも危ないようなことはなさらないように。それではわたしが困ります。ですからお願いですから……。
カノジョには分かっていた。婦警が体を張ってまで職務を遂行しようとしていることが

 * かくしてこの場合、ここに一つの〈ロマン〉のはじまりを読み取るなら、話は、ある場面(「3 取調室」)へと大きく旋回していくことになる。

[ろ]6 ロマン(連載6) シャドウライター


でも曲折がある。最初から次に進んだわけではない。正確にはまだ始まっていかなかった。始まっていこうともしなかった。まどろこっしい限りだが、いまだ女史のなかでの彼女の立場は、自分を止める、そのために姿を現わしただけの存在だった。それ以上ではなかった。だからはじまろうともしていなかった。
それももっともなことだった。条件的にみて彼女では叶えられないからだ。この仕事は、実作者でなければ務まらない。彼女はたしかに優れたゴーストライターだった。でもそれ以上ではない。
実際、女史は気を取り直していた。やはり自分の手で書かなければならないと。だからだれかに代筆を求めようなどとも考えない。その点でも彼女は視野の外にいた。
それなのにいつまでも彼女の顔が消えない。キーボードの上に手を置いてパソコンの画面を見つめると、画面の奥に彼女の姿が浮かんでしまう。見つめられている。つられるように、分かったわ、もうしないから、大丈夫だから、と声を上げる。
それでも消えない。違うの? そのことではなかったの? なにか語りかけようとしている。女史は気づく。相談しなさいよって、そう言われていることに。
といっても実作の件ではないはず。彼女にも分かっているはず。実作がなければなにもはじまらないから。前提だから。でもそれと同じくらい大事なことがあった。場合によっては実作以上に大事なことが。共犯関係だった。完璧に秘密裏に進めなければならない。なにを差し置いても。
そうなの、そのこと? たしかに彼女ならできる、絶対に秘密を守ることが。もしかしたなら自分たち以上に。
女史は思い出す。ゴーストライターを頼んでいた時の彼女を。秘密が守られる仕組みがどうなっているのかを。個人を出さない仕掛けを。自分に固執しない理由を。
いくらゴーストライターといえ自分の文章である。執着心は起る。それが見向きもしない。完成本も受け取らない。いやなことでもあった? 訊けばただ要らない、欲しくないとしか言わない。たしかにもう別の仕事にとりかかっている。忘れる必要があるのかもしれない。
「ともかく自分のものじゃないから。もらっても仕方がないから。はっきり言わせてもらえばもらうことに意味がないから」
 知らなければ自嘲気味に聞こえてしまう。嫌味にもとられる。不遜にさえも。でも自嘲でも嫌味でもましてや不遜でもない。
だから彼女は言う。「勘違いしないで」と。自分があってはいけない(残っていてはいけない)から、それだけよ、と。
もし欲しいと思う気持ちがあるなら、それは「著者」の気持ちを理解できない人のすること。「著者」って? もちろん表紙に名前が載る人(本人)のこと。
本人のもとに届けられた(納められた)本には、本人が手にした瞬間から「著者」の悲しみが滲みこむの。分かるは「著者」と私たちにだけ。
欲しくないわ。悪趣味だなんて思われたくない。とくに「著者」からはね。
 言われて女史は思い至る。そうね、たしかに。編集者をしながらすこし無神経だったわ。気持ちが分からなくなっていたのね。その頃の女史の編集相手は、名の通ったプロの作家たちだった。
女史は、「著者」たちの顔に思いを致す。いろいろな顔を思い浮かべる。サイン会に臨む著者。見守るファンの前での表情。ほっとした顔。大きな仕事を成し遂げた納得の顔。「著者」の笑顔。自分の本であることに一点の曇りもない顔。表情。表情が「著者」を本物の著者に仕立てる。当然の権利としても。
でも違っていた。そうではなかった。華やかなサイン会も「権利」だけ開いているわけではなかった。別の意味があった。実に内実的な。断るまでもないが、販売部数を伸ばすためのそれとは、最初から次元が異う。
「気」だった。それを追い払うためだった。「著者」が著者となるための欠かせない通過儀礼だった。しかも嬉しくてやっているわけではなかった。彼女が言うのはそういう意味だった。自分の「影」を剝ぎ取らなければならないからだ。悲しいことだった。本当なら一体なはずだから。とくに心ある「著者」なら。
ゴーストライターは、だから自分から早々に退散する。進んで「自己」(「気」)を抹消する。でも彼女はこう続けたのである。
「それも駆け出しの頃のこと。「気」なんて気にするのは」と。「いまではそんなもの最初からないわ。あるわけない。書く前から「著者」になっているし、第一行目から書いているのは、正真正銘の著者。私じゃないわ。書き終わるまで自分が出ることはない。あったら筆は止めるわ。引っ込むまでね。でもこれまでそんな心配はなかったはず。唯一あるとしたなら書き終わった後の数時間。早ければ一時間。移行時間というわけ。「著者」から自分に戻る。でも純粋に生理的問題。本当なら機械のようにスイッチを切ればそれで完了が最高。でもそうはいかない。仕方ないこと。でも実質的には移行前からすでに終了。自動終了。すべてが。疑う? そうでなければ本当の仕事はできない。それに本当の仕事ではないわ」
 本人(ゴーストライター)はそうだとしても問題は「著者」の気持ち。そうとることができるかどうかは。反論ではなかった。理解を深めたかったからだ。
 彼女は笑顔で答える。見事に。
「それではゴースト失格。「著者」の文章になっていないから――」
 彼女は「著者」になり切るために、文章の提供を求める。日記でも作文でも手紙の下書きでもなんでもいい。なければ彼女が「日記」を書く。書くために本人になる。書いて本人に見せる。添削してもらう。できなければ自己添削してみせる。いろいろに。文体を変えて。言葉遣いを変えて。そして選んでもらう。
思わず見入ってしまう。でも女史の頭を一瞬、心を病んだライターのことが過ぎる。とくに「自己添削」の話だった。偏執的すぎない? そうまでして「著者」になり切る必要があるの? 
彼女は言う。平然とした顔で。
――ゴーストライターではなく〝シャドウライター〟よ。私がならなければならないのは。「影」になること。本人の。そして消えること。消えるためにも本人になること。日向に出れば否応なしに消えるわ。「影」は。訳なく。そして本物の影――本人の影がかわりに貼り付くわけ。本来あるべきようにして。
彼女が言う日向とは、本が書店に並べられることだった。お披露目だった。
なり切っているのは彼女だけではなかった。著者もだった。著者も「著者」になり切っていたのである。彼女の文章によって。文章が紡ぎ出す物語によって。だから彼女の「本」に関する限り、サイン会は、純粋にハレの舞台だった。通過儀礼ではなかった。そして販売促進会だった。
 ――この仕事をする意味なの。核心なの。これは。消えることを含めてね。入れ替わるだけではないのよ。消えられるのよ。たんなる入れ替わりではないの。それなら出てくるだけのこと。違うの、消え去るの。個人的なことを言わせてもらえば、私の「哲学」としてはこっち。消える方。生きながらの消失。大げさかしら。でもほかにある? こんなことが体験できことなんて。

 もう女史の中で事態は変化していた。一つの思いにとりつかれていたのである。彼女ならもしかしたらできるかもしれない、書けるかもしれないという、まるで気がつくのを待っていたかのような思いに。だからある日、以前の話に託けて、こんな風に訊いてしまったのである。
「ゴーストライターも登場人物になりきる面では似てない? どこか小説家みたいだけど」
 事情はまだ伏せられていた。だから一般論を装った訊き方しかできない。でも当然一般論ではなかった。だから彼女の答え方によっては、手ひどく打ちのめされることになる。事実、そうなってしまう。予想以上に。
即座に言い返されてしまったのである。それは違うわ! まるで、と。
「ゴーストの場合は、実在の誰かになるのであって、なるべき実在者がいるわけ。しかも自分のためになるわけじゃない。小説家とはまるで違う。そうじゃなくて!」
 本当はここで簡単に引き下がってはいけなかった。なにか言い返さなければならなかった。そうだとしてもあなたも自分のためでは、とか。なぜって? と訊き返されたら、言ってたじゃない、得難い「体験」ができるからって、そのためだって、とかいろいろに。
でもこれではあからさまな侮辱になってしまう。本物のプライドに対する。彼女が抱えているプライドは、だれとも比べられないもの。比べてはいけないもの。それだけに彼女を支えていたもの。その支えから見れば、小説家など不純で不遜で不覚極まりない存在。
女史は次の言葉を失う。虚を突かれたからだけではない。強く言い返されたから。許せない者に向かって発するような抗議の声。その突き刺すような響き。これでは当事者が目の前にいるようではないか。それともいるわけ? そういうこと?
愕然とする。自分への抗議に対して。不純で不遜で不覚極まりない存在。編集者の名を借りた不適格者。
女史の代わり(言葉の代わり)を務めたのは彼女の方だった。
なにかあるの? いつものあなたじゃないけど?
いろいろとね。複雑だから。作家さんは。
話したいことあるんでしょう。私でよければなんでも言って。
ありがとう。こうして会ってくれるだけで充分。気が休まるわ。
いつになく殊勝なのね。
貴方、嫌じゃない? わたしと仕事していて。
どうしたの?
貴方のこと好きに使ってるから。
なにか私のことで問題でも。いいわよ、要らなくなったらいつでも言って。
そんな! なに言ってるの。逆よ。言われるのなら、それはわたしの方。
ならいいじゃない。でも要らなくなったらいつでもいいわ。遠慮なく言って。
またそんなことを! わたしが要らなくなることはあっても、貴方が要らなくなることはない。貴方に代われる人はいないわ!
疲れてるのね。
 すこしだけ。