2017年1月5日木曜日

[ろ]8 ロマン(連載8) 参戦


――貴方は引き受けるわよ、引き受けるべきよ。わたしのためではなく、貴女自身のためにね。
語りかけた窓辺からはなにも返ってこない。ガラス板が女史をぼんやりと薄く映し出しているだけである。

編集室の窓辺から外に広がる景色には、近くに遮るビルがない。いくつか先の駅まで大きく見渡せる。でも女史は階上から下を眺めている。歩道を行く人々の思いを窺っている。
街路樹が季節の風にゆるやかに揺れている。車が風のように流れて行く。タクシーを止めて若い女性が乗り込む。編集部の若い女の子である。印刷所へ出張校正である。よく働く子である。動き出したタクシーはまっすぐに進んでいく。交差点を青で進む。次の交差点も赤に変わらない。
気分を良くした運転手は、ときどきバックミラーを覗く。生き生きとした顔が映し出される。まだ赤信号に引っかからない。風を切って進むタクシー。このままずっと乗せていたい気分になる。印刷所まではちょっとした道中である。上客である。運転手は声をかける。出版社の社員であるか確かめる。会社の目の前で拾ったからである。それに胸もとに分厚い封筒も抱えている。
車内の会話が弾む。心優しい子である。人当たりもいい。誰にでも笑顔を絶やさない。このまま育っていって欲しい。もう自分と引き比べてしまう。この頃はいつもだ。昔の自分を思い出す。自分もそうだったはずだと。
でも今の自分に昔の面影はない。すこしは可愛い顔もしていたのである。それが同じ自分だと思えないくらい疲れてしまった顔。ときにヒステリックに荒立ててしまう言葉遣い。後味の悪い時間が自分の周りを取り囲む。
言われているにちがいない。ヒス女って。ヒスジョともヒスメとも。なるほど「ヒス目」か。ガラスに探す。自分でもそう思ってしまうヒスメの顔を。あの子だけにはきつく当たらない。決意する。
車内の笑い声が聞こえる。忘れてしまった笑顔。わたしから精気を奪った者たち。奪い返さなければならない。でも今はその気力もない。原因は痛いほど分かっている。良い作品が出せない。そのためである。
作家たちに嫌われている。作家たちにとって煙たい存在。変にベテランになってしまったからだ。刺激を与えるどころか創作意欲を削いでいる。以前なら自分のために書きたいとまで言われたのだ。その時の駆け出しの作家の顔が思いだされてならない。
一緒に現状を打破しましょう。曇りのない心で作家たちにかけることのできた言葉。編集者としての言葉。返される大きな頷きと作家たちの目の輝き。
――〇〇さんは、編集者というより同じ仲間って感じ。同志のような。
愉しかった飲み会。文学談義。将来への挑戦。酔った勢いだったかもしれないけど何度も言い寄られたこともあったのだ。今では避けられるばかりでも。
苦笑してしまう。自分を囲んだ今夜の飲み会。編集慰労会。部員にとっては仕事の延長。文学を囲んだお酒ではない。上司につき合わされなければならない嫌なお酒。わざとらしくつくろった部員たちの口許になんて言葉をかけてあげればよいのか。彼らはどう見ているのだろう。こんなはずではなかった今のわたしを。哀しくなる。
翌朝、早めに出社した女史は、その手をキーボードの上に伸ばす。「海外旅行」と打って検索をクリックする。特集号も無事校正を終えられた。後は刷り上がりを待つだけ。今しかない。女史は心を決める。上司に休暇願をだす準備を始める。
そしてもう一つ。出かける前にしておかなければならないこと。もっと大事なこと。肝心なこと。話してしまう。どう思われようが構わない。もう心は決まっていた。そして依頼する。引き受けて欲しいと。
あなたにしか頼めないの。訴える。追い詰められた自分を晒すのは気が引ける。でも構わない。彼女なら理解する。わたしが普通でないのを察する。どうしたのなどとつまらない詮索はしない。相変わらずクールに。なにか大変そうね、やはりそうだったのね、程度に。

女史は、再び窓辺に立つ。
――貴方は引き受けるわよ、引き受けるべきよ。わたしのためではなく、貴女自身のためにね。
なにを言っているのだろう。同じことばかり。
でも訴えてしまう。貴方のため。そう貴方のためと。繰り返し繰り返し。
これは復讐でなければならない。彼女の。わたしに対する。
訳の分からないことを? 彼女は嗤う。
わたしにも分からないの。でもこれは復讐なの。貴方がわたしにできる。わたしが貴方に望む。
わたしはわたしを演じているのだろうか。
自分に復讐を企てているのだろうか。
連絡を入れる。聞いてもらいたい話があるのと。
いつでもいいわよ。
やはり落ち着いている。もう見破られている。
――引き受けて。お願い。引き受けないなんて許さない。
女史はガラスの向こうに彼女を探す。
でも彼女はこう言い返す。
――私のためって? なにそれ?
と。 


 でもそうなる。
なるほど、編集女史の言うとおりだった。彼女は引き受けるのである。
それでも今度は彼女の番である。いろいろに考えをめぐらす。受けるための理由を。自分を納得させるための。
長い付き合いだから? ずいぶん面倒を見てもらったから? 違う。今回は。自分の理由からだ。女史の窮状を見るに見かねて求めに応じようとしているわけではない。
それにそもそもそれは(Ⅹ氏が作品を書けないことは)、言われるような窮状などという手合いかしら、まともに考え直せば、すこしも窮状ではなくなる。いくら編集者と作家の関係だからといっても所詮仕事にすぎない。仕事を超えて義理に縛られる必要はない。見限ってしまえば好いのだ。女史のためだけではない。作家のためにでも。
それ以上に何があるというの? それとも二人の間に特別のなにかでもあるというの? くだらない!
彼女は無償に腹が立ちだしていたのである。我慢がならないくらいに。そう思ったとき、気がつくと、急に引き受けてもいい、と思い始めていたのである。それ以上に引き受けなければならないと思いはじめてしまう。
気持ちは一方的に昂じていく。やらなければならないことのために。自分のためではなく、女史のためでもなく、誰のためでもなくやらなければならないことのために。湧き上がってくる。怒りに近い思いとともに。
一週間のうちに返事を欲しいと言われていた。三日後には連絡を入れる。翌日でもよかった。それではいかにも安易すぎる。でももう待てない。早く連絡しないと腹が立つばかりである。
 しかし編集女史は、不在だった。出張だと聞かされる。戻るのは三日後だと言う。なるほど一週間以内にか(いかにも女史らしいこと)……。何時からだったんだろう。でも訊かない。どちら様ですかと訊かれてしまう。明かせない。
ありがとうございましたと言って電話を置く。耳元に感じの良い若い女性の声が残る。訪れたことがない編集部の姿が浮かぶ。
キーボードに指を置く。気持ちは固まっていた。画面を睨む。画面のなかに浮かぶ〈顔〉を睨む。これが彼女の経緯。はじまっていくための。

 *

対照的な性格の場合、通常、お互いがお互いを補い合うみたいなとられ方になりやすい。でも違う。二人の場合は逆である。補い合わない。むしろ補い合わないから、仕事を超えて長く付き合い続けてこられたのだ。そうとも言える。
楽だった、違うことは。同じところがないことは。会う度にそれを感じるのは。とくに編集女史の場合、女が嫌いだったのに対して、彼女の場合は男が嫌いだった点に関しては。でも口に出して確かめ合うわけではない。それぞれのプライドがそれを許さなかった。
でも素振りも見せない分、逆に二人の結びつけを強める。今度は秘密も絡む。しかも密約である。
断っておけば、女嫌いの編集女史が彼女を容れられるのは、もちろん、彼女にまったく女を感じないで済むからだった。
 でも、自分たちはどこか似ている。編集女史はそう思っていた。彼女もそう思っていた。見かけも性格もまるで違うのに、二人は互いを見、その相手を見る目で自分を見ていた。拒まない。どちらからも。そうであることに。

 一週間が過ぎる。女史はまだ出社していなかった。数日後、女史の方から連絡がはいる。留守をしてしまったお詫びと、「資料」を送ったという連絡だった。判断材料にして欲しいからと。
 さらに数日後、電話がかかってくる。返事を求める電話ではなかった。会ってほしいという連絡だった。返事はそのとき聞かせて欲しいと言われる。
三日後、いつも使っているバーで落ち合う。お土産よと言って南米産の色鮮やかなスカーフが渡される。珈琲豆も。海外出張だったのと訊かれた女史は、ごめん、と言って、実は個人的な旅行だったのだと言う。少しばつが悪そうに。弁解しようとするのを彼女はやめさせる。そんなことはいいわ。そう言って、お見上げ嬉しいわと言いながら、代わりに今度旅行の話を聞かせてよと言う。
簡単に乾杯だけ済ませて(無事の帰還に対して)、肝心の話にはいる。女史から郵送されてきた「資料」がテーブルの上に取り出される。
「訊いてもいい?」
ええなんでもと笑いを浮かべながら答える女史に彼女は単刀直入に尋ねる。
「この『共作用』って?」
 送られてきた「資料」の表紙に書き添えられていた朱書きの文字だった。
「貴方と私との、という意味で入れたの。気分を害した? 勝手に決めつけられてしまったようで」
彼女は表情を変えなかった。女史は捕捉する。
「いずれ好き勝手に使われてしまうわけだから。せめてその間だけでも、自分たちの行為だと思わなければ。痕跡なわけ。足跡ぐらいつけておきたくなるじゃない。いくら下書きだったとしても。でも嫌だった?」
 そう言って無表情を崩さない彼女の反応を心配そうに窺う。
 彼女が表情を変えなかったのは、女史が疑っているようなことではない。彼女にはそう思えなかったからである。女史が言うような、ただそれだけのこととは。
朱書きの「共作用」の言葉の中に込められた女史の思い。彼女が疑う女史の心中。Ⅹ氏との共作だと思ったとしても、自分とのそれだと思うはずがないこと。その真意を隠していること。送られてきた「資料」の「状態」を見れば、それが共作相手へのメッセージを兼ねていたのは明らか。刺激というメッセージである。しかも普通の刺激ではない。いまは措いておくけど。
送るわね、と言われたときは、メモ書きに毛を生やしたようなもの、そう聞かされていたのである。それが、開封してみれば「思いがけず熱が入ってしまって」と断りがあり、「こうした方があなたの負担が少なるかもしれない」と、そう思って(余計な配慮だったかもしれないけど)、「決断してもらいやすくなるかなと思って、書いてみたわけ。あなたの目から見たらとてもなってない代物かもしれないけれどね」と。承知してもらえるなら(心からそう願っているけど)、「添削してほしいのよ。遠慮なく。貴方の文章にしてほしいの。そして「わたしたちの作品」にしたいの」とあったのである。
 言われる「資料」を読み終えたとき彼女は思う。これでは自分はまるで女史のための編集担当ではないかと。なにを考えているの。それとも立場を入れ替えてもらいたくなったの。編集者から作家に。
気持ちは分からないでもない。たしかにストレスも溜まる。若い作家が相手ならならそんなことはない。編集者の方が立場としては上である。それがいつか逆転してしまう。そして相手は嫌な作家になる。始末に負えないことにそれも作家としての成長の一つだと思いこんでしまう。意図的に勘違いして憚らない。作家にとっての手っ取り早い自己確認。その用に供される安物のおもちゃ。女史を日々襲う苛立ち。大した用事でなくかけられてくる電話。思い付きの電話。それを隠すために面倒に語りかけてくる耳元の声。雑音。猥雑な声。ええたしかにそうでしょう。
 でもまさかそのためにこんな手の込んだことを? ばかばかしい。それにそんな煩わしいことをするはずがない。そんな人ではない。いつだって単刀直入。取柄と言えるくらいに。しかもその取柄をフルに活かして手に入れた今の立場。明快な決断力。即決力。いずれも編集者に必要なもの。だから絵にかいたような編集者。それが女史。
 なにを考えているの。「出張」の前の女史とは様子が違う。本人は隠そうとしていても、かえって浮かび上がってしまう、どこか追い詰められた感じ。切迫感だけではなく背後に浮かぶX氏の影。
 それになに? 「あなたのためになる」なんて。もっと素直になりなさいよ。
 担当だからってそこまでするわけ? まともじゃないわ。冷静になって考え直しなさいよ。
 精一杯自分を保っている女史にかける言葉はない。分かっているはず。嫌というくらいに。何をしているのかが。周りが見えなくなる人ではない。ましてや自分を見失うなんてことは。
 分かっていたはず。言われていることが。それともそれも原因の一つっていうこと。あなたを追い詰める。貴女までそんなことを言うのねって。そういうこと?
 いいわよ。書いてあげる。癪に障るからよ。あなたが可哀想だからではなくて、あなたからそう思われることが許せないから。
 でも分かったわとは言いたくなかったの。あの時は。笑っているからよ。二人の遣り取りを聞きながら。
 あなた、隠していなかった? 首実検させていたんじゃないの。私のこと。X氏に。いたわよね。バーに。甘かったわね。知らなかった、わたし、透視力もっていたこと……。
 でも部屋に戻って、わたしが何をしていたと思う。書いていたのよ。もう物語を。「ロマン」をね。我慢がならなくって。なにもかもが。あなたが「出張」している間もよ。
 それがなに? この「資料」。どういうつもり。これじゃ私じゃない。まるで私がなにをしているか分かっているみたいにして。
 でもあなたには透視力はない。そんなものあなたには邪魔だから。だから思ったの。これって、決別状ね。絶縁状ね。でなければ果し状。Ⅹ氏に向けた。
 いいわ。結構よ。そうしてよ。思う存分。
それに「共作用」って、もしかしたら、そういうこと。
「凶作用」ってこと? 
作家以上のものを書いて。突きつけて。そして、その先は知らないけど。枯らすわけね? 
でもどうしたの。なにがあったかは知らないわ。話したくないんなら話さなくてもいい。聞きたくもないわ。でも引き下がるわけにないわ。あなたがもういいと言ってもね。はじまってしまったのよ。私のなかでも。

 ――冒頭は、とある公園。公園の一角。一人の男。力なくベンチに座っている。大きなバックを横に置いて。下を向いて独り言を呟いている。なにかに語りかけている。まさかと思えば、相手は蟻。なんの話? 寓話? それがⅩ氏の好みというわけ?
 どうもそうではなさそう。読み方が変わる。変えなければならない。寓話ではなくなる。
猫たちとのやりとり。両者の神経戦。片意地を張る男の、いかにも幼稚な所。でも男にはなにか訳がありそう。極めこんだスーツ姿。身体を隠してしまうほどの大荷物。小道具にしては大仕掛け。コミカルな彼らを包む、対照的にニヒリスチックでシリアスな感じの公園の空気。
彼女は、さらに読み解く。公園のベンチの男のことを。蟻たちのことを。猫たちのことを。男の奇態を。挑発を。唐突な奇術を。挙句の果ての泣き喚きとただならぬ憔悴を。
やがて男の告白が始まっていく。なされていなかった名乗りが挙げられる。失くしてしまった本名の一件が、まことしやかに語られる。
なぜ失くしてしまったのか。それもこれも記憶に異変が生じてしまっただめだという。消沈する男。慰め。告白の先に現れる女。明かされるのは男を襲った大きな運命。運命とは閉じ込めのこと。男は女に閉じ込められたのである。そのときの音。男の耳を襲する音。息を止めかねないほどの音。女が立てた音だった。女は後ろ足で荒々しく扉を強く蹴ったのである。怒りにまかせて。
彼女は感じる。寓話に潜むはげしい怨念を。怨念のなかに佇む人の姿を。女に身をやつした者の姿を。女の姿に借りた編集女史の心の叫びを。ここにあるのはただ一つ。引き裂かれるような心の叫び。Ⅹ氏であるにちがいない〈男〉に向かう、怨念の限りをこめた叫び声。
もう間違いない。これは、Ⅹ氏を挑発しようなどという、相手を思いやった、心うるわしい類の代物ではない。甘ったるいものではない。
そういうことね。彼女は理解したのである。〈男〉に向けられた挑戦状であるのを。刺し違えを覚悟の果し状であるのを。
おそらく男が抱えている荷物は、書籍。しかも男が書いた男の著書。大量に売れ残った本の一部。男は行商人。売れ残った自分の本を売り捌く。
閉じ込められたのもそのため。完売するため。全部売り尽さない限り戻れないのだ。
でもそれも上辺。真相はその裏に隠されている。〈男〉の存在である。存在そのものが我慢ならないということ。隠された真相であり真意とは。
女史の渦巻く心の闇などこれまで一度も考えたことなどない。もし闇があったとしてもそれ以上に煌めく知性がある。曇りを知らない目の輝きがあり、頬の張りがある。響く声がある。きびきびとした歩き回る姿があり、つかつかと進みゆく躊躇いのない行動力がある。くじけることを知らない心がある。剥き出しの意思が……。
どうしたというの? なにをしたというの? なにをされたというの?
訊きたくも、訊かれてたくもない。ええそう。聞くまでもないことよね。
あなたが聞きたいのは、私の答え。意思。
じらしてるわけではないわ。趣味じゃないわ。
分かってそうね。それならいつものあなた。
それでいいわ。


グラスの触れ合う音が、二人の空間を押し広げる。あの〈公園〉に向かって響きわたる。二人の新たな出会いの場。図らずも抱え込まれた公園。すでに書き始められていた公園のなか。彼方の公園にグラスが掲げられる。
――そう「公園」に!
二度目の乾杯。消えない余韻。余韻の彼方。
彼女と女史の二人の前にあるのは、一台のベンチ。公園の一角に据えられたベンチ。
ベンチに座り込む男。背中を丸めて俯き加減に砂地の地面を見つめる。もう長い時間が経とうとしているのに。
冷ややかな視線を浴びせながら二人は男に近寄る。そして両側に座る。女史が用意してきたグラスを差し出す。彼女は抱えてきたワインの栓を引く抜く。
静まり返った公園の空気にワインの注がれる音が滲みこむ。
女史は差し出す。遠慮は要らないわ。彼女は男に語りかける。
丸めた背中からなにか危険を察知したかのような怯えたような眼で二人の顔を見上げる。
――若竹! 若竹!
男は樹上に向かい叫び声をあげる

* こうして物語は、こんな形でも始まっていくのだった。すでに始められているとしたなら、はじまりを説き起こすもう一つの物語が、先行する一篇とともに相応に相互の時間性を失っていたためである。
                                                            (未完の完)

[付記]
 都合により創作「ロマン」は連載8をもって「未完の完」として中断。「わ」に移って、再帰する形でいずれ再述の予定(時期未定)。


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