2017年1月5日木曜日

[ろ]7 ロマン(連載7) 婦警


 ――元気?
 カノジョはいつものように声をかける。
 ――ゲンキって? ゲンキなわけがない。
 その人は言う。
 カノジョは携帯用ポットと紙カップを取り出す。出がけに淹れてきた暖かいコーヒーをなみなみと注ぐ。二人の間に置いた麻のショルダーバッグ越しに勧める。
 ――温まるわよ。
 不機嫌な顔を崩そうともしないで差し出されたカップを眺めたままその人は言う。
――また買収する気ってわけだ。
――コーヒー一杯で?
 型通りの、と言って悪ければ、あいさつ代わりのような遣り取りだった。言葉に意味があるわけではない。むしろなにもなかった。
 しばらく何も語り合うこともせずに時間が過ぎていく。その人のコーヒーを啜る口元の遠慮気味な音が、カノジョとの間合いを見計らっている。足元からは身に沁みる寒さが忍び寄ってくる。
 ――元気?
 ――ゲンキなわけがない。
 ――寒くなってきたしね。
 ――それほどでもないけど。
 ――もう一杯どう?
 ――……。
 ――別に買収するつもりなんかないわ。
 その人は、疑い深そうに窺う。そしてきっぱりと言う。
 ――もう手は貸せないから。
 ――いいわよ。気晴らしにお付き合いしてくれれば。
 ――いつもそうだ。後で高くつく。言われるままに付き合うと。
 ――そうかしら……。
 ――そうだよ。
 ――……。
 ――でももう一杯もらうよ。
 コーヒーを飲み終わると、二人してベンチから腰をあげ、公園の中を巡り歩く。都心なのに誰もいない。二人以外には人の気配がない。無音が広がる。静寂とは違う。真空管のなかにいるような透き通った感じの無機質な静まり方だった。足もとに溜まった木の葉を踏みしめる。音がしない。頭上から枯葉が落ちてくる。枯れ枝が風に靡く。常緑樹が緩やかに揺れ動く。でも枝が擦れ合う音も、常緑樹の葉擦れの音もしない。

 *

 某年某月某日某時刻。某所。そして某氏。違う。某女子だった。この際性別を質しておくことは大事なことだ。そのようにして物語は始まっていくからだ。
いずれにしても男ではない。男では意味が違ってしまう。
じっくりと思い浮かべなければならない。そのとき其処にいたのはカノジョであったことを。そしてそのときカノジョが手にしていたのが……。
でもこれでは推理小説だ。思わせぶりにサスペンスがはじまっていくかのようではないか。まるで事件への参入である。参入であるにしてもいろいろな入り方がある。前後関係を重視すれば、どの程度ことは進んでいるのか、まだ前半なのかすでに半ばまで進んでしまっているのか、あるいはどこまで話しを戻すせばよいのか、ストーリーの展開次第だが、話の岐路である。それにカノジョは要求するだろう。もし終盤に近いなら振り出しに戻るようにと。
だからこの際カノジョが手にしていたものが問題になる。今は〈ロマン〉とだけ言っておこう。すでに使われた、目新しくもない言い回しだとしても。それに安易に前言を翻すようだが、今は〈男〉である。はじまりに立っていたのは。いや、座っていたのは。そこは都心の昼下りの公園だった。男はベンチに腰掛けていたのだった。
違うのは、まだなにも始まろうとしていないことだった。これからである。
女と同じように男もなにかを手にしていた。でも〈ロマン〉などではなかった。男が手にしているのは、皺の寄った紙屑だった。舞い降りてきたのである。足許に。開けると書かれていた。
〈警察に通報しましたからね〉と。そして〈親切心だと思ってください〉〈まだ時間がありますから、その場所を立ち去ってください〉〈わたしとしてもこんな真似をしたくなかったし、本意でもありませんから……〉と綴られている。
遅かった。もう警官が前に立っていた。一人は婦警だった。男は見つめた。男にそのような目で見つめられたことはなかった。制帽は役に立たなかった。婦警は気持ちを隠せない。反応してしまう。一瞬、婦警は自分のなかに感じてはいけないものを感じる。
でも職務感が婦警を引き戻す。通報の信憑性を確信する。犯意を感じて男を問い詰める。
男は正直に答える。婦警のためだった。尊大だった男の警察官は、自分の威厳がそうさせていると思っている。
気持は理解してもらえるはずだ。分かってくれているはずだ。男は、男の警察官に隠れるようにして婦警に目線を合わせる。傍らでは男性警察官が、男の運転免許証で記録を問い合わせていた。
あると思っていていた前歴はなにも出てこなかった。
――次は警察署まで来てもらうから、いいね。
男は素直に頷いた。その間も気持を詰めて婦警をベンチから見上げる。婦警は揺れる。男の「犯意」に。屈辱感を味あう。手の平を握りしめる。爪先が肉に食い込んでしまう。「事件」を予感する。外れたなら捏造する。昂じた思いで手錠に手をかける。再び男と目が合う。

 *

彼女が手にしているのが〈ロマン〉であるというのは、実は、この書き出しからも分かるように〈作中作家〉としての彼女、表記の仕方としてはカタカナのカノジョになる人物に始まっていくからだった。作家を主人公にした物語に思案を重ねていた彼女が、そのために生み出した人物(「カノジョ」)だった。
そして、ゴーストライターだった時、仕事の合間によく訪れるのがこの公園だった。時には必要上から訪れる。仕事の開始の時や〈創作〉に行き詰った時はとくにそうだった。順調な時でも訪れる。その時は気分転換のためだった。
公園は、彼女にとって特別な場所だった。領分だった。自分以上の存在だった。
男のことも偶然だった。何気なしにここに男が座っていたらと思っただけだった。特別な思いからではなかった。すぐたち消えてしまうはずだった。それが消えない。居座る。
彼女は、男が好きではなかった。どちらかと言えば嫌いだった。嫌いななかでも最も嫌いな〈男〉だった。本当は考えるだけでも我慢がならなかった。だったら思い浮かべなければよかった。たしかに。
でもそれは〈作家〉の取るべき態度としてはいかにも狭量だった。失格である。選り好みしてはならない。客観的でなければならない。出番はともかく、頭から締め出してしまうわけにはいかない。〈作家〉が用いるべきやり方ではない。
思い浮かぶだけの人材を思い浮かべ、物語を与える。しかしいまは誰一人として始まっていかない。出直そう。
時間も午前一一時を回って三〇分近くになっていた。もう少しすれば公園が混みだす。だから実は口実だった。男のことは。腰を上げるタイミングのための。すぐに消え去る。そんな男など。消去を確認したらすぐ公園を出る。男は、人選以前、「人材」以前だった。
それが腰を上げられない。肩に重しをかけられた感じになる。傍らにまといつく気配を感じる。離れない。早くどいて! 消えて! 彼女は叫ぶ。でもどきも消えもしない。叫べば叫ぶほど体が重くなる。
――嫌ワレタモンダ……。
もう男の声まで聞こえてしまう。
――ソンナニ嫌ナンダ……。分カッタ、消エルヨ……。
横を向く。消えていない。騙される。消える気配がない。それどころか当然の顔をしている。憎たらしく座っている。
そして言うのである。
――当然ノ顔ヲシテ、ト言ワレテモ困ル。
そう言って、
――ナゼカッテ? ソレハ最初カラ決マッテイタコトダカラサ。言ウマデモナイコトダヨ。先約ミタイナモノダッタカラサ。
と訳知り顔に言う。
――ダカラココニイタワケデハナイ、待ッテイタンダ。自分ノ方デ。引キ受ケルタメニ。〈ろまん〉トヤラヲ……。
もう相手のペースだった。でもどう考えてもおかしい。座っていたのは、カノジョの方が先だった。登場の仕方としては、流れから言っても男の方が後である。
割り込まないで!
でもさも当たり前のような当然の顔を見せつけられると、時間の前後関係も入れ替わってしまいそうになる。このままでは主導権も相手に移りつつある気配である。すでに移ってしまっているかもしれない。
その時だった。ある光景を思い出したのだ。一人の婦警の姿だった。今年の四月になって今まで見かけなかった婦警が立ち番をしていたのを。
ほとんど毎日通る駅前交差点の交番である。後ろ手に組んだ手の力で背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、道行く人に、そして車の流れに鋭い眼光を浴びせかけている。その姿が印象的だったのだ。
婦警への想いが膨らむ。膨らむだけではない。婦警の顔を思い出すと、あれだけまといついて離れなかった男の呪縛からも解かれた気分になる。
間違いない。確信を深める。公園からだと歩いても一〇分とかからない。そう思ったときはすでに立ち上がっていた。わけなく。

くだんの婦警は今日も立っていた。嬉しくなってしまう。気持ちを押さえながら、一般人を装って道を尋ねる。難しく尋ねる。意地悪するつもりはない。すぐに立ち去りたくない。それに験さなければならない。許して。
煩わしそうにされたなら見込みちがい。でも正解。そんな気配は微塵もない。それどころか即応できないのを、自分の未熟さとして隠そうとしない。申し訳なさそうに恐縮して見せる。
大丈夫です、今ので分かりますから、ありがとうございました。丁寧にお辞儀して立ち去る。
何日か空けるつもりだったのが、待ちきれずに二日後には前を横切ってしまう。大丈夫。気づかれない。髪形や服装を変えておいてよかった。
再確認(再審査)。いくら合格点だったといえ、まだその場その場をこなすのに精一杯の頃。大丈夫だとは思うけど、念には念をということ。
人通りの多い交差点だった。丁度いい喫茶店が斜向かいにある。しばらく陣取る。その間何度も道を尋ねられる。一人一人丁寧に応じる。人によって態度を変えない。難しそうにしているときもある。その時も自分に見せたのと同じ面持ちを見せる。
小一時間が経ったところで立ち番は終わる。先輩巡査に連れられて自転車で出かける。巡回だった。胸を躍らせている。非の打ちどころがない。見込み以上だった。
事実、一週間と経たないうちに体の硬さがとれている。余裕さえ感じる立ち番姿には、瞬時に次の動作に移れる俊敏性を忍ばせている。道を尋ねられても同時に辺りを窺っている。目を光らせている。
もう毎日見張る。メモをとるのも忘れてうっとりと眺める。物語が始まろうとしている。体が物語を感じてやまない。はじまりの予感だった。

身体と程よくマッチした制服が、カノジョの関心をさらに掻き立てる。制服の下の身体にである。制服を脱いだときの姿は、恋人と並んで歩く姿にどのように変わるのか。制帽をとって髪を垂らしたときの姿。女に戻る顔。恋人はいないのだろうか。いてもおかしくないはずだけど……。
それが恋人など欲しくない感じなのである。顔つきが違う。気配がない。見せない。見せようとしない。たとえ言い寄られたとしても受け付けない。頑として拒む。職務一筋の身体性で。
新しく社会に出た女性なら、それも男中心の職種を選んだ女性ならとくにそうなるに違いない。そのためには自分の「本性」さえ完璧に匿しきる。制服は鎧どころではない。武器である。自分を殺せる。
もうカノジョは我慢ならなくなる。
相談する。婦警が巡回する時間を狙って。公園を横切る隙に。
下調べはついていた。時間にほぼ狂いはない。現れた婦警を呼び止める。
時間を有効に使わなければならない。カノジョは婦警の前で演技してみせる。最初から怯え顔をつくってみせる。精一杯に。すこしぎこちない感じが、かえって真実味を増す。
――見張られている感じとは?
戸惑いを浮かべる。当然である。はじめての経験だった。それにこんな形で相談されるとは思ってもいない。申し訳ない気持ちになる。
ほどなくして婦警は落ち着きを取り戻す。取り戻しながら、情けないと自分を叱っている。心のなかが見えるようだった。
胸元から手帳が取り出される。意を決したように「どうぞ」と言って(自分に言い聞かせて)筆記具を立てる。
カノジョも気持ちを固める。
――辺りから。何処からというのではなく。
そう言ってカノジョは脅迫文をバックから取り出した。
名前が必要だったので名乗った。「サッカと申します」と。漢字では作る花で「作花」と書きます。
「作花殿 昨日は昼下りのひと時を楽しまれましたか。周囲を窺っておいででしたね。なにか見えましたか。ワタシに気がつきましたか。どうも気がついている感じではありませんでしたね。ご心配には及びません。ワタシがお守りします。でも一日中見守っているわけにはまいりません。本当に物騒な世の中になってしまいました。どこか狂っています。いつ何が起こるか分かりません。くれぐれも身辺にご用心を。貴方の忠実な守護神より」
――郵送されてきたのですか?
封筒を見せる。いかにもと言った切り貼りの宛名だった。裏返す。同じように「守護神」とある。文面はありきたりのワープロ文字だった。
――郵送ではなかったのですね。
――ええここに置いてあったのです。まるでわたしが座るのが分かっていたかのように。
――それならたしかに辺りから窺っていたのかもしれません。それらしい人はいたのですか?
――誰もがそんなふうに見えてしまって。申し訳ありません。
――いいえ、謝るには及びませんから。ご無理もないことです。私にも経験のあることですから……。
そう言って、言ってしまったことに婦警はすこし顔を赤らめる。すぐに打ち消して見せる。
――分かりました。
そう言うと、必要なメモを取る。
このままだといっしょに交番に行くことになる。彼女一人で処理してはいけないからだ。分かっていた。だから自分でもかなり突飛もないことを言うことになる。でもそれしかなかった。
――もしかしたら被害妄想かもしれません。周りからは診てもらった方が好いと言われているんです。
当然、婦警は怪しむ。メモの手を止める。
――でも「脅迫文」があるんでしょう、それもそうじゃないんですか?
――ええそうよ、脅迫文よ。でももし自分で書いたのなら、とそう思うと、そんなわけはないはずだけど、脅迫文よりその方が怖くてなってしまって。やはりそうなんだ、被害妄想なんだ。言われる通りなんだ。そう思えてしまって。
婦警は躊躇っていた。かける言葉に。
――でもそんなわけないんです。見張られているんです。妄想だなんてありえません。心当たりがあるわけではないけど、仕事柄、知らない間に人を傷つけていたかもしれないんです。きっとそうなんです。恨まれているんです。でも確かなことじゃないからそんなことはない。あるはずないわって、そう思い直すんです。分からなくなってしまったんです。どうしてよいか。息苦しくなってしまったんです。悩んでばかりで。そこに通りかかられたわけ。偶然とは思えなくて、思わず声をかけてしまたったわけ。ご迷惑だったでしょう。こんな話聞かされて……。
心外です。婦警は言う。
――迷惑だなんて。それに被害妄想だなんて。そんなふうに思ってません。どうしてと訊かれると困ります。勘です。警察官としての。それにかりに事件性がなかったとしてもそれを確かめるのは私の仕事です。
力強く言い切る。
――私では頼りにならないかもしれませんが、精一杯のことはするつもりです。本署の刑事課にも知り合いがおりますから。
と言う。
――でも秘密にしておいていただきたいの。
そう言って、弱々しく、二人の、と付け加える。

 *

同じ公園だった。同じ公園って? カノジョは迷う。カノジョだけではない。男も迷う。男は、もうその頃、「残念無念」なるもう一つの名前で呼ばれ、呼ばれることに安堵感を得ているほどだった。なんですかと尋ねると笑っている。穏やかな顔で。だからカノジョはともかく、男はカノジョの困惑から遠くにいなければならないはずなのに……。


 同じ公園だった。困惑気味のカノジョの前には例の婦警。でも私服だから少し歳の離れた姉妹。そうでなければ年若い母と娘にしか見えない。
緑が目に眩しい昼下りの公園。吹きすぎる風。外目には姉妹・母娘の仲睦まじい会話。でも話はいたってシリアス。例の問題は佳境に入りつつあったから。
 ――怪しそうな人がいたので様子を探っていました。おそらくあの人ではないかと思います。気がつかれましたか? 
疲れているはずなのに、勤務明けの張り込みも厭わない。疲労だけではない。別の問題もあった。職務権限のこと。越権行為だったこと。婦警の立場を大きく逸脱していること。でも拒まない。婦警の行動性が。
――やはりそうでしたか。なんとなくそんな感じがして。やはり思い過ごしではなかったんですね。でも姿は分かりませんでした。気配しか感じません。確かめようとしたんですけど、怖くて見られませんでした。
――作花さんの場所からだと木が邪魔してお分かりにならなかったかもしれません。でも感じられていたというのならきっとその人です。
婦警を危険に曝すかもしれない。分かっていても頼んでしまう。調べていただけませんか。構いませんかと。
カノジョは婦警の顔が一瞬輝くのを見逃さない。必ずご期待に応えられるようにします。安心した生活が取り戻せるようにして差し上げます。お任せ下さい。顔に書いてある。紅潮した顔に。
――でもご無理をなさらないでください。くれぐれも危ないようなことはなさらないように。それではわたしが困ります。ですからお願いですから……。
カノジョには分かっていた。婦警が体を張ってまで職務を遂行しようとしていることが

 * かくしてこの場合、ここに一つの〈ロマン〉のはじまりを読み取るなら、話は、ある場面(「3 取調室」)へと大きく旋回していくことになる。

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