2017年1月5日木曜日

[ろ]6 ロマン(連載6) シャドウライター


でも曲折がある。最初から次に進んだわけではない。正確にはまだ始まっていかなかった。始まっていこうともしなかった。まどろこっしい限りだが、いまだ女史のなかでの彼女の立場は、自分を止める、そのために姿を現わしただけの存在だった。それ以上ではなかった。だからはじまろうともしていなかった。
それももっともなことだった。条件的にみて彼女では叶えられないからだ。この仕事は、実作者でなければ務まらない。彼女はたしかに優れたゴーストライターだった。でもそれ以上ではない。
実際、女史は気を取り直していた。やはり自分の手で書かなければならないと。だからだれかに代筆を求めようなどとも考えない。その点でも彼女は視野の外にいた。
それなのにいつまでも彼女の顔が消えない。キーボードの上に手を置いてパソコンの画面を見つめると、画面の奥に彼女の姿が浮かんでしまう。見つめられている。つられるように、分かったわ、もうしないから、大丈夫だから、と声を上げる。
それでも消えない。違うの? そのことではなかったの? なにか語りかけようとしている。女史は気づく。相談しなさいよって、そう言われていることに。
といっても実作の件ではないはず。彼女にも分かっているはず。実作がなければなにもはじまらないから。前提だから。でもそれと同じくらい大事なことがあった。場合によっては実作以上に大事なことが。共犯関係だった。完璧に秘密裏に進めなければならない。なにを差し置いても。
そうなの、そのこと? たしかに彼女ならできる、絶対に秘密を守ることが。もしかしたなら自分たち以上に。
女史は思い出す。ゴーストライターを頼んでいた時の彼女を。秘密が守られる仕組みがどうなっているのかを。個人を出さない仕掛けを。自分に固執しない理由を。
いくらゴーストライターといえ自分の文章である。執着心は起る。それが見向きもしない。完成本も受け取らない。いやなことでもあった? 訊けばただ要らない、欲しくないとしか言わない。たしかにもう別の仕事にとりかかっている。忘れる必要があるのかもしれない。
「ともかく自分のものじゃないから。もらっても仕方がないから。はっきり言わせてもらえばもらうことに意味がないから」
 知らなければ自嘲気味に聞こえてしまう。嫌味にもとられる。不遜にさえも。でも自嘲でも嫌味でもましてや不遜でもない。
だから彼女は言う。「勘違いしないで」と。自分があってはいけない(残っていてはいけない)から、それだけよ、と。
もし欲しいと思う気持ちがあるなら、それは「著者」の気持ちを理解できない人のすること。「著者」って? もちろん表紙に名前が載る人(本人)のこと。
本人のもとに届けられた(納められた)本には、本人が手にした瞬間から「著者」の悲しみが滲みこむの。分かるは「著者」と私たちにだけ。
欲しくないわ。悪趣味だなんて思われたくない。とくに「著者」からはね。
 言われて女史は思い至る。そうね、たしかに。編集者をしながらすこし無神経だったわ。気持ちが分からなくなっていたのね。その頃の女史の編集相手は、名の通ったプロの作家たちだった。
女史は、「著者」たちの顔に思いを致す。いろいろな顔を思い浮かべる。サイン会に臨む著者。見守るファンの前での表情。ほっとした顔。大きな仕事を成し遂げた納得の顔。「著者」の笑顔。自分の本であることに一点の曇りもない顔。表情。表情が「著者」を本物の著者に仕立てる。当然の権利としても。
でも違っていた。そうではなかった。華やかなサイン会も「権利」だけ開いているわけではなかった。別の意味があった。実に内実的な。断るまでもないが、販売部数を伸ばすためのそれとは、最初から次元が異う。
「気」だった。それを追い払うためだった。「著者」が著者となるための欠かせない通過儀礼だった。しかも嬉しくてやっているわけではなかった。彼女が言うのはそういう意味だった。自分の「影」を剝ぎ取らなければならないからだ。悲しいことだった。本当なら一体なはずだから。とくに心ある「著者」なら。
ゴーストライターは、だから自分から早々に退散する。進んで「自己」(「気」)を抹消する。でも彼女はこう続けたのである。
「それも駆け出しの頃のこと。「気」なんて気にするのは」と。「いまではそんなもの最初からないわ。あるわけない。書く前から「著者」になっているし、第一行目から書いているのは、正真正銘の著者。私じゃないわ。書き終わるまで自分が出ることはない。あったら筆は止めるわ。引っ込むまでね。でもこれまでそんな心配はなかったはず。唯一あるとしたなら書き終わった後の数時間。早ければ一時間。移行時間というわけ。「著者」から自分に戻る。でも純粋に生理的問題。本当なら機械のようにスイッチを切ればそれで完了が最高。でもそうはいかない。仕方ないこと。でも実質的には移行前からすでに終了。自動終了。すべてが。疑う? そうでなければ本当の仕事はできない。それに本当の仕事ではないわ」
 本人(ゴーストライター)はそうだとしても問題は「著者」の気持ち。そうとることができるかどうかは。反論ではなかった。理解を深めたかったからだ。
 彼女は笑顔で答える。見事に。
「それではゴースト失格。「著者」の文章になっていないから――」
 彼女は「著者」になり切るために、文章の提供を求める。日記でも作文でも手紙の下書きでもなんでもいい。なければ彼女が「日記」を書く。書くために本人になる。書いて本人に見せる。添削してもらう。できなければ自己添削してみせる。いろいろに。文体を変えて。言葉遣いを変えて。そして選んでもらう。
思わず見入ってしまう。でも女史の頭を一瞬、心を病んだライターのことが過ぎる。とくに「自己添削」の話だった。偏執的すぎない? そうまでして「著者」になり切る必要があるの? 
彼女は言う。平然とした顔で。
――ゴーストライターではなく〝シャドウライター〟よ。私がならなければならないのは。「影」になること。本人の。そして消えること。消えるためにも本人になること。日向に出れば否応なしに消えるわ。「影」は。訳なく。そして本物の影――本人の影がかわりに貼り付くわけ。本来あるべきようにして。
彼女が言う日向とは、本が書店に並べられることだった。お披露目だった。
なり切っているのは彼女だけではなかった。著者もだった。著者も「著者」になり切っていたのである。彼女の文章によって。文章が紡ぎ出す物語によって。だから彼女の「本」に関する限り、サイン会は、純粋にハレの舞台だった。通過儀礼ではなかった。そして販売促進会だった。
 ――この仕事をする意味なの。核心なの。これは。消えることを含めてね。入れ替わるだけではないのよ。消えられるのよ。たんなる入れ替わりではないの。それなら出てくるだけのこと。違うの、消え去るの。個人的なことを言わせてもらえば、私の「哲学」としてはこっち。消える方。生きながらの消失。大げさかしら。でもほかにある? こんなことが体験できことなんて。

 もう女史の中で事態は変化していた。一つの思いにとりつかれていたのである。彼女ならもしかしたらできるかもしれない、書けるかもしれないという、まるで気がつくのを待っていたかのような思いに。だからある日、以前の話に託けて、こんな風に訊いてしまったのである。
「ゴーストライターも登場人物になりきる面では似てない? どこか小説家みたいだけど」
 事情はまだ伏せられていた。だから一般論を装った訊き方しかできない。でも当然一般論ではなかった。だから彼女の答え方によっては、手ひどく打ちのめされることになる。事実、そうなってしまう。予想以上に。
即座に言い返されてしまったのである。それは違うわ! まるで、と。
「ゴーストの場合は、実在の誰かになるのであって、なるべき実在者がいるわけ。しかも自分のためになるわけじゃない。小説家とはまるで違う。そうじゃなくて!」
 本当はここで簡単に引き下がってはいけなかった。なにか言い返さなければならなかった。そうだとしてもあなたも自分のためでは、とか。なぜって? と訊き返されたら、言ってたじゃない、得難い「体験」ができるからって、そのためだって、とかいろいろに。
でもこれではあからさまな侮辱になってしまう。本物のプライドに対する。彼女が抱えているプライドは、だれとも比べられないもの。比べてはいけないもの。それだけに彼女を支えていたもの。その支えから見れば、小説家など不純で不遜で不覚極まりない存在。
女史は次の言葉を失う。虚を突かれたからだけではない。強く言い返されたから。許せない者に向かって発するような抗議の声。その突き刺すような響き。これでは当事者が目の前にいるようではないか。それともいるわけ? そういうこと?
愕然とする。自分への抗議に対して。不純で不遜で不覚極まりない存在。編集者の名を借りた不適格者。
女史の代わり(言葉の代わり)を務めたのは彼女の方だった。
なにかあるの? いつものあなたじゃないけど?
いろいろとね。複雑だから。作家さんは。
話したいことあるんでしょう。私でよければなんでも言って。
ありがとう。こうして会ってくれるだけで充分。気が休まるわ。
いつになく殊勝なのね。
貴方、嫌じゃない? わたしと仕事していて。
どうしたの?
貴方のこと好きに使ってるから。
なにか私のことで問題でも。いいわよ、要らなくなったらいつでも言って。
そんな! なに言ってるの。逆よ。言われるのなら、それはわたしの方。
ならいいじゃない。でも要らなくなったらいつでもいいわ。遠慮なく言って。
またそんなことを! わたしが要らなくなることはあっても、貴方が要らなくなることはない。貴方に代われる人はいないわ!
疲れてるのね。
 すこしだけ。

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