2014年6月30日月曜日

[は] バッハの音を「知る」ために


はじめに 一番最近コンサートで聴いたバッハは、あるリサイタルの冒頭を飾った無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3BWV1006の「プレリュード」である。6曲からなる無伴奏ヴァイオリン作品(3曲のソナタと3曲のパルテータの計6曲)中の1曲である。室内楽作品の時代でもあるケーテン時代(171732才)‐172338歳))の作品である。

 それ以前となると、≪マタイ受難曲≫であった。マタイはこれまで何度聴いたことだろう。コンサート以外でも多くのレコード・CDを聴いた。多くのバッハ聴きにとってだけではなく作曲者自身にとっても特別な1曲だった。丁寧に浄書された総譜がそれを物語っている。同じ年の秋には、前橋汀子を聴いた。演奏活動50周年ヴァイオリン・コンサートであった。その無伴奏ヴァイオリンソナタとバルティータの演奏は、大事なバッハのCDの1点である。前橋汀子で思い出すのは、ヨーゼフ・シゲティである。彼女の恩師である。いつからバッハを聴くようになったか、はっきりと思い出せないのだが、シゲティのレコードは70年代に求めたものである。その頃(70年中頃?)には深く聴くようになっていたにちがいない。

 直接のきっかけはなかったのかもしれない。自然と聴きはじめたような気がする。バロック・ブームだったからである(皆川2006)。60年代後半から70年代前半の頃のことである。クラッシック喫茶やジャズ喫茶の全盛期で、部屋の中にいつも音楽が鳴り響いていた筆者も、その雰囲気と新譜のリクエストを愉しみに足繁く通った。筆者の場合は70年代前半である。すでに名前も覚えていないが、池袋、新宿、渋谷、お茶の水、吉祥寺、それから高円寺か中野のどちらか。ジャズ喫茶では四谷にも足を運んだ。バロック専門喫茶は中央線沿線だった。高円寺か中野かあるいは吉祥寺だったか思い出せない。真空管アンプだったことを覚えている。珈琲ブームとも重なっていた。

 もし「バッハ研究」の契機というなら、それはバロック・ブームが下火になってからであった。ヨーゼフ・シゲティがきっかけだった。「バロック」ではなかったからである。なさすぎたと言うべきか。それからは貪欲だった。もっぱらFM放送と市内の図書館(充実したレコートライブラリーを誇っていた)であったが、FM放送も充実していた。テープ録音はほとんど日課だった。今も「遺産」が塊となって傍らにある。演奏会で聴くのは、もっぱら都内のオーケストラの定期で、今から思うと本当に廉価(学生券)だった。掛け持ちで聴きまくっていた。管弦楽中心だったので必ずしもバッハというわけではなかったが。

 今回、バッハを取上げるのは例によって五十音からであるが、音楽の枠を超えた創造行為の極点だと考えていたので、常々、言語化したいと念じていた。音楽的関心ではバッハで一度西洋音楽は終わった、そうも思っていた。あまりに大きな存在すぎて、一度や二度書いたくらいでは何も分からない。音楽(史)的関心も別の機会を俟たなければならない。ここでは、バッハを聴き直すための最も基礎的な作業となる、作曲家の人生を辿ることからはじめる。目標を定めるとすれば、果たせるかは分からないが、「バッハを聴くために」ではなく、「バッハの音を『知る』ために」である。

1 加納伊都ヴァイオリン・コンサート 本牧地区センター開館25周年記念リレーコンサートPart1「音楽の夕べ」(201452日)

2 聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団《マタイ受難曲》 指揮ゲオルグ・クリスト・ビラー(トーマス・カントル:聖トーマス教会音楽監督(聖トーマス教会合唱団創立800年記念公演、2012331日)

3 前橋汀子演奏活動50周年ヴァイオリン・コンサート(20121110日)

  

Ⅰ バッハの「音」

神の具現 いきなりだが、神の具現と言った時に、人が創るものには、目で見えるものであれば教会という建築物、十字架や各種キリスト像という造形物、教会などの建造物を飾るレリーフや壁画や天井画という彫刻や絵画作品、あるいは王侯貴族の館などを飾る宗教的絵柄を描いたタペストリーがある。また書物の挿絵がある。書物を飾る場合は、目的からすれば2次的かもしれないが、単なる飾りで終わるわけではない。聖書の世界を文字とともにより高く具現するからである。文字にしてもそうである。それ自体は、言語論的には記号性に属する抽象的な存在であり、視角機能の一次性を逸脱しているが、使われた各種文字書体(イタリック文字など)は、絵画的効果を目論んだ神の具現であり一次的である。

以上に対して耳で聴く世界がある。もっとも原初的であり根源的である。声そのものであるからである。声を仲介してキリストは教えを説く。声は神の具現であった。だからヨハネ福音書もそのように語り出す。「世の始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった」(塚本虎二訳『新約聖書福音書』岩波文庫)と。声はロゴスを具現するものである。仲介するのは音である。音は感覚である。声帯を震わせ、空気を振動させて聴覚器官を刺激して身体と同化するもの、すなわち感覚の身体化である。「言葉(ロゴス)は神であった」とは、器官的に言い換えれば、音(感覚)の身体化が極限状態に達していることでもあるが、器官に意味はない。そこにあるのは魂である。すべてが魂と化すこと、キリストの声を聴くとは肉体(感覚)が魂と化すことである。音楽の原点であり、ある時代にあっては終着点である。

 すべてを超えているという。それがバッハの「音」であると言う。何故か。聖堂も聖像もそして聖画も神を具現する上で不可欠のもので、どちらか一方が優れているとか劣っているとか、相対化できるものではない。五感を越えて普遍かつ神聖な領域に属する事柄である。したがって、すべてを超えているとするのは、この場合、不遜を超えて神への不敬である。それでも(分かっていても)「すべてを超えている」としなければならないのである。そして時にはバッハ自身を神にも感じなければならないのである。


今週、神のようなバッハの『マタイ受難曲』を三度、そのたびに、おなじような測り知れぬ驚嘆の念をもって聴きました。キリスト教をすっかり忘れ去った者が、ここではほんとうに福音を聴く思いがするのです。これは、禁欲を思いおこさせることなしに意志を否定する音楽です。(ニーチェ)

 
あるいは、バッハを一つの「終局」と捉えるのである。

 
かくしてバッハは一つの終局である。彼からはなにものも発しない。いっさいがひたすら彼を目ざして進んで来たのである。(略)この天才は決して単独的精神ではなくて、総体的精神であった。われわれが畏敬の念をもってその偉大さの前に佇立する作品は、数世紀、数世代の手が加えられて完成したものである。この時代の歴史をたどってその終局が何をもたらすかを悟る者の目から見れば、この歴史は、バッハのような終局的精神が単独の個性の中に客観化され以前にたどった、生存様態の歴史となるのである。  (シュヴァイツァー)


 前世紀はじめに公にされた、浩瀚にして深淵なる記念碑的なバッハ論の著者シュヴァイツァーが言う「終局」は、ニーチェのような直截的な賛歌ではなく、音楽論的文脈を高度に語る中に発せられたものであるが、文脈を超えて「終局」とは、やはり神に言い換えられるバッハが、この世に創り出した音楽の真理に届く言葉である。ここに引いたものは、『バッハ頌』(角倉・渡辺1972)の一部にすぎないが、同書を繙けば、バッハやその音楽を神にも近い絶対的な存在と讃える言葉を見出すには事欠かない。何故にバッハはかくも特別なのか。すべては、それが「音」だったからである。

 

バッハの「音」 実際に超えているとかの次元ではなく、そう感じさせられてしまうこと、その思いを体現するにはそう(「すべてを超えている」と)言い放つしかないこと、それがその「音」への再接近を果たすことにもなっていること、この内的連環のどこも截つことができないこと――それがバッハの音を唯一無二の高みに押し上げ、同時に我々をも押し上げるのである。バッハの音を体内に容れるとは、「言葉(ロゴス)は神であった」の福音書体験であった。「音」に特化された体験(聖書体験)でさえあった。この体験が、「すべてを超えている」と言わしめるのである。言い換えれば、理性的判断をシャッアウトして全っき状態に自足させるのである。

しかし単なる言い換えではない。理性を忘却化(痴呆化)させること自体が、すでに「音」の本質でもあるからである。理性を言葉(福音書冒頭の「言葉」ではない)とするなら、言葉と互換できない、その在り方を頭ではなく体全体として感じさせる、それがバッハの音だからである。知ったのである、その時、はじめて「音」の「意味」を。本来、理性に属する範疇の「意味」を、その外で。

感動なら数多多数ある。バッハに限らない。それなのにバッハの感動とは、「意味」の裡に聴かされるそれなのである。矛盾めいているが、実に理性的なのである。それなのに理性(言葉)を容れないのである。いかなる事態であることか。ここには思考では捉え切れない超越的なものが横たわっている。それでも「言葉」との間で実現するしかないとして後ろ向きに「音」に接近しようとする。この「音」の「言葉」との在り方は、シュヴァイツァーを借りれば、「一つの終局」である。バッハに極まりとどまるのである。なぜならその後の音楽史は、「言葉」に向き合うのである。あるいは意識するのである。

                        ※
 
バッハの「音」の真理を知りながら、つまり言葉を容れないと分かっていて以下に行なおうとしているのは、詭弁を弄すれば、なぜ容れないかを探るなかに「言葉」が容れられる余地を予感するからである。譜面分析にその余地を見出せればそれに越したことはないが、門外漢の筆者には到底叶わないことである。ここに音楽家の生涯を辿るのは、生み出された楽曲の「現場」を経巡ることで、同時代的雰囲気の中に「命題」を再認識したいためである。

なお、記述に当たっては巻末引用参考文献の内、フェーリクスのバッハ論を基軸として主に磯山雅と樋口隆一の著作を参照した。引用との境目が不明瞭な箇所が散見されないでもないが、もとより門外漢の雑文である。一蹴されよう。

 

Ⅱ 音楽家バッハ誕生までの成長期

 
 1 誕生から成長まで

 
音楽家一族のなかでの誕生 ヨハン・セバッシャン・バッハ(その都度の記述の関係でJ.S.バッハ、セバッシャンほか単にバッハと呼び方は様々である)は、1685321日、中部ドイツの宮廷都市アイゼナハで生まれた。同地を含むテューリンゲン地方は、バッハ一族の本拠地だった。音楽家一族の自負心としてバッハの手で著わされた『音楽家系バッハ一族の起源』(1735年、50歳)は、年代記の体を為した音楽家の家系図で、同書には53名(男子)が掲げられている。「起源」は、ハンガリーからの移住者だった16世紀のヴィートゥス(ファイト)・バッハに遡る。パン職人だったファイトが、遠くテューリンゲン地方(ゴータ)に移住(郷里への再移住)しなければならなかったのは、カソリックの迫害を逃れるためであった。ルター派信仰者だったからである。

テューリンゲン地方は、ルター派の本拠地だった。各地から迫害を逃れて移住して来た多くのプロテスタントを同地は暖かく迎え入れた。かくして同地方にバッハ一族の起点が定められることになる。しかもファイトは、「起源」(起点)に相応しく、楽器演奏の愛好者だった。弦楽器の一種であるツィオリンゲンだったという。

 J.S.バッハは、ファイトから数えて5代目に当たるが、すでに音楽一族として音楽家と言えばバッハ一族のことを、バッハ一族と言えば音楽家である状態までに、その存在は一帯に知れ渡っていた。J.S.バッハは、5つの家系(音楽家系)からなるバッハ一族(主要家系、エアフルト家系、アルンシュタット家系、フランケン家系、マイニンゲン家系)の内、「主要家系」に位置する。一族は、定期的に一族会議を開き、枝分かれしていても結束を固め合っていた。音楽に関する各種の情報には、「音楽人事」も含まれていたという。バッハの将来にも直接間接に関与することになる。

当時、音楽家は、階層的には市民階層より一段下に見られていた。結束は、職業意識の向上だけではなく、身分的なアイデンティティの上からも要請されなければならなかった。楽聖ベートーヴェンであっても、バッハの段階では「楽匠」でしかなかった。つまり楽聖バッハではなく「楽匠バッハ」であった。しかし、自らの出自は、彼の意識に「個」を超えたものを植え付け、結果的には「音」にも表されることになった。血の繋がりとしてのバッハ一族は、彼の体内であり、一族の存在を抜きにしては将来の楽匠を輩出しえなかった。近代的な「個」の論理では解けない、はるかに多くの時間を経てきた人間の秘密事項に属する範疇である。逆に近代的個の「進歩」を疑わせる観点でもある。

 

 幼・少年期(アイゼナハ時代) J.S.バッハは、アイゼナハで父ヨハン・アンブロジウス(16451695)と母マリア・エリザーベト・レンマーヒルトとの間に8番目の子(末子)として誕生した。父親は、ヴァイオリンやトランペットを奏する、同地の町楽師兼宮廷楽師であった。アイゼナハ東方約50kmに位置するエアフルト町に生まれた父親は、アイゼハナ移住以前、同地で町楽師を勤め、エアフルトの市参事会員の娘であったマリア・エリザーベトと結婚した。彼女の家系の詳細は不明ながら、「神秘主義的な宗教的情熱をもった血筋であったという」とされ、また音楽にも造詣が深かったのではないかと推定されている(磯山・18頁)。

 ここに「アイゼナハ時代」と呼んで、後年の各時代と横並びにするのは、楽師の家庭で日常的に音楽の素養を積み、自らも「楽師」への自覚を日増しに強めていったに違いない、音楽家バッハ誕生の前提となる幼・少年期の家庭環境を重視するからだけではない。アイゼナハに生を得て同地で幼・少年期を過ごしたという、アイゼナハという外的環境を同時に場合によってはそれ以上に重視しなければならないからである。

バッハ伝では必ず取り上げられることであるが、同地がマルティン・ルター(14831546)と縁の深い地であったからである。美しい森の都アイゼナハの背後の小高い丘の上には、ワルトブルク城が聳え立っている。追放刑を受けたルターは、ザクセン選定侯フリードリヒ賢侯に匿われて、同城内で新約聖書のドイツ語訳を完成させた。それだけではなかった。アイゼナハは少年ルターが15歳から17歳にかけて学問を学んだ場所でもあった。プロテスタント(ルター派)にとっては特別な土地であり、聖地ともいうべき場所であった。それだけではなかった。聖ゲオルク教会だった。バッハが幼児洗礼を受けた聖ゲオルク教会の付属修道院校こそは、なんとも縁深いことにルターが学んだ学校でもあったのである。しかもバッハ自身も同教会付属のラテン語学校に学ぶことになる。7歳から10歳の間であった。

後に作曲家として多くの楽曲を生み出すバッハの精神の根底に流れているのは、テューリンゲン地方の伝統的なルター正統派の教義であり精神であった。いまだ幼かったバッハにとっては、ルター正統派にかかわらず宗教教義は高度な形而上学であって、精神形成と言っても教義から直接的に学ぶ神学的なものではなかったかもしれないが、その後の人生にルター所縁の地を生地としたこと、図らずもルターの「後輩」となったことは、単なる偶然に終わるわけもない、宿命的な感慨を抱かせることであったにちがいない。自らも作曲に心得のあったルターは、単に音楽に造詣が深かっただけではなく(大学では音楽理論を学んでいた)、信仰上に果たす音楽の役割を高く評価していた。さらにルター(ルター正統派)を近くに感じないわけにはいかない。バッハの「音」がそう語っているのである。

 
 2 音楽家への胎動期

 
オールドルフ時代 バッハの精神形成をさらに問えば、少年バッハにとって大きなもの、言い換えれば次ぎの精神形成の契機となったものは、両親の死である。最初は母親のエリザーベトであった。まだ9歳だった。悲しみが冷めやらぬ間もなく、翌年には父親アンブロジウスが他界してしまう。バッハと死の関係がどのように説かれているか詳しく承知しているわけではいが(磯山2010に「バッハにおける死の意味」と小見出しして語られているが)、またその「音」に直截的な死の悲しみや歎きを聴くことはないが、一気に駆け上るような上昇句やオクターブの音程への瞬時の切り上げに、我々近代人の知らない死の知覚が精神状態として具現されている事態を想定するとき、さらにその「音」の深みに慄然とさせられる思いを抱くことになる。

 それはともかく、両親を相継いで亡くしたセバッシャシは、すぐ上の兄(後に「最愛の兄」として呼ぶことになるヨハン・ヤーコブ)とともに長兄のもとに引き取られることになる。アイゼハナの南東約40kmに位置するオールドルフであった。同地で教会オルガニスト(聖ミヒャエル教会)の地位に就いていた長兄ヨハン・クリストフ(16711721)は、それ以前にはエルフルトでヨハン・パッヘルベル(16531706)の教えを受け、オルガンとチェンバロの名手として名を馳せていた。新たな赴任地オールドルフでは、「卓越せる芸術家」の賛辞(教会記録簿)を認められるほどの存在であった。名門学校として定評の高い同地の高等中学校(ラテン語学校)に通うセバッシャンは、そんな長兄のもとでその教えを受けながらさらに音楽修業に磨きをかけていく。

オールドルフ時代のエピソードとして必ず引き合いに出される写譜の一件がある。教えられるだけでは飽き足らなかったセバッシャンは、望んでも秘匿状態を解こうとしない長兄が所有する楽譜帳を、深夜長兄の目を盗んで密かに筆写し続けた。半年をかけて写し終えたはいいが、運悪く長兄の露見するところとなってしまう。そのまま取上げられて返されることのなかった写譜帳が、その後セバッシャンの手許に戻ったのは、長兄亡き後のことであった。楽譜帳は一流作曲家たちのクラヴィーア曲集だった。後代のモーツァルトではないが、一度聴いたら忘れない音感を保持していたに違いない。取り上がられてしまっても、写譜行為を通じてすでに自分のものにしていたはずである。南ドイツ楽派と呼ばれるフローベルガー、ケルル、そして長兄の師でもあったパッヘルベルなどの作品の楽譜帳であった。

 音楽教育にも重きを置いていた学校だったが(週45時間)、なによりもルター正統派の宗教教育に徹した学校だった。最優秀に近い成績で同学校を卒業したセバッシャンにとって、様々なカリキュラムのなかでもその中心をなすルター正統派の代表的教則本である『神学提要』(ヴィッテンベルクの神学者レーオンハルト・フッター著、初版1610年)の教義に深く触れたことは、生涯に亘る深い信仰心を育む上に、同ラテン語学校は最高の教育環境であったことを教えている。バッハの遺産目録の筆頭に掲げられていたのは、よく知られたことであるが、三巻本からなるルター訳聖書の注釈書(神学教授アーブラハム・カーロフ、1681年)であった。ルター正統派を生涯の精神生活の礎としていたことのなによりの証である。

 

 リューネブルク時代 5年を長兄のもとで過ごしたセバッシャンは、長兄の住まいが手狭になったこともあり(新しい子供の誕生)、オールドルフを離れ、北に300km離れた北ドイツのハンザ同盟の都市リューネブルクを親友と共に目指すことになる。1700315日であった。同地の聖ミカエル教会の「朝課合唱隊」の隊員に採用されたからである。すでにオールドルフでもその美声を町中に響かせていたセバッシャンは、美しいボーイソプラノであった。聖ミカエル教会の付属学校(ミカエル学校)では、給与支給生として学ぶこともできた。しかし少年バッハには変声期が近づいていた。ここに来て、アイゼハナの父の許で習い覚えた弦楽器(ヴァイオリン)あるいは長兄の許でその腕前に磨きのかかったクラヴィーアの演奏技術が役立つことになる。その腕を恃まれて、引き続き給与支給生の立場が継続されることになる。そう考えられている。

 リューネブルク時代は約3年間であった。年齢にすると1517歳の多感な時期である。オールドルフでの生活が、それ以前とは別な意味で精神的基盤に大きく寄与した期間(時代)であるとすれば、故郷を遠く離れたこの北ドイツの地が果たしたのは、より直接的に音楽家(作曲家)J.S.バッハを生む、バッハの音楽的思索に刺戟を与え続けた3年間であったことである。自らが演奏に参加する演奏者体験だけではなく、それ以上に大家の演奏に直に接する機会が持てた聴衆者体験であった。リューネブルクを含む北ドイツの地は、音楽史によれば、「北ドイツのオルガン楽派」(北ドイツ楽派)と呼ばれる、その源をアルステムダムのオルガニスト、ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(15621621)に負っている一派で、その系列は、北ドイツの各地でオルガニストの地位に就いた彼のドイツ人弟子たちに始まる(クライン1983)。

リューネブルク時代のセバッシャンは、同地を起点に北のハンブルグや南のツェレに出向いている。ハンブルグにはスウェーリンクの孫弟子に当たるヤン・アダムス・ラインケン(16231722)がいて、その即興演奏で「音楽学徒」セバッシャンを虜にさせた。ツェレでは、最新のフランス音楽に接する貴重な機会を得ていた。知己を通じてフランス人音楽家を主に編成されたツェレ宮廷楽団に出入りできたようなのである。まだ目新しかった「フランス様式」である。新しい音楽の摂取は後に大きく開花することになる。また滞在地リューネブルクには、ゲオルグ・ベーム(16611733)がいた。

ベームは、セバッシャンと同じテューリンゲン地方出身であった。それもオールドルフ近在のオーエンキルヒェンの出であった。「彼(ベーム、注)が同郷の後輩J.S.バッハのオルガン修業のめんどうを見、その音楽的成長に貢献したことは、想像に難くない」(フェーリクス・34頁)とされている。セバッシャンはながくベームを高く評価していたというが、「このテユーリンゲン出身のオルガニストの音楽は、北ドイツのオルガン技法と中部ドイツのオルガン技法との中間的位置を代表するものだった」(クライン・193頁)とされていることからすると、若きセバッシャンは、そこに将来の自分を重ね合わせていたのではないかとも想像される。

あらゆるもの吸収し新たに自分の「音」にしてしまう才能は、最新の音楽に直接触れる体験だけで終わるものではなかった。膨大な各種筆写譜が取りそろえられていた聖ミハエル教会の図書館が身近にあったからである。この最も身近な図書館蔵書筆写譜との日々を含めて、リューネブルク時代と呼ぶに相応しい音楽体験の数々であった。「かくしてリューネブルクは、若きバッハの音楽修業上の大学時代と称して差し支えないであろう」(クライン・194頁)と語られる所以である。食い入るように筆写譜に見入る姿は、長兄の家での一見を、今度は制約のない音楽修業生の姿として思い浮かべることになる。

この「大学時代」という表現には、暗喩的な裏の意味も隠されていると推測されるが(後述)、音楽家への胎動の締めくくりを飾るに相応しい表現として捉える。実際、最古の作品は、このリューネブルク時代のものとされている。

  

 Ⅲ 音楽家の初期~「オルガン時代」~

 1 アルンシュタット時代

 
最初の楽師生活 次ぎのミュールハウゼン時代と合わせアルンシュタット時代は「オルガン時代」であった。ただし18歳を迎えた年の3月から9月までの半年間、一時的に宮廷楽師(ヴァイオリンないしヴィオラ奏者)として最初の音楽家生活が開始された。ザクセン=ワイマールのヨハン・エルンスト侯のもとであった。応募していたオルガニストの選考結果が不調に終ってしまったからである。故郷テューリンゲンのザンガーハウゼン(ヘンデルの生地ハレ近郊の町)のヤーコビ教会のオルガニストの地位であった。結果として落選したが、それは実力上のことではなかった。試験演奏に感銘を受けた議会全員がバッハを推薦していたところへ、権力者が別の人物(身内のオルガニスト)を推してきたためであった。

ワイマールとの関係は、その後重要な一時代を築くことになるので、音楽家の開始が同地であったことにはなにか因縁めいたものがあるが、最初の楽師生活の期間(半年間)は、より自分に相応しい地位を得るための一時凌ぎ的なものであった。実際、その機会は早々に訪れてくることになる。その年(1703年)の7月であった。そしてその場所がオールドルフ近郊のアルンシュタットであった。同地の新教会オルガンの試奏者(試験演奏者)として招かれたのである。試奏者とは検定者のことでもある。建造したオルガンが注文通り仕上がっているかを、名の通ったオルガニストに試してもらうのである。

 

オルガン時代の幕開と軋轢 二人のオルガニストがこの任に指名される。一人がバッハだった。学校出たての若干18歳の身であることを考えると、〝大抜擢〟に違いないから、冒頭の「音楽家一族」の「人事力(根回し)」のほどが思い起こされるところであるが、それに見事に応えて見せるだけではなく、それ以上の技量で人々(市参事会員)に強い印象を残すことになったのである。その結果が、試奏1か月後の新教会オルガニストへの任命として現われることになる。

新教会とは現バッハ教会のことである。任命日は170389日であった。給与は俸給50グルデンほか計85グルデンであった。高給であるという。しかも自身で試奏したオルガンのオルガニストへの任命である。いやがうえにも気持ちが高ぶったに違いない。まさしく「オルガン時代」に相応しい幕開け(就任)であった。「オルガニストの春」なる章題を付したバッハ伝(樋口1985)は、その思いを詩情豊かに表したものである。

結果としてのアルシュタット時代は、高揚した気分とは逆の結果として返ってくることになってしまうが、そこには、求める「音」に妥協しない自分を見出した高い精神が、確固として内面的に定着され、たとえ軋轢を起こしても音楽の前に妥協しない、終生の在り方となる社会生活の幕開けでもあった。

職務関係は、教会合唱隊の新曲練習(ただし任命書記載外)があった。質の低さがバッハの癇癪を誘発させたのである。終には生徒との立ち回りを演じるほどの騒動になってしまう。これ自体は(意外とは言え)、個人の気質を窺わせ程度の事件であったかもしれないが、大本には「音」に対する厳しさがあったわけであるから、求める「音」から無関係なわけではなかった。直接的な「音」問題は、演奏内容による教会や市参事会との軋轢として現れる。北ドイツ楽派から受けた刺戟のもとで鳴らされていた演奏内容だった。彼等にとっては好ましくない[音]だったのである。

 

リューベックへの旅 その軋轢が、具体的な形となってバッハの気持ちをアルシュタットから遠ざけることになる。きっかけとなったのは、再訪した北ドイツ旅行の顛末であった。騒動のあった年(1705年)の10月末、4週間の研修旅行を許可条件にしてリューベック(北に四百数十キロ)に旅立つが、それが無断で約4倍の16週間にまで引き延ばされてしまう。しかも立ち戻ったバッハには悪びれるところもない。実に確信犯的であった。加えてそれ以後の演奏と言えば、さらに彼らの理解を阻む混沌としたもので、場合によっては挑戦的でさえあった。

長引いてしまったのは、リューベックで聖マリア教会のオルガニストであった巨匠ディートリヒ・ブクステフーデ(16371707)の演奏に直に接するためであった。ブクステフーデは、上掲アルステムダムのオルガニスト、スウェーリンクの「孫弟子」に当たる北ドイツ楽派の中心人物の一人であり、当時の教会音楽の第一人者だった。彼が中心となって開催していた音楽活動に「夕べの音楽」があった。バッハの滞在を長引かせる要因でもあった。リューベックでの音楽的刺激の現れであるという、よく知られた有名なオルガン曲《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565でバッハがその地に何を聴いたかは明らである。ブクステフーデ(とその楽派の様式的特徴)として説明されるなかに、「一面では記念碑的な壮麗さへの傾向を示しながら、半面、あてもなくさ迷い歩く幻想的なものへの傾斜をも示している」(クライン・193頁)とされるくだりがある。まさに《トッカータとフーガニ短調》そのものである。

帰郷後の審問と喚問はバッハに辞職を求めるものではなかったが、すでにバッハの心はアルシュタットを離れていた。宗務局の要請(合唱隊の訓練と合唱隊を使った器楽曲との多声音楽の実演など)に応ずる気持も失せていた。喚問を受けた約1か月後(1706125日)、テューリンゲン地方で一人の有名な音楽家が亡くなった。ミュールハウゼンのヨーハン・ゲオルグ・アーレであった。翌年春(復活節)、バッハは試験演奏に臨んだ。約2か月後、市参事会とバッハとの間で折衝が行なわれる。両者は合意点に達し、翌日(615日)聖ブラジウス教会のオルガニストへの任命となる。

 

妻との出会い 任地としては好ましいものではなかったと言え、アルシュタットでは一人の女性と出会うことができた。実は女性との出会いも、当初は喚問理由の一つでさえあった。「ごく最近、素姓の知れぬ女性を合唱隊に立ち入らせ、演奏させたのか」(宗務局)。教会演奏に女性の演奏はご法度だった(まだ一般化していなかった)。バッハの答えは、事前に断ってあったはずだけで終えられてしまう。

ますます宗務局の反感を募らせたのだろうが、問題外であった。その女性こそは、最初の妻となるマリア・バルバラ・バッハだったからである。遠縁の従姉に当たる女性で父親(ヨハン・ミヒャエル・バッハ)はゲーレンのオルガニストだった。1年後、アルシュタット近郊のドルハイムの村の小さな教会で二人は結婚する。作曲家としての自信を深めることができ、最愛の伴侶とも知り合うことができたことで、アルシュタット時代は、バッハの音楽人生にとっておおきな分岐点となるものであった。

 

最初期の作品 なお、この時代の作曲の稔りとして記しておけば、オルガン曲に加えクラヴィーアにも最初期を飾る作品がある。二つの《カプリッチオ》である。ともに深い兄弟愛を前提にして作曲されたものである。一曲は父の亡き後、オールドルフの長兄の許への転居を共にした、すぐ上の兄ヤーコプの旅立ちに寄せた《カプリッチオ 変ロ長調》BWV992。ヤーコプは、スウェーデン国王の近衛兵兼オーボエ奏者として赴任することになったのである。もう一曲は、そのヤーコプと自分を育ててくれた、音楽家としても尊敬していた長兄クリストフへの敬意を表明するものとして著わされた《カプリッチオ ホ長調》BWV993

ともに演奏時間10分程度の小品で、前者に関しては、「兄弟愛の想いを心象風景的な標題音楽に封じこめた」(フェーリクス・45頁)と評されるが、そこから「心象風景」がさらに複雑な「精神風景」として展開していく起点にあるかと思うと、小粒の音にも中間部の抒情性に溢れるアダージシモを中心にして、若きバッハの味わい深い響きを聴き取ることができる。佳品である。

 

2 ミュールハウゼン時代

宗教対立 新天地を得たかのように思われたが、ミュールハウゼンで過ごした期間はわずか1年足らずに終ってしまう。オルガン改造のために建議書を認めたほどであったから、バッハとすれば改造のよって機能を向上させたオルガンであらたな作曲を試みるつもりであった。しかし、改造の終了を見ないままに辞職願いが出されてしまう。宗教的な対立が原因だったのだろうと解されている。

バッハが職務上所属していたのは、敬虔派と呼ばれる、華麗に過ぎる教会音楽に否定的な立場に立っていた聖ブラジウス教会の牧師ヨハン・アドルフ・フローネであったが、ミュールハウゼンには、ルター正統派の教義に立つ聖マリア教会の牧師クリスティン・アルイマーがいた。詳細は不明のようだが、音楽を重視するルター正統派に精神的在り処を強く保つバッハが、アルイマー牧師に近づいたことは自然なことで、そのことによりフローネ牧師との間に溝ができたことも想像に難くない。そのことを暗示するのが、バッハが提出した解任願い(最古の真筆文書という)であり、そのなかで「整備された教会音楽を神の栄光のために」追求したいとする、音楽的信念が唱えられている。敬虔派の上司のもとでの立場の難しさ(微妙さ)を暗に表明しているとも解釈されている。

両派の対立はミュールハウゼンに限ったことではないので、直接の理由は、結婚によって嵩んだ家計を賄うには不足気味の待遇面(給与)にあったのではないかとする解釈もある。ワイマールは倍の報酬を提示してきたからである。いずれであるにしても、バッハにしても予定外の短さであったに違いない。一時的な腰掛でなかったことは、オルガン改造にかかる建議書の件だけでなく、この時代が、バッハの重要なレパートーリとなるカンタータの黎明期に位置付けられ、後の「カンタータ時代」とも言えるワイマール時代の胚胎期であることからも肯われる。

 

カンタータの作曲 カンタータの作曲は着任直後から開始された模様である。聖マリア教会のアルイマー牧師の要請によるものだった。着任直前の5月、大火に見舞われ全体の四分の一にも当たる多数の家屋が焼失したミューズハウゼンでは、多くの住人が住処や家財を失っていた。礼拝が企図されたのである。着任月の7月だった。その礼拝時のカンタータが、《深い淵から、主よ、私はあなたに呼びかけます》BWV131であった。厳かで傷みに響く「音」は、歎きの底から主の導きによって再起に向けて面を上げていく、静かで力強い調べに貫かれている。深い信仰心に基づく一曲である。

アルシュテット時代の記念となるカンタータは、就任7か月後の市参事会員交代式(170824日)のために用意された、《神は私の王》BWV71である。管弦楽にティンパニーを加えた4声の独唱と合唱からなる編成は、交代式に相応しい豪華な規模で、それに見合った、前途を祝した輝きある金管の壮麗な響きのなかに曲を締めくくるが、途中の楽章には、前任者の功績に対する神の祝福ほか、心に届く静かな調べが参集者の平安を誘っている。

市参事会による高い評価は、歌詞と共にパート譜も印刷出版する運びとなった。印刷楽譜が稀な当時としては異例の措置であった。バッハにとっても生前刊行された唯一のカンタータ楽譜であった。後にカンタータに数々の高峰を聳え立たせるバッハ(時に23歳)に相応しい、ミュールハウゼン時代を象徴する輝かしい業績であり記念碑であった。

 

Ⅳ 音楽家の中期~「宗教曲・室内楽時代」~

 1 ワイマール時代 

 再びの宮廷音楽生活 当初の一時的な宮廷での音楽生活(ワイマール初期1703年の3か月間)を除けば、それ以後バッハが所属していたのは、市参事会の許で契約された市民社会のなかでの音楽であった。音楽家の後期の段階になって再び市民社会のなかの音楽活動に戻るが、ここに再度のワイマール時代を迎えて、1723年に至るまでの15年に及ぶ宮廷音楽家の幕が切って落されることになる。

就任先の違いは、即音楽に質的変化を要求する外圧となるわけではなかったが、所属先の違いは、時として楽曲のジャンル上の制約を伴うことになった。とくにはケーテン時代の作曲であるが、今はまだワイマール時代のそれも前期である。立場は宮廷オルガニスト兼宮廷楽師であった。従前のオルガニストに加え楽師(器楽奏者)が新たに付け加わることになる。音楽活動の拡大化としてあらたな楽曲を生み出していくことになる。

 ワイマールを首都としたザクセン=ワイマール公国は、プロイセン王国(首都ベルリン)やザクセン選帝公国(同ドレスデン)などと較べると政治的にも軍事的にも弱体の小国家であったが、バッハが使えヴェルヘルム・エルンスト公は音楽を重んじ、宮廷楽団の向上にも力を注いでいた。バッハ就任期間中のその規模は、楽師15人を数えるものであった。その数7名を数える宮廷関係のトランペットとティンパニー奏者は、必要に応じて宮廷楽団の補助演奏者の役を果たした。市専属楽師からの助演もあった。バッハ就任に遡る10年程前にはオペラ劇場が城内(ヴァイルヘルム城)に設けられていた。「幾年かにわたって」と但し書きされているが、ワイマールは「ドイツ・オペラの育成に力を注いだ数少ない宮廷の仲間入りをすることになった」(フェーリクス・60頁)ほどの音楽環境を誇っていたのであった。

 

充実した音楽生活 以上の就任環境からみても、高給で向かい入れられたバッハに対する期待は最初から高いものであったことが想像されるが、エルンスト公の期待に応えたに違いない証拠に、バッハの報酬は年を追うごとに上昇し、それは地位の向上ともなって表われ就任後6年の1714年には副楽長に次ぐ地位相当の楽師長に任命されることとなる。充実した音楽環境と満足のいく処遇は、バッハの音楽活動の手助けになることはあってもマイナスになることがあるわけはない。それだけではなかった。あらたな交友関係がさらにバッハを創作的刺激のなかに導いていく。一人は市の教会オルガニストに就任したヨーハン・ゴットフリート・ヴァルターの存在であった。同じオルガニストの立場を同じくするだけでなく、家系的にも遠縁の従姉に当たっており、バッハ一族を構成するエアハルト家系のヨハン・バルンハルト・バッハの弟子でもあった。音楽的にもバッハを刺激して止まない豊かな才能を抱えていた。

二人の関係は実作上にも共通項を抱えていた。ヴァルターが教師を勤めていたヨハン・エルンスト公子であった。バッハも教師を勤めたのではないかと想定されているエルンスト公子は、演奏だけでなく作曲も手がけるほどの豊かな音楽的才能の持ち主だった。留学によって最新の音楽的情報も身につけていた。その公子が属する「赤の館」(かつての雇い主エルンスト・アウグスト公の館。エルンスト公子はアウグスト公の異母弟)では、公子の音楽的才を彩るかのような各種の室内楽の催しが行なわれていた。イタリア様式に触れきっかけとなったこの「音楽界」は、ヴィヴァルディの音楽を学ぶ場をバッハに提供することとなる。その成果をバッハは、エルンスト公子の求めよる鍵盤楽器用編曲として形に表すが、ヴィヴァルディの協奏曲を原曲とした編曲が含まれていたからである。こうした自らの編曲を含む宮廷音楽会で学んだものは、「ドイツの伝統に立つ作品が伝えてくれなかった、軽やかな典雅さ、自然で無理のない感情の動き、器楽的名人芸の自在さ」(フェーリクス・68頁)であった。

次ぎに掲げなければならない人物は、職務上とも関係する二人の「台本作者」であった。バッハが所属する宮廷の宮廷詩人ザーロモン・フランクと同城内教会の牧師エートルマン・ノイマイスターであった。両者との関係が重要なのは、楽師長への昇進(17143月)によって、カンタータの作曲が大きな職務の一つに加えられるようになったからであった。城内教会での定期的なカンタータの上演(4週に一曲ずつ)が義務付けられたからである。とくに後者ノイマイスター牧師は、旧来型の台本(聖句とコラールによる台本)にあらたにレシタティーヴォとアリアを組み込んだより劇的なものにした、音楽史的にも重大な改革者だった。終には人跡未踏の域ともいえる宗教曲が生れていく上で、直接的な契機となる接触であった。

 

拘禁事件 以上のように順風満帆であったかのようなワイマールでの生活も(それには子供の誕生を含めた家庭的な幸せも加算されていたが)、ある出来事をきっかけにして暗欝な思いの中でピリオドを打たせることになる。直接的には思いに反して宮廷楽長に昇進できなかったからである。副楽長と同等の地位とされた楽師長に就いた時点で、現任楽長のヨハン・ザムエル・ドレーゼは、体調不良ですでにその職務を十分果たすことができなくなっていた。楽師長への就任は、将来の楽長就任の布石であった。すくなくともバッハはそう考えていた。2年後(171612月)楽長がこの世を去った。次に楽長に就いたのは、しかしバッハではなかった。亡くなった楽長の息子ヨハン・ヴィルヘルム・ドレーゼだった。彼は現任副楽長であったが、バッハは自分がなるものと考えていた。ケーテンに移る決意が早々に固められたのも、主君の決定が不満なだけではなく、なによりも音楽家としての自尊心を深く傷つけられたからだった。 

しかし、ケーテン宮廷への就任が簡単に進まなかった点にその間の事情がよく表れているように、今回はバッハにも責められる部分がなかったわけではない。勝手に話(ケーテン宮廷楽団の楽長への就任)を決めてしまったからである。解任を願い出たバッハを領主は逮捕拘禁してしまう。表向きは恭順を欠くからであったが、その背景には日頃の領主(雇主)への不遜な振る舞いがあったためであった。

領主とすれば、楽師長就任もバッハを自分の許に繋ぎとめておきたいためであった。その時もハレの教会オルガニストに就こうとしていたからである。バッハが必要だったのである。それが今回は二度目であった。しかし単なる嫌がらせであったわけではない。拘禁にまで出るにはそれなり理由があった。

バッハがその館に出向いて行って音楽活動を共にしていた「赤の館」のエルンスト公とバッハの雇い主のヴェルヘルム・エルンスト公とは気質的に反目関係にあった。分かっていて館詣でを止めない、神経に障る振る舞いにもそれまでは目をつぶっていた領主も、今回は許しがたかったのである。息子ドレーゼの楽長決定も熟慮の末だった。3代に亘って仕えてくれたドレーゼ家への領主としての配慮(倫理的配慮)であった。結局、拘禁は1か月足らずで解かれ、ケーテンへの転出が決定された(許された)。

 

バッハの人格 以上の顛末が教えてくれるのは、バッハの人格である。結果として相手(ここでは領主)を逆撫ですることになってしまったのも、卑俗な次元で捉えられるようなことではなかったからである。すべてはバッハの楽曲が物語っている。とりわけエルンスト公の「赤の館」詣でがあってはじめて可能となった一群の鍵盤作品がそうである。すべては音楽のためであった。仕えているのは領主なく「音楽」だった。「音楽」の先には神の存在があったからである。それが時に雇い主への不敬的な行ないとして表れてしまったとしても、かえってバッハの音楽的な人格を高めるだけである。その人格は、最初から「地上」に在ったのではない。「はじめに言葉ありき」のように「はじめに音楽ありき」であった。音楽が地上で偶々採った姿がバッハだった。「地上」にあったのではない、の意味であるが、バッハの「音」の深淵を窺わせるエクリチュールでもある。

 
 ケーテンに移らなくても多くの楽曲が高く創り出されていたに違いないが、その転出が我々にもたらしてくれたものはと問えば、それは輝かしい室内楽群の誕生だった。ケーテンへの転出は、音楽の歴史の上から言ってもやはり必要なことであった。拘禁を解いたヴィルヘルム公に挙げて感謝すべきなのである。


 
2 ケーテン時代

新しい職務 宮廷や教会などに属する必要ない、自由な立場を音楽家が勝ち取った時代から見ると、前提を帰属先に置かなければならない立場に対して、一見、高い創造性を手にしているかのように見がちである。バッハを聴くとは創造性の新しい発見である。しかも時間軸としてバッハが先行していることを如何に受け止めるべきか。バッハが突き付ける本質的な創作論である。

ケーテン宮廷レオポルト公は、ワイマール時代(前期)のヨハン・エルンスト公子と同じように音楽修業を積んだ高い技量を身につけていた、音楽愛好者を上回る「音楽家」だった。バッハへの態度も雇主を離れた親密なものであった。偏にバッハへの敬愛がなせる業であった。与えられた宮廷内の立場も、宮内大臣に次ぐ最高位だった。しかし、レオポルト公がバッハに求めたものは、バッハのこれまでの音楽的経歴から見れば、必ずしも本道に沿ったとは言えないものだった。教会音楽を欠くからであった。

伝統的に改革派であったケーテン宮廷を承けてレオポルト公も改革派であった。礼拝における音楽の役割は、ルター正統派とは対極的だった。教会音楽家バッハが活躍する場はなかった。合唱隊もなかった。かりにオルガニストの才能を発揮するにしても、これまでのような高い機能を備えたオルガンはなかった。バッハに求められたのは、宮廷にかかる各種の行事(祝典、祝賀、来賓歓迎など)や社交・座興のための音楽(室内楽)であった。ワイマール時代と比較すれば、雇主(領主)から白い目で見られていた「赤の館」での音楽範疇であった。しかし、ここでもバッハの音楽がすべてを物語ることになる。「順位」に意味はなかったからである。

 

音楽の内因 外因が内因になる、転化する。それがバッハの創造性であった。バッハだけではなく、当時の、またそれまでの在り方であった。おそらく外因や内因を意味ありげに掲げるのは、近代的内面による習性である。外因であるものが内因であり、内因であるものが外因である、それがバッハの内面であった。生存的条件(ここでは社会的秩序)が自己の発動に優先する時代に生きる人間存在の可能性は、アプローチの仕方からはじまって未読状態に置かれている。

しかし、それでも死は特別なものであった。外因・内因の問いを超えている。妻バルバラの死であった。何の前触れもなく突然に訪れた最愛の妻の死だった。しかもバッハは家を留守にしていた。領主のお共を務めて遠く保養地に出張中していたからである。バッハが妻の死を知ったのは帰還後であった。知らされた時にはすでに埋葬も済まされていた。1720年のことであった。

その年の年代表記をもつ弦楽独奏曲に6曲の無伴奏チェロ組曲がある。同じ6曲からなる無伴奏ヴィオリン曲(ソナタ3曲、バルティータ3曲)も、年代表記は欠くが、同じ思いの中で一連のものとして作曲されたと考えられている。死(身内の死)は、おそらく時代を超越して最初から内因化している。かりに1720年であったとしても、妻の死の後か確証はない。楽曲自体にしても、死を傍らにして響き渡るというより死を超えた高みに響いていて、そこにあるのはむしろ「無」の領域である。だからその「音」は、後とするのが自然でも、そのことを超えてただならぬ響きであり続け、妻の死の前か後かは直接に関係ないことになる。

それだけにかえってその心性を畏れなければならいことになる。なにが彼に死を超えた「音」を生み出させたのか、身辺の死を契機とする問い方自体までが揺らぐ。かりに契機でなかったとすれば、それは「死」が「肉体の死」に限られていたからである。悲しみを支配するのは、「肉」に発する生理的な慟哭である。生身のバッハは、その死に嗚咽をもって応じたかもしれない。そうだったに違いない。あまりに突然だったからだ。しかし、一端手にしたペン先から生まれる「音」の段階になると違う。楽譜と向かい合うバッハは、すでに「肉」から離れ、慟哭に支配されることもない。肉体を超えている「死」を思い描かなければならないのである。バッハとは何者なのか。しかし今はこれ以上問うまい。

 

オルガンの即興演奏 ケーテン時代のエピソードで印象的なのは、宮廷生活のなかでは十分に果たせなかったオルガン演奏の一件である。妻の死の年の1720年晩秋(死から数か月後)、バッハはハンブルクに赴く。オルガニスト(聖ヤコブ教会)の応募のためであった。妻の死からの逃避であったかもしれない。結局、現雇主の誕生日の準備ために試験演奏前に立ち戻らなければならないのであるが、それに先立って披露演奏とでもいうべき演奏がさる教会のさる人物の前で果たされた。それがエピソードの眼目である。さる教会とは聖カタリナ教会であり、さる人物とはライケンのことであった。北ドイツの地リューネブルクで学んでいた日、若きバッハが、その教会の、その演奏にのまれた、あの聖カタリナ教会であり、同教会オルガニストのライケンであったのである。

ライケンはすでに97歳の高齢に達していた。他人の演奏を褒めるどころか、その嫉妬深さ故に相手を貶すのを厭わないことで知られていたライネンだった。会衆の求めに応じて行なわれた即興的演奏(30分)と合わせて、2時間半にも及んだ演奏を聴いたライケンは、こう語りかけてバッハへの賛辞を惜しまなかったのである。「この芸術は死に耐えたと思っていたのだが、どうして、それはあなたの中に生き続けていることを、いま目のあたりに拝見した」(『故人略伝』(『J..バッハを追悼する故人略伝』1754年、ライプツィヒ))と。ライネンが言う「この芸術」とは、即興演奏(ある主題(コラール「バビロン川のほとりにて」)をもとにした即興演奏)のことであった。ライネンには同じ主題で作られた《コラール幻想曲》があり、彼のその作品は世によく知られていたのである。

バッハは、いったいどのように鳴り響かせ、会場を感動の坩堝と化したのであろうか。ライケンをはじめ北ドイツの地で受けた音楽的刺激は、《トッカータとフーガ ニ単調》のような濃密かつ鋭利な響きとなって結実した。それから約15年が経っていた。ワイマールでは、オルガン曲の大半を作曲した。なにがライケンの心を衝き動かしたのだろう。隙間なく続く手鍵盤のめくるめく上昇、あるいは一気に流れ下る下降と、分断的な和音や半音階の襞が繰りひろげる、時に混濁的な響き。気分の高まりだけではない、反対概念を誘発するその調べ。その後の音楽家と比べて、作曲行為がいまだ孤立的に高められていなかった、演奏行為と相対化(あるいは一体化)されがちであった時代。市参事会の会衆が聴いたものと違うものを「作曲家」ライケンは聴いていたのであろうか。バッハに対する同時代評価の在り方の一面を物語るエピソードでもある。

 

二つの結婚 ハンブルグから立ち戻ったバッハは、翌年の末(1721123日)、新しい妻を迎える。アンナ・マクダレーナ・ヴィルケルである。16歳離れた20歳の年若い妻であった。ケーテン宮廷にはその一週間後、もう一つの婚礼の儀が執り行われる。レオポール侯の婚儀である。

バッハの新しい妻は、近隣の宮廷でその美声を張り上げていた宮廷歌手(ソプラノ)であり、父親も宮廷トランペット奏者であった。アンナ・マクダレーナは終生にわたって夫の良き理解者であるとともに、協力者としても夫の写譜を行ない、次第にその書体はバッハに近いものになった。バッハには結婚直後から妻のために書いた鍵盤楽曲がある。有名な《アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳(クラヴィーア小曲集)第1集》(172224年)、同2集(1725年-)である。教育者バッハの一面を窺わせるシリーズながら、妻マクダレーナがバッハの音楽的契機(刺戟)になっていたことを暗示する作品でもある。

しかし、レオポール侯の結婚の方は、逆の結果となって表れ、最終的にはバッハがケーテンを去る要因にもなってしまう。妃の音楽嫌い(「音楽の無理解者」(バッハの弁))である。宮廷楽団の予算削減や人員削減となっても表れた。レオポール侯自体の音楽熱も次第に冷め気味になっていく。それから約1年半後の172355日、ライプヒィツのトマス・カントル就任が決定され、バッハはケーテンを後にすることになる。

 

充実した室内楽作品 ケーテンを後にするに当たって、その前にこの間に作曲された上掲以外の楽曲を、協奏曲、器楽曲の順に一瞥しておきたい。ただし、年代表記などのある幾つかを除けば、室内楽だからと言って安易にケーテン時代と決められてよいわけではない。日々研究が進展している模様である。従来、ケーテン時代と考えられていたものでもワイマール時代に遡るもの、逆にライプヒィツに下るものがあるとされる。バッハの「音」の理解には、帰属時代を知ることは重要である。その音楽に「人生」が見えないことが、逆に「人生」を知ることを促し、どの程度に見えないかが楽曲の理解を促すからである。ここでケーテン時代とするのは、作曲年代の異動をカバーできる「バッハ中期」と同義である。

協奏曲と言えば、最も有名な《ブランデンブルグ協奏曲》(さまざまな楽器による六つの協奏曲)BWV10461050がある。ブランデンブルグ辺境伯クリスチャン・ルートヴィヒへの献辞には献呈年(1721年)が記されている。副題にあるように多様な楽器(トランペット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、横笛フルート、チェンバロ)にソロ的な役割をつとめさせた多彩な響きで知られている。独奏的楽器が奏でる「音」との邂逅は、まるで旅先の宿に自分の部屋を求めて、まだ知らない室内を一部屋ずつ確かめる時の足取りに似ている。その先に待ち構える未知が浮かべる気配が特徴的なのである。同じ思いに浸り続けられないからである。したがって心地良さとも一線を画している。むしろ事実としては、目まぐるしい追い求めである点が、目覚め続けなければならない聴覚作用を、いまだ定まらない一室から扉の先に押しひろげ、特定の一室であるより、宿全体の設えに行き渡せているのである。

その点、単一の独奏楽器による協奏曲の場合は、部屋割が固定的である。2曲の《ヴァイオリン協奏曲》(BWV104142)と《二つのヴァイオリンのための協奏曲》(BWV1043)の場合がそうである。旅先でも構わないが、その場合は、《ブランデンブルグ協奏曲》とは違って、見知った親しい宿である。部屋割に浮かぶ佇まいとしても、最適となるのは自室の場合である。単一楽器だからかもしれないし、長調のみのブランデンブルグ協奏曲に対して、3曲中2曲が短調だからかもしれない。父親がヴァイオリン奏者だったこともあり、幼い時からヴァイオリンの音に親しんでいたバッハは、みずからもヴァイオリン楽師として宮廷生活を送ったことがあった。その意味でも自身を含めた身内の「音」なのである。その点で《無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ》(BWV100106)は、身内の「音」の究極ないし超越である。したがって同じヴァイオリンとは言え、同じ文脈から語ることはできない。そもそも文脈それ自体が、ヴァイオリンの所与の条件を超えているからである。

 

バッハと鍵盤楽器 バッハにとって楽器とはなんであったのか、そう考えさせられるのが、鍵盤楽器とバッハの関係である。ただしオルガンを除くクラヴィーア(チェンバロ、クラヴィコード)の場合である。アンチ・ピアノであるその響きは、伸びやかな音を奏でられる弦楽器とりわけヴァイオリンとは対極的である。ケーテン時代の重要な鍵盤楽器の作品である《平均律クラヴィーア曲集第1集》BWV84669や《インヴェンションとシンフォニア》BWV772801を聴くとき、後のライプツィヒ時代の同《第2集》や《ゴルトベルク変奏曲》などと合わせ、異なる楽器の響きのなかに身を置くバッハが、その「音」の内声に何を求めるのかを、異質な調べを一身に受け止める際の一個の仕組みとして疑う。自己表出の在り処をより見えなくしているからである。クラヴィーア独特の粒立ち気味の一音の、しかし連珠のごとき連なりになにを聴きとろうとしているのか、自分としての態度にも疑いが向けられることになる。

ヴァイオリンなどの弦楽器の時と比べると、必ずしも聴こうとしていない態度なのである。「音」を流れとしてではなく連なりとして聴こうとする態度が、ヴァイオリン曲の場合とは違う「思考」を要請するのである。その結果が二人のバッハを創るのではなく一人のバッハをも創らないのである。個体に立ち還らない「音」を、われわれは留めおくべき身体を知らずには定位することができない。「音」が開始される以前に一つのものであった身体が失われてしまっている。我々は我々でまた自分を創らないのである。託ければ、「言葉」を容れられないためでもある。

 
 

Ⅴ 音楽家の後・晩期~すべてはこの時のために~

 1 ライブツィヒ時代(前期)

難航したカントル選任 従前とは違ってライブツィヒのトマス・カントルへの就任は、オンリー・ワンとして選ばれて着任したわけではなかった。トマス・カントルの職が特別のもの(ドイツ音楽界の頂点的存在)であったからである。バッハほどであっても市参事会にとっては次位にしかすぎなかった。聖トマス教会学校のカントル職の地位は、彼らがドイツ・プロテスタントの宗教界に誇る特別な椅子だった。亡くなった前任者ヨハン・クーナウをはじめ歴代の錚々たる顔触れがそれを物語っている。

5代目であったクーナウの後任に最初の候補者となったのは、かのテレマンだった。同地のライプヒッツ大学出身であったほか、知名度の高さにおいてもまさに白羽の矢を立てるに申し分ない人物であった。カントルにはラテン語授業が職務の一つとして義務づけられていた。それを嫌ったテレマンは、要請を受けなかった。次ぎに候補となったのは、バッハをその1名とする8名の候補者名簿のなかの一人(ダルムシュタットの宮廷楽長クリストフ・グラウプナー)であった。彼もまたライプヒッツ大学出身であり、感動的な試験曲上演を披露したからであった。しかし今度は現雇主である彼の主君から辞職の許しが認められなかった。彼の辞退を受けて、ようやくバッハの出番となる。

 前任者のクーナウが亡くなったのは、172265日だった。すでに8か月が経っていた。辞退者たちに空しく費やした時間であった。バッハが試験演奏に応募したのは、市参事会からの要望によるものではなく、難航していることを知ったバッハ自身によるもので、その時期は年も押し迫った12月であった。グラウプナーの試験演奏の約20日後の172327日バッハの試験演奏が実施された。自作カンタータ《イエス十二弟子を召し寄せたまいて》BWV22であった。

好評だったにも変わらずまだこの時点でもオンリー・ワンではなかった。バッハを含め3名の候補者が横並びで名を連ねていた。最終的にバッハに決定したのは、バッハの演奏を聴いた市長の称賛と、これまで等しくラテン語授業を拒んでいた候補者たちの中にあって最後にバッハが承諾の意思を示したからだった。かくして同年55日に正式契約が交わされ、同月22日ライプツィヒへの転居が済まされる。時にバッハ38歳であった。ワイマールとケーテンでの15年に及ぶ宮廷生活から青年時代に3年間を過ごした市民生活への舞い戻りであった。同時に人生の後・晩期を迎える場であった。

 

 ライプツィヒの街 当時のライプツィヒはハンブルグと並ぶドイツの市民層の中心地で、ワイマール約5千、ケーテン約3千に対して、人口規模は約3万人を抱えていた。市民層は、商業活動から得る富で潤っており、ザクセン公国の経済的中枢であったが、君主の宮殿は置かれていなかった。かわりに裕福な商人たちの商館が、あたかも「商人宮殿」に相応しい豪壮な構えを聳えさせ、有力者たちの邸宅と合わせて偉容を誇っていた。豊かな経済力のもとでは自由も育まれる。文化的交流の中心地として合理的な思想が摂りこまれ、大学では新旧の論争に余念がない。ルター正統派と敬虔派による神学上の争いは、当地でも演じられるが、ルターが論争を挑んだ記念碑的土地であることからも、ルター正統派の盤石な基盤の上に信仰を展開する地域であった。

 バッハは、トマス・カントルだけではなく市音楽監督を兼ねる立場に置かれていた。採用者は市参事会であって立場上も市の公務員であったが、トマス・カントルの地位に立つ場合は、教会の意向に従わなければならなかった。教会教区監督や宗務局の意見尊重である。しかし、教会側と市側との意見は、何時も一致すると限らない。どちらの側に立つべきなのか、ときには直接雇用者である新参事会から疎まれかねない場面に遭遇することになる。

採用時に彼等は言った(「議事録」49日付け)。「最良の人が得られなければ、中くらいの者でも採用しなければならない」と。ケーテン宮廷での高い地位は、公務員音楽家の立場には引き継がれも再現もされなかったのである。追々と分かるように、軽んじられる事態は就任当初だけではなかった。バッハを陰鬱な気分にさせることが数多行く手に待ち受けているのである。しかし、これまでがそうだったように音楽家バッハは、与えられた職務を創造力の源泉に変え、飽くことを知らない高い創作性で、再び彼の人生(陰鬱な部分を含めた日々)から難なく離れ去るのであった。

 

カンタータと受難曲の作曲 トマス・カントルの激務の一端を象徴するような話だが、バッハに与えられた職務には、週に1曲のカンタータ作曲があった。ライプツィヒ市の二つの主要な教会の聖トマス教会と聖ニコライ教会とが交代で行なっている、毎日曜日とさらに祝日の礼拝(年間60回)用のカンタータ作曲であった。この困難とも言える作曲活動を、実に7年間(1723年夏~29年末頃)余りにわたって怯むことなくやり遂げたのである。かくして周知のカンタータを含む、カンタータ芸術の一大山脈を高らかに聳え立たせることになる。

しかも、このカンタータ作曲はそれだけでは終わらなかった。二つの記念碑的な受難曲を生み出したのである。《ヨハネ受難曲》BWV2451724年)と《マタイ受難曲》BWV2441727年/29年)である。カンタータの作曲期間の始期と終期に重なる受難曲の誕生は、必ずしも職務の要請をダイレクトに反映するものではない。契約時にバッハが署名を求められた誓約書(14箇条)中には、その7条として「教会における良き秩序を維持するために、音楽は、あまり長くなりすぎぬよう、またオペラ風の華美に流れることなく、むしろ聴者の心を礼拝と祈りに向かって高め導くものとなるよう努めるべきこと」とある。

この条文と間違いなく抵触するのは、「長くなりすぎぬように」のくだりである。カンタータは、説教との兼ね合いから30分程度を限度としていた。《マタイ受難曲》に至っては3時間半を要する。たしかに聖金曜日における受難曲の上演は一つの伝統であったかもしれない。しかし、教会も市参事会も、「伝統」をはるかに逸脱したこの受難曲に難色を示したのである。初演後、両受難曲ともに再演も果たされたが、終に17393月に至って、歌詞内容が書き換えられたことを口実にして、受難曲(「ある受難曲」)の演奏差し止めが申し渡される。ここに来てバッハの「逸脱」に応えてみせたのである。

 あるいは教会や市参事会は受難曲の壮大な合唱が「オペラ風の華美」にも聴こえたのであろうか。アリアは、そのこみ上げる感情の高まり故に「礼拝と祈りに向かって高め導くもの」には障るものだったのだろうか。長くバッハの受難曲が忘れ去られていくきっかけをつくった「通告」は、しかし、バッハに対する当時の人々の一般的評価を代表するものであったにちがいない。この一般的評価とは、宮廷音楽と市民音楽との違いであったはずである。理由は簡単である。宮廷ではバッハは敬意を払われていたからである。それだけに市民を対象とした「音楽会」(公開コンサート)でのバッハの評価に関心が向くこととなる。市民層がバッハの音楽に何を聴いていたのか、時代観が窺えるからである。

 

 バッハ観と時代 現代からすれば奇異なことでさえあるが、バッハは同時代的には演奏家として高く評価され、作曲家としての評価は専ら技巧面(高度な対位法)に限定的であった。演奏が名人なら作曲も名人となる。各時代のバッハ礼賛を時代ごとに集めた書物(上掲『バッハ頌』)によれば、「あとがき」でも記されているように、編集方針の一産物として、「そこにはおのずからバッハ観の歴史的変遷を読みとること」が可能となっている。

詳しく論ずる場面ではないが、同時代の「バッハ頌」は、バッハの「音」を知る上に多くの知見を与えてくれる。多くが近代的な音楽評論になっていないからである。評論が未成立なのでもないし、具眼の士が不足していたわけではない。音楽観(音楽性)が異なるのである。彼らがバッハの作曲に聴いていたのは、「技巧」であり、音楽観と言うのならそれも「技巧」のなかに見出される時代的音楽性なのである。

現代なら「技巧」と言うと、創意の下に付けられがちだがそれが違う。当時にあっては最優先されるべきことであった。有名な同時代バッハ批判であるヨハン・アドルフ・シャイベの『批評的音楽家』(初版1737年、改定版1745年)への批評は、「技巧」のなんたるかを同時代証言として物語っている。バッハは反論しなかったが(別な人物が反論)、批評文にはバッハの作曲論を推しはかる視角が隠されていている。見方を変えれば、「批判」を通じて我々が見出そうとしていない「音」が潜んでいる。それを教えようとしているのである。

 

不当なる扱い 以上は別原稿に拠るべき問題だが、要は今では神にも届く響きと受け止められている「アリア」が、「礼拝と祈りに向かって高め導くもの」ではなかったとすれば、考えられるのは「音楽観」しかない、そう指摘したかったのである。やはり違うのである。故に明らかなのは、その「音楽観」のもとでは、すべてを超える尊敬の念も芽生えようがないことである。それ以前でさえあったのである。

ライプツィイでの苦悩の多くは音楽家への敬意の不足によるものである。ときには差別的でさえあった。トマス・カントルが就くのが慣例となっていたトマス大学音楽監督を、バッハの度重なる要求(172326年)に対して大学当局は終始一貫して拒否した。バッハが大学出でなかったから(と推測される)のである。

採用試験の一件がすでにそのへんの事情を語っていた。テレマンにせよ次位のグラウプナーにせよ、ライプツィヒ大学出であることが高い評価となっていたからである。また別の抗議によれば(1728年)、カントルの権限であったはずの礼拝時の讃美歌選定権を教会宗務局がバッハの手から取上げていた模様である。市参事会に宛てたバッハの「上申書」(1730年)がある。音楽家としての一途な思いを綴ったもの(訴えたもの)である。結果は減俸処分となって返される。市参事会には不遜なる「上申」に思えたのだった。

トマス学校長(学校での直属の上司)との間でも侮蔑的な扱いを受けねばならない。ここでもカントルの権限が損なわれる事案が発生する。長い反目関係の始まりだった。それ以の学校長とは信頼関係が保たれていただけにバッハをひどく消耗させることになる。ライプツィヒを離れることを真剣に考える次のような手紙を読むとき、それが、我々が神の音として聴く者の手で記されていることに、正直なところ慄然たる思いを抱かざるをえない。たとえ彼らの「態度」が、特定的な個人感情に発するというよりは、より普遍的なもの――すなわち自由都市に生きる彼らのアイデンティティ(市民意識の高揚)による要請であったとしてもである。それでは、バッハ個人に対してだけではなく、「音」さえも相対化の対象になってしまうからである。彼らには何ら神の「音」ではなかったのである。そのなかでバッハは綴る。


  しかるに今や、(1)この(カントルの)職務が決して話に聞いていたほど満足なものでないことがわかり、さらに(2)この地位に付随する多くの臨時収入が召し上げとなり、そのうえ(3)当地のはなはだしい物価高に加えて、(4)当局の態度も不可解で音楽に対する理解と敬意にとぼしいというようなことから、小生はほとんど絶えざる不快、嫉妬、迫害の中で生きてゆかねばならぬ仕儀と相成り、このままではいずれ、至高者の御助けにより自分の幸福をどこか他の土地に求めることを余儀なくされようかと案じております。(173010月、エートルマン宛)


 幼友達に出された書簡である。バッハは1736年に一つの肩書を手に入れる。待ち望んでいた「ポーランド国王兼ザクセン選帝侯の宮廷作曲家」の肩書である。ライプツィヒ市はザクセン選帝侯の領地内の都市である。入手した肩書が何を意味していたか、手に入れたバッハの胸中が傷ましくも、あるいは世間なるものの時代を超えた愚かしさとしても思い遣られる。それだけにここに生きるのは、人間バッハでもなんでもない。人生体験でもない。むしろ空白である、「音」の。

ただそういう中で創り出された楽曲を個別に思い浮かべることは、聴こえてくるものに違いはないとしても、逆に同じであることの重みを教えられることである。あらたな聴き方にもなるとしたら、その人生を知っていることには意義深いものがある。意味もある。すくなくとも「音」への問いは、さらに深く続けられるはずだからである。

 

 2 ライプツィヒ時代(中・後期)

新たな刺戟 その一方で、バッハの音楽活動は弛むことなく続けられ、その歩みを緩めることなどない。折しもあらたな職務が付け加わる。ライプツィヒ市が抱える楽団の貧弱な内容を補う、「音楽協会」の指揮兼監督者の立場だった。前任者の異動に伴ってその職を引き継いだのである。学生器楽奏者を中心にしたこの楽団は、頼もしい力となって弱小オーケストラの強化に目に見えた力を発揮し、市内の教会での演奏(宗教演奏)に大きな援けとなる。加えて日頃の練習の成果を市民にも披露した。コーヒー店(ツィンマーマン・コーヒー店)の演奏会として知られた、演奏会の歴史に音楽史的にも重要な足跡を残す公開演奏会であった。

夏季は同店の庭園を会場として水曜日の16時から18時まで、冬季は同店の店内を会場にして金曜日の20時から22時までと、定期的なものであった。市民にとって教会以外で日常的に接することのできるこうした定期的な公開演奏会は、やがて「大演奏会」(1743年)を経てかの「ゲヴァンントハウス(織物商館ホール)演奏会」(1781年)へと発展的に繋がっていく。

バッハは、この「音楽協会」の指揮者兼監督として172937年及び173941年の約10年にわたって携わり多くの曲を上演した。プログラムは不詳ながら積極的な関わりによって、多くの自作演奏が生まれることになった。音楽協会の刺戟を契機とする楽曲の中には、有名な「G線上のアリア」を楽章中に含む、二つの《管弦楽組曲 二長調》BWV1068・同1069をはじめとして、ケーテンで学んだ協奏曲の蓄積の結実として創り出された、《横型フルート、ヴァイオリン、チェンバロとオーケストラのための協奏曲 イ短調》BBV1044などがあった。

 

 鍵盤作品の充実 楽曲の充実は、鍵盤作品の上にも実現された。バッハの教育者としての一面に与るところも大きかった。すでにその横顔はケーテン時代より顕著であったが、ここに来て、《クラヴィーア練習曲集第1部》(パルティータ6曲)BWV825830172630年、1731年に曲集化)ほかの名作として形になる。教育的配慮は、一次的には技巧的配慮であるはずながら、深い響きを容易に生み出してしまう作曲の仕組みには、創造行為への反意が潜んでいるほどである。否、職務が先行する音楽条件自体を反意そのものと言うべきか。おそらく「技巧」も、表向きは創造性(作曲性)に対して表層的ながら、「反意」を構成する側に控えているにちがいない。創造性に先行する思考態度だったはずだからである。いろいろに考えなければならない。

 同曲名の第二弾として《クラヴィーア練習曲集第2部》が出版(1735年)される。添えられた副題には、「イタリア趣味による協奏曲1曲とフランス様式による序曲1曲」とある。《イタリア協奏曲 ヘ長調》BWV971と《フランス風序曲 ロ短調》BWV8312曲である。バッハの情緒性は、歌い上げないことで整然とした秩序を保って余韻に頼らない。《イタリア協奏曲》の高尚なアンダンテがそれである。余韻(情感性)に頼らないとは、個別のことでもあるが、急・緩・急の曲構成に見出される全体感に関わることである。バッハは、感性とは別な原理で「音」を紡ぎだしている。それが「余韻」の外に音を秩序づけることになる。

ところで唐突ながら、ブラームスは絶え間なくメロヂィーが頭の中を過っていくと呟いた。自分が音符として補足できるのはそのほんの一部にしか過ぎないとも。バッハの鍵盤楽器を聴いていて、ブラームスの言を思い浮かべると、同じ西洋音楽のことを語っているとは思えなくなる。バッハの音符は、メロディーを追い越してしまっているからである。別な言い方をすれば、主題によって音楽的思考が発動する形ではないのである。たとえば畳みかけるような16分音符や32分音符の連なりが描く図形学的な線からは、頭を過るものからではない、異なる形での音へのアプローチが想定される。「急」(アレグロ)だけで成り立っているわけではないにしても、「緩」(アンダンテ)のメロディーにしても構造は同じである。「急」による音楽的思考、言い換えれば音符的思考を前提に、おそらく「急」に先行させて演繹的ないし帰納的に生み出される旋律である。それが「余韻」以上の「余韻」(非感性的なもの)をつくり上げる。高度に人工的なものである。しかしわざとらしさはどこにもない。《イタリア協奏曲》はその好例である。かくしてライプツィヒ時代の作品の充実は、さらにバッハをブラームス的思考から遠ざけるのである。

さらに第三弾として《クラヴィーア練習曲集第3部》が公刊(1739年)される。「オルガンのためのさまざまな前奏曲」として用意されたものである。あえてオルガンと断っている点に、クラヴィーアからオルガンが楽器として独立化している時代的傾向を意識した反時代的精神が現れていると指摘されている。つまり「鍵盤楽器(クラヴィーア)」としてオルガンを再総合化しようとしていると(フェーリクス・125頁)。ワイマール時代を代表するオルガン曲が、このように過去のままにならない再現性も、バッハの身体の中に潜む「音」の秘密である。ここでは、「クラヴィーア」楽器と化したオルガンの調べを愉しむことができる。

バッハのクラヴィーア曲集は、眠れぬ夜のために創られたという、あの《ゴルドベルグ変奏曲》BWV988174245年)をその第4部として構想した。「ゴルドベルク」の表題(バッハの弟子の名前)は、後世(19世紀)によるものである。本来は《クラヴィーア練習曲集第4部》であるが「二段手鍵盤のクラヴィツィンバル(チェンバロ)のためのアリアと種々の変奏より成る」ほか長い表題が付けられている。30の変奏曲を開始と終止で挟む、心に深く沁み入る「アリア」の音は、鍵盤楽器に占有的に聴くことのできるもので、弦楽器とは異なる心意に届くものである点に、再び分析的な関心が呼び起こされることになる。

同様の旋律は、ライプツィヒ時代以前にも響いていたものであるが、ライプツィヒ時代の作品に集中的である。人生の後半期とは、等しく人の生命感になにかを働きかける。かりにその先に生まれた旋律であったとしても、バッハの場合は、それをさらに高度な「技巧」に転化してしまう。それが見込まれる範囲を易々と飛び越えて、人の感知する範囲までも逸脱してしまう。ほぼ同時期に完成された《平均律クラヴィーア曲集 第2巻》BWV870893173844年)とともに、耳に届く「音」は、人に予定されていた聴覚範囲で捉えるべきものではなくなっている。誇張してしまうのは、言葉が浮かばないためである。

 

 再びの宗教曲 室内楽ばかり見ていると、トマス・カントルとは一線を画した姿しか見えないが、教会音楽から遠退いたわけではない。この時期、受難曲に続く大きな二つの宗教音楽が生み出された。《クリスマス・オラトリオ》BWV248173435年)と《ミサ曲 ロ単調》BWV232(最終完成174749年)である。前者の自筆総譜の扉には、同曲が「ライプツィヒの両主席教会で演奏された」とある。聖ニコライ教会と聖トマス教会である。まさにトマス・カントルの直接の職務範囲内の作曲であるが、後者は、本来カトリック教会の儀式で演奏される「ミサ曲」であることからも、作曲事情を少々異にしている。

厳格なルター正統派に立つプロテスタントのバッハが、あえてミサ曲の作曲を行なったのは、後に宮廷音楽家(作曲家)の称号を得ることになる、ドレスデン宮廷のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世に献呈するためであった。選帝侯はもともとプロテスタントであったが、カトリックのポーランド王位を継承する必要からカトリックに改宗したのであった。献呈年の1733年段階では、まだ「キリエ」と「グローリア」しか作曲されていなかったが、それを段階的に膨らませて、最終的に「ミサ曲」の構成要素を満たした大曲に仕上げたのであった。

献呈に際しては宮廷音楽家の称号を求める請願が添えられている。一見、プロテスタント・バッハの非誠実が疑われかねない経緯ながら、一度《ミサ曲 ロ単調》を聴いた者は、カトリック・プロテスタントの違いを超えた、神の高みに届かせる音であることに、時に絶句して応じるしかなくなる。バッハの最高傑作とする向きも少なくない。《マタイ受難曲》の劇場性を排してより抽象性(音の芸術)に徹しているからである。

引用してみよう。「《マタイ》《ヨハネ》の両受難曲に比較して、《ロ単調ミサ曲》は、いっそうの客観性を備えた、厳しく崇高な音楽である。コラールのような素朴な民衆的楽章はもはやなく、高度な技巧を駆使しての高い芸術的表現に、全ての演奏者が向かい合わなくてはならない。これこそは宗教音楽家としてのバッハの活動の総決算を示す金字塔であり、バッハを愛する人のたどりつく、究極の世界であろう」(磯山・2823頁)のとおりであるが、《マタイ受難曲》解説の決定書(同著『マタイ受難曲』東京書籍、1994年)を表した著者の言である。

 

3 ライプツィヒ時代(晩期)

 
バッハの子供たち バッハは子沢山だった。亡くなったバルバラとの間に7人、マクダレーナとの間には13人がいた。無事育ったのは前妻との子で4人、後妻との子では6人に過ぎなかった。そのなかからは、音楽一族バッハ家の伝統と両親の血を受けた優秀な音楽家が輩出された。バルバラとの子では、ヴィルヘルム・フリーデマン(171084)、カール・フィリップ・エマヌエル(171488)、マクダレーナとの子ではヨハン・クリストフ・フリードリフ(173295)、ヨハン・クリスチャン(173582)。もっとも高く評価されているのは、ベルリンのバッハとも言われるエマヌエルで、前期古典派の代表的作曲家としてウィーン古典派に大きな影響を及ぼした。国際的な作曲家になったクリスチャンは、モーツァルトに直接的な影響を与えている。まだ幼かったモーツァルトは、旅先のロンドンで彼の演奏を直接聴いた上親しく接する機会をもった。モーツァルトのギャランティーにとって直接的な契機となる接触であった。

それはともかく、教育者バッハのライプツィヒ晩年は、多くの成長した子供たちの現在の活躍やさらなる将来の飛躍に幸せな一時を感じる日々を、その人生のなかにしっかりと位置付けることができた。相変わらずの職務上の煩わしく時には不愉快でもあったに違いない出来事も、次第に年齢が解決してくれるようになる。創作意欲の減退を意味するものではない。しかし、世の中の時流は啓蒙主義的な流れに傾き、音楽も複雑な技法を駆使したポリフォニーから、主声部を浮かび上がらせた、自然な感情の発露を促す作曲法(古典派への流れ)が時代の先端と考えられるようになっていた。バッハの音楽も時代遅れの産物が如き受け止められ方をしてしまう。実際、後年のことながら、バッハの息子たちのなかには、あからさまに古い音楽と貶めるような発言が口を衝いて出ることになる。息子たちでさえそうでるからバッハの音楽芸術が一部を除いて長く埋もれてしまうのも至極当然の成り行きであった。

 

晩年の2 本人にもそれは分かっていた。晩年を代表する2曲《音楽の捧げ物》BWV10791747年)と《フーガの技法》同1080174550年頃)がそれを逆説的に物語っている。時代の流れに厳しく対峙するかのような厳格な対位法で作られているかである。《音楽の捧げ物》がプロイセン大王フリードリヒ2世に献呈されているその間の経緯も《音楽の捧げ物》の歴史的とも言える皮肉を物語っていて、作品の音楽的内容とは別に興味深い点である。

時の政治情勢が作らせたとも言っていいこの作品は、ザクセン選帝公国がプロイセンと反目することになったことを背景としている。プロイセンのフリードリヒ2世のもとでオルガニストとして仕えていた息子エマヌエルの将来のことを案じたバッハは、仲介者を通じてフリードリヒ2世に拝謁する機会をもてることになったのである。1747年のことである。フリードリヒ2世と何らかの関係を結ばなければと考えていた。2年前のプロイセン軍による2か月にわたるライプツィヒ占拠が、エマヌエルもことだけでなく、音楽一族バッハ家の将来にわたる安泰までにも思いを募らせることになったのである。

バッハは大王に歓迎された。ポツダム宮殿で宮廷に置かれていた、最新のジルバーマン・クラヴィーア(フォルテ・ピアノ)を試奏した。大王に与えられた主題による即興演奏も行なった。好評を博したことからも、後に「王の主題」に基づくとして作曲し献呈されたのが、《音楽の贈り物》である。

歴史的皮肉と呼んだのは、献辞(その内の一つが「感謝の負い目を果たす捧げもの」)を添えた、豪華な表紙で仕上げた入念の献呈楽譜であったにもかかわらず、大王からは何一つとして(受領書さえも)送ってよこさなかったからである。御前演奏の好評も演奏技量に対するものだけであって、音楽に対しては古臭い代物として顧みられなかった、その結果が「無視」となって返されたのであろう。そう推定されている。大王(フルートを奏する)が求めていたのは、時代が要請する啓蒙主義的な音楽であり(上述)、堅い旋律よりエレガントなもの(新様式)であった。

 

「音楽学術協会」への入会 動機は異なるものの、未刊に終わった《フーガの技法》を誕生させたのが、「音楽学術協会」であった。研究交流と啓蒙活動の進展を旨として設立された団体は、そのために権威者の入会に腐心していた。テレマン、ヘンデルも協会員だった。設立者はバッハの教えを受けたことのある人物であった。入会要請を受けてバッハが協会に入ったのは、ボツダムから帰還した数週間後であった。その際、バッハの肖像画として最も有名な一点が描かれる。入会用の楽譜(《三重カノン》)を指に挟んだ、顔全体に威厳を備えたその風貌は、押しも押されもしない楽匠に相応しいもので、俗世を超えた風格を漂わせている。音楽に人生が見えないバッハを、そのままに捉えた肖像画作品(エリアス・ゴットロープ・ハウスマン、1746年)である。

手にした楽譜は、「極度に技巧を凝らしたコラール変奏曲の自筆譜」であるというから、「自己の芸術の独自性を、現実の作品によって折紙つきの識者のサークルの前で個々具体的に披露」(フェーリクス・155頁)し、体力の衰え(とりわけ視力の低下)もあって人生の終盤を感じるそのなかで、音楽への信念を「この世」に高らかに掲げておきたいとする、高い精神を譜面化したものであった。

協会との関係が推測される《フーガの技法》の様々なフーガ(コントラプンクツゥス(単純フーガ)、相反[反行]フーガほか)が立ち上げる音列や、オクターブの音域を頻繁に取り込んだ音の構築物は、加えて憂いと彩りを添えた《音楽の捧げ物》とともに、晩年のバッハの内面そのものである。ただし断っておけば(何度も繰り返すように)人生の内面ではない。人生と言うのなら、われわれが内面と言うものの認識を再現しないものである。そこにあるのは、「音」を前に立てた内面の形式である。はじめてバッハとして顕れる人性である。

 

楽匠の最期 楽匠の最期は、名医の誉れ高かった眼科医の手腕がもたらした、余病併発によって幕を下ろされる。結果として受けなければよかったことになるが、イギリス人であった「名医」は、ヘンデルの手術にも関与していたようである。ヘンデルとの邂逅を望んで終に生涯果せなかったバッハにとって、なんとも因縁めいた結末であることか。その時は、1775728日の午後815分過ぎであった。バッハは66歳の生涯を閉じる。731日、ヨハニス教会付属墓地で埋葬が執り行われる。

以下に同日付けのある「追悼文」(ライプツィヒ市在住者(指名不詳))を掲げて、バッハの人生を辿った筆を擱く。

 本月28日に当たる、すぐる火曜日、当地にて、有名なる音楽家、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家、ザクセン=ヴァンセンフェルス公ならびにアンハルト=ケーテン侯宮廷楽長、当地の音楽団体監督ならびに聖トーマス学校カントルとして名を馳せたるヨーハン・ゼバスティアン・バッハ氏は、先般さる著名なるイギリス人眼科医より目の手術を受けたるもその効の極めて芳しからざるによりて余病を併発し、ために死亡したり。享年六十六。この稀有なる技倆を有せし人物の損失は、すべての音楽愛好家にとり痛恨の一事として哀悼せらる。(傍線・引用者)

 

 おわりに
 

 大指揮者のバッハ観 結局、「バッハの音を『知る』ために」とした表題を掲げて、なにか得ることがあったか。「音」にとって人生はないと繰り返しながら辿った生涯である。最期を見届けても、やはりバッハは自分の人生とは別に生きている。
バッハを深く敬愛していた20世紀の大指揮者フルトヴェングラーは言う。


バッハの場合、まさにこの鉄のような合法則性の出来事(一音もその位置を違えていない完璧無比の楽曲とそれを生み出す客観性(引用者注))が余りにも前面に立ちはだかっているので、彼の人間性、すべてそれ自身を自らのなかに完成していくこれらの作品の客観性の背後に姿を現わす巨大な「人間」が、はじめはぜんぜん気づかれずに見落とされてしまうほどです。(同著『音と言葉』新潮文庫、1981年、32頁)
 

フルトヴェングラーは、バッハの「音」を脅威として受け止める。彼自身が、指揮者だけでなく、大作を生み出すことのできる作曲家だったからである。「人間」を見落とすほどの「音」がどれほどのものであるかに、フルトヴェングラーは熱弁を傾けて止まない。幾つか拾い出してみる(繋ぎ合せ)。

 たとえば、「あの偉大なヘンデルの輝かしい作曲すら、静かな、不動にして迷うことを知らぬバッハの作曲的思索の格調のそばにおいてみると、おかしいほどに恣意的に思われ、ひどく気まぐれなものにみてくる」と前置きして、「バッハには刹那への集中、しかも未知未聞の宏いはるけさによって結ばれた集中があり、真に全体への至上の展望を加味した刹那刹那の端的な充溢」に占められていると語る。そして、そうした「感覚を織りまぜたバッハの音楽は、生理的なたしかさと自然的な力を兼ね備えた実例であり、係る者は音楽の世界おいて、バッハを措いて他に例があるとも思われません」とする。

このバッハ論(講演)の特徴(主眼)は、「人間」を気づかせないほどの「客観主義者」に加えて、本来対極をなすはずの「主観主義者」を同時に見ることにあった。それも最大のそれとして。

その時、ヘンデルは逆説として使われていた。普通には「恣意的」なるものは、「主観主義的」ななかに姿を表すからである。しかし、その「恣意的」な故にあの大きなオラトリオが創出されたことも確かである。分かっていてあえて言う。バッハの「主観」を特別視しなければならないからである。ヘンデルを超える、つまりオラトリオをさえも恣意的なものに加えてしまう、あの《マタイ受難曲》を創り出した「作曲的思索」を解かなければならないのである。「客観主義者」だけであっては、それが至上のものであっても《マタイ》は生み出せない。最大の「主観主義者」でなければ。そう考えるのである。

フルトヴェングラーは、《マタイ》に向けて言う。「この二つのもの(強力に圧縮された「フーガ」及び無辺奔放で空想的な「前奏曲」・注)をうまく統合しえて、はじめてバッハの感覚の全量を包括するに相応しい自然の全体が形づくられます」と、そして、カンタータや協奏曲のアダージョ、そのほかすべての作品を頭においてかく言う、「バッハはおよそ音楽によってその発想を許された者のなかの最も偉大な主観主義者である」と。

フルトヴェングラーが語ろうとしている「主観主義者」とは、そのことによって見落としていた「人間」に向く視線を回復するものではない。その点では「客観主義者」と変わらない。違うのは、「主観主義者」たることによってはじめて神に届く思索(音楽的思索)が獲得されることであった。「救世主の回癒の歴史をかくも深く彼自身の魂に徹して体験した人間」――「主観主義者」の具体的姿である。そして、「その最初の一音から、最後の一音までつらぬいて流れている城想の暗示的で、雄大豪壮な統一体を成している点において」あの《トリスタン》だけが唯一比肩できる《マタイ受難曲》を前にして、「すべての旋律的和声的な曲節、あらゆる小節にいたるまで、ただ仮借することのない「客観性」が司宰しているわけではありまません。そこにはまさに同等に雄大な、最高の人間的な個性がしているのです」と。重ねて「主観主義者」でもある必要に触れたのである。

 

大指揮者の《マタイ》演奏 結局、フルトヴェングラーは、作品の背後に隠されて「気づかれずに見落とされて」いた「人間」を見出したのである。知る限り、作曲者を超えたところに立てる指揮者は、フルトヴェングラーにその最高の姿を見ることになる。彼が振る古典派からロマン派の作曲家(とりわけベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ブルックナーなど)に対する楽曲解釈は、再現芸術の本質(創造の二重性)を生の形でそのまま演奏としたものである。彼の演奏は、成功不成功に関わらず必ずなにかを見出す。見出すことを前提(創造行為)とした指揮である。彼に限ったことではないが、おそらくその見出し方は特別である。

しかし、それでも見出せないのである、バッハは。フルトヴェングラーが振る《マタイ受難曲》(ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、19544月、ライブ録音、EMI)がそれを教える。講演(1951年)の3年後のライブ演奏である。彼が「最も偉大な主観主義者」として見出したバッハを、やはり見落としたままにしておくべき「人間」に再編集した演奏である。いまやフルトヴェングラー自身が逆説である。創造の二重性を創造の一次性に遡って一体的に体現できる故である。バッハの一次性に遡ることの意味合いを、図らずも身をもって矛盾のなかで語ってしまったのである。

フルトヴェングラーに壁となって立ち塞がるバッハは、再現芸術の壁でもある。「壁」とは、それを乗り越えられるか乗り越えられないかだけではない。乗り越えるべきかに立ち返って問われることにもなる。現代バッハ演奏の中核をなす古楽器演奏は、おそらくフルトヴェングラーの対極(かの〈メンゲルベルクのマタイ〉を含めて)に立つ。しかし、そのことが(古楽器によることが)、外形的には一次性への遡及を果たして従来にない精神性を紡ぎだしていたとしても、それが「人間」を見落としたままにしておく解釈に達しているかと言えば、それは別に問われなければならないからである。かえって古楽器が妨げになることさえ予想されるのである。

同時代の人々が、音楽家を「技倆」のなかに見ていたものは、ヴィルトゥオジティだったのであろうか。即物的な「技倆」は、一見すると、「『人間』を見落としたままにしておく解釈」そのものでもあるかのようである。真理が隠されているかもしれない。

バッハは単独ではなく、総合であるという。あるいは終局であるという。冒頭に掲げたアルベルト・シュヴァイツァーの「結論」であった。最後に彼の言う修辞的な結論のなかに「人間」を再措定して、表題の「バッハの音を『知る』」の次ぎの段階を前方に見出していきたい。以下は再掲である。

 
かくしてバッハは一つの終局である。彼からはなにも発しない。いっさいがひたすら彼を目ざして進んで来たのである。(略)この天才は決して単独的精神ではなくて、総体的精神であった。われわれが畏敬の念をもってその偉大さの前に佇立する作品は、数世紀、数世代の手が加えられて完成したものである。この時代の歴史をたどってその終極が何をもたらすかを悟る者の眼から見れば、この歴史は、バッハのような終局的精神が単独の個性のなかに客観化される以前にたどった、生存様態の歴史となるのである。 (アルベルト・シュヴァイツァー「バッハ芸術の根源」

  

引用・参考文献

磯山 雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』講談社学術文庫、2010年(初出1985年、東京書籍)
角倉一郎監修『バッハ叢書別巻1 バッハアルバム』白水社、1983
角倉一郎・渡辺 健編『バッハ頌』白水社、1972
樋口降一『バッハ―カラー版作曲家の生涯―』新潮文庫、1985
皆川達夫『バロック音楽』講談社学術文庫、2006年(初出1972年、講談社現代新書)
アルベルト・シュヴァイツァー/浅井真男・内垣啓一・杉山 好訳『シュヴァイツァー著作集』第12集、白水社、1975年(原典出版1908年)
ウィルヘルム・フルトヴェングラー/芳賀 檀訳『音と言葉』新潮文庫、1981年(初出1957年、原典193451年)
ヴェルナー・フェーリクス/杉山 好訳『バッハ 作品と生涯』講談社学術文庫、1999年(初出1985年、株式会社国際文化出版社、原典出版1984年)
カルル・ガイリンガー/角倉一郎訳『バッハ―その生涯と音楽―』白水社、1970年(原典出版1966年)
ハンス=ギュンター・クライン(酒田健一訳)「先輩と同時代人たち」(前掲、角倉一郎監修『バッハ叢書別巻1 バッハアルバム』)

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