2014年8月31日日曜日

[ふ] 深沢七郎と「ふるさと」~深沢文学の時空~


はじめに ここで取上げるのは、山梨県の視点(甲州の目)で捉えた深沢文学である。表題に「ふるさと」を入れこんだのは、とりわけ生育環境が文学性に与えた影響を探ってみたいと考えたからである。とくに副題中の「時空」に焦点を当てる。微妙な土地感覚を必要とするが、この点、筆者は有利な立場にある(後述)。その利点を活かして、景観論に踏み込んだ記述をはじめとして、山梨県(ただし厳密には甲府盆地東部)に特有な歴史感覚に触れながら、両者からの知見をもとにして文学論を準備していきたい。課題を見出す記述が主であるので、結論を急がないようにしなければならない。
なお、以下は未推敲であるため、修辞が疑われるほか誤字脱字が随所に見込まれる(後日成稿を期したい)。

 
1 小説の舞台

「同郷者」 実は、筆者は深沢七郎とは同郷である。といっても車で20分位かかる。それにサトとヤマ(丘)と言った景観の違いがある。深沢七郎は、「サト」育ちである。ただし市街地を形成するような町場ではない。温泉郷で知られている石和温泉のはずれの川(笛吹川)に沿った、周辺には田畑が広がる一集落(石和町市場)である(ただし当時の景観で、今では住宅街化している)。また温泉街にしても、はじめて温泉が出たのは昭和30年代のことである。したがって、温泉郷の眺めは、大正3年生まれで、旧制中学を昭和6年に卒業しその後郷里を離れた、少年時代の深沢七郎が知っている景観ではない。

甲府盆地の平均的な景観でいけば、少年深沢七郎が育った世界は、町場と農村との中間と言ったところであるが、周辺では「在郷町」の一つであり、他地域の人々の往来も比較的頻繁であった。地名も市部である。実家は印刷業であった。在郷町に相応しい家業であったかもしれない。

したがって実際は、距離以上に生育環境の違いは大きい。もちろん世代も大きく違う。しかし筆者と少年深沢との間は、次の作品によって縮まるだけではなく、共通項で結ばれることになる。小説『笛吹川』である。次は、同作品の書き出し部分である。

笛吹橋の石和側の袂に、ギッチョン籠と呼ばれているのが半蔵の家だった。敷居は土手と同じ高さだが縁の下は四本の丸太棒で土手の下からささえられていて、遠くからは吊られた虫かごのように見える小さい家だった。
 

「ギッチョン籠」 この「ギッチョン籠」には、モデルとなった実在の家があり、不思議なその家構えは筆者の子供時代の記憶としておぼろげながらも今も新鮮に残されている。それというのも近くの公園(万力林)に設けられた人造湖(ちどり湖)がボート乗り場だったからである。しかもボートに乗るということは、とりわけ当時のヤマの子供たちにとっては特別なことだったのである。

参考:「差出の磯」と亀甲橋(下流から。筆者撮影)
(備考)「ギッション籠」は、この亀甲橋の左袂にあったとされる文献が少なくないが、以下の注に記したように再考の余地がある(誤りの可能性がある)。ここでは参考までに掲げたが、景観が問題なる本稿の場合、誤解を招きかねないアングルであることを付記しておかなければならない。「正式」の「ギッチョン籠」が周りに見せる景観ではない。むしろ正反対である。なお、「磯」の上に建つのが、「差出磯大嶽山神社」である。同神社のHPに関係写真が掲載されている。
 
はっきり記憶していないが、祭見物を兼ねていたような気がする。古今和歌集ほか多くの人に詠われた、歌の名所として知られている「差出の磯(さしでのいそ)」**の崖上にある差出磯大嶽山神社の春まつり(春季例大祭)である。この狭東(甲府盆地の東側一帯の呼称)の大祭の一つであった「大嶽山」への祭見物は、恵林寺(旧塩山市・現甲斐市)の信玄公祭りとともに、当時のヤマの子供たちにとっては、「外」の地(サトの地)を知る絶好の機会だった。しかもヤマの暮らしではけして叶わないボート遊びにまで勤しむことができたのである。

 今では国道140号線(雁坂みち)の開通によって参詣道への道筋は往時と変わり、背後から回りこむようになってしまったが、それ以前は川沿いのみち(旧青梅街道)を往くしかなかった。その道筋に川に迫り出した家が何軒か街道沿いの店並びのようにして建ち並んでいたのである。何本かの柱で「土手の下からささえられて」いた、反対岸や横から見るとまるで「吊り籠」のような格好をした家となる、すなわち深沢七郎が「ギッチョン籠」と名付けた家である。

大勢の人出と湖(小さな人造湖)やボート遊びに加え、この不思議な家構えが子供心に強い印象を植え付けたのであった。それは、サトの子供であった深沢七郎が受けた印象とは違っていたのかもしれないが、同じように山梨を離れた者の記憶として長く心に残るとともに、一つの心的要因として「同郷人」意識の形成にも少なからず働きかけていたと言える。まさに「ギッチョン籠」が取り結ぶふるさと観の共有である。

 * 諸書でそのように指摘されているようであるが、正確にはこのモデル論は十分に検証される必要がある。深沢七郎自身の記述に当たる限り(「『笛吹川』とギッチョン籠」1980年(全集第八巻))、モデルは別に求めなければならない。その場所は生地市部の近くに在ったとされる土手の家である。作者の述べるところは、「ギッチョン籠の家は私の中学生の頃、笛吹橋の次の橋――鵜飼橋のタモトにあった家で、(略)その家を笛吹橋のほうに移して小説を書いた」のとおりである。モデルとして出回っている方は、亀甲橋のタモトで家(みずの屋)の規模も大きい。さらに少し間を開けて何軒か同様の「ギッチョン籠」が建ち並んでいる。モデルは稼業も深沢七郎が言う写真屋ではなく料理屋である。ただし小生の記憶(ただしうろ覚え)では、並びの「ギッチョン籠」のなかにも写真館があったような気がする。対岸や橋上から見た眺めは強烈であったはずである。鵜飼橋から数えると二つ目か三つ目の橋である。深沢少年もこの強烈な眺めは当然知っていたはずである。みずの屋は1987年まで存続していた。その点、上掲深沢記述の続きに触れられている「ついこないだ『ギッチョン籠の家は、いまもあるッちゅうジャンけ』と教えてくれた人があった」とある点が、あるいは混乱を招いているかもしれない。川側に迫り出したみづの屋と違って鵜飼橋の「写真屋」は外側である。しかし1980年頃の堤防は深沢七郎の旧制中学時代と違って護岸工事が大規模に行なわれている。土手から入る「ギッチョン籠」がその当時残されていたのか疑問である。教えてくれた人が違う場所を指していた可能性もある。
   いずれにしても「『ギッチョン籠』が取り結ぶふるさと観の共有」としたのは、「深沢少年もこの強烈な眺めは当然知っていたはずである」を踏まえたからである。

 ** 名称は海のない甲斐国が海原に突き出した磯として見立てたため。二首を掲げておく。「しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」(古今和歌集)、「いにしへの差出の磯を破らじと笛吹川の身を曲ぐるかな」(与謝野晶子)。後者与謝野晶子の歌は、上記川側に迫り出した「ギッチョン籠」を彷彿させる叙景歌である。
 

小説の舞台 ここに「深沢七郎と『ふるさと』」と題したのは、単独の論題ではなく、先月(7月)の日夏耿之介や島崎藤村を意識したものであり、文学論(詩論)的にはその延長である。いまは細かくは語れないが関係があるのである。「楢山節考」である。棄老伝説といえば、通常は信州の姥捨山(東築摩群築北村(旧境村)と千曲氏との境)を指すのが一般的であるからである。事実、小説の発表当時(中央公論新人賞受賞当時)は、同村の棄老伝説を描いたものと受け止められていた。なぜなら「この信濃の山々」と書き記されているからである。しかし、実際は山梨の某所を念頭において創られた作品である。関係があるとしたのは、舞台の違い(信州と言いながらそうではなかったこと)から浮かび上がる「ヤマ」観の違いに関係あるという意味である。ここでは甲州と信州から浮かび上がる山と人の関係という、個別の山関係を超えて、広義のヤマに迫りたいとするものである。

 小説「楢山節考」の舞台として深沢七郎が選んだのは、山梨県東八代郡境川村大黒坂(当時)であった。深沢七郎の家からは甲府盆地の地理上・行政城の区分線となる笛吹川を挟んではるか前方である。同地に彼のいとこが嫁したのである。サトからヤマへの嫁入りだったが、深沢七郎の訪問の契機をつくることになり、やがては小説へと発展していくことになるのであった。

境川村(現笛吹市)は、甲府盆地南縁の曽根丘陵の東端にあたるが、同村の山側(南側)は山から延びる深い谷を形成している。大黒坂は、そうした山地側の山あい集落で、集落の中を裏山に向けて延びる坂道の先が「姥捨山」となる。実際は富士五湖と甲府盆地を画する御坂山地の前衛をなす一座(春日山)を「姥捨山」に見立てたのかもしれないが、小説の「姥捨山」ではさらに奥山になっているので、あるいはその背後の標高の高い二千メートル近い御坂連山(金山、鬼ヶ岳、十二ヶ岳辺り)をイメージして創り出されたのかもしれない。

深沢七郎が訪れたのは戦争中であった。疎開中に訪れたようである。それまでは地元の旧制中学(日川中学)卒業後、山梨を離れて様々な各種職業を転々としていた。遠く博多で働くこともあった。疎開直前は東京であった。疎開中のその折を振り返るエッセイ(1969年)によれば、「私はいまここへ、25年ぶりに来た」とあるので、引き算すれば1944年となる。小説執筆時を思い起こして次のように記している。

もう14年も前のことである。その年の2月の寒い夜だったと覚えている。この村に来たときの想像から書こうと思っていたのを、私は書きたくなったのだった。それ以前、私は「笛吹川」という小説を書くつもりでいたがその夜、ふっと書きはじめたのが「笛吹川」ではなくて「楢山節考」だったのである。小説に出てくる楢山節の歌詞などもずっと前から出来上がっていたのだった。(「舞台再訪《楢山節考》」1969年)

 疎開時期という食糧難も重なって――実際、いとこが嫁いだのもその所為(「農家に嫁に行けば米のめしが食べられる」)であったようであるし、深沢七郎がいとこを訪ね、何日も泊めてもらえたのも、「米のめしがたべられる」魅力からだった――さらにそこで過ごした折に接した人々の、サトとは違う暮らし振りや風習、自然の移ろいの中で生きる人情に触れ、「真似ではなく自然に発生した――土から生まれたとでもいうべき人間の生きかた」に魅せられてしまったのであった。

 境川村は、今は、深沢七郎の生まれた石和町と平成の大合併によって同じ笛吹市になっているが、市の北端と南端といった位置関係で、単に距離的に遠いだけではなく、甲府分地の最中という深沢七郎が生まれ育った地形から眺めれば、笛吹川からはるか先の、親戚でもなければ、車社会以前のまだ道路事情を良くなかった大正から昭和初期では、滅多に訪れる機会もなかったにちがいない山間地(正確には中山間地)であった。同じヤマでも広々とした丘(山裾)の上に広がる集落とも異なる、どこか異境感の漂う地形である。筆者の生地(丘)を訪れていたのでは、名作には結びつかなかっただろう。


 最初の筆 興味深いのは、先に書くつもりであったのが、中央公論新人賞に応募した「楢山節考」(ヤマの世界)ではなく、『笛吹川』であったことである。『笛吹川』は生家周辺を小説の舞台としたサト世界の作品である。したがって入りこみやすい(書きやすい)からである。時間設定は戦国時代(甲斐武田三代時代)であるが、後述するように同化状態で書くことのできる点でも筆を進めやすい。しかも主人公は農民層である。後に近代を時代背景とした『甲州子守唄』が、同地を舞台にして書かれる。やはり農民である。最初に書きたいと思っていた世界は、すなわち「ふるさと」であった。

しかし、それが何かの拍子で農民が対象なのは変わらないが、「ふるさと」ではない「楢山節考」が先に書かれることになる。そして、「非ふるさと」の「楢山節考」が深沢文学の代名詞になることになる。前二作も終始一貫して庶民ないし庶民感覚をテーマとした、いかにも深沢文学的世界が横溢していて同作者の代表作の一冊に加えられているとことであるし、作者自身も「『甲斐の子守唄』は好きな小説である」(「深沢七郎傑作小説集あとがき」1970年(全集第八巻))と語っているところである。しかし、文学作品の高さとしては、「楢山節考」が前二作を尻目に圧倒的高さを誇ることになる。「ふるさと」は、のっけから超えられてしまったのである。

 「楢山節考」は特別な一作である。無名性の域に達していてあえて作者を問わなくてもいいのである。知ったとしても知ったことが作品の理解を深めるわけでも高めるわけでもなく、最初から深くて高く、さらにその先にまで届いてしまっているからである。無名性の域とは、作品が個人(作者)を超えてしまった事態である。それにしても、習作をそこそこにこれほどの作品がなぜ初っぱなから生み出されてしまったのか、しかも繰り返すように書きやすい「ふるさと」ではない。

やはり、一次的な「ふるさと」ではなかったことが重要なのである。『笛吹川』や『甲州子守唄』が書かれていなかったとしたなら問題とならないかもしれない。しかし、書かれたのである。しかも短編でなはく長編(中長編)として。深沢七郎は自分で短編しか書けないと言っている**。「ふるさと」だから書けたのである。故にあらためて問わなければならない。無名性を得たのが一次的な「ふるさと」ではなかった点を。同時に「至高の文学」の出処をである。

* 作者によって初期作品(習作を含む)として挙げられているのは、「狂鬼茄子(きちがいなすび)」「地獄太夫」「白笑」である。それ以前には「アレグロ」(恋愛小説)、「二つの主題」があったようでとくに「アレグロ」が最初に書かれた小説作品であったとされているが、「ただかいてみただけですぐ破いてしまった」とある。また「二つの主題」ほかその後の三作ともいずれも「みんなツマラナイ小説」だと唾棄的である(「深沢ギター教室」1973年(全集第八巻))。

** 「私はマンボやロカビリーやウエスタンのような小説を書きたくなった。短編しか書けないのはそんなことが影響したのかもしれない。」(「同」)


2 深沢文学の時空

「甲州方言の世界」 ここにきて作者の時空間が問題となるのである。それを以下、甲州の問題として知ることになる。具体的には次の観点からである。人類学者ながら多彩な評論を手掛ける中沢新一による「同郷人」ならではの着想である。実は、中沢新一も生地を深沢七郎の隣町(山梨市日下部)にもっている山梨県出身者である。中沢新一は解説(評論)を任された作品集のなかで、「甲州方言の世界」の特異性を取上げてみせる(中沢新一「深沢七郎の文学」(ちくま日本文学全集『深沢七郎』1993年))。そして、「その文体、会話や勢いや調子、人々のやりとりの呼吸、思考方法の突拍子もなさ、語り口の絶妙、といったかれの文学の特徴となっているものの多くが、私はこの『甲州方言の世界』から、栄養をえているように思える」と語る。

甲州関係の深沢作品(「楢山節考」『笛吹川』『甲州子守唄』など)を一読すればす   ぐ気がつくことであるが、たしかに、ぶっきらぼうで他所の人たちからは攻撃的にさえ聞こえるかもしれない。中沢新一は、それを「ちゃんとした会話と言うよりも、むしろ石つぶての投げ合いに似ていた」と修飾的に表現してみせる。なるほどと、「同郷人」としては合点の行くところであるし、関東東部の毒気のないどこか親睦的な言葉遣いなどを思い浮かべると、さらに「石つぶての投げ合い」への認識を新たにすることになる。

ところで、中沢新一が「甲州方言の世界」を取上げるのは、近代的自我とは異なる世界を、個人レベルではなく風土として語り、風土と一体の個人の位相から、「日本文化の中で、いまだに類例のない文学でありつづけている」その文学世界の深淵を覗き見るためであった。巻末評論であるから当然解説を意識している。案内的な観点に拠っているところである。ここではそうした「甲州方言の世界」のおおもとをなす、甲州の風土について語るくだりを注視することで、深沢七郎の内面に潜む「時空」をあらためて思うことになる。それは、中世(ここでは戦国時代)が直接近代に接続している世界であり、ときにそれが対外的に排他性として受け止められるような、また自らも排他性を良しとする「甲州の風土」についてである

* 筆者が甲州の気質について語っていた折、傍らで聞いていた知人から「排他性」を地で行くような思い出を聞かされたことがある。「たしかに閉鎖的なところだね。仕事で少し住まなければならなくなってアパートを探していたら、大家さんだか不動産屋さんだかに『山梨ちゅうところはともかくヘイサ的なところだから』といきなり言われた」と。そして、その際の自問自答を語って聞かせてくれた。なんのためにそんなことを言われたのか合点が行かなかったが、すこし住んでみて、どうも避けられているようでもなかった。悪い人たちではなかった。みんな好い人たちだった。どうも挨拶程度だったような気がする。でもなんでそんな「アイサツ」が必要なのかよく分からなかったが、いま話を聞いてなるほどそういうことだった――〝自分たちだけで構わない〟ということだった――のかと合点が行った、と。
筆者が例の一つに挙げたのは大善寺(旧勝沼町・現甲州市)、大井俣窪八幡神社(山梨市)である。前者は国宝(本堂及び付属厨子)・重用文化財(仏像計17体)・県指定文化財(諸仏具・文書群(平安末~江戸初期)ほか)で占められている。でも道脇(旧甲州街道)に小さな看板で「国宝の寺」とあるだけである。後者は鳥居(神門及び付属石橋)から始まって軒並み重要文化財(諸社本殿・拝殿ほか計8件)である。でも宣伝ぶりのなさは、近所の子供たちの遊び場だからといった、あっけらかんとした風情である。この「意味」のことである。


甲州の〝箴言〟 中沢新一は「楢山節考」を読んで、次の言葉を思い出したと語る。「彼ら(甲州人・注)は、文化程度が高いとされた信州や東京の人々から、甲州と謂う土地柄の遅れやヤクザっぽいその政治体質を批判されると決まってこううそぶいたものである。『甲州っちゅうところは、縄文時代からじきに明治の御一新になっちまったようなとこで』。これを無造作にほうり曲げるような調子で言う。そして、これが卑下の言葉のように見えて、じつは挑戦的の言葉なのである」と。筆者のまわりではあまり聞かれなかったように思うが(きっとサトではなかったからであろう)、通底するもの(気質)はあった。日々を占めていたようにも思う。

たしかに他地域に対する自尊心にも高いものがあったようである。異存はない。ただし、縄文時代がいきなり明治にというくだりは、中沢が取上げた(後掲)、甲斐武田家の戦国時代三代(武田信虎・信玄・勝頼)を変奏形態として媒介項とすべきかと思われる。なかでも武田信玄(地元では「信玄公」ないし「信玄さん」)との接点ではじめて自尊心に繋がるものであった。実態として近世を飛び越えて戦国時代から直接近代に繋がっていたのである。しかも同質状態で戦後にまで繋がっていたのである。

多くの地域で戦国時代は今に生きている。それは英雄を輩出した所だけではない。小国の一城主だけでも構わない。勝者でなくてもよい。敗者であっても構わない。挙句の果ては謀反人であってもよい。だたし有名な無叛人の場合は説明が必要である。無叛人であっても今に生きているとは、本来なら歴史上の大きさや知名度からいってそれに見合う表示行為が地元で採られているはずが、逆に必要以上に目立たなくしている、その意味においてである。すなわちマイナス性として今に生きているのである

* 大分前(20年ほど前)になるが、亀山市を訪れた時、地元の博物館(亀山市歴史博物館)に立ち寄って驚いたのである。明智光秀の記述が、掲げられた横長のパネル年表(亀山市歴史年表)中にしか見出せなかったからである。近江坂本城が居城であるにしても、丹波亀山はそれに次ぐ重要な城(丹波国支配)であった。築城者は光秀である。しかし、明智光秀の痕跡は、皆無に近い展示内容であった。その後、亀山城に立ち寄った。明治時代廃城となった城跡は、大本教の教祖によって購入され、大本教の拠点となった。その後、戦前の宗教弾圧により爆破・破却の憂き目に晒された(大本事件)。戦後、本部は再建され今日に云っている。一般者立ち入り禁止の城址の外側からの眺めにも「不在」の様が浮かび上がっていた。この機会にとウェブ上で再訪した。開館後20年が経つはずの歴史博物館には、相変わらず明智光秀の痕跡は探せない。数多く解された企画展を最初の回から辿ってみても見当たらないのである。かわりに近世亀山城や城主に関しては主要テーマ化されている。亀山市の歴史から見て同然のことかもしれないが。
それでも新しい動きがあって興味深かった。市の観光協会のHPに大々的に明智光秀のキャンペーンが張られていたからである。大河ドラマ化(NHK)のためのキャンペーンである。信長の暴走を食い止めた、求国的な歴史的功績に触れる部分が顕彰記事の中にあった。無叛人から救国者へである。署名活動も行なわれている。NHKへの正式な要請の運びになるのだろうか。
なお、居城の坂本城のHPには、城跡に建立された、鎧兜を身に纏った猛々しい石像が貼り付けてあった。


甲州の風土 甲州の場合はそれを極端なプラス性として生きていることになるのであるが、同様なプラス性をもたされた、たとえば越後の上杉氏、陸奥の伊達氏、小田原の北条氏の場合(とりあえず東日本の例から)とは違うのである。「信玄公」を直接に身体として感じている(実感している)のである。そうした傍から見たらどこかマンガチックなようなことがどうして生まれ、それが甲州の風土にまでなっているのか、縄文時代からいきなりの云々の文脈で語り出されたのであるが、次の「構造原理」に繋げるためであった。中沢新一は次のように解き明かすのである。

甲州というところは、縄文時代に一気に近代が接続してしまった土地柄だと、というこの言い方には、一抹の真理が含まれている。ここでは、中世から戦国時代にかけて武田家が栄えたが、その武田家はほかの戦国大名のように、領国を近世的に改革するよりも、軍事的な拡張に精力をそそぎ、その権力があっけなく崩壊してからは、徳川家の天領となってしまい、そのため藩政のもとに近世文化が形成される、ということがついにおこらなかった。ほかの地方が、徳川の三百年をかけて形成してきた、近世的な文化や人間関係のソフィスティケーションが、ここにはうまく形成されなかったのである。
                (上掲・中沢新一「深沢七郎の文学」より)
 
 甲州には近世がないといってしまえば極論かもしれないが、感覚的にはそれに近いのである。それ故といってしまっては、今度は短絡的かもしれないが、深沢七郎にも「近世甲州(石和)」は欠落的である。戦国時代を描いた『笛吹川』の後、近世を飛び越えて明治から終戦直後までを描いた、作者好みの『甲州子守唄』が示すとおりである。したがって、「楢山節考」は、地名の無表示化を条件とすることで、はじめて「甲州の近世」を舞台とすることができたとも言える。それでも生地である石和を使っては描かれなかった。使えなかったからである。時空としてである。それが、甲州内他地域(異境)の境川村が舞台である「楢山節考」と、甲州内地元(内郷)である『笛吹川』『甲州子守唄』との違いでもあり、表出した文学性のそれでもある。

 「楢山節考」には垂直性があるのである。後者にはそれがない。ないのが文学性を異なるものとしてしまう。深沢文学の場合、小説を芸術的高さにまで押し上げている垂直性は、深沢七郎の生地では求められないものである。生地を占めるのはひたすら水平性である。むしろ垂直性は、水平性を保証する側で意味を見出され、実際にもそのように作用することになる。

すなわち、甲府盆地という地形に由来する、大盆地を大盆地として成り立たせている周囲の山々がもつ隔絶性のことである。それを担う形として垂直性が意識下に上ってくることになるのである。したがって一次的な垂直性ではないのである。あくまでも水平性の確保を前提とした二次的なものである。甲府盆地(海抜300m)にとって(正確には盆地内盆地の平地にとって)周囲の山々は、その標高差(1,5003,000m)から言っても、人界未編入地であっても「壁」でしかなかった。しかも単なる壁ではなく、天地を分けるような、そして民話となるより天地開闢的な神話を求めたくなるような雄大なる規模性を誇っていて(同意見は少ないだろうが)、常に人智に立ち塞がるものとして周囲を囲繞していた。盆地内盆地なかでもその中心部の一角に位置する、深沢七郎の生地石和辺りの景観には、とりわけ平地性を際立たせる囲繞感に強靱なものがあった。

 
 3 甲州の歴史的特性
 
城山の不在 ただしこれだけ(自然的条件だけ)なら、深沢文学の時空の形成には至らない。空間性だけで終わってしまう。そのことからも中沢新一の記述が意味を有するのは、この空間性に時間性が付加されるからである。すなわち中沢の指摘する武田家の歴史(とりわけ最後の三代)である。

「垂直性」が自家薬籠中の認識に陥らないために、少し歴史場面に立ち入ってみたい。文学以外での具体化を試みるのであるが、歴史関係から垂直性を問えば、山城(詰城)の不在が格好の因子となる。各地にある「城山」は、居城でなくても根小屋(館)と詰城との相互性で、狼煙台とは違って平地との断絶ではなく連結を強めている。その山城が、甲府盆地の盆地内盆地周辺では、武田信虎が根小屋(躑躅ヶ崎館)詰城として築いた要害山(甲府市北側))や湯村城(同))を除いて欠落的なのである。自然条件によるものであるが、武田氏が戦国大名化し、外に領国の拡大を推し進めていった段階では、甲府盆地自体が天然の要害であった点も山城に消極的であった内因となっている。

 
平地経営とその記憶 勢い甲府盆地内の本拠地経営は平地中心となる。その際、町場、市場、寺社仏閣、道路、堰堤(信玄堤)などの目に見えた地表物は、土地との紐帯を強めるが、石和にはその周辺も含めて多くの痕跡が遺されている。古代では政治の中心地であった隣接の春日居町から、平安時代の国府移動を経て中世段階では石和が政治的中心地となり、守護職武田氏の歴代の居館も同地とされ、信虎も甲府以前には同地の居館に拠っていた。むしろ寺社仏閣などの宗教施設を含めると集中的と言ってもいいかもしれない。ここでは、その濃密な痕跡が、次の時代(近世)によって上書きされなかった点が重要となる。

 それを象徴的に物語るのが石和陣屋(石和代官所)の存在である。構えられたのは江戸前期(甲府藩時代)で、その後の天領時代(甲府勤番時代)を通じて、幕末まで天領支配(三分代官支配)の中核の一つとして深く土地に関わるのであるが、それだけに問題となるのは、陣屋(代官所)の場所が同じ石和でも深沢七郎の生まれた同町市部であって指呼の間に当たっていたことである。最も土地に密着した存在であるにもかかわらず、今、その跡地が小学校の校地となって校門脇に陣屋跡の石柱が建てられている光景が象徴的に物語るように土地(の記憶)との関係は薄い。かえって武田氏居館(市部との間は約1km)への思いが「記憶」に容れられているのである。

サラリーマン武士(代官所役人)は、菩提寺を地元にもたない。大本の甲府城もまた然り。天領時代以前の甲府藩(甲府徳川家)にしても、また甲府藩を委譲される形で入封した、かの柳沢吉保とその子息時代からはじまって、柳沢氏転封後の甲府勤番時代を通じ、在地性は最初から育まれない状況下にあった。中沢新一の語るとおりである。

 この封建制治下の構造的条件に加えて、『甲陽軍鑑』の成立(最古の古写本17世紀前半)と流布(甲州流軍学の流布)に象徴されるような、近世における甲斐武田家の広汎な復権が甲州に「中世(武田家)」を再現させることになる。徳川家(とりわけ徳川家康)による武田家遺臣の再被官化と重用を背景にした、半ば将軍家によって承認された公的なもの(精神性)であった。かく実態としての近世は、架空にすぎないはずの中世によって逆転的に上書きされてしまうのである。

ここには、農民はあっても士農工商としての農民はない。武田家との繋がりを(精神的に)生きているからである。しかも頂点を極めた武田信玄に繋がる形で生きているのである。驚くことに戦後にまで濃密に保たれた精神性**であった。「覇者」を心として生きているのである。それが「信玄公」あるいは「信玄さん」と親愛とともに尊崇の念を抱かせる呼称となった背景であり、甲州に広く定着することになった大本でもある。

* ただし柳沢吉保の墓は、武田信玄の菩提寺恵林寺(旧塩山市・現甲州市)にあり、信玄の隣に造られている。柳沢吉保の祖は甲斐源氏の流れを称し、武田遺臣として武田家の滅亡を共にしている。徳川家康による再被官化が、後に大老格の柳沢吉保を生むことになる。存命中、武田信玄の法要(年忌)を恵林寺で行っている。

** 筆者の子供時代、「信玄公祭」(412日)は、休校日になっていた。朝、学校に行くと、全校生徒が校庭に集められる。校長先生の武田信玄(公)の遺徳に関する「講話」を聴くためである。どのくらい長かったのかは忘れてしまった。校長先生一世一代の晴れ舞台であったかは知らないが、そんなに短かった記憶はない。最後はこうである。「では皆さん信玄公祭りに出かけて下さい」である。信玄の菩提寺である上掲注の恵林寺(なお『笛吹川』の最終場面で描かれる禅宗寺院である)にまで出かけるのである。冒頭の大嶽山祭と並んで「ヤマ」の子供たちが「サト」に出かけられる唯一の機会である。沢山の出店が建ち並び、芝居小屋まで出されている。「講和」で必ず語られる「山門」を訪ねる。織田・徳川連合軍に追い詰められた将兵を匿った僧侶たちが、共に山門上で焼かれるのである。有名な快川和尚がその最中で唱えたと言い伝えられる、「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」の偈を、子供では読めないながらも、高ぶる気持ちで見入る。ほとんど〝信玄公信仰〟である。さすがに今では取りやめになった「休校日」だとは思うが、かつてはこんなことがあったのである。因みに、412日は武田信玄の命日である。甲府で行なわれる信玄公祭(武田二十四将騎馬行列)は観光化してとくに有名である。恵林寺の信玄公祭りは、正確には「信玄公忌」(上記注「年忌」)である。また筆者の土地の鎮守(総鎮守)の祭日も412日である。合わせられていたのであろうか。


 歴史叙述の意味 深沢七郎の文学を考える上に、以上の歴史叙述が意味をなすのは、甲府盆地が創る平地性を、通有の小盆地意識の外に見出すべきことが求めているからである。小宇宙のなかで、「城山」に象徴されるような「里山」との間で取り結ぶ、人界に編入された垂直性に対して、最初から「人智の断絶」たる一次的を欠いた(上述)垂直性が、意識構造の深層にまで下がって、感性だけではなく理性をも規定していくからである。しかも重要なのは、かかる「水平性」を無化したあらたな意識裡で求められた発語とエクリチュールとによって、はじめて「芸術」に達する世界が切り拓かれた点である。正統な文学感(人間論)とは異なる見方かもしれないし、「同郷人」(ネイティブ)でなければ見え切れない(〝発音し切れない〟)部分かもしないが、「楢山節考」を貫く文学性の根底にあるものである。おそらくネイティブ中沢新一の着眼点と同根の発想である。なお、ネイティブが逆に見えなくさせることがあるのも念頭にとどめておかなければならない。

 
 4 深沢文学の二極性

 冒頭のジレンマ あらため「楢山節考」を繙く。「人間論」については断片的・部分的ながら以前触れたことがあるので(「御茶ノ水賛歌」(『北に在る詩人たち』私家版、2007年)、「『砂の女』のなかの「女」(本ブログ『インナーエッセイ』20135月))、ここでは「水平性の文学」である『笛吹川』『甲州子守唄』と対比的に取上げてみたい。少し長くなるが「楢山節考」の冒頭部分を掲げる。すでに「垂直性」のエッセンスが凝縮されているからである。

  山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりであるこの信州の山々の間にある村――向こう村のはずれにおりんの家はあった。家の前に大きき欅の根の切株があって、切口が板のように平たいので子供達や通る人達が腰をかけては重宝がっていた。だから村の人はおりんの家のことを「根っこ」と呼んでいた。嫁に来たのは五十年も前のことだった。この村ではおりんの実家に村を向う村と呼んでいた。村には名がないので両方で向う村と呼び合っていたのである。向う村と云っても山一つ越えた所だった。おりんは今年六十九だが亭主は二十年も前に死んで、一人息子の辰平の嫁は去年栗拾いに行った時、谷底へ転げ落ちて死んでしまった。後に残された四人の孫の面倒を見るより寡婦になった辰平の後妻を探すことの方が頭が痛いことだった。村にも向う村にも恰好の後家などなかったからである。
  その日、おりんは待っていた二つの声をきいたのである。今朝裏山へ行く人が通りながら唄ったあの祭の歌であった。

   楢山祭りが三度来りゃよ
      栗の種から花が咲く







  もう誰か唄い出さないものかと思っていた村の盆踊り歌である。今年はなかなか唄い出されなかったのでおりんは気にしていたのであった。この歌は三年たてば三つ年をとるという意味で、村では七十になれば楢山まいりに行くので年寄りにはその年の近づくのを知らせる歌でもあった。
  おりんは歌の過ぎて行く方へ耳を傾けた。そばにいた辰平の顔をぬすみ見ると、辰平も歌声を追っているように顎をつき出して聞いていた。だがその目をギロッと光らせているのを見て、辰平もおりんの供で楢山まいりに行くのだが今の目つきの様子ではやっぱり気にしていてくれたかと思うと、
倅はやさしい奴だ!
  と胸がこみあげてきた。        (『楢山節考』冒頭・傍線引用)


 もし、aを枕にして山間部の村景を景観的に描きたいだけなら、bの部分では、あえて「信州の」と限定法を使わないで、「この山々の間にある村」だけでも十分であった。信州としなければならなかった理由は、棄老伝説で周知されている場所であるからにしても、なくてもよかったのである。事実、cでは「村には名がない」と地名(村名)を無名性に読み替えてしまっているからである。

この地名に対する態度の違いは、上掲の作者自身の言とおり、具体的な舞台が甲州の中山間集落(旧境川村大黒坂)であったことによる現実問題があったからである。舞台上の齟齬から突き上げられるなかで、「信州」と「村には名がない」の両者に拠ったのは折衷案ともいうべきトリックであったが、作者の内奥にあったのは、齟齬を創らなければならない意識上のジレンマから手っ取り早く解かれていたかったからである。したがって齟齬が問題なのではない。問題なのはジレンマの方である。架空の垂直性を抱えこまなければならなかったことである。

このままでは偽り状態の上に筆を執らなければならない。書く必然性を問われる事態である。それがいつか(いや冒頭から)必然性など容易く乗り越えて、絶対的な価値に手を伸ばしているどころか早々と普遍性に届いてしまっている。

すなわち、「死」とその「不遜」(d)、「予祝歌」(e)であり「予告」(f)であるもの、そして不合理に背を向けた開けぱっなしの「祝祭性」(g)――しかも、決定的なのは、d~gを含意しない叙述の形而下性である。とりわけ、「死」を「栗拾い」と等価的に綴るdである。死の尊厳、とりわけ身内の死に対する悲劇性も哀悼性もない、まさに不遜というべき「谷底へ転げ落ちて」という粗雑な叙述ぶりである。まだ去年のことである。喪明けが問われるどころではない。eの「祭の歌」にたちまち繋げてしまっているからである。このd(「死」)を一顧だにしない、否、不義的な倫理感のなかでなされる背反的な叙述移行、しかも移行のもつ同一地平性と、まるで詩を掲出するかのような為され方の、行開け・字下がり・改行に及ぶこの特別扱い――「書くことの必然性」を問うところではない。それ以前である。世界それ自体を不信に晒して顧みないのである。

 
容れ物としての個体 振り返って確認する必要もなく、問い立てられるべき作者内のジレンマなどすでに意味をなさなくなってしまっている。冒頭から作者を超えてしまっているからである。それにしても超越的とも言うべき作者を超える世界構築がなぜ企図可能であったのか、それに見合うのは個人を超えた存在でなければならないが、それでも個人が必要であるとすれば、それは手放しではその存在は現出しないことである。やはり深沢七郎は個人として必要であった。しかし、彼の形而下的個人ではない。優れて形而上的な個人としてである。

再び「水平性」である。深沢七郎は、その形而上性の容れ物として重要であり意味を有するからである。容れ物として優れていたのは、垂直性から疎外感をそのまま身体としていたからである。しかも疎外感を増殖させる体躯であったからである。それは異質な垂直性を生きなければならないことでもあった。時代的宿命であった。すべてのはじまりである。この場合、垂直性というより近代が抱える「垂直指向」と言った方がより相応しい。深沢七郎の少年時代に立ち返らなければならない。

 
少年時代の履歴 それまで既定の水平性で済んでいたものがそうは済まなくなってしまう。近代を迎え入れなければならなかったからである。しかも縄文から一気にの「近代」であった。勉学は小学生の頃から不得手であったが、名門の中学校(旧制日川中学校)に進学することになる(実際はここでも「武田家」が学校として唱えられる(「自伝ところどころ」)。成績は芳しくない。いつも落第を心配しなければならなかった。でも学校以外で勉強することなど最初から頭にない。その彼が出会ったのがギターであった。13歳の中学1年からだった。多彩な楽曲を楽しんだようだが、中心となるのは硬い曲(クラッシック)であった。修辞的に言い表すなら、「近代」が突如として「弦」として立ち現れたのである。とは言え、楽曲のなかに目覚めた近代的自我ではない。あくまでも弦である。強いて言えば響である。

楽器と言えば萩原朔太郎のマンドリンがすぐ思い起こされるが、近代的楽器から郷里に憂鬱を覚えることもなかった。そもそも上京したからと言って、朔太郎と違って郷里を厭わしく思っていなかった。「将来は百姓になりたい」と思っていたくらいである(後年実現)。しかしギターは一生ものであった。出会った最初からそう感じていた。理性ではなく感性がそうさせたのである。近代に侵食される朔太郎が理性を通じてであるとすれば、深沢七郎の場合は感性であった。

小説も音楽形式を真似たようなものを書きたいと願っていた――「音楽の『ロンド』とか『フーガ』とか『変奏曲』のような型を小説の構成に使いたいのが小説を書きたい一番の魅力だが、どれもうまく出来上らなかった」(「深沢ギター教室」(全集第八巻))。そして「形式」だけではなくこうも語っている――「私が初めて書いた小説は『アレグロ』という題だった。音楽でアレグロというのは、速さだけではなく、音の質である。速く、鋭角的な音で出てくる曲なので、私はそんな味の小説を書きたかったのだ」(「同」)と。結局、「アレグロ」は拙い恋愛もので破り捨てられてしまうが(前述)、実は、「楢山節考」こそが「アレグロ」の条件(「音の質」「味」)を満たしていたのである。しかし、地元「石和」では「アレグロ」(の切れ味)は叶えられない。「早く、鋭角的な音」とは、「水平性」に対して常に不定的だからである。

 
アレグロの作品 上掲「楢山節考」の冒頭部に戻れば、同作品が「アレグロ」なのは、a~gがもつ構成上の緊密性であり、とりわけ「e」の効果(「変奏曲」的効果)である。全体としてはポリホニーである。興味深いことに深沢七郎は、散々クラッシックのギター演奏に勤しんでいたのに、ついにはクラッシックを敬遠するようになる。クラッシックプログラムで行なわれた演奏会(1952年)が最後である。以後はフラメンコが中心でなる。反クラッシック主義者にさえ転身してしまう。その部分を参考までに引けば次のとおりである。

――「クラッシック音楽は音を楽しむのではなく音楽に思想だとか、感情だとかをのせようとしたもので音楽とは違ったものだと思う。音楽は音の高低やメロディが目的ではなく、また歌とは別なものだと思う。音楽はリズムで表すよりほかに方法はないはずだ」(同上「2」)。いささか乱暴ながら「理論」をもっているのである。

しかし、「音楽でない」ポリホニックな構成があってはじめて「楢山節考」は実現したのである。見事なほどの変奏振である。楽曲の主題部となるのは、「お山まいり」あるいは「お山に行く」である。要所々々で話題に出されるのである。否、奏でられるのである。様々な村の様子(寒村状態、家の位置、墓場、裏山の状況)、村の風習(とりわけ「楢山まいり」)主人公おりんの家のなかの話題(息子辰平の嫁取り、孫けさ吉の〝できちゃった婚〟)、村の中の出来事(盗人騒ぎと制裁)、時にはおりんの「お山まいり」に向けてのもの思い――以上を素材とした各変奏によって主題部(「お山まいり」)の緊密度が逐次的に高められ、話題の各総括あるいは転換に主題部の和声部分となる挿入歌(民謡)が、各変奏に味わいを添え場面転換の必然をもたらすのでる。

 
大フーガ そして大詰めの「お山まいり」は、壮大で緊迫感に溢れた一大フーガである。冒頭からの各変奏は、すべてがこの「フーガ」のために用意されたものであり、「音程」も巧妙にフーガを響かせるために調音されていたのである。しかも驚くほどの上昇音階を奏でるのである。おそらく各素材の力である。伏線には、単旋律で横走的な挿入歌をはじめとして、各話題のもつ強烈に土着的で因習的な風土性があったからである。しかも本来はサト(石和)と同じ水平指向の裡にあるものであった。それが一気に転調を果たしてしまうためである。それも近親調のなかでではなく、「遠隔調」によってである。楢山という神山のみに許された調音によってである。人間を超え、生命がむき出しになった楽音である。ただし「巻末」に添えられた作詩・作曲深沢七郎の「楢山節」には、「フラメンコ風」の指示があるにしてもである。

 
ボレロ(「東北の神武たち) 「大フーガ」は、深沢七郎の中でも特別なものであった。「石和文学」(『笛吹川』『甲州子守唄』)を繙けば一目瞭然である。さらに「楢山節考」(1956年)直後の書かれた「東北の神武たち」(1957年)と比べても良い。後者の評価が低く、後に作者が「これは(「東北の神武たち」・注)、悪評ばかりだった」(「悪批評と好批評」1964年(全集第八巻))と述懐するに及んでも、致し方ないことである。「名曲」の直後だったからである。最初に発表していたら高得点が得られていたに相違ない。でも「楢山節考」の後(直後)だった。タイミングが悪かった。しかも世界が似ていたことが「悪批判」に加勢してしまった。分量も楢山節考(104枚)に近い中編(125枚)だった。姉妹作品の外形を採っていたのである。とりわけ書き出しが類似していたことが、常に「楢山節考」を傍らにして読まれてしまうことになった。次のようにはじまるからである。

村の東はずれに明神様があって、そのまわりの林は明神ばやしと呼ばれて、その枯枝でも家の中に持ち込めば腫れ物ができるとか、しものやまいをするとか、と言われていたのである。明神様の前から西のはずれまで真直ぐに道があって、その道に付き従うようにどの家もあった。西のはずれにも林があって、その真ん中の利口坊地蔵の前まで続いていた。

結局、冒頭は「楢山節考」と違って、前奏曲にもならない。唯一「しものやまい」が間接的にその後の展開を暗示しているが、展開を追っていくと「やまい」の話ではなく、「祟り」(怨霊)の浄めを前提にした「一夜花婿」の話である。「ヤッコ」とか「ズンム」とか呼ばれる村の「一人前の人間扱いされていなかった」次男・三男にもたらされた、一晩の性とその均等に回ってくるはずだった性からも疎外されてしまう、哀れなる主人公利助のブラックユーモア的な葛藤劇と、最終局面でのこれまた究極的なブラックユーモア性のある〝福利劇〟である。

この村で嫁をもらえるのは、総領だけで次男・三男は嫁を貰うこともう家を持つことも出来ない。下働きに生涯を費やすのである。ある家(三角屋敷)の亭主が苦しみの揚句臨終を迎える。これは祟りだと亭主は言い、この機会に家の祟りを晴らさなければならない。そして、妻(嬶(かかあ))に遺言するのである。村の「ヤッコ」たちを「一晩ずつでも花婿にならせてやるのだ」と。過去に亭主の父親が、夜這いを繰り返す「ヤッコ」を打ち殺したことがあったからであった。それに亭主にも似たような経験があったからだる(ただし犬)。

楽曲に擬えれば、有名なラヴェルのボレロ(一幕のバレイ音楽)ではないが、リフレインの繰り返しを抜きでない。ボレロのような楽器法の変化がつくる球体的な膨らみに対して、利助の焦りはどこか尻つぼみである。

畑は斜面に作られている。村には裏山もある。似た集落景景観である。事実、作品中の叙述には、「向こうには山と山が連なっていて、どこまでも山ばかりである」のどこかで読んだことのようなくだりもある。しかし村を貫く道(〝花婿道〟)との間で繰り返れるリフレインからは、裏山は紙芝居の背景画のなかにとどまる。唯一、「きのこ」(利口坊=知恵・健康のための万能薬)のはえている山――「あの山のどこかに利口坊があるのだ」と関連付けているだけで、それも目の前にぶら下がった「福」を確実に手に入れたいためでしかない。結局、山は、ここでは村の「秘儀」に繰りこまれて、存在感に浮かび上がる山容は喪われてしまう。この場合、「山容」を「垂直性」と言い換えることができる。

 
「石和文学」1 それが「石和文学」の場合は、開始直後からサトと固定している。最初の長編小説(中長編)である『笛吹川』が書かれたのは、受賞の2年後である。すでに紹介したように執筆経緯としては最初に書こうとしていた作品であった。全9章仕立てであるが、叙景部分は極めて限定的で、思い出したように触れられても、キッチョン籠の前を流れる笛吹川の話(とくに洪水話)ばかりである(大詰めではじめて違う叙景が浮かび上がる)。川はもとより流れとして具象化される。しかも平地(甲府盆地のただ中)をながれる川(平地川)では垂直性に乏しい。渓谷を流れ下る谷川でも断崖に飛沫を上げる瀑布でもないのである。深沢七郎は中上健次に好感を抱いていたが(「『たったそれだけの人生』あとがき」1978年(全集第10巻))、中上健次が想いの丈を寄せる、熱い(篤い)「ふるさと」でもないのである。

冒頭部分は、それが戦国時代のなかにあるとは俄かに信じられないような、非時代小説的なタッチである。しかし、武田家三代を対象とした、時代背景としては堂々たる「大河ドラマ」である。しかも戦国のリアリズムを生々しく生きるのである。領主との関係も時に双方的なのである。単なる背景ではないのである。

すでに述べた「中世を今に生きる甲州人」の「リアリズム」が実現させた「ヴァーチャル・リアリティ」であるが、それ故に歴史時間に未処理で侵入(家宅侵入)していることが、さらに歴史的な時間感覚の脱骨化を推し進めて、作者の自覚はと言えば、「中世は今に似ているので」と、自己処理も無用であったかのようである。


「石和文学」2 その点、『甲州子守歌』の場合は、時代設定が明治から戦後直後までなので、時間処理と無縁の共時的な気分で筆を執ることができた。両作品は姉妹編に見ることができる。「ギッチョン籠」が、(土手の)「俺家(おらん(ち))」に代わっただけである。生臭い生き死の場面はさすがに鳴りを潜めたが、倫理感覚は五十歩百歩である。それに時間処理では有利に見えても、今度は渡航問題が待ち構えている。北米移民である。20年にわたる「アメリカ出稼ぎ」が、筋の骨格となって作品のパースペクティブとなっているからである。

それがまるで無頓着である。主人公の徳次郎が帰国後、再び東京に出稼ぎに行く場面があるが、まるでアメリカ行きもその程度でしかない。距離感の違いが描き分けられていないのである。武田家三代で許された(超)リアリズムを無頓着なまでに取りいれて、渡航という、普通だったら抱えこまなければならない緊張関係に対する対峙を持ち合わせない。自覚がない。確信犯である。それが二つの「石和文学」がつくる「時空」である。


哲学的領域 深沢七郎の時空感覚が問われる。しかし、いまや個人として問われるのではない。個人が属する総体として問われなければならない。短絡的には土地柄(オクニ柄)であるにしても、生活振りや社会関係でないところで問われる必要がある。「ふるさと」と一体的に捉えがちな風土や自然に対する通有な感覚もないからである。ないから不在を強調してしまうと言いすぎかもしれないが、すくなくとも抒情的なものとは異質である。

実は、「水平性」をいかに言い換えようかと当惑気味なのであるが、課題の外形を再度説明すれば、特殊な条件を「条件」として生まれたものである。このような言い回しをする限り、哲学的に見出されるものであるかもしれない。おそらくそうであろう。本来胚胎されていない水平性に歴史時間が、縦位性を無視して複層的に同化しているからである。次元構造が解体的なのである。

この次元解体からは、心の振幅(水平性/垂直性)に作用し適度な感性的刺激となる、四季的な変化にリズムカルに作用する人文感覚を見出せないばかりか、逆に疎外感に傾く離反性ばかりである。一例だけ上げれば、生命の危機(嶋中事件(『風流夢譚』事件とも))から、逃避行先の一つであった北海道の大地を流浪した深沢七郎が、北海道に覚えた親和的な思い(とくに根室では生命的な思い)が(「流浪の手記」全集第7巻)、あるいは「水平性」が哲学的領域に属するものであることを再度教えてくれる。いま、そのくだり(一部)を引く。唐突に会話部分からであるが。

「根室は涼しいぞ、寒いくらいだ」
 と言う話し声が聞こえてきた。私は窓から首をだして、
「根室はそんなに涼しいですか?」
 と大声で騒いだ。
「ああ、涼しい。けさ根室から帰って来たばかりだ」
と言うのである。(そうだッ)と私は立ちあがった。そうして私はすぐ根室へ行くことにきまった。
釧路までは行ったことがあるので汽車で行って、そこから、私は下駄バキで歩いた。根釧原野と呼ばれる不毛の湿地帯だが、広い草原で道もなく誰もいない。逢うのは野花の群ばかりである。八月の中旬というのに開拓地の畑は菜の花がいまさかりである。誰もいない草原に深い霧は魔法のように忽然と目の前に群を現わすのである。黄色い除虫菊の群生も、桃色のげんのしょうこの花々も、名もしらない野生の群は黙っているが、あざやかに咲いている。血のしたたるような真紅の花の房は、ナナカマドの実なのだ。吐息で染まったようなサビタの花は林のように続いているのである。
花咲港まで三日も歩いて私は根室へ着いたのである。「ううーウ」と苦しいうめき声で鳴るのは船と船の衝突を避けるために灯台から鳴らす霧笛である。ひるまだが、霧で宵闇のように暗い。たまに通るトラックはヘッドライトをつけているし、この道にはハマナスがまだ咲いているのだ。ここでも霧の魔法は、突然、草原に巨大な乳牛を蜃気楼のように現すのだ。
霧は、むこうの方にもうろうと農家らしい影を現わした。私の幻想は、その家に近づいて、私の名を告げて、その家から出て来るのは私を狙っている若者なのである。私は誰にも知られないように殺されて、誰も罪人にならないで死にたいと、ここまで来たのかもしれない。

ここには限りない「水平性」=根釧原野がある。霧もある。しかし、一方には確固たる意志がある。しかも死へのである。まさに「楢山節考」の死である。違うのは独りで「行く」ことである。

次のように語ると味気なくなってしまうが、垂直性が目の前の霧の中で揺らめいているのである。根釧原野を経て根室に行った経験がある人なら分かる。ここには水平性と垂直性が重なり合っている。

それにこの描写。深沢七郎には「奇跡的」に深い叙述である。「死」に向かう苦行者の歩みの先に綴られた文(ふみ)である。ここにも重なり合いがある。「歩み」と「死」との二極性である。原野(まさに原野!)を、三日をかけたその思いは、根室に向く目線と死を天に仰ぐ二者である。自らの身体を賭した「楢山節考」が、ここに描かれていたのである。

補足しておかなければならないだろう。嶋中事件(1961年2月)とは、諧謔小説のつもりで書いた『風流夢譚』(1960年11月)が、皇室を侮辱していると世情を騒がせ、出版元の中央公論社の嶋中社長宅に抗議に押しかけた右翼の若者(少年)が、夫人に重傷を負わせ上に、止めに入ったお手伝いさんを刺殺してしまった事件である。嶋中社長は不在だった。それから深沢七郎は、身を潜めて各地を流浪する日々を続けた。罪を犯した右翼の少年も含め、すべて自分が悪いのだと、懺悔の思いに苦しみながらの流浪であった。

 
おわりに

終の住処と「ふるさと」 どちらが「ふるさと」であったのか。石和そのものである石和文学か。あるいは垂直性を借りた「楢山節考」であったのか。それ以前として較べられる性質のものであったのか。

すくなくとも「楢山節考」が、現実の「ふるさと」でなかったのは、「終の住処」が埼玉中央の、見渡す限り平らな菖蒲町の田園地帯の一角(「ラブミー牧場」)であったことで明らかであるが、だからとってそれがそのまま「文学のふるさと」となるかは別である。いきなり「楢山節考」を世に問うて以後、自らとしてもその頂点をサトで仰ぎ見るしかなかった文学者を、その後の在り方としても問わなければならないからである。

あるいはサトにしか棲めない深沢七郎は、「ふるさと」から疎外されていたのかもしれない。それが特殊な条件下で育まれた「水平性」の原質であり、同時に自らのテリトリーのなかに一人の天才的才能を俟って、欠落部分を埋めさせる役目を負わせていたのかもしれない。

しかし、一度きりである。一度埋められた「水平性」は、それがあまりの出来栄えだっために、予想外に「水平性」を全ったきものに強化してしまったからである。もはや役目を与えられないどころか、そのことのよってさらに疎外感を深めなければならなくなる。彼の個人性は必要とされなくなってしまったのである。生命に届く高みを一度経験させられた代賞に、「ふるさと」を喪うことを要求されたのである。

したがって「石和文学」は故郷喪失者の「私小説」なのである。もはや二次的水平性(ラブミー牧場)のもとで生きるしかなかった。再び喪失する心配がなかったからである。ただ単に農業をやりたかっただけとしても、山さえよく見えないような平地(日本列島のなかで唯一の場所。もう少し東側であったかもしれないが)は、精神的にも喪失者の気持ちを逆撫ですることもなく、安逸な日々を約束してくれる。

その時、かつての水平性に浮かび上がる景観――最初から喪うように仕向けられていた「ふるさと」、それが甲府盆地を生きたものの原点であり、深沢七郎がネイティブに残した「時空」でもある。継ぐべき遺産だろう。

 
 ただし、これは結論ではない。仮置きの提言である。それに筆者の「ふるさと」は、また別な位相にある。したがって自分を念頭に置いた「ふるさと」論ではない。しかし、「提言」は、筆者の「ふるさと」の分析を求めている。最初から垂直性のなかに生を得ていたからである。実は目と鼻の先で二分しているのである。これも甲府盆地が抱える原質的な要因である。まだある。近世である。深座七郎に置き忘れられたかのような近世の実態(精神も含めて)を知らなければ、しっぺがえしを食う気がしてならない。近世は思いのほか懐が深いのである。自戒としたい。