2014年11月30日日曜日

[ま] マタイ受難曲~バッハに現れた「女性の声」~


はじめに~二つの思い出から~

最高の楽器 音楽の中で最高の楽器は人の声、それもソプラノ歌手である、と詩人の鷲巣繁男さんが語ったのは、どんな折だったのか、今となっては思い出せないが(1980年前後のこと)、いささか断定的な口調で語られたことだけは、印象的な一言としていまだにはっきりと記憶にとどめている。たしか1枚のレコードを手にしていたと記憶している。所蔵されていたクラッシック音楽のレコードには、多くの声楽曲とりわけ宗教音楽が含まれていた。正教徒ながら詩人の音楽鑑賞は、宗教に偏することなどなく、宗派を超えてひろくキリスト教音楽を聴いていた。声楽曲に関する話の折だとすれば、マーラーも取り揃えていたからマーラーだったかもしれない。声楽をとり入れた交響曲も少なからず作曲している作曲家だった。

マーラーだったのだろうか、そうではなくやはり宗教音楽ではなかったのか、依然として思い出せずにいるが、いずれだったにしても一連の記憶のなかで確度として高いのは、歌曲集ではなかったはずだと思い出させる点である。その美しさが際立つには単声でない方がいいからである。協奏曲のカデンツァのようにその箇所では独奏状態であっても、管弦楽と一体となった人の声が発する響きの至高性は、とりわけアリアなどの独唱部分で、器楽が浮かべる残響のなかで一際甘美な音を響かせることになる。リートなどの伴奏のみでは果たせない響きの複合的な効果である。


二つとしてない曲 ここに《マタイ受難曲》を取上げるのは、この詩人の思い出に加えてもう一つの思い出が重なって、それがいつかバッハの《マタイ受難曲》を語る機会を俟っていたからである。思い出とは、「こんな美しい曲はこの世の中に二つとしてない」と友人の某氏が以前語った一言である。第49曲のアリア(「愛よりして」)のソプラノによる響きだった。実は筆者としては意外な一言だった。記憶をより一層印象深いものにしていた理由である。

某氏とは若かりし頃、音楽アパートというほど音楽好きが集まったアパートの同じ住人だった(別に音大の近くではない)。彼の発案で発足した私的な音楽愛好サークル(「浦和ブルックナー協会」)で日々音楽談義に耽っていた。彼は、ブルックナーとフルトヴェングラーに入れ込んでやがて人生を彼等によって決してしまう程のファナティックな熱の入れようだった。筆者も、サークルの一員に見合う程度を超えてブルックナーを聴き、その演奏において一際は傑出し、演奏自体が指揮者の域を超えて一つの高い芸術性を生み出していた、世紀の大指揮者であるフルトヴェングラーを聴くにおいても同じ情熱を傾けていたが、彼のように人生を決めてしまうなどということは固よりあり得なかった。それにブルックナーと並んであるいはそれ以上に聴いていた作曲家の存在があった。実はそれが某氏の言葉を意外な一言として受け止める大本にもなっていた。

それは、モーツァルトだった。特に彼に関係することではK.621の《レクイエム》だった。彼は、純粋器楽でない、声楽主体の宗教音楽への発言を日頃から抑えていた。意図的だと思っていた。その彼が、ある日、小生の手許に一枚のレコードを提示したのである。モーツァルトの《レクイエム》だった。それ以前、筆者が熱っぽく語っていたからである。それもある指揮者の一枚のレコードを掲げてである。いまだ若いカール・ベームが、ウィーン交響楽団を振った一枚(モノーラル録音)だった。ベームはモーツァルトを得意としていたし、その《レクイエム》は歴史的名盤として定着していた。でもそれは、筆者が推していたモノーラル録音盤ではなく、年代的にも後のウィーン・フィルを振ったステレオ録音盤だった。ベーム以外の指揮も聴ける範囲内で聴いていた。そのなかで下したつもりの結論(決定版)だった。

実は彼が提示した一枚も聴いた上での判断だった。それはそれでベーム以前の歴史的名盤として知られていたものである。ブルーノ・ワルターが、1956年にニューヨーク・フィルを振ったものだった。彼は筆者が聴いていないと思っていた(はずである)。実はその辺の説明を省いていたのである。そうかもしれないが(歴史的名盤かもしれないが)、やはり今一つ迫ってこなかったと、名盤試聴歴に関する部分を省略してしまったのだった。そうしたのは、モーツァルト指揮者でもあるワルターに対する敬意からだった。それに、今一つと言っても、ベームとの違いを自己説明し切れていないでいたからだった。そう具に語っておけば、彼が自分の趣意を違えてまで、純粋器楽意外の一枚を提示して見せることはなかった。わざわざ購入までしてくれていたのである。

レコードを返す際、どの程度の言葉を用意して「やはりベームの方が(良い)」と感想を述べたのか正確には記憶していないが、彼が後日筆者に語って聞かせたところでは、レコードは返却したということだった。一度試聴してしまったものをどのようにして返却したのか気にかかったが、あえて問わなかった。筆者への〝反論〟として受け止めなければならなかったからであるが、それ以上に彼なりの「自己批判」であったと思えたからである。その後、彼と声楽曲の話を交わすことはなかった。その分、純粋器楽の楽曲や演奏会の談議に多くが費やされた。社会に出るようになって、それぞれの人生を生きるようになってからも、久しぶりの再会の折には、メインの話(彼の思考世界の開陳)が一段落ついた後では、必ずと言ってよいほど音楽の話題になる。最近何を聴いているのか、演奏会に足を運んでいるのか、とその時だけはかつての同じアパートの住人同士に戻る。

おそらく20年は経っていただろう、思いがけなく「君は、オペラは聴かないのか?」と訊いてきたのである。即答気味に「ああほとんど」と答えたが、それ以上にそう訊かれたことに驚いて見せるようにして問い返すと、「ああ、この頃よく聴いている」と待ち構えていたように応じてくる。まるで一つの意思表示のようだった。重厚なドイツ音楽に聴き入る姿しか知らなかったのである。どんな曲を? と問い返せない。彼としては訊いて欲しかったに違いないが、あまりの乖離に問いかけが躊躇われてしまう。そのまま話が終わってしまいそうだった。弁解気味に「宗教音楽ならよく聴くが」と間を埋めたのである。

忘れていた《レクイエム》の一件が頭を過った。打ち消すように「バッハの《マタイ受難曲》は特によく」と言葉を継ぐ。彼は残念だったに違いない。オペラの話にならなくて。でもそんなことは悔やまない。そもそも悔やむという発想がない。哲人だった。普通の人間の次元を超えていた。昔も今もすこしも変わらない。さらに昂じていた。その時だった。さらに予想しない一言が彼の口を衝いて出たのである。それが「二つとしてない」の一言だった。しかも、まるで自分に向かって語りかけているかのようだった。彼の自答する表情に感じたのは、すでに驚きなどという即応的で表面的なものではなかった。真なるものを思い浮かべて、恍惚感にさえ浸る一人の人間の内面に対する畏敬の念だった。それをも驚きとするなら驚きだったかもしれないが、それを友人にもたらしたバッハの音楽(《マタイ受難曲》)への畏敬と重ね合わさることで、その折のことが今に甦るのである。

三位一体の思いであった。一つが「最高の楽器であるソプラノ」、一つが「二つとしてない歌(アリア)」、そして一つが「一つだけと言われたならの音楽」(「哀悼 吉田秀和」20125月ブロブ参照)――バッハの《マタイ受難曲》とは如何なる音楽なのか、バッハの最高傑作である、音楽の至宝ともいうべき楽曲が、一人音楽芸術に止まらず、個別の芸術領域を超えて、人間が創り得た芸術のなかでも最高位に位置するものの一つであるとしたなら、なぜそうなのか、そう思うことになるのか、以下は、三位一体の内、上の二つの視角から《マタイ受難曲》の再体験への糸口を探るべく書き綴るものである。



Ⅰ 楽曲へのアプローチ

一冊の大著 参照するのは、その分析に10年を費やした上になされという一書(磯山雅『マタイ受難曲』東京書籍、1994年)である(なお、以下では明記されていない場合でも、間接話法になっている部分は、多くがこの大著に拠るものである)。まさしく「一つだけと言われたらの音楽」(吉田秀和)に見合う内容で、音楽芸術への深い学識とバッハへの深い畏敬の念が生み出した記念的な「作品」である。同書は、大きく「序論」と「本論」からなり、「補章」として演奏(史)評(レコード/CD)を綴じこむ。

「序論」は、音楽史から見た受難曲を、手抜かりのない前置き部分にして(第1章)、後続の4章分で、バッハの作曲した《受難曲》の全貌に対する資料学的分析(第2章)、バッハが《マタイ受難曲》に採用した歌詞(自由詩)の分析(第3章)、自由詩を含む歌詞の神学的背景(ルーツ)に対する分析(第4章)、そしてアリアと並んで《マタイ受難曲》の一局を構成するコラールに対する史的分析(第5章)を付け加える。「本論」は、全68曲を一曲ごと個別にそれも単に音楽的にだけではなく、時には思想史的言及を惜しまずに分析したもので、全体では500頁を超える大冊となっている。帯に記された「画期的な作品研究」とはそれでも控え目なくらいである。

しかし、この大冊から参照するのは、わずかに3曲分である。友人の口を衝いて出た「二つとしてない歌」である第49曲と、もっとも有名な一曲として知られている第39曲のアリア――と言っても、歴史的状況(ナチス侵攻)も重なって、その箇所で会場の彼処からすすり泣きが洩れたことで有名なメンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1939年)の実況録音盤が、〈すすり泣き〉付加価値として有名度を高めているのかもしれないが――そして第一部の最初のソプラノ・アリアである第8曲の3曲である。


男声/女声 39曲は、アルト独唱である。したがって趣旨からすれば、すでに「最高の楽器」に抵触してしまうことになるが、抵触するのはそれだけではない。それ以前に歌唱の歴史(歌唱史)がある。抵触にとどまらず、より本質的な問題として横たわる。女声と教会の関係が問われるからである。とりわけ女性歌手が教会内で歌うことを認めない当時のカトリック教会では、ボーイソプラノやカウンターテナー(男性アルト歌手)、ファルセット(裏声)、カストラート(変声期以前に去勢手術を施された男性歌手)によって「女声」を得ていた(パトリック・バルビエ/野村正人訳『カストラートの歴史』筑摩書房、1995年)。

プロテスタントだったバッハの場合でも高音部(「女声」)は、合唱団の一員であるボーイソプラノやカウンターテナーが担っていた。少年バッハが合唱団の一員(ボーイソプラノ)だったことはよく知られている。自らの過去を思い出させるような立場にも就いていた。音楽家として最も長い人生を過ごし、また人生の集大成でもあったライプヒィツ時代である。ライプヒィツ市のカントル(音楽監督)として、聖トーマス教会ほかの教会音楽に責任をもっていた。期間としても27年の長きにわたっていた。《マタイ受難曲》も《ヨハネ受難曲》もその職務の最中で作曲され演奏された。受難曲の演奏は、自作ほかを聖トーマス教会と聖ニコライ教会との間で1年ごとに交互演奏された。《マタイ受難曲》は、聖トーマス教会で1727年に初演された後、改稿を経て作曲家の手になる浄書譜の雄とされる1736年の「自筆総譜」に至る。

いずれにしても、高音部アリアを担ったのが、女性歌手でなかったことは常に念頭にとどめ置かなければならない。バッハがカントルを務め、自らの合唱団の指揮をとった聖トーマス教会合唱団の伝統は今に続いている。筆者も演奏会に足を運んだことがある。ただしその折のソプラノは女性歌手であった。すべてを男声で行なう演奏もある。筆者の手許にあるCDで示せば、グスタフ・レオンハルトの指揮(古楽器演奏)がそれである。古楽器演奏による《マタイ受難曲》では、当時の演奏スタイルを復元的に行なう意味合いからも男声楽団員によって「女声」を担わせているわけである。

* 「レシタティーヴォとアリアを含むすべての独唱部分は、当然のことながら、合唱声部のそのときどきで最良の歌手によって演奏された。当時の演奏に使用され、今なお残っているパート譜も、このような事実を裏付けている。」(スメント「教会音楽とその演奏」同著『バッハの教会カンタータ』バッハ叢書6、Ⅱ第3章、320頁)

「女性の声」 それでもここでは(磯山も高く評価する、名盤の誉れ高いグスタウ・レオンハルトを聴いた後でも。)男性(少年/青年)歌手による「女声」を前提に「最高の楽器」を語ることにする。そのために当面、当時(初演時)の「女声」や現代のアルト(女性歌手)を含めて、ここでは「女性の声」という広義の括り方をするが、核心は狭義の「女性の声」にある。命題化も狭義に浮かび上がる。後述に触れるように、バッハにとってアルトは、時には男声との入れ替わりが可能な音域・音質だったからである(第二部導入アリア=第30曲)。

その上で、我々が《マタイ受難曲》に聴くことができるのは、それまで西洋音楽が辿って来た調べが、「最高の楽器」と化した瞬間である。本稿の文脈で言えば、「化そうとしている」の方が正確であるが、その瞬間(「最高の楽器」と化した瞬間)が、永遠にその状態を保たっていることがさらに重要である。単に超えられないからではない。超えようがないからである。その意味でバッハが生み出した「女性の声」は、音楽史を超えたところに響く調べである。バッハは、その時一個人であると同時に総体でもあった。言い換えれば人間が辿って来たところに生まれる「必然」の代行者だったのである。必然が形となったもの、それが「女性の声」だった。バッハ出現の意味でもあった。

 詳しくは以下の説明によるが、まずは「女性の声」の外形説明から始めなければならない。具体的には、受難節上の位置、曲構成上の位置、そして歌詞上の位置についてである。すこし煩雑になる。


 受難節上の位置 三つのアリアは、《マタイ受難曲》の第一部の前半と第二部の前半及び中程に登場する。ところで《マタイ受難曲》は、新約聖書の四福音書の一つ「マタイ福音書」の第26章第1節から第27章第66節(受難節)をテキストにして、同部分(聖句)をレシターティーヴォ(福音書記者、イエスを中心に各場面での聖書上の人物=ユダ、ペテロ、大祭司、ピラトなど)が担い、コラール(讃美歌)と自由詩句のアリアや合唱が、受難の核心を劇的に盛り上げる、大規模のオラトリア風受難曲である。以下は、塚本虎二訳『新約聖書福音書』(岩波文庫、1963年)をもとにして、楽曲との進行状態を見計らうために、杉山好の対訳(新バッハ全集版、1973年)における階梯区分を参照した。

26章は、①過越の祭を前にしたイエスが、「あさっては過越の祭である。その日、人の子のわたしは十字架に付けられるために敵の手に引き渡される」と自らの受難を予告する場面にはじまり、②最初のエピソードである、イエスの体に香油を注ぐ一人の女の場面に移り、③ユダの裏切り(予告)、④最後の晩餐、⑤ペテロの躓きに対する予言(「三度、あなたはわたしを知らないと言う」)、⑥ゲッセマネ(オリーブ山の麓)での「父」に捧げる祈りと苦悶、と続き、⑦予告通りユダの裏切りによって捕縛される場面を迎える。ここまでが第一部である。

 第二部からは、⑧最高法院の大司祭連による審問にはじまり、⑨ペテロの否認(お前も仲間かと疑われ「そんな男は知らない」と「三度」にわたって繰り返すペテロ)と悔い(「『三度、わたくしを知らないと言う』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出ていって、さめざめと泣いた」)に至る。

以上が第26章で、第27章からは、⑩ピラト(ローマの属州ユダヤの総督)への引き渡し、⑪ユダの縊れ(⑧でイエスの死刑が決議されたことを知って、後悔の末に首をくくる)、⑫ピラトの審問(特赦と死刑をいずれの者(イエスかバラバ=囚人)に下すべきかを民衆に決しさせる場面)へと続き、⑬民衆の叫びによって死刑と決したイエスに十字架につける前の鞭打ちを加える場面から、⑭いよいよ十字架の場面を迎える。その経緯は、イ十字架を背負わされたゴルゴダへの道行き(途中からはシモンが代わりをつとめる)、ロ十字架上のイエスと兵士たちとの遣り取り(揶揄)、ハ十字架上から神に向かって(なぜ自分を見捨てたのかと)叫ぶイエス、ニ事切れ、ホ直後の地震や変異、ヘ動揺した百卒長・兵卒の発声(「この人は、確かに神の子であった」)、ト遠巻きに十字架上のイエスを見守る沢山の女たちのこと、そして名を挙げられた者(マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母)。⑮後続部分では、イエスの埋葬と墓から離れようとしない二人の女(マグダラのマリアともう一人のマリア)が記され、⑯受難節最終局面となる、大祭司連によるピラトに対する番兵派遣の要請に移る。イエスの予言(『自分は死んで三日の後に復活する』)を懼れたためであった。そして彼ら大祭司連による墓の封印となる。

以上で「マタイ福音書」第27章が閉じられる。福音書は「復活の朝」として第28章を残すが、《マタイ受難曲》の方は、終結に向けて4人のソロの連唱とその合間に合いの手のように差し挿まれる合唱(安らかにお休み下さい)で最終場面をまとめ上げ、終結の大合唱に移つる。
 問題の三曲の受難節上の位置は、第8曲が③(ユダの裏切り)を、第39曲が⑨(ペテロの否認と後悔)を、そして第49曲が⑫(イエスの処置を民衆に諮るピラトと、それを受けた民衆の叫び=十字架に!)を前提とする。開始間もない第8曲を含めて、いずれも受難劇にとって進行上、高まりをつくる劇的な場面である。


構成上の位置 《マタイ受難曲》を構成するのは、繰り返せばレチタティーヴォ(及びレチタティーヴォ・アコンパニャート)のほか、合唱、コラール、アリアである。歌唱法のあり方から見ると、語り的なレチタティーヴォとそれに伴奏楽器を加えて旋律性を高めたレチタティーヴォ・アコンパニャートに対して、旋律線上で歌詞を歌いあげるそれ以外に分かれる。

かりに前者をA、後者をBとすれば、受難曲は、発声のあり方の二様を基幹として、さらにABを複層化させて大きな声の宇宙を創出する。朗誦間の声域差や節回しの位相差は、Aのなかだけで終わらず、Bの前置きあるいは契機(「橋渡し」)となってABを内的に繋げる。ときには応答のスタイルをとってABの垣根を取っ払って一体的になる。定量的に繰り返されるのは、レチタティーヴォと合唱間での応答であるが、なかにはイエスの苦悶を赤裸々に表わす「ゲッセマネの苦悶」の場面(第19曲)のように、レチタティーヴォ・アコンパニャートの中にコラールが参入し、ソロとの交互歌唱による演出力によって場面進行の盛り上がりに働きかけ、劇的雰囲気の高上を煽っている。

Bのなかでも一面性を避けるように要素間の組み合わせに工夫がみられる。上記「ゲッセマネの苦悶」でのアリア(テノール)と合唱(第20曲)、イエスの捕縛の場面での二重唱アリア(ソプラノ/アルト)と合奏との交互歌唱(第27a曲)、第二部冒頭の導入部でのアリア(アルト)と合唱(第30曲)、十字架上のイエスの場面でのアリア(アルト)と合奏との応答(第60曲)、終結合唱に至る最後のレチタティーヴォ・アコンパニャートである、埋葬されたイエスに対する「哀悼と告別」の場面での各ソロ(バス~ソプラノ)の連唱にその都度挿入される合唱(第67曲)である。

しかし、Bの各要素は、個別独立的であり、以上のような同一曲のなかでの組合せではなく、独立した曲同士の前後関係による組み合わせが基本である。こうした分析は、とかく煩雑になって話の腰を折ってしまうので、アリアの場合だけ示せば、レチタティーヴォないしレチタティーヴォ・アコンパニャートと組み合って前後関係をつくることになる。唯一の例外が、第二部の導入曲として位置づけられた第30曲のアリア(アルト)であるが、合唱とのかけ合い風である。導入部故である。ちなみに初演時では、なんと「バス独唱!」であったという(磯山、80頁)。「女性の声」の問題に対しても示唆的である。

問題の3曲は、第8曲と第39曲がレチタティーヴォを、第49曲がレチタティーヴォ・アコンパニャートを前置きにして歌われる。ちなみに後続曲となるのは、第8曲と第49曲ではレチタティーヴォであり、第39曲ではコラールである。前後関係だけで言えば、第39曲へのバッハの思いの程が推し量かれる。磯山雅によれば、レチタティーヴォの直後からいきなり入るのは、第8曲と第39曲のみで、その接続状態(「橋渡し」状態)には、同アリアにこめるバッハの強い思い入れが窺えると言う(同187頁)。


歌詞上の位置 上記のように歌詞は、①聖句と②コラール、③自由詩句からなっている。②はプロテスタントの聖歌(「ドイツ語訳による讃美歌」)である。バッハが拠っていたルター派は、ルター自身がそうだったように当初から信仰に音楽を積極的に採り入れていた。バッハの作曲段階(18世紀前半)では、すでに200冊を超えるような多くのコラール集が出版されていたという。バッハの《マタイ受難曲》の台本の構成要因の一つであるコラールは、全15曲からなり、その数は、アリアの数(全13曲)を上回ることになる。

特に、〈おお、血と傷にまみれた御頭よ〉は、5回にわって要所々々で繰り返される。これはパウル・ゲールハルト(牧師)作のコラールというが、数の多さだけでなく、同コラールが「《マタイ受難曲》のシンボルとも言うべき存在」(磯山、120頁)であることから、同著者は、次のようにゲールハルトを位置づけている。すなわち、「彼のコラールが7つもの曲で歌われることを考えれば、このゲールハルトもまた、《マタイ》の台本本作者の一人であった、と言えるかもしれない」(同頁)と。ただし、三つの曲との間では前後関係はとっていない。


台本作者 問題となるのは、この「台本作者」(コラール作詞者)ではなく、アリア・合唱(自由詩曲)の歌詞を作詞した、マタイ受難曲全体の台本作者である。バッハの自筆総譜にその名が記されている、クリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィである。ピカンダーのペンネームで呼び習わされている。問題の三曲を含むアリアの作詞家である。

ところで、作詞の表現力が、作曲に働きかれる度合いはけして小さくない。バッハの場合にも言える。必然的に作詞内容の出来不出来が問われることになるが、とりわけピカンダーの場合は、元来、世俗的な気質の持ち主であった点が問題にされる。彼の台本《マタイ》(バッハのための台本)で一気に高い精神性を発揮していたからだという。

磯山の分析によってその経緯も明らかにされている。典拠文献(テキスト)が存在していたのである。ルター正統派の神学者(ハインリヒ・ミュラー、163175年)の手になる「受難説教集」がそれであった。しかも同書をバッハが蔵書本の一冊(ただし別版)としていた点も明らかにされている。コラールの選定だけではなく、自由詩の作詞にもバッハの意向が働いていた可能性が指摘されているのである。詳細は省くが、膨大な文献調査の上で磯山は、次のように結論づけるのである。「いずれにしても、私は《マタイ受難曲》台本に対するバッハのイニシアチブは、かなり大きいものであったと思う。別にバッハびいきの気持ちから言うのではない。与えられた台本に唯々諾々と従っているだけでは、あのような精神世界が構築されるとは、考えられないのである」(同101頁)と。


三曲の歌詞 では、バッハのイニシアチブを念頭に置きながら、「台本上の位置」を再度窺う方向に、問題の自由詩に当たってみたい。杉山好の文語対訳が多用されるが、口語訳であるべきと主張する磯山雅(同20頁)の手による訳である。

8曲 アリア(ソプラノⅡ)
 血を流されるがいい、いとしい御心!
   ああ、あなたが育てた子、
   あなたの胸で乳を吸った子が
   今、育ての親を殺そうとしている。
   なぜならその子は、蛇になったのだから。
血を流されるがいい、いとしい御心!

39曲 アリア(アルトⅠ)
 憐れんでください、神よ、
 わたしの涙のゆえに。
   ご覧ください、心も目も
   御前に激しく泣いています。
 憐れんでください、神よ、
 私の涙ゆえに。

49曲 アリア(ソプラノⅠ)
 愛の御心から救い主は死のうとされます。
 罪ひとつお知りになりませぬのに。
   永遠の滅びと
   裁きの刑罰が
   私の魂にのしかからぬように、と。
 愛の御心から救い主は死のうとされます。
 罪ひとつお知りになりませぬのに。

断るまでもないが、作詞の表現力が大事だと言っても、詩(自由詩)によって音楽が味わえるわけではない。意味があるのは、作曲の契機、言い換えればバッハのある決意の契機となっている点である。掲示するのもその意味の範囲内においてである。

上掲のとおり、聖書(受難節)の位置は、第8曲が「ユダの裏切り」、第39曲が「ペテロの否認と後悔」、そして第49曲が「ピラトの審問と民衆の叫び=十字架に!」である。バッハの信仰心は、この場合、「血を流されるがいい、いとしい御心!」(第8曲)では、不条理(ユダの裏切り)を超えた「御心」をいかに顕現できるかに向かう。「憐れんでください、神よ、/わたしの涙のゆえに。」(第39曲)では、イエスの予告をそのままに実行に移してみせる不条理を、ユダ個人の個別事象から、普遍化したところに想い描く。けして特異でない人の心の弱さを象徴するペテロの否認に対しては、それを自らの涙として天の神の御前で流すイエスの姿とし、同時にそのイエスと重なる人の心の叫びとして同体的に描く。そして、「愛の御心から救い主は死のうとされます。」(第49曲)では、死を超えた「御心」によって死を自ら迎え容れる、至上の愛の在り方を啓いてみせる。

それでもこのように切り離して単独に見たのでは、「歌詞上の位置」に見出される核心部分は十分把握し切れない。詳述なしに結論から言ってしまえば、全13曲の歌詞(自由詩)は、対イエスとの関係から捉えると、一体に叙事的かその補完的な歌詞の男声部(第23曲(ゲッセマネの苦悶):バス、第35曲(審問):テノール、第42曲(ユダの後悔と自殺):バス、第57曲(十字架の道):バス)に対して、「女声部」(ボーイソプラノ/カウンターテナーあるいはファルセット)の歌詞は、つとめて叙情的である。3つの曲の場合は、そのなかでもとりわけ深い抒情性を秘めている。唯一、第65曲(十字架からの降下と埋葬)のバス・アリアだけが「女声部」を再演して、深くかつ寛い抒情性を湛えている。


バッハ演奏と時代性 この先を音楽史から語るのは、門外漢の立場では困難である。それでも、キリスト教会が女性に対して排他的態度を長く保持していたことはよく知られたことである。グレゴリオ聖歌は、それが「男声」に現れた歴史的産物である。あるいは同じ歴史的産物であっても、ローマ・カトリック教会(及び新興のイタリア歌劇)が必要としたカストラート(去勢歌手)は、神に届くためには「倫理」も超えられるある意味〝記念碑的産物〟である。

女性歌手が華々しい活躍をする現代では、バッハの時代の「声」の実態を活かしていなくても、それでより高いものが生み出されるならよしとする。歴史の趨勢である。それに単なる演出効果(ボーイソプラノの音質的限界を女性歌手によって補う演出効果)の結果というわけではない。また、20世紀後半からの古楽器演奏のブームもまた逆の意味で歴史の一現象である。いずれにしても《マタイ受難曲》も含む、バッハの声楽曲が「男声」で演奏されていたことは、「女性の声」を問う上での前提事項である。なぜなら、敬虔なプロテスタントでありながら、バッハが生み出した「女性の声」は、キリスト教の「慣例」の外に強く響き渡らせていたからである。しかも〝確信犯〟として。

 *「その物語(カストラートの歴史のこと・引用注)3世紀にわたって繰り広げられ、道徳と理性のありとあらゆる法をものともせず、怪物と天使とを結びつける、という不可能な試みを実現させようとしたのであった。」(上掲『カストラートの歴史』238頁)



Ⅱ マグダラのマリアと《マタイ受難曲》

「マグダラのマリア」 今、一人の女性を取り上げてみる時、バッハのアリアの響きが再度胸に強く迫ってくることになる。「マグダラのマリア」である。聖書のなかの原像が呼び起こす回帰性に、「女性の声」を重ねてみたいのである。異なる文脈からの接近である。《マタイ受難曲》のなかで「マグダラのマリア」の名が見えるのは、十字架上で息絶えたイエスの降下場面と、埋葬した墓の前で立ち去らずに墓を見守り続ける最終場面との二場面だけである。これだけ見ると、レチタティーヴォで叙景上から名を挙げられただけの一人物に過ぎない。それも他の登場人物と違って、なにか声を上げる役回りを与えられるようにもなっていない。

しかし、キリスト教にとって聖母マリアと並んで重要な存在(聖女)で、その聖女像はそれそのものが一つのキリスト教史になってしまう程である。福音書受難節に続く復活節のなかで、この世に復活したイエスに最初に会うのが彼女だからである。とりわけヨハネ福音書では一対一の関係で描かれている。マタイ福音書ほかマルコ福音書・ルカ福音書の複数者の関係(「マグダラのマリア」「ヤコブの母マリア」「サロメ」「ほかの女たち」)で出会う設えのなかでも、マルコ福音書では「さて週の第一日の朝早く復活して、まずマグダラのマリアに自分を現わされた」とする「附録(復活と昇天)」を添えている。

今、仮に筆者にとっての《マタイ受難曲》のなかのアリア(女声)とは、と問い立てるとするなら、その声を発する女性は、漠然とした一般名詞であるより固有名詞的な存在である。その時、一人の固有名詞でありながら、普遍の女性として受難の地に佇む者――「マグダラのマリア」とは、そうした普遍を容れこんだ固有名詞である。同じマリア名でも「ヤコブの母マリア」ではなく、「マグダラのマリア」でなければならないのは、最初は一般名詞の女性の愛として始められていたかもしれない彼女のイエスに対する愛が、最大の愛を実現する身体性に包まれているからである。受難との同体化を厭わない、否、向かい容れようとしている愛である。

そのようなマグダラのマリアとは何者なのか。マルコ福音書の「附録」はこう記す――「以前に七つの悪鬼を追い出していただいた女である」と。「七つの悪鬼」とはなにか、マグダラのマリアを深く語った説明によれば――「『七つの悪霊』の『七』と言うのは『非常に多くの』という意味を含みますので、マグダラのマリアは非常に思い精神病にかかっていたということになります。少なくとも当時の価値基準から見ますと、この女性は狂っているというふうに判断され、その狂いの度合いが非常に強かった、そういう女性だということはまず間違いないだろうと思われます」(荒井献「イエスとマグダラのマリア」(同著『新約聖書の女性観』岩波セミナーブック27、岩波書店、1988年=荒井文献①)、375頁)と。

すなわちその状態は精神を重く病んでいた者の姿であった言うのである。そのマグダラのマリアが女たちの第一人者とされるだけではなく、受難を終始傍らから見つめ続ける女として、また復活したイエスに最初に会う者として描かれ(ヨハネ福音書)、復活を使徒に伝える特別の人(「使徒の使徒」)として扱われる。通常、イエスによって病を癒された人々は、イエスに付き従わず家に戻される。それが受難の完了までその見届け人のように付き従う。特例的な存在だった。そもそも当時の男性優位のユダヤ社会の常識から考えて、終始付き従っていたこと自体が、すでに彼女の存在を特別なものにしているという。しかも弟子の立場としてなど、常識では考えられないことだった。「ラビ文献によれば、女は究極的には子を生む手段としか評価されておらず、(略)当然のことながら、ラビには女の弟子などは存在しえないのである」(荒井献『イエスとその時代』岩波新書、1974年=荒井文献②、113頁)とされている。

イエスに応えようとする愛の深さ故だった。「七つの悪鬼」から解かれたと言うことはそれほどのことだったと言う。単なる女性蔑視ではなかった。当時のユダヤ社会では、遊女に対するように精神病者を差別したのだという。故に「マグダラのマリアはそういう差別の原因をイエスによって取り払われたことに対する感謝のしるしとして、全身をもってイエスを愛した」(荒井文献①393頁)のだと。またイエスはイエスで、常に彼女を傍らに置くことによって彼女の愛に応える。

ヨハネ福音書が記す、復活したイエスがマグダラのマリアに顕現する一くだり(第201118)は、まるで若い男女の遣り取りのような叙述で、これが後にグノーシス派詩人の想像力を働かせて、イエスとの恋愛関係を窺わせるような記事(「ピリポ福音書」)まで書かせるというが(荒井文献②、118頁)、同者は、「この記事(ヨハネ福音書・引用注)からマグダラのマリアとイエスとのかなりエロティックな関係を想定」する学者が「ルターは一方において、マグダラのマリアとイエスとのいわば精神的な信仰を媒介とした関係を想定するとともに、他方においてマグダラのマリアとイエスとの肉体的な関係を想定しているという」マルティン・ルターへの言及を紹介(荒井文献①、391頁)している。その上で、原始キリスト教やグノーシス主義研究の第一人者である同荒井献は、ヨハネ福音書で描かれたマグダラのマリア像を前提にこう信念をもって語ってみせる。

しかし少なくともここでヨハネが強調しようとしていることは、たとえそういうエロティックな関係がマグダラのマリアとイエスの間にあったとしても、いわばそういう関係を信仰によってアウフヘーベン(止揚)して、真実な意味においてイエスとの兄弟・姉妹関係に入ることではないでしょうか。いずれにしても、マグダラのマリアは、一言で申しますと、言葉のもっとも厳密な意味に置いて全身全霊をもってイエスを愛したということだと思います。(荒井文献①392頁)

 以上は、聖書学を学ぶためではなく、《マタイ受難曲》のアリアが歌い上げる〈至上の愛〉をより深く聴き取るための〝エピソード〟として受け止めたかったからである。かと言って、後述と関連するような女性的愛は一顧だにしない。するとしたなら、それはバッハの「女性の声」が、いかにロマン派のそれと違うかを確信するためである。

  * 聖書の中の高い位置付けがそれである。名前の列挙(マルコ福音書の場合)で最初に置かれていることがそれを証していると言う。「これは十二使徒の名前の列挙でも明らかですね。マグダラのマリアはイエスに従って仕えた女達の中で第一人者であった、ということになります」(荒井同書、377頁)と解説されるとおりである。


もう一つの「受難」 にもかかわらず、今度は、「マグダラのマリア」は、まるでイエスのようにして「女性」を我が身に受難として生きなければならない歴史を背負うことになる。それが、キリスト教史がマグダラのマリアに与えた聖女像であった。キリスト教(ローマ・カトリック)における女性観(軽視=家父長的な教会権威の確立の裏返し)のためであった。初期キリスト教における使徒ペテロの優位性の確立を経て、ついにマグダラのマリアを別の人格に植え替える時が到来する。教皇グレゴリウス(在位590604年)による牽強付会によってであった。詳述は省くが、要は四福音書に登場する女性や関係場面を一つに繋ぎ合せ、マグダラのマリアを「罪深い女」(ルカ福音書第7章)その人と仕立てたのである。以上は、マグダラのマリアの「受難」を「エロスとアガペーの聖女」の副題のもとに絵画史と描いた一文献(岡田温司『マグダラのマリア』中公新書、2005年)をベースに記述したものである(以下も同様)。

一体化はさらに昂じて終に「悔悛した娼婦」(エジプトのマリア)と重ね合わされる。罪を悔い改めた彼女は、世を捨てて沙漠で苦行に47年間を費やす。ここに来て、「七つの悪鬼から解かれたマグダラのマリア」=「罪深い女」=「悔悛した娼婦エジプトのマリア」となり、苦行者(隠修女)と悔悛した娼婦とのいずれか一方で、あるいは両者の複合した姿で多彩な絵画が、イタリアを中心にして生み出されることになる。

 絵画だけではなく文学(詩・戯曲)や音楽の分野の題材としても取りこまれる。次の詩は、上掲書に引用された17世紀前半の作品(ジョヴァンニ・バッティスタ・アンドレイーニ作・長編詩『ラ・マッダレーナ』)の一節(終盤)である。モンテヴェルディによる作曲がなされたようである。

あなたマグダラよ、美しくも神聖なるヴィーナスそのものであるあなたよ、
地上の女神たちになかでも、
天なる星の偉大なる創作者と、あなたを呼ぼう。
あなたのキプロスは、聖なる岸の海にある。
この世で、あなたの愛人イエスは甘美と呼ばれ、
天使たちはアモールたちと、恩恵はセイレンと呼ばれる。
至高天にあるあなたの神殿は、
崩れることもなければ、矢を恐れることも知らない。 (傍線筆者)

 さらに「ヴィーナス」にまで変身させられている。かつての「エジプトの砂漠」(エジプトのマリア)も、いまや「キプロス」に転位(再転位)させられている。なによりも驚くのは下線部である。露骨な言い回しが平然ととられているからである。この聖書の原点を大きく逸脱した変身や転位、あるいは露骨な修辞が許容された背景には、前提としての当時の宗教状況があった。宗教改革の嵐に晒されたカソリック側の信仰態度の現れとして、プロテスタントの批判する告解や聖徒崇拝(「アウクスブルク信仰告白」)を向こうに、悔悛の象徴としてのマグダラのマリア像を大きく喧伝していく状況が介在していたことである。このカトリックによる「悔悛の模範」としてマグダラのマリアが「大々的にプロモート」されていく先に、美術・文学による活発なテーマ化が図られるという。そして対比的に綴られる、「ルネサンスがヴィーナスによって象徴されるとするなら、バロックはマグダラのマリアによって象徴される」(同書146頁)と。


その両義性 しかし、上掲詩は「悔悛の模範」を承けたものではない。むしろ態度としては悔悛に対して背反的で俗世に超然としている。同じ象徴でも、悔悛ではなく美しさ、それもどこか快楽的な美に対するものとなる。ここにはマグダラのマリアに後発的に植え付けられた「両義性」の一方が、拡大的に彼女のア・プリオリな性状を見出す形で文芸を活性化させている。「この聖女に内在している両義性――聖と俗、敬虔と官能、精神性と肉体性、神秘的禁欲と感覚の喜び」(同書146頁)に原因があるとおりであるが、一方に特化して顧みる必要性を窺わせないで済んでいるばかりか、飛躍さえ厭わないのも、画家や詩人さらには詩に曲付けした音楽家たちが、前提としての両義性に暗黙裡に支えられているからである。

それはもう一方の「聖」「敬虔」「精神性」「神秘的禁欲」に収斂させた場合でも構造的には同じである。同書のなかからもう一つの詩を掲げて、いつかバッハが見えなくなってしまった迂遠な筆法に、いかにバッハが現れるかを示さなければならない。作詩者は、当時の名高い女性詩人で侯爵夫人でもあるというヴィクトリア・コナン。1530年代の一ソネットである。

けなげにも高潮した女性、彼女は、
永遠にして真の愛人の気に入らないことには背を向け、
過ち多き俗世から遠く離れ、
人気のない住まいで、満ち足りているようにわたしには見える。

慾望に打ち勝ち、大いなる山上にしっかりと木々を固定させる。
それゆえわたしは、その美しい範例の内に、わたしの背中を映し出し、
祝福されたその足跡と神聖なる行ないに倣って、
わたしの魂を正し、高く掲げる。

彼女のいる深い洞穴は、わたしには、
この世の高い絶壁のように見え、その大いなる光は、
すべてのやさしい心を暖めてくれる偉大なる炎のように見える。

そう考えると、わたしは、卑俗なしがらみから解かれ、
勇敢で自信に満ちた声で彼女に祈りを捧げつつ、
彼女とともに主のもとにお導きくださいと懇願する。


 その無言性 簡単に言ってしまえば、両義性を超えたところにあるマグダラのマリアが求められなければなければならない。《マタイ受難曲》に聴き取れるのはまさにそれだからである。あるいはそのためには、ここまで費やしてきたマグダラのマリアの議論は忘れる必要があるかもしれない。《マタイ受難曲》のなかでそうであったように、四福音書のなかではもっとも後出のヨハネ福音書を除いて、マグダラのマリアは、付き従っている間を含めて、十字架の場面でも埋葬の場面でも終始無言だったからである。すべては彼女の与り知らぬところで勝手に喧伝されているだけだからである。しかし、無言だからと言ってその存在性の重さは揺るぎもしない。なにより十字架上の最期と復活の証人であることは、聖母マリアを別にすればすべての上に立つことだからである。

実は、初期キリスト教以来の「饒舌」は、かえって「無言」の重みをいや増しに増しこそすれ、彼女の口許を緩めなどしなかった。もしそのようにして絵画史を眺めるなら、ルネサンス以前、中世後期のジョット工房やジョット派の受難画に描かれる彼女の表情や身体性は、「無言」の側に近い。一方、ルネサンス期のイタリア絵画に描かれるそれは、長い赤毛の誇張(範囲としては身体性の強調のなか)を含めて、「饒舌」の側に寄っていく。宗教改革後は、さらに本来の「饒舌」以上に饒舌と化していく。ティツィアーノ、カラヴァッジョ、レーニ、カニャッチ等々(以上は上掲書に掲げられた多くの図版を通じて判じたもの)が描く濃厚なその姿態がそれである。

音(声)には記号(音符)はあっても姿形はない。《マタイ受難曲》も同じである。あるとしても想像裡に浮かび上がる姿形でしかない。しかし、《マタイ受難曲》の諸曲とりわけ三つのアリアは、一義的にはそれさえ拒否しているのである。唯一受難性だけがその[無言]の口許を開かせる。その時、マグダラのマリアを思うのは、聖書のなかのその姿に還るだけではなく、それ以上に、「饒舌」に晒された姿に痛哭なる悲哀を覚え、それをも「受難」として引き受けなければならない、性来の受難性のためである。


「仲介」と両属性 それでも個人としては思い浮かばない。バッハの音楽がそれとして求めているからであるが、個人にして個人でない、個人を超えている故に、あるいはその声は、形而上的帰一性に源を求める以外にそのなかの姿形は窺い知れないのである。マグダラのマリアは、その時、任意の誰かであり、同時に誰でもない。それが、唯一、マグダラのマリアに許された、絶対の愛を仲立ちにした絶対的な形而上性である。故に、マグダラのマリアは一つの「仲介」である。それが、バッハへの仲介者という形をとった時、仲介者でありながらバッハによって仲介された両属性なのである。

マルコ福音書の「まずマグダラのマリアに自分を現された」という記事に倣えば、「まずバッハに自分を現し、自分にバッハを現した」のである。「まず」とは、その間に初期キリスト教以来の1,500年を挟んでの「まず」である。故に「ついに」と言い換えるべきかもしれない。いずれにしても、バッハの音楽的資質(天才性)だけでも顕現は可能だったかもしれないが、1,500年の間の宗教史を含む思想史による条件が、両属状態による顕現を用意した点は否めない。その際、バッハがルター正統派に属していたことは、条件的には不可欠の要因として作用することになった。こと「女性」に限っていえば、マルティン・ルターが妻(カタリナ・フォン・ボラ)をもったことは、バッハの女性観にとって根幹となることだったに違いない。以下は、バッハの身辺を契機とする《マタイ受難曲》観である。



Ⅲ アンナ・マグダレーナと《マタイ受難曲》

一エピソード バッハと女性にまつわるよく知られたエピソードに最初の赴任先であるアルンシュタットでの「見慣れぬ娘」の一件がある。文献によって書かれ方に多少の違いがあるが、女性立ち入り禁止の教会内のオルガン席(あるいは合唱隊席)に「見慣れぬ娘」を入れたて歌わせたとうことで、教会宗務局に問い質された件である。娘はその直後妻となるマリア・バーバラないし彼女の姉カタリーナのいずれかであったと考えられている。もちろん、咎められたのは、「当時にあっては、女性歌手を教会の演奏に登場させることはまだ一般的な習慣となっていなかった」(ヴェルナー・フェーリクス/杉山好訳『バッハ 生涯と作品』講談社文庫、1999年、43頁)からである。当時、同教会所属の合唱隊との間に確執を抱え、その件でも事件(剣を抜いての立ち回り)を起こしていたことを考えると、女性に歌わせたことの意義は、本稿に限って言えば、一エピソードでは終わらない。女性観以上に「女性の声」に当時20歳だったバッハが、教会の慣例を破ってまでして早くから関心を示していたことを窺わせるからである。


美声の妻 バーバラ亡き後、後添えとして嫁したアンナ・マグダレーナの場合は、より実質的でバッハにおける「女性の声」を考える上に重要な状況証拠を提供するものである。前提となるのは、彼女が美声のソプラノ歌手であったことであるが、同じ磯山雅の著書(『バッハ 魂のエヴァンゲリスト』講談社学術文庫)で論じられている「バッハにおける死の意味」(5861頁)の項において、そのアンナ・マグダレーナが、カンタータの一節を「私的な集まりか家庭の団欒のさいに」歌ったに違いない、その際バッハの伴奏であっただろうと推測されているくだりが特に注目される。

しかもその曲は、指摘されるように家庭内の楽しみで歌うようなものではなかった。《マタイ受難曲》に近い精神性を湛えるものだった。カンタータBWV82の第三曲のアリアがそれだった。もとバス独唱だったものをソプラノ独唱にアンナ・マグダレーナが自身の《クラヴィーア小曲集》に採りこんだものである。時期は、《マタイ受難曲》初演時と同じ1727年であった。


妻の名/妻の声 妻の声に何を聴いたのかを想像する時、聖女マグダラのマリアの名前に因むマグダレーナを名に持つことは示唆的であるが、必要以上の想像を掻き立てることは避けるべきである。しかし、バッハが聖トーマス教会でボーイソプラノに替わって聴きたかった声(真の声)として鳴り響いていたとするなら、それは作曲時に遡って、三つの曲が如何にして創り出されたのかを考える上に想像を掻き立たせることになる。その時、かりに「妻の名」が契機をなすようなことがあったとしても、「妻の名」は、それだけでは直接の意味をなさない。意味をなすのは、その名をもつ「妻の声」である。そして、同時に「妻の声」をその名前にかえして聴くことである。

それでも足りない。いまだ現実的契機でしかない。なにかの飛躍が必要である。その中身が示されなければ、それ以前にこのような考え方自体を怪しまれてしまう。しかし、バッハの人生と人格は、高遠なる大作曲家のイメージの一方で、日々を実直に生きる普通の生活人でもあった。実直さ故にもめ事も多かった。《マタイ受難曲》が作曲された当時も雇い主であるライプヒッツ市当局(参事会)との間で神経を消耗するもめ事を日常的に抱えていた。尊敬される大作曲家の姿は、ここにはまるでなかった。第一、トーマス・カントル選任時点で、市にとってバッハは次位の候補者の中の一人でしかなかった。驚くべきことだが、敬意の払われ方においては、基本的に就任後も変わらなかったのである。

それ故になおのことバッハのなかの創作的飛躍に思いが至るのである。自身で内面を保つためだけではない。それ以上に自身の中の音楽の尊厳を保持するためである。愛する最初の妻が突然の病で亡くなった時、しかもその場に居合わせられなかったばかりか、外国出張から戻った時にはすでに埋葬も済まされていたことが、その悔いのなかからかの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを生み出し、奇跡の音をこの世に実現させた。現実の契機は、たとえそれが死のような特別な局面に生まれるものでなくても、常にバッハの契機となっていた。

その時、当時の作曲家が置かれていた「契機音楽」(要請者の存在を前提にした)は、個人の発想の源となっていた。だからと言うわけではないが、やはり飛躍は日々の身辺にあった。そう考えるのは、作品の時空がつくる日々との大きな隔絶が、逆にバッハの創作性の深淵を覗かせずにはいないからでもある。「女性の声」もそのようにして生み出された、そうだったはずだと考える時、日々の安らぎであった愛すべきアンナ・マグダレーナに、あらためてその契機を求めなければならない。当たっているかいないかではない、そうすることで、この一文をようやく閉じることができるからである。


妻のソプラノ そのために再び「バッハにおける死の意味」の一例示として取上げられた、上掲BWV82《私は満ち足りている》を聴く必要がある。一つは歌詞の、一つは旋律の、それぞれの内容からである。まず、磯山が掲げた同曲第三曲の歌詞を掲げる。

まどろめ、疲れた目よ、
穏やかに、幸せに閉じるがいい!
世よ、私はもうここにはとどまらない。
なぜならお前のところには益はないのだから、
魂の糧となるような、真の益は。
この地では、私の悲嘆を積み重ねるばかり。
だがかの地、かの地では見るだろう、
甘美な平安と静かな安らぎを。

 歌詞の背景には、誕生したイエスを両腕に抱き抱えて、生来の望み(救世主を待望する望み)が適ったことで、これで心おきなくあの世に赴くことができるとするメシオン(ルカ伝第2章)の感慨がある。磯山はこれをバッハの思いに置き換えて、「信仰における死への、甘美にして熱烈な憧憬を歌っている」カンタータと記している。ではそれをソプラノに替えて歌ったアンナ・マグダレーナは、如何なる思いを籠めて歌ったのか、言い換えればバッハはなにをそこに聴き取ったのか、あるいは聴き取ろうとしたのか。

その前に《マタイ受難曲》の第65曲のアリアの歌詞を掲げる。同じバス独唱であるとともに、イエスの誕生とその死という対照的な場面ながら、「感概」の共有においては近いものがあるからである。歌詞同士にも呼応するものがある。「二重の墓」を形成しているためである。「自分の墓」(BWB82)であるとともに、自分のためであるよりはイエスのためのそれである墓、すなわち「墓となる自分」(第65曲)という墓の二重性が読み取れるからである。

私の心よ、おのれを清めよ。
私は、自らを墓としてイエスを葬るのだ。
   イエスが今よりのち、私の中で
   とこしへに
   甘い安らぎを得ますように。
   この世よ、出て行け! イエスにお入りいただくのだ。
私の心よ、おのれを清めよ。
私は、自らを墓としてイエスを葬るのだ。

 問題は、一方にソプラノの声を聴いたことである。そして一方にはバス以外の声を用意できないことである。第65曲は、それまで受難の加害者を主体的に演じていた「男声」が、はじめて被加害者となった場面であるからである。曲を終結に導くためにも、そのためにこの世に一となった状態を現出させなければならないのである。同じ男声でもテノールではなく、よりイエスに近い声でなければならなかった。バスしかなかったのである。

 
変容と止揚 だから、一方にソプラノを聴いたことは、第65曲とは直接関係しない。関係するのは実は「この世に二つとしてない」第49曲のソプラノ・アリアである。BWV82の第1曲と第49曲が、冒頭部の歌い出しで、かのこの世とも思われぬ歌い上げを旋律として分け持っているからである。片やバス(男声)、片やソプラノ(「男声」)、そして身内のソプラノ(女声)。もし「女性の声」というなら、ソプラノ間の変容だけではなく、バス(男声)とソプラノ(女声)との止揚(アウフヘーベン)も要請される。

いずれにしてもアンナ・マグダレーナの「声」が必要となる。契機としての意味をなす。作曲上だけにとどまらず、聖書との契機ともなる。あるいは「仲介」となる。受難をその命で贖ったイエスをそのままに人の身として受け容れられる唯一のもの、すなわち全身全霊で応える「愛」。その「愛」に見合う調べ、それは身体性を帯びたものでなければならない。仮性の女声であるボーイソプラノあるいはカウンターテナーやファルセットに現れる「愛」も、また神の裡にあるものであるとしても(たとえばレオンハルト指揮の《マタイ受難曲》の「女声」)、その時、バッハがこの世に現れたことは、神の裡にありながらまだ現されていないもののためであった。

受難は受け止める側において現し切れていなかったのである。バッハを知ってしまった後では、同時代を含むそれ以前の受難曲が、現し切れていないことの意味を自己解説している(磯山・同書「第1章 受難と受難曲の歴史――バッハまで」)。やがては「女性の声」の意味にも言い及ぶことであろう。そして口を揃えて言うだろう。

――それ(「女性の声」)は、バッハに現れた、と。


                               (未完)

 * 未完故に引用・参考文献は、本文中に掲げたままにした。