2014年9月30日火曜日

[へ] ベートーヴェン断簡 [更新版]


レコード時代のこと 最初にすこし問題を立てておかなければならい。音楽と自分との関係である。聴くだけで終わらせずにいることである。その態度である。言葉で音楽と向き合おうとしているのである。むしろ後者に重きを置くかのようである。そのために聴くとは言葉のためのようになってしまう。「気分」のためではないと言っているのである。いつか聴くのは構わないと、それだけで済ますのを黙ってみていようとしない。どこか主客転倒気味である。

そうであっても気分が良くなるから聴くのではないのか。それではあからさま過ぎるというのなら、心の充足にためにと言い換えたとしても、聴くという行為に対して最初の動機を問うなら、迷わずに「気分」なはずだ。気分の求めに応じて、音楽をかけるのである。そのためには手間がかかるのも厭わない。レコードである。スイッチを押すだけのFM放送ならそれだけで済むが、レコードとなるとそうはいかない。

一部マニアはいざ知らず、今は通常CDである。セットする手間はかかるがそれほどではない。でもCD出現以前のレコード時代ではそうはいかない。同じようにセットするでもセットまでの手間はCDの比ではない。ともかく大きさが違う。それにセットもののように函入りならともかく、無きが如き背表紙であるから探し出すのに時間がかかる。一枚々々引き出しながら確かめるのが普通である。しばらく聴いていないレコードの場合は一苦労である。「気分」が削がれてしまう事態さえ予想されることになる。それは日頃の整理の悪さというより正しく戻してない横着さを自己表明しているようなものだが、そうでない場合でも、ケースから取り出してCDデッキのオープンのボタンを押せば後はセットするだけで済むCDのようにはいかないのである。ともかく手間がかかる代物である

* 比較的スムーズに引き出せた時でも、すぐセットとはいかない。音が鳴りだすまでを、あえて面倒臭さを誇張気味に辿ると、まずジャケットからの取り出しがある。通常はビニールケースに入れてある。古くなるとままレコードケースの角が食い込む。ひとまずスムーズに取り出せたとする。でもまだ次の取り出しがある。レコード本体を保護しているケース(セロファン(?)ケース)からの取り出しである。通常角が折ってある。主に埃防止のためであるが、ケースからの取り出しをしやすくしているのである。折れている分厚紙の本体ケースの口が開きやすいからである。加えて取り出すときの落下防止(中身が滑り落ちることの防止)にも役立たせている。レコードを取り出した後は、プレーヤのターンテーブルの上に乗せ、アームを出だしの溝上に移動する。回り出したターンテーブルに位置を確認して針を柔らかくおろす。時に失敗してレコードを傷つけてしまう。当時はそうは思わなかったが、今から思うと随分と手間のかかることであった。しかも片面でいいとこ25分程度である。大曲なら一曲で2枚組である。ブルックナーやマーラーを好んで聴いていた。それでもこれがSPであったならとレコードの超時間性をありがたく思ったものである。

レコードからCDへの転換には音質上の議論があって、とくにそういうグループ(「浦和ブルックナー協会」)に属いていたので内輪議論には喧しいものがあった。中心的存在だった某氏などは、技術論に走って我々の前で実験の成果を披露して見せた。CDデッキの上に硬貨を載せるのである。一円玉から10円玉まで。1枚の時、2枚の時と数だけではなく、載せる位置まで変えて見せる。求める音響(とくにモノラル)の音質変化が確保されるのである。彼ほどに違いが聴きとれか自信はなかったが、その時の彼の誇らかな顔の方が印象に残っている。まだ昨日ことのようである。


音楽と言葉 曰く進歩は〝退化〟でもある。レコード時代は、それも気分の中に折り込み済みの事柄であった、否、それ自体が気分だった。でも気分だけなら長続きしないはずだ。気分は静まりやすいからである。それに気分転換という言葉があるくらいだから、また変わりやすいのも気分というものである。属性と言うべきか。したがって、気分を主動機に態度としてしまえば、一人の作曲家に拘ることもなくなる。ましてや特定の一曲となると、繰り返して聴いている内に気分減退どころか時には辟易気味にさえなりかねない。もちろん曲が悪いわけではない。

それが特定の一曲に拘るのである。ただし聴き方としては異なる演奏者の盤によることになる。ここにきてはっきりしてくるのであるが、聴き比べは「気分」のなかで行なわれるのではない。つまり追い求めているのは気分ではない。それが「言葉」というのでは、いささか唐突の感が拭い去れないかもしれないが、「言葉」に還すことによって音楽を聴くということは、もう一つの聴き方である。否、音楽の深淵に下りゆく行為である。音楽と言葉は、それぞれ単独でも成り立つが、補完関係にも置かれているからである。時には補色関係のように両者の作用によって違う色を生み出すことにもなる。希求し合っているとも言える。

20世紀の大指揮者フルトヴェングラーに「音と言葉」と題された音楽芸術論がある。小見出しの「音楽と言葉」は同題に倣ったものであるが、次はその冒頭部と収束部である(フルトヴェングラー/芳賀檀訳『音と言葉』新潮文庫、1976年)。

音と言葉。音楽と詩と。――それぞれ異なった二つの世界であり、違った源泉から流れ出た二つの大きな流れです。しかもこの二つは、――その他のさまざまな芸術と違って――恋愛的な同棲生活を営むこと、この二つが合体して一つの巨大な流れをなすことができます。そういうことができる理由は音楽の本質のなかにあるのです。もっと詳しく言うならば、その性格の二重性のうちにあるのです。([冒頭部])

  かくして、音楽と詩とは、――あの驚くべき芸術作品(ベートーヴェンの《第九》、シューベルトの《リート》、ワーグナーの《楽劇》のこと・引用注)のおかげで、十分一時的に結合する力を持ちうることが証明されたのです。――がやはり、それらをその最後の決定にまで追及していってみると、それらは二つの相異なった力であり、それぞれ独自の方法で同じことを発言しようとします。言わば同じ一つの要素から成る異なった二つの集合状態とでも言いましょうか。それらは同時に溶解しあうことはできません。――しかもこの両者はいずれも同一の質から成り立っていることに変わりはないのです。([収束部])

以上は、視角としては作曲行為から言葉に問いかけたもの、あるいは言葉から作曲行為を詰めようとしたものである。ここではそれを聴く行為から問い詰めたいとしたわけである。関与の仕方は違っても大指揮者(作曲家でもある)が語る両者の関係は変わらない。かえって音楽的感動を言葉に変換することの重要性を、その原理に立ち返って教えている。改めて「言葉」で聴くことの必要性が痛感されるが、「『言葉』に還すことによって音楽を聴くということ」とは、言葉を求めると同時に、あるいはそれ以上に、そのこと自体に音楽への接近を促す認識作用があることを意味している。

今回、課題としたベートーヴェンの音楽こそは、その認識作用と一体的にあるような楽曲群である。ベートーヴェンの楽曲とは、一つの認識であると当時に、作曲が辿った認識過程そのものであるからである。そしてベートーヴェンとは、はじめて「音(音楽)と言葉」が、その関係(芸術的関係)として音楽になった作曲家であった。

ここでは全体としてプロローグにとどまり、内容もスケッチの域を出ない。断簡とした所以であるが、後日のためにこの機会を設けることにした。なお、記述は当面ベートーヴェンの作曲家人生を辿る形で進めるが、年譜的記述を念頭においたものではない。途中から迷走気味になってしまうのは、スケッチの域を出ない故である。

 
 生誕地ボンでの日々 生誕日は17701216日(ただし正確な日付の記録はなく推定とされている。洗礼日は1217日、聖レミーギウス教会)。生地はドイツ西部のボン。かつての西ドイツの首都でもあった。ベートーヴェンの時代はケルン選帝侯領の首都であった。またケルン大司教の13世紀以来の歴史的居住地でもあった。大司教でもある選帝侯による文化面での高い施策もあって、ベートーヴェンが少年の頃には、ボン大学が創立され(1786年)、先進的な啓蒙思想を大胆に取り入れた総合大学が目指された。後年(1789年)、同大学の受講生(哲学科)となったベートーヴェンは、この啓蒙思想から内面形成の上に大きな影響を受けることになる。

ベートーヴェン家の第二子として誕生。一兄三弟二妹であったが、兄と妹は生後間もなく、末弟は2歳、末妹は1歳で死去。これが当時の生育状況であったとはいえ、残ったのはベートーヴェン(ルートヴィヒ)と次弟カールと三弟ヨハンのみであった。初等学校(ラテン語学級)に7歳で入学。10歳で同学校を中退。

年譜によれば(『ベートーヴェン大事典』1997年)、12歳で宮廷楽団のチェンバロ奏者(師ネーフェの代理)に任命される(ただし無給)。13歳時には有給で宮廷オルガニスト(ネーフェの助奏)に任命される。ウィーンに出発する21歳でまでの出来事(特記事項)としては、家庭的には、16歳の時に40歳の若さで亡くなった母マリア・マグダレーナの死去の悲しみに襲われたこと、18歳の時にはその所業の悪さで宮廷楽師の職を追われた父ヨハンになり替わって、弟たちの教育費を含む一家の家計を背負わなければならなくなってしまったこと、などが挙げられる。

音楽的には、11歳での楽譜出版も上げなければならないかもしれないが、自主的という意味では17歳の折にウィーンへの旅行を体験したことがなにより特筆される。目的はモーツァルトに師事することにあった。結局、母の危篤の報せを受けて2週間程度で帰郷しなければならなかったが、大都市ウィーンから受けた刺戟は、掛け替えのない経験として将来の布石となる。確たる証拠は欠くが、モーツァルトとも面会を果たせ、モーツァルトにも強い印象を残したようだとする推測もなされている(ルイス・ロックウゥド2010)。

その他、新たに開設された宮廷オペラ劇場でヴィオラ奏者を務めたこと、宮廷楽団の一員として外遊(メルゲントハイム)の機会に恵まれたことなども挙げられる。なお、ベートーヴェンが終生尊敬してやまなかった、自分と同じ名前をもつ選帝侯宮廷楽団の楽長であった祖父ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、フランドル地方(メンヘル)の出身であった。


音楽の師 最初の音楽修業は、息子ベートーヴェンをモーツァルトのように仕立てようとした父からであったが、宮廷楽団やオペラ劇場のオーケストラの一員を務めるようになってからは、敬遠気味に父から離れたことから(その後も終生父親のことはまったくといってよいほど口にしなかったと言われる)、音楽の師としては、それぞれ優れた音楽歴を有していた楽団員たちからであったが、直接の師事というよりは同じ楽団の一員として演奏を共にするなかで受けたもの(刺戟)であった。ただしヴァイオリンとヴィオラのレッスンは、コンサートマスターであったフランツ・アントン・リースから受けたのではないかとされる(上掲文献)。

そうしたなかで、ベートーヴェンの初期(習作期)にあって音楽教育の唯一の師となり、後のベートーヴェンを生み出す上に大きな功績を残したのが、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェであった。彼がボンに赴任してきたのは1779年で、1781年にはオペラ一座の長から宮廷オルガニストに転じることになる。彼と少年ベートーヴェンとの接触は、上記したように彼の代理や助奏者となることにはじまる。彼のもとで習作を書いたベートーヴェンは、後の作曲にも影響を及ぼすような初期作品も生み出す。少年ベートーヴェンにとって掛け替えのない音楽の師であった。

彼が教えた作曲理論は、バッハの高度で厳格な対位法に基づくものであった。彼の経歴によるものだった。ライプヒッツ時代なるものを有していたからである。バッハの死後、急速に変質してしまったドイツ音楽の現状のなかにあって、自身も作曲家でもあったネーフェは、それ故に真の音楽とはなにかを体験的に身体化していたのであった。バッハの偉大さを少年ベートーヴェンに教えたのである。なかでも《平均律クラヴィーア曲集》に触れさたことが大きかった。当時(ベートーヴェンの少年時代)、大バッハの作品の印刷譜は、没後30年経ってもわずかに12点でしかなかったという。バッハ生前中ではわずかに2点のみであったから少しはましになったといえ惨憺たるものである。なによりも印刷が貴重であったことによるが、それ以上に音楽の流れが、急速にギャランティ化していったことも、大バッハを早々に忘れさせる要因として作用していた。

ネーフェは、まだ印刷譜となっていなかった《平均律クラヴィーア曲集》をテキストとして保持していたのである。少年が高度な対位法を即座に自分のものとすることはできない。バッハを学んだことが大きな成果を生むのは晩年であるにしても、体で覚えたバッハは、それ以前でも自分の音を創っていく上に大きな養分となっていたに違いない。鍵盤曲には、個性の発現が早い段階から認められる。あるいは養分だけで終わっていなかった証拠であるかもしれない。

 
「現代音楽」への関心 しかし、多感な少年には時代の最新の音楽の方が気にかかる。ハイドンやモーツァルトの存在である。とりわけモーツァルトを勉強するには良い環境が整えられようとしていたことが、その思いを一段と募らせる。1784年に新たな選帝侯となった大公マクシミリアン[マックス]・フランツは、もともとモーツァルトの熱い信奉者であり、モーツァルトを宮廷楽長に招聘できなかった無念さを募らせていたところであった。その思いが、自らの首都となったボンの「天才児」に向けられることになった。16歳時になされたモーツァルト訪問の際の旅費も、大公が負担したのではないかと推測されている。わずか2週間であったとはいえ、大きな音楽的刺激を受けたウィーン訪問は、さらにベートーヴェンを作曲への熱い思いに駆り立てていくだけでなく、後のウィーン行きの伏線ともなる体験であった。

年譜的には、ウィーン行きの直接の契機はハイドンであった。すでに大作曲の誉れを一身に集めていたハイドンであった。長年仕えていたエステルハージ家の楽長を辞したハイドンは、嘱望されるままにロンドンに行く途次、ボンの選帝侯を訪問したのであった。ベートーヴェンの非凡な才能に触れたハイドンは、思いがけなく自分の弟子になれるよう取り計らってくれたのである。かくして1792112日の早朝、ベートーヴェンとボンとの別れの時はこうして告げられ、運命の扉が開かれることになった。

 
ウィーンでの生活 ただしボンとの別れと言っても、現代的な「上京」(戦後の高度経済成長期における日本のそれ)のようにはいかない。かりに就職の検討をつけておかなかったとすれば、すぐに資金難に陥ってしまいかねない。すでにモーツァルトがこの問題の先達であったが、18世紀後半から19世紀前半という時代、音楽家にとっていかにして生活資金を確保していくかは、音楽活動の展開と密接不可分の関係にあった。一時代前なら、否、同時代でもと言うべきか、宮廷楽師という在り方がもっとも一般的な姿であった。それが音楽家にとって作曲活動の大枠になり、良くも悪くも〝足枷〟にもなったとしても、バッハの先例がある。最後は市民参事会との契約に音楽活動と生活資金の多くを得ていたバッハも、それ以前は宮廷楽師の職を変遷していた。作曲の内容は、そのつど宮廷が求める音楽であった。にもかかわらず誰にも届かないような音楽になってしまう(本ブログ20146月を参照されたい)。

同時代であれば、ベートーヴェンのウィーン行きの契機をつくったハイドンもその例に漏れない。エステルハージ家の楽長として30年余りを捧げている。それ故にモーツァルトの才能を嘆いている。有力者が彼の支援者に付いていなかったからである。ザルツブルク大司教との確執から解雇を言い渡された後、ウィーンを本拠地としたモーツァルトは、フリー・ランスの作曲家としてその後の生涯を過ごした。しかし作曲だけで生きていける時代ではない。生活を成り立たせるためには、作曲以外に各種演奏活動や家庭教師としてのレッスンから収入を得なければならない。自主企画による演奏会の場合では、そのための作品を作曲して臨むことになる。作品の芸術的高さと客の入りとはとかく反比例になりがちだった。モーツァルトの最晩年の生活の窮乏振りは、広く知られているところである。

モーツァルトが35歳の若さで亡くなった時(1791123日)、ベートーヴェンは約2週間後に21歳の誕生日を迎え入れるところだった。ウィーン行き11か月前であった。ベートーヴェンのウィーン行きは、モーツァルトの場合とは正反対だった。雇主である選帝侯の期待を一身に背負っていたからである。選帝侯マックス大公は、ボンに錦を飾って欲しかったのである。解雇されたモーツァルトとは違い、選帝侯の資金(年金)によって旅立ち、また移住後の生計もその年金が賄っていたのである。決してフリーな音楽家なわけではなかった。

しかし結果として先輩モーツァルトのようにフリーの音楽家となっていく。しかもモーツァルトとは違って作曲主体のフリー・ランスである。「音楽家」ではなく「作曲家」としての人生は、音楽の歴史から見ても画期的なことだった。それでもまだモーツァルトと同時代の状況下でなぜ「フリーの作曲家」が可能だったのか。ベートーヴェンの個性――宮仕えを厭わしく思っていたことに加え複雑な感情の持ち主であった個性が、そう仕向けたといえばそうかもしれない。前提となる才能にも恵まれていた。しかしそれだけでは事は運ばなかった。さらに条件が必要だった。時代状況だった。この場合、フランス革命からナポレオンの時代だったことが、大きな条件となっていたのである。

フランス軍のボン侵攻がそれであった。大公が土地を追われたことにより、あっさりと宮廷は瓦解してしまったのである。かりに選帝侯の願いを叶えるべく帰郷の心積もりであったとしても、帰る場所を失っていた。結果として時代的条件(歴史的条件)によって作曲家ベートーヴェンの自立は、まず外側から促されることになる。西洋音楽史にとっては、いち早く次のステージが用意されることになったが、ベートーヴェン個人にとっては、大公からの年金が望めなくなってしまったことで、将来の展望を含め仕切り直しを迫られることになった。最初どころかそれ以前に戻されてしまうことになる。

作曲の版権や印刷譜の販売収入だけで生きていける時代ではかった。新しい支援者を求めなければならなかった。その点、才能を武器にフリー・ランスの音楽家として生涯を過ごすことができたのは、ウィーンがベルリンやロンドンと並んで音楽の中心地であったからである。ウィーン移住後の最初の数年間で音楽愛好家の貴族たちの高い関心を勝ち得て、その才能に貢献したいとする支援者たちに囲まれていたからだった。多額の年金を申し出たリヒノフスキー伯爵はそうした一人である。年金だけではなく伯爵は外遊資金の提供まで申し出た。若きベートーヴェンの音楽活動に大きく資する音楽外遊であった。彼らの支援に対してベートーヴェンは曲の献呈で報いる。献呈を受けることは、ウィーンの高い教養を誇る文化的貴族層にとってこの上ない誉れであった。そういう点から見ても、まだまだ音楽需要者の中心は貴族たちであった。


新たな作曲家態度 しかし、こうした音楽状況のもとで重要なのは、支援者に媚びへつらう作曲活動がなされることはなかった点である。それが彼の「意識」の中核をなしていたことがさらに重要であった。

自己にのみ向き合うことが可能な作曲家としての態度が、必ずしも名作を生み出すことには結びつかないし、むしろバッハの場合ではこの関係が逆転しており、創作の深淵には窺い知れない秘密が宿されているにしても、すでにバッハ亡き後の音の世界にとって、新たな響きによる音との関係性の構築は、時代に反意を以って立ち向かう作曲家には不可欠な自己命題であった。生きる前提でもあった。次のハイドンの言は、それを逆説として聞き止める時(傍線部分)、あらためてベートーヴェンの同時代的な立場(フリー・ランス)を音楽史的意味として教えてくれる。なお「ハイドンの言」は、浩瀚なベートーヴェン研究書を著わしたルイス・ロックウッドが、ハイドン回顧録を残したハイドン同時代人(グリージンガー)のそれとして引いているものである(同書2010年、110頁)。

侯爵(エステルハージ家のニコラウス侯爵・引用注)は私のすべての作品に満足していた。私は承認を得て、オーケストラの楽長として、実験を行うことができた。つまり、何が効果を高め、何がそれを弱めるかを観察し、それによって改良し、付け加え、削除し、冒険することができたのだ。私は世間から隔離されていて、私の回りには行く手を惑わせたり邪魔したりするものは誰もいなかった。だから私は独創的にならざるを得なかった。(傍線引用者)

さらに同書は、別の同時代人の言として、ハイドンと侯爵とのさらなる緊密な主従関係の様子を、一つのエピソードを介して紹介している。ハイドンは二度にわたって家を焼失したようである。その際に侯爵が差し延べた援助の手に関するくだりである。「(侯爵は)彼を慰め、家を再建させ、必要な家具を提供した。侯爵の気前の良さに深く感動したハイドンができたことは、愛情と忠誠、それに自身の霊感の所産で恩に報いることだった」(同頁)と。そのハイドンだからこそ、「フリー・ランス」のモーツァルトに対して歎いてみせることができたに違いない。「『比類のない才能』にふさわしい重要な地位をいまだあたえられていない」と。モーツァルト宛の手紙の一節であるという。「重要な地位」とは、しかるべき宮廷音楽家の地位にほかならない。遅きに逸したとはいえ、亡くなる4年前の1787年には名ばかりとは言え、宮廷作曲家の称号を得ている。ハイドンに立っての言い回しであるが。

それでも、もし、モーツァルト自身としてもそれを(地位にないことを)嘆いていたとしたなら、いまだ真の「フリー・ランス」になっていたとは言えない。しかる時、ベートーヴェンは自ら望んでその立場を選び、かつ生涯にわたって貫き通した。援助の影に隠させて従属性の匂いが嗅ぎとれたような時などは、ときに強い反発心を起こした。またそうすることを厭わなかった。たとえば、ウィーン初期段階にあって有力な支援者であり、イタリア製の弦楽四重奏曲用弦楽器一式(現ボン・ベートーヴェンハウス蔵)の贈与と年金(600フローリン)を提供した、上掲リヒノフスキー家カール侯爵に関するベートーヴェンの憤慨があった。正餐に毎日顔を出してもらいたいと期待されていたからだった。縛られたくない以上にこれでは下僕扱いではないかとさえとってしまう。ベートーヴェンのその時の下宿が同家の近くであったから、伯爵としてはそんなつもりではなかったに違いない。当初はより身近にいて(階下)、ベートーヴェンはいつも歓待されていたのである。でも許せなかったのである。気分はいつも〝戦闘状態〟であった。

あるいは移住後10年が過ぎた頃(1802年)のことである。弟子ジュルエッタの母親から贈り物が届けられたことがあった。母親とはグイッチャリディ伯爵夫人であった。ベートーヴェンは、瞬時にそれを自分に対する報酬と受け止めてしまう。怒りの爆発である。これではまるで報酬を得るために教えているととられている。借りを作りたくないと言っている。恩義を植え付けようとしている。好意が踏みにじられたととっていのである。ベートーヴェンには侮辱でしかなかったのである。

伯爵夫人宛の手紙はかく語る――「私が親愛なるJ(伯爵夫人の娘ジュリエッタ・引用注)のためにやったほんわずかなことを、たちまちあなたの贈り物と同列にしてしまいました。あなたは、私に借りがあるような体裁になるよりも、私があなたの恩義を受けているようにしたいと私に示そうとすることで、私の誇りを傷つけたがっていたように思われます」(上掲書111頁)と。さらに付け足されている、「私は、たとえお金のためにだけ働く場合でさえも、どこでも同じように素直です」と。報酬を弾んだ作曲依頼があった場合でも、依頼主(貴族)に気にいられるようなことはしない、と語っているのである。


「ハイリゲンシュタットの遺書」 送り物の一件からは、あるいは神経過敏すぎるのではないかと訝しがられるかもしれない。しかしそれがかえって、ベートーヴェンがベートーヴェンであることの、言い換えれば自己実現が果されていることの、抜き差しならない時代的条件を鮮明化することになる。しかも「自己実現」は、単なる人格の保証の域を超えて、ベートーヴェンの音楽のそれと一体となっている。あるいは必要条件となっている。よく知られた「ハイリゲンシュタットの遺書」からは、そのためには「神」さえ相対的存在になっていることを読み取ることができるのである。

ウィーンでの初期段階ですでに「若きモーツァルト」との名声を得たベートーヴェンに大きな精神的危機が訪れる。宿命となる聴覚障害の進行からもたらされた絶望感である。広く世に知られた「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれる経緯である。ウィーン郊外の静閑な田園地帯。そのハイリゲンシュタットは、夏を郊外で過ごすベートーヴェンが、生涯に何度か訪れた場所の一か所で、重要な曲も書き上げられている。滞在した三軒の家は今も残っているようである。

「遺書」は、1802年に同地を訪れた際に書かれたものである。二人の弟宛に記された文面には、遺産配分のことなどが具体的に認められてあり、「私が死んだとき」と自殺をほのめかす箇所もあるが、自殺を思い立って書かれたものではない。一見遺書の形をとっていても、宿命に立ち向かって精神力を奮い立たせるためで、芸術に報いる決意を新たにするべく、むしろ全体として自分宛に記されたものである。死後所持品の中から発見された同「遺書」は、誰の目に触れさせないようにしてあった。苦悩を乗り越えた記録(自己記録)として手許に残されていたのである。

「遺書」には、1802106日とその4日後の10日の二つの日付がある。本文と追伸(追記)である。「本文」は、聴覚障害故に意に反して社会と離反しなければならない苦悩と、その救いとしての死の向かい入れ、及び自分亡き後二人の弟に託した世間への弁明(症状の説明)、そして財産の取り扱いのことなどである。「追伸」は、形而上的な想念から発せられた神への問いかけの形を採っている。

もともと人目に晒されるのを予定していなかったものである。しかし、発見後、早くもその年の内に出版されることになる、作曲上の画期となったこの「遺書」に目を通す時、「本文」の「芸術」と「追伸」の「神」に注目しなければならない。すでに記したように、神に語りかける時でさえ芸術が唯一絶対的な存在となっている。これでは最初から神の相対化である。それでも字面だけでは相対化は読み取れないように綴っている。したがって神によっても救われないとする、逆説的な彼の認識態度を読み取らなければならない。その時、「本文」に記された「芸術」への回帰を通じて、「神」をも超えている「追伸」の精神性が顕かになる。以下に「追伸」の全文を掲げる。

ハイリゲンシュタットにおいて。18021010日。親愛なる希望よ。――さらばおんみに別れを告げる――まことに悲しい心を以って。――幾らかは快癒するであろうとの希望よ。この場所にまで私が携えて来た希望よ。今やそれはまったく私を見棄てるのほかはない。秋の樹の葉の地に落ちて朽ちたように――私のためには希望もまた枯れた。ここに来たときとほとんど同じままに――私はここから去る。――美しい夏の日々(にちにち)に私の魂を生気づけた高い勇気、――それも消えた。――おお、神の摂理よ――歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せて下さい。――すでに久しく、まことの悦びの深い反響は私の心から遠ざかっています。おお、神よ、いつの日に――おお、いつの日に、――私は自然と人々との寺院のなかで、その反響を再び見出すことができるのですか!――もはや決して?――否――おお、それはあまりに残酷です!―― (片山俊彦訳)

 曰く、ここでは神は付けたりでしかない。それが、ベートーヴェンにとっての神に過ぎなかったというわけではないが(作品123の《ミサ・ソレムニス》に当たる必要がある)、これが数十年前なら、失われた「希望」は、当然、神の御前では回復しているはずである。神の高みから見れば、すべては現世の出来事でしかないからである。かりに御前でそれが得られなかったとしても、それはそれで受け容れるべき「神の摂理」であるし、受苦は天上での歓喜に再生することになるはずである。神は絶対であり、疑いの対象ではありない。

そもそも「私は自然と人々との寺院のなかで、その反響を再び見出すことができるのですか!」と問いかけたりしない。それを問い詰めにさえなっている。しかも「寺院」は神が司る場所であり、時空をも治らす至聖処である。それを「自然と人々との寺院」として、あたかも神を最初から外してしまったかのように、その言葉は神の外に向けて唱える。「寺院」こそが「悦び」でなければならない。「すでに久しく、まことの悦びの深い反響は私の心から遠ざかっています」までは構わない。でもあくまでも個人の世俗的な自問自答でなければならない。「もはや決して?――否――おお、それはあまりに残酷です!」として救われないと予め決めつけてはならない。神に向かって発しているからである。なお、「寺院(tempel)」は「殿堂」あるいは「神殿」とも訳されているが、その場合(端から「教会」なる表現を避けていた場合)、さらに神との間に距離を置くことになる。

 結局、かつてそうしてき来たように、苦悩のなかにあっても、そしてそれが耐えがたいものであって後は絶望の底に突き落とされなければならならない、「みずから生命を断つまでにはほんの少しのところであった」としても、「――わたしを引き留めたものはただ『芸術』である」と記すように(「本文」)、神によっても「否」を突き付けられた我が身を再びの「希望」とその先の「歓喜」に導くのは、「使命」である「芸術」でしかない、と遠回しに語っているのである。

すなわち、最初から自分に向けた問いかけでしかない。神は、修辞上の神を超えて絶対的高みに坐しまさない。たとへ「兄弟たちよ――星たちの天幕のかなたには/必ずやいとしき父がおわすのだ」(《第九》Ⅳコーラス)と、天上の神を胸に秘めて高らかに呼びかけたとしてもである。


 自己実現のための芸術 現代から見れば当たり前の自己実現のための芸術――それは、飽くなき内面の追求を要請するが、たとえば19世紀後半以降では当たり前になってしまった営為であるために、それ自体としては特段新鮮味にかける。しかし、ベートーヴェンを聴くとは、この内面の追求の過程を聴き取ることにほかならず、その規模が全人的であることの驚き以外のなにものでもない。これ自体は定着したベートーヴェン像であり、あらためて申し立てる程のことではないが、我々がとかく見落としがちなのは、それを(内面の追求を)現代のそれとして平準化しえないところ、とくに追及がそのまま自己実現に転化されるわけではないことである。ベートーヴェンを聴く価値とは、むしろこの見落としに耳を傾けるところにがある。

習作からはじめて初期、中期、後期と、年代を追って深化過程を確認するようにして聴くたびに、深化のめくるめく転回の速度感に驚かされる。それ以上に、それがその時代として行なわれていることに驚異的な思いを抱かされ、人間存在の一つの奇跡にさえ思いを致すことになる。とりわけ驚かされるは、同じ深化でもあからさまな個性の深化として次々に自己実現を果たしている点である。

「スランプ」とも評される1812年から翌13年を除けば――単なる「スランプ」より「画期」の伏線にとる理解の方が実態的なようであるが、深化がほとんど止まらない点は、それが、いまだ長寿は得難い限られた生涯(56歳)のなかで達成されているのは、さらに脅威である。これが神から距離をとってなされている点も、いかにも「自己実現」を単独に命題化したベートーヴェンの個人像に似つかわしい。

 
ボン時代の習作 ベートーヴェンの音楽人生は、大きくボン時代とウィーン時代に大別されるが、ボン時代は、幾つかの作品が残されているとはいえ、基本的には習作の域を出ない。しかし、ウィーン時代の開花のためには欠くことのできない修養期間であったし、運命の扉を開くことになった(上述)。

早熟の12歳(刊行では10歳と詐称(モーツァルトを真似た父親の企て))の作品(《ドレスラーの行進曲による9つに変奏曲》WoO631782年)や《選帝侯ソナタ》(WoO471783年)の流れ下るような滑らかで抒情性をも抱えこんだ調べもさることながら、没後はじめて出版された《3つのチェンバロ四重奏曲》(WoO361785年)は、同じ習作でも秀作の域に届いている。しかも後のベートーヴェンを考える時、乗り越えるべきスタートラインをその年齢で早々と引いている作曲内容になっている点である。

引いているというのは、モーツァルトとしての線である。小都市ボンの一少年楽師にとって、ハイドンと並んで大都市ウィーンの大スターであるモーツァルトは、神のごとき存在であった。普通なら対峙など思いも及ばないことである。しかし少年ベートーヴェンは、ただ憧れるだけで終わらせることができない。自分のなかにその楽音を移入せずにはいられないのである。それが自らの楽曲に定着している様を見事に物語っている。それが秀作の出来を獲得することになる。

 
初期作品 この15歳にして「モーツァルト」を高い水準で自分のなかに生み出す非凡な才を前にして注目できるのは、それが初作後3年であった短時間性である。一処に留まることを知らない、否、むしろ止まることを許さない自己転回力に目を見張らなければならない。そしてその時、別に注目されるのが、ベートーヴェンと鍵盤楽器である。ベートーヴェンというと不滅の交響曲群が真っ先に思い浮かぶが、後の交響曲へのアプローチも含めて、自己実現を先兵として担ったのは、初作以来の鍵盤作品や鍵盤と弦との重・合奏作品である。同じ第1番でも交響曲第1番(作品211800年)から56年を遡るピアノ・ソナタ第1番(作品2)、あるいは作品1のピアノ三重奏曲が、年代的先行をものともせずにモーツァルトからの離脱を交響曲第1番ハ長調以上に達成しているのもそのなによりの証拠である。

3曲からなる計6曲の同作品群を中期作品と較べれば、まだ楽聖たるベートーヴェン像には不足しているかもしれながい、遡及的な聴き方ではなく、下から上に向けて聴き比べる昇順的な方法を採れば、ボン時代の作品に対して早くも「個性」の発現が顕在化しはじめているのを聴きとれることになる。モーツァルトやあるいはその当時子弟関係を結んでいたハイドンの気配がいまだ曲想に幾許か漂っていたとしても、本格的に訪れる自己実現が、そのための音型を準備したなかに随所に鳴り響いている。

なかでもピアノ三重奏曲第3番ハ短調(作品13)やピアノ・ソナタ第1番ヘ短調(作品21)の両短調の、荒々しい響き(「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドラング)」)を抱え込んだまま、手探り状態であらたな音楽空間を求めた厳しい音への対峙には、すでにウィーンの貴族文化が素直に受け容れられるものでないどころか、後ろ向きで反意的でさえある。況やサロンを満たす調べをそこに見出すことができない。作品2はハイドンに献呈されたものであるが、師は弟子のこの〝荒業〟にはしかめ面で応じなければならなかったはずである。実際3曲中、短長作品には苦言を呈している。

作品1は、最も有力な支援者であったカール・リヒノフスキー侯爵に献呈されている。伯爵は、単なる支援者と言うだけではなく、ベートーヴェンの音楽の良き理解者でもあった。文化的な貴族たちのなかには、「最先端」を受容(支援)することに自らの教養を満足させる族が少なからずいたのである。宮廷作曲家ではなく〈都市作曲家〉ともいうべきフリー・ランスの立場を生涯貫けたのは、時には都の俗物性に擗辟することはあったとしても、伯爵の例などは、文化都市ウィーンがベートーヴェンに与えた無形の糧とも評価できる。音楽家だけではなく貴族層にも時代の変化は確実に押し寄せていたのである。


時代と作曲ジャンル ベートーヴェンの自己実現はどのように企てられたのか、それを作曲ジャンルとして見てみる。かりに作品55の交響曲第3番変ホ長調《英雄》(1805年)が、当初見込んでいた自己実現の頂だとしたなら、作品21の最初の交響曲第1番ハ長調(1800年)に至るまでの、最初期のピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタなどの鍵盤や鍵盤と弦楽器の作品以外に手懸けられた、一連のチェロ・ソナタやヴァイオリン・ソナタさらには弦楽四重奏曲などは、自己実現の上で何を物語っているのであろうか。はたして構想していた交響曲を用意周到に準備するためのものであったのか。実は以下のように必ずしもそうなっていないどころか、乖離さえしている。あらためてベートーヴェンと作曲ジャンルの在り方が関心として立ち上がってくるのである。

差し当たって同時代のそれとしての音楽的関心を惹起する。詳述には及ばないが、そもそもジャンルとは作曲家にとってなんであったのか。ハイドン、モーツァルトの先輩作曲家二人と比較すれば同時代のなかであってもベートーヴェンが少し遅れて生まれてきたことが大きな違いになっていることが分かる。言うまでもないが、まずはサロン音楽(ディベルティメントほか)の欠落的が認められる。その他管弦楽曲ではバロック的伝統を引きずる各種弦楽協奏曲(合奏曲)も欠落することになる。いずれにしても以上の欠落は、両者の社会的立場の違いを知る上には象徴的なことながら、内面的な「自己実現」を問う場合には直接関わりがない。

注目したいのは、交響曲と弦楽四重奏曲との前後関係である。ベートーヴェンの場合と違い、両者とも交響曲の方が先に作曲されている。と言っても8歳で交響曲第1番の作曲を果たした天才児の離れ業は、特別だし脇に置いておかなければならないが、離れ業が可能であったと言う点では、当時の交響曲に求められていた表現の程度が逆に浮上してくることになる。交響曲や弦楽四重奏曲の父と呼ばれるハイドンの場合は、最初の交響曲が25歳(1757年)であるのに対して弦楽四重奏曲は5年後の30歳時である。エステルハージ家の楽長職を離れてロンドンに移った後に作曲された、ロンドン交響曲と呼ばれる一連の作品(晩年作品)の緊迫感は、生涯100曲を超えるような交響曲を作曲し続けた「交響曲の父」に相応しい響きを保っているが、初期のそれは、貴族のサロンにしか鳴り響かない優雅な楽曲でしかなく、交響曲という形式が必要であったのも、室内楽との音響的な違いとしてサロン空間を魅力的に膨らませるためでしかない。楽曲形式の違いによって生み出される響きの違いは、サロン音楽の密度を高めて聴衆(貴族)たちの気分的な刺戟の高まりに効果的であったに違いない。

参考までに交響曲の作曲年代の開きを確認しておくと、ハイドンが1757年(25歳)、モーツァルトが1764年(8歳)、ベートーヴェンが1800年(30歳)である。また、ベートーヴェンの最初の交響曲までの年数は、12歳の作品から数えると18年を要している。宮廷音楽家以前のフリーな10年間(1727歳)の作曲活動は未詳ながら、最初の交響曲は宮廷に入ってからであるとされているから、ハイドンの場合は10年である。ただしこの10年は、同じ10年でもベートーヴェンの場合とは大きく異なる。交響曲に対する対峙方が違うからである。ハイドンの初期段階ではまだ重要なジャンルとして自己化されていなかったのである。それはモーツァルトにしても同じで、交響曲第25番ト短調K.1831773年)を待たなければならない。それでも17歳である。特別な才能だったことに変わりない。ただし、15歳のベートーヴェン少年も決して負けていなかった(上記)。


ベートーヴェンと交響曲 そこで次にベートーヴェンである。作品21の交響曲第1番ハ長調に耳を傾ける時、それ以前に室内楽作品で達成していた自己実現を、同じ程度には深い響きとして提示していない点に疑いを抱くことになる。交響曲の作曲が室内楽に大きく遅れたのは(ただしスケッチは行われていたが)、偉大な二人の作品を前に満を持して臨もうとした、いまだ自信が持てない技法上の問題が介在していたかもしれないし、当時のウィーンの音楽事情も関与していたかもしれない。フリー・ランスの作曲家が、大掛かりなアンサンブルを駆使できる環境にはなかったからである。実際、交響曲第1番は、自主演奏会用の曲目の一つとして作曲されたものである。成功第一を念頭に置いていたからであろうか、それが踏襲的で無難な調べと手を打つことになったのか、力強さに欠ける音楽性を指さして、「要するに、ベートーヴェンはここにはいないのだ」と、ベルリオーズは難じてみせる。ベートーヴェン信奉者であったベルリオーズが、あえてあからさまに異を唱えるのである。

しかし、非難されても仕方ないと分かっていて書かれていたはずがない。小品ではないのでる。この局面に至ってあらためて思うのは、ベートーヴェンの内面である。交響曲との関係である。誰もがベートーヴェンといえば交響曲を思い浮かべる。特に日本では《第九》の威力は絶大である。もちろん年中行事は関係ない。ベートーヴェンとっても意味のないことである。かえって過剰気味になりがちな分、指揮を離れて音楽性は軽くなってしまいかねない。それでも《運命》があるから、誰も‶軽い〟などと思うわけもなく、付加的要素の多いイベント性から退避しようと、《第九》の「名盤」類で口直しすれば、たちまち純粋音楽が高い芸術性のなかで回復されることになる。

かくベートーヴェンの偉大さを交響曲として感じとるのは、もっとも常道的な聴き方である。それに《運命》だけではない。《英雄》も《第七》もある。別の響きもある。《田園》では、豊かに揺れ動く振幅感のある感性によって、硬質一辺倒でない別の人格を提示する。《第四》《第八》もまた然りである。ステレオタイプな言い回しながら、額に皺を寄せた、暗い俯き加減のしかめっ面から、全人格に解き放たれた輝かしい表情への転位の鮮やかさに目を見張るのである。しかもそれはそれで引き締まった音の構築を見事に達成していて、精神の強さを対極にも響き渡らせている。「明るさ」に〈深み〉を覚える瞬間であ。しかも〝明るさのなかの哀しみ(モーツァルト)〟とは違う音の種類である。別の感性が切り拓く外に開いた内省とでもいうべき措辞を用いたくなる。

 それ故に一人の作曲家の全体性を構成的に分化する「明」と「暗」に対して思うのは、分化ではなく、それを一つの曲として体現するとはいかなる事態であるのか、という創作的な関心である。一体に楽曲化することは、楽聖をもってしてもなしえなかったことであるのか、それとも必要がなかったのか、あるいは音学理論上に関わることなのか、門外漢が立てるべき設題ではないのかもしれないが、ベートーヴェン以後の音楽、とりわけ交響曲の在り方から振り返る時、それが限界であるというよりは、ある必然性をもった分化であったこと、必然性にしても天才によってはじめて顕在化できたことを知らされるのである。創造力の源泉となる明暗の分化あるいは合一は、その在り方を通じてベートーヴェンを起点として音楽史的課題となって引き継がれていくが、すでにベートーヴェンとは違う命題となる。その問題は別な議論になってしまうので今は語れない。以下はベートーヴェンに立ち返るための言及である。


 後世の交響曲作曲家 「分化」と「合一」の問題について取上げられるのは、「分化」を再生させたブラームス、「合一」を追求したブルックナーとマーラー、この二タイプに別れる三人の交響曲作家たちのことである。よく知られているように、第1番を書き上げるのに約20年の歳月を要したブラームスの前に大きく立ちはだかっていたのは、ベートーヴェンの交響曲の大山脈であった。彼にとって天に届くほどに頂を極めたベートーヴェンに続いて交響曲を書く意義を見出せずにいたからである。結局、躍動感と構築感を併せ持って高く緊迫した響きを獲得する形で書き上げられた第1番は、ベートーヴェンの交響曲第10番と呼ばれる名誉を冠せられることになる。

しかしそれでもベートーヴェンは超えられない。音楽性としてではない。形式性としてである。ブラームスの場合は、必ずしも「明」「暗」の関係に二分置されるものではないが、4曲の交響曲は、「分化」を前提として書き起こされているからである。第1・第4交響曲に対して、第2・第3交響曲の曲想に浮かぶのは、音楽的な発想の異なりである。第1交響曲の続きに連続的な深化を求めて書かれたわけではない。最初から「別」を前提にしているのである。その点で「分化」であり、同時にその意味でベートーヴェンは超えられないのである。「形式性」が「分化」を容れているからである。

 一方で、ブルックナーとマーラーの場合はどうかと言えば、ブルックナーでは第3番に対して第4番《ロマンチック》が「分化」的であるのを除けば、第5番から第9番までは内的連続性の上に創作態度が求められている。一連の初期の交響曲(交響曲ヘ短調、第102番)は、いずれも準備段階に位置づけられる。その意味では最初期から連続性を有していると評価できる。

マーラーでは、第1番は評価の別れるところである。また器楽的な響きばかりではない点も考慮すべきかもしれないが、声楽の参画によってより重層化した楽音からは、連続的な創作的内面の現場の生の声を聴かされる思いである。とりわけ重厚にして深遠なるアダージョで閉じられる第9番は、未完という形であったとはいえ、ブルックナーの第9番の最終楽章(結果として最終楽章)となったアダージョとあたかも符丁を合わせているかのようである。内的追求が生んだ必然であったにちがいない。


バッハ以後の音楽とその行き先 なにも音楽的優劣を問おうとしているのではないが、「分化」を容れない作曲態度が、作品を巨大化していることは、創作的内面が然らしめたものであろうことは容易に察せられるところである。問題なのは、バッハの音楽以降、バッハによって一度終えられてしまった音楽の行き先であった。

 バッハには最初から分化はなかった。だから合一もなかった。必要なかったというべきか。むしろ音楽史家(シュヴァイツァー)の高い識見が指摘するように、それは、バッハ以前の長い西洋音楽史の総合であった。総合以後の音楽は、その総合のためにバッハが固く閉ざしていた(容れようしなかった)、一身のみのための音楽(個人的感情音楽)にあたらしい景色を見た。深窓に背を向けた新しい窓辺からは、柔らかい日差しが戸外から注ぎこみ居室を満たしていた。すでにバッハの後半代からはじまっていた、気分に開放的な新しい音楽様式(「多感様式」「ギャラント様式」など)は、大バッハの死にって一気に音楽の一大潮流となっていく。しかもその先頭には、息子のカール・フィップ・エマニュエル・バッハやヨハン・クリスティアン・バッハが立っていたのである。親子としての血は濃くても音楽は別である。ロンドンを訪れた8歳のモーツァルトが、J.C.バッハ(末子)から大きな影響を受けたのはよく知られていることである。

音楽史的な記述めいてしまうが、かくして前古典派と括られる、バロックから古典派に続く過渡的音楽潮流が、一世を風靡することになる。ハイドンやモーツァルトの初期もそのなかに含まれることになる。しかし、分化というなら前古典派には「分化」はなかった。萌芽を認めるとすれば、ハイドンの後期やモーツァルトの中期以降である。とりわけモーツァルトの短調音楽は先行的だった。それでも唐突感を際立たせた音出しも、強迫の連打による過剰性も、際立つピアニッシモも、あるいは時に跛行的な旋律の進行も、いずれもモーツァルトの容れられるところではない。音楽的発想として考えも及ばない露出的行為であった。モーツァルトの天才性は、音楽様式的な制約のなかにあっても気質を原資としていた。若きベートーヴェンを捉えたのも、モーツァルトの気質から溢れ出る瑞々しい精神性の透明な浸透力だった。


ベートーヴェンの交響曲 ベートーヴェンは、はたして交響曲の作曲家だったのであろうか。放言を超えて暴言もいいところと呆れ返られかねないが、作曲的内面との整合を問おうとしているための、いささか逆説的な響きを籠めた前置きである。そこで再び交響曲第1番となる。もし、内面と言うなら、そこから聴こえてくるのは、作曲的内面とは別なものである。テクニックでありテクニックによって鳴る響きである。作曲に優先していたのは技法であり、しかも作曲的内面に背を向けた技法的態度であった。強調しておかなければならないのは、作曲的優先を可とするベートーヴェンが佇んでいたことである。

内面に優先するとは、創作的には欺瞞であるかのような態度だが、間に1年を置いた翌々年(1802年)には第2番ニ長調(作品36)が、さらにその翌々年(1804年)には第3番変ホ長調《英雄》(作品55)が書かれている。間隔から言っても連続的である。したがって欺瞞などではない。第2番の力強い響きを耳にしただけでも、たとえばブラームスの20年に対して、僅かな時間内で音楽的に勇躍した力量を目の当たりにさせられる。そして第3番である。音による支配力には、単なる力強さを超えた、地上に超越的な響きが漲っている。第2楽章アダージョ・アッサイ(ハ短調)の緩徐楽章であっても支配力を緩めようとはしない。かえって「葬送行進曲」による悲壮感は、調的対極においても同質の超越性を抱え込み、抱き合わせに世界を閉じこめ隙間をつくらない。同じ支配力でもどこか権力的な装いを帯びた響きである。

 まさに《英雄》たる標題の指し示すところであるが、この様式的堅固さをもった完全無欠的な昂りは何のためのであったのか。「現実の英雄」のためだったとするなら、当初の思いが裏切られた瞬間から、献呈名を記した表紙を破り捨てるだけでなく、曲自体も破棄すべきであった。もちろん暴論である。分かっていて言っているのである。表紙の破棄だけで気持ちが納まっていたのであるから、「現実の英雄」のために書かれた内容であっても、英雄である彼のためではなく、彼と一体化していた自分のためであった。言うまでもないことである。しかしそれ故に問題なのである。「英雄」との一体化がである。より本質的には、一体化が必要であったことがである。


作曲家と時代的条件 やはり一人の音楽家の置かれた時代的状況が、音楽史的にだけでなく歴史的にも、交響曲で表そうとしていたことの実相を教えてくれるのである。《運命》も《第七》も、そしてその終極的な姿である《第九》も、「内面」では達成できないもの、すなわち〝世界支配〟のために響き渡っていたことをである。逆に言えばそれが時代状況を物語っていると言えるし、音楽家が人間存在として生きる上での時代的限界であったとも言える。まだ「内面」だけでは救われない時代だった。

故に限りない上昇志向がここにあった。時代的条件が要請したものだった。それでもいまだ全面的な解放には走らない。だから尊大にならない。交響詩的金管の輝きのようには外形志向をとならないのである。めくるめく強迫が多用されても、音の引き締まりは、内向きを原形としている。問題は、同時に内側からも離れていなければならないことである。この時、作曲技法(音楽語法)が救済方法となって矛盾の前にたち現れることになる。「優先」を容れたベートーヴェンの姿を傍らに見る瞬間である。

 外形志向的なベルリオーズから「ここにはベートーヴェンはいないのだ」と難じられたのは、それが「支配力」の欠落と言い換えられるためであるが、その第1番にしても将来の「支配力」を予感していたはずである。早々に生み出された第2番がそれを証明している。したがってそこまで含めて第1番の響きとしなければならないであろう。しかし、第2番の力強さの先に、個別のパッセージではなく曲が全体として突き付ける意味に向い合う時、「明」と「暗」の分化だけでは解けない、「分化」を超えたベートーヴェンの真の姿がたち現れることになる。

 これは結果論かもしれない。しかし、一過性で済まされていたかもしれないものが、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲を知ってしまった後では、作曲家の本質として突き付けられてくる。その時浮かぶ個人像は、交響曲作曲家ではなく、室内楽作曲家としてのベートーヴェンである。後期、とくに晩年の一連の作品は自らにそう語りかけている。けして逆説的ではなくである。


最後の弦楽四重奏曲 シューベルトがその若い命を天に召されようとしている時、最期に聴かせて欲しいと頼んだのは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調(作品131)であった。願いは叶えられるが、同作品は、ベートーヴェンにとしても死の前年(1826年)に書かれたものである。一個人の作品にとどまらず、すべての弦楽四重奏曲の極みに立つ偉大な作品である。弦楽四重奏曲や五重奏曲に名曲を残したシューベルト故に、自作を除けてまで挙げた、人生終局での一曲である。最後のピアノ・ソナタ第32番ハ短調(作品111)も同じ水準を究めた作品である。死の5年前に書かれたこの作品は、後期の一連のピアノ・ソナタ群である第29番《ハンマークラヴィーア》(作品106)にはじまる4曲のなかの1曲である。人生の終盤では、一体性は1曲としての孤立感を強める内部深化にも寄与している。弦楽四重奏曲の場合も同様であり、作品131はその極限状態として立ち現われている。

ルイス・ロックウッドの大著(前掲)は、「第Ⅳ部 最後の成熟 18131827」の最後章(同時一書の最終章)として、「第21章 無時間的音楽――最後の弦楽四重奏曲群」として長い文章(約80頁)を費やしている。投じていると言ってもいいが、長文の栄誉を受けるに相応しい楽曲群である。対象となるのは、作曲年代順に作品127(弦楽四重奏曲第12番変ホ長調)、作品132(同第15番イ短調)、作品130(同13番変ロ長調)及びもともと同作品の最終楽章として書かれたが事情により別に出版された《大フーガ》、作品131(第14番嬰ハ短調)、そして最後の四重奏曲となった作品135(第16番ヘ長調)の5曲(あるいは6曲)である。作曲年代は182426年の間である。

いつの段階にあっても人生と作曲は無縁ではなかった。生活と切り離しても音楽は十分聴ける。しかし、作曲的内面から聴こうとする時、その人生は、作曲に随伴し、逆に人生が作曲に先行することも少なくない。作曲内容の規定としても発動する。ベートーヴェンの場合は、支援者である貴族や理解者との人間関係がそうであったし、普遍的な芸術の条件となる恋愛関係においてもその例に漏れない数々の遍歴を残している。

加えてベートーヴェンには身体的な制約があった。初期の傑作である作品13の《悲愴》(ピアノ・ソナタ第8番、1798年、)は、聴覚異常の兆しが出始めて将来に不安を覚え始めた頃の作品である。作品272《月光》は言うまでもなく恋愛感情から生まれたものである。献呈を受けたジュリエッタ・グイッチャルディ(前掲「贈り物」の一件)は、しかし、「名曲」に応えることなく、素っ気なくベートーヴェンのもとを立ち去ってしまう。さらに恋愛と言えば、身体的危機と並んで作曲家の人生的苦悩に深く影を落とした、かの「不滅の恋人」(アントーニア・ブレンターノ(青木やよひ、2007年))との関係がある。彼女との深い内的な交流は、後期作品の音楽的深化の上にも重要な契機であったとされている(青木・2009)。

あるいは、哲学的装いを帯びた最晩年の楽想が誕生する上に直接的な契機(内的契機)となった身体の趣意。病床に思う人生の終幕。一時的な回復のなかから生まれた音楽の永遠性。溺愛した甥カールとの摩擦による心の消耗は、この際、劇の終盤の一齣となって陰影を強める。ただし、長く書かれなかった弦楽四重奏曲が14年のブランクを乗り超えて書かれたのは、委嘱作品であったことを契機(外的契機)としている。それでも委嘱されたのは3曲(委嘱者の名を採って「ガリツィン四重奏曲」とも呼ばれている)のみであった。別に生れた作品131嬰ヘ短調と同135ヘ長調は自主的なものである。

 この間の経緯に関し、上掲書(ルイス・ログウッド)は、一つの回想録の紹介から説明している。「ガリツィン侯爵に委嘱された三つの四重奏曲、作品127130132を作曲していた時、新しい四重奏曲のの着想がバートーヴェンの尽きせぬ想像力より豊かに流れ出し、彼はほとんど我知らずのうちに、嬰ハ短調とヘ長調の四重奏曲[作品131135]の作曲に駆り立てられた」と(同書651頁)。そして、「のちに彼は、嬰ハ短調の四重奏曲が自分の最高のものだと言った」とも。最後にベートーヴェンの身近にいた信頼のおける回想である。この5曲(作品133《大フーガ》を1曲とすれば計6曲)の弦楽四重奏曲には、拙い言葉で語るよりも賢者の言を借りた方がいい。

 賢者ルイス・ログウッドはこう語る。「すなわち、最後の四重奏曲群は彼の創造性の一つの総括をなしており、それまでになしとげた最高の到達点をも超えた、思想と感情のより高い領域へと至る道筋を与えていることである」と(653頁)。そして作品131に関しては、「以前の英雄的な作品にみられた勝利の終結ではなく、最高の形式による悲劇から立ち上がってきた、より深い、肯定の性質をもった結末である」と(708頁)。正確には最終楽章に対する言であるが、同作品の核心に触れる一言にもなっている。
 
それを踏まえて自分の言葉で語り直す。5曲(6曲)は、異なる感情のなかで書かれたものであり(このことは、同回想録でベートーヴェン自身の言として紹介されている)、ここにも「分化」はある。しかし「支配力」(「勝利」)をベースにしたものではない。あるのは内面的感情とその前に佇む自己への沈潜でしかない。《第九》(1824年)の後であるからこそ、「支配力」とも一線を画した心境に彼を立たせたにちがいない。「兄弟たち」への呼びかけは、今や自身に向けられることになる。むしろ、《第九》の〝華やぎ〟を耳にする時、弦楽四重奏曲作品131の哲理的で深く重い響きや、それを突き抜けた限りない安らぎ感が際立つことになる。

ここで交響曲が求めていたもの(世界支配(「勝利」))を再び出すのは容易い。しかしいかにも食傷気味で味気ないし、見解自体を狭めかねない。それでも後の時代の音楽の流れを再度思う時、《第九》以降も旺盛な作曲活動の連続的な繰り返しのなかで、終にブルックナーとマーラーによって最終局面が切り拓かれた交響曲に対し、バルトークによる激しさがあるとは言え、弦楽四重奏曲が必ずしも同じような推移を辿らなかったのは、いかにベートーヴェンの弦楽四重奏曲の辿り着いた境地が、高くかつ深いものであったことを物語っている。 

 ベートーヴェンの称号 それでも〈至高の室内楽作曲家〉の称号は、おそらく彼が最も受けたくない、それどころか命名者に対してその不遜なる態度を責め立てかねないものである。それ以上に否定辞句として突き返されなければならない。これでは彼が戦ってきたものが不定されるに等しい修辞だからである。

 音楽家としての名声や尊敬の念を浴びながらも、彼は戦い続けてきたのである。名声や尊敬の念は、あくまでも「音楽家」に向けられたものに過ぎず、必ずしも「自己」に向けられていたものとは言い切れないからである。音楽家以外に存在形態が保てない自分が、それによっては自己実現が果たされないのである。「自己」が喧伝でき内済が果たされる、近代的(ここではとりあえず19世紀後半以降)な「自己矛盾」以前の葛藤である。本来なら、安易に「自己実現」などと口にしてはいけなかったのである。しかし、ベートーヴェンが最後に辿り着いた境地には、すでに葛藤の影すらない。自分しかいない。あるいはそれを以ってはじめて「自己実現」とするなら、〈不滅の恋人〉ならぬ〈不滅の交響曲作曲家〉の名称は、必ずしも戦勝名(勝利名)ではない。

 その時のことである、聴衆の大喝采が耳に聞こえず、傍らの女性歌手の促しによってはじめて会場に向き直ったと言われる、会場を異常な興奮で騒然とさせた《第九》の演奏会の時のように、すでに独りでは振り向かないのである。ボン以来の〈戦い〉を、その間の安らぎを含めて、一身に我が身として受け止める者のタクトによって振られる時、舞台上からではなく、客席からその一人として面を上げる。すでに自分の手を離れた楽曲群である。もう自分では振らないのである。それが〈戦い〉を生き抜いてきたものの意味ある答だからである。

しかし、弦楽四重奏は違う。自ら舞台に上がる。だからと言っても名称など意味がない。勝手に付けられては困るのである。それでもどうしても付けたいというなら、そうだ彼はボンの宮廷楽団では弦楽奏者だった、そう思い出してもらえればいい。

――気の利いたコーダにもならなかったが、一先ず譜面を閉じる。


参考文献

青木やよひ『ベートーヴェンの生涯』平凡社新書、2009年。
バリー・クーパー原著監修/平野昭・西原稔・横原千史訳『ベートーヴェン大事典』平凡社、1997
フルトヴェングラー/芳賀檀訳『音と言葉』新潮文庫、1976年。
ルイス・ログウッド/土田栄三郎・藤本一子[監訳]沼口隆・堀朋平[訳]『ベートーヴェン 音楽と生涯』春秋社、2010年。
ロマン・ロラン/片山敏彦訳『ベートーヴェンの生涯』岩波文庫、1938年。



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