2015年4月16日木曜日

[も]モーツァルト~回想として~


1 音楽歴以前

音楽教室の年表 西洋古典音楽いわゆるクラッシク音楽を本格的に聴きはじめた頃からよく聴いていたのがモーツァルトだった。年齢で言うと10代終わりから20代にかけてのことである。それでも西洋音楽との出会いに遡れば、その時の作曲家はモーツァルトではなかった。中学生の時の音楽教室での体験だった。一回性で終わってしまうものだったが、音楽鑑賞歴としては回想の第1頁を飾る特別なものだった。

盆地の周辺部から山に延びる谷あいの、谷川の近くの中学校だった。古びた木造の本棟校舎と横並びに増築された別棟があった。音楽教室は別棟の2階だった。年数を経た校舎だったが、本棟校舎と較べると、薄緑色に塗られた校舎の板壁は、階下の理科室と合わせて、谷あいの時空に近代的な風情を漂わせていた。

その中学生は、なによりも音楽の授業時間が好きだった。ことに音楽鑑賞の日は、夢のようなひと時だった。無言が教室を占めていたからだ。渓流の音が校舎の窓から伝わってくる。川むこうには、狭いながらも田畑が川沿いに広がっていた。山際には人里を離れた神社がぽつりと建っていた。巨きな磐座を背負っていた。社名にもなっていた。向い合う山は、低いゆるやかな稜線を奥深く延ばしていた。校舎は中流域の比較的広い場所に建っていた。段丘上で景色が良かった。

2階の窓際の机だった。席順で偶々そうなっていたのか、普段と違って自由に座れたのか、もし前者だったとすれば(その方がありえそうな話だが)、単なる幸運でなく、結果として、少し大袈裟だが、一人の少年の人生的な出来事だったことになる。後年の田舎脱出の伏線になっていたからである。偶然に任かされたような中学校生活の一駒ながら、疑いなく間精神的契機の醸成が図られていたのである。

窓辺から反対側の壁の天上際には、作曲家の肖像画入りの音楽年表が大きく貼ってあった。顔だけの肖像画が多い中で一人だけ田園の小川の傍らに佇む姿があった。ベートーヴェンだった。はるか遠い昔のことながら今でもその姿が脳裏に浮かぶ。心持ち俯き加減に後ろ手に組んで、散策の途次、ふと立ち止まったような佇みの姿だった。まさに交響曲第6番「田園」の具象化だった。かりに年表制作者の脳裏に第5番「運命」が浮かんでいたとすれば、肖像画は苦悩に歪む顔になっていたであろう。少年には幸いなことであった。年表制作者の意図――中学生用なれば「田園」の方が相応しいとした配慮によって、得がたい音楽体験となるからだった。

おそらく、二重写しになっていたのである。まだクラッシック音楽の、音楽のお字も知らない、授業の一環としてしか受け止めていなかった段階である。それにもかわらず、ある日の授業でかけられたレコードから流れてくる楽曲は、谷あいの学校を学び舎としなければならない田舎住まいの一少年を、音楽年表をとおして別世界に連れ去っていたのである。それが「田園交響曲」だった。少年は、実際の音以上に音楽年表に音を聴いていたのである。

後年、宮沢賢治の「風の又三郎」を知って、そうだ、あの身の上になりたがっていたのだ、そう振り返って回想にしばし耽った。異郷から来た「他者」だったからである。その中学生は、音楽年表の中に「他者」を生きていたのである。限られた時間の中であったとはいえ、「他者」たらんとする自分を、はじめて内側に明確なかたちで覚えたのである。


ケッヒェル番号 本格的に聴きはじめるのはまだ先のことである。とりわけモーツァルトとのきっかけは、ある個人との出会いであった。音楽だけでなく自分の人生を決めた(と言っても好い)出会いであった。いまは話を音楽だけに限れば、その人が、会話の中で「ケッヒェル」という言葉を使ったことがはじまりだった。モーツァルトの作品番号の頭文字(「K」)である。ちなみに「ケッヒェル」は、1862年に出版された、モーツァルトの全作品を年代順にならべた作品目録(『ヴォルフガング・アマデー・モーツァルトの全作品の年代順主題目録』)の作成者ルードヴィヒ・ケッヒェル(180077)に由来する頭文字である。その後、作曲年代の研究の進展や新たな曲の発見などによって、何度も校訂版が出されている。ただし一般的には当初のケッヒェル番号が使われている。

その聴きなれぬ横文字を含めて、ケッヒェル番号をいただく作曲家に求めたのは、今度は「他者」ではなく「自己」だった。ベートーヴェン体験(正確には「年表体験」)が「他者」を通じた「自己」であったとすれば、モーツァルトに求めたのは最初から「自己」であり、「自己」から「自己」へであった。振り返れば、それでもその時の「自己」は、その人との出会いの中に生まれたもので、その人を介した、純粋に自己とは言い切れないものだったかもしれない。おそらくそうだったのであろう。しかし、契機を契機として内包したまま、「自己」はモーツァルトのなかでいつか「自己内自己」となっていく。しかもすでに多くの作曲家を知っているなかで、あるいは知っていくなかで、さらにモーツァルトとの一体化にのめりこんでいくことになる。

 それにしても最初のモーツァルトのレコードを購入する際、レコード店の店員にケッヒェル番号で在庫を確認してもらった時の赤面は今もよく覚えている。「ケッヒェル番号で訊かれても……」と返されてしまったからである。数年後だったら、「有名な曲ですけど……」と見事に切りかえしていたところだろう。失格ですよ、クラッシック・レコード店の店員でいて、他の曲ならともかくK.310を知らないなんて。そうなのである、最初に求めたモーツァルトは、ピアノソナタ第8番イ短調だった。あの母の死に遭遇して書かれた短調作品である。モーツァルトの短調作品を代表する一曲でもある。



2 小林秀雄のモーツァルト論

 既聴曲数 モーツァルト熱は相当高じた。レコードやFM放送を聴いたり、音楽会に足を運んだりでしただけでなく、図書館で関係書籍を借りたり直接購入もした。そんな中の一冊であるアンリ・ゲオンの『モーツァルトとの散歩』(高橋英郎訳、白水社、1964年第1刷、原書1932年)は、モーツァルト・ファンなら必ずといってよいほど一度は手にする著作である。購入書の奥付は、「1972310日第10刷」である。巻末には作品一覧が掲載されている。一度でも聴いたことのある曲のケッヒェル番号に丸をつけてある。最後の余白には小計が書きこんである。「236曲」とある。全626曲の4割弱である。集計日は記されていないが、筆者の音楽鑑賞歴の変遷から言っても遅くも20代後半までである。

ほとんどは図書館で借りるレコードとFM放送からである。1週間分のFM放送番組欄を前にチュックをいれるのが、20代の日課の一つだった。聴くだけではなく必要なテープを録るためである。20代を通じて録りまくっていたわけではないが、今残されているのも数えても相当数を録音した。それも今ではもっと手軽に聴ける。全曲挑戦も可能である。でも当時の環境を考えれば、4割は結構頑張った数字といえるだろう。


「偏向」 その数字上の実績が、「自己内自己」のためというのではいささか気取り過ぎだし、その分真実を離れてしまいかねないが、「自己」という存在論的な想いをモーツァルトに掻き立てられるのは、もととなるモーツァルトの音楽以上にある叙述に偏向していたからである。小林秀雄の「モーツァルト」である。実は、よく知られたことであるが、アンリ・ゲオンが日本で愛読されるようになったのは、小林秀雄のモーツァルト論(「モーツァルト」昭和22年)であり、そのなかに引かれたゲオンの「tristesse(悲しみ) allante(活発な)」を、「モーツァルトのかなしさは疾走する」と叙述したくだりを嚆矢とする。

小林のモーツァルト論は、言ってみれば「天才論」である。しかもそれが(天才の張本人が)至って普通の装いを纏っていることの驚きを源泉としている。我々も同じ源泉に口をつけてしまったのであろう。しかも若輩者は、若輩なるが故に、モーツァルトを、実際のモーツァルトに聴く以上に「小林モーツァルト」に聴いていたのである。あるいは聴こうとしていたのである。数字上の「実績」に見るのは、のめりこみ様を目に見える形にしたものである。「哀しいアレグロ」を執拗に探し求めていたのである。そしてここに来て、それを「傾倒」ではなく「偏向」として再考しようとするのは、本となるモーツァルトを本として聴く、本来あるべき虚心な状態に戻らなければならない、そのために必要な「自己放棄」を言明するためである。すなわち自己批判というわけである。

* ただし「tristesse」の出典はスタンダールである。「スタンダールは、モーツァルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った」(小林秀雄「モーツアルト)。

 
モーツァルト論の叙述 小林秀雄はいろいろに言う。自己擁護のためにも掲げておかなければならない、叙述に念入りに仕組まれた巧妙な仕掛けを。あるいは修辞法を。これでは「偏向」に導かれてしまうのも致し方ないと理解してもらうためである。否、同情を引くためである。甘えである。

ト短調シンフォニイは、時々こんな顔(義兄ヨゼフ・ランゲ画、1782年・引用注)をしなければならない人物から生まれたものに間違いはない、僕はそう信じた。何という沢山な悩みが、なんという単純極まる形式を発見しているのか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では、言い現し難いものがある。全く相異なる二つの精神状態の殆ど奇蹟の様な合一が行なわれている様に見える。名付け難い災厄や不幸や苦痛の動きが、そのまま同時に、どうしてこんな正確な単純な美しさを現す事が出来るのだろうか。それが即ちモオツァルトという天才が追い求めた対象の深さと純粋さとかいうものなのだろうか。ほんとうに美しい音楽とは、こういうものであろうと僕は思った。

 しかもそれが芸術的苦悩もなく簡単になされてしまうのである。たまったものではないと思うことになる。思うだけで終わってしまったのでは、さらにたまったものではなくなる。忸怩たる思いから発せられる叙述が続いていく。

「構想が本流の様に現れる」人でなければ、あんな短い生涯に、あれほどの仕事は出来なかっただろうし、ノオトもなければヴァリアントもなく、修正の跡もとどめぬ彼の現譜は、彼が家鴨や鶏の話をし乍ら書いたことを証明している。

 これは、鉤括弧として引かれた部分を含めて、モーツァルトの手紙をもとに綴られたものである。手紙には作曲の流儀(作曲態度)について、音の詰まった袋から好きなように取り出すだけであるように書かれている。つまり、「後で書く段になれば、脳髄という袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです」のようにである。家鴨や鶏の話をしながら作曲する(できる)のくだりも、やはり手紙の中でモーツァルトがそう語っているのである。

 ここには芸術と等価関係をなす日々の暮らしぶりがある。否、そうではない、逆である。日々の暮らしぶりと等価でしかない芸術があるのである。しかもその暮らしぶりにしても、貴族に営まれるような高尚なものではなく、「家鴨や鶏の話」が中心となるような野卑なものでしかない。もちろん、たとえ宮殿の集う人々から見れば卑下される生活であっても、個人の苦しみはおかれた環境の中で生まれる。個人の権利でさえある。しかしそれさえない。芸術を生み出すための苦悩に満ちた生活など片鱗も見出せないのである。したがって次も上掲引用部分の補足として綴られている。

成る程、芸術史家に言わせれば、モオツァルトは、芸術家が己の生活に関心を持つ様な時代の人ではなかった。芸術は生活体験の表現だという信仰は次の時代に属しただろうが、そんな事を言ってみても、彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない。

 その上で「かなしさは疾走する」を含意した次の叙述をもって、芸術をも生活をも止揚した、あるいは一個人を超越した「存在者」としてのあり方を描き出してみせる。

モデル(上掲肖像画・引用注)は確かにモオツァルトに相違ないが、彼は実生活上強制されるあらゆる偶然な表情を放棄している。言わばこの世に生きる為に必要な最小限度の表情をしている。

 これは小林モーツァルトの一つの結論である。「最小限度の表情」に辿り着いたことによって、「彼の統一のない殆ど愚劣とも評したい生涯と彼の完璧な芸術との驚くべき不調和をどう仕様もない」も軽くクリアーされる。もともとモーツァルトとはなんの縁もなかった、「最小限度の表情」の外でしかなかった範疇だからである。その縁のないことを、はじめからそうと分かっていて綴る、それが小林秀雄の叙述であった。まさに逆説的叙述であった。


「事実」と「外形」 しかしこのように高く書き上げられた「叙述」が、一つの「事実」の前で空無化を強いられる現実を知っている。「アカデミズムの思考法」の前では、小林モーツァルトも叙述の高さに反して、容易に空しさに晒されるのである。「事実」以上に高いものはないからである。ただし断っておけば、こう断定的に言い切ってしまうのも、小林秀雄ではないが、逆説法に拠ろうとしているからである。以下は小林秀雄への肯定を裏側に籠めた記述である。

 仄聞したところによれば、世上のモーツァルト研究は、たしかに「事実」によってしばしば既存の音楽像に修正偏向を迫っている。たとえば自筆譜や五線譜の実証研究(海老沢敏編『モーツァルトの探求』中央公論社、1992年)が明らかにした作曲過程がある。そして、それによるケッヒェル番号の入替えは、既知のもとなっていた作曲動機をも揺さぶることになる。小林秀雄の前提になっていた悩まない作曲家のイメージも瓦解することになる。「『無謬の天才』という神話」は、「モーツァルトが天才であることはもちろんだが、たとえば一度書いた楽譜をまったく修正しないなどというのは誇張された伝説である、最近の資料研究を通じて、モーツァルトといえどもスケッチをおこない、手直しをし、捨てるべきは捨て、時間をかけて曲を作っていったことがわかってきている」(磯山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ)と〝下方修正〟されているからである。ケッヒェル番号の入替えは、単なる順列の変更ではなく、それ以上に音楽家像(天才作曲家像)の根本的な変更を迫るものである。

「偏向」という言い方ができるのは、後年こうした「修正」を知ったからである。なぜならなら修正は修正として受け止めなければならないからである。一つの事実だからである。しかし、事実も文脈を離れては事実たりえない。単なる事実でしかない。事実以上ではありえないのである。したがって「小林モーツァルト」が一つの文脈であるかぎり、事実としてつきとめられただけで、文脈を持たない、文脈の外にあるものによって、ただちに無化が強いられるわけではない。崩れたのは外形だけであり、小林秀雄が容れたモーツァルトまでが死んだわけではない。むしろ事情はたいして変わらない。とりわけ以下のような修辞群。

――「絶対的な新鮮性」「彼は悲しんでいない。ただ孤独なだけだ」「若し、心の底などというものが、そもそもモーツァルトになかったとしたら、どういう事になるのか」「或る主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感する」「ハイドンの繊細ささえ外的に聞こえる程の驚くべき繊細さ」「彼の音楽の極めて高級な意味での形式の完璧は、彼以後のいかなる音楽家にも影響を与えなかった、与えなかった」など、任意に抜き書きしたくだりに浮かび上がる「小林モーツァルト」は、今も生きているだけではなく、事実以前であるにしても事実以上に音楽に対して再生的である。結局、「事実」では、動じようがないことを物語っている。それは裏返せば、モーツァルト自体が、一人の人生としての事実でありながらも、また作品にも作曲年代という事実と不可分でありながらも、モーツァルト本体の内面も音楽も事実と直結しているわけではないことを意味している。小林秀雄の言葉を借りれば、「事実」も「最小限度の表情」の外にしかないことになる。

* 「哀しいアレグロ」を趣意とする「叙述」は、系譜的には、小林が同文で繰り返し言及するスタンダールにはじまり、日本ではそれを承けた河上徹太郎のモーツァルト評(「モーツァルトの憂鬱」発表年は昭和23年)を嚆矢とする。河上は自らもピアノを嗜み、大正終わり頃から音楽関係の記事を発表していた。なお、よく知られたことだが、河上徹太郎と小林秀雄は、中原中也を加えて親交を深め合う同じ文学仲間で、「モーツァルトの憂鬱」が小林秀雄の「モーツァルト」に引かれていないのは、執筆時期が近いのか、あるいは出版の事情だろう。二人は、大いにモーツァルトを論じ合ったことだろう。


「心の底」と「肉体化」 1970年代(前半)の当時も今も、小林秀雄の言葉が、言語による修辞法を超えて「真実」として鳴り響いている。しかしその音楽を「肉体化」できないでいる。小林秀雄で言うなら「心の底」に落とすことができないでいるのである。まさに「心の底などというものが、そもそもモーツァルトになかったとしたら、どういう事になるのか」の独白に深く聞き入るばかりになっているのである。

心はあっても「心の底」がなければはじまらない。落としこめないからである。まず「心」があり、その底があり、音が重みとなって落としこめられ、底に当たった弾みで「身体」に響きを伝える。残響を生む。残響は底があって残響となる。実際のコンサートホールでは天上であるが。「肉体化」とは、以上の各部分の全体化である。故に「心」と「身体」はあっても間を繋ぐものがないために「肉体化」に至らない。行き場を失うのである。捌け口がないのである。

結局のところ、聴けば聴くほどにその音は、「不在」(「心の底」の「不在」)のなかで不安を掻き立てることになる。しかも一方では不安を掻き立てる音楽ではないのである。因果関係が成立しないのである。原因と結果になっていないのである。原因のない結果より原因を持たない原因な感じである。まさに「絶対的な新鮮性」であるかもしれないが、一方的な新鮮性であり、没交渉的で断絶的なそれでもある。

この受け取り手を受け取り手として襲う不安は、常に「肉体化」として鳴り響く、否、鳴り響こうとしているベートーヴェンやシューベルト、シューマン、ブラームスと辿ると明らかである。しかしその差異がなにを物語るのかまでは明らかでない。かえって他の作曲家との比較による差別化なる態度は、「真実」と異なるところの発想に思われてしまう。結局、孤絶化の再確認となって、他の作曲家との差別化を未了状態に留めおきながら、既知でありながらも未知のような「音」となって自分に戻される。

それでも音楽鑑賞歴を振り返れば、他の音楽家に対する対比音を無意識のうちにつくり出そうとしてとしていたのかもしれない。それも「他者」として浮かび上がるモーツァルトの再生産に自発的に臨むために必要なこととして。そうだったかもしれない。

* いささか突飛な修辞といった感が否めないが、以下のスタンダールの手紙の文中に由来する修辞である。「モツアルトは、哲学的な関係から考察すれば、崇高な作品の作者よりもっと驚くべきものがある。偶然がこれ程までに、いわば天才の魂を裸形にして見せたことはなかった。肉体は、此のモツアルトと呼ばれる驚くべき総合―伊太利人が今日『何という天才の怪物』と呼ぶ所のもの――の中に出来るだけ少ししか存在しないのだ」(河上徹太郎「モツアルトの憂鬱」より引用、傍線引用者)。「肉体」は、スタンダールのなかでは、反肉体の意味として使われている。それがモーツァルトだと言っているわけである。ならそれを逆手にとれば、モーツァルトとの距離の解消が、いかに至難なことであるかの比喩的表現になるとして、「肉体化」なる修辞に拠ることとした。



3 音楽鑑賞歴~「モーツァルト論」から~

ドイツ音楽との比較 以下、視点を変えて、すこし音楽鑑賞歴に立ち入っておこう。「対比音」などと言っても、それはあくまでも今現在が鑑賞歴を再編的に回想する一方便であって、対比音を耳にとどめながら音楽鑑賞をくり広げたりしていたわけではない。いかなる作曲家の場合もその都度一人の独立した作曲家として聴いたし、論を立ち上げれば、今度は彼らを主語にしてモーツァルトが相対化(対比化)されることになる。

たとえばベートーヴェンの場合なら、作曲家の個性の確立を語る文脈上に現れる、影響からの脱却として語られるモーツァルトという形で。あるいはシューマンの場合なら、自身の補完という形のなかに相対化された形で。ギリシャ神話に擬えて「アポロン的」とするシューマンのモーツァルト観それ自体は、歴史上のモーツァルト像としては最も早い段階のものであるにしても、それは純粋な音楽評論の意識に発意したものではなく、自身の交響曲を補完する必要から生まれた、モーツァルト像に姿を変えた自己表明でしかない。先に立つのはモーツァルトではなくシューマン自身である。もう少し立ち入っておこう。

ブラームスではどうだろう。ベートーヴェンの第10番にも数えられる交響曲第1番はモーツァルトの曲想とは疎遠ながら、高度な作曲技法で室内楽的な緻密さを誇る交響曲第4番、とりわけ30の変奏曲からなるフィナーレの最後のコーダからカデンツァに向けた高まり方には、モーツァルトの第41番の第4楽章の昂揚感を思わせるものがある。そしてなによりも途中(提示部)で奏でられる木管(フルート)ソロの音は、モーツァルトの協奏曲に聴こえる澄んだ響きを彷彿させるものがある。それを含めて、ブラームスをモーツァルトの先に思い浮かべ、同じ音系譜を受け継ぐ者と見立てることが許されるとすれば、それは夾雑物の混入しないクリアーな音質、最強音のなかにおいても均衡を崩さない各パートが保つ調和、力強い主題の展開にも常に明晰さを確保する音感性などは、生来の音に対する生理的な音感覚が、ベートーヴェン的であるよりモーツァルト的であるのを思わせることになる。

以上のいずれにも当てはまらないと思われるのが、本人としてはこよなくモーツァルトを愛したシューベルトである。馥郁たる抒情性の流出や回流あるいは旋回において、シューベルトの場合、交響曲においても器楽曲や室内曲においてもまた歌曲においても、その調べを「心の底」に実感として受け止めことができる定着感に溢れているからである。最初から「心の底」を前提とし、「心の底」に還ってくることを音楽の条件としているかのようである。回帰するたびに新しい「心」が呼び覚まされ、その心によってあらたに「心の底」が生み出されては自由詩に変換していく。それが音によって音楽に「詩情」を求め続けることができる、シューベルトの天才に備わった演繹的な作曲法であり生み出される音だとすれば、帰着的に始まり終結を先取りしてしまう、モーツァルトの音との違いとして再認識することになるだろう。


演奏会ブログラム その当時(1970年代)をあらためて思い起こし、もっともモーツァルトの遠いところで聴いていた作曲家はと問えば、言わずもがなのブルックナーということになるのだが、なぜそうなのかは簡単には記せない。個人的なことにも絡んでくるからである(その一端はブログ201412月)。個人史を含めてモーツァルトとブルックナーの音楽の違い、その隔たりは、しかし時に演奏会に相乗効果的な成果を上げることになる。以下は演奏会のプログラム評による「モーツァルト論」である。

演奏会プログラムでモーツァルトとブルックナー両者の組み合わせがどの程度あるのか、すこし調べてみると(とりあえず「197081年」として)、以下の組み合わせを見出すことができる。N響(同HP「演奏会記録」)と都響(「都響演奏記録No.21965年創設から19808月まで」)は悉皆調査からの摘記、読響と東フィルは保存してある手持ちプログラムからの任意抜粋である。

NHK交響楽団
1971126日、オットマール・スウィト ナー指揮
モーツァルト:交響曲第35番ニ長調「ハフナー」K.385
ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンテック」
19771119日、アレクサンダー・フォンピターミッツ指揮
モーツァルト:歌劇「劇場支配人」序曲K.486
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 (ノヴァ-ク版)
[参考]1978929日、朝比奈隆指揮
ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調作品11
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 (ハース版)

東京都交響楽団
1977623日、第98回、モーシェ・アッシュモン指揮
モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァ-ク版)
197855日、1978年特別演奏会、朝比奈隆指揮
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第第5番ハ長調K.219
ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 (ハース版)
1980325日、第123回、モーシェ・アッシュモン指揮
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
ブルックナー:交響曲第8番ハ短調(ノヴァ-ク版)

読売交響楽団
1981713日、第177回、ハインツ・レークナー指揮
モーツァルト:ピアノ協奏曲第第24番ハ短調K.491
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
 
 東京フィルハーモニー交響楽団
1981317日、第224回、朝比奈隆指揮
モーツァルト:交響曲第第22番ハ長調K.162
ブルックナー:交響曲 7 ホ長調 (ハース版)


 朝比奈隆 年代を70年代に絞ったのは、筆者の音楽鑑賞歴の盛期に添わせたからであるが、同時に日本におけるブルックナー演奏の本格的な開始年代でもあるからである。当時、単発的な指揮活動を除けば、日本人指揮者によるブルックナー演奏は、ほぼ朝比奈隆に限定されていたが、その朝比奈はショパンを選んでいるのである([参考])。極めて特異である(下記N響初期演奏会記録参照)。さらに調べればいかに異色の組み合わせであるかが判明しよう。因みに、モーツァルトを選んだ1981年東フィル(⑦)でも交響曲第22番を選んでいる。やはり異色というべきだろう。というよりも、ショパンとの組み合わせが実験的であるのに対して、引き立て役としているのだろうかと穿ちたくなるほどである。相乗効果の見地に立てば、朝比奈隆の場合は他の指揮者とはモーツァルト観が異なるようである。朝比奈ファンであった立場としてはいささか複雑な心境である。
 
* 以下はNHK交響楽団による初期のブルックナー演奏一覧(同上HPを摘記編集転載)である。参考までにプログラム形態として掲げておく(モーツァルトをゴシック表記)。1970年代以降に比べモーツァルトが相対的に少ない。
19521月クルト・ウェス、ウーライ 「イントラーダ」/シューマン ヴァイオリン協奏曲 ニ短調/ブルックナー交響曲第4番変ホ長調「ロマンチック」
19543月クルト・ウェス、ワーグナー楽劇「ニュルンベルクのマイス タージンガー」前奏曲/ベルク歌劇「ヴォツェック」からソプラノと管弦楽のための3つの断章/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
19553月、ニクラウス・エッシュバッハー、三善晃 ピアノと管弦楽のための協奏交響曲/ブルッフ スコットランド幻想曲作品46/ブルックナー交響曲第6番イ長調
19574月、ウィルヘルム・ロイブナー、ベートーヴェン序曲「レオノーレ」第3番作品72モーツァルト ピアノ協奏曲 21 ハ長調 K.467/ブルックナー交響曲第4番変ホ長調「ロマンチック」
195712月、ウィルヘルム・ロイブナー、ブルックナー テ・デウム/ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調作品125 「合唱つき」
196711月、 ロヴロ・フォン・マタチッチ、モーツァルト交響曲 25番ト短調/ブルックナー交響曲第5番変ロ長調
19681月、ディーン・ディクソン、シベリウス ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47/ブルックナー交響曲第1番ハ短調
19684月、ヨーゼフ・カイルベルト、ベートーヴェン序曲「コリオラン」作品62/同交響曲第8番ヘ長調作93/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
19685月、ヨーゼフ・カイルベルト、モーツァルト交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」/ブルックナー交響曲第4番変ホ長調「ロマン チック」
19689月、ロヴロ・フォン・マタチッチ、ブルックナー 交響曲第9番ニ短調/同テ・デウム
19709月、森 正 、ブルックナー交響曲第8番ハ短調
ちなみに日本初演は19931021日、クラウス・プリングスイム、指揮による東京音楽退学管弦楽団による交響曲第9番である。場所は奏楽堂


スウィトナー スウィトナー(①)は、明快かつ快活な躍動感のある「ハフナー」によってモーツァルトをあえて互角にわたらせようとしているのかもしれない。およそブルックナーのトレモロの開始とは対照的に高らかにかつ華やかに開始され、その高まりを高まりとして突き進むからである。もちろん第2楽章の芳しい響きからは、「ロマンテック」な香りも嗅ぎとれる。ブルックナーのそれに趣の異なる「ロマンテック」な香りで対峙させようとしたことも考えられるが、最終的には第4楽章の晴朗な響きをもってブルックナーにバトンタッチすることからも明らかなように、異なる音色の違いによる聴き分けをもって両者の相乗効果を高めようとしたにちがいない。スイトナーのおよそ芳しい香りと不釣り合いな〝武骨な相貌〟を思うと、かえって心中が慮られて麗しい思いに駆られるのは、複次効果ともいうべきもので、コンサートの視角的楽しさの一つであるが、「なんとも失礼な」と返されてしまうだろうか。

それはともかく、普通には交響曲による相乗効果よりもストレートな効果が挙げられのは、協奏曲なかんずくピアノ協奏曲である。ソリストを迎えて演奏会を盛り上がられる点からも、組み合わせとしてはもっともオーソドックスである。木管ソロでもまた一味違った味わいが期待できるのがモーツァルトであるが、有名なクラリネット協奏曲K.622の場合は、マーラーとの組み合わせが散見される。もっと調べればブルックナーとの組み合わせにも行き当たるであろう。両者の相乗効果的な深まりや高まりあるいは広がりは、ときにピアノ・ソロを超えることも期待できる。


都響の渡辺暁雄 都響は、創立(1965年)から19808月までの間にブルックナーを計7回にわたって5曲(交響曲第3578番)取りあげている。初回は1972年。渡辺暁雄指揮で第4番「ロマンチック」。日本人指揮者としては朝比奈隆を除けば、森正(N響定期)と並んで早い段階のブルックナー演奏である。時代がブルックナー・ブームを迎えようとしていた頃である。シベリウスの魂を日本に定着させたマエストロの意欲的な早期の功績である。


アッシュモン 以後の都響によるブルックナーは、特別演奏会を除くと定期のすべては海外からの招聘指揮者によるものである。そのなかでアッシュモンは、1978年より首席指揮者に就任し、ベートーヴェン交響曲の全曲演奏に挑んでいる。直前まで北ドイツ放送交響楽団第2代首席指揮者の席に就いていた、ドイツ音楽の精鋭である。同楽団と言えば、20世紀後半のブルックナー演奏に一時代を画したギュンター・ヴァントが、1981年から第4代首席指揮者に就任していることでも知られている。本拠地は北ドイツの大都市ハンブルグ。メンデルゾーンやブラームスの生誕地として知られているだけでなく、17世紀以来の北ドイツの音楽の中心地の一つとしてドイツ音楽史を語る上には欠かせない地である。

取上げた2回(③⑤)は、調性の取り合わせが逆になっている。ピアノ協奏曲第20番ニ短調と交響曲第7番ホ長調との組み合わせ(③)に対して、一方では同第27番変ロ長調と同第8番ハ短調とのそれ(⑤)になっている。意図的な調性対置であろう。それぞれにモーツァルトの響きが頭の中に留められているなかに、代名詞ともなっているトレモロによって、ブルックナーの大交響曲が「原始霧」のなかに悠然と立ち上がっていく。③ではモーツァルトの短調が奏でる透明なかなしさ。それが内側にたくわえようとするもの。加わるピアノ・ソロの寂寥感と突き抜ける清澄さへのきざはしを生む、1音々々の手応え。力強く開始される最終楽章が啓きとその先へ高まっていく、今は装いを変えて終結に向けて直走るアレグロ・アッサイ。

そして、満を持して開始されるブルックナーの第7番。モーツァルトのピアニズムが頭の中に留められているなかに、例によって例の如くはじまっていくトレモロと、トレモロに続く柔らかくふくよかな金管の響き。あたらしい音の立ち上がり。響きが生む位相差の拡大。際立つ音の体系差。しかし、差別化としては発動せず差異に不協和音を感じることもない。逆である。それぞれの音の再発力を促して重層感の拡張にも寄与する。自分を選ぶ指揮者の審美眼を試すかのようなモーツァルト。その時のモーツァルトに浮かぶ「最小限度の表情」。

⑤の交響曲第8番は単独プログラムとなることも珍しくない(上掲「N響定期19709月森正」)。一点主義のなかで対置された第27番。モーツァルト最後のピアノ協奏曲である。もし音塊という総量的意味で言うならば、ブルックナーのなかでも第5番と並んで最大級の音量を響かせる第8番に対して、第27番のピアノ協奏曲の総量は小さい。とても太刀打ちできない。それが、総量差を超えて音楽を二つながらにそれぞれの音楽として実現するのである。壮大な時空に鳴り響く8番の雄大さと27番の静謐な深い調べ。やはり③のよう自分に立ち返って自らの音の個別化に深まりながらも差別化には走らない。高い音楽的到達点を山の両側から見る二者となって、山の向こうにお互いを他者ながらも全きものとして窺うことになる。選ばれた「対置」が、演奏会場に実現する高い自己認識である。


朝比奈隆(再出) ブルックナーにとってのモーツァルト。それは外側で再構成されたものであれ、かくして一つの可能性を示唆するものである。しかも一義的にはモーツァルトにとってのブルックナーとして再構成されたのではない点が、メインプログラムではない側すなわちモーツァルト側で意味のある再評価を生みだすことになる。

もちろんその場合であっても、組合せ次第では逆効果となってしまう。朝比奈ファンであった筆者は、メインのブルックナーを聴きことばかりに気が急いていた。今からあらためて見直す時、④のヴァイオリン協奏曲には賛意を表せないのである。逆効果になってしまっていたにちがいないからである。結局、朝比奈隆のプログラムから教えられるのは、ブルックナーにとってモーツァルトが意味あるのは、完璧無欠な音であり、その綻びを知らない響きであったことである。

ヴァイオリン協奏曲にそれがないと言っているのではない。同じヴァイオリンでもバッハの弦楽合奏曲のなかのソロ・ヴァイオリンなら可とされ、音源を異にしたような対位法的演奏会を実現することが容易に予想される。それをモーツァルトに求めるなら、ピアノ協奏曲を俟つ必要があったのである。しかもモーツァルトのピアノ協奏曲の場合は、際立った対立軸とならない点が、バッハから見たブルックナーとは違う、同源音から異なる音の体系を再編的に自己認識させることになるのである。ブルックナーのモーツァルトによる自己認識とは、そのままモーツァルトのそれでもあり、「モーツァルト論」を導き出す契機となるものである。

なお、「歌劇『劇場支配人』 K.486:序曲」(②)の場合は、事情を異にしている。まさに「序曲」として受け止められるからである。モーツァルト自身にもそれで不満はないだろう。



4 音楽と言葉 

音楽と言葉 音楽は、言葉になるものと思っていた。言葉は、演奏とは違う「演奏」だとも思っていた。結局、モーツァルトは、言葉による、言葉を楽器とした演奏者には振り向こうとしない。しかしその前に、そもそも音楽を言葉にするとは如何なることなのか。モーツァルトから浮かび上がるのは、音楽と言葉の問題であり、問題の立て方によってはその意思疎通が問われる、根源的な美学に関わる事柄である。これは小林秀雄の「モーツァルト」を常に襲っていた、叙述への自己否定的がもたらす自失感でもあったはずである。小林秀雄の言葉が強くなるのもその自失感に襲われるからである。そして、「偏向」は「偏向」で、自失感を前にした強引な立ち止まりであったことを確認することになる。いずれにしても、モーツァルトを聴くとは言葉を立ちあげられないことである。立ち上げられないことがモーツァルトであると認識することである。

それでも、言葉で十分なら音楽は要らないはずである。あるいは、音楽で十分なら言葉は逆に要らないはずである。人間存在に不可欠の要因として要請される言葉と音楽は、もし一方のみで単独に存在論を満たすなら、満たすだけの理由をその単一性の中に見出さなければならない。しかし、問いつめると単一性そのものが怪しくなるのである。単一性であること自体が一つの逆説でしかないのである。

かりに純粋な単一性というものがあるとしてその定立状態を想定したとする。音楽の場合、外形的には人は音楽だけを聴いている感じになる。たしかに一つの単独状態である。好い例が眼を瞑って聴くことができるし、小林秀雄などは敢えて眼を瞑るとさえ言っている。「わが国では、モオツァルの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕は、それで間違いないと思っている」と。しかも「言葉」を導き出さすためには、むしろその方が深くモーツァルトのなかに入りこめると、括弧つきでそう語っているのである。

でも小林秀雄の歌劇鑑賞の音絶対主義を含めて、実態的には単一性は仮構として定立するものでしかない。たとえば西洋古典音楽の根源をなす宗教音楽の場合が好い例である。祈りを前提とするからであるが、その祈りには「形」が存在するからである。たとえば身体がとる祈り、そのとき身体性、それは心の中だけで行なう黙祷であっても佇みが必要だとなる。佇みは形である。そして、この形を外形として言葉が生み出されることになる。宗教音楽は形のなかで形と一体となって響き渡ってくるのである。

祈りの集会の形象化である教会となれば、もはや説明は要らない。宗教音楽は単一の状態下に鳴っているのではない。目に見える形のなかに聴く者を取りこみながら鳴り響いているのである。しかし、形とともにあるのを条件とするからと言っても、なにも音楽の絶対性を損なわしめるような相対的記述を企図しているわけではない。かえって非純粋から純粋が生まれるような場合を想定する時、単一性として獲得されたことの至上性が際立たつことになる。バッハである。そしてバッハの場合は、至上性が外形となって、外形に新たな祈りが生まれ、この祈りの生起を契機として言葉に対する必然に至ることになる。音楽を言葉に自動変換できる内在因である。すでに外形は意味をなさない。バッハに限っては仮構が仮構でなくなる。それがバッハである。

ベートーヴェン以降も同様の理解で言葉の立ち上がりを音楽に容れられる。内面と外面が両立するからである。このとき身体は内面の反映としてあり、その状態で外形となりかつ外形としての意味をなす。すでに内面を前提とした外形でさえある。外形には「民族性」もつけ加わることがあるが、それは措くとしても、一般的に後期古典派以降、言葉が立ち上がりやすいのは、外形が生活とその総体である人生として捉えられるからである。年譜はときに音譜でさえある。

それゆえにモーツァルトの孤絶性を再認識することになる。生活を膨大な手紙で自ら生活を赤裸々に綴ったモーツァルトは、人生を人目に晒した。内面も綴る。思いの丈を言葉に移して憚らない。しかもハイテンションで。しかし、音楽は言葉からは立ちあがらない。緻密な資料研究によって変更された作曲年代は、外形が意味をなさないこと、極端に言えば、バッハとは違って最初から意味の外あるに等しいのを物語っている。

以下は、年譜情報によるモーツァルト論を正面から問い質した次の識者による記述を、現在の「自己内自己」に再変換するために用意したものである。もしくは「自己内自己」の仮置き状態を確認するためである。ここでは外形が「情報」として研究現場に変換されている場合のモーツァルト論である。


音楽と情報 識者とは磯山雅である。磯山が説く「情報」問題は、次の楽曲を具体的な対象として語られる。①ヴァイオリン・ソナタ第28番ホ短調K.304、②ピアノソナタ第8番イ短調K.310、③同第11番イ長調K.331「トルコ行進曲付き」、④ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595と、それに関する「情報」である。簡潔に言ってしまえば、①と②は短調の曲想とその作曲年代の情報(変更情報)に関する相関性の、③は背景の説明替えの、④は先入観の問題である。

ザルツブルグの外に新しい飛躍を求めて母マリーア・アンナと旅立ったモーツァルトは、旅先のパリで母を失う。母を失った悲しい体験のなかに書かれたのが②であり、②と対にされていたのが①である。しかし、自筆譜鑑定(筆跡鑑定)によって、①の起筆は先行するマンハイム滞在中に遡ることになってしまう。短調の出処進退が一端行き場を失ってしまうが、あらたに見出された「情報」がなんとかその場を収めることになる。失恋である。後に妻となるコンタンツェの姉アロイジアに容れられなかった失恋である。

こうなると②も盤石とは言えなくなる。一連のパリ滞在中のピアノ・ソナタ(パリ・ソナタ)は、③を含めてウィーン時代初期につけ替えにされてしまい、最後に残ったが②だけになってしまったからである。つまりひとまず残っただけだからである。残ったのは今後の変更を難しくしていることではあるが、それを承知で磯山はあえて言う。「イ短調のクラヴィーア・ソナタと母の死との関係が将来学問的に否定されたとしても、それは、この作品にこめられた悲しさを聴き手が深く感じとる障害にはならないということになる」と。「ならいという」のは、それが同じ「情報」でも「『人間感情』への深い認識と実感」にとって契機であっても「結果」でないかである。「結果」とは、「22歳となったモーツァルトの経験の総体、彼の実存から流れ出したもの」でなければならないからある。

 そして、その短調をも包みこんで大きな諦観の境地(「晩秋の青空のような世界」)に達した音楽とされていた最晩年の④の、その「晩秋」観が、後期の三交響曲にまで遡る可能性が説かれる事態となって、いかに諦観の境地に対するべきかがモーツァルト観にとって深刻な問題となる。磯谷は言う、「すべては伝記のマジックからくる、われわれの先入観だったのでろうか」と。

先入観の問い直しによって得られたのは、「先取りされた晩年」という、「変ホ長調の至福、ト短調の厳粛、ハ長調の晴郎」の三大交響曲の作曲時点で、すでに「透明と諦念の境地を見てしまった」ということの再認識であり、あわせて先入観を後世に植え付けた張本人の一人であるアインシュタインの、ピアノ協奏曲第27番変ロ長調に対する評価を再評価し、評価の読み替えに自戒を見出すことであった。すなわち、「その意味でアインシュタインは、情報において誤りながらも、その本質認識においては、けっして誤っていなかったのである」と綴ることであった。

 故に本質はなんら変わっていないことになる。結局、アインシュタインを小林秀雄に置き換えることになってしまうからである。そして、小林秀雄にたち返るとは、あたかも鏡の奥の顔として鏡の奥に果てしなく続く顔のなかにモーツァルトを追い求めるようものである。しかも「自己内自己」とは、その鏡に自分をも写さなければならないことである。先に行くのは常にモーツァルトである。「鏡」を外形に見立てれば、一瞬であっても連続であっても常に不断であるもの、それが鏡の奥の鏡である。最初から定位しえない外形である。はたして外形といえるだろうか。


 音楽と「ストーリー」 結局、自分で外形を用意するしかない。でもその外形も言葉で用意するしかないとなると、再び音楽と言葉に戻ってしまう。言えることは、その立ち戻りを含めて、それ自体がモーツァルトを聴く新しい態度を生み出すかもしれないことである。以下は予備的な回想談である。

大分昔、映画『愛と哀しみの果て』を観て、そのなかで流されたクラリネット協奏曲イ長調K.622の第2楽章をスクリーンに聴いた時の体験が今も耳元に残っている。アフリカの大草原(ケニア)がモーツァルトに合うのに驚いたからである。同映画は有名なアイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)の自伝的小説『アフリカの日々』を映画化したものである。

似た経験には、『2001年宇宙の旅』と《美しく青きドナウ》がある。ウィーンナーワルツを脅威にさえ感じたからである。映画に音楽を新しく聴くに体験は、探せば枚挙に暇ないだろう。モーツァルトもその一例なのかもしれないが、やはりそうではないと思うのは、ストーリーを離れて聴いていたからである。もちろん俳優(メリル・ストリープ/ロバート・レッドフォード)からでもある。

むしろストーリーというなら、映画とはまるで違うものを思い描くことになるはずである。そのとき、原題の『Out of Africa』ならまだしも、邦題『愛と哀しみの果て』では、正直しゃれにもならないが、それはともかく、描くべき「ストーリー」の内容をまだ見定めないうちから、はやくも「外形」の成立を見こんでしまうのは、実は筆者の音楽鑑賞歴の傍らに驚くべき「ストーリー」を立ちあげた人間がいたからである。モーツァルトとは関係ない内容だが、普遍性を帯びたストーリーである。故に確信するのである、かならずや「ストーリー」は描かれると。

 ここに一冊の本がある。岡田暁生『音楽の聴き方』(中公新書、2009年)である。本来なら本章(「音楽と言葉」)の冒頭に掲げるべき文献であったが、そのなかに「異化の手法」(「第2章 音楽を語る言葉を探す」81頁)なるくだりがある。村上春樹のシューベルト論――村上文学風の「ポップアート風の文体」変換に対する同書の評言の一部である。村上春樹のベースには、吉田秀和のシューベルトに関するエッセイ**がある。いずれも小林秀雄の叙述を相対化する可能性を秘めたエッセイ(叙述)である。というわけで、詳細は省くがここに説いた「ストーリー」も、「異化の手法」の内に「音楽学」的に保証されるものとなる。いまはその保証のもとで、モーツァルトに向けた「ストーリー」を本格的に描ける日を思い浮かべながらひとまず筆を擱く。

 * 村上春樹『意味がなければスイングはない』文藝春秋社、2005
 ** 吉田秀和『今月の一枚――CDLD36選』新潮社、2001


[付記]
 本稿は3月分として予定していたものであるが、予定外の原稿がはいったためにここまで続けてきた「月末締切り」が果たせなかった。4月はどうなることだろう。

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