Ⅱ 透谷詩の世界
1 「楚囚之詩」再読
しかし、「詩論」に分け行ってしまうと(必要なことではあるが)、実態から遠ざかってしまいかねない。「楚囚之詩」の詩行に戻る。辿り直してみたい。なお一重鉤括弧を使う場合は一作品として扱う場合である。出版物を指す場合は二重鉤括弧を付す。ただし透谷は、刷り上がった「出版物」を破り棄ててしまう。激しい自己否定と一体的であった精神の為せるところであった。
第一
曽つて誤つて法を破り
政治の罪人として捕らわれたり、
余の生死を誓い壮士等の
数多あるうちには余はその首領なり、
(以下、同じ囚人となった「花嫁」を詠う4行略)
この詩は、劇詩風であり、したがって予定された筋書通りに展開していく。長編で詩空間は詩題中に固定的で狭い枠組に嵌め込まれている。冒頭「り」音のリフレインが響きとして効果的である。深層に木霊している。以下筋書を辿る。
語り主(「余」)は、同じ囚われ人となった彼の「花嫁」や、同士への熱い思いを通じて世を問い、人生に感慨を及ぼすために必要な詩行を費やす。さらに獄舎のさまざまな叙景に、入獄に至った志しの再掲に、獄に繋がれた自分たちの現状に、各自の身の上に(とくに花嫁の身の上に)費やす。そして二人の愛に費やす(「第一」~「第五」)。以上を前置きにして詩行は語り主の内面に転じ、獄舎に射しこんでくる太陽や月の光に思いを深め(「第六」)、獄舎を昼夜を分かたず占める深い静寂なかで想像の高みに心を合わせていく。
やがて(「第八」)、「想いは奔る、往きし昔は日々新なり/彼山、彼水、彼庭、彼花に予が心は残れり、」と。そして、併せ思う現下のなかでの昔日。その時、獄窓に漂ってくる菊の香――「こは我家の庭の菊の我を忘れで、/遠く西の国まで余を見舞うなり、」(「第八」)と獄舎に張り詰めた孤独と隣り合わせの胸中に詩行を重ねていく。詩想を浮かび上げ、忍び寄る寂寥感を獄舎に深める。
さらには(「第九」)、「またひとあさ余は晩く醒め、」とか「倦み来りて、記憶も歳月もみな去りぬ、」(「第十」)とか、終には「余は日と夜との区別なし、」(「第十一」)の状態に鬱屈を積もらせていくが、その時、獄窓に舞い込んできた「生物」が「余の顔を撃」つ。見れば一羽の「蝙蝠」であった。彼は、かの生物を「花嫁」が姿を変えて飛来してきたものと覚え、纏っていた衣類で捕獲する――「嗚呼! 是は一つの蝙蝠!/余が花嫁は斯かる悪くき顔にては!」(「第十二」)。
挿絵は、この捕獲場面(衣類を投げ掛けんとしている場面)である。同挿絵左上には彼の心のなかを表すかのように丸窓が設けられており、「花嫁」の姿が描き込まれている。しかし結局は我が身にない「自由」を与えるべく、獄窓から放ってしまう――「余は彼を放ちやれり、/自由の獣……彼は喜んで、/疾く獄窓を逃げ出たり。」(「第十二」)。次の「第十三」は昇り詰めた心情の全的吐露。透谷詩が明治近代詩の草創期に打ち立てた一金字塔ともいうべき輝かしい詩行の重畳である。全体を掲げる。
第十三
恨むらくは昔の記憶の消えざるを、
若き昔時……その楽しき故郷!
暗らき中にも、回想の目はいと明るく、
画と見えて画にはあらぬ我が故郷!
雪を載きし冬の山、霞をこめし渓の水、
よも変わらじ其美くしさは、昨日と今日、
――我身独りの行末が……如何に
浮世と共に変わり果てんとも!
嗚呼蒼天! なお其処に鷲は舞うや?
嗚呼深淵! なお其処に魚は躍るや?
春? 秋? 花? 月?
是等の物がまだ存るや?
曽つて我が愛と共に逍遥せし、
楽しき野山の影は如何にせし?
摘みし野花? 聴きし渓の楽器?
あゝ是等は余の最も親愛せる友なりし!
有る――無し――の答は無用なり、
常に余が想像には現然たり、
羽あらば帰りたし、も一度、
貧しく平和なる昔のいほり。
しかしこれだけなら抒情詩の先蹤で終わりかねない。とくに最後の二行は詩行として弱い(甘い)。望郷歌にも聞こえかねない。おそらく作者も承知の上であったはずで、推敲の果てに残したのは、おそらく次の「第十四」の書き出しを強調(フォルテ)するため、そのためにあえてピアノ(弱音)にしたのであった。「冬は厳しく余を悩殺す、/壁を穿つ日光も暖を送らず、/日は短し! して夜はいと長し!/寒さ瞼を凍らせて眠りも成らず。」――かく抒情の余韻は寸断される。
透谷詩は上昇する。苦悩もその浮揚力を一義的契機としている。冬も寒さも覚醒でこそあれ、暖を求めて詩人を閉じ籠らせはしない。あえて闇を求め、正体を探らずにはいられない。透谷詩(長詩)には微睡みがない。瞬時の対峙に備えて常に双眸を輝かせている。闇間を見据え、潜む者の正体を暴きださずにはいられない。それが詩を創らせる。この時、新体詩の無慙は、たとえば語脈に漢文調的な骨格に響く調べを聴き取らせようとしたかもしれないし、皮膚感覚を刺激する雅語の音律に耳を傾けさせようとしたかもしれない。しか漢詩も和歌も漢文も和文も何れとして採るべき新体詩的な内在律から遠かった。未確定を立場と定めた時、詩行を重ねることのみが、そして行間から浮かび上がる詩想だけが答えだった。感性でもあり同時に理知でもあった。その語感は生と死の鬩ぎ合いにも響き渡るものだった。新体詩を突き抜ける透谷詩の響きだった。
かくして「第十五」を迎え、冬の獄舎を耐えた彼の許に春が訪れる。春は鶯の声として訪れる。彼は鶯の声に再び「花嫁」への思いを呼び覚まされる。そして鶯に「花嫁」の化身を見る。しかし、彼の内面は彼に向かって告げる。その鶯の歌声は、「余を泣かしめ、また笑ましむれど、/卿の歌は、余の不幸を救ひ得じ。」そう告げ終わるが早いか鶯は彼の許を飛び去っていく。そして以下の詩行へと続く。
第十五
(前15行略)
我が花嫁よ、……否な鶯よ!
おゝ悲しや、彼は逃げ去れり
嗚呼是れも亦た浮世の動物なり。
若し我妻ならば、何ど逃去らん!
余を再びこの寂寥に打ち捨てゝ、
この惨憺たる墓所に残して
――暗らき、空しき墓所――
其処には腐れたる空気、
湿りたる床のいと冷たき、
余は爰を墓所と定めたり、
生きながら既に葬られたればなり。
死や、汝何時来る?
永く待たすなよ、待つ人を、
余は汝に犯せる罪なき者を!
最終章(終結聯)「第十六」は、収め方としては、別段、破綻というわけではないが、直前で内在律をニヒリズムにまで深めておきながらも、結果として大団円で終わらせる。しかし、この終わらせ方が、透谷に次の詩を創らせることになる。この一作だけでも後代に投げかけた詩的課題の大きさは小さくないのに、次の『蓬莱曲』に至っては、課題さえも容易に見出せない程の高みを覗かせる詩的景観を近代詩の詩苑に延べ広げることになる。
2 「蓬莱曲」の「上演」
「蓬莱曲」は劇詩として創作された。ただ上演を前提としない読むためのものである。したがって創作的意識の高さは詩作品の範疇である。ただし、その後の明治後半から大正・戦前・戦後の現代詩へと続く日本の詩の展開過程から見ると、それを詩作品と認めないような意見を輩出する創り方である。しかもシナリオのように冒頭部に「曲中の人物」(登場人物)が書き上がられる。固有名詞を持った者だけで6名、大魔王、鬼王、小鬼ほか魔界の登場者も賑やかである。物語(劇)の筋書きに気を取られる(詩と読まれない)のも致し方ないことである。しかし、未登峰の高みに聳える頂上部は、その時代にあって詩圏を突き抜けている。
「曲」は「三齣」で構成され、さらに「別編」が付けられている。舞台は蓬莱山であるが、幕開けは山裾に広がる森の中からである。大筋は主要人物(柳田素雄)の蓬莱山登頂に至るまでと登頂後からなる。長大な「劇詩」である。以下、各齣・各場に付けられた見出しを掲げながら内容を辿る。
まずは「第一齣(一場)」「蓬莱山麓の森の中」である。日没後である。登場人物は世捨て人素雄(主人公)と従者(清兵衛)。雲中に見えない蓬莱山(嶽)を遠望しながら当て所なく彷徨い続ける漂泊の身を回想的に振り返る場面。それだけで130行を越える長さである。この長さに辟易して劇場を後にする観客も少なくないに違いない。
やがて何処からともなく聞こえてくる声(「空中からの声」)。霊山に棲むもの正体を明かす。遣り取りの後、聞き分けのない素雄を罵るように山に登れと促す。そうすれば「誤れる理の夢の覚めもやせん」と仄めかす。「誤れる理」とは素雄の生の迷いを衝いたその「声」が暴き立てる言葉である。ここで従者と別れる。
次は「第二齣」。その「第一場 蓬莱原の一」。愛用の琵琶を抱えて浮世に「おさらばよ!」と勇躍して蓬莱原(「神が原」)に分け入っていく。前景には雲の上に頂きを覗かす蓬莱嶽。心は次第に昂ぶっていくばかり。思い出したように琵琶を手に取って掻き鳴らす。あたかも神が原の鬼神を「驚かすまで!」ばかりに。ほどなくして琵琶の調べに釣られるように歌い出された声。空中での唱歌。歌声のなかに潜む人の気配。やおら鹿を伴って山乙女=姫が現れる。「山姫」に呼びかける素雄。透かさず返される姫からの訝りの声。世の人の声が立つはずもないところ(神が原)にその声は(?)とばかりに問う姫。
正体を明かす素雄。「これは登山のものよ」と。代わりに聞き返す素雄。なぜ此処に棲むのかと。怪しむに足らぬと山姫。しかしその声には聞き覚えがあると、再び素雄からの問い。「はていぶかし、その声音の/むかしのわが妹に能く肖つる。」しかし「妹」はすでに墳墓に入ってすでに幾歳のはず。さらに話は続けられるが、思い余って思わず「露姫!」と呼びかけてしまう素雄。妹の名前である。訝る山姫(「露姫と!」)。怪しみを後にしながら迎えに来た仙童とその場を立ち去る山姫。
そして「第二場 蓬莱原二」に続く。今度は道士との遣り取りの場面。道士の名は「鶴翁」。素雄の迷い(「煩累」)をその術(「わが道の術」)で晴らそうと語りかける件である。語り合いは延々と続く。噛み合わない二人の遣り取り。素雄の「煩累」とは例えば次のようなものであるからであった。
「わが世を捨つるは紙一片を置るに異ならず、/唯だこのおのれを捨て、このおのれを――/このおのれてふ物思はするもの、このおのれてふあやしきもの、このおのれてふ満ち足らはぬがちなるものを捨てゝ去なんこそかたけれ。」
その「おのれてふもの」を癒すことこそわれが使命(術)と諭し聞かす道士鶴翁。自然に逆らわぬがその術の基であると。わが済度により煩いや憤りから「自由」をも手に入れられようと。思いが達しない素雄は激しく拒む。「休(や)めよ休めよ」と。抗う素雄。「自由?」それは「頑童の戯具」にすぎないと。また世の「望?」についても、「老いたる嫗の寝醒の襼言」にすぎないと。そして「唯わが意は」と前屈みになって吐く。「空間を馳する雲」「峯を包める精気」――否、それもまだ違う、「まことの願ならず」であると。そして告げる、「然はあれども人界とこの『己れ』とを離るゝばかり今の楽しき欲望なるべけれ」と。
道士は不満を言うものぞと諌め、そんなことでは譬え人界を離れ得たとしても「汝の願は盈つまじきぞ」と難じる。素雄の想い(「意」)は、道士の位相を超えている。理解されようもない。「願を盈つ」? そのようなことなど思いもしないこと。およそ「世」に纏わることこそ「意」の外のこと。この「偽形の世」「詐猾の世」を思えば、そこに生を営むよりその地の下に棲む「地竜子」こそ我の「意」に隣する者なりと。時に魚の料にされるとも「我」を肯定し、その棲む処(地の下)を美しとし、家とも思う。夜を通じて(不思議な声で)鳴きつつ自らもその声を面白しとし、「情」を通わせて楽しみ、わが生を「短き世に傲」るその様。かくして夜の白むを俟ち、しかも「おのれを見る眼さえあらず」の身で、と。
以下に引く詩行は、以上の問答を締めくくるべく目論まれた、素雄の「情」の奔濤ともいうべき激白である。そして近代詩の草創期が創った、紛れもない一つの「過激」である。
おのれは怪しむ、人間が知徳の窓なり、
美の門なりとほめちぎる雙の眼の、
まことに開けるものなりや?
開かば、いずれを観る? まことに開かば
観る可きに、あわれ人の世の態を、
その穢れたる鼻孔を、その爛れたる口を、
その渇ける状を、その饑ゆる態を、
その膿める膓を、その壊れたる内神を。
聖しとて、気高しとて、厳格なりとて、
万類の長なりとて傲り驕れる人類は
わが涙の色を紅になすもの、
いかでいかで、わが安慰を人の世に得ん、
いかでいかで、導師が優しき術にて
この暴れたる心の風を静め得ん。
(「第二場 蓬莱原の二」の一部)
終に道士鶴翁は、我が術にては如何ともなし得ず、好きなようにするがよかろう、と突き放す。そして告げる、「徃きね、徃きて汝が心の儘になせよ、/極楽――地獄――岐は明らかに/この二道に別る、其の何れをも汝が択ぶまゝならん。」と。
「第三場 蓬莱原の三、広野」で素雄は一人の樵夫と出会い、語らいに自分が往くべき場所を見出す。それは樵夫が告げた「死の坑」(地獄)であった。なんとなればその坑のなかで機を織る美しき姫があり、「恨める男」が自分を訪ふまでは機織りの音を止めぬと教えられたからである。素雄はその姫こそ「露姫」と確信する。
そして、「第四場 蓬莱原の四、坑中」へと続く。冒頭から死のアリアとも言うべき詩行が20行以上に亘って奏でられ――「闇の源なる死の坑よ/人生の凡ての業根を焼尽くして、人を/善ならしむと聞ける死の坑よ!/吾人の限りなき情緒を断切りて、/黒暗のうちに入らしむると言ふなる/死の坑よ!」――その声に誘われるように「死の坑」から一魑魅が出現する。姿を現したのは、数ある中でも「『恋』てふ魔」。魑魅はその魔たる所以を語り聞かせるが、素雄は拒んで、まずはその醜い姿を汝が役目に相応しく、「美しき恋しの姫の姿」となってからにせよ、と咎めるように要請する。
そして現れたのが露姫。しかし露姫は一言も口にしない。何度語りかけても「物言わぬ」ままで、五度に及んだ呼びかけにようやく語り出す気配を窺わせたかと思うと、やおら唄を歌い出す。「露なれば、露なれば、/消え行く可しと予て知る、/露なれば、露なれば/草葉の陰を宿と知る。」そして、そのまま第四場は閉じる。
「第五場 蓬莱原の五」。激しい滝に対峙して崖径に立つ素雄。瞑想に詩語を重ね「懸瀑」の音に「汝こそ友」と詠じ、「このわれを汝に任してむ」と念ずる。そこへかつて遭遇した山(仙)姫が上がってくる。素雄の気配を悟らずに歌い出だせされる仙姫(やまひめ)の歌声。止むのを俟って語りかける素雄。何故このような場所にと仙姫に問われ、水底に(我が身を)沈めよと瀑布に命じていたところ答える素雄――。
哀しげな悲痛なる素雄の表情に思いの深さを探る仙姫。悲しみを齎すのは「露姫なる!」と嘆く素雄は、仙姫を露姫に重ね「君は其儘露姫なるよ」と詰め寄る。仙姫は然かとは答えず、かわりに洞へ素雄を誘う。そして「第三齣」を迎える。
「第三齣 第一場 仙姫洞」の場面。安らかな眠りに就く仙姫を洞のなかに眺め見ながら一人安らぎを得られない素雄。冒頭には、露姫に重ねた仙姫への無言の語り掛けが長大に続けられる。――「さても美しきや仙姫、いずこの宝の/山よりぞ、このめづらしき珠玉を取りもちて/来て、誰がたくみの業にてや彫り成せるぞ/この姫を?」―― やがて彼の許に青鬼が訪れる。そして露姫(仙姫)への想いに心苦しむ素雄の様を憐れむように嘲笑ってみせる。ならばと終には仙姫を呼び覚まそうとする。その恋心の真相を尋ねんためと。素雄は押し止める。代わりに告げて鬼を誘う。「鬼よ、来たれ、汝と共に山に登らん」と。しかし青鬼は突き返す。山に登れるのは鬼と魔のみと。それに答えて素雄が返す。「おろかや、われは人の世に属くとは言えども風を御し雲を攫むことを難しとする者ならず」と。しかも「霊」を洗い清める目的が故に「御山」に上り得るなりと。それを聞いた鬼は、「然らばひとり行きね」と素雄の単独登頂を促す。自らはここに留まらねばなら故(そう御山の王(大魔王)に命じられているので)行けぬとも。
そして、「曲」はいよいよ最終場面へと向かう。「第二場 蓬莱山頂」。山頂に達した素雄は、四方を眺望して絶唱する。冒頭に一部を掲げたその箇所である。引用が長くなるが同部分を書き出し部分からから全篇掲げる。
大地は渺々、天は漠々、
三界諸天の境際明らかなり。
万景万色一様になりて広がりつ、
山河都邑無差別夜陰の中。
六道八維雲に隠れ雲に現はれつ、
凡てわが脚下に瞰おろすなり。
鉄囲――金剛――須弥、幻現二界の中に
眺る。
無辺無涯無法の仏法も、玄々無色の自然も、
この霊山に於いてこそ悟るなれ、
こざかしき小鬼! 無益なる世の智慧!
大地大ならず、蒼天高からず!
我眼! 我心眼! 今神に入れよ、
この瞬間をわが生命の鍵とせん。」
いで御雪を蹈立てゝ彼方なる危巌の上に立
たむ。
(危巌の上に登る)
(雪崩の響凄まじ)
大地今崩壊るや?
用なき大地今崩壊や?
くづるゝも惜からず。いな、いな、いな、
聞くは雪崩の響なり。」
(俯瞰して)
底は見えず断崖幾千仭、
誰が立掛けしぞこの壁を。
鬼神とても、よもやこゝをば飛登らじ、
雷光とても鳴神とても、この山側には
住まざらむ。
思へがわが身は羽毛らなぬに、
雪さえ積れるこの巌の、角に
立つとは如何、如何。
人か? 神か? 人の世は夙く去りて
神の世や来れる?
神ならねば、いかで、この業は?
神かわれ? われ神か? 咄!
咄! いかでこのわれ!
依々形骸! 形骸、形骸!
塵の形骸! 昨日の儘の塵の
形骸! 咄、なほ人なる。
われ神ならず。天地の神は父なる。
いで父を呼ばむ。神を祈らむ。
(巌上に危坐して祈請す)
天地に盈つる霊、照覧あれ照覧あれ、
日に鋳り、月を円めしもの、耳を傾け玉へ、
われ世の形骸を脱ぎ去らんと願ふこと久し、
霊山に上りて、魂は、魂は浄められしかども、
未だ存る形骸やわが仇の巣なる。
悪鬼夜叉に攻め立られて今までの生命は、長
き一夜の。寝られぬ闇の中。
脱去らしてよ、この形骸、この形骸!
雪ぐ可き恥辱の山高み、
払う可き迷の虚空広み、
形骸ゆゑぞ、形骸ゆゑぞ、
脱去らしてよ、この形骸、塵骸」!
(「第二場 蓬莱山頂」の冒頭部)
この熱唱後、詩行は最終行まで涯なく続く。素雄の前に現れる数個の鬼王・小鬼。ここを去れ、往け、世に戻れと威嚇する。その一々に対峙する素雄。終には容れぬ素雄を山頂より放擲せんと――「しれもの奴、生ざかしき漢、/諸共に撃ち砕きてこの岩より投うぞ。/いざ、いざ皆のもの――来れ、来れ」と、一個の小鬼が喚くにいたる。危うし素雄! そこに満を持して現れたのが大魔王。配下の鬼王どもに立ち去れと命じる。ここに(山頂)に呼んだのは我の意志なればと。
再び交わされる素雄と大魔王の問答。しかし「空中よりの声」に身を窶していた時とは違い、天も地も支配する身なればと大魔王は素雄の「意」「情」すべてを見透かすばかりにして、素雄の「始め終わり尽な知る」と告げ聞かす。しかし素雄は肯わない。「悲しみ」「憤り」「人生の奥」を語り出すや声高になる。大魔王にも解せないとも吐く。大魔王は、ただ「をかしやな、をかしやな」と冷淡に受け止めるばかり。そして世の様を指し示し、楽しみに満ちた極楽であるはずではないかと聞かせ、それなのに「何を左は苦しみ悶ゆるぞ」と呆れかえって見せる。
素雄は強く(言い)返す。世の偽り、欺きを向こうに、〈形而上〉を注視し、蒼穹に精魂を舞わしめる先にはじめて恋にも思いを返すとも、さてそれも一時、「恋てふ者も果(はか)なき夢の迹」なりと。聞くべきものがあったのか、大魔王はさらに語れと先を促す。続ける素雄の口から語り出されるのは、行き先も定まらない哲理の闇。素雄の裡に対峙する二つの性――「神性」と「人性」。その鬩ぎ合い。素雄を死の先にまで惑わすもの。疲れさせては悩ましき性。しかしここに来て(まるでその告白を待っていたかのように)それ以上「説くなかれ」と素雄を遮る大魔王。そしてその悩ましさを楽しみにさえ転じてあげよう、と素雄を「彼方の巖」に誘う大魔王。しばし素雄を一人にする大魔王。大魔王が彼を独りにさせた狙いはその岩場の先にあった。はるか下界が一望されるからである。
元の世であった。素雄が望んで後にした世であった。その世に浮かぶ景色に今まさに眼を向ければ、猛火に包まれてすべてが焼き尽くされんとしている光景であった。「嗚呼、わがみやこ! あれ、あれ、みやこ!/捨てたりとは言え、還へるまじとは言えへ、/わがみやこ、悲しきかな、あの火!」、そこへ徐に現れて大魔王は問う。「何を左は悲しむぞ」と。見越していた大魔王は「おろかやな!」と嘲り笑う。素雄はさらに下界に眼を下す。すると劫火の中には神・仏の姿もある。何故? 神仏が(焼かれなければならぬ)――。
大魔王は言う、「彼(神仏)の権威」を奪い取った者の正体を知らぬのかと。素雄は訝る。「其は誰ぞ。何物ぞ?」と。知らばお前は我を崇めて汝が王とするや、如何にと問う。素雄は即答する。もとよりと。ならと語り聞かす大魔王。「それはわれぞ」と。さあ平伏せと。しかし素雄は黙然とたまま「奮然として立ちつくし」、応じようとしない。怒りを露わにする大魔王。「いまだ俯伏さずや」「口さかしや! 降らずや!」「わが力知らずや」と。しかし、なにか思うところがあったのか、怒りを収め滅ぼすのを思いとどまると、「あわれのものかな!」と突き放すようにして、「空しく時を費やしけり」「おさらばよ!」とその場を立ち去る。
しかし、一時は怒りを露わにした大魔王の前に視力や手足の自由を失った素雄は、大魔王が立ち去って再び視力や体の自由が回復されるに及んで、己の無力と反対に大魔王の威力を知ることになる。そして「(世に)降れ!」との命令が再び頭を過る。己が「行くべきところいづこぞ?/世か、還るか、世に?」やはり世には還るべきところはない、またそれに世の側でも我を待っていない。「咄! 咄! 魔、われをいかにせんずる?」煩悶の最中、その岩場から見下ろせば素雄の眼に映ずる「限知られぬ山の底」、怪しい火も立ちのぼる。地獄? いかにも我が行くべき処なり! 激しい死の水の流れ。下すべきは筏。その「陰市道」へ。さあ落ち下らん! 舞い下らん! 「いま去らん、消え失せん、世の外に。」
そこに素雄を押し止めるべく立ち現れた一人の人物。蓬莱原で出会った樵夫(源)。振り切るように「奈落の旅路を急がん」とする素雄。「あわれ旅人の狂ふかな」「何どて、左はもがくらん」そう言って素雄を捉える樵夫。しかし数多の鬼にあって疑い深くなっていた素雄は質す。「汝も小鬼(こおに)のひとりなるべし」(?)そして「徃け樵夫、われ鬼の世には還らじ」と声を強める。
そこに取り出された琵琶。素雄が手放したもの。これでも我を鬼と言うかと、この琵琶がそうでないことを証かしているはずと。差し出された琵琶を見て一滴の涙を頬に下す素雄。我が「精神」のいとも親しき者」。しかしいまさら此処(山頂の岩場)で鳴らすべき音やある? ――「いまは早や汝のいとま取らす可し」「汝も自由の身! 琵琶よ汝も不羈の身!」そしてその手から投げ出された琵琶の風に翻る様を見下ろす素雄。
その音?――「ヱー、ヱー其音(ね)は、ヱー、ヱー其の琵琶の、/ヱー、ヱーわが琵琶の其音はわれに最後を促すなる!」そして「いかでわれも行かん」と振り切ろうとする素雄。さらに強く押し止める樵夫。「危ふし、危ふし、さても怪しの旅客かな。」しかし、「怪しと? 世の生涯こそ怪しけれ」とさらに振り切ろうとする素雄。そして、死の底に向けて咆哮するが如く、命の限りを傾けて叫ぶが如く、絞り出すように吐きだされたその声の先には――。
来れ死! 来れ死!
この崖を舞い下らでも、わが最後の力、世
に充つる精気の力と相協ひてわが死を致す
に難きことやある、
いでわが命ずるに……いでわが命ずるに
……いでわが命ずるに……わが召ぶに
……わが召ぶに……
死! 来れるよ汝!
来れるよ汝! 笑めるもの!
来れ、来れ、疾く刺せよ其針にて、
いま衰ろへぬ、いま物を弁へぬ、いま消え
行く、いま死、いま死! 死よ、汝を愛す
なり、死よ、汝より易き者はあらじ。
あさらばよ!
(「第二場 蓬莱山頂」の末部)
その一言を最後に素雄はその場に倒れる。気絶ではない。事切れたことによる昏倒であった。樵夫は、倒れた(事切れた)素雄に向かい嘆き語りかける。
こはいかに、こはいかに、舞下りもせでこ
こに終わりぬるか、あやしやな、ああ無残!
たび人よ、たび人よ! 早や起きず、其の
魂はいづこに行くならん、
おそろしや、おそろしや!
あはれ、あられ、死なしけり、失なしけり。
(前掲に続く「第二場 蓬莱山頂」の冒頭部)
この後、「蓬莱曲別編(未定稿)」が続くが、ここで追跡を終える。別編の出来不出来を問いたくないからではなく、すでに当初の目的は十二分すぎるほどに達することができたからである。すなわち、今ここに辿ってきたもの(リトレースしてきたもの)が、前人未到の詩想に言い及んだ驚異的な詩的世界であったことが再確認されたからである。しかし、上記のようにこの作品(「劇詩」)を詩作品として認めないか、(大)失敗作としか見ない評価がある。その言い分も分からないわけではないのである。しかしその実態は、それに故にこの作品の真価が高まる逆説的評価であったこと、そして透谷詩は否定を明日の糧とする詩(叙事詩)であったことである。
Ⅲ 北原白秋の〝罪〟
1 抒情の詩苑
ところで、一般論的に見て、三齣で総行数が約1750行に及ぶような透谷詩をどう捉えるべきか。長大さを詩としてどう見るべきか。劇詩とは言えやはり長さは問題であるからである。さらに構成もある。各場の冒頭に詠唱(独唱)を置き、次に対話部分(筋書き部分=レチタティ-ヴォ(朗読調歌唱))に繋げる。必要に応じて詠唱を対話中に挟む。当然ながら対話部分は、相対的に「詩」的語り口ではなくなる。この時、詩とはなんであるか(あったか)が問われることになる。詩をどのように読むべきかの問いでもある。
そこで必要上、『若菜集』以降今に至る日本の詩を大観する時、抒情が占める大きさがあらためて痛感される(もちろん言わずもがなのことである)。明治後半期の詩の潮流が、透谷詩を外に置いた状態で推移してきたことと軌を一つにしている。雅文の甘美な韻律を基底においた「浪漫」的な詩と、漢字漢文の硬質な韻律を基底に置いた「象徴」的な詩は、表出する詩想の趣を異にすると言え、ともに散文的意味の連続やそれに繋がる措辞を良しとしない。それでも行うなら最初から散文詩として始められる。そうれば定量性(長さ)は確保される。また韻律も絶対条件とはならない。以下は初期散文詩の試行錯誤を前にした言である。
たとえば、小説仕立てで装い、詩とも小説ともいずれとも区別のつかない試作もあるが、それはそれで区別がつかないことを逆手にとっている。抒情への抵抗である。克服的態度である。「詩論」を誘発する態度でもある。しかし対極に抒情を据えている限り、散文詩といえども実は抒情を「反歌」的存在とした内的機構から成っているにすぎない。いくら技巧をこらしても心が透けて見えてしまうのである。
実際、韻律に拠らないことや否定的に構えることから生み出されるのは、公式的には抒情の対極である叙事でなければならないはずがそうならない。なるほど韻律は封じ込めた。あるいは新しい韻律を得た。散文形式に拠り、それを詩文と読み替えることで齎らされる意趣は、従来の抒情の範型の外に出ていた。「物語性」を複雑にすることで、意味が意味を生む時空間とは一線を画すことができた。それでも抒情詩が、韻律的な感興に差し障る詩語(詩句)の意味的部分を後ろに送って省みないのと五十歩百歩だった。詩的感興の獲得方法としては、致し方なく抒情に横並ぶのである。叙事に繋がる意味性の克服は見かけ倒しで終わっていた。それが日本近代詩の歩みであり、必然だった。そうだとすれば、何故、叙事詩は系統樹の枝を伸ばせなかったのか。否、その前に根を張れなかったのか。
2 薄田泣菫と蒲原有明~天才の前夜~
短絡的ながら一人の天才の〝罪〟である。北原白秋である。しかし白秋の詩が生れるのは明治末期である。その間、つまり『蓬莱曲』の明治24年から『邪宗門』刊行の明治42年までには18年の歳月が流れている。かりに北原白秋に罪を着せるとしてもこの18年間は彼(白秋)を育て上げた期間である。そういう意味では予備罪が適用される期間(胚胎期)である。
そこで告訴に当たって罪状認否に用立てられるものの一つに北原白秋著の詩評『明治大正詩史概観』(昭和4(1929)がある。改造社版現代日本文学全集の第37編『現代日本詩集 現代日本漢詩集』の「巻末付録」として執筆された解説風の概観ながら、明治・大正詩の全般に及んで分量も付録の域をはるかに超え、取上げた詩人の数は、明治期だけでも50人を超える。因みに『白秋全集』21巻(岩波書店、1986年)の冒頭に納められているが、241頁分を割くほどである。明治編の記述の多くは、自身を生んだ先行詩に向けられたものである。穿った読み方をすれば、白秋による自詩の詩史的評価に読み替えられるものでもあるが、白秋の〝罪〟を暴くには、出生(詩的出生)から辿り直すという点でも欠かせない基礎資料である。しかしこれでは日本詩史論(大裁判)の域になってしまう。上掲日夏耿之介に至ってはさらに精緻で、両著の上に論陣を張るなど及びもつかないことである。ここでは直近で行く。
幸い、白秋の詩史概観には、興味深いことに詩史略年表の一環として明治期の「叙事詩・劇詩略年表」が掲げられていて、透谷以後の慷慨を知ることができる。そのなかには問題の18年間においてもっとも重要な(言い換えれば罪の重い)二人の詩人の叙事詩も掲げられている。薄田泣菫と蒲原有明である。透谷詩がなぜ後継を得なかったのか(恵まれなかったのか)、逆に透谷詩と詩想を異にする白秋に収斂していったのか。
唐突ながらここには「死」がないからである。それは『蓬莱曲』の刊行後の2年後(刊行月と同じ5月)に透谷が自死したからとう具体的な「死」が先にあり、透谷の死というと、とかく個別事項として解られがちだが、そういう「死」ではではない。ここでいう「死」とは、また「生」でもあり、死を生きることが生の支えになっているそういう「死」である。詩に形を与える生の動機であるとも言える。叙情的動機とは異なるものである。その鬩ぎ合いの中心にいる「我」とか、両者の対立が齎す「苦悩」を試めす「死」である。具体例に当ってみよう。その違いは一目瞭然である。
こよい熱るる病臥の悩みのもなか、
世はとみに鴉羽いろの焔して、
蕩けたゆたふ火の海に、吾や落葉の、
左視右顧、ゆくへも知らぬ途すがら、
ふと遠方に目馴てし人がたちを見て、
直みちに追いすがりつゝ失聲して、
『君よ』と呼べば、立ちどまり、振向き様に、
『見悩ひの時こそきこそ来れ。』と脱ぎすべす
被衣のひまに見入るれば、あな『我』なりき、
驚駭に胸はふたぎむ、危篤れぬ。
薄田泣菫「妖魔『自我』」六(最終聯)(傍線引用者)
「妖魔『自我』」は、薄田泣菫の第四詩集『白洋宮』(明治39年)の一篇である(『明治文學全集』58より引用。以下蒲原有明も同じ)。同詩集は、泣菫の代表詩集であるとともに近代詩の代表作の一冊でもある。全篇は掲載できながいが、一先ず最終聯の「六」を引くだけで十分である。妖魔であった自分を最後に発見して昏倒するに至るという展開であるが、そのための伏線を「一」~「五」の各聯に延々と巡らす。各冒頭に「妖こそ見しか」を置いて、いかにも妖しい行状や現象を記しおくために、雅語を駆使して雅韻を忍ばせながら規則正しく一聯10行に横一列に仕立てる。すでにその詩形だけで散漫さは免れない。
若干補足すれば、「被衣」は第一聯で妖しき行ないをする人(矮人)が打ち纏っていたものである。つまり最初から自分の姿(行状)を自分で見ていたことの物証である。中間部(「二」~「四」)を「幻視」ないし「幻影」に読み返させるための小道具である。いずれにしても「自我」と大上段に銘打ちながらもどんでん返しに意を用いただけにすぎない。そのために「見悩ふ」の「自我」(「我」)にも、その「自我」を取り囲む「鴉羽いろの焔」や「たゆたに火の海」にも対峙する「生」にも緊張感はない。浪漫派的な幻想小説として読むべきだとしたなら、泉鏡花にはとても勝てない。もとより勝つつもりではなく、只管、新しい抒情を生み出そうとしていただけである。繰り返せば、「自我」もそのための素材(詩料)でしかなかった。かりに一次的な素材でなかったにしても、泣菫詩が詠う他の「哲学」的詩篇もこの域を出ない。たとえば、『白洋宮』で「霊魂」と詠うものも「旅魂(旅情)」でしかない。
ああ、然は野に、宮に、夜ごもりに、
あくがれまどひにし日はあれど、
果しは、野ごころの伸羽して、
歸るや、なつかしき君が手に。
たゆげの片ゑまひ、優まみの
うるみよ、うら若き霊魂の
旅路に熱れては、掬みつべき
うべこそ、真清水の常井なれ。
「魂の常井」最終聯(傍線引用者)
あるいは「感傷」でしかないもの。
浄まはる魂の深み、
聖ごごろととのひて、
美し音のさこそ響む
日のあなたに往かまほし。
「夕ごゑ」最終聯(傍線引用者)
このほか「望郷詩」での内面的な自己表出と言っても、同詩集で佳品の誉れ高い「ああ大和にしあらましかば」の詩情の詠い替えでしかない。ただ上掲「妖魔『自我』」の場合、「和魂」から「西魂」へと傾いている点は「哲学」的であるかもしれないが。
新墾路の切畑に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日かな、
そことも知らぬ静歌の美し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲の
あり樹の枝に、矮人の楽人めきし
戯ればみを。尾羽身がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
蘺に、木の間に、――これやまた、野の法子児の
化のものか、夕寺深に聲ぶりの、
読経や、――今か、静こころ
そぞろありきの在り人の
魂にしも沁み入らめ。
「ああ大和にしあらましかば」第二聯(傍線引用者)
同じ「魂」で行くと、蒲原有明には次のようながある。
魂の夜
午後四時まえ――黄なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代の
栄の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生の戸も。
(第二聯略)
見よ、簿冊の金字――
星なり、運命の
巻々音もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償ふたよりなさ、
囚獄の暗ふかき
死の墟、――いかならむ、
嗚呼、その魂の夜。
(波線・傍線引用者)
明治39年刊行の『春鳥集』の一作品(象徴詩)である。「銀行」「近代」「簿冊」と「栄の宮」「おひめあるともがら」などとが、新旧に時間性を交錯し合って情趣を新たにしているが、斉一な韻律に規定されて、詩境は意味を昂進するのではなく情感にも拓かれる。詩の系譜としてはそれが抒情詩から象徴詩へと転回したとしても異系統を生むわけではない。明治41年の『有明集』には、『蓬莱曲』の柳田素雄の懊悩を彷彿される「苦悩」と題された作品が収載されている。
苦悩
傳え聞く彼の切支丹、古の悩もかく――
影深き胸の黄昏、密室の戸は鎖しもせめ、
戦ける想の奥に「我」ありて伏して沈めば、
魂は光うすれて塵と灰「心」を塞ぐ。
懼しき「疑」は、噫、自の身にこそ宿れ、
他し人責めも来なくに空しかる影の戯わざ、
こは何ぞ、「畏怖」の党群れ寄せて我を囲むか。
脅す仮装ひに松明の焔つづきぬ。
(第二・三聯略)
硫黄沸く煙に咽び、われとわが座より転びて、
火の山の地獄の谷をさながらの苦悩に疲れ、
死せて又生くと思ひぬ、――夢なりき、夜の神壇、
蝋の火を点して念ず、仮名文の御経の秘密。
待たるるは高きを洩るる啓示の声の輝き、――
信のみぞ其證人、罪深き内心ながら
われは待つ、天主の姫が讃頌の聲朗かに、
事果て、『汝を恕す』と宣はむその一言を。
(傍線引用者)
傍線部は透谷詩を思わせ、かつ近い語り口である。詩を離れて議論したとしても、「我」の捉え方や苦悩の在り処および在り方は、透谷の内面を手鏡とした時、その鏡面に映る言葉でもある。反転して写しだされた透谷の貌には「他の人」の相貌は消えている。詩句には力がある。詩行には韻律を突き抜ける先鋭がある。それが自分一人の裡で終わらせない連帯感を生んでいる。叙景(「火の山の地獄の谷」)にも「蓬莱曲」のようなリアルな彫刻感が漲っている。しかし、結局、最後には抒情バージョンに還ってしまう。「切支丹」との対立的な問いに深められなかったからである。最初から最後の一行が決まっていた。その語り口も含めてである。そして、他の作品と肩を並べ(並べるために)、『有明集』を整える一掲載詩たる指定席を与えられることになる。
いずれにしても、この「苦悩」をやや例外にして、その他の作品と透谷詩――「魂」を破つるほどの迷いに苦悶しつづけるその詩叢――との間には越え難い縣隔があることが痛感される。しかし、詩は「哲学」ではない。ただ詩であればいい。詩として優れていればいい。そして『若菜集』の跡を襲いかつ超えているとされる泣菫と、さらにそれを象徴詩に呼び込んで詩想を深めた有明の両詩才の作品は、明治近代詩の夜空に燦然と光輝く詩星であることは間違いない。それだけに逆に言えば、透谷詩との隔たりを確かなものにする上で、その先がけを果たした点(準備罪)もあらためて疑えないところである。しかも二人が「長詩」(叙事詩)を手掛けていた事実は、その罪状がけして軽くないことを物語っている。
3 「泣菫有明時代」の「長詩」
上記した白秋による明治時代の「叙事詩・劇詩略年表」によれば、その嚆矢は明治18年の湯浅半月の「十二の石塚」(旧約聖書イスラエル民族説話に詩材を採った叙事詩)で、明治45年の平木白星「平和」(劇詩)に至るまでに46作品が掲げられている。因みに半月のそれは明治期にける「単行個人詩集の嚆矢」と言われ、また透谷の「蓬莱曲」(明治24年)は一覧中三番目で、二番目には落合直文の「孝女白菊の歌」に挙げられているが、同作品は漢詩(井上巽軒)を邦語(七五調)に訳した(移した)ものである。したがって「蓬莱曲」は本邦初発の「劇詩」となる。それはともかく、泣菫と有明の場合は、前者が4(5)本、後者が7本である。その分量は全体の2割強に当たっており、とくに有明の場合は、岩野泡鳴(8)に次いで一覧中の上位の座を占める(他は白星6、晩翠3、鴎外3、紫紅3など)。また作詩年代としては、明治36~38年に集中的であり、約5割強の26本がその3年間に上梓されている。
まさに「泣菫有明時代」に重なるわけであるが、この趨勢は新体詩以来の試行錯誤を経て、藤村・晩翠二詩人以降、明治30年代中頃の停滞感が新たな詩形を求めてそれが一気に噴出したかのようである(日夏耿之介「第六節 史詩譚歌及劇詩における試練」巻之上404頁)。また陳腐な作が多い中で個性を失っていないのが両者であるとも評されている(同)。しかしこの評言は微妙で、問題とする「詩形」に言及しているわけでない。それがあらためて新機軸の一時的模索に終わって模索以上でなかったことを教え、同時に透谷詩の孤絶感を深めずにはいないのである。
泣菫が明治36年に作詩した二つの叙事詩「雷神の歌」と「金剛山の歌」の内前者は400行を越える長大な詩である(さらに白秋が上げなかった「天馳使の歌」があり、700行を越える)。後者はその半分程度の約170行ながらやはり長詩である。両者は泣菫の第三詩集『二十五絃』に収められている。同詩集は、前二詩集(『暮笛集』明32、『ゆく春』明34)の初期泣菫体とも言うべき「絶句(ソネット)」形式から意図的に離れたもので、新たな試作には勇躍然とした意気込みが漲っている。
それ以外も総じてその詩的営為を体現した叙事詩(史詩)スタイルである。当時の史詩(及び劇詩)に対して日夏耿之介はこう述べる。「一言にしていへば少しも面白くないのである。詩形化する必要が感ぜられないのである」(406頁)と。泣菫をその例外とした全般的な評価ながら、「詩形化」の必要性においては泣菫も同様であって、彼にとってそれが必要であったのは、彼の並はずれた知的卓越であっても、内的欲求ではなった。事実、詩の破題には、「ことし(明治36年・引用注)一月十七日、空に雷鳴ありて、大粒の霰さへおびたゞしく降り注ぎぬ。春雷と名けむには餘りに時はやかるべし。當時病みて床にあり、覺えず興に入りたるまゝ、病おこたるを待ちてこの篇をものしぬ」(引用時改行無視)とある。
もちろん、謙遜を示すための「端書き」であるが、同時に「興」の深遠であることを暗に示すためでもある。しかし、その深遠は詩形にではなく、詩句においてである。詩句がそのまま「絶句」スタイルの発声(発吟)としても事足りる限り、端書き(破題)は、「必要」の観点ではかえって嫌味にさえ聞こえかねない。
ともかく「必要」は、分量を必然としなければならない。「必然」は、叙事詩の生命と一体である。物語性はそのままでは散文的である。吟誦によって非日常化を達成する。口頭伝承(たとえば日本でいえば、アイヌのユーカラなど)が文字を知らないで時間を超える所以でもある。近代詩が創る叙事詩は、文字により文字を出ないものである。したがって叙事詩は、本来抒情詩以上に文字の反作用化に晒される。物語性とはそれを文字から解こうとする時、必然的に口辺を求め、求めることなしには解消に向かわざるをえないからである。しかも叙事詩はそれを求めるのである。叙事詩の困難の源である。両詩才を問う「必然」に対する説明不足である。
いずれにしても「必然」から遠からず撤退する。泣菫は『白洋宮』(明治39年)へ、有明は『有明集』(明治41年)へ自己を再発見して発展的に自らの詩境に深く分け入っていく。本旨に引きつけて言い表すなら、透谷から遠くしかも決定的に遠ざかっていくと言い換えられる。やがてその遠ざかりを一大芸術に仕立てた白秋が、満を持して日本近代詩の檜舞台に登り上がってくる。白秋に至って透谷詩(正しくは透谷叙事詩)との隔たりはついに回復不可能なものになってしまう。
4 北原白秋の詩~抒情詩の慈母~
『邪宗門』の詩境 北原白秋の文学的軌跡は、在郷中から投稿していた『文庫』での高い評価(選者河井酔名)とそれを受けた作品(「林下の黙想」)の一挙掲載、『早稲田学報』懸賞詩一等入選と掲載(「全都覚醒賦」全280行)などを経て華々しく開始されるが、その天啓的な詩才の開花に大きく寄与したのは、『明星』誌上である。白秋が新詩社に参加したのは、明治39年から41年1月までの限られた時間ではあったが、明治浪漫主義の一大詩(歌)苑に集った多くの才能との遭遇のなかで発表された多くの作品は、脱会後一年で刊行することになる『邪宗門』(明治42年)に結実することになる。そしてこの『邪宗門』や続く第二詩集『思い出』(明治44年)から第三詩集『東京景物詩其他』(大正2年)及び第四詩集『真珠抄』(大正3年)までの四冊の詩集に、二冊の歌集(『切り花』大正2年、『雲母集』大正4年)を合わせた詩歌群によって、日本詩歌壇の太白を自他ともに任じていくことになる。
透谷詩との乖離が決定的になり、さらに固定化してしまうのは、言葉が原義を失うからであるが、問題なのはそれが眈美を至上としたための犠牲であって、ただ字義を失うだけではないからである。字義は永遠に喪失されてしまうのである。しかも詩想に高められた喪失感は、言葉を倫理観から解き放たって既知的な了解事項を痴態化し、個人の人格を惑溺して慎まない。その誘惑の「扉銘」(「邪宗門扉銘」はかく告げるからである。――「ここを過ぎて曲節の悩みのむれに、/ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、/ここ過ぎて神秘のにがき魔睡に。」では誘われるままに「ここを(門)」を潜ってみよう。『邪宗門』は「魔睡」「朱の伴奏」「外光と印象」「天艸雅歌」「青き花」「古酒」の6章から編まれている。以下、関心の赴くままに各章からその断片(詩行)を拾い集めてみよう。
A われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。
「邪宗門秘曲」冒頭部(「魔睡」)
B 曇日の空気のなかに、
狂いいづる樟の芽の憂鬱よ……
そのもとに桐は咲く。
Whiskyの香のごときしぶき、かなしみ……
「曇日」第一聯(「魔睡」)
C 空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。
「空に真赤な」全篇(「魔睡」)
D ひと日、わが精舎の庭に、
晩秋の静かなる落日のなかに、
あはれ、また、薄黄なる噴水の吐息のなかに、
いとほのにヸオロンの、その絃の、
その夢の、哀愁の、いとほのにうれい泣く。
「謀叛」第一聯(「朱の伴奏」)
E 君は切る、
色あかき硝子の板を。
落日さす暮春の窓に、
いそがしく撰びいでつつ。
「硝子切るひと」第一・ニ聯(「外光と印象」)
F いでや子ら、日は高し、風立ちて
棕櫚の葉のうち戦ぎ冷ゆるまで、
ほのかなる蝋の火に羽をそろへ
鴿のごと歌はまし、汝が母も。
好き日なり、媼たち、さらばまづ
禱らまし讃美歌の十五番、
いざさらば風琴を子らは弾け、
あわれ、またわが爺よ、なにすとか、
老眼鏡ここにこそ、座はあきぬ、
いざともに禱らまし、ひとびとよ。
さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。
「ほのかなる蝋の火に」冒頭11行(「天艸雅歌」)
G そは暗きみどりの空に
むかし見し幻なりき。
青き花
かくてたづねて、
日も知らず、また、夜も知らず、
国あまた巡りありきし
そのかみの
われや、わかうど。
「青き花」第一聯(「青き花」)
H 神無月、下浣の七日、
病ましげに落日黄ばみて
晩秋の乾風光り、
百舌啼かず、木の葉沈まず、
空高き柿の上枝を
実はひとつ赤く落ちたり。
刹那、野を北へ人霊、
鉦うちぬ、遠く死の歌。
君死にき、かかる夕に。
「晩秋」全篇(「古酒」)
白秋は自詩を指して「邪宗門新派体」と呼んでいたとおり、一派を成して余りあるものがある。思わずその言葉遣いに惑わされ、同じ口調を真似たくもなる。曰く、当時の「日本語」(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字・横文字)を駆使した措辞の全てを「新派体」の具とし料としてあるいは薬味として、時には秘薬・媚薬として香り高く綯い交ぜにして、詩苑の卓上に和漢欧の新種の滋養に溢れた糧を載せる。好まぬ人も奇を頭ごなしに詰るには余りの馳走、傍らの美酒、卓中央の活花、卓を囲む頬を染めた女人たちの待ち侘びる口ベ……などなど釣られて手を伸ばしてしまいそうになるのだが、「好まぬ人」の立場ではなく、「認め(かね)ぬ人」の立場(ただし立論上の立場)に立ち返れば、贅言は要さずとも、本旨(本訴)の目論むところはすでにA~Hの出廷(証人喚問)によって明瞭然としている。
たとえば、Hに詠いこまれた「人霊」や「死の歌」が、なによりもその字義の負っている荷重も責務も容易に擲って時季(晩秋)の趣に繰り入れて、「古酒」の味わいに添える一点景にさえしている。これでは「死の歌」も届きはしない。
『思い出』の詩境 身近に多くの死を知っている白秋であった。早くは乳母。それも自分(のチフス菌)が原因で死なせてしまったと自責の念を長く引きずることになる幼年期の身辺の死。あるいは当時(白秋7歳時)のコレラの大流行による周辺の死。これらの死は版を分かって『思い出』に載せられている。同詩集はその後の白秋を思えば、『邪宗門』よりその心性に親和的である。したがって、まだしもその死は、厳粛であり重みもあり、責務も分有している。詩としても「憂鬱」だけではない。それ以上に「厳粛」である。
I 母なりき。
われかき抱き、
ザボンちる薄き陰影より
のびあがり、泣きて透かしつ。
『見よ、乳母の棺は往く。』と。
時に白日、
大路青ずみ、
白き人列なし去んぬ。
刹那、また、火なす身熱、
なべて世は日さえ爛れき。
「身熱」第一・二聯
J 『青甕ぞ。』――街衢に声す。
大道に人かげ絶えて
早や七日、溝に血も饐え、
悪虫の羽風の熱さ。
日も真夏、日の天爛れ、
雲燥りぬ。――大家の店に、
人々は墓なる恐怖、
香くすべ、青う寝そべり、
煙管とる肱もたゆげに、
蛇のごと眼のみ光りぬ。
(第二聯略)
『青甕ぞ。』――日もこそ青め、
言葉なし。――蛇のとぐろを、
香匐ひぬ、苦熱の息吹。
また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
母なりき。――(母も座にあり。)
がらす戸の冷たき皺み。
やがてまた一列、――あなや、
我なりき。――青き小甕に、
歔欷りつつ黒き血吐くと、
刹那見ぬ、地獄の恐怖。
「青き甕」第一・三聯
Iは、乳母の死(葬儀)の詩。Jはコレラで亡くなった町の人の葬列の詩。白秋の身辺に起った死には、ほかに親友の自死がある。親友(中島静夫)はロシア語を自習していたのを、ロシアのスパイ(「露探」)との嫌疑をかけられことで喉を突いて自刃してしまう。日露戦争の最中(明治37年3月)のことである。
血に染まった亡骸の傍らにいて子供のように泣いたとある。親友中島の号は「白雨」。白秋とは「白」を分かち合う仲だった。白秋19歳の強烈な出来事だった。「君死にき、かかる夕に」の「君」が、親友と重なっていたかは判然としないが(詩のなかの季節は「神無月」の秋)、『思い出』には、一章を構成する「TONKA JOHNの悲哀」のなかに、「詞書」を置いて「たんぽぽ」の詩題で詠われている(因みに「TONKA JOHN」とは子供の頃の自分の呼び名)。
まずその「詞書」から――「わが友は自刃したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より静かに釣臺に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添うもの一両名、痛ましき夕陽のなかにわれらはただたんぽぽんの穂の毛を踏みゆきぬ。友、時に十九、名は中島鎮夫。」
K あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕にしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく……
あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾を染めていく、
君がかなしき傷口に
春のにほひも沁み入らむ……
あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸れていく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穂の毛に、そよかぜに……
あかき血しほはたんぽぽの
けふの入日もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも霊もたんぽぽに。
あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。
あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりていく
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ……
あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく……
「たんぽぽ」全篇
同じ「君」でも「晩秋」の「君」とは似て非なる研ぎ澄まされた精神性が全篇を貫いている。いまだ「生」の痕跡を引きずる「あかき血しほ」に激した心を鎮めるかのように、言の葉を水平に揺れるリフレインに敷き延べて、二人して還る「逕」を往く。白秋は「死」とともに歩んでいる。座して落下した柿に死を読み解く別の白秋ではない。『思い出』の作詩時期は、『邪宗門』と重なっている。二人の白秋の一方は、『邪宗門』で蒲原有明の象徴詩をあらたな詩境で読み替えるべく、同じ時期に別な「死」を創った。あたかも愛でるに似た「死」をである。さすがに露わには綴られなかったが、「古酒」の香りや色合いは「Whisky」(B)のそれである。水割りを作るが如く、「Whisky」を「死」で割っている。
白秋詩と「日本語」 「不徳」は冒頭からの「破題」(第一章「魔睡」)のとおりである。曰く、「余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。(以下略)」と。「死の節奏」とは「死の調べ」のことである。いうまでもなく「邪宗門」(基督教)も同じ調べ(「秘曲」)の一つである。明治の文学者が対峙した基督教との内的対峙ではない。白秋は信者でもない。信仰心なき邪宗門徒である。白秋(もう一人の白秋)にしてみれば、すべて承知の上のことである。分かっていて行なっていることである。まさしく『邪宗門』の「例言」のとおりである。「一、余が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て余が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と、刺激苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強いて詩を作為するが如きを嫌忌する。(以下略)」と。
それはそれで構わない。むしろその趣意には与したい。しかも『邪宗門』は「趣意」=「詩論」を超えてはるかに高く「作為」を形にしている。彼が天才であることは、しかも稀に見る「日本語」の天才であることは、衆目の一致するところである。『邪宗門』に限らず白秋を読み返すたびに、本稿の立場を越えてその思いを強めるばかりである。しかし、「詩論」は達成されたが、深まらなかった。白秋の「象徴詩」は、「南蛮趣味」に一気に開花し、しすぎたために次の華を咲かせるには最初から限界のある「詩論」だった。異なるカテゴリーに趣を求めるしかなかった。使い果たしてしまったからである。意味は増殖するが趣は枯渇するのである。
しかし、そのことでかつてないほど意味の縄目を解かれた「日本語」が、韻律に新生を懐妊さすることはなかった。民族言語の極域にも達していたのである。そのなかにはその先に開拓されることになる童謡も含まれる。彼の到達点が童謡であることを考えれば、そこには「日本語」の純粋が見出されたはずである。彼の自負は、童謡に真理を見出したことで永遠のものになったに違いない。異国の神に礼拝することはなくても、「日本語」の神(言霊)には礼拝するのである。
おお、この日本の言葉について感謝しよう。私たちのこの日本の言葉、言霊の幸ふ国の言葉、まさに掌を合わせて礼拝すべきこの言葉。
この比類なき日本の言葉を貧弱だといふ人、その人は恐らく最も貧弱なる理解と、又最も貧弱なる用途しか為し能はぬ技巧凡下の当人ではないか。
詩論集『芸術の円光』(昭和2年(1927))より
「技巧凡下の当人」とは誰に向かって発せられた文句であるのか。当時の詩の情況は必ずしも白秋の「詩論」に沿うものではなくなっていた。誰か個人を諌めるためではなく、詩界全体に対する警句だった。同じ「円光の芸術」のなかで、「(略)思想のまま素材のまま埒もなく投げ出したものに現今の詩の殆どがある。詩として気品も香気も韻律も乏しき是等の散文系の自由詩なるものは詩ではなく詩となる前の何物かである」と声高に難ずるからである。
しかし、どれほどの人々がこの声に耳を傾けたのであろう。否定的にならざるをえない。白秋の「不足」が、当時の新たな詩の課題になって久しいからである。したがって白秋の自己責任でもある。『邪宗門』の先を切り開くことができなかったからである。しかもそれ以前にすでに詩的必要性を感じていなかったからである。象徴詩をその雰囲気として利用し、後は用済みとするかぎり、日本象徴詩(高踏的象徴詩)の「職人」にして「学匠詩人」である日夏耿之介の手厳しい批判に晒されなければならなくなる。
白秋詩の透谷詩から如何に遠かったか、しかもその遠隔さが、白秋に続く大正から昭和前半の詩人の道を、自らの「不足」のなかに見出させたかを、以下に掲げる日夏評に再確認し、透谷詩へ舵を切り直すことにする。着岸地点はもうはっきり見えている。
白秋詩の強味は、南国人のあくどい官能の弾力である。つぎには、鋭くはないが甘くゆるやかに顫動する感情と神経とである。かれは文明の近代性を情緒から享受とする。かれに近代理知の成長はない。時代の雰囲気を官能によつて味ははんとする。かれに輓近概念の収得はない。この明治が生んだ近代詩人は、時代の少数の鋭感者のみが憧れたものを、いち早くその独特の飽くどい感覚から想像して、五彩燦やかな頽廃の色調たゞよふ「ありふべからざる世界」を官能で幻視して、詩歌の世界の上に築きあげてわれらに示してくれる。この風景は、凡て白秋の太つた南国人らしく日に焼けたその五官の壁を通してのみ覗きうる幻想界である。(中略)ともあれ、白秋詩の中から悉く誇張と架空とを取り去つてしまえば、満身の油のぬけ去つた大鰻魚のやうな腐屍が横たわるだけである。
(間6頁略)
白秋の詩は、愛されるべきものであるが、尊敬されるものでない。華美で濃麗で眩惑的だあるが、かれのせい一ばいの天凜が出限つたもので、相当よい詩に相違はないが、事実あれだけのものにしかすぎない。もつと何かあらう。白秋詩の世界以外の落付いた思考の青ざめた結果が、なよびやかにじつくりと、緻密に出た詩がありさうものだ、思策の詩はないか、想念の詩はないのか、白秋はうち見にはよいが、長く読んでゆくと、飽き飽きしてしまふ、年をとるといやになる、青年にも老年にも、飽くことを知らぬ、尊敬すべき、深刻な思想詩は出ないものか、と時代は強い要求を露わに示してゐた。
日夏耿之介『改訂増補 明治大正詩史』巻ノ中(263~271頁)
Ⅳ 「長歌」の詩論
1 透谷の態度表明
透谷の詩的葛藤 透谷詩が顧られなかったのは、透谷自身が「自序」のなかで「元より是は吾国語の所謂歌でも詩でもありませぬ、寧ろ小説に似てい居るのです。左れども、是でも詩です、余は此様にして余の詩を作り初めませう」(『楚州之詩』「自序」部分)と詩体への自問自答を公言しているからである。その向こうには予想される非難への予防線がある。もちろん多くの否定に晒されたとしても凡てを受け容れられる覚悟はあった(現実には自らが禁を犯してしまうにしても)。さらに二年後の『蓬莱曲』になると、詩想はさらに強化されて、信じるままに我が道を突き進む態度を露わにすることになる。しかし確信犯は敵対ではなく否認に晒される。なるほど詩ではないと決められ、さらに後代の人からは劇詩は詩(「日本詩」)であるのかと怪しまれることになる。
その「序」が語るところの核心部分を引くと、「余は直ちに之(友人にあえて「新奇」を衒うのかと訝しがられたこと・引用注)を遮って曰く、わが蓬莱曲は戯曲の躰を為すと雖も敢えて舞台に曲げられんとの野思あるにあらず、余が乱雑なる詩躰は詩と謂え詩と謂はざれ余が深く関する処にあらず、韻文の戦争は江湖に文壇の良将あり、唯だ余が此篇を作す所以の者は、余が胸中に蟠踞せる感慨の幾分を寒灯の下に、彼の蚕娘の営々として繊糸を其口より延べ出る如く余が筆端に露洩せすむるに過ぎざるにみ」と。
時に(明治20年初年)『新体詩抄』が江湖に頒かたれて5年余が過ぎたとはいえ、いまだに論争に発展するような「詩論」があったわけではない。「自序」も従来の詩歌(漢詩・和歌)の殻を破ってあらたな「詩躰」を手にしたいと言及するにとどまる。具体的な詩形が見えていたわけではない。しかしそれが幸いした。混沌とした未明裡が、偶然の成せる業とはいえ、時代状況も重なって彼の個体(精神的資質)を一個の照明弾と化した。「日本語」が、一端、途絶えたのである。
この言い廻しでは、彼の漢文調から見てまるで見当違いに解られかねないが、謂うところの意味は、ながく日本の国の表記法であった漢文と和文が体現してきた言語(学)的気分(こんな用語はもとよりないが)に「赤の他人」を感じたということである。しかもこの先も心を通わせる気にもなれなかったとうことである。このような俗っぽい言い方だと、とても夜天を照らす強烈な閃光となれないどころか、路地の暗闇を揺るがす蝋燭の薄灯りにしかならない。あえて俗言を用いたのは、それが(「反気分」が)その後、彼を忘れる浪漫的なもの、象徴的なものを予見していたからではない。彼の人付き合いは不真面目ではない。その両者(浪漫・象徴的感性と理性)の資質を合わせもったかのような、凡そ俗世間に超絶的な透谷氏自身が、身辺ではなく自分に言向けた文句(詩的葛藤)であったのを、あえて町人風に言づけたかったからである。
透谷の中の「小説」像 彼は確かに俗っぽくなかった。江戸文学を論じても理知の成せる技のなかであって、江戸趣味を感性に迎え入れる気質ではなかった。しかし、彼は小説に未来を見ていた。なにかが成される予感に敏感だった。「自序」に一段上にあるものとして小説を引いたのはそのためである。なら小説に拠ればよかった。なるほど習作はある。しかし、それを超えるものにならなかったのは、才能というよりは、小説にも結局は心を寄せることができなかったからである。
まだ小説は、彼の「気分」を容れられる文体を発見していなかったのである。気分からはじまり気分を存在形態に昇華する「俗言」をものするのは、異国語より縁遠い世界だった。それでも小説が上にあったのは、その「躰」が、当時の「日本語」にとって意味があるからだった。拠れないにしても「意味論」に内部転化して、彼を「詩論」に仕向けていたからだった。その詩論が結果として理論を経ないで彼に「詩躰」を見出させた。しかも彼で焉わるような、続くものがないような(実はそれは彼自身においてでもあったが)「躰」としてである。
まさしく「序」がその忸怩たる思いを表明するところである。「余が乱雑なる詩躰は詩と謂え詩と謂はざれ余が深く関する処にあらず、(略)唯だ余が此篇を作す所以の者は、余が胸中に蟠踞せる感慨の幾分を寒灯の下に、(略)露洩せすむるに過ぎざるにみ」と。
そして、透谷が挑んだ「胸中に蟠踞せる感慨」の「露洩」に馳せる「詩稿」こそは、繰り返すが、時代と個人の邂逅がなせる偶然の所産であって、「詩(うた)」に関する限り、日本のなかに訪れた歴史的次元に類するものだった。場合によっては『万葉集』創成時のとりわけ柿下人麻呂に比べられるほどの――。
2 柿本人麻呂の「長歌」~非個人の詩境~
日本語表記と古代 昨今の日本語表記の成立過程にかんする研究現場の成果を仄聞した立場によれば、文芸(とくに「叙事文芸史」)の成立過程にかんする研究成果の知見は、透谷詩の意味を再確認させる上でも刺激的なものだった。文字と人の緊張関係が手に取るように理解されたからである。
いうまでもなく日本(倭)には文字はなかった。漢字が将来した2~3世紀以降とくにヤマト王権が外交関係や国内統治の必要性から文字(漢字)を導入しても、書き手(書記)の多くは渡来人であって、いまだ倭人ではなかった。また文字が使われた範囲も、出土遺物(金錯銘鉄剣・銀錯銘鉄刀など)や遺存資料(鏡背銘・仏像光背銘など)を見る限り、いまだ文芸以前である。仏教伝来も基本的には同じである。写教の必要は書き手の範囲を広げたが、6世紀から7世紀中頃段階の信仰範囲に現れる個人の精神生活はいまだ痕跡を留めていないし、氏(うぢ)族単位であっても形式的である。
日本語表記もまた訓読も、漢和間の「翻訳者」を介しない限りは困難であった。和(倭)訓を文字化する即ち漢文化するのも、今日の和英・和仏・和独等の作文と事情は変わらない。文字(漢字)は人(倭人)の外にあった。無文字社会一般のように(日本で言えばアイヌのように)精神生活は、口頭ないし身体動作で行なわれ、記憶(文芸を含む)は口頭伝承に拠った。伝統的な精神文化にかかわる宮廷生活も多くはこの方法に拠っていたはずである。したがって文字が個人にかかわること、さらに精神生活に関わることは、文字の歴史の上からも画期的なことであった。
今日の文字が社会化した時代では喚起しにくい文字(呪物)との緊張関係も人や社会を支配していた。7世紀後半は、いまだ限定的とは言え、そういう意味でも、つまり緊張関係が個人に下がって来た意味でも、個人と文字が個別の関係を取り結ぶ画期であり創成期であった。万葉仮名の発明が齎した日本人の精神活動の転換期でもあった。先行していた開始されていた漢字の和順(訓序)表記(変体漢文)が、万葉仮名を取り込むと、さらに抒情面でも長文の表記化への途も開かれるようになった。心の表象化が文字に実現された時、それは文芸のはじまりでもあった。しかし、念頭に置いておかなければならのは、文字が個人と関係を持ったと言え、それは「伎人(わざひと)」が創る関係性の中においてであり、むしろそこには(表記には)個人はなかったことである。葬歌から挽歌への展開過程がその事情を説いてくれる。
葬・挽歌と文芸史 葬・挽歌とも死者儀礼に伴い誦唱されるものである。具体的には『古事記』におけるヤマトタケルの葬歌(四首)、『万葉集』初期の天智天皇挽歌(「「女挽歌」」(九首)などにかかる歌謡論である。早くは江戸時代(本居宣長『古事記伝』)から行なわれ、戦後には西郷信綱の『詩の発生』を生んでいるが、その後も旺盛な研究が展開されている。ここではそうした過去の研究を見通し、南洋歌謡(沖縄のノロ歌など)の分析をあらたに取りこんで体系的な歌の発生(成立)論に仕立てた近年の成果に学んだ点を以下の人麻呂長歌論の備えとして紹介したい(居駒永幸「歌謡・和歌における境界の場所」(同著『古代の歌と叙事文芸史』第2章、笠間書院、2003年)。「詩人」(宮廷歌人)でありながら個人でないことの意味、非個人的立場で行なわれる作歌の文学性と文学的動機の現在性は、そのまま透谷詩の詩的意味を照射するものと理解されたからである。
しかし。主題と乖離しかねないので手短に済ませるためにも、以下、知見(関係部分)を箇条書きで示すこととしたい。
①葬歌が身体動作と実証性を伴っているに対して初期挽歌からは身体的動作が欠落。欠落はことばだけ成り立つ抒情詩へと展開し、柿本人麻呂に代表される初期挽歌群を誕生させるが、その作歌は、葬歌の実証的表示性を継受。たとえば場所(境界)表示部分。万葉後記挽歌ではこの実証性の継受に加えて観念的要素が卓越した作歌で編成されるようになること。
②しかし後期挽歌段階では観念的要素を元にした哀傷歌が一般化する一方で、表現の形式化を生み挽歌の衰退を招来することとなること。
③ヤマトタケル葬歌(身体的動作(「匍匐(はふ)」などを伴う民謡的呪歌)と南島歌謡(ノロ歌ほか)の関連が注目されるが、「本土」に未見(非存)であること。その背景として仏教の浸透が予想されること。
④葬歌と挽歌の断層とは抒情詩として言葉だけで自立する挽歌に対し、葬歌の場合は身体動作(身体表現)と一体的な呪歌で成り立っている点に求められること。
人麻呂の挽歌 以上は、言葉だけで成り立つ文学世界に慣れ親しんでいる現代人に、根源的な覚醒を迫る知見の数々であるあるが、その覚醒は、挽歌の歌人ともいうべき柿本人麻呂にも及ぶ。そして人麻呂とは①~④として実現される作歌を、非個人(宮廷歌(詞)人)として引き受けなければならかった「詩人」であるが、作歌(作詩)とは元来非個人のなかに発生したものであって、それがそのまま「詩の発生」の実態であったわけである。
このような断定的な言い方は、文芸成立史を学んだ後でも容易に口にすべきことではないが、本稿の場合、その当否を恐れないから面が強い。近代詩(及び現代詩)に対してもっとも対極を措定することによって、透谷詩へ向けた逆説の側に立てるからである。人麻呂こそは逆説そのものであって、その逆説を証明するのが彼の歌(とくに長歌)であるからである。
非個人(の立場)であることが創る詩は、個人以上に言葉の高みに届いている。怪しむべきことでもある。彼を可能にした仕組みに関心をもつ時、①一つは、「近代的個人」の場合、人麻呂よりはるかに1200年先(明治時代基準)に生れた「人」であると言え、そして創作現場に人格的制約(仕奉関係)が介在しない自由を獲得していると言え、それが「作品」を優位に立たせるとは限らないこと、②一つは、「言葉」が言葉として生きた時代によっては、時に個人・非個人の別を越えて「人」を超時間的な同じ高みに押し上げること、の2点が当面課題である。
ここに掲げる人麻呂の創った(創らされた)挽歌の詩的緊張感は、①が決して大袈裟なものではないこと、言い過ぎでないことさし示してくれるはずである。人麻呂長歌中最大(かつ万葉集最大)の作品であるため些か引用が長くなるが、その流れを途中で切り難く、また人麻呂の代表作の一つでもあることもあり全体を載せる(岩波古典文学大系4『万葉集一』)。
高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌一首 幷に短歌
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし わが大君の 聞こしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降りいまして 天の下 治め給ひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 吾妻の国の 御軍士を 召し給ひて ちはやぶる 人を和せと 服従はぬ 国を治めと 皇子ながら 任け給へば 大御身に 太刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を あどもひたまひ 斉ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 捧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒 み雪降る 冬の林に 飄風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来たれ 服従はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の あらそふ間に 渡会の 斎の宮ゆ 神風に い吹き惑わし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆い給ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし わが大王の 天の下 申し給へば 万代に 然しもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に わが大王 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしい 御門の人も 白妙の 麻衣着 埴安の 御門の原に 茜さす 日のことごと 鹿じもの い這いひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い這ひもとほり 侍へど 待ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして 朝裳よし 城上の宮を 常宮と 高くしまつりて 神ながら 鎮まりましぬ 然れども わが大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天の如 ふり放け見つつ 玉襷 かけて思はむ 恐かれども
短歌二首
久方の天知らしぬる君ゆゑに日月も知らに恋ひわたるかも
埴安の池の堤の隠沼の行方を知らに舎人はまとふ
(巻二・一九九-二〇一)
言葉に密度があり、繋がりがあり、そうした言葉の連携性が重層や波動を胚胎して内声を自ずから発生させている。布置された地名が景叙として活かされ、さらに心意に高められる。観念性に遠ざかる措辞ではなく、より厳かな秩序の発声で占められて、言葉の原初はかくありなんの始原性が横溢している。物の名も人の動作もそれを知らす大君と取り結ぶ時空間は、仮想でもなんでもなく、現し世に折り重なり生命に重なる。しかも誦詠される。場は葬送儀礼である。現代詩の朗読は、一次的には黙読を環境としている。人麻呂の挽歌は、殯の宮(仮死空間)に響く調べの高さあるいはしめやかさを推し量って作歌される。しかも仮死者が最初に聴きとる声として再生的に斉えられなければならない。死者と化した時の声も用意されなければならない。もちろんそのためには鎮魂の声を忍ばせなければならない
作歌の動機も伎に命じられたものに開始する。「泣き女(め)」(「俳優」)のように代役的な立場であっても当事者を生きられるのが前提である。伎のなかに求められているものである。人麻呂は人である以上に伎であった。長歌は、感情移入を他人であり本人である両属関係で行う上に優れた詩形であった。単純に比較できないが、短絡的に譬えればその立場は小説家的である。他者に転移するからである。前提事項だからである。このように最初からそれが発語構造でそれ以外に在り様がなかったなかで創りあげた言語空間であるとしたなら、まさにそれが「非個人」の外形でもあり同時に内在でもあった。その存在形態のなかに長詩が生れた。近代詩の概念では捉えられない詩的世界である。抒情詩でも叙事詩でもないその両者に分たれる以前のあるいはその時代が時代として作った個別の姿態である。しかしけして散文(『日本書紀』)ではない。言葉に求められていたものは、仮死者や殯を経て埋葬された死者に直接届く呼びかけの力だった。呪力だった。韻文でなければならなかった。
言葉が、意味で重みを付けたり、語感で心を震わしたりする言語世界に生きる我々には、当時の言葉と人の関係は体験的には実感できない。遺された作品の水準だけが頼りである。考古学に「型式」という概念がある。時間と共に変化する物(製作物)の形には変化の普遍性があるからである。面白いことに型式は退化の方向に向かう。出現時の水準が最も高い。まるで人麻呂の長歌はこの型式論でいう出現時の姿を踏襲するかのようである。しかも物が型式を開始するのは通常の社会関係のなかではなく激動期のなかにおいてである。社会の画期(大画期)に相即的であるのが「型式」だった。実に人麻呂の歌(長歌)がそうであった。7世紀後半を生きたことが決定的要因であった。
人麻呂の「言葉」 それは壬申の乱である。「乱」という言葉に惑わされてしまうが、歴史の重みとしては、国内的には関ヶ原の戦い、近くは戊辰戦争に匹敵する。戦乱の規模ではなくその後の歴史を動かしたという意味である。乱の当時、人麻呂は10歳程度だったという。天武天皇が勝利する。しれが強大な律令制国家の推進力になった。「日本」という国号も「天皇」をいう言葉が生れたのもこの時代(7世紀後半)である。国史編纂も開始された。「日本語」の画期についてはすでに記した。その時代にはじまることは少なくない。天武天皇は別格だった。明治天皇のようだった。その神格化(「現御神」)はそれ以上だった。
その殯期間は最長規模で2年2箇月の長きに及んだ。新しい儀礼も採り入れられた。本来神祇に属する葬送儀礼にはじめて仏僧も参加した。とくに崩御月(686年9月)に認められる度重なる僧尼の発哭や発哀である。伝統的な誄(しのびごと)も頻繁に行われた。万葉集巻二の「挽歌」には大后(後の持統天皇)の御作歌(長歌)が載せられている。殯の宮で誦詠されたのかもしれない。そうだとすれば誄に派生する御作歌の誦詠も新儀礼(中国的儀礼)である。宮廷歌人の必要性を高め、歌の内容を質的に高める動機でもある。
これが幼少年代に人麻呂が吸いこんでいた社会の空気であった。まさに変革期のそれである。後に「言葉」を身分とする人格に摂りこまれる将来が、すでにその時(少年時)決められていたのかは知らないが、史上最大の長歌歌人(詩人)がこの世に誕生することはすでに時代が決めていた。天武天皇の政治を引き継いだ妃の持統天皇の藤原宮期のことだった。
その「身分」には、常に「現御神」への讃仰を一身として体現しなければならない使命を帯びていた。生存の条件であった。そして、条件を保障するのが「言葉」だった。ともかく当時の言葉には人知を超えた呪力が宿っていたからである(詳述略)。それがとくに「挽歌」に向かう時はまさに呪力そのものだった。仮死にも亙ることができ、死を鎮めることのできるものだった。視覚化された呪力だった。それが「言葉」だった。
最大の挽歌 上掲挽歌は大きく二部形式からなりそれに終結部(「結束部」)が合わさる形になっている。「現御神」への讃仰を頭はじまる第一部は、それを「枕詞」にして天武の命を受けて「食す国を 定めたまふと」立ち上り、東の国の御戦士(具体的には美濃(野)国を中心とした勢力(戦士))を召すに至って進軍に至る様を叙事し、戦い振りを活写する中間部(「斉ふる 鼓の音は」から「定めてし 瑞穂の国」)に至る。歌中の圧巻部分である。その筆致は、高まりを保ったまま息継ぎも儘ならぬままに直走り、結末にむけて一気に流れ下る。その「叙事」の活写振りに平和主義者を持ち込んでもはじまらない。反戦を説いてもはじまらない。死に対面する時がそうであるように、血を血で洗う生(せい)の対極に立ち向かう時、人は生理的に激した発声状態に衝き上げられる。致し方ないことである。しかも往々にしてナルシックになる。ときには猛けりかねず、そのときこそ反戦主義者に厭われかねないことになる。それがそうならない。人麻呂の措辞は、人を「生理」のなかに晒さない。もとより生理(妻への挽歌にしても)などない。最初から異なっている。声を出す源がである。
第一部のフォルテッモの余韻のなかで第二部がはじまっていく。高市皇子は天武の下で壬申の乱を戦い抜いた。最大の功績者の一人である。その定まった国のなかでまだこれから末永く政を執るべき時に薨かられた。その悲しみを低声で静々と詠い、その響きを空しさに行き渡せる。人々の哀悼の想いを誘いこむ。人だけではない。生き物も加わる。「猪鹿じもの い這いひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を ふり放け見つつ 鶉なす い這ひもとほり 侍へど 待ひ得ねば 春鳥の さまよひぬれば」の如くである。
ここには、二声があり三声があり、かくして多声部が皇子の死(仮死)を取り囲む。しかし嘆きも収まらぬのにその時は来てしまった。葬の時である。「百済の原ゆ 神葬り」たのである。今はその魂の神ながら鎮まったのを「常世」に仰ぎみるのである。永く万代にわたるべき皇子が現世の宮を傍らにして。
そして哀傷の「短歌」二首が添えられる。長歌を承けた短歌は、すでに哀傷を心の片隅に留め置きはしない。長歌を辿り終えて、これはシンフォニーのごとき響きだと思ってしまう。二首はまるでマーラーの長大な交響曲で歌われる歌手の歌声のようにさえ聴こえてくる。マーラーもまた鎮魂の作曲家であった。時代も地域もなにもかもが違う。違ってもすでに普遍化された響きは時間も地域(民族)を超える。そういうことだろう。
Ⅴ 結語~叙事詩の誕生~
叙事詩の響き ようやくにして透谷詩に辿り着いた。さらに書かなければならないこともあるがもう十分だ。透谷詩は、その詩句がどうであろうとも、詩形(長さを含めて)がどうであろうと、その内容が疑われようと、ともかく声に響きがある。それは詩としてか発せられない響きである。現代からみても力のある響きである。むしろ現代にない響であることが、新たな再生力の条件にさえなっている。透谷が当初(「楚州之詩」)は迷い、一度は否定し(「楚州之詩」の廃棄)、再思(「蓬莱曲」)に及んでも未明のままに推し進められた言葉との対峙が、いまだその時代の言語環境もあって漢文調に拠りながらも、本人の見込みを越えてはからずも時代の言語空間を超え、未定の域を切り開く力となった。劇詩が一線を越えた瞬間である。叙事詩の誕生である。
いずれにしてもこの響きを人麻呂挽歌の声域で聴こうとすれば、抒情詩のなかには聴けないものである。長さ(分量)は二次的なものであれ、叙事詩はその詩形の必然として定量的な詩句を必要とする。先に見た泣菫の場合も事情は同じである。構造に由来するものである。しかし詩行を繋ぐのは抒情でしかなかった。「物語(筋書き)」は抒情の料でしかなかった。長編叙情詩にしかならなかった。したがって容易に放棄された。劇詩も同じである。物語性がより自覚的になっただけであった。その自覚が叙情に否定的であるわけではない。
この時、一人、透谷詩だけが自己の内圧を覆うもの、あるいは立ち塞がる圧力壁のようなもの(断崖幾千仭の壁)が、抒情でないことに覚醒的なった。たとえ感情に由来するものであっても、北原白秋に収斂するような抒情ではなかった。むしろ白秋を言葉の一極とすれば、対極に立った心的作用に由来するものだった。その声であり、声と一つになった響きだった。
源は、おそらく「批評」だった。しかも核心に韻律を聴くことのできる批評だった。批評が韻文を創った最初の言語力だった。すなわち叙事詩だった。彼が時代を越えた最初の批評家でありえた所以でもあった。批評が創る「響き」によって批評家足りえたのである。
透谷と時代 いずれにしても、人麻呂がそうだったように透谷の場合も時代がその存在に先行していた。個人の資質や才能(天凜)は常に後付けながら、やがて先回りできるのもまた才能である。時代の激変期においては、その前後関係は時に劇的である。透谷にとって激変であったものは、「近代」だった。国家であり社会であった。自由民権運動だった。過激な政治闘争(大阪事件)からの退却が彼に齎した挫折感だった。時代の男女関係が惹起した新たな苦悩でもあった。哲学(的思考)で武装させるほどの、その先に待ち構えているのは敗北しかあり得ない感情との対決だった。挫折や対決に彼を導く「日本語」でもあった。以上に加えて彼の気質(精神疾患的気質)との確執もあった。
かくして彼が最後に選んだ存在形態である言語生活(作詩・創作・批評)を生存条件とした時、非個人を条件としていた人麻呂に対して、限りなく個人であり続けなければならなかった。他者の完結が前提であった人麻呂長歌(挽歌)に対して、自己完結を所与の条件とした詩(劇詩=叙事詩)だった。近代であればすべての人の条件であるが、透谷詩が続かなかったのは(戦後詩は別枠)、必ずしも条件ではなったことを意味している。
蛇足ながら、日本の場合、叙事詩は、その人の生存条件の程度を見極めるバロメーターでさえある。同じ明治時代であれば、石川啄木は叙事詩を理解した人だった。北海道漂泊以後だった(本ブログ5月[い]3)。しかし命が足りなかった。代わりにその人生が叙事詩だった。日夏耿之介が斯く称えるからである――「啄木の一生は彼の詩以上に詩であった。明治文化が個人の魂に影響した径路を僅か二十七年の短時間のうちに日本映画の如き速力と起伏とその程度の価値とを示すものは啄木の生涯詩である」と。因みに透谷については、「空想に焼かれて、そして実想に悶死したのは彼である」と言っている。当然ながら透谷詩(二つの劇詩)を容れようとしない日夏耿之介(引かなかったが)も、その生涯(生き方)については捉えるべきところを捉えている。しかし啄木観と違って外形的である。悶死ではなく自死である。その死は、「あさらばよ!」(素雄)だったからである。抒情の死ではなく叙事の死であった。
おわりに
実はこの草稿は、戦後詩に一大叙事詩をなしたある詩人を念頭に置いて始めたものである。アジア・太平洋戦争に挫折し、戦後間もなく北海道の未開の原野に自らを追い遣った一人の詩人がいた。流謫だった。詩人(故人)の生涯とその詩営が辿り着いた壮大な叙事詩から伸びる影が、透谷の影に重なったのである。二人の影から浮かび上がる「生」をその詩にあらためて読み深めてみたい。思いを先行させたのが本稿である。
なお、北村透谷には研究会(「北村透谷研究会」)があり、同会編による文献紹介を見ても膨大な研究が現在進行で行なわれていることが分かる。日本文学研究大成(国書刊行会)の一冊として刊行された透谷にかかる研究書(1998年)に載る文献紹介は実に体系的な研究史であるが、最初にこれを目にしていたなら研究史の厚味に筆を執る気も削がれる。ほとんど言い訳であるが、同研究史を参照して透谷研究の大きな流れ(画期)を知ることができたことは安心に繋がった(逆に多くの見落としを生んだ)。ひとまず自己確認として本稿を記す意義を見出すことができたからである。
参照した文献が若干量ある。書きなぐりの草稿に近い本稿には、もともと参考文献を掲げる要もないが、同文献はそれぞれ画期に位置付けられる一冊であるという。その見解を具体的に引くことはなかったことが、透谷をより深く知ることができたので、本文中に掲げた文献の再掲及び透谷以外の参考文献(一部)と合わせて以下に掲げる。
◆参考文献(テキストを含む、ただし北村透谷のみ)
勝本清一郎編『透谷全集』第1~第3巻、岩波書店、1950・55年
『北村透谷詩集』現代詩文庫第Ⅱ期1001、思潮社、1975年
桶谷秀昭『近代の奈落』国文社、1968年
同 『北村透谷』ちくま学芸文庫、1994年(初出1981年の文庫化)
小田切秀雄『北村透谷論』八木書店、1970年
北村透『〈幻境〉への旅 北村透谷■試論Ⅰ』冬樹社、1974年
同 『内部生命の砦 北村透谷■試論Ⅱ』冬樹社、1976年
同 『〈蝶〉の行方 北村透谷■試論Ⅲ』冬樹社、1977年
吉増剛造『透谷ノート』小澤書店、1987年(『螺旋形を想像せよ』同社、1981年から独立刊行)
中西 進『柿本人麻呂』講談社学術文庫1006、講談社、1991年(初出1970年の文庫化)
三木 卓『北原白秋』筑摩書房、2005年
日夏耿之介『明治大正詩』上ノ巻・中ノ巻・下ノ巻、改造社、昭和3年、改訂増補版昭和23年
北原白秋『白秋全集』21詩文評論1、岩波書店 1986年