はじめに
洋上のアボリジニ その船は、日付変更線を越え赤道を通過して遠く日本を離れ、南太平洋の洋上をさらに南下していた。すでに洋上生活も一〇日目が過ぎようとしていた。船上生活を充実させるために日々各種の講座が開催されていた。その一つにオーストラリアに関する講座があった。ゲストとして数人のアボリジニが乗船していた。年若い四名の女性たちだった。悠久の太古から受け継がれてきたアボリジニの大地が、ウラン鉱山や製錬過程から排出される放射能廃棄物の投棄場所の標的にされていた。彼女たちは、大規模な自然破壊で傷つけられているカントリー(聖地)の現状を訴えた。
反核・反原発関連のなかで行なわれた講座だった。同様な講座は、タヒチ島の南方洋上に形成されたムルロワ環礁を核実験場(一九六六~九六年)としたフランス政府による環境破壊と被爆の実態としても取上げられた。すでに核実験は中止されているが、被爆による健康被害は続いている。一方、オーストラリアのウラン採掘は現在進行形である。採掘量は世界第二位であるという。日本の原発の燃料にもなっているという。南海の楽園や大地の大自然のイメージとは相容れない、もう一つの南太平洋のなかの現実である。
講座には第二弾が用意されていた。「アボリジニと大地のつながり」――第一弾の政治的問題とは趣旨を変えて行なわれた講座だった。ゲストたちの表情も大役を果たした後だったこともあり、緊張感から解かれたのか、それまでほとんど見せなることのなかった、時には笑みを浮かべた横顔を覗かせてみせた。彼女たちの数人は、アボリジニの聖地ともいうべきオーストラリア中北部(ノーザン・テリトリー)の北部に位置するカカドゥ国立公園内の町に居住していた。大地とともに生きる自分たちの日々を、誇りに満ち溢れた言葉のなかで語った。強いアイデンティティだった。
司会者(兼通訳者(CC*))もアボリジニに心を寄り沿わせていた。きっと愛情の籠った問いかけだったにちがいない。さらに素敵な笑顔が誘い出されていた。自分たちだけでなく世界の人々を愛することのできる笑顔だった。こういう時、タイム・ラグのなかでしか聞き取れない(自分の)言語条件を悲しく思うことになるが、それはともかく、あらためてアボリジニである彼女たちと大地との強い繋がりを再認識させられることになった。それと同時に、その土地を、大地に対しては他者でしかない西欧世界によって奪われたアボリジニの歴史と、いまだ搾取のなかにある現在(豪州史)を痛感させられた。自分の庭を汚さない北半球の「先進国」(「白豪国家」を含む)の欺瞞に憤りを覚えた。もちろん我々も同罪である。
ここに取上げるアボリジニが生んだ偉大な画家エミリー・カーメ・ウングワレーも、豪州史による犠牲者の一人で、悲しい体験(養女拉致(政府による隔離政策))を人生の一部としているが、彼女の場合、その先に生み出した芸術は、白豪主義者も端から尻尾を巻いて逃げだすしかないような、西欧世界もまるで手出しできない崇高かつ超越的なものだった。船上の若きアボリジニたちに引き継がれている大地とともにある生活(ドリーミング)――エミリーの生涯でもあり、その芸術の根源をなすものにして「文明社会」を生きる我々の自己否定として作動するもの。以下は自己否定のためのエミリー論(エッセイ)である。
* コミニュケーション・コーディネイターの略称。英語・スペイン語でチームを組み、船内講座や寄港地での現地案内の通訳を担当する。
Ⅰ エミリーの年譜
エミリー展(「エミリー・ウングワレー展――アボリジニが生んだ天才画家」)が日本で開催されたのは、今から四年前の二〇〇八年である。会場は二か所。国立国際美術館(二月二六日―四月一三日)と国立新美術館(五月二八日―七月二八日)である。「日曜美術館」(Eテレ・二〇〇八年六月二二日放送)で「赤い大地をふみしめて描くアボリジニ画家 エミリー・ウングワレー」として取上げられたこともあり、その年の国内展覧会ではちょっとしたブームだった。年末恒例の「今年の展覧会」(?)(朝日新聞)でも幾人かの美術評論家がその年の三件の内の一件に挙げていたように記憶している。作品もさることながら彼女の生涯に人々は驚かされる。以下は展覧会カタログ『Emily Kame Kngwarrye』(読売新聞東京本社 二〇〇八)(以下『カタログ』)の巻末に納められた「年譜」をもとに記したものである。
出生日は一九一〇年頃とされるだけで正確な年は不明である(当時はまだアボリジニの出生は正式に記録されなかった(「年譜」))。没年は一九九六年九月二日。凡そ八六歳の生涯である。生地は、オーストラリア中北部(ノーザン・テリトリー(北部準州))の砂漠地帯に位置するアルハルクラ(図1・2)。出身部族は、アボリジニの一部族であるアンマチャリー族である1。一九二〇年代にアルハルクラを含む一帯に大牧場が拓かれたが(一帯は入植者によって「ユートピア」と名付けられる)、ノーザン・テリトリーの内陸部は、海岸部に比べて白人の辛辣な侵略から守られた土地であった。エミリーは部族の伝統的暮らしのなかでアボリジニの文化を身に付けていく。
結婚歴は二度。実子はなく初婚時(一九三〇年)に混血児であった養女(バーバラ)を得る。しかし、時のオーストラリア政府の隔離政策2の被害者の一人なる形で、エミリーのもとから、ある日(一九五五年)、養女バーバラ(一〇歳頃)は、彼女の知らない間に連れ去られることになる。その後バーバラの行方は杳として掴めず、死んだものと諦めていた彼女に再会できるのは、それから一三年後(一九六八年)のことであった。なお、初婚がアポリジニの慣習に則って決められた相手(相手から見た場合、エミリーは「伝統的婚姻―プロミス・ワイフ」(松山 一九九四)となる)であったのに対して、二度目の結婚(一九四〇年代後半)は慣習に背く「恋愛結婚」であったという(自身の弁)。
初婚時以来、再婚時を通じて牧場労働とその周辺労働に従事する。ラクダによる荷物運搬や牛馬の飼育・牧場主の家族の世話などである。一九七六年に先住民族の土地所有権が認められ(「アボリジニ・ランド(ノーザン・テリトリー)・ライト法」(松山 一九九四))、他のアボリジニとともに牧場を去って故郷アルハルクラへの帰郷の途に就く。翌一九七七年には政府による先住民教育プログラムが開始される。先住民に対する自立のための職業訓練である。その一方ではアボリジニの諸権利の政治的問題に神経質になっていた時の政府による懐柔策的な思い付き教育(美術教育)の側面もあったという(ハワード 二〇〇三)。いずれにせよ、このプログラムは大画家エミリーを生み出す引き金となったことは確かである。時にエミリー六七歳。
この職業訓練の工芸部門でろうけつ染め(バティック)技法を修得したエミリーは、結成されたバティック・グループに他の女性作家たちと参加する。折しも政府の依頼を受けて、アボリジニ作品の取引を目的とした販売店がオーストラリア・アボリジニナル・メディア協会(CAAMA)によってアリス・スプリング(ノーザン・テリトリー第二の都市、現人口約二八〇〇〇人)に設立される。その後多くのアボリジニ・ギャラリーを抱えることになるアリス・スプリングや「CAAMA」は、エミリーや他のアボリジニ作家の活動に大きな役割を果たすことになる。一九七七から八八年にかけてのこの約一〇年間は、画家エミリーの原点となる時期であった。
そして記念碑的な一九八九年を迎える。この年の夏(一―二月)、エミリーにはじめてカンヴァスが手渡されその手にアクリル絵具が握られることになる(契機は「CAAMA」によるサマー・プロジェクト)。最初に描かれた作品(《エミューの女》・図3))から彼女の名が世間に広まるのに要した時間は、四か月足らずであったという。習い立ての第一号にしてすでに問題作家になってしまったのである。以後、亡くなるまでの約八年間に描いた作品は、三〇〇〇点とも四〇〇〇点とも言われている。
八年間については後述でさらに詳しく取上げるが、膨大な作品を手掛けてもまだ足りなかったかのように、亡くなる二週間前の三日間で二四点の連作が一気に描かれる。過去を更新するかのような新たな境地だった。そして、一九九六年九月二日に新境地を見届けたかのようにして八六歳の生涯を閉じる。大地の砂漠のなかにひっそりと立つ墓地の碑文には、「オーストラリアの偉大なる芸術家」の文字が刻まれている。
1 因みにアボリジニ社会は多数の部族(言語グループ)かなる。ノーザン・テリトリーだけでも一一四部族を数える。一部族の平均人口はノーザン・テリトリーで三〇七人と計算されている(小山一九九二)。
2 アボリジニの子供を親元から引き離し(時には拉致状態で)、白人社会のなか(キリスト教施設「ミッション」や公共施設「セツルメント」ほか)で強制的に教育する白豪主義政策。俗に「連れ去り(take away)」「盗まれた世代(Stolen
Generation)」「盗まれた子供(Stolen Children)」と呼ばれ、この悪名高い政策の代名詞となっている。隔離政策や「原住民管理法(州法)一九三六年」のもとで「過去(文化)」から切り離されていく実態を、体験者(被害者)の聴き取り調査をもとに追体験的に紹介したものに『隣のアボリジニ』(上橋 二〇一〇)がある。舞台は西オーストラリア州ながら「隔離と同化」をはじめ牧場内生活や「原住民居留地」での日々をはじめ、年代的にも「連れ去り」や牧場労働を体験したエミリーを知る参考となる記録である。
Ⅱ エミリーの絵画世界とその変遷
「絵画手段」 ここではエミリーの作品の変遷(八年間)を『カタログ』(章解説・作品解説(監修者マーゴ・ニール)や掲載論文(同女史ほか日本側企画者))に導かれながら辿る。ところでエミリーの絵画芸術は、アクリル絵具とカンヴァスがそうだったように即物的な契機と一体化している。あるべき過程を経ず、当然なければならない習作(エチュード)を必要条件としていない。それだけではない。エミリーの絵画にあっては、契機は即結果(表現力)になってしまう。そこでここでは即結果になる即物的契機のことをかりに「絵画手段」とする。
バティックの場合は必ずしも「絵画手段」にはならなかったようであるが、アクリル絵具とカンヴァスに関しては、譬えは悪いが、小学校に入学したての児童が、最初の作品で校長賞どころか有名な公募展の金賞をいきなり獲得したようなものである。結果として彼女の天才は、アクリル絵具とカンヴァスを待っていたことになる。
「絵画手段A」から「同F」の設定も同じ基準に基づいている。「ドット」から「ブラッシュ」は、アクリル絵具のような「画材(道具)」ではないが、一義的には表音文字的であり、単独では「絵画言語」の意味性からも離れている。感覚的部類の「カラー」や「シャープ」も含めてプロト段階では一面感が強いという意味で即物的である。いささか気を衒った嫌いはあるが、ここでは「絵画手段」をエミリーの絵画芸術を知る縁(視点)とするとともに変遷過程の縦軸とする。ただし以下では、整然とした理解の足しにするために、大きく五時期(一~五期)かならなる絵画年譜を併用する。「原点」を〇期(一九七七~八八年)とすれば六時期となるが、「絵画手段」から外れていることもあり一時期としない。絵画手段Aのなかで一期との関連で一部言及する。対応関係は次のとおりである。
絵画手段A:「ドット」
一期(一九八九年~九三年)
絵画手段B:「カラー」 一~二期(一九九一年末~三年末)
絵画手段C:「ストライプ」
三期(一九九四年~九六年)
絵画手段D:「カーブ」
三期(一九九四年~九六年)
絵画手段E:「シャープ」 三・四期(一九九五年後半~九六年)
絵画手段F:「ブラッシュ」
五期(一九九六年八月)
以上のように「絵画手段」と絵画年譜は一対一の関係をつくり出さない。これも特徴である。補足すると、絵画手段A~Fは、概ね『カタログ』の各章の並びに準じたものであり(ただし『カタログ』は、バティック(一九七七―八九年)から最初期のアクリル絵画(一九八八末―八九年初)までを「原点」として全七章で構成)、名称も『カタログ』の章名や解説文等を参照して確定したものである。また、文中に頻出する略記号(たとえば直近では「O―1」)は『カタログ』の作品番号である。「O」は「原点」であることを表している。煩雑であるが備忘録を兼ねて併記しておく。略記号の内訳は次のとおりである。参考までに絵画年譜との対応関係を示しておく。
「O」「原点」一期以前(〇期)「D」「点描」一期
「C」「彩色主義」一~二期 「B」「Body Lines」(身体に描かれた線)三期
「Y」「Yam(ヤムイモ)」三期「G」「Sacred Grasses(神聖な草)」三・四期
「L」「Last Series(ラスト・シリーズ)五期
なおエミリーの作品は、開催館の一館であった国立国際美術館のHP(展覧会→過去の展覧会→二〇〇〇年代→二〇〇七年度)でわずかな点数ながら紹介されている。
絵画手段A 絵画手段Aの「ドット」は、一期のなかで点描世界として高められる。出発は〇期のなかにある。点描を組み込んだ〇期作品は、今回、一九八一年から八九年までの七点が紹介されている。一期の点描と比べると、「ドット」として独立していない。一要素に過ぎない。絵画手段化の手前に止まっている。むしろ「ドット」以上に線の比重が高い。線の場合は、「ドット」と併用であっても動植物文を描く際は半ば手段化している。しかし、〇期は「絵画手段」以前である。動植物文の配置に象徴されるように画面は図像的(O―1、一九八一年・図4右)であり、時には図解的(O―6、一九八八年・図4左)である。全体として抽象化の一歩手前に止まっている。
一期と対照的なタイトルの付け方にもその絵画的水準が現れている。たとえば「ドリーミング」というタイトル画がある。一期以降ではタイトルのイメージどおりに作品は抽象的世界に導かれているが、〇期ではもっとも図像的で写実的な作品(《エミューのドリーミング》(上掲図4左)のタイトルとなっている。逆にバティック作品中もっとも抽象的である作品(O―2、一九八一年・図5)に対しては、《長い布》という具象的なタイトルが付けられている。抽象と具象の逆転である。
それが一年後になって抽象化が一気に進む。「ドット」は点描化して真に絵画手段となる。最初のアクリル/カンヴァス作品である《エミューの女》(O―9、一九八八―八九年・図3)は、その記念碑的作品である。〇期との連続性をすべて截ち切っているわけではないが、バティック時代の絵画空間に取り込まれていた具象性(動植物文)は、抽象性の中で解体する。解体を促すのが「ドット」であり、その視覚的効果である。「ドット」は、装飾的な背景的立場を抜け出して単独状態で主題化していく。あるいは主題化すべきことを自らに促している。まさに点描時期の開始を告げるに相応しい作品である。「作品解説」(一〇八頁)にも、「点描が線の要素を凌駕しはじめ、(中略)革新的かつ多彩な点描法の探求を予言するかのようである」と記されている。
一九八九年の年は、一年を通じて「ドット」で強力に推し進められる。点描の緻密さに引きずられて色彩も密度を増し、両者の相乗効果で画面の高濃度化を達成する。濃度は形態に転生する。即座に異質な世界との交感が作動し始める。点描自体は周知の技法であるし、人口に膾炙した絵画史上の作品をはじめ抽象絵画でも目にすることができる。しかし今回は既視感もまるで用をなさない。
「ドット」自体も進化する。白点に中心色を添加した一つ目状の「ドット」が開発される。白点以外で組合せた一つ目もある。絵筆の先端を垂直に押し付けて筆を膨らませた「花模様」の「ドット」もある3。進化した「ドット」が、「ドット」ごとに「世界」を創り上げていく。加えて色彩が、一人の画家が個人的に使いこなせる許容範囲を苦もなく飛び超えてしまう。
点描作品だけでも「世界」は無限大である。しかも似通っているように見えていて反復的でない。進化だけが次の作品を創作する条件となっている。作品も次第に大形化していく。それも「条件」に組みこまれている。点描の高濃度化と画面の大形化は相互作用的である。一方を求めることで一方も必要になる。①「ドット」の濃密化と形態化、②色彩化と造形化、③それらを内包した作品の大形化(スケール感の獲得)、の三者による同時進行である。
エミリーの感性に働きかけるもの。一つは大地の下に広がる地下への強い想い。地下意識である。絵画的な邂逅に先行するものである。一九九〇年に描かれた《無題》(D―11、212.0×123.0㎝)、《野生イモのドリーミング》(D―12、212.0×122.5㎝)に彼女の感性が向かう先を見ることができる。それが五点の連作からなる故郷アルハルクラの世界をイメージ上に描出した作品群である。フーガのように主題が模倣的に繰り返される。この連作上に重層的な空間性を描いた五点構成の《アルハルクラの故郷》(D―13、 一九九〇年)を経て、一九九一年から九三年に点描表現の集大成ともいうべき一連のアルハルクラの大作が生み出されることになる。以下はその三点である。
《アルハルクラ(私の故郷)》(D―22 、121.5×302.2㎝)(一九九一年)
《無題(アルハルクラ)》(D―25、166.05×481.0㎝)(一九九二年)
《アルハルクラ)》(D―28、132.2×229.0㎝)(一九九三年・図6)
個別でもあり同時に全体でもあるもの。境界線のない両者。それは彼女の生命の在り処でもある。以下に引用するのは、エミリーが尋ねられるままに答えたという自作への思いである。
「すべてのもの、そう、すべてのもの、アウェリェ(私のドリーミング)、アーラチ(細長のヤムイモ)、アンカールタ(トゲトカゲ)、ヌタイン(草の種)、ティング(ドリームタイムの子犬)、アンケレ(エミュー)、インテクウェ(エミューが好んで食べる草)、アニュールラ(緑豆)、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」
――エミリーへの一九九〇年のインタビュー(『カ タログ』)
(引用注)あえて指摘しておけば、「エミュー」とはオーストラリアに生息するダチョウに似た鳥のことで、アボリジニとは伝統的に縁が深い。インタビューはアボリジニの一部族語(アンマチャリー語)を英語に翻訳したものである。また自分の作品について終始寡黙であった作家の唯一と言っていい生の「声」であるという。言語的条件に加えて読み書きができなかったことによる制約も関係しているのだろうが、「Ⅲ」で後述するように彼女の「作家精神」は我々の常識では量れない領域を遊動していた。むしろ寡黙なのは自然な在り様と理解すべきである。
3 「ドット」の進化については、『カタログ』中井論文(〇七〇―〇七一頁)に詳しい。
絵画手段B 「カラー」は、「ドット」と併行状態で推移するが、絵画年譜のとおり重複期間を見ると、「ドット」の後半からである。すでに開始時期とは一線を画した点描のなかに色彩が採りこまれる時期である。やがて「カラー」は、点描の色彩を介して絵画手段となり、「ドット」との併行制作のなかで互いを高め合っていく。上記、「三者による同時進行」はその具体例である。
「カラー」(絵画手段B)が主題の「ドリーミング」に新たなイメージを喚起する。鮮烈な配色感による「色彩主義」の開始である。一期の「ドット」は、自らを高める傍らで「カラー」が創生する自由奔放なる色彩フォルムの色素として再定着し、同時に色彩が創るフォルム間の連動や連携を助ける。「カラー」の大胆にして強烈な使い分けとそれによって生み出された色彩フォルムが、「色彩主義」の画面全体に横溢し、さらなるエネルギーの放出を生み出していく。その奔放性は、やがて一人の画家の色彩感覚に還流し、個人の営為を超えた、始原的な色知覚の始動状況を窺わせながら我々を釘づけにする。
生存環境や地理的環境を異にしていると言え、同時代の地球に生きる同じ一人の個人としてそうは容易く保ちえない、保持しようもない色彩感覚である。しかも学ぶべくもなく、我々としては彼女が創造した「光学」的宇宙を当て所なく浮遊し続けるしかない。
「モニュメンタルな作品」とされる《アルハルクラ》(C―7、一九九三年・図7)は、二二点からなる連作である。各90.0×120.0㎝は全体で270.0×840.0㎝の大きさを誇る(ただし字余りのように一点は脇に残される)。しかし「カラー」が延べる空間の広がりは、そのスケールをさらに超えている。作品解説では二二点を「視覚的な歌曲集」と呼ぶ。「自然と霊的な力の詩歌が詠いあげられている」と綴る。自然を叙情的に歌うシューベルトの歌曲集も、どのドイツ・リートも、エミリーの歌曲集に付ける音符の高さを五線譜に見出し得ない。喩えればエミリーの「色彩主義」は、絵画的一二音技法ながら、極限性に向かう二〇世紀(前半の)音楽の世界に対して、エミリーの「カラー」が連作する「歌曲集」は、極限と無限のハーモニー(倍音)である。「色彩主義」とスケール感が結びついた絵画空間は、経験知で了知する範囲を逸脱している。
一方、「章解説」によれば、「カラー」は制作過程で考えだされたものではなく、画家が見たままのものだと言う。曰く、「色の選択は、彼女の感情によるものではなく、季節の移り変わりによっても変化し、エミリーが『緑の季節』と呼んだ雨季のあとには緑色が用いられ、野生の花が砂漠を覆う季節には黄色の色面があらわれる」と。雨季の後の緑色とは、《大地の創造》(C―9、一九九四年・図8)の大作(四点、各275.0×160.0㎝)のことである(因みにオークションで一〇〇万オーストラリアドルを超える落札記録を作ったという)。緑色は色として知っている。しかし緑色が創る真実までは知らない。そういう絵画領域である。
絵画手段C そして二期から画面を一変させた三期の前に立たされる。形の上では「ドット」(とそのフォルム化)から「ストライプ」への転換である。基本となる最小単位はラインであるが、点描が創る線とは一線を画す。「ストライプ」は、「ドット」と同様に彼女が帰属する部族社会で執り行なわれる儀礼行為に伴う文様(ボディ・ペインティング)であるが、「ドット」から「ストライプ」への転換は、単なる伝統的文様の取り換えを意味するものではない。しかも一・二期が截然と区切れない併行的な制作期間であったのに対して、三期と二期との間には比較的明瞭な前後関係が見出せる点も、それ以前とは異なる三期の在り方とその特徴であり、三期を成り立たせている「絵画手段」としての独自性ともなっている。
しかし画期とは言え、いささか腑に落ちない点がある。「色彩主義」に行き詰ったとは思えないからである。この疑問には「年譜」が答えてくれる。「色彩主義」までの一連のスケール感の追及は、その一方でスケール感に引けを取らない色面的克服を中核とした画面造りを画家に課した。これが理由だった。大カンヴァス上での点描は、八〇歳を超えその前半を迎えた体に対して作業量の上からも無理を強いていたのである。その点、「ストライプ」は、同じスケール感のなかであっても、格段に制作にかかる時間の短縮と労力の軽減を画家の身体に齎してくれる。かくして白と黒のストライプ絵画が、一九九四年の一年を通じて描き続けられることになる。作品のスケールも一回り以上縮小し、五〇㎝以下の小品も数多く制作されるようになる。
しかし堪え切れなかったかのように再び作品は規模を拡大していく。齢に抗うような内発的な衝き動かしであった。エミリーの体内には、ア・プリオリに原型となるスケール感が宿っていたに違いない。
規模の縮小を招いた作品であっても、より大きな作品を構成する一単位としてステンドグラスや壁面パネルの一枚のようにして描き続けられる。そうした一作品に六点からなる《無題(アウェリェ)》(B―1、一九九四年・図9)がある。一点の大きさは190.0×56.7㎝であるが、横六列に連なるパネル状の作品であるから、結果として190.0×340.2㎝になる。連作的な複数構成による作品は、一期から認められるが、三期では組み合せがむしろ中核的手法になって、「ストライプ」の世界が強力に押し進められる。とくにパネル作品は、「ユートピア・パネル」として没年(一九九六年)まで制作されることになる。この場合、実にパネル数(連作数)は一八点を数える。亡くなる年とは思えない〝力技〟である。
ただし一点の大きさは、制作委託側(クイーンズランド州立美術館)で予め決めたものである。描き易いように、座ったまま手の届く範囲をその大きさとして求めたものだという。とは言え、調整者の一人は、日本エミリー展を監修したマーゴ・ニール女史であり、スケール感を必要としたエミリーの絵画の本質を最もよく理解していた人物(先住民文化研究者兼キュレター)であった。自身にもアボリジニの血が流れているという。いずれにしても自分を取り巻く外界をスケール感として体内に取り込むのは、「ドリーミング」と交感し続けるための条件であった。調整作品にもそれがよく表れている。
絵画手段D 一年を「ストライプ」で経過した翌年の一九九五年は(別にストライプ画の変容としてグリット画も描かれたが)、もう一つの手段である「カーブ」(「絵画手段D」)によって果敢に推し進められ、「ストライプ」との併行制作のなかで三期を形成することになる。しかも連作ではなく、単独での大作化が実現されていくことになる。『カタログ』で「ヤムイモ」(Y)としてシリーズ化した一群である。
白黒の「ストライプ」は、今や果てしなく続く一本の地下の根茎となって、地中の闇世界を自ら絡まり合い錯綜し合いながら、勢いの余り自己増殖の果てに出口も見失ってしまう。かくして生み出された一作が、《ビック・ヤム・ドリーミング》(Y―11、291.1×801.8㎝・図10)の記念碑的大作である。地中の闇を表す大カンヴァスの黒地にヤムイモの根茎が白の「カーブ」に姿を変えて大画面上を走破する世界は、タイトルにあるように「ドリーミング」を白黒のモノトーンのなかに再生させたものである。数多くある代表作なかでも特別な一作である。
八mの超大形の絵を八五歳(亡くなる一年前)の画家はわずか二日間で描き上げた(ただし下塗は二人の助手による。要した日数は同じく二日間)。迷いは一切ない。与えられていたイメージだからである。あとは絵筆を握り滞りなく描くだけである。それも両利きで(アボリジニには両利きが多いという)。
まるで一つの畑を来る日も来る日も耕し続ける農作業に似て、彼女はカンヴァスの前にいる。胡坐状態で。イーゼルは一切使わなかったからである。そして農民が高望みしないように、アルハルクラとともにあることが全てである彼女も、在ること以上のものを求めない。ただ作物の成熟を願って鍬を握るように絵筆を手に握り締める。それに彼女は特別なアトリエを持たなかった。日除けのあるトタン屋根の下や地面の上で多くの作品を描き続けた。展覧会会場で流されていた制作風景のビデオのなかの画家は、まるでペンキを塗っている看板職人のように芸術に対して無頓着だった。
再びカンヴァスにヤムイモの生育を祈る。土地の生命を嗅ぎ取る。地下と繋がる大地を踏みしめ、足裏で地下と繋がる。根茎が無限であるゆえに絵筆の動きも無限になる。そして、問われればそう答える。「それが私の描くもの、すべてのもの」――それだけだった。しかし全てだった。彼女によって我々へ送り届けられた、なにものにも代えがたい贈り物の「動機」であった。それだけ? と相変らず思うのは我々だけである。
絵画手段E やがて想いは地下を出でて地表に向かい、地中に居ては気がつかなかった地表の気圧の異変に騒ぎ立つような激しい筆遣いにとって変わっていく。嵐だろうか、地上の野草が強風に激しく靡いては擦れ合っている。そのままに引かれた荒だったタッチである。同じ線でも直前までの線(「カーブ」)とは一線を画したこれまでにない鋭い筆遣いである。「シャープ」とは、その鋭いタッチを感覚的に捉えた言い表し(即物的言い廻し)である。この新たな「絵画手段E」(「シャープ」)が、従来になく画家を激しく衝き動かす。彼女のなかに潜んでいた「アクション・ペインテイグ」の世界(図11)である。最晩年とは思えない猛々しさである。
色合いは、「色彩主義」を離れて二期とは相容れない彩色的過剰を抱えこむ。二期の色合いが創る静謐で夢幻的な広がりはない。『カタログ』は、「神聖な草」の章名を付ける。タッチや色相に馴染まない気がするが、「神聖の草」とはエミリー自身が時にそう呼んでいた言葉であるという。画家に準じた章名である。しかし「章解説」は、必ずしも「神聖」を説くものではない。こう綴られる。「エミリー自身が時に『神聖な草』と呼んだこれらのアクション・ペインティングは、彼女の年齢に似つかわしくないほどのスピード感とエネルギーに満ち溢れている。ここでは、もつれ合う擦れた線の魂が、時に薄く、時に分厚く、殴り描きされたように画面を覆っている」と。
かりに地下系とは異なる地上系の別な神聖であるにしても、地上の強風に成す術もなく靡く野草の、翻弄される細く鋭い先端の叫びと思いを共有するかのように、荒く粗い線を画家に引かせた。まさしく「線の魂」に引きずられるままに。捉え切れないものをそのままに描く。方角も定まらない。未定に衝き動かされて再び未定に立ち戻る。まさしく殴り書きである。「絵画手段E」は、はたして画家の「影」であったのか。反作用としての「シャープ」であったのか。
それにしては色遣いが強烈すぎる。生命がカンヴァスに姿を変えている。想いを達するための色ではない。立ち向かうための色である。「世界」を表すことと一体化していた「色彩主義」の対極にある色と色合いである。沈みこむ気配などどこにもない。やはり「影」などでは説明がつかない。彼女のなかの「二面」にたじろぐばかりである。
絵画手段F その年(一九九六年)の亡くなる二週間前に三日間で一気に描かれたという二四点からなる「ラスト・シリーズ」は、同じ年の荒立った鋭い筆(「絵画手段E」)とは対照的な幅広の刷毛と刷毛目(「ブラッシュ」)によって生み出される。「絵画手段E」であってもそれまでは手段化に先行するものがあった。「絵画手段F」にはない。それが生み出される予感を封じこめている。僻んだ言い方をすれば、画家自身だって怪しい。見込んでいたとは俄かに信じがたい。しかしここでも即結果に変えられてしまう。同じである。違うのは再現性の過程である。見込みとは違う形で齎されたものである。
あらためて「絵画手段E」が問われる。同手段が既存との間で対極性を胚胎していたように、「絵画手段F」もなにかを胚胎している。ただし対極性ではない。超えるものである。超越性である。ではそれが所謂死というものだろうか。死を目前にしたエミリーの描くアルハルクラとの新たな再会。作品のタイトルも《私の故郷》と《無題(アルハルクラ)》(図12)の二題で占められている。
夢幻的な間合いを幅広の「ブラッシュ・ストローク」による刷毛目効果によって一面の色面世界に差し替えたもの。あるいは「超えるもの」をもって再びはじまりに還ろうとするもの。色見本のように目まぐるしく繰り出される作品間の色絵の世界。繋がり。浮かび上がる色面のなかの透明感。引き伸ばされた絵具の悦び。遠ざかる対極性の残影、等々。
いずれにしてもこのようにしてあらたな創造へと歩み出された姿は、まさしく「私の始まりには私の終わりがある……/私の終わりには私の始まりがある」4(T・S・エリオット)の一節が相応しい。自らが循環となってその生涯を閉じる。死の二週間前に演じられた自分のための絵画ドラマであった。
4 この一節はエミリーを語る際によく引用されるという。監修者のマーゴ・ニール女史は、日本向けに書き起こされた意欲的な『カタログ』掲載評論(「意味のしるし――エミリー・カーメ・ウングワレーという天才」)の「継続するの」の項なかで、「初期のバティックから晩年の作品まで一貫したつながり」をもつその絵画芸術に対してこの一節を引用した。そして、別の頁では連作二四点中で一点だけ趣の異なる作品(L―5、「無題(アルハルクラ」、一九九六年)に注目した。白色に白の刷毛目を塗り重ねた作品である。『白の上の白』(カジミール・マレーヴィチ、一九一八年)を引いて、エミリーが辿り着いた境地(「新たな始まり」)を説いた。「白の上の白」もまた、「私の始まりには私の終わりがある」あるいは、「私の終わりには始まりがある」の一節の、別の表現だったのかもしれない。
Ⅲ 反芸術としてのエミリーの絵画芸術
制作の苦悩 エミリーの作品とその変遷を概観して、あらためて彼女の存在そのものが、芸術一般から大きく逸脱していることを痛感しないわけにはいかない。奇異でさえある。それは彼女の「年譜」(生涯年譜)が物語るように画家として歩んだ晩年の八年間が、そのための美術教育と一切縁がなかったこと以上に、芸術的創造の一般論と縁がなかったことである。とりわけ芸術につきものの制作の苦悩(創作的苦悩)が介入していない点、厳密に言えば見出せない点である。
八年という歳月を大方の画家たちは一般的にどのように過すのだろうか。オリジナリティーを確立していれば、同じ画風を繰り返していたとしても、安易なコピーでなければとやかく言われない。それどころか画風の深化と読み替えてもらえるかもしれない。あらためて固有の芸術と讃えられて、画風を堅持してもらいたいものだと期待される。八年程度とは一家を成したような大家や、あるいは中堅作家にとっても画期を生み出さなくても許容される歳月、むしろ拘り続けるべき時間幅である。
しかし、観て来たようにエミリーの絵画芸術は、八年間に五期を生み、その前提となる「絵画手段」はA~Fの六手段を数える。読み書きの世界の外で生きていたエミリーには日記も制作ノートもない。生活自体が画家の「心」を特記する環境下にない。美術評論家にとっては厄介な存在になることであろう。言うまでもなく評論家は画家の内面世界に関わろうとするからである。内面世界なしに作品は生れないし、人間としての内的営為なしには内面世界は生成されない。批評の前提であり必要条件でもある。この当たり前の事実がいま大きく揺らごうとしている。それがエミリーの絵画芸術であった。
エミリーには常識の網は被せられないし、こうであらねばならぬというような芸術的規範も用をなさない。したがって批評は成り立たないのである。内面的葛藤を前提としない芸術を構想しなければならないからである。批評はたちまち自己矛盾に転化してしまう。
作品量がすべてを物語っている。次のように計算されるからである。「三六五日×八年=二九二〇日 → 三〇〇〇点÷二九二〇日→一点以上/日」。実に日に一点以上である。四〇〇〇点だと一体どうなってしまうのか。しかも大作である(ただし助手がいたようである)。一人の画家が辿った過程としては、作品量とともに生涯を絵画に捧げた人と遜色のない内容である。それ以上かもしれない。八年間でそれを成し遂げた画家に対して、しかも体力的にも衰えを見せはじめていた人生の晩年で開始された絵画に対して、我々はどのように向かい合えばよいのか。客観的事実(数字)が物語るのは、制作過程に伴う「苦悩」(挫折感を含む)も介在しない、介在する余地もない創作行為であったこと。それが真実であろう。
作品の発表 次の疑念は作品発表についてである。我々は、かりに自分がクリエーターであったとすれば、自分の作品を公表したいと考える。死後は焼却してもらいたいと託した場合でも同じである。発表の別の在り方でしかない。逆にもっとも強く束縛されていたとも言える。発表という行為は、創造という行為の別の姿でありそれ自体が創造である。それ故に時には否定的発表という究極的選択にもなる。しかるに「年譜」による限り、エミリーが自ら進んで発表した形跡は見当たらないし、内的規制を受けていた気配もない。
『カタログ』では「展覧会歴
| Exhibition」としてその全体を巻末に掲げているので、多くの個展(「Solo exhibition」)やアボリジニ・アートとしてのグループ展(「Group exhibition」)が開催されていることを確認することができるが、「年譜」や本文と読み合わせる限り、その目的は、彼女たちの「美術市場での地位の向上」を企図した周囲(アート・ディレクターやコレクターなど)による企画であったことが分かる。それをも発表の範疇としたとしても、彼女が「個展」や「グループ展」のために果敢に作品を制作し出品に応じたのは、それによって得られる収益が、コミュニティーの生活に寄与していたからである。エミリーは、「年長者」というアボリジニ社会で大きな意味を有する立場に置かれていた。
話は一九九二年のことである。エミリーは年齢的なこともあって、絵画制作の中止を宣言することになる。その折のことを「年譜」は次のように綴る。「既に八〇歳を過ぎたエミリーは、作品制作から引退し、自らが負っていた役割を家族に引き継いでもらいたいと宣言した。しかし、コミュニティーの経済的な期待を一身に受け、市場からの要求も増える一方であったエミリーにとって、絵画制作の中止はもはや不可能であった」と。彼女の「立場」を伝えるエピソードであるが、「発表」以前の姿を垣間見せる内容でもある。
それに個展が開催されたからと言え、エミリーが個展会場に待機していたかと言えば、最初の個展(一九九〇年)を含めて「年譜」上にはその形跡は見当たらない。待機はおろか画家本人が顔を出したことも一度もない。日本で言う「個展」ではなく本人不在を前提とする「作品展」であったようで、事実、エミリーが故郷の砂漠(ノーザン・テリトリー)を離れたのは、生涯で都合二回を数えるに過ぎない。
一回が一九九〇年の西オーストラリア州の州都パースで、目的は自分たち(アボリジニ・アーティスト)の絵画展(「CAAMA/Utopia artist in residence project」1989-90、パース現代美術館)をグループの仲間と観るため、一回が一九九二年の首都キャンベラで、権威ある美術賞を先住民アーティストとして初めて受けるためで、その授賞式(授与者は時の首相)への出席によるものである。授賞式の序に自作を展示している二か所の美術館(オーストラリア国立美術館、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館)を訪れが、浮かんでくるのは、遠路はるばるやって来たのだからという、「田舎のおばあちゃん」の都会見物を思わせるような情景でしかない。
美術の在り方 そこでエミリーと美術の在り方が再度問われる。制作上の挫折ではなく、年齢上の身体的条件が制作中断を容易に選択させかつ宣言にまで及ばせる。そのなかの「自らが負っていた役割を家族に引き継いでもらいたい」というくだり。まるで時期が来たから家督を譲るとでもいうような(軽い)発言である。一つの「役割」程度にしか考えていなかったということであったと受け止める時、すべての事態が判明する。
養女バーバラは、エミリーの影響で画家として活躍するようになる。一九九〇年代中頃のことである。バーバラに絵画制作の「役割」を引き継いでもらい、自分は引退すると言っている、そう読みとれるのである。一言、「もういいでしょう」、これが彼女の本音であったとすれば(ただしここにはアボリジニ社会における「集団財産」(絵画技術を含む)とその管理にかかる慣習的問題も考慮に入れておくべきかもしれないが5)、ここに創作的苦悩があるわけでも、また作品発表の内的衝動があるわけでもない。オーストラリアの現代アートを代表するだけでなく、二〇世紀末の世界の美術史に重要な位置を占め、今後さらに評価が高まると見込まれる大画家の、これが実態(素顔)だったのである。読み違えていたとしてもなお垣間見える〝本音〟である。
彼女の在り方自体が、既に美術史に対する決定的な否定であった。展示担当者である二館(国立新美術館、国立国際美術館)の関係者(研究員・学芸員)も、エミリー展の企画を通じて同じ思いの中に立たされる。「エミリーの作品に、西洋美術の伝統と無縁であることの自由さ、苦悶する孤独な画家とは異なる大らかさを発見したとき、われわれは美術とは何か、絵を描くとは何か、と問わずにはいられない」(西野華子「描かれた夢と大地」『カタログ』)、あるいは「普遍的な絵画の論理を考察するための重要な作家として学ばれるためにも、カタログ・レソネの作成など基礎的な研究が必要とされるであろう」(中井康之「ドリーミングという名の絵画」『同』)と、述懐するように記すのであった。
さらに展覧会の責任者の一人である建畠 誓(国立国際美術館長(当時))は、エミリーを展示すること自体を自問し、「考えてみれば、エミリーの作品を展覧会という文化装置によって紹介しようというプロジェクト自体が近代主義的なものである」(同氏「インポッシブル・モダニスト」『同』)と根本的課題に向かい合っている。たしか上掲「日曜美術館」のなかでも同様の趣旨の発言がなさていたように記憶している。
展覧会関係者をして「美術とは何か、絵を描くとは何か」、「普遍的な絵画の論理」とは何か、ないしは彼女を展示することとは何か、と問わしむるその前で我々は何を思うことになるのか。以下に取上げる「ラスコーの洞窟壁画」は、その疑念を前にして取上げるものであるが、同洞窟壁画は、絵画論の上だけでなく、エミリーの絵画芸術の在り方を理解する上でも有益である。
5 アボリジニ美術を体系的に論じたハワード・モーフィの著作(ハワード
二〇〇三)の序文中に次の一節がある。「オーストラリアの多くの地域において、美術はそれぞれの集団の財産であり、絵画と言った美術作品の制作権は注意深く保護されている」(「序」)。詳しくは本文中の「美術にみる親族関係」で論じられている。なお、ここで言われている「美術」「絵画」は、伝統的な「樹皮画」などで描かれたもの及びその延長にあるものである。中央オーストラリアのアボリジニ美術の動きは、「転換 中央オーストラリアの現代美術」の章で扱われている。しかし、「樹皮画」のもつ制作態度は非西洋絵画的であり、よりエミリーのそれに近い。
Ⅳ ラスコーの壁画とヨーロッパの知性
ラスコーの発見 ある日、その絵(壁画)は偶然に発見された。洞窟に迷い込んだ犬を追っていた村の少年たちによってである。一九四〇年九月一二日のことである。場所はフランス西南部ボルドーニュ県のヴェゼール渓谷のモンティニャック村近郊である(図13)。洞窟の名はラスコーである。
同渓谷にはラスコー洞窟遺跡以下、多数の旧石器時代の遺跡群(装飾洞窟壁画遺跡を含む)が点在し、「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」として一九七九年にユネスコの世界遺産に登録されている。遺跡群が形成されたのは、狩猟対象の動物が多数棲息し移動を繰り返す谷だったからである。旧石器時代人は、渓谷の岩陰を狩猟生活の基盤とし、洞穴を精神世界の拠点とした。そして描かれたのが洞窟壁画である。ラスコーの洞窟壁画は約一五〇〇〇年前であるが、旧石器時代の洞窟絵画の始原はさらに遡る。同じフランスの南部アルデシュ県で発見された三二〇〇〇年前とされる洞窟壁画(ショーヴェ洞窟壁画)である6。
ラスコー洞窟壁画(以下「ラスコーの壁画」あるいは単に「ラスコー」とのみ言う場合もある)に言及するのは、洞窟の醸し出す異次元的な時空間のなかで、洞窟の壁や天井が造る自在な岩の凹凸と一体となった洞窟壁画が、芸術の域に達し、その悠久の芸術性は教会壁画をも超えるとされるからである(図15)。ラスコーの壁画は、それが存在していることだけで絵画に限らない芸術一般に対するアンチ・テーゼとして作用することになる。先史時代絵画であること、つまり芸術の発生以前であるはずだったからである。芸術であった場合、「画家」のもつ無名性も問題になる。反芸術的だからである。このようにラスコーは、西欧に在りながらも(否それ故になお)西欧文明に対する挑戦となることになった。
6 なお、世界最古の洞窟壁画に関しては、最近、新しい年代測定法によってスペイン北部の洞窟壁画が四万年を遡る結果が得られたと報じられている。またアルタミラの年代も大幅に引き上げられた模様である(ニュース・ソースは二〇一二年六月一五日発行の「Science」誌)。
ジュルジュ・バタイユの芸術観 その挑戦を我が事として受け止めたのが、二〇世紀フランスを代表する大思想家(文学者)のジュルジュ・バタイユである。その著作が『ラスコーの壁画』(出口裕弘訳、二見書房、一九七五年。なお原題は『先史時代絵画、ラスコーあるいは芸術の誕生』でシリーズ「絵画の大世紀」第一巻として一九五五年に刊行)である。バタイユは原題からも窺えるようにラスコーに対して芸術至上主義的である。手放しに芸術性の高さと奇跡を讃えることも厭わない。たとえばその件を任意に拾えば、「『ラスコー人』は、精神と精神との交感が始まるあの芸術の世界を無から創り出したのである」(同書一八頁)とか、「画類の比類ない美と、その美が私たちに惹き起す共感の念は、私たちを胸苦しい判断停止の状態にゆだねるのである」(二五頁)とかラスコーに起因する芸術の絶対性を寿いで止まない。
勢いは止まらない。たとえば、「洞穴の薄暗がりのなかで、ランプに照らされた教会内部程度の光を受けながら、つい一瞬前まで存在しなかったものを創出することによって、彼(「ラスコー人」・引用注)はそのときまで存在していたものを超えるに至ったのである」(五九頁)とか、「ラスコーの壁画が洞窟の奥でそのこと(芸術の誕生のこと・同注)を告げている。つねに自分を超え、死と誕生との戯れの中で、はじめて完全なものとなる『生』を、一面に溢れきらめかせているあのラスコーの画像がである」(九三頁)とかラスコーの壁画に芸術的な超越性を付与して止まない。
バタイユがラスコーの壁画を取り上げるのは、直接的には芸術の誕生を自身の芸術論(芸術こそ人間)として確かめたいからである。一五〇〇〇年前に遡る芸術は、文句なしに彼の芸術至上主義の「生きた証人」であった。それだけに自分でなければラスコーの意義を人類と芸術の問題として解き明かせないと自負する。問題は「人類」に対する認識態度である。あるいは過度とも言うべき文学的修辞である。先史学者や文化人類学者(著作中の「社会学者」)に対する宣言書(真の理解者は私だという)を兼ねていたとしても、ラスコーの壁画の描き手に対して彼が想起する「画家」像は著しく偏ったものである。「ラスコー人」と呼ぶこと自体に先入観が植え付けられていることを窺い知ることができる。とりわけ「社会学者」の方法論(比較解釈論)によるラスコーの理解に対する批判的態度は、一貫して彼の偏見を頑ななものにしている。
たとえば「未開人」との対比の件――物質文化や呪術、仮面舞踏それらを介した「未開の心性」と「ラスコー人」の「比較解釈法」による共通点を、自身としてもかつては是認したこともあると打ち明けるが、それは「根源的な過誤」であると言い直し、一端過誤であることに気付くと、今度は一気に立場を反転させることになる。そしてこう唱えるのである。「私たちは、現代における未発達の人間たちのイメージからラスコー人を想像することはできない。それどころか私たちは、ラスコーの芸術は『未開』芸術とは似ても似つかぬものだとさえいうべきなのだ。(中略)なによりもラスコー人は、どんなに現代のポリネシア人に近い存在と見えたとしても、実はそのポリネシア人とはまるで違った人間、不安に充ち、錯雑をきわめるような未来を重く背負いこんだ人間であったのだ」(五七頁)と。修正の利かなくなった偏見は、さらに「人間」から遠く置かれるべき未開人観を打ち上げる。
すなわち、「現代の未開人たちは、再現のない成熟を経た上で、なお、私たちの水準よりも原初の水準の方に近いのである。彼らは、なんらかの新事態が発生するまでは、もはや何ものをも創り出さず、記憶の及ぶかぎり彼らの生を乗せつづけてきた同じ轍のなかに、無抵抗で嵌りこんでゆく運命にある」(五八頁)と。これは著作の全篇に通底する未開人観である。しかも、「ラスコー人」を「現代人」(西洋人)に近い人、それ故に「芸術」を知ることのできる「人」とするための対立概念として抱えこまれるのである。そうした一連の逆説的言辞の修辞効果をさらに高めるために、挙げ句の果てに口を衝いて出た一言――「ネアンデルタール人は、確実に、もっとも未開なオーストラリア人種よりも私たちから遠い」にまで「偏見」は深められる。
この「遠い」とは「芸術」から遠いという意味である。すなわち「芸術」を生み出す能力に欠けていた(と理解していた)ネアンデルタール人を強調するのに「もっとも未開なオーストラリア人種」が引き合いに出されたのである。いうまでもなくアボリジニのことである。そしてこれが彼の芸術観であり芸術至上主義の内訳であった。芸術のための芸術と言えば聞こえが好いが、エミリー・カーメ・ウングワレーを知らない「芸術至上主義」である。バタイユの人生があと五〇年ずれていたなら、彼は自ら出版を差し止めるか、根本からラスコー絵画論を書き改めることになっただろう。言い換えれば、二〇世紀(西欧文明下での)の最高位を占める一つの知性と感性に対して、一人の「もっとも未開なオーストラリア人種」は、ただ存在するだけでその全面的な否定を一瞬の内に果たしてまったことになる。
Ⅴ 「ラスコーの壁画」の芸術論
バタイユの「ラスコーの壁画」観 エミリーの絵画は、バタイユが前提とした芸術論を即座に否定する上において、バタイユが「自分のもの」と考えていた以上にラスコーの洞窟壁画にはるかに近いのである。しかし、なお我々はバタイユの側に止まる。エミリーを知らなかったら、バタイユの芸術論を抜けだせていたかも疑問である。彼の魅惑的な修辞法に「芸術」を感じ、彼が受けたようにラスコーの壁画に「人間」を直感する。直視もする。かりに自らの不明を知っていても一部でしかなかったら、彼の未開人観とは立場を異にしたとしても、彼の芸術論を在り方として否定的に問い直すところまでには至らなかったにちがいない。したがって絵画芸術の根源的世界を前にして、エミリーの絵画の在り方を問うなかに、自己否定的な思いを自らの手で招き入れることにはならなかっただろう。
ところで、バタイユがラスコーの壁画を「自分のもの」としえたのは、あるいはすべきだとしたのは、「先史人にそんな凄い絵が描けるわけがない」という世界の知(芸術を伴う)を我が手にしていた西洋人の先入観を、ラスコーの壁画がいとも簡単に覆してしまったからである。しかも生半可ではなかったこと、ハンディが要らないどころか、逆に「現存する最大の画家の言葉を借りていえば、以後、それを凌ぐようなものを誰ひとりとして創りえていない唯一の壁画」(一一頁)と引用せずにはいられない域に達していたこと。すなわち、全てが予定外であり、予告もなく立ち現れてしまったことが、その反証を必要としたことから彼におのずから立ち位置(「ラスコー人」の隣人である立ち位置)を選び取らせてしまったのであった。
おそらくバタイユがラスコーから受けた衝撃の大きさは、常備しておくべき客観的態度から彼を解放するに余りあるものだったにちがいない。自分を取り戻す必要からも彼は、ラスコーの壁画を「自分のもの」にしなければならなかった。芸術至上主義は言わばそのための仲立ちであった。しかし、「自分のもの」にするということは、「繋がっている」ことでもあるから、糸の張りを強めるために、時にはマイナス面にも目を向けなければならない批判的精神の緊張の糸を逆に緩めてしまうことになる。挙句、「それを凌ぐようなものを誰ひとりとして創りえていない」を、本来なら壁面が創り出す全体観(全体画)のなかに限定しなければならないのに、個別画が輝き放つ描写力の卓越性と岩の凹凸を生かした壁面の使い方(構成感)に目を奪われて個別画にまで押し広げてしまうことになる。
たしかに、「中国の馬」(図16)と呼ばれる絵(個別画)から放たれる貴嬪ある優雅さや、疾走する牛(図17)、牡牛・牝牛、野牛の躍動感、あるいは槍で体を貫かれた野牛の全身に漲る恐怖心(図18)には、構成感だけではなく、岩壁との間でつくる対照的な配色感の妙もあり、並はずれた描写力を観てとることができる。しかし同時にそれが、「それを凌ぐようなものを誰ひとりとして創りえていない」にまでなるのには、やはり「画家」が先史時代の人間(人類)であったという、あってはならない(はずであった)事態の現出を抜きにしては考えられない。考えたくないからバタイユは過度に言辞を吐くことになった、というのが実際のところだろう。
洞窟の「画家」 彼は終に「ラスコー人」を以って壁画作者の名前(「固有名詞」)とした。いよいよ画家論の展開である。躊躇いなく天才画家を以ってすることになる。しかし壁画には随所に前後関係を認めらなければならない。新しい絵と古い絵が重なっているのである。しかも臆することなく古い絵の上に新しい絵を描いているのである。天才画家は一人ではなかったことになる。天才の後にまた別な天才がいたのである。この事態に如何に応ずるべきか。天才がそんな簡単に何人もいては敵わないからである。そこで同一人の前後関係であるとする。そうすれば天才は一人で済む。
しかしながら、個人で成し遂げるには対象となった洞窟は、広すぎるし長すぎる。「主洞」だけでも間口一〇m×奥行三〇mを測る上に、主洞以上の奥行がある「軸状奥洞」と主洞から枝別れた「身廊」が付け加わるからである。しかも所狭しと壁面は動物画で埋めつくされ、場所によっては両側壁だけでなく天上をもカンヴァスとしているのである。その数は二〇〇単位以上である(『ラスコーの壁画』巻末「見取図」による(図19))。規模も小さくない。大きい絵(個別画)では五mを上回るものもある。一人で成しえる規模を超えている。先史絵画の研究によれば、ラスコーの洞窟絵画は、絵画技法の相違により四時期から成ると考えられているようである7。やはり「天才」は複数いたのである。驚愕すべきことである。
ただし、ここでバタイユに倣って「天才」としたのは、バタイユの滾る思いに沿わせたからであるにしても、意図からすれば逆説的用法である。相当程度の技量をもった「画家」(たち)であることに疑いの余地はないが、ひとまず「驚愕」に一歩距離を置いて、描写力をより高いレベルにある表現力の観点から再評価すると、はたして「天才」で押し通してよいか疑問となる。個別絵に関する限り、秀作であっても描写力に敬意を表する範囲である。反感を買いかねないが、「天才画」とはしえないからである。この際、一五〇〇〇年前には目を瞑るべきである。ラスコーの壁画の真価を正しく知るためにでもある。
7 その四期の変遷は、古い方から輪郭画と単色画(一期)、二色画(二期)、多彩画(三期)、線刻画(四期)の順とされる(木村 一九七一)。
壁画芸術 やはりラスコーの壁画の芸術的範囲は、大画家の口を衝いて出た述懐のとおりなのである。「以後、それを凌ぐようなものを誰ひとりとして創りえていない」芸術作品であったとしても、あくまでも画家がそう限定したように「壁画」ジャンルにおいてである。個別画ではなく個別画の集積として創り上げられた、しかも意図してではなく累積として成立した「結果的な芸術性」とも言うべきなかにおいてである。重要なのは、壁画が洞窟壁画であったこと、闇のなかで生成されていること、日常生活と一線を画した時空間が意図的に選択されていたことが追加条件となって、結果として表現力に高められていた点である。個別画もその集積である単位画も時代的な累積画も、さらには表現性の獲得に一役買っている岩の凹凸や地色もすべて一つに繋がるのは、この「条件」によってであり、その意味でもラスコーの壁画とは「条件」が創った芸術なのである。
ただし忘れてならないのは、累積性の前に立つのは同時代人であるより我々であることである。しかも我々は洞窟を「外」で見ていることである。「外」で見るとは、制作時の同時代的意味から自由であることである。あるいは主語を逆転させていることである。まさしく「結果的な芸術性」の所以である。
ためしに個別画を白昼のもとに連れ出してみよう。いきなりでは強烈な陽の光に眼が眩んでしまう。まずは岩陰にしてみよう。一点だけではなく単位画を一画ごと転移させてみよう。それでもなお素晴らしいと驚嘆の声が湧きあがるかもしれない。おそらくそうなるであろう。しかしバタイユの場合はどうであろう、同じような著作を生み出すことになっただろうか。残してもエッセイの一、二本に過ぎなかったのではなかろうか。外界に転移させたことで何かが失われてしまう。何であるのか、言うまでもなく表現力である。明るくなったことで、表現力が失せてしまうのである。一方でより細かく観察できることで、描写力の技量はさらに高く評価されることになる。しかしこれは、先に「描写力を表現力として再評価すると」と言ったことを別に言い換えたにすぎない。
洞窟の闇 しかし「表現力」にはまだ問題が残る。洞窟を選び取ったことを表現力に組み込んでよいのではという問題である。選択性の評価である。
ラスコーは一種の野外芸術である。現代の目から見れば、野外(選択的野外)が作家の表現力の一つであることは言うまでもないことである。しかしラスコーの壁画の場合は、「画家」の表現力に手放しで組み入れられるかは疑問である。闇が待ち受けているからである。しかもこの場合、灯りは、以下ように「条件」とはならないのである。現代の野外芸術とは一線を画した「野外」であったと言わなければならない。
なぜ灯りが条件にならないのか、それは灯りの力に限度があるからである。カンヴァス(岩の壁・天井)を照らす灯り(照明)が、制作用でなく作品の観賞用となるかと言えば、強力な懐中電灯やヘッドライトでもなければ、ラスコー洞窟内の灯り(遺存していた多数の「石製油差し」による「灯り」)の届く範囲も、浮かび上げる時間もともに限定的であるからである。言い換えれば我々にとって芸術であったものも、「灯り」の下においてである。
「焚火であったのでは?」という見方があるかもしれないが、焚火では洞内に煙が充満してしまうことになりかねない8。いずれにしても制作時の手許を照らす範囲を超えて、どの程度の範囲を観ることの範囲として見込んでいたのかを考えると、観られることは最初から二次的範疇でしかなかったのではないかと疑われることになる。したがって他者の目に晒されることに対する制約を前提にして、その前提を積極的に受け容れながら、別な目的とその目的が達成する意味のなで求められた絵画の形式ではなかったのか、と想定されることになる9。
観られることを前提にしていないという点は、「上描き」が頻繁に行なわれていることからも追認できる。上描きは、下の絵(古い絵)がすでに「意味」から外に置かれた対象であったことを物語っているからである。近代の画家のカンヴァスの下には別の絵が隠されていることがある。しかしこれは、画家の制作過程の連続的な一環であって、見かけ上は上描きが下絵の否定の結果であるとしても、否定も肯定と同様に観られることのなかで惹起する裏と表の関係にすぎない。むしろラスコーの壁画の「上描き」は書誌学の「紙背文書」に近い。文書の裏の再利用である。表の文書は、紙背を再利用する書き手(書記)にとってはすでに「観る(読む)」対象ではなくなっているからである。
表現力は観られることを前提とし、闇は観られないことを前提とする。両者は対立関係にあるとまでは言わないにしても、表現力と闇は終始背中合わせの関係を保っている。闇に意味を見出す限り、あらためてラスコーの洞窟壁画は、近代絵画とは別の原理を生きる世界であったことが再認識される。しかし、見えないことに意味があるとはどのような芸術であるのか、あらためて関心が湧き上がることになる10。
8 上掲・木村重信が同書で(一五頁)、旧石器時代人が洞窟を居住空間として利用しなかった理由として煙の充満を挙げているのをラスコー洞穴に転用。
9 この辺りを現代人として実感した「闇」の体験談を読むと、この想定もより現実味を帯びてくる。繋ぎ合せの紹介になるが、一九九七年、フランス政府から許可の下りたラスコーを尋ねた愛知県美術館長(当時)市川政憲氏は、ラスコーの洞窟の闇を体験してこう綴る。「私たちは何を見たのだろうか。洞窟の闇の中で何を見ることができたのだろうか。(中略)すべてが渾然一体の闇の空間は、手燭のわずかの光の揺らぎに、ひと塊の生命体のように不気味に蠢き、身に迫ってくる。(中略)私がそこで見たものは、十分な光のもとで見られ、切り取られて私たちの手元に届けられた写真映像とは、全く別のものである、そのことだけは確かである」と(市川二〇〇六)。
10 まだ手にしていないが、最近になって意味ありげなタイトルの本が出版されている。ディビット・ルイス・ウィリアムズ/港千尋訳『洞窟のなかの心』講談社、二〇一二年八月。「心」といえばすでにスティーブン・ミズン『心の先史時代』(青土社、一九九八年)が「心のビックバン」を扱っている。日本人には意欲的な中沢新一がいる。
ラスコーとエミリー このように近代的な絵画芸術論の理解の範囲を超えているということは、ある意味で批評以前であることを示唆している。観ることは批評であるからである。批評以前の領域に属していることは、「観ること=批評」の等価交換も人間が「発見」したものにすぎないことを、観ること以前の世界を再評価すべきではないかを含めて教えようとしている。批評(観ること)から解かれた絵画芸術の定立である。
この観られない絵画という在り方が持つ反芸術的な絵画史的意義は、そのままエミリーの絵画における創作的な苦悩を伴わない絵画活動や即「芸術」に届いてしまう絵画行為のそれと呼応するものである。エミリー自身のなかにある自分の作品(展示作品)を観ない(と同時にどのように観られているかをあまり気に掛けない11)態度が再度思い起こされることになる。
批評以前への視角とは、あらためて芸術の在り方や人類と芸術の関係を問うことでもある。その時、エミリーは、「ラスコー人」である「画家」と一五〇〇〇年の人類史的時空を飛び越えてその問いかけのなかで居並ぶことになる。しかしその一方で、エミリー・カーメ・ウングワレーは、二〇世紀オーストラリア絵画の最高峰に位置する一人の画家であり、国を代表する立場にも置かれている12。制作の内容もポロック、カンディンスキー、ロスコ、デ・クーニング、スーラージュなどと比較される。エミリーの絵画が抱える抽象性が、彼女の預かり知らないところで(なぜなら彼女は画集というものを見たことがないから)、彼女を欧米の同系画家の列に加える。なるほど今ではバタイユとは距離を保って彼女のなかの異質性を弁えた上で議論される。半世紀経って「人間」はより賢明になった。
しかし、あくまで「人間」としてである。先住民の概念を用意するのも、エミリーの絵画を「部族絵画」から引き上げるのも、西欧文明が創った「人間」である。芸術の普遍性は、単独に真理として尊重されるべきである。エミリーの絵画も対象化されるべきである。しかし、芸術の普遍性も「人間」のなかで見出されたものである。バタイユもその一人とする「人間」の営為の「遺産」である。いまだに姿形を変えて特権的でさえある。それが「人間」の宿命(「原罪」)である。
彼女は、西欧文明から遠く離れたアボリジニ大陸(そのなかでも伝統的な生活が残されたノーザン・テリトリー)で超時間的な生命を人類として引き継いでいた、芸術的な人類(「芸術人類」)であった。したがってエミリーはラスコーの証明でもあり、ラスコーはエミリーの証明でもあった。奇跡ではなく証明である。
11 エミリーの作品はイーゼル上で製作されなかったために上下関係が不明である。展示する関係者(美術館のキュレーターなど)の判断に委ねていたという。このエピソードが、「批評」とエミリーの関係をよく物語っている。
12 一九九七年のヴェネツィア・ビエンナーレにオーストラリアを代表する作家の一人として出品されている。出品されたのは今回展示されたなかのストライプ作品(B―6~8、「無題(アウェリェ)、一九九六年))である。さらにマーゴ・ニール女史は、オーストラリアの枠を超えて「二〇世紀の主要な抽象画家の一人として称えられている」状況に触れている。因みに女史が引用した文献の表題は「'An accidental modernist?' Tributes Emily Kame
Kngwarray」である。
おわりに~「契機」としてのエミリー~
人類と芸術を問うことになったとしても、筆者の関心はいまだに些細である。エミリーがそのようにして絵を描いていたということを自分のなかに問いかけたいだけである。
ところで、そのエミリーは人を描かない。人物と呼び換えればより分かりやすい。人物画は描かないのである。描く必要がない。ラスコーと同じである。ラスコーの洞窟壁画も描かない。限定的に描かれていても、動物のように写実的には描かない。単なる線の組合せでしかない。たとえば野牛の前で倒れ込んだ男性である。狩りで倒れ込んだのである。絶命している。そう解釈されている。
ラスコーの壁画だけではなく、先史時代の洞窟壁画は、人(「人物像」)は描かない。描くようになったのは、中石器時代からである(上掲・木村書中「人物像と場面の出現」)。ピカソやマティスを驚かせたアフリカ彫刻の出発点になるような「身体が帯状に引きのばされた人物や線状人物」である。写実的に描かれることはない。アボリジニの岩絵(ロック・アート)も同じである。プリミティブ・アートとか部族芸術と括ってしまうと、それだけで分かったような気になってしまうが、なにかが違うのである。それがエミリーに結実している。
まるで脳の構造が違うかのようである。たとえば「右脳/左脳」が議論される。最近も読む機会があった(いわもと二〇一二)。アボリジニにも触れられていた。なるほどエミリーの絵画は、感性(右脳)だけで描いているような世界である。現実の生活でも左脳を必要としない。彼女が生きていたドリーミングの世界は左脳的でない。「脳機能」を言うのも比喩の範疇に過ぎないが、そもそもそうやって異なる思考に着目し、その深淵を覗きこんだ『野生の思考』『(レヴィ=ストロース、一九六二年)は、上記「人間」とは別な仕組みの思考を人類に見出そうとした。でもエミリーは別な思考も超えている。彼女が生み出す抽象性は、「野生の思考」だけでは捉え切れない。収まりきらないのである。
「知」(仮に左脳)は概念としての人類を発見した。しかし括弧付きの「人間」であるように「人類」からも括弧を取れない。取れても「知」のなかにおいてである。「知」の呪縛からは逃れられないのである。果たしてそうか? そうではないかもしれない。一見高度な「知」を必要としているかに見える抽象がエミリーのなかに生きていたからである。彼女と一体となっていた抽象(性)は、「知」以前を生きるものであった。抽象は「知」に先行していたのである。おそらくカオス(混沌)が見直されなければならないのであろう。抽象との境が、「知」の側からだけでなく、その対極からも問われる必要があるからである。再び「右脳/左脳」に戻せば、エミリーの抽象には両脳を超えたもう一つの脳概念が必要に思えてならない。
別に進化論ではなく進歩は人類の必然だと思っていた。「契機」を見出せるからである。人類が石を手にしたことは契機であった。契機が道具を生んだ。そのようにしてエミリーはアクリル絵具を手にした。まるで『二〇〇一年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック(一九六八年)/原作アーサー・C・クラーク)の猿人が、謎の石柱状の石板「モノリス」に手を触れて受けた衝撃によって、はじめて獣骨を道具として強く握りしめ、大地めがけて強く打ち下したように、絵筆を一気呵成にカンヴァスに押し付けたのである。「モノリス」とは何であったのか。混沌とは異なる抽象なのか。抽象は進化なのか。「モノリス」は「契機」であったのか。疑問は続いていく。
針小棒大に言うつもりはない。エミリーをもう一つの人類の普遍とは安易に言わない。なぜならエミリーは、ドリーミング絵画のなかでも傑出した作品を生み出しており、その個性は一義的には彼女の才能(天才)に負うべきだからである13。しかしその一方で、その存在は、人類(「人間」を含む)の在り方を高度に再認識させてくれる。とりわけ「契機」を条件とした存在であることを。
結局、自分を離れてしまう。これも言葉に頼るしかないからか、それとも単にレトリックに流されたからか。そのいずれでもないかもしれないが、エミリーと対面することはあらたな言葉への「契機」である、それに違いない。辿り着いた、というより擱筆のための短絡的な結論である。
13 養女を奪い取られた悲しい体験、白人牧場主のもとでの長期間の労働体験、離婚・再婚体験、肌で感じる自文化の危機――などが、もろともにドリーミングを描く上でエミリーの感性にマイナスに作用していたのではないかと思われてならない。濃密でかつ輝きのある画面のなかでどこか哀しくもある絵画空間だからである。しかし、エミリーの抽象絵画は、我々が知っている「哀しみ」になどまるで囚われない。「人間」を超えた「天才」だけに描ける哀しみである。
引用・参考文献
市川政憲「友の会講座『ラスコーの洞窟を訪ねて』」(「空中回廊」愛知県美術館友の会・会報第二二号、二〇〇六年三月
いわもとのりこ「頭の中と意識の話」(同氏「メールマガジンNature Rules」VOL.八、二〇一二年八月一五日)
上橋菜穂子『隣のアボリジニ』ちくま文庫、筑摩書房、二〇一〇年
小山修三『狩人の大地 オーストラリア・アボリジニの世界』雄山閣出版、一九九二年
木村重信『はじめにイメージありき―原始美術の諸相―』岩波新書、一九七一年
中井康之・西野華子ほか『Emily Kame Kngwarrye』読売新聞東京本社、二〇〇八年
松山利夫『ユーカリの森に生きる アボリジニの生活と神話から』NHKブックス[六九七]、日本放送出版協会、一九九四年
ジュルジュ・バタイユ/出口裕弘訳『ラスコーの壁画』二見書房、一九七五年
ハワード・モーフィ著/松山利夫訳『アボリジニ美術』岩波世界の美術、岩波書店、二〇〇三年