2013年12月31日火曜日

[と] トルーマン・カポーティ~ノベルの究極~

 1 ミスキャストだった「名作」
 
二つの挿入歌 トルーマン・カポーティと聞いて多くの人が最初に思い浮かべるのは、『ティファニーで朝食を』であろう。それも原作ではなく映画の方である。主演のオードリー・ヘップバーンの愛らしい顔や、彼女が窓辺に凭れかかって歌う「ムーン・リヴァー」の歌声が甦るのである。
ところでその「ムーン・リヴァー」であるが、原作中にはない歌である。映画用である。しかも甘くどこかせつないメロディーは、主役のオードリー・ヘップバーンを思い浮かべながら作詞・作曲(ジュニー・マーサー作詞/ヘンリー・マンシーニ作曲)されたものであっても、主人公ホリー・ゴライトリーを向こうに思い浮かべながら作られたものでなない。それどころか見向きもされていない。なぜなら原作には別の歌(本来の歌)が用意されているからである。それを使わないばかりか、映画ではまるで別なものにしてしまっている。窓辺で歌うところだけが原作から採られているのが、余計に原作軽視を際立たせる。おそらく作詞家も作曲家も原作を読んでいない。読んだのは脚本だけだった。原作は参考どころか作詞・作曲にとって邪魔でしかなかった。想像だがありえそうな話である。
最初の邦訳者(龍口直太郎)は、映画が原作を大きく外れた点に「解説」を超えて憤りを隠さない。「語り手」を不遜にも「おとこめかけ」に仕立てている点には、驚きをこえて「私はむしろ憤りを感じた」とあからさまである。問題の挿入歌についても同じ思いを抱く。そして両歌を原文に「(大意)」を添えて横並べに置く。無言の批判である。引用がすこし長くなるが、紹介しておきたい。

   Moon River, wider than a mile
   I’m crossin’ you in style some day
   Old dream maker, you heart breaker
   Wherever you’ re goin’ I’m goin’ your way.

   Two drifters, off to see the world
   There’s such a lot of world to see
   We’re after the same rainbow’s end
   Waitin’ ’round the bend
   My Huckleberry friend
   Moon River and me.

      (大 意)
 1マイルより広いムーン・リヴァーよ
 私はいつの日か、しゃれた姿であなたを渡ろう
 古き夢の主、心悩ます者よ
 あなたがどこに行こうと、私はついて行こう。
 
 世界を見るため旅立つ二人の漂流者
 見る世界はあんなにもたくさんある
 私たちは角を曲がったところに待っている
 同じ虹の果てをもとめている
 私のハックルベリーのような友
 ムーン・リヴァーと私は。

次ぎが原作歌の方である。

  
  Don’t wanna sleep,
     don’t wanna die,
     Just wanna go a-travelin’
     Through the pastures of the sky.

       (大 意)
   眠りたくもなし、
  死にたくもない、
  ただ旅して行きたいだけ、
  大空の牧場通って。            (以上龍口直太郎「解説」)

原作ホリーが口ずさむ調べは、一節だけの短いフレーズながら、自由性に向かう一個の意志(Don’tJust)と化している。ラブストリーとなってしまった映画のなかのホリーは、一見自由奔放を装っていても、所詮、「ラブ」の傘の下にとどまる。最初から見守られている。終着駅が見えてしまっているわけである。だが原作ホリーには終着駅という意味でもラブを落着点とはしない。あってもその向こうに新たな自分を訪ねるための手段でしかない。そのためには武器(魅惑性)は出し惜しみしない。彼女を支配するのは、剥き出しな生である。身を委ねることを厭わない唯一のものである。

原作者の憤り 挿入歌は一例に過ぎない。訳者が訝るように原作と映画とはまるで別物である。今なら著作権が争われかねない事態である。邦訳には村上春樹の新訳がある。解説を兼ねた「訳者あとがき」もこの問題に触れることから始められている。冒頭に記したような原作より先に映画が浮かんでしまう事態について、「これは小説にとってはいささか迷惑なことであるかもしれない」と綴る。そして、原作者はオードリー・ヘップバーンの起用を快く思っていなかったと伝えられていると紹介してみせる。批判とも解れる婉曲な言い回しである。たしかに事実である。それ以上だった。
亡くなる12年の間に断続的に行なわれた対話(「最後の肉声」)に問題の部分がある(ローレンス・グローベル/川本三郎訳『カポーティとの対話』文藝春秋、1988年)。質問者(ローレンス・グローベル)は尋ねる。再映画化の話が起こっていること、ホリー役にはジョディ・フォスターが当てられる予定だということについてどう思うか、原作者として観てみたいと思うかという部分である。答えはこうである。「ああ」と観てみたいと最初に口にし、前作は原作とは違っていたからだと語る。どういうところが? と尋ねられると、「すべてだ」と言い放つ。さらに荒い口調で言う。「あの映画はミスキャストだらけだった。まったく反吐が出る」と。問題のオードリー・ヘップバーンについては、彼女のファンであり非常に親しい友人だと断った上で「私は彼女があの役をやると知ってショックを受けた。非常に困惑した。彼女を起用するとは製作者の側の背信行為だ」と憤りを超えてほとんど断罪的になっていく。すべての約束を反故にされたとも言う。原作を尊重するということだったのだろう。そういう素ぶりを見せておいていざ契約書にサインすると手の平を返したように約束を破った、破ったどころではなく反対のことをした、と終に怒り心頭に発して、「彼ら(パラマウント社のこと、引用注)はブレイク・エドワーズのような最低の男を監督に起用した。あんな奴にはツバでもひっかけてやりたい」と凶暴的になって抑えが利かない。
すでに20年も経過している段階である。被害妄想的だった晩年の精神状態を差し引いても、ながく鬱積していた思いが一気に吐き出された感じである。あらためてジョディ・フォスターに話が戻されると、「彼女はあの役に理想的だ」と断言的口調で返ってくる。結論を聞かされたかのようにインタビューは次の話題に移される。

新訳本カバーの装画 いずれにしても、村上春樹も新訳出版に際して〝注文〟をつける。「だから翻訳者としては、本のカバーにはできれば映画のシーンを使ってもらいたくなかった」と。微妙な言い回しである。ホリーのアパートの一画、各階を繋ぐ外階段、ベランダに立てかけられたギター、そしてベランダの鉄柵の上を軽やかに伝う一匹の猫――新訳文庫本の「カバー装画」(民野宏之)を構成するマテリアルである。当時のニューヨークの佇まいを彷彿させる、戯画的なタッチとクレオン調の色遣い(パーブルブルー(窓)、朱茶色(壁面)、青黒色(窓枠・外階段・鉄柵))。注文は活かされたのだろうか。別な問題が発生しているようにも見えてしまう。裏に回るべき訳者が表に出てしまっているからである。
おそらく商業ベースから企てられた装丁(表紙カバー)であろう。別な見方をすれば悪くない出来である。なんといっても装画制作者の訳者への敬いが快い。ちなみに、旧訳の文庫本のカバーでは、表紙に黒いロングドレスを身にまとったオードリー・ヘップバーンの写真が、折り返し部分に映画のワンシーンの写真3葉が貼り付けられている。

ミスキャストの文学的意義 原作者や原作からみればミスキャストだったが、皮肉なことに映画はヒットしオードリー・ヘップバーンの代表作の一作ともなっている。たまたま題名が同じだけで別の作品として観賞すれば好い映画である。しかし、映画を「名作」に導くには、ホリー・ゴライトリーの強烈な個性は欠かせなかった。使うしかなかった。たしかに使った。原作ホリーなしには映画ホリーの個性も誕生しなかったからである。ただし問題なのは、そして原作者だけではなく訳者からも訝られるのは、原作を深く読みこんだ上で脚色化された個性とはとても言えないからである。
それでも、当時としては自由奔放に生きる魅惑的な新しい時代の女性として生み出され、製作者たちは自信をもって世に送り出すことができた。十分原作の精神を活かしたとも思っている。読み込みが足りないなどとも思っていない。結末を変えたことや、登場人物のディテールを操作したこともより良くするためだと前向きに捉えていたとしても、邪な思いが働いていたなどとは思いもしない。良い改変(深い読みこみ)だったのである。
それにジョディ・フォスターはまだ生まれていなかった。彼女の生年は、映画発表の年の翌年(1962年)であった。だから原作者に不満を抱かれたとしても、製作者たちには原作者の苛立ちを正しく受け止めることはできなかった。原作者も納得できるホリー像になっているはずだった。それ以上に映像世界を透してさらにホリーを豊かな女性に高める。映画的改変は芸術的な創作行為である。映画の可能性である。映画芸術は原作に優先するのである。
結局、原作が先に行きすぎていたのである。カポーティに不足していたのは、自分が先に行きすぎてしまっていることを客観的に見ることも正しく自覚することができなかったことである。これは『ティファニーで朝食を』だけのことではない。彼自身のノベル全般に亘って言えることである。しかも、『ティファニーで朝食を』の場合は、映画化という社会関係のなかではじめて他者と自分との距離を量ることができた。他にも映画化はされたが、自分を相対化するためにはたんに映画化だけではだである。社会的反響が伴っていなければならない。『ティファニーで朝食を』の場合は飛びぬけていた。結局、映画化されても同じようには還ってこない。自分(の対外的位置)は見えてこない。出版ベースに止まっている。自分(の対内的位置)しか見えていなかった。それでも構わない。自分に止まっていて差し支えがあるわけではない。作品は生まれる。
しかし、『冷血』でほぼ止まってしまったことを考えると、トルーマン・カポーティの場合はどうもそうはいかない。創作過程で次ぎの自分が生み出されなかった。以前の自分を次ぎの自分で再編したわけでもなく、総合したわけでもない。以前の自分はそのままの状態で止まっている。自己否定が弁証法的に体験されていない。それが一人の個人のあり方であるとともに、作家としての在り方でもあった。
ここには小説論へと回転していく個別の作家事情が潜んでいる。トルーマン・カポーティを読むとは、彼の小説世界の魅力だけではなく、同時に彼を通じて創作論を自問自答しなければならないことでもある。何故に『冷血』で止まってしまったのか。これが、以下の記述に繋がっていく。

 
2 『遠い声 遠い部屋』

デビューまでの年譜 予め彼の基本的な年譜を確かめておく。ただし第一長編小説(『遠い声 遠い部屋』)の出版まで。生まれたのは1924年。場所はルイジアナ州ニューオリンズ。南部文化の中心地である。1931年両親が離婚するが、夫婦の亀裂はすでにカポーティ誕生年頃までに遡り、誕生後も両親は別居状態であった。また母親は、幼い息子の養育には見向きもせず、それぞれの親元や親戚などに預けては恋人との逢瀬を繰り返す。やがて母親はニューヨークに転居。そこで離婚し翌年には再婚。再婚の翌年(1933年)、ニューヨークの母親のもとに移り、小中高一貫校の名門トリニティ・スクール(マンハッタン)の4年生に編入する。ここでトルーマン・カポーティを名乗ることになる(9歳)。最初の名前はトルーマン・パーソンズ。
しかし転校やトリニティ・スクールへの復帰が繰り返される。最終的には私立フランクリン高等学校を1942年に卒業(18歳)。在学中から雑誌『ニューヨーカー』のコピーボーイを勤める。不用意な問題事を起こして1944年同誌解雇。勤務当時から執筆に勤しむが未刊状態にとどまる。翌1945年になってそれが次第に形になっていく。短編「ミリアム」のオー・ヘンリー賞受賞である。
受賞を機に転機が訪れる。1946年である。芸術村(ヤドゥー作家芸術村、ニューヨーク州サラトガ・スプリングス)に招かれたからである。同じ南部出身のカーソン・マッカラーズの計らいであった。そこには20人ほどの多彩な顔ぶれが待っていた。やがて遅れて参じた人物がいた。運命的な出会いになった当時のアメリカを代表する文学者・批評家のニュートン・アーヴィンであった。そしてカポーティの作品(短編三作)を手にすることになる。大きな文学的な流れのなかで捉えられる大批評家の目には、それがたんなる南部のゴシック小説の系譜で終わるものではないことを即座に見抜く。感動を籠めて褒め称え、さらに君の作品を読みたいと愛情に満ちた言葉を投げかける。
1945年から書きはじめられ、第1章まで書き終えられていた『遠い声 遠い部屋』の執筆にもさらに弾みがつけられることになる。やがて翌年の19478月に彼の名を驚異的に世に広く知らしめることになる一つの長編が書き上がられることになる。『遠い声 遠い部屋』である。この一作によって華々しい文壇デビューが果される。まだ20代そこそこの若者に、かつて「ミレアム」で「恐るべき子ども(アンファン・テルブル)」の名前をつけた世間は、今度は天才の名を与えた。

作品の世界 トルーマン・カポーティの第一長編小説『遠い声 遠い部屋』が、彼の一方の極だとすれば、対極にあるのは『冷血』である。そして対極に辿りついてそのまま行き場を失ってしまう。その軌跡が一人の小説家が辿って見せたもうひとつの「作品」である。一方から一方を見て、同じ作家の作品だと見抜くのは至難である。まるで別なものとして創り上げられているからである。実際に起こった一家殺害事件を描いた『冷血』は、『遠い声 遠い部屋』やそれ以前の短編に背を向けた世界である。都市を背景とした『ティファニーで朝食を』もその中間に位置するわけではない。
なぜそれまでの作品を顧みようとしなかったのか。顧みられなかった作品とはどういうものなのか。カポーティが『冷血』に対して使った新しい小説形式である「ノンフィクション・ノベル」を引き合いに出せば、『遠い声 遠い部屋』は、まさにノベル、それもノベル中のノベルである。事実に背を向けた想像だけが小説的真理となる世界だからである。
構成は、全3章(「その一」~「その三」)からなるが、計12話が章で途切れないで連番で最後まで繋がっていく。主人公は12歳の少年ジョエルである。母親を亡くした少年のもとに、先妻の死亡記事を新聞で知った父親エドワード・R・サンソムから手紙が届けられる。我がもと(スカリイズ・ランディング)に来てほしいという誘いの手紙である。
南部のニューオリンズから汽車で行き、下車したビロクシーからさらにバスに揺られながらパラダイス・チャペルまで至る。小説ではすでにここまで(パラダイス・チャペル)辿り着いている。問題はこの先である。次に向かわなければならない町ヌーン・シティへまでの足の確保であった。ヌーン・シティは父親の在住地(スカリイズ・ランディング)の地方町である。父親の手紙によれば、パラダイス・チャペルから20マイル(約32km)の距離に位置するという。残念ながらバスは走っていない。迎えにもいけないという(車を所有していないため)。自力で辿り着かなければならない。招かれたのはいいが容易には辿り着けないのであった。今少年はカフェにいる。店の主人が入ってきた顔視しりの運転手に乗せて行ってくれないかと頼んでいる。
結局、冒頭場面は伏線であった。容易でないのはさらに屋敷に辿り着いても、肝心の父親になかなか会えないからである。辿りついた少年を出迎えたのは父親の細君であったが、先妻の子を迎える雰囲気ではない。面白く思っていないからではない。様子が変なのである。少年の登場は、当然この屋敷の生活の変化をもたらすはずなのにそれがない。それ以前からの日常が同じように引き継がれている。なにも特別なこととは思われていない。彼のことは事件ではなかったのである。
屋敷の佇まいがそうであるように、人々も旧態依然として以前のままの自分たちを変えようとはしない。この屋敷にはどこかの部屋に潜んでいるはずの父親(サンソム)と細君(ミシ・エイミイ)、使用人の黒人女(ミズーリ)とその祖父(ジーサス・フィーヴァー)、そしてミス・エイミイの従弟(ランドルフ)がいる。姿を現さない父親はともかく、いずれも個性的な人たちである。100歳を超えているジーサス・フィーヴァーはほとんどなにも口にしなくても存在感だけで小説の中にしっかりと居場所を定めている。ジーサス・フィーヴァーを含めそれぞれの日々があり人生がある。三人三様で一見勝手気ままながら混在したなかにも調和が保たれている。屋敷の調和を超えて物語の背景を成す一つの秩序になっている。さらに作品となっている。この作品が小説たりえているのはこの調和である。調和との契約の上に描かれた作品である。あるいは描かれなければならないとする創作的態度である。
近在の姉妹仲の悪い二人姉妹。とりわけ男まさりで気性が激しく、自分が少女と思われることに我慢がならない妹アイダベルの存在感と存在性。彼女の一貫した日常逸脱の行動は、この田舎町を凡庸な体系で終わらせないだけでなく、少年を異次元に導く行動力ともなって、多義的な文脈で「調和」を凡庸なロマンチシズムに失墜させない。彼女と訪ねる森の奥。神秘な静寂の中に佇む、ミステリアスなベールに包まれた廃屋と化した一軒のホテル。探検の開始。しかし、エドガー・アラン・ポーの描くアッシャー家のような、ゴシックの香りに包み込まれてそれで事終えないのは、アイダベルを前面に打ち出して静寂を撃ち破ることに露われているように、トルーマン・カポーティの目指した文学が、夢幻的な命運を突き破って、より生身で肉体的な生得性によって感得されるもののなかにあり、しかも執拗に拘ったからであった。「妄執(オブセッション)」と呼ばれる(川本三郎「解説」(『夜の樹』新潮文庫、1994年))。けしてシルエットでは我慢できないのである。しかしその場合でも、あくまでも「調和」が先行する。さまざまに巡らした複旋律も「調和」を高めかつ深めるためである。
たとえば南部文学の伝統を受け継ぐ黒人たちの描かれ方もジーサス・フィーヴァーによって存在感を高めている。孫娘と祖父とが織りなす実在感のある南部黒人の世界は、観念論的な少年と一歩距離を措いた強い実在感(リアリズム)に貫かれていても、作品全篇がほぼ「遠い声」であり「遠い部屋」でもあるなかで、少年にとっては異質であるが故に特別な「遠い声」でもあり「遠い部屋」でもある。それは、さらに別の黒人との関わりからも補われる。その結果、題名も彼に求められることになる。
題名『遠い声 遠い部屋』を少年が直接耳にするのは、その黒人リトル・サンシャインからであった。彼は遠い暗い森のなかで暮らす隠者だった。実は例のホテルを棲み家とする隠者(呪術師)だった。求めに応じてこちら側(「こっち」)にやってくる。たとえば孫娘の求めた呪いの施しとか。その折はジーサス・フィーヴァーの病を治すためであった。しかし、なぜかその際は、少年が求めた厄除けのまじないを種に必要を超えて自分から誘いをかける。「坊、欲しけりゃ自分でとりにくるんじゃぞ、わしはいつまたこっとさくっかわかんねえからな」と。
でも少年は隠者が住む場所を知らない。待ち構えていたように語り出す。「溺れ池」と呼ばれる池の謂われについてである。「ホテル」は「溺れ池」に面している。「溺れ池さえ見つかりゃ、ホテルを見のがしっこはねえ。」前置きだった。やがて「題名」が不用意に隠者の口を衝いて語られることになる。
もとはクラウド湖と呼ばれて、ホテルもクラウド・ホテルという名前であった。湧き出る水は水晶のように冷たい。各地から訪れる人々(貴人たち)が、一夏を優雅に過ごす避暑地だった。リトル・サンシャインはそこの馬丁だった。しかし、ある二つの事件をきっかけに客足は遠ざかってしまう。一つは湖に飛び込んだ少年が沈んでいた丸木に頭を打って死んでしまった事件、一つはいかさまばくち打ちが湖に泳ぎだしたまま再び戻らなかった事件。
以来、湖には不吉な噂がたっていく。新婚旅行でやってきた夫婦の漕ぎ出したボートが湖面から伸びてきた手でひっくり返されそうになったとか、湖底にばくち打ちと子供の光る眼を見たとか。ホテル経営者の未亡人は、無益とたしなめながらも地引網で湖底を浚う。結果を得られないまま、閑散として客の訪れなくなったホテルを後にセントルイスに出かけた未亡人は、そこで借りた部屋のベッドに石油をかけ、身を横たえてマッチをすってしまう。
「溺れ池」と呼ばれようになったのはその後のことで、「ダイヤモンドの瞳」であった湖水が、泥で汚れ、ホテルはホテルで荒れるに任せて朽ち果てていく。隠者(馬丁)も一度は逃げ出した。しかし、また戻ってくる。ここでずっと暮らし続けようと覚悟を決める。なぜか、逃げ出たのはいいものの、「たちまち遠い声が、遠い部屋が」彼の夢を掻き乱してしまうからだった。心の乱れを通じて「わしの正当な家なのだ」と、リトル・サンシャイは運命ともいうべきものをホテルに感じたのだった。
 隠者は少年を向こう側に導く道案内人だった。これがたんなる寓話を超えて作品の題名として採られた理由だった。結局、少年を呼んだ父親も実質的には「遠い声」の主にしかすぎなかった。中ほどまで進んでようやく明かされるのだが、実は身動き一つできない体になっていた父親は、屋敷の一室でながくベッドに繋がれたままだったからだ。そしてなんの用意もなく特別なことではないかのように引き合わされる。すでに小説は半ばまできている(「6」)。しかしあらたな展開が待っているわけではない。やって来た当時の日常に再び戻されるだけだった。ときたま傍らで本を読んで聞かせることはあっったにしても。また「坊やありがとう」と言葉をかけられることはあったとしても。でもその声は息苦しくたどたどしい。発声も思うようにならないことが分かる。それだけでも新しい展開がないことを暗示される。
少年は会わなければよかったとさえ思う。前のように想像で違う父親の姿を自由に思い描いていればよかったと。父親は少年にとって最初から「遠い部屋」の住人でしかなかった。それが夢想から現実に変わっただけだった。なにも変わらない。今も同じように「遠い声」と「遠い部屋」に向き合っている。基本は変わらない。それでも最後は知らない自分(「性」)を感知していくことになる。それでもそれが自己発見を物語ろうとしているかかといえばそうではない。この作品は、(心の)成長譚に語りかけたものではない。最後まで「調和」である。小説が最後に見る景色(「性」)があきらかに「こちら側」であること、「向こう側」で閉じていないこと、あらたな扉を開けようとしていることに対しても。あくまで予定調和の内であった。あるいは辿り着いたそれであった。

 カポーティの文学性 トルーマン・カポーティは捉えどころのない作家だと言われる。文学史的位置も今一つ定かでないとも。評伝と作品論とを重ねた一叙述(越智博美『世界の作家 カポーティ――人と文学』、勉誠出版、2005年)の最後(「むすびに代えて」)でこう語られている。「こうしてカポーティの足跡をたどってみると、彼の軌跡は『はじめに戻る』というものにも思えてくる。では『アメリカ文学』の中で、カポーティは今、どこにいるのだろう。(略)カポーティはアメリカ文学史におさまりが悪い。『属している場所をもたない』作家に近いものがある」と。
おさまりの悪さは、全体的結論として言われているように、長編第一作『遠い声 遠い部屋』もその一部を構成している。題名には、ファンタステックでかつミステリアスな響きが漂い、ポエテックでもあるが、内容的にはときにシリアスであったりドラマチックであったりで一様でない。訳者の「解説」(河野一郎『遠い声 遠い部屋』新潮文庫、1971年)にも迷いが感じられる。「作者はこの作品で何を描こうと試みたのだろうか? この問いに対しては、冒頭に掲げられた旧約聖書エレミア記からの引用――「心は万物(すべてのもの)よりも偽るものにして甚だ悪し 誰かこれを知るをえんや」の一句が、おおむね答えてくれているが、さらにつきつめるならば、これは傷つきやすい豊かな感受性を持った少年が、自我を見出すまでの精神的成長の途上でたどる数々の内的葛藤を象徴したもの、と言ってよいであろう」と。
しかし、少年は少年である故に意味があり、成長には与しない立場に立って綴られている。やはりそれが読後感である。旧約聖書エレミア記が語る「心」は、むしろ「成長」を拒む側から唱えられた一句である。そして成長を拒めるのが、まさに少年であることの意味であり、存在形態であり、世界をもそのなかで読み替えられることになる。これこそが「調和」である。読み替えること動機とし結果とした創作態度である。読み替えられたものに目的があったわけではない。だからこそ宝石のような文体がさらに特別な輝きを発することになる。最初の立会人にして最大に輝きを浴びるのは訳者である。次ぎの一文(「解説」)は、まさにその実感が言わしめた「一句(名句)」である。

カポーティはこのうつろいやすい心の季節を、現代作家に中でもまれに見る新鮮な言語感覚をもって、ゴシック風に織り上げていく。詩的なムードに適合するよう自在に言葉をたわめ、頭韻や類韻をふんだんに用いたそのまばゆいばかりの「濡れた」文体は、たしかにこれまでのアメリカ文学に類を見なかったものであり、ヘミングウェイ、スタインベック、ドライザー等に代表されるリアリズム文学の乾いた文体からの脱出と見ることができよう。                      (「解説」271頁)

 
 3 『冷血』
 
事のはじまり その「濡れた文体」が、奇妙な樹上生活を描いた『草の竪琴』に引き継がれ、やがて目先を変えて都市生活に向かい『ティファニーで朝食を』を生み出すまではいいが、その直後、急転直下する。文体からではなく文体が創り出す世界と決然と袂を分かって、端から「遠い声」とも「遠い部屋」とも決別した世界にどっぷりと浸かっていく。それが『冷血』である。
それは一つの新聞記事が目にとまったことからはじまる。19591116日付け『ニューヨーク・タイムズ』。地方から送くられてきた記事なので、けっして大きくは取り扱われていなかったが、陰惨な一家殺害事件であった。「裕福な農家の主人と外の家族三名、惨殺」。殺害されたのは、農場主(リヴァー・ヴァレー農場)のクラスター一家。夫クラスター(48歳)・夫人と二人の子供。娘ナンシーと息子ケニヨン。娘はもうすぐ17歳、息子は15歳。クラスター氏は信仰心の厚い誠実で心優しい人柄で通っている土地の名士。犯人は、20代の白人。二人の若者。刑務所仲間であった。事の発端は、その内の一人が、同家で働いたことがある同房囚から話を聞かされたことにある。いつも大金が金庫に眠っているという直接見てきたかのような話。その話から完璧な計画を思いついた犯人の一人リチャード(ディック)・ヒコックは、同じ刑務所仲間の一人ペリー・スミスに犯行を持ちかける。ペリーは最後まで乗り気でなかったが、出所後、ついに犯行に加わることになる。
結局、大金はなかった。同房の思い違いであった。そうではなくいい加減な作り話だった。いくら主人を脅しても金庫などない。逆に小切手しか使わないと返されてしまう。これほどの屋敷で、そんなはずがないと、一家を縛り上げて探し回っても一向に見つからない。財布の小銭しかない。全部合わせても40ドル足らずである。恨み事の一つでも吐いて本当はそのまま立ち去ればよかった。それなのに一家を惨殺してしまう。散弾銃で至近距離から頭を撃ち抜く。凶悪な犯行だった。
閑散としたもの寂しい農園地帯で起こされた深夜の惨劇に誰も気がつかなかった。捜査は難航した。それが例の同房囚が、事件を知って、「まさか本当にやるとは!」と驚き、気わされていた手口(皆殺し)と同じであったことから、奴に違いないと密告して一気に解決に向かう。高跳びしたメキシコで一旗揚げようと目論んでいた計画に立ちどころに失敗し、再び立ち戻って資金繰り(偽小切手)に奔走しているところだった。事件から一か月半経った1230日、容疑者の身柄がラスベガスで確保さえる。
犯行が行なわれたのは、アメリカ中西部カンザス州西部のホルカム村。確保から一週間後、容疑者が移送されてくる。彼らを一目見ようと、捜査本部の置かれていたホルカム村に近いガーデン・シティーの裁判所の前には大勢の人が集まっている。カポーティもその中にいた。二人の内の一人ペリーは、カポーティのように小柄だった。この第一印象がはじまりだった。事件直後から現地入りしていたカポーティは、犯行現場を含めて盛んに事件を探っていた。危険ないくらいだった。嗅ぎまわっている奴がいると聞きつけた犯人から危害を加えるかもしれないからだった。でも警察以上に情報収集に躍起なる。なにかが彼を惹きつけた。しかしその際はまだ容疑者は見つかっていなかった。あるいは連行されてきた容疑者を一目見て、それまでの関心が一気に冷めることも予想された。それが、逆に火に油を注ぐことになる。さらに彼を内面的に突き動かしていくことになる。160センチほどの身長はそれだけで特別な人間関係を生み出す。大柄の人種のなかで小柄であることにはそれほどの意味があった。内在的意味だった。

過度の深入り 3年をかけて集められた資料は膨大だった。書き起こされた分量は、ノートにして6000頁にも及んだ。州裁判所で下された判決は死刑だった。再審が請求され、死刑は何度か先延ばされた。死刑囚たちとの文通が始まった。それも膨大な量だった。一人につき週2回のペースですべて合わせると数百通に及んだ。特別許可で行なわれた面会も数を重ねた。死刑執行で完結することになっていた作品は、死刑の延期とともに先送りされた。
まるで二人の死刑を待ちわびているかのようだった。複雑な心境だった。とくにペリーとは心情を分かちあう関係になっていた。深く関わりすぎた。背丈だけではなかった。両親から愛情を注がれずに育った生い立ちも似通っていた。つくり上げられた感受性もそうだった。一歩間違えば自分がペリーの側に立っていたかもしれなかった。ペリーはいまや分身にまでなっていた。
そして、ついに処刑の日が来る。カポーティは立ち会う。死刑囚から立会人の一人として指名を受けたのである。当日、滞在したホテルに刑務所から電話が何度も入る。彼らが会いたがっていると。しかし拒み続ける。堪えられなかったからである。それが最期を前提とした面会であること、その現実に。直接には生身に襲いかかる極度の緊張だったが、その後に待っている出版が頭の隅を過り、死に臨む者たちに罪の意識を感じたのかもしれない。
いよいよその瞬間が来る。ディックからだった。その一時間後ペリー。処刑台に上る間際にペリーは、カポーティに向かって言葉をかける。「アディオス、アミーゴ」。そして「友(アミーゴ)」の頬にキスをする。二人の死を見届けたカポーティは、処刑場の隅で吐いた。帰りの機内では、止むことない体の震えのなかで、なにかに縋るように同行編集者の手をしっかりと握り続けた。人目も気にせずに(編集者の回顧談)。普通なら墓標もない死刑囚の墓に暮石が建てられた。カポーティが手配したものだった。また処刑後、ペリーの私物(遺品)が、カポーティのもとに送り届けられてきた。ペリーの意思だった(以上は上掲越智に基づく)。

新しい手法 かなり詰めこんだ仕立てで550頁の厚さになる分量(文庫本)である。「ノンフィクション・ノベル」という新しい小説形式の名称に相応しく、単なるドキュメンタリーではない。しかしノベルではない。オブジェクト(素材)もデスクリプション(記述)も、すべからく客観的事実から構成されそれを繋ぐからである。世間で共有された素材である。結末を含めて予め決められている内容である。詳細な記事内容でも新聞なら半面も要らない。雑誌の写真や周辺事項を取り込んだ特集記事でも10頁を超えることはない。それが一大長編にまでなる。ノートの量から見ればそれでも抑えられたほうである。抑制されてもこの分量である。なにが話を長くさせるのか。創作上の問題である。
 作品は、4章(「Ⅰ 生きた彼らを最後に見たもの」(分量114頁)「Ⅱ 通り魔」(127頁)「Ⅲ 解答」(150頁)「Ⅳ 隅っこ」(143頁))からなっている。章題で明らかなように事件前、犯行時、捜査時(逃亡時)そして収監中(刑の待機中)である。4章中では一番短いとは言え、それでも100頁が費やされるのが「Ⅰ」(事件前)である。400字詰め原稿用紙なら233枚である。中編である。しかも作者は、「物理的」に生前の家族に会うことはできないのである。
ノンフィクションや新聞・雑誌のレポートなら事件が起きたところから書きはじめられる。これから起きようとしていることを実行者(加害者)についてならともかく被害者について綴る。綴っても構わないが、回想形ではない。現在進行形で時空を共にする。回想の場合は、生前の面影をあえて挿し込んで犯行の凶悪性を強調する形である。まるで違う。一家の描き方は、その先に待っている運命とは切り離されて、今現在を生きるしかも明日に繋がる姿として描かれている。
ほとんど浮かび上がる情感といい家庭小説である。違うのは、実行者たちが「予定」に向かって同時に動き出していることである。横並びで交互状態に記述される。あたかも対等の立場で次ぎの出番を待っているかのように。また作者だけが知っているその後(惨殺)を要所々々で付加することである。たとえば、「彼(クラター氏・注)はその日の仕事のためわが家の方に向かったが、もちろん、それが自分の最後の仕事であるとことには気づいていなかった」などと。あるいは、当日家族と会った人々(保険の勧誘員、雇人、娘の恋人、息子の友人、隣人たちなど)の回想、彼らが応じた事件後の事情聴取の際の一部と同じ文体への同時横並び的な挿入――「『それがあの人たちの見おさめでしたね』彼はその翌日、そう証言することになった」。これは畑を耕していた雇人の言である。巧妙な時間トリックを働かせている。これから死ななければならない理不尽さが際立つことになる。しかし、驚くべきことに理不尽さは犯行への憤りに直接跳ね返らないのである。それが読む側を、読みことの体験として、異常体験の域に連れ出していく。

「ノンフィクション・ノベル」の内側 ここにあるのは不条理性である。「事実」(素材)だけでは得られないものである。土地の叙景描写にしてもそうである。「事実」と「事実」を繋いだり説明したりするだけの単なる背景画に終わっていないからである。それにこんな長閑な田舎で? を強調するためでもなく、その営みを、後1日の余裕もない営みと分かった上で、次ぎを断つことなく、不断の人生とその現在性である連続した一駒に、彼らの個々の今を位置づけるのである。ノル以外の何ものでもない。それでいて既存のノベルでないのは、「次ぎ」を一方的に奪い取るのが作者の創意によるものでなく彼らだからである。作中人物であっても実在人物であることで作品の外側に立つ者たち。その彼らの「判断」(犯意)だからである。この作品の「外側」からもたらされる、言い換えれば創作を超える「外形」が、「ノベル」を超えるのである。やはり「ノンフィクション・ノベル」でなければならなかった。世界構造の問題であるからだ。
トルーマン・カポーティのこの事件への異常な関心が、容疑者確保以降は、その一人であるペリーに自分のなかの負の部分を見たという、個人的な思いに駆り立てられることにあったからとはいえ、それ以上に事件を記述することそれ自体の内にあった。「記述すること」と「記述すること自体」では一見それほど違いがないように思われなくもないが、「ノンフィクション・ノベル」ではそうはいかない。
普通ならそれほど気にしなくても済むことが、記述対象(事件)を超えて事実以上のものとして還ってくる。記述者の位置をも脅かし続ける。相手はすべて「事実」である。しかも普段の日常を構成しない「事実」である。「ある朝(19591116日)、私は一つの記事に目を留めた」として書きだせば追跡レポートになる。その後、「私は」を表に出さなくても、追跡自体が追跡者(記述者)を一体的に物語ることなる。追跡行為は、実質的には捜査行為と重なる部分があるから、「私は」の事件への関わり方は一見強そうに見える。しかし、捜査が終われば次ぎの捜査に移って、事件との関係を断つことができる刑事のように、追跡者も次ぎのルポルタージュに移っていく。記憶に止まっても仕事の範囲内である。関係性も自然と清算されていく。
実は「私は」は最初から存在しない。それが追跡の構造である。単に背後に控えているだけではない。記述者として存在しない。事実が実在者(記述者)と一体だからである。「記述事実」だかである。それが「記述」部分が取り外されてしまう。構造的に存在しないのである。これがカポーティの場合にも一義的には当てはまりながらも、むしろ「事実」が取り外され「記述」が残される。でもこれではドキュメンタリーを抜け出せてもノンフィクションの域は脱せられない。「ノンフィクション・ノベル」はふたたび「記述事実」に立ち返り、「記述」も「事実」からも遠ざかるのである。書くことそれ自体に対する向い合い方とは、この場合、記述者として存在しながら存在しないことであった。同時実現であった。
 それは、方法論的には文体や細部の叙述以上に場面の再構成であった。とりわけ時間の再構成であった。その点では手法的には第2章以降でも変わらない。捜査員も聴取対象者も、逃走を続ける犯人も、再アプローチされる被害者も、「存在しながら存在しない」記述者の実現のために、記述者つまり作者との関わりを喪失する。時間的にである。
誰もが出番をまって横並びの椅子に座っている。重要な役柄でもけして控室は与えられていない。被害者だけが、並びの位置から少し離されているだけである。舞台に立った人を皆で眺めている。見上げるその目には、相互間の利害関係は被害者と加害者とのそれを含めて一切写し出されていない。それ以前に相互関係を支えるものがない。関与がない。通常は他者との関与で成り立つはずなのにそれがない。日常を支える上ででさえそうであるのに、非日常を演じる舞台上である。出演者たちである。

 ノベルの究極 『冷血』以後、それまでの文学的業績を引き継ぐ作品が生み出されなかったのはなぜか。深く入りこみすぎたからだと言われる。とくにペリーに。処刑から受けた衝撃から立ち上がれなくなってしまったからだとも。あるいは『風と共に去りぬ』以来のヒット作となって、有名人になってしまったためだとも。セレブな生活に創作意欲が削がれてしまったのだとも言われるのである。いずれも外形的な評にすぎない。
生活態度を改めて世俗から引きこもったならはたいして次作は生み出されたのだろうか。深く入りこみすぎてしまったに関しても、それだけではなにも語っていないことになる。なぜなら、それならば時間が解決してくれるはずだからでる。しかも生活態度さえ改まっているとすればなおさらに次作は確実である。そうだろうか。『冷血』に比肩するものあるいはそれ以前を含めた第三の総合的世界は世に送り出されたのだろうか。
 小説的方法論だったものが、ノベルの真理に辿り着いてしまった。自分を消すこと(上述)。それが作品の質を高めるため以上に、書くことの意味を形成してしまったこと。しかも問題なのは後付けだったこと。書きながらならともかく、書き上げる直前ないしはその後だったことにより、書くことの意味がそのままその時点で固定してしまったからである。しかも結果としてもまた実質としても、書くことの意味とは自分を消すことに集約されることであった。そして、見事に消し去られた。戻らない、戻ることはできない。
ノンフィクション・ノベルにしてしまったからである。相対立する行為を一体化すること、それは矛盾である。つまり、ノンフィクション・ノベルとは矛盾の言い換えである。「ノンフィクション」は、一義的に作家の想像力を容れないのであるのに対して、「ノベル」の場合は想像力を条件としているからである。アンチ・ノベル。これがノンフィクション・ノベルの真相だったのである。
作家は超えてしまったのである。おそらく気がついた時に。向き直るとそこは対岸だった。同時に此岸だった。此岸に立ちながら同時に彼岸に立つ。おそらくノベルの究極の在り方。その登場が彗星のようであったとすれば、トルーマン・カポーティは、すでに軌道を逸れ誰も追うことのできない、そして自分でも追うことのできない暗黒の宇宙へ旅立ってしまったのである。
 

 おわりに~「『空気』を読む」はありえない~

 トルーマン・カポーティのことを考えると、アメリカという国のことが脳裏に浮かび上がってくる。第二次世界大戦後の世界覇者だが、けして歴史(白人入植者の歴史)が長いわけではない。文学・芸術も然りである。それでも文学は技術的な部分での制約の縛りがないからか、芸術に先んじて独自の歴史(文学史)を築く。
ヨーロッパにない広大な大地や荒野、南北を貫く大山脈という自然的特徴や、社会的には奴隷制の偏在、諸民族の移植、先住民の駆逐、そして政治的には独立戦争、米英戦争(第二次独立戦争)、南北戦争と文学的触発の機会に事欠かない。また作家の個人的側面にも社会的背景などからアメリカ文学に独自なものが窺われる。
 話は脈略なく飛んでしまうが、数年前乗船していた世界一周クルーズで、同船の米国人や米国での生活体験者たちによる座談会があった。旅の仕方やアメリカ談議(アメリカでの生活の仕方や日米比較論を含む)などであった。参加メンバーの顔触れは、白人系や東洋系の米国人、ハーフ(日米)、在米日本人など。すこし記憶が怪しくなっているが、はっきりと記憶に残っているのは、「空気を読む」のテーマであった。日米比較論である。
日本滞在5年の実績を誇る一人の米国人(すでに日本語は上級レベル)が、米国では全くありえないことだと発言した。米国内の学校生活を例にして説明がなされた。学級は多民族で構成されている。つまり一次的に顔付きが違うのである。民族を超えて共通の表情などない。表情は個別に留まり個別の域を出ない。グロバールではない表情では伝え合えない。通じない。気持は言葉でしか伝えられない。どう思っているのか、嫌なのか、それともそれで構わないのか、「言葉」ではっきり明確に伝えるしかない。「空気」では伝わらない。ありえない――「空気」を読む、などということは。
 そこで再びアメリカ文学である。日本文学と較べると、言い換えれば「空気が読める」文学と較べると、言葉との関わり方が根本から違うのではないかと思われてくる。叙述法では日本文学は、アメリカ文学だけではなく〝世界一〟の手段(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字など)に恵まれている。あるいはこれに「空気」も付け加えられなくもない。しかし叙述対象がとくに人であった場合、彼に迫る言葉が、彼を通じて作者に跳ね返ってくる度合いは、二重存在化して倍加されることになりかねない。作中人物を生きるだけではなく、「生きる生き方」に直面してしまうのである。
縛られるだけではない。奪われるのである。言葉まで。おそらく最初からそんな事態は見込んでいなかったかもしれないが、結果がすべてである。奪われている。それが結果である。おそらく個人の文学的資質だけの問題ではないはずだ。それがアメリカ文学だったからである。短絡的だが、その「犠牲者」がトルーマン・カポーティであった。しかし言い方を変えれば、究極的文学の「体験者」だったことになる。
                                (未校正)

引用・参考文献

越智博美『世界の作家 カポーティ――人と文学』勉誠出版、2005
川本三郎「解説」(カポーティ『夜の樹』新潮文庫、1994年)
河野一郎「解説」(カポーティ『遠い声 遠い部屋』新潮文庫、1971年)
龍口直太郎「解説」(カポーティ『ティファニーで朝食を』新潮文庫、1968年)
龍口直太郎「解説」(カポーティ『冷血』新潮文庫、1978年)
村上春樹「訳者あとがき」(カポーティ『ティファニーで朝食を』新潮文庫、2008年)
ジョージ・プリンプトン/野中邦子訳『トルーマン・カポーティ』新潮社、1999年。
ローレンス・グローベル/川本三郎訳『カポーティとの対話』文藝春秋、1988



◆ 付記~年越し直前~

いよいよ今年もカウントダウンまであとわずか。
我が家からは煌々と明かりを灯す地元の神社(参拝客が多い)が、元旦際を前に杜ごと夜空に膨らんでいる。

どのような1年だったのか、振り返る余裕もなく、今年最後のブログをアップしようとしている。

いろいろな人と出会い、語らい、時には一献交わし、そして明日になにかを繋げようと自分を覗きこむ。特にこれといった人生の節目があったわけではないが、毎日を節目として思いを過去や未来に巡らし、そして現在に立ち戻る。思い出したように「時間」を懐に仕舞いこむ。逃がさない。意味もないことだが、時には子供じみた真似も悪くない。よろしければお試しを。

それぞれの場所で人々は生きている。
人々を思うことは、その人が生きていることを感じるこである。
自分一人ばかりを思うのではつまらない。
ときには人の生きていることの方が輝かしく思われる。
――「人」とは凄いものだ。

   *

ブログをはじて1年と8か月。
五十音に引きずられ、いまや自らはお使い人。
それも良しとして、今は心静かに除夜の鐘の音を待つ。

お読みくださってありがとうございました。

皆様、どうぞ良い年をお迎えください。






2013年11月29日金曜日

[て] 「てふてふ」の詩人~安西冬衛断想~

[て] 前置き 今回選んだテーマは、当時の詩(「レスプリ・ヌーヴォ」(新詩精神))の概観を含め、出来れば腰を据えて取り組みたいところであるが、ひとまず「断想」でアップし、詩人論を含めていずれ再述の機会を俟ちたい。
なお、「てふてふ」とは、以下でも掲出する安西冬衛の有名な一行詩「春」に掲げられた「蝶々」のことで、表音上からいくと[て]音を逸脱することになるが、ここでは表記上から「て」の標題としたものである。

詩の絵画性 ところで、詩を書かない(書けない)ブログ執筆者にとって、詩を語ること(読むこと)は、この上ない喜びである。そこには、言葉の守備範囲を超えた、どこか絵画を前にした時のような出会いの感覚に近いものがある。詩の一頁がつくる、目に訴えかけてくる視覚性である。詩を生み出す文字は、意味を媒介する手段で事終えるだけではなく、意味性と同時に、あるいは時にはそれ以上に、文字の絵画性を詩の一頁上に構成して止まないのである。
ただし同じ文字世界と言っても、書の芸術と呼び習わされる書道とは違う。書が表す絵画性は、筆先に実現されるものであるが、詩の場合は活字体の先に見出されるからである。むしろ、絵画性にこだわるなら筆跡を抑えて実現される必要がある。姿形としては書き癖が消された状態(たとえば明朝体)が望ましいからである。この書との在り方の違いは、表記差を超えて、書が対象とする和歌や漢詩文(以下[漢詩])の持つ文学性の相違とも繋がっていくことになる。
なるほど、短冊や色紙に認められた和歌は、文字の伸びやかな美しさのなかで歌自体の味合いを深める。漢詩にしても同様である。表装されて床の間に飾られた軸物には威厳が備わる。骨格も浮き彫りにされる。それはそれでよい。問題は、詩文的な格言・金言の類を書にした場合である。それも自筆の額装の場合である。かりに額装されたことで意味が深まっているならば、おそらくそれは体裁だけが「詩」である類である。ひとたび活字体に組み替えられた時に露わになる如何ともしがたい無実性を、書き癖(能筆!)と額装によって隠蔽したのである。この場合は造形性(書の芸術)の〝悪用〟である。アフォリズムと詩とを取り違えてはならない。「文人」は心しなければならないのである。

 書と詩歌 それでは、格言・金言はともかく、和歌や漢詩(以下「詩歌」)は対象となっても詩がならないのは何故か。別段、書道の世界を窺うわけではないが、詩の本質に触れることだと思われるのである。文字の造形芸術である書道の条件は、文字一字の結構だけではなく、料紙への納まり具合(布置具合)といった紙幅と取り結ぶ全体感(構成感)の調和からも逃れられない。しかし詩の場合は、文字から成り立っている点では同じでも、詩歌が引き受ける造形的条件とは疎遠である。無縁と言ってもいい。
おおもとは「形」である。詩(ただし口語自由詩。以下断らない限り「詩」といった場合は口語自由詩を指す)には「形」がないからである。その点、明らかなように和歌には決められた文字数(三十一文字)があり、また漢詩にも同様に決められた語数・句数(五言絶句・七言律詩など)がある。すなわち制約文学であることこそが、書の条件(芸術的条件)を整えることになる。なんとなれば、書の対象が一次的に制約されていることによって、書のデフォルメ的精神が存分に具現されることになるからである。すなわち制約性の解き放ちである。造形的に言い直せば、デフォルメ的精神による内在性の新規再編あるいは再生である。顕現である。
 *ギリシア・ローマ以来の韻律の伝統を重んじる自由詩以前の西洋詩は、むしろ「形」(韻脚ほか)に拘る。詩型としてもソネットなどの定型詩を生み出している。事実、活字書体の工夫によって同様の効果(絵画性)を上げている。

 
 詩と「空白」 その点、制約下にない詩の一行や一聯は、最初からデフォルメ状態に置かれていると見ることもできる。なによりも改行が自由だからである。字下げも同様である。聯と聯との間に空白を差し挟むことも広くはその範疇である。同じ聯のなかでも行なわれる場合はよりデフォルメ的である。かくデフォルメ的精神と最初から一体的に開始されるのが詩の在り方である。
ところでレトリックのレベルから見れば、改行や空白は、それが正反合的な反転や展開でないかぎり、ことば(ここでは「文字」)の必然である意味の連続に対する背反的行為(デフォルメ的行為)である。散文的文字列に対する反意は、単なる意味の不連続を物語るだけでなく、本来、以下に続くはずの文字列を白地に置き換えることにより、用紙上に未見の空白を生み出すことになる。冒頭に触れた詩の絵画性の真相に触れる部分であるが、かりに詩が書として考案された場合には、この空白の保全が保証されなければならないことになる。
それにしてもなぜ(そこで)改行されなければならないのか。詩を書かない(書けない)立場から言えることは、改行の必然性を詩作上に認められるかである。あるいは必然の「空白」であるのかを質すことである。とはいえ、それでは全体の流れを損ねてしまう。実際は、詩の側から立ち止まりが求められている場合以外は、いちいち立ち止まって確かめるようなことはなく、「改行」を「読む」より早く次行の頭に目線を移してしまっている。おそらく詩読上の常態である。「詩人」の水準にある作品の改行は行き届いているからである。暗黙の了解事項である。詩作にとっての改行とは、作文でいえば正しい言葉遣いができているようなもので、正しい「改行遣い」は、詩人である上に当然修得していなければならない「作文力」なわけである。
それでも、「空白遣い」までとなると少し事情が違う。とりわけ標題の詩人である安西冬衛の場合がそうである。その詩は、実際の文字列以外に空白行を一行とし、さらに生み出される余白を「空白」として強く意識している。まさしく詩体として企図された「空白」である。

『軍艦茉莉』の刊行 手許に第一詩集『軍艦茉莉』の復刻版(ほるぷ刊「名著復刻詩歌文学館<山茶花セット>」1975年)がある。昭和4年、「現代の藝術と批評叢書 第2編」として厚生閣書店で発刊された復刻版である。詩史に通じた人なら誰でも知っている『詩と詩論』(昭和3年創刊)の編集者である春山行夫絡みの出版物(叢書)である。
同叢書の第1編は訳書(ジァヤン・コクトオ/堀辰雄訳『コクトオ抄(選集)』)であるので、安西冬衛の詩集『軍艦茉莉』は、実質、国内詩人の劈頭を飾っていることになる。多少の身贔屓があったにしても、単に仲間内(同人仲間)であるからという、なれ合い的な関係によって刊行されたわけではない。高い詩論を掲げる春山行夫の詩観にかなう一冊だったからである。そして、その期待に見事に応えたのである。
新進の詩人であるとは言え、叢書最初の国内詩集を担うには著者は一般的には広く知られた存在ではなかった。しかし、最終的には完売(1400部)に近い売れ行きだった(詩人自身の弁であるという(冨山1989))。単に編集に報いただけではなく、その後の編集活動に還されるものも少なくなかった。さらなる叢書の刊行や詩誌『詩と詩論』の編集に対する思いが更新されることもなった。叢書は22冊を数えることになり、詩誌(季刊)は14号(後続「文学」6号)を刊行することになる。まさに大正詩から昭和詩への架け橋を果たすに相応しい活況振りであった。安西冬衛の詩が果たした詩史的意義でもあり、「抜擢」した春山行夫の功績でもあった。

詩体の構造 詩集のタイトルは、モダニズム詩を代表する一冊に相応しい名前(叢書の表紙名は『詩集 軍艦茉莉(マリ)とカタカナルビが付されている)であるが、同タイトルで飾る冒頭詩「軍艦茉莉」は、開扉とともに齎される香気をさらにモダニックなものに強めている。

「茉莉」と讀まれた軍艦が、北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を()れてゐる。岩鹽のやうにひつそりと白く
 
私は艦長で大尉だつた。娉娉(すらり)とした白晳な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思はれた。私は艦長公室のモロッコのディヴ夜と晝となくつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。さういふ私の裾には一匹雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由を喪つてゐた。私は監禁されてた。

                      (同詩「一」、傍線引用者)

 しかし、今ここに引用したのは、同時代的な詩の香気を嗅ぐためではない。傍線した「白く」に触れるためである。詩の上での「白く」の意味するところは、「茉莉」=「軍艦」で一見物質的に違和感のある両者を繋ぎ合せ、さらにそれを「白い」に結びつけ、詩題の「軍艦茉莉」を女体の白さに夢想させるエロテックなイメージに導こうとしているが、「白く」の使われ方を、ここでは「空白」に読み替えてみたのである。「空白」が、安西詩にとってもう一つの詩行であり詩聯であることが痛感されるとき、あらためて「空白」が詩集の構造そのものでもあることを教えられるからである。
第一詩集『軍艦茉莉』は、散文詩と一行詩(最短詩)を詩のスタイルの両極に置いた、対位法的な構造である。一頁をまるまる使い切っている一行詩がつくる面的な「空白」は、当然に字数(字面)だけではなく「空白」の上でも両極性を際立たせることになる。安西詩だけでなく、『詩と詩論』にとって散文詩とは、彼らの詩論を具現する新詩体の一つとして提示されたものであるが、安西詩がつくる両極性には、新詩体の理解にとどまらず、それ以上に散文と散文詩との相違をより一段高い地点で理解させる、今に有用な今日性に繋がっている。
なぜなら、詩行を埋める字の羅列によって散文詩は、表向き「空白」に対して否定的な態度をとるが、安西詩ではその散文詩体にも一行詩的な「空白」を埋め込んでいるからである。ただし「空白」と言っても、具体的には後述するように「意味の空白」として顕わされるものである。いずれにしても、「空白」を間に置くことによって、散文詩が、散文と散文詩との字面上(外見上)の類似感とは裏腹にはるかに一行詩側に近い存在であるのを知らされることになる。なぜなら散文は、「空白」と無縁のところで成り立っているからである。むしろ「空白」を容れられない、それが散文の言語学的特性だからである。

 
詩的圧縮度の前世紀 第一詩集『軍艦茉莉』に収載された詩の多くは、安西冬衛主宰の同人誌『亜』から採られたものである。86編中の55編を数えるという(冨上1989)。『亜』の創刊は、大正13年(1924)で、昭和2年(1927)で終刊を迎えるまでに35号を発行した。今、『詩と詩論』に繋がる『亜』の詩史的意義に触れることはできないが、差し当たって注目しておきたいのは、発刊年のことである。数えてみると、『新体詩抄』(明治15年(1882))からまだ半世紀にも達していないからである。にもかかわらず、目を見張るばかりの斬新性かつ先進性である。
島崎藤村の『若菜集』(明治30年(1897))からならわずか30年である。かりに2013年から30年前を数えれば、1983年である。つい昨日のことである。その頃の『現代詩手帖』(12月号)のアンソロジー(「現代詩年鑑」)と昨年のアンソロジーを読み比べると、両者を一冊に再編したとしても決定的な違和感を覚えることはない。しかしそれが、『詩と詩論』と『若菜集』となるとそうはいかない。違和感というより異分子混入の騒ぎを呼び起こすことになる。
まさしくこれは、明治詩から大正詩(後期)までの詩的圧縮度の目覚ましさ以外の何物でもない。文語から口語への転換は、言葉遣いの変更に収まらず究極の詩体にまで及んだのである。西洋詩の「知恵」があったとはいえ、「空白」という詩体である。わずか30年で詩体の極相ともいうべき地点に達してしまったのである。これはいったい何であったのか。

反口語指向の先 言葉遣いの世界だけなら、和語と漢語にカタカナや外来語を綯い交ぜにした明治の象徴詩や、浪漫主義的な言葉遣いの極地を窺う北原白秋の「邪宗門新派体」に口語は叶わない。文語と口語では格が違う。言語的資質においてまともには勝負できない。定型的な五七調が浮べる調べは、その穏やかな様とは裏腹に軽んずる者に対しては厳しいしっぺ返しで応じた。目には見えなくてもはっきりとした高い壁だった。口語詩の前に立ちはだかる高い壁――その乗り越えが、明治末の口語詩運動から大正詩の口語自由詩への展開として大正詩人たちの個別の詩的格闘に繋がっていくことになる。
ここでは、その一々を辿ることはできないが(準備もできていないが)、口語詩運動以降の大正詩に浮かび上がるのは、言文一致の趣旨で開始されたその運動が、結局、非言文一致に向かっていく、反口語指向であったことである。といっても文語回帰(「日本回帰」)ではない。反口語といってもそれを口語の枠内で果たさなければならない、最初から矛盾を抱え込んださらなる高い壁に立ち向かわなければならないポエーシスであった。
口語が日常語であるかぎり、反口語をそのまま読み替えれば反日常語となり、さらに反日常指向となる。この場合、反日常指向から口語にアプローチし、手っ取り早く成果を上げようとすれば、日常の停止に限る。沈黙(無言)を決め込む手もあるが、なんといっても究極的には失語に限る。日常関係が成立しなくなるからである。まさしく反口語の極究的な姿である。すなわち「空白」の存在形態である。そして、この存在形態を文字化したのが『軍艦茉莉』である。とりわけ、象徴的なのが、一頁(右頁)を費やして掲げられた一行詩「春」である。よく知られた安西詩の代表作である。

  春

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

ちなみに、見開き関係にある左頁には同詩題の次の一行詩がある。あたかも屏風絵のごとく二曲一隻仕立てである。意図した絵画的配置である。

   春

  鰊が地下鐡道をくぐつて食卓に運ばれてくる。

ただし、断っておかなければならないのは、「空白」の成立に関する前後関係である。自身が(「空白」が)先にあるのではないことである。先にあるのは文字であり、文字が構成する詩語・詩句・詩行に要請されてはじめて成立する、言ってみれば他律的なものである点である。これが「空白」のポエーシス的な前提条件である。
それでも受け身な側にばかり回りこんでいるわけではない。この点もしっかり押さえておかねばならないだろう。実はおおもとには詩作上の契約関係があり、事前の契約に際しては、むしろ主体的な立場に立っているからである。なんといっても反日常を約款とした契約だからである。したがって契約関係を再確認すれば、契約者は「空白」であり、詩語等は被契約者の側なのであった。そして契約内容は、「空白事業」なわけである。

 
 大陸の詩人 以上のように「空白」は安西詩の核心部分であるが、ここからは実態的な議論に切り替える。ポエーシスの実作情況を時代背景のなかで見ていきたい。とりわけ興味深いのは、口語機能の停止である「反口語」の行き着く先の一つとして「空白」が強く詩想に盛り込まれたのが、大正詩のなかでも、国内ではなく大陸者によるものであった点である。考えさせられるのは、というより思いを致さなければならないのは、口語自由詩の展開からダダやシュールレアリズム、モダニズムといった華々しい詩史的な表舞台の裏側である。そして「大陸の詩人」のポエーシスに対するある種の痛々しである。
 大陸進出という時代性の内側に浮かび上がる大正詩のもう一つの姿――それは、一種異様な響きをもつ租借地という異空間の中で行なわれる、詩論より先に現実と向かい合わなければならない近代日本詩の一断面である。同時に近代日本詩にとって未体験の詩的行為であった。
詩誌『亜』は、亜細亜の『亜』である。命名者は、主催者である安西冬衛である。参集した詩人も大陸に籍を置く者である。彼らを取り囲むのは、詩以前にまさに「地理」という言葉が相応しい身辺感である。自然と同化し身体の一部としている内地では対自化できない地理的問題である。「地理詩」でもある安西詩にとっては、なおさらに内実的な現実感であった。「地理」の先には、広大な大陸の先に霞む長い地平線が横たわっていた。あるいは逆向きには、陸地を背にした奥深い地上感から黄海に張り出した半島(遼東半島)の突出感があった。いずれも内地にいては体験することになかった量感に迫る風景である。
堺市在住であった詩人は、大連市に赴任していた父の誘いもあって、大正9年(1920)の22歳時に同市に転居(渡満)し、翌年満鉄(南満州鉄道)に入社した。その後、身体的危機(右足切断手術)を経て、大正13年(1924)に同市にて『亜』を創刊する。同人は、安西冬衛ほか富田充、北川冬彦、城所英一であった。以後昭和212月に至るまでの間、定期的に35号までを発刊して終刊。翌昭和39月、創刊された『詩と詩論』の同人となり、同誌終刊(昭和6年)まで中心人物として作品を寄せ続ける。昭和9年(1934)父の死去を機に離満帰国し堺市に転居。10年に及ぶ大陸生活であった。
この間、生前刊行した6冊の詩集の内、三冊が在満中に刊行される。昭和4年刊行の第一詩集『軍艦茉莉』以下、第二詩集『亜細亜の鹹湖』(昭和81月)、第三詩集『渇ける神』(同年4月)である。因みに離満後の刊行は戦時下の昭和18年までを待たなくてならない。『大学の留守』(第四詩集)である。その後は、終戦後の昭和228月に『韃靼海峡と蝶』(第五詩集)が、そして最後の第六詩集『座せる闘牛士』が昭和2411月に刊行される。その後も亡くなる年(昭和40824日)の5月まで長く詩作活動に勤しみ雑誌ほかに発表されてきたが、詩集として刊行されることはなかった。没後一年で刊行された『安西冬衛全詩集』(昭和41年)及び『安西冬衛全集』(昭和5261年)には多数の未刊詩篇(全集第3巻・第4巻)が収録されることになった。なぜ編まなかったのか。大陸から延びる影に佇む詩人の姿が浮かぶのである。ポエーシスの深淵を窺う想いである。
 *詩体の「空白」で言えば、時系列では高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』(辻潤編)が大正12年刊で安西冬衛よりわずかに早いが、「断言はダダイスト」(大正11年)で正真正銘の日本ダダイストになった高橋新吉のそれは、「空白」というより「空隙」である。あるいはよく知られた「るす」(昭和3年)の詩篇「留守と言え/ここには誰も居らぬと言え/五億年たったたら帰って来る」をもじって言えば「居留守」的である。安西冬衛の「空白」は作為的なもの(ダダ的なもの)ではない。万物に照応(コレスポンダンス)するものである。

 外にある「体験」 戦後、長い時間が過ぎた。それにともなった戦争は、関係性から解かれた過去のことになりつつある。戦時の記憶も薄れるに任される。戦時でさえそうでるなら、戦時の先にある戦前史(満州事変以前)は、現代社会にとって過去以上の過去になりつつある。記憶以前である。記憶に止まるうちは、まだ関係性からは完全に截ち切れていないが、記憶とは別の部類に移行してしまっている。
おおもとは侵略の歴史体系を空無化する戦後意識が、日本人全体だけではなく、個人レベルでの受け継ぐべき「体験」までも空無化させていることにあるのだが、本来、「外地」とは、歴史的概念で捉えられる以上に文学的(同時に芸術的)概念としても捉えられなければならない。現状は歴史的概念で止まって、それも不十分であるなかでは文学的概念は「遺骨収集」にも及んでいない。「外地」が侵略の先に存在する日本近代史のなかでは、同じ侵略でもキリスト教を背景した「正しい侵略」下の欧州列強の「植民地」では、多くの優れた文学・芸術を生み出し、共有すべき文学的成果となって引き継がれている。
体験を引き継げないのは、実に自身(戦後を生きる人々の自分自身)に対する背反行為でさえある。単なる体験の喪失ではない。「思考体験」の喪失である。「思考体系」と言うべきかもしれない。列島史の外で体験された未発の内部体験だからである。あるいは未知の言語体験でもあった。失ったのは未知の「日本語体験」であった。その体系的記憶であった。問題は失ったことも顧みられないことである。したがって問題の本質は、背反行為である以上に自己喪失であったことである。

 
「外地」文学 今、安西冬衛の『軍艦茉莉』を「外地」の文学(黒川創1996)の視角で読み直すとき、あらためて「空白」の先に大陸という「外地」の貌を思い浮かべずにはいられない。和歌と「一行詩」との違いも浮かび上がる。同じ顔付き(「一行詩」)でも、和歌が紙料に生み出すものは、「余白」でしかない。「空白」とは体系の異なるものである。詩学的相違である。そこには「大連デモクラシー」(上掲黒川)という見かけ上の自由と華やかさに包まれていた在籍地(大連市)の「外地」的条件が背景をなしていたことは容易に想像がつくものの、それが「余白」ではなく、あくまでも「空白」であったのは、それだけではない、租借地(旧関東州)住人という、近代日本人に未体験の立場が、内地でなら問うことのなかった日本語体験を詩人に強いたからにほかならない。
租借地大連の多国籍的環境に加え、支配者言語である日本語は、それ故にただでさえ言葉に敏感な詩人をさらに後ろ向きの言語体験に導く。普通の言語体験ではない。人口比では圧倒的に少数派であった。中国語や朝鮮語あるいはロシア語のなかの一言語でしかなかった。安西冬衛の渡満時代には、中国人作家(「東北作家」)による反帝国的文学活動も展開されていたという。抗日的な文学活動を含めて「満州の日本語文学は、これらの諸言語かなる海に浮かぶ、一つの島である」と語られる(黒川1996)。
今や言語体験を超えてより深い痛覚的な心理体験であった。相変らず「一つの島」でしかなかったからである。しかし「島」(在満日本人)の先には、大陸の地上の広がりが待っている。巨大な塊と化した赤い落日から長く延びる影の先は杳として測れない。自分の影ではなく、他者のものでしかないからである。それが租借地で生きる条件である。影を踏みしめることができない異民族(他者)としての――。
すべては「空白」に生まれ、「空白」に還される。内実はない。これが「現実」である。そして現実が求めた日本語体験である。その先に見出された詩語・詩句・詩行であり、同時に「空白」の詩境・詩想であり詩体であった。やがて「空白」は、「日本」「日本人」である自身からの離半の証となっていく。以下はその経緯を直接的に表した詩である。

   新疆の太陽

  新疆(シンキヤン)の太陽が、私を奪った。
  既に罪悪的な省城は、大流沙の彼方、地平線に出現を始めた。再現の世界に於いて、辛うじてオペラのみがもつ、これは無上の接待である。
  曾て私が投げかけた狭い世界、一つの記憶がみるみる後退する。
  迅速する大流沙を(わた)る困憊の中、
  (つちふ)る曙の中に。

 詩の試行的分析 しかし、現実はそうであっても、言及したような状況論も安西詩の条件の一つでしかない。肝心の作品世界を見失ってはならない。終筆前に一度実作的な作品分析を行なっておきたい。
 第一詩集『軍艦茉莉』は、86編の詩を5部に分かつ。大半は自誌『亜』に掲載されたものである(上述)。冒頭と末尾に「茉莉」名をもった作品が配される。「軍艦茉莉」(冒頭)と「物集茉莉」(末尾)である。ともに散文詩である。読みやすいし解りやすい作品である。うっかりすると安西詩の核心を見逃してしまうことになる。ここで終わってしまうと、一行詩と散文詩とがつくる構成上の緊迫感もいま一つ迫ってこないし、散文詩にしても「散文」の範疇との境が再度問われることになる。これはこれで有意義な議論が見込まれるが、今回はその余裕はない。
ここでは代わりに対照的な一例を示す。散文とは似て非なる「散文詩」の実作情況を目の当たりにすることになるはずである。

   海


海は私の健康にどんな影響を與へたか。

 
明媚な風光を賞め稱へ乍ら、私はサンマー・ホテルの支配人から、さまざま土地の事情を聽く。あれなる清朝宗廟の結構を模した、熱河鐡路局總辦(マー)大な別。それから、ダルニー・ルフクブ・グリーン・コンミッティ・ドクター・ビリヤード氏の午餐にるアスパラガスの枚。それよりもこの先見える、スープに浮かせるビスケット製造所の、額面五十圓十二圓五十銭拂込株式の、當時約四分の一のもしないとふことが、思ず私の椅子を前にうはかせる。歸りの乗物の中で、私は片道りをして、辛うじて一株券の時價にする怪しい懐中を、そつ調めてみる位浪漫的な健康に激しく染まつてゐる。そのくせ興奮して舐めぎた、先程の牛の骨のソップが、れた私のチョッキの下で、酷にもダブついてゐる――


海は私の健康にどんな影響を與へたか。


 散文との違いで、まず気がつくのは、視覚性である。冒頭一行と最終一行が、本の表と裏(面表紙と裏表紙)になっていることである。2行空けの根拠である。おそらく上製本なのであろう。しかも上製仕立てに見合う固い内容である。字面だけ分からせる安西詩一流の絵画性も潜んでいる。
 しかし、「固い」と思われたのは上辺だけで、実際はなんたる「戯言」であることか。思わず苦言を呈してしまう程である。固さを見こんでいた分、戸惑いが待ち構えていたのである。実は仕掛けであった。この仕掛けにこそ散文と散文詩との違いがある。ここでは戸惑いがなによりの証拠になる。
散文は、一文の前後関係を理知で繋ぐ。理知は理解を生む。さらに理解を理解で繋いで意味を構成していく。読解力を整える。レトリックが難しくても投げ出すことはない。苦痛であるよりも高い知性の呼びこみを前にした期待感に高揚気味である。散文とは、次に向かう推進力とともにあるものである。
しかるに、問題の詩(「海」)は、遅々として前に進まない。進まないどころか複数の縦軸方向を横並び状態で並置する。縦軸方向とはセンテンスとセンテンスからなる構文のことである。散文体であることは、実に始末が悪いことになる。当然にセンテンスを接続状態で繋げる内引力として作動するからである。横並びであるとは破格以上の反レトリックである。
そこでここに並置を並列に変えてみる。具体的には改行による散文詩の編成である。散文的直進性に対する視覚的改変(改行詩への改変)である。遅滞感も戸惑い感も緩和されるはずである。以下のとおりである。
 *絵画性を「映像性」と表記する見方もある。すなわち「詩の音楽性よりも詩の映像性を重視し、そこにポエジーを見出しているという意味で、短詩も本質的には散文詩の形態であると考えられる」(冨上芳秀1989年、276頁注(6))

   海(改行詩版) 

海は私の健康にどんな影響を與へたか。

明媚な風光を賞め稱へ乍ら、
私はサンマー・ホテルの支配人から、さまざま土地の事情を聽く
 
あれなる清朝宗廟の結構を模した、熱河鐡路局總辦(マー)氏の壯大な別業。

それから、
ダルニー・ゴルフクラブ・グリーン・コンミッティ・ドクター・ビリヤード氏の
午餐に攝るアスパラガスの枚數。

それよりもこの先に見える、
スープに浮かせるビスケット製造所の、
額面五十圓、十二圓五十銭拂込株式の、
當時約四分の一の價もしないといふことが、
思はず
私の椅子を前にうはつかせる。

歸りの乗物の中で、
私は片道券を購ふふりをして、
辛うじて一株券の時價に相當する怪しい懐中を、
そつと調めてみる位の
浪漫的な健康に激しく染まつてゐる。

そのくせ興奮して舐めすぎた、先程の牛の骨のソップが、
釦のとれた私のチョッキの下で、殘酷にもダブついてゐる――

海は私の健康にどんな影響を與へたか。

 安西詩の詩的魅力 上製仕立てを解かれた後では2行空けも要らない。通常の一行である。それはともかく、あらためて教えられることは、散文詩の詩体から伝わってくる面を付き合わせたような直接的な息苦しさである。散文性(必然的連続性)を裏切ってさらに裏切り続けるからである。おそらく推進力が空回りしていたたまれないのである。
それが改行詩の場合ではなくなる。喩えれば窓開けである。部屋の窓を開けて息苦しさを薄めるのである。改行はいってみれば窓開け行為みたいなものである。それが原型(散文詩体)では逆になる。窓を閉じてしまう。窓だけではなく扉も閉めてしまう。閉め切ったまま開けようとしない。
しかるに詩の題名はといえば、「海」である。表紙の文字は「健康」である。しかも見込みを違えて肝心の詩文は「戯言」である。それも多弁でありながら内容は至極空文的である。いい加減辞退したくなるが部屋からは出られない。出口があっても出られない。饒舌振りを止めさせることもできない。つけ入る隙がないからである。句点の前後で散文的連結を抜け目なく果たしているのである。それが堪らないし苛立たしいのである。意味を繋いでいない、それも故意に繋いでいないからである。
散文のなかでの言葉の連続が保証されるのは、既得的なものに属するが、その大前提をものの見事に失うのである。しかも不用意までに。埋め合わせもされずに。かえって高みに立って素知らぬ顔をされてしまうのである。
しかしそれが、安西詩の詩的行為の力の源になっているのである。知らない抒情を誘発することにもなるのである。同じカタカナの多用でもかつての文語調の異国情緒(「メランコリヤ」)や、同じ都市でも「青い影」の差す街角とは異なる、真空地帯のような「外地」の地上観に生じた新たな言葉の響き(確執)である。詩作力の成せる業と言ってしまえば簡単に済んでしまうが、詩論を実作で問うことのできる、言葉への自信に支えられた固有の詩才である。安西冬衛の尽きない詩的魅力である。


◆参考文献(テキストを含む)
名著復刻詩歌文学館<山茶花セット>『「安西冬衛著 詩集 軍艦茉莉」現代の藝術と批評叢書2、厚生閣出版(昭和4年)』ほるぷ出版、昭和55年(1980
山田野理夫編『安西冬衛全集』第3巻及び第4巻、實文館出版、昭和58年(1983
冨上芳秀『安西冬衛 モダニズム詩に隠されたロマンティシズム』未來社、1989
黒川 創「解説 螺線のなかの国境」同氏編『満州・内蒙古・樺太』<外地>の日本語文学選2、新宿書房、1996