ここでは、同展及び同図録を手掛かりにして、一村ブームの基調をなす、「異端」「孤高」「神」「魂」「原初」などの、従来の図録や出版物のタイトルに刷り込まれたイメージとは少し異なる、しかし十分意識されていたはずの田中一村の姿を探ってみたい。ここに用意する単語は、「姉弟」である。ただ伝記や評伝で語られたり説かれたりする、強い絆で結ばれた姉弟というだけのイメージに終わるものではない。副題した「濃密な情愛」に繋がる特別の絆である。
1 姉と弟
一冊の評伝 それに気がつかせてくれたのは、一冊の評伝(湯原かの子『絵のなかの魂 評伝・田中一村』新潮社、2001年)である。著者には、別にゴーギャンに関する評論があり、二人を比べた論考もある。論考は未読ながらも同書(以下『評伝』)の終章で触れられているので大要を知ることができる。おそらく論稿をベースにしたのであろう以下の一文がある。
ゴーギャンがタヒチの人々、とりわけ女性を通じ文明の汚れを知らない原初の楽園を夢見たのに対し、一村を魅了したのは、もっぱら亜熱帯の生命力あふれる樹木や草花である。鬱蒼と生い茂る原初の自然に抱かれて、画家が自然と深く交感し酩酊していたことが、一村の絵画からは感じ取れる。(『評伝』「終章」、204頁)
結局、南国が放つ原初の姿に深く囚えられている点では、志向性に表向き通じ合うものがあるものの、内面観では異なった捉え方がされる。芸術家の「魂の衝動(エロス)」の顕れ方の違いである。具体的には、西洋美(ゴーギャン)の「女性」に対して、東洋美(一村)の「自然」という在り方である。生き方としても違ったものとなる。「原初のイヴ」たるタヒチの裸婦たちとの日々のなかにあったゴーギャンに対して、「原初の自然」たる奄美の日々のなかにあって厳しく自己を律していた一村の哲人的な生き方として。
同著者のゴーギャン論は興味深く、教えられることの多いものであった。今回も同様である。一人の画家の人生や哲学を深い理解で捉え返し、味わい深い文章で評伝化しているからである。一村論には不可欠の評伝である。しかしそうしたなか、一村画(晩年画)の解釈の上では釈然としないものが残されることになった。おそらく日本画の絵画形式的な問題が横たわっていたためであろう。
たとえば、日本画と「原初の自然」との釣り合いである。「自然と深く交感し酩酊していた」と語られるくだりにしても、日本画としてどのように捉えるかが思い浮かばない。日本画によって如何に「原初の自然」が表されるのか、ゴーギャンを語る際のようには、絵画行為に結びつかなかったのである。
油彩と彩画 ゴーギャンの南国を実現させたのは、油絵である。そして、ゴーギャンの油絵を油絵足らしめているのは、油絵具とカンヴァスである。一方で一村の彩画(ほか墨画)を彩画足らしめているのは、岩絵具(ほか墨)と絹布(ほか和紙)である。もし物理的なことで言うなら、両者が拠って立っている画材の問題に立ち止ってしまった状態である。しかも油彩と彩画との違いだけに止まらない。今度は一村画が同じ日本画との間でつくる違和感がある。と言っても、現代日本画の一部に見るような、既存の彩色法を逸脱した油彩めいた厚塗りが採られているわけではない。むしろ技法的には伝統を踏襲しているし徹している。視覚的にも通有の絹本画である。それが却って、つまり表向きの同じ系譜内関係が、一村画(ただし晩年画)がつくる既存(同時代を含む)の日本画との違いを拡幅してしまうのである。
この既存の日本画との連携を截たれた、観る側を落ち着かない思いに陥れる絵絹の上の違和感が、用意された「原初の自然」観(アニミズム的自然観)では、かえって増幅させられてしまうことになる。それこそが新しさ(新しい日本画の創出)だと説かれたとしても、なにも変わらない。釈然としないままである。誇張して言えば、画幅の前の体には行き場がない、の状態である。
生涯の独身関係 その時、思い起こされたのが、『評伝』中要所々々で顔を出す実姉(喜美子)のことであった。彼女は、自分の人生を弟のために捧げた。弟もそれを求めた。姉が弟に求めたこともあった。独身であるべきことを。そして姉と弟は互いの独身を貫いてみせた。一見芸術家らしからぬ(?)「女性」が側にいない画家の人生とその芸術。我々がこれから観ようとしている作品が歩んできた厳然たる事実である。それだけでも普通でない精神の一極が思い遣られることになるが、一村芸術を貫く精神的態度としても通じ合っていることを思う時、もはや「生涯の独身関係」は、単なる作品の背景などでは事済まない作品の秘密に繋がっていくことになる。作品の意味でもある。
画家は「良心」という。画家の良心に適うまで描くと。良心という言葉が使われる限り、姉の存在も影も見えてこない。しかし、現実には姉しかいない。「同居」である。姉の「遺骨」と共にあることである。独居生活のあばら屋の一室(アトリエ)の棚上に置かれた姉の骨壺。画家を見下ろす姉の視線。「誰のためでもない。姉のために描く」と断言する画家。「誰にも分かってもらえなくても構わない。姉にさえ分かってもらえれば」と口ずさむ画家。すでにそこに在るのは画家の良心ではない。一人の弟の情愛である。情愛を吐く弟の人格でしかない。
かくも画家を捉えて離さない姉。呪縛でさえある。二人が、お互い同士だけでなく自分自身をも絡め捕った「生涯の独身関係」。そして、その下にある情愛の姿。なんとも「芸術的」であることか。
絵師的態度 やはり、日本画であることが決定的であった。絵画形式に止まらないからである。生活様式に対しても規定的だったからである。職人気質的な一徹さと清貧を決め込んで動じない日々の生活ぶり、あるいは和服姿の居ずまいに浮かび上がる凛とした潔癖な身体感。それは、日本近代絵画にあって、西洋油絵を我がものとしようとする芸術家的形態ではなく、まさに日本画家として生きる生き方以外に採りようのない生活態度であり、精神的態度であった。
奄美からさらに南の島(与論島)に渡海した折の宿屋の一夜の情景が、千葉の叔父(川村幾三)宛に送った手紙にメモ風に綴られている。警察署長の送別会の盛会振りを離れた部屋から窺っていた時のくだりである。「さながら泉鏡花の小説の一章のようです」と。
あるいは、姉と弟の情愛ぶりは泉鏡花的と言えるかもしれない。妖しさが漂うからである。しかし、画家が辿りついた、あるいは辿り着かねばならなかったのは、怪しさなど一瞬でかき消されてしまうような上辺のことでしかない。何人も知らない未定稿の領分(精神世界)であった。姉の死が受け容れられ、受け容れられることで、死の中にある姉と同化する、それが生の側に留まる弟であり画家である者の自己説得となるもの、あるいは「画家の良心」の裡に隠されていたもの。一村画の核心である。
姉の存在性 姉と弟は、一村が千葉を離れて奄美に移る決意を固めた50歳まで、一時療養で一村が家を離れた時以外、終始一つ屋根の下で生活を共にした。3歳年上の姉喜美子は美形で才女であった。生まれ故郷の栃木市から東京の麹町に転居(一村5歳、喜美子8歳)したのは、子供たちの教育のためであったという。親(母)の思いを背負って喜美子は女学校に通った。卒業後は琴の習い事に励んだ。24歳で名取となって「山田流筝曲教授教室」の看板を掲げ教室を開いて弟子をとった。「麹町小町」と呼ばれる大変な美人だった。
縁談話には事欠かなかった。そのたびに断り続けてきた。喜美子27歳の時だった。適齢期が過ぎていたなかで、最後の機会ともういうべき縁談だった。良縁だった。それも断った。正確には一村によって断わられた。『評伝』で紹介された一村の弁は、著者による代弁であるとは言え、取材を通じた確かな代弁であった。「喜美さん、あんたは犠牲になってくれ、頼むから。」そう言って自分の一存で断り状を認め、妹(房子)に投函させたのであった。
両親と子供6人に祖母を合わせた9人の家族は、東京に移住してきた大正元年(1912)から千葉に転居する昭和13年(1938)の間に、昭和2年に次弟芳雄を、翌3年に母セイと三男実を、昭和10年(1933)には父弥吉と末弟明を失っていた。結局、千葉に転居する時には、姉喜美子、妹房子、祖母スエとなって、男手は一村一人になってしまっていた。その祖母も転居後の次の年(昭和14年)には他界してしまう。翌年には妹房子が結婚して家を出てしまう。残ったのは長女(姉)と長男(弟)だけになる。昭和33年の奄美行きまでの18年間に及ぶ、姉と弟との2人だけの生活の開始である。
それも外に働きに出ることを好とせず、自給自足を貫く生活のなかでは、自家菜園のために共に汗を流す畑仕事を含めて、二人は終日を同じ屋根の下に過ごすことになる。家の中にあってはひたすら絵筆を握り続ける弟のために、炊事洗濯ほか一切の身の回りの世話をこなす姉の姿がある。横顔がある。そんな二人の姿は、「知らない人が見たら『とても仲のよい夫婦』と見まごうばかりだった」という。
画家の人生と画業は大きく三つの時代に区切られる。東京時代、千葉時代、奄美時代の三時代である。その内の前二時代50年を画家は姉と過ごしたことになる。千葉時代を思い浮かべながら、『評伝』の著者は、画家にとっての姉を、「姉の支え」と小題したくだりで次のように語る。
(略)思春期の男子にとって姉は、血族であると同時に異性でもある特別な存在だが、米邨(一村の画号・引用注)にとっての喜美子は、類い稀な美しい異性であるとともに、家族の不幸な歴史(貧しさと家族の死・引用注)の共有者であり、さらにまた決して裏切ることのない母性であり、つまりすべての女性性を備えた唯一の女性だったのではないだろうか。(同書58頁)
そして、続けて一村の内面を慮って綴る。
現存する写真を見る限り、喜美子は米邨に似て鼻梁が高く、彫りの深い顔立ちに、大きな切れ長の目をもち、ふっくらした頬とやや肉厚の唇はほのかな官能性を湛えている。麹町小町と呼ばれたほど美しく、芸事に秀でた姉を、若きい日の米邨は眩しい気持ちで眺めたに違いない。あまたある結婚話を断念し、弟のために一生を捧げた姉は、米邨の芸術の完成を影で支える、なくてはならない存在だった。(同書59頁)
引用2か所の内、一部のみ〝異議〟を唱えなければならない。後段最後の1行である。経済的支えに読み替えられてしまいかねないからである。「なくてはならない存在」とは、「すべての女性性を備えた唯一の女性」の先に綴られる結語でなければならないはずである。そうであることで一村芸術の秘密に触れる言葉にもなる。姉の存在性が、さらにクローズアップされることになる。
2 一村画体験~晩年画の世界~
理解の仕方体験 孤高であったはずの一村の絵画に孤高が読み取れない。観る側の立場に素直である限り、田中一村の晩年が生み出した絵画世界は、個人的事情を超えていながらも、同時に個人的事情から画家を自由にしていないのである。だからと言って早々に姉弟関係を持ち出すのは短慮である。まず先にあるのは絵であって、次にあるのも、個人的事情とは一線を画したところで問われるべき絵の理解である。実はその理解自体が問題となるのである。知らない理解の仕方であったからである。理解ではなく感じるものであるはずの絵画的体験に理解の方が先に立っていたのである。この理解の仕方が求められる体験、それが一村絵画(奄美晩年の絵画世界)の真相だった。
しかし、一村絵画は、抽象絵画でもなければコンテンポラリーでもない。描かれたものは植物であり、植物群のなかの小さな生き物(鳥や蝶)である。大形でもみみずく(「虎みゝづく」)止まりであった。あるいは背景に海や空を覗かせる風景画である。画題は個別具体的でかつ高い写実力で画幅を覆っている。なにを以ってあえて理解などと、しかも「理解の仕方」などと複雑に言わねばならないのであろうか。
抽象絵画のように観る側になにが描かれているかを問わせるような、それ自体に絵画的意味がある世界ではないからである。むしろ明瞭かつ明白である。問わなければならないとしても、描かれた植物や鳥の個々の名前ぐらいである。これは理解ではない。知識の範疇である。それでも理解の仕方――単なる「理解」ではなくより複合的な「理解の仕方」が、試されるのである。
観ることの仕組み どうも観ることの以前が問われているようでる。これではいつまで経っても作品鑑賞以前に止まってなにも始まっていないことになるが、観ること以前を問いかけた瞬間にはじめて始動感を得た感じなので、問い立ては一つの観賞態度なのである。問い直してみよう。今目にしているのは、≪不喰芋と蘇鉄≫(絹本着色/額装、155.5×83.2)である。最晩年画であり、一村画の最高傑作の一点である。
哲学的な議論を好むわけではないが、一村の絵とりわけ≪不喰芋と蘇鉄≫には、観ることの仕組みを問わせるものがある。観る側にあるべき席が見当たらないからである。よくは分からなくても(理解できなくても)、感覚的に受け止められる(なかに入っていける)としたなら、それは席が与えられていることであるし、受け止められない場合でも感性に合わないとして主体的に対峙できるなら、やはり席は与えられていることになる。譬えが卑俗で話が軽くなってしまいかねないが、「席」を使うのは、実は事態としては席以前に遡るからである。席があるないの話ではなく、そもそも前に立たせようとしていないのである。しかもそれを観る側に発意させているのである。観るあるいは観られるの関係が、「初期化」される、そんな感じ(心中)である。
近代日本画の観賞 試みに近代日本画に当たってみる。手許に手頃な一冊の図録がある。『近代日本美術の軌跡』(東京国立博物館、1998年)である。「日本美術院創立100周年記念」として企画された特別展である。穿った見方であるのを承知で、同じ戸惑い感(当惑)を求めて頁をめくってみる。
一村が尊敬の念で仰ぎ見ていた横山大観の幽遠で高潔な絵がある。迫真の描写力である。美術院で大観と共に絵筆を競った菱田春草がいる。朦朧体のたおやかな筆遣いが新たな画境を切り拓いている。下村観山がいる。艶やかな画幅を近代的な気品が隅々まで覆っている。風景画に新境地を大胆に切り拓いた画家もいる。今村紫紅である。西洋絵画の向こうを張った描法と、時に豪放なまでの色使いとは、後の時代を先取りしている。その一方では小林古径がいる。淡く清らかで大らかな清楚感が漂う画幅ながら、凛とした緊張感がある。胡粉に力を得た彩画世界である。
さらに速水御舟の深い群青の世界がある。神秘で夢幻的である。速水御舟といえば、一村の公募展落選の一件がある。川端龍子が自身の主宰する展覧会(青龍展)に応募してきた一村を落とした時の落選理由である。「速水御舟の再来か(!)」と思わされたと言うのであった。普通なら褒め言葉ながら否定の言辞だった。それでは青龍展の趣旨には沿わないからだと言うのであった。純粋美学の理由になっていなし、それ以前に主催者の嫉妬心さえ疑ってしまう。実は問題の応募作≪秋晴≫は、それほどの一作だった。金箔の輝きが内側に向かう厳かな画面は、展示会場を訪れた多くの人々を釘づけにした。信仰心さえ抱かせるものだった。一村は速水御舟も尊敬していたので、評者は二重否定したことになる。
名画はこの先もまだまだ続く。しかし好いことにしよう。それぞれ近代日本画を牽引してきた画業の開陳である。個々人の個性は、そのまま日本画の歴史の多彩な一頁でもあった。観る側もその都度感性を刺激され高められる。作品の力は画家に遡る。画家の内面を双方向的に体験した気分にさせてくれる。模範的な絵画体験であり、美学的実現でもある。
しかし、必ずしも美学的超越とまではなっていない。かりに深いものが呼び覚まされとしても、一村画から比べると、どこか予定調和的である。見込んでいた範囲内である。予定調査的なのは、おそらく筆使い、彩色、構図が主題を高いところに実現していたとしても、見込んでいたことを否定まではしていないからである。
人間存在を尖鋭的に描き切った横山大観の≪屈原≫(明治31年(1898)、絹本著色)は、時空を飛び越えて大観のもとに届けられているとしても、大観本人までは飛び越えていない。大観によって受け止められていることが、我々の受け止めにもなっている。言い換えれば観ることの仕組みが疑われることはない。
≪炎舞≫の世界 偉大さを否定する「美学論」なわけではないが、これは、横山大観の≪屈原≫に限ったことではない。他の画家たちにも言えることでもある。もし、図録中に例外を探すとすれば、速水御舟の≪炎舞≫(大正14年(1925)、絹本著色)であろうか。勢いよく上り立つ火焔の帆柱と蛾の円舞が、闇に呑まれた背景を向こうに前景感を勝ち取っている。それ故であろうか、炎を横切って浮揚感に溢れかえる蛾には、個体以上の肢体力が備わり、闇間から舞い下りてくる一匹の姿には、猛禽のような垂下力がある。火焔の渦の最中を円舞し、焼かれることもなくかえって炎を我がものして炎との同舞を演出する。
すでに崩壊に瀕している既視感ではあるが、まだ崩壊の一歩手前に止まっている。神秘性のベールを纏って、既存価値を保っているからである。崩壊を決定づけるのは、仏画的な様式化を纏った火焔描法による天地間での様式的対立である。炎の穂先で演じられる円舞も、対抗的に燃えさかる紅蓮の炎本体とは相容れようとしない。あるいは炎の側で拒絶している。観ることの仕組みに突き付けられる絵画的拒絶である。
一村画の正面観 仮に、「速水御舟の再来か(!)」と揶揄された一村の、問題とする晩年画の絵画性を、≪炎舞≫に引き寄せて解き明かそうとすれば、火焔による二項対立がもたらした既視感の崩壊が、一村画では無対立のなかで実現されていることを教えられることになる。観ることの仕組みが揺るがされるのも、おそらく無対立の故であろう。しかるに現実は違っている。無秩序までに細部が細部として主体性を競い合っている。細部として創り出された植物たちの重なり具合の前後関係や、茎や葉の伸び具合が見せる交錯度合いが、各々細部を競い合っているのである。光源を明かさない明暗関係がさらに問題を複雑にしている。視座の在り処を分かりにくくしている。遠近法にも関与することになる。ともに正面観の問題である。
縦155.5×横83.2の画幅は、横軸ではともかく、縦長の視野内では然るべく上下関係が生み出されることになる。勢い視点が問われることになる。制作、鑑賞のいずれの場合であれ、画幅上には基点となる高さがあり、高さに応じて細部(ディテール)が見出されていく。それに伴って仰角や俯角が発生する。それがないのである。細部が個々に正面観を得てしまっているのである。
天地はあっても上下関係はない。たとえば、画布の天を担って表と裏を見せ合う二葉の不喰芋(クワズイモ)の大葉が描かれている。ともに正面観を得ているが、表を見せる葉の側により強く現れている。もしここに基点が求められるとすれば、地にむかってすべからく俯角となる。それが中位でも下位でも最下位でも正面観を得ている。放恣もいいところであるが、それが全体を見渡すと、細部にも全体にも緊密さが保たれることを知らされる。
すなわち、上下、斜め、横方向にと自由自在に蕾や葉先を伸ばしたり垂らしたりする放逸さが、彩色処理で再生的な構築性に置き換えられている。基調となる彩色法は、茎や葉に用いられた同色系の使い分け(明暗処理)である。明暗による濃密な前景観の強化である。茎頂の黄色の花穂や、異様な肉付き感を赤色で膨らました数顆の果実などの、原色系の色彩的効果が、さらに前景感の動態化を煽っている。
この場合、一村画に通有のクローズアップ手法は、感覚的には逆作用として働きかけてくることになる。我々の目は、勢い葉群れのなかに空いた隙間(画幅中央部)に引き寄せられてしまうからである。隙間の彼方に浮かぶ海上の三角岩(立神)の絶妙な位置関係と植物相に対する疎外的な色合いは、遠近法と言うよりはピンホール的な効果で極点化された一点と化して、前景感を後ろに残したままの奥まり方を貫いてしまう。観ることの仕組みの上では気分だけが後ろに取り残されたことになる。平衡感覚への挑戦である。
創作性の源 これこそは、まさしく絵画による創作的行為にほかならない。自然界にはありえない、また求められもしない平衡感覚である。異相性の顕現である。しかも同時平面での自律化である。異相性は、しかし圧倒的な写実力によって自然界と紙一重の関係を保っている。それが、抒情性だけでなく通り一遍の精神性の介入を拒んでいる。かえって身体性が漂う所以である。あるいは最初から身体性の顕現が企図されていたのかもしれない。
アンリ・ルソーの≪夢≫を引き合いに出せば、一村画に息づく身体性の在り処(秘密)は、より実感的に迫ってくる。艶めかしい裸体の女性を熱帯のジャングルに配していても(横たわらせていても)、アンリ・ルソーのそれは、マネキン的であるからである(そこが他にないユニークさであるわけだが、ここでは問わない)。それに対して、肉体をテーマ化しない一村画にこそ肉感的な艶めかしさが感じられる。異相性は故に濃密さと親縁的である。姿態の気配も潜めている。何人も住まわせようとしない棲家の奥の一室に漂う気配に似て秘めやかである。
孤独はどこにもない。そもそも人智のつけ入る隙がない。感応できるのは美と美に埋没した生命の昂りだけである。まさしく田中一村を駆り立て続けてきた生命である。一村が「画家の良心」と呼ぶものの源に渦巻くものである。
「画家の良心」 しかし「画家の良心」とはなんであったのか。一村の場合、表向きには写実力への絶対的な信頼であった。奄美に移る時、膨大なスケッチ帳が画家自らの手によって焼かれたという。写生は終生の日常的行為であったが、それは単に技量の獲得だけではない。修辞的に言い表せば、技量が獲得するものの獲得であった。
東京美術学校日本画科の同窓(ただし一村は入学後3か月で自主退学)で、後に「花の六年組」(昭和6年卒業組)と呼ばれた一人であった東山魁夷に対しては常に厳しかった。それも写実力に対してだった。「東山は、こんな絵を納めて描いて恥ずかしくないのでしょうか」と咎めるように評するのも、絵になる前に写実力に嘘があったからだった。一村にとって写実力とは、画業を問う以前の絶対的な条件であった。まやかしは美術ではなかった。すでに大家の名を恣にしていた東山魁夷に厳しい目を向けられるのは、それ以上に自分に厳しく向い合っていられたからであった。写実には嘘か真しかなかった。まやかしに厳しく背を向けていなければならなかった。「画家の良心」とは写実力であった。写実の真を生き抜くことだった。
一村の肖像画 ところで、一村には自画像をはじめ人物画がない。千葉時代の農村風景画に描かれた人物は、人物画とは性格の違うものである。点景でしかない。「軍鶏」(千葉時代の襖絵≪花と軍鶏≫)が自画像と評されるが、あくまで暗喩の域を出ない。興味深いのは、奄美時代の一連の肖像画(鉛筆画)である。一時身を寄せたこともあるハンセン病施設和光園の居住者や噂を聞きつけた島民からの依頼に応じて描かれたものである。家族と別れて暮らさなければならない患者たちの思いを受け止めながら、手渡された小さな写真から肉親や家族を甦らせたのである。この肖像画の存在は、「まやかし」の意味を教えてくれる。あるいは一村にとっての写実の意味を明かしてくれる。解釈ではなかったことの意味をである。
その点で、実は肖像画は解釈の範疇だった。手渡された写真(おそらく記念写真)は、焼き付けられた時の表情以上でも以下でもなかった。変化の時系列からは最初から居場所を明け渡していた。描線の強弱や塗り重ねが捉えた表情は、写実ではなく解釈だったが、解釈を解釈で済ませることができたのは、依頼者の顔(期待の顔)が見込まれたからである。肖像画の肉付きは、依頼者の(期待の)肉付きでもあった。あるいは期待が求める心の投影であった。
したがって解釈とは、依頼者のなかにある親密感を見込んだものだった。見込みそのものだった。しかも見込みには高い一般性が備わっていた。一般性のなかで完結し、それ以上を要求しないものだった。
一村は、最初から依頼者が取り結ぶ肉親・家族への親密感の外側に立っていた。「まやかし」の発生する余地は最初からなかった。関与しようがなかった。そうだとすれば、一村にとって、自画像や人物画は、実は「まやかし」であったことになる。解釈を求めるからである。あるいは解釈を容れなければならないからである。写実と抵触することになる。写実が解釈を容れないないからである。
姉のデスマスク 喜美子の「写生図(姉デスマスク)」(昭和40年(1965)5月)には、そういう意味で、唯一「まやかし」を問う必要がない行為(描画)であった。写生図とは言え、輪郭線以上ではなかったからである。輪郭線は死をなぞったとしても、解釈にも達していなかった。死一般にもなっていなかった。哲人の生まれ変わりのような一村が、一夜、人目を憚ることなく号泣して見せた。しかも泣き止まなかった。剥き出しの感情に心を露わにしてみせた。
結局、輪郭線が象ったものは、死でも生でもなかった。写生ではなかった。したがって輪郭線は指先だった。姉の顔に触れる指先だった。その時の感触だった。感触であるものは、感触以上でも以下でもなかった。故に「まやかし」ではなかった。画家の創意にとってだけまやかしだった。それでも創意は、その時、画家の身体を離れていた。
姉の死とはそれほどのものだった。創意を全てとする画家から創作の魂を奪い取ってしまう。生涯で最初の喪失体験だった。再び画家に訪れた創意が、最初に要求したのは、喪失の埋め合わせであるよりは喪失の理解であった。
感触を呼び戻すしかなかった。感触の回復こそが、喪失の理解でもあった。一村は姉なしには生きられなかった。骨壷を抱えて奄美に戻った一村は、骨壷が見詰める部屋のなかで制作に励んだ。「喜美さん」と一村は姉を呼んでいた。千葉時代のように完成した作品を最初に観るのは姉の喜美子だった。しかし、すでに評価は期待できない。批評してもらえない。それでも姉の批評が必要だった。もはや画家自らが姉になり替わるしかなかった。しかし、性を異にする姉の身体を借りることはできない。画家は気が付くことになる。姉の不在が身体の不在であり、自分の身体では不在を埋め合わせられないことを。絵筆に新たな必然性が見出されようとしている瞬間であった。
情愛の中の姉 弟は姉を愛していたのである。繰り返し語られてきたことである。しかし単なる姉弟愛ではなかった。男女愛が一方を失って起こる喪失感は、ときに一方を死にも追い遣るが、多くは次の愛によって埋め合わされる。恋人は次の恋人によって置き換えられる。しかし姉(実姉)には代わりがない。唯一絶対の存在(体)である。
回りくどく言っても仕方がない。これは、姉の死によって気付かされた「生理的愛」である。感触が必要なのはそのためである。姉の死を前提とする感触である。しかし、直接的な画題化から疎外され続けなければならない分、「感触」の絵画的実現には困難を極める日々が続いた。あの絵(≪不喰芋と蘇鉄≫)の創る不思議を思う時、究められた絵画的実在性が、我々と同じ人の手によって成し遂げられていることに再び心を揺るがされる思いである。一過性の音とは違うもの。同じ視覚性を伴いながらも意味から入る文字言語とは出会い方が異なるもの。しかるに最初から結果として立ち顕れているもの。意味の連鎖とは切り離された世界であると同時に、意味から切り離された側に立つ人であること。まさに別な人。永遠の別人。それが田中一村である。
3 おわりに~一村年譜に替えて~
もともと体系的な田中一村論を目論んでいたわけではなく、今も家の一室に貼ってある展覧会ポスターに言葉を寄せたかったからである。そのためもあり、ほとんど自己納得的な綴り方に終始している。最後に外に目を向ける意味合いで、本来なら冒頭部分に持ってくるべき一村の年譜に関心事項を任意に取上げる形で触れておく。以下では上掲展覧会図録の「年譜」に沿いながら、巻末に挙げた『評伝』・『伝記』から関係記事を拾う。
東京時代 明治41年(1908)、栃木県下都賀郡栃木町(現栃木市)にて、父・田中彌吉(彫刻師)と母・セイ夫妻の6人兄弟(女2人・男4人)の長男として誕生。本名は孝。6歳の折、教育熱心な母の強い希望もあり、一家は東京に転居する。転居地は東京市麹町区三番町。大正4年の7歳時(満年齢、以下同じ)に父から米邨の画号を授けられる。父の画号稲邨に由来する。稲の子であるから米であったことに拠っている。児童画展で天皇賞を受賞。7、8歳時の作品が展覧会場に数点掲げられていたが、思わず唸らされてしまうような早熟の筆技である。あまりの出来に後年、入学した小学校(四谷上六小学校)の教師からは、宿題画を提出したところ、親の助けで描いたと疑われることになる。居並ぶ大人たちの前で筆技を披露する(させられる)こともあった。売り絵を兼ねたイベント(画会)であったが、それ以上に息子が自慢でならなかった父の企てであった。
大正10年(1921)、私立芝中学校に入学。成績は常に上位で特待生(授業料免除)の扱いを受ける。関東大震災(大正12年)の際は、一時、房州小湊で転地療養中(結核)であったため難を逃れるが、幸い、家を失ったものの一家も全員無事。被災後、南画界の重鎮小室翠雲邸に仮寓(父彌吉と翠雲が相識の間柄)。南画家の大家のもとでの生活は、一村年譜に南画時代を画することになる。南画体験は、同画精神の体現(東洋精神的な体現)となって、生涯に亘って一村を反時代的な態度を採らせる原点的体験になる(湯浅2001、31頁)。一村の技量は、翠雲からも高い評価を得ていたが、大正14年、一家は四谷坂町にの借家に転居。
大正15年、芝中学を次席の成績で卒業した一村は、同年4月、晴れて東京美術学校日本画科(現東京藝術大学)に入学。しかるに3か月足らずで自主退学。再発した結核の養生を要する上に、父彌吉が病に倒れ、一家の生活が一気に困窮に瀕するようになったため。才能を惜しんだ学校側は、授業料免除を申し出たが結局退学の道を選択。同期生には東山魁夷ほか逸材が揃っていた。後年(千葉時代)、公募展等で落選を重ね、画壇に背を向けた孤独な制作者へと画家を追い遣ることになるが、落選の度に経歴(アカデミズム脱落)を痛感させられることになる。
その後の東京時代は、顧客の求めに応じた日本画の制作や副業(木彫細工)に生活費を得る日々のなかで、家族の悲しい死を幾度も迎えながら31歳(昭和13年)まで続く。この間、転居も幾度か重ねた。
千葉時代 昭和13年(1938)5月、千葉市郊外の千葉寺町に転居する。千葉への転居は、借家ではなく家の新築だったこともあり、生活の転機にもなり制作に弾みをつけるものともなった。既述したように千葉時代はほとんど姉と二人切りの生活ながら(その生活状態は既述に譲る)、近隣には転居のきっかけとなった、一村の才能を高く買っていた叔父(川村幾三)がおり、同家を足繁く訪れていたほか、叔父を通じてさらなる理解者を得ていくことになる。いずれも長く一村の支援者となる人々(千葉大学医学部関係者ほか)であった。
売り絵を描かないと宣言する一村の生活は、自給自足で賄われたとは言え、窮乏生活の連続だった。理解者たちの制作依頼は、そんな一村の自尊心を傷つけない形で行なわれた。そのお陰で、千葉時代の作品が、今の依頼者宅に残されることになった。
終戦後の昭和22年(40歳)、新しく生き直す意味を籠めて、画号を「米邨」から「柳一村」に変える。改号は、「山重水複疑無路/柳暗花明又一村」(陸游「遊山西村」)の七言詩に典拠すると言われるが(本人弁)、奄美時代には「田中一村」が使われる。その本になったと推測される漢詩が紹介されている(中野1999、60~1頁)。「生為村之民/死為村之塵/田中老與幼/相見何欣欣/一村唯両姓/世世為婚姻」(白楽天「朱陳村」)。
新たな画号を得た一村(柳一村)は、翌年(昭和23年)、公募展への出品を試みる。一村なりの戦後のスタートであった。まずは地元の千葉展で何作も入選を果たす。その勢いを借りて川端龍子が主催する青龍展に応募する。在野展とは言え、権威のある青龍展で見事入選を果たし、一時未来が切り拓かれるかに思えたが、同年秋の20周年記念清龍展に出品した自信作≪秋晴≫は落選となってしまう。予備作であった≪波≫が代わりに入選するが、落選作が入魂の自信作であったために入選を良しとしないで、主催者龍子を詰問の挙句、入選を辞退するに及んで、龍子と絶縁し自ら前途を閉ざす。展示会場(千葉市美術館)での落選作からは、本人の怒りにも似た無念が浮かび上がってくるかのようだった。
公募展への出品はこの後も続けられる。昭和28・29年の日展、昭和32・33年の院展。いずれも落選に終わる。画壇のなかに生きる道はすでになくなっていた。孤絶性が加速されていくことになる。
公募展出品とは別にカメラへの関心が高まる。一村にカメラ技術を教えた千葉市在住の高橋伊悦によれば、早々に芸術写真の域に達する腕前に達していたという。姉喜美子をモデルにした数葉の写真が残されている。はじめての「人物画」であった。性格の異なる2種類の写真からなる。背景となる深い闇のなかに顔面だけを怪しげに浮かび上がらせた連写作品(4点)に対して、対照的に明るい背景の2点。明色写真には怪しさが消され、かわりに弟への愛情に溢れた笑顔(慈母の笑顔)が写しだされている。前者に「女」、後者に「姉」を読み取るのは容易い。その後の奄美時代を通じて、カメラ(二眼レフ)は、一村芸術のパートナーとなって活用されていくことになる。
千葉時代に特筆される出来事は、旅の経験である。最初の旅は、制作依頼に伴うもの(昭和30年3~5月)。能登半島の付け根羽咋市に創建される聖徳太子殿の天井画(薬草画)49面の制作であった。外因契機ながら、おそらく最初の「外遊」であった。思うところがあったのか、同年6月には九州・四国・紀州ほかに足を延ばし、各地を広範囲に巡ることになる。旅の成果ともいうべき色紙作品(風景画)は、室内作品にない、後の奄美を予告する作品群になっている。
奄美時代前期 昭和33年(1958)12月、家を売却し、その資金を元手に奄美への渡島が決行される。姉を縁者宅に身を寄せさせて、姉と別れてはじめて独りとなった単身生活であった。時に50歳。身を寄せたのは島北部の名瀬市。奄美時代前期の開始である。
投宿(下宿)先は、その後約半年を過ごすことになる、元遊郭街にあった料亭をアパートに改造した一室。異郷での日々は、まるで若い画学生に立ち返ったような気分に一村を包み込んで、刺激的な毎日を送らせた。さらに南海にも足を向けさせた。与論島や沖永良部島であった。
別世界に生きているかのような気分にあった最中、一通の手紙が手元に届けられる。姉が縁者の家を出て住み込みで働きはじめたという知らせだった。姉には預かり知らない手紙であった。心配をかけまいと内緒で決断された住み込みだった。姉の思いを踏みにじったに等しい手紙(知人にすれば良しと思って送った報せ)に怒りさえ覚えた一村は、同時に激しく姉を思った。その思いを隠して認めた返書(知人との絶縁状でもあった長状)には、かえって姉に対する一村の強い思い(思慕)が表わされている。
その姉に関係したくだりのみ掲げれば――「今私は実に楽しく絵をかいて居ます。絵が楽しくなると正反対に私の言動は狂人に近くなります。この私の致し方ない性格をよく承知して共に苦しみ協力してくれたのは姉一人です。」「私が千葉に帰るときは必ず乞食ですよ。乞食で帰っても受け入れてくれるのは姉一人だけです。」「今日は山からヨモギを取って来てスイトンに入れ、黒砂糖をかけて食べました。千葉寺で米を買う金がなくてスイトンのゆで汁から丼を洗った水まで、姉と一緒に飲んで勉強したことを思い出し泣きました。」などである。
来島後半年を経た昭和34年秋、新たな投宿先に移る。ハンセン病施設和光園の一室であった。意気投合した園専属医師との共同生活であった。同園で肖像画(上述)ほか園発行誌(「和光」)の表紙絵を描いた。南国の植物や野鳥の写生も日増しに密度を増していった。さらに1年半が経った。予定より早く帰葉の途に就くことになる。今回も支援者たちの計らいがあった。資金不足を案じて先行きに不安を抱きはじめて頃だった。最大の支援者の一人であった医師(岡田氏)が、息子の結婚式のためにと襖絵を注文したのである。結核からわが身を救ってくれた命の恩人でもある岡田医師の依頼だった。喜んで引き受けた一村は、岡田家の襖に絵筆を揮うことになる。傷つかないようにして千葉に呼び戻してくれたのである。
戻ったのは昭和35年(1960)5月。逗留先(画室付き)も岡田医師の配慮で国立千葉療養所の所長官舎が用意されることになる。同画室では注文作品の襖絵だけではなく奄美の作品も手掛けられた。完成した襖絵(紅・白梅図)を嵌めた一室で結納が執り行われる。岡田家の結婚式後も千葉に留まった。慰留されたのである。やがて「事件」が起きることになる。
一村の見合い話である。意外なことに話が進む。大詰めを迎えた段階で岡田医師氏と一緒に結婚話を進めていた叔父の川村氏のもとに姉が呼び寄せられる。同意を得るためだった。それまで喜美子には何も知らせていなかったからである。冗談めかした感じだったと言う。「私が邪魔ならいつでも言って。いつだってお嫁さんもらっていいわよ」と。
しかし、その後だったという。岡田家の娘不昧(一村伝における重要な証言者の一人)がお茶を淹れに台所に下がった折、その後をついて来た喜美子が不昧に声をかける。やはり冗談めかしを装っていたようであるが、すでに感情が高ぶっていたのか声高になっている。「不昧ちゃん、私も結婚しようかしら。市役所には結婚相談所っていうのがあるわよね。私だって幸せになる権利があるわよね!」
この姉の投げやりとも言える一言が、一村の胸に突き刺さる。見る見るうちに顔色を変えた一村は、その場で次のように言い放つと、そのまま席を立って帰ってしまう。「川村さん、この結婚話はなかったことにしてください。岡田先生には私から直接お断りしてきます。」
こうして結婚話を断った一村は、再び奄美に向かって千葉を後にする。今度は不帰の渡海であった。
奄美時代後期 昭和36年4月(53歳)、立ち戻った一村は、一戸建ての借家に落ち着く。豊かな自然環境のなかに在る名瀬市有屋であった。以後、16年に亘る棲み家となる。アトリエからは多くの名作が生み出されていくことになる。
翌年からは地元の紬工場に働きに出る。画業大成のための資金稼ぎだった。「5年働いて3年描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」(画家によるスケッチブック上のメモ)。10年計画は、千葉での個展を除いて見事に達成される。薄給ながら画材(上野から取り寄せていた)以外に浪費することない一村の自給自足生活は、必要な資金を得ると、計画通りに絵に専念する3年間に移行する。特別な3年間だった。5年間を労働に費やしたからだけではなかった。それ以上に一身上の出来事のためであった。
この間に最愛の姉を失っていたのである。働きに出て3年目だった。一村57歳、喜美子60歳。脳溢血だった。倒れた報せを受けた一村は千葉に急行した。すでに危篤状態だった。必死の看病の甲斐なく、一か月半後、意識の回復を見ないまま旅立ってしまう。姉喜美子の遺骨を納めた骨壷を手にして奄美に立ち戻る。69歳時、田中家の墓地のある栃木市の寺院(万福寺)に自らの手で納骨を済ませるまで、姉の骨壷は長く一村のもとに止まった。二人切りの生活の再開である。特別な3年となる所以であった。この3年間に奄美時代の代表作の大半(≪アダンの海辺≫ほか)が描かれるか、着手されることになる(≪不喰芋と蘇鉄≫)。3年間は見事に使い果たされたのである。
再資金のために計画通り再び仕事に出る。62歳時での再就労だった。2年が過ぎ再び職を離れる。すでに身体の不調を抱えこんでの再挑戦だった。あるいはこれが最期かと余命の覚束なさを覚悟した絵筆であった。
一村の最晩年には幾つかの出会いがあった。孤独が癒される邂逅だけでなく、一村亡き後、生前果たせなかった個展の開催を一村になり代わって推進した人物(宮崎夫妻)も含まれていた。有屋の借家の一村を撮影した貴重なポートレイトが残されることになったのも、本を質せば宮崎夫妻との出会いに負っている。夫妻のもとで働いていた青年を通じて、本土の写真家や画家が一村のもとを訪ねることになったからである。島に大変な画家がいる。ぜひ会った方が好い。青年は呼びかけたのである。その折のポートレイトである。訪問を受けた折の一村の応対振りもまた興味深いが、貴重な最晩年の一村の姿を残すことになった人との出会いは、孤高者には格別に風情のある逸話である。
いずれにしても、宮崎夫妻に生涯の大作≪不喰芋と蘇鉄≫に委ねた決断こそが、すべてのはじまりだった。何度も意識を失い、転倒することもあった健康状態は、油断のならない危うい状態になっていた。脳梗塞で倒れた時(69歳時)は、再び絵筆を握れるか危惧される深刻な状態だった。強靱な哲人の気力はそんな状態からも画家を奇跡的に立ち直らせ、再び筆を握らせる。しかし、すでに先が長くないことを予測したのか、体力が残っている内にと、一度千葉行きを決行する。姉の納骨と叔父の川村宅(叔父は既に他界)に残してあった品々の身辺整理(奄美への送付)のためであった。後に一村研究の基礎資料となるこれらの品々を遺品として大事に保管してきたのも宮崎夫妻である。千葉は千葉で川村家や岡田家によって作品が大事に保管されていくことになる。
有屋の借家を立ち退かなければならなくなる。区画整理のためであった。新たに斡旋された借家は、まるで「御殿」のようだと、住み慣れた有屋を離れなければならない一村を慰めた。農作業用の物置小屋であったが、もとは人家として建てられたものだった。住環境も申し分なかった。一軒家の周囲には豊かな自然が広がっていた。前には斜面地が広がっていた。眺めも良かった。
しかし、「御殿」には10日余りしか住めなかった。転居して11目の朝、すでに動かなくなっていた一村が、貸主によって発見される。畑仕事に出かけてきた貸主と一村は毎朝挨拶を交わしていた。いつまで経っても姿を現さないのを怪しんだ貸主が、台所の脇の四畳半の畳みの上でうつ伏せに倒れ込んでいた一村を発見したのである。前夜、夕食の支度中に倒れたのである。急性心不全であった。昭和52年(1977)9月11日の夕刻であった。享年69歳であった。『評伝』はその最期の姿を次のように綴る。
一村が倒れていた部屋には、伸ばした右手の先に包丁が落ち、まな板の上には刻みかけの野菜がのり、その近くには刻んだ野菜の入ったボウルが転がっていた。まだ電気の通っていない冷蔵庫には、牛乳1本とかぼちゃを煮てつぶした保存食の残りが入れてあった。遺体の傍らで、未完に終わったが画布から、ルリカケスが言問いたげに動かぬ一村を眺めている。(同書、199頁)
亡くなる5か月前のことだった。納骨のために栃木市の寺を訪れた一村は、田中家の墓地がそのままに残されていることを知って喜んだ。無事納骨を果たすことができるからだけではなく、自分もいずれ同じ墓に入れることを知ったからである。そして、一村の遺骨は、生前の願い通り栃木市万福寺の田中家の墓地に葬られた。姉との再会、そして永遠の同住の再開であった。
没後の一村 生前果たせなかった個展(名護市内のホテルを会場に計画されていた個展)は、翌年、名護市中央公民館で「田中一村画伯遺作展」として開催される。わずか3日間の開期であったが、予想を大幅に上回る3,000人が来場した。やがて一村画伯の噂は、NHK鹿児島放送局の一ディレクターの知るところとなり(亡くなって2年後)、地方放送ながら「幻の放浪画家――田中一村」として放映(15分)されることになる。それ以後は拡大の一歩を辿り続ける。同年、九州全域放送(今度は30分)の運びとなり、さらなる大きな反響を受けて、終に昭和59年12月16日の全国放送の運びとなる。しかも美術放送としてはもっとも影響力のある『日曜美術館』である。「黒潮の画譜――異端の画家・田中一村」であった。その後、数多くの展覧会が全国巡回展として行なわれ、生誕100周年記念(奈良県立万葉文化館『生誕100年記念 田中一村展――原初へのまなざし』2008年)を経て、2010年の千葉市美術館展(『田中一村 新たなる全貌』)となる。――なにかのはじまりであった。
引用・参考文献
小林照幸『神を描いた男・田中一村』中公文庫、1999年(初出は中央公論社、1996年)。
千葉市美術館・鹿児島市立美術館・田中一村記念美術館編『田中一村 新たなる全貌』2010年。
南日本新聞社編(中野惇夫著)『日本のゴーギャン 田中一村伝』小学館文庫1999年(初出は『アダンの画帖 田中一村伝』道の島社、1986年)。
湯原かの子『絵のなかの魂 評伝・田中一村』新潮社、2001年。