はじめに
詩のブーム 日夏耿之介のインパクトは詩作品だけではない。名前(ひなつこうのすけ)の放つおどろおどろしい響きや、豪華な全集本(河出書房新社)の装丁によっても引き寄せられる。亡くなったのは昭和46年(1971)6月13日で、全集第一巻(『日夏耿之介全集 第一巻 詩集』)が刊行されたのは、その2年後の1973年6月30日である。日夏耿之介との出会いはこの全集によってであったが、きっかけは所属していた文芸サークルの先輩の書架の棚上であった。発売直後だったと記憶している。金額から言ってもなかなか学生が揃えられるようなものではない。幸い居住地の私立図書館(〝もう一つ〟の自室書架)の新着コーナーで再会できることになる。
詩のブームだった時代である。今では信じられないが、詩書専門の書店も盛況だったのである。同人誌の路上販売も日常風景だった。そんな時代だった。そうでなければ、いかに志の高い河出書房新社といえ、このような全集本が容易に出せるわけがない。巡り合わせであったとしても、日夏耿之介には幸いした時代状況であった。
日夏耿之介論は、日本近代詩の上からも、また独自の詩学の上からも試さなければならない課題である。以前から考えていたことである。構想もあった。しかし今回は展開できるだけの時間が足らず、体系的な詩論は後日としなければならない。代わりにいくつか小題を掲げることとした。後日論の備えともなるはずである。その前に簡単に年譜に触れておく。
略年譜 本名樋口國登は明治23年(1890)に長野県飯田市に生まれる。先祖は清和源氏に通じる名門という。飯田の旧家である。祖父は土地の神主で多数の書画骨董ほか書冊を収集した文人でかつ学究肌(地方の考古学者)でもあった。後に銀行家となり県会議員も努める。やはり銀行家であった父親(婿入り)も文芸に長けていた由である。経済的にも環境的にも恵まれた幼少期であった。地元の高等尋常小学校から13歳で中学校(飯田中学校)に入学。一年後、上京して小石川白山御殿の叔父(大学教官で後に衆議院議員)の家から東洋大学付属京北中学校に転学。明治39年(1906年、16歳)になって神経衰弱により2年休学。その後退学。明治41年(1908年、18歳)で早稲田大学高等予科に入学。明治45年・大正元年(1911年、22歳)に同人雑誌『聖盃』刊行(7号まで刊行して8号からは『仮面』に改名)。同人は西条八十ほか。日夏耿之介の筆名をはじめて用いる。
大正3年(1914年、24歳)早稲田大学文学科卒業。同年9月、東京の病院にて父藤治郎死去(58歳)。精神史的出来事となって詩人のその後の内面に大きな影を落とすことになる。鎌倉に転居した大正5年に芥川龍之助、萩原朔太郎と親しく交友。その後堀口大学などとも親交を結ぶ。大正6年(1917年、27歳)に第一詩集『轉身の頌』(光風館)を刊行。その後の詩集刊行を記せば、第二詩集『黒衣聖母』(アルス)が大正10年(1921年、31歳)、第三詩集『黄眠帖』(第一書房)が昭和2年(1927年、37歳)、最後の第4詩集『咒文』が昭和8年(1933年、43歳)。詩集には改定版や全集版などがあり、掲載作品の増減ほかその都度筆が加えられる(より難解と化していく)。
職業歴ほか人生歴としては、大正11年(1922年、32歳)に早稲田大学文学部講師に就任。翌々年に結婚(相手は再従妹にあたる中島添)。昭和6年(1931年、41歳)同大学文学部教授。昭和10年同大学辞任し(神経衰弱のため)、鵜沼海岸にて転地療養。昭和20年(1945)郷里飯田に疎開。翌21年帰京。昭和27年(1952年、62歳)に青山学院大学教授に就任。昭和28年第一回飯田市名誉市民に選定される。昭和31年(1956年)脳溢血の発作で昏倒。その後、郷里飯田に新居を構え、移転後は亡くなるまで飯田にて暮らす。昭和36年(1961年、71才)同大学辞任。飯田にて文人的日々を過ごし、地元との交流を重ねながら昭和46年(1971年、81歳)同地にて逝去(樋口國登大人命靈)。
著書には詩論・文学論・翻訳書などの多くがある。詩論から一冊だけ掲げれば大著『明治・大正詩史』上・中・下巻(昭和4年(1929)、39歳。昭和24年に改訂増補版刊行)がある。翻訳書にはポオ、バイロン、ワイルドなどの詩書がある。学匠詩人たる業績の一つを上げれば、文學博士を授与された『美の司祭―ジョン・キイツがオウドの創作心理過程の研究』(三省堂、昭和14年(1939、49歳))がある(河出書房新書全集第六巻『美の司祭』)。
一題:隣家関係~日夏耿之介と柳田國男~
敷地内の記念館 日夏耿之介の生地飯田の市美術博物館の敷地には、日夏耿之介が晩年を過ごした住宅が、「日夏耿之介記念館」として復元・公開されている。筆者も以前訪れたことがある。隣接して「柳田國男館」(世田谷の自宅書屋を移築したもの)が建てられている。その時はじめて知った。
柳田関係の施設があるのは、同地が柳田國男の養父家である柳田家の先祖地であったからだった。養父直平は旧飯田藩士であった。旧姓松岡の柳田國男は兵庫県で生まれ、長じて後、養父柳田直平の養嗣子となって(26歳時)、後にその四女(孝)を妻とした。以後、飯田を訪れることも多くなり、飯田民俗学の発展にも大きく寄与する。自然な成り行きであった。「柳田國男館」が誕生したのもその延長である。
しかしそれだけのことだったのだろうか。たしかに養父の郷が飯田であったことは偶然であった。「柳田國男館」の成立(移築)も1989年(没後27年)のことである(因みに日夏耿之介記念館も同年にかかる設置)。したがって移築も復元も元の屋主たちの与り知らぬところで企てられたことである。柳田國男にとってもまた日夏耿之介にとっても予期せぬ隣家関係(隣組)である。
それだけになんとも味わい深い建ち並び方であることか、そう思われたのである。そしてこれは偶然の成り行きではなかったのではないか、そうも思われたのである。なぜなら柳田國男の出発点は新体詩にあったからである。しかも日夏耿之介は、その詩(松岡國男の詩)を上掲大著のなかで少なからず論じているのである。この経緯を考える限り、この邂逅が飯田の地で果たされていることが、偶然を単なる偶然ではなく、奇縁以上の必然にしているのである。以下のとおりである。
新体詩人・柳田國男 柳田は生前の全集版に新体詩人時代を載せることを固辞したという。その理由を「あれはいやなもんですよ、我ながら実に不愉快なもんだね、腹の中で思うていないことばかり言うておるんだよ」と対談で語るほか、別の著書(『故郷七十年』)では、自作を藤村と比較して「お座成りの文学」だと断じて振り返る気にもならないと一蹴しているが、「ちくま文庫版全集32」(1991年)の「解説」(岡谷公二)でも指摘されているように、当時は諸氏から高く評価されていたのである。特に岩野泡鳴は「抒情詩第一人」と称していたようである。泡鳴の件は、日夏によるくだりであるが、全篇辛口で一刀両断的な日夏耿之介の評もまた悪くないのである。「松岡國男は情繊く柔らかにしてしかも狂気に逸せず、静謐な理知の円座に単坐して、流麗な少年の感情を稚醇の律語に盛る」と記すのである(巻之上・226頁)。そして『野辺のゆきゝ』(明治30年)から「暁やみ」「都会の塵」「一夜」の一部を紹介している。上掲文庫版全集から同詩を引いてみよう(ただし任意の聯)。
君がかど辺をさまよふは
ちまたの塵を吹きたつる
嵐のみやとやおぼすらむ、
其のあらしよりいやあれに
その塵よりも乱れたる
恋のかばねを暁の
やみは深くもつゝめるを、
君がかきねの草の葉に
おきてはかわく朝露に
力無きわが夜もすがら
亡きし涙もまじれりと
誰かは知らん、神ならぬ、
とてもはかなき恋なれば
月も日もなき闇の中を
なきては帰り来ては泣き
わが世は尽きむかくながら、
以上は、「暁やみ」(計3聯)の第一・第二聯である。
君が園生の花うばら
ちりて乱れていつとなく
みやこの塵にまじるなり
都の市にたつちりを
何いぶせしと厭いけん、
うれしき君が住むやども
みやこの中にあるものを、
「都の塵」(計6聯)の第一・第二聯である。第一聯を引いて松岡詩の感情の特徴がよく顕れているとする。泡鳴の言に触れられるのはその続きである。「稚さは独歩に近いが、控え目に表現するので、泡鳴のごときは、その消極風可憐美を賞して『抒情詩』第一人と称した」のとおりである。
空てりわたる月かげは
小窓に見えて隠れけり、
とてもかなわぬ願ゆゑ
我は泣くなり夜もすがら、
「一夜」(計3聯)の初聯である。日夏耿之介は言う――「此の真情の美しさは真実の純情伸びであった。よしんば後年の努力が詩の上に行はれたとしても彼は到底大規模の詩人ではない。が、只萬人に愛せられる性質の詩人にはなり得たらう」と。ここに来て衝いて出された辛口には、柳田も思わず苦笑を浮かべるかもしれない。褒め言葉ばかりでは聴く気にれないだろうからである。いずれにしても当代切っての学匠詩人の評言である。しかも世に驚きをもって迎えられた大著の中での正当なる詩史的・詩学的評価である。編集者の要請には固辞で応じた柳田國男も、「お隣さん」の言には耳を傾けなければならないだろう。しかもここは飯田である。それがさらに柳田國男に文学の昔を回想させることになる。この点が重要である。奇縁を必然に見るべき所以である。
何となれば、人知を超えた飯田の風土の為せる業だったからである。南信における中心地、それも文化的な発信地である飯田が、自ら招き入れた、予定していなかった「民俗学の父」と「学匠詩人」との邂逅だったのである。この場合、飯田を直接の生地とする学匠詩人が受け入れ人となるが、民俗学の父もその受け入れに対して、研究所を兼ねた「自宅書屋」を以ってしたのである。言い方を変えればこの邂逅は、「智」の出会いであり、隣家関係とはそこから生まれる誼であったのである。市美術博物館の館内では、加えてかの菱田春草も待ち構えているのである。深遠なる智者たちは、果たされるべくして果たされたような邂逅劇を演じて見せているのである。
このように飯田市は、伊那谷(南信)の文化的発信地であった。しかもその根は深い。根幹には外来文化があるからである。古墳時代の飯田は、渡来文化の摂取地であった。馬匹生産である。韓半島と深い繋がりがあったのである。特異な石室構造をもった古墳や馬葬壙、渡来系の出遺物が、かの地との濃密な関係を物語っている。
面白いことに日夏耿之助の祖父は地方の考古学者だった。ただここで言いたいのはそのことではない。それに日夏耿之介自身は古美術には関心があっても考古学者ではない。したがって詩人と直接関係する話ではない。それに飯田の歴史としても、いくら特徴的な文化現象だったとしても年代的な古さもあり、近代の飯田に直接繋がるわけではない、それ自体は飯田の歴史の一部でしかない。しかし、それでも日夏耿之介に繋がるものがある。地形である。伊那谷の景観である。この景観に古墳文化を呼び込む誘因力があり、学匠詩人の誕生を予告するものがあるのである。渡来文化を引いたのも渡来性が同地の景観に似つかわしいからである。
天竜川が造った広々とした河岸段丘に開けた城下町に立って、前面後背を画する山並みを見上げる。画されたと言えども、自由な思索に開かれた開放感に溢れている。同じ谷あいでも西に並走する木曽谷とは違う、アカデミズムの香がある。そして、その城下に一人の少年が立つのである。日々の思いを自己の確立に募らせて山塊上の虚空を見上げる姿からは、すでに将来の詩人の姿さえ浮かぶのである。伊那谷に相応しい姿である。
二題:耿之助と藤村
飯田と馬籠 伊那谷の文脈の延長として後日のために指摘しておきたいのが、島崎藤村の馬籠である。伊那谷と木曽谷とは、険しい山並み(木曽山脈)で隔てているために、一見、地理的のも遠隔で社会関係でも疎遠な感じがするが、地理的には背中合わせである。また街道(大平街道)も通じている。その上で両者の違いを思うのである。狭隘な木曽谷の馬籠宿の少年が見たもの(抒情)を、広々とした伊那谷の飯田城下の少年は、後の高踏的精神に向けたなかに、その準備としてなにかを(邪に)視ている。景観がそうであるように、両者は文学的にも背中合わせで違う方向を向いている。これが従来のイメージであった。
しかし必ずしもそう言い切れないことを、日夏耿之介の随筆(「飯田之記」「飯田かたぎ」)に知り、さらに随筆の上に初出時(大正6年)の序(「詩集轉身の頌序」)に綴られた「性心史」の内声を知ったのである。未だ煮詰まっていないが、表出したものの比較ではなく、表出に至るまでの発声力が拠り所とする精神的在り処を課題化すべきと悟らされたのである。
実に強い執着だった。高踏詩人の源泉であると認識しなければならない。詩論としても設定されなければならない。「日夏少年」の一項としてである。年齢としての「日夏少年」だけではない。後年の心の中のそれとしてでもある。
その時見えてくるのは、むしろ近しい存在形態下にある日夏耿之介と島崎藤村の両者である。と言ってもありがちな「日本回帰」でもなければ、硬派な詩魂の軟化を目論むものではない。むしろ、戦前に閉じられてしまった近代詩の可能性を再確認するためである。景観論も新たな姿形を浮かび上がらせるはずである。個別(谷景観)を超えた次元を目指すからである。説明なしに提示してしまうと、あらたな誤解を招きかねないが、「中部高地」あるいは「甲信越」という枠組みである。このなかには西脇順三郎の生誕地(新潟県小千谷)も含まれることになる。
藤村の「ふるさと」詩 具体的には比較的な「ふるさと論」となるはずである。ふるさとを如何に詠うか、それはそのまま日本近代詩の核心に触れる問題であるからである。相互比較によって抒情の「質」の位相の違いが見えてくるはずでる。上掲課題に答えるためには、さらにその違いを源にまで辿らなければならない。
以下に掲げる藤村の「ふるさと」詩は、次に一題として立てる日夏耿之介が詠う「ふるさと」詩を念頭にその相互比較として参考までに掲げるものであり、同時に先行的に課題に立ち向かおうと企図するものである。日夏耿之介自身が、上掲大著の中で、『若菜集』収載のこの詩「秋風の歌」を、藤村の中では良い詩と評していたからである。日夏耿之介の源泉に遡れるかもしれない。そう予感したからである。しかし、藤村氏に対する評言はそれ以前に止まって、「抒情」に対する批判的態度から先に出ていない。当然、両者の近しさは見えてこない。逆に遠ざかるばかりである。言い訳染みているが、ここからはじめなければならないのである。
秋風の歌
さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞いたちさわぐ白雲の
飛びて行くへも見ゆるかな
暮影高く秋は黄の
桐の梢の琴の音に
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり
ゆうべ西風吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆうべの鶉巣に隠る
ふりさけ見れば青山も
色はもみぢに染めかへて
霜葉をかへす秋風の
空の明鏡にあらはれぬ
清しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみぢ葉にきたるとき
道を伝ふる婆羅門の
西に東に散るごとく
吹き漂蕩す秋風に
飄り行く木の葉かな
朝羽うちふる鷲鷹の
明闇天をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
羽に声あり力あり
見ればかしこし西風の
山の木の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉を落すとき
人は利剣を振へども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時世をのゝしるも
声はたちまち滅ぶめり
高くも烈し野も山も
息吹まどはす秋風よ
世をかれがれとなすまでは
吹くも休むべきけはひなし
あゝうらさびし天地の
壺の中なる秋の日や
落葉と共に飄る
風の行衛を誰か知る
『万葉集』風に言えば、反歌を先に持ってきた結構である。趣意は単純明快で擬人化した「秋風」に自らを重ねて、秋風にまつわる周辺を感傷主義の単語として正格の文語で文修する。しかるに心地良さに反して平滑化に失墜しかねない七五調を、「ふりさけ見れば」と立て直したり、「清しいかなや」と詠嘆を強めたりして、変調気味に抑揚をつけてみせるほか、思わせ振りに「道を伝ふる婆羅門」と不意打ちを喰わせてみせる。
しかし、それが詩想に関係しているわけではないし、語としての強みも尻つぼみになってしまう。あえてすれば、人生訓的な「人は利剣を振へども/げにかぞふればかぎりあり/舌は時世をのゝしるも/声はたちまち滅ぶめり」が、なにか詩人の過去や現在と関係しているのかを疑わせるものの、終聯二聯のための前振りでしかないことがたちまち判明してしまう。
ここに「秋風」を詠わなければならなかったのはなぜか、詠嘆も感傷主義もものともせずにすべてを許す詩人の心に在ったものはなにか、詩人という存在形態からあらたに自己を発見させるものはあったのか、そんな必要はなかったのか、ただ自己納得的に心の諧調を文字に定着させればよいだけだったのか、事実、そうなっている。
せいぜい自問自答となるのは、「秋風」がどこの秋風であっても構わなかったわけではないことであって、では何処のといえば、それは一般名詞としての「秋風」がそのまま固有名詞のなかで吹き渡るそれでなければならないこと、あるいはそうした時空でなければならぬこと、異境(宮城野)にあればさらに固有名詞化を自己に促し、促すことが自己そのものであること――それなのにその名(木曽谷)をあえて挙げないのはなぜか、否、名を上げえないことによって詩に仕立てられる思念であるもの、では思念とはそのとは――。
問題は、詩(韻文)の上では名を潜めて叙景を控える詩人が、小説家となるに及んで、叙景化された時空と固有名詞で切り結ぶ表象世界に転じたことである。しかも早々とである。しかも未接続状態で。この転身が語るのは、未接続がなる故に、かつて詩が詩として成立していたことである。別物である両者――これが、その後の近代詩に大きな刺激を与えた抒情詩の出発点の実態である。それをあえて良い詩とした日夏。そういうつもりではないと異を唱えられるかもしれないが(自作がそれを雄弁に物語っている)、課題への入口である。
三題:日夏耿之介の「ふるさと」詩
耿之介詩の詩読例 ところで郷土を直接的な詩材としない耿之介詩にあって、以下の詩を「ふるさと」詩と捉えられるのは、なるほど「飯田か」と具体的な想像が働く固有名詞が使われているからである。合わせて「久遠偶像」なる詩題であっても、組まれた先は「心の郷土」とした「節題」中である。以上によって「ふるさと」詩として良いことになる。
ただ問題はこの詩のみで一節が編成されている点である。また代表作である第二詩集『黒衣聖母』の巻末に置かれている点である。特別な意味合いを籠めたことによるのか、それとも単に「その他」あるいは「雑歌」の類のためであろうか。そうなると詩読例に上げるわけにはいかなくなる。いくら後の「ふるさと論」のためとは言え、例示を「雑歌」に採るわけにはいかないからである。
したがって巻末詩の配置的な評価が必要になるが、節題の「心の郷土」は、初出段階(『文章世界』15巻2号、大正9年2月)では、「―「心の郷土」第一篇―」として詩題「久遠偶像」の副題となっている。『全集』に当たる限り、「第二編」はものされていない。それ故に「節題」に切り上げたのであろうが、「第二編」は構想されていたことは確かである。やはり「雑歌」ではなかった。一巻の巻末を担う、重い責任を担わされた作品と見做すことができる。
聯に番号は付されていないが、計7聯89行からなる、第二詩集中でも長い方に入る詩である。分析的(解説的)に引くことにする。
久遠偶像
白日は脆く――夜は忌み 弱い日光は
街なかの饐え腐つた溝のそこで
あへぐ さけぶ 亂舞する
紅くひくい郵便箱の陰影は のび のび
疇昔の橈松鬼の臥蓐に掛つた屍のやうだ
薄暮は
赤赤と街面をつよい酸類で洗いながして
車行する人も 歩行する人も 一やうに蹌踉と蹣跚と
歩みをかためん術はない
青春嬢子の快活な貌いろがたただ一瞬に曇るごとく
今 通り雲は日をさへぎつた
微風もかすかに泡立ちつぶやき渦卷いて
この巷の顔はさみしい
第一詩集『轉身の頌』に比べると、第二集『黒衣聖母』は叙事的で、感情表出は後付け的になる(後出しとしようとしている)。第二詩集の序で第一詩集の稚さに触れているくだりがある。すなわち、「最初は青春の疼くが如き衝撃に呪ひ出されて、何かしら、むずがゆいやうな心持に忙かれ、鞭打たれ、逼られて盲目の手さぐる心構へで詩篇をものしてゐたにすぎぬ」と。断罪的な自己批判的言辞である。
第二詩集が叙事的であるとは、「疼くが如き」思いだけでは容易に詠わないことで、起聯(第一聯)でいえば、自己表出を後ろに回して客観的な発語を装うようになっている点である。第一詩集であれば自己があって「町」がある、自分の気持ちを油絵の具にしてダイレクトにカンヴァスに塗りこめるが、ここでは構図を浮かび上げることが優先される。スケッチ的な捉え方である。しかし、実写に終っているわけではない。十分彩色的である。それでもリアリステックな像を結ばせないでいる。「街」「郵便箱」「車行」「歩行」「青春嬢子」「巷」は、むしろ不協和音を奏でている。新工夫である。
せめぎ合うような異音を聴かされるなかでは、「心の郷土」とは何のつもりなのかと、意図を測りかねて、ときにリズミカルな畳句――「あへぐ さけぶ 亂舞する」「のび のび」「車行する人も 歩行する人も」に素直に乗っかっていくこともできない。「この巷の顔はさみしい」が着地点のようであるから、「さみしさ」に常套句で常識的に辿り着いていないことだけは分かる。
突きあたりの古くて赤い煉瓦造の銀行の大時計に
時あつて夕日が射せば
きらきらと金色に照り返し
ここばかりが夏のやうだ
ああ しかし 今 神無月 遠い山脈に雪が來て
見上げる隣村の權現山に
紅葉は 火のやうに燃えたつて
峡谷を見下す秋の空は
沈静に 賢こげな眼光を高くささげ
城下に流れる川筋が
羊のやうに眞白な花崗岩の川原を布き詰め
すべて寂寥の重厚の冷冷えとした天地の裡に
喧しき塵労に心忙かれる町筋ばかり暗く赤く
また黄疸いろの氣を疫み
小高い丘に蠢まり
しろじろと呼吸を吐く
叙景の一聯である。途中出てくる「権現山」でこれが郷里歌であることが分かる。飯田の東方に連なる、南アルプスの前衛伊那山脈の一嶺である。市内の丁度真正面に当たっている。「城下」はしたがって飯田城下となり「花崗岩の川原」は天竜川となる。こうしたことは知らないでも詩読は妨げられない。任意の景色のままでも一向に構わないが、ここでは「ふるさと論」上、固有名詞の情報は重要である。
最初の4行は大正浪漫の詩行。しかし5行目からは、「ああ しかし」と破調的に呟いてロマンチックな気分を引き裂き、終行までパースペクティブな明るさと足許の仄暗さとの明暗二色を織り込んで、しかも息継ぎなしに思念的にいささか重く終行をつくる。「小高い丘に蠢まり」とは、広大な河岸段丘上に造られた飯田の町のことである。
嗚呼 眞に疎懶なこの宵
天上の一角を蹴崩して
黄金に顫へる天人が現たかのやうに
逢魔が時の騒擾のまつただなかを
朗かな 淑しやかな白金の鐘の音は
夢見る女童の黒瞳が小さくほつそりと見ひらくやうに
しだいにはつきりと接近つて來る
起承転結で捉えると、起承を担う上掲二聯に対して、ここでは転句を受け持っている。「ああ」と「嗚呼」の使い分けは、したがって意図的なもの。いずれにしても転ずるところは、詩人に曰く「ゴシック・ローマン」と呼ばれる、詩人が切り拓いた我邦に初出の世界である。
慣れないものは驚く。作品の語りを借りれば、「蹴崩」されるのは我々読み手側である。谷あいの一地方町に似つかわしくない、実際上も現出するとも思えないくだりに徒に惑わされるからである。詩人との間に流れていたはずの一体的時間は足許から掬われ、何れの地に佇んでいたか、目先を狂わされてしまうのである。すでに叙景すべきものの意味価値は喪なわれ、「天人」と「女童」とを互いの心持の上に如何にして惹き合わせるべきか、そもそも何故の語り出しなのかさえ不明裡に墜落したままで、「しだいにはつきりと接近つて來る」と言われても、真偽を疑うばかりである。まさに誰かよく異議を申し立てられむや、である。
このやうなとき 黄茶けた疊の上にちんまりと坐り込み
片づいた夕餉どきの店中を見まはして
現在が重石のやうに壓しつける
もろもろの惨苦の大街道の片隅に蹲踞り
四十歳の「小母さん」は
歳月の 青白い山河を遠く距てて
戀しい昔の顛末を 嬉しく悲しく想はせられ
(唉 日は慘として驕る町なかを
黄金いろの鐘の音!)
己知らず うつとりとしてゐたが
思い直して ほんのりと馨つてくる
點燈頃の物の香を忍びながらも
力なく投げかける愛敬の小賈笑ひ
上に転句と見込んだがどうも続かない。この聯を前にして挿入句(聯)であったことが分かる。当該句は戯作調を気分にして一場を設けるが、仕掛けは怠らない。「(唉 日は慘として驕る町なかを/黄金いろの鐘の音!)」の再挿入である。意味あり気風であり、合わせて戯作を近代めかしている。
街道筋を上つてくる
山と積んだ繭の袋の運送車のこかげから
靈場詣での鈴の音は蹣跚と近づいたり
思いせまつた暮方を
色白な小娘が 房房とみだれ髪に
古代めかしい白手拭を鉢巻いて
大柄にくすんだ色の背負絆纏にくるまつた
赤ん坊の眼が圓く
黒い睫が青青と影さして 白い額に陰をつくる
愕ろいたげな 稚な 瞳ふたつが
矗と立つ電柱の高い眞上を見つめてをる
子守唄はもの柔かに淑やかに
しとしとと漂うてゆけば
萬人の幼い頃の腸に沁みこんで杳い夢路に誘つていゆく
遲く通る痩せぎすの小學校の女教師も
何者かに憑はれたやう
ふと肩をすぼめ 俯向いて歩いてゆく足もとに
高い足駄がからからと音をたてる
前段の「一場」に連続的で、遠近の違いはあっても視線は同じ高さに止まっている。散文的な設えを眺め見る視線に揃えている。ここに来て、前句で括弧つきであった「黄金の鐘の音」が、その視線として把握されるに至る。霊場詣でによって鳴らされていた鐘の音であったのである。散文的くだりである。最終行の下駄の音と重ねるのは、それが「痩せぎすの小學校の女教師」の高い足駄との間での二重音であることで、音調としても真新しく、聞き耳をそばだてたくなる響きの出処となるからである。
忽然と――鐘のおと
黄色い夕日を眞向に浴びながら
巡禮があゆみをはこぶ
中年すぎた背のたかい薄命相の髯もない男の肩に鎭座つた
觀世音の御厨子の内部はただ幽暗くて
紫や青や黄や色褪た紅縮緬の布切が泊まつてをるのみで
譬へば腹を破つた切口の赤い臓腑がはみ出したかの様に
何か不思議な魔法使の祕密の函を覗く氣持でよく眺ても
赤赤と日に照しても 接近つても
ほんの僅かな傀儡子の色青い傀儡の面を見るやうな
本尊様がちらりと御顔を見せたばかし
巡禮の重い草鞋は 凸凹の町筋に轉んだ礫をよけながら
ただ千人の古代の夢を誘き寄せ
いよいよクライマックス。「忽然と」の一句が、その強く硬い響きで場面を引き締める。新たに開示される劇の真相である。巡礼自体は我邦に普遍的な行ない(宗教行為)ながら、ここではつとめて特殊の行為に傾けられてしまう。「巡禮」「觀世音」「御厨子」「傀儡子」「草鞋」の各語は、それが前提条件なしに了知される、既知の固定概念から途端に引き離されてしまう。「中年すぎた背のたかい薄命相の髯もない男の肩に鎭座つた」の人物相も、「何か不思議な魔法使の祕密の函を覗く氣持でよく眺ても」の訝しげな仕草も、「ただ千人の古代の夢をお誘き寄せ」るする述懐も、惑わし以外に効果を発揮しようとしない。
それにしても「本尊様がちらりと御顔を見せたばかし」とは能く吐いたものである。前行から截ってこの一行を独立行にしてしまえば、まるで金子みすゞである。ただしこの詩の方が時間的に先行している(大正10年刊)。金子みすゞの存在が世に知られるようになったのその数年後である。それはともかく次が終聯である。
不覺の涙 胸の内を
音もたてず流れ寄るとは知らない顔で
奈邊と知らぬ遠國の 黄に煙る夕日の方に赴けば
またしても染みわたる思い出を染み染みとしとしとと
巷巷に 一瞬に 火花のやうに 燃えたたせ
遐く遠く 言葉なく うつぶき勝ちに
鐘いろは黄金にひびいて
秋の日の彼岸の里 夜の闇の母胎のなかに
果てなき國へ 吸はれるやうに消えてゆく
かくして閉じられた街中劇(路上劇)にして、もとは「思い出」に発し、「思い出」に収斂する一幕の心理劇。数々の新奇なる舞台台詞。スカウトされた俳優たち。すなわち「小母さん」「小娘」「赤ん坊」「女教師」「巡礼の中年男」。さらには「青春嬢子」「天人」「女童」「魔法使」「傀儡子」たち(ただし修飾的場面として)。錯綜する思念とその変奏。思念の向かう先――「夜の闇の母胎のなか」「果てなき國」。最終二行がこの長丁場の告げ語りを許し、「不覺の涙 胸の内を/音もたてず流れ寄るとは知らない顔で」の、いささか露わら心の内を覗かせても可とする。いずれも「郷土」に内在する力によるものである。
しかし、日夏耿之介は郷土を郷土のままに詠わない。また引き受けない。「奈邊と知らぬ遠國の/黄に煙る夕日の方に赴けば」と固有名詞としての郷土=飯田から身を引いて、当初からの計画(予定回路)であったかのようにして、また新たな時空に「黄金の鐘の音」を聴く。「遐く遠く」の「巷巷」にである。「遠くありて思うもの」と詠われる「遠く」とここの「遐く遠く」とは別物である。相容れないものである。まさしく異種の郷土心である。この「異種なる郷土心」の先に拓かれていく、詩史的異相ともいうべき日夏耿之介の詩想を、各詩の上に見ることになるのである。
「ふるさと」論(予見) このように最初から一般の対極に立って郷土を複雑に詠う詩魂は、それだけでも近代詩の精神を深く抉り出さずにはいない。とりわけ抒情について。その在り処について。根源が揺ぶられる思いを抱くとしたらその人は「詩人」である。なぜなら多くの人にとって郷里は「抒情」の源であるからである。
それだけに実作者として詩人にとって、「ふるさと」論は重要である。同世代ないし近い世代で幾例かを掲げれば、柳川なしには白秋はないし、金沢なしには犀星もない。啄木は単一ではないが、やはり岩手は詩人(歌人)としての人生に欠かせない時空であった。「ふるさと」論が明らかにしなければならないのは、一義的なものとして在る抒情が、彼の発語に対して以下に規制的であるかである。「ふるさと」は、人を詩人にするが、やがては詩人でなくしもする。多くが後者である。「抒情」の先蹤とも言うべき藤村にしてもそうである。否、藤村がそうであったからとも言える。
それは、日夏耿之介にしても同じである。上掲随筆を知る者には、同じ詩人の手になるとは思えないほどである。強い愛着で語られているからである。むしろ誇りとしているほどである。その上で一人日夏耿之介が違う道を進んだ。実作者としての期間は短くもなければ長くもない。詩人の自ら語るところによれば、詩作の開始は大正元年とされる(それ以前の習作は入れられてない)。終盤は最終詩集『咒文』の刊行に求められる。昭和8年である。したがって23年間にわたるが、作品量で見ると、第一詩集『轉身の頌』(大正6年12月)80編(121頁)、第二詩集『黒衣聖母』(大正10年6月)71編(302頁)、第三詩集『黄眠帖』(昭和2年11月)18編(110頁)、第四詩集『咒文』(昭和8年2月)4編(28頁)となることから(版によって増減がある)、頁数の上からは第二詩集にピークがあったように見えるが、そう単純ではない。
むしろ日夏耿之介が「後者」の一群と同じに括れないのは、もっとも頁数の少ないピークが第四詩集にあったからだとも言える。つまりはピークに達したことで詩作と区切りをつけたのである。ただし、後は下降の一途を辿るだけという意味での最高点ではない。第二詩集を「ピーク」とするのも、もとより頁数などではなく、「ゴシック・ローマン」を究めている点にある。真っ当な見方である。それだけに耿之介詩を知る者には、第三詩集は詩想の点で新たな趣を加えていると評価されても、決して退行などとは捉えられない。第四詩集も同様である。それでも瑞々しさを問われれば、いささか形式化している。第二詩詩集の斬新さには叶わない。「ピーク」の意味が違うのである。おそらく「ピーク」自体が詩論のテーマとなるであろう。
四題:詩学への言及
短詩と長詩 第四詩集にピークを見るのは、その詩想を含めて詩学としてである。一つにはすでに引いた第二集の序である。「最初は青春の疼くが如き衝撃に呪ひ出されて」以下の自己批判を、さらに揺るがすことのないものに仕立てたからである。形としては詩体である。その構築性である。第一詩集は、その点、構築性以前に止まっていて、まさに「衝動」性がそのまま詩体となって表れている。表向きには第二詩集と較べて短詩がはるかに多い点が、その自己証明となっている。いくつか作品を引いてみよう。ただし内的分析のためではない。詩題に付した括弧のなかは、その詩が載せられた詩節の名称である。
かかるとき我生く(「轉身」)
大氣 澄み 蒼穹晴れ 野禽は來啼けり
青き馬 流れに憩ひ彳ち
讖弱き草のひと葉ひと葉 日光に喘ぎ
『今』の時晷はあらく吐息す
かかるとき我 生く
魂は音樂の上に(「黙禱」)
魂は音樂の上に
狂ひ死したる女皃の黒瞳の追憶の契點に
嗟 わが生悉く色濃くもきらびやかに映れりき
わが怡悅はひそやかに茂林の罅隙を漫歩りく也
心の吐息を愛でいつくしめ
嗚呼 わが七情をばかの積雲の上に閃きいづる
賢き金星に鉤掛け
肉身は四月の夜の月光の香氣中に溶解しめよ
悲哀(「羞明」)
羸弱は この身に警策を打ち
心は 喘鳴して呼吸途絶えむ
心とともに沙深く身を横臥へてあれば
仲霄を別離るる日光うるみ
黒髪おのおの寒慄けく立ちあがり
なにものか わが家を遁避らむとする若し
神學教授(「古風な月」)
空氣は春にぬるみ
雲しどけなく泪ぐみ
水流は環舞宴にのぞみ
大いなる顏上天井に形れて
神學教授の瞳まこと青し
挨拶「(愛憐)」
われ感ず
存ふる積儲の挨拶を
わがこころ曠野に落日して
わが愛憐の花苑にひと村雨しければ
はたた神 世を領し
雨後の清純こそ來りれり
われ感ず
存ふる積儲の挨拶を
意図的に短詩を選んでいるが、5~8行の短聯詩は計29編、「魂は音樂のやうに」のように2聯ながら全体で8行程度の作品は7編、これに3聯で8行以下の2編を加えると、計38編となる。約4割である。因みに第二詩集だと66篇中(ただし最終版である創元社版(現全集の底本))の6編(約1割)であるが、単に割合が減るだけではない。配置としても意図的である。短詩3編の連続的配置(詩節「記憶の舌」中)や、長短を詩体のリズムとした編み方が、その企図性を具体的に物語っている。単なる数的比較に過ぎないが、逆に「衝撃に呪ひ出されて」の意味がより明らかとなる。
詩体の詩学 内容性ではなく、まず詩体に拘るのは、言い換えれば詩作品を長くするのは、それが日夏耿之介の詩的営為と一体的であるからである。『轉身の頌』の瑞々しさや音質感のある語感だけでも十分に詩人足り得ているのに、それで良しとしなかったことが、結果として次の『黒衣聖母』を生み、その詩学の方に『黄眠譚』を生みだし、最後にそれ以外にない極点を見つめたような『咒文』を生んでいく。いずれも長詩化の方向として実現されている。
かりに長詩化の過程を辿ってみれば、第一詩集で最長は3聯39行の「黄金のエロス」で、単聯形式では「火の竈人」が29行である。ただし3聯詩の場合は「聯」というより「章」で繋いだ叙事的なものであり、単聯詩の場合は強い独白調に基づいている。それが長さとなっているが、以上の2作品が作る長さは、第一詩集中では孤立的である。
それが、第二詩集では巻頭詩から第一詩集を超えてしまっている。5聯49行の「道士月夜の旅」である。続く「蠱惑の人形」が5聯59行。さらに5聯47行の「青面美童」へと続く。ここまでは5聯として統一的に通されていたものが、さらに聯を増やし、次の「悲哀」では、倍の10聯(91行)とされる。
さらなる分析(形態的分析)を試みると、10聯は微妙に行数に変化をつけていることが分かる。すなわち、中(10行)―長(18行)―中(10行)―中(12行)―短(5行)―短(6行)―中(11行)―中(8行)―短(6行)―短(5行)のとおりである。これが楽曲的であるかは微妙ながら、仮に「中」を「長」に置き換えれば、一体の詩の構成は、大きく「長―短―長―短」を構えることから、やはり音楽的と見ることができる。詩体のおおもとに在るものである。
詩体リズム この楽曲的構成を伴った詩の長さが、思索詩ともいうべき日夏耿之介の詩をあらたな境地に導いていく。体内的なリズムの再生と言ってもいい。それが「抒情」に流されたり入れ替わっていないところが重要である。
一例を掲げる。「悲哀」(上掲詩とは違う)という詩である。書斎詩である。ここでは書斎(ないし自室)を「密房」と呼んでいる。最初窓枠から外を視ていた視線は、やがて室内に還される(1・2聯)。それが、「わが密房の格天井は危く黝く」と開始されていく、3聯以下の各聯の大枠である。長い聯は写実的内省(書斎の什器調度・書冊との対話)、短かい聯は独白的内省となって配架されている。
音律を調べると、詩句の強弱は逆転的に短聯に強いことが分かる。とくに終盤の9聯では、「かかるとき次なる思考は/彼處なる厚い長椅子に腰掛くるにあるのみだ/夜風は水のやうに侵入し/わが顔は青ざめ慄へ/夫の賢い天井の星辰らにだも/面接するに耐えない身だ」と、とりわけ断定的で強音を鳴り響かせる。それがかえって写実的内省の静謐度をより高めることにも効果的である。
必ずしも詩史上、排他的に獲得されたリズムではないかもしれないが、すくなくとも日夏耿之介が自作詩の更新として獲得した「詩体リズム」である。それはすでに指摘しておいたように(短詩の配置)、編綴の上のそれとしても採用されている。「悲哀」に後続する詩がやはり10聯構成だからである。しかもその続きには聯番号を付さない長詩が置かれる。しかも詩節(「煉金祕義」)中最長の詩(110行)である。同詩を詩節巻末として次の詩節(「舊約風の世界」)の扉が開けられていく。すなわち、5聯・5聯・5聯―10聯・10聯―単聯の如くである。「舊約風の世界」の詩節ではすべて単聯となり、以下の詩節も、詩集の題名とされた「黒衣聖母」をはじめとして単聯が中心であるが、第三・第四詩集では、パラレル的で互換的である。相互に依存的な相乗的な倍加によって詩体を膨らませている。これもまた「リズム」である。
詩の意味が如何にして生成されるか、詩語・詩句が先行的に詩人を捕捉(捕縛)する抒情詩とは厳しく一線を画して、一行の葛藤に新しい生と影を一つとして獲得する詩学をここに垣間見ることになる。まさしく「日夏耿之介の詩学」である。
詩体による思考 それにしても何故、詩語だけでなく、それ以上に詩体に拘泥しなければならなかったのか、それは日夏耿之介の体内にある「音調」故であった。第一詩集の序(詩学)の一章(「十」)でこう述べる。
象形文字の精靈は、多く視覺を通じ大脳に傳達される。音調以外のあるものは視覺に倚らねばならぬ。形態と音調との錯綜美が完全の使命1である。この『黄金均衡』を逸すると、單に斷滅の噪音のみが餘計に響かれる。
象形文字を使用する本邦現代の言語は、其の不完全な語法上制約に縛られて、複雜の思想と多様の韻律とを鳴りひびかするに先天的の不具2である。
文語と日常語と日常的文語との各區分もややこしい問題である。
多くの議論以上、われらは今の日常語を完成する使命を痛感してゐる。内なる世界を顧みると、われらは詩作に際し、此の痛感以外に、以上三體の言葉を自由に種別に順應せしめて使用したい欲求を有つことを餘儀なくされる3。此の詩集には主として文語使用の詩篇のみを集成したが、所詮、讀者自ら、文語の固陋な因習の邪悪的半面から努力して蝉脱する時、簡勁の古文體詩篇も自ら全く鮮やかに新しい近代の性命を帯びて再生4するであらう。此の集の永遠性の一部5を此の点に鉤掛ける。 (傍線・引用者)
傍線部分(1~5)を繋げただけでは、「詩体リズム」はまで浮かんでこない。それはこの「序」が、第二詩集の「序」で自己批判されてしまったように、詩体ではなく個別の詩語・詩句に向けられた「詩学」だからである。かりに第二詩集が生み出されなくても、詩学を詩学以上に実践してみせた第一詩集の成果だけで、近代詩における日夏耿之介の詩人たる尖鋭性は確固たるものとなって、今に至るも『轉身の頌』は、玄人好みの一冊として架蔵書の栄誉を付与され続けるであろう。
日夏耿之介がこの名誉に甘んずることなく、逆に同集に決定的な不足を見たことによって(5年後(1922年)のアルス版「増訂再刻版」の序にも、あえて刊行する仕儀になった経緯に対して、その点には「自ら傷む外はないのである」と述懐するとおりであるが)、日本近代詩は、口語自由詩が喧伝される同時代のなかで、独り未踏の高峰に登りつめることになる。そこでは第一詩集の詩学に加えて、「詩体による思考」というあらたな詩的営為が、日本語の伝統(古文體)の上に獲得されることになるのであった。
最後の詩題 第二詩集から第四詩集までの経緯は、この「詩体による思考」の推移の諸相であり(詳細後日)、第四詩集は、辿り着いた高みから先に開ける詩境を前にして、あるいはその只中にあって、身の不調(刊行の昭和10年にノイローゼで早稲田大学を辞すことになる)に抗する内部の声である。詩題とした「蠻賓歌」が、なによりも「黄眠洞主人」(詩人の号の一つ)の、その折の精神に対する吾が身の様を、経巡ってきた詩歴を引っ提げての自己対峙としているかを物語っている。
年譜上公には最後の詩作品となった詩題が、我が身を「蠻賓」(来たり人かつ迎え人)として提示したことは、その詩想体現者として名指しされていることからも実に意味深い。訓で「えびす」ながら、同訓の「夷」ではないこと(したがって広義の北側に在る「飯田」ではないこと)、一義的には南方の「えびす(南方民族)」であること。おそらく反逆精神の誇示からも「蛮国」の義をも含ませていること。その「賓」であること。すなわち訓では「まろうど」であること。単なる客ではなく、畏れる程にもてなすべき賓客であること。かく我が名を高らかに掲げるようにして上告げ、精神衰弱の我が身に対する生の再起とするのである。「詩学」を「(生命)哲学」として再起に「鉤掛ける」のである。この詩を以下に掲げ小題と小論の最後とする。
蠻賓歌
あらゆる木末の上に静けさのあり
第壹
吾等の情緒は「死」に濡れてあり。
「死」は十一月の暮雨のやうに こころの曠野に降りしきる。
日晷淡く雲脚駛き午下り
いくたびか かの落葉の族とともに
土に起ち 犇き合ひ うち慄ひ
泪を垂れ こころも直に
われら この蠻賓を邀へむと心構へた。
第貮
吁吁 この宵さり 幾山阪ふりさけ見れば
數數の稚き惶欇畏を重ねて來たが
その物怖ぢはつねにつねに
一个の黝い透影を伴ふた心おぼえがある。
その翳のあいろの裡に
儂が幽隠の 細細と 神經質な 濾滓のやうな空想は
九十春光生し孚む瑞枝若葉のやうに 延び上がつ來た記憶がある。
第参
むかし七歳の髫髪子の畏怖は
この現世から 息詰まる墓田に埋れる
窒慾の いはけなき 自我折伏の憂嘆であつた。
肉はびこり春更けわたり 華縟を喜む二十歳の頃
しばしであるが わたくしは
完全にかの雜色と袂別を告げてゐた。
「死」は畢竟 野望と愛憐との谿間ぶかく埋れてゐたにちがひない。
けれども 青春の浪費のあとの業因が
蔵蓄のやうに蝕み初めたころほひより
儂が生存は「死」を隔つに一條の妖痾の八日の涓流を以てした。
この幽澗をへだてて 恆に「死」の號呶にうち慄へつつも
壯年の自騸と衒氣とに我とまぎれ
しかも時あつて訪るる十一月の時雨のやうな
かの衆生根元の竦怖に対した我だ。
第肆
いま不惑老來にむかへる身は
こころ靜かに手をさし延ばし
かの賓客と宿業の握手をば拒まじと覺悟しつつも
残照の愛熱や野望のまぼろしに係戀れわたり
狂熱の朱夏やうやく去つて
雲靜かなる凉秋の観想を嬉しむことく
しとやかにも首うなだれて
かの風岸しき死の警策を受けようとする。
第伍
吁吁 現身の志向に飽いて
大地の脈搏に溶け込まむまで
たのしく哀しかりし春秋かな。
「死」は恆に發作のことく 過失のことく 徼倖のことく
疾風吹く歩み似て訪るる例なればにや
われら齢やや長けし浮塵は あわれ
性命の聖廟をたちいでて 我かのさまに
仄かに浄まれる天宮に仰臥の夢を強ひむとする。
第陸
吁吁 時雨振り 凩あれて
この心さむざむと震へ慄き
かの業果のみまへに 辟人のことくさんげする心喜びを想へ。
凡そ熱ある久患のたのしさ 科があるもののよろこ
憂ひあるものの或日のうれしさを想へ。
第柒
肉衰へ心きはまれる身の 空想の觸手は
おろかにも少人のむかし掛け偲びつ
在りし日の再來をつとめて待ち望みつ はた
枯々と老來の燈火明きにしたひ寄る也。
ほぬかに僥倖のことく 過失のことく 發作のことく
忍び寄る「死」の蠻賓の冷たき抱擁に魅らるる
哀しき福祚のけふ日頃かな。
テキスト
『日夏耿之介全集』第一~第八巻、河出書房新社、1973~78年