2014年10月31日金曜日

[ほ] 連作詩「北方」と流謫~鷲巣繁男と北海道島~


 はじめに 
本稿は、初期詩篇を取り扱った「ネストリウスの夜」(本ブログ144月)に続く、鷲巣繁男を詩論として取り扱った第二弾である。表題とした「北方」は、第三詩集の冒頭を飾る4編からなる連作詩である。今回は、初期詩篇から次の段階に移る転換点となったこの作品を最初に取上げ、次に詩人と北海道の関係を「流謫」に向けて問う。以上から詩人の詩的営為の源を探ってみたい。


Ⅰ 連作詩「北方」と詩人の転回点

開拓入植と詩 まず1篇の詩を引く。第三詩集『蛮族の眼の下』(さるるん書房、1954年、後に定本詩集に収載)の冒頭を飾る1篇「北方一」である。ただし少し長くなるので第3聯と終聯(第5聯)のみとする。各聯には表題に掲げた「北方」と「流謫」が詠みこまれている。

アア、磁針ニ誘ハレ北ニ憑カレシ翼ニ
痴愚ノ肉ハ重ク気倦ク、イマダ回帰ノスベヲ知ラヌ。
イヤ、ギイントシタ虚無ヨリオレノ身ヲ ムシロソラスモノハ、
数々ノ苦痛、傷、備ハツタ罪劫、快楽ナノダ。
突拍子モナイオレノ流謫ノ高笑ヒダ。
オレノ愚行ガ黒痣ノヤウナ運命ニ向ヒアフニフサハシイ北ノ一点。
オレハソコニ相似ノ相貌ヲ見ル。
傲岸ニシテ苛烈ナル権力ノ走狗ノ
赤煉瓦ヲ、誅求ノ象徴ヲ、
酔生ニタダヨウ厚顔ナル流民ノ裔ノ
痴愚ノ果ヲ、怠惰ト賭ノ惑溺者ヲ、乱酔ノ哀歌ヲ、
鉄格子ノ隙ノ囚徒ノ眼ニ
絶望ノ泡立ツ岸ヲ、
フタタビ醜悪ナル建設へ向フ嗤フベキ善意ヲ、
泯ビ去ツタ幻影ノ遺セシ執拗ナ現実ヲ。
アア、オレノ偏倚モ亦、ツヒニキミタチニコトナラナイ。

1聯分略)

北。吹雪ヲ用意スル牙。
荒涼ヲ以テオレヲ何モノカニ促スモノ。
驕慢ナルオレノ《永遠》ヲ破壊スルノハ、イツノ日ノ御身デアルカ。
殺到スル御身ノマナザシヲ、オレハ炎ユル白日ニ揺ラレテ想フ。

連作形態(「北方一」~「北方四」)の第一作として作られた同詩は、「北方」という語彙自体に浮かぶ、意志的でかつ志向的である詩題の劈頭を飾ることもあって、まさに「意志」に執着的で強靭な語らい(詠い上げ方)である。しかし、単なる詩題の言挙げのためのではない。また技巧からもたらされたものでもない。詩題に見合う確たる現実を前提としていたものだった。詩作に先んじてもいた。北海道への開拓入植の敢行だったからである。

4作は、入植した開拓地と、その後、開拓の破綻を機に流亡した北の都市とを時空として詠われている。省略形では季節感が掴みづらいが、最終行に「炎ユル白日ニ揺ラレテ」とあるように、実は夏の中である。省略部分ではかく詠われる。「麦ノ穂ニ日ハ毒ヲ含ム」と。第1聯は、1行詩のスタイルを採っている。第2聯のなかでは、「ミハルカス起伏ノ拡ガリ、/炎エ上リ沈ム緑ノ悶エ。」と詠ってみせる。一見、強烈な光を浴びた開拓地が、やがて訪れる豊かな実りを約束されているかのような響きを聴かせている。しかし連体止めに抱えこまれた自律感は、見せかけの高揚感をつくるのもでしかない。かえって自己否定に対する前景感として立ち上がってしまう。結局は虚勢である。

それでも一度は豊かな実りを約束するかもしれないと思われた、夢のような「麦ノ穂」。しかし、今の「オレ」には、それも「毒」でしかない。かくして開拓入植の先の、見通せない現実のもとでは、「光」は一転して裏切りの象徴となって開墾に汗ばんだ肌に照るつけることになる。まさに「非情」なわけである。第2聯を締めくくる終行は、「光ノ非情/日ノ毒」の2行によって結ばれることになる。そして、引用部の「アア、磁針ニ誘ハレ北ニ憑カレシ翼ニ/痴愚ノ肉ハ重ク気倦ク、イマダ回帰ノスベヲ知ラヌ。」と続き、内面の露呈となる。

「愚行」と責め立てる北行(開拓入植)。あるいは「流謫」に対する「高笑ヒ」。高い志であったはずの決断に纏いついていた、結局は「痴愚ノ肉」でしかなかったもの。開拓の破綻に佇んで振り返る、この土地(大地)の来歴への嘲笑的態度――「痴愚ノ果ヲ、怠惰ト賭ノ惑溺者ヲ、乱酔ノ哀歌ヲ、/鉄格子ノ隙ノ囚徒ノ眼ニ/絶望ノ泡立ツ岸ヲ、/フタタビ醜悪ナル建設へ向フ嗤フベキ善意ヲ、/泯ビ去ツタ幻影ノ遺セシ執拗ナ現実ヲ。」そしてそのまま「オレ」に返される同じ嘲笑――「アア、オレノ偏倚モ亦、ツイニキミタチニコトナラナイ。」

 
自己否定の場 第三詩集『蛮族の眼の下』は、やがてこの世に「ダニール・ワシリースキー」を生み出すための転換点であった。そのためにも経なければならない自己否定の場であった。なによりもそれが転換点として際立つのは、後の形而上学的詩篇に対して実態を伴った詩作だったことである。「オレノ愚行ガ黒痣ノヤウナ運命ニ向ヒアフニフサワシイ北ノ一点」での日々だけではい。「北方三」では「街」も舞台化される。「北ノ一点」は、ひろく「北」に拡大化される。季節も「北」に相応しい冬に転化される。開拓に費やされる肉体と肌を流れ下る汗が一方にあったとしたなら、この「穢レ」に満ちた「街」には、精神の荒廃しかない。デカダンスである。これも本を質せば開拓入植に素因は胚胎されていたと言うべきかもしれない。破綻の先に待ちうけていたような自暴自棄だからである。以下に掲げるのは「北方三」の初聯と終聯(第3聯)である。

雪ハ穢レテヰル
雪ノ詰ツタ街ハ歪ンデヰル
凶悪ナ焼酎ハ一気ニ飲ミ乾サネバナラナイ
ギラギラトシタオマヘヨ オレヲナグルコトノホカニ ナニガアルノカ
燃エ尽キル燈芯ノヤウニ 漲ル額ノ脂ヲ燻ラセ
売ラレル一切ノ前デ
凶悪ナ焼酎ハ一気ニ飲ミ乾サネバナラナイ

  (1聯分略)

雪ハ汚レテヰル ソノ上ニ雪ガ降ル
凶悪ナ空瓶ノムカフニ何ガアル
烈シイ罵リノアトニ何ガ残ル
狂暴ノアトニ……オマヘトオレノウチ伏シタアトニ 何ガ生マレル
売ラレユク一切ニ賭ケテ
オオ 台所ノ永遠ノ主婦ト盲目ノ老婆 一匹ノ猫ニ サイハヒガアルカ
小サナ明リ窓ニ雪ノ祝福ヲ享ケテ
乾カヌ襁褓(ムツキ)ノカタハラニ泣キ叫ブ嬰児(ミドリゴ)ノ眸ニ
シカト見届ケル希望ガアルカ

ここで焼酎を浴びるのは肉体ではない。流浪に疲れ果てた精神である。絶望を抱え込んだ自己に対する怒りである。かく街の穢れに身を浸し、なす術もなく抗う精神が形となった泥酔(自暴自棄)は、自身としても意外な体たらくだったかもしれない。しかし、自己否定から見れば、これも経なければならない一通過点であった。先行して味わった肉体の疲れ、それも極限的な疲労感を伴うもの、そして破綻の先に待ちうけていた精神の荒廃。かつて「愚行」は、高い意志のもとにあるものであった。またそうならなければならいものだった。「流謫」なる精神性から敢行されるものであるからだった。故に荒立つのである。のたうつのである。自責なしには日々はない。

「台所ノ永遠ノ主婦」と「泣キ叫ブ嬰児」とは現実であるが、「盲目ノ老婆」はおそらく架空である。家族三人での北行だったからである。だからと言って詩読上には知らなくても構わないことである。かえって知らない方が、「盲目ノ老婆」のうらぶれた姿態から彼女らを追い詰める悲哀に、より痛噴たる思いを叩きつけることができる。むしろここでは「盲目ノ老婆」は必然と化した存在者である。それ故にこちら側としても尋ねてみる、ここに「サイハヒガアルカ」を、あるいは「シカト見届ケル希望ガアルカ」を。


詩の行動原理 しかし、詩に答えを求めるべきではない。求められていないからだけでなく、求められていないことが、それ自体として詩の張り詰め感を形づくっているからである。基調としているのである。あるいは発語にかかる一つのスタイルとしているのである。一見饒舌を装いながらも、言葉は、外に向かって届いていない。響いてもいない。外を他者とすれば、言葉は他者に向かっていないのである。

一般論として自己は、他者によってはじめて自己足りうる、自己認識のための相関性から離れ去ることはできないが、詩が独立した言語芸術であるのは、他者に拠らないで成り立とうとする行為を、その矛盾もろともに発語の行動原理としているからである。この場合、詩が言葉の意味を意味のままに必要としないのは、矛盾を容れるための自己保全を装う必要からである。自己に拠ってのみ成り立たせる発語が、それでも最終的に意味でしか自己確認を果たせない限り、その瞬間では他者に立つ機会が用意されなければならない。しかし、一度意味を捨てた言葉では他者に立てない。〝分からない詩〟のまま終わってしまっても構わないが、それでも他者に立てずに終わってしまうのを回避しようとする限り、意味以外の手段で立てる範囲に言葉は組成されなければならない。それを含めて詩人の「発語」としなければならない。

 鷲巣繁男が初期詩篇を脱して、かかる「発語」を意味の外に組成できたのは、呼びかけの形を借りるなかに、あるいは一見意味を他者に向かう形を借りながら、実は呼びかければ呼びかけるほど、呼びかけ先との間に距離を生じる術(言語作用上の術)を獲得することができたからである。曰く「語調」である。修辞的に言い表せば、意味を他者に立てたまま語調だけを切り離したのである。やがて語調を先行した形で発語が編成される。新たな詩篇の創出である。次にその一部(「北方二」第3聯)を示すように、連作詩「北方」は、まさしくその誕生に相応しい語調を、個別にではなく体系として得ていたのである。その独白の調べを聴き取ってみる。独白が陥りやすい耽溺的な感傷はここにはない。

アア。トホク嶺々ハ燃エ。岩礁ヲ時ハ噛ム。
影ノゴトクスナドリシ幻ノゴトク種蒔ク民ヨ。
吹雪ノ中ヲ門出スル(マグハイ)ノ橇。華ヤグ(ウタゲ)ヨ。
モダシテ喰フ灯影ノヒト。雪虫ニ唱フ童等ノ夕映ヨ。
死ノ褥ニ憶ヒ出ヲ侍ラスモノ。肯ヒヲ与ヘルヒトヨ。
希望ノ虹ヲ仰ギ顔赧ラメルオレノトマドヒ。
オレハスベテデアリ。マタ何者デモナイ。
一篇ノ歌ト毒酒ニヨリ。北方ノ劫ニ漂フモノ。
オノレノ秘密ヲオノレ自身ニ明カサヌモノ。

冒頭で「アア」と感動詞を掲げながらも、効果としては単なる起聯に終わる。続く未然形による句止めの効果が、詩句の連続性(独白過多への移行)に対して中断的に働きかける。「岩礁ヲ時ハ噛ム。」の叙景句では、時間感覚を静態的に仕向け、続く「民ヨ」「宴ヨ」「夕映ヨ」「ヒトヨ」と4行に亘る呼びかけも、その効果もあって内に響かせるトーンへの収斂に揃う。以上によって「オレ」も必要以上に自我としてたち顕れることなく、逆に「オレハスベテデアリ。マタ何者デモナイ。」と内省の扉を自ら閉じることになる。それでもそのまま遮断して終わらず、最後の1行によって他者関係への繋がりに意味を含める。詩故に創りえた内的時空であり発語である。

この詩聯の位置は、一次的な現実(「北方一」=開拓地)を離れ、次の現実(「北方三」=北ノ街)に移る合間にある。このどこか独り言ちた途切れがちな語りながら、内省に発する詩句の深まりは、哲学的な調べを湛えて祈りの詩句にも読み替えが可能である。さらには別の一聯(「北方四」最終聯、後掲)の厳しい語らいに浮かぶ自己対峙の調べ。ここでは独り言ちに終わらず、新たな自己内他者である「イモウト」への語りかけにまた声音を変えて臨む。連作詩を外に向けて閉じるこの新たな詩行は、詩人の転回を一段と早めることになる。


北行に至る年譜 表題詩「北方」に費やしたここまでの文言は、前置きに当たるが、再び立ち戻るべき地点でもある。表題としているからだけではなく、この連作によって詩人の生涯が詩的営為を生業とする基点になっているからである。「北」と「流謫」は、「基点」の具体的な姿である。とりわけ「流謫」は、詩作品を通じて生涯に亘って追い求められるテーマの一つである。散文では表題にした随筆がある。「流謫の汀―詩の儀禮空間のための覺書―」(『詩の栄誉』思潮社、1974年)と「流謫」(『ポエーシスの途』詩歌逍遥游三、牧神社、1977年)である。「流謫」にアプローチしていくには、まず詩中で「愚行」とする「北行」の経緯を人生過程として知っておかなければならない。従軍から敗戦直後までは胚胎期となる。以下の推移は、『饗宴』最終号に乗せられた年譜による。

最初の入隊は、1936年(昭和11)の1月。21歳の時であった。「2.26事件」の年である。翌年7月には日中戦争が勃発。翌8月、無線通信兵として従軍。中国各地を転戦するが、その「征旅」の途次には南京付近での戦闘も含まれていた。193910月、砲兵伍長に昇進。同月、従軍中の傷病により帰国して市川国府台陸軍病院に入院。翌1940年(昭和1510月、1年の加療を経て退院、召集解除となって除隊となるが、それ以前、戦功により金鵄勲章を授与される(25歳)。

太平洋戦争勃発(1941年)により、194211月臨時招集によって野戦重砲兵連隊要員として応召。再び中国戦線に従軍するが、翌194311月、身体不調(脚気)により召集解除となる。除隊時の階級は陸軍軍曹。その後、軍事産業に役職で従事(日立航空機株式会社工作部長付)。終戦の年の6月、同会社は空襲により壊滅。山梨県身延に疎開し、同地で終戦を迎える。9月上京。旺文社入社(和英辞典編集業務)。翌19462月同社退社。4月、市川国府台陸軍病院で知り合った俳句仲間3家族で北海道石狩国雨竜郡沼田町五ケ山開拓地に入植。時に32歳。妻(金子きみ)と幼い2歳の長女(真弓)を連れ立っての北行であった。妻きみは同病院の看護婦だった。


北行の動機 詩人は「北方二」のなかで次のように詠っている。「オレハ何者ニナロウト云フノダ。」「ダガ。オマエモオレノ流亡ノ故ヲ知ラナイ。」と。さらにはリフレインを真似るかのように「流亡ノ中ニ。オレノ秘密ヲオノレ自身ニモ明カサナイ。」(第2聯最終行)、「オノレノ秘密ヲオノレ自身ニ明カサナヌモノ。」(第3聯最終行・上掲)と詠っている。開拓入植の内的動機が問われるのである。どうも一詩句に費やすための修辞ではなかった模様である。それを傍らから明かす一文がある。没後刊行された小説集『石斧』附録である。妻きみが寄せた、「私はここで、繁男がどうして開拓の道を選んだのか? ということを考えてみた」ではじまる「同伴者としての回想」と題された小文が掲載されている。夫繁男没後15年の折の回想である。その中でこう語っている。「私には今以て本当の理由を知ることはできない」と。40年連れ添った夫婦が、二人の人生の岐路ともなる、生涯を決めた夫の「決断」の真意を知らない、と言っているのである。

あるいはユートピアを夢見たのだろうか。明治以来の入植話がそのようにして内地人を甘くかの地に誘導したように。しかし、将来の安定した生活を約束させていた出版社社員を擲ってまで敢行するには、単なるユートピアへの希求だけでは十分な説明にならない。妻子も抱えていたのである。しかも嬰児である。開拓生活はたちまちのうちに破綻に瀕してしまう。鷲巣家族だけではない。鷲巣家族を誘った他の家族(二家族)の方が先に脱落してしまう。「東京を発つとき、三家族で共同農場をと夢みたのだったが、二年目には一家族が離れていった。Yさんは二年目の開墾には加わらなかった」(鷲巣きみ・同上)。

結局、何も分かっていない、甘いだけの文人の〝遊び事〟と評されても致し方ない顛末ながら、それなら何故にその後も北海道に留まらなければならなかったのか。痛恨事はその土地(地方)を離れることで癒されるのではなかったか。実際、五ケ山開拓地を後にして札幌に出た詩人には迷いがあった。帰郷(「回帰」)への思いである。上掲詩(「北方一」)で「アア、磁針ニ誘ハレ北ニ憑カレシ翼ニ/痴愚ノ肉ハ重ク気倦ク、イマダ回帰ノスベヲ知ラヌ。」と詠っていたくだりがそれである。「回帰ノスベヲ知ラヌ」だけで、気持としては回帰に揺れる心中を詩行に覗かせている。しかし、終に「回帰」することはなかった。定年退職を機に娘家族を頼って離道し、東武(埼玉県)に移り住んだのは、この「回帰」とは別の発想によるものであるからである。


体験の二重性 結局「回帰」を思い止まらせたものが何であったか、上掲詩の続きが「イヤ」と反転気味に一声して高らかに詠いだすは、自暴自棄的な「高笑ヒ」を伴わずにはいられない、同じ「愚行」の過去(近代開拓史)への遡りであり、さらなる「高笑ヒ」に自嘲気味に居直る「オレ」である。でもその「オレ」は、同時に「オレ」を超えるものに瞑目しながら、北行を新たに顧みる一つの意志として、始原の内景に面を上げようとしている覚醒者でもある。「時間」が彼を包みこみつつあったのである。「『オレ』を超えるもの」とは、この場合、「時間」と呼び替えても構わない概念であった。詩人足る際に求められる内面意識の源となるものであった。それが開拓の先に見出されたというより、開拓労働の必然として見出されたことに意義深いものがあった。「時間」体験が机上で終わらなかった点である。身体的体験は詩的体験に転化したからである。この場合、「開拓労働の必然」とは、この体験転化という体験の二重性を含みこんだ謂いである。

散文「流謫の汀」では、それが「血族」にまで遡ることになるが、それはまだ先のことである。単独的な北行体験が原点である。ここでは原点的体験を詠んだ上掲詩の各詩行を散文的体験に読み替えてみる。「オレハソコニ相似ノ相貌ヲ見ル。」以下の北海道開拓史に触れる詩行部分である。


北行の散文的解釈 詩人は「今」を「過去」の続き(「裔」)に見ようとしている。「愚行」というならすでに「過去」それ自体が「愚行」にほかならなかったからである。北海道建設という気宇壮大なる政治的イベント――その象徴にして「誅求」の館たる「赤煉瓦」(北海道庁舎)を頭にして、おどらされた「流民」とその「裔」から、さらには獄に繋がれた「囚徒」までの、「囚徒」のみが知る「絶望」を身立て、そうとも分からずにいる「厚顔」の「痴愚ノ果」を「今」に自分として見るのである。その「酔生」の如き開拓なる宿業に対し、何もなかったが如く再び立ち向かおうとしているこの「善意」。「善意」とは自分(たち)の心根を揶揄した一語であるが、歴史的には、満州からの多くの引揚者に対して国が執った、「緊急開拓事業実施要領」(昭和2011月)と、それに応募した多数の入植希望者たちに対する、彼等が見せた官に対する疑いを容れない従順さである。そして、「フタタビ醜悪ナル建設へ向フ嗤フベキ善意ヲ、/泯ビ去ツタ幻影ノ遺セシ執拗ナ現実ヲ。」を掲げる先に「アア、オレノ偏倚モ亦、ツイニキミタチニコトナラナイ。」と直接的に繋げる自分に対して吐露した一語である。

しかし、瞬時に自己対峙に切り替える発話でもあった。散文的解釈では前置きされた「歴史批判」であった。それでも新たな自分の声に求め強いるものは、依然として「北方」であった。個別具体的な自己体験の集約だった。いまだ「時間」は形而上的な漠たるものでしかなかった。「北」は、哲学を拒み「時間」の否定さえ辞さない「破壊者」でしかなかった。それも分かっていて、連作詩の冒頭詩に「北」を〝指弾〟したのである。一歩の踏み出しを試みたのだった。以下がその「北方一」の終聯である。

北。吹雪ヲ用意スル牙。
荒涼ヲ以テオレヲ何モノカニ促スモノ。
驕慢ナルオレノ《永遠》ヲ破壊スルノハ、イツノ日ノ御身デアルカ。

 「御身」とは再生した我が身であるとともにいまだ「北方」のことでもある。ならば「北方」とはなんであったのか。あらためてその「過去」を辿り直してみたい。



 Ⅱ 明治維新と北方史

詩人の立場 明治時代以来、「北方」にかかわった詩人は、北方出身者を含めて少なくない。そのなかにあって、鷲巣繁男を「詩人」にしたものは、日本近代詩が内地において追い求めたものの中では、終に得られなかった、あるいは顧みられることのなかった、詩体であり詩体を支える詩学であった。ではなぜ内地ではかかる詩学を「否」として得難いとしなければならなかったのか。それは一つには、「北方」の原理が、北海道島の存在論的な原理と一つのもであったこと、その一体性のなかに胚胎されている真理を人間存在の条件としていたこと、また一つには、北方史それ自体が、内地に対する歴史的対立としてしか成立の余地がなかったことに由来する。

詩人がいずれを手段として「北方」を内在化していったのか定かではないが、上京後(ただし転居先は埼玉県)の1973年に著わされた「流謫の汀」は、「流謫」と相反する近代日本の姿に向けた厳しい対立的意識に起筆されていく。家の信仰(正教)が反権力的だったことによる要因が少なからず寄与していたといえ、それだけでは終わるものではなかった。通り一篇の形而上的思考に閉じこもる宗教詩人のイメージから詩人を大きく解き放つものは、「民族」の運命を直視し弾劾する精神の高さであった。その精神が近代日本を厳しく弾劾するのである。まずは、明治維新の稚さに対してであった。

* 本稿で冒頭より「北海道島」の呼称を使うのは、歴史と文学の折衷としての観点に立つからからである。以下アイヌを題材化するが、アイヌなら蝦夷ないし蝦夷地が相応しい。いうまでもなく「北海道」は、明治2年の命名によるものだからである。鷲巣繁男は、「蝦夷」を使うが、近代以降の「和人」のアイデンティティを歴史と文学の両面から容れられる地名概念を求めた時、「島」を付することによってアイヌの主体性をも確保できる。以上から「北海道島」とした。


明治維新への批判 はたして明治維新とは「正義」の結果であったのか。北海道開拓も正義性のなかで問われなければならない。なぜなら北海道開拓とは、実は植民地主義が名を借りたものにすぎなかったからである。したがって最初から「正義」であるはずもないのであるが、植民地主義を含めてその大本にある明治維新を思う時、詩人はまずかく弾劾するのである。

それは、「浦上四番崩れ」として知られている、明治政府が行なった過酷な宗教弾圧(長崎(浦上)隠れキリシタン弾圧)に対してである。そこに見られるのは、明治維新が拠って立つ神道思想(復古神道)の浅薄さである。叛賊者(とりわけ奥州越列藩同盟の諸藩)に対する処置、とりわけかつてこの国の歴史が採ってこなかった、敵対者の死に対する熾烈極まる処置(埋葬禁止=野ざらし措置)と絶対的否定(供養禁止(ただし当初))に象徴される、一国の思想とするには狭隘にして偏狭にすぎる〝稚い考え〟は、「浦上四番崩れ」として江戸幕府も採らなかったような、非倫理的な処罰にも躊躇いを見せない、思想的軽量を露呈することになるのであった。

詩人は言う、「その勝利者たち(明治維新の立役者たち・引用注)の抱いた神道的思想がすべて不純なものであつたとは思わない。だが、例えば、慶応末年より明治初年に亘る浦上四番崩れに対する処置、特に木戸孝允を中心とする厳罰派の行為は、彼等の思想が如何に卑小であるかを物語つてゐる」と。そして弾圧史**から見ても、「遥かに倫理的に陋劣ではなかつたらうか」と、彼等の精神の軽量に対して断罪的言辞を吐かざるをえなくなるのであった。

正教故の断罪ではない。鷲巣繁男の少年から青年期は、むしろ「極右的」な思想さえ抱いていた。その一面を自身でこう語ってみせる――「事実、少年時代、極端な古代天皇崇拝者であり、且亦、その名の下に戦ひ、数数の殊勲を表彰されたわたし故、恐らくミコトモチが率先して的の中に進んだならば、このわたし自身十中の八九はそれに殉じたであらう」(「流謫の汀」)と。誤解のないように補足しておかなければならないが、これは明治維新が仮構した「近代天皇」へのアンチ・テーゼを含意したくだりとして認められている。いずれにしても、「右」から見ても明治維新は「稚い」のである。

「正義」などという非学問的な言葉を使うと、維新政府の「稚さ」を問う以前に問う側の幼稚さを問われてしまうが、専ら「流謫」を強調する、それも「詩語」として使うのである。「流謫」は「正義」に親和的である。流刑の謂いでもあるからである。なお、史学を踏まえていないわけではない。念のために記せば、北海道近代史に関する研究書ほか諸文献を書架に蔵しているし、以前、思いの向くままに北海道島論を試みたことがある(『北方内向記』私家版、2010年)。

** 片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』時事通信社、1979年。同書が繙く維新政府が断行した「浦上四番崩れ」の弾圧の実態には目を蔽うものがあるが(同書「4 明治政府の浦上処分」以下の諸節)、対照的に寛大な処分(捕縛者に対しては違法性を弁えられない「愚民」故の異教信仰者としてそのまま帰農させる一方、外国公使・領事に対しては宣教師の浦上立入りを許さぬよう要求)とした旧幕府に対して、仏国ロッシュ公使が感じた「日本政府の仁恵の心」が、維新政府に欠落していた点は、同様に諸外国の圧力(信仰の自由=超自然法の認可)を受ける中で、旧幕府とは態度を異にして、かえって一国の威信を諸外国に見せるべしと、さらなる厳罰化に偏していく狭量によって、「仁惠」を容れられない処断を高く自己評価していくことになる。

鷲巣繁男が記す、「木戸孝允を中心とする厳罰派の行為」とは、具体的に次の木戸孝允の以下の意見書のとおりである。「教徒の巨魁を長崎で厳罰に処し、余類三千余人を名古屋以西十万石以上の諸藩に分配監禁し、藩主に生殺与奪の権を与えて懇々教諭を加えさせる。止むなきときは巨魁を処分し、七年間は一口半の扶助米を支給、その巣窟を根本的に一掃する」(同上著より)。流罪者総数は、一村3,394人規模(旧幕府の捕縛者数は68人)で、役人からは「○○匹は何藩にお預け」と動物扱いで仕分けされ監禁地に送られる。まさにそのようにして「生殺与奪の権」与えられた諸藩は、維新政府を意向に従う形で、婦女子に及ぶまで呵責ない非倫理的な「教諭」を加える。明治2年に始まった分配監禁から6年の禁教廃止で帰籍(帰郷)が果されるまでに六百名を超える殉教者を生み出す。浦上天主堂は、その受難の証しとして明治12年に建立されたものである。また津和野乙女峠のサンタ・マリヤ堂は、同地で斃れた36名の殉教者の至福を祈って幽閉地(牢址)に建てられたものである(流配者数は163名)。


「正義」の姿 論旨を外れてしまいかねないが、今、日本近代がこの150年を様々な経験で経てきたことにより、近代が何であったのかが、転換点となった明治維新に立ち返って今をどのようにつくっているのか、少しは見えるようになってきた。それも一国的な見地としてだけではなく、個人のレベルとしても見えてきた。その心をどのようにつくっているのかについて。鷲巣繁男の時代(青年時代)は、日本史上稀に見る激動期だった。またそれを個人として体験しなければならなかった点でも特異な時期だった。自己批判は勢い近代のそれへとしてたち現れることになった。それなしには「激動」以後の自分(戦後の自分)を見出しえなかったからである。

そのとき、「激動」に自己を如何に位置づけるかは、自己同定のための必須作業となる。はたして近代は「正義」の結果だったのか。それ以前に「正義」として開始されたものであったのか。詩人の弾劾には、強く「否」が唱えられている。以下はその「否」を筆者の文脈で敷衍したものである。

まずは沖縄に対する「琉球処分」と呼ばれる措置が、琉球語の日本語強制(名前の日本語化を含む)からはじまって諸習俗の風俗改良、とりわけ女子が人生儀礼として行っていたハジチと呼ばれる刺青禁止(罰則を伴う)に象徴されるような文化面にひろく及んでいる点を見れば明らかなとおり、民族的独立と王府の自治権を認めていた近世(江戸政権)とは決定的に相違する、植民地主義的態度を「正義」とする思想によるものであった。

北海道島の場合は、さらに露骨な侵略的な態度で挑まれたものであった。時空間そのものの収奪に及んでいたからである。所謂、欧米白人主義国家が採用した「無主地」主義による、土地収奪の正当化である。北米やオーストラリヤで採られた、先住民の土地所有権の法的な無化を謳う同じ方式が採用されたのである。土地収奪だけではなかった。北米インディアンが居留地に囲われたように、土地払い下げの邪魔になるアイヌ村落(コタン)は、解体されて集住を強制され、彼等の生存を保障していた山野に跨るテリトリー(イオル)解体の断行が、近代国家建設の大義のもとでいとも簡単に敢行される。言語や習俗に関する民族的な基本条件は、救済・撫育の名の下に行なわれた同化政策によって、さらなる「民族」の解体として貫徹されていく。これが「正義」の姿であった。

* たとえば明治維新に直接関係するものでは、明治維新史学会編『維新政権の創設』講座明治維新第3巻、有志舎、2001年。「個人の心」のレベルとして蔑にできないのは、倒幕を成しえた薩・長藩士たちが抱え込むことになった、新政府内での〝超上流〟と〝凡下身分〟とで交わす、新たな人間関係(「未曾有の珍事」)における身分的確執がある。この確執を含め、「近代」の断行に〝自己解放〟を見出すシナリオは、一国のその後にとってプラスであったのかマイナスであったのか。今に続く中央集権国家の問題として受け止めるべきであるが、同講座(史学論文)ではそこまでは言及していない。しかし、そう読み取れるくだりがなくはない。


北方の犠牲者 鷲巣繁男は、すべてを分かっていて維新政府の「狭量」を言っているのである。事はアイヌに限ったことだけではなく、自分たち「和人」の側にも言えることだった。北海道島の植民地主義は、和人にも仮借ない「正義」を強要したのである。とりわけ「囚人」に対してである。そのために「囚人(囚徒)」や「獄舎」が、しばしば詩語としてとりこまれるのである。北海道島各地に配置された、集治監と呼ばれた監獄に収容されたのは、主に凶悪犯と政治犯であった。政治犯は多くが自由民権運動家たちである。彼らは植民地建設のために、治外法権的な過酷な労役に貸し出された。現在も主要道路として北海道の社会生活や経済活動を支えている、幹線道路の敷設工事に駆り出されたのである。

「鎖塚」として知られている埋葬塚は、網走―北見間の道路建設で斃れた囚人たち葬った盛塚である。多くの囚人が、寒さや疲労で斃れた。官吏によってそのまま打ち棄てられる仲間を、見るに見かねて囚人仲間たちが簡易に埋葬(土盛り)したのである。「鎖塚」の所以は、砲丸を取り付けた足枷が付けられたままだったからである。官の記録にない塚である。そのまま忘れ去られていたものが、戦後になって道路拡幅工事の際に発見されものである。発掘調査された亡骸は市民の手によって再埋葬され供養が施された。市民たちの死者を弔う思いには、かつての「仲間」の血脈に連なる「今」を思う気持ちがあったにちがいない。

炭鉱労働者とタコ部屋も有名である。囚人労働の廃止を受けて新たに成立した人夫供給協会(土工部屋)であるが、監獄部屋とも呼ばれるように逃亡者には私刑(リンチ)をもって応え見せしめとした。無法地帯だった。「管理」に生産性の向上を期待した官は黙認をもって同部屋の維持を援けた。

形の上では手厚く保護されていたかに見える開拓農民にも、言葉は悪いが、別の〝リンチ〟が待ち受けていた。大自然の猛威である。内地ではとても望めぬ広大な土地(五町歩)の無償供与と、生業用具の貸与・給付や5年間の徴税免除といった甘言に、内地からの雄飛の先にユートピアの実現を夢見た内地人は、入植初日で完膚なきまでにその夢を打ち破られる。待っていたのはアカエゾ松の大木が生い茂る鬱蒼とした原始林だった。それでも払い下げ地に打ちこまれた傍示杭に手をやって、夢の実現に今一度気持ちを奮い立たせたとしても、二抱えもあるような大木は、新天地への思いを打ち砕くに十分すぎる〝現実〟だった。多くの人々が、遠からず破たんの憂き目に合うことになった。彼らもまた植民地主義の「犠牲者」だったのである。


宗教地としての北方 北海道島は、宗教活動にとっても新天地だった。旧和人地を含めて既存秩序に縛られない自由の地だったからにほかならないが、開拓農場の設立に向けた組織だった活動だけではなく、ときには植民地主義による収奪に晒された「人民」の救済から地位向上にも寄与することになった。中核的存在となった宗教家は、キリスト教関係者だった。坂本直寛による十勝集治監における伝説的な教化活動、炭鉱労働者組合への積極的な介入(会長就任)など、その宗教活動は反権力的な色彩を帯びていた(以下金田隆一「北海道における坂本直寛の思想と行動」永井秀夫編『近代日本と北海道-―「開拓」をめぐる虚像と実像』河出書房新社、1998年)。しかも、その宗教活動の担い手の中核が、明治政府の新体制に対立的な士族であった点、彼らが内地に背を向けて北海道島を目指した北方志向に、維新政府の「正義」に対するアンチ・テーゼが胚胎されていた点は、「流謫」の文脈に連なる精神性を読み取ることができる。

興味深いのは、土佐基督教会を出身母体とる族が坂本竜馬に連なる縁者たちであったことである。〝不平士族〟とは、あたかも勝者の路線から外された彼等の〝不本意〟を嗤うが如き、権力側に立った言い方ながら、「流謫」を胚胎した「不平」であるとすれば、私利私欲を問う卑小なる問い立てはもとより一蹴に付される。高い意識の形成にもう一つの「近代人」の在り方に関心の目が向けられる必要がある。

因みに坂本竜馬の名を挙げたのは、鷲巣繁男に直結するロシア正教の、日本おける最初の日本神司祭者(初穂)が、竜馬とは従兄弟関係にある沢辺琢磨(山本琢磨)であったからである。彼の場合、北行自体は単なる身の安全確保に過ぎなかったが(幕末期)、それが偶然とは言え、箱館でニコライと邂逅し初穂者となったことは、個人を超えた、より大きな原理に動かされた運命的な出来事であったことを、今一つの北の物語として想起させて余りあるものがある。また坂本直寛の場合は、竜馬を叔父としていた。

* 松前藩領下における千軒岳殉教(寛永年間)に知られるように、同藩領下には内地から多くの隠れキリスタンが渡島していた。後の正保年間の記録では藩の小吏までが捕縛されている。松前の地には禁教を密かに信仰する者たちが少なからずいたのである(上掲・片岡著398頁))



Ⅲ 「北方」への階梯

流謫以前の詩 ロシア正教や「流謫」が出たことで再び詩人に還る。しかし、詩作に転じた当時、鷲巣繁男にとってロシア正教は自己の外にあったし、連作詩「北方」を生み出す北方論も、「流謫」以前にとどまっていた。それが詩作開始後5年を経ずして北行が流謫であったことを自覚し、今度は流謫によって詩が生み出されていくことになる。その岐路に立つのが連作詩であるが、今、参考までに、同じ「北方」を使いながらも、それがいまだ自己化されていない、流謫以前の詩を一篇掲げておく。定本詩集で「初期詩篇」としてまとめられた詩の一つである。カタカナ詩であるのも両者の差異を際立たせる。なお、カタカナによる契機は、逸見猶吉の「ウルトラマリン」(北方旅情詩)であったに違いない。

訣 別

甘イ光デ俺ヲ見送ルナ 北方ノ眼ヨ
鬱々タル海霧(ガス)()カレテ俺ハ片盲ノ太陽ヲ瞻タ
カレラハ牧歌ヲウタツテイツタ 賛歌ヲ 囁キヲ
昇華スル囚徒ノ痛恨 ソレラ抒情デ建ツタ街 コロニイ
コノウツラウツラノタユタイヒニ 俺ノ拒否ガ擦リ切レタトイフノカ
タブラカサレタトイフノカ 俺ノ懶惰ガ

カレラヨ 見タトイフ極光ノ虚偽ノ伝説(ツタヘ)ヲ抱イテ沈メ
厲シイ砂礫ニ俺ノ秘カニ流シタ血トカサブタヲ
俺ハ冷ヤカナ金属ノ太陽ニ与ヘ カレラノ牧歌ニ売リハシナイ
カレラノ甘イ取引ニ マシテケダルイ湯気ノタツ言葉ナドニ
原始ヤ土地ヤ流浪ノ誘ヒニモ
俺ハ与ヘハシナイ

 1行目からいくつもの詩語が拾える。「北方」「囚徒」「コロニイ」「極光」「原始」「流浪」。これらの類は、単独に取り出しても、詩行のなかの坐りが決定的に崩されないで済んでいる。作品全体をのっけから強い意志の塊の中に引き入れてしまっている「訣別」という詩題を前にして(あるいは背にして)、「訣別」に見合う強い詩境を切り拓かない詩行の連なりが、かえって意志の権化たる「訣別」と距離を広げてしまう。語調は失墜気味である。「太陽」「牧歌」「賛歌」「抒情」「伝説」なる対極の響きも乖離を助け、最終行の「俺ハ与ヘハシナイ」にも覇気が感じられない。本来詩題に対する評決の一行となるべきところが、「訣別」は果たしえないでいる。試みに反して、目的とした開拓からの訣別を果たしえない詩作に止まらなければならない。一過程としての評価は当然別にある。

 連作詩「北方」は、開拓の破綻からみればさらに時間が経過した段階で作られたものである。したがって、「訣別」を作詩した段階の方が、はるかに挫折感の近くに止まっている。最中であったかもしれない。事実、「北方」を収める第三詩集の「あとがき」では、「これらの作品を書いてゐたころの私の生活は、今までで最も平凡な日々でしたが」と記している。「昭和二十九年一月」の日付をもつ「あとがき」である。開拓地を後にしたのが昭和2211月頃である。「初期詩篇」の本となる第一詩集『悪胤』を刊行したのが昭和255月、同じく第二詩集『末裔の旗』の刊行が昭和2610月である。この両詩集は、年譜を辿れば、流亡先ともいうべき大都市札幌で、安定した就職口が見つからずに仕事を転々としなければならなかった、失意の日々のなかで発刊されたものである。対して第三詩集の発刊は、その後20年を過ごすことになる職場(興国印刷株式会社)に就職して約2年半を過ごした後のことである。「もっとも平凡な日々でしたが」と記される経緯である。


開拓体験と詩 この年譜の推移に読み取れるのは、詩作と現実との位相差あるいは乖離である。「現実」を基準にすれば、しかし「訣別」に重く「北方」に軽い。それが、詩作への想いの強さでは逆転する。「北方」に高まっている。詩人は、第三詩集の刊行を前にして詩篇を見渡す。そして編成を振り返って、四つのグループに分かった「節」(「流刑]「鐡格子」「日本愁嘆調」「奇怪な風景」)に対してこう語る。「内容を四つのグループに分けましたが、要は一つでもよいので、(略)そのときどきの気分の間に間に、ちがった咏嘆をしたにすぎません」と。どこか投げやりな口調である。しかし、次の一行を際立たせる前置きとして挿しこまれていたものだったことがすぐ判明する。すなわち、「ただ附言すれば、私なりの心づもりですが、『喪われていく憤り』への憤り、『治癒』への抵抗が私を支へてゐたということです」と記し、一文を閉じるのである。

この閉じ方を見る限り、定職の確保による新たな現実は、「現実」が〝軽く〟なった分、内面生活の拡大化として発動し、「憤りへの憤り」や「治癒への抵抗」に向き直らせたと言える。それを詩行の上に確かめれば、次のような語りかけの口調が放つセンチメンタリズムに対する、まさしく「訣別」となる――「甘イ光デ俺ヲ見送ルナ 北方ノ眼ヨ」「コノウツラウツラノタユタイヒニ 俺ノ拒否ガ擦リ切レタトイフノカ/タブラカサレタトイフノカ 俺ノ懶惰ガ」(以上第1聯)のとおりである。

しかし、普通の「現実」ではなかった。稀なる過酷な開拓体験だった。その重みは詩篇の善し悪しだけでは量れない。初期詩篇の技法的な未熟を許したのは、いまだ開拓の日々とその破綻という「現実」が身近に在ったからである。むしろ感傷的であることによって詩句は日々の自己再生の向上に〝同期的〟だった。必要だったのは、詩構造より詩句の方だった。だから「甘イ光デ俺ヲ見送ルナ 北方ノ眼ヨ」を、試みに冒頭から末尾に送り、さらに1行詩として独立させて一行一聯の体裁を採れば、詩篇的にはセンチメンタリズムはストイックの響きに転じる。容易いことである。

でもそうはしなかった。あくまで冒頭に置かれ、「俺」を前面に押し出してみせようとする。「俺」がまずあり、あることが必要だったからである。その「俺」を末尾に移す場合は、同じ「俺」でも結果としての「俺」、すなわち詩的営為で生み出される「俺」でしかなくなる。途中の詩行に求められるのは、結果を生み出す揚力である。甘さは逆に失墜を招く。しかし、開拓体験にとっては、それでも「俺」を全面に掲げるしかない。甘さがとれて引き締まった詩行を連ねられたとしても技法に過ぎない。技法だけで果たしているとすれば、書く意味が問われる。書く必然性は付いてまわらない。

「俺」以上で推移することでできた時、結果である「俺」もまた「俺」以上になり再生される。しかし、詩行は杳として口を開かない。繰り返しになるが、それが開拓体験の重さであり、容易に解かれることのない「現実」であった。単なる過重労働のためだけではなかった。宿命的とも言える敗北を最初から宿していたからである。最初から敗北に立ち向かっていたのである。それが北行体験の本質だった。現実を超えた現実だった。二重構造の現実が詩人を待ち受けていたのである。

それは、「北方四」の最終聯冒頭で詠われた「北ノ果」とそれが人に課すものの姿である――「黙ヲ蔽フ黙 無量ノ雪ノ底ニ/ドスヲ呑ム無頼ノマナコ爛々ト抗ヒシモノ ココニ眠ル/義シキ心ウチヒシガレ泯ビシ骨 ココニ埋ル/コノ北ノ果ニ」。ここに詠いあげるのは、生態的な人間活動を遮る圧倒的な大自然の威力、その象徴たる「雪」と雪が大地に広げる「沈黙」の重みであるが、それだけではない。「無頼ノマナコ」の族(無頼漢)にも「義シキ心」の民(開拓民)にも「眠リ」「埋ル」を強いるそれである。しかも「無量ノ雪ノ底ニ」の状態で。しかし、この詩の中で詩人は、かつての「俺」を超え、かつ凍原の底から甦らせる生命の灯を内に焚く真似に見出したのでる。この「北ノ果」を貫くものを。あるいはともに生きるものを。


詩人と「時間」 今、その答えを引き出すのは時期尚早かもしれない。それを、唐突に「時間」として掲げるのではなおさらである。しかし、それでも構わず「時間」としてしまう。やがて詩人自身が膨大な思念をもって「時間」を語ってくれるからであるが、それ以前に詩人の詩が、未知を切り拓くかのように我々を「答え」のもとに導くからである。

鷲巣繁男が、漢詩人・歌人・俳人でもなく、また稀なる博覧強記でありながらも学者でもなく、やはり一義的な存在体としては詩人だったのは、「時間」が、思念以前の形で捉えていたからだった。まさに詩的発語の最中だった。詩人が先なのか発語が先なのか、同じことなのか、同体の後では、両者を介して現れた「時間」は、発語に遡る発意として詩人のなかを生きる。否、生きるのは詩人だが、「時間」が詩人を生きるのもまた事実である。詭弁めいてしまうが、以下の詩作品が、作品としてそれを、真意として物語っている。

「あとがき」によれば第三詩集の最後に書かれた作品であるという。少し長いが、全詩を掲げる。詩人が「北ノ果」に詩として出会った境地が、新たな開拓地の先に拡がる。かくして「流謫」を生きる一人の歌い人となっていく。

北 方 四

諸比丘ヨ、輪廻ハソノ始メヲ知ラズ、衆生ハ無明ニオホハレ渇愛ニ縛セラレ、流転シ輪廻シテ、ソノ前ノ際ヲ知ルコトハデキヌ。
                        〈サムユッター・ニカーヤ〉

ヒカリハ乱レ ヒカリハ怯エ コノ真昼ノ底ノ
黙ヲオホヒクル黙 ソノ雪ノミナギル(カルマ)
ウモレル草ノヤウニワタシハウナダレルカ
コゴエルウヲノヤウニ見ヒラクカ炎ノ眼ヲ
オノレノ未知ニ支ヘラレ 立チドマリ且ツアユム 阿僧祇劫(アサムキヤカルパ)
ユルガヌ北ノ 忿レル流謫ノタダナカニ
イモウトヨ 濡レカガヤクヲサナ蝉ノ翅ノヤウニ
ワタシハナホ仄カナ無垢ヲ夢ミツツ 目ツムリ問フノダ
過ギ去ツタ罪ハ幻デアルカ 罪ハ物デアルカ
裸木ヨ ワタシヲユビサシ嗤フカ 背キ離ルカ
身ヲスリ寄セ合ヒ流転ノ劫ヲ聴ク ケモノノ愛ハカナシキ愛カ
暗イ地平ニトリ囲マレテ物ノ怪ノヤウニコゴヱニウメク憑カレタ歌ヲ
ワタシハ聴ク

ヒカリヲマトヒ笑フモノ 金色(コンジキ)ノ陽ヲ蓄 漲ル力ト精
気ニホホヱミヲタタヘルモノ 愛ノホメウタヲクチズサ
ムモノ 花束ヲ撒キ忘レユクモノ 憤怒ヲサゲスムモノ

脂ギル奸商ハ斬ルベキカ 諂諛ノ詩人ハ放ツベキカ
汚吏ハ梟スベキカ 偽レル教師ハ抗スベキカ

飢ト ヤマヒト クスブル悪徳ノ
一切微塵ノ仮相ハ シカシ重ク
炭殻ヲ掘ル主婦 アラクレシ指
棒切ヲ振ル翼ナキ児ラ 不思議ノ敵意
オオ ボロボロノ偏倚ココニヒシガレ
ワタシモ怯エル狗トナルカ 弾劾セラルル騙リトナルカ
ハゲシイ渇愛(タンハー)ニ 見エザルワタシヲイトホシミ
アヤシイ執着ニ 問ヲ重ネ問ヲ喘ギ
イマ愕クノダ妻子ヨ オマヘラハマコト妻子デアリ
杳イイモウトヨ オマヘモタシカニイモウトナノダ
重ネル問ニ崩レ ワタシハ羞ラフ
罪ハ幻デアルカ罪ハ物デアルカト
ワタシハイタハラズ ワカタズ ムサボリ流レ来テ
シカモ仄カナ無垢ヲ夢ミルカト

黙ヲ蔽フ黙 無量ノ雪ノ底ニ
ドスヲ呑ム無頼ノマナコ爛々ト抗ヒシモノ ココニ眠ル
義シキ心ウチヒシガレ泯ビシ骨 ココニ埋ル
コノ北ノ果ニ
眼ヲ細メクル荷役ノ馬ヨ 汝ノ忍苦ハ長ク変身ハ遠イ
アア 貧シイイモウトヨ ワタシハ見知ラヌ納屋ニシノビイリ
微カナヒカリニネムル卵ヲ偸ム
ヒカリハ乱レ ヒカリハオビエ絡ミツツ 風ノ炎ニ
イモウトヨ ワタシハソレヲ抱キ 立チ止リ且ツアユム

原始仏教の経典〈サムユッター・ニカーヤ〉(『阿含経』相応部)を引いたエピグラムは、詩語としても「業」「阿僧祇劫」「流転ノ劫」「渇愛」などの仏教用語が使われており、一見、永劫の時間(仏教的時間)を招き入れようとしているかに見えるが、詩境の切り拓きとはなっていない。意図としては、歌い人である詩人の自己表明(「衆生」としての立場)として用意されているとみるべきである。それでも「イモウトヨ」と呼びかける声の響きを耳にするとき、その声が原始仏教との破綻的響きを生んでいることから、破綻に開ける「時間」には、詩境を切り拓く力があるのは否定しない。

それも含めてこの作品が「時間」に届いているのは、発話者である「ワタシ」が一次的に詩から距離をとって、その外に立っているからである。しかも同時に内に止まっているからである。「ウモレル草」も「コゴエルウヲ」も外であり内である。この行き交う意志によって位相差が「時間」を孕む。そして、「イモウトヨ」の呼びかけでは、それが人の気配として散文的時間を植え付ける。「イモウト」が「ワタシ」と同格故である。しかも別の人格の発生によって双方向性を求められた詩句は、自ずと叙事性に倣いはじめる。しかもその詩行が、相変わらず外に向かう語りかけであり、内に向かう問いかけでもある二重句の形を崩さないことによって、それ自体は外である「歌」を、個人として「聴ク」のを認める。その「ヒカリヲマトヒ笑フモノ」の「歌」を、傍らにあるいは一歩下がって「イモウト」も聴いている。「諂諛ノ詩人ハ放ツベキカ」と歌われた時、それを自らとして聴き、「イモウト」に諮るもう一人の自分を用意することになる。

詩は長短に関わりなく、綻びを認めない。細部にも妥協しない。それが、散文的手筈では整えられないところに詩の困難があり、詩の栄誉がある。栄誉には感嘆の声が上がる。今、ここに至って、思いがけない転調、あるいは間投詞的な立ち現れ方に、その声を聞く思いである。「イマ愕クノダ妻子ヨ オマヘラハマコト妻子デアリ/杳イイモウトヨ オマヘモタシカニイモウトナノダ」。この「イマ愕クノダ妻子ヨ」の思いがけない参入に意表を突かれしかも納得してしまう。この突然の声変わり。詩人を捨て不用意に夫たる声を真似る語らい。ここにも位相差が生まれる。ここでは日常性を呼び込む「時間」である。「時間」はさらに深まりゆくのである。「杳イイモウトヨ」では兄を真似る。それでも妻子の場合のように真似るわけはいかない。人格は崩れない。それでも一時の揺れ動きが詩行から伝わってくる。再び「時間」が生まれ、仮構された兄妹像のあいだを静かに流れて行く。この通過をまって、再度、語りと問いが綯い交ぜになって終聯を用意する。

再び浮上してくるのは、開拓の日々である。すでに過去となりつつある、このかつての「現実」が再度今の「現実」に姿を代える。それが「北方四」が辿り着いた「現実」であり「時間」である。過去を過去としないからである。ただしこれは、「過去」だけでなく「時間」に対する叛意を蔵するものである。一時として止まることを知らず、常に過ぎ去ることを要件とし作動する「時間」は、一瞬の間に過去を生み出す。それが条件としているからである。したがって、「時間」を過去として生きるのは記憶である。それでも記憶は恣意的である。個人の記憶だけではない。歴史が生み出す時間にしてもまた然りである。それが「黙ヲ蔽フ黙」の眼前にあるものの正体である。

「北方四」は、それを記憶の再構築としてではなく、「時間体」として再述する。位相差のある「時間」を単独の「時間」だけでなくその複合として編成する。個別には時間であったもの、つまり過去であり、記憶で生きるしかなかったものが、「今」となるのである。すなわち「時間帯」である。しかも恒に「今」であり続ける時、「時間」は条件を解かれ、記憶であったものも記憶ではなく日々となるのである。故に終聯は、「無量ノ雪ノ底ニ」今を詠ものであり、「ココニ眠ル」者をも「ココニ埋ル」者をも自らとして生きるのである。たとえそれが罪人に形を代えたとしてもである。否、それこそが「流謫」なら、罪にも手を染めるのである。再び「イモウト」に呼びかけもする。「アア 貧シイイモウトヨ ワタシハ見知ラヌ納屋ニシノビイリ/微カナヒカリニネムル卵ヲ偸ム」と。しかし、その時、彼は「イモウト」の人格から離れ、「イモウトヨ ワタシハソレヲ抱キ 立チ止リ且ツアユム」と流謫者に人格を代え身を任せていく。
 
 すでに結論は出てしまっているが、「無量ノ雪」に向い合う。今度はより違った視角から捉え直し、「流謫」の地平を広げてみたい。



Ⅳ 流謫の島の時空

北海道島と「和人」 流謫の対極にあるのは安住である。北海道島にとってそれはアイヌである。明治政府によって「旧土民」とされ、同化を強いられて解体的な運命を受け入れなければならなかった後でも変わらない。かえって抑圧は、即製の和人社会の精神性を揺がし、地についていない彼等の足許の脆さを露わにする。「神話」の存在によってである。独自の精神体系を象徴するこの「神話」は、唯一北海道島の正当な住人たることを証かすものである。侵略的行為が顕在化した近世期以降、大都市札幌を要する現代に至っても、「和人」の立場では、北海道島を精神体系としては所有しえない。

明治以降、和人の手によって多くの文学や芸術作品が出されてきた。しかし、たとえば文学の場合、内地と一線を画す独自の世界を生み出していても、それは内地に対する独自性でしかない。それを「北海道の文学」とすることはできるし、文学史的にも意義深い枠組みであるが、「北海道島の文学」ではない。むしろ文学性が高まれば高まるほど、逆に北海道島からの逸脱は顕在化することになる。すでに時空化していて日常と一体となっているために意識の表面に上らないが、仮構からはじまった土地の歴史は、いまだ出発点から自由ではない。原点は、出発点が創る疎外感である。内地にはないものでる。それに「疎外感」と言っても、生を深める方向に作用するものである。それ故に時として日本に超然とした文学を生み出すことになる。

精神的十全性を伴わいない政治的支配は、コロニーを設置できても大自然は編成できない。他者としか措定できない。今に至るも基本的な構造は変わらない。見えなくなっているだけである。「雪まつり」「氷まつり」「流氷まつり」とは、まさに大自然との「他者」関係を自己表明したイベント名である。なんら批判的に見ているわけではない。逆に主体性を「内地」に対してさらに喧伝すべきであると捉える。文化史的にも日本にない主体性だからである。そのためにも改めて「他者」関係の原点に立ち返らなければならない。鷲巣繁男論も大きくはこの範疇にある。


滞在者の条件 いずれにしても「流謫」こそは、「和人」の立場にして北海道島を「他者」から「自己」に容れる上での絶対的な条件であった。そして、初期詩編から第三詩集の過程とは、流謫を発見する過程であった。開拓時代の俳句は、詩作以前であると同時に流謫以前であった。初期詩篇の作品に認められる混在は、句作時の精神的伸長として作品が生み出されているためである。かえって俳句が高い作域に届いていたために、ひとたび言語圧縮の自己規制から解かれると、抒情の散文的流出に押さえが効かなくなってしまう。

しかし流謫には抒情は不要だった。抒情に背を向けることを含めて流謫だったからである。早くは石川啄木がそうだったように、北海道島は詩人から言葉(抒情)を奪う。啄木は、抒情の無力化に内力を得て内地に帰郷した。鷲巣繁男は留まった。同じ抒情の無力化は、一人に短詩(三行詩)を、一人に長詩を選択させた。北海道島に留まる条件だった。なぜなら北海道島だけで済むなら、必ずしも長詩である必要はない。吉田一穂がそうだからである。むしろ、一穂の「白鳥」15章は、短詩型に極北の精神性を見出そうとしている詩体である。したがって長詩は、流謫の裡に生じたものである。それは、同じ「北の詩人」であっても、代々の網元の家に生を得て、家系的誉れを自我の根底に据えてその先に北海道島を内的自然としていた詩想からは、叙事詩(『故園の書』)を生み出してもその先に長詩は生まれないものである。鷲頭繁男が、「師」「先師」として吉田一穂を仰いでいたとしても、一穂は最初から流謫の外に立っていた。それが、詩想的完結性を生み出していた。鷲巣繁男は分かっていて「先師」と敬っていた(「存在の進路」(『詩歌逍遥游』第二、牧神社、1977年)122頁)。

 
アイヌという詩論 北海道に生まれた吉田一穂が、離道して帝都で極北を詠んで永遠の哲理を疑わなかったのに対して、横浜に生まれた鷲巣繁男が、逆に内地を背にして移住を敢行し、同じ原始の自然を詠う場合でも、原始の回帰性に自己否定を求める「流謫」を詠ったのはなぜか。個人の資質を超えて普遍として浮かび上がってくるのが、アイヌの存在である。正確には見えないアイヌという民族的存在である。なぜなら、明治時代からの組織的な疎外によって、姿形としてのアイヌは、絶対人口の減少とともに社会的少数者に押しやられて、とりわけ都市部にあっては隣り合う人の範疇ではなくなっていたからである。またアイヌ自身も出自を隠しがちだった。抑圧の結果である。まるで彼等が流謫者だぅた。それ故にアイヌを詩論とするのである。

 しかしそうは言っても、詩論をアイヌに立てるのは容易でない。アイヌ文学との内的接点から問う必要があるからでる。普通には神話学的な議論が中心となる。たとえば北方民族との比較文化的な視角では活発な議論が交わされることになる(萩原真子『北方諸民族の世界観』草風館、1996年)。文学論に軸足を置いた場合でも、金田一京助以来、口誦文学の外形構造(詞曲・歌謡のジャンル分類、その特性など)が中心となる(ジャンルを一覧化して見せた文献で言えば、久保寺逸彦『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』岩波書店、1977年)。したがってアイヌ文学と言っても、非文字文化のなかで無名性を生きる文学と、対照的に創作性を個人に問う文学論(文字文学論)とは、最初から一線を画し、詩論の根拠を見せにくくしている。
 
 しかしこれが、文学の発生論となると、金田一京助、知里真志保、久保田逸彦をはじめ、近年に至るまで多くの議論が輩出されることになる。万葉集や古い祝詞との比較研究にも議論が及ぶ。一部を覗き見たに過ぎないが、実際、驚くべき多様性を秘めた口誦文学である。金田一京助は、今に体系的に伝わった価値を世界文学的に捉えて、ときに声を高くする。「アイヌの文学は、文学以前の文学であって、ほんとうの意味の文学とはいえないものであるかもしれない。それほど幼稚で、素朴で、単純である。(略)けれどもまた、それだけに、純然たる叙事詩の生誕、神話文学の始原を考えさせる資料となり、数千年の昔、印度や、希臘・羅馬の書契以前における口承時代を今の世に目のあたりに見せ、日本の往古の語部の伝説を実感せしむる重大な意義もそこに発見するものであることは確かである」(「アイヌ語とアイヌ文学」(『金田一京助全集七』三省堂、1992年)374頁)。

 英雄叙事詩であるユーカラ(ユカル)や神謡であるカムイ・ユーカラが有名だが、口誦文学の範囲は、全般的で精神生活(哀傷や恋慕など)を含めて全体的である。大局的には民族のパースペクティブに及び、身近には日々の生活との同化・一体化に及んでいる。「日本神話」「日本民話」と異なる、時空に空隙がない高い精神文化を、この日本列島のなかに沖縄(琉球)とともにもう一つの「日本文化」として見ることができる。


詩歌の比較論 内地においては、四季折々にはじまって社会生活や個人生活に伴う、日々の感興を比喩にこめて歌(詠)い上げる。遍く日常に行きわたり、「歳時記」と化している。作句や詠作を促すのは、自己との一体化をアプリオリに保証し内面性を約束する「比喩」の力である。これが詩論的にも北海道島では疎外感に晒されることになる。アイヌの詞曲・歌謡が対極に立つからである。修辞としてではない。レトリックというなら素朴である。それが、和人に対して否定的他者として対極的立場に立たせるのは、「比喩」による自己実現である。彼等は彼等で使う「比喩」との一体感が、この地にあっては和人を生態系の外に退かせずにおかないのである。しかも、発動の形としては、個人レベルの企図にかかるものではない。大地や自然、そこで暮らす動植物を詠う、民族的発声そのものともいうべきアイヌのアイデンティティによるものである。任意にアイヌの「アイデンティティ」(ユーカラ)を引いてみよう(金田一京助「ユーカラ概説」『金田一京助全集』八、三省堂)。

Pase ran nusa  nusa-sermak
o-inkar kuni  Shirampa kamui
kamui utarpa!  Chinomi kamui
inne yakka  chiekasure
nen emoshma  yai-moshir-sho
kopunkine-kur,  kuroma to ta
apkash yakka  peket to otta
apkash yakka,  Iyunin-sakno
epetchiu-sakno  apkash kuni
tumam-shirkashi  chikoeyamkar
ekarkar pito  ene wa kusu,
Hoshki tuki  chionkamire
aekarkar  pito  ene ruwe-ne na.


重く垂でたる帑の  帑かげにして
四方を照覧まします  森の大神
神々の中の首領の神!  われらがをろがむ神は
沢にあれども  よろずにすぐれさせ
誰よりも異に  おのが国土のおもてを
よく知りみそなはすひと  うばたまの夜を
かけて行くにも  あかねさす日に
かけてゆくとも  怪我あやまち無く
つまづきごと無く  旅ゆくことの出来るやう
人のからだのうへを  心してよく気をくばり
くださるひとは  なが神なれば
第一にさかづきを引いて  われらのをろがみ
たてまつる神は  なが神にてあるものなり。

ここに引いたのは、「祈詞」とされる詞曲の一つで、祈りを神に聞き届けてもらうために詠われる。律語(サコロイタク)が使われている。引いたのは、定型をなす冒頭部である。祈りの対象となるのは、森の大神シラランバ神。この冒頭部の定型詩句は、同神を招ねくための呼びかけ部分である。

 次に「和人」の「アイデンティティ」(万葉集)を引いてみよう(岩波古典文学大系『万葉集』一、379380番)。

ひさかたの 天の原より 生れ来る 神の命 奥山の 賢木の枝に 白香つけ 木綿とり付けて 齋瓮を 齋ひほりすゑ 竹玉を 繁に貫き垂り 鹿猪じもの 膝折り伏せて 手弱女の おすひ取り懸け かくだにも われは祈ひなむ 君に逢はじかも
反 歌
木綿畳手に取り持ちてかくだにもわれは祈ひなむ君に逢はじかも

題詞には「大伴坂上郎女、神を祭る歌一首幷に短歌」とあり、補って末尾に「右の歌は、天平五年冬十一月を以ちて、大伴の氏の神に供へ祭る時、いささかこの歌を作る。故に神を祭る歌といふ。」とある。

アイヌの祈詞ではこれからなにかを願うところであるが、帑を立てその背後に坐ますシラランバ神にその誉れを詠いかけ、「さかづきを引いて」招き詞の冒頭を閉じる。万葉集では、奥山の神に向かい依り代である賢木を立てて、白香(「麻や楮の類を細かくさいて白髪のようにして神事に使ったもの」)で飾り、その前に酒の入った齋瓮を「ほりすゑ」て、「おすひ」(上着)を打ちかけた姿で膝を屈して神に祈る。そして心に思う。「君に逢はじかも」(「逢わないことであろうか」)と。

決定的に違うのは、アイヌでは神と人とはフェアーな関係で、神が人に見える姿(万物)をとっている間は時空を共にし、双方向的なことである。それが万葉集に限らず、和人の信仰体系とは原理を異にするところで、「うばたまの夜を/かけて行くにも  あかねさす日に/かけてゆくとも  怪我あやまち無く/つまづきごと無く  旅ゆくことの出来るやう/人のからだのうへを  心してよく気をくばり/くださるひとは  なが神なれば」のような親密な詞が生まれる背景となる。

 
 身体化という条件 地上や海上に見えるものすべては、同様の原理で詞曲や歌謡、あるいは散文的語りのなかでカムイ(神)とアイヌ(人)は対立構造ではなく同一構造としてとりこまれ身体化を遂げている。文字文学と違う口承文学の特性であるが、身体化が生み出すのは自然(大地や森林・山岳及び海原)との同一化である。明治政府が「無主地」としてアイヌの先住性を強引に剥奪しても、身体化までを白紙に戻すことはできない。しかも身体化の方が源に根差している。

北海道島における内地の宗教がそれを教えている。渡島南西海岸域を領地とした松前藩領における寺社や、近世後期に幕府によって建立された蝦夷三官寺(道南)、あるいは一部「場所」(松前藩によって設定された蝦夷地における松前藩とアイヌとの交易地)における半定住的和人による小社祠には、最初から普遍性に欠けている。内地であれば集落と一体の産土神であっても「国土」に遍在する八百万の神々に通じている。村落内の菩提寺であっても、檀家は「日本人」として遍く仏に繋がっている。繰り返せば、その連携感は、個人を取り囲んでいる景観外景だけではなく、内なる景観ともなっている。北海道島ではこれが確保できない。できないのを前提にした、担保を欠く建立である。これが最初から普遍性を欠くの謂いである。
 
 基本的には明治2年の「北海道」成立以後の寺社も事情は変わらない。かえって事態を複雑化させる。従来沿岸地方に特定的だった建立が、内陸部に進出しなければならなかったからである。海の彼方に内地との連続面を保っていた海岸地方にとって、それまで背後の景色にとどまっていた内陸部に舞台を移さなければならないのである。寺社を構えることはできる。内地の祭りを移植することもできる。実際開拓地ではそうやって信仰を北海道島の地上に具現した。

開拓地と宗教に言及するわけではないが、手塩地方(道北)の中学校における学校教育と郷土教育の調査に基づく研究報告は、その問題の現代版の現実を語っている。そこで行なわれていた郷土教育(囃子舞実習)は、保健体育授業のダンス単元(フォークダンス)一環として採り行なわれていた。フォークダンスとの組合せ授業は、獅子舞が次元的にフォークダンスと同じ位相だったことを物語っている。論文には生徒達の感想文が紹介されているが、興味深いのは、いずれの感想にも、組み込み授業であることに何一つ違和感を覚えていないことである。学童たちはこれが祭りに伴う舞いであることは知っていても(別に町内の「伝習館」見学授業があり、村祭りで踊られるものであることも知識となっているので)、心に中では身体的な動きの異なる「体育実技」と大差なかったのである。多くの生徒が女子を含めて上手になりたいと書いている。いずれも個人的な身体技能の向上としてであって、内地的な伝習現場における集団的な被伝習者意識ではない。

20年ほど前の調査である。北海道島として全般的に語るには事例として不十分だし、筆者の関心も「民俗」と「民族」の差別化を超えた、新しい精神風土の醸成にあって、新鮮かつ刺戟的な精神現場として、そこに「日本」超越を覗き見たいのであるが、いずれにしても本旨を逸脱しかねない。ここでは北海道島における「身体化」の一エピソードを、「民俗」に対する一種のアンチ・テーゼとして掲げられれば十分である。

* 大塚美栄子・土岐勝浩・前田和司「農村地域の中学校における郷土芸能の学習について:北海道上川郡朝日町、朝日中学校における瑞穂獅子舞の学習を中心に」(『僻地教育研究』471993年)

 
詩人の句作 その「身体化」を石狩地方北西部の沼田の丘陵(五ケ山)の開拓地に注いだ鷲巣繁男にとっては、当初、開拓を抒情化するしか疎外感を癒す術を知らない。それが句作だった。

 朴芽立つ 雪解の呼吸(いき)のあかるさに(①)
 熊笹に粗き日輪走るのみ(②)
 憂愁の日を寄せいぶる一木あり(③)
 笹の根を焚き 地の果の妻子と思ふ(④)
 國破れぬ 唖の芋蟲つややかに(⑤)
 わくら葉の堕ちゆく深き地ありぬ(⑥)
   樹氷咲く稜線 青き鞭鳴らす(⑦)
 雪原に蟲匐ひ 小さきひげありき(⑧)
 挽く一本 雪山の空こぞり寄る(⑨)
 蒼然と木の倒れゆく()もふぶく(⑩)

 五ケ山開拓当時(194647年)の作句の一部である。それぞれの句題は、①②が「朴の芽」、③~⑤が「つちくれのうた」、⑥が「棘のうた」、⑦が「樹氷の歌」、⑧~⑩が「雪の章」である。一句を補って句題を掲げると、「日日耕耘」(野火永し 耘夫耘婦のより添はず)、「笹の花」(笹の花 皃を負ひ妻が新墾へ)、「夏日譚」(虻走る野はだんだらに灼け沈み)のとおりである。作句群は「樹氷の歌」と題されて大きく編成されているが、句題中最多は「雪の章」で28句を数える。全体では104句からなっている。中央句壇と連絡を取り続けながら、開拓の合間に作られた一群である。

原始の森に立ち向かう開拓は、過酷で過重な労働を強いた。たとえ17文字であっても、文字を青春の糧としていた身体には、身体以上に心が癒される瞬間が訪れる。事実、上に掲げた作句には、癒しの〝先取り〟が味わえる。いずれ白い花を咲かせる朴の芽と光り輝く雪解けの様をあかるさに詠む一句(①)。かりに「破綻」を孕んでいたとしてもその気配はまるで容れず、原始の丘陵地の諸景を遠近綯い交ぜにして詠い綴る「つちくれのうた」の、凝らした新鮮なまなざし(③~⑤)。いささかの憂愁を浮かべなければならない瞬間があったにしても、わくら葉の堕ちゆく先に沈むのは、「深き地」であるより感傷の心の底であって、それ故に「深き地」も「北ノ果」の意識下にはない(⑥)。あるいは厳しい環境をも秀句に替えてしまう、表現に真新しい感覚を漲らせた北の叙景句の一群(⑦~⑩)。
 
 開拓が破綻していなかったら、おそらく詩人誕生には至らなかったにちがいない。文字以上に荒地を耕し切った達成感は、原始の征服として熱き血潮を体内に巡らせていたに違いない。加えて過酷さは贖罪でもあったからである。中国戦線で亡くなった人々との魂の交流が作句の最中に訪れる。告げるのである、死者の魂に向かって。酷使した体躯を、取り巻く過酷な環境を、負けずに立ち向かっている様を。しかし、現実はそれ以上に非情だった。それが「北ノ果」の人跡未踏の誇りを守る、偽ざる大自然の真実の姿だった。

遠からず訪れるに違いない、入植当初からの絶望を見据えるような日々に、今は雪が厚く降り積もる。「雪の章」が多作なのは、雪に閉ざされてしまったからであるにしても、酷使した肉体に甦る夏の疲労感が、二重に「俳人」の心を丘陵地の掘立小屋に閉じこめるのである。自然、内に向うことになる想い。思い巡らす日々の想いは、時に「絶望」に傾くことになる。

日輪()の孤寥 雪絶壁をおほひゆき
  粉吹雪 双眸ふかき(うみ)を秘め
  吹雪の底吹雪の底の火を焚くのみ

 そして、次のような信仰的な一句を口辺に上せることにもなる。

吹雪の綾 祈りのごとき木木又木木

 詩人の祈り 生家の宗教の関係で、誕生後間もなく正教で受洗していたとは言え、開拓当時、正教は詩人の心を占めていたわけではない。正教を意識した「ダニール・ワシリースキーの書・第壱」が生まれるのは、それから20年後のことである。ほかに信仰を得ていたわけではない。原始仏教に関心を示したのは、詩作品(「北方四」)から見れば、札幌で生活を始めてから67年が過ぎた頃である。「吹雪の綾」に慄然と立ち尽くす「木木又木木」。この形象的な漢字の並びたては、字形そのものを「祈り」に見立てたものである。「日輪()の孤寥」「雪絶壁」「粉吹雪」「ふかき(うみ)」「吹雪の底」も「祈り」を招き入れる叙景感を掻き立てる。ここに浮かび上がるもの、それは、特定の宗教というより大自然の中に我が身があること(擲げ出されていること)に対する自失感で、その虚無感に跪くものである

これは、石川啄木が最終地釧路に赴くとき、札幌から旭川に向かう車中から見た石狩の大雪景と、旭川から釧路に向かう途中の十勝に見たそれであり、北海道島の大自然の脅威に撃たれた時の思いに連なるものであるが、鷲巣繁男の場合は、車窓からではない。すべて過酷な労働下にある身体を通じてである。自然の超越性に心が撃たれただけでは済まないのである。頻繁に「絶望」を覗きこむ。それが日常となってしまう。いつか自身の力だけでは解決できない重みとなって彼を襲う。浮かんでくる「祈り」。招き入れる自分。同じ北行でも漂泊と移住の違いである。ただし啄木の場合、死後の永住地として北海道島(函館)を望んだのは、同じ「祈り」の範疇だったかもしれない。

 
 詩人とアイヌ 結局、この演繹的とも言える〈祈り〉が、その先に「流謫」となって新たな地平(地上)に詩人を立たせることになる。「流謫」は一つの概念であるが、肉体(身体)から参入していったことが、北行をより深く自己命題化していくことになるのであった。そして、この命題化を得て、ようやくにして詩論の側からアイヌに辿り着くことになる。アイヌにとって「破綻」はありえなかったからである。

限られた僅かの時間だったといえ、同じ大地を生きたことが、北海道島の意味を、そこが少なくとも自身にとっては存在論的否定の時空であったことを確認させていく。具体的作業としては、専ら詩作を通じた言葉の探求からであったが、その場合でもそこにアイヌが参入してきたわけではない。晦かったからではない。一通りのことは知っていた。かの知里真志保とは知人関係の間柄にあったし、それ以前、内地にあってはかの金田一京助の許にも度々通っていた。しかしアイヌに関する記述は決して多くない。関心が低いからではない。以下は、アイヌ関係の記述の一部(「憧れの呪器」『記憶の泉』詩歌逍遙游第一、牧神社、1977年)である。

わたしは須磨へ向かふ車の中で、ふと、今は遠い蝦夷の地で雪の街を並んで歩いたものだつたアイヌ人の硯学知里真志保氏のことを思い出してゐた。彼はたぐいない優しさと抑へようもない戦闘的激情をその一身に内包してゐたが、学問に直接縁りのないわたしに対してはその優しさだけが真向かつてゐた。彼の優しさの奥と憤怒の奥は彼自身の存在感と最も深い所では一つである筈であつた。文字をもたず、支配の片隅に甘んずる族が、しかし「語り」と「神謡」をなほ保持し続けてゐる、といふ誇りが、彼を最も堅固な世界の中心に支へてゐたに違いない。(同書40頁、傍線引用者)

 エッセイは、この後、金田一京助宅をしばしば訪れていたこと(昭和5年頃)や金田一宅に一時寄宿していた知里幸恵(知里博士の実姉)の『アイヌ神謡集』に触れ、さらに「カムイユカル」「オイナ」等からなるアイヌ文学の構造や、動物神をして叙事詩(カムイユカル)を語らしむ独特な文学形式に及び、「アイヌは文字をもたぬが故に、度重なる圧迫と破壊を蒙りつつも、唇の呪器の絶えぬ限り、多くの聖なる存在理由――歌謡を残し得たといふ皮肉をわれわれに教へてゐる」として随筆のタイトル「憧れの呪器」に繋げ、その一事例としている。したがって、「度重なる圧迫と破壊」の歴史を含めて、むしろアイヌを熟知していた一人であったと言える。知里真志保との接触もその聖なる尊厳のなかで行なわれている故に、支配の側に連なる自分をその立場において否定的に措定することができ、かえって「彼を最も堅固な世界の中心に支へてゐたに違いない」その「誇り」に自身を逆説的に捉え返すことが可能となる。

これは観念ではない。理解の範疇でもない。実存である。実存が生み出した自己否定であり、流謫の文脈のなかで自己許容となる存在論である。離道後の文章のなかでしばしば語られた、あるいは離道に際してこみ上げるように歌集『蝦夷の別れ』(書肆林檎屋1974年)に歌われた、かつての開拓体験は、流謫の地平に拡がる受苦として続く。受苦故にアイヌの大地に〝征服者〟として在る「傲慢」を受け容れられる。あるいは「突拍子モナイ」北の地への移住だったかもしれないもの、それも結局破綻を経て北の都市への流亡としかならなかったことを合わせて、「突拍子モナイ」ものの大本にあって我が身を誘っていたものが、端から我が身を「流謫」に導くそれであったことを、アイヌの大地にはっきりと自覚する。新しい詩集は、間もなく誕生するはずである。


おわりに

今後、このブログの進行に沿って、何回か、同じ詩人を論じられる機会がもてるはずである。ブログを開始(20125月)して日が浅い段階で北村透谷を取上げた(同年11月)。両者がともに長詩形式を詩体としているからだけではなく、心(魂)の在り方に近しいものを感じたからである。それはともかく、詩を論じようとするとき心が弾む。作品に時間の隔たりを感じない。人類が遺す言葉は、小説体としてか詩体としてか。詩とはなにかを脳裏に浮かべる時、この詩の言葉の人類的規模に思いが及ぶ。けして誇大妄想に耽っているわけではない。心が弾む理由を探っているにすぎない。近代詩や古典を読む想いを確かめるのである。
 
 さらに弾ませるためには、より多くの詩人や詩作品に当たらなければない。鷲巣繁男論でも同じである。ひろく近・現代詩のなかで行なわれなければならない。今回は、アイヌに視座があった。存在論にダイレクトに触れられるからである。詩論の域としてはまだ課題に止まっているが、それが不十分なままでも心が弾むのは、存在論への接近を肌で感じるからかもしれない。それも含めて、いつか詩学をものしたいものである。