2013年9月30日月曜日

[ち]チャイコフスキー? 聴かないわ!

[ち] 先生に会わなかったらおそらく違った人生になっていた。その先生を傍らに思う。先生を思うことは、人生のはじまりを思う特別なことだった。
その先生はかつて言った。
「感傷的だから」
 聴かない(あるいは敬遠する)理由だった。チャイコフスキーを。
本人離れした顔立ち。はっきりとした目鼻立ち。広くて形のよい額。細く引き締まった顎の線。ポニーテールが首筋を引き締める。まぶしいほどの美しさが少年の目に焼きついて離れない。
Aが先生と出会ったのは、まだ少年の時だった。それが今ではすっかり大人だ。その日落ち合ったのは、中央線の某駅近くの酒場だった。久しぶりだった。先生からの誘いだった。
「A君には先を越されてしまったわね」
結婚のことだった。お祝いしたいわ。誘ってくれた理由だった。
でもその時、Aには先生が浮き浮きしているのがとても不思議に感じられた。大人になったわね、そう言おうとしているのだろうか。それだけには思えなかった。
その訳はすぐ分かった。そうではなかった。それもあったかもしれないが、自分のことだった。「同居」していたからである。同居相手は、教え子だった「子」であると打ち明けられたのである。Aは思わず見返した。
教え子? でもAは尋ねなかった。尋ねたくなかった。
Aは先生に古文を習った。半年間だけだった。臨時講師だったからだ。それで終わってもよかった。そうなるはずの出会い方だった。それがそうならなかったのは、Aが自分の人生を先生のなかに選んでしまったからだ。
先生は饒舌だった。知っている先生ではなかった。考えてみればこうして外でお酒を飲んだのも初めてだった。それも日本酒を。飲まないはずだった、日本酒は。思い出したくない出来事のために。もちろん構わない、乗り越えられたということなのだろう。それが「同居」の所為だと言おうとしているのだとしたのなら、それなら先生は先生でない。先生であるはずがない。
先生は大学生の時に恋人がいた。大学の先輩だった。「同棲」していた。恋人は自分で命を断った。最後はお酒に溺れる毎日だった。先生に手を上げることさえあった。
先生の部屋にはチェ・ゲバラの写真が貼ってあった。マルクス・エンゲルスの全集が並べられていた。サルトルの実存主義があり、ボーヴォワールの本も並べられていた。ニーチェがあり、カントやヘーゲルの哲学書があった。書架は哲学書や文学書で埋め尽くされていた。眩しすぎた。
少年は勝手に想像した。亡くなった恋人像を自分で創った。先生は国文科を卒業後、哲学科に編入学した。先生の恋人は、哲学で荒れ、哲学で死んだのだ。先生に手を上げたのは、情けない自分を先生が見放そうとしないからだった。
少年の人生はその時決まった。決められなければならなかった。人生の意味が哲学のなかにあったからだ。といっても疎外感としての哲学だった。先生の体の中で死と愛が結びつけられていたからだ。人生の始まりだった。疎外感への反抗だった。哲学(先生)への思慕だった。
Aは、チャイコフスキーのレコードを買った。ピアノ協奏曲第1番だった。「感傷」を聴き取るためだった。次はヴァイオリン協奏曲だった。感傷を理解し始めた。バレイ音楽の抜粋を聴いてさらに確信を深めた。先生に近づきたかった。
でも交響曲第6番≪悲愴≫を聴いて体の震えを覚えてしまった。知らない感傷だった。でも少年は距離をとろうとした。それに理解は難しかった。彼は隠した。チャイコフスキーに感動してはいけないのだ。教えなのだ。
でも何か理由があるはずだ。先生には≪悲愴≫が似合っていたからだ。「先輩」が好んでいた曲なのだろうか。二人で聴いていた曲だったのだろうか。それとも恋人を失った先生が、悲しみを埋めるように取り出して聴いていた曲なのだろうか。悲しみは「感傷」だった。悲しみを跳ねのける。これ以上聴かないことで。少年は再び「感傷」に傷つけられることになる。

 
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 生い立ちと音楽的接触 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、1840425日(ロシア暦)、ロシア中部のウラル地方のヴォトキンスクで誕生した。鉱山都市だった。父イリヤは、町で一番の実力者(市長級)だった。父・母ともに教養人だった。とくに母アレクサンドラの家系には、多彩な人材(名匠、教師、聖職者など)が輩出されていた。系図学上では、チャイコフスキーはドイツ各地に遠戚が確認できるドイツ系だという(伊藤2005、14頁)。
チャイコフスキーは音楽家としてはいささか遅咲きだった。通学先も法律学校だった。音楽に関心がなかったためではなかった。当時のロシアには専門の音楽学校がなかったからである。また音楽家への道もまだ用意されていなかった。ロシア正教会の聖歌は伝統的に無伴奏に則っており、楽器を教会の中に持ちこむのを固く禁じていた。最初からバッハは生まれない土地柄だった。
それでも幼い頃からチャイコフスキーの身近には音楽があった。最初の接触は5歳の時である。家庭教師によるレッスンだった。首都ペテルブルグ転居後(8歳)は、音楽教師についてレッスンを受けるようになった。

法律学校時代 12歳で法律学校に入学(1852年)。エリート学校であった。貴族階級出身の法律家を養成して官僚社会の中枢を担わせようとするキャリア養成校だった。法律学校での成績もトップクラスだったが、学校の外で音楽の勉強もより本格的に続行された。ピアノに加え音楽理論の修得だった。首都ペテルブルグは文化の香りに満ち溢れ、演奏会や演劇も日常的に開催されていた。とりわけイタリア・オペラの劇場演奏会は、チャイコフスキーに多くの音楽的刺激を与えることになった。
法律学校卒業後、法務省に勤務(19歳)。キャリア職であったが、仕事に対する情熱は早々に冷め、その分関心は音楽へ向けられていった。終には新しく創立されたペテルブルグ音楽院(ロシア初の音楽学校)に入学することになった。21歳(1862年)であった。
在職身分での野入学であったが、入学当時から音楽家としての将来に熱い想いを寄せていた。手紙に綴られている。「僕は天命が示している道を進みたいと思っているだけです。僕は有名な作曲家になるのだろうか、それとも貧しい教師に終わるのだろうか」(1862910日妹宛手紙)。在学4年間中を精力的な音楽研鑽に励み、作曲欲も旺盛であった。入学2年後の23歳時には、本格的な作曲としては最初期となる序曲≪雷雨≫を誕生させるまでになった。
同窓たちとの交友関係も大きな刺激となった。とりわけ年下ながらはるかに音楽的素養を身に付けていたラロシとの交遊は重要だった。音楽観を深める上に欠かすことのできないドイツ音楽への接近をチャイコフスキーにもたらしただけではなかった。同窓の音楽的天分をいち早く見抜き、教師の不評からチャイコフスキーを力強く音楽的に励まし続けいたことにもあった。

作曲家への道 186512月、成績優秀で卒業したチャイコフスキーは、最高位である銀メダル(まだ金メダルはない)を授与されるとともに、「自由芸術家」の称号(公的称号)を許される。モスクワ音楽教室(モスクワ音楽院の前身)の講師に就くと、堰を切ったように作曲に打ち込み、次の年の18663月には、交響曲第1番≪冬の日の幻想≫作品13の作曲に着手し、夏には完成(第1稿)を見るまでになる。
現在一般に演奏されるのは、より短縮した第3稿(1874年)であるが、同曲はチャイコフスキーの最初の大曲である。第1・第2楽章に標題(「冬の旅の夢想」/「陽気な土地、霧の土地」)を掲げることから交響詩的性格の強いものとされるが、情感的で起伏ある旋律感に溢れた聴き応えのある1曲で、後のチャイコフスキーの音楽的要素の多くがここに凝縮的に顕れている。「感傷」も文句なく顔を出している。たとえば、第2楽章:アダージョ・カンタービレ・マ・ノン・タント、変ホ長調。
その年の秋には音楽教室が音楽院(モスクワ音楽院)に生まれ変わり、チャイコフスキーは、同音楽院の教授に就任することになる。
*ペテルベルグにおける時代的状況の関係で演奏会と言えばオペラであった。管弦楽(とりわけ交響曲)の演奏は一般的ではなく、チャイコフスキーの演奏会体験もその中にあった。少年チャイコフスキーの音楽的情緒はイタリア・オペラのなかで育まれていったことになる(森田199359頁)。

 
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 少年は、まだ、チャイコフスキーの人生は知らなかった。旋律から勝手に想像していたにすぎなかった。プラトニックななかにあるはずであるそれを。強いだけではなく劇しさを伴った、ときには深く傷つくに違いないだろう、純粋なプラトニックなそれを。
それでも≪白鳥の湖≫のブラック・スワンを知って、プラトニックのなかにエロチシズムの匂いを嗅いだ。これには前段がある。
先生は、何回目かの授業中に前触れもなく「SEX」と言う言葉を使った。このことである。一様に息を呑んだ少年たちのなかにあって、Aの場合、それだけでは終わらなかったからである。まるで日常語のようだったその響きが、かえって少年のなかの処理を後にずれこませ、少年なりに秩序立っていた異性へのナイーブな精神状態を強く揺さぶったからである。
別段、唐突に「大人」と向き合わなければならなくなったからではない。それも少なからずあったかもしれないが、それ以上に、自分が少年の側にしか居ないこと、居られないことを思い知らされたからである。決めつけられたにも等しかった。突き付けられたのである。それが負い目になってしまうのであった。
 まだ人生を選ぶ前だった。当然である。選べる状態でもなかった。少年だったからだ。「性」のはるか手前にしかいなかった。それに相手は思慕の対象以上ではありえない。先生だったからだ。少年は、まだ「彼」でも「A君」でもなかった。あえて言えば「君たち」と呼ばれる三人称の一人でしかなかったのである。少年のなかでは「自分」であっても、教室のなかではまだ「自分」を言い張れる身体ではなかった。
知らない「性」が突き付けられていた。言葉の響きが、彼の、否、少年の「自分」を貫いたのである。否、射られたのである。射られた自分をそのまま「自分」に閉じ込めでしまったのである。
 Aの思春期はその時終わった。でも後で振りかえってそうだったかもしれないと思ったにすぎない。少年にとって人生は、まだ必ずやってくる次の日程度のことだった。その次の日にしても、「自分」を占めている感情(相変わらずの思慕)の方が、はるかに意味のあることだった。思春期の「性」は哲学ではなかった。実感ですらなかった。
もし哲学と言うなら、<性>に傷ついたことと、傷ついたことを含め、「感傷」が重くのしかかっていたことである。<思春期>も<性>も感傷でしかなかったからである。それなのに「SEX」が感傷を一気に飛び越えてしまったのである。ほとんど自己否定だった。
早すぎる。まだ自慰さえ知らずにいたくらいだった。実態(実体験)の先を行っている、行きすぎている。「SEX」がそのように唐突に口にされたことは。少年にとってそれは、猶予期間も与えられない容赦ない「体験」だった。実体験だった。しかも体験の意味さえ知らずにいる。矛盾でしかない。しかも矛盾と知らずにいる。
再び感傷に閉じこもる。感傷に新たな感傷が付け加えられる。<性>は、二重に抱えこんだ「感傷」の囚われ人になってしまったのでる。終わった思春期と永遠に続く思春期の二重構造で。しかもメビウスの環のように出口がない。少年は少年を生き続けなければならい。永遠の<性>に閉じ込められるのである。

本当は結婚していなかった。欺いたのである。でも報告したかったのだ。なぜ結婚しなかったのか。だからすべて欺いていたわけではない。それに結婚しようと考えていたのだ。結婚しようとも言われていたのだ。相手からは今もそう言われているのだ。でも彼は恋人に背中を向けるしかなかった。欺いたのは、「結論」を出すためだった。けりをつけるためだった。先生の目の前で。
「想像できないわ。A君の奥さん?」先生は言った。「それよりも結婚自体が想像できないわ。A君が結婚だなんて。からかっているわけではないけど、でもそうでしょう、女性の話もしたことがなければ、聞かされたこともないでしょう。したとしても文学のなか。そうよね。それがいきなりでしょう」そう言ってAを正面から見つめる。「おめでとうと言わなければならないけど。ごめんなさい。分かっていても、誰に向かって言えばいいのかしら。もちろんA君に言えばいいにきまっているけど。でもそのA君はどこにいたのかしら? それとも違うA君がいたのかしら。私の知らなかった……。そうよね、知らなかっただけなのよね。女の子とお付き合いしていたって不思議はないわ。していない方が変よ。聞こうとも思ったのよ。気に入った子はいないの。文学や哲学が話せる子は。私とばかり話していないで。同じ年頃の子と話ししてみてはと。勘違いしないで。私はいつも楽しかったわ。君が成長していくのが。傍らから見ているのが。だから連れて来てくれてもよかったのよ。知らないA君を見てみたかったわ。見させて欲しかった……」
 Aは、話を遮るように手紙を取り出した。切手も貼ってあった。投函せずに用意してきたのだ。直接手渡そうと思い直して。
「しばらくしたら戻って来ます。その間に読んでいて下さい」
そう言って、逃げ出すようにして店を出た。
しかし、外に出た途端に激しい後悔に襲われた。「読まないでください!」数秒で戻れる。今戻らないと戻れない。戻れなくなる。気が付いたのである、そのことに。愚かしい以外のなにものでもなかった。渡す前に分かっていそうなものだった。
Aは弁解する。だから投函できなかったのだと。そう言って自分に言い聞せる。しかし自己弁解している内に店に戻るタイミングを失ってしまう。
 当て所なく駅の周辺を歩いた。後悔を引きずって歩いた。30分過ぎた。店の電話を調べた。載っていなかった。違う。正確な名前が出てこないのだった。店を選んだのは先生だったからだ。このまま戻らなくても先生は叱らない。内容が内容だったからだ。
再投函すれば分かってもらえる。その方が先生にもかえって好い。でも彼の足は店に向かっていた。愚かしい自分を再確認する。誤解されていないか確かめる。それも外から。中に入らないで外から先生の気配を感じる。再投函するためにも。もう一度最初から書き直すためにも。
でも彼の思い通りにはならなかった。先生が先に店の前に立っていたからだ。待っていたのだ。顔が見られなかった。思わず俯いてしまう。まるで叱られるのを待っているようだった。少しだけ顔を上げると、待っていたように先生が言った。勘定は済ませてしまったと。場所を替えましょう、そう言うのだった。
すこし歩きだすと、先生の手がAの手を捉えた。固く握りしめる手だった。思わず先生の手先に目を遣った。沈黙に包まれた横顔に恐る恐る顔を上げる。
78分で公園に入った。大きな公園だった。池があり、噴水から流れ落ちる水の音が暗い水面に静かな音を行きわたらせていた。水銀灯がぼんやりと行き先を照らしている。そこ彼処にベンチが据えられていた。8時を少し回ったところだった。本格的な夜を迎える前だった。語り合っている男女。無言で寄り添ったままのペア。水銀灯から影になったベンチには抱き合っているカップルも見える。土曜の夜だった。
 空いているベンチにAを導いた先生は、寄り添うように体を寄せた。Aの手をとって両手で包むように挟んだ。頬に当てた。手の甲に唇を寄せた。再び頬に当てた。今度は強く当てた。背中を向けさせた。Aの背中に頬を寄せた。肩に手を回し、背中から心持ち強く抱きしめた。さらに力が加えられた。
背中を通じてAは先生の無言の声を受け止めた。不安だった気持は安心感に変わっていた。先生は言っていた。君と私とは一緒よ。君は私の「作品」。手紙(の内容)を含めてね。
Aは先生の手を胸の前で抱き抱えるように受けとめた。Aの「哀れ」を抱きしめている手だった。「不能」――それが手紙の内容だった。その告白だった。


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 音楽史的背景 19世紀後半から世紀末のドイツ・オーストリア系音楽は、音楽史を現代音楽へと導いていく過渡期に立っていた。交響曲に象徴される厳格な楽法(ソナタ形式)は、まずフランス生まれのベルリオーズ(180369)のなかで響きの開放へと現れ、楽音の頂点も時に突出的な金管の響きの高みのなかに求められ標題化していく。色彩的な響きの優先の前には音楽的形式も自由な音楽語法の選択に足枷とならなくなる。
 ベルリオーズの一部の楽曲のなかに新しい音楽の高い可能性を見出していたチャイコフスキーは、しかし、その一方で「西欧的」音楽観(古典派的音楽観)の根幹をなす交響曲という「形式」に拘り続けた。モスクワ音楽院で担当したのも音楽理論だった。自身が受けてきた音楽教育との葛藤もあった。正統西欧音楽(ドイツ・オーストリア系音楽)からの戒めにも似た、楽想を前にした時に突き付けられる音楽形式との絶えざる煩悶に作曲的自覚を深めていく。
「形式」が達成する音楽的高さを痛感していたチャイコフスキーにとって、音楽形式とは、自己否定にも似た対立軸であり、自己に超然と佇むものであった。スランプを生み出す源でもあり、あらたな作曲活動の源泉ともなるものであり、哲学的命題に立ち返らせる内的衝動でもあった。音楽芸術と自己存在との猶予なき鬩ぎ合いだった。まさしく哲学的な命題にほかならなかった。
しかも大きくは、当時の作曲家が、多かれ少なかれ引き受けなければならなかった、時代的な音楽史的命題でもあった。個別的には、古典派的音楽の誉れ高き継嗣である前・後期ロマン派からその圏外にあるロシア人作曲家が、この時代少なからず命題化しなければならなかった、音楽的アイデンティティに還される作曲行為の意味でもあった。命題の受け止め方が、そのまま19世紀後半の音楽史的立場の表明となり、同時に音楽芸術が約束する普遍への扉を開らく条件であった。

音楽的葛藤 チャイコフスキーの苦悩は、溢れ出る音楽的霊感が抒情にとどまっていると自責の念にかられることにあった。人間的存在に深まらない旋律性と和声法に自信喪失を抱かせ、ときに自傷的な心性を増幅させて止まないのであった。しかしその一方では、作曲家の精神的安定にはなくてはならない心の高まりでもあり静けさでもあった。事実、自己に還元化されるものは本人の期待以上であった。明確な否定と肯定に分極化しないカオスのような気分――言ってみれば、安定的に内面を保ちえない感情の起伏が、結果として多様なジャンルの音楽を生み出していくことになる。
交響曲を例にとって見れば、全6曲の作曲的変遷は、第1番から第4番までが比較的に長いブランクなしに書き継がれたのに対して、次の第5番との間には10年のブランクが見出される。そして5年を挟んで第6番≪悲愴≫が生み出されることになる。10年間のブランクは交響作曲家として見れば、スランプとして捉えられる期間であるが、次の5年間に限ってはスランプというよりは嫌気であった。この程度のものしか作れないのかという創作力に対する嫌気である。
4番以降第6番までが、現代の演奏会プログラムの定番ともなっているなかでは、「スランプ」も「嫌気」も見えてこないし、演奏上に表出されるはずもないが、一度、作曲家の創作的苦悩に立ち入ると、横並びに聴くことさえ躊躇われてしまう。そのような演奏会プログラムが組まれることは稀ではないかと思われるが、かりにプログラム化されたとしても、作曲家の内的苦悩が聴きこみに先立って客観的態度を疎外してしまう。ベートーヴェンの交響曲連続演奏会のようにはいかないのである。

前期交響曲の世界 上掲第1番ト短調作品13≪冬の日の幻想≫は、音楽院時代の音楽的修養をもとに音楽家として大きく踏み出していく、漲る決意のほどを発揮した大作である。その一方では、「形式」との関係性に対する強い自己表明でもあった。交響曲との距離を音楽的葛藤としてきたチャイコフスキーは、その交響曲に独自性の発揮のための本格的な第一歩を踏み出した。この最初の試練的な試みは、最後のそれとしても交響曲のなかに生涯を閉じさせることになる。これは偶然でもなければ、単なる結果でもなく必然であった。第1番以降の作曲過程とは、その必然のプロセスであった。
しかし、第2番ハ短調作品17≪ウクライナ(小ロシア)≫(第1稿=1872年)の場合は、必然の過程と言うよりは、自己納得的な水平方向的な表現内に止まる。必然の作曲過程とは、ほかならぬ垂直方向に向かうプロセスであったからである。標題は、音楽院の学生の頃からウクライナ(妹の嫁ぎ先)で夏を過ごしていたことから付けられている。第1番同様にロシア民謡的な旋律から動機が求められている。前期交響曲が国民楽派的と言われる所以であるが、次第に「五人組」との間に感性的な乖離が批判的に見出されていくことになる。ロシア民謡の旋律性が浮べる内在的な問題でもあるが、数々の印象深い旋律を生み出していく作曲家の霊感は、謂わば「国民」的なものから個人的なものの最中に音楽的動機を見出し譜面化していくことになる。第1番の肯定の上に成立する交響曲第2番の場合は、したがってまだ個人的な事情が真に音楽的結果を出すまでに至っていないことを教えている。
3年後に作曲された交響曲第3番二長調作品29≪ポーランド≫の場合も、個性が交響曲的に発揮されるには、前年に書かれたピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23の音楽的緊迫と比較すると、内側から突き上げる力に大きな差がある。楽章間の構成力や楽章内の内発力に緊迫感を欠くためである。しかしその点が、逆に前期交響曲3曲の最後を飾るに相応しく、国民楽派的な楽法と一線を画して、過渡期の作品として次の第4番を生み出す橋渡しとなる。かえって未発揮のままにとどめ置かれていた音楽的鬱積が、作曲家と交響曲との間に新たな音楽的関係をもたらすのであった。

後期交響曲の中の作曲家 そのさらに2年後(187778)に書かれた交響曲第4番ヘ短調作品36は、唯一、未制覇のなかにあった交響曲を、音楽形式との相克から真に「チャイコフスキーの交響曲」となさしめた瞬間である。メランコリックな旋律性だけで終わるものではない作曲家の音楽的霊感が、「形式」を借りてより直接的に感情に訴えかける力を抽き出した、強い衝動感に裏打ちされた楽曲である。献呈者(メック未夫人)宛の楽曲解説の手紙には、「私たちの交響曲は標題性をもっています」とあるが、前期交響曲を経てドイツ・オーストラリア系器楽曲からの自由を勝利感のなかに覚えたにちがいない新たな純粋音楽である。なお、2年間でなしえたのは、作曲家の私生活上の大きな変化(結婚と破局、予期していなかった精神的支柱との邂逅とその喜び)を背景としている。
新たな交響曲作曲家の立場を確立したかに見えたが、次の交響曲は杳として生まれず、第5番ホ短調作品64までには約10年を要することになる。この間に他のジャンル(歌劇、交響詩、管弦楽組曲、室内楽等)で多彩な作曲活動を展開しているが、交響曲作曲家としては、まさにスランプに陥っていたことになる。実生活でもモスクワ音楽院を退職し、モスクワを離れると、その後の10年間は、一か所に居を定めない放浪のような長い年月を過ごすことになる。しかも国外(主にイタリア、フランス)である。
交響曲第5番の完成は、あたかも長い放浪者との自分にけりをつけるかのような形でロシアに立ち戻った1885年の後、閑静な田舎に再度新居を構えた18883月から2か月後の6月に着手され、8月には早完成を見た区切りとなる一曲であった。最初、この交響曲にいささか思わせ振りな響きと構えを感じとったチャイコフスキーは(たしかにそう聴こえなくはないが)、「あのなかにはなにかイヤなものがあります。(略)拵え的な不誠実さがあります」と、メック未亡人に書き送っている。
その一方で初演(作曲者自身による指揮)以来、演奏を重ねるたびに好評を博することになるのは、現在でも同じで、華々しい強奏に昂りを覚えさせられるフィナレーの金管が仕掛ける、駄目押しにも似た演出的効果(フェイント的な効果)は、指揮者がタクトを降ろすのを遅しと、割れるような拍手と歓声をあらかじめ見込んでいたかのようである。なにが拵え的で不誠実であるのかは、10年前の第4番が「私たちの交響曲は」と自画自賛的に唱えられ点とは対極にある言いぶりだが、この違いは、すでにその第1楽章の序奏が余すところなく明らかにしているかもしれない。
いずれにしても作曲家自身の否定的な言辞が、ついに交響曲の歴史に不滅の金字塔を打ち立てることになる。第6番ロ短調作品74≪悲愴≫(1893年)である。そして、その年の1028日(新暦)に行なわれた作曲者による初演後数日に、流行りのコレラ菌に冒され、116日に死亡してしまう。あまりに急な出来事としか言いようのない、そのために「自殺」説まで生み出した謎めいた最期の迎え方であった。


***
Aは先生の部屋の扉をノックする。私鉄の沿線のアパートだった。信号機の音が小さく鳴っている。電車の近づく音が聞こえる。はじめて訪れるアパートだ。前のアパートは何度も訪れている。
すでに夜の9時を回っていた。職員会議が長引くかもしれない、予め知らされていたが、Aは次第に不安な思いに襲われだしていた。もう来ないようにと言われている感じがしてしまった。事実、いつまでもアパートの窓には灯りが点く気配がかった。Aは私鉄の駅前とアパートとの間を何往復もした。改札口に先生の姿を探した。このまま先生は戻らない。そう思った。負担なのだ。煩わしいのだ。もう会いたくない、そう思っているのだ。
考えすぎだった。諦めかけた頃なって、部屋に灯りが点いた。すれ違ったのだろうか、道が違っていたのだろう。
夜の10時を回っていたのに、先生は躊躇いなく迎え入れてくれた。電話したのに。そう言われた。そう言えば、駅前の喫茶店にいて。そう言われていたのだ。しばらくいただけで出てきてしまったのだ。一度出てしまった後では入りづらかったのである。逆に言われた。帰ってしまったのかと思ったわ、と。
出来合いのものだけど、と言って食事も用意してくれた。宿とってあるの? ないんでしょう、泊って行って、構わないから。次の日は休みだったが、生徒のことで学校に出なければならなくなってしまった、君は帰らなければならないの? そう、好かったわ、なら何日でも好いわ、泊っていって。弟が田舎から出て来ることになっているから。管理人さんにそう言ってあるから。嫌? 弟では?
Aは何も言わなかった。肯きもしなかった。先生も同意を求めていなかった。
また、溜ったわね。Aの手紙の束だった。最初の手紙は16歳の時だった。非常勤講師だった先生に廊下で手渡したのだ。ちゃんととってあるから。すでに専用の箱が作られていた。一体これまでに何通出したのだろう。返事は要りませんから、そう言って時には毎週のように書いていたのだった。まるで手紙日記のようだった。
18歳になると、上京して先生を訪ねた。1年ぶりの再会だった。その間は手紙の遣り取りだけだった。まだ1年しか経っていないのに、大人になったわね、と言われる。それから月に1回、時にはそれ以上のペースで先生を訪ねるようになる。日帰りだった。先生はそのときにまとめて「返事」をくれる。
さらに1年が過ぎた。19歳になっている。思ってもいなかった宿泊だった。
Aだけが固くなっていた。午前零時を回った。もう休みましょう。歯ブラシとタオルが渡された。彼は入口脇の風呂場の洗面台に立った。その間に布団が敷かれる。洗面を終えて部屋に戻ると二組の布団が敷かれていた。
寝着が手渡された。浴衣だった。女ものだった。Aは下着だけになった上半身に肩から浴衣をかけて、浴衣のなかでスボンを下げた。先生は見ていた。浴衣の短さをである。笑った。膝頭しか隠していなかったからである。
灯りが消され、カーテンから射してくる外の明りだけになった。Aは布団のなかにもぐりこんだ。暗がりのなかに体を沈めた先生が、片隅で着替えをはじめた。部屋の中だった。Aは背中に衣擦れの音を聞いた。やがて耳許を襲い、体のなかに進入してきた。Aと同じ浴衣姿だった。腰紐を締める音がしたからである。洗顔を終わった先生が、洗面台から戻って自分の布団のなかに入った。お休み。先生の声が背中にかけられた。Aは小さく背中で返事をした。
いつまでも寝付けなかった。終電から1時間以上経っている。そろそろ深夜の2時を回っている時刻だった。Aは、沿線を支配する深夜の静寂に耳をつけていた。先生の寝息を聴きとるためだった。聞こえてこなかった。Aは恐る恐る体の向きを変えた。薄く目を開けた。先生の体はAの側に向けられていた。薄開きの眼で先生の寝姿を追った。恥ずかしくなって目を固く瞑った。慌てて向きを変えた。
翌朝目が覚めると先生はすでに出かけていた。9時を回っていた。置手紙があった。
――起こしては悪いから(よく寝ていたようなので)、食事の用意はしてないけれど、冷蔵庫のなかのもの、好きなように食べて。夜は美味しいもの作るわね。合鍵、置いておくから好きに出かけて来て。夕方までには戻れると思うわ。
眠れないの? 先生の声が聞こえた。Aは「はい」と小さく頷いた。お酒飲む? 缶ビールが枕元に差し出された。私も飲むわ。電気は点けないわよ。君には彼女いるの? いないでしょう、付き合ったこともない、そうね。いたなら、私のところになんか来ないものね。慌てるAに先生は、別にいいのよ、そんなものよ、それにそうでなければならないのよ、と諭すように言った。君って、私にとってなんなんでしょう、彼氏でもなければ、親戚の子でもないし、やはり弟かしら。君にとって私は? やはり先生? 最初から変わらずに。
違います。それしか言えない。なにが違うのか答えられない。先生も訊くつもりはない。
慕ってくれているのは分かっているわ。嬉しいわ。でも君はもう少年ではない。青年よ。以前のようにはいかないわ。考えているの。君のことどうしようかって。宿題ね、これは。でも君の宿題でもあるのよ。分かった? お休み。今度は本当にね。
3日目の夜だった。2日かけてAは先生のいない昼間、部屋のなかで小説を書いた。先生はそれを抱えて近くの喫茶店に行った。「〝宿題〟のつもりで(書いた)」と聞かされたからだった。小1時間ほどして戻って来た先生は、水割りを作って一つをAに手渡した。
私小説は嫌い。感傷物も嫌い。Aが先生の過去を小説のなかに採りこんでいたからだった。でも前置きだった。私が「女」に書かれた点は一先ず好としましょう。なにやら「先生卒業」のようだし。名前を与えられないただ「女」としか呼ばれていないのも好としましょう。結構だわ。でも、男の名前、「英」。英はまるで「男」になっていない。なろうとしていない。英は君ね。君そのものではないかもしれないけど、君は英を借りてさらに少年になろうとしている。女がかつて使った「SEX」というところにまで。
偏愛って言葉知っている? もちろん知っているわよね。この小説は偏愛ね。「SEX」に対する。いいわ、「SEX」から鉤括弧をとってもらいましょう、女にね。でもできるの? 英にセックスが――。

 
♪♪♪
作曲家と自殺説 交響曲第6番ロ短調≪悲愴≫は、結果としてチャイコフスキーの挽歌になった。しかも自殺説には打ってつけの楽曲であり標題だった。その説が発表(公表)されたのは、1978年のことである。公表者は、チャイコフスキー博物館(クリンにあった作曲家の最後の家を博物館としたもの=国立クリン・チャイコフスキーの家博物館)の研究員であった音楽学者アレキサンドル・オルロヴァ女史である。アメリカ亡命後に公表されたものである。女史による自殺説は、著名な「新グローヴ音楽辞典」(1980年)に掲載されることになる。同性愛とそれがもとなった自殺への追い遣り(自殺の強要)を内容としたものである。当該個所を引用すると以下のとおりである。

これによると(オルロヴァ女史が関係者から聞き取った話によると(引用注))、ロシア貴族の一人が、自分の甥との関係でチャイコフスキイを訴える手紙を書き、高い地位の官吏であるニコライ・ヤコビにそれを皇帝に手渡すように依頼した。チャイコフスキイと同じく、法律学校のかつての生徒であったヤコビは、このことが公になって『学校の制服』が汚される火名誉を恐れ、このスキャンダルをどうやって抑さえるかを決めるために、名誉法廷(ここにはチャイコフスキイの同級生6人が含まれた)を急遽組織した。チャイコフスキイはこの法廷に1031[ロシア歴19]に召喚され、5時間以上の議論の末に、作曲家が『自殺する』という判決が下された。2日後にチャイコフスキイは死の病にかかったが、砒素系の毒に因ることはほぼ間違いない。彼が生水を飲んでコレラで死んだという話は捏造である。

 この説はその後、強力な反証(ポズナンスキーの緻密な検証(1988年))に晒されて、「21世紀の今となっては歴史のエピソードの一つにすぎない」(伊藤2005195頁)とされるが、同性愛までもが否定されたのではない。類書の多くが作曲家の性に触れるように、「強力な反証」としても同性愛が前提である。むしろ反証の仕方としては、同性愛程度ではかかる「名誉法廷」が開かれなければ、また「判決」が下されることもない点に力点が置かれた形の反論だという(森田1993303頁)。すなわち森田書によれば、「ポズナーンスキイの6百頁を超える本文の主要な内容は、同性愛がこの時代のロシアでは、それを知られても自殺に値するような秘密ではなかったことを証明することに集約される」と。そして、「当時のロシアでも、確かに同性愛者であるかどうかは、大声で話す話題ではなかったが、サブカルチャーとしての同性愛者の文化は存在しており、社会的にも容認されていたことを彼は証明しようとしているのである」と同調するように結ぶ。
 
交響曲第6番≪悲愴≫ ところで、交響曲第6番は、それまでとかく批評家や聴衆の評価に左右されがちだった作曲者自身が、初演の低調な反応に落ち込むこともなく自身最高の作と認める一曲であった。上記したかつての「形式」への負い目など今や何一つ意味がなく、「形式」を超えて新たなチャイコフスキーに始まりチャイコフスキーに終わる「形式」をさえ生み出している。とりわけ楽章構成である。交響曲の長い歴史のなかでも、また作曲者自身のそれ以前の交響曲からみても類を見ない構成が採用されているからである(後年、マラーが自身への鎮魂曲ともいうべき大作交響曲第9番に採り入れているが)。
1楽章とフィナーレの第4楽章とが共にアダージョ(ロ短調)で、とりわけ標題の≪悲愴≫が、第1楽章でたっぷりと曲想間に沁みわたった後を承けて、第4楽章フィナーレで悲嘆と悲痛、痛哭と哀切、苦悩と苦悶などの限りを尽くし、これが限りと人の内面に心を高ぶらせてクライマックスに区切りを付けると、余力を使い果たしたかのように、一度だけ頭をもたげて、低弦を彷徨いながら無の暗闇のなかに立ち消えていく。人として生れ人として終わる。人の意味のなかで生を閉じる。否、閉じ込める。
おそらく「最高の作」たる所以は、ここに作曲家の否定的人生が、否定のままに価値あるものとして、その人生を生きた本人と合意を交わしたしことにある。肯定ではなかったことの。そのための≪悲愴≫であり、≪悲愴≫こそが自己証明であったことの。
交響曲第6番は、多くの大作曲家にとっての一曲がそうであるように、そのことによって(一曲が生み出されたことによって)他の自作曲の再生力をも喚起することになる。しかし、第6番≪悲愴≫の場合は、それがそのように生み出されることが、それ以前の作曲過程から十分に予測できなかった点で、チャイコフスキーに独自かつ固有な代表作の在り方となっている。それもこれも旋律性と和声の響き、言い換えれば音楽的霊感と作曲者自身との関係(存在関係)が、自己肯定を約束しなかったからである。しかし一方ではそのことが、規模的に交響曲を上回るオペラとバレイの分野に多くの名作を生み出させる結果を生むことにもなった。その他管弦楽曲や室内楽、ピアノ曲のなかの名作の数々も、同じ作曲的衝動のなかで生み出さている。もっとも有名な二つの協奏曲(ピアノ協奏曲第1番とヴァイオリン協奏曲)だけが、その点、通有の聴きこみ(聴き直し)を許しているかもしれない。

交響曲作曲家とその存在形態 いずれにしても、交響曲のなかに真の自己肯定を模索し続けてきた作曲家は、それが思うように果たし切れない苛立ちにも似たジレンマから別な作曲ジャンルに心を傾けてしまう。最初から自己肯定が約束された世界である。オペラやバレイに対する作曲活動が、チャイコフスキーのもう一つの極となっているのも、自己肯定の裏返しだったという見方に立つなら、深まらない抒情性を乗り越えるための大作的指向的な作曲行為であった理解も可能である。別段、そのことによって違った音が聞こえてくるわけでもないが、旋律性の向こう側にそれでも自己を肯定的に受け止められずにいる内面的な憂い(アダージョ)をより克明に聴き分けられないわけでもない。
最初から交響曲でなければならなかった。交響曲のもつ音楽的世界の広がりや高まりあるは深まり方が必要だった。人は自分の生を最初から超えるもののなかでときに救われる。作曲家の場合は、自分が否定されることで。しかも絶対的な否定が求められていたことで。人間存在を構成するのはなにも肯定だけではない。否定でもあり、場合によっては否定だけで構成される。
チャイコフスキーにとってこの人間存在としての自己否定こそが、作曲家に次の曲を書かせ、終に交響曲第6番を生み出させた。回りくどいかもしれないが、交響曲第6番とは、自己否定を否定するもの。しかしこの二重否定によっても数学のように肯定としては立ち顕れてこないもの。かりに肯定であっても肯定を否定するもの。もし肯定と言うなら、この否定によってはじめて肯定されるもの――否定を肯定する肯定である。同性愛である。作曲家の〈生〉であり〈性〉であったもの。自己否定の深淵である。
 
作曲家の≪性≫ この同性愛によって深淵な人間存在の楽曲が作曲され、これを聴くことができるのは、慇懃無礼に聞こえるかもしれないが、作曲家に対してだけはなくその同性愛に対しても感謝すべきことである。尊厳の念を以って。しかし、当の本人とっては終生容易なことではなかったはずである。「没後100年によせて」の副題をもつ『新チャイコフスキー考』(森田1993)は、第1次資料(手紙、日記)を通じて人間チャイコフスキーに深く迫る意欲作であるが、同性愛に向けても先行研究(上掲ポズナンスキー)を引用する形で少なからず言及している。
まず、法律学校に遡って「相手」を探し当てようとする。その一人は、初級生の一人であったと考えられるとしている。また自分以外の周辺にも同性愛者の存在を知ったことの意味合いは小さくなかったと説く。卒業後の法務省勤務時代では、同性愛的交遊が次第に拡大していった事例を上げて見せる。ペテルブルグ音楽院の修養時代を経てモスクワ音楽院の教師になった時代、同時に音楽家として成熟していく時代については、さらに具体的に特定の名前を複数上げて見せる。
また、モスクワの同性愛者の地下組織「テョートキ」との関わりを取上げる。1973年、19歳の若さで自殺したある青年を熱烈に回想する日記の一節も紹介される。「彼の死、つまり完全な消滅は理解できない。彼ほど僕が強く愛したものは他にどこにもいなかったように思う。神様! あのとき皆が僕になんと言ったとしても、そして僕がどんなに自分を慰めても、彼に対する僕の罪は深い! それにしてもぼくは彼を愛していた、否、愛していたではない、今も愛している。そして僕の思い出は、僕には神聖だ!」(日記(部分)、188794日)。そして、「彼」(エドゥアルド・ザーク)こそが、≪ロミオとジュリエット≫(1869年)の霊感の源であるとする点に触れる。なお、モスクワ音楽院時代に関しては、国内ですでに有名な作曲家になっていたことから、作曲家が抱いていた「個人生活」に対する社会的攻撃からの不安にも触れている。
上記日記に一端が窺えるように、作曲家は少年に対する特別の思い(少年愛)も秘めていた。ある聾唖の少年(コーリャ・コンラーディ)を思う手紙(1976819日)の一節が紹介され、「チャイコフスキーはいつも子供を愛しているが、この一節には、明らかに性的なニュアンスがある」と評している。少年愛が次に出てくるのは、長い外国放浪の開始が告げられようとしていた187711月、フィレンツェで偶然に出会った、年の頃1011歳の流しの少年歌手(ヴィットリオ)である。翌年再会した時の手紙(197821832日)には、少年の歌を再び聴いて、「僕は涙を流し、体を震わせ、喜びで融けてしまいそうだった」と認められているが、この手紙にあるその先のカット(旧ソ連の検閲)を推し量って、評者は手紙文の紹介を承けて、「行きずりの恋を楽しんでいたのは明らか」であるとしている。
そうとはっきり記しているわけではないが、作曲家の身辺にまつわる話の一つとして召使い(アリョーシャ)が兵役に取られることになった時(1880年)の嘆き悲しみが詳しく紹介されている。通常の嘆き悲しみではなかったからであった。10年を共にしていた召使いであった。除隊になる4年間作曲家は次の召使いを雇い入れることなく一人住まいを通した。「アリョーシャが兵隊に取られた。僕はたくさん酒を飲まなくてはならないので、何とか生きている! 次々と続く午餐や晩餐で、ひっきりなしに酒を呑まなければ、僕は文字通り狂ってしまう」(18801017日手紙)。あるいは、コネをつけて特別に会えることになった時の別れ際(兵舎内)の張り裂けそうな思い。「曹長が許してくれて、アリョーシャが門まで僕を見送ってくれた。二人とも泣きそうだったのでずっと黙っていた。別れを告げる時のアリョーシャの声は震えていて、この苦しい瞬間に僕はやっと耐えた」(18801218日手紙)、など。
放浪生活にようやく区切りをつけ、定住地となるモスクワ近くのクリーン郊外に最初の居を構えた1885年以降では、若い仕官との濃厚な交遊(18864月)が日記に出没するようになると記すが、その若い仕官は、原因(三角関係?)はともかく、数か月後に自殺してしまう。同じ頃の外遊先(パリ)での自由な「交遊」も記されている。可愛い少年を前に胸をときめかせている様子にも触れられている。作曲家47歳時の手紙(18875月)のなかのときめきであった。それから6年後に亡くなる作曲家としてはすでに晩年に差しかかっていた。評者の記録を追う限り、作曲家の「青春」は続いている。ときに音楽的霊感にもなっていた(あるいは大半と言うべきかもしれないが)、心のときめきに体が熱くなる思い(恋慕)が薄れることはなかった。
評者はここで「青春」を追うことを止めているが、問題の「自殺説」の背景は、いうまでもなく作曲家の過去にあったのではなく、現在時にあった。ロシア貴族の甥との関係も事実であってもなんら不思議はない。

作曲家と女性 その一方で、手紙のやり取りだけで一度として会うこともなく14年もの間、親密な交際を続けたメック未亡人との関係がある。チャイコフスキーと女性との関係は、まさにここに極まれりといったところである。男性関係の話が濃厚ななかで作曲家と女性との関係は極めて限定的かつ希薄である。ときには辟易している。
自分から結婚しようとした女性は一人だけだった。歌手テジレ・アルトーである。彼女の公演に接して虜になったのがはじまりである。短い交際期間(約3か月)であったので親密度は未詳ながら、事実上の婚約を交わした相手であった。しかし、翌月、相手が別の男性と結婚してこの話は呆気なく立ち消えになる。モスクワ音楽院時代の28歳時(1868年)の「破局」(裏切り)であった。恋の痛手の程は不明であるが、精神的動揺はあまり残さなかったのではないか、とも記されている(寺西197492頁)。
その一方で次の女性アントニーナ・イヴァノヴナ・ミリュコヴァとの関係は深刻であった。彼の人生をある面奪うものであった。これが、逆に作曲家の<生=性>の実態を赤裸々に物語っているとも言える。唯一の結婚(187776日)であったが、実質3週間だった。726日には逃れるように別居し、その後、別れようとしない妻からの逃避生活が続けられていくことになる。10年間に及ぶ外国放浪も含めてほとんど生涯に亘る逃避であった。
結婚した年の秋(9月)には再会(合流)した妻との生活に絶望し、モスクワ川に入水し、模擬自殺まで試みる。女性は、謂わば〝押しかけ女房〟であった。一方的な恋情であった。手紙で熱く語っていた音楽への情熱も嘘だった。なぜそんな女性と結婚したのか、同性愛の噂から逃れる名目もあったのだろうと記されているが(寺西197499頁)、それが生涯の負債ともなったことを考えれば、喜劇もいいところである。
しかし、「女性」を思い描いて結婚したわけではない点、実質期間は短かったとはいえ、「女性」を突き付けられたに違いないことを考えれば、それが「模擬自殺」にまで作曲家を追い詰めた点、さらには長い逃避生活を選択させた点と合わせ、偽らざる「真実」が物語られている。その点が重要である。
チャイコフスキーには「女性」は必要なかった。メック未亡人との交際には「女性」が介在しなかった。単に彼女が多額の年金まで支給して作曲家を支援したからでけではなかった。もし、未亡人が「女性」を求めていたなら、14年に及ぶ関係が続いていたかは疑わしい。むしろ、作曲家の「噂」を知っていたメック未亡人が、作曲家を大切に思って接触を避けていた。そうだったのかもしれない。会わないことが条件(未亡人側の条件)にされていた年金支給だった。両者間で交わされた膨大な手紙が物語るのは、はじめて「女性」を前にして不安を覚えずに済んだ、安らぎのなかにある作曲家の姿である。
この心の平安が音楽とどのように結びつくのかは、交響曲第4番を除けば課題であるのかもしれない。第6番の交響曲は、すでに交際が未亡人側からの一方的な中断によって終わった3年後である。楽曲中には「平安」を回想する気配はない。作曲の動機は、「性」をも含んで、身近な死から我が身にも置き換えるようになった「死」に対する虚無感をも含んだ、なによりも「霊感」以外からもたらされる魂の叫びだったに違いない。あるいはその過程で、「男性」とも再会していたかもしれない。しかしその場合であっても、「女性」と再会することは、絶えてなかったに違いない。


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結局、その夜、布団は一組しか敷かれなかった。でも、この子をどうしよう、どうするつもりでいるのだろう、答えは目の前にありそうでなかった。慕われていることは分かっていても、はたしてこれが、Aが望んでいることなのだろうか。男として扱われたいと思っているのか。そうは思えない。望んでいない。
何を考えているの? Aは答えなかった。背中を向けたままだった。体を向けようとしなかった。Aの背中に顔を当てる。肩に手をかける。その手に力を籠める。
電車の通過音が、灯りを落とした部屋のなかを占めて部屋と外部との境を一瞬取り払う。Aは少しだけ体を動かした。零時前だった。またしばらくすれば電車が通過していく。通過音を俟って体をずらす。横向きの体勢をさらに布団に押しつけていく。逃れるためだった。背中の先生から。自分が「変化」していたからだった。悟られたくなかったのだ。
逃げようとしているAの背中に先生の体が少しずつ寄せられていく。電車の通過音は、先生の体にも先生以外の意志を植え付けようとしていた。
こんなときどんな言葉を用意してあげればよいのかしら。Aは自分からは口を開かない。語れない。もちろんそれで構わない。
先生はAの背中に耳を押し当てる。心臓の音が聞こえる。高鳴っている。身動きらしい身動きもしないで心臓の鼓動だけを勝手に高鳴らせている。君をどうすればいいの。背中から抱きかかえる。愛おしいから。でもそれだけ? 先生は振りかえる。
Aの手紙が来るたびに最初に戻ってAの顔を思い浮かべた。廊下を曲がった階段のフロアで手紙を片手に難しそうな顔をして待っていたA。いつか本を手渡すようになっていく。手渡される手紙と本との繰り返しは、ほとんど毎週の決まりごとになる。読み過ぎ。それに書き過ぎ。でもAの手紙が楽しみになる。
春休みに校外で会った。それからは月に一二度のペースで会うようにもなった。その時は他校の非常勤講師に移っていた。待ち合わせ場所は、県立図書館だった。東京の私立高校に採用されるまで続いた。Aの3年の夏までだった。それからは手紙だけの交際になった。
Aは田舎で浪人生活を送ることになる。心配したとおりAは文学にしか興味をもたなくなっていた。学校の成績はクラスのなかで下位を低迷し続けることになった。合格できなかったのだった。
しばらく手紙は止めない? 分かっていたはずだが、Aは止めなかった。かえって接近する内容になってしまう。二三回に一度は返事を書いていたのも、受験勉強が優先よと言って止めた。さらに接近してきた。ある日、帰宅すると、アパートの前にAが侘しそうに立っていた。なにも訊かなかった。一瞬、抱きしめたくなった。
アパートには上げなかった。近くの喫茶店に連れて行った。文学を中断するように諭した。Aは無言で拒んでいた。Aにとって文学は単なる「文学」ではなかった。分かっていた。拒まれたのだと解っている。Aの哀しそうな顔を前にしている内に、さっき襲った思いが再び湧いてきた。いままでにない感情だった。愛おしさ? でもそれなら以前から抱いていた。それだけではなかった。愛おしさを抱きしめようとしている自分に対してだった。自分への気持だった。
構わないと思った。上京も認めた。日帰りを条件に部屋にも上げた。
それから急にAが大人びていくように感じられた。Aがいる方が部屋もなんだか部屋らしかった。Aが帰ると部屋の中に空洞ができてしまった感じだった。次ぎに来る日を思う。楽しみにしている。
私のなかで止まっている「時間」をAは知っている。感じている。憧れるように見つめてくる。その目で心を読もうとしている。
Aはいつか離れていく。恋人ができてわたしのことなど忘れる。私はその間の「先生」という「女」。もちろんそれで構わない。それがすこし違う。それも私の方で違っている。
Aがさらに私の過去に触れるから。触れるからだけではなく過去を生きたいとしているから。私と。私になりたがっているから。
でもAは忘れている。私に体があること、女であること。それが体も女も必要としないで私を必要としている。私がこの頃ふと感じる満ち足りた思いは、すでにAが私の体のなかにいる感じがしているからかもしれない。内側から見つめようとしている。大人に感じるのはこの所為? 私をどうしたいの? 死んだこの私を……。
思わずAを背中から力強く抱きしめてしまう。そして、その心臓の鼓動を全身に受け止める。でも違う、受け止めるのではない。止めさせようとしているのだ。心の動きを。心の動きを心臓に見て、いまこの手で止めようとしているのだ。だから心臓を押さえる。もっともっと力が要る。心臓を止めるためには。でも高鳴っている。鼓動が脈打っている。止めなさい。止めるのよ。死んだ私を起こさないで!
その時だった。突然、Aがその手を振りほどき布団から出ていく。慌ててトイレに駆け込んでいく。流される手洗いの水の音。トイレから出てきて洗面台の前で佇んでいる。激しく手を洗う水道水の弾ける音。水道が止まる。タオルで手を拭く。何度も何度も。
Aが戻ってくる。布団のなかに入ってきたAは、はいるなり両手で全身を強く抱きしめる。肩に顔を埋めて肩から体の中に入ってしまいたいというほどにして。そして自分たちの間にまだ隙間があるのが許せないかのように体を密着させる。なんて行儀のよい密着なの。でもあまりの強さに思わず耳打ちする。「先生の骨折る気?」Aは我に返ったかのように両手の力を緩める。
なにか言おうとしている。何も言わなくても好いわ。声にしたわけではないがAには伝わる。Aの方から離れていくまでAを抱き続ける。背中を撫で、頭を撫で、頬を寄せる。再び背中を向けたAの背中に頬を当てる。二人の鼓動が聞こえる。
朝起きた時にはAの姿はなかった。合鍵がドアの新聞受けからなかに戻してあった。置手紙があった。帰ります。先生ありがとう。頑張ります。3行だけだった。
Aからの連絡は途絶えた。次に手紙が来たのは半年後だった。差し出しの住所を見ると、一駅手前だった。合格したと書かれていた。

Aを部屋に呼んで合格祝いが行なわれた。その夜からAはよく先生の部屋に泊っていくようになった。でも一つの布団に入ることはなかった。
君はだれ? 先生は疲れたと言って、ある夜、Aの布団のなかに入ってきた。政治活動だったにちがいない。危険な匂いがした。先生はAに背中を向けさせた。頬を寄せて手を肩にかけた。Aはその手に手を重ねた。お休み。すでに眠りに就きかけている先生の呟くような声が背中からかけられる。数分もしない内に静かな寝息が洩れている。規則正しくいつまでも続く寝息だった。
先生は私立高校を退職した。Aが大学の2年の時だった。解雇だったかもしれない。Aはそう思った。しばらく日本を離れるわ。ヨーロッパ留学だった。母方の2代前はヨーロッパの人だった。縁者を頼って行ってくると言う。でも「先輩」が忘れられずにいるのだ。先輩は大学で哲学の助手をしていたからだ。
そのことで先生に叱られたことをAは思い出していた。勝手に書かないの。珍しく真顔だった。
「彼女は先輩が自分たちの部屋以外で最期を迎えたことをいまだに受け容れられずにいた。別の女性の部屋だった。女性から連絡を貰った時、彼女は激しい怒りに襲われた。女性にではない。先輩に対してでもない。自分にだった。冷静に受け答えしていた自分自身に対してだった」
 手紙の中で先生の中の寂しさをもう一度書きたかったとAは弁解した。でも嫉妬もあります。先生の先輩にではなく、自分自身に対してです。自分の「男」に対してです。でもこの話はあまりしたくありません。先生も聞きたくないでしょうし……。
 でも、Aは先生から言われたのである。その返信として。君と私とはこれで好かったのよ、と。
――君の腕の強さで抱きしめているのは、やはり私ではなく君よ。君自身よ。それで好かったの。だから済んだの。君が気にしていること。問題外よ。でも君の腕の強さ。感心したわ。〝感心〟なんかじゃイヤ? でも私は君よりずっと年上。君が君を抱いているのを見ていて上げるしかないの。でも〝済ませた〟――それは確かよ。私のなにを抱きしめていたのかはわからないけど、「女」をなんて言いたくないし、言わせたくないけど。でも君が一歩前に踏み出したのを感じていたことは確かよ。それが体の中にあった空洞感も埋めていくようだった。君以上に君を必要としていたのは私の方だったかもしれない。そんなことまで思ったわ。君がいつも言っている私の中の寂しさ。なんともませた子の発言であるか、いつもそう思っていた。でもそのとおりだったのかもしれない。それも君の「力」が教えてくれたのよ。今一度自分を見つめ直すわ。「先輩」は関係ないわ。君も自分のことをもっと考えなさい。「先生」の最後のことばよ。いつか、私と君とがお互いにもっと年齢を重ねて、歳の差を感じないでいられるようになったら、もう一度再会しましょう。あるいは君が結婚したなら、心の限りに祝福のキスを送るわ。元気でね。
別れを告げる手紙だった。
――留学先の住所は教えるわ。帰国したらその時も教えるわ。新しい住所も。でも次ぎに会うのは結婚報告のとき。私からかもしれないけれど、君からにしなさい。いいわね。それから手紙の遣り取りはもう止めましょう。でも小説は読むわ。異国の風がきっと君の小説に合うはずだから。
実は、中央線の駅近くの酒場で先生と会った話、公園に連れて行かれた話、そして「手紙」のこと。内容のこと。これは、Aが先生に書き送くった小説だった。でも返事はこなかった。それから出してはいけない手紙だったが、その手紙にも返事はこなかった。いつしか手紙は宛先不明で戻ってくるようになってしまった。
偽りだった。異国の風は小説を拒んだのだ。でも拒んだのは先生ではない。A自身だった。よく分かっていた。
 
Aの傍らにはいつも先生がいる。公園のベンチに座って噴水が上がるのを二人で待っている。次に来る時も先生はいる。Aは手を差し伸ばして先生の手を取る。
歩きましょう。ええ歩きましょう。僕の好きなポニーテール。僕のはじまり。だめよ、黙って歩くの。公園の音を聴くの。二人で聴くの。
噴水が高く上がる。天を目指そうとしている。水飛沫を軽く運んできた風が、二人の頬を掠める。黒髪の輝きが水飛沫に濡れる。見つめたままその手をAは離さない。終わりのないはじまり。でも口にしない。また言われてしまう。黙って歩くのよ、と。


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作曲家と「感傷」 ところで「感傷」について、当のチャイコフスキーはどう思っていたのか。上掲森田によれば、「意外に思われるかもしれないが、チャイコーフスキイは生涯にわたって、演奏に対してあらゆる感傷性を嫌っていたことが彼自身の発言の端々に現れる」(65頁)、こう語っているのである。またこうも言っている。「彼は感傷的な人間ではあったが、それを人前で見せるのは嫌いであった」(49頁)とも。そうであったとしても旋律は感傷を嫌っていない。むしろ求めている、これはこれで確か、なことである。おそらく、この食い違いは、作曲家のなかの矛盾でもなければ、偽り事でもない。感傷であり同時に反感傷であった。それが真相だった。
作曲家が人前の感傷を嫌い、演奏でもそれを嫌ったというのは、「感傷」が深すぎたからである。もともと理解などされないのである。本人でさえその深さの底辺を覗きこめないでいたからである。それだけに安易に扱われること、分かったような顔をされてしまうことに堪え難い気持ちを抱いていたのである。しかし、作曲家にも分かっている。自分の責任でもあることを。任意の解釈を許しているからである。まだ本物の「感傷」は、楽曲化にまで至っていなかったのである。
交響曲第6番は、その意味でも任意の演奏に対して勝手に感じる人の恣意性を超えた音の力となっている。指揮者の解釈を超えて安易な感傷に流れないし流れされようもない響きである。この音の力によって、それ以前の感傷も交響曲第6番に至るそれとして、あるいは別の感傷として再評価されることになり、音を抽き出すプロ(音楽芸術家)である指揮者及び指揮者と一体となった演奏家に解釈の再考を求める権利を有することにもなる。さらに聴き手は聴き手で、指揮者をその音の中で試す権利を許されることになる。時には「感傷」をもて余している演奏に出くわすことがないわけではないからである。

≪悲愴≫と演奏 最後に、交響曲第6番の演奏についてすこしだけ触れておきたい。完成度の高い作品の常として、最初から「名演」を指揮者に約束(?)するとはいえ、それはそれで逆に指揮者の立場を難しくしている。特別自分でなくてもよいことになってしまうからである。誰が振っても名演になってしまうというのであれば。これはあくまで一つの言い廻しあるいは譬えの方便に過ぎないが、約束された「名演」を前提にして、その上で立ち向かう一回々々の演奏に試されているのは、それを正真正銘の名演のなかで聴くと、実は「感傷」問題に再び高い次元で向かい合うことになるのであった。
交響曲第6番の名盤を問えば(近年には昏いが)、フルトヴェングラーとムラヴィンスキーに指を屈する人は少なくない。大半と言ってよいだろう。とりわけ前者の場合では1951年のカイロでのベルリン・フィルとのライブ録音、後者では1960年のレニングラード・フィルとのレコード録音。とりわけ興味深いのはフルトヴェングラーである。ドイツ・オーストリア系音楽の正統を継承する、神の申し子とも言っていい20世紀の最大(級)の指揮者が語ったと言う一つの逸話――戦前、ナチス台頭の中で、ナチスが求めるゲルマン民族に劣るスラブ民族としてのチャイコフスキーを演奏するには神経を使ったというエピソード。それは逆により低位に振ることがいかに難しかったかを言外に言い表しているようにも聞こえるからである。そして、1951年の戦後のライブ。その足枷から解かれたチャイコフスキーを、指揮者の音楽的魂と一つになった最大限の交響的表現として強烈に鳴り響かせているのである。
開放の前には、もちろんゲルマン民族もスラブ民族もない。純粋音楽のみである。しかし、フルトヴェングラーの場合、純粋音楽は、ドイツ・オーストリア系音楽の交響曲のなかにあり、しかも、指揮者の「音」として結集し凝固した、ドイツ・オーストリア系音楽が先にある形ではなく、指揮者の「音」のなかにドイツ・オーストリア系音楽がある在り方として生み出されたものである。ベートーヴェンやブルックナーの演奏がそうであるように、チャイコフスキーの演奏もそうした指揮者の正しい「音」の在り方として我々に届けられる。やはりこの場合も「精神」が形に顕れたものとして。「感傷」は一次的に「精神」のなかには見出されない。むしろ激しいアゴーギク(テンポの自在な緩急)とクレッシェンド・デクレシェンドの鬩ぎ合いに感傷的余地は掻き消されている。あるいは感傷性的演奏を嫌ったと言うなら、作曲者チャイコフスキーには相応しい演奏である。

チェリビダッケの≪悲愴≫ しかし、そうだろうか。筆者もこの「精神」で表されたチャイコフスキーを、より鋭角的で時に即物的な、やはりフルトヴェングラー同様に一時的に「感傷」を排したムラヴィンスキー盤とともに、チャイコフスキーの音楽を自分の中に認める上での音楽的拠り所――言い換えれば「感傷」との距離としてきたが、次の演奏を知った時、チャイコフスキー観の足許を掬われる思いを味わされたのであった。セルジュ・チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のライブ録音(1992年)である。
超がつくスローテンポで度肝を抜かせる十八番ブルックナーを聴かせる、「一音」に語らせる楽曲解釈が既存の「名盤」に対して物申した「感傷」への拡大的な再解釈であった。聴こえてきたのは、予想以上に一次的な「感傷」であった。しかし丸ごとの「感傷」ではない。まだ知られていなかった、人が感情に依存する強さの剥き出し感であり、それが秘密として身体から解き放たれた時の怒涛の叫び声を、それでも内側に閉じこめて、外に向けては自ずからに流れ落ちる涙に万感を籠めて熱狂の体を厭わしく思う、終わりのない胸の張り叫びである。いささか文飾にすぎる言い回しだが。
チェリビダッケは、「精神」に凝結していた音を、音の一塊から取り出し、「名盤」が割振っていた音とパートとの関係を、たとえば絃パートの場合、パートを一団として鳴らしていたものを、編成の規模を立体的に浮かび上がらせように奏でさせて、重畳感による音の高まりを新たに演出して見せる。それもこれも「チェリビダッケのテンポ」によってはじめて可能となる、音の単位に還元された響きがなし遂げる業である。
しかも新たな音と音との結び付きが作曲過程にさえ遡るのである。それ自体としては無味乾燥な五線譜や音符が、作曲家の盛り切れなかった思いを、かえって作曲の外に立つ者(指揮者)によって読み解かれるのである。作曲家さえ場合のよっては通り一辺倒に扱いがちであった一音に「間」を吹き込むことによって成し遂げたのである。通常なら音は自ずと不安定にならざるをえない。そのまま間延びして終わるか、新たな緊張度に生まれ変わるか、最初から後者を確信していた指揮者は、見込みを超えて作曲家の内声を聴き取ることになったのである。トゥッティ(総奏)は、内声が外側にではなく内側に向けて張り上げられる最強音の実現である。その時でも一音は消えうせていない。「一音の原理」として生かされている。終に「感傷」こそが、一音(チャイコフスキーの一音)を聴かせていることを悟らされるのである。チャイコフスキーを「感傷」に立ち返って聴く(聴き直す)態度が音楽芸術的な動機を得た瞬間である。

自己回帰 いまだ駆け出しの頃、指揮恐怖症であったチャイコフスキーも、晩年は指揮活動にも手を染め、海外公演にも遠征した。好評も博した。第6番≪悲愴≫の初演も自身による。二人の大指揮者によって精神化された「自分」に作曲家は晴れがましい思い出で再会しえただろうか。光栄を感じたかもしれない。音としても自己発見のさらに上を行くものであったかもしれない。フルトヴェングラーには脱帽しただろう。ムラヴィンスキーには度肝を抜かれたことだろう。いずれも知らない自分に出会わされたにちがいない。
しかし、敏感で脆弱な神経には、「精神」が突き付ける音は、他者に届く音の響きとして自身を突き抜けていく。それがかえって一度作曲家の手を離れた作品の可能性を抽き出す上では、なによりも作品の高い芸術性を物語るものであるとしても、「他者」として読まれたことは、作曲者の心を一時的に勇気づけることはあったとしても、それ以上ではない。かえって、内に閉じこもる(高い)動機付けになってしまう。
チェリビダッケの音がそのまま「本人」になり替わるわけではない。その必要もない。それだけに本人側(作曲者自身の側)に現れた演奏であることに意味があることになる。「本人」であることの意味を辿り直さなければならないからである。しかも突き付けられた自己証明であることは、それが指揮者の立場からであることで、聴く側にもそのまま突き付けられることになる。原理というものである。
――そのとき、人が、今の自分としてチャイコフスキーの「本人」を生きることは、個人に個別の人生を生き直させることであるであるかもしれない。ほとんど自己回帰である。あるいは、チャイコフスキーとは「自己回帰」そのものであったのかもしれない。

 
◆参考文献

伊藤恵子『チャイコフスキー』作曲家◎人と作品シリーズ、音楽之友社、2005
音楽之友社編『チャイコフスキー』作曲家別名曲解説ライブラリー⑧、音楽之友社、1993
寺西春雄『チャイコフスキー』大音楽家人と作品11 音楽之友社、1974
森田 稔『新チャイコフスキー考 没後100年に寄せて』NHK出版、1993

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