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久し振りに前の会社の友人に会った。落ち合い場所は、また、松濤美術館だった。今回は友人からの誘いだった。不思議に勘が働く女性だった。丁度会いたいと思っていた時だった。「課長」(元課長)から彼女でも誘って一度遊びに来ないかと連絡があったからだ。地元の美術館で開催中の写真展の案内状と招待券が二人分同封されていた。支社と同じ地方都市出身の写真家の特別展だった。写真界ではそれなりに知られた人物だったが、その写真家を知っているとなると、「課長」も写真に相当詳しいのかもしれない。
それにしても退社してすでに二年近く経っていた。今では年賀状の遣り取りだけになっている。一度だけ土地の果物が送られてきたことがあったが、それも、自分の方で先に送り届けってあったからだった。会社を退社して写真家として生きていく決心がついたこと、そうした生活に戻ったこと、その報告ときっかけをつくってくれたアドバイスに対するお礼だった。その返礼だった。一年半も前のことだ。
友人は怪訝な顔をした。いつの手紙? と訊かれた。まだ一週間前だけど、と言うと、何かの間違いじゃないのと、怒ったように言い返された。
そんな訳があるわけない。なに言っているのよ。亡くなった人からは手紙は来ないの!
亡くなった、と言うのだ。転勤してまだ一年も経たない内に、癌の発見が遅れために、まだそんな年ではなかったのに、と言うのだ。
(そんな?)
あなたのこと前から少しおかしいと思っていたけど、記憶喪失の気でもあるんじゃない。時間感覚もまるで怪しいし……。
その手紙だってもう一年半も前の手紙じゃない。あなた、「課長」のこと相当好きだったから、亡くなったと思えなかったのよ。思わないようにしているのよ。
わたしあなたのこと好きだから、あなたがたとえどんなにヘンでもすこしも構わないけど、でも「課長」は亡くなったの。もう一年も前でしょう。だから手紙が来るはずはないの。忘れたの。二人でお通夜したでしょう。
彼女の声がだんだん遠くなっていく。目の前にいるのに、遠くにいる人みたいに感じられる。聞いている自分も自分でないみたいな感じだった。
聞いているのと? と言われて、聞いていると答える。でも聞いてない! と言われてしまう。大丈夫? と訊かれ、エエタイジョウブ、と答える。でも自分の声ではないみたいだ。遠くで誰かが誰かと呼びかけ合っているようだった。
彼女はソファーから腰を上げた。少し休んでいてと言われた。独りで観てくるからと。彼女は階下に下りて行った。
彼女には分かっていた。ここに残していけば、私が自然と落ち着くことを。この部屋の安らぎに回復力があることを。
離れ際に彼女は言った、「じゃ、お願いね」と。私のことを頼んだのである。
誰に? このソファーに。ソファーに? ええそうよ、このソファーによ。アナタタチ正気なの? でもそれがサロン・ミューゼのソファーよ。
わたしはそこで会話を止めた。目を閉じた。背中をソファーに大きく預けて、そして沈んだ。
落ち着きのある艶消しの黒色の皮張りで、ホテルのロビーに置かれているような大きくゆったりしたソファーだった。申し分のない重厚感だった。しかも三脚を並べて横一列としている。展示室の真ん中にその三列が、対面式に二セット分、背中合わせに据えられている。それだけで一二脚を数える。さらに片側にも同じソファーの長椅子が二脚繋ぎで(合計四脚で)置かれ、一方に開いたコの字形の空間を形作って長々と縦に伸びている。こうして造られた応接セットの広さは、実際の二セット分以上だった。贅沢な広さだった。さらにその広さの中に、渋茶色の木製の応接テーブルが置かれ、対面者同士の足許を慎ましやかに分割していた。
それにしてもこの黒色のソファーを主役にしたようなサロン・ミューゼの展示空間には、設計者と美術館関係者との強い思い入れが漲っていた。独立した一つの展示室でありながらも、展示室としか見られないで、そのまま通過されてしまうのを許そうとしていなかった。その思い入れの強さは、対外的だけではなく、対内的にも館内に「別の間」を構えようとする自分たちへの働き掛けでもあった。それと知らされる独立空間の配置が、こうして企図されることになった。黒いソファーは、彼らの企図の象徴でもあった。
それほど大きな美術館ではないかもしれない。でも外観の大きさが、そのまま内部に再現されてしまう設計とは一線を画している。いかにして館内を外部の日常から遮断しようかと腐心している。エントランスだけではない。待ち受けているのは異空間ばかりだった。そして、正面感を創り出そうとしない迷路的な空間配置だった。先を見せない動線のことである。迂回させてその先に未知を設える。創り出す。その手法だった。でもあからさまではなくて、自然な期待感の高まりを呼び起こす程度に抑えられている。あくまで思わせ振りにならないようにしている。でもサロン・ミューゼでは、見事に意外性が勝利している。
一階を二階に上がると、二五㎡ほどの狭いロビーが待ち受けている。サロン・ミューゼまでは、せいぜい一二、三メートルでしかない。仕掛けのできる距離ではない。でも出来得る限り直線を回避して、サロン・ミューゼをアプローチの向こうに隠しているのであった。
美術館のホームページには詳細な設計図が掲載されている。ディテールの説明もある。さらに設計意図を隠そうとしない設計者のコメントも添えられている。納得の美術館案内だった。
地上二階、地下二階の美術館の建物中央には、楕円形(約一一×九m)の吹抜が四階分を地下から天井まで貫いていて、吹抜沿いを各フロアの回廊にしている。壁際の階段をサロン・ミューゼのある二階に上がってロビーに立った人は、この回廊を右回り進む。体は吹抜側に寄せる。そして、吹抜の四階分の基底部を覗きこむ。薄暗闇の底に沈んでいるが、水中照明付の噴水装置が設置されている。設置を知らなくても、人々は闇の底を覗きこむ。人の習性である。習性を逆手に取って、人々の視線を一端闇の底に釘づけにしているのであった。
そこにサロン・ミューゼが待ち受けている。再び吹き抜けの底から目を元の高さに戻さなければならないからである。誰もが不意を衝かれた感じを覚える。しかもそこには、前に立ちはだかるかのように応接セットが据え置かれている。まさに黒い塊の平置きである。次に壁面(展示面)が目に入る。緩やかに張られた曲面である。縦に幾分割かされた展示壁は、そこに作品が掲げられていなくても違和感を覚えさせない。造られた曲面性だけで十分に自足し、安心感も与えている。知らない間にソファーに腰を沈めている。それも自分の意志というよりは曲面の意志として。回復力は、この壁にも隠されていたのかもしれない。
いずれにしてもこれがサロン・ミューゼだった。
今日は特別展の関連として講演会も予定されていた。最初混んでいたサロン・ミューゼも講演会(地下二階ホール)の開始が近づくと少しずつ人が席を立ちはじめ、最後には誰もいなくなった。一度上がって来た彼女もまた講演会に下りていった。
二人で聴く予定だったが、休ませてもらうことにした。彼女もその方がいいと言ってくれた。
回復が遅れたからではない。私がソファーから離れられなくなっていたからである。口は悪くても、彼女はいつも私の気持ちをよく分かってくれていた。
ともかく特別な美術館だった。内部だけではない。中世のヨーロッパのお城のような外壁だったからだ。花崗岩を割ったままの割肌の石材が、粗い質感を剥き出しにしている。積み方も野積みという積み上げられ方だった。正面入り口は、さらにお城そのものだった。敵の侵入を防ぐために外壁に対して著しく小ぢんまりと造り付けられたような入口だった。いまだに限られた人の入場(入城)しか許していないかのようだった。
いまでこそ美術館のなかを平気で動き回れるようになっていたが、最初からそうだったわけではない。それに初めて入った時も、実は人に助けられての入館だった。
学生時代、しばしば恵比寿の東京写真美術館を訪れていたが、そのうちにその後でよく渋谷を歩くようになった。最初は駅の周辺だけだったが、だんだん奥に入って行くようになった。急に静かになっていく感じが好きだった。それに駅が一番低い場所にあって、回りの土地が少しずつ高くなっていくのも感じが良かった。そして偶然見つけたのが、この美術館だった。
その時は写真を撮っただけで中に入らなかった。入れなかった。物怖じする私は、はじめての場所が苦手だった。でもそれだけではなかった。ファインダーを覗いていて分かったのである。美術館の入口が私を睨みつけているのが。
でもその後も何度も来た。いろいろな角度から撮った。入場していく人たちの姿も撮った。絵になる特別な人たちだった。そう見えた。許された人たちだった。自分には入場資格がない、そう思った。その日もそうだった。
その時、その人が、誰だか知らない人だったが、声をかけてくれたのである。
――ご案内しましょう。
そして、潜ったのである、禁断の門を。
エントランスに入ると、すぐにざわめきが耳もとを襲った。壁の中から漏れてくる、喘ぐような声だった。咎め立てられている感じだった。歓迎されていなかった。私の不安をその人はなにもかも見抜いて、手を差し伸べてくれた。
――さあ僕の手を。
でもさらにざわめき声が高まった。好い気になっていたのだ。やはり入ってはいけなかったのだ。自分が異物に思えた。肩に手をかけられて後ろに引き戻される感じだった。手に力が入っていた。その人の手を強く握りしめていた。
――もうすぐです。
そう言って、その人は私をコートのなかに引き入れてくれた。暗闇に守られた体が、階段を一歩ずつ上がっていく。声も聴こえなくなった。止んだのである。
後で教えられた。今度からはカメラを隠して入りなさい。バックに入れるだけではだめです。この袋を使いなさい。コートと同じ素材の革製の袋だった。
それでもまだ聞こえてきます。壁の声は。でも今度は一人でも耐えられます。上がってしまえば、違う場所が待っています。
それがサロン・ミューゼだった。
たしかに二階に上がった時から体が急に軽くなった。コートのなかからも出された。ざわめきは聴こえなかった。さっきまでの不安からも解かれていた。
言われるままに黒い革張りのソファーに腰を下ろした。その瞬間から沈んでいた。同時に浮いていた。大きな浮力だった。全身が包まれていた。
その人は、傍らのソファーに腰掛けながら説明した。カメラに摂りこまれてしまうのではないかと思って、怯えていたのです。壁の中のざわめき(たち)のことだった。
話の内容がまるで分からなかった。ただ外観を撮っていたのは確かである。それが彼らの警戒心を呼び起こしたのです、と言われても、美術館を撮る人はいくらでもいる。撮った後でなかに入る人もいる。大勢いるはずだ。それもカメラを首から下げるか、肩に掛けたままの格好で。
――あなたに「自分」がないからです。
あからさまだったが、優しく諭すような言い方だった。
――誤解しないように。それでいいのですから。
それ以来、言われたように入る時はカメラをバックにしまっている。バックのなかでは、その人からもらった革製の黒色の袋に包まれている。肩に手をかけられる感じや、耳元に届くざわめきにも段々馴れていった。
そして、ソファーに体を沈めると、暗示をかけられたように軟らかい眠りの底に沈んでいった。外歩きで疲れた体がなにかに抱きしめられている感じだった。同じ力で胸もとにはバックが抱きしめられている。まるで壁の住人に奪い取られないようにして。
――いい写真家になってください。
その時、その人は私の額に軽く口づけしてそのまま立ち去った。それから会ったことは一度もない。
気がつくと、彼女が傍らにいた。気がつくまで待っていてくれた。
面白い講演会だったようだ。録音しておいてくれた。でも私には分かっていた。ソファーのなかで聴いていたからである。同じ内容に違いない。会場からの質問事項も知っている。
でも、ありがとう、と私はお礼を言う。一緒に聴けなくて、と詫びる。
なにそれ? と彼女は怪訝な顔をする。ほんとうに変なことばかり言って!
一緒に聴いていたと言うのだ。
そうか、録音も後で聴き直すために彼女が自分のためにしていただけだった。聴きたいなら貸すわよ、と言ってくれたにすぎない。内容を知っているのも一緒に聴いていた証拠にほかならない。質問も実際にしたのかもしれない。
まだ閉館時間までには間があったが、展覧会は観ないことにした。どうもそれも一緒に観たらしいからだ。
美術館を出た後、渋谷駅に向かう文化村通りのデパートに入った。化粧品コーナーに立ち寄った。付き合わされた。一五分でいいからと言われて。
でも入るなり彼女は化粧品に釘づけになっている。応対した販売員とはたちまち真剣勝負の遣り取りを開始してしまう。持論のメイキャップ論で戦いを挑む。販売員も最初はにこやかに頷いていたが、途中から参戦に転じる。いまや真顔寸前だった。彼女は相手をその気にさせる術を心得ていた。まだ続きそうだった。
店内は混雑していた。研修生のような子が、片隅から私の気配を窺っていた。まだ誰もかもがすべて上客にしか見えない。見極められる力も余裕もない。それ以前だった。でもなにか仕事らしいことをしていなければならない。話しかけようか迷っている。どうしてもきっかけがつかめない。諦めて、私はそう言って、その場を離れた。
通路の柱に背を凭せ掛けて店内を眺めまわした。柱の一部と化した私の前を、ファッショナブルな女性たちがさらに奥へと流れこんでいく。香り立っている。若い子たちは店内に一歩足を踏み入れただけで自分を変えられる。日常生活を容易に忘れられる。体内を流れ下る血液の再循環に体質さえ改善される。明日など来なければいいのに、要らない、と言っている。
次の写真テーマがなかなか見出せない。最近、同期の子の個展があった。タイトルは《ファインダーの詩人》だった。彼女らしかった。学生時代から自分があってさらに自分(才能)を伸ばしている。タイトルの甘さを見事に裏切って感傷に流れる寸前で時間を寸断している。彼女だけに補足されるシャッターチャンスだった。シャッター音が聴こえてくるような音質感を閉じ籠めていた。「現代の詩人」によって切り取られた時空間だった。被写体の一人々々の表情さえ「詩人」を演じていた。
――来てくれてありがとう。
(すごいわね)
――そう言ってもらえると嬉しいわ。
(とても敵わないわ)
――少しは「写真」らしくなった?
彼女が口にすると、謙遜も厭味ではなくなった。
みんな成長していく。自分だけが……。
――なに言ってるのよ。噂になってるわよ。良いの撮ってるって。
そう言ってくれた。
(ありがとう)
でもそう思えなかった。
ごめん。ごめん。〝熱戦〟だったの。そう言って、結局、買わされた品々を披露する。彼女が強いのは、買わされたと思わないことだった。
井の頭線の駅の上にあるホテルの最上階で早い夕食の席に着いた。高層階だった。目の前に代々木公園が広がっていた。上から見ると都心にも大きな緑が広がっている。公園の向こうには新宿の高層ビルが林立していた。左手には低い山並が横に連なっている。
――あなたこういう場所好きでしょう?
この席を予約しておいてくれたのだ。足許には視界が開けていた。パソコン画面でグーグルの地図画像を見ているようだった。でも高い処が好きと言った覚えはない。
ならどこか浮いている感じの人は、それだけで好きというわけよ。なんとも強引な理由付けだった。
すこしお酒を飲んでからにしましょう。そう言って、彼女はお酒とお摘みを注文した。あまり呑めなかった私は、いつものように注ぎ役に徹した。結局、食事よりお酒になった。それもいつにもなくペースが早かった。その分、彼女の饒舌はさらに冴えわたった。同時に私を責め立てる度合いも。
外もだんだん暗くなってきた。足許の高さが一段と近くに迫ってきた。
彼女はもう三本目を開けるところだった。まだまだ行ける。夜はこれからだ。注文を済ませて、彼女は手洗いに立った。
ガラス窓の向こうに都心の灯りを下にして夜が高く広がっていた。夜のなかで新しい世界が始まっていこうとしていた。両手を頬に当ててみる。顔の内側がすこし熱くなっている。釣られて少し飲みすぎていた。ノーメイクの顔に赤みが直に差している。窓ガラスの向こうに自分の顔が映し出される。いつもの顔、それとも違う顔? 赤ら顔になって別の顔になる。そういう手もある。そう答えよう。
――すこし自分を忘れることね。忘れ方を覚えることね。分かった?
手洗いに立っている間の宿題だと言って、立ち際に言われた一言だった。忘れ方を聞かせてもらうからと言うのだった。なにそれ? まじめに考えなさいよ。そう言われそうだった。でも戻ってきた時には別の話になっていた。きっと忘れていた。
思いがけないところにきっかけがあるものである。私は本当に自分を忘れた。ノーメイクであるのも忘れた。ノーメイクであろうがなかろうがもうどうでも良かった。全身ノーメイクだったからだ。素肌を晒していたのだ。――裸だった。
後輩の男の子の前だった。躊躇う彼にカメラを強引に向けさせた。彼は何も言わなかった。シャッター音に彼は怯えていた。涙を流していた。私を汚したと思っていた。
彼は前から私のことが好きだったのだ。
知っていた。
どうしてよいか分からなかった。彼の気持をどう受け止めれば良いかが。
先輩のことが――。
遮ってその先を言わせなかった。違う。聞こえない振りをして席を立った。講演会の後だった。懇親会の席でのことだった。
彼は思い詰めていた。前から気が付いていた。気がついた時から、困惑してしまった。私を男にしたような子だった。彼の困惑がそのまま私の困惑になっていた。
良い写真、撮ってるって、聞いたわよ。帰り路で声をかけた。今度相談に乗って。スランプなの。そんなにはっきりとは言わなかったが、それに近いことを言っていた。
美術館の写真展に誘われた。友人の個展にも誘われた。愉しみにしているわ。唯一してあげられることだった。喜んでくれた。
在学中から目を見張るほど良い写真が撮れる子だった。いつも秘密を知りたいと思っていた。
さらに誘った。そしてカメラを提げて二人で街にも出た。思っていた以上に活動的だった。別人のようだった。若い女の子たちにカメラを積極的に向けていた。前に回りこむこともあった。普段なら女の子に目さえ合わせられないのに。
撮ってくれる――私は思わずそう言っていた。私を被写体にして欲しいと誘っていたのだった。
好いんですか? 本当ですか? と彼は小躍りするばかりに体全体で反応してみせた。
野外撮影でなく室内にしようと提案した。急に自信なさそうに躊躇い顔を見せた。こんなのしか撮れないの、と呆れられてしまいそうです。彼はスタジオ撮影があまり得意ではなかった。撮ってみなければわからないでしょう。それはそうですけど、と躊躇い続けていたが、結局、私に従った。
休みの日、アシスタントしている先生のスタジオを借りた。
最初は服を付けていた。彼は私の思惑にはなにも気がついていなかった。撮ることだけに懸命だった。自信なさそうに照明の角度を調節していた。露出計を不安そうに睨んでいた。私にも尋ねた。「モデル」に訊かないで。彼は照れながら「はい」とまるで小学生のような答え方をした。
そんなことより早く撮って欲しかった。もういいわ。それで十分。撮って。心の中で催促していた。
彼は諦めたようにレリーズに指をかけた。やがてシャッター音がスタジオに響いた。
休憩中に雑談している時だった。やはり自信ないな、折角、先輩がモデルになってくれているのに、そう言って申し訳なさそうにする。景色と切り離されていると、どうも集中心が湧かない。最初から焦点が絞られてしまう。被写体に負けてしまう。自分の気持ちで絞っていない。写真になっていない。
つまり撮れない、ということなのかしら。やはり私だから。そう言いたいわけ。
彼は慌ててそうではないと否定して見せた。
違うわ、今の。私もそうではないと言って言い直した。そういうことではないの。自分にただ問いかけただけ。撮ってもらおうとしていないこと。カメラに向き合おうとしていないこと。体を引いてしまっていること。そう言いたかっただけ。
あのね、と私は一呼吸置いて言った。言い方も変えた。
本当の私って何なのかしら。そんなものあるのかしら。きっと、ない。だから撮れない。そうなのよ。本当は。撮ってもらえない、ではなくて、撮れないのよ。
でも撮ってもらいたいの。本当の自分を。君にしかできないの。分かる?
反応はなかった。彼は俯き加減に足許を見詰めていた。
いやだったら仕方ないけど――。
言っていなかった。そう前置きしたつもりだけだった。
ハダカ――を(撮って欲しいの)。
でも今度は声になっていた。言葉にもなっていた。
なにも返ってこなかった。彼には返せなかった。困惑に体を固くして、なにも言えないでいた。でも……とだけは言っていたかもしれない。
考える間を与えなかった。私は支度をした。裸になっていた。
恥ずかしかった。でも彼が私を見た時、だんだん恥ずかしくなくなっていった。
私は胸が豊かな方だった。下着の中で思わず大きく揺れる時、怯えた。胸元を人に見られたくなかった。知られたくなかった。いつも目立たない服装をした。
腕組みを解いた。胸が前に現れた。知らない重みを感じた。
ライトが当たった。顔に当てられた。眩しくてカメラのレンズも彼も見えなかった。
変えて。カメラを見ていたかった。彼をレンズに感じていたかった。彼はライトを下げた。
何枚か撮られた後、背中を向けた。後ろ姿を撮ってもらうことにした。足先まで伸びきった体のラインを感じたかった。でも固くなっていてラインにはなっていなかった。思い切って力を抜きたかった。
私は両手を腰もとに上げてショーツに手をかけた。躊躇っていたのだろうか。気後れしたのだろうか。そう思った時には下げていた。躊躇っていなかった。気後れもしていなかった。ショーツをとること、それは頭の中に描いていた私の姿だった。私ではなくその姿が私を最後まで裸にした。
体の向きを変えた時、彼は私を見ていなかった。カメラに背を向けていた。
黙って私を背中で拒んでいた。
私は被写体よ。君の先輩ではないのよ。でも彼は向き直ろうとしなかった。
その彼が前を向いた。違う。彼の肩に手をかけた私の力で前に向き直らせた。それでも彼は顔を天井に上げて私を避けていた。
彼を抱きしめた。背中にまわした腕に力を籠めた。しばらく抱いていた。でも抱き合うことはなかった。
私は何を考えたのか、彼の手を取っていた。気がついた時には、胸に彼の手を押しつけていた。
スタジオが止まった。
無理です。撮れません。彼の震えや怒りが伝わって来た。私は彼の首に手をかけた。分かっていて彼の唇を引き寄せようとした。
その時だった。スタジオに人気を感じた。振り返ると、撮影台に人が立っていた。私だった。服も付けていた。
照明を眩しそうにしていた。彼に向かってなにか言葉をかけていた。ライトの角度だった。下げてと言っていた。
彼は応じていた。ネジを緩めてライトのヘッドを下げていた。別の一燈のライトをスタンドごと移動した。斜めの光線を強めて、半身を強調しようとしていた。さらに別のライトを点じた。斜め後ろからだった。アンブレラを取りつけて光量を弱く調節していた。
でも撮影して見ないとライティングの効果の程は分からない。冒険だった。授業以来一度もスタジオ撮影したことがない。予測のつかない陰影に向けて、彼はカメラのファインダーを覗きこんだ。
自信がなさそうな感じだった。撮影台の私は目もとに笑みを浮かべて待っていた。レリーズの頭を押さえる彼の親指が、そのまま押さえこむのを最後まで躊躇っていた。私はレンズを強く見詰めていた。その目でシャッターを切っていた。切らせていた。
抱きしめていたはず彼はいなかった。抱きしめていたのは自分自身だった。彼を抱きしめていたはずの両腕は、そのまま自分の両胸を被い隠していた。気がついた瞬間、私は撮影台に向かって背中を向けていた。しばらくして振り向くとそこには誰もいなかった。
数日後、気に入ってもらえるかどうか分かりませんが、そう書かれた手紙を添えた写真が送られてきた。
彼に連絡した。
スタジオの写真は?
そのまま同じ質問が彼から返されてきた。
要するにスタジオでは撮影は行なわれていなかった。なにかの勘違いでは? でも腕の中には胸の重みが残っていた。
やはりそういうことね。なかったことにしようとしている。そうではなくて、そうしてくれている。気遣ってくれている。
いろいろありがとう。頑張ってね。そう言ってケータイを切った。
それ以後、彼との連絡は途絶えた。
恋は終わった。
でも私は変った。体の線が出る服を身につけた。胸もとも見せた。穿いたことなかった短いスカートで太股を露わにした。裸になりたい衝動を感じた。そして、なった。でもショーツはつけていた。ここはスタジオではない。それに胸を出せば充分。ショーツには意味はない。それに嫌いだ。そんな話は。
私は強くなった。
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