それにしてもぼくは問いたい、ひとがしばしば
このぼくに問うたように、影とはなにか?
どうして世間は意地悪く
これほど影を尊ぶのか
ぼくがこの世に生を受けて以来
五十三年の歳月が流れたが
その間ずっと影が命だったとでもいうのだろうか
命が影として消え失せるのに
――アーデルベルト・フォン・シャミッソー
「わが友ペーター・シュレミールに」
ここに掲げたのは、シャミッソー(1781-1838年)が1813年に書きあげた『ペーター・シュレミール』の第三版「序詩」(1834年)の第三聯である。日本語版の題名は『影をなくした男』(池内紀訳、岩波文庫、1985年)で、1936年(昭和11)に岩波文庫版(井汲越次訳)として翻訳されている。1985年版解説によれば、ヨーロッパで影絵が流行していたなかで書かれたものであるという。しかしこれは時代背景であってもシャミッソーの執筆動機そのものではないと記されている。いずれにしても、ここに「影」のアンソロジー(ただし「抄」)を編もうとする時、シャミッソーの『影をなくした男』は、近代小説におけるその嚆矢となるものである。
内容は、一時の迷いで富と影を交換してしまったことによる一人の男の悲哀を寓話的に綴った「人間論」である。物語の展開としても巧妙である。ヨーロッパで広く流行したのもむベなるかなであるが、以下の諸作品(ただし邦訳以前の芥川龍之介がその存在を知っていたかは不明)は何らかの形でこの影を失った人間から着想を得ている。「シャミッソー君」としてチョイ役的に使っているものもある。原典が想像力豊かであったことが、その後の作品をさらに創作的高みに押し上げることになった、こうした捉えた方も可能である。
内容は、一時の迷いで富と影を交換してしまったことによる一人の男の悲哀を寓話的に綴った「人間論」である。物語の展開としても巧妙である。ヨーロッパで広く流行したのもむベなるかなであるが、以下の諸作品(ただし邦訳以前の芥川龍之介がその存在を知っていたかは不明)は何らかの形でこの影を失った人間から着想を得ている。「シャミッソー君」としてチョイ役的に使っているものもある。原典が想像力豊かであったことが、その後の作品をさらに創作的高みに押し上げることになった、こうした捉えた方も可能である。
ところで本稿は、例によって五十音に動機を得ている。秋が深まった季節、影にはすこぶる伸びやかな日々である。とりわけ公園のなかでは――。
◆
[か]2 西日からのびる影がベンチの前に長くのびている。秋の日はまさに釣瓶落としのごとしで、あと小一時間もすればビルの陰に沈んでしまう。いくつもの影が、かつての少年時に落としていた影を含めて彼の頭の中を過っていく。公園のなかには子供たちの影ものびている。今時の子供たちも〝影踏みごっこ〟をするのだろうか。そんな暇はない。家に戻って塾に行かなければならない。影など踏んでいられない。
自分の足の方が先に地面に着く。影が追いつけないように真横に飛ぶ。0.3秒早い。影が遅れをとる。勝った。そんなことに一喜一憂してなんになる。「影」を説けば、子供たちはどこで覚えたてきたのか、大人のような冷やかな薄笑いを浮かべる。社会の脱落者め。こんな大人になるものか。「影が薄い」の意味を塾であらためて習った。「目立たない」「元気がない」「衰えた感じ」――ああ、お前じゃないか。ママがいつも遠回りしていく。ママはぼくを見る。あいつを見る。会社クビになったのよ。行くところもないの。ああやってぼーとしているしかないの。分かるでしょう。今からちゃんとしておかなければね。頑張るのよ。
【影1】アンゼルセン(1805-75)「影法師」(1847年)。大畑末吉訳『完訳 アンデルセン童話集』3、岩波文庫、1984年。
若い学者(以下単に「学者」)と学者の影法師の話。両者の立場(社会的立場)が入れ替わってしまい、最後は影法師に存在(生命までも)を乗っ取られてしまう結末。事の始まりは、ある夜のこと。真向かいの家に怪しく光るものを見た学者は、そのなかに一人の女性を認めるが、すぐに姿を隠してしまう。学者は、バルコニー越しに真向かいの家のバルコニーを見つめ続ける。自分の部屋の明かりからのびた影が、相手の家の壁に写しだされる。学者は、影法師(自分の影法師)に呼びかける。
「(略)どうだね影法師君! 気をきかせて、ひとつ、なかへはいって、その辺を見まわして、それから出て来て、ようすを話してくれないかね。そのくらいは役に立ってくれてもいいだろう!」
学者は、冗談のつもりだったが、影法師には居丈高な命令に聴こえていた。屈辱も受けていたにちがいない。「行ったきりじゃいけないよ」と命じられていたが、あくる朝、外に出てみると影法師が帰っていない。つまり自分の体から影がのびていない。
「影法師がないぞ! さてはほんとうにゆうべ行ったっきり、帰って来ないんだな! これはけしからん!」
ついに影法師は帰ってこない。憤然としていると、そのうちに新しい影法師が育ってきた。帰ってこなくても(消えてしまっても)、元の影法師の目が残っていたのであった。学者は新しい影法師をつれて故郷に帰ることができた。何年かが過ぎる。見知らぬ人間が訪れて来た。昔の影法師だった。裕福な身分になっていた。恩返しがしたいと口にする。でも内心は恩返しではない。過去の関係(主従関係)を「借金」だと考えていたからである。借りを作っておきたくなかったのである。それにかつての主人(学者)を見返えしたいという気持ちもあった。一方、学者は影法師の成功を讃える。でも申し出は受けとろうとはしない。代わりに言う。
「借金だなんて、そんなこと、どうでもいいじゃないか。ほかのものと同じように自由にしていたらいい! 僕は君の幸福がとても嬉しいよ! まあ君、かけたまえ! そして、あれからどうしたか、かいつまんで話してくれないか! あのあつい国で、向かいの家のなかで見たことを話したまえ!」
まだ主人気取りである。影法師は我慢している。でももう腹のなかは固まっている。学者に対等の身分であることを少しずつ分からせてあげる。そのための見通しもできている。まずは無難な所から。
話すのは構わないが、「あなたの影法師だった」ことを口外しないでもらいたい。対等化の地均しである。学者は話を聞きたい方に気をとられている。「安心したまえ!」と太鼓判を押す。まだまだ主人の気分のつもりでいる。そうした学者の態度がさらに影法師の「叛意」を昂進していくが、その前に影法師がかつて見たものについてから始めなければならない。作品中でもっとも美しい場面であるから。語り始める影法師も十分思わせ振りである。
「あの向かいの家には、だれが住んでいたと思います?」(略)「それは、あらゆるもののなかで、一番美しいもの、すなわち詩だったのですよ!(略)」
そう聞かされて、学者は「詩だったのか!」と興奮を抑え切れなくなる。影法師が向かいの部屋のバルコニーからドアを開けてその家の中に入って行ったことも思い出される。その先で見たものを聞かずにはいられなくなる。
「で、君はいったい何をみたんだい?」影法師は再度申し出る(次の条件闘争)、「わたしのことを、これからはあなたと呼んでいただきたいのです!」と。学者は、「これは失礼!」と言って応じる。同意したのである。「どうもむかしからの習慣で、くせになっているものだから!」
では、と言って話を再開する。まずはそこが「詩の宮殿の控えの間」であったことを。そこでわたしは「人間」になり、なると同時にかつての自分(お仕えしていた時の自分)のなかに眠っていた「本分と天性」に自覚したことを。しかも「詩と親類関係」を作っていたことを。目覚めた本分と天性の内実とその意味合いにはやや難しいところがあるが、いずれにしても太陽や月の光の当たり方によって影法師は本人(持ち主)より形が大きく映しだされる。その大きさは、そのまま身分反映でさえある。恐らくこのことであろう。影が自覚したのは。
いずれにしても人間になっても、夜には影法師に戻れる。だからまた人の家を覗くこともできる。「人間」を得たことであらたなものが見えてくる。でも見てはいけないものであった。人が普段なら人に見せないもの。影法師であることで盗み見ることができたもの――『隣人の悪』であった。影法師は、それを本人に直接に伝える。だれもが「恐慌」状態になる。よもや見られてはならないもの、見られるはずもないものであった。聞かされた本人は、影法師のためになんでもする。大事にしてくれる。大学の先生は、影法師を大学教授にしてくれる。造幣局長は、影法師のための貨幣を造ってくれる。女たちは讃えてくれる。そして、今、あなたの前にいる。
さらに何年かが過ぎる。影法師がまた学者の許を訪ねてくる。挨拶代わりも兼ねて、学者の近況を尋ねる。思うように仕事――学者は真善美の研究に励んでいた――が評価されないと嘆く。影帽子は世間を知らなければと旅行を勧める。丁度自分も出かけるからよかったら旅の道ずれにどうですかと尋ねる。しかし、その折の訊き方はこうである。
「(略)わたしもこの夏、旅行に出かけますが、いっしょにどうです? 旅の道ずれが、じつはほしいんですよ。あなたは、影法師になって行く気はありませんか。あなたといっしょだと、わたしも大いに嬉しいが、旅費はわたしが持ちますよ!」
「そんなばかげたこと!」と言って学者は即座に拒絶する。その折は影法師もそのまま引き下がる。でもその後も学者はさっぱり目が出ない。ついに病気になってしまう。人々からは「まるで影法師のようだ」と言われる始末。やつれた風貌で生彩を欠き、影が薄くなってしまったのである。自分でさえそう思ってしまう。そこえまた影法師が訪ねてくる。そして温泉に誘う。今度は申し出に従うことにする(受け容れる)。旅費は影法師持ち。そのかわりに学者は彼の記録係(旅の記録を取る係り)を引き受けることになる。かくして本格的な主従逆転が開始されていく。――「こうして二人は旅に出ました。影法師は主人に、主人は影法師になりました。」
しかし、学者は、もともと心持の好い優しい人でもあったことから、「逆転」にも特段、心を傷めることない。したがってそんなつもり(影法師を傷つけるつもり)ではなかったかもしれないが、一つの提案に出る。
「こうしてわれわれは旅の道づれになったんだし、それに、二人は子供の時からいっしょに育ってきたんだから、どうだろう、兄弟の杯をして、君僕の仲になろうじゃないか! そうすれば、一層親しみも増すと思うが」
でも、言われた影法師は大いに傷つく。よく率直に申し出てくれた(もんだ)、と前置きしながらも、自分の気持ちをガラスを釘で引っかくときに出る厭な音に喩えてこう返す。
「(略)わたしもあなたに『君!』といわれるたびに、ちょうどそれと同じ気がするんです。これはあなたも知ってのとおり、一つの感じであって、けっして高ぶって言うのじゃないんです。わたしはあなたに『君!』と言われるのはがまんできないんですが、そのかわり、あなたのことは、よろこんで『君!』とよぶことにしましょう。そうすれば、半分は実行されたことになりますからね!」
今となってはそれも受け入れなければならない。学者は我慢することにする。しかし、それでは終わらなかった。序の口だった。ある外国人で賑わっている温泉場でのことである。そのなかに一人の美しい王女がいた。王女が来ていたのは、ものが見えすぎるという病気治療のためであった。
だから影法師がこの温泉になんのためにやってきたかの理由も王女は簡単に言い当ててしまう。「わたしには、本当の理由が見えるわ! あの人(影法師・引用注)は、影法師がさしていないのよ」と。人伝に聞かされた影法師(すでに紳士の風貌を備えている)は、やんわりと切り返す。自分は世間並みと言うのが嫌いで、影法師を普通ではなく特別に仕立てている。世にも珍しい影法師にしている、と王女に自慢してみせる。同道している学者がまさにそれで、人間のような立派な身なりをさせているのは、丁度、召使いを自分以上に見せようと着飾らせる手合い(趣味の持ち主)と同じですと。しかも私の場合は、(影法師に)影法師まで付けてやっていると。
この遣り取りをきっかけに、王女は、次第に影法師に心が惹かれていく。ダンスも踊るようになる。踊りながら自分の国のことを語る。知っていますかと尋ねる。王女の国に行ったことのある影法師は、その際も城壁の窓から中を覗いていたので、王女の問いになんでも答えることができる。なんて賢い方なの! 王女は、影法師の博識にさらに惹かれていく。
やがて結婚まで考えるようになっていまう。しかし自分はあくまで王女である。民のことを考えなければならない。結婚するには、さらに学門ができるか(とくにしかるべき学門をしてきたのか)確かめておかなければならない。出された質問は難問であった。影法師には即答できない。王女は、「お答えがおできになりませんのね!」と疑いをかける。しかしさすがは影法師である。なんなく切り抜けてしまう。
「そのくらいのことは、子供の時に習いました。」と影帽子は言いました。「あそこのドアのそばにいる影法師だって、答えられますよ!」
こう言って、王女の関心を影法師の方に仕向ける。王女は、最初は「そんな珍しいことってあるでしょうか!」と言って、疑いを強めるが、さらに巧妙に言いくるめられてしまう。
「いや必ずできるとは限りませんが」と、影法師は言いました。「そう信じたいのです。なにしろ、今までなん年も私のそばについていて、いろいろと、聞きかじって来たのですから。――そう信じたいのです! しかし、王女様にお許し願ってひとことご注意申し上げておきますが、あれは、人間と見られるのに、たいへん誇りを感じているのでございます。よい返事を聞き出すためには、あれのきげんがよい時でなければなりません。したがって、ぜひ人間として取り扱ってやらねばならないのでございます。」
王女は構わないとよ、と請け合う。そうしていろいろに尋ねてみる。当然ながら学者は、「いちいち賢明にりっぱに」なんでも答えてしまう。「こんなりこうな影法師を持っているなんて」と、あらためて感嘆の声を上げてしまう王女は、これは国のためにもなることと、影法師を夫にすることの決意を固めてしまう。
事は絵に描いたように上手く運ぶ。いよいよ王女の国にやって来る。堪え切れないぐらい気持も昂ぶっている。影法師は、最高の幸福と権力を手に入れることになる、と学者に向かって誇らしげに語って見せる。言い聞かすように学者にもご殿に住んでいいと言う。ほかにも特典を与えて上げようと言う。その代わりと言う。誰からも(君は)影法師と呼ばれなければならない、「かりにももと人間だったなどとは言ってはならん。」さらに続ける。
「(略)それから、年に一度、僕が日のあたるバルコニーに出て、人々に姿を見せる時は、ほんものの影法師のように、ぼくの足もとに横になっていなければならないのだ。(略)僕は王女と結婚するのだ!(略)」
学者は呆気にとられる。なんて馬鹿げたことだと反発してみせる。そのくらいなら真実を王女に話すと迫る。「僕が人間で、君が影法師だってことを! ただ人間の着物を着ているだけだってことを!」と。本気にする者がいるものか、詰まらん気を起こさない方がいい(身のためだ)と突き返すが、学者は、今から王女のところに行くと言い出す。「君は逮捕だ!」影法師は叫ぶ。そして番兵に命じる。王女の結婚相手であることを知っていた番兵は、学者を命じられるままに逮捕してしまう。
そして、いよいよ最後の仕上げである。影法師は、沈痛な面持ちで王女の前に姿を現す。これも策略の内である。そうとも知らずに「何かございましたの?」と、王女は心配顔で言葉をかけてくれる。待っていたように影法師は口を開く。こんな恐ろしい目にはあったことがないと沈み込んで見せる。そして言う。
「(略)わたしの影法師が、気が狂ったんです。あいつは、自分が人間だと信じているんです。そして、わたしが――まあ、考えてもみてください!――わたしがあいつの影法師だなんて!」
王女は言う、「監禁なさったんでしょうね」と。その後を承けるようにして影法師が言う。心配だ、もう治らないかもしれないと。王女はなにを思ったのか、(我々読者の)予想を超えることを口にする。
「かわいそうな影法師!」と王女は言いました。「ほんとうに不しあわせね! いっそのこと、はかない命から自由にしてやったほうが、ほんとうの情けではないでしょうか。そして、よく考えみますと、これはごくごく内々にやる必要があるように思いますの」
影法師もづうづうしく言う。
「たしかに、つらいことです。」(略)「あれで、忠実な家来でしたからね!」
(略)
「あなた、なんてけだかいかたなんでしょう!」と王女は言いました。
その直後、二人の結婚式が盛大に執り行われる。祝砲が何発も轟く。兵隊たちによる捧げ銃がある。やがて二人がバルコニーに姿を現す。人々から万歳の声が何度も湧き上がる。でも学者が耳にすることはない。その時はすでに命を奪われた後だったからである。
◆◇
ヘンな話を聞かせないでください。
さっきまで母親は彼を問い詰めていた。自分のことは自分で片付けてください。端から彼を「負け犬」(「学者」)みたいに蔑んでいる。顔にそう書いてある。
――勝つか負けるか、いま大事な時なの。あなた、子供に分かってもらおうなんて、大人として恥ずかしくない。
――そんなつもりでは……。
――あの子たち、あなたのことなんでも知っているセンセイって呼んでいるみたいですけど、こんな話ばかり聞かせていたのね。今、手にしている本も怪しそうね、また何か聞かせようとなさっているのかしら? 本当にアヤシクない?
【影2】芥川龍之介「影」(1920年(大正9))(『芥川龍之介全集』2、筑摩書房、1971年)
妻の不貞を疑い、猜疑心の果てに凶行に及んでしまう男の話。あるいは神経を狂わせてしまう話。芥川一流の鋭い刃のような切れ味で、息詰まるような筆致で綴られていく。
各段の書き出しの最初に「場所」が記される。まるで日記体のような書き出しである。
「横浜。」「鎌倉。」「横浜。」「鎌倉。」「鎌倉。」「横浜。」「鎌倉。」「東京。」(あえて句点を残すことにする)
場所として掲げられたのは、横浜・鎌倉・東京の計三か所ながら一目瞭然のように「東京。」は、主たる場主とは扱いが異なる。話の舞台となるのは、「横浜。」と「鎌倉。」である。今これを劇のように「場」に擬えると、計7場からなる。さらに分けると、幕開け側と幕切れ側で「場」が交互に繰り返されているのに対して、中間部で2場連続の構成となっていることが分かる。今、実際の展開次第に囚われず、この形式的相異をもとに「東京。」を除く全体を3幕として捉え直すことにする。すなわち、1幕が3場、2幕が(2場)、3幕が2場と見立てることになる。(2場)としたのは舞台風景(「場所」)が繋がっているためである。3幕各場の話の筋は次のとおりである。
・1幕1場「横浜。」
舞台は、登場人物1(主役1)の「日華洋行主人陳彩」の社長室内である。現在形に回想シーンを挟みこんで「劇」は進行していく。
商用書類に一区切りがついたところで陳彩は家に電話を入れ、妻の房子(主役2)に今夜は東京に商用で出かけなければならない、遅くなるから戻れないと告げる。その折、前後関係を掴めない意味深な会話が差し込まれる。「(略)――何? 医者に来て貰つた?――それは神経衰弱に違いないさ。(略)」電話が切られた後もその神経衰弱に関する説明はなく、電話を置いた手で燐寸を摺って葉巻を吸いだしてしまう。燻らす葉巻の煙の向こうに最初の回想が用意される。
妻(房子)との出会いの場、彼女に想いを寄せ続けていた頃のシーン。やはり煙草の煙がたちこめている。部屋の隅から聞こえてくるカルメンの音楽。陳彩は麦酒を前に独り茫然としている。顔だけが女に向けられている。店の筋は明らかでないが飲食店である。その帳場机(カウンター?)の中に立っている女をじっと見つめ続ける。
すでに何度か駆け引きがあったのか、帳場机に近寄った陳彩に、「陳さん。何時私に指輪を買つて下すつて?」と女は甘えるように言う。しかし仕事の手は休めない。でも女の指には結婚指輪が嵌められている。それを指摘すると、目の前で抜き取って陳彩の前へ投げ出し、「これは護身用の指環なのよ」と平然と言い放つ。
社長室の戸が叩かれる音で現在形に引き戻される。郵便物(封書)を手渡すために社員の今西(登場人物・脇役1)が入って来たのである。手渡す手は、まるで中身を知っているかのようであった。早々に引き下がらせた後、陳彩は「又か」と舌打ちする。荒々しく開封した封書の中身には、妻の不貞を指摘する内容と陳彩の取るべき手段を示唆する内容が認められている。文末には「貴下の忠実なる友より」とある。
再び回想に転ずる。結婚直後の一場面である。時計の蓋裏を見つめるシーンである。妻房子の時計であるはずなのに、彫られているイニシャルが違うのに陳彩が気づく。平気な顔で某氏から頂いたものだと答える妻。まだ続く。指環が2個。これは別の某氏と某氏から。今度は根懸(髪止めの装飾品)。これもまた別の某氏から。もちろん結婚前に房子が男たちから贈られた品々である。嫉妬心は起きない。なるほど結婚直後である。「これは皆お前の戦利品だね。大事にしなくちや済まないよ」と笑って言えるほどである。しかも、「ですからあなたの戦利品もね」と、某氏たちと相対化されてもかえって嬉しくなるほどであった。
しかし今は、と現在形のなかに再びたち戻る。陳彩は電話機を取る。かけた所は妻の内偵を依頼してあった探偵事務所である。本当に(家に来ていたのは妻の言うように)医者だけだったかの確認である。そうだと聞かされるが、しかし今夜中に会いたいと伝える。そして呼び鈴で社員の今西を呼び寄せると、誰それに代わりに東京へ遣らせてくれと命ずる。命じ終わると力なく机の上で頬杖をつく。社長室に迷いこんで来た蠅が、鈍い羽音をたてながら陳彩の回りを不規則に飛び回る。
・1幕2場「鎌倉。」
陳彩の家。夫不在の家の中で、日頃の神経の疲れの所為か、人に監視されているような視線からいつまでも逃れられない房子は、客間のなかで召使いの老女(脇役2)の慰めを受けている。それでもこのまま「気違い」になってしまうのではないか、と自分に怯える。老女との遣り取り最中にも自分の裡に引きずり込まれてしまうほどである。その回想。一週間前の自室(寝室)。暗闇の中で自分に注がれる正体の知れない視線。思わず部屋を明るくする。何も変わっていない部屋の佇まいに一先ず安心する。しかし再び恐怖に襲われてしまう。電燈の光のなかにも「凝視の眼」を感じてしまうからであった。(以下略)
・1幕3場「横浜。」
この場面は、社員の今西のみ。彼の正体を暗示するような小場面。会社の宿直室の長椅子の上。長々と横たえた身の懐から取り出された一枚の写真。社長陳彩の妻房子の半身の写真である。
・2幕1場「鎌倉。」
電話で約しておいたように陳彩は終列車で立ち戻る。探偵事務所の人間が待っている。電話で報告したとおりである。医者が訪れただけである。その後も誰も訪ねた者はない。報告を聞き終わると陳彩は無遠慮にその場を離れる。それでも心穏やかになれないのであった。
・2幕2場「鎌倉。」
山場である。妻を疑う陳彩の苦悶が、闇の中に佇む彼の心を引きちぎろうとしている。報告を受けた1時間後の姿。彼はすでに家の中にいる。まっ暗な廊下に佇んで、自分の部屋でもある夫婦の部屋(寝室)の前で、扉越しに中の気配に神経を尖らせている。まるで男がいるに違いないと決めつけているかのように。
陳彩をそうさせたのは、停車場から家に向かう途中での思いがけない出来事のためであった。暗闇の中に人の足音を聞いたのである。自分の家(裏門)にしか続かない道である。すぐさま疑いに囚われてしまう。しかし近寄ってみると戸には鍵がかかっていた。今朝と同じであった。陳彩は、裏門に寄りかかりながら、こみ上げてくる悲しみのなかで、呻くように「房子」と妻の名を呼んでいる自分に気づく。
しかしその時、二階の部屋に突然電燈がともる。陳彩は松の幹に身を寄せて窓を見上げる。さらに窓硝子が開け放たれる。やがて一つの人影が窓際に浮かび上がる。電燈を背にしたその姿は、はっきりと捉えられない。しかし女ではない。それだけは確かである。その瞬間、あの手紙の文面が彼の頭に甦る。「あの手紙は、――まさか、――房子だけは――」気がついた時には、彼は塀を乗り越えている。そして、廊下を包む暗闇のもとで、部屋の扉の前をして息を潜ませ、「嫉妬深い聞き耳」を立てていたのである。それも先ほど道の先に聞いたような用心深い足音を部屋の中に聞いてしまった後では、さらに――。
しかし、すぐに沈黙が部屋の中を支配する。長い沈黙である。彼は堪え切れなくなって思わずノップに手を掛ける。鍵がかかっている。再び沈黙に耳を押し当てる。心臓の鼓動が高鳴っている。極度の緊張に胸が締め付けられる。やがて部屋のなかに溜息のような声が聞える。さらに物音がする。(妻と別のもう一人の)誰かだ立てる物音である。寝台に上がる音である。すでに失心寸前であった。彼は床にはって鍵穴を覗いてしまう。その陳彩の眼の中に、「永久に呪わしい光景が開けた」のであった。
・3幕1場「横浜。」
社員今西の場面(再場面)。真相が明かされようとしている。夫人(房子)の写真を胸ポケット(「内隠し」)に仕舞いこんで長椅子から起き上がった彼は、真っ暗な次の間(事務室)に入り、卓上電燈をつけ、タイプライタアに忙しく指を動かす。そして、やがて「何行かの文字が断続した一枚の紙を吐き始めた」のであった。例の封書(彼が郵便物に見せかけて社長室に届けた封書)に続く一文であった。――「拝啓、貴下の夫人が貞操を守られざるは、この上猶も申上ぐべき必要無き事と存じ候。されど貴下は溺愛の余り……」卓上電燈に浮かび上がる今西の顔は、瞬間、「憎悪そのもののマスクであつた。」
・3幕2場「鎌倉。」
陳彩は寝室の中にいた。戸は破られていた。気がつくと「寝台の前に伏し重なった」二人の姿があった。陳彩はと言えば、その二人の姿を部屋の隅に佇んだまま眺めている。一人は房子、それもすでに「物」と化してしまった房子。そして他の一人はと言えば、やはり陳彩であった。ただし「もう一人の陳彩」であった。伏し重なった男である床上の陳彩は、「物」と化した房子の首を爪が埋まる程に強く締めつけている。やがて何分かが過ぎ、床上の陳彩は、まだ喉元を締め付ける力に喘ぎ続けるかのようにして徐に体を起こすが、そのまま椅子に倒れ込んでしまう。今度は部屋の隅にいた陳彩が、「房子だった『物』の側」に近寄る。そして「紫に腫れあがった顔へ、限りなく悲しさうな眼」を遣る。
椅子にどっぷりと腰を沈めていた陳彩が、にわかにその「陳彩」の存在に気がつく。立ち上って、殺気立った眼で相手を激しく睨みつける。しかし、彼はそこになにか怪しい気配を感じとる。「殺意は見る見る内に、云いやうのない恐怖にかわつて行つた」のである。――「誰だ、お前は?」目の前の男は、あの暗闇の道を忍び足で進む男でも、窓際の影の男でもなかった。再度問い質す。でも答えは返されようとしない。ただ悲しそうに「物」を見つめている。陳彩は壁際に後退さる。「誰だ、お前は?」を繰り返すように歪められている口許とともに。
陳彩(もう一人の陳彩)が床に跪く。房子だった「物」の細い頸に手を回し、「無残な指の痕に脣を当てた」。やがて途切れ途切れの泣き声が部屋の中に上がる。見ると今は壁際の陳彩も床上の陳彩のように顔を両手に埋めながら(泣き声をあげているのであった)。
・幕外「東京。」
種明かし。しかし種明かしとは言え決して心穏やかではいられないような、登場人物たちとは異なる男女二人による遣り取りの小場面。なお「幕外」としたのは、「種明かし」であるため。突然に「東京。」とされているのも、作品上でも「幕外」であることを教えている。
なんとそれまでの「3幕」は、実に映画の中の話だったのである。丁度、観終わったところなのであろう、男(「私」)が「今の『影』と云うのだろう」と題名を確認する。でも女から手渡されたプログラムを繰っても、『影』という題名はどこにも見当たらない。夢でも見ていたのだろうかと思うが、眠った覚えはない。男は映画(『影』)の慷慨を女に話して聞かす。すると女も観たことがあるという。やおら(聞こえないかのような小さな声で)男に応ずる。
――「お互い『影』なんぞは、気にしないやうにしませうね」と。
◆◇◆
彼に対する母親の叱責は、おそらく日頃のストレスの所為であるに違いない。彼は言われるままにしている。
子供たちにもストレスが溜っている。だから受験の妨げになっても構わないと思った。でも実際は妨げにもならないだろう。子供たちはそれどころではない。頭の中は学習項目で埋め尽くされている。彼の話が入り込む余裕も隙間もない。すばらしく凝り固まった頭脳だ。それでも好い、バカげたことを話す大人がいた、いずれ思い出せばよい、子供たちが受験から解放された時、それはまだまだ先のことかもしれないが、いつか自分たちも公園のベンチに腰掛ける時だってあるのだ。
それは彼女とのデートの時だけとは限らない。友人と酔いつぶれて終電を逃して夏の夜空を仰いでいる時ばかりでもない。あるいは戸外で会社の同僚と気晴らしに昼食を摂る時だけでもない。別の目的(心持)で座る(座り込む)時もあるのだ。自分の影がベンチからのびるのを見つめる。たとえば「人」であることを考えなければならないような気分の時、「ベンチの人」を影のなかに思い出すことになるかもしれない。それでいい。もちろん、思い出さない子の方が多いだろうが。
――でもあなたは幸せかもね。
すこし気が済んだのか母親の口振りから棘が取れている。
――ええ幸せです。そのつもりです。でもお母さんの言われるように人に勧められる人生ではありません。お母さんはよく見ているのです。見えてしまうのです。見えなかったことにはできませんものね。見えてしまったものに対しては……。
――あの、それ? 誰かの口調、真似なさっていませんこと?
――お分かりですか。
――ええなんとなく。でもごめんなさい、それほど似合っているというわけではなさそうですよ。
――そうですか。やはりなんでもお見えになっているんですね。では、僕のこの先の人生なんですが、何かお見えになりますか?
母親は、しばらく彼の顔を見つめていたが顔を軽く左右に振った。「見えない」ということだろうか、「そんなことお答えできません」ということだろうか。それでも彼は母親の顔を窺った。母親に勘違いされてしまった。「そんなに見ないでください」というような表情を浮かべると、彼の視線から逃れゆるように腕時計に目線を下げた。
――あら止まっているわ。電池かえたばかりなのに。今日は塾で面談ですの。今何時かしら?
――止まっています。僕の時計も止まっています……。
別に彼は話を合わせようとしたのではない。本当に止まっていたのである。
【影3】安部公房『壁』(1950~51年(昭和25~26))(『安部公房全作品』2、新潮社、1972年)
別々に発表された3作(「Ⅰ(第一部)」~「Ⅲ(第三部)」)からなる。発表順に辿ると「Ⅲ 赤い繭」(『人間』1950(昭和25)年12月号)、「Ⅰ S・カルマ氏の犯罪」(『近代文学』1951(昭和26)年2月号)、「Ⅱ バベルの塔の狸」(『人間』1951(昭和26)年5月号)である。この内、「Ⅰ S・カルマ氏の犯罪」(雑誌発表時の題名は「壁-S・カルマ氏の犯罪)が芥川賞を受賞する(1951年上半期)。いうまでもなく安部公房と言えば、戦後文学を代表する一人であり、同時代文学にもっとも大きな影響を及ぼした一人である。日本だけでなく世界的にも高く評価され、三島由紀夫と共にノーベル賞候補になったこともよく知られている。
ところで『壁』と「影」との関係であるが、「影」が重きをなしているのは、「第二部 バベルの塔の狸」の中においてである。「四、陰についての考察。旋盤を操る天使たち。」と題して項として立てられた箇所もある。ここでは第二部のなかに「影」を辿る。
語り手は、「詩人(貧しい詩人)」である。彼は公園のベンチに座って、当て所もない空想(「プラン」)に耽りながら女性の脚を見るのを楽しみにしている。たとえば見たものを石に変えてしまうメドーサの頭に空想を巡らせる。可笑しいと考える。それなら(みな石に変えられてしまうなら)、「生きている人間でメズサを見たものはないことになる」と疑う。条件があったに違いないと考える。そうだ彼女(「メズサ」)の美にも動じない者は石に変えられなかったに相違ない。だから「冷たい心」を持つ必要がある、しかもそれこそが「詩人といいうる資格をもった人間」の在り方であるとの結論に至る。――以上が、「一、ぼくは空想しプランを立てる。」
別の日の朝、その公園で昨日メモしておいた空想とプランに自ら眺め入っていた詩人は、そのつど女の脚を想像している。手帳の名前は、「とらぬ狸の皮」と命名されている。不図、茂みの下に目を止めると、自分を見つめている獣がいるのに気がつく。猛獣ではないが名づけようのない姿である。正体を探っていると向こうから近づいてくる。危害を加える気配ではない。
さらに近づき自分までの距離が5歩くらいになる。突然、動物は、激しい動作で地面に食いつきはじめる。朝日にのびた詩人の丁度頭のあたりである。やがて詩人の影を咬むと、地面から引き剥がしてしまう。影が悲鳴を上げている、そう聞こえた。連れ去られそうになっている影めがけて飛びかかるが、獣は身を翻して木立の中へ逃げこんでしまう。詩人はただ茫然自失するばかりであった。――以上が、「二、奇妙な動物が現れて、ぼくの影を咬えて逃げ去ったこと。」
その後、男女が公園にやってくる。恋人同士である。抱擁をはじめた直後、女性が詩人の存在に気付き失心状態に陥ってしまう。男も詩人に気がつくと叫び声を上げてしまう。予想外の出来事に詩人は詩人で驚かされる。なぜ男女が驚いたのか判然としないまま、その突然の二人の叫び声から自身も逃れるように手を翳してみて、はじめてその訳を知る。透明人気になっていたのである。衣服だけになった詩人の姿が、男女の目に写っていたのである。
彼の許を一目散に逃げ去った男女を前に、それでも失くしたのが眼鼻や顔ならともかく影に過ぎないと詩人は高をくくっている。「こうやって日陰にいさえすれば、誰も気づきはしない。それに影なんて、なんの役に立つだろう。子供なら影踏ごっこに必要だろうが、要するにぼくは大人だ。影なんて、無駄なものだ」と、影を失くしたことを深く気に止めるふうでもなかったが、事の重大性に初めて気づかされる。それは次なる因果関係からもたらされる危惧を正しく認識したからであった。
考えてみれば、ぼくは影をなくしたのです。影がない以上、影の原因である肉体が消えるのも当然でしょう。原因と結果が反対のようにも思いましたが、そんなせんさくをするゆとりはありませんでした。咬え去られたのが、役に立たぬ影だけだなどと、なんて甘い安心をしたものか。影と一緒に影の原因も奪い去られたのだ。日陰も夜も、もうぼくをかくしてくれはしない。不意にぼくは叫び出していました。思いがけなく、ながい、原始林の猿のような、叫びでした。
詩人は急いで服を脱いで裸になる。部屋に立ち戻らなければならないと焦る。でも脱いだ服や靴をどうすればよいのか。一着しかない夏服であった。結局なんとかなるだろうと抱えたまま街中を移動することにする。よく知った街である。人通りの少ない場所だって知っている。途中までは首尾よく逃げられる。
しかし運悪く一群の不良少年たちと出会ってしまう。とっさに抱えていた服の包みを地面において少年たちを遣り過ごそうとするが、一人の少年が包みに気づいてしまう。手が伸びてくる。盗られるわけにはいかない。包みをずらす。当然驚き返る少年。そんな馬鹿なと、今度は他の少年が手を伸ばしてくる。再びずらす。狼狽した少年たちが包みを取り囲む。止むなく包みを抱えて振り回す。さらなる狼狽に少年たちは襲われる。一人が詩人の顔辺りを指差して、あっと声を上げる。竦み上がった少年たちは、狂ったように逃げ出していく。
目だけが消えていなかったのだ。途中のタバコ屋のシュー・ウインドに映しだした顔(目)でそのことを知る。まさに「異常」。詩人も慌てふためく。さらに先を急ぐ。犬を引き連れた奥さんに遭遇する。少年たちが警官を引き連れてくる。吼えかかってくる犬に石を投げつける。奥さんは気を失う。その犬の声に警官たちが詩人の「存在」を嗅ぎつける。呼子が鳴らされる。多数の警官隊が出動している。
それでもなんとかアパ-トに逃げ帰ることができる。体を投げ出したベッドの上で宙に浮いた目玉から無限に涙が流れ出てくる。――以上が、「三、アパ-トに帰るまでの出来事。透明になって街々を駈けぬけること。警官隊が出動すること。」
次は部屋の中ですこし落ち着きを取り戻した詩人の、影に対する論考。さすがに詩人と唸らされる理論が開陳される。まずは①動物学的発見。ともかく影を啖う動物の存在を然るべく照会すべきであると自問自答するくだり。しかし斥けられるに違いない。たちまち否定的になってしまう。影に対する原理的な考察が脳裏に浮かんでしまったためであった。
影は物質の結果にすぎないのであって、物質ではないのですから、それを啖うなんていうことは、物質界の法則に反することであり、科学者には認めがたいことにちがいないからです。
しかし物質論はどうであれ、これは事実である。詩人は思い直して(意を強めて)動物図鑑に(自分の名前で)登録することを要求しなければと考える。その考えは、さらに詩人を自由な発想へと導いていく。これは動物学だけの問題ではないと。あらためて、②物質論への着想が頭を擡げてくる。気がついたことは、まずこれは、「物質の概念そのももの変革」ないしは「物質の因果関係の変更」に関する事態ではなかったかということ。さらには、「ぼくは新しい宇宙法則の肉体的な体験者なのではないだろうか」つまり「宇宙論の発見者ではないか」とまで突き進んでしまうこと。そして賞賛に包まれる自分の姿に思いを巡らすが、透明人間であったこと、そのために「英雄的な自分自身の姿」を見ることができないのだということに直ちに気づかされてしまう。
再び危機意識に晒される。なんとしても獣を捕獲しなければならない。あるいは捕獲してもらわなければならない。でもどうやって知らせてらえばいいのかと考えてしまう。不安はさらに膨らむ。影自体にである。食べられてしまっていたならば、という危惧である。しかしさすがに(オプティミストの)詩人である。今度は、③生物化学論への着想である。切り替えの巧みさとも言える。獣の生理学的研究を通じた「影の消化転機」の解明及び同過程による逆側からの再過程化。影の合成ないしは抽出化。さらなる大発見=影を自由に取り外しできること。これは自由な透明人間化への道でもあること。ただし残る一つの懸念。離れたものが元どおりにくっつかどうかということ。しかしそれも過熱によって解決されるはずである。しかも加熱法は、転じて影の形を自由に変えることもできることから、「希望どおりの新しい肉体を獲得できる」ことを意味する、等々。
いよいよ究極の誇大妄想ともいうべき、④存在論(人間論)への道が切り開かれる。世界の流行は、いまや服装から「肉体そのもものスタイル」への関心となること。まさしく「好みに応じた肉体」の創造のはじまりであることも。しかもその手順はと言えば――「まず希望者の影を切断し、それを変形機にかけて変形し、肉体の再形成」を行なう、その結果、「世界中の人間が、ことごとく天使のように美しくなる」という算段である。そして次のような偉大なる人間論に辿り着くのであった。
それに、問題はそればかりに留まらない。人間の肉体が可変なものとなれば、それに付随する様様な人間関係も可変になる。従って、所有権なぞというものも消滅し、個人の観念が消滅してしまうのだ。驚くべき世界ではないか。完全な自由だ。完全な、そして永遠の再分配だ。平等な社会の天使のような人間!
そこで実践的な「影の研究」に励もうと、とりあえず机を対象に選んでみる。しかしどう頑張っても影は剥がれない。そうこうするうち、階下で管理人のおかみさんの声――影を警戒するようにという住人への呼びかけの声が聞こえてくる。すこし厭気が差し始めていたこともあり、この際、思い切って名乗り出ようかとも思い、ドアの把手に手を伸ばすが、その瞬間であった。銃声がする。虻を透明人間の目と見誤って警官が発砲した銃声音だった。管理人は言う、間違ってでもなんでもいいが、ともかくそう思ったらすぐ撃ってくれる、それは安心なことだと。そして、「殺してしまうまで、心配で、仕事も手につかない」と。
詩人は、部屋を出る勇気がなくなる。透明な自分の肉体に恐怖感さえ覚ええしまう。ラジオを付けると臨時ニュースで自分のことを流している。識者のコメントも付けられている。宇宙人の襲来の可能性が高いというもの(世界生物学会会長H博士)。透明人間妄想狂という精神的伝染病だというもの(公衆衛生学権威U博士)、某国の侵略に間違いないというもの(国務大臣N氏)。
識者の貧弱な空想力に暗澹たる思いを抱かざるを得ない詩人は、憤然たる思いも重なってラジオを叩き潰す。そして少し前まで抱いていたフラ・アンジェリコの天使たち――旋盤を操って「天使」の姿に人間(の影)を可変する天使たちの想像図が、何時の間にか「天使迫害の図」に変わっているのに気づかされるのであった。――以上が、「四、影についての考察。旋盤を操る天使たち。」
夢の挿入部。火事の夢。上空を舞う悪魔のような無数の「ぼく」。でも「偽物のぼく」。「本物のぼく」は、そのなかを一枚の訴状となって飛んでいる。この間の経緯を認めた訴状である。しかるに何故か、その訴状は「白紙」。偽物が、「ぼく」(白紙の訴状)に気付くと近寄ってきて訴状に「死刑」と書き付ける。次々に手渡されては「死刑」の字で真っ黒に塗り潰されてしまう。どこからともなく例の獣が現れ、その訴状である「ぼく」を食べてしまう。――以上が、「五、夢。」
次は詩人と獣との長い駆け引きへと続く。望遠鏡を覗いていた詩人の目に獣が突然現れる。しかも何かの箱の上に乗っている。最初は横に書かれていた横文字(coffee)をコーヒーと読んでコーヒーの箱と勘違いしてしまうのだが、実はcoffin(柩)であって、箱が柩であることが判明する。この箱に乗れと獣が促す。続く遣り取りは、なぜこの箱に乗らなければならないかの経緯でもあるが、話が長丁場になるのは、詩人が俄かには受け入れられないためである。獣は、その姿からは想像ができないほどに理詰めで攻めまくる。影の真の意味を詩人に解き明かして見せたのである。終いには詩人も乗り移ることになる。
その経緯(部分)。影を返せと言う詩人に対して獣は、自分の存在は君の内面そのもの反映であると説く。しかも自分を生んだのも君自身である。しかし影を食べたことでいまや自分は君以上に君自身にもなっている。なるほど。たしかに影を失っている。それはあるいは死を意味しているのかもしれない。今度は詩人による影についての自問自答。
(影がうすいということは、死が近づいているということだ。すると、影がないということは、死んだということじゃないか。なるほどぼくはもう死んだと同然なんだな。そこで、柩に乗ってお迎えというわけか。馬鹿にはしているが、しかしひどく合理的だ。)
弱気になったと見るや獣は畳みかける。「君の慾望こそがぼくの成長の理由だった」とか最前思いついた科学的分析(「影の研究」)はまるで自殺プランにすぎないとか。なぜならその影の生成理論は、「ぼくの誕生を拒否することだし、従って君自身の存在理由を侮蔑すること」にほかならないからであるとか。夢で見た白紙の訴状も実は白紙委任状であったとも明かす。論破。かくして、詩人は乗り移ることになる。柩はバベルの塔に向かうらしい。――(大半は省略ながら)以上が、「六、笑うとらぬ狸。空飛ぶ柩。」
以下、話は「十一」まで続くが、前段までと違い、「影」はすでに主役の座を下りているので、成り行きのみ簡潔に記す。
バベルの塔に到着。多数の「とらぬ狸」が群れている。同じ族(「獣」)であり、人々の欲望がそれを作っているとの説明。塔に入る。しかし誰でもが塔の中に入れるわけでなく、また入り方も特別な方法(シュール・リアリズムの方法)であることが明かされる。名称のとおり意味深である。その部分だけでも引けば、「塔の入口は、通過しようとする各人の意識の暗がりなんだ。下意識の世界が通路なのさ」といったところであるが、すでに中に入っている。最後は、「ところで、これからどうすればいいんのだ。」の一行で次項に続く。
なお、ストーリーの展開とは直接結びつくものでなないが、この項の中で「影」の創作的出典を明かすかのように、「シャミッソー君」(冒頭)の一行が挿入される。――「七、バベルの塔に入るにはシュール・リアリズムの方法によらなければならぬ。」
次は入塔式。ダンテ(司会)ほかブルトン、ニーチェほか中国の賢人などの、祝辞とも生活談議とも大演説ともなんともつかぬ、式の主役を顧みない話が矢継ぎ早に繰り出され、詩人はただ聞いているだけで疲れ果ててしまう。ただその中にあって、思い出したように目玉は銀行に預けなければならないからと命じられる。――「八、入塔式。ブルトン先生の大演説。」
次は目玉を銀行に預ける話。ここでも門番であり目玉の管理人(エホバ)の長広舌がふるわれる。なぜ預けなければならないのか、目玉とはなんなのかといった類の。いずれにしても眼玉がナイフで抉り取られる場面にまで話が進む。詩人はここではじめて激しく拒否する。ひとまず延期になる。――「九、目玉銀行」。
延期であってもそれは、「下界展望室」に連れられていく時間に過ぎない。汚れた下界を展望させて、そんなところに戻るのが良いのかと自分を見つめ直させるためであった。いずれにしても下界を展望すればその辟易すべき様からそういう気――目玉を預け、「最後の重量」をなくして無になり純粋を手に入れるための気持になるはずであったからである。
でもそうはならなかった。獣の隙を狙って詩人が逆襲に転じるのであった。「とらぬ狸」を組み伏せ、下界に戻るための「時間彫刻器」に手を伸ばす。しかし大勢の狸が詩人めがけて迫ってくる。詩人は彫刻器を手にしたままその場を離れる。逃げ回っている内に一つの部屋に入りこむ。美術館(「バベルの美術館」)であった。多数の女の脚が展示されている。さらに狸が迫ってくる。逃げ場を失った詩人は一つの部屋の存在に気がつく。そこだけ別室になっていた「シュール・リアリズム」の部屋である。なにも展示していない代わりに、壁には様々な方程式が書きこまれ、その下には穴が開けられている。詩人は迷った末にもっとも難しい方程式の書かれた穴に入り込む。穴の中で「時間彫刻器」を再び操作する。すさまじい光が発せられ、詩人は光の束と共に穴の奥に突き飛ばされる。――「十、下界展望室。時間彫刻器。美術館。」。
気がつくと再び下界に立ち戻っている(「十一、とらぬ狸に石を投げつけること。」)。いつもの公園である。そのP公園のベンチに腰掛けていたのである。そして手帳(「とらぬ狸の皮」)を膝の上に開ひている。目を落としている。なにも変わっていない。影ものびている。
気がつくと木の茂みにとらぬ狸が潜んでいる。あの時の朝と同じようにまた詩人の方に向かってくる。詩人は立ち上り手帳をまるめて投げつけ、さらに手当たり次第に小石を投げつけて追い返す。手帳を咬えて立ち去った後でもまだ止めずに投げ続ける。その様は病的なほどであった。
しかしなぜか空腹に襲われる。空腹であった自分に気がつく。そして、最後に記される一行――「もう詩人ではなくなったのですから、腹のすくのが同然なのでした。」
(メモ)なかなか難解な終わり方である。元凶は「詩人」であったということなのだろう。しかし、詩人でなければ「純粋意識」と一体になれない。これを矛盾とすべきかまでは不明ながら、安部公房の「影」は、まだなにかを語りはじめるに違いない。
◆◇◆◇
――「時計が止まってしまった」のは、無駄な時間を過ごさないようにという警告だったのかもしれません。
そう言って彼は自嘲気味に笑った。母親は同じようには応じなかったが、止まっていたわけではない腕時計を手の平で隠した。もちろん彼の腕時計も止まっていたわけではない。母親の「遊び」に合わせていただけなのである。
――あら、それって(警告って)、私に向かって仰っているの? それともご自分に向かって。
――もちろん、自分に向かってではありません。お母さんに向かってです。言うまでもありません。
――ところで、その「お母さん」という言い方、なにか抵抗感がありません。
――たしかに、僕もそう思っていました。ではヨウコさんでは? 漢字では「影の子」で「影子」と書きますが。「陽子」ではありません。
――カゲコと読まれてしまいそうですけど。そうでなければエイコと。
――でも最初からヨウコと読んでくれる方もいるかもしれません。お友達になれる方かもしれません。そんなつもりでお勧めするのではありませんが。
――ではどのような意味で。わたしも「影が薄い」からですか。
母親は笑わないでくださいと彼を諌める。もちろん自身でも笑っている。
彼は「影」の説明をしようとする。でも辞書的で面白くもないかもしれませんがと断る。母親は構いませんと先を促す。
第一義として辞書が掲げるのは「光」。日や月の光。でも強い光ではない。だから「月の影」の類。第二義は「像」。〝川面に影が写る〟の類。〝影も形もない〟も然り。心の中にある姿や形、つまり〝面影〟も「像」の範疇。それが(「像」の義であることで)光を遮ってできる投影としての「陰」の意味としても使われるが、後付け的であること。字解ではもっと明らか。影は景が元(初文)で日光の意。それに「かぎろう」(陽淡)の彡(さん)を付けて「光」と区別されたのが「影」。さらにその延長に「陰」をも派出する。
いずれにしても影子の場合は、「陰」として使っているわけではないこと。また「ヨウコ」と読ませるのは、影向(ヨウゴウ)のように呉音としたかったため。呉音は多く学僧によって学問上(仏教上)に採り入れられたため。〝有徳〟ある母親という字義。その意味での「ヨウコ」。したがって子供を強烈に照らしつける強い陽光ではなく、清影のように優しく子供を包む光として。
――とてもお上手な「皮肉」よね。でも、そう、そう名付けてくださるの、光栄だわ。ではあなたは? やはり「センセイ」?
――ちがいます、『字訓』とかほかに漢和辞典の類とかを図書館で調べてきたんです。お母様、いや「影子」さんがお話があると聞かされたので。きっと「影の薄い」の件ではないかと思い。でもそれにしても変な「図書館」でした。
【影4】村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年(昭和60))(新潮社)
言わずと知れた世界のムラカミ・ハルキの傑作長編小説の一作(最初期の長編)。因みに谷崎潤一郎賞受賞作。40話から成る。作品は村上お得意の「パラレル・ワールド」(二話併行)で、題名はその合作に拠ったものである。すなわち「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」との。「影」は、「世界の終わり」(偶数章)に登場する準主役(あるいはもう「一人」の主役)。主役は「僕」(ちなみに奇数章の主役は「私」)。今、「影」自体を組み込んだ章名を列記すれば次の三話である。
「6 影」「24 影の広場」「32 死にゆく影」。さらに各章に「影」は様々に登場する。以下、さらに長くなるが、三話を核に筋を辿る。なお、「影」のように鉤括弧を付ける時は人称(一人称)としての影である。
とりあえず「6」話(影)から。なお導入部の「2話」(「金色の獣」)は「僕」がやってきた「街」に棲む「獣」の話。「4話」(図書館)は、彼が通わなければならない「図書館」とそこの司書(彼女)との出会いの話。
舞台は「2話」に始まる街。城壁が巡らされている。理由は定かでないが、主人公である「僕」は、ある日(春)この街にやってきたのである。街への入場には条件があった。城門で影を置いておくこと(預けること)であった。鋭いナイフを手にした門番が言うのである。
「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。「影を捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」
僕は影を捨てた。
そして門番はナイフを取り出して、「鋭い刃先を影と地面の隙間にもぐりこませ、(略)影を要領よく地面からむしりとった」のである。引き剥がされた影は、力なくベンチにしゃがみ込む。ここで「僕」と「影」との遣り取りがしばし続く。
こんなつもりではなかったがと「僕」が弁解し、少しの間我慢してくれと「影」に依頼する。いつまでと「影」が訊き返す。分からないと自信なく答える。その姿を見た「影」は、後悔することになるんじゃないか、「人は影なしでは生きられないし、影は人なしでは存在しないものだよ」と、やはり不自然ではないかと「僕」に問いかける。不自然であることは「僕」も認める。でもこの街自体がはじめから不自然だから、「不自然な場所では不自然に合わせていくしか仕方がないんだよ」と諦め顔で言う。「影」は、理屈だと反論する。さらに言う。この街の空気は自分には合わないと。二人にいい影響を与えないと。そして情けないと言わんばかりに言う。
「(略)君は俺を捨てたりすべきじゃなかったんだ。俺たちはこれまで二人一緒に結構うまくやって来たじゃないか? どうして俺を捨てたりしたんだい?」
「僕」は「また一緒になれるよ」と気休めにもならない言葉をかける。影は小さく溜息をつく。虚ろに「僕」を見上げる。――「午後三時の太陽が我々二人を照らしていた。僕には影がなく、影には本体がなかった」と詩のような一行の後、たまに会いたい、会ってくれるね、と「影」が言う。「僕」は頷く。
次は門番との遣り取り。門番は大事に預かっておく、と「僕」を慰めるように言うが、さらにこうも言う。まるで監守のような口ぶりである。
「食事も三度三度ちゃんと与えるし、一日一度は外に出して散歩もさせる。だから安心しな。あんたが心配するようなことは何もないよ」
会うことができるかと訊いてみる。返してもらいたい時はどうすればよいのだと確かめる。透かざす門番から言い返されてしまう。この街では誰も影を持つことができない、それに一度は入った者は二度と外に出ることはできないと。
「8」話(大佐)。大佐(退役軍人)と「僕」がチェスをする場面。そこで影が話題になる。大佐から影は取り戻せる可能性ないと言われる。街を出ることもできないとも。影を失ったことを情けなく嘆く若者(「僕」)に大佐は慰めるように自分の時の体験(影喪失体験)を語って聞かす。自分は子供の時だったからそれほど影への執着がなかったこと。それでも影を失くし、さらに影を死なせることは辛いことだと。
影が死ぬ? どのくらい生きられるのですかと訊き返す。「春を二度見る影はまずいない」と言われてしまう。土地柄も合わないし、影には冬が厳しすぎるからだと。ともかく今が一番つらい時だ。やがて忘れることもできる。それは心が消えることですかと尋ねるが、それには大佐は何も答えない。チェスの終盤で影を捨てたことを後悔しなかったのですかと大佐に再度尋ねる。ないと即答される。失くしてもなにも後悔すべきことがないからだ、とその理由も明快であった。
「10」話(壁)。門番のところへ「僕」が現れる。影と会うためである。「影」は門番の仕事を手伝っている。部屋で待っていると影が現れるが、道具を取りに来ただけだと言う。しかし「影」は、出際にそっと耳打ちする。この街の地図を作るようにと。そして秋までに自分に届けて欲しいと。
やがて門番がやってくる。影はまだ仕事を続けている。用件はと聞かれる。「影」に会いたいと申し出る。今は駄目だと言う。「今の季節はまだ影の力が強いからな」と告げられる。「中途半端に情けを移したら、あとあと面倒になる」からだと、あんためのためだからもう少し(影の力が弱まる季節(晩秋ないし初冬)まで)我慢するんだと諭すように言う。
その代わりと言って城壁に連れていかれる。壁の案内である。完璧な「壁」、誰にも何ものにも毀すことのできない壁である。また誰も外に出られない、だから変な気を起してはいけないとも。それに「ここは世界の終りだ」とも。「影」のことは忘れるんだなと。なるほどこれが言いたかったのである。
帰り路、旧橋に凭れかかりながら門番に言われた「世界の終わり」について思い巡らす。なぜここにやって来たのかがどうしても思い出せないことと考え合わせながら。しかし何かの力が働いていたことだけは確かだ、そしてその力のために、「僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ」ということについても。チェスの老人(大佐)に言われた長い辛い冬がやがて到来する、とくに獣には。いや「僕」にとってもと思う。
「12話」(世界の終りの地図)は地図作りについて。「14話」(森)は森の探索について。地図作りの一環として。だが大佐は森と関わってはいけないと言う。とくに森の住人とは。冬の到来を前にして、5、60年に一度の厳しい冬になりそうだと大佐は溜息をつくように言う。「僕」は忠告を無視して森に入ってしまう。長い道を歩き、廃屋や古井戸を発見し、そこにも壁を見出し、壁を見ないようにして(見てはいけないと大佐に忠告されていたので、この忠告は守って)奥深い森をやっとの思いで出てくるが、その夜からひどい発熱に苦しめられることになる。
「16話」(冬の到来)は、影(一般論)に関する記述(大佐からの教示)である。影の死、埋葬、その記録(埋葬や埋葬地に関する記録)。しかしそれは熱が収まってからの話である。高熱は何日も続く。大佐の忠告を無視した所為だった。「壁」に傷めつけられたのであった。大佐は付きっきりで看病してくれる。少し癒えて来たベッドの「僕」に大佐は語りかけてくる。街に入って以来義務付けられている図書館での夢読み作業。その助けをしてくれる若い女性(司書)。大佐は「僕」のなかに芽生えている彼女への恋心を言い当てる。でもあまり深入りしてはいけないとも諭す。
その理由もまた影に繋がっていた。物心つく前に影を失っていた彼女は、そのために最初から「心」も知らない。影がなければ心は育たないからである。彼女には自分を求められてもその意味(心)を解することができない。実は自分(大佐)にもない。ただ自分の場合は年老いてから自分の意志で影を失ったから(影の死を受け容れたから)、「心」を推測することはできる。でも彼女にはそれさえできない。ただ心が失われていても(それでもよければ)彼女を手に入れられないことはない。複雑な思いで黙って話を聴いている。
さらに何日かが過ぎて、「僕」は「影」に地図を渡すべき期日がすでに過ぎていたことを思い出す。怪しまれずに手渡せる方法を考える。思いついたのが靴のプレゼント。「影」が持っているのは薄い運動靴だけである。それでは冬が辛い。その靴底に地図を隠しこむ。もちろん真相は伏せて大佐に届けてもらう。大佐は快く引き受けてくれる。
発熱以来10日後、中断していた夢読みを再会するために図書館に出かける。司書の彼女に会うためでもある。会って影のことを確かめたいためである。「ひょっとしたら僕が古い世界で出会ったのは君の影なのかもしれない」、だから話して欲しいと言う。彼女も実は最初そう思っていたと言う。概ね大佐から聞かされていたとおりであった。17歳の時に子供の時に別れさせられた影が死に、門番が彼女(「影」)をりんご林(城壁のすぐ外側に広がる林)に埋葬したのだということ。またそれまでは「影」は外で暮らしていたのだということ。死にそうになったので街に舞いもどって来たのだということ。そして、「影」とは皆そうしたものなのだということ。
話し終わるのを俟っていたように「僕」は呟く。「そして君は完全な街の住人になったんだね?」と。彼女は応じる。「そう。残っていた心と一緒にわたしの影は埋められてしまったのよ(以下略)」と。
「18話」(夢読み)。作業の後で彼女が淹れてくれるコーヒーの場面。二人の会話。心についての。自分(彼女)に心がないからあなたの心を閉ざしてしまっているのかしら(夢読みが上手く進まないのかしら)と案じる。違う、僕自身の問題だと言う。彼女は続ける。なら、「心というものはあなたにもよく理解できないものなの?」と。次は「僕」が彼女に聞かせる〝心論(こころろん)〟。「不完全なもののように思えるわ」と言われたためである。そうかもしれない、しかし「でもそれは跡を残すんだ。そしてその跡を我々はもう一度辿ることができるんだ。雪の上に着いた足跡を辿るようにね」と。どこかに行き着くものなのかと質される。そして答える、「僕自身にね」と。
「20話」(獣たちの死)は、城壁外で放牧されている獣たちの話。冬を迎え雪の中で死んでいくその姿への哀感と街を離れようとしないことへの疑問。よくは分からないと大佐は言う。ただ、死んだ獣の処理(焼却)は門番の仕事であるということ。焼却前に頭部は切り離され、綺麗に中身を抜かれて古い夢が詰められ、その後で図書館の書架に並べられるのだということ。
「22話」(灰色の煙)。老人(大佐)とのチェスの場面から。獣の死についての遣り取り。なぜ小屋を作ってあげないのか。いやそんなことをしても入らない。死ぬことが分かっていても外にいる。死は(彼らには)救いかしれないのだ。
さらに夢読みの続き場面。作業の途中での彼女との遣り取り。彼女の母親のことについての「僕」の質問。わずかに残された記憶の一つ。母親は唄を知っていたようだということ。「僕」を捉える或る閃き。彼女に唄を教えよう。図書館に楽器がないか尋ねる。彼女は資料室に古いものがたくさんあると教える。二人で探しにいく。結局見つからない。暖かそうなマフラーがカバンのなかに仕舞われていたことが「僕」の頭に残る。
「24話」(影の広場)。「影」への面会を申し出る場面。まずはマフラーから。マフラーを見つけたと「僕」。あれなら構わないと門番。さらに楽器の件。楽器を探しているようだがと門番。この街には楽器は原則としてないが、発電所の管理人に尋ねればなにか分かるかもしれないとの言。その門番に道順を訊き序に管理人についても質す。発電所の場所は森の近くで、管理人は森の人でも街の人でもないとの説明。さらに、森に住む人は? と訊いてみるが、答えたくないというきっぱりとした門番の返事。
いよいよ「影」との面会。案内されたところ(「影」の住んでいるところ)は、街と外との中間地点である。「影の広場」と呼ばれている。そこは、「影を失った人と人を失った影とが唯一会える場所」である。厳重に鍵がかけられている。門番はその鍵を開け、「僕」をなかに導く。「影」の住んでいる小屋がある。入ってみるかと言われるが断る。広場で会いたいと告げる。やがて門番が「影」を連れてやってくる。二人きりにしてやるが、余り長い時間はだめだと言う。「何かの加減でくっついちまうとまた引っ剥がすのに時間がかかるしな」。忠告を聞き終え二人きりになる。
元気か。そんなわけがない。運動は? あれが運動なものか。死んだ獣の焼却を手伝わされているんだ。そして例の地図の話。良く書けていたが時期を逸してしまったと「影」は無念そうに言う。冬となってしまっては逃亡計画も立てられない。逃げ出すつもりだったのか? 当たり前だ。何のための地図だと思っていたんだ。ただ僕は街のことを君から聞こうと思っていたんだ、「何しろ君は僕の記憶のほとんど全部を持って行ってしまったわけだからな」と。「影」はそんな情けない質問を向けられるや毅然として言い返す。
「それは違うね」(略)「たしかに俺はあんたの記憶のおおかたを持ってはいるが、それを有効に使うことはできないんだ。そうするためにはわれわれはもういちどいっしょにならなくちゃいけなんだが、(略)」
だがいまは下手な真似はできない。門番は疑り深い奴だから。ここは「世界の終わり」かもしれないが、必ず出口はあるはずだ。俺(「影」)は必ず探し出して見せる。そして君と一緒に逃げだす。しかし「僕」は弱気になったまま内に籠ってしまっている。彼を励ますように言う。
「俺は迷った時はいつも鳥を見ているんだ」(略)「君もそんなときは鳥を見るといいんだ」
面会時間過ぎる。しばらく会わない方がいいと言う「影」。頷く「僕」。
「26話」(発電所)は、発電所行きの話。彼女は止めるが決意は変わらない。心配だからと彼女も同行を申し出て二人で行くことになる。美しい途中の景色があり、やがて発電所に到着。管理人への挨拶。発電所の説明。そして管理人の生活についての質問。答える管理人。ずっと一人で暮らしている。淋しいなどとは考えたことはない。森の人達と交流は? ない。彼らは森の外には出てこないし自分は自分で入っていかない。どんな人が住んでいるのか。数人なら知っている。石炭掘りとか畠の開墾をする者とか。さらに奥には沢山の人が住んでいるようだが? ここで突然彼女が質問を投げかける。「三十一か二くらの女の人」(彼女の母親)を見かけたことは? 返された返事。「私の出合ったのは男ばかりです。」無言のまま沈む彼女。
「28話」(楽器)。発電所で見出した楽器を仲立ちにして管理人(青年)との遣り取りが続けられる場面。なぜ集めていたのか。自分では弾けないが、そういうものがただ好きだから。ほとんどのものは糸が切れていたり錆ついていたりで音が出なかったが、手風琴だけは音が出た。弾いて見せる。上げると言われる。発電の様子を確かめなければならないと青年が部屋を出ていく。二人だけになったところで少女がそれが楽器なのねと感心したように言う。良かったわねとも言葉を掛ける。でもあの人(管理人)は、「うまく影が抜くことができなかった人」でまだ影が少し残っているだと告げる。だから街には戻れない気の毒な人であるとも。再び青年がたち戻ってくる。持参してきたお礼を贈る。トラベルウォッチ・チェス盤・オイルタイラー。いずれも「資料室」にあったものである。使い方は分かりますか(「僕」)。分からないが教えてもらうには及ばない(「管理人」)。眺めているだけで美しいし、使い方もそのうちに自分でみつけるでしょう(同)。「なにしろ時間だけはたっぷりとありますものね」(同)。
「30話」(穴)。森(の入口)に行ってきたことが夢の中のような出来事に思われる。でも証拠の手風琴がたしかに目の前にある。「僕」は、窓の向こうで穴掘りに勤しむ老人たちの姿を見る。三人だったものが四人になり最後には六人になる。何のための穴か。ゴミ穴にしては大きすぎる。しかも夜になれば雪も降る。朝には埋まっている。怪しみながら手風琴を奏でる。その内にコードらしいコードになるがついに唄にはならない。すべて忘れてしまっていた。管理人の青年を思い出す。美しいものは見ているだけで好いのです、なるほどと。
昼食時に穴掘りは終わり老人たちが官舎の中に消える。後にはシャベルとつるはしだけが残される。やがて大佐が部屋に入ってくる。大佐は穴掘りには加わっていなかった。何の穴ですかと訊く。何でもない穴だ。「穴を掘ることを目的として穴を掘っているんだ」。訝しがる「僕」を前にして、大佐は、「僕」のなかに残っている「心」を指して、「君は今、心というものを失うことに怯えておるかもしらん」と言挙げ気味に言う。その心を捨てればあの穴掘り老人たちのように迷いのない安らぎが訪れるんだがと語り聞かす。
その直後、そう言えばと大佐が切り出す。君の影は元気がないらしい、会いに行くといい。会わせてもらえるんですか。もちろんと大佐は言う。「本人は影に会う権利がある」。しかも影の死は街には厳粛な儀式でもある、門番でも邪魔はできないと。そして肩を叩いてさらに一言――「影というのは人間にとっては最も近しいものだ。気持をみとってやった方があと味がいい。うまく死なせてあげなさい(略)」と。
「32話」(死にゆく影)。衰弱は仮病であったことが判明する。当然のことながら門番を油断させるたである。そうとも知らず門番は彼を「影」のベッドに案内し、「すきに話してかまわんよ」と、前の時とは違って警戒心も解いている。くっつく力も持っていないからと、自分に言い聞かすように言う。
面会に来た「僕」に三日後と「影」は言う。脱出すれば体力も回復する。また一緒になれる。そうすれば君も記憶を取り戻してもとどおりの君自身になれる。しかし「僕」はどこか乗り気でない。もとどおりの自分とは何かと問いかけてくる。彼が迷っていることを知る。彼(「僕」)はこう言う。もとどおりの自分が思い出せない。それに「帰るだけの価値がある世界で、戻るだけの価値のある僕自身」であるのかも。さらに「影」を制して続ける。図書館の女の子にひかれているし、大佐も良い人だし、ここでは誰も傷つかないし、争わない。労働も自分のための労働(「純粋労働」)で強制もない。悩む者もいないと。
「影」は凡そそんなことだろうと思いながらも、説得には時間がかかりそうだと悩む。しかしなんとしても説得しなければならないし、断固として考えを改めさせなければならない。根本から誤っているからである。「影」による長い説得が開始されていく。哲学的であり文学的であり、しかもなによりも倫理的である。以下は遣り取りの要約(箇条書き)。
①この街の「完全さ」(君の言う理想的な社会)は心を失くすことを前提にしていること。
②その方法は自我の母体である影を引き剥がし死なせること(死を待つこと)。
③この街の不自然さは対極がないこと(「逆がない」こと)こと。たとえば絶望・幻滅・哀しみがある故に見出される喜び・至福であること。つまりがこの街に戦いや憎しみや欲望がないということはその逆もないということ。
④心のない人とはただ歩く幻にすぐないこと。そう「彼女」のことであること。
(反論)それでも構わない。彼女といたい。君(「影」)だけで逃げてくれ――「僕」は応じようとしない。
⑤それでは(僕(「影」)だけが逃げたのなら)残された君が絶望状態に陥ること。なぜなら君が知っているように「影」はかならずここで死ななければならないこと。そうでなければ記憶は残され、心を残したまま永遠に生きなければならないこと。しかも森の中で。森とは(ここで)影を殺し切れなかった人々が住む場所であること。
⑥しかも彼女を森に連れてはいけない。彼女は「完全」だから。君一人で森に行かなければならないこと。
(「僕」)心が揺らぎ始めるが、まだ街の「完全」に拘り続ける。そして訊く。では「人の心はどこにいくんだい?」と。
(「影」)呆れかえる。それこそが君が来た時から続けている「夢読み」だろう、分からずに続けていたのかと。知らなかったと答える彼に「影」は、最後通牒を突きつけるように事の次第を語って聞かす。
⑦「心」は獣によって壁の外に運び出されること。つまり獣は人々の心を吸収し回収し外の世界に持っていくこと。
⑧そして冬になるとそんな自我を体の中に嵌めこんだまま死んでいくこと。
⑨彼らを殺すのは冬の寒さではなく、街が彼らに押しつけた自我の重みであること。春に子供が生まれても、またその子供も同じ重みを詰め込まれやがて死んでいくこと。
⑩それが「完全さ」の代償であること。
⑪その手順は(君もよく知っているように)門番が首を切り落とし、中身を綺麗にし、一年間地中に埋める。頭骨の中にはしっかりと自我が刻みこまれているから、それを地中で静めるためである。後は図書館に移され夢読みの手で大気に放出される。つまり君のしていることとはそうしたことにほかならないこと。
⑫しかもそれが、まだ影の死んでいない新しく街にやって来た人間が就く役目であること。
⑬君はまさにアースであること。夢読みに読まれた自我を大気に放出するための。つまり「古い夢」と言い聞かされ日々続きてきたことの、まさにそれが真実の姿であること。
(「僕」)「明日の三時半に来るよ」「君の言うとおりだ。ここは僕のいるべき場所ではない」
「34話」(頭骨)。彼女に告白する。ここを出る(脱出する)ことを。「影」とともに。君とはもう会えないとも。打ち明けられた彼女。その「動揺」が彼女のなかに再び母を思い起こさせる。母には心が残されていたこと。そのために森に去らなければならなかったこと。そのことを記憶のようにして覚えていたこと。聞かされた「僕」。啓示のように一つの予感が彼を捉える。彼女は「心」と繋がることができるのではないかと。彼女は疑う。では私にはまだ心が残っていたと言うこと? と。違うと彼。それではとうの昔に「壁」に見つかっていたはずだし、事実君の「影」が「リンゴの林」に埋葬された記録は残されている。そうではなく、母親の記憶が媒体となり、心の残像か断片が君を揺さぶっている、だからそれを辿り直せば、何かに行きつけるかもしれないということ。でもそれを夢読みから辿り着かせようとするのは、やはり困難である。彼女は絶望的になる。彼は言う。「書庫に行ってみよう」と。
「36話」(手風琴)。書庫の中。「僕」は感じる。彼女の心を読むことができると感じる。でもそれ以上に前に進まない。読むための具体的な方法が見出せない。彼女が質す。最近起こったことに鍵があるのではと。言われるままに「僕」は身辺の出来事を辿り直す。そのつど彼女が判断する。やがて手風琴に思い至る。それよ、と彼女。唄よ。それが母に結びつき、さらに「私の心のきれはし」に結びつく。「そうじゃない?」
「僕」は持参してきた手風琴を弾く。思い出せる限りのコードを弾いて見る。音階を押さえてみる。かといってメロディーが浮かんでくるわけではない。ともかくなにも考えず流れてくる風のように音を奏でる。そうだ風になる。風に心を任せる。風になって街の中に思いを巡らす。思いつくままに街の風景を受け容れる。住人達の顔を思い浮かべる。愛さえ感じるではないか。いや愛しているのだと気づく。
その時、なにかが心を打つ。一つの和音が「僕」のなかに残る。その和音に引きずられるように新たなコードを探り出す。音を紡ぎ出す。気がつくと唄になっている。『ダニー・ボーイ』だった。良く知っている唄だった。題名を思い出すと自然とメロディーが流れ出てくる。再び音楽の中に街を感じることができる。手風琴を置く。彼女が涙を流している。その涙を軟らかい光が包んでいる。光? 書庫の電灯ではなかった。電燈を消してみる。光っていたのは書庫の棚に並んでいた頭骨だった。美しい眺めだった。頭骨の一つを手にとって指先で表面を撫でる。彼女の心があった。感じることができた。
「38話」(脱出)。脱出が敢行される。門番小屋から鍵の束を取る。影の広場に入る。「影」が横たわる小屋の地下に下りる。来ないかと思ったと「影」。さらに「影」は言う、実は思っていたより弱っていると。逃げられそうにないと。「僕」は「影」を担ぎ上げ、広場に出ると今度は肩を貸す。何処に向かえばいいんだ? 「僕」の質問に「南のたまりへ」と「影」は答える。遠い。でもそこには「出口」がある。直感で分かったんだと「影」は話す。「僕」は「影」を背負う。長い道を歩く。丘の斜面を登る。息が激しく切れる。門番は昨晩の大雪で死んだ獣たちを焼却している。その灰色の煙が空に立ちのぼる。急がなければならない。もうすぐだ。丘さえ越えてしまえばもう僕らには追いつけない。自分たちが生きるべきもとの世界に通じる出口がそこに必ずあるはずだと。「影」は強く確信していた。
「40話」(鳥)。最終話。二人は南のたまりに辿り着く。いよいよ脱出である。たまりの水の水面を二人は見つめる。「これが出口だよ。間違いない」「俺たちは鳥のように自由になれる」と「影」が言う。さあ飛び込むんだ。お互いのベルトとベルトを結び合わせて。「影」は促す。しかしその最後の瞬間になって「僕」が告げる一言。「僕はここに残ろうと思うんだ」。茫然自失する「影」。この期に及んで今さら何を。「よく考えたことなんだ」と言う。どうしても残らなければならないと言う。なぜだ? 彼女の心を見つけたからか? それもある。でもそれだけではない。この街を作りだしたものがなんなのかを発見した、そのためにも残らなければならない義務がある、「僕」は今や決意にまで固められていた思いを伝えようとする。そして、君(「影」)もそれを知りたくないのかと。しかし、「影」は疾うに知っていたのである。この街を作っているもののことなど。知らないのは彼だけであった。「影」は言う。
「知りたくないね」(略)「俺は既にそれを知っているからだ。そんなことは前から知っていたんだ。この街を作ったのは君自身だよ。君が何もかも作りあげたんだ。壁から川から森から図書館から門から冬から、何から何までだ。(略)」
「僕」は言う。なぜ教えてくれなかったのかと。教えてしまえば君は残ろうとする。どうしても君を外に連れ出したかったからだ。ともかく教えたら君はいっさい僕の言うことはきかない。だからだと。なら、なおさら「僕」はここに残らなければならない。自分が作りだしてしまったものに対する責任として。「ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕の中を流れる川で、煙は僕を焼く煙なんだ」、そうなんだろう。もちろん君(「影」)と別れることは辛いが。
「影」は引き下がる。分かった。でも森の中の生活(彼女との生活)は辛いものになるだろう。それに永遠に出られない。それもよく考えたと「僕」は応じる。でも気持は変わらないわけか? 「変わらない」。
「そろそろ行くよ」と影は言った。(略)「君のことは好きだったよ。俺が君の影だということを抜きにしても」
「ありがとう」と僕は答えた。
「影」はたまりに呑みこまれる。「僕」は長いことその水面を見つめる。「影」を失って「僕」は、「宇宙の辺土に一人で残されたような」気分に囚われる。ここが(残ったここが)「世界の終わり」であることをあらためて強く意識する。たまりに背を向け、やおら西の丘を目指して歩みはじめる。その向こうには図書館で「僕」を待っている彼女がいる。その時だった(巻末の一行)。
降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。
※◆◇◆◇※
母親(影子)は、笑いだした? 彼が彼女の影を踏み始めたからである。母親も体を左右に不規則に傾けて、彼から影を逃れさせようとやっきになりだした。息が切れる。彼は大きく踏み出した脚に体重を掛けながら胸に手を遣って心臓を押さえた。
――もう終わり?
――負けました。僕の負けです。
――じゃ交替なさいますか?
――いやいいです。負けたままで好いです。
――そんなことだと、また「影が薄い」と言われてなくて?
彼は頷くように微笑んで見せた。母親が手を差し出した。握手を求める手だった。彼は姿勢を整えて、その手に手を差しのべた。
母親は、違うわよ、と微笑みながら言った。彼の視線を影に向け直させた。さあ、と再び彼を促した。彼は徐に「影」の中に手を差しのべた。