一回りした後、いつものように表通りに出る。と言っても片側一車線のありふれた道路である。両側の歩道が割に広い。
珍しく渋滞している。どうやら1台の貨物車のためらしい。積み下ろしがなかなか終わらないのだ。知ったことかと運転手は脇を通る車を無視している。助手らしき若者が頭を下げている。最後の荷物らしいダンボールが下ろされる。荷台の扉が閉められたからである。しかしその後ビルに入っていった運転手はなかなか出て来ない。入りこんだきり姿を現さない。
5分はとうに過ぎた。助手の若者はビルの入口を見つめながら落ち着きなく体を左右に揺らしている。なかには窓を開けた通過車がどなり声を上げている。向き直ることもできず、すこしだけ体を道路側に向けて頭を気持下げる。運転手が居るのは3階か4階のようだった。助手が見上げている。
助手は片手を固く握り締めて、片方の手の平に拳を打ちつけている。続いて両腿を揉み解すよう上下に摩ったり手の平の脇で小刻みに叩いたりしている。軽く跳躍もする。足首をほぐしている。しかし別に何かのトレーニングに励んでいるわけではない。ただ単に運転手に業を煮やしているだけである。本当に何をしているのだ。お茶を出されて飲んでいる? ホンマかよ、ヤメテくれ。
ビルの窓には多数の広告が貼られている。小さな会社で埋まったテナントビルだった。どの会社もデサイン関係のようにも出版関係にもあるいはモデル関係の事務所のようにも見えた。その一つの事務所の窓には、女の艶めかしい姿態をデフォルメしたポスターが貼られている。微妙に姿態の一部を変えながら同じポスターを連続して貼り込んで、動態化した一続きの横長の図案にしている。色合いも微妙に変えている。ビルの窓枠はさながら額縁のようだった。怪しいビルをさらに怪しくしていたが、センスのある窓が並んでいる。ビル全体で図案や色遣いの取り決めでもしているのだろうか。
我慢がならなくなったのか、助手は、ビルの入口に向かいかけた。しかしすぐに思いとどまって踵を返すと、車に乗り込んだ。背中を射る抗議の視線にいたたまれなくなったのだ。助手がクラクションを鳴らす。でも遠慮気味に1回鳴らしただけだった。
それでもそれが合図になったのか、窓が少し開けられた。配達先は3階だった。でも顔を覗かせたのは若い女性だった。クラクションを鳴らした車を確かめている。やはり停車中の貨物車から鳴らされたみたいだった。でも取り締まりを報せるクラクションではないみたいだ。ただ助手席から助手が見上げているだけだった。目線でお互いを確認し合う。助手席の窓から腕を突き出して腕時計を上に向けている。その文字盤に指が突き立てられている。女性が同じ動作をした。了解、伝達するわという合図だった。
でも下りてこなかった。さらに5分が過ぎようとしていた。助手は裏切られた。でもKa子には幸いした。待っていた甲斐があった。やってきたのだ。お待ちかねのミニパトが。ミニパトの到着に照準を合わせて先回りしていたのだ。表通りに接続するすぐ脇の横道で何台かの駐車違反車の処理が行なわれていた。終わる頃だと思っていた。時間どおりだった。
その貨物車は、まるで自分の番が来るのを待って、前の違反処理が終わるのにタイミングを合わせているかのようだった。見事なまでの駐車(停車)状態だった。ミニパトが満を持して真後ろに車体を寄せる。(引き続き)仕事、仕事! 赤色灯の回転は誇らしげだった。まず助手席側の婦警が先に下りる。貨物車の運転席側に廻りこむ。徐に中を覗きこむ。運転者不在を確認し直ちに時刻を確認する。そして辺りを見回しながら、おそらくこのビルねと中りを付ける。今や自分の車でもある違反車の傍らに佇む。確実に過ぎていく婦警の腕時計の針。針の動きを覗きこむ道路交通法の番人であり違反取締りの執行者。あとは来るべき時間がやって来るのを待つだけだ、婦警もそしてKa子も。
Ka子は自称「記者」だった。婦警を追っていた。駐車違反の多い一角だった。レッカー車に牽かれていく車両も少なくない。作業中に慌てふためいて戻ってくる運転手も何度も目にした。でも婦警は有無を言わせず運転手の目の前でレッカー車に指示を出す。さあ行って(牽いて行って)! 手渡される違反キップと車輌預り証。睨みつけるドライバー。中には税金ドロボー(!)とお決まりの悪態の嵐。そんな悪態にもとっくに馴れっこになってどこ吹く風。冷徹な微動だにしない鉄面皮の女子。
しかし今日の事案はそこまではいかない。違反キップを切ろうとしているだけだった。運転手が駆け寄ってくる。助手の姿が見えない。誰もいないことが理解できない。乗っていなければならない。ミニパトが来たら助手は移動する手はずになっていた。一周して戻ってくる。ダメならもう一周。何周だってする。と言ってもたかだかこの一角を一回りするだけだ。最初の四つ角を曲がりさえすればいいのだ。それに2t車だ。運転免許証を持っていれば助手にもできる。10代からコロガシてましたから。運転を代わってもいいと思っていたぐらいだったかもしれない。ともかくそんな手筈だったはずだ。でなければ携帯電話で知らせるか、クラクションを決まった回数鳴らす。あるいはすぐ呼んできますからと断って直接知らせに行く。
その助手がいないのだ? いやいた。近くのビルの物陰から成り行きを見守っている。なぜだか知らないが持ち場を離れたのだった。戻ってみるとすでにミニパトが貼りついていた。婦警は違反キップを片手に腕時計を覗きこんでいる。本当なら無人車輌でないことを即刻示さなければならない。すぐ戻って来ますから(少し待っていてください)と言わなければならない。
それが顔を出さないし、何も言えないでいる。言えないのではなく意図的に言わない、そうだとすればその向こうには見えない何らかの人間関係が関与していることになる。運転手へのはらいせだ。
でもそれとも少し違う。頭を下げたくないといった感じである。別にキンキンの茶髪だからというのではなく、むしろ茶髪なのにどことなく弱々しい感じだった。髪型も毛染めも我が身を見抜かれないためだった。言葉が出せない、出し方を知らない。オニイチャンらしい態度で婦警と会話が保てない。端から言い負かされてしまう。しょげ返るしかない。そんな惨めなところ見せたくも見られたくもない。そんなの時給外だ。知ったことか。
なるほど運転手が慌てているのに薄笑いを浮かべて見ている。婦警が、スピ-カーで呼び出しましたが聞こえなかったのですか、と質している。聞こえなかったのだ。安心しきっていたのだ。なんという薄気味悪い表情だ。不誠実な奴。蹴飛ばしたくなる奴。引きずり出して詫びを入れさせたくなる奴。運転手に怒鳴りつけられているところを撮りたかったが、止めた。気分が悪い。Ka子はカメラを下ろした。
婦警は表情を変える、変えない? 職業は人を変える、変えない? 婦警は特別。いざとなれば逮捕さえできる。表情では表せない力の源を持っている。婦警に表情は必要ない。ますます婦警になりたい。なる。ならなければならない。
――ドウシマシタ?
言い争っている男(2人)/女(1人)に婦警は割って入る。人通りの多い商店街。アーケードを行く人が成り行きを見守って少しずつ人垣を作っていく。どうもナンパを撃退しようとしているところだった。凄い女性だ。まだ若い。20歳前かもしれない。婦警はたまたま通りかかっただけ? 「獲物」を狙っていたのではなくて……?
婦警に向かって男たちが喚いている。このスケがつけ上がりやがってとか、ヤカマシイ気ちがいザルめとか、野放しにするなとか、オリに入れとけとか。
肩に手を掛けられたので振り払いました。何度も。止めないのでバックを振り回しました。当たったようです。このアザどうしてくれるって脅されています。
――正当防衛ノハンチュウ、デショウ。問題ナイワヨ。ソレヨリバックハ? 毀レテナイ? 毀レテイタラ損害賠償シテモラエバ? ソウスル?
婦警は若い女性のバックを手にとって角のへこみを確かめる。男たちがふざけるんじゃねえ、と怒鳴りまくっている。
――迷惑条例違反or軽犯罪法違反デスマセルコトモデキルワヨ。ソレトモ傷害罪ニスル。
今度は女の子の手を軽く取って、その「程度」を眺めまわしていた。女の子の手首が赤くなっていたからだ。男たちに引っ張られた痕だった。少し腫れ気味だった。
――デモダメソウネ。ヤハリ現行犯逮捕カナ。
そう言うと、腰に手を回し、伸縮式の警棒を取り出した。警棒は小気味よい音を立てて三段に引き伸ばされた。さらに肩の無線機に手を遣って、大きな声で――コレカラ傷害罪ニカカル被疑者男性二名ノ現行犯逮捕ヲ実行! 至急、応援ヲ乞ウ! と告げると、若者二人に向かって、ソコ動カナイデ!! とさらに大きな声で命じた。
(男1名)なにが傷害罪だ!
(連れの男1名)なにが逮捕だ!
そう叫ぶが早いか人垣を割って脱兎のように一目散に走り去っていく。
ムダナコトヲ……。逃げていく二人に向かって婦警が呟く。どことなく嘲笑っている。警棒を片手にした婦警は、その後も口元を固く閉じることがないのであった。
――ドウナサイマシタ?
交番に訪ねて来た一人の老女。少し腰が曲がり気味。
――ナニカオコマリデスカ?
そう困っているの、と頷く。でもなんとなく眠そうな表情で体もしんどそうにしている。婦警は交番の中に老女を招き入れ、椅子を勧める。老女は大きくお辞儀して、すまないわね、と言って腰を下ろす。
すこし落ち着いてきたのか、それとも慣れてきたのか、しきりと交番のなかを見回しはじめる。なにか気にかかるようだった。一つ一つ確かめるように頷きながら、あるいは疑うように首を傾げながら、一渡り見回すと最初に戻る。そして再び見回しはじめる。
――どうもここではなさそうね。
すると、今度は体を傾け、対座した婦警の脇から奥を覗きこむようにして、
――でも奥の部屋がそうなのかしら、と続ける。
――ナニガデスカ?
――天国ですけど。
そう言って老女は婦警に向かってにこにこ微笑えむ。
――天国ヲオサガシデシタカ?
――ええ朝から。ずっと探していますけど、一度行ったことがあるのですぐ思い出せると思って出て来たのですが、ダメね、年を取ると物忘れがひどくなってしまって。
そう言うと、手提げ袋の中から何かを取り出す。黄ばんだ一通の郵便封筒だった。
「その節はたいへんお世話になりました。当方、閑日月を持て余しております。ご都合がつきましたらまたいつなんなりとお運びください。お待ちしております。新茶も入手しました」
封筒同様に相当に古びた便箋だった。それに紺色のインクも黒ずんでいる。でも達筆。その一節だった。老女は頬を薄く赤らめた。恋文だった。そうだったが、そうとは告げなかった。
――ゴ主人カラノ御手紙デスネ?
――ええ。そう言われればそうですが、でも私は独身(ひとりみ)ですよ。いっしょにはなりませんでした。それで良かったんですよ。お互い信頼し合っていたんです。困ったことがあれば助け合いました。夫婦以上にね。ずっと心を分かち合っていました。一緒にならなくたって幸せというのは平等でしてね。かえって沢山もらうことだってあるんですよ。私がそうでした。抱えきれないくらいでしたよ。預かってもらっていた程ですよ。無二の親友にね。彼女あまり幸せではなかったので。立派なご主人もお子さんもお持ちでしたけれどね。使い切ってしまっても構わないわよ。そう言っておいたけど、使ってくれたかしら? 使ってくれたわよね。穏やかな死に顔でしたからね。
でもまだ残っているの。もう使え切れないし、この歳でしょう、それに忘れっぽくなってしまったでしょう、気がついたらみんな忘れてしまっているのでは嫌なの。どなたかもらってくれないかしら。そうでなければ寄付したいの。ここでもできるのかしら、寄付?
――オトシモノデシタラデキルノデスガ……。
――落とし物? そうじゃないわよ。落とし物とは違うでしょう。
――ソウデス、チガイマス。オバアサマノオ心ノ中ニアルモノデス。失礼ナコトヲ申シ上ゲマシタ。オ許シクダサイ。
――私の周りには優しい人ばかり。今日もまた会えたわね。元気が出たわ。じゃ探しに行くとしますか。道順も思い出したわ。あなたのお陰よ。
――ドウシタノ?
子供(小学低学年の男の子)が足許にまとわりついている。半べそかいている。
――転ンダノ? 違ウノ。ナニカ失クシタノ? ソウジャナイノ。ジャドウシテ泣イテイルノ。男ノ子デショウ。女ノ子ノ前デ泣イテハダメヨ。
もう一人の子(同年齢の女の子)が、「いえば」と言って肘で脇腹を突いている。「さあはやく」と言っている。
――かして。
男の子は意を決したような声で言う。でも上ずった声になってしまう。だから「けして」とも聞こえる。
――貸シテ? ト言ッタノ。
男の子は頷く。女の子も後追いするように頷く。二人は婦警の腰許をじっと見つめている。実はさっきから見ていた。
――ピストル貸シテ欲シイノ?
二人は同時に頷く。
――ソウイウコトネ。イジメラレタンダ。ソウヤッテヤッテ来ル子ガタマニイルノ。ソウナンダ。
男の子は憤然となる。
――ちがう!
女の子が補足する。相手は3人で、一つ上で、一人は「飛び道具」持っていて、急に襲いかかってきて、ともかく卑怯でと、さらに云々と。
――ソウ、ソレワ悪イヤツラネ。イジメッ子達ナンダ。
女の子がまた補足する。違う、って。3人の一人(主犯)がわたしに気があって、わたしがあいて(相手)にしないでむし(無視)したら、しつこくなって、わたしのことつけまわして、ストーカーみたいになったの。だからこの子をボディーガードにさいよう(採用)したの。そしたらかんちがい(勘違い)して、オレのオンナに手をだすなとかわめいちゃって、はずかしいったらないから、つばは(吐)いてあげたの。そうしたらますますきょうぼうか(凶暴化)して、このままではあぶないから、じゃわたしたちもぶそうか(武装化)しなければと話し合っていたやさき(矢先)だったの。せんて(先手)をうたれてしまったの。ひきょう(卑怯)にもすけっと(仲間)までたのんでね。
――使イ方ムズカシイノヨ。
――ぼくいっしょうけんめいならう。とっくんして。
――ないとナンダ。キミハ。若い娘(こ)ヲ悪人タチカラ守ル中世ノ騎士ノコトヨ。カッコイインダ。
――なる、なるよ、キシにね。ぼくぜったいキシになる。
――困ッタナ。騎士ハピストル持ッテイナイヨ。未ダピストル無イ時代ダカラネ。
――なくちゃイヤだ。あいつらもってるんだから。じゃたいほしてくれる。
――ソレハダメ。自分ノ力デナントカシナケレバ。ソウダ、騎士ハ剣ヲ持ッテイルヨ。剣ニスレバ。ソウシナサイ。ソノ方ガズットカッコイイシ。オトコ(の子)ラシイシ。
――かてるの、けんで?
――勝テナクテモ好イノ。勝テナクテモ負ケルコトハナイノ。ソレデ好イノ。剣ヲ持テバ分カルワ。ピストルヨリ強イノヨ。ホントウハマルゴシ(丸腰)ナラモット好インダケド。
婦警はそう言うと、腰ベルトを外し、ロッカーにしまって鍵をかけた。
――コレデ丸腰ニナッタワ。ドウ弱ソウ? タメシテミテ。
両手を後ろに回して腰の高さで組み、肩を張って、顔面を反らし気味に不動の姿勢をとる。二人が下から見上げる。やがて男の子が横から押す。片側からは女の子が押す。揺るがない。毅然として前を見据え続ける。二人はさらに力を入れて押し込んでくる。
交番の前を行く人たちが笑いながら通り過ぎていく。
肩から下がった70~200mm(F2.5)のズームレンズを装着した一眼レフカメラ。カメラバック用のナップサックには広角レンズと接写レンズ。白黒フィルムを装填した別の一眼レフ。フィルムはISO100のリバーサルフィルムが数本。ISO100と400の白黒ネガフィルムが2本ずつ。後はレンズフィルターとエアーブラシほかのレンズクリーニングキット。雨合羽。撮影手帳。その他小物入れ。バックの脇ポケットには簡易三脚を挿しこんでいる。
歩く。その先に被写体が現れる。現れるのを待っているのは、私ではなく被写体の方。被写体が私を待っている。私は私(事前の私)を失う。失うために歩く。カメラのなかに実態が撮りこまれる。詰まっていく。撮りこまれ詰めこめられた実態が独りで歩きだす。私はもういない。不在。連れ歩かれている。気が付くと首から下がったカメラが私を吊り下げている。私はもっと重くなっている。
――出身校の後輩の前でKa子は喋る。Ka子の個展に合わせた関連した講演会だった。講演会といっても聴衆は後輩のほかに数人の教員と若干の卒業生たちが加わった程度で、20人にも満たない。出身校の大学校舎内で行なわれた個展だったからである。個展は、卒業生を中心にして定期的に開催されていた。講演会も付属行事だった。交流会を兼ねていた。
普段喋ったことのない慣れない45分間のスピーチだった。
[Ⅰ カメラとの出会い/Ⅱ 在学中に学んだこと/Ⅲ 仕事とカメラ/Ⅳ 私とカメラ]
在学中からあまり目立たない学生だった。活動も単独だった。合評会でも寡黙だった。気がつけばそこに出席していたのが確認されるような、空気も揺るがさない女子学生だった。
中学の時にカメラと出会った。父親がカメラを趣味にしていたからである。その延長だった。高校で小さな写真コンクールに入賞した。写真科のある芸術系の大学に入学した。父親は喜んだ――[Ⅰ カメラとの出会い]
個性的な人ばかりだった。先生方はもっと個性的だった。コンパでは1年次から写真論を振りかざす人ばかりだった。それに見合う勉強もしていた。写真史にとびきり明るい人もいた。メカにものすごく詳しい人もいた。写真展に足繁く通っている人もいた。そう言う人は何人もいた。目標を高く掲げている人たちばかりで、みんな輝いていた。私だけがどこにも属していなかった。だから学ぶことばかりだった。でも学ぶたびに自分が少しずつ欠けていった。欠け終わるとちょうど卒業だった。何も残っていなかった。それが在学中に学んだこと。無くなることだった――[Ⅱ 在学中に学んだこと]
卒業して会社員になった。写真スタジオの助手の話があったが、自信がなかった。紹介してくれた先生も、その方が好いかもしれないと言われた。
写真とはなんの関係もない輸入品関係の会社だった。大きな会社ではなかったが、中堅で大手商社がバックに付いていた。だからかお給料も悪くなかった。仕事は単純だった。写真を撮るより簡単だからと笑いながら言われた。商品の注文を電話やメールで受けて配送係に回す、それだけの仕事だった。ほかにも単純な仕事はあったが、決め手は「声」だった。録音テ-プを回しているような声で、無機質で愛想に欠けていたが、私の担当していた顧客は取引解除の心配ない固定客ばかりだった。愛想より間違いが生じないことの方が重要視されていた。ミスが起こりにくい声(話し方)だと言われた。
2年間、同じことの毎日だった。人事課が見抜いたようにノーミスだった。それがミスを起こした。即座に自分でないと分かった。配送課のミスだった。でも私の所為ということになった。私はそれが言い返せなくて、言われるままに配送課に謝って、上司に連れられてお得意先の顧客に謝りに行った。結構大きな額だったからだ。
でもそのお陰で友達ができた。配送課の女性だった。私より1年先輩だった。私が回付した受注伝票をもとに係りの数人で配送品を揃えて配送便に出していた。その後、受領伝票を委託の運送業者の配送員から受取り、確認後、パソコンに打ちこんでいた。私より複雑だったがそれだけだった。彼女の係内のミスだった。彼女は上司に申し出た。上司が内の課ではそんなミスは起こさない。起こすわけがない。そう言い張ってKa子がターゲットに祭り上げられた。歳だけはいっている古参課長だった。Ka子の課の課長は、歳の差もあって配送課の課長には強く言い返せなかった。
彼女は心から謝った。彼女のミスではないのに自分のことのように謝る。私は心から平気よと言った。伝わった。彼女の心が軽くなるのが分かった。それが気持よかった。私たちはしばしばお昼を一緒に食べるようになった。天気の好い時は近くの公園で食べた。たくさんの話をした。一生分した。喋りすぎて恥ずかしくなった。でも彼女は、そんな私におしゃべりなんかじゃないと言ってくれた。いままで言いたいことが伝え切れないで溜っていたんだと教えてくれた。
写真の話をした。会社のなかで写真の話をすることはないと思っていた。課のなかでは写真科を卒業していたことも顧みられないで無趣味の人で通されていた。無趣味が趣味ねとからかわれてもいたが、それも数か月もしない内に潮が引くように自然と私自体への関心が遠退いていった。もちろん写真を趣味に格下げしたわけではなかったので、そうだったわ、写真が趣味よね、と言われるよりましだった。
彼女は興味深げに聞いてくれた。何かしている人ではないかなと思っていたと私の第一印象を話してくれた。写真を見たいと言ってくれた。土曜に渋谷の松涛美術館で落ち合った。見たい展覧会があったからだ。彼女も美術に関心が高かった。あの2階(「サロンミューゼ」)、落ち着くわよね。知っていた。そのゆったりしたソファーに横並びで作品集を広げた。食い入るように見てくれた。陰影の強い地味なモノクロだったが、気に入ってくれた。次はカラーも見てもらうことにした。
在学中ではなく卒業後の写真だった。土日曜や祝祭日に私は、用事がない限り街中に出かけて行った。ただ撮った。理由より先に撮っていた。そんな撮り方だと日々の仕事のストレスを解消していただけではないかと言われてしまう。自分でも思わないわけではなかった。でも在学中のいつでも自由に写真を撮れる時とは違って、1週間のなかの限られた時間しか使えなかったのだ。あとにはもっと長い別な時間が待っていた。
ともかく朝から夕方まで同じ部署にいて、ほとんどの事務作業は社内メールの遣り取りで済んでしまう。お昼も外食に行かないで、母に作ってもらったお昼を独りで食べる。たまに外に誘われても食べ終われば、休みたいからと先に席を立って課に戻る。嫌われているわけではないが、誰も引き止めない。わたしには喜怒哀楽の表情がないから。
彼女とお昼を摂るようなっても似た者同士で摂っていると思われているだけで、課員を蔑にしているとは思われなかったし、「ああそういえばこの頃〝お留守番〟してないわよね。いいんじゃない課長がいるんだから」と思い出したように言われるだけだった。夕方は残業がなければ定時で退社した。この繰り返しだった。
でも会社にいる間の自分のことをそう悲観的に思いつめていたわけではない。私はいつでも被写体を探す側に立っていた。何処にいても気持は「写真家」だった。自分に向かっても同じだった。自分を例外扱いにしたことはない。仕事中の自分の顔への関心は、かえって写真家としての自覚を高めた。これも在学中にはなかった写真的な関心だった。
ところで私は、学生時代もそうだったように今もほとんどノーメイクだった。肌がきれいだからその方が好いわよと母親は言ってくれた。嘘だった。そんなにきれいだとは思わなかった。普通だと思っていた。母は変に気を回していた。年頃になっても恋愛感情に希薄なままだったからだ。でも優しい母だった。そう、と言ってお母さん譲りねと返した。
でもメークのことが気になりだした。例の「ミス」からである。
これが謝った顔かね、課長さん? お得意さんはそう言いたげだった。
課長どうでした? 課の皆が戻った課長に尋ねた。課長は丸印をして見せた。私の労を皆の前で労った。そう、それはお疲れ様でした。課のみんなが疑わしい顔で私の方を向いた。私は黙って頭を下げた。
次の日の昼休み、誰も見ていないところで、課長にお菓子を届けた。課長は困惑していた。受け取りを拒んだ。そもそも配送課の課長に充分反論できなかったのが悪かったのだからと言った。でもそれ以上に課長の思い遣りに応えたかったからだった。
男性に自分の気持を伝える経験がなかった私は、「品物」を突き出したままほとんど直立不動の体勢だった。課長は微笑みながら受け取ってくれた。メッセージを添えておいた。本当はこれの方が大事だった。メークなしで顧客先に出向いてしまったことを詫びる内容だった。それじゃノーネクタイと同じ。戻って来た私に対する同僚の女子社員の反応を見て、そんなふうに咎められている感じがしたからだった。
それから1週間ばかり彼女との昼食を断って課に残った。昼食後、誰もいない課のなかで私は社内メールを課長に送った。課長はすぐ読んでくれた。
――今度は抗議します、課長にはご迷惑かけません、配送課の彼女とはそういう取り決めになっています。彼女も課長が内の課の課長だったら良かったといつも言っています。
すぐ返事が来た。
――君に気を遣わせてしまって申し訳ない。大丈夫、そういうことがまたあったら、今度は僕がはっきりさせるから。悪い人ではないが、誰も何も言わないからかえって依怙地にさせしまう。大先輩だが彼のためにも一度言わなければならないと思っている。ともかく君に2度も厭な思いをさせてしまった。まったく上司失格だ。それに例のメッセージだけど考えすぎだよ。メークのこと。いつまでもノーメイクでいて下さい。素敵ですよ。君らしいよ。ともかくありがとう。
私は課長を見るようになった。だんだん違う見かたになった。不安になっていった。
思い切って彼女に相談することにした。彼女は頷いてくれた。言ってもらいたかったように言ってくれた。言い当ててくれた。どうしてよいか分からなかった。アドバイスを求めてしまった。
写真でも撮ればと言われた。貴女を一番よく分かっているのは貴女自身ではなくカメラの方。違う? 彼女はあっさりと言い放った。気を紛らわせるためではなく、自分の気持ちを整理するための最短距離として。課長の写真を撮れば(撮らせてもらえば)と言うのだった。
結局、人事異動で課長はいなくなった。定期異動ではなかった。支社に不都合が生じたためだった。課長は立て直しを命じられた。支社長への抜擢だった。私はほっとした。安堵している自分に驚いた。結局、写真は撮らなかった。向けられなかった。思い出にと申し出ようとして躊躇った。課長を撮るのではなく自分の気持ちを撮るだけのような気がしたからだ。こんな想いでファインダーを覗いてはいけない。
撮らなくてよかった。課長の表情が私のなかに焼き付いていたからだ。課長がいなくなって分かった。私は撮る前に印画紙になっていた。はじめから焼き付けられている印画紙である。撮影以前である。
すこしずつ気持が落ち着いてきた。私のなかの印画紙からも被写体が消えていった。焼き付け前に戻っていった。1か月ほどして転勤した課長から課宛に写真を添付したメールが送られてきた。回りに連なる山々の綺麗な地方都市だった。心機一転、頑張っていると書かれていた。出張時には驕るよと書かれていた。美味しそうな郷土料理が写されていた。
私宛に別のメールが送られてきた。支社にはノーメイクの女子社員がいない。いつも朝、君のノーメイクの横顔を見ると元気が出た。懐かしいと書かれていた。僕の立場でこんなことを書くのはいささか問題なのだが、君のノーメイクはこの会社には似合わない。もったいないという意味です。いつか君と写真の話をしたいと思っていた。やはり君のノーメイクにはカメラ姿が似合う。とくにファインダーを覗いた時の顔にね。自分を大切にして下さい。お元気でと書かれていた。
写真家への想いが堪られずに一気に広がった。――これが「Ⅲ 仕事とカメラ」。そして私の転機。
私は会社を辞めた。アルバイトしながら写真中心の生活を始めた。ひたすら歩いた。街のなかを。なにも考えないで歩いた。そしてファインダーを覗いた。覗いている内にファインダーのなかでしか見えない表情を浮かび上げる。そして被写体の方でも私を道連れにしようとしている。すでに誘惑に心を傾けている。シャッターチャンスを待った。やがてその瞬間が訪れる。一気に押しこむ。その時のシャッター音。焼き付けられた瞬間。これがすべて。至福の瞬間でもある。今の私のカメラ理論。当たり前のことに辿り着いただけだけど、それだけに重たいもの。あとは冒頭で先に述べたとりのカメラを肩にぶら下げた日々。そして今回の個展開催(タイトル「表情~ノーメイク~」)――「Ⅳ 私とカメラ」
私は職務質問された。ビルの陰に怪しい人がいるという通報のようだった。別段怪しまれるようなことはしていないと答えたが、交番に行くことに同意した。
婦警が対応した。氏名、現住所、職業を訊かれた。ベンネームと職業だけ答えた。「記者Ka子」ですと。雑誌記者? 新聞記者? と訊かれた。「記者」ですとしか答えなかった。カメラマンではないのね? 質問しながら胸元に抱えこんだ私のカメラを覗きこんでいた。そうではありません、「記者」ですとあくまでも繰り返した。表情には現れていなかったが、婦警の印象を最初から相当悪くしてしまったようだった。では「記者Ka子さん」ということでと質問が再開された。
なにか取材することでも? 取材内容は答えらえませんと言った。写真は撮られましたか? 撮りました。どういう写真ですか? 答えられません。特定の個人でなければ構いませんが、どうですか? 特定の個人ではダメなのですか。特定の個人なのですか? いいえ、答えられません。でもダメなのですか、個人なら。「記者」さんでしたよね。はい。知らないのですか、職業上当然知っているべきことかと思われますが。もちろん知っていた。写真倫理は必修科目だった。
「表現の自由」(憲法)の範疇だと思っていました。「記者」の方々はすぐそれをおっしゃいますよね。でも憲法の条文には同じ章のより上位に「幸福追求権」を掲げています。憲法第13条です。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」暗記していた。「第3章 国民の権利と義務」のなかです。第3章では国民の基本的人権(第11条)も謳われています。疎外してはならない点、侵してはならないことが。それはともかく「表現の自由」は同じ第3章中でも第21条です。第21条を引き合いに出す時は、同時により上位に個人の幸福追求権が掲げられていることの法解釈上の意味は十分尊重されなければなりません。
また「幸福追求権」には第13条を根拠にした「人格権」があり、そのなかには「肖像権」があります。ともに民事上における侵害してはならない法的権利です。このように申し上げればお分かりかと思いますが、いわゆるプライバシーに関わる問題です。「表現の自由」が与えているのは、公共の場で不特定的多数ないしは個人的な場合でも不特定的多数として偶然に撮り込まれてしまったような場合です。しかもその場合でもあっても画面に占める割合によって偶然では済まされないことになります。それなりの対応が必要です。
季節的には今は秋ですが、夏の海水浴場ではこの事案が発生するのを「記者」の方はよくご存知なわけです。もちろん海水浴場を例に出したのは「記者Ka子さん」が女性だからです。よくご理解いただけるかと思いまして。「被害者」の立場が。正確には迷惑を被る方(女性)の気持ちと言い直すべきかもしれませんが。そうですね、「迷惑防止条例」のことです。盗撮であったなら論外です。
そこで「記者Ka子さん」の場合、「公共の場」である点は問題なさそうです。歩道を行く人々を、肖像権を侵害しない範囲で撮影なされているなら同様に問題ないことになります。そこで、本当に問題がないかどうかということ。1時間以上立っていたといことですが、それも午前中に一度、そして午後にも。その間、カメラをしばしば何かに向けていたとのこと。何をお撮りになっていたのでしょうか。実は、今日だけではないようですが。
いいでしょう、廻りくどい言い方は止めましょう。ここに写真の束があります。日付に時間の記録されたスナップです。どれも「記者Ka子さん」と一目で分かる写真です。持ってこられた方のお名前は申し上げられません。ここまでのご説明でお分かりのように、「記者Ka子さん」にとってこのスナップの類は、逆に貴女の肖像権の侵害です。ましてや交番に届けられたのですから。この件についてはいささか説明しておかなければなりませんが、最初は受取りをお断りしました。現行犯(盗撮)の証拠写真とおっしゃられておられましたが、仮にそうであったとしも犯罪行為が具体的に撮影されているわけではありません。これだけでは盗撮の現行犯にはなりません。それに警察組織としては斯様な証拠の収集方法は採れません。法規に抵触しますから。そこまでははっきり申し上げませんでしたが、ご納得してお引き取り願いました。
そして1か月が経ちました。週に2、3回、午前・午後。撮られた方も大変だったことでしょう。努力に報いたというわけではもちろんありませんが、犯罪の防止という観点で出動しないわけにはまいりません。犯罪の未然防止は、警察活動の大事な一環ですから。とくに最近では民間から寄せられた情報への適切な対応が社会的にも求められています。お分かりいただけますね。この写真も「情報」の範疇として一時的にお預かりしているものです。事案が問題ない場合は持ち主に直ちに返却することになりますし、かりに法令に違反する事案であっても証拠品としての価値は、すでにご説明した通りですので、「記者Ka子さん」の不利に直ちになることはありません。ご理解いただけましたでしょうか。
そこでお訪ねしますが、「Ka子さん」は興信所のお方ですか。興信所の「使用人」として探偵にかかる業務に携っているのであれば話は別です。「探偵業の業務の適正化に関する法律」によって業務遂行を保障されていますからね。違う? そうではない。やはり「記者」ですか。でも1か月ですよ。スクープを狙っているとか。フォト雑誌のための。特定の人物を追い求めているとか。張りこみであるとか。でも取材活動なら報道機関に所属されているか、出版社と委託契約を結ばれているはずです。身分を明かすようなものをご提示頂くわけにはまいりませんでしょうか。
そうでないとすればですよ、週2~3回で午前と午後、簡単に計算してみても2、30回になります。普通ではありません。事情がなければなりません。その事情が法令違反でないかどうか確認させていただきたいのです。ご協力いただけないでしょうか。
Ka子は黙秘していた。とても婦警には敵いそうもなかった。賢そうでしかもそれが顔に出ない。法律にも詳しい。職業柄とはいえそれ以上に通じていそうである。なるほど交番にはいろいろな人が来る。道案内だけではないのである。あらゆることに対応しなければならない。もちろん道案内だけだって知らないとは言えない。本当に大変だ。お金を貸して下さいとか、代筆して下さいとか、美味しいレストランを教えて下さいとか。ほんとうに「やれやれ」とも言わないで、同じ表情で応対し続けるのである。
やっと帰ってもらったかと思えば、今度は無線連絡である。都会では事件が多い。とくに街中ではいざかいが絶えない。また起ったのである。双方を納得させる話術も兼ね備えていなければならない。それも中立的立場で。やはり法律用語は警棒以上に役立つ。法的客観力で武装すれば法治国家では無敵だ。上は国家機構から始まって下は地域社会まで。地域の人達からも信頼されているに違いない。でもいつか交番勤務から犯罪捜査課に異動になるのを望んでいる。全身を使いたい。制服の下の身体が犯罪に立ち向かいたいと無言で語っている。でも現状に不満を抱いているわけではない。職務に誇りを持っている。尊敬すべき婦警だ。
気がついて見ると、Ka子は、解放されていた。交番を出た後の風は気持ちよかった。伸びをして大きく吸い込んだ。声を出したくなった。出していた。でも道行く人は誰も怪しんでいなかった。出したような気がしただけだった。また風が吹き渡ってくる。街路樹の枝が揺れる。枝に向かって手を振ってみる。
思い出して前に向き直った。歩道の先に目を遣った。すこし下り坂である。それでも先を行くその人の姿が往来の人々の陰になって隠れてしまっていた。Ka子は自分で立ち位置をずらして、その人の背中に向かって手を振った。
事情を説明してくれた人だ。誰だか知らない人。撮っていたのはKa子さんではありません、誰というのではなく、誰かでなければならないとすれば恐らく私です。
その人は突然現れて婦警に説明しはじめた。
でもここに写真が、それに駆け付けた時にはたしかに「記者Ka子さん」がカメラを抱えていました。
たしかに、とその人は婦警に言った。でも撮っていません。撮れるわけがありません。そう言うと、取り上げられないために首元から胸元に下げて両手で抱えこんでいたカメラを、まるで手品のように巧みに首元からするりと抜き取り、Ka子の制止を無視してカメラの蓋を開けた。空だった。フィルムは装填されていなかった。今度は膝の上に置いておいたナップサックを横から引き抜き、もう1台の標準レンズを装着したカメラを取り出すと、やはりKa子の制止を無視して蓋を開けた。装填されていなかった。空だった。
さらにレンズを取り出し、カメラ・ノートを取り出し、その他小物を取り出した。脇のポケットも開けた。テッシュペーパーとのど飴が入っているだけだった。反対側に挿しこんでいた簡易三脚も引き抜いた。そして空になったナップサックを逆さにして机の上で何度も降った。なにも落ちてこなかった。フィルムはなかった。持っていなかったのだ。小物入れの中も覗かせて見せた。
その人はさらに説明した。婦警がまだ怪しんでいたからだ。この子はカメラが使えません。使い方を知らないのです。デジタルカメラは持っていません。生意気にフィルムカメラでなければ駄目だと思いこんでいるのです。信条にしているわけです。それも最低でも35mmの一眼レフを(世界の○○○を)2台持ち歩いていないとだめだと。自称「写真家」ですが、腕が備わっていないから恥ずかしくてそう言えないのです。だから自称「記者」にしているのです。文章は上手ですよ。
いずれにしてもデジタルカメラを使うなどプライドが許さないと言うわけです。デジタル一眼レフだって凄いのに。だからかどうか知りませんが、携帯電話も持っていません。使っていないのです。正確に言うと使い方を知らないのです。本当です。公衆電話を使うのもやっとです。疑うなら身体検査なさいますか。そうですか、それには及びませんか。
この子は妄想癖なのです。カメラ構えていればなにかが始まると信じているのです。妄想にすぎないのに受け入れられないのです。一生構えているでしょう。信じる者は救われるのです。たいした妄想です。あと1時間、いや30分こうしていたら、危なかったですね、婦警さん、乗り移られていたかもしれません。この子は憑依の技を生まれながらに身に付けているのです。乗り移れるのです。一体になれるのです。それこそ極めつけの妄想です。本当ならこんなにじっとしていられない性質(たち)なのです。誰かに乗り移っていないと落ち着かないのです。きっと妄想がはじまっていたはずです。でも誰でもと言わけではありませんから、婦警さん、きっと貴女に心を奪われていたのかもしれません。そうなんでしょう、Ka子さん――。
つまり婦警も解放されたのだ。それまで静観していた同僚警官が間に入ってくれたのである。年配のベテランだった。年配警官は婦警の肩に軽く手を置いて「そういうことらしいね」と言ってKa子を斜め上から見下ろしながら、なら結構ですと言う代わりに「もう薄暗くなってきましたね。気をつけて帰らなければ」と交番の窓から外を見遣った。お引き取り下さいという合図だった。
その人もKa子の背後に廻り込むと、Ka子を立ち上らせるために両肩を手の平で同時に軽く叩いた。合図をするような叩き方だった。バネ仕掛のようにKa子はすっと立ち上った。先に交番の外に出た。振り返るとその人が年配警官と敬礼を交わし合っていた。年配警官の傍らで婦警だけがまだKa子を前にしているかのように座り続けていた。表情もまるで変わっていなかった。
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