[け]
1 パーティー会場
たしかに涙だった……。 顕子は、Y嬢の涙に不思議な心の高まりを覚えた。
Y嬢を知ったのは、会社の仕事として出席したパーティーの会場でだった。それも代理だった。顕子のチーフが急な出張で出席できなくなってしまったからだった。でも出席してみて、出張はチーフが仕組んだものだったに違いないと思った。出たくなかったのだ。
画家の受賞パーティーだった。中堅作家らしいが、自社のコマーシャル誌の表紙をここ数年定期的に飾っている画家という以外、顕子はほとんどなにも知らなかった。顕子も宣伝部の一員だったが、コマーシャル誌を担当していたのはチーフだった。慌ててバックナンバーに当たってネットで予備知識を付けた。国内だけではなく外国での評価も高かった。それに内外のいろいろな賞を何度も受賞していた。
主催者や来賓によるながい祝賀挨拶がようやく終わって花束が贈呈された。贈呈者は、艶やかなロングドレスの女性だった。アップにした黒髪から伸びるほっそりとした首筋に、髪飾りと合わせになったネックレスが鈍く光り輝いていた。それがY嬢だった。
露わになった両肩は、細身の体形の割には肩幅のある骨格で、ドレスの肩紐をその内側でしっかり受け止めていた。胸元を少しだけ覗かせたドレスが上半身を魅惑的に包みこんで、腰許をさらに細身に締めあげていた。ドレスと一つになった体のラインが人々の前で横向きになった。画家に注がれるべき視線のほとんどを彼女が奪っていた。人垣から身を乗り出す人もいた。多くのカメラも向けられていた。
画家が登壇した。ネット上に載せられていた58歳の顔よりは若々しかった。場馴れしているスピーチだったが、途中から急に声がすこしうわずり気味になった。何度受賞していてもそのたびに感激は新たになるのだろうか、気持ちが高ぶっていたようだった。でもそれだけではなかった。今宵は個人的なことをすこし申し上げるのをお許し願いたいと思います、そう切り出したからだった。経歴の紹介だった。
物心つくかつかない内に両親と死に別れてしまった、事故で父と母を亡くしてしまったのです、その瞬間から天涯孤独になってしまいました、と告げられたのである。一瞬、場内がどよめいた。招待者も知らなかったことのようだ。始めて申し上げることです、画家も透かさず繕った。
会場が静まるのを俟って、Y嬢に向けて手が差し延べられた。秘められた経歴の続きだった。Y嬢の家で育てられたと明かすためだった。天涯孤独の自分を、親類縁者でもなかったY氏が引きとって育ててくれた。数年前に他界されたY氏に本日の栄誉を捧げたい、画家は声を詰まらせように言った。Y嬢は、自分に向けて語っているような画家に小さく頷いて見せた。Y氏はY嬢の祖父だった。祝賀会の日取りはY氏の命日だった。命日に合わせたていたのだった。
どうも普段の画家ではないようだった。同じテーブル(といっても立席)の人達が、なにかあったのかしらと囁き合っていた。画家は独身のようだった。まさか、と耳打ちする声に顕子もY嬢の顔を窺っていた。
日本のパーティーでは珍しく、花束が贈呈された後、画家は空いた手でY嬢の体を軽く引き寄せ、頬を合わせたからである。しかもY嬢もごく自然に頬を寄せていた。その瞬間だけ見ると、恋人同士のようだった。顕子もまさかと思った。Y嬢は自分と同世代だったからだ。年上だったとしても30代前半だったはずだ。
結局、会場の期待どおりにはならなかった。Y嬢に手が差し延べられたのも、告白的な経歴を演出するため以上ではなかった。恩人であるY嬢の祖父をY嬢に見立てていただけだった。「すべての感謝の気持ちを今は彼女に。」思いの丈を籠めた声が会場に響く中で、画家は壇を下りてY嬢に近づき、再び彼女の体を優しく引き寄せた。それだけだった。人々の顔も、ならもう乾杯に移ってもらいたいという表情に変わっていた。
回りの人と形ばかりの挨拶を交わすと、「そうお仕事で(それはお疲れ様)」という人ばかりで、それだけで別の人種と見做されてしまったのか、話題も提供されず、顕子はたちまち一人きりになってしまった。安堵しているチーフの顔が浮かんだ。料理ばかり摘んでいるようで気まずくなってしまった顕子は、ワイン・グラスだけを片手にささげて壁際の椅子に腰かけた。
「特別に着飾らなくても好いわよ。その方がいかにも仕事で来ている感じだし、途中で退席もしやすいし」
たしかにそうだったかもしれないが、回りから人が一人二人と消えてしまうのは明らかに地味なスーツ姿の所為だった。これでは会場の係員だった。避けられて当然だった。チーフにすかっかり騙された。顕子は、週明けの出社時に開口一番に発する一言を決めておかなければならなかった。
「最後までいなくても好いけど、途中で退席する時は、かならず挨拶だけはしておいてね」
代理出席を詫びるよう仰せ付かったとうわけである。急な出張だったことを言い忘れないように。ご自分で仰って下さい、顕子は溜息をついてしまうところだった。
もういいのかな、でもまだ30分しか経っていなかった。では後15分にプラス5分の20分ということで。そうと決めたものの、その間、あと何回でグラスを空けようとか、ワインばかりではもたないからもう少し料理を摘むことにしようかとか、そう思い出すと1分が過ぎるのさえ長く感じられてしまう。
顕子が群衆のなかの孤独を感じていると、どこから現れたのか、一人の若い女性が横に座った。顕子と同じような格好だった。どこにいたのだろう、挨拶の最中、自分と同じ人種がいないか隅から隅まで確かめておいたのに、と顕子が訝っていると、「やばい」と主賓テーブルを盗み見るようにしながら吐き出し、どうやら誰も見ていなかったのを確かめることができたのか、「セーフ、セーフ」と、胸を撫で下ろしてみせる。遅れて入って来たようだった。
「どうぞよろしく。」勝手に臨席を決め込んで、「よかったわ」と口にした。
同じ人種がいたからだった。つまり彼女も「仕事」だった。「すこし失礼していいかしら。」お腹をさすりながら席を立つと、彼女は取り皿に料理を山盛りにして戻って来た。おなかペコペコ、まずは腹ごしらえ。そう言って見る見るうちに一皿を平らげてしまった。
摂り損ねてしまって(!)。昼食のことかと思っていると、朝から何もよ、そう言って、空いた皿に視線を落としながら、言い訳に代えるかのように、朝からのスケジュールを復唱してみせる。お忙しわね。彼女は安心したように二皿目を取りに(盛り付けに)行った。
同じ仕事関係でも彼女の場合は、画家との関係というより直接にはY嬢との関係のようだった。彼女の会社で行なっている画家の絵の購入が、Y嬢を通じて行なわれていたからだという。すでに購入点数もかなりの数に上っているらしい。でも、と少し間を取って彼女は口にするのだった。少し怪しい買い方なのだと。今に困るようなことにならなければいいのだけれどと。
「でも内緒ですよ。この話」
名乗り合ってもいないのに、もう前からの知り合いのようなつもりになっていた。特別に打ち明けているつもりでもいた。
「ああ喋っちゃった」
でもどことなく満足そうだった。
彼女が言うには、Y嬢は相当の悪女(なはず)だというのだ。そんなことが言えるのも自分は重役の秘書だからというのだった。重役は購入の責任者だった。すでに数十点が購入されていた。それもここ2、3年だけで。購入費は数千万円に上っているはずだ、それ以上かもしれない。そんなに有名でもないのに。そう言って咎め立ててみせる。
そんなことよりこんな話ここでしていいの? 顕子が困惑して見せると、さすがに自分がどこにいるのかは弁えていたようで、一応、回りに人が近寄ってくると話を控えて、誤魔化すかのように箸を握り直して料理を口に運んでいた。
そしてまた二人きりになる。今度はY嬢の話だった。どういう家柄かよくは知らないが、自分が勤めている会社の創業家とY嬢の家とはながく家族ぐるみの交際を続けているようだと。そして、それを好いことにして、と彼女は「秘密事項」を打ち明けるのだった。絵を売り付けているとか? そういう話だろうと思っていると、たしかにそうだったが、それ以前の問題として秘書である自分に対する接し方が我慢ならないというのだった。横柄で態度が悪いとかではなく、その目だというのだった。
良い処のお嬢様なのでしょうから、慎みのない真似はしないし、おくびにも出さない。でも目はあからさまだというのだった。
物みたいにしか自分のことを見ないというのだ。眼中にないというか、同じ人間として見ていないというか、まだ冷たい目なら我慢もできるが、人として扱われている感じがしないというのだった。
「見下しているということ?」
彼女を煽るような言い方になってしまった。
そうかもしれないけど、それなら「なによ、気取って!」と睨み返して上げられるけど、それもできない、最初から相手にされていない、たまたま私がそこにいるから、声をかける、でも壁に取り付けられているドアフォンに話しかけるみたいで、顔に話しかけていない、目を逸らしているわけではない、それどころか遠慮がない、遠慮がないではなく、遠慮の対象ではない、上手く言えないけど、ともかく私のことを存在として見ていない、ただそこにある通過上の一点としか見ていない、そういうこと。
でも無理。分かってもらえない。その立場に立たされてみないと分からない、だから訴えたくなってしまうの。ご迷惑も顧みないで。
美しい人だった。大きな目と目もとを際立たせる眼窩の窪み。ラインの引き立った綺麗な眉毛。鼻筋の通った高い鼻梁。血筋に白人の血が流れているのだろうか。白色人種のような面影を残している。
そうか、白人が東洋人を見る目付に違いない。本物の白人からならまだ許せるが、それが同じ日本人からなされる。でもそれだけではないにちがいない、別の「女」の憤りを感じながら、顕子は、Y嬢を向こうに見た。
セレブ? ご良家のお嬢様? でも絵を売り付ける? どうにも結びつかない組み合わせとしか思えない。
「彼女は画商なの」
「画商? 知らないわ。ただうちの重役、彼女に気があることはたしか、顔にはださないけど。うちの重役だけではないわ。たくさんのファンがいて、『僕は補欠かな』って笑っているの。正選手になるのがうち重役の当面の目標。素敵な方なのに、やはり男ね、ミステリアスな女には弱いのよ」
ともかく、絵の商いを執り持っているのは確か。でも直接の取引は彼女の後でやって来る画商との間で行なわれていたので表向きはノータッチ。だから画商なのかどうかは分からない。それにY嬢が会社に来ていることは内緒になっているというのだ。画家はY嬢が関与していることは知らないはずだからという。きっとY嬢から口止めされているにちがいない。Y嬢の言うことなら何でも聞きいれてしまう。そして覗かせる重役への不満顔。
彼女が我慢ならないのはY嬢のことだけではない、重役のこともあったのだ。彼女を見ながら顕子は思った。美貌なら負けないわ、そう言っている彼女が。
「あの二人のことどう思います?」
思わせ振りな訊き方だった。
「と言われても」
「特別な関係だと思います」
「それは……」
「そう思います? でも違うんです。それはないんです」
そして顕子に意味深な目配せを送る。
「私もはじめはそうかなと思っていましたけど、だってあからさまな〝売り込み〟ですもの。でも、うちの重役は『それはないな』とはっきり否定するんです。さすがに切れものの重役ね、手抜かりなく調べてあったんです。いくら絵が良くても愛人の絵を買わされていたではそうはいかなくなるでしょう。なんと言っても会社の経費なんですから。将来もっと資産価値が上がるって太鼓判を押されていてもですよ。だから購入の経緯を後で問題にされないように探偵社を通じで調べたみたいなんです」
そして、耳を近づけてもよく聞き取れないような小さな声で耳打ちする。女性には興味がないらしいんですと。
「これだけは誰にも言わないでください。言ってはいけないことになっていたので」
さっきもそう言った。きっとそう言っていろいろなところで喋っているに違いない。本当に秘書なのかしら。危なそうな人だ。このまま名乗り合わない方が良さそうだった。そう促してみると、なにか勘違いした彼女は、自尊心をくすぐられたような表情になって、「でも良い絵なので、絵だけを観てくださいね」と、まるでたしなめるような口調だった。顕子は笑いを堪えなければならなかった。
「もちろん、そんなこと(考えもしません)。かえってより深く観られそうですけど」
彼女は、十分満足そうにして、「ええそう思って」と、口元に笑みを湛えて見せた。
2 コーヒーハウスのテラス
結局、顕子は最後まで残った。画家に挨拶もした。彼女は、また戻って仕事なの、またどこかでお会いできると好いですね、と言って途中で帰った。
「先生からお礼のお電話いただいたわ」
週明けに電話があった。チーフはなにを勘繰っているのか、アナタズイブン気ニ入ラレタノネ、と皮肉っぽく言われた。
再びチーフ宛に電話があった。二度目の電話で真相が判明したのだが、最初の電話も単なる形式上の返礼の電話ではなかった。打診だった。その用件を隠して、チーフは、宝物を手に入れたように楽しんでいたのだった。本当のことを隠しておいてなにか得した気になっている。顕子はまたかと思った。自分より一回り以上も上なのにチーフには子供のようなところがあった。
モデルだった。顕子にモデルになってもらいたいとうのだった。本人に確認しておきます、そう言って最初の電話を置いたはずである。でも確かめない。確かめようともしない。自分だけの秘密にしてしまう。我慢できずに時々にやにやして見せる。怪しいと思っていたのである。何度もパーティーのことを訊くからである。挙句の果てにはこうである。
ワカリマシタ、伺ワセマス。
そう答えておいたからと言うのだった。おまけに、本人モ喜ンデイマス、と言い添えておいたからとも。
「だから今回も業務命令ということで」
顕子はさすがに抗議した。でもチーフは取り合おうとしないのだった。
セッカクノ機会ヨ、私ガ替ワリタイグライヨ。トモカク業務命令ダカラ、イイ、分カッタワネ。
まさかパーティーもそのためだったのかしら。首実検? 顕子は怪しんだ。その時も、どことなくチーフが愉快そうにしていたからだった。
大丈夫ヨ。ぬーどニナレトイウワケデハナイカラ。
ふざけないでください、顕子は語気を強めた。
指定された場所は、私鉄沿線のコーヒーハウスだった。普段の格好で構わないということだった。仕事として寄越してあると伝えられていたのであろうか。でもいくら仕事ということで割り切るようにと諭されても、意に沿わないことがあれば、構わず退去させてもらうつもりでいた顕子は、入店してそこにY嬢が同席していたのを知らされるのだった。そしてモデルの内容も。
Y嬢のお相手だった。若い二人の女性がコーヒーハウスで語らい合いながら昼下がりの一時を過ごす、その様子を少し離れた別のテーブルからスケッチする、という設定だった。単なるお相手役だったのだ。チーフは知らされていたのだろうか、一人でほくそ笑んでいる顔がまた思い浮かんでしまう。
何枚かスケッチするので、と断られた。時間がかかるといのだ。あまり乗り気がしない顔になっていたのだろうか、傍らのY嬢から「だれでもいいわけではないのよ」と言われた。思わず顕子はY嬢に顔を向けた。あの子が言っていたその目ではなかった。
場所が移された。店の外に設けられた10テーブルばかりのテラス席だった。すべてがリザーブになっていた。テラス席は温室のようにガラス張りになっていて、暖房がなくても冬の日差しだけでも温かそうだった。
「いつもこのような形で?」という顕子の問いに「ええそうね」と、Y嬢は素っ気なく返したが、思い出したように「先日の彼女もね」と付け足した。パーティー会場のあの子のことだった。聞かされた顕子は、その際の会話が筒抜けになっていた思いに囚われて、鼓動が一気に高まっていくのを覚えた。
「そんなに固くならなくても大丈夫よ。自由にして。普通にお茶している時のようで構わないから」
スケッチといっても印象スケッチだというのだった。
「それからなんでも訊いて」
その方が自然な感じがでるからと言われた。
そう言われてもと思ったが、年齢を尋ねてしまった。やはり年上だった。でも8歳も上だった。自分と同じくらいしか見えなかったと第一印象を伝えた。Y嬢は微笑みかえした。
それ以上何を尋ねればよいか分からなかった。顕子から質問が出されそうにないのを見て、Y嬢から言葉がかけられた。独身よ。一度も結婚したことないわ。もう十分いい歳なのにね
本当になにを訊いても好いのよ。恋人のことでも。男性観のことでも。Y嬢は微笑む。でも言葉が出ない。まだコーヒーカップにも手を伸ばしていない。緊張を解こうとしていたのかもしれないが、告白的なことを聞かされると却って緊張してしまう。きっと素敵なお方なんでしょうね。取ってつけたような訊き方しかできない。まるで自分でないみたいだった。
いないわ誰もね、とY嬢からあっさりと言い返されてしまう。
あなたは?
答えあぐねている顕子に向かって、いままで恋愛したことがないのよ、男性に興味がないのかと自分を疑うほどにね、とY嬢は話の流れをつくってくれる。
あなたはそれはいるでしょう、いて当然。それにタイミングさえ合えばいつだって結婚してもいいわけだし、すべきかもしれないし、余計なことかもしれないけど。若い子を見ていると、別にあなたのことと言うわけではないけど、いつ結婚するのかな、と思って。結構、好奇心旺盛なのよね、私って。でも一つの見方としては、こんな時代でしょう、だから分かりやすいわけ、「人物」の人生観を覗きこむ上で。でもあなたの場合はなかなか予想がつかないわ。もしかしたら婚期を逃すかもね。それでもいいと思っているところが感じられないでもないから。
Y嬢はさらに続けた。今度は仕事の話だった。また鼓動が高まった。彼女の「暴露話」もあの子の腹いせに過ぎなかったにちがいない、相当部分、作り話ではなかったかのではないか、と評価を反転させていたのに。
絵のお仕事ではないのよ。絵は好きだし、しばしば展覧会に足を運ぶけれど、画商ができる程良し悪しは分からないわ。ましてや作家の将来性などはね。でも彼の人生を見出したのは祖父よ。そう言って軽く画家に視線を注いだ。それに画家という人生に惹かれているの。祖父がそうだったから。私は祖父を尊敬しているの。いまでも私の中には祖父が生きているの。祖父は私の恋人。永遠のね。
でも普通のお勤めではない感じがします。顕子はY嬢の追憶を邪魔した。することができた。
そうね。勤め人ではないわ。カウンセラーよ。
カウンセラー?
Y嬢はさらに付け足すように言う。娼婦のようなと。でも勿体ぶった言い廻しを嫌うかのように、体を売るわけではないわ、体も何も売らない、売るのは「言葉」、ただ話し相手になるだけ、と言っても少し違うかもしれないけど、いずれにしてもそれが私の仕事。娼婦のようなと言ったのは、それで相手が癒されるからよ。
いやらしいかしら? 同じでしょう。違う? でもお金、それも安くないお金が支払われているのよ。私は同じだと思っている。同じでなければならないとも。お金のこともあるけれど、それ以上に相手と深くかかわらなければならないから。「女」として。
気がついて見ると、Y嬢の会話のなかに取りこまれていた。というより囲い込まれていた。でも垣根はない。開け放たれている。それに誰か相手を評してみせながらも、相手に特別な関心を示しているわけではない。好奇心が旺盛だと言いながらも表情ではそうなっていない。告白的な話にしても、緊張を解そうとしている以上に相手の関心を引こうとも高めさせようともしているわけではなかった。自分の話でありながらどこか自分の話ではなかった。生身な思いを感じさせなかった。希薄だった。自分を見せているようで見せていなかった。Y嬢のなかには相手も自分もいなかった。
顕子は、味わったことのいない言葉の感触に浸されていた。接触感でもあった。まるで生温いバスタブにいっしょに浸かっているかのようだった。
休憩にしましょうと画家が席を立った。洋菓子と新しい飲み物が運ばれてきた。画家は煙草を吸いに店のなかに入っていった。
しばらくして戻って来た画家は、突然、中断を申し入れた。好いイメージが湧いて来たのでイメージが消えない内にアトリエに戻りたいというのだった。Y嬢は、ぜひそうして、と画家に帰宅を促した。あなたのお陰ね。Y嬢からかけられた。
新社屋を建設中の会社から社長室に飾る絵を依頼されていたが、なかなか新作に取りかかれなかったというのだった。期日も迫っていた。どうやらきっかけが作れそうだというのだった。画家は、立ち際にチーフへのお礼の伝言を顕子に託してコーヒーハウスを出て行った。
Y嬢は、画家の退去によって予告なくもたらされた空白を埋めるように言った。顧客は主に会社の社長や重役だった。年齢も相応に高かった。食事やお茶、お酒を共にする、時には美術館や音楽会を共にする。ダンスを共にすることもある。何処にも行かず、話だけで時間を過ごすこともある。
話と言っても当たり障りのない内容ではない。君ならどうする? 仕事の迷いにサジェッションを求められる。Y嬢には仕事のことは分からない。顧客たちは承知で尋ねるのである。Y嬢は同じ質問を投げ返す。投げ返された顧客たちは、「そうだこうしてみたらどうだ」とまるで立場を替えてY嬢に答える。「そうしましょう」とY嬢もクライエントに入れ替わる。だから顧客たちは仕事の迷いを躊躇うことなく打ち明ける。
仕事だけではない、やがて個人的なことも。本題というわけ。まるで「告解」のように。でもとY嬢は言う。たとえ自分を曝け出していたとしても告解室で神父に打ち明けるのとは違う。その時の自分は、神父でも司祭などでもない。
彼らは打ち明けているわけではない。自分に向かって語りかけているだけである。聴いてもらっているのでもない。妙な言い方かもしれないが、私を借りることで自分により近づく、そういうこと。それが、自分が必要とされている理由。そして、私が私で自分の「仕事」を納得させている理由。
ただし、とY嬢は言う。一定の年齢と地位のある人でないと逆効果になると。私を借りることでさらに自分を追い込んでしまった人が過去にあったと。
男女間の感情が介入してしまったためだという。普通の感情ならまだよかったが、所有欲だった。やがてY嬢が予約を断り、「顧客」としか扱わないことで、強い嫉妬心に生まれ変わり、まず家庭を壊し、次に仕事を等閑にした。やがて失った。Y嬢は身の危険を感じて避難した。しばらく休業を余儀なくされた。「正常」な顧客たちが、休業は困ると事態を解決した。
なるほど微妙な「仕事」だった。Y嬢は自分に向かって言う、それからは二つの条件は固く守ることにしていると。ともかく地位があっても年齢が達していなければ、地位のために同じ事態が引き起されかねず、逆に年齢は達していても地位に欠けていれば、年齢のために起こされる。年齢でそうなってしまうのは、普通なら年齢の高さが本人の感情を控えさえブレーキがかかるのに、それが裏目に出て、(男として)蔑にされていると鬱屈した感情を呼び込んでしまうからだという。
悪女と罵られたの……。
Y嬢は「事件」を思い出していた。
顕子は、腕時計を見た。帰社しなければならないからと言って席を立とうとした。
嫌だった、こんな話?
いいえ、そんなことはありません。逆です。本当なら戻らなくても良かったのですが、急に処理しなければならない案件が出てしまったようで、と少し前に入った連絡を再確認するようにしてスマホを取り出して見せた。
もっと伺っていたかったのですが。
そう、と微笑みながらY嬢は言った。あらためてお礼も言われた。
その後、顕子は思った。Y嬢と顧客たちの関係とは、きっと引き算や足し算のような関係だったのだろうと。2-2=0でなければならないような関係だったのだ。Y嬢の言うところの「条件」によれば、(1+1)-2=0ということになる。(1+1)は顧客側、2はY嬢。
そしてある人々にとってY嬢が必要になるのは、自分たちが2ではなく、1の組合せでしかない(1+1)だったからである。安定していないのである。()でかろうじて安定を繕っているだけなのである。年齢は健康に脅かされ、あるいは加齢による衰退に脅かされ、地位は競争相手に脅かされる。容易に脅威に晒される。でも違う。こんな考え方は「条件」を満たしていない人たちの考え方だった。自分を含めてと顕子は思った。
いずれにしても2であるY嬢は、(1+1)になることはない。だから顧客側が(1+0)だった場合、結果はマイナスになるしかなかった。「0」にならなければ「仕事」に意味はなかった。Y嬢は(0+1)になれる女性ではなかった。なることができていたなら「事件」も起きなかった。でも最初から「2」でしかなかった。それが彼女だった。
持って生れたものだった。それ以上に育ち方だった。ただ単に名家の家系に生れただけではなかった。特別な育て方がされたのだ。別にお姫様というわけではない。世間知らずのお嬢様でもない。「娼婦のような」と言われた時、一瞬、顕子はそう思いこんでしまった程だった。怪しい魅力を秘めていたからである。男性との付き合いも少なからずあるだろう、そう思っていた。
でも今は違う。まだそれほどの時間も経っていないのに、Y嬢のイメージは顕子の了解事項のなかにはすでになかった。1(男)+1(女)=2を感じさせないのである。Y嬢の傍らに立つのは男性ではない。男性の存在を必要としていなかった。これは理解ではなかった。直感だった。
なら同性愛者? たしかに味わったことのないような不思議な感覚に囚われた。それに突然画家が退席した。一瞬、顕子は不安な思いに襲われたのも事実だった。でも一度感じた肌合いや接触感がそれ以上に強まることも深まることもなかった。誘惑感もなかった。Y嬢はY嬢のなかにとどまっていた。むしろ顕子の方で近づこうとしていた。だから、まだ居られたのに、「気持」を気取られないように慌てて席を立つことのなる。自分でも思いを高めていたのだった。
その時は分からなかった。帰社してそれが分かったのである。感じたことのない胸の高鳴りが。Y嬢を感じる自分が。
帰社した顕子は、突然、チーフに肩を叩かれた。塞ぎこんでいるようにでも見えたのだろうか、いつも見当違いな女性だったが、見当違いな優しさには部下を和ませるところがあった。小太りの体形が彼女の「良さ」を引き立てていた。やはり独身だった。
3 カウンセリング
しばらくしてY嬢から顕子に連絡があった。よかったら同席してみないかというのだった。カウセリングへの誘いだった。
都内の有名ホテルのロビーが指定場所だった。でもすぐに移動した。運転手付きの高級車だった。顧客が手配した車だった。到着したのは、顕子には生涯縁のなさそうな高級なレストランだった。場所は別棟のプライベートルームだった。案内係りが親しそうにY嬢に話しかけていた。Y嬢は常連客だった。
顧客は73歳だった。でも雰囲気は年齢よりはるかに若い。首元に覗いた赤いネッカチーフが白髪によく似合っていた。靴先まで高級品で包まれていたが、全体で見るとナチュナルな感じで一つに溶けこんでいた。着なれている。自宅の応接間で寛いでいる感じさえ漂わせていたが、逆にそれが余計にハイクラスな感じを顕子に覚えさせていた。
会社名は明かされなかったが、会社の会長のようだった。大きな会社なのであろう。Y嬢は「会長さん」と呼んだ。会長は「センセイ」と呼び返した。自分はどのように紹介されるのだろう、そう身構えていたが、紹介されなかった。部屋に入った時に、ここに、と座る席を指定されただけだった。クライエント側も紹介されないことを怪しんでも訝ってもいなかった。無視されているわけではない。付き添いの看護婦とうことなのだろうか、たしかに往診時に看護婦は紹介されない、おそらく初対面であっても。
でも看護婦に対して紹介が不要なのは、一目で看護婦だと分かるからであって、今は外見では誰なのか分からないはずだ。ということは、こうした同席はよくあることなのだ。特別に「招待」されたわけではないのだ。顕子はすこし安心した。
ノートを開いて、顕子は開始を待っていた。顔も上げないようにしていた。ノートは、良かったら使ってと言われて予め手渡されていたものだった。
――分離感が大分とれてきました。
――でもまた元に戻ってしまいそうで不安が拭えない。予約より1週間早いのは、来週都合が悪いわけではなく、そうですね、会長さん。
――でももう「入院」する事態になることはなさそうです。毎日を過ごすことも楽になりました。
――愉しくは? まだそこまでは行かない?
――いいえ愉しいですよ。正確には愉しいことがどういうことか思い出せるようになったという段階かもしれませんが、そう思うだけでも愉しいんです。偽り事を申し上げてもセンセイにはすぐに見抜かれてしまいますから、正直に申し上げます。もう課長職に戻していただいて大丈夫です。しっかりと向き合っていられると思います。
――そうですか、戻るのですね、無理をなさっている様子もなさそうですし、それなら大丈夫でしょう、そうしましょうか、戻りましょうか。
Y嬢は頷く。会長はまるで祈りを上げるかのように両手を固く組む。その手に額を付けるようにして目を閉じる。目を開けると、艶消しの黒色の革鞄を開けて一冊の冊子を取り出す。革張りの厚手の表紙に綴じ込まれている。
まるで生徒が宿題を先生に提出するようにY嬢に手渡す。受け取ったY嬢は立ち上って少し離れた窓際のソファーに移動し、冊子を開いて目を通し始める。テーブルに両肘を突いた会長は、組みあわせた手に額を付けて再び目を閉じ合わせる。頁がめくられるだけで他には物音一つたたない。時間にして15分ほどだったが、それ以上に長い時間が感じられた。
静寂が苦痛になり始めた頃、冊子が閉じられた。Y嬢が徐に腰を上げ、元の場所に戻った。でも座らない。立ったままテーブルを挟んで会長に対坐する。前にした椅子の背凭れに片手を置いて軽く体重をかける。会長は相変わらず目を閉じている。
冊子が再び開かれる。ほぼ同時に咳払いがされる。したのはY嬢である。でもY嬢ではない。男の声である。男声を真似た咳払いだった。顕子は会長を見る。驚いたはずだからである。でも会長は顕子が驚いたようには驚いていなかった。なにもなかったかのように同じ姿勢を崩そうとはしない。
あまりに〝下品〟な咳払いをしながら、Y嬢はY嬢で平然としている。顕子の凝視にも見向きもしない。眼中にないと言った感じだった。しかも咳払いは手始めにすぎなかった。再び男声が上げられる。男声は、見えない相手に向かって突然意見し始める。
「部長!」と声高に叫ばれる。「それは違います!」と荒々しい声が上げられる。
「従えません。何とおっしゃられようが。いくら部長命令であっても。ええ分かっています。なにかあったら責任を取らなければならないことぐらい。その時はどのようにでもご処分下さい」
男声は、拳でテーブルを叩く。そして再び「部長!」と声を荒立てる。詰め寄る。実際、「課長」は、テーブル越しに部長に向かって大きく身を乗り出す。
「部長」も「課長」も会長自身である。同時にY嬢でもある。課長は自分(「部長」)に向かって叫ぶ。責め立てる。どうやら会長は自分の人生から部長職時代を消し去りたかったようだ。そのためには課長職時代に戻る必要があった。昇進が眼中になく、前に進む事だけしか頭にない熱血的な課長職時代。そんな自分。上司の受けもあまり良くない。それが思いがけなく部長に抜擢される。
次第に保守的になっていく。気がつくと抑え役に回っている。大きな人事権も与えられている。ある課長を社外に追い遣ってしまう。何かにつけ意欲的で結果を恐れない優秀な人材だった。芽を潰したのだと自責の念で振り返ろうとする。数年無難にすごしさえすれば、常務の席が約束されていたのだ、挑戦したくなかったのだ、いつからこんな自分になってしまったのか、と思い返そうとしている。違う、そうではないと言う。嫉妬していたのだと言う。自分以上の課長が輩出することに対してと言う。
「当たり前なことでは。それが会社という組織。それはジェラシーなのかしら?成績次第で評価されることはあっても非難されることはない企業戦士の性。むしろジェラシーは、栄養分として営利集団を増殖させるのでは……」
突然、女声に戻される。
「個人である前に会社員であること。組織の一員であるべきこと。立場が異なればそれに応じた役割があり、役割に応じた顔も必要。それは個人の顔とは違うもの」
「なら個人の顔であるべきだった、私は」
再び課長の声。男声。
しばらく「二人」の遣り取りが続く。社外に追い遣った男への贖罪が続く。贖罪? 女声は質す。人生を奪ったとでも。それで男が命を絶ったとしても、それは「個人」が負うべき自責の念ではなく、組織が負うべきもの。しかも組織は負わない。負うべきものとは認めない。敗者としか見ない。顧みることもない。
会長は、目の前で繰り広げられる「二人」の遣り取りに耳を傾ける。固く閉じ合わせた眼のなかでさらに深く自分に入りこもうとしている。向かい合おうとしている。
顕子は、「二人」を目で追う。交互に見返す。指揮台の譜面をめくるように冊子がめくられていく。台本だった。残された頁が少なくなっていく。課長の独白だけになる。淡々とした口調に変わる。合間には呼吸が整えられる。椅子が引き寄せられる。腰を下ろした課長が、目の前の会長に語りかける。やがて冊子が閉じられ、会長の前に戻される。沈黙が続く。
「あなたは誰なのですか」
女声が沈黙を破る。
「……」
「私だというなら私は『私』を拒否します。あなたはあなたに戻らなければなりません。あなたを生きなければなりません」
「……」
「あなたを生きるあなたを、私は受け容れます」
「……」
女声は席を立ち、部屋を出る。閉じられたドアの音を合図にして会長が目を開ける。どこか知らない場所で目覚めたかのように戸惑いの表情を浮かべながら周囲を見回す。解いた両手は、自分の居場所を確かめるかのようにテーブルを押えつける。10人掛けぐらいの大きなテーブルだった。顕子はその隅に座っている。しかし巡らされた視線は、顕子をいとも簡単に通過してしまう。
両手を今度は肘掛の上に置き、背凭れに上体を預ける。ガラス窓の外の植込みに目線を注ぐ。見るとはなしに見る。眼もとは虚ろである。いまだ瞑想のなかである。再び目が閉じられる。でも肘掛の先端は両手でしっかりと握りしめられている。力も加えられている。目覚めている。瞑想ではなく反芻している。
目が開けられる。目の前のハードカバーの冊子に手を延ばし、何事もなかったかのように傍らの鞄に仕舞いこむ。蓋が閉じられる。物音一つしない部屋のなかに金具の音が実際以上の金属音を響かせる。椅子の上で姿勢を正す。正面を見据える。立ち上って背筋を伸ばす。一度大きく肩で息をする。鞄を提げてドアに向かう。ドア側には顕子がいる。声はかからない。空気だけが頬を掠める。
顕子は出ていく背中に視線を注ぐ。変わらない。同じである。ドアを閉じる時も目線はドアのノブにしか注がれない。その先には向けられない。一人部屋に取り残される女性を気遣う気配はない。そのままドアは閉じられる。
4 ホテルの階上
結局、その日、運ばれてきたお茶を顕子は一人で飲むことになった。それも予定内のことのようだった。レストランの店員の応対振りは、予め指示を受けていたとおりに事を運んでいる感じだった。そして、「お預かりしてあります」と店員から一通の封筒が手渡される。「申し訳ありませんが、お先に失礼させていただきます。些少ですが、お車代です。よろしければ寛いで行って下さい。」Y嬢からだった。
数日後、顕子はY嬢と会った。車代を返却するためだった。些少ではなかったからだ。報酬と考えてと言われたので、なおさら受取れませんと言葉を返した。ともかく金額に関係なく貰う理由がなかった。
同じホテルで会った。ロビーの奥の喫茶室で待ち合わせた。「返されると、悲しくなるわ。」Y嬢はそう言って、目の前に置かれていた封筒を顕子の前に押し返した。再び押し返そうとするのを遮って、「怪しいお金だから? それとも忌まわしいお金だから?」と言って戻させようとしなかった。顕子は何も答えず口を閉じていたが、「顔に書いてあるわよ」と言われ、そんなはずありません、と思わず語気を強めてしまう。ただ座って見ていただけなのに報酬だなんて困ります、ただそれだけです。当然のことを申し上げているつもりです、と顕子は繰り返す。
「ただ座って見ていただけだと思う?」
試されているよう言われ方だった。そして、Y嬢は続けた。
「わたし露出狂なのよ」
突然だった。
「嫌ね、こんなことまで言わせないで。」しかしどことなく楽しそうだった。「だから十分お仕事してもらったの。そうでしょう、ちがうかしら?」
答えられない。答えようがない。
「いやらしい? またそう思っているかしら」
問い詰めるように言う。でも問い詰めているわけではない。頬笑みを浮かべているからである。
「怒らないで。からかっているわけではないわ。分かっていただきたかったの。意味あることをしてもらっていたということを。たしかにあなたにとってどうであったかは分からないわ。下らなかったかもしれない。馬鹿らしかったかもしれない。そう、そうでもなかった、それなら結構よ。でも私には対価を支払う理由があるの。意味あることだったのを共有するためにも。そうしてもらうためにも」
「逆のような気がします。見せていただいたのですから」
「観劇料ということ?」
「はい」
「分かっていないわね」
「……」
「いいのよ。非難しているわけではないから。ところで、あなた自分の仕事楽しい? 私は楽しいの。お金なんかどうでも好いわ。でも他人同士であることが必要なの。クライエントにも私にも。自分でなくなる、なくなっている必要があるの、この『仕事』には。分かるかしら?」
分かると思いますと顕子は答えた。たしかにそうだった。Y嬢は相手の感情と入れ替わっていた。なり切っている。でもそれだけでは演じているにすぎない。Y嬢は自分になっていた。相手ではなかった。成りきっているのは自分だった。だからその時のY嬢は、Y嬢ではなかった。表に見える自分ではなかった。結果として相手にもなっていた。
「分かるでしょう。観劇料いただいたのなら客席のために演じなければならない。私は私のために演じているの。本当はクライエントのためでもない。自分のため。だから『あなた』が必要だったの。私を感じるもう一人の私が。だから観てもらったのではない。私はあなたを買ったの」
顕子を見詰めるY嬢の目はもう笑っていなかった。
「泣くのって健康的よね。」突然、話題を転じ、「そう思わない?」とY嬢は言った。「泣いたことなかったの。転んで泣いたことあったかもしれないけれど、それは泣いたとは言わない。痛かっただけのこと。だから心でのこと。でも小さい時から泣いた記憶がなかったの。
あなた、最近泣いたことは? 泣くのって、悲しかったり悔しかったり苦しかったりした時よね。頭では理解できるけど、気持では理解できないの。泣けないの。それが『仕事』では泣けるの。必ずね。といより泣くことができるから私は必要とされているの。
でもあの日は泣かなかったわね。泣けなかったのよ。彼が泣けなかったから。だから彼はまだ私の中に入り切れていない。まだ私を使い切っていないの。会長さん、紳士でしょう、私への気遣い、というより女性への気遣いかしら、それから解かれていないの。会長さんの悩み、表面的には仕事や仕事を通じて生きて来たこれまでの自分のことかもしれないけど、心の奥は違うわね。女性ね。具体的にいま女性問題で悩んでいるとかいないとかということではないわ。それに性的なことでもない。具体的に言えるものではないの。だから本人も気づかない、気づけない。私、あの後、涙を流したの。でも、気持の晴れない涙だった。流し切れていないからよ。でも彼の涙だった。彼が女性に流している涙だった。
それが心の闇なのか、深層心理なのかは知らないわ。私は心理学者でも心理士でもなんでもないし、それにこんな仕事をしていても人の心など興味も感心もないわ。無責任なのかしら? でもそう思っていないの。無理なんかしていないわ。違うの。私を使ってもらえるかどうかだけよ。使われていると私が感じられているかどうかだけ。私が泣くことができるかどうかだけ」
だからこれは責任とは違う話なのよ。最初から対人関係ではないの。Y嬢は毅然と言った。使えても使えなくてもそれは相手の問題。使えないならそれで「仕事」は終わり。なにも始まらない。お茶を呑んでお仕舞い。でも今、私の目に溢れている涙は私がクライエントと一つになろうとしている涙。彼のなかの「女性」になろうとしている涙。
断っておくけどクライエントはいつも一人。クライエントが重なることはない。でも私は今別のことを考えているの。
Y嬢は窓の外に目を遣った。ビルの外庭にイルミネーションが青く輝いていた。外が暗くなっていたのに今はじめて気がついたように顕子も顔を上げた。でも顕子が見たのは窓に写ったY嬢の姿だった。
「でも受け取ってもらえないならそれはそれで好いの」
唐突に言われた。顕子の前の封筒を引き寄せて、手にした封筒をバックに収めた。その代わりもう少し付き合って。そう言って、顕子をホテル最上階のレストランに誘った。
Y嬢は祖父母に育てられた。両親は仕事の都合で海外生活を送っていた。たまに戻ってくることはあっても子供との生活を送るには短すぎる滞在期間だった。両親のもとで暮らすには二人の仕事は忙しすぎた。両親は二人とも社会活動家だった。移動が激しく連れて行ってもまともに育てられないのだった。
祖父母はY嬢にいつも言っていた。パパやママは世の中の人のために働いている、人々に尊敬される立派な仕事だ、分かるね、お前もいつかパパたちのように人々のために役に立つ人になるんだ、いいね、淋しくなんかないだろう、おじいいちゃんとおばあちゃんはお前をだれよりも愛しているんだよ、パパとママの分もはいっているんだ、そうだろう。
画家だった祖父は、幼いころからY嬢をモデルにたくさんの絵を描いた。祖母はたくさんの絵本を読んで聞かせてくれた。三人で連れ立ってしばしば外出した。散歩は毎日のようにした。家には来客も多かった。祖父の来客だった。一族会社の長子だった祖父は、一族の伝統に離反して画家の道を選んだ。財産も放棄した。経済的にも苦しい時代があった。でも祖父は意志を貫いて生きて来た。祖母が傍らで支えた。
祖父の生き方を慕う友人や知人たちには、祖父の生れの関係で経済界の人達も少なくなかった。人生の労苦を共にするはずだったのに、自分たちと違う人生をそれも自分の力で築き上げた祖父は、彼らにとって、日々の会社経営の抜き差しならぬ凌ぎ合いから自分を見つめ直す機会を提供してくれるのだった。祖父との一時を過ごすことを至上の喜びとする者さえいた。その時、Y嬢は祖父の膝の上にいた。ある時は膝から下りて傍らで体を祖父に預けていた。彼らは幼いY嬢にも心を癒された。一緒の時間を過ごせるのを楽しみにしていた。成長していく姿に心をときめかすようにもなった。
中学生になると、彼らの話し相手にもなった。祖父の不在を承知で訪れる者もいた。高校生になると、相談相手になった。彼らはY嬢の前で心を露わにした。経営上の悩みを語った。会社の将来を案じて見せた。部下たちの権力闘争を嘆いて見せた。次第に個人的な悩みを打ち明けるようになった。人生を相談するようになった。気持が楽になって帰っていった。その後で彼女は涙を流した。まだ涙の意味は分からなかった。
涙の話が続けられた。自分の感情では涙が流せない、他人の感情でしか流せない、気がついたらそうなっていたの。でもこの頃思うようになったの。自分で流すってどういうことなのかしらと。どうすれば好いのかしら。流すためには。
「入れ替わることできないかしら」
そう言ってY嬢は顕子を見詰めた。
顕子は促されるように自分を指差していた。ええ。Y嬢は頷く。
「あなたになってみたい、だめかしら?」
求められるままに顕子は手を差し出した。肌の温もりが伝わってきた。Y嬢の手は温かかった。両手で包まれるように握られた。しばらくいいかしら。Y嬢は目を閉じた。次第に温度差がなくなっていく。Y嬢と同化していくようだった。顕子も目を閉じた。Y嬢を直に感じた。
どのくらい時間が経ったのだろう、短かったようにも長かかったようにも感じられた。ありがとう、そう言ってY嬢は顕子の手を解いた。目を開けるとY嬢の瞼に涙が溢れ、頬を伝っていた。気がつくと、顕子の目にも涙が溢れていた。
5 その後
Y嬢とはそれ切りになった。忘れた頃になって、顕子のパソコンにY嬢からメールが届いた。ホテルのレストランでメールアドレスを教えたものの、その後、Y嬢から送信されてくることはなかった。顕子から送ることもなかった。そんなこともあって、忘れたと言うより、自分への関心が薄れたのだろうと思って、顕子は、Y嬢のことは考えないようにしていたのだった。
――お変わりありませんか。連絡しようと思っていましたが、しませんでした。正確にはできなかったの。決意が揺らぐような気がして。あなたには預かり知らないことかもしれませんが、あなたから頂いた決意なの。と言われても何のことだか分からないわよね。すこしもお話ししていませんでしたが、あの頃、迷っていたの。その迷いが、あなたとお知り合いになることができて消えたの。お話したり(聞いてもらったり)、「私」を見てもらったりしているうちに。〝入れ替わって〟もね。だからあなたからもらった決意なの。
でもそんなに大仰に言っても、たかだか結婚の話なの。迷っていたことも。意外? それにそんなことを迷いながらクライエントに接していたなんて、あなたから非難されてしまうかもしれない。それにたしかに私が迷っていたのでは仕事にならない。仕事の条件を満たせしていない。顧客にも失礼です。裏切りです。
結婚だなんていままで考えたこともないこと。しないとも思っていたわ。それが結婚で迷っていたなんて。軽蔑されてしまいそう。そう思われたくないので、すこし説明させて。
決意したといっても、まだ結婚はしていないの。それに先のこともまだよく分らないの、どうなるのか。でも決意が変わることはないの。条件が整えばすぐにでも結婚するわ。
ところで、いま居るところ、日本ではないの。遠い遠い外国よ。M国よ。来たことある? なにもかも日本とは違う所よ。なんでM国? そうよね。でも相手はそのM国の人なの。私のかつてのクライエントから紹介された人。と言ってもお付き合いするためではないわ。絵の件でよ。日本人画家の絵を求めていたからよ。彼は日本の商社と契約して地元代理店も兼ねているの。そこの責任者よ。しばしば日本に来ていたの。そして何か月も滞在することも。ビジネスマンだけれど、M国では貴族よ。代々、文化芸術を大事にしている家系らしいの。私設の美術館もあるのよ。
貴族であろうとなかろうと私には関係ないことだったけれど、M国は「一夫多妻制」なの。今でも。とくに上流階級ではね。彼にもすでに何人もいるわけ。いかにも貴族という感じ(!?)。
でも迷っていたのは「一夫多妻制」だからでも、遠い外国の国だからでもないの。逆よ。妻の一人になっても構わないと思ったのは、彼がM国の人で、まるで知らない世界の人で、しかも誤解されるかもしれないけれど、「一夫多妻制」だったからよ。
でも今時、「一夫多妻制」だなんて。日本や西欧諸国から見たら笑っちゃうわよね。私も笑ったわ。妻にしたいと言われて。あまりに可笑しくて、構わず笑ったわ。笑っている内に分かったの。自分がこの話、変に気に入っているということが。笑い声ってこういうものなのだとさえ思えて。何人も奥さんがいてよ、愛していると真面目に言えるのよ。これが笑わずにいられて。なんて馬鹿げたこと。そう思うと堪え切れなくなって、笑い泣きしてしまったの。しかも怒らないのよ。一緒になって笑うのよ。おまけに笑いながら、大事にするから、幸せにするから、だって。
好いわ、そう私が言うと、仲介役の日本人が考え直すべきだと反対しはじめたの。引き合せておいてよ。もちろん実務上のことだったけど。だから責任なんかないのに、「一夫多妻制」と聞かされて、「身内」としての責任を感じたのね。早計だと言われたわ。余りに止めるので、一応保留にしたの。両親への報告もあったから。でも来てしまったの。
それから無責任と思われてしまっては困るので申し上げておきます。祖母ももう亡くなっているの。だから一人きりだったの。
彼(画家さんのことよ)には相談したわ。君にはいいかもしれない、と言ってくれたわ。彼とは年齢も親子ぐらい離れているし、男と女の違いはあるけれど、私のこと誰よりもよく分かっているの。もう一人の自分くらいに。
あの時のスケッチ、途中で止めたのは、私がなにか決意を固めようとしているのを察していたからよ。そうだったと思うの。まだその時には彼にはなにも話してなかったけど。彼、あなたを見て閃いたのよ。私があなたによって決意するだろうことを。モデルのこと、彼にあなたを勧めたのは私よ。あなたのこと見ていたの。気がつかなかった?
近々、「新作」の披露パーティーがあるはずよ。案内状が届くと思うわ。絵を見て上げて。あなたになった私が描かれているわ。私になったあなたと言うべきかもしれないけど。
まだ結婚していないのは、これは相手側の事情でよ。私もいい加減だけれど相手も同じ。貴族でしょう。それに文化的なこと(宗教的なことを含めて)いろいろ複雑なの。私を連れてきてしまえば何とかなると思っていたみたい。もちろん私はそうなったわ。さらに一段とね。目下、一族を説得中というところ。私、ますます気に入ってしまったの。相手というよりこの状況が。それに自分自身もね。なにか解放されるの。すべてから。
でも、どうなるか分からないの。このところ、相手もすこし弱気になっているの。でもそれはそれで構わないの。怖いのはあまりに居心地がよすぎること。反対されているけど嫌われていないの。それどころか好かれているの。とくに子供(私が結婚した場合は義理の子供)たちから。それに子供たちの母親からもよ。「家族」だけではないわ。この国の人達はみんな優しいの。お国の事情は大変だけど。
今は、家庭教師よ、子供たちの。日本語習いたいと言うので。ビジネスも手伝っているわ。今のところは語学力が買われているだけだけれど。先のことは分からないわ。構わないの。なるようになれよ、そう思っているの。それに子供たちも口々に言うのよ。ナルヨニナルヨ、って。大合唱よ。あなたも気に入られるわね。
感謝しているの、あなたにはね。お会いしたばかりだったのに、勝手なことばかりで好い迷惑だったかもしれないけれど。あなたのことを思い出すと、自分を残してきたような(もちろん良い部分をね)気持になれるのね。なおさらご迷惑ね。いやだったら私のことを忘れて。いつまでもお元気で。
写真が何枚か添付されていた。いまY嬢が居る街(映画の題名で有名な街だった)の風景や子供たち、そして自分が写っている写真。でもアップではないのでよく分からない。しかも顔をベールで被っている。ヒジャブというスタイルだった。知っている彼女とは少し雰囲気が違っている。でも拡大すると、たしかにY嬢だった。
微笑んでいる。何人もの子供たちに取り囲まれている。子供たちは、「ナルヨニナルヨ」と声を掛け合っている。そういうふうに見える。そして、思い思いにY嬢を見上げている。Y嬢の腕の中には小さな子供が抱きかかえられている。その子だけがカメラに顔を向けている。大きな目の女の子だった。
顕子は、添付写真を閉じた。Y嬢が体の中から抜け出ていくのを感じた。M国に向け、返信の文面を打ち始めた。
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