影子(ようこ)もその一人だった。今、子供の受験がようやく終え、子供以上に開放感に浸っていた。
――合格しましたか。おめでとうございます。
――ありがとう。
――しかも第一志望で。将来が楽しみですね。
――まだ中学受験ですよ。この先どうなることか。
――でもどうなろうと、ここに見本がいますから。見本ではなく、最低保証かな。
――サイテイホショウ?
――はい。まさに。
――相変わらずね。でもあなたに付けていただいた「影子(ようこ)」のこと、結構、気に入っているのよ。
――それは光栄です。もう「影」のことなどお忘れかと思っていました。
――指切りしたのに。
――そうでした。指切りを。「影の指切り」を。たしかにしました。お陰で、僕の乏しい想像力にも灯を点すことができました。「影」を研究した成果も生れそうです。
――アンソロジー(「影」のアンソロジー)のこと? 私もいただいた「名前」のこともあるし、他人事には思えないので、挙げていただいた本、読んでいたのよ。
――気に入った「影」はありましたか?
――ええ、あったわ。でも今はまだ自分のなかにしまっておくわ。それより、先日の、といっても昨年の10月以来ですけど、お話の続きって、なんなのかしら。なにを聞かせてもらえるのかしら。
――お時間大丈夫ですか?
――ええ、十分にあるわよ。1年分も。もっとかしら。
――大変ですね、母親は。精神的な負担も子供より大きかったんではないですか。今日の影子さんには解放感があります、別人のようです。
――別人? そう、たしかに別人かも。苛立っている自分に苛立つ。そんな感じだったわ。子供への愛情でもなんでもないわ。子供から、「ベンチのあなた」のこと聞かされた時も、ただ敵対者にしか思えなかったわ。誰もが私を疎外するようにしか思えなくて。結局、自分で自分を疎外していたのね。それも分かっているのよ。でも分かれば分かるほど、ますます疎外感が強まってしまう、まるで蟻地獄。いろいろ考えたわ。自分を見詰め直すこともできたわ。私のなかの私をね。最初は嫌な女の部分しか見えなかったけど。子供から離れられる自分が見えてきた時、すこし自分が取り戻せそうな気になれたの。受験に失敗した時のことよ。もう一度、本当の母親になれる気がしたの。女としてももっと良い女にね。でも合格してしまったし、機会は奪われてしまったわ。でもこれも合格した余裕かしら。また嫌な女に戻っていくのかしら。
影子の話を聞いている方が面白そうだった。それでもよかったが、影子から「私のお話ではないでしょう」と質された。そうでしたと言って彼は始めた。「仮面劇」(2012.10[か])の続きだった。
具体的には、Ka子のその後と同時にそれ以前だった。過去の話だった。つまりKa子の自伝だった。
※
〔承前〕「仮面劇」(2012.10[か])
5
また同じ日常に戻った。場所も同じ街中だった。抱えているカメラもナップサックを下げた格好も日焼け止めを塗っただけであとはノーメイクの素顔も、のど飴を持っているのも同じだった。やはり同じように午前と午後にその場所に立っていた。
違うのは、巡回中の婦警が立ち寄ってくれるようになったことだった。知り合いになったのだ。相変わらず同じ場所に立っていたKa子に、巡回中だった婦警が自転車を寄せて声を掛けてくれるのである。
「今日も〝空撮影〟ですか」
1か月ばかり経ったある日、Ka子は思い切って誘った。婦警が非番の時、会って欲しいと。本当の話をしたかったからだ。最初からしても好いと思っていたが、あの時は交番のなかだったのでそんな話をしても分かってもらえないと思って、事情を説明するのが躊躇われたのだ。
そうは申し出てみたものの、婦警はなかなか応じてくれなかった。私人としてお会いするのは……。当然である。
そこで「現場」で話したかったと、そうしないと分かってもらえないからと職業意識をくすぐってみると、婦警はすぐに関心を示したが、それならなおさら仕事として聞かせて欲しいと切り返された。
「今ではだめなのですか、時間なら大丈夫ですよ」と自転車を降りようとする。
「その制服姿ではだめなのです」
決然とした口調だった。
どうしてですか、やはりなにか後ろめたいことでも? そう言いたげだった。交番の時に見せたような被疑者に向けた不審者を見る眼付きだった。
沈黙が続いた後、なにか思い当たることがあったのか、婦警の口元がすこし緩むと、「そうですか、分かりました」と、一気に同意に転じた。
婦警のなかの「自分」が、Ka子に個人的な興味を抱いたのだった。
実は、Kaが撮っていたのは自分自身だった。自分の「姿」だった。そして、そのための前提条件として、まず「影」を補足する必要があった。先行条件と言ってもよかった。なにかにカメラを向けていたのは、「影」を見つけるためだった。肉眼では見えない(補足できない)からだ。特殊なフィルターが必要だった。フィルターを透かしてはじめて捉えられる「影」だった。Ka子がじっと立ち尽くしていたのもそのためだった。その瞬間に狙いを定めていたのである。これが真相だった。
しかしいくら事情がそうだったとしても、いきなり切り出してすぐに分かってもらえる話ではなかった。それに、当たり障りなく世間話から始めて次第に相手の関心を自分に引き寄せられる気の利いた話術は持ち合わせていなかった。核心部分から入るしかなかった。案の定、疑われた、というより、折角非番に出てきたのにいきなりそんなことを聞かされるなんて、と少し不機嫌な顔もされてしまった。
――じゃ、私が今こうして話をしているKa子さんは、本当のKa子さんではないんだ。その時、乗っ取られたKa子さんなんだ。乗っ取り犯が「影」なんだ。ここがその場所(「現場」)なんだ。「影」を補足(「逮捕」)しないと自分に戻れないんだ。特殊なフィルターがあるんだ。「影」を補足できる。ともかく制服姿ではだめというのはそういうことだったんだ。警戒されてしまうから。後がやりづらくなるから。
なるほど、と言って婦警は納得して見せた。でも我慢していただけだった。
――そんな「事件」があったんだ。交番に見えられた方、なるほどどこか親近感が湧いたけど、やはり警察の関係者だったんだ。でも、50年前の事件でしょう。その時の刑事さんと言われても、やはりね、すぐにそうだったんだとは言えないでしょう。だって、そうだとしたなら刑事さんその時20代だったとしても、もう7、80歳でしょう。でもまだどう見ても50代前半にしか見えないし、それにその時の「被害者」がKa子さんなわけでしょう、被害時年齢が17才だということであれば、今の年齢は67歳になっていることになります。でも目の前のあなたはどう見ても20代でしょう。そうですか、26歳ですか、もっとお若いかと思いましたが、私よりお姉さんなんですね、でも40歳分足りません。どのように理解すればよいのですか。
Ka子は、婦警が自分に同情しはじめていたのが分かった。より正しく言えば憐れみはじめていたのが。なぜなら、あの時、交番を出た後、中でどのような話がされていたのか、容易に想像がついたからだ。頭のおかしい人間ぐらいにされていたに違いないからだ。〈その人〉のこともそうだった。二人で同じ施設に入っているとでも思っていたに違いない。やはり先輩が言っていたとおりだったのか、今ではその時の、ka子を前にした自分の熱の入った対応が愚かしく思えて、自己憐憫の思いにさえ襲われはじめていたのだった。
仕方がなかった。Ka子は余り強くない程度に催眠術を掛けた。10回目の玉を回すだけで済んだ。心のなかが純粋な証拠だった。かかり具合を確かめた。スイッチはカメラのシャッター音だった。さすがに世界の***のシャッター音は違っていた。すぐに効果は現れた。
――じゃ何かあった時は今度から(Ka子さん)=括弧Ka子さん、と呼べばいいわけね。了解!
私服姿だったが、婦警は背筋を伸ばして敬礼をした。Ka子も敬礼で返した。因みに括弧で括るのは、乗っ取られているという意味だった。
それから婦警が巡回してくるたびにカメラを向けた。すこし離れていてもその機械音は聴きとれた。その内にカメラを向けるだけでもスイッチが入った。婦警は、「では聞き込みに行ってきます」と、目を大きく見開きながら自転車を力強く漕ぎ出していった。数時間後、再び戻ってきた婦警によってその日の成果が毎回報告された。
解除の方法は、「のど飴」だった。「お疲れ様」そう言って、Ka子はナップサックの脇ポケットから取り出したのど飴を一粒手渡した。その場で口に含ませた。溶け切った時に解除されるようにしておいた。交番に戻る頃には元に戻っているはずだった。
Ka子は、その時17歳だった。街の風景は50年前と大きく変わってしまったが、まだその時と同じセーラー服姿の女子高校生が街中を歩いている。伝統を重んじる女子校だった。Ka子がその私立女子校の3年生の時だった。いつもの帰宅道を「現場」の通りに差し掛かった時、Ka子は消えたのである。正確に言うと自分ではなくなってしまったのである。
今でもはっきりと覚えている。立ち止まるつもりはなかったのに自然と足が止まってしまい、体から急に力が抜けていき、大きな眩暈が襲ってきたのだった。そのまま倒れてしまいそうになったKa子を、誰かが背後から支えてくれた。その時だった、一瞬、電流が走った。全身を駆け巡った。Ka子は懸命に堪えた。なんとか昏倒せずに済んだ。
支えてくれた人にお礼を言おうと、振り返ってみると誰もいなかった。見回しても誰もいない。どこにも人の気配がなかった。それが「事件」だった。Ka子がKa子でなくなる。
だれも信用してくれなかった。自分でも信じられなかった。顔かたちが変わってしまったわけではないからだ。何度も鏡を覗いた。いつ見ても同じ顔しか映っていなかった。
あなたなにか悩みごとでもあるの?
母親の直感で娘の様子がおかしいのを心配したが、もともと気持をあまり面に出さない娘だったので、母親もそれ以上は深く立ち入ることもできず、そのまま月日だけが過ぎて行った。それにその後も変わったことは何も起きなかった。
それが、やはり自分ではなくなっているのがはっきりしたのは、自分の姿が写真に映っていなかったことが判明したからだった。
卒業が間近に迫っていた時のことだった。一人の子がカメラを学校に持ってきた。まだ誰もがカメラを持てる時代ではなかった。発売されて間もないライカ判ニコン一眼レフカメラだった。父親のカメラだった。
クラスの中は大騒ぎになって、撮って! 撮って! の連呼だった。Ka子は窓辺に体を寄せて騒ぎを背中で聞いていた。カメラのシャッター音がした。これがカメラの音か、撮ってもらった子たちはカメラを取り囲んでいた。しばらく撮影会が続いた。騒ぎが収まりかけたのを見計らって教室の中に向き直ると、振り向き様を撮られた。仲間に加わろうとしないKa子を狙っていたのである。
何日かして今度は写真会になった。焼き付けられた印画紙でまたクラスの中は大騒ぎになった。騒ぎのなかを抜け出してKa子の傍に近づいてきたカメラマンのその子が、「おかしいわね。あなたの写ってないのよ。ほかは一枚も失敗してないのに」そう弁解気味に言って、少しだけ灰色がかった白いままの印画紙をKa子に差し出した。「これじゃ日本製のカメラもとても世界に通用しそうにないわね。」クラスメイトは自分の腕前ではなくカメラの性能を詰った。
そうではない、腕前でもカメラでもない。原因は被写体の方にあったのだ。Ka子は直感で分かった。白くなってしまったのは、被写体に陰影がないからだった。体のなかに空洞感が広がっているのも原因はこれだった。表情だけではなく、体内もなにか無表情な感じになっていたのだ。メリハリ感がない。質量が感じられない。重みが体内にないのだった。
一度原因が分かると、Ka子は、重力を無性に欲するようになった。次第に飢餓状態に陥っていった。渇きが癒せる――つまり重力が得られる場所は決まっていた。あの「現場」しかなかった。そこは普通の民家の前だった。民家に面している通りだった。
家人からの応答がなかった。留守だった。何度訪れても同じだった。最早限界だった。致し方なく無断で入らせてもらうことにした。鍵は訳なく開けられた。二階の屋根から物干し台に上がった。下を覗いた。まだ高さが足りなかった。やはり屋根の上まで上がらなければならなかった。
手頃な踏み台を見つけて一気に屋根の棟まで上がった。棟を跨いで妻側にゆっくり体を移動した。家は角地に建てられていた。真下は「現場」とは少しだけずれていたが、高さの方が大事だった。
立ち上る前に地面を覗きこんだ。気持が癒されるようだった。そっと立ち上って全身を空に向けて伸ばした。大きく息を吸い込んでそのまま体を前に預けるように傾けた。でもそれ以上傾かなかった。力を入れたが同じだった。体は向こう側に倒れこんでくれなかった。
後ろから誰かに抱き抱えられていた。気がつくと大勢の人が下から見上げていた。布団を広げている人もいた。
警察署に連れて行かれた。事情聴取だった。捜査課の一画に設けられた応接間だった。中年の刑事だった。最初は腫れ物に触るようにして問い質されていたが、何度問い質してもka子から同じ答えしか返ってこないのが分かると、見る見るうちに表情が変わっていって、人差し指を頭に当てて、「これか」と言って、回りにいた刑事たちと一斉に笑いだした。
特別被害があるわけでもないし、家屋への無断侵入も心の病では問えないからと家の人に納得してもらうと、警察は、後のことは精神病院に任せることにした。「事件」はそれで終了するはずだったが、すでに話が町中に広まってしまっていたこともあり、噂を聞きつけた(正確にはもの好きのご注進を受けた)新聞社が、丁度、「時代と女性」を特集していたこともあって、これも新しい時代の感覚(少女の感覚)と解れなくもないと、Ka子のことをコラム爛に報じた。
一般論に書き換えられてはいたが、無理だった。「心の乗っ取り犯!」とか「重力からの生還」とかいう小見出しもいかにも挑発的だった。Ka子は家に戻れなくなった。長い入院生活を送ることになった。実は今も続けている。家族にもその方が安心だった。別段、世間体のためではなかった。娘のためだった。まだ娘が重力を必要としていたからだった。
婦警は、(Ka子)がカメラを首や肩から下げてさらにバックも背負っているのが、これで完璧に得心がいった。「影」の補足と同時にこの問題もあったのだ。むしろ現実的な必要に迫られていたのは、「重力」の方だった。体に重さが必要だったのだ。持たせてもらって分かったのだが、たしかに重いカメラだった。バックの中身はさらに重い。両方合わせると結構な重量になった。
それにしても賢い婦警だった。さしたる混乱もなく67歳の問題にも解決がついているようだった。この分だと昇進試験もなんなく合格だ。スピード出世だろう。でも婦警は捜査課への異動がなによりの希望だった。夢だった。警察官を目指した理由だった。そのためにも異動の援けになる実績のことばかり考えていた。今が好いチャンスだった。疾うに時効は過ぎていたと言え、未解決事件に変わりはない。しかし詰めていくと時効とばかりも言えない。交番勤務の今だからこそ自由に動ける。巡回連絡の機会が活かせるからだ。この好機を逃してはならない。
でもと婦警は思う。それでは自己中心的に過ぎる。その前に人でなければならない。「被害者」を目の前にして、婦警である前に一人の人間でなければならない。人として黙っていられないはずだ。難事件だから解決できないかもしれない。たとえ解決できなかったにしても相談に乗って上げる。誰かに分かってもらえるのは大事なことだ。それだけで気持も楽になるのだ――婦警は思った通りの善人だった。
これまで誰にも理解されずに来たに違いない。私が最初の理解者になる。これも悪くない響きだった。でも分かっている。最初ではない、正確には第二の理解者だった。あの「刑事」がいたからだ。あの人が最初の理解者だった。Ka子を屋根の上で抱きかかえた人だったかもしれない。おそらくそうだろう。でも事件は解決できなかったのだ。資格はない。やはり私が第一の理解者だ。
そこで問題の67歳の件――カメラさえ下げていれば戸外にいても心配ない。重力の問題から免れられるからだ。これが大前提。次に年齢のことだが、これもこれでいいのだ。たしかに67歳なのだ。そして(Ka子さん)も26歳なのだ。これも間違いないのだ。67歳がKa子さんで、26歳が(Ka子さん)ということには。つまり二人は別人なのだ。だから二重被害者というのが、この「乗っ取り事件」の真相で、実は時効ではなかったのだ。
でもKa子さんは、いま(Ka子さん)のなかにいる。だから正しくは一重括弧と二重括弧の関係なのだ。おそらくきっかけはカメラだったのだろう。混乱するのでとりあえず26歳の((Ka子さん))を「鹿子さん」とする。鹿のような感じがするからだが、読み方としては「カコさん」ではなくひとまず「しかこさん」とする。67歳の(Ka子さん)を「過去さん」とする。故人みたいな言い方になってしまっているかもしれないが、50年前を強調しただけだ。
でも身体間移行の経緯としては、「過去さん」が意図的にしたことではなかったにちがいない。それにもともとそんなことは思ってもいなかったはずだ。「過去さん」とはそういう人だった。おそらく「鹿子さん」の方から声をかけたに違いない。「過去さん」がカメラを下げていたからだ。「鹿子さん」は、あまり友達がいなかった。いかにもそんなタイプだ。何度か見かける内にいつも同じ場所にいる「過去さん」に声をかけたのだろう。
途中の経過は省くけれど、「過去さん」は、「影」を撮っている、撮ろうとしている、撮れるのを待っていると答えた。それも自分の「影」を。それに「鹿子さん」は、モノクロ写真を通した白黒の世界をテーマにしていた。こうして次第に話が合っていった。
もともと「鹿子さん」も写真とは自分の「影」のことだと考えていたからだ。二人の「影」の内容にはずれがあったが問題はなかった。「鹿子さん」は、次第に「過去さん」に自分の将来を見るようになった。自分も生涯を掛けて自分の「影」を撮ろうと思った。彼女のような写真家になりたいと思った。そしてなった。なると、「過去さん」のなかに未来だけではなく自分の過去も見えた。「過去さん」は「過去さん」で「鹿子さん」に自分の未来が見えた。そしてなった。自分の未来に。二人は無意識のうちに合体していたのかもしれない。
「過去さん」は、床に伏せるようになった。実は病を抱えていたのだ。これまで気力で生き抜いてきたのだった。「鹿子さん」に譲ったカメラに命が繋がれたことを確かめながら、やがて「過去さん」は静かに世を去った。
「影」を撮れる(捕縛できる)カメラだった。特別のカメラだった。「鹿子さん」にとっても、かつて「自分」を撮れなかったライカ判ニコン一眼レフだった。おそらくあの時の事情聴取の際も、どこか見えないように身に付けていたにちがいない。いまや二重露光を可能にするカメラだった。
「過去さん」の乗っ取り犯は、影を奪い損ねた。事の次第はこうである。
ka子さんは振り返った。その時、誰もいなかったはずの背後に、もう一つの別な「影」が伸びていたのを見た。自分の影に覆いかぶさっている「影」だった。こうして「影」は、予想外に「過去さん」に思いのほか早く振向かれてしまったのだった。乗っ取り犯は、おおいに慌てた。諦めるしかなかった。致し方なく身(「影」)を引っこめた。そしてka子さんとしてみれば、自分の影を残すことができたのだった。
昭和30年代のことだ。町は大きく変貌した。コンクリートがすべての地面を覆った。「影」は舗装され尽くしたのを好いことに地面の下に潜んでいる。誰かの影に隠れるようにして時たま気づかれないように身を乗り出す。まるで潜水艦の潜望鏡だ。「影」は「影」で、それ以来、「自分」に不足していた。完璧に一体になるとは、「影」にとっても自分を取り戻すことだった。そのためにも「現場」を放棄することはできないが、一か所に留まっていては窮屈だったし、それに逆襲に遭いかねない。「過去さん」から逃げ回っている。そして今度は「鹿子さん」を見ている。「過去さん」が亡くなった今、魂がまだこの世に留まっている内になんとかしなければならないからだ。狙っている、「鹿子さん」を。
――ソウワサセナイ。ワタシハ警察官ダ。目ノ前デ起コロウトシテイル犯罪ヲ黙ッテ見過ゴスコトナドデキルワケガナイ。思ウヨウニハサセナイ。サセテナルモノカ!
Ka子は、彼女に昇進試験を受けて欲しかった。自分のことは自分でするから。十分だから、そう言った。彼女の人生を奪いたくなかった。
彼女は、これは自分の問題でもあるのだと言い張った。そして、ついには交通課への異動を願い出た。異動は短期間で叶えられた。地域住民から彼女の交番勤務について不審な情報が寄せられていたからだった。不審がられようがどう思われようが、今や彼女の預かり知らないことだった。頭の中にあったのは交通取り締まりの第一線に立つことだけだった。そしてそうなった。駐車違反の取り締まりである。いよいよだ。
ミニパトで街に繰り出す。駐車違反車の下は隠れ蓑になる。彼女は違反車輌の回りをまわる。チョークで印を付けまくる。違反車を一掃する。隠れ蓑を取り去る。追いつめる。不意を衝く。待ち構えているKa子の願いを適える。その瞬間のために警察官になったのだ。 これは最早使命だった。歩道上でカメラを構えるKa子を背中に感じ、彼女は、さらに気持を高ぶらせずにはいられないのだった。
一言だけ付け加えておくと、実は、「のど飴」は疾うに無くなっていて、彼女は途中からかかりっ放しになっていたのだが、いつかそれが(催眠術にかかっている時の方が)、以前より彼女らしくなっていて、本人はもとより、回りでも婦警になるべくして生れてきた女性だと、やり過ぎなことを含めて、彼女の成長ぶりにひとしきり感心させられていたのだった。
※
――その私立校って、もしかしたら私の出た女子校なのかしら?
たしかに影子は女子校出だった。伝統挍だった女子校は、公園のある街のシンボルでもあった。公園のなかを連れだって歩く女子校生たちは輝いていた。「私の母校よ」そう言って懐かしんでいた影子に、その時、彼は何かを(あるいは彼女のなかの「過去」でも)感じ取っていたのかもしれない。
――ご案内しましょうか?
彼は「ぜひ」と言って、影子の誘いに応じた。
――その代わりに、「現場」に連れて行って下さる?
彼は「望むところです」と言って、自分からも誘った。
そうしてその日、彼は影子との散策に次の展開を探った。
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