K子/わたし
お互いに意味のないことこれ以上止めない? なにか間違えたのよ。仕方がなかったとしてもね。だれの所為でもなく、ただ若かったということ。そういうこともあるのよ。
なるほど、と夫。
他人行儀な口振り。それ以上によそよそしさを装って、当事者であることを認めるつもりはないかのように突き放したように繋げる。
それで、と。
この期に及んでまだ「好い男」だと自惚れている。一つ覚えのようにそれしか芸がない。うろたえることなどどんなことがあってもできない。曝け出せない。間違っても妬ましい姿など。自分が女に嫌われることなどありえない。自信に満ち溢れた顔。ほどほど憐れとしかいいようがない。
結婚する前、夫は言っていた。俺に声を掛けられるのを待っている女はいくらでもいた。そのために会社に来ている、そんな女が俺の周りにはいくらでもいた。かける気がしなかったが、付き合おうと言って断る女はいなかった。ホントさ、自惚れなんかではなくてさ。
で、お前の方はどうなんだ?
私?
どうでもよかったの。とりあえずそこあにあるもので、まわりで一番と、そう思っているものが手に入れば。それが最高というわけでもなくてもね。それだけ。たしかに、いい加減と言われれば、そうかもしれないけれど、分かりやすいわけ。そういう手の入れ方って。面倒でなくて。目に見えないもの探すの、私の柄じゃないから。
そうでしょう、どこかにいるかもしれない知らない人のことなど考えても、実感が湧かない。ピンとこない。世間ナンテナンボノモノカシラ。つまりが関西弁以下なわけよ。いわゆる世間体みたいなものを気にしながら、好い方といっしょになられてと羨ましがられて、それがなんだとわけ。クダラナイ! っていうこと。実にもって意味ない、ってそう思っているわけ。マジで純粋によ。その場、その場でしかない、たとえそうだと分かっていてもね。
で、自分を知るわけ。呆れた自分をね。その度ごとに。バカみたいな自分をね。強がりと言われても仕方がないけど。それもそれで良しとしてしまうわけ。後悔はするけど、嫌いじゃないの、そんな自分のこと。だめ? なんとも救いようがない? そういうことね。
確かに。異議なし。最初から分かっていそうなものよね。ほんと、あなたの言うとおり。いなかったのよ。私の周りにはあなたのようなジンセイ(人生)を知っている人がね。わたしに忠告してくれる人がね。わたし自分で思っている以上になにも自分のことが分かっていないみたい。言われてみないとだめなの。そういうこと。後でないとわからないのよ。いろいろ考えるの好きだけど、頭だけではダメなの。そのたびに痛い目に会わないと。
もちろん、いろいろ言われたわ。諭してくれる人もいたわ。でもわたしすぐ顔に出てしまうみたいなの。それも反発心ならまだよかったんだけど、違うの。逆なの。聞いてなかった、というそんな顔になってしまうの。だから親身になってくれる人には、逆に無視されたみたいになってしまうわけ。そんなつもりまるでないのに。
バカ正直なの、言葉にね。突き刺さない言葉に冷淡なの。打ちのめされないとだめなの。それが顔に出てしまうの。気づくより先に。で、そこが難点なわけ。自分でもよく分かってる。だから次はなし。
でも、最初から次なんかなかった、それだけのことよ、とそう割り切ってしまう、さらにいけないところ。
でもあなた、まだ3日目よね。知り合って。それなのにわたしのことオダヤカに非難してくれる。そして、わたしったらすっかり納得の気分なわけ。なるほどそういうこと、わたしの方がいけなかったんだ。そうなんだ? そういうことね。
羨ましい。この弾けるような気分が。
はじめてK子を見た時、とっつきにくそう、そう思っていたけど、なにか気にかかって、ついつい仕草を見てしまった。
なに考えているのかしら? まわりを見てのるか見てないのかもはっきりしない目線。でも内に籠っているわけではない。不用意にそのまま止まってしまったような顔おもて。外側にも内側にも向いてない顔面。どことなく貼りついているだけの顔とその表情。それが美形なだけに困ったもの。なにか複雑な気分。仲良くできるのかしら。
それが、まるで別人。裏切られた。自己紹介に立ち上った彼女。正直驚いた。だったらいままでの、寸前までのその顔はなんだったわけ。
――手っ取り早く言うと、30超えたバツイチ。すべてを投げ出して1年。いろいろ放浪してました、各地を。それまでは化粧バッチリで、ブランド品で着飾って脚線美で闊歩して、高収入のエリート旦那囲って。その前はバー行って踊りまくって、ちやほやされて、言い寄ってくる男には、趣味テツガクよって、嘲るように言って。うそじゃないわ、此処にきているのもそのため、お話しする? シューペンハウエル、ウィトゲンシュタイン? ヘーゲルでもいいわよ、弁証法、どう? こんな調子の浮かれ女でしたが、夫と別れた後は、身に付けていたモノ棄てまくって、すべて断ち切って、何か月も日本も飛び出しました。そして1年振りの日本。日本再発見。居る所には居る。皆さんとのご邂逅。思っていたとおりでした、ツワモノぞろいだってこと。ここでは言いづらいこと、いろいろお話します。追い追いと。
次の人が立ちあがる。K子に負けまいとテンション上がっている。火付け役だったこと、 自覚しているの? 意図的? でも素知らぬ顔のK子。再び裏返したような顔。頬杖して遠目になにか見ている。夜で外は見えないけど。別れた旦那のこと? なぜかそう思えて、後日、確認した。
「そう見えたの?」
「ええ、どこか無理しているみたいだったので」
「それ違うと思うけど。だってわたしから縁切ったのよ。別れてって」
「それで、なんて言われたの?」
「良く考えた方が好いんじゃないの、みたいに言われて。なにそれ、相談に乗っているつもり。当事者同士の話よ。別れましょうって言っているわけ。わたしがあなたに。言われているのよ、あなたはわたしに。そのあなたは何のつもりだとも少しも怒ろうとしないで、『よく考えた方が好いんじゃないの』って、まるで人ごとみたい。それ別れたくないということ? ならダメだといったら。別れないぞ、と言えば」
「そう言って迫った?」
「迫ったって?」
「本当は別れたくなかったんでは?」
「えっ? わたし、別れたくなかったんだ? そういうこと言われているわけ? それはありえない話よ」
「あなた叩かれたことある? 男に?」
ないだろうと思った。だから自分で叩いている、叩こうとしている、気付いていないだけ。
わたしたちは、朝方まで飲み明かした。正確に言えば、K子はまるでお酒飲めなかったのでわたしがひたすら飲んだ。でも彼女は、言葉だけで十分酔うことができた。過激だから。容赦のない言葉。これって才能?
K子が吐き出す言葉。嘘つかない言葉。つけない言葉と言った方がいいかもしれない。だから言葉で自分が確かめられる。嘘がないかを。そのまま嘘の人生でないかまでも。一息に。
「そうよ、別れたくなかったのよ、あなたは。それはないというなら、別れた旦那ではなく、旦那一般とよ。そうよ、一般とよ」
酔いに任せた言い草になっていた。「旦那様一般」と言って、自分でも何のことだかはっきり分かっていなかった。ともかくすこし癪だったのだ。まるで手加減がないから。ときに辛辣だから。それにK子の結婚生活を聞いているうちに少し「旦那様」が可哀想に思えてきた。無理よ。彼女の気持ちに応え続けることなんて。だって彼女自身ができないんだから。3年か、よく頑張ったわ、旦那様は。違う、旦那様一般は。
N子/わたし
わたし達の中でN子だけがみんなと少し距離を置いていた。ほかの者たちは前からの知り合いだったようにすぐに心を開いて深い話に時間の経つのを忘れていた。気がつくとN子の姿が途中から見えなくなる。
N子は庭に広げられたパラソルのなかだった。わたしはアイスコーヒーを二つ手にして傍らに腰掛けた。
「シロップ入ってないけど」
そう言って、よかったらとN子に促した。N子は受け取った。受け取りながら、「あッ、あッ、ありがとう」といって顔を強張らせた。
わたくしは自分の笑顔に自身がある。
「いいのよ」そう言って「お邪魔じゃなかった」と微笑みかけた。
N子は言葉にすこし詰まる。軽い吃音だった。でも、彼女の語学力は、抜群でしかも吃音にならない。
「インド楽しかった? でもインド英語、大変よね、地方の。私も経験あるけど。ついていくのがやっと。全部通訳するなんてとても無理。あんなに困惑したことはじめて。冷や汗かきっぱなし。もうこりごり。でも土地は好き。人も好き。仕事でなければ訛りの英語も全然気にならない。かえって親しみやすいくらい。でもまた行ってみたい、仕事でなくね。とくに行きたいのは、南インドの純農村地帯――」
でもN子は話に乗ってこない。自分の方の体験談は口にしなかった。でも大丈夫よ。少しも気を悪くしたりしないから。わたしはまた微笑みかける。もっと親愛の情を籠めて。
ところでN子は、自己紹介を用意しておいたペーパーで行なった。K子ではじまって一気に高まった即興的な臨場感との落差は大きかったけれど、読み上げられた吃音気味の声を聞いていて、みんな事情を理解した。順番を最後にして欲しいと申し出たことも。そして好意的な気分を確かめ合った。
N子もここに集まった人たちのことが好ましかったようだった。自己紹介のときの警戒心も次ぎの日の朝からすこしずつ解いていった。先入観と縁のない女たちだったからだ。吃音だからといってそれが彼女自身をつくっているわけではない。関心は内側にしか向いていない。もし外側に興味があるとした、吃音でもなければ、化粧でもない。服装だけだ。と言っても着飾っていようがいまいが関係ない。内的体験を纏っている服装であるかだけ。
どこで何をしてきたのか、自分にとって意味ある体験だったのか、男との付き合いに関しても、それが今の彼女をどう創っているのか、専らの関心はそれだけ。好い男だったのかも、今の彼女に活かされているのかでしか興味がない。リッチやイケメンなど最初から問題外。
世俗に興味や関心がないではなくて、世間に世間以上の意味を認めていない。しかもいちいち口にしない。ホンモノだ。猛者揃いだ。負けそう。わたしどこか変に世間に気遣っているから。
でもそのわたしだからこそN子に特別の関心が向けられる。とくに男の嫌い方に。内面に潜む嫌悪感に。当の本人はそんなこと口にしないし、彼女たちの男遍歴も驚いたような顔で楽しそうに聞いているけど、どこか無理した笑い方。嫌悪感が仕舞いこまれているため。気づいていないだけ。その時見せる横顔を見逃さない。見逃さないだけではない。彼女の中の神経回路にわたしを繋げてしまう。
そして回路を辿って行ったとき、その回路が男へ嫌悪感の裏返しとして、同性に向けられているのをわたしは知ることになる。それもK子にである。K子が男を悪し様に言うからである。容赦ないからである。
ほかの誰もが真正面から見つめるように、N子もそんなK子を見詰める。男をさっさと物体化してしまうK子。小気味よいほどの結論の早さ。N子の知らない同性世界。N子は不安になる。同じ女である自分に息苦しくなる。
今度はK子の心のなかを覗くような眼差し。気づかれないようにしてるけどダメ。わたしは見逃さない。そして教える、見ているわよと。でも見られていることにも気づかないN子。「女」と闘っているその心の内。
一方のK子は、そんなことは(どう見られているかなどには)平気で、ともかく口ぶりは終始具体的で、はじめから変わることなく何ごとにつけ固有名詞で話を組み立てる。しかし、普通の人なら囚われがちになってしまう固有名詞に対しても、しっかり清算されているから、自分自身と一体であったはずのかつての固有名詞にもすこしも拘束されない。かえって突き離すこともできる。再びN子の眼差し。K子に囚われた心
――そんなことないのよ。K子だって大変なのよ。
Kッ、K子さんて、私と同じと思えない。べッ、別の人、とN子は言う。言いながら気持ちを高ぶらせている。アイスコーヒーに手を伸ばしても、カップを手にしたままいつまでも口をつけずにいる。
次ぎの日、またわたしたちはパラソルのなかにいた。わたしを見るN子の表情がK子の話題を期待していた。話題を変えよう。自分の話をすることにしよう、固有名詞を使って。わたしはわたしでK子に学んでいたのだった。
私たちの同棲生活はもう長い。結婚しようかとダンナは言ってくれるけど、「いい」と私は答える。ダンナはいつも優しくて、私を傷つけない。でも滅多に会わない。1年も会わないでいることある。二人の仕事の所為だけど、それだけではない。会わないでいるような仕事の組み立て方をしてしまう。とくに私の方で。
10年目。でもいっしょに暮らしたのは、合計しても1年にも満たない。正確に言うと妻問い婚。ダンナは在外研究者。文化人類学者。所属は海外研究機関。久しぶりに半月いっしょに暮らした。ここに来る前。「別れたかったらそう言えよ。俺の方は覚悟できているんだから」そう言うの。「アンタこそ別れたかったらそう言ってよ。私に言わせないで」。言い返したの。「俺が? そんなわけがない」。ダンナは異議を申したてるように言うわけ。
好い人(女)いたらもらってもらおうかなと思うことあるの。たとえば今のあなた……。ダメ? だってあなたなら会えないでいてもきっと平気だと思ったから。違う? 誤解しないで。あなたの優しさだからよ。それに本心でダンナのこと解放してあげたいと思っているの。大事な人(男)だけどそれだけになおさら。
N子は冗談を言われているのか、からかわれているのか、困った顔して落ち着かない感じで唇を噛んでいる。
ダンナとN子。まんざらではないかもしれない。本気で突き出してしまおうかしら。ダンナの前に。人類学者は未知に憧れる。囚われる。N子あなたはまるで「未知」ね――知らないでしょう自分のこと。
「ス、ス、ステキな」と呟くような小さな声で言って、わたしが差し出したダンナの写真に恥ずかしそうに見入る。顔が赤らんでいる。勝手に困惑している。本当に危ないN子。
管理人/わたし達
「ハウス」には一人の老人がいた。管理人である。食事の準備もする。最初わたしたちは、女だけの場所で、管理だけではなく食事の賄いもすることを知ってすこし躊躇ったが、出された食事の味に驚いた。プロの料理人の腕前だった。年若い自分たちはいただくばかりで、毎回、申し訳ない思いにすこし気づまりを感じたが、あまりの美味しさに次ぎの食事を楽しみにするようになった。
70代だろうか。それが65歳だった。「老人」ではなかったが、そう見えたのは、料理の味に反して影が薄く、どことなく疲れた感じだったからだ。生命感にも乏しかった。でも女性ばかりの「ハウス」で寛げる時間をつくる上では、異性を感じさせない適格の管理人(賄い人)だった。
一週間経った時だった。一度自分たちで食事を用意しようということに話がまとまった。管理人へのお礼の気持を形にして現したかったからだが、お互いを理解し合いたいという思惑もあった。自活者揃いだった。料理もそれなりに自身があった。それだけに毎回美味しい食事を出され、自分の味と比較してしまう。折角だからプロに学んで帰りたいという欲にもなっていた。
「今夜は私たちに準備させてください」
そう申し出ると、これが自分の仕事だからそんな気遣いはしないで欲しいと管理人は、まるでわたし達が自分を哀れんでいるかのように解る。違います、味を試してもらいたいだけです。美味しくする助言をいただきたいのです。「別にワタシなんかが」と、それでも応じようとしなかった。
わたしは言ってしまった。こんな美味しい食事をいただいて本当にみんな感激している。でも自分たちも料理には自身があるんです。本当です。挑戦させてください、と。呆れたという顔をしているみんなの顔が、でもわたしを応援していた。
――なら当てさせて下さい。どなたがお作りになった料理か……。
試食会にさせてもらいたいというのだった。奇異な感じがしたが、なにかおもしろそうと、管理人の「条件」を容れることにした。
試食用に取り分けられた料理の皿や鉢が並ぶ。テーブルの前にわたし達が立ち並ぶ。だれもが本当に分かるのかしらと思っている。わたしが管理人を呼んでくる。わたしなのはわたしが一番年長者だったからである。
ダイニングルームに管理人が現れる。テーブルを見詰めている。計5品が並べられている。そう、今この「ハウス」には5人の女性が同宿している。わたしはK子と同室だった。
管理人は、一口ずつじっくり食べた。その都度管理人の表情を見守る女性たちに面を上げだ。2順目にはいる。最初の判定を確かめている。今度は面を上げない。3順目で椅子に背中をつけて、薄眼で彼女たちの顔を一人一人確かめるように眺めた。確信的な顔になっていた。
「どうして分かったんですか」
誰彼からともなく声が上がる。全品正解だった。
はじめて管理人の顔から笑みが漏れた。ウソみたいという声に照れ笑いを浮かべた。満足そうだった。いつも料理の味を称えられても「それはどうも」程度で、特別なことをしているわけではないからと、わたし達の賞賛にはどこか冷めた感じだったので、その笑みを浮かべた顔を見ていると別な人のようだった。
それに食事時、別のテーブルで食事を摂っていた管理人に同席を促しても「ここで」と同じテーブルには着こうとしなかった。わたし達を嫌っている風ではなかったし、それに「ハウス」の趣旨から言ってもそんな人を管理人に就けるはずがなかったので、たんに人づきあいが苦手なだけなのだ、一人でわたし達の笑い声を聞いている方が楽に違いない、そう思ったわたし達は、別テーブルの管理人に遠慮なく自分たちの食事を愉しんだ。
しかしそうではなかった。たしかに愉しんでいたが意味が違っていた。それがこの試食会で判明することになった。わたし達は誰一人、自分たちがそのようにして見られていることには気づいていなかったが、管理人はわたしたちの食べ方を見ていたのだった。それも観察だった。
当たった理由もその成果だと聞かされても、まだ次ぎの食事のためだったとしか思えなかった。少しでも美味しい料理を出したい。口では美味しい美味しいと言われても、自分への労りでそう褒めてくれるだけだ。でも料理を頬張る口許は違う。ウソはつけない。そういうこと。やはり本物の料理人だ。管理人さんは。
管理人は言った。表向きはたしかにそうかもしれないが、と。
――ワタシは女性の食事する姿が好きなんですよ。そっと見ているのが。
そう言って困ったような顔をし、やがて赤らんだ顔を隠すかのように薄くなった額に手をやってバツ悪そうに軽く叩く。さらに知らない管理人の姿だった。
その仕草を見て、誰もが一瞬そう思ったことを管理人は自分の口から申し出た。
――いやらしいですか? いやらしいですよね。
誰も答えようがないといった困惑気味の顔になって、すこし項垂れた管理人を見詰めていた。
――もうこの歳だからいいですけど、昔はこれでずいぶんと失敗しました。レストランでは苦情を言われたこともありました。気づいていないと思ってすこし大胆になっていたら、連れの男から胸座を掴まれたこともありました。
いつ頃からでしょう、若い女性が電車の中で平気で物を口にするようになったでしょう。私には嬉しいかぎりでしたが、でもどうかと思いますよ、そんなウソをつく口しかできない食べ方では、人間不信というか女性不信というか、気持が萎んでしまいますよ。きっとそんな顔になっていたんでしょうね。ある時、たまたま一緒の駅で降りることになってしまい、降り際に「キミワルッ!!」って蔑むように罵られて、回りにいた人たちに勘違いされてしまい、「痴漢ですか!」と腕をねじ上げられてしまいました。その後、駅の事務室で警官まで来てさんざんでしたよ。
でも一番の失敗は、会社を辞めることになってしまったことでした。噂が立ってしまったんです。見られているっていう噂が。そのうちに社員食堂で女性社員が食べなくなってしまいました。すぐに呼ばれました。総務課長から言われました。社員食堂出入り禁止だって。でもそれだけでは済みませんでした。薄気味悪いって、女性は生理感覚が強いから、仕方ない、そう言われても。仕事に支障が出てしまったんですよ。辞表を出しました。受理の際、一言、バカな奴だと言われました。
管理人の話は続いた。その後も同じことになってしまった、と。見ていても気づかれない仕事に就いたのにと。レストランのウエーターだった。なるほど来店者の食事姿を見守るのも仕事の内だった。たとえそれ以上に見ていて見方が変だと思われても、軽く頭を下げれば、それで事なく済まされることになる。それに客は他にもいる。大勢いる。対象者には事欠かない。客にはそれで済んだが、今度は店長から言われてしまうことになる。内から食中毒ださんでくれ。いきなりそう言われたというのだった。その眼は黴菌の目だ。不潔で汚らしいしいやらしい。お客さんから患者が出ない内に消えうせてくれ。嫌ならいい、保健所に突き出してやる、そう恫喝されたと。保健所? ええ、保健所だそうです。もちろん店を辞めました。迷い込んだ野良猫でも追い払うようにして追い出されました。でもいいですそれでも、と。
それから次ぎは、と言いかけたところだった。
「わッ、わたしの食べ方は、きッ、汚いですか」
突然、N子が口を挟んだ。だれもがその先行きを確かめようと身構えていたところだった。一瞬わたしを含めて皆の咎めるような眼差しが向けられた。困ったようにN子は俯いた。
N子が口を挟んだのは、管理人が可哀想でならなかったからだ。さらに続くのを誰かに止めてもらいたかったのだ。
――ここにいる皆さんはだれもがみんな綺麗な食べ方です。もちろんN子さんもね。N子さんはとくに綺麗ではないかと。
「わッ、わたしが、だッ、黙って食べているからですか」
自分を失敗者だと決めつけているN子にとって自分が一番になるのは認められないことだった。
「じゃ、わたしが一番汚いじゃない!」
C子が怒ったように口を開いた。たしかに一番のおしゃべりだった。でも今度はC子の優しさだった。N子がまた困ったまま下を向いてしまった。
――C子さんの食べ方はステキですね。お口に力と張りがおありです。言葉が料理と一緒になっているからかな。絡められているんですね。違和感がないんです。両方を咀嚼するのに。幸せな料理です。作った者としてもありがいことです。
なるほど。そう言われると納得の気分だった。管理人は続けた。
――それだけではありません。同じ食事の席についているものも幸せにします。デートの時はどうなんでしょうか? 同じですね。きっとそう思います。食べるということは、ウソをつけなということです。口を使わないで食べられたらマジックです。その口をどう使うかと言えば、まず口に運んだ料理を頬張るために、口を開かなければなりません。そして閉じなければなりません。その後は口を動かさなければなりません。飲みこむ時には喉元が膨らみます。頬の筋肉と動きが繋がっています。当たり前だから誰も一々に気に止めることなどしません。
でもそれだけに、どこかにウソがあれば、隠せません。気になるのです。そのウソが。ウソというのは違和感のことです。とくに口の動かし方です。その人の心とのアンバランスです。アンバランスに私は胸が苦しくなるのです。自信をなくすのです、自分に。他人のことなのにそんなことどうでもいいことなのにと誰もが思います。自分でもそう思います。それがだめなんです。自分ならまだ我慢ができます。その口がウソだと思ったら、噛み締めたまま口許を解かなければいいです。ですから、勘違いされてしまいます、目許で応じるでけですから。バカにしているのかと思わわれてしまいます。友達もできませんでした。女性からは気味悪がられてしまいます。ですから恋人どころか、女友達もできませんでした。
病気かも知れません。きっとそうでしょう。でも慣れました。それに今はこの仕事に就くことができました。今、ワタシの気持ちは楽なんです。ここに来られる皆さんがワタシの安心なのです。自分に対する自信なんです。どなたの口許にもウソがありません。ウソのない沢山の口許に出会えるのです。
ウソがないのは普段にそれがないからです。普段が見えるのです。C子さんを例にして申し訳なかったかもしれませんが、C子さんなら皆さんに分かっていただけるかと思いましたので。
ええたしかに、単純脳みそですから。C子は皮肉で返したが、もちろん怒ってなどいなかった。
N子には話が戻らなかった。でも誰もが分かっていた。いつも自分の口が「失敗」しているのに、最初にその口が開いたのは、自分の傷みより他人の痛みに敏感だったからで、しかもその痛みに我慢がならないからだった。
「でも料理の味と食べ方は直接関係ないんでは……?」
理論派のO子だった。同時に現実派だった。だから上辺は一見ドライな感じだった。でも実際はその分ウエットだった。
――そう思われるかもしれませんが、それが最初に分かったのはO子さんのお料理でした。すぐにと言ってしまうと、お気を悪くなされるかもしれませんが。
O子は解説を求めなかった。不満でもなさそうだった。N子やC子の時がそうであるようにそれだけで何となく分かった気がしたからだった。ではわたしの場合は? と咄嗟に疑ったが、わたしもK子も「解説」は求めなかった。いままで気づいていなかった自分が露わにされる、そんな思いは、どこか気恥ずかしいものだった。羞恥心だったかもしれない。
でもK子の場合は違っていた。後でこう告げるのだった。
「面白くない。そうでしょう、なんで、口許で私のことが分からなければならないの。人格無視っていうわけ。性格や雰囲気で言えないわけ。だってそうでしょう。自分を表現することでしょう、お料理するってこと。違う?」
わたしが責められているようだった。
「あなたが弁護するからよ。知らない自分を教えてもらえるかもしれないなんて言うから。知りたくないわ、そんな自分!」
K子の言うことは分かる気がする。K子の料理が凄く美味しかったからだ。意外なほどだった。でも管理人は見抜いた。料理を当てたと言うことは人格を当てたことなのだ。私には気付けなかったことである。そんなに料理が上手なんて。
怒るだろうな、こんなことを言ったら――K子、あなた、見かけとはとがって意外と男との関係を大事にするのね。でもそんな自分を出そうとはしない。見せようとしない。見せるくらいなら見せない方を選んでしまう。それじゃ、一体誰が見てくれるの。なにもしないで現われるのを待っているわけ。待つ? 失言々々。待つわけがないか。でも出さないし、待たないとなると、どうなるのかしら、あなたの「人生」は?
訊いたわよね、あなた旦那とちゃんとシェアしていたの、お互いの気持? って。でもそう訊いたこと、ここで撤回するわね。K子、あなたは、しっかりシェアしていた、シェアどころか、与えるだけ与えて相手からもらえないでもなお与える、平気でね。そして、結局、テイクアウトされた。持ち去られた。それは美味しい料理だからね。そういうことなのよ、当てられたといことは……。そして、それでいいというわけ。テイクアウトするよりされた方で。ますます素敵になるというもの。強がり? とんでもない。さらに料理がおしくなるからよ。あなた流に言えば人格がね。きっと、最後まで分からなかったのは、K子あなたの料理だったはず。
わたし、管理人さん見ていたの。口許。管理人さんのようにしてね。目許は見ないで口許だけをね。
わたし、管理人さん見ていたの。口許。管理人さんのようにしてね。目許は見ないで口許だけをね。
男/鈍色の虚空
二重巻きにしてマフラーを耳たぶにまで持ち上げる。太陽を遮った鈍色の空。人影の途絶えた冬の公園の中をポケットに両手を突っ込んで前屈みに進む。冬空の男女。並んで歩く。少な目の言葉に時々触れ合う肩が二人の距離を縮める。枯れ枝を飛び交う雀たちの自由闊達な囀り。ベンチの下に舞い下りた一羽が一人勝ちに啄ばむ小餌。公園の冬の昼下がりなりけり。
近づく猫の気配。すんでのところで枯れ枝に飛び移って、難を逃れ、そのまま乱舞。危機の源は、すでに地上で羨ましげに小枝を見上げるほかなく、所在無げに幹の根本に体を擦りつける。気がつくと彼(野良猫)の傍らに一人の男が佇んでいる。
(猫)ドウダッタ?
(男)このとおりさ。
そう言ってさらに深くポケットに手を突っ込み、首をすくめる。
(猫)思ウヨウニハイカネイナ。
(男)君の言うとおりだった。
(猫)元気ダッテコトヨ。ナニヨリノ便りダ。ソウ思ウコトダナ。
野良猫は男の足許に体を擦りつける。男は腰をかがめて猫の背中を擦る。煩い! 猫が軽く手の平を噛む。わざとらしく痛がって見せる男。いかにも疲れた中年男。
噛んでいた男の手から猫の口が離れ、彼方に首を回すと、釣られるように男も小首を巡らす。カメラを胸元に抱えた女性が近寄ってくる。
(女)写真をやっています。
(男)撮られたのかな?
(女)すみません、無断で撮らせてもらいました。
(男)かまいません。でもなにか景色になっていたんですか。
(女)お話してましたよね。ネコちゃんと。なんか本当に話しているようで。
(男)そうです話していたんです。僕の親友です。腐れ縁ですが。
女性は頬笑みを浮かべて、猫に話しかける。
(女)そうなんだ、話せるのね。一枚撮らせてもらっていい。
(猫)ダメ! 撮ルナ!
(女)イヤだ、本当に話せるんだ。
(男)照れているんですよ。撮ってあげて下さい。
(猫)勝手ニ決メルナ!
男の影に隠れる野良猫。カメラを構えて回りこむ女性。シャッターを押される寸前でタイミングを外す猫。再び構える女と素早く身をかわす猫。今度は逆回りで不意を衝くと、「ヤバイ!」という猫の反転を許さずにバシャリと押しこまれたシャッター。そのなんとも小気味よい響き――猫の負け(なりき)。
ダカラ若イ子ハ苦手ナンダ。
猫はそう言うと、女性に向かい「ジャーナ」と言う代わりに「ニャ~ア」と一声鳴くと、反転勢いよく駆け出して公園を後にする。
その猫を目で追いながら女性が言う。
私、今、男と別れてきたんです。
そう言えばさっきの男女。そうだったのか。ならさっきまでの笑い声。無理していたんだ。アイツ(猫)は分かっていたのか。この子のことが。
私なら離さない。あなたのようなお嬢さん。見る目がないというか、その男、それともあなたの方で愛想つかしたのかな。そうでしょう、そうですよ、そうなのに違いありません。たっぷり後悔させてあげましょうよ。どれだけ大事なものを失ったのか、ザマヲ見ロデスヨ。まあこれは、アイツの言い方ですが。
こういう時は、暖かい飲み物が一番。珈琲でも如何ですか。アイツと一杯やるつもりだったんですが、またお説教に決まっている。デリカシーがない奴でね。ともかく傷心というものを知らない。ナンダソレ、腹ノ足シニナルノカ? ですから。
いい年をしてお恥ずかしいのですが、あなたとアイツが私の回りを回っていたとき、目に涙を溜めていたんですよ。いつまで経ってもデメです、成長というものがありません。
ファインダーに浮かび上がっていました。悲しいお顔が? で、なにか自分を見ているようで、同じ悲しみだと思えて、自然とシャッターにかけた指先に力が入っていました。気がついたら押していました。取り込みました。お悲しみ。いただいてよろしいですか。大切にしますから。
見れば二眼レフだった。縦に並んだ二つの眼。ファインダーレンズと撮影レンズ。使ったことも使い方も知らないが、なるほど、一眼レフとは映し出されるものが違うのだろう。見えたのだ、自分では見えないものが。
彼女ははやく現像したいからと立ち去った。一度振り返ってなにか言いかけて、「いいです」と思い直したように言った。アイツへの言伝だろう。なにが、若イ子ハ苦手ダ、だ! アイツ、お嬢さんに一目惚れか。今度は俺からの逆襲だ。
最後まで見守っていた女性の後ろ姿が消えると、男はまたマフラーを耳元に巻き付けた。両手をポケットに深く突っ込んで、首を引っ込め気味に前屈みになって女性とは別の方向に歩み出した。男は遠く思いを馳せた。そこで生きる者への思いだった。
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