2014年が過ぎようとしている。まるで目の前を過っていくようにして。
最後に宮沢賢治を取上げることができたことが嬉しい。
よく知られていることだが、賢治の生まれた明治29年(1896)は、三陸沖の大地震(明治三陸地震6月15日)と同地震による大津波(明治三陸大津波)、さらには2か月半後の内陸大地震(陸羽地震8月31日)とたて続けに大災害に見舞われた年(〝凶年〟)だった。貧民や弱者のために生涯を費やす宿命は、賢治にとって生まれ落ちた時からの宿世であった。
賢治は東北しか書けなかった(詳しくはブログ)。宇宙と繋がっていられたのも東北の地の在住者(存在者)だったからだ。
いま、東北にイーハトヴはない。「『イーハトヴ』は、一つの地名である。(中略)実はこれは筆者の心象中に、この様な状景をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」(「『注文の多い料理店』広告ちらし」)。「ちらし」は、悲しく被災地の空を舞っている。
震災以来、赤坂憲雄氏が「東北植民地論」――〝東北はまだ植民地だったのか〟あるいは〝千年の植民地〟――を、思いの丈を籠めて語られている(ネットでの発言では、「東北から“50年後の日本を描く”対談:赤坂憲雄×後藤正文」)。
いつまで植民地なのだ! 復興の遅れだけではなく、風土を考慮に容れない復興計画を、エミシ以来の被征服者のおかれた姿(〝敗者の精神史〟)に照らして読み変えたのである。とりわけ近代日本治下での東北。奥州越列藩同盟の敗北(大河ドラマ『八重の桜』で広く関心が惹起された)は、そのまま今の復興の遅れを耐え忍ぶ東北被災地に重なる。穏やかな氏が憤る。「東北学」の創設者としての学際的憤激ではない。人間としての内憂である。そう思う。
民主国家にはいつでも言い訳がたつ。法律があるからである。しかし言わせてもらえば、こと東北の被災地に限っては、あらたな〝敗北の精神史〟を生み出す、ソフトな〝武器・武具〟でしかない。平時を適用するからである。
1周年の折、TVの特集から流れてきた老人の言葉――(もう後1年と言われたなら)心が折れてしまいそうだ。
すでに起点を3度更新した。4度目も近い。起点更新に平然として(これまでの遅滞を「更地」にして)、「一刻も早く」とか「全力を挙げて」とか、いま始めて唱えるかのような、〝誠意ある言葉〟は、言い訳としか聞こえないし、それ以外の聞き方を知らない。それ以外に言いようがないのなら(立場上、人事の巡り合わせ上?)、如何に恥ずかしい自己弁護かと、せめて実地で名誉を挽回する発奮材料にすべきだ。
なぜ、「まるごとの特区(非常時)」にならないのか。
すべてを唯一の起点(震災年)に戻すべきだ。心も。否、心こそ。「日本人」として〝千年振り(1200年振り)〟に一体化した心に。
※
賢治短歌に有名な寂光ヶ浜(浄土ヶ浜)の歌がある。宮古市の三陸海岸にある名勝地である。現在「三陸復興国立公園」に指定されている。一年を閉じる歌とする。
うるわしき
うみのびらうど 褐昆布
寂光ヶ浜に 敷かれ光りぬ。 (560)
◆付記
拙いブログを開いて下さった皆様に感謝申し上げます。皆さまにとって来るべき2015年が輝かしい年でありますようお祈りします。
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