はじめに
映画の功罪 映画『アマデウス』(ミロス・フォアマン、1984年)にもし音楽的に好いところがあったとしたなら、映画に対するある種の反論として書かれた一冊の本を生み出したことだろうか。H・C・ロビンズ・ランドン著『モーツァルト最後の年』である。原題は「1791 MOZART
LAST YEAR」。執筆は1986年、刊行は1989年。日本刊行は2001年(海老沢敏訳、中央公論社刊)である。
アカデミー賞8部門(作品賞・監督賞・主演男優賞ほか)に輝いた映画は、従前の天才像をこれでもかというほどに覆して見せて憚るところを知らない。映画としての面白さもあって、スクリーン上に大写しされた新しいモーツァルト像に対する当時の反響の大きさは、いまだに記憶に新しいところである。この映画の問題点は、時代考証をはじめ史実をなぞっているかのように作られていて、それが映画の物語的面白さによって過大に増幅され、いささかどころか手に負えないほどに偏向的なモーツァルト像を見る側に植え付けてしまったことである。問題点の中でも眉を顰めさせずにおかないのは、ストレートに言えば、〝下品〟とすれすれの〝おどけ〟を全身に面白おかしくまとわせてしまったことである。人を喰ったようなけたたましい奇妙な笑いは、一部の国(伊国)では流行になり、さらに流行を煽ったという(上掲書)。
演出効果 しかし、問題の「おどけ」をふくめて映画を真実らしくしてしまっているのには、根拠がないわけではない。モーツァルトの手紙である。ときにはスカトロジックであったりする。しかもおどけは常態である。でも手紙である。雰囲気でしかない。嗜好の問題であっても人格の問題ではない。手紙の範囲内で収まるし、収まるべきことである。人格に対してさえそうならましてや音楽とは直接関係ない。しかし映画ではそれを逆手にとって、そんな人格にもかかわらずあんな天国的な音楽を生み出すなんて、と人々の驚きを誘って見せる。際立たせたいのである。際立ちに天才を強調しようとしたのである。そのための演出効果でしかない。そのために犠牲になるものには注意が向かなかった。でもこれでは擁護になってしまう。
本稿の表題にとった《レクイエム》で言えば、映画のクライマックスを飾るに相応しい圧倒的な「際立ち」を得られることになる。天衣無縫さと真逆な結末を迎えなければならないからである。早すぎる死という結末である。その悲惨さの強調である。最後の埋葬場面――冷たい雨がそぼ降る中を郊外の墓地に往く一台の霊柩車(馬車)の後ろ姿。付き添いのない孤独な車影である。それだけでも悲惨さは強調されるが、極めつけは墓地での埋葬場面である。集団埋葬用に掘られた墓穴に、あらかじめに麻袋に詰められていた亡骸が、傾けられた棺の片開きの小口から滑り出し、擲げ出されたようにして落ちていく。
穴の底にはすでに幾体もの遺骸が新しい「仲間」が落ちてくるのを待っているのである。その間1分も要しないような最後の祈りが同行して来た神父によって型通りに上げられる。墓場の番人たちは、祈りが終るのを見届けると、待っていたかのように早々に襟を立てて番小屋に立ち返る。神父も番人たちも一様に雨を嫌っている。散々だという声が聞こえてくるかのようである。
伝染病の予防のための石灰が2度にわたって亡骸の上にかけられる。そのために一人残っていた番人も、スコップを石灰入れに戻すと、そそくさと墓穴を後にする。かくして数分とかからずに遺体の始末がつけられる。まだ既定の収容人数には達していなのであろう、空いたままの墓穴の上に冷たい雨が降り続く。しかも石灰が煙立っている。そのなかに《レクイエム》が高らかに鳴り響く。涙がこみ上げてくる。狙い通りである。
墓碑も墓標もなく埋葬場所(郊外の聖マルクス墓地)も特定できない無名者のまま埋けられた、麻袋姿とは言え、野晒し状態の生々しい姿である*。そこに絶筆となった《レクイエム》の「ラクリモーザ(涙ながらの日)」の哀しく胸を衝き上げてくる音楽である。アパートの出入口を棺姿で出てくるところからその音楽は徐に鳴りはじまる。一人淋しく城門を離れていく霊柩車の後ろ姿を見送るところでは一際高まる。そして墓場での一連の所作を見守る。投げ落とされ灰を投げかけられたところでは自らが主役となる。そして終曲部の最後の「アーメン」を天に届かせるように高く鳴り響かせ、観る者の心を苦しいほどまでに固く強ばらせる。哀れを超えて悲惨(ミゼレーレ)極まれりのラストシーンの構築である。ただし映画としては、この後、サリエリの回想場面(精神病院の中)にリターンして終演である。
ここからは背景音楽としての《レクイエム》は聴こえても音楽芸術としてのそれは聴こえてこない。むしろ不当である。そのようにして使われたことが。いくら自身の作曲だとしても。見方を変えればこれ以上にない自身のための使われ方だとしても。以下に《レクイエム》を聴き直すのは、レトリック的には「映画音楽」からの取り戻しである。ただし断っておかなければならないのは、副題の「無念」の真義である。なにも映画に人格を変えられてしまったことに対するそれではない。それを言うならただ「残念」である。
* ただし当時の決まりや慣習に従った埋葬である。墓標は特別な場合に限られまだ一般化していなかったし、簡素な内容も関係者が遺された妻コンスタンツェの経済状況を考え、最も廉価の「第三級葬儀」で済むよう手配したためであった(ランドン256頁)。それに付き添いがないのも普通のことだった。聖マルクス墓地は市中から歩いて小一時間の4キロもある郊外だった。「ヨーゼフ2世の時代のヴィーンでは、一般の葬儀は、教会付属の墓地ではなく、市外の墓地への埋葬については近親者や友人たちが葬列を組んで柩に付き添っていくという習慣はなく、共同墓地への数体の遺体の埋葬が普通であり、墓石の建立もむしろ例外であった」(海老沢1992、344頁)のとおりである。なお、天候も違う。映画ではそぼ降る雨であったが、葬儀の日は穏やかだった。
1 最後の年のモーツァルト
作曲依頼の前後 《レクイエム》K.626ニ短調の音はどのようにして生みだされていったのか。作曲の経緯が、一楽曲の音楽性の深淵を覗かせることがあるとすれば、モーツァルトの《レクイエム》の場合は特別である。といっても有名な〈死者からの使い〉の、伝記的な一件に終始するわけではない。時間経過としても、作曲過程の後段に関わることだし付加的ななことである。かりに本人がそれを信じ創作上の内的要件としていたとしても、全ての始まりでも終わりでもなく一要素にとどまる。それになんと言っても伝記上のことである。いくら神秘的で劇的な側面を具えているにしても、また必要に応じて引かざるを得ないとしても深入りは禁物である。扱いにはそれ相応の態度(「史実」に批判的な態度)を要する。
なによりも重要なのは、それが突如として襲来した点である。自らの曲――自分のレクエム――になるかもしれないという思いである。体調異変である。直前まで今までと同じ一つの依頼でしかなかったのである。たとえ思わせたっぷりの注文の仕方(筆写譜を一切とらないこと、自筆をそのまま渡すこと)であっても、「伝説」(死者からの使い)に結びつけるような要因は内的にも外的にもどこにもなかった。注文のされ方に関わりなく、いつもどおり、時が来れば滞りなく仕上げられる手筈のものであった。もちろん注文が趣味に合うかどうかは肝心なところである。その点では、辟易する注文ではなかった。むしろ歓迎すべきものであった。これが作曲過程のはじまりである。20世紀モーツァルト研究の成果である。
それがいざ取りかかってほどなくして体調変化に見舞われることになる。死期から遡って数えると約2か月前のことである。この健康不安が全ての始まりであった。依頼を受けた7月から数えるとほぼ3か月が経った段階だった。それまでは手が付けられていない。多忙すぎたのである。偏に時間的範疇である。
ここに来て作曲への想いが一変することになる。あるいは対峙の仕方が従前にないものとなる。自分のための作曲という、予期しない状況の到来である。作曲過程の画期点である。外部の依頼を得て、あるいはザルツブルグ時代のように職務として書かれてきたものが、注文作品(機会作品)である性格を超えて、注文は注文としたままで、内的には自分の曲(白鳥の歌)を念頭に置いた作曲となる。そうならざるをえなかったと言うべきだが、次のくだり(日誌)が経緯の一端を物語っている(ランドン227頁)。
10月後半のとある1日。夫の健康を心配した妻は、気分転換を図るためにもと思い、夫を公園(プラター)に連れ出す。その妻に対してモーツァルトは、思いもよらぬことを口にする。死についてである。「モーツァルトは死について語り始めた。彼は『レクイエム』を自分のために書いていると言い張った」。前提をなすのは、モーツァルトの自分の身体に対する不安・懸念だった。「ぼくはもうあまり長くないのを、とても強く感じる」という悲壮感からモーツァルトは逃れられない。毒を盛られたと口にしたというが、後の医学的所見によれれば(ランドン267頁以下(「第12章作り話と毒殺」中))、それも健康上の異変がもたらした被害妄想である。
紹介者は、未亡人コンスタンツェの再婚相手であるニッセンである。妻の話をもとにしたモーツァルト伝(『オリジナル書簡によるW・A・モーツァルト伝』)が公にされたのは、モーツァルト没後37年目の1828年である。信頼性については別の伝記*でも同様の内容になっているという。おおもとが同じコンスタンツェの言であっても、取材間には破綻がないという。脚色があったとしても大筋では信頼の置けるものと捉えられている(ランドン上掲書)。
* 世上最初のモーツァルト伝であるフランツ・ニーメチェクの「ヴォルフガング・ゴットリープ・モーツァルトの生涯」(モーツァルト叢書18『最初期のモーツァルト伝』音楽之友社、1992年)がそれである。没後7年目の1798年の著書でヨーゼフ・ハイドンに献呈されている。
死の床 それから病の床に就く11月後半まで、心配した妻から取り上げられた楽譜を再び手許に置いて、その胸中に去来していたのは迫りくる死の影であった。実際、病床はそのまま死の床となってしまうものだった。12月5日深夜零時55分、天が彼の命を召す直前まで、未完の白鳥の歌が、作曲家の脳裏を離れることはなかった。臨終に立ち会った者からモーツァルトの意識は最後まで(と言っても2時間前まで)はっきりしていたと語られている。
自分で完成できないと悟ってからは、完成を期すために(そこには後金の支払いを妻が確実に得られるための思いもあったはずだが)、弟子ジュスマイヤーとの間で様々の遣り取りが交わされ、未完部分の指示が下される。また亡くなる数日前には、心配して見舞いに来てくれた友人(《魔笛》一座の人間)たちに妻を交えて、出来あがったところまでが歌い交わされるが、途中でこみ上がる思いに嗚咽して声を詰まらせ歌言えなくなってしまう。妻の証言だけでなく、病床に付き添ったり臨終に立ち会ったりした人々(子息、義妹など)の後の証言は詳細である。我々もあたかもその場に立ち会って、病床のモーツァルトの悲しみと苦しみから臨終までの一部始終を、同じような思いで目の当たりにしなければならないほどである。
この予期しなかった健康の急変から死に至るまではわずか2週間の出来事であった。体調の不安はそれ以前からあったに違いない。したがって実質1か月半程度(10月上旬から病床に伏す11月後半)の作曲期間は、遠からず襲ってくる健康急変を胚胎した、言ってみれば危険因子を抱え込んだような体調不安のなかからはじめられたことになる。時間を死の瞬間から細かく日刻みに遡れば、それは注文作品から自己作品化する転機の時期を我々に教えてくれることでもあるが、このおよそ10月後半(プラター公園)という転機時期が音楽上に物語るのは、一人の特別の才能を天から授けられた個人が、見込み違いの予期しなかった外的条件(体調異変)によって得た、以前のままなら当の本人にも手にしえなかった、それ以前にもそれ以後にも人間が手にしえなかった響き――生命を「無念」という想いのなかでしか捉えられなかった、かつて聴いたこともその後も鳴り響いたことのない、音楽史に未曾有の響きであった。
ただし無念ならだれでもある。やり残しを前に果しえない苦悶に懊悩する姿も特別ではない。未練は世の常である。以下は状況証拠を含めた、モーツァルトに固有とも言うべき「無念」の度合いに関する記述である。
イギリス訪問計画 無念は希望を前にしたときに倍加的に増幅される。モーツァルトにとって何よりの希望は収入の確保であった。大きく二つの方法があった。一つは作曲料の獲得。一つは定職の獲得。両方とも大きな可能性が間近に迫っていたのである。まずは前者から見てみよう。
時期から言うと、最後の年の前年の秋(1790年の秋)のことである。長年仕えていたエステルハージ侯爵家を当主の死によって解かれたハイドン(ヨーゼフ・ハイドン)のスカウトを目当てに、イギリスから一人の人間(ザローモン)がウィーンを訪れる。イギリスへの招聘である。彼の目的は、ハイドンだけではなかった。モーツァルトも予定項目に入っていた。興味深いのは、モーツァルトからの内諾を得ていたらしいことである。かの三大交響曲も大本を質せば、そのための売り込みのための楽曲かつ当地での演奏を目論んだものだったのではないか、と想定されているほどである(井上1996、273頁以下(「三大シンフォニーの謎」))。背景には思うように運ばないモーツァルトの環境の悪化(借金)があった。最大の擁護者の一人である皇帝ヨーゼフ2世の死亡もある。満足のいく提示であったはずである。借金返済を一気に果たせることも目論見を後押しする。
これに関わるランドンが掲げた史料はかなり具体的である。イギリスの新聞記事(ザローモンの死亡記事)には、彼の業績として二人の招致のことが挙げられている。「彼はこの目的(作曲依頼・引用注)でウィーンに行き、二人の大作曲家と数回会った上で、ハイドンがまず今度のシーズン(1790年・同注)に、モーツァルトは翌年ロンドンに行くことで合意した。ハイドンとザーロモンが出発する日(1790年12月15日・同注)、三人は一緒に食事をしたが、モーツァルトは馬車に乗る所まで見送り、彼らが何もかも成功することを望み、馬車が動き出すと、来年は約束通り必ず私も行くと繰り返した」(ランドン25-26頁)と。
イギリス訪問に関しては、別の史料もある。モーツァルトの宮廷作曲家(「貴賓室作曲家」)任命経緯を記した、ウィーン宮廷の人事史料(「人事決定回顧録」)である。日付はモーツァルトが亡くなった同じ月の12月25日である。「それによれば、故「貴賓室作曲家」氏(モーツァルト)が肩書と報酬を受けたのは、一にして『かくも希なる楽才が所得と富を外国に求めざるを得なくなる』ことを防げるためであったという」(ヴォルフ2015、21頁(「宮廷への任命))である。なお、回顧録が直接に対象としたモーツァルトのイギリス訪問計画は、上述とは異なる、任命日(1787年12月7日付け)から見ても、最初の計画とも言うべき1786年ないし次の翌87年同時のそれである。
カペルマイスター就任 当時のモーツァルトはたいへん前向きであった。イギリス行きのような外に打って出てみせるだけではない。ウィーンでの内部的なことに対してでもある。売り込みである。あの聖シュテファン大聖堂楽長(カペルマイスター)への近い将来の就任を見越した楽長助手(副楽長)就任への請願である。
時期的には最後の年(1791年)の4月末であった。同職は無給ながら楽長就任のための大事な布石となるポジションであった。前向きなのは、請願が現楽長(レオポルト・ホフマン)の重病により明日をも知れない状態であったことを知った上になされているからである。年俸2000グルデンでかつ現物支給(燃料等)もついた高給であった(年俸は約2000万円と試算*されている)。しかし現楽長の健康は回復し、さららに1793年までの3年を生き永らえる。その年の12月に亡くなるモーツァルトに同職が舞い降りることはあり得なかった。ちなみに後任はモーツァルトの近しい知人(友人)であった。
しかし同楽長職への就任の思いは、諸事につけなにごとも逼迫的な状況に置かれていたモーツァルトの心を燃え立たせることになる。次のような友人(アンドレ・シュトル)宛の手紙が残されているからである。請願から約1か月後の、《戴冠式ミサ》K.317の楽譜を自分のもとに送って欲しいという依頼状がそれである。聖シュテファン大聖堂での演奏と新たな教会作品の作曲のためである。前向きな姿勢は、作曲の上でも具現化されようとしていたのである。
手紙をもとにしたランドンの考えでとりわけ興味深いのは、《キリエ ニ短調》K.341の新解釈である。この時に書かれたのではないか、そう遠くない楽長職を思い描きながらの作曲ではなかったかという理解である。新たな作曲(宗教作品)に対する積極的な姿勢を高く評価した想定である**。作ろうとしていたのは、《ミサ・ソレムニス ニ短調》ではなかったか、結局《キリエ
ニ短調》だけで終わってしまう。言い方は悪いが、現楽長ホフマンが回復してしまったからである。
* 海老澤敏「訳者あとがき」(ランドン『最後の年』、387頁)。同文に「東京の物価高では、恐らく当時の一グルデン(フロリーン)は現今約1万円というところであろうか」とある。
** ただし音楽様式の違い(声楽と器楽との一体化や響きの構造の違い)から「1788年から91年にまたがる年代枠のうち、初めの方に属しているのかもしれない」とする見解もある(ヴォルフ2015、184頁)。たしかにモーツァルトが教会音楽に新しい関心を具体的に示し出したのは、1788年以降、とくに8月の日付のある手紙からである。ハイドン(弟)のミサ曲の楽譜が借りられないか、間接的に依頼しているからである。いずれであるにしても、聴き手である筆者の耳に入ってくるのは、モーツァルトの《レクイエム》に影響を与えた、ハイドンのそれ(《レクイエム》ハ短調、1771年)である。《キリエ》ニ短調の響き(とりわけ上声部の書法)の構造にハイドンが聴こえてしまうからである。しかも《レクイエム》との比較で言えば、《キリエ》ニ短調には「無念の響き」は聴こえてこないことが重要である。《レクイエム》の入祭唱とキリエにおけるハイドンからの仮借(後述)が高い自己実現に再生しているのは、むしろ元譜ハイドンからではなく、自身の《キリエ》ニ短調からであるように思われてならない。そう思うとき、《キリエ》ニ短調の作曲時期は、1788年以降でさえあるならば、両説の見解の差はほとんど気にならないことになる。
天上の音色 時系列でいくと次は《アヴェ・ヴェルム・コルプス》K.618である。完成は1791年6月17日。死の約半年前である。上記ミサ曲の楽譜送付の依頼先であるアンドレ・シュトル(合唱指揮者)へのお礼として作られたものである。妻コンスタンツが、転地療養の際に彼の世話を受けたからである。天国的な清澄な調べはよく知られたところであるが、ここにある宗教感情は、《レクイエム》の対極にある、生あることへの永遠なる感謝の思いを核にしたものである。曲の本来の目的は、キリスト教聖体祭のためのもので、事実、シュトルはただちに彼の居住地であるバーデンの教区教会で初演したという(ランドン上掲書)。
いずれにしてもこの半年後に同じ作曲者の手からあのような壮絶極まる死者のための鎮魂曲が書かれることを誰もが疑わなければならない。いうまでもなくその思いにだれよりも激しく晒されなければならなかったのは、まだ先の命を必要としていた(同時に疑わなかった、疑いたくなかったであろう)モーツァルト本人であった。
作曲の集中 1791年の作曲は、当初(1~3月)は舞曲などの社交音楽に職務上終始していたが、1月にはピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595、4月には弦楽五重奏曲変ロ長調K.614などが作曲(注文作)され、引き続き間隙をつくらずただちに《魔笛》にとりかかる。《魔笛》上演の話は、その年に入ってからであった。興行主のシュカネイダーから作曲を持ちかけられてから、具体的には3月に入った段階(7日)でモーツァルトの同意となって現実化の運びとなり、7月までには一部を残して作曲も完成の域に近づく。
しかしここにきて作曲は一時中断を余儀なくされる。皇帝ヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世のボヘミア王戴冠のために、戴冠式場であるプラハに赴かなければならなかったからである。オペラ・セリア《ティート帝王の慈悲》K.621の作曲である。予期せぬ突然の依頼であった。
この作曲に関しては、モーツァルトの許に依頼がもたらされるまでには幾変遷があったのである。詳細は省くとしても「年代誌」(ランドン139頁)によれば、戴冠式を前にして実質18日間で大半を書き上げたと計算されている。上演時間2時間を超える楽曲内容にもかわらずである。切迫した状況が思い浮かぶが、ここでも奇跡的な作曲技の披露であった模様である。
過労と健康不安を心配したに違いない。出産後まだ1か月しか経っていないにもかかわらず、揺れる馬車にコンスタンツェが同乗したのである。長年の疲労が懸念される状態になっていたのではないかとも推測されているが、たしかに急行便でも3泊4日の旅になるという。当然馬車の揺れも大きくなる。それを承知で妻は同行したのである。同行は夫の安心を生んだかもしれないが、肝心の初演の方は、高い評判によって妻の無理に報いるものではなかった。作曲の労も十分癒されないままに終わる。
大役を果たしてウィーンに戻ったモーツァルトは、《魔笛》の作曲をただちに再開する。9月15日の少しあとである。それでも初演の9月30日を前にして、最後に残った2曲を完成したのはわずか2日前であった(うち1曲はかの軽快にしてめくるめく引き締まった「序曲」)。《ティート》と違ってこちらは大成功であった。盛況ぶりは回を重ねるごとに高まる。今度こそ苦労は労われ気持も癒される。上演後に書かれた妻宛の手紙が、モーツァルトの華やいだ気持を代弁している。
実はプラハからウィーンに戻った後、妻は再び療養のために保養地バーデン(温泉地)に出かけていたのである。「たった今オペラから帰ったところです――いつものとおり大入り満員でした――(略)ぼくがいちばん嬉しかったのは、〈無言の喝采〉でした――このオペラがどんなに人気が上がり続けるかわかろうと言うもの」(10月7日)。「オペラは大変な大入りで満員で、いつものように喝采とアンコールでした」(10月8日)。「序に言うと、オーケストラの近くのボックスでは、音楽がどんなに素敵に聞こえるか、君には想像もつかないだろうよ。――天井桟敷桟で聴くよりずっといい――帰ってきたらすぐにためさなくちゃね」(同日)。ランドンは手紙(計4通)の引用をまとめるようにこう語っている。
モーツァルトは慢性的な過労であったが、いつもの変わらぬ優しい調子で、コンスタンツェに書いていることは、特筆すべきである。彼は落ち着いて、自信に満ち、『魔笛』の受けに深く満足しているように見える。(略)そしてこのような手紙すべてのなかで、モーツァルトは、楽しさと陽気さに満ち、血気盛んで、劇場の袖でシカネーダーと冗談を言い合い、幸せな結婚をして妻は彼の愛情におまけをつけて報いている、そんな一人の若者という印象を受ける。(ランドン219頁)
手紙の紹介を省いているので、「(略)」以下の雰囲気は伝え切れないが、要は、こんなに弾んでいた「若者」が、目の前に死を控えているその酷さを、章の締めくくりとするためだった。前置きとして末尾1行の効果を狙ったのである。次に移るためにも引用しておこう。曰くこうまとめ上げるのである。
その時(1791年11月6日・引用注)すでに『魔笛』が、モーツァルトの生涯でもっとも成功したオペラであったことには疑いの余地がない。その作曲家にとっては新時代の幕開けともなったであろうに。だがしかしこの新時代は、ツィンツェンドルフ(初演後3週間経ったころに《魔笛》を聴いた一人の伯爵。11月6日とは、その夜の印象が記された日誌の日付である・同注)が第24回公演を聴いてからちょうど1ヵ月後に終わることになった。
その最後のひと月に起こったことは、まさに音楽史における最大の悲劇である。(同著220頁)
2 《レクイエム》の作曲過程
作曲期間 上掲書で言う「最大の悲劇」は、モーツァルト自身には「最大の無念」であったはずである。モーツァルトの《レクイエム》とは、そのような人間経験として未体験の範疇であったはずのものの、他では言い表し難い、まさに音によってしか実現できない、しかも時代と才能の偶然的な重なり合いによってはじめて達せられるような、稀有にして唯一無二の、音楽芸術によってなし遂げられた表現世界であった。しかも未完であったことがさらなる「無念」の原資となっている。これもこの音楽を特別なものにしている。
それでもここにも事実関係としての作曲過程がある。より深く味わいためにも知っておかなければならないことである。徒に小説タッチに綴ることは許されない。楽曲もそれを求めない。以下はランドンが推定するところである。
楽曲の依頼は、数か月前に遡る7月のことであったとしても、作曲の多忙さから本格的に着手できるようになったのは、《魔笛》の初演(9月30日)を迎えてからで、しかも実質的には10月8日以降であった。プラハから戻ったモーツァルトが仕上げなければならなかった緊急の仕事は、クラリネット協奏曲イ長調K.622だったからである。しかも10月8日からであったとしてもさらに引き算が必要となる。3曲構成の《フリーメイソン・小カンタータ》K.623の作曲である。数日を要する内容だった。病の床に就くのが11月20日である。その他にも所用があった。妻コンスタンツェを療養地バーデンから連れ戻すことである。それに約2日が見こまれる。結局、1か月程度でしかなかった。これが10月8日から11月20までの約1か月半から得られる、《レクイエム》に許された作曲期間であった。
自筆譜の読解 絶筆は、人口に膾炙した「ラクリモーザ(涙ながらの日)」の8小節までである。使用楽譜別に示された作曲状況は次のとおりである(ランドン225頁)。なお丸数字は筆者。
タイプⅠ〈入祭誦〉(レクイエム・エテルナム)①
〈キリエ〉第45小節まで。②
〈続誦〉。〈怒りの日〉から〈思い出させ給え〉の第10小節まで。③
タイプⅡ〈キリエ〉の残り(第46小節以降、第9葉)。③
〈続誦〉の残り〈思い出させ給え〉の第11小節以降〈呪われし者たちを〉。④
〈涙の日〉の日の断片(8小節)。⑤
〈奉献誦〉。〈いけにえ〉⑥、その末尾にはモーツァルト最後の言葉となった「主がその昔、初めから」[つまり、「主がその昔アブラハムと」の曲を、前の章から繰り返す、の意」と書かれていたが、1958年に泥棒が自筆譜から破り取ってしまった。
モーツァルトの手で全体が仕上がられたのは①のみである。後の②〈キリエ〉以下⑥〈いけにえ〉(ホステイアス)までは、計99葉からなる「小部分稿(パルテイチエラ)」のスケッチの形で遺されている。典礼順であれば、⑥より先に⑤が書かれることになるが、⑤は8小節で止まってしまっている。したがって絶筆となったのは、⑤の「涙ながらの日(ラクリモーザ)」となる。大方が推定するところである。20世紀のモーツァルト研究は、補筆部分と本人の手を細かく区別できるところまでになっていて、遺された楽譜の公刊(『新モーツァルト全集』1968年)や新しいスケッチの発見によって、バイヤー版以下、各種の版が出されている。
いずれにしても膨大な研究と関心が寄せられていて、その研究に接するだけでも到底、筆者の容易に立ち入れるところではないが、本稿で当面必要なのは次の2点である。全体がモーツァルトの手になったのが①である点、絶筆となったのが⑤であった点である。「無念」を深く生きる過程(正確には予感から自覚、そして渦中にある過程)として読み替えられるからである。このとき、①は開始に、②は到達に位置づくことになる。
この過程を心(魂)と曲の相乗的な変化として辿った一文がある。モーツァルトに関する複数の魅力あふれる著書を公にしている、モーツァルト研究家の井上太郎である。同氏がそこに見たのは、当初は注文作品でしかなかったものが最終的には自分の曲になっていく、心の変化を織り込んだ具体的な作曲過程であった。要点を上掲ランドンと絡めて箇条書きに示すと、次のとおりである(井上1997、281~84頁)。
a モーツァルトにとって《レクイエム》の作曲は最初の仕事であったこと。
b そのためもあってある曲(思い出の曲)が頭にあったこと。
c ①の段階では注文作品を完成させる強い思いのなかで作曲に立ち向かっていた点。
d 「オッフェルトリウム」(⑥)は、意識的にはcの文脈上にあるもので、早い段階から書かれていたのではないかという点。
e それが「セクエンティア」(③)から次第に内向的な響きが顕在化していく点。
f 遂に④に至って注文作から自分の曲(《レクイエム》)に仕向け、その思いを⑤に向けて高めていく点。
以下、このa~fの趣意に沿って、それぞれ要点の補足を兼ねながら各曲の展開を辿ってみたい。ただし各曲と言ってもここで聴くのは、モーツァルトの手になることが確認されている入祭誦(イントロイトゥス)から奉献誦(オッフェルトリウム)までである。拠るのは〈ジュスマイヤー版〉*である。
* 同版はとかく問題になるところで批判的な版がいくつか公にされている。現在では、すべてジュスマイヤーの手になるとされている「サンクツトゥス」「ヴェネデクス」を含め、〈ジュスマイヤー版〉の再評価にもモーツァルトの意志が何らかの形で反映されているはずだからと、またなんといっても同時代性を体現する存在は彼を措いてほかになく、そのことの歴史的意義は、なにものにも変え難い真理性に触れることであるからと、より本質論的な意義を求める見解が示されている(海老沢1999、347頁)。
時代の宗教政策 最初に補足しておかなければならないのは、aは外部条件(時代的要件)が生んだ偶然性に与る点が少なくないことである。皇帝ヨーゼフ2世の宗教政策(1783年)である。皇帝は啓蒙思想の信奉者であった。世俗に対して隔絶的な、オーケストラによる華麗な響きを伴った宗教音楽の演奏を勅命で禁じたのである。直接的には宮廷礼拝堂音楽に対するものであったが、これによって「1780年代のオーストリアでは管弦楽によるミサはかなり衰えてしまっていた」(ランドン77頁)という。
ウィーン時代のモーツァルトに宗教曲が乏しいのはこのためである。実質ミサ曲ハ短調K.427のみである。しかもこの大曲が、未完のままに終わっているのも、完成したとても演奏する機会が見込めないことが分かっていたからだと考えられている。それが、皇帝が亡くなり(1790年2月20日)、実弟のレオポルト2世の治世になって俄かに禁令が解かれることになる。
解禁状態の訪れとして注目されるのは、モーツァルトが聖シュテファン大聖堂のカペルマイスター就任をいち早く目論んだことである(上述)。禁令があったからといえ宗教音楽に対して後ろ向きの気持でい続けたわけではない。少なくとも筆を執ろうとしなったのは、コロレード大司教との確執を思い起こして、陰鬱な気分にさせられるからだというようなことではなかった。
ザルツブルグ時代の職務上の必要から作られた宗教曲(73曲(カルル・ド・ニ1989、「付録1――モーツァルトの宗教作品」))は、いまや職務を超えて、宗教音楽に関する豊富な知識と作曲や演奏経験の蓄積から、それを批判的に捉え直すことで新しい宗教音楽を生み出す原資になっていたのである(カルル・ド・ニ1989)。待ち望んでいたのである。a(初めての試み)であるとは、消極的に捉えるべきことではなく、結果的にそうだったという意味である。
素材の仮借 それはb(脳裏にある曲)の解釈とも繋がる。周知のことであるが、モーツァルトの《レクイエム》にはいくつもの素材(音楽素材)の仮借がある。特に目立つのが、①のなかである。二人の先行楽曲から採られている。まさに仮借である。ヘンデルとミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフ・ハイドンの実弟)の二人である。「ある曲(思い出の曲)」とは、この曲のことを指している。順序からいくとヘンデルであるが、まずザルツブルグ旧知の仲であるミヒャエル・ハイドンから見ていく。仮借部分は、高揚感を伴う箇所である。以下は、主に井上太郎『レクイエム》の歴史』(平凡社、1999年)による。
ハイドンには3曲の鎮魂曲があるが、仮借は、最初に作曲された《レクイエム》ハ短調MH.155(1771年)からである。この曲は、モーツァルトも仕えていたザルツブルグのシュラッテンバッハ大司教の葬儀ために作曲したものである。ハイドンにとって大司教は、自分をザルツブルグに迎い入れてくれた恩人であった。初演のときモーツァルト(15歳)はオルガンを担当した。後任のコロレード大司教と違って、大司教はモーツァルトにとっても大恩人だった。少年であった自分の成長を寛大な慈悲の心で見守り続けてくれたのである。長期旅行が許されたのも大司教だからだった。同じ仮借であっても思い出深いもの(同時に思い入れの強いもの)だった(はずだ)。
またbは、別に仮借の音楽史的意義にも言及している。出典や引用先を示さなければ盗用になる現代とは発想を異にする世界である。仮借もないものは逆に教養を疑われる。古典的教養を含む、作曲家の知的水準が試されるのである。たとえばヘンデル。「この曲(ヘンデル《葬送アンセム》・引用注)を聴いて驚くのは、序奏に続く最初の曲の主題がモーツァルトのレクィエムの冒頭の主題に酷似していることである」(同書136頁)と、ヘンデルからの仮借関係に言及するが、やはりこの文脈において行なわれたものであった。
しかも話はこれで終わらない。実は本となるヘンデルはヘンデルで、別に仮借していたのである。大本は16世紀末の曲(「ドレスデンのコラール集にある葬儀のコラール《わが時来たれり》」)だった。つまりここで語られようとしていたのは、モーツァルトを含む当時の作曲家の仮借という行為の本質である。「本歌どり」(同書163頁)だという。創作的仮借だったのである。しかも伝統的だったのである*。
* 共同体的行為だったとも説かれている。「もともと《レクイエム》なるジャンルは、死者の鎮魂を目的として作られ、共同体的な行為の中で成就するという意味では、純音楽的な境域を超えるところではじめて捉えられるべき楽種である。(略)モーツァルトはヘンデルの敬愛するキャロライン王妃哀悼の響きに共通した短調の響きをひびかせ、あるいはその音進行を摸することによって、意識的に葬送、追悼という共同体的な行為に音楽的に参与する」(海老沢1992、346頁)とするのである。
注文作からの出発 以上からみてc(注文作本位の立場)だと説かれることになる。すべては、注文作の水準を質的に高めるためである。しかも楽曲自体も歓迎すべき新しい世界である。とかく伝説めいて書かれる作曲の依頼過程も、作曲者にとっては却って望むべきものであった。最新のモーツァルト考ともいうべき一冊(クリフトフ・ヴォルフ2015)が説くところである。まずは「タイムリーな委嘱」(同書178頁)であったこと。さらにタイムリー性に加えて望むべき好条件を備えていたこと、すなわち「モーツアルトは匿名・内密の覆いのもとに依頼を受けたため、曲がどんな人に捧げられるのか、知ることができなかった」(189頁)という、見えない顔のなかでもたらされた依頼だったこと。以上の2点である。
これが何を意味するのかと言えば、依頼の適時性を超えて作曲の内発性を高める上にこれ以上にない好条件だったと語られるのである。すなわち、「依頼に付随したかもしれない条件を除けば、個別的な事情を斟酌する立場になかったわけである」(同頁)と。自由な作曲の道が最初から開かれていたのである。そして、同くだりに付けられた節題のとおり「斬新な宗教音楽を夢みて」を実践していくことになる。しかも注文作品の水準向上にも繋がることになる。cとは視点の異なる発想であるが、結果には近いものがある。再びcに戻せば、あらためて作曲本意の段階であったことが再確認されることになる。
注文作の位置と変質 しかし、従前通りにはいかない。匿名性をまとった作曲の委嘱であったとしても、なによりも楽曲ジャンルは《レクイエム》であった。作曲的条件は死者のなかに求めなければならない。鎮魂に思いを巡らそうとすれば、真っ先に父母や親しい人たちの死が思い起こされることになる。死の記憶であり、記憶の中の死である。いずれもモーツァルトの死生観を形づくる体験だった。同時に楽想の起点でもあった。それが、体験を逸れてモーツァルトを一つの予感に向かわせることになる。いまだ具体的な兆候は現れていなかったかもしれないが、かといって最初から自分をその外に置いて自分には関係ないことだと客観視していて済まされない。以前とは体調が違っていたからである。その先には漠然とした死の予感さえ漂う。いまだ現実味を帯びていないだけだった。単なる想像ではない。
上記したように産褥後の我が身を顧みず、夫モーツァルトの身を案じてプラハの戴冠式にコンスタンツェが同行したことが、その辺りの事情を象徴的に物語っている。妻の不安はやがて自分自身のそれとなる。予感である。しかも単なる予感ではない。モーツァルトに備わった一種の「能力」ともいうべき予感だった。次のように指摘されていのである。「親しい人たちの死を確かな直観であやまつことなく捉える類まれな能力」(海老沢1983、212頁)を兼ね具えていたと。その能力が自分に向けられる。向けられること自体がすでに異変の前触れであった。予感は予感では終わらない。次第に現実味を帯びてくることになる。
しかしそれもいまだ限定的な範囲に収まっていた。予感を離れれば、日常的にはそれを押し退ける方向に向かい、生を鼓舞する力に発展的に転化する。予定外だったプラハ行きやそこでの作曲への没入には、自らを鼓舞してやまない意気込みが感じられる。実際上も見事に果たして見せる。評価が今ひとつだったとしても、現実はいまだ予感を押さえこんでいた。それが創作行為の力というものである。
それでも《レクイエム》の作曲が開始されると、今までとは同じようにはいかなくなる。忍び寄る不安と進行する作曲とが歩調を合わせはじめる。行為としての作曲が、予感を実感に甦らせてしまう。予感は元来内的なものである。それに今回は同じ作曲でも方法論的には言葉から入っていかなければならない。しかも単なる形式的なものではなく作曲に深く参入する言葉(テクスト)である。死者のためのミサでは、固有式文という、儀式に合わせた固有の文言(典礼文)の占める割合が高い。『聖書』の一節を取り込んだ、表現力の高い文言(韻文)である。「入祭誦」から「キリエ」(通常式文)を以下に掲げてみよう。引用するのは井上太郎『レクィエムの歴史』でおこされた訳文である(以下同じ)。
入祭唱
主よ、彼らに永遠の安息を与え、
彼らを絶えざる光もて照らし給え。
讃め歌を捧ぐるはシオンにてふさわし。
主への誓願はエルサレムにて果たされん。
わが祈りを聞き給え。
生きとし生けるもの、すべて主に帰せん。
キリエ
主よ、憐れみ給え。
キリストよ、憐れみ給え。
主よ、憐れみ給え。
冒頭の固有式文である「主よ、彼らに永遠の安息を与え、/彼らを絶えざる光もて照らし給え。」この2行だけでもテクスト(以下「歌詞」)が作曲にもつ重みは、如何に歌詞内容を受けた響きであるのか、歌詞あっての音である重層性を痛感するに余りある響きである。楽曲は6行(後半3行は「詩篇」から引かれたもの)にわたる歌詞を一わたり歌い切って冒頭2行に立ち戻り、合唱(トゥッテ)でポリホニックに内的緊張感を高めて、声を合わせて強く大きく歌い上げ、「彼らを絶えざる光もて照らし給え。」からアタッカ(間を置かず)で「キリエ」のフーガに直接繋げる。ある意味ではこの2行へのモーツアルトの拘りが「入祭誦」を書かせた。そうともとれるのである。
この拘りを(書き方を)あらためて仮借に戻し、仮借とどう向き合ったのかを見れば、仮借が単なる仮借で終わっていないことが痛感される。たとえば仮借部分の直後を比較すれば歴然としている。ミヒャエル・ハイドンでは、哀切に俯くがごとく低音へ沈みこむ。対してモーツァルトの場合では、逆により高く歌い上げて2分音符でその高い響きを持続的に保持して見せる。ハイドンの哀切感は、モーツァルトでは痛切感に切り替えられている。たった一音であっても、冒頭に立つ一音の移行次第でこうも大きな違いを生むことになる。才能と言えば簡単だが、今回はモーツァルト自身のなかでもそれを超えている。
偏に痛切感が求められたからである。しかもすでに死者と化してしまった者に対する痛み(=悼み)であるより、求められたのは、死の前に止まる者が、止まったままの状態で予感してしまう痛みである。ヘンデルとの仮借関係も、内面的には同じ求めとして企図されたものである。それはヘンデルの後続状態が、あたかも王妃(キャロライン王妃)のかつての生を寿ぐがごとき、やや華やいだ装飾的な響きに包まれているのに対してモーツァルトの場合では、逆に寿ぎが奪い去られようとしているからである。
ただ一言断っておけば、上述したようにここには、《キリエ》ニ短調K.341からの内的止揚に与るところが小さくない。もしこの内的止揚によって痛切感が得られていたとしたなら、最初から注文作のためであるより自分の曲のための仮借であったことになる。と言ってもまだ〈白鳥の歌〉にはなっていない、創作的視界のなかに浮かぶ自分の曲である。
違和感の原因 d(早い段階での着手)であるとするのは、ここにもまた別な仮借が見出されるからでる。同じミヒャエル・ハイドンである。奉献誦(オッフェルトリウム)の「ドミネ・イエス(主イエズス・キリストよ)」と「ホスティアス(いけにえ)」の曲尾に繰り返される詩句(「主よその昔、アブラハムとその子孫に約束し給うたごとく」)部分(後掲参照)に付けられた旋律の仮借である。cとの同時性ないし連続性が導き出される根拠である。
この同時性ないし連続性から聴き直すとき諒解されることがある。直前(奉献誦の直前)の絶筆ラクリモーザの極限的な痛切感とは別な、極まった想いからすればその思いが一度意識的に断たれてしまったような、ある種の戸惑いを覚えたことである。その場の緊張感から解かれるのとは少し違う、意図的に外されてしまった感じである。流れの場面的転換を超えた違和感に近い戸惑である。《レクイエム》を聴きはじめた当初からのものである。それもここに見た作曲経緯に起因するとするなら話は別である。かえっていかに事態(体調異変)が火急的であったかが推し量られる。死の予感から死の実感への急激な傾斜である。
なお、内向性を帯びた仮借関係であるのは、接続関係を棚上げすれば、ここdであっても①との間に決定的な違いが横たわるわけでない。とりわけ「ホスティアス(いけにえ)」(後掲7~10行)では、外向的である「本歌」のミヒャエル・ハイドンのそれ(オッフェルトリウム)とはまるで別物である。
詩文の力 作曲過程が語るもののうち、dからe(内向性への顕在化)への移行が語るものに耳を傾けるのは、この《レクイエム》の深淵に臨むに等しいことであり、わが身につまされる思いでその調べに包まれなければならないことを意味している。楽曲上における魂の変異の程を探れば、dの「ホスティアス(いけにへ)」の調べのなかには、注文作から自分の曲に変容する契機が潜んでいるように聴こえる。再び歌詞の力である。詩文の力が小さくなかったのではないか、その思いを強めなければならない。
「ドミネ・イエス(主イエズス・キリストよ)」では、死と死者の間に立って両者を繋ぐための調べであったものが、ここでは仲介性が薄れ、導くべき「彼(死者)」は、第二人称ではなくなって「我」の第一人称に移行しようとしている。歌詞だけでも情感に訴えかける力がある。それまで眼で追っていたもの(歌詞)が、心でなぞりはじめさらに魂を重ねる様に変異していく経緯が、楽曲の調べにそのまま辿れるかのようである。以下に歌詞を掲げる。
奉献唱
栄光の王、主イエズス・キリストよ、
世を去りしすべての信者の魂を、地獄の罪と深き淵より救い出し、
獅子の口から解き放ち給え。
彼らをして冥府に呑まれることなく、闇に陥ることなく、
旗手聖ミカエルが、彼らを聖なる光明に導かれんことを。
主がその昔、アブラハムとその子孫に約束し給うたごとく。
主よ、讃美にいけにえと祈りを我らは主に捧げ奉る。
本日追悼せる霊魂のために、これを受け入れ給え。
主よ、彼らを死から生へと移し給え。
主がその昔、アブラハムとその子孫に約束し給うたごとく。
一見して明らかなように「ドミネ・イエス」部分(1~6行)は、叙景・叙事的で客観的な修辞であるのに対して、「ホスティアス」部分(7~10行)では、叙情的で主観的である。「本日追悼せる霊魂のために」を「遠からずして追悼せる霊魂ために」、「主よ、彼らを死から生へと移し給え」を「主よ、我を死から生へ移し給え」に読み替える、あるいは置き換える心の傾きが、次第に高まっていく4声部合唱のフーガの移ろいに聴き取れるのである。
「ホスティアス」のスケッチの最後に書かれていたという言葉――「モーツァルト最後の言葉となった『主がその昔、初めから』という言葉(指示)の重みが痛感される。すなわち「初めから(ダ・カーポ)」とは10行目を6行目に戻してという意味であるにしても、すでに同じ調べではなくなっている。繰り返しであることがかえって痛ましさに心をふくれ上がらせてしまっているのである。
この続きに「サンクトゥス(感謝の讃歌)」ではなく、すなわち典礼順ではなく、指摘されている書き順のように「セクエンツィア(続誦)」の「デイエス・イレ(怒りの日)」に戻って絶筆の「ラクリモーザ(涙ながらの日))まで聴き直す時、聴く者をして悲痛なる想いの前に跪かせずにはおかない。そのようにして死を前にしなければならないことの、訪れてはならない死への立ち向かいとしても、痛切感の間を揺れ動かなければならない。
セクエンツィアの歌詞は、まさにeからf(自分のための《レクイエム》)への高揚感に応え得る内容であった。そのとき一人の「機会音楽家」は、「歌詞(言葉)」に「機会」を得ていた。そのようにして読み取る時(同時に聴き取る時)、《レクイエム》は死者のためではなく、死者となることを余儀なくさせられようとしている者の、悲痛な魂のドラマ(歌声のドラマ)となる。それがモーツァルトに顕れたことに、人類は奇跡的な音楽の誕生を手に入れることになった。
3 《レクイエム》のクライマックス
「怒りの日」 自らを突き離す無慈悲な響きにも聴こえる、セクエンツィア(全6曲)の第1曲「怒りの日」の歌詞。
怒りの日なり、その日こそ、
この世は灰燼に帰さん。
ダヴィドとシビッラが証せしごとく。
それに応える強くて激しい強奏(ツゥッテ)。
人々の恐怖はいかばかりならん。
審き手が来たりて、
すべてを厳しく糾したもうが故に!
「不思議なラッパ」 続く第2曲。一人の個人は、今、予期しない強い響きを身に浴びて虚脱感の中に放り出されている。彼の前で世界は一変してしまっている。その彼の耳にやおら届く一つの響きがある。「不思議なる響きのラッパ」である。トロンボーンの太く低い響きに誘いだされるようにバスが重々しく、しかし高らかに歌声を上げる。
不思議なる響きのラッパが
この世の墓の上に鳴り渡り、
ものみなを玉座の前に集めん。
そうだったかと彼は悟る、ここは墓の広がる地上の一隅だったのだと。死者の眠る場所なのだと。不思議なる響きは、彼ら死者に語りかける神の使いの声に外ならない。様々に声が立ち上がる。使いの声に促されたのである。繋げるようにテノールが伸びやかに歌う。
死も自然も驚かん。
ものみなよみがえり、
審き手に答うれば。
外に広がる景色だったものが今の自分の一部になっていく。あたかも理であるかのようにして。
書物が持ち持ち出されん、
すべてのことを書き記されしもの、
この世を裁くため。
彼もまた裁きを受けなければならない。そして重なるようにしてはじまるアルトの続唱。
審き手が裁きの座に着く時、
隠されしものはことごとく暴かれ、
報われざること一つとてなからん。
男声から女声への移行が、辺りに香しさを添えるだけでなく、詩句の意味合いを強めて次のソプラノの歌い上げに備える。そしてソプラノが、アルトをオクターヴ以上に高らかに受け継いでいく。
哀れなる我何をか言えん?
いかなる弁護者に願わんや?
義しき者すらも心安らかざるに。
ソプラノの悲しみをこめた問いかけ(「哀れなる我何をか言えん?」)。さらなる思いを募らせた問いかけ(いかなる弁護者に願わんや?)。しかし答えは返ってこない。不安を天に向けて声高に響かせねばならない。「義しき者すらも心安らかざるに。」を唱える女声は、「彼」が借りた心の抗いである。そして訴えである。それでもあからさまにはしない。女声とはそのためのものでもある。それが(「義しき者」の1行)が最後に独唱四声部で繰り返される。抑えた内声で、「哀れなる我何をか言えん?」の心を引きずるかのようにして……。
「畏れ多い王」 次の「レックス・トレメンデ(畏れ多い王)」に来て、雰囲気は一変する。
仰ぐも畏れ多き、みいつの大王、
救わるべき者を御恵みもて救い給う御者よ、
我をも救い給え、憐れみの泉よ。
彼の外に在る者の声が、冒頭の「怒りの日」を真似るかのように重々しく鳴り響く。烈しく咎めだてられているかのようである。鋭い弦楽器の前奏を承けて合唱四声部が雷鳴を轟かせるかのように「Rex!」(大王!)を三度繰り返し、事態の厳しさを再認識させずにはおかない。そして歌い出したままに「仰ぐも畏れ多き、みいつの大王」から「救われるべき者を御恵みもて救い給う御者よ、」と合唱が続いていく。
交錯する管弦楽と声部との相互に際立ち気味の響きが、新たな場面の緊張を厳かに高め、「救われるべき者」の在り処を不安の淵に陥れ、救われないかもしれない命の幽けさに「我をも救い給え、哀れみの泉よ。」との声を揃えたピアニッシモの哀しい訴えも、どこか途切れがちで、悲しい響きに沈みこむ。
それでも「我をも救い給え」と最後の最後を信じる、信じなければならない者に悲しく忍び寄る死の影。今なにを思えばいいのか。まだ救われるのか。救われるべき者として「みいつの大王」の謀り事に組み込まれているのか。いやが上にも次(「レコルダーレ(思い出し給え)」)への想いが膨らんでいく。生きるべき者として予定されていることを確かめる切なる想いとして。
「思い出し給え」
「レコルダーレ(思い出し給え)」は、前奏からはじまり、前奏を承けて只管の祈りが独奏の4重唱によって以下繰り返されていく。繰り返しの合間には、高音域から滑らかに下っていく、下降音型の哀愁感を秘めた清明な弦楽器の調べが、その都度声部を支えるように奏でられる。四重唱はときに高まりときに沈みがちに不安の間を行き来する。堪え切れずに1行の想いをソロに強める。
ところで、「怒りの日」の歌詞(テクスト)は、全体的に情感を高める修辞が尽くされている。トリエント公会議(1545~63年)で公認されただけあって優れた詩文である。同公会議では数千に及ぶという従前のテクスト(続誦)を、世俗的なものであることを理由にすべて禁止してしまう。「怒りの日」は、唯一公認されたもの(4編)の一つであった。「『聖フランチェスコ伝』の著者、チェラーノのトマス(1200頃-1255)の作と言われる長大でしかも極めて劇的なテクストは、作曲家の創作意欲を大いに刺激するものだった」(井上1999、25頁)。17世紀からは「続誦」がレクイエムの中心に置かれるようになったという。「レコルダーレ」は、以下に全篇を掲げる通り(ただし長くなるので非改行形で)、ときに直訴的である。
思い出し給え、慈悲深きイエズスよ。/地上に御身が下り給うたのは、わがためなり
しや。/その日、我を滅ぼし給うな。
我を尋ね疲れ、/我をあがなわんとて十字架の刑を忍び給うた御者よ、/その辛苦を空しくし給うな。
正義により罰し給う審き手よ、/我に許しの恩寵を下し給え、/応報の日より先に。
我は、とがある者とて嘆き、/罪を恥じて顔を赤らむ。/神よ、乞い願う我を許し給え。
(マグダラの)マリアをゆるし、/盗人の願いを聴き給うた御者は、/我にも希望を与え給えり。
わが祈りは、聞き容るるに値なきものならんも、/御慈悲なる御者よ、憐れみをもて、/我を永遠の火に追いやり給うことなかれ。
羊の群に我を置き、/山羊の群から引き離して、/御右に立たしめ給え。
ここにあるいくつもの訴え――「その日、我を滅ぼし給うな。」「その辛苦を空しくし給うな。」「我に許しの恩寵を下し給え、」「神よ、乞い願う我を許し給え。」「我にも希望を与え給えり。」「我を永遠の火に追いやり給うことなかれ。」「御右に立たしめ給え。」などのかく繰り返されるテクストの訴えに導かれて、作曲者の個人的感情はいやが上にも高まらざるをえない。内密にもなっていく。願うのは死の回避である。まさしく〈我を死なせ給うな〉の切なる想いである。その声である。そうかと言って、想いに塞ぎこむのも、沈み込むのもよしとしない。悲観して頑なにもならない。心が乱れるも許さない。
そのためにも、またあるべき生を甦らせるためにも、さらにテクストを深く読みこまなければならない。「御右に立たしめ給え。」は、そうした生の局面を、この先に許されるための象徴的な一行である。〈我を必要とする、その証を我に垂れ給え〉にも聴こえるからである。この時、想いを繋げるうちに歌い終わる、希望の膨らみを感じさせるテクストの閉じ方には、その瞬間に関する限り、一時死の予感は彼を遠ざかっている。しかし、それも自分に対する言い聞かせるためであったのかと思い直すと、再び身につまされる思いに襲われることになる。
「黙されし者に」から「涙の日」
それかあらぬか、場面は急転直下の如く再び暗雲のたち込める、死の予感が現実となって迫りくる事態を迎え入れる。「コンフターティス(黙されし者に)」での場面ある。
呪われし者どもを罰し、
激しき焔の中に落とし給う時
祝されし者と共に、我をも呼び給え。
直前の「御右に立たしめ給え。」のハーモニーが、冒頭のオーケストラの前奏なしに唐突に開始する男声の模倣音型の畳み掛けによって一瞬にしてかき消されてしまう。戸惑うほどの劇的転換である。この風雲急を告げる緊迫感を書き表すのに、音楽がとったのは、両極化した響きの相克を通じて、切迫感の渦中にあることの今現在を際立たすことだった。管弦楽のツゥッテを伴って男声が激した声音で「呪われし者どもんを罰し、/激しき焔の中に落としたもう時、」と声を張り上がるのに対して、その後に続く女声は、弦のユニゾンと合わさりながら最後の望みを一身に集めて、両手を胸前で固く合わせるがごとき細い声を辛うじて唇に上せる。「祝されし者と共に、我をも呼び給え。」と。そして願いはさらに続けられる。
伏して願い奉る、
灰のごとく砕かれし心もて、
わが終りの時をはからい給え。
「レコルダーレ」の最後の場面で矯めていた思いも、どこかうそぶくまでの気分になっていた分、虚しさとして還され、迫りくる現実にもろともに晒されることになる。ここでは「呪われし者ども」も衆人を指すのではなく、個別の人格に覆いかぶさってくるのである。女声を借りて発せられた、痛切さに訴えかける人声の究極的な響きがある。このような声を用意しなければならなかった現実こそが、聴く者の心を深く抉る。最早、立ち止まる余裕もない。行き着くべき処に行き着かなければならない。かくして「コンフターティス(黙されし者に)」からアタッタカで「ラクリモーザ(「涙の日」)」は歌い出される。
「涙の日」
Lacrimosa dies illa,
Qua resurget ex favilla.
Judicandus homo reus:
Huic ergo parce,Deus.
Pie Jesu Domine,
Dona eis requiem.
Amen.
涙の日なり、その日こそ、
灰からよみがえらん時。
人、罪ありて裁かるべき者なれば、
願わくは神よ、そを憐れみ給え。
慈悲深きイエズスよ、主よ、
彼らに安息を与え給え。
アーメン。
4 《レクイエム》観~無念としての響き~
無念の過程 あらためて、迫りくる死を前にいかに無念と対峙していたかを再確認しておく。その上でモーツァルトの《レクイエム》の音楽的意義を、いくつかのレクイエム観を通じて見てみたい。
新しい未来が目の前に切り拓かれようとしていた。自分のためだけではなかった。家族の幸せにも確証的な明るさを保証する未来だった。イギリス行きも実現されたかもしれない。ハイドンの例からしても相当な収入(海老澤による上掲試算)が得られたに違いない。それでも一時的なものでしかない。それが今モーツァルトにもたらされようとしていたのは、破格の収入と立場を保証した「定職」だった。カペルマイスター(楽長)だった。確実視されていたのである。実際、任命書(勅命書)が手もとに届く。ただし3日前だった。すべては遅すぎた。でも届けられたのである。以上を記すのは、コンスタンツェとの会話を記したノヴェロ(英国の作曲家兼出版業者)とその妻の日記(1829年)である。
伝記が語るところはまだある。コンスタンツェの再婚相手の手になる伝記(上掲)にはこうある。楽長職に関しては、「契約する確証を受け取っていた」と。たしかに任命書と整合する。ともにコンスタンツェが出処になっていたにしても、整合関係は、コンスタンツェの記憶に混乱がなかったことを教えている。これ等を伝記1(前者)、伝記2(後者)として関係する部分を拾うと、いやが上にもモーツァルトの無念さが浮かび上がってくる。
モーツァルトは病気になってから最後まで、まったく意識がはっきりしていた。彼は静かに、だがとても割り切れない思いで死んでいった。このことは、プラハから帰ったモーツァルトが、聖シュテファン大聖堂〈楽長〉として、遠い昔からその職に付随しているあらゆる手当てつきで、契約する確証を受け取っていたことを考えれば誰にも理解できよう。また同時に、ウィーン[シカネーダーか?]とプラハ[グァルダゾーニか?]の劇場から依頼された作品を別にして、ハンガリーとアムステルダムから定期的な[作品の]提供を求める素晴らしい申し出を受けていた。従って彼は、生活費を稼ぐ必要から完全に解放される、という明るい未来を期待していた。
(略)
この奇妙にも同時に起こった出来事――運が開けそうな幸せの前触れ、懐具合の悲しい現状、絶望的な妻の姿、孤児となる二人の子供たちへの思い――これらすべては、決して禁欲的ではなかった愛すべき芸術家を慰めるための、また35歳の死という苦さを和らげるための、天の配剤ではなかった。(伝記2)(ランドン228-29頁)
因みに、聖シュテファン大聖堂〈楽長〉の一件では、「プラハから帰ったモーツァルトが」とあるので(帰ったのは9月中頃)、先に下されていた楽長補佐職の任命(1791年5月)とは明らかに別なものである。コンスタンェのなかではこのあと死後3日前に楽長職の任命書(勅命書)が届けられることになる。この点を伝記1では繰り返しの形で次のように綴る。
(前略)亡くなる三日前には、彼を聖シュテファン大聖堂の音楽監督として任命するという皇帝よりの勅命を受けた。(略)彼は苦い涙を流した。「いま、喜んで作曲できるような職に任命され、何か立派なことができるような気がするのに、死なねばならない……」。(伝記1)(ランドン232頁)
夫人はまた、亡くなる僅か三日前に彼がこう言ったのは本当だと認めた。「ぼくはこれからは自分の好きなことだけを書けるような、時間のゆとりのある職に任命された。そしてぼくが得ている名声にふさわしいことができそうな気がする。けれどもそれができずに死なねばならないようだ」(伝記1)(同235頁)
二重性の響き 正直なところこの曲のことがよく分からなかったのである。どのように鎮魂曲であるのかが。死者の魂を鎮めるとすれば、悼みの気持として哀切感が滲みでてくるはずである。それが思うようには感じ取れなかったのである。痛切さを哀切さに読み替えられないのである。それは哀切さだけではない。人間的感情のなにものとも読み替えが利かないのである。レクイエムという名前を持つ限りにおいてはである。レクイエムではないからである。修辞めくが、それがモーツァルトの《レクイエム》である。
この事態はどのように見られていたのだろか。たとえば未完成であったことについても大きな意味(音楽的意味)が見出されているが、日本におけるモーツァルト研究の主導者である海老沢敏(同著1983)の捉え方は、生と死からである。大きく二つの視角からなる。
一つは、対立概念である生と死を、モーツァルトのなかの死の観念に試し、それが音楽としていかなる響きとなっているかを問うのである。すでに愛する者たちの死を体験したモーツァルトは、フリーメイスンの考えを容れて、死を安らぎや慰みとして捉えていた。父の時はその思想を説く側に立っていた。説きもした。かつてそのように説いたモーツァルトも、自分のこととなると事態は違ってくる。理性と感性は乖離していたのである。音楽を書かせたのは乖離だった。
故に《レクイエム》の音の秘密を探り当てるようにして耳をつけるのである。「この作品の冒頭楽章〈入祭文(イントロイトゥス)〉はあくまでも沈鬱であり、つづく諸楽章はあくまで悲しい」と。この沈鬱さと悲しさがどこに由来するか、迫りくる死を前にして自己は保たれていたのか、立場としてきた観念や思想に揺らぎはなかったのか、音楽との間に矛盾を来すことになっていなかったか、答えはこうである。ずばり矛盾はなかったのだと。でも保留が付く、二面的なる故であるとの。次は矛盾のない点についての理由である。
なぜなら、モーツァルトは自分の死を直観的に把握し、その運命を受け止め、安らぎとして、慰めとして感じていたにせよ、なお、一方では、そうした自分の死を、なお生ける存在として哀れに思い、残された存在として、この世にあることの不幸を強く感じていたに違いないからだ。(海老沢1983、220頁)
この二面性(運命・安らぎ(=思想)/哀れ・不幸(=現実))を前提にしてこう続ける。
死者としての自分を生者としての自分が悼みながら、死者としての自分の魂の安息のために、生者としての自分が鎮魂曲を書きつづる。この二重性のうちに楽譜に定着される響きが私たちに烈しく訴えてこない道理はない。『レクイエム』の冒頭から、彼の絶筆となったというあの〈涙ながらの日(ラクリモサ)〉にいたる楽章の数々が、そして断片的ながら彼の手になるという〈奉献誦(オッフェルトリウム)〉が、私に鮮明な悲しみの感情を呼び起してくれるのは、以上のような点におそらく起因するのであろうか。(同頁)
「二重性」からモーツァルトの内面を深く覗きこんだ高いレクイエム観である。もう一つは見出しを変えて紹介する。
未完成の意義 この「二重性のうちに楽譜に定着される響き」に筆者としては「無念の響き」を重ねることになるが、それが傷ましい痛切感を帯びるのは、おそらく海老沢が上げるもう一つのレクイエム観と合わさるためであろう。未完成である故である。「二重性」が内因だとすれば、今度は外因である。ジュスマイヤーの補筆のもつ音楽的意義である。根底にあるのは死者と生者との関係である。補筆ならぬ補完だと捕えているのである。とりわけモーツァルトの場合では。すなわち、「モーツァルトの死はジュースマイヤーによって象徴されるところの親しい生者によって完成されたのだ」と述べるである。これはとかく批判の多い、そのために幾つかの版が生まれた「ジュスマイヤー版」に対する擁護の前提となる補完説であるが(既述)、ある種の超越説でもある。こう述べるからである。
音楽理論的に、作曲技法的に、そして音楽的に、ジュースマイヤーの補筆がいかに稚拙なものであれ、彼ジュースマイヤーは師モーツァルトの召天というかけがえのない出来事に立ち合い、師の死に対するこの世に遺された者の思いを痛切に体験し、その哀れさ、悲しみという共有感情のうちに、死の未完の作品を補筆し、その全き成就に参与したのだ。(後略)(同229-30頁)
そしてそれを承けて、「ジュースマイヤーの補筆完成こそ、モーツァルトの『レクイエム』をして、モーツァルトの鎮魂ミサ曲たらしめるにこの上なくふさわしい行為ではなかったろうか」とする。超越説とした所以である。これが意義ある超越であるのは、そのことによって本稿の場合も「無念」が完成するからでもある。
なお、上掲井上太郎もこの「未完成」の在り方に重きを置き、未完成故にモーツァルト自身のものになったと言い(井上1985、374頁)、別に「神は未完成を許すのだ。なぜなら、それが完成されれば地上の人間のものとなってしまうからである(同1997、290頁)と、その意義を詩的言辞に高めている。いずれも《レクイエム》の超越性を讃えんがためである。言外にはバッハのそれ(神に向かう超越性)との違いを念頭に置いていたに違いない。
さらにまた、やや違った見方による未完成論もある。未完成は、モーツァルトの「本質」に触れるものだとするのである。「もともと『レクイエム』というキリスト教音楽のジャンルとは容れ合わないところがあると思うから」と、それがモーツァルトだとする捉え方である(磯山1988、208頁)。ただこの「本質」論も、既存の鎮魂曲とは違う音の響きをモーツァルトに聴きとっていたからである。限界を言っているわけではない。
強奪としての死 結局、この楽曲をどのように聴くかにかかっている。これを一般的な死者のためのミサ曲(鎮魂曲)とは違った、「音楽以外のもの」に本源を有する響きとする捉え方に、石井宏のレクイエム観(石井1988)がある。この「音楽以外のもの」に慄然とさせられるものにこう語りかける。
(前略)一体これはなんなのだ。なにがこのような異様な昂奮を私たちのうちに巻き起こすのか、それが行儀のよい信仰的な感動でないことは、だれもがそれを感じた人ならわかっている。それは、もっと強烈な、人間を根底からゆさぶってくる感動なのだ。宗教という典礼的な、ドグマ的なものを越えた、もっと原生的な「力」なのである。一人の人間が、聴く者の魂を裸の手でつかみにくる、直接的なアピール、直接的な慟哭の声なのである。(傍線引用者)(石井533頁)
こう考えるのは、「そうしなければ、この音楽の異様な姿は説明つかない」からだった。の文章が書かれたのは、1970年代中頃である。早い段階のレクイエム観である。問題の〈版〉で言えば、一部修正の〈バイヤー版〉(1971年)が新版として出された後となる。因みに1971年は、モーツァルト没後180年で、石井が連載を開始した年でもある(その集成が上掲書)。その後の版問題の経緯から見ると、いまだ真筆・補筆論にあまり煩わされずに、楽曲を「全体」として聴くことができた、あるいは〈モーツァルト版〉として聴くことのできた時代である。
もしこれを幸せな時代と言ってよいなら筆者もその一隅にて無心な思いで音に向い合っていたことになる。引用に続く以下の石井の叙述は、まさにそうした文脈上に熱く記されたものである。ここに描かれたのは、不条理から解き放たれないままに、迫りくる死を受け容れられずにいる、一個の弱い人間像である。そのリアリズムである。
(前略)モーツァルトは決してこのような裸の叫び声を伝えるような作品を書いたことはなかった。しかし、彼が死を予感し、しかも死者のための音楽であるレクイエムを書かねばならなかった時、死は単なる予感ではなく、一つの実体のように、彼の上にとりついたであろう。そうして死に直面した時、(略)彼は悟ったような顔をして死ねるほどの虚脱者でもなければ、ペテン師でもなかった。死にたくはなかった故に、生きながら煉獄の苦しみに会ったのであった。モーツァルトは、それが作品の中に溢れ出るのを止めることはできなかった。名匠モーツァルトに、人間モーツァルトが勝ったのであった。そして、人間の魂が「肉体に別れを告げる」時の「異様なつらい別れ」の歌、慟哭の歌、執着の歌、呪いの歌、叫びの歌、そして自身への挽歌が出来上がったのであった。(傍線同上)(同533-34頁)
先に引用した部分を含めて、傍線部分は本稿の主題を深く衝くものであるが、この続きに「生への最後の讃歌」とか「永遠の人類の歌」とか、同じ構文上に個体から万民に主格を平行移動させている。バッハの《マタイ受難》(「主よなんぞわれを見捨てたもうや」)に言及するためであるが、普遍を得た分、個別が弱まる。弱まった分を音楽芸術に顕彰する。バッハさえできなかった、我が身に迫りくる目の前の死そのものを音楽にした唯一の作曲家であったと。つまり、「死は不本意であったろうが、死の姿を書き残した稀有の作家となったことにおいて、彼はもって瞑すべきあった」(石井535頁)と結んで見せた。
無念の響き~エピローグ~ このような叙述に当たると、あらためて楽曲に深く耳を傾けるほかないが、本稿が辿ってきたところ(諸見解に学んできたところ)と読み合わせて再確認しておかなければならないのは、傍線部分は、健康状態の推移から見ても作曲期間中の全てに亘っていたのではないことである。伝記上ではプラター公園前後の10月後半からとなる。また、版問題に絡んだ文献クリティーク的な楽譜分析をはじめとした史料分析が説く、作曲上の「事実関係」もその時の「リアリズム」を描出する上に看過しえない点である。とくに「裸の魂の叫び声」とも言える作品が、音楽学的にどのように楽譜上に評価されているのかも再確認しておかなければならない点である。
ただその場合でも人生から切り離し、あるいは人生を異質なもとして、それをよしとする一方的な音楽学的な見方には、学ぶべき知見は多くても全面的には従い難い。たとえば、そうした方向での最新のモーツァルト論の一つ(ヴォルフ2015)がいう〈反白鳥の歌〉説は、現実の演奏次元まで考えると、はたして指揮者の心を強く衝き動かす力になるのか疑問である。とりわけ音楽の全体像を創り上がる上においては。それは当然に、その指揮を通じてモーツァルトに向い合う我々のそれ、すなわち魂の揺さぶりにもかかわることになる。
そのときヴォルフは言う。それ(〈白鳥の歌〉説)は、「信仰」*に過ぎないと。ここまで見てきた諸見解は、それぞれ音楽学的な説得力をもったものである。けして単なる「信仰」などではない。故にその諸見解を範にとった筆者の「信仰」すなわち「無念の響き」も、すくなくとも筆者自身を納得させる上においては十分音楽学的である。
もしこの「信仰」を実証するものがあるとすれば、それは現実の演奏である。カール・ベームの《レクイエム》**は、そのとき、筆者の「信仰」をさらに深める。「無念の響き」に満ち満ちた演奏だからである。
* 本稿が依拠してきたランドンの著書については、「あげくの果ては、こんなポエムに出会うことのなる」と、ランドンが最後の年に見た楽曲の調べに関する印象について、その一節を論難気味に引いて見せる。そしてそれも「信仰」がもたらしたものと、既存の多くが拠る、「自分のために書いた《レクイエム》」という考え(先入観)の否定に論をはじめるのである(ヴォルフ「プロローグ」)。
** ながく親しんできたのは、1956年のモノーラル(ウィーン交響楽団版)である。歴史的名盤とされている1971年のウィーンフィルハーモニー版はとらない。ここに来て、同じ1971年にウィーン交響楽団との間で行なわれた演奏が、映像資料としてユーチューブにアップされている。1956年版を基調にしてより内容を深めた演奏である。本稿ではこれをとる。
引用・参考文献
石井 宏『素顔のモーツァルト』中公文庫、1988年(単行本1978年)
磯山 雅『モーツァルトあるいは翼を得た時間』東京書籍、1988年
井上太郎『モーツァルトのいる部屋』新潮社、1985年
井上太郎『モーツァルトのいる街』ちくま学芸文庫、1996年(単行本1991年)
井上太郎『モーツァルト いき・エロス・秘儀』平凡社ライブラリー、1997年(単行本1989年の改題・増補)
井上太郎『レクイエムの歴史 死と音楽との対話』平凡社、1999年
海老沢 敏『モーツァルトを聴く』岩波新書、1983年
海老沢 敏「モーツァルトの《レクイエム》をめぐって」(同者編『モーツァルト探求』中央公論社、1992年)
海老澤 敏「訳者あとがき」(ランドン『モーツァルト最後の年』同後出)
カルル・ド・ニ『モーツァルトの宗教音楽』白水社文庫クセジュ、1989年(原書1981
年)
クリストフ・ヴォルフ/磯山 雅訳『モーツァルト最後の4年 栄光への門出』春秋社、2015年(原書2012年)
H・C・ロビンズ・ランドン/海老沢敏訳『モーツァルト最後の年』中央公論社、2001年(原書1986年)
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