2016年7月29日金曜日

[ろ]4  ロマン(連載4) 旧市街地の公園~とある南米の港街~


年代を感じる石造りの家。壮麗なアパートメント。重々しくても親しみを覚えるのは、カラフルに彩られた窓枠が、家々のファサードを飾っているためであるが、街全体としてもそう感じられるのは、アーケードのように歩道に大きく迫り出したベランダのためであって、それも窓枠と同色だからである。個々の家を超えて街のファサードとなっているのである。
思い思いに大きな鉢が置かれ、鉢から伸びた濃い緑の植物で覆われたベランダは、歩道に程よい日陰をつくっている。なかにはベランダだけでは足らずに、蔦状の植物を屋根上に高く伸ばしている家もある。歩道上に置かれた鉢植えの緑とともに、街全体には言い知れない、肌触り感のある親しみが広がっている。
この懐かしさを内側に漂わせた雰囲気は、いまでは観光産業にも一役買って街をさらに開放的で賑わいのあるものにしているが、観光のために急拵えでつくり出された上辺だけのものではない。もともとのものである。
それを教るのが、並びが家並の一部と化している街の教会の佇まいである。
たとえば、その前に来てはじめて分かる、今、教会の前にいるのだという不意を衝かれた感じ。予告を欠いた刹那的な告知の前に立たされた感じ。しかも好ましいのである、意外感が。時空を異にした遠隔地でなければ味わえない、深い繋がりの覚醒感となって還ってくるからである。
観光客にさえそうであるなら、街の人にとってはなおさらである。自分たちの一部になっているはずで、ほとんど皮膚感覚にも近いはず。教会が日常と化している何よりの証拠である。だから今に始まったわけではない。
しかもまだこれには先があって、「親しみ」とは、これを(つまり先の話を)含めた上でのことで、むしろ問題なのは、この先にある。家並と化していることの別の意味。核心であって魂に触れる部分。例外なく襲ってくるのである。前に立たされた者には。
これが固く扉を閉じているなら別だった。でも正反対である。開け放たれていたのである。大胆に。その分、堪えるのである。一歩を踏み入れただけで。待ち受けているのが、「親しみ」がつくる〝罠〟だったからである。
いとも簡単である。立ち入ること事体は。家並の一部だから。扉は両側に大きく開け放たれているのである。
しかし一歩足を踏み入れるや否や、瞬時に覚えるのは、身の内に惹き起こされる違和感である。背中を日常に向けながら正面を別世界に晒すという両極に向き合う自分。それが前触れもなく襲いかかってくるのである。肝心なのは、違和感も襲来感も自分の思いによって生じていること、自分を境界としていること。
現実にはそこにある天を衝く高い天井によってはじまっていく。目眩に襲われるのである。一歩を踏み入れた次の瞬間に。襲うのは目眩だけではない。瞬時にして変わる気圧もである。外気に馴染んでいた肌はとても敏感になっている。
そのまま頭上に高さを感じながら正面を見据える。奥深い教会堂の内部。奥行きの深さを演出するアーチ状の柱列。足取りを硬い床に一歩々々確かめるようにして進む。
近づく身廊の先の大きな石造りの祭壇。祭壇の前衛をなす厳かな十字架。磔刑のキリスト像。像は磔の十字架と同色の農茶褐色に彩られている。十字架の両側には、キリストの創を負った胸元の高さに届く、計6本の大蝋燭が左右三本ずつ立て並べられている。背面には、磔刑像の背景をなす灰白色の、石製祭壇の後衛が聳え立ち、蝋燭を含めて磔刑像の前面性(受難性)を否応なしに際立たせている。
後衛をなす石製像の圧倒的な大きさ。それは、磔刑像を数倍も上回り、どこかの国の山上から街を見下ろすキリスト像のそれを思わせるが、その像とは違い、両手は胸許に重ね合わさる。復活したキリストに相応しい端正な佇まいである。
識っている人は思う。あのゴルゴダの丘でキリストが叫んだ最期の言葉を。
〝エリ エリ レマ サバクタニ!〟(私の神よ、私の神よ、なぜわたしを見捨てられたのか!)
これで終わってしまったなら、絶望的とも言える世界に突き落とされてしまうことになるが、それが最期ではなく、はじまりだったことをさし示すかのように、今、こうして復活し、高い明かりとりから採りこまれた、淡い外光を頭上に浴びながら、前衛の磔刑像を慈愛で包みこむようにして立つのである。
祭壇のドームが演出する採光法は、しかし見る人によっては、受難を生き続ける十字架上のキリストの受難をさらに際立たせてしまう。前衛ではなく、永遠の孤絶化を突き付けられた感じに。故に孤独に受難を生き続けるのである。
復活したキリスト像の上、高い祭壇の最上部。向き合う一対の天使。さらにその上部には、ステンドグラスがはめ込まれている。地色を淡い灰白色にして、その上に三人の聖人の姿を色鮮やかに浮かび上げている。
祭壇を一体として覆う円形ドーム。ドームを飾る色鮮やかなステンドグラス。淡い陽の光に浮かび上がる宗教画。
 開放感の真後ろに待ち受けていた凝縮の世界(内界)。もう罠などと安直なことは言っていられなくなる。言うなら「囚われ」だった。

その教会(「境界」)を出る。再び街中。ふたたび「親しみ」が出迎えてくれる。濃くなった同血感で。
真っ直ぐに延びる石畳の街路。街路沿いのフラッグ。黄色、青色、赤色、の三色旗。今は昼の暑さでしなだれているが、夕暮に流れ込む潮風を待っている。
建物に遮られて気配も感じられないが、目と鼻の先には、海岸が迫っているのである。海賊から街を守る高い防塁も辺り一帯を巡っている。ここは歴史ある港街である。なかでも古い市街地として知られた歴史地区。そこに女はいる。
さらにその一角。ひとつの曲がり角。女は、角を曲がって路地に入ろうとしている。同じ石畳みの続き。両側には店が建ち並んでいる。洒落たレストランが客を待っている。なかを知りたくなる。
身体が正面に向かいかけたところで、待ち構えていたようにドアが開く。白い前掛けを腰元に強く絞めた店員が姿を現わす。瞬時に足が止まる。呼びこまれるのではないかと身体が硬くなる。顔を逸らす。
でも杞憂で終わる。出てきたのは、出迎えではなく見送りのためだった。程なくして数人の客が現れる。一人の年配の白人男性は、満腹感にお腹を大きく突き出している。傍らの婦人は、赤らんだ頬を両手で押さえている。酔いを隠すためだけではなさそうである。それ以上に零れ落ちそうな笑みを頬の上に支えるためだった。
満足そうに店員の肩を叩く者もいる。ひと時を楽しんだ笑顔は、これから何処に入ろうか決めかねている者たちにとっての誘い水となる。実際、辺りを窺っていた一団が、店員が中に入る前にと足早に近寄って来たのである。
もう心配する必要もない。大胆に歩み寄ってなかを覗く。壁一面を埋め尽くす壁掛けの絵や額入りの写真が目に飛びこむ。数人からなる生演奏者の姿も目に入る。
座席は混みあっている。満席に近い。評判の店なのだろう。入ろうか。感じの良さそうな店員だった。丁寧に応対してくれるだろう。でも混雑している。時間を取らせることになる。注文の決められない客になりたくない。

散策を続ける。別の路地に入る。カメラを取りだす。撮りたいがものが目に入ったのである。一対の全身を黒褐色に塗り固めた、合成樹脂かなにかで作られた人工の人体像だった。近寄る。構えたカメラを縦長に傾ける。背景も好い。文句なし。白っぽい石壁に黒色の人体像の輪郭が際立つ。ピントも問題ない。
シャツターに手応えを感じた瞬間だった。動くはずのない人体像からおもむろに腕が伸びてくる。一体は、ポロシャツに丈の短いパンツ姿の長身痩躯の青年像だった。伸びてきた手には、さっきまで被っていた麦わら帽子が握られている。麦わら帽子も身体と同色である。裏返される。料金の請求だった。なかに入れて欲しいと待っている。内側も同じ黒色だった。
端から疑わなかったのである。どこからどう見ても作り物にしか見えなかったのである。女は両手を広げて、「アラ、マッ!」という仕草をつくる。
オウム返しに青年像がパントマイム風に同じ仕草を見せる。でも今度は帽子の方ではない。傍らのもう一体の方だった。帽子を差し出した一体と対照的に、背の低い、女とあまり背丈の変わらない、だぶつき気味のシャツを長く垂らした青年像の方だった。表情を知らないはずの黒一色の顔面の奥の眸に、小さな笑みを控えめに浮べてみせる。生きている。生きた「作り物」だった。
外国紙幣だと金銭感覚が鈍る。日本円だと千円札相当だったのかもしれない。ワンショット千円。撮ってもらうのではなく、撮ってしまったための。相場を大きく超えるこの金額への返礼として、「作り物」は、大きく手を広げ、片膝をついて胸許にその手を引き寄せて見せる。もちろんパントマイム風にである。
その仕草につい嬉しくなってしまい、女は、思わず手を差し伸べてしまう。温かい手で握り返される。正真正銘の人間の手だった。人工の無機質な手ではなかった。
気持ちが一気に昂ぶり、味わったことのない愛おしさを感じてしまう。でも自分の方から差し出してしまったはしたなさが、後追いとなって、愛おしさを感じる以上に女を気恥かしさのなかに捉え返してしまう。もうそんな年でもないのにと、自嘲気味になったとしても。
青年像は、一時前から一連の光景を見ていた通路上の人(若者)を呼び寄せると、自分たちを撮るようにと促す。それでも無言劇は崩されない。
真ん中に女を入れて、青年像たちはもとの「二体」に戻る。
――でも「三体」。
女は言う。自分に。そのとき身に纏っていたのは、麻の白色のワンピース。頭には大きめのサングラス。手には茶色の波打ったキャプリーヌの帽子。
――モウ一枚。
と撮影者から言われた時、女はサングラスを目許におろし、帽子を被る。別のスナップが欲しかったというより、青年たちの一員になり切りたかったからだ。
道行く人が、つられて「三体」にカメラを構えはじめる。インパクトのある取り合わせだったにちがいない。
数分間、女は作り物の人体像の一員を演じる。
観光客たちは、手慣れた感じだった。近寄ってきては小銭を受け取るようにと差し出す。帽子を取ろうとしない青年に代わって女は手の平をひろげる。置かれたコインを握りしめながら、機械仕掛けを真似たような仕草でぎこちなく空いた右手を伸ばす。握手を返すためである。
――アリガトウ。
言葉をかけるのは、撮影者の方だった。女は手に力をこめるだけ。表情も変えない。姿勢も揺るがさない。
最初に呼び止められた、地元の若者らしい青年は、面白そうに女と観光客のやり取りを傍らから撮り続ける。
クローズ。
途切れたところを見計らって「一体」からバツ印がだされる。青年からカメラが手渡される。彼もパントマイムを真似てみせる。
それでも最後は堪えられなかったように笑い顔に戻る。笑いながらパントマイムの真似を続ける女と握手を交わしながら、顔見知りだったのだろうか、
――ジャ、マタ!
のような言葉を「二体」にかけてその場を離れる。
女は手にしていたコインを帽子の「一体」に差し出す。帽子を取ってもらわなければならない。
――要ラナイ。
と、小さく片手が振られる。
もう「一体」も同じ仕草を見せる。
――貴方ノ取リ分。
と言っている。
――ならもう一度。
と、女は人体像にカメラを向ける
撮り終えると、コインを差し出す。意味は分かっているはず。でも人体像は微動だにしない。
――ゴメンナサイ。
という断りの仕草をみせながら、女は自分から帽子に手を伸ばす。
――分カッタヨ。
「帽子」は言う。溜め息交じりに。仕方なく三体で稼いだ撮影料を受け取る。帽子に入れさせる。
 再撮影料を入れようとしたとき――今度は少額だったが――寸前で帽子は引き上げられてしまう。
 ――ダメ。
「帽子」は言う。言おうとしていた。
彼は、先端に国旗を取り付けた長い棒を片手に掲げていた。つまり両手は塞がっていた。
女の思いは、もう「一体」の彼が受け止めてくれた。
ハグしてくれたのである。最初からそうしたかったかのようにして。分からせるように抱きしめられたのである。ハグを超えた強さで引き寄せて。
背中にまわされていた腕が解かれた時、女は思わず口走ってしまった。
――あなたッ!
「彼」は「彼」ではなかった。「彼女」だった。
だぶだぶシャツの下に女を隠していたのである。でも「彼」だった。「彼」として秘密を明かしたのだった。感謝の印だった。本物の。
その後、表通り戻ると、ちょうど時代がかった馬車が観光客を乗せてゆっくりと通過していくところだった。乗っていたのは仲が良さそうな老夫婦だった。妻の肩には夫の手がやさしく回っていた。「彼」から受けた強くて軟らかい「ハグ」が、まだ女の身体を痺れるように包んでいた。

女は、ツァー旅行の自由時間中を一人で過ごしているところだった。集合時間にはまだしばらく間があった。
街路をもとの入り口側に戻る。目的は公園だった。解放感に溢れていて休憩するには手頃な場所だった。
偉人たちの胸像が、公園の一画に建ち並んでいる。港街の防御や街の発展に功績のあった人たちである。撮影済みである。
その際には見かけなかった、広場の芝生に円陣を組んだ小学生たちの一団が目に入る。学年別なのだろう、男子女子の別以外にも2色ずつに分かれた制服を身につけている。
円陣のなかには、引率の教師が立っている。腰回りの豊かな、日本だったら十分肥満体形にカテゴライズされてしまう、大柄の中年女性だった。この国の言語独特の強いイントネーションをフル回転して大きな声を出している。
一人の少女が、ベンチの見慣れない外国の女に気がついて、円陣のなかから覗き見を止めない。制服姿から見て下の学年のようである。同じ制服の他の子たちにはまだ幼さが残っているのに、その子だけは少し大人びていて、もう十分に自分の美貌を意識している感じだった。
ここは世界に知られた観光地。世界各地から多くの人が訪れる。外国人が珍しいわけではない。少女が見ようとしていたのは、女が異邦人だったからではなく。女として火照っていたからだ。それも決して若いとは言えない、少女の担任ぐらいの年齢。それなのにと。なぜそんなに上気している? そうやって見ていたのである。
教師に見咎められて、輪のなかに顔を戻すが、隙を見てはベンチを窺い続ける。見つめ返すと、慌て気味に異邦の女の視線を逃れ、なにもなかったかのように円陣の一員に戻る。
でも口にしている。やはりそうだったのね、どうもヘンだと思ったわ、と。でももういい、見ないわ、と。それからはなごともなかったかのように先生の話に集中している。違う。見せつけようとしている。
なにもかも考えすぎだった。目を惹いたのは、なにか別なことだったのだろう。そうだと思っても、相手が年端もいかない少女だったことで、かえって「罪」の意識が増殖してしまう。
先生の身ぶりや指差し方からして歴史街の説明のようだった。熱の入った話し振り。野外授業。同じだ。なにか懐かしくなる。でも時間から見て見学は終わったはずなのだ。なら締めくくりなのだろう。それとも宿題? そうだ、きっと宿題が出されているところなのだ。見学の感想文の。明日までに書いてこなければならないのだ。

ここでこのまま時間を過ごそうと深く腰を掛けなおす。公園の向こうには高い石壁。防塁である。その上に広がる夕暮の接近を予告する、幾分か赤みを帯びた空。でも上空には、まだ青みを残したままの空が高く広がっている。その下の椰子の緑。こんもりとした常緑樹の濃い茂み。辺りが静寂に包まれるなら、今すぐにでも防塁の向こうから聞こえてきそうな海の音。
聞こえるかもしれない。耳に手を翳す。でも聞こえてくるのは、やはり走行音だけ。海岸沿いには、交通量の多い幹線道路が走っている。自分たちもその道を来たのである。
野外授業の円陣といい、どこか日本の公園の風情を思い出していた女に、訝しげな光景が目に飛びこんでくる。方角としては円陣の少し斜め奥である。早くから気づいていてもおかしくない近さである。あの子の所為である。
奇怪な光景は、実に厳粛に繰り広げられていた。「実に」と念を押すのは、そうでもしないかぎり、演じられている現実の光景が、子供たちから程遠からぬ場所であることの説明がつかないからである。
それにしてもなんという共存・併存!
裏切られた感じだったのである。日本と同じだなどと、ノスタルジーに浸っていたことが。
ソルジャーだったのだ、そこにいたのは。迷彩服に身を包み、部厚い軍靴を固く締めて、肩からは自動小銃を重々しく下げている。一人は黒人兵だった。痩身の体躯が、黒褐色の地肌を一段と引き締めている。首筋は妖しく輝いている。見るからに頑強そうだった。
でもそれだけではない。迷彩服が、背後の空に浮かべる輪郭は、夕暮を間近に控えていたこともあって、どこか艶めいている。美しいのである。
深い褐色のもう一人の兵士もだった。負けずに美しい。ともに男の美しさだった。
都市部は、平和で安全だが、山岳部は違う。場所によってはゲリラの支配地である。そういうお国事情を抱えている。知っていたし、ガイドにも尋ねた。安全について。それとなく。
地元のガイドは、遠く霞んで見える山岳をはるか彼方に指差しながら説明した。
――エエタシカニアノ山ハ……。
と、そこが治外法権であることを隠さない。
――デモココハトテモ安全デスカラ。
不安そうにしていた女に、心配しないでくださいと、顔面の笑みを絶やさないようにしながら太鼓判を押す。それもガイドの大事な務めであるかのようにして。
それなのに兵士が居る。配備されている。そうだ、今日は誰か要人が街を訪れている。よく聞き取れなかったが、そんなことを言っていた。そうだったのか、大統領だと言っていたのだ。なら特別警護だった。
だからなおさらだった、奇怪なのは。もし警護というなら、そのとき兵士が就いていた「警護」である。ありえないというしかない光景だったからだ。実際はそれでもまだ足りないくらいだった。警護していたのは、なんと若い女たちだったのである。しかも普通の「警護」ではなかったのである。
問題の舞台は、船の錨のモニュメントを据えた、数人が腰掛けられる石の基壇上だった。錨を背に兵士たちは腰かけていた。一人の女は、兵士の膝を枕にして壇上に若々しい肢体を長く伸ばしていた。黒髪に手を差し入れて優しく櫛いている兵士は、無言でじっと女の顔を覗きこんでいる。黒人兵の方だった。
彼だけではなかった。もう一人の兵士も同じようにカップルになっていた。違うのは、女が座っていることだった。でもただ座っているわけではなかった。片足を兵士の膝の上に大きくかけている。兵士は兵士で女の腰に手を回し、空いた手で女の腿を押さえている。五十歩百歩。二組に「警護」の程度の差はない。
女教師の大きな声は、「見ないで!」であったのだろうか。違う。そんなふうに思ってしまうのは自分だけだ。やはり自分は日本人なんだ。女は嘆く。情けなくなる。
それに時間は、夕方の5時を回っているではないか。時間外だった。もちろん大統領がまだ滞在中ならそうはいかない。だから大統領は、もう街を後にしたのだ。正真正銘のフリータイムだったのだ。
回収車を待っていたにちがいない。その間を使ってガールフレンドを呼び寄せたのだ。予め決めてあったのかもしれない。彼女たちにとってもここは観光地だった。観光させていたのだ。彼女たちだけを。
――モウOK! 公園デ待マッテル!
携帯電話で連絡したのだ。
でも大胆すぎる。回収車には同僚たちだけではなく上官も乗っているかもしれない。糺される。きつく。いくら日本でなくても。
公園を見渡すと、木陰にカーキ色のバイクが一台停まっているのが目に入る。マウンテンバイクだった。一台しか見当たらない。とするなら2人で一台。二人乗りだ。回収車は来ない。待っていたのではない。
返す言葉が見つからない。勤務時間外ならなんでも許されるのだ。個人の時間として。恋人とのひと時に費やすことを、迷彩服も肩の自動小銃も邪魔しない国。平和な国? 違う。山岳地帯にはゲリラがいる。ゲリラ戦に出撃することもあるかもしれないのだ。なら本物の男たちだ。
女の心はベンチを離れ、兵士に近づく。兵士からの抱擁を待っている。違う。勘違いしないでよと言う。待っているのは自動小銃の方。銃の台尻や銃身の先が、肩や腰に当たるのを。そのときの感触を。生きている感触を。血の流れを。そう言い聞かせようとしていた。弁明のようにして。忍び寄る大きな虚しさを一方に感じながら。

そろそろベンチを離れなければならない時間だった。
生徒たちはまだ輪を作っている。スクールバスがまだ来ないのだ。
あの子は、あどけない少女に戻っている。きっとあのときも実はそうだったように。
質問が出されている。われ先にとあの子も大きく手を上げている。
なかなか当ててもらえない。さらに大きく挙げている。
同じだ。子供たちは。しかめっ面のところも。
だからだ。思い知らされるのだ。
思い出してしまうのだ。
でもいいそのことは。
帰国してからのこと。

2016年7月10日日曜日

[ろ]3 ロマン(連載3) 取調室


婦警は、男の取り調べに立ち会うことになった。理由があって制服のままだった。しかし、女刑事の真似をしているのではなく、実は正真正銘の女刑事だった。婦警の格好は、カモフラージュだった。
街頭刑事という特別任務に就いていたのである。主に性犯罪や痴情犯の焙り出しだった。彼女には特別の能力が備わっていた。道行く人を見分けられるのである。だから交番勤務を装っていた。あるいは巡回の名目で街に繰り出す。街角で屯する輩から怪しい人物を見分けられるのである。
自身から進んで囮になることもあった。怪しい人物を見つけると、素早く私服に着替え、肉薄をも厭わない。体を張っての職務遂行である。美形の上に抜群のプロポーションだった。すべてを職務に捧げていた。
「いつまで黙ってるんだ!」
 刑事の声は威嚇的で、その都度男を怯えさせた。できれば協力的な態度を取りたかった。でもできない。何も答えられない。名前も明かせない。そんなつもりはなかったのに黙秘になってしまっていた。
たとえば名前のこと。明かさなかったのは、明かしたくなかったからではない。明かすべき名前を持たなかったからである。
だからいささか妙な話だが、怯えのなかに喜ばしさを抱え込んでいたのである。嬉しかったのである。久しぶりに名前を問われたので。それも執拗に、何度も何度も「名前は! 名前は!」と、「名前も言えないのか!」と声を荒立てられながらも、その度にまんざらでもない気分を味わっていた。でもそんな内実を悟られてしまっては火に油を注ぐことになってしまう。ひたすら怯えに徹していたのである。
いつも「おい、お前!」とか「貴様!」とか、場合によっては「其処の(奴)!」とか二人称にもならぬ「愛称」で呼びつけられたり、呼び捨てられたりしていたのである。
それが一人前に扱われた気分になる。そうか名前か。そうだ自分だって名前があるんだ。納得する。思わず、満足げな顔を覗かせてしまうことになる。
案の定、刑事を刺激し激高させてしまう。刑事には侮られた顔にしか見えなかったからである。
机が激しく叩かれる。刑事の顔は怒りで震えている。
黙秘には慣れている。でも黙秘には黙秘で意志がある。人がある。人格が感じられる。でもない、意志も人格も。これは黙秘ではない。あるのは黙秘を真似た、ただの嘘つきの顔つきである。俺さまをこれ以上怒らせるな!
男にも刑事の気持は分かっていた。理解できた。自分で自分を責めた。怒られるのも仕方ない。当然である。
当然だが、実は当然でない状況下にある。それが事実だったし、事実だったことが、本人にも刑事にも問題となる。でもどうにもならない。
それというのも明かすべき名前を本当に持っていなかったのである。正しくは持っていたが、今はもっていないのである。明かしたくても明かせないのである。どうにもならないのである。
「なんだ、名前を付けてくださいとは!」
 言うまいと思っていたことを口にしてしまう。怯えがそうさせたのである。
「ふざけているのか!」
 刑事の拳に力が入る。
「馬鹿にしているのか!」
 明らかな侮辱だった。限界だった。叩かれた。
 でも刑事からではなかった。女刑事からだった。取り調べの机を挟んで対面していたのは婦警姿の女刑事の方だった。救ってくれたのである。
 それほど強くなかったが、痛そうに頬に手を遣りながら、女刑事ではなく傍らの男の刑事に面を上げて、「ふざけているわけでも馬鹿にしているわけでも」と、萎れ気味に項垂れる。
そして、「付けてくださいと申し上げたのは、実は」と言う。自分も黙秘はいやです。怒られたくありません。でもお願いですから、我慢して下さい、しばらくの間ですから、真実をお聞き下さい、その間は怒らないでください、そうでないと黙っているしかできなくなってしまいます。でもそれが(黙秘が)一番嫌なのは自分ですから。本当です、と哀願顔をつくる。
刑事は、「ともかく言え! なんでも好いから!」とさらに威圧気味になる。黙秘などと抜け抜けと言われたからである。しかも脅しのようにして。
だめだと男は思う。また怒鳴られてしまうと。
「少し休憩をいただけますか。必ずちゃんとお話しますから」
 回答は迅速果敢だった。
「いいだろう、その代わり正直に話すんだ、いいな! また同じような態度だと、分かったな!」
 一撃を加えるように厳しく言葉を浴びせた刑事は、書記係の若い刑事を一人残して女刑事を伴って退室したのである。図らずも男と刑事両者の呼吸は合っていたのである。

 30分の休憩は、人の気持を鎮める。鬼刑事にしてもそうである。でもそれだけではなさそうだった。休憩の間、女刑事からなにか言われていたのだろう。たとえば、「大丈夫ですよ、もう」と自白を確信してもいいようにとか、それも「さすがですね」とか、適度に煽てられながら。
だから「我慢して聞きましょう」と言われても「そうするか」とかまんざらでもない顔を浮かべることになる。さらに「どうしてもダメなら、また私がなんとかしますから」と声をかけられると、髭の濃い頬がだらしなく弛むことになる。心得ている、まったくのところ、鬼刑事の扱いなどなんでもなかった。すこし目配せを交わせばいいのである。たとえ妖しかったとしても。
実際、再開を告げた時には、もう刑事は、男の肩を揉み解して見せるほどになっていたのである。
「じゃ聞かせてもらうか!」
 そういいながら男から椅子をすこし引いて、間を取る。女刑事の位置は変わらない。 
「実は落としてしまったのです。届け出ました。交番に行って。受付してくれませんでした。『そうか、そうか、それは気の毒に』としか言ってくれませんでした」
 少し間があったが、刑事は「それはそうだろう」と言った。いきなりの話だったが、怒気は籠っていなかった。それを明かすように、「俺でもそう言う」と軽くあしらうように言う。しかも無理に笑って見せる。
「だから別の交番に行きました」
「今度はなんと言われた? やはり『気の毒に』か、それとも『それはご不便なことで』とか?」
 そう言って女刑事を見ながら苦笑いを浮かべる。少し自信がなくなってきたのである。またぞろもたげ出した怒気を早めに女刑事に知らせる必要がある。判断を仰いだのである。
いうまでもなく軽く首を横に振られる。まだ始まったばかりなのだ。
「怒らないから話してみろ」と代わりに言う。
「真剣な顔をしてくれました」
「新米だな、そいつは」
そうではなかったが、刑事に同調した。
「本当は盗られてしまったんです。最初からそう言えばよかったんですが、恥ずかしかったんです。盗ったのは女ですから。押し倒されて首絞められて『分かったわね! その名前を二度と口にすんじゃないのよ!』『マイクを埋め込んでおいたからね。どんな小さな声だって駄目だから。超高性能の集音マイクだからね』『相手の声も入るからね』――教えたどうかすぐ分かるからね、ばれるからねって威すんです」
「新米は付き合ってくれたんか?」
「ええ、だからずっと黙っていてくれました」
「そうか、それはそうだろう」
 少し落ち着きを取り戻したらしい刑事に言う。
「筆談することにしました、これならばれませんから。マイクはカメラではありませんから」と自信顔で。
 刑事が腰を浮かす。
「聞こえるんじゃなかったのか? こんな話していていいのか!」
 我慢しているんだぞ、相当な、と分からせるようとしていた。この先もこんなんじゃ、と一喝しておくべきだと思ったからだが、女刑事と目が合う。腰をおろす。まあいいかと思う。つき合ってやろうかと思う。あとで慰めてもらおうと思っていたのである。帰り際に一杯付き合わせて。
「大丈夫なんです。電池が切れているんです。本当は出頭しなければならないんです。女のところにです。このまま放っておくと、マイクから有害物質が流れ出てくるんです。だから1週間以内に連絡を取らなければならないんです。でも連絡も、出頭もしなかったんです。いいと思ったんです。それで体の調子が悪くなっても、重症になっても。死んでしまっても。ほとんど拷問ですから。名前なしで生きていかなければならないなんて。お分かりでしょう? 普通の生活は送れません。就職も、結婚も。仕事を選らなければ就職は偽名でも大丈夫ですけど。偽名だと犯罪ですかね」
「まあ、ケースバイケースだが」
「有印文書なんとかとか、文書偽造とか、そういうことですか」
「まあそういうことだ」
どうでもよかった。刑事は「それで?」と先を急がせるしかないと思う。
「だから問い詰められたら『筆名』ですと言い直します。大丈夫でしょうかね?」
「まあそうだな。でも今はそれでは通用せんぞ。それに『盗られた名前』だが、それと今回のことは関係しているのか?」
「筆談の話に戻っていいですか」
すこし溜め気味に言って、「手短にしろよ」という刑事に、男は「はい」と子供のように弾んだ声で返す。
刑事はすぐに自分の優しさに後悔したが――柄にもない真似だったので――でも黙りこくられるよりかいいか、と自分を納得させる。
男は、いろいろしゃべり続けた。男は男なりに刑事の苛立ちに気を遣っていたつもりだが、巡り巡って辿り着いたところは、またもや女刑事の手を借りなければならない寸前だった。
でも刑事は、「いいから、いいから、なんでもいいから!」と、もう投げやりを通り越した諦めの気分で、後は若い刑事にいつ任せようか、とそのタイミングを見計らうことでこの場の忍耐力に自分なりの整合性を見出そうと努める。
――手術シテ外シテモラッタラ如何デスカ?
――マイクガ出テキタラ証拠品ニシテモラエマスカ?
――エエソウイウ運ビニナルデショウ。
この一言、正確には一筆がその後を決めたと男は唇を噛みしめる。そして「紹介シマショウカ」と言われたと。
総合病院だった。精密検査ならぬ総合検査が必要だと言われ、数日かかるので入院して欲しいと。
事情は巡査が伝えてあったので、申請書の氏名欄ほか氏名は「筆名」で済んだ。「名無(ななし)」だった。名が姓、無が名だった。事情を聞かされた医師もそれ相応に応じてくれた。
最初は問診だった。予め記しておいた質問表をもとに健康状態がチェックされた。
――ご家族は皆さんお元気のようですね。名無さんだけですかね。オジサンやオバサンに同じようなお悩みを持たれた方はいらっしゃいますか?
――先生、あの?
――分かっていますよ。でももう少し調べてみましょう。外科的なことは外科的なこととして置いておいて、内科的には遺伝的なことも考えられます。頭から処置方法を決めてかかってはよくないと思います。女性のこともです。潜在的な恐怖心をお抱えのようですが、そのことをもう少し内科的にですね、いろいろと。
回りくどく訊かれましたが、結局、女性のことでした。女性環境でした。現在だけではなく小さいときからの。実は被害妄想ではないかと。女性にマイクを埋めこまれたのも。埋め込んだ女性そのものも。そう言われるんです。
見せました。先生に。写真を。送られてきた写真です。これから胸を閉じようとしている前の写真です。はっきりとマイクが見えます。傍らの女も。ほくそ笑んでいる顔も。いかにも冷たい感じです。
すると先生は言われるんです、私には見えないんですが、と。
こんなにはっきり写っているのにこれが見えないなんて、なにか馬鹿にされている気分になって、それで抗議の声を上げました。
すると医師は、回転いすを一回り、二回りさせて言うんです。
――私がだれか分からないの? って。
急に女声になって。でも顔は男です。同じ男の医師です。
目を瞑って、と言われました。言われる通りに目を瞑りました。耳もとで囁かれました。
――変な真似すんじゃないよ。
と、ナイフのような鋭利な声で。
「例の女だったのね」
口を開いたのは、女刑事だった。孤立無援に耐えていた男は、なにか女刑事の手を執りたい衝動にかられる。すぐ近くにまで腕を伸ばすが、刑事がいることを思い出す。男は続ける。
 見破られていたんです。外科手術を受けようとしていたことが。
――自業自得だ、自分を恨むんだね。
また言われました。女声で。そして、今度は完全に奪われました。名前です。根っこから。もう記憶にありません。それまでは口に出すことだけが禁じられていただけなので、頭の中で呼びかけることはできました。許されていました。でも自分を憐れむためです。女の無慈悲は、私の弱点を容赦なく衝いてきます。それでも好いもんです。喩え頭の中だけだとしても名前があるのは。でもそれも許されなくなりました。
――もうこれで言いたくても言えないからね。でも却ってよかっただろう。びくびくする必要はこれでなくなったんだ。
気がついた時には脳外科病棟の病室に横たわっていました。頭部は、幾重にも巻かれた包帯で白く覆われていました。目を開けると、外科医がベッドの脇に佇んでいました。女医でした。満足そうにしていました。
――○○さん、大成功ですよ。ご安心ください。この分だと回復も早いでしょう。
――先生?
――なんですか、○○さん。
――そこだけ聞こえないんですが……。
――だから大成功なんですよ。好いんです。聞こえなくて。そのための手術だったんですから、ねっ名無さん。
――先生は誰なんですか!
――誰って? わたしは名無さんの担当医ですよ。それよりそんな大きな声を出すと痛むでしょう。今は手術の後だからいろいろ心配になるのは分かりますが、大丈夫ですよ。安心してお休みください。
――頼まれたんですか!
――頼まれた? ええそれはもちろん頼まれましたよ。
――あの女にですか!
――なにおっしゃってるの? 変な方ね。ご自分に決まっているでしょう。『名前を捨てたい。お願いします』って。普通なら遣らない手術です。倫理的な問題だけでなく、技術的にも難しい手術ですから。ご事情を窺って、審査会で致し方ないでしょうということになって、私が選任されたわけです。術前におっしゃられたでしょう。『良かった、先生がご担当くださると知らされて。この方面では先生の右に出るお方はいらっしゃらないそうですね。本当によかった、どうぞよろしくお願いします。先生に全部お任せします』って、でもいいんですよ、混乱しているんです。それも予定の範囲内ですから。でも大丈夫。それもすぐ治まります。自然と落ち着きますからね。ご安心下さい。たしかにこの手術に関しては、名無さん、私が担当したことに、後々、必ず満足していただけるはずですから。
何を言いている! 満足も安心もできるわけがありません。絶対にあの女だと思いました。
混乱している? そう女医は言う。ならその混乱ぶりを逆に利用してやろう、そう考えるようになりました。だから頼みました。
――回って下さい。
と。一回転、二回転、三回転。
「で、どうだった?」
 刑事が突然口を挿む。
「変わりません。女医のままでした」
 単細胞だった。その刑事の性格が幸いする。
「まぁ、あえて訊くが、それも、なんだ、お前さんの、つまり、内科医が言うところの女環境というか、ちがうか、『女性環境』だったか、そうか、そうだったな、どうも口が汚くて、お前さんみたいなやつばかりで、本当に、自分で自分が嫌になってくる。で、それだが、結局、それなんじゃないのか。いや、それだ、それだ、そういうことだ」
 自信満々である。
「女への妄執、だ」
そして、こう言い出すのだった。
「おかしいと思っていたんだ。俺の勘から言っても、普通の痴漢には見えなかったかなら。(どういう意味だろう?)そうか、そうだったのか、勘違いだ、俺の。違う、女たちのだ、女性たちのだ。回って欲しかっただけなんだろう? でも回ってくれない。それはそうだ、ベンチの脇に座っただけだ。それだって、いつも女性が座っている場所だ、お前さんは言ってみれば新参者だ。ほかに空いていたんだ。だから移って欲しかっただけなんだ。『すいません、連れが来るんでよろしかったら席譲ってもらえませんか?』そこでお前さんは言った。『回って下さい』って。何度も。怖くなる。当然だ。ベンチを離れようとする。それをお前さんは、前に立ちはだかる。女性の肩に手を掛ける。女性が悲鳴を上げる。お前は驚いて逃げる。何日かしてまだ戻る。女性はいない。怖くて来ない。来れない。気にいっていた公園なのに。で、次はなにも言わないで、黙って女性の後ろに立つ。囁くように声をかける。『回って下さい』って。回るわけがない。やはり悲鳴を上げて逃げ去る。お前さんも立ち去る。そして次だ。今度は自分からだ。そうなんだろう? 回そうと思ったんだろう。抱きついたわけではない。逃げないで下さいって、怖がらないで下さいって。でも無理だ、それは、どう考えても。だから悲鳴を上げられる前に口を塞いだ。『怖がらないで下さい』『なにもしません』『回って欲しいだけです』――いろいろ好き勝手に言ったそうだな。何にもの女性が同じように言いていた。『助けて下さい、ぼくを! ぼくを!』って、そう叫んでいたと。助けてくれるわけがない。助かりたいのは自分の方だ」
 刑事は、徐に椅子から腰を上げて、後ろから両手で男の肩を押さえた。そして、回転力を加えた。椅子に座ったまま男は半回転した。男が椅子を押さえていたからである。刑事と正対することになった男に刑事は真正面から覗きこむように言った。
「そんな手の込んだことを言って、本当の目的は何だったんだ? まさか痴漢したかったわけじゃないだろう。肩触りでも痴漢と言えば痴漢だが、それとも脅迫か? でも『回ってください』じゃな?」
 刑事は喜んでいた。余裕しゃくしゃくだった。
 それを男は簡単に裏切ってしまう。そうではない、結果として裏切ってしまう。男には刑事の話が耳に入っていなかった。入っていたかもしれないが、聞こえていなかたった。別なものが入っていたからだ。
話は戻されることになる。
「やはり思っていた通りだったんです。女医さんではなかったんです。看護師だったんです。回診カードを押さえたボードが裏返されたんです。『見ているからね』そう書かれていたんです。あの女でした。笑い顔です。目の奥に浮かぶあの嘲笑うような笑い顔です。埋め込んだ時と同じ。女医さんは操られていただけなんです」 
 目は刑事を見ていた。でも男の眼には刑事の姿は浮かんでいなかった。
 刑事は肩に置いていた手に力を加えた。半回転して男を正位置に戻す。時間を稼ぐためだった。作戦の練り直しである
「でも正確には女はいませんでした。看護師さんは乗り移られていたんです。優しそうな女性でした。ですから最初はまさかと思いました。でも間違いありません。あの女が体の中にいます。きっと先回りしていたんです。交番に行った時から。そして、分かっていたんです。この病院のことも。内科医のことも、外科医のことも。選んだんです。油断させるためです。相手を看護師さんにしたのは――」
 嘆き悲しんでいるのか、男は両手で顔を覆った。泣いていた。
でも泣いている意味を刑事には理解できない。我が身を儚んでいたのではなく逆だったからだ。感激して泣いていたのである。好いように振り回われてしまう。でもクライマックスだった。
男が立ち上がったからだ。そして振り向いたのである。刑事をしっかり見つめていたのである。刑事も負けず睨みつけたのである。
「初めてでした。回ってくれたんです」
 勇んでいた。自分で演じ出しかねなかった。
「しかも『女』でなかったんです。何度回ってもらってもそうなんです。乗り移っていないんです。分かったんです。探していた女性だったと。出会えたんです。『もう一人の女』に! それが彼女だったんです!」
「で、感激のあまり思わず抱き付いてしまったわけだ!」
 刑事は同じように男を抱きしめていた。現場の再現だった。そして、肩越しに女刑事を見る。予想外に無表情だった。むしろ迷惑そうだった。
 刑事は勘違いしていた。嫌なことを思い出させてしまったかなと。後で慰めんといかんな、これはと。

女刑事は、別な世界のことのように二人を見ている。男に抱きついている刑事の格好は、茶弁劇にも近い滑稽事でしかなく、そう思うと、この取調室そのものが別の世界のように思えてしまう。
それに女刑事が思い出していたのは、抱きつかれた瞬間などではない。男に手錠を掛けた瞬間だった。感じたのである、なにかを、抱き付かれた瞬間に遡って。
その瞬間から「これで!」と、事件が終了したと思った安堵感と感激は、身体の中から消え去っていたのである。どこにもない。残っていたのは消え去った感覚だけだった。
そのためだった。立ち会ったのは。上司から後はいい、あいつ(鬼刑事)に任せるからと言われていたのを、直接の関係者ですから、と自分から強く申し出たのである。
でも途中からなんだか不安になってしまったのである。出鱈目の話を聞かされたからではない。男の状態では起訴できそうにもないからではない。
違う。反対である。男になにかを衝かれた感じなのである。あの時と同じなにかである。『出会い』『もう一人の女』などと思いがけないことを言われた。バカバカしい。そんなわけがない。でも女刑事は怖くなる。
言われるままに回っていた、何度も回り続けていた、あの公園の一角が浮かんでいたからである。そして意外なことを思い始めていたからである。
 自分から抱き付いていたのではなかったか、と――。