2016年7月2日土曜日

[ろ]2 ロマン(連載2) 男と組長


数週間が経つ。
――あの……。
と男は近寄ってくる。応接を求められた組長は、またいつものぼやきかと思う。だめだ、だめだ、と相変わらず情けないのである。
それがその日はそうではなかった。名前のことだった。名乗った方がいいでしょうか、と神妙な顔で質されたのである。
――名前?
――いまさらとは思うんですが……。
申し出を受けて、そう言えば、一度も名乗っていなかったのを思い出す。思い出したのは、それだけではない。だれも男の名前を知ろうとしなかったこともである。
知ろうとしなかったのは、必要がなかったからである。「オ前サン」だけで十分だった。ほかの猫たちも「サン」は付けないが、「オ前」と親しみを込めて呼んでいる。呼びかけられた男も嬉しそうにしている。
――キシカイセイ、です。
漢字では「来止開盛」と書くと説明される。
意味としては、〈来て止まって開いて盛り上がる〉だった。ふざけたような名前である。ありそうにもない、取って付けたような漢字の並びだった。
――ペンネームなんです。本当の意味は「起死回生」なんです。
それなら大違いである。
でも、と男は言う。それではお恥ずかしいわけですね。あからさますぎて。露骨ですから。なにか裸を晒してしまっている感じです。それで当て字でカモフラージュしているのです、と。
さらに言う。ともかく、ここに来てからの話ではありません。付けたのはずっと前からです。そんな風に思われてしまっても、たしかに最初が最初でしたから仕方ないのですが、そうではありませんから。それに今までは、漢字は同じでも読み方は違っていました。「ライシカイセイ」と発音してました、と。
――どうです、なかなかいい響きでしょう。
そう言って、聞かされた人は、敬うような眼差で「なんか凄そう」とか言ってくれました。もっと自信をもって胸を張っておられてはいかがです。偉そうにしていても。とくに若い奴らの前では、などと言ってくれるのです。そう言って、嬉しそうに付け足す。
――自分でも調子に乗ってしまい、「そうですか……」なんて自分でもまんざらでないと思って、照れ笑いを浮かべてしまって。
男はその当時の自分になっている。憎めないが、いつもの大きな子供をあらためて見せつけられた感じだった。そう思うと組長は、思わず警戒してしまうのだった。
――デハ、本名ノ方ハ?
きっと男一流の前置きだと思ったからだった。「実は」とか言って、もっと凄い名前が出てくるのでは? 驚かせようとしているのでは?
――棄てたんです、と言いたいところなんですが、忘れてしまいました。
それが意外なことを言う。あるいはもっと不遜なことを言おうとしている。組長は疑う。
でもそうではなかった。一身に関わることだった。どうもそのようなのである。
――思い出したいのですがダメなんです。どうにもなりません。記憶装置が毀れてしまっているようです。医者からも見離されています。本当です。組長さんを侮っているなどありえないことですから……。
――ソンナコトハ思ッテナイガ。ソレトモ儂ノ顔ニハソウ書イテアルノカナ。
そう言われた男は慌てたように、リックサックから一枚の封筒を取り出してみせる。診断書を入れた封筒だった。
手渡された診断書に組長は目を通す。
――「先天的にして後天的な悪質海馬障害」
と解せない顔をしながら声に出し読む。男から求められたからである。「治癒の見込み欄」に眼を移す。しかし読み上げなかった。そこには「残念」と認められていたのである。
組長から返された診断書を封筒に戻しながら、
――ですから本当は「残念無念」にでもしようかと思ったのですが、その方がぴったりですし……。でもそれではいかにも投げ遣りなので……。
と口籠りながら言う。組長は聞き流した。
――何故ココニ来ルコトニナッタノカナ? 立派ナ身ナリデ、カクシャクトシテオイデデアッタノニ。
もちろん過去形であった。
男の顔が曇る。涙目になっている。
組長は、執りなす。ソンナツモリデ訊いたわけではないのだと。答えたくなければそれで構わないと。
いいえいいんです。気になさらないでください。過去のことを思うとこんな情けない顔になってしまうんです。過去が暗いからでも、辛くて思い出したくもないからでもなく、なにが過去なのか分からなくなってしまうからなんです。
――アマリ思イ詰メナイヨウニ。体ニモ悪イシ。
そうは言ったものの、男の過去にはいろいろありそうだった。
男は言った。
――あのときのこと(「砂掛け」のこと)をお話ししておきたいんです。
どうしてあんなに落ち込んでしまったかを説明しておきたい、そう言うのであった。
たしかに組長は不思議に思っていた。組長だけではなかった。誰もがどうしたんだろうと不思議がっていた。
――組長さんだけにお話ししますから、どうかほかの方たちには黙っていてください。
――安心ナサイ。
組長は請け合う。でもそれがすこし張り切ったような口調になっていたのに思わす苦笑いを浮かべることになる。
男が言うには、同じことをされたからだという。
そうやって、後ろ足でされたんです。蹴られたんです。荒々しく。自分に対してではありません。できればそうしたかったんでしょうが、部屋の扉に対してです。すごい音で閉まりました。毀れるくらいに。でも毀れません。厚い丈夫な扉ですから。
――ナンノ話ナノカナ?
――閉じ込めの話です。
――閉ジ込メノ? 何カ閉ジ込メラレタノデスカ?
――ええ閉じ込められたのです。この自分が。もう二度と表には出さないからねと。
組長は言い方が気になった。。ドウモソノ言い方ダト、女ニデモ閉ジ込メラレタノカナ? と声にならないくらいの呟くような声で訊く。
――そうです。女にです。女に閉じ込められたんです。そして蹴られたんです。
釈明からはいる。誤解しないでください。囲われているわけではありませんから。そんな関係ではありませんから。でも支配されているんです。女の考え次第で、自分などいとも簡単に消されてしまいます、と。
――消サレル?
――ええ。でも消されませんでした。お陰さまで。その代わりがこれです。閉じ込めです。今もこうして閉じ込められているんです。
――でも閉じ込められているのは自分だけですから。皆さんとは関係ないことです。
 ――ワシノ頭デハヨク理解デキソウモナイガ……。
 一身上のことだと思ってあげたが、見込み違いのようだった。組長は渋い顔で男の真意を疑わないわけにはいかない。
 ――でも真実なんです。今もあの時の蹴られた音が、厚い扉が固く締まる音が、耳もとに残っているんです。襲ってくるんです。あの時がそうだったんです。砂掛けです。音と言ってもただの砂です。さらさらした摩擦音です。大したことはありません。だから目に堪えたんです。皆さんの後ろ足が、あの時を思い出させたんです。音を呼び覚ましたんです。
そう言って男は耳もとに手を遣って見せる。耳を塞いだというのだった。
――音を音で消すためだったんです。泣き喚いたのも。
そう言われればえそうだったかもしれないが、本心から泣き喚いていたようにしか見えなかった。
男は言う。これも天罰です。皆さんに酷いことを言い続けてきました。得意になっていたのです。最初は絶望していたのですが、取り方によっては解放されたように思えたからです。女からです。自由を謳歌したかったのかもしれません。それで好い気になって、皆さんに悪態ついて。情けない奴です。この程度の男だったのかと思うと、悲しくて泣きたくなります、と。
組長は男に飲み物を勧めた。一気に飲み干してしまう男にもう一杯勧めた。
――マァ、少シ、落チ着イテ飲ンダラ。
そう言う間に二杯目も飲み干そうとしていた。
涙ぐんでいる。
好キナヨウニサセヨウ。組長はそのまま容れ物を膝もとに置いた。

差し支えなければもう一つだけと言って、男は膝を詰め寄る。「猫だまし」の件だった。
皆の見ている前で消えたはずなのが、振りむくと後ろに立っていた、いまだに目を疑うようなあの一件である。
 それが次に語られた話は、聞かされただけでは、人格者の組長といえども、眉をさらにしかめることになっただろう。あまりに荒唐無稽だったからである。しかし、今回は現実が先行していた。自分の方から聞かせて欲しいくらいだった。
そして、経緯を聞かされて納得する。ほっとする。どおりで気が付かないわけだ。「猫だまし」でも次元が違う。「超猫だまし」だった。否、違う。その超も超えていたのだった。
時空が欠落していたのだった。男が閉じ込められた場所は、圧縮された時空だった。圧縮度を高めるためだったらしい。女が強く足蹴りしたのも。ただそれなら前足で蹴ってもよかったが、あるいはその方が効果があったかもしれないが、そうしなかったのは、「顔も見たくない!」と言われたからだったらしい。
男に言わせれば、公園にいて公園にいないのだった。では部屋にいるかといえば、そうともいえない。断定できるようなことはどこにもない。公園にいるのも部屋にいるのも同じだった。何処にいても同じだった。意識次第だった。明日も明日もなかった。それも意識が決めた。
本当はその意識も失うところだった。それが唯一、意識だけが残る。ミスだった。女は男の記憶を支配していた。奪った。具体的には過去を取り上げた。記憶と意識は一体だった。女はそう思っていた。ミスがあったのは閉じ込めた時だった。子猫が紛れこんでいたのを気がつかずに蹴ってしまったことである。
女が飼っている猫の子だった。遊び盛りだった。気持が高ぶっていて、子猫を部屋から出すのを忘れてしまったのだった。そうではなく一度は外に連れ出したのに、その後も続けられていた二人の言い争いの隙をついて、遊び盛りだった子猫が、女の足元をすり抜けるようにして部屋に潜り込んでしまったのだった。
――デハアノ子ガ?
――そうです。若竹と言います。
竹のようにしなやかだからだった。組長の目にあの時の、幹を一気に駆け上がる子猫の姿が蘇る。
――若竹からは奪えません。時空も意識も記憶も。
そう言ってこう語る。
わたしがいま意識をかろうじて所有していられるのも、若竹がいるからです。若竹によって自分は自分でいられるのです。それでも時空は復元できません。それに自分一人では何もできません。前に進めなければ後下がりもできません。どうも前も後ろもないのです。それも奪われてしまいました。
空間の中と時間の中と、以前なら両者が絡みあって、今の自分と少し前の自分、もっと前の自分、昨日、一昨日、一週間前、一か月前、半年前、一年前、今が夏だとすれば春の自分、冬の自分、去年の秋の自分と、思いだせる限りの自分と繋がっていて、大事なのは、それが今の自分とは違う自分だということです。別の時間、別の空間にいる自分であることです。誰もが疑ったことのない、それが時空間の仕組みです。空気みたいなものです。生きているのと一つのことという意味です。
それが、自分と自分がいつも一つになってしまっているんです。変な気分というよりか、落ち着かないのです。自分と自分がいつも同時にいるのです。それが自己同化なら文句もないのですが、同化ではなく異化なのです。自分による自分の異化作用です。しかもそれと同化してしまっているのです。
まるで始終鏡の前に立たされているようです。しかも普通の鏡のなかの自分ではないのです。写っているのが後ろ向きだからです。それだけではありません。体の大きさのこともあります。いつも同じ大きさです。離れても接近してもです。
でも鏡です。右手を上げると右手を上げます。首をかしげると傾げます。それも落ち着かない原因です。鏡なら自分に終始忠実でなければならないからです。それが一部だけです。すべて忠実としてあるかそうでなければ不忠としてあるか、二者のいずれかであって欲しいのです。だめです、何をしても同じです。かならず一部しか反映しません。
やめさせようと思い鏡の後ろに回りこもうとしました。それができないのです。回りこめません。必ず前に立っているのです。
我慢できずに目を閉じます。効果がありました。鏡から逃れられました。鏡から自分が出てきたのです。でも後ろ向きです。そのままの格好で自分と重なろうとします。入りこみます。でも実感がありません。一体感がありません。どこか他人事です。それでも他人事と感じられる(捉えられる)だけましです。
同じことを何度も繰り返しました。閉じたり開けたりです。そうすれば目を開けているときにもなにか変化があるのではないかと、だめでもなにか違う兆しが感じられるのではないかと。しかし何度繰り返しても同じです。
開けると後ろ向きに写っています。閉じると中に入ってきます。でも両者の間には経過がないです。移行感です。それが欠落しているのです。
なるほどと思いました。感心させられました。時間を奪い取られたとはこういうことだったのかと。自分があって自分がないのです。これまで自分が自分でいられたことに感謝したくなりました。
自分を振り返る、思い起こす、自問自答する、こんな当たり前のことが、いかに大事なことであったのか、感謝に値することだったのか。でもそれが自分で自分に感謝する、それもできません。すべてが奪われたのです。
堪えられなくなり、再び目を閉じます。永遠に閉じていたいと思うようになります。身体だけではなかったのです。閉じ込められたのは。気持もです。自分で自分のなかに閉じこもってしまうのです。仕向けられていたのです。そうなるように。女には分かっていたのです。笑い声が聞こえてくるようでした。
そう言って男は絶望感と向き合って見せる。
その仕草に、ナルホド、と組長は思う。それが、アノ時ノべんちノ上ノ姿ダッタノカ、と。
でも組長は組長で振り返る。そして安堵する。大丈夫ダ、自分ハ自分ヲ振リ返ラレル、と。
若竹に話が戻される。
――足首をなでてくれていたのです。何度も何度も。ときには見上げてくれるんです。
そして、弾むように言う。
――「閉ジコモッテイテハヨクナイネ。外ニデヨウヨ!」と言うのです。
声を掛けられたのだった。そのときからだった、言葉が交わせるようになったのはという。
驚いたのは意志の疎通だけでなかった。それだけではなく、若竹が傍らにいると、前のような実感が戻ってくることだった。そのときは「鏡」の後ろ向きの自分も消えている、一人の自分に戻っている、そういうのだった。
気がつくと公園にいる。ベンチに座っている。一瞬のことだった。扉が開けられたわけでもない。壁を通り抜けたのでもない。同じようにここにも経過というものがない。
そうか、事態は変わっていなかったのだ。圧縮されたままだったのだ。現実を直視しなければならない。
デモ好イジャナイカ、ソレデモ、と言われる。
若竹が言うならそれでいい。男は若竹に任せることにする。でもその若竹から言われてしまう。
――戻ルヨ。ソウシナイト気ガツカレテシマウカラネ。
と。女が、扉越しに子猫の鳴き声を確かめに定期的に来るのだという。
――行かないで。どうすればいいかのか分からないよ、置いておかないでくれよ。
縋るような思いで必至に訴えかけたと言う。
でもつれなく若竹に言われてしまう。男はその声を真似るように言う。
ダメ、と。
 でもまた戻ってきた。それがあの時だった。
――ヒトマズソコマデニシヨウ。
組長は話を止めた。

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