2012年9月30日日曜日

[お]2 尾崎 翠~「黄金の沈黙」~

  [] 2  緒言 日本文学というより「女性文学」の偉大さを目の当たりにさせられる作家、それが尾崎翠である。作品だけ読むといつの時代の作家なのか見当もつかない。時代を超越しているからだが、戦前のしかも大正後半から昭和初期の、未だ戦後文学の見通しも立たないような時代の作家である。彼女が偉大であるとともに文学が偉大だと思わずにはいられない、尾崎翠を読むということ(体験するということ)とは、そういうことである。
本論の前に作家の年譜(略年譜)を掲げ、尾崎翠体験の切り口上と合わせて諸言に替える(「年譜」『尾崎翠全集』(稲垣眞美編)創樹社、一九七九年を参照)。
一八九六(明治二九)年、島根県の東部、兵庫県との県境に近い岩井郡岩井宿(現岩井町)に生れ、父親の勤務(小学校教員・校長)の関係で近隣の小学校で高等科まで過ごし、首席で卒業後、鳥取高等女学校に進学。その年の暮、父親急死。高女本科卒業後補修科に進み、一八歳の一九一四(大正四)年同科を卒業。その後、鳥取市に近い岩美郡で尋常小学校の代用教員を勤め、その頃より雑誌(「文章世界」)に投稿(短文・和歌)を開始。次第に同雑誌の投稿欄上の才女として注目を集め、次第に文壇登場への意欲を垣間見せるようになる。二〇歳の折、「新潮」の特集(〝余が最も期待する新進作家の一人〟)寄稿を求められる。さらに同誌に短編を発表。
二一歳で小学校を退職し、文学のために上京。一度帰郷後再上京して日本女子大学国文科に入学。一九二〇(大正九)年(二四歳)、「新潮」に「無風帯から」が掲載されるが、それが大学の非難を呼び、非難を潔しとしないで自主退学。その後帰郷、再上京を繰り返しながら次第に執筆生活に埋没していく。三一歳の一九二七(昭和二)年、再び上京後、上落合に借家を得て、多くの作品を生み出すことになる上落合時代が開始される。同時代女性作家(とくに林芙美子)たちの交流もこの上落合を拠点にして行なわれる。本稿にかかわる「第七官界彷徨」が執筆されたのは一九三〇(章昭和五)年(三四歳)の九月頃で、その一部を翌年二月に発表(全篇発表は六月)。大きな反響を呼ぶ。翌年の三六歳の九月、以前から常用していた頭痛薬(ミグレニン)の副作用で強い幻覚症状に襲われ、長兄によって郷里に連れ戻される。
以後、数年の間は断筆状態の前触れ程度に短文を数編発表(地元新聞ほか)するものの、一九三四(昭和九)年の三八歳時の一短文を最後にして生涯を「沈黙」の内に過す。その名も世間から忘れられていく。郷里で慎ましやかな生活を続けながら(ただし一時神経科に入院(五七歳時))、一九七一(昭和四六)年、鳥取市内の病院で逝去。今日年七五歳。生涯独身。


プロローグ~文学史の逸脱~

世間の例に洩れず、その文学の到達点に対してはしばし言葉を失う。文学だけではない。その人生の在り方(とくに見かけ上は断筆した後半の人生)を含む全てに対してである。ともかくほぼ完璧な「沈黙」である。後年の沈黙だけではない、「現役」中においてもである。実は書いたものが沈黙だったからである。代表作「第七官界彷徨」とその後一年以内に書かれた数編(「歩行」「こうろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」)には「説明」がないのである。
この場合、「説明」とは自己説明のことである。文学的訴えと言い換えてもよい。書かなければならなかった理由である。読み進めていくうちに自然と読み手に伝わってくるような、そしてそれが作者にとってこの作品を書かなければならなかった理由として自己了解されるような、まさに作品の内側から自然と湧いてくる無言の説明(訴え)を伴った理由である。文学一般の前提でもある。それがない、感じられないのである。感動に対する沈黙が全篇に行き亘っているのである。詭弁を弄するようだが、尾崎作品とは、それ故の「感動」なのである。
このような文学作品がどのようにして創り上げられたのか、そしてその後、深い沈黙を呼び込むことになったのか、どうも巷のエクリチュールとは叙述法が違うのである。ともかく代表作「第七官界彷徨」は、それがその時点(一九三二(昭和七)年)で世に問われたことと合わせて、日本の近代文学史から言ってもありえないような作品である。まさしく文学史的逸脱(1)である。そしてその叙述である。それだけに稀に見る実験的作品でもある。しかもその実験自体が、創作行為の意味そのものであり、それ以上でも以下でもない文学的世界(2)である。したがって、物語を読むと言うよりは創作過程を読む作品である。

(1)「文学史的逸脱」という言い廻しは、県は異なるが同じ日本海沿岸域で生れ育ち、同県(山口県)で文学を育んだ同時代の金子みすヾ(一九〇三(明治三六)年―一九三〇(昭和五)年)と比較しながら、その斬新性を強調する次の文献の一項目名ともなっている。寺田 操「文学史から逸脱する『文』の魅力と魔力」(寺田二〇一一年・第一章中の一項目・二二頁)。
(2)詩人の福田知子は、「第七官界彷徨」の文学的世界を「詩論」と捉えている。実験的作品であったことの奥深い解釈である。曰く、「『第七官界彷徨』は、小説というカタチをとった一つの詩論である」(福田一九九〇、一〇六頁及びその関連で一一五頁)。


一 前提的分析

「破格」の叙述 いかに実験的であったのかは、作者本人がそう呼んでいるわけではないが、それに近いことを創作ノート(「『第七官界彷徨』の構図その他」)の中で語っている。作品中に頻出する「新造語」の件である。「作中人物たちの口を通じて私は多くの独断的な心理上の新造語を作ってしまったようです。」と記す部分である。この「新造語」については、「むかし文学の先生から」の指摘として以下のエピソードが添えられている。「おん身ら仮令ペンをとる境涯に入るとも、新造語の創始者となる勿れ。(中略)ゆめ独断的新造語を弄すること勿れ。」でありながら「その講義の『回顧性分裂』に陥りつゝも私は新造語製造の罪を犯してしまいました。もしギリシヤ神話の中に言葉の神様が居られたらこのやうな新造語の数々は神様の苦笑にあたいするでせう。」とする記す部分である。語り方は自嘲気味であるが、その分、真実が隠されている。
 新造語だけではない。作者は直接言及していないが、それ以上に「新造」だったのは叙述法であった。とりわけ文法的処理であった。もはや「破格」ぎりぎりと言って好い。しかも執拗である。日常会話で済ましたり流したりするのではどうにも納得がいかない気分なのである。いきおい奇怪な言い回しに没入してしまうことになる。
試みに、色鉛筆を片手に同作品の全篇に亘って「朱入れ」したところ、破格的叙述は全篇に亘っており、まるで隙あらば侵入を繰り返す根っ子のように執拗であった。その執着心に心を合わせる限り、物語を綴ると言うよりは奇怪な言い回しを見出すためにだけペンを走らせていたのではないかと思われるほどであった。まさに逸脱したエクリチュール以外の何ものでもなかった。
煩雑だが手っ取り早く具体例(主だった箇所)を示そう。[ ]内は傍線部分に対する評者の〝添削〟である。構文編(1)・助詞編・修飾語編に分けて掲げる。また備忘録を兼ねて頁数を示しておくが、テクストとしたのは、『ちくま日本文学 尾崎翠』(筑摩書房、二〇〇七年(初出一九九四年))のそれである。ただし同書では旧仮名づかいは現代仮名づかいにまた旧字は新字に書き改められている(たとえば「思つてゐた」→「思っていた」など)。なお同全集(二〇〇七年版)の全四〇巻中女性作家はわずかに五名を数えるのみであるが、尾崎翠に割り当てられた巻数は「〇〇四」と早く、女性作家中のトップを切っている。その他は巻数の早い順に掲げると、幸田文・樋口一葉・林芙美子・岡本かのこである。

a 構文編
・(私は私の赤いちぢれ毛を人々にたいへん遠慮に思っていたのである)(八三頁)
[人前に晒すのがとても恥ずかしくてならなかったのである]あるいは[赤いちぢれ毛のことを思うと恥ずかしくて人前には出たくなかったのである]
・「それから私は私の住いである女中部屋にかえり、睡眠のたりないところを補ったり、睡眠のたりている日には床のなかで詩の本をよみ耽る習慣であった。」(九九頁)類例一一五頁一〇行目、一八一頁一四行目
[よみ耽るのが習慣であった]
・「女の子はじつによく泣くものだ。女の子に泣かれると手もちぶさただ。」(一〇二頁)
[(どうしてよいか分からず)途方に暮れるばかりだ]
・私は三五郎の心理にいちいち賛成であった。(一一二頁)
[心理がよく理解できた]
・「今夜はすこし臭くなるつもりだから、ときどき香水を当てたらいいだろう。」(117頁)
[臭くなるかもしれないから]
・「それから二助がなにをしたのかを私は知らない――私の眼には何もなく、耳だけあんこの噴く音が来たのである。」(一一八頁)
[耳もとにだけあんこの蒸ける音が聞こえて来たのである]
因みに「噴く」を用いているのも意図的。
・「蘚の花粉というものは、どんなかたちをしたものであろう」私は心理作用を遠くに行かせないために、努めて学問上の難しいことを考えてみようとした。(一一九頁)
[どんなかたちをしているのであろう][心理作用から離れてしまわないために]あるいは「心理作用から遠去からないように」
・「すこしくらいの虎刈りは、明後日になれば消えるよ。ともかくおれの背中からとってくれなければ不便だ。()れていってねかしてやったえあいいだろう(一二〇頁)
[はやく俺の背中から抱き起こして欲しい。でなければ仕事もできない。ともかく連れていて寝かしてやってもらいたい]
・私は伴奏をやめてしまった三五郎の心理を解りすぎるくらいであった。(一三〇頁)
[心理がよく理解できるのだった]
・「今日はいったい何の日なんだ。みんな僕の病院にいれてしまうぞ。僕はまだ一時間十五分も睡眠不足をしている」(一三二頁)
[起きるにはまだ一時間十五分も早いじゃないか。早く目を覚まされてしまったものだ。僕は眠くてしようがない]
・「しかし、言ったとおり、僕は分裂医者の参考になるような病的な夢はみないつもりだ。それより僕は徹夜のためにじつに眠くなっている」(一三四頁)
[さっきから眠くってしようがない]
・「入院のことでないから安心しろ。じつはこうなんだ。僕の病院に、よほどきれいな――(一助はここでよほどしばらく言葉をとぎらした)――人間がひとり入院しているんだよ」(一三八頁)
[ほんとうにきれいな][思い入れたっぷりに言葉をとぎらせた]あるいは[必要以上に長く言葉をとぎらせた]なお、「よほど」のリフレインも意図的。
・「蜜柑は昨夜のうちに飽食した。僕はいま胃のなかがすっぱすぎているんだ」(一三九頁)
[胃のなかがすっぱくなってしまったんだ]
・「女の子というものは、なかなか急に拒絶するものではないよ。」(一四四頁)
[そう簡単に拒んで見せるものではないよ]あるいは[いずれにしても早急に気持を表すものではないよ]
・「僕は、今朝から、まだ早朝のころから、じつに貴重な質問をききのこしている」(一四八頁)
[たいへんに貴重な(大事な)質問をし忘れている]
・「僕はこの際一助氏の部屋に鏡をとりに行くことを好まないよ。」(一五三頁)
[僕は今のところ一助氏の部屋に鏡をとりに行く気にはなれないよ]
・「なにか失恋者どもをだまらせる工夫はないのか。せめて僕はこの部屋で睡ってみることにしよう」(一五四頁)
[いたしかたないから僕はこの部屋で睡ることにしよう]
・「心臓のほぐれは浜納豆を満喫した結果であって、僕はこの品の存在をぜひ病院の炊事係りに知らせ――しかし、僕は、食後、急にのんびりしたようだ病院の事態を思えばのんびりしすぎては困る。僕はこうしてはいられない」(一五八頁)
[思いのほかのんびりしてしまったようだ][こんなことはしていられない]
・「休むとも。僕は絶えずその方が希望なんだ」(一六二頁)
[ずっとそうしていたかったんだ]
・「それに僕はどうしても隣家の先生を好まないよ。」(一七六頁)
[先生が好きになれないよ]
・「隣家の先生はほんのさっき僕と前後して隣家に帰ったと聞かしてあるじゃないか。」(一七七頁)
[言ってあるじゃないか]あるいは[話しておいたじゃないか]
・「そして隣室のこやしの匂いや二助のペンの音は、私にひとしお悲しかった。」(一九五頁)
[私の心をたいそう悲しませた]

b 助詞編
・「町子の書いてくれる考えおれを元気にしてくれ。」(九〇頁)[で]
・「ノートを書きつづけている二助の背中睡りかかった。」(一一九頁)[で]
・「この朝は、私の家族のあいだ、失恋に縁故の深い朝であって、私の考えごとはなかなか尽きなかった。」(一五五頁)[では]
・「ともかく僕はあのタイプの女の子が洗ってくれた野菜好まないよ」(一七八頁)[は]
・「女中部屋は色々の意味から私((ママ))気すぎるので」(一九六頁)[には]
・「大根畠にさしかかると寒い風が私の灰色のくびまき吹き、私の頭髪吹いた」(二〇六頁)[に]。ただし「に」にふさわしい表現は(それでも苦しいが)、「くびまきに吹き付け、わたしの頭髪に吹き付けた」。「を」を使う場合は「くびまきを吹き上げ、わたしの頭髪を吹き上げた」というところか。

c 修飾語編(主に連用修飾語)
・「夜は、一助氏たちから練習を止められているし、まるで僕の勉強時間がないんだ。」(九四頁)[すこしも]
・「この部屋にはたきを使っては、じつに困る。」(一〇二頁)[ともかく]
・「チョコレエト玉もわるくないが、早く夕飯にしたいな。おれはすっかり腹がすいている」(一〇三頁)[とても]ないしは[我慢できないほど]
・こんな時間のあいだには私はもはや祖母の哀愁を忘れ、そしてむろん合唱の仲間に加わった。(131頁)[いうまでもなく]
・「それより僕は徹夜のためにじつに睡くなっている」(一三五頁)[本当に]ないしは[我慢ならないほど]
・「この際睡ってしまわれては困る」(一四〇頁)[今]。「この」(連体詞)を活かせば「この場合に」あるいは「この時に」となるが、やはり「破格」的。
・「その患者は僕に対してただに黙っていて、隠蔽性分裂の傾向をそっくり備えているんだ」(一四一頁)[ともかく]
・「一助と二助の会話はよほどながい時間にわたったので、このいあいだに私は朝飯の支度を終わり、金だらいの底をみがくことができた。」(一五一頁)[かなり]あるいは[たいぶ]。前後関係からより的確には[予想以上に]。
・「依然として第六官の脈搏が打つじゃないか。僕はまるっきり乏しい気もちだ。」(一五六頁)[ほんとうに]
・「僕はついに遅刻しかかっている。」(一六一頁)[もう]ないしは[もうほとんど]
・「ともかく精密に洗ったんだね」(一七七頁)[ていねいに]
・「この女詩人とうちの女の子とは、ただ頭髪が似ているよ。」(一七七頁)⇒[たしかに]

このほか述語の用法にも拾い上げるものが少なくないが、もう十分だろう。また多数の用例を引いたのも、なにも人を飽きさせるためではない。「破格」の程を、百聞は一見に如かず、の趣旨で示したかったにすぎない。そしてその結果はまさに上のとおりである。

(1)「構文編」とは、主に一語を対象とする助詞編や修飾語編に対して一文を対象とする。一文が言い表す意味の創り方の「異変」に朱入れするものである。因みに「論」を付けて「構文論」とした場合は、辞書によれば、「文法学の一分野。一単位としてまとまった構文を対象として、その内部構造すなわち各語の結合関係、叙述・修飾などを研究する学問」(『広辞苑』)のとおりである。


 二 「第七官界彷徨」への視角

破格文体 破格は現代詩なら常套手段である。なんでもありのケータイ文ではやりほうだいである。でもケータイ上の文(ひとまず破格文)は気分の切り取りである。構文と呼べるかも怪しい。しかし、尾崎翠の破格は気分の一部などではないし、ましてや思い付きなどではない。手段であった。手段であったが、手段が、それ以上(手段以上)であろうと、個人を任意の地点に導くものだった。しかも予想外の景色の前に立たせるものだった。
通常、文体は物語と一体的なもので、物語のなかから自然に生れてくる。文体が先に在った場合は、たいてい先行例が見出せるものである。たとえば樋口一葉の文体を下敷きにした現代作家(中堅女性作家)がそのよい例である。見事な変奏曲である。しかも物語を呼び込むことのできる変奏曲(変奏文体)である。でも樋口一葉に惹かれていたと告白しているように、その限りにおいて彼女の斬新な文体が物語に先行状態で先に在ったのではない。だからと言ってそれで変奏文体の輝きが失われるものではないし、自分のものともしているが、しかしその変奏文体から離れたところで編まれたその後の長編では、作家は相当苦しんだはずである。独自の文体を生み出すこと、しかも物語を引っ張っていく、あるいは作中の山場をも乗り越えていくような文体を生み出すことの至難さを。
それは問い直せば、変奏文体が自分のものになっていたとしても限定的であったこと、全方位に物語を語り出していく上には却って足枷になってしまう制約的なものであったことを物語っている。新作の机の前では重しでしかなかった。変奏文体から距離をとるまでのペンは相当に重かったに違いない。嫌気が差したかもしれない。ともかく稀なる才能を有する者の創作にあっても、文体は物語に遅れをとりがちなのである。「正格」は易く「破格」は難し、を現役の中堅女性作家は身を以って我々の前に指し示してくれたのである。

文学史の環境 文学史に精通しているわけでない者が予断を差し挟むような言辞を吐くのは躊躇われるが、あえて問う。尾崎翠の前に彼女の文体(破格文体)に先行する事例があったのだろうか。なかったにちがいない。そんなふうに推量形をつくらないでも、それ以後も今に至るまで現れていないことを考えれば当たり前だったというべきかもしれない。なんといっても、一瞬まさかと思ってしまうような一八九六(明治二九)年生れである。同時代作家(女性作家)の顔ぶれを見れば、たとえば宇野千代(一歳下)、宮本百合子(三歳下)、吉屋信子(同年齢)、野上弥栄子(一一歳上)、野溝七生子(一歳下)、林芙美子(七歳下)である。それ以前となると、明治期の文語文調の世界(三宅花圃、若松賤子、樋口一葉など)となってしまう(ただし明治四〇年代の女性作家は口語文に拠るようになっていく)。
男性作家はと言えば、彼女の中央文壇への本格的なデビュー作と言っていい「無風帯から」が『新潮』に掲載されたのは、一九二〇 (大正九) 年の二四歳時であるが、同誌を飾った作家から見れば、芥川龍之介、佐藤春夫、武者小路実篤、志賀直哉、菊池寛などである。尾崎翠の「年譜」(稲垣一九九八年ほか)からは、高女補修科(一七歳)の折を除いて読書歴は確かめられないが、いずれにしても男性作家を含めて、「第七官界彷徨」の破格文体に決定的な影響を与えた文学史は見出せない。
 これは(このように作家を掲げるのは)、もしかりに先行作家や作品あるいは同時代作家に影響を受けていたなら、後年の断筆も違った形をとっていたのではないかと思われるからである。しかしなかった。作家自身が繰り返し語っているように、同時代の自然主義文学を厭い、とりわけ「私」を主体とした内部起源的な言葉世界(近代文学)には文学を見出せないでいた。終に全てをハンドメイドで行なうしかなかった(1)

(1)ただし宮澤賢治は違う。賢治の詩や散文(童話)にも特異な表現法が横溢している。因みに翠と賢治は同年齢である。そして賢治が生前刊行した唯一の詩集(『春と修羅』)と童話集(『注文の多い料理店』)が出版されたのは詩集・童話集ともに一九二四 (大正一三) 年である。参考までにそのなかの詩集から自由に拾い上げれば(傍線部)、「その一本の水平なえだに/りっぱな硝子のわかものが/もうたいてい三角にかはって/そらをすきとほしてぶらさがってゐる」(「真空溶媒」)、「わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた」、「あのひとはもうよほど世間もわたり/いまは青ぐろいふちのやうなところへ/すましてこしかけてゐるひとだ」、「ところがどうもあんまりひばりが啼きすぎる」(以上「小岩井農場)など。ちなみに大正一三年当時の翠はと言えば、居並ぶ大家・中堅の列に加わって、大正九年にはすでに「無風帯から」が堂々『新潮』に掲載されている。その後上京と帰郷を重ねるなか、引き続き『少女世界』へ少女小説を寄せながらも次第に表現主義的な文学世界に影響を受ける(『定本』「年譜」稲垣一九九八年)。賢治詩集は自費出版で部数(千部)も限られており、目に触れていたか定かでないが、辻潤が『読売新聞』紙上で紹介賞賛していることから、あるいはその存在を知って入手ないし手にとっていた可能性がなくはない。賢治との同時代性については、上掲寺田操が「感覚世界をつなぐ点と線」と小題してその文学的遍歴の「共通項」を横並びに分析(寺田二〇一一年)している。

作品の構築 その場合(ハンドメイドonlyの場合)、この企てが危険なのは、小説作品の世界では言葉だけでは成り立たない構造的問題(形式的制約)が横たわっているからである。物語とともにあることを不可欠としているのである。物語とともにあるとは、人の世の時空間を視覚化させていなければならないことである。しかも最低限のリアリティーが要請される。たとえば「今」を創るとする。場面を設定し、言葉を吐かせ、会話に表情を保たせる。頻度はともかく対人関係にも生彩を放たなければならない。社会関係も相応に必要となる。
この点、愛情は容易に言葉を吐かせる。そして誰でもが愛を語り恋人への思いに苦しむことができる。しかしそれだけに目に見えた結論に軟着陸しかねない。だからといって奇抜な人間関係や社会関係を設定すればよいというものではない。物語であることだけで終わってしまいかねないからである。再び物語を超える文体を見出せるならともかく、別な表現手段(映像などの視点)で再考しないかぎりは困難である。
 尾崎翠は、「第七官界彷徨」に際して精密な設計図を用意していた。しかし予め破格文体が書き留められていたとは考えられない。そうであるならそれは彼女が手掛けたこともある台本(シナリオ)になってしまうからである。むしろなにも予定されていなかった。破格の助詞や修飾語そして構文は、創作過程そのものでもあるからで、設計図は創作以前であるからである。まさに一語一語(とくに助詞や副詞)、一行一行(構文)は、設計図のなかで見出されるのではなく、創作過程のなかで見出されるべく、それ以前ではすべて未定であり白紙でなければならなかった。言い換えれば設計図は、未定を創るための、既定を避けるためのもの(断片)であった。
最後には真っ黒になってしまったと書かれている。流されそうになる時――しかつめらしく言えば、既存の人間把握に安易に掬われそうになる時、設計図はストッパー役になる。創作の現場に立ち入ることはできなににしても、次第に黒くなっていく設計図の上で感情は次第に固形化されていたったに違いない。踏みとどまれたのはそのように気分が外形を得てしかも質量を帯び始めたからに違いない。感情に流されない意識が形成されたのである。
しかし容易かったはずがない。登場人物は各自の方向を向き、各種場面は一場完結的に内向きでしかない。人物を定着させる言葉や場面を繋ぐ言葉と向き合う時、言葉は作家を既成に誘う。人物が別な人格を要請しても言葉は即応し切れない。やがてそれが言葉を介して行なわれる世界の構築の限界であることを受け容れる。それでも十分傑作は生み出される。しかし受け容れようとしなかった。それが尾崎翠である。創作の条件だった。言葉の限界を受け入れようとしない「危険」な条件であった。

創作の外的条件 この時、外的条件が作家に「有利」に働いた。時代であり、実人生であり、作家の心身である。このなかには上掲文学史も含まれる。実人生には一三歳の折不慮の事故で亡くなった父親のことがある。心身には鎮痛剤(ミグレニン)の過剰摂取を必要として、結果として彼女から筆を奪い取ってしまう強度の頭痛がある。必ず指摘されることである。しかしこれだけ(履歴確認だけ)で終わってしまうと、「危険」は見えてこない。世上の尾崎論に触れながら、あの時、東京に止まっていたならばとか、兄によって連れ戻されなければとか、東京から離れてしまったことに対する否定的言辞が、評者の無念の思いを籠めるように語られていることが気にかかった(1)。そのために郷里へも足が運ばれる。尾崎翠の文学の誕生を確認するだけでなく、筆を断ってしまったことの確認(納得)のためにである。
大正から昭和初期の時代とは東京でなければ文学は成り立たなかったのだろうか。実は彼女自身もそう考えていた。最初の上京も再上京も文学への挑戦のためである。地方(鳥取)ではなし得ないのであろうか。為しえないのである。作家があえて東京(大都市)を離れて地方に創作活動の拠点を移す今の時代、それも時代であるとすればそれが断念となるのもまた時代である。第一、『新潮』に載っただけで在籍していた女子大(日本女子大)から学生にあるまじきこととして、その「非」を咎められる始末であった(結局、嫌気が差して自主退学)。
そういう時代だった。アカデミズムがそうなのであるから、「非」に関わることが居住地にかかわらずおおっぴらにできるのは、唯一男性作家にだけ許された特権だった。それでも褒められたことではなかった(2)。ともかく同じ文学的地平を目指そうとすれば、東京の大都市(そのなかの上落合のような新興地であった特定空間)なかに止まるかしかなかった。しかも、女性作家の自立を目論むのは、『青鞜』(明治四四―大正五年)なき後では、発刊趣旨を異にする各種「婦人誌」を除けば、高い志で創刊された『女人芸術』(昭和三年第二次創刊号発刊、長谷川時雨主催)のような限定的な雑誌しかなかった時代である(尾崎翠は昭和三~五年にかけて翻訳(エドガー・アラン・ポー短編「モレラ」(3))・映画評(六回連載)・創作「匂い」「捧ぐる言葉」「木犀」「アップルパイの午後」「新痴妬価値」を寄稿)。

(1)作家の群ようこは、尾崎翠になり代わるかのようにさぞ無念であっただろうと綴る(群一九九八年)。
(2)宮澤賢治は地元花巻では「道楽息子」と思われていた。「羅須地人協会」の活動はだんだん地元に浸透していくが。
(3)なお尾崎翠がエドガー・アラン・ポーを翻訳していることから、ポーの「少女」などとの関係を対比的に説き起こした興味深い評論にポー研究者でもある水田宗子の尾崎翠論がある(水田二〇〇五年)。

不思議な時代 それにしても尾崎翠が創作活動に勤しんでいた同時代(大正~昭和初期)とは文学に限らず芸術全般にとって不思議な熱気に満ちた時代であった。尾崎翠が本拠地としていた上落合の先、西池袋から長崎に展開した「池袋モンパルナス」の早世画家たち。あるいは上落合と同様に文化人が集住した「荻窪文化村」。自由口語詩のなかで様々に展開される詩人たちとそのクループ(「感情詩社」「詩話会」「詩と詩論」ほか)。社会的風潮ともいうべき大正教養主義。その一角に位置する女学生文化。少女たちを取り囲む文芸(映画を含む)。その対極には明治末期以来の反体制思想に対する弾圧がある。無産階級であることをあえて武器とする文学も醸成されていく。
女性の「個」も時として特定女史によって全面的に開放される。与謝野晶子、菅野すが、伊藤野枝、金子文子などである。与謝野晶子以外は無政府主義の思想犯として処刑されるか虐殺された人たち(金子文子は死刑判決が一等減刑された後、収監先で「我が革命を完結させんむ」として獄中自死)である。与謝野晶子も反戦詩(日露戦争)を高らかに歌い上げている。政治や社会に対して激しい魂をぶつけた人たちである。そしてそれが与謝野晶子を含めて激しい愛欲と一体化されていた女性たちであった。一時代前(明治二〇年代)の樋口一葉のブラトニック・ラブ(半井桃水への秘めた恋心)とそのなかから生みだされた文語文文学とは隔世の感さえある激情的な恋愛であり、その文学あるいは実人生である。
そして彼女等によって代表されるような一世代前の恋愛劇は、在京中の尾崎翠にとって主要な作品発表の場となる『女人芸術』に参集する女性たちにも引き継がれる。上掲宮本百合子(当時は中条百合子)、宇野千代、吉屋信子、林芙美子ほか平林たい子、円地文子(当時は上田文子)あるいは同雑誌から世に送り出された女性作家たち(林芙美子・円地文子以外では大田洋子、矢田世津子、森美千代など)である(1)

(1)とくにこのなかでは無名時代から文壇デビュー当時の林芙美子との関係が深い(林一九三六年)。実人生ともに対照的な二人の取り合わせは、それが親密であったことからも、「不思議な時代」の一エピソードとして、またその親交による文学的深化への転嫁過程が興味深いところである。この二人(「〝オフミとミドリ〟)の関係を両者の「感覚世界」の相違として対比的に綴ったものに芥川賞作家の加藤幸子の尾崎翠論がある(加藤一九九〇年)。

尾崎翠と「女」 このように明治時代から同時代までの女性作家やその時代を駆け抜けた〝烈女〟を掲げるのは、男女の愛憎や自由恋愛の陰に隠れるようにして一人上落合の借り部屋の二階に閉じこもる尾崎翠の生活が、際立って異種だからである。自己を再確認させる上においてはこの上ない環境であった。地方に在って変わり者に見られる程度の自己認識とは違って、存在論的な自己否定に作用する体験だったに違いない。そしてそれは「女」の在り方への自己対峙として顕れていたに違いない。なぜなら東京(とくに上落合)に身を置くとは「女」を逆手にとって超俗的であることであったからである。とくに親しかった林芙美子との親交は、彼女(尾崎翠)のなかの「女」を見つめ続けさせる鏡面のような役目を果たしていたに違いない。その時、彼女が鏡の中に覗きこんでいたのは、「女」ではなかったことであった(1)。しかも「性」という意味において。
ある程度分かっていたことである。地方にいるときから気がついていた。それが在京の日々を重ねることでより明確になったのである。同時に文学的意味に近づいたのである。それだけに自己否定的であるとは、「女」になることを諦めていることに対してではなく、すでに欲さなくなっている自分に対して向けられたものである。しかし人間に備わっている前提条件としての「性」である。神の摂理にも逆らうものでもある。根源的な問題である。それだけに「女」である前に作家であったことが強く自覚されていくことになる。自己否定を文学的意味に再置換するためにである。「性」をそれとの距離のなかで生き直す、それが彼女の得た存在論である。
以上が外的条件であり、その外的条件に引き出された内的条件を含めて、「第七官界彷徨」の前提条件であった。条件は、それ内済する先に第六感を超える「第七官」の世界を予感する。「性」との距離もむしろ有利に働くことになる。「性」とは、一方では社会的条件であることからも、嫁がずじまいであることも逆手に取れば、あらたな生命力ともなる。生存条件への再転換の上でも「女」(「性」)は、背理を条理に向き直らせる。事実、作家はそれを設計図として目の前に広げることになる。

(1)上掲水田宋子(水田二〇〇五年)は、「第七官界彷徨」中の主人公「女の子(小野町子)」を通じて尾崎翠の恋(恋愛)・性についてさまざまに分析している。「女ではなかったこと」という唐突な言い方を水田の評語を借りて言い直せば、「(前略)翠の主人公たちが恋するのは、すべて身体の不在な対象で、恋を成就させないための恋、成就できないことが分かっている恋なのである」(一一〇頁)、「そこは(「第七官界彷徨」の世界は(引用者))人間の五感による現実感覚を超えた、植物的な感性の世界だから、恋は、身体を持つ具体的な異性という対象への性的欲望を消失した、植物的なエロスの感覚世界での出来事となる」(一一三頁)、「こうして『第七官界』は『女の子』の感覚でとらえられ、そこを彷徨することで、現実の性的な恋の世界から離脱して、性的他者の不確定な、性差を超えたエロスの世界への欲望を持ち、やがて『第七官』に響く詩を書く詩人となっていくはずである」(一一六頁)のとおりである。
ただし、このこと、あるいは「女ではなかったこと」と現実の尾崎翠との問題はまた別である。生涯独身であって結婚の機会も自ら回避していたが、一九三〇年秋の一時(一週間)、意中の男性(劇作家高橋丈雄)の許に身を寄せた(同棲した)こともあった(「解説」稲垣一九九八年。ただし「年譜」(同者)には出てこない。二年後の危急(ミグレニンによる幻覚症状襲来)の折と取り違えているようにも思われるがよく分からない)。また直截的ではなくても実は「女っぽい」ところが作品から浮かび上がってくる(隠されている)という読み方もされている(群一九九八年、九四頁、一五二~五三頁)
なお、「脱性」については林芙美子や野溝七生子との同時代作家比較論(「翠と同時代の果敢な作家たち」)を経て、「林芙美子、野溝七生子という作家たちの作品は、まさに女である点で果敢なのだ。芙美子の小説は女という生物の分泌液のように思われるし、七生子のそれは女に論理のナイフを持たせて、男を刺殺する。尾崎翠の場合はややタッチがちがう。彼女の作品はときどきふっと無性化する」(四一頁)と綴る加藤幸子の切り口も同じ位相に立っている(加藤一九九〇年)。

「第七官界彷徨」の世界 「第七官界彷徨」を()分析すれば、その設計図からいかに見事な文学的構築物が立ち上げられたかが分かる。破格文体のなかを生きる人物たちが現実世界との間に取り結ぶ軽妙な違和感。「私」として登場する主人公が、語り役として地の文を繰り広げる役目を担いながらも、主要な登場人物の三人(長兄・次兄・従兄妹)からは、兄妹や従兄妹の間柄でありながら終始「女の子」と非血縁的関係で呼ばれ続け、まるで他人行儀でいながらも不用意に従兄妹から頸元に気軽に接吻されたり、挙句の果てには意味もなく天井に向け差し上げられたり、続いて畳みのうえに荷物のように置かれたりもする。それ以前は以前で、有無を言わさず鋏を入れられておかっぱ頭にされてしまう(しかも酷い虎刈り状態で)。ほとんど作中では主人公でありながら物品化されている。
しかも小編ではない。堂々とした中編(四〇〇百字詰原稿用紙約一八〇枚)である。最初の一行から始まって最後の一行に至るまで一切の自然主義文学臭が排されている。おそらくそれは、彼女が日頃から自然主義文学を否定的に捉えていたとはいえ、結果としてそうなっていたのであって、創作中の彼女が対峙していたのは、真に破格文体に見合う人物像であり人間関係であり、それを繋ぐ会話文の構築であったはずである。自分の文学観を顧みる余裕などなかったし、実際にも用はなさなかっただろう。彼らの日常会話の形式を借りただけの逸脱的な議論の遣り取りや、彼らと「私」との物品的関係を通じて実感される実在的な時空間の中で、すべてが(頭痛もミグレニンの副作用も)「感覚言語」によって頻繁に上書きされる。いつしか「構築物」への進入を窺う実生活(実社会)を間際で食い止めることにも手馴れ、上書きに前のめりになっていく。
仕上がりは設計図の見込み以上であったのではないだろうか。設計者は「構築物」に扉を取り付けた。当然である。住むための構築物には出入り口が必要である。入居条件は破格語が喋れることであった。気が付いて見ると扉は外側には開かなくなっていた。設計外のことだった。外側から閂が掛けられたわけではない。入った途端にひとりでに落ちてしまったのである。続く者がいなかったからである。
「構築物」は、まるで人工知能のように構築者を超えてその意志によって住人を識別し始めていた。「構築物」が認可した住人は同時代には見出しえなかったのである。それから約三〇年後、具眼の一文学者(花田清輝)によって某全集本(『全集 現代文学の発見』第6巻、学芸書林)への一作品として選定され(一九六九(昭和三五)年)、薔薇十字社による作品集(『アップルパイの午後』)の刊行(一九七一(昭和四六)年)を経て、ついに一九七九(昭和五四)年に創樹社版全集(稲垣眞美編)が刊行されるに至る。外側から、それも人の意志によって閂が開けられたのである。全集も現在では定本として多くの新発見を盛り込んだ筑摩書房版(稲垣眞美編)が刊行されている(一九九八(平成一〇)年)。二〇〇四年には『定本』以後の新発見にかかる大正三~八年の作品集(『迷える魂』筑摩書房)も刊行されている。地元鳥取県では尾崎翠フォーラムが定期的に開催されている。
 だれが閂を開けるか、尾崎翠は予見していたのではないだろうか。


三 「黄金の沈黙」

断筆の内側 いよいよ結論。東京に止まる、止まらない(連れ戻される、連れ戻されない)を一次的条件にしていたのではない。これ以上を書くことは不要であったのである。あるいは書き得ないところに辿り着いてしまったのである。
たしかに止まっていたならさらに作品は生み出されていただろう。林芙美子は、尾崎翠の帰郷後、創設された芥川賞(一九三五年)に推挙したいと考えていた。受賞していたならさらにその作品量は増えたであろう。創作以外の作品(とくに映画時評やあるいは台本など)も書き継がれていただろう。そして作家としての地位を不動のものにしていたにちがいない。
しかし問題は「第七官」である。天才といえども時代から完全に超越的であることはできない。とくに大正時代から昭和初期は、文学史上の一時代としてはすでに瞥見してきたように「第七官」を書かせてもそれ以上に書き続ける条件(外的条件)足りえなかった。実に「第七官」は、その時代において書かれたことで時代を超えるまでになったのであり、書き続けられることまでは欲していなかったし、欲することもなかった。それも時代的な条件(1)の範疇であった。
彼女は常に作家たらんとして生きており、それも人間の五感から第六感へ、さらには「第七官」へと高まっていく内面とともにあった。また彼女の「破格」は彼女の生身であって、空想に遊ぶものではなかったし、増殖する細胞を体内に感じる生物的触感さえ伴っていた。「第七官」は、「細胞感覚」でもあるからである。したがってすっかり生まれ変わってしまうかもしれない更新的な予感の裡で筆を進めることになる。出来上がってみると、はじまり(少女小説時代)であり、今の自分でもあるだけでなく彼方に増殖していく自分(生物的な自分)でさえあった。
「第七官」のなかに止まることはできても(それだけで十分だと言う人は少なくないだろうが)、その先を見込むことはできない。現代であってもできない。ただ現代文学では尾崎翠が「生身」であったものを「仮面」とすることで新たな文体化を呼び込むことが見込まれないでもない。しかし、尾崎翠の場合、「第七官」を仮面とすることはできない。かりに仮面ならその下で息継ぎもできる。仮面をつけて帰郷する手もあった。
仮面とすることができないとは、彼女の場合、素面の下に仮面をつけることである。でも素面(ベートーヴェンのデスマスクのようだと言われた素面)の下につけるものは持ち合わせていない。ペンを握るのは仮面ではない。「第七官」を感じるのも仮面ではない。素面のままの「女の子」である。「女の子」は地方には帰れない。したがって「女の子」(素面)のためにまた筆も東京に残るのである。

(1)上掲詩人の福田知子は、尾崎翠の内面に下ってそのなかにあらためて「ポエージー」を見た。そして同時に限界を見た。尾崎翠のというより時代の限界をである。そのくだり――「私は翠が詩を書き、そしてその詩が花ひらくのは散文詩の中ではなかっただろうかと思っている。(中略)しかし、彼女はついに『散文詩』と言うメチエを持ち得なかった。だがしかしそれは時代の不幸でもあった。というのも時代そのものがついに『散文詩』の詩論を持つに到らなかったからである。」(福田一九九〇・一一五頁、傍線引用者)。ここでは「時代の不幸」を「時代の条件」としたい。

帰郷後の文筆 彼女が郷里に連れ戻される原因となったミグレニンの過剰摂取の副作用による分裂症状(統合失調症か)は、郷里の精神病院でしばらく入院することで(期間不明ながら帰郷は昭和七年九月で小康を得たのは翌年一月)癒えた。しかもその年(昭和八年)の一月一日付『因伯時報』にはチャップリンの映画評「杖と帽子の偏執者 チヤアリイ・チヤツプリンの二つの作品について」が掲載されている。「解題」(稲垣一九九八年)によれば、執筆は帰郷後とある。回復は意外と速かったのではないかと思われる(後掲「大田洋子と私」で自ら答えている)。
映画への強い思い。とくに「チヤアリイ・チヤツプリン」への想いは、帰郷後の数少ない「作品」中の一詩篇(「詩二篇 神に捧ぐる詩」)にも「チヤアリイ・チヤツプリン」と題した詩(『礦野』昭和八年一一月号掲載、地元誌)があるくらいで、思いの丈の一端が窺われることになる。チャップリンの映画は、尾崎翠の作品分析の上にも直接繋がるようなヒントを隠しているが、それだけに帰郷後の現状認識をその欠落のなかで促すものであった。映画も観られなくなった環境に身を置く自分をである。

ふるさとは/映画もなく/友もあらず/秋はさびしきところ。

この詩は、昭和八年九月二九日付『因伯時報』に掲載された断想「新秋名菓――季節のリズム」序詩の冒頭四行である(なお「序詩」だけは独立させて翌年昭和九年に『礦野』一月号に再掲される)。この四行だけを引くとまるで我が身の現状を儚んでいるようにも聞こえてしまうが、然には非ず、帰郷して約一年後の今の秋を心静かに迎え入れているのである。最後の六行は次のとおりである。

むけば秋/澄みて聖きふるさと。/はつあきのかぜ/わが胸を吹き/わが母も/ありのみの吹きおくりたる/さわやかなる秋かぜの中。

 「むけば」とは新秋名菓である「二十世紀」(梨)を剥くと郷里鳥取に向くを懸けたもの、「澄みて」は秋風が澄むと郷里に住むを懸けたものである。しかも断想の最後にはこのようにして今在る自分に擬えるかのように、「二十世紀」梨の性別を問い、こう書き綴る。

この故に(このように他に求められない味わいのある梨である故に(引用者注))人若し「二十世紀」の性別を問はば言下に答えよう――二十世紀氏は男性です。とはいえ、果汁のいづみが胸の細管を下って胃に落ち着いた時、胃の中に一枚の静かな静物画が出来上がる。世に若し物好きな人があつてこの画面の性別を問ふならば私は答えるであらう。――この絵は女性です。画面には咲きたての紫苑花の色の風が吹いているだけ、人生を斯くまで生きたいばかり清楚な画面である。

一方ではチヤツプリンの映画も観られない現在。でも、分身(「分心」)ともいうべき「第七官界彷徨」の「女の子」を生み出すヒントともなった映画を胸に仕舞うことのできる今の心持ち。そして「清楚な画面」を前にして深く了解する現在時とその中に在る自分。

最初で最後 また別の断想(「もくれん」)ではかつて若かりし頃に詠んだ短歌を巡っての小随筆(『情脈』昭和九年四月号掲載、地元誌)。すでに歌心も尽きた自分を前に不図口を衝いて出た一首――「はるくればはるのさびしさとりあつめもくれんさけりきみすめるいへ」。しかし気が付いて見ると新作ではなく旧作であった。それも女子大時代(大正九年、『家庭週報』五一五号日本女子大発行)の。なぜ旧作が口を衝いて出たのかということ。随筆の核となる部分である。
実に同歌が自分以外の第三者によって口ずさまれた唯一の一首であったからであった。当時(二三歳)、寮舎住まいであった尾崎翠は、詠みたての新作を大切に抱えて同週報の編集室を訪ねる。長い螺旋階段を上がったところにその編集室はあった。ノックの声に「おはいりなさい」という声が返される。一人の女史がさびしい部屋の中でひっそりと仕事卓に就いている。そして彼女に差しだした歌稿一〇首。以下は引用。

   女史は歌稿の封筒を破いて木蓮の歌にさつと眼をとおし、そして前掲の一首を低声で口誦まれた。ただ棒読みの素朴な朗吟であつたが、これは私の劣ない歌が他人に朗吟された最初であつた。そしておそらく最後の朗吟であらうと思ふ。

 この「歌稿」には、いうまでもなく小説作品が懸けられている。読まれなくなるだろうこと(そして忘れ去られること)を語っているのである。しかし哀しむでもない。一度でも読まれたこと、読まれるに値するものを創り上げたことが今在る現身に意味を与えているからである。しかも「分心」は今も上落合の借部屋の二階に止まっているのである。読む読まれないは関係ない。「第七官界彷徨」とはそれほどの作品なのである。

 「黄金の沈黙」 でも「分心」と再会し合体する道もあったのではなかったか。念のために問う。なかった。やはり否である。あらゆる条件が出揃ったなかでしか「分心」は誕生しなかったからである。しかも一端誕生してしまうと常に同体とはいかない。これが「第七官界彷徨」の秘密でもある。というより優れた作品が、作者を乗り越えてしまう仕組みである。尾崎翠の場合、それが結果としての作品であるだけでなく、それ以上に創作過程であったことに問題があった。それが(創作過程が)、作者を超えてしまうからである。
すでに同時代のなかには次の作品を生み出す条件は用意されていなかった。それが結果として発想の枯渇を意味するかといえば、そうではなく、作用としては、作家を辞める在り方に彼女を導くことであった。しかも止めるということ自体が一つの「作品」であると耳元で囁く。聴き分けられるのは作家のみである。尾崎翠にのみ許された特権である。それが地方に身を置くことによって自覚できたのである。だから正確には戻ったのでも連れ戻されたのでもないのである。
そのことを彼女はまさに最後の一文となる「返書」(「大田洋子と私」昭和一六年七月五日付『日本海新聞』)に認めた。と言っても直接の返書ではない。かつて(上落合時代に)交流のあった大田洋子(一九〇六―六三)が一雑誌に寄せた尾崎翠との思い出。その一文のなかで尾崎翠のことを思い返しながら、あらためてその作品を讃えて止まない一方、音沙汰もなく噂も聞こえなくなってしまったのは、おそらく病弱の身を横たえているに違いないと案じた一文。
しかし雑誌の記事を眼にしたのは尾崎翠自身ではない。新聞記者だった。その記者が新聞に載せるべく、尾崎翠に同雑誌を差し出して「感想を」と求めたのである。「返書」はそれに応えたものである。掲載されただけで直接送られることのない「返書」である。なぜなら両者とも現住所は知らなかったからである。それがより「返書」を普遍的なものにしている。
「返書」は、出会いや往来を思い出すように綴られた後、賛辞を受けながら彼女(大田洋子)の当選作(『朝日新聞』一万円懸賞小説当選)へ何とも言って上げられないことの釈明を前置きに、大田洋子の誤認を訂正するくだりへと進められる。そして問題の個所である。

  (前略)大田洋子は私が未だに郷里で病弱な日を送つてゐるものと誤認してゐる。それきり文通もなく殊に私の郷里埋居の長く、沈黙の久しい罪であらう。しかしこれは黄金の沈黙かもしれないと思つてゐる。何処かの国の諺に多弁は鉛、寡黙は銀、沈黙は黄金と言ふのがあるさうだが、この意味での黄金である。(傍線引用者)

それを際立たせるために上落合時のことを「駄作」と呼び、それが引き起こした心身の疲労だとし、でもそれくらいだから帰郷すれば最初から簡単に治るものであって、実際「二ケ月もするうちに健康はとみに盛り返して来た」と述べ、それならなぜ怠惰を弄んでいるのかと勘繰られるところを先回りして、その後を綴る。晩年の母にとって(心配ばかりかけてきたが最後は)少しはよい子供であったかもしれないとか、今は多くの甥・姪の「叔母さん」であるとか、ともかくそんなありふれた一員であることを淡々と辿り、それに郷里では昔のようにはいかないと述べる。付き合いが多いからだと言う。とくに冠婚葬祭の。いうまでもなくすべて逆説である。そのために「黄金の沈黙」を採ったわけではない。最後の一文がその逆説をすべての結論でもあるかのようにまとめ上げる。やはり逆説の一行で。

都会の一隅に住んでつまらないものを少しばかり物してゐた独りものゝ私しか知らない大田洋子ではあつたが、郷里へ来れば母もあつたし肉親も多い。まづありふれた世界の一員である。落合での一人ぐらしの如く物事に超然としても居られなかった。妹の結婚、母の死等、世の中というものはまことに冠婚葬祭の世の中であつた。私がもし自然主義作家の席末でも汚してゐたとしたなら、こんな生活を克明に描破して洋子へも健全を謳はせたかも知れないと思うのである。(傍線引用者)

 ただし「逆説」とせず、それを帰郷後の棄てきれない文学的思いの表れの一つとして読んだ尾崎翠評もある。上掲、群ようこである。彼女のオマージュともいうべき尾崎翠賛(群一九九八年)のなかは、その最終章(「第五章 熱情」)で、その帰郷を無念の帰郷であったことだろうと本人を代弁するかのように書き綴っている。「本当にこれからもっともっと、日本の作家のなかで異質で素晴らしい存在になるはずだった。だから彼女が東京に思いを残し、(長兄に連れ戻される列車のなから(引用者))途中で飛び降りようとした気持ちを考えると、気の毒でならないのである」と。しかし、最後はこう結んでいる。「尾崎翠の名前を知る人はまだ少ない。わたしは『第七官界彷徨』を読んで、日本の小説はこの一作でいいとすら思ったこともある。この本を読んで、尾崎翠という作家に興味を持ち、そして彼女の本を読んで下ったならば、これ以上の喜びはありません。」(傍線・引用者)と。だからこそ、尾崎翠自身も「この一作でいい」とするのである。見合うのは「黄金の沈黙」でしかなかった。


 おわりに

 ここに尾崎翠(の「沈黙」)に触れた直接の契機は、尾崎翠と同じ[お]音をもつ一人の人物のためである。同氏(O嬢)は、筆者(の文学観)にとって特別な存在である。そのO嬢が「言葉」(詩・散文(創作))の上ではながく「黄金の沈黙」を過ごしている(決めている)からであった。しかし、O嬢は代わりに絵筆で「沈黙」に色付けしている。あたかも「黄金の沈黙」に答えているかのようであった。
昨年の個展(『野の光』)に同嬢は新境地を開いた。その代表作の題名は奇しくも「秋草図」(箔、岩絵の具)。尾崎翠とおなじ「秋」のなかに立っていた。今、筆を擱くにあたって、尾崎翠の「言葉」(「新秋名菓」)を借りてO嬢の作品(「秋草図」)への遅れ馳せながらの一言としたい。
 
――「人生を斯くまで生きたいばかり清楚な画面である」と。


引用参考文献
 
[テクストとしたもの]
『尾崎翠全集』(稲垣眞美編)創樹社、一九七九年
『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)筑摩書房、一九九八年
『迷える魂』尾崎翠著(稲垣眞美編)筑摩書房、二〇〇四年。『定本』以降の新発見作品(大正三~八年)集。
『ちくま日本文学全集 尾崎翠』筑摩書房、2007年。ただし現代仮名づかい、新字使用。

[引用参照したもの]
稲垣眞美「解説」(上)・(下)(『定本尾崎翠全集』筑摩書房、一九九八年)
稲垣眞美「おぼえがき」(尾崎翠『迷える魂』筑摩書房、二〇〇四年)
加藤幸子『尾崎翠の感覚世界』創樹社、一九九〇年
水田宗子『尾崎翠 『第七官界彷徨』の世界』女性作家評伝シリーズ五、新典社、二〇〇五年
寺田 操『尾崎翠と野溝七生子 二十一世紀を先取りした女性たち』叢書L’ESPRINT NOUVEU 白地社、二〇〇一年
花田清輝「解説」(『全集 現代文学の発見』第六巻黒いユーモア、學藝書林、一九六九年)
林芙美子「尾崎翠回想」(『尾崎翠全集』(稲垣眞美編)創樹社、一九七九年に再録(初出 一九三六年)
福田知子『微笑の花びら 林芙美子・尾崎翠・佐川ちか』蜘蛛出版、一九九〇年
群ようこ『尾崎 翠』文春文庫 文藝春秋、一九九八年
矢川澄子「二人の翠をめぐって」(『ちくま日本文学全集 尾崎翠』筑摩書房、二〇〇七(初出は一九九一年))

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