2013年2月28日木曜日

[こ] ゴーギャンのためのノート


[こ]はじめに~乗船の決断~ 

その船に乗った理由の一つは「南」だった。日頃、頭に在ったのは「北」だった。「北方志向である」とは若かりし頃の自己表明の一つだった。いささかペダンチックを気取っていたのかもしれないが、一極を体内に囲うことは無意味ではなかった。今に至るも「北を向く」ことは少なくない。だから乗船の契機としては反対概念からなされたものだった。あえて「南」に向くことで、「北」を再措定するための。しかも、最初に向かう場所は、タヒチだった。
いうまでもなく、南海の楽園である。「南」をイメージする上で象徴的な島嶼の一つである。加えて「南」が放つ生命的なイメージを芸術に転生させた一人の人物がいた。ゴーギャンである。彼の楽園でもある。しかもタヒチにはゴーギャン美術館がある。彼が生活した場所(第1次タヒチ時代の場所=マタイエヤ)の近くに建てられている。第2次タヒチ時代に生活した場所にはタヒチ博物館もある。両地を訪問することもできる。これで決まり。乗船の決断に向け舵を取ることとなる。奇しくも船名は同じオセアニック号であったが、これは後で知ったことだった。
 
 
1 最初のゴーギャン像
 
ゴッホを仲介してのゴーギャン ところで、ゴーギャンと言えば、上記を引き合いに出すまでもなく南海の楽園タヒチの画家というイメージが誰しも湧くはずで、その後に続く印象はといえば、ゴッホとのアルルでの一件ぐらいであろうか。株の仲買人から突然画家に転身した変わり種という経歴がさらに思い浮かぶとすれば、おそらくその人は絵画通である。
当初、ゴーギャンへの関心の程度は、絵画通にも達しないものだった。敬遠していたからである。今から思うと、安易とも言うべき理由であった。北方志向を楯にとって、タヒチの画家であるという、地球上の地理的要因だけで遠ざけてしまっていたのであった。それが転じて一気に関心を深めることになっていく。きっかけはゴッホだった。
自身の西洋絵画への関心を若い頃に遡れば、環境に左右されていた部分が少なくない。周囲に美術を本格的に行なう友人・知人が少なからずいて、彼らとの交流――内一人とはその後「身内」になることになったが――を通じていろいろな刺激を受けたからである。ゴッホもその一人だった。交友関係者の一人には、自作への影響を含めて、ゴッホを熱く語る者がいた。いつしか感染した。よくある話である。
ゴッホへの関心は、多くのゴッホ愛好者がそうであるように、彼の強烈な、まさに「狂気の画面」というべき色とタッチであった。その狂気を地で行く事件(アルル事件)はゴッホファンならずとも関心を抱く事件であるが、ブログ執筆者がとりわけ関心を示したのは、二人の競作であった。同一画題による競作である。ゴッホをやがて激情に駆り立てる違う手に関心が向いたのである。ゴーギャンの手(筆触)である。そのタッチや色彩が創るゴッホとの違い(距離感)は、事件を育んだ一因にも思われたのであった。
ところでゴッホに関心を寄せたより内発的な理由は、印象派へのもの足りない思いからだった。絵画的主張の在り処を、いま一つ確かなものとして感じ取れないからであった。浅薄な絵画観によるものだったが、若い頃のことである、必要以上に対極的な姿勢になる。理由付けを欲してセザンヌやゴッホを味方につけようとしたのである。
セザンヌの色彩的知性が象った実在感や構成感、あるいはゴッホの色彩的過剰が現出させた夢幻的・眩暈的な魂のエネルギーは、印象派への思いに対して、不足感を覚えるのも、観る側の鑑賞力不足ではなく、作品側のそれであると、自己納得的にしてくれるのであった。しかし、印象派に覚えた不足感は、二人の画家の中においても決定的には解消されない。形は違うが印象派の場合のような思いが、二人の画家の上にも再現されてしまう。今度こそ自己責任が問われなければならない。そう思いはじめた時、ゴッホを通じてゴーギャンを知り、再び作品側に責任を問う形で、自己肯定的に二人の偉大な画家にも向き直れることができたのである。いうまでもなく作品側の責任とは、この場合は、観る側の限界性を再確認させるものであって、しかも、限界性の中に自己発見を約束するものである。自己発見はやがて自己成長を促すことにもなる。そういう逆説的な「作品側の責任」である。
 
競作画 いずれにしても、それがアルルでの1888年の一連の競作的な作品(『アスカリン』『アスカリンの並木道、アルル』『洗濯する女たち、アルル』『アルルの公園を歩く女たち』など)であった。あるいは「共同生活者」が互いを描いた肖像画(『ひまわりを描くファン・ゴッホ』)であった。そこにあった「違う手」の画面に行き亘っていたのは、色彩でありながら見慣れていた既得的な色彩ではなく、別様の色彩感覚だった。時間的なものだった。色合いが訴える視覚的効果ではなかった。目に捉えられる時間感覚だった。しかも動きを失った停滞した時間だった。だから目で見ること、つまり補足することができた。色彩は後付け的だった。後付けになるような色彩処理(色面化)だった。フォルムが先行していた。
対するゴッホの画面は、色彩に始まり、しかも始まったままでいて終っていない。終えられないでいる。かといって未了とか未完ではない。結論がない、最初から結論に向かえない、そういう意味で終えられないでいるのである。その焦燥感によって絵筆が執られている。荒々しいタッチである。「色彩分割」は心意の分割を招いている。逆かもしれない。両者一体かもしれない。いずれにしても、画面の四辺でようやく分割を物理的に止めている。留めている。封じ込めて筆を擱かせている。
補足などしえない。捉え切れない。違和感として残されるものを含めて、それがゴッホなのだ。そう思って、色遣いとタッチに距離を置かざるをえなかったところへ、同じ主題で表された別の絵画世界が、予期しない形で現れたのであった。南国の画家と決めつけていた画家の手によるものだった。
 南国どころか、南仏さえも彷彿とさせない内向きの色彩であり、どこか沈んだ階調である。ゴッホにあってはタッチと画面は一つであって、画面はタッチの単位にまで還元化されていたが、ここでは画面に対して色彩もタッチも無言である。部分的に見ると、印象派のように一筆の筆触をカンヴァスに留めながらも、色面のなかでタッチは平準化されている。筆跡を残しても、筆触を残すことが技法化される描き方ではない。したがって筆触(タッチ)を極限的にまで画面化したゴッホに対して、一見平面的であるが、画面の構えは一面的ではない。単純に時間が停滞しているわけでもない。ただなにかの理由で息を継がないでいるのである。それが緊迫感を呼び込むことになる。
まさしく、内向きのタブローそのものであった。ゴーギャンへの関心が一気に高められた瞬間だった。アルル以前に彼を尋ねる旅の始まりでもあった。とりわけブルターニュ時代の作品を尋ねることとして。そして、そこで出会ったのは、タヒチのイメージでしか捉えていなかった画家のもう一面であった。実にそれは、「北」の琴線にも触れるような絵画世界だった。
 
 
 2 ゴーギャン探求
 
 画家と人生苦 ゴーギャンにとっては、作品と共に人生も一つの作品であった。彼をモデルにした小説も著された。代表的なものを上げれば、古くはS.モームの『月と六ペンス』(1919年)、近年ではバルガス=リョサの『楽園への道』(世界文学全集102、河出書房新書、田村さと子訳、2008年、原書出版2003年)がある。前者に関しては、「これは完全な創作で、ゴーギャンと大して関係はない。小説としてはうまいが、ゴーギャンにとつては迷惑な話だろう」(福永1961XLⅡ)の寸評がある。そのとおりである。後者は、ゴーギャンと祖母フローラ・トリスタン(一世を風靡した19世紀の女性解放家)の二本立てで、交互に進められている。大作である。この機会にと思って読み始めたが、まだ途中である。ただし、資料が渉猟された手応えある筆致で、さすがに『緑の家』の作家の手になる確かな叙事性を備えている。モームとは次元を異にしている。
画家の人生は単調でない。多くの苦難を背負っている。また生前に評価が得られるとは限らない。そうでない場合も少なくない。ゴーギャンもそうした画家の一人であるが、彼の場合は、人生のドラマと作品が密接に関わる点で、分けても激越的である。まさに彼の場合にあっては、人生も一つの作品であった。彼にのみ所有が許された、唯一無二の人生であった。
しかも創造行為と一体であり、芸術のための人生であり、人生のための芸術であった。それだけに彼の人生には、いくつかの区切りがあり、それが、同時代の他の画家以上に彼の創作上の転換を画期性のあるものとしていた。大きくは、タヒチ以前と以後に区切られるが、タヒチ以前の転喚となったのがブルターニュである。
ブルターニュが、彼を画家とし、かつ絵画的必然としてタヒチをも選び取らせる結果になった点では、ある意味、ブルターニュはタヒチ以上に重要な場所であったとも言える。ブルターニュなしには画家ゴーギャンも印象派かその周辺に止まって、彼一流の芸術的反骨もパリ美術界の否定程度に終わっていたかもしれない。そうならなかったのは、彼の求めるものの大きさからであったが、彼はまだ自分がどれほど大きなものを求めていたのか、しばらくは気づくことはできなかった。
 
画家への衝動 ゴーギャンを美術の世界へ仕向けたのは、最初はおそらく衝動だった。それも作品から突き上げられるというより、絵を描くという行為自体からもたらせる、日曜画家を少しだけ超えた衝動だったに違いない。しかし、その衝動だけで一気に彼は人生を転換させることができた。画家への一大転身である。
すでに年齢も35歳に達していた。家庭もあり、豊かな(贅沢とさえいえる)生活を送られる仕事にも就いていた。株仲買人であった。株取引の才覚も備わっていたようである。一方絵の方は、もともと趣味として開始されたものであった。始めた年齢も職に就いた年の23歳であった。しかも自分の意志というより、勤め先の同僚(ただし生涯の付き合いになるシュフネッケル)に勧められて始めたものだった。それから12年、結婚からなら10年、誕生した子供もすでに4人を数えていた。その家庭生活の行く末を慮ることなく、誰に相談もせずに勝手に職を擲って、これからは絵を描くと宣言したのである*
ただし宣言に見合う実績も着々と積んでいた。作品は、趣味の域を疾うに超えて、一部で注目を浴びるほどの「画家」になっていた。なかでも33歳の折に描いた一作への注目だった。「裸体習作」(1881年)である。同作品が、批評家兼神秘的自然主義作家で知られたユイスマンスの目に留まったのである。しかし同作品は異色作だった。普段描いていたのは、彼の師であったピサロの影響内に止まる作品(とくに風景作品)だった。印象派展への出品の機会も得ていたのであるが(ただしピサロの推薦)、目立った反響らしい反響もなかった。そこでの評価であった。
ユイスマンスの目に留まったのは、従前の裸婦像ではなかったからである。自然主義に適った肉体だった。モデルは彼の家の家政婦であった。美しい体つきでもなければけして美形でもない。ベッドに腰掛けて繕いものをしているだけの、なんの変哲もない姿(横向きの姿)を描いたものである。これがユイスマンスの目に留まったのである。「美」で脚色していないからだった。
ユイスマンスの評価(絶賛)は、彼を画家として一歩前に押し出したに違いない。しかも皮肉なことに同じユイスマンスによって次回の展覧会では不評を買ってしまうのであった。今回は従前の風景作品であった。不評というより期待が裏切られたことで倍加させられた酷評であった。絶賛や酷評という両極に分かれた批評が、彼のその後にどのように作用したかは定かでない。直接の引き金になったかのかもしれない。それ以前から計画していたことの決断を早めたのかもしれない。いずれにしても、離職の決断は、酷評が出されたその翌年(1883年)の1月のことであった。
 
* 「年譜」(『岩波世界の巨匠ゴーギャン』1992年)のなかには「絵を描く傍ら画商として生計を立てる道を模索」とあるほか、別の評論(福永1961)では、1年間の休業の約束で復職を念頭に置いた離職であったと解説されている。いずれにしても直前で金融恐慌があり株の大暴落があったことは、そのことで離職したのではなかったとしても、画家転身を後押しするに〝役立てられた〟のであろう。
 
1次ボン=タヴェン 彼の一大転機は、彼の楽観主義にも支えられていた。1年もすれば自分の絵に値が付くはずだと見込んでいたのである。しかしそうはならなかった。作品も評価されなかった。それまでの貯えに支えられていた生活も次第に欠乏生活に向かいはじめ、それに合わせて家庭も破綻の方向に次第に舵が切られていく。生活の拠点を生活資金の不足からパリからルーアンに移したが、1年も経たないうちに今度は妻メットの故郷であるコペンハーゲンに転出しなければならなくなる。
妻の故郷で彼を待っていたのは、妻の親族たちの蔑みの眼や町の人たちの冷たい眼であった。妻の親族達との不和も重なり、半年後には次男だけを伴ってパリに立ち戻ることになる。しかし、そこで今パリで彼を待っていたのは、さらなる生活の窮乏であった。最後の印象派展となる第8回(188656月)への出品作品も期待した評価は得られずに終わってしまう。生活状態は改善されない。窮乏は深まっていく一方であった。終に次男を預けて(寄宿)、単身パリを離れる決意を固めるに至る。
向かった場所がブルターニュであった。半島の先端側に寄ったボン=タヴェンという小さな町である。大西洋から少し中に入った自然豊かな場所だった。ゴーギャン年譜で「第1次ボン=タヴェン」と呼ばれる滞在地である。
滞在期間は、1886年の6月から11月である。約半年間であったが、後のゴーギャンを強く予感させる作品の誕生となって、彼の決意(パリ離脱)に報いることになった。『4人のブルターニュの女たち』(1886年)がそれである。色面化が強く呼び込まれていない点を除けば、配色と構図、特に人物間のポーズを支配する様式化によって一種の倦怠感が創出されている点は、すでに印象派の出自とは異なる内面から生み出されたものであるイメージを強くしている。
何が彼を一気呵成に自己発見に赴かせたのだろうか。生活費が極端に安いブルターニュの生活環境により齎された生活苦からの解放、妻メットとの確執から解かれた単身生活による開放的な日々、その開放感をより高めてくれる〝芸術村〟ボン=タヴェンの自由な空気と芸術的刺激。おそらく、日曜画家の時代には思い描くに止まっていた、芸術的人生の芳しい現実がここにあったのである*。しかし、これは作品が生み出されるための外的条件ではあっても内的条件ではなかった。ブルターニュという土地が必要だった。
 では、ブルターニュには何があったのか。何が内的条件足りえていたのか。この大西洋に突き出したフランス西端の半島の地は、地理的位置だけでもなにか違うものを予感させるが、それ以上に同じフランスのなかにあっても、文化・風土ともに異なる著しい地域性を内包し土地であった。巨石文化の痕跡を今に止める原始性に加え、それ以上にケルト文化の濃厚な遺存があった。言語もブルトン語とフランス語の両言語が使われていた。ブルターニュは、アイルランドとともにヨーロッパの中でもっとも濃密にケルト文化を受け継ぐ地であった。キリスト教もその特異な文化・風土を反映したものだった。また歴史的にもフランス革命とは一線を画し、フランス共和国に対して背反的であったことから、歴史展開の埒外に置かれて、停滞的な歴史の中を生きていた。半島特有の気候や地形が、さらに異境感を強めていた。ゴ-ギャンの跡を追って同地を尋ねた、優れたゴ-ギャン研究者の一人は次のように記す。
 
  ブルターニュは、ヨーロッパ大陸の西端に三方を海に囲まれて突き出したアルモリック半島に位置し、先端部分はその名も「地の果て」を意味するフィニステール県と呼ばれる。複雑に入り込んだ海岸線には切り立つ断崖と砂浜が続き、内陸にはヒースとハリエニシダがはいつくばる荒野と丘陵、そして暗い森と緑地が広がる。半島を吹きすさぶ強い風、分厚い雲がたちこめて雨が降ったかと思うと、目もくらむ青空が現れる温暖だが変わりやすい天候――。ここはフランスでもきわめて独特な風土をもつ地方である。
     ――湯原かの子『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』1995年(64頁)
 
 しかし、ブルターニュの風土的特徴が、ゴーギャン芸術に自己発見過程として吸収されていくためには、第2次ボン=タヴェン滞在を待たねばならなかった。

* ただし187981年の夏休暇を使ってピサロとポントワーズ(印象派と縁の深い土地)に出かけている。芸術の空気を先行的に吸い込んでいたのである。

マルティニック島体験 ボン=タヴェンからパリに戻った数か月後、再度パリ離脱が試みられる。相変わらずの生活苦とそれによる絶望感である。向かった先は、今度はパナマである。義兄(姉マリーの夫でパナマで商社を経営)の誘いを頼ったのである。生活の再建を図る試みもあった。芸術的野望もあった。いずれにしても憧れていた「原始的」な生活が待っているはずだった。しかし、待っていたのはさらなる生活苦だけだった。頼りにしていた義兄に裏切られたのである。
致し方なく、マルティニック島への渡航費用を捻出するために、パナマ運河開発の土木人夫の仕事を選ぶ。過酷な肉体労働であった。ようやくにして2か月後、マルティニック島に辿り着くことができる。待ちに待った楽園であった。しかし長くは続かなかった。約半年の滞在期間で終わった。彼を慕って付いてきたラヴァルが患ったマラリヤにゴーギャン自身も感染してしまい、さらに赤痢にもなってしまったったからである。一時は命も危うい深刻な容態であった。ようやくにして体力を回復したゴーギャンに、しかしパリに戻る旅費はなかった。選択された帰還方法は、水夫になることだった。10代の折の経験がここで生かされた。17歳から23歳の間に、水夫と水兵の経験を積んでいたのであった。
 しかし、パリに辿り着くことができても、生活窮乏が待ち構えているだけだった。唯一の救いは、多くの画家仲間(特に彼に尊敬の念を抱く若い画家たち)に取り囲まれていたことだった。そのなかにはゴッホもいた。ゴッホとの接触(1886年)は、有名な画商(クールビ)の支配人をしていたゴッホの弟テオとの接触でもあった。テオを通じて画商クールビによって作品が購入されたのである。ゴーギャンが自信を取り戻す上になによりの即効薬だった。パリ脱出の資金も得られることになった。

2次ボン=タヴェン かくして第2次ボン=タヴェン滞在(1888210月)を迎えることになる。ここに至って絵画史に一時期を画す「綜合主義」の誕生とゴーギャンの芸術世界の確立が果たされていくことになる。その作品が世に「ヤコブと天使の闘い」の副題で知られている『説教の後の幻影』(1988年)である。後に綜合主義の確立者の地位を巡って、ボン=タヴェン派の一員である、ゴーギャンより16歳も年下のベルナールから剽窃者扱い――ベルナールが同じ年に描いた『牧場にいるブルターニュの女たち』の模倣にすぎないと――されることにもなる一作である。ゴーギャンは相手にしなかったし、構図的にも色彩的にもベルナールから暗示を得た点については、確かにそう指摘される類似性を感じさせないでもないが、作品の芸術性の差は歴然としている。歴然としているから問題にもしなかったし、ゴーギャンにはいままでがそうであったように、またその先もそうなるように、常に一過程でしかなかった。しかも後述するように、ゴーギャンの綜合主義は、2年前に確かな産声を上げていたのである。
 
 
3 ゴーギャン芸術へのアプローチ

 風景画のなかの矛盾 では、ゴーギャンにおける一過程とはいかなるものであったのか。その時代に照準を合わせれば、それは風景だった。風景を超えることだった。しかし、風景を超えるとは如何なることなのか。外形的には異なるものが描かれるようになったこと、つまり、それまで数多く手がけてきた「風景画」とは内容が異なる作品に手が染められるようになったことであるが、それだけではまた風景を描けば元に戻ってしまうことになる。したがって風景を超えるとは、再び風景を描いたとしても、「風景画」に戻らないことであった。
 今、手許にある画集や展覧会図録、さらにはネット上(ウィキメディア・コモンズなど)で確かめられる、「日曜画家」の作品から「ヤコブと天使の闘い」までを風景描写に着目して辿り直すと(必ずしも十分な点数とは言えないが)、「なぜこの絵(「風景画」)を自分は描かなければならないのか」「目に見える景色とは自分にとって何なのか」「なんのために色付けを行なうのか、行なおうとしているのか」そんなーギャンの焦燥感が伝わってくるのである。後の展開を承知しているからかもしれないが、あらためて「日曜画家」からの脱皮とは、彼の画家への過程として評価すれば、風景画に対する焦燥感の裏返しであったのではないかと捉えられることである。
脱皮直前に描かれた同年代の作品(印象主義の作品)2点――1点は「オスロー村の入り口」(188283年)、1点は「雪の日の情景」(1883年)。前者はまだしも後者の作品では、未知の自分に立ち向かう緊張感が少しも感じられない。制作の動機にしても、技量の程を自他ともに認めさせるためにしか思えない。日曜画家でないことの、画家を選択したこと(すること)にいかにも正統性があることを顕示するためである。
画面の8割程度を占める、白く降り積もった雪と雪空とを同一絵具(白・紫・緑)で描き分けるタッチの違いは、彼に何を得させようとしていたのであろうか。この絵に内面はあるのだろうか、必要なかったのであろうか。なぜ人物を画面に置いた(配置した)のだろう。最前景とされて足許をカンヴァスの下辺に隠した二人の女。一人(鍋を片手にぶら提げた直立姿勢をとる女)はともかく、もう一人の女は、外景との整序を著しく欠いている。動きが無理に添えられているからである。女は猫背に背中を丸めて片足を前に(画面側に)踏み出している。後景の左端につき出した3本の煙突や画面中央の枯れ木がつくる垂直感を一人で容赦なく乱している。
試しに手で被ってみよう。落ち着く。思い切って二人とも蔽ってみよう。なんとすっきりとすることだろう。だから手の平の蔽いを外すと、そこに不用意に現れる姿は、違和感そのものである。まるで予定外に最後に貼り付けたかのようである。あえて「風景画」をダメにしている。おそらく意図的であった。そう思えてしまうのである。人物を外してしまうと、画面が創造性を語らないからである。すっきりしすぎてしまうのである。間延びした静寂にしかならないのである。彼のもっとも嫌うところであろう。しかも人物を入れ込むと、それはそれで彼を裏切ってしまうのである。
結局、この人物入り風景画を意図的に矛盾として描くことで、これまでの自作品に対する対決を果たそうとしていた、と解るのは、深読にすぎるのだろうか。そうだとしても、ここに「矛盾」を読みとることは、彼が自分に至る軌跡を、観る側の立場としても辿り直すことに他ならない。そのためにもあえて深読みの必要があった。しかも実は、人物を入れない作品が同時に存在している。自身としても迷っていたのである。深読みではなかったのである*
それはともかく、仮定を立てることで、いまだ予定もされていなかったはずの5年後の「ヤコブと天使の闘い」や、さらにはタヒチのゴーギャンまでもが、その先(「矛盾」の先)に浮かび上がってくるのである。あらためて「風景画」を見返すことが必要になってくる。とくに風景画と人物の関係がポイントとなる。

* この作品に対する図版解説を掲げておく。「(前略)この作品が描かれたのは1882年から83年にかけての冬、仲買人廃業前後であろう。幾分かピサロの筆触をおもわせるこの寒々とした光景が、妙によそよそしさを感じさせるのはおそらくこのことと無縁ではない。この印象はほとんど同じ光景を描いた、ただし人物のいない別の作品に目を移すとき、よりはっきりしたものとなる。しかし、それ以上に特徴的なのは、前景におかれた二人の人物によって後景とのあいだに引きおこされるある距離感であり、これこそ画家自身の屈折した心理の反映であろう」(本江邦夫「5 カルセル街の雪」『アート・ギャラリー現代世界の美術 4ゴーギャン』集英社、1986年、傍線・引用者)。題名の付けられ方は違うが同じ作品である。
 
 
ゴーギャンの風景画 限られた作品にしか当たれないが(日曜画家段階で百数十点が制作された模様)、ゴーギャンの風景画の大多数には人物が伴う。しかしほとんどが点景処理で存在感は痕跡的である。以下、当たった作品を年代順に掲げる。
[18745] 画歴45年で描かれたセーヌ河とその川沿い風景の2点。
①土手際を後ろ向きに行く親子(父と少年)の寂しげな点景(1874年)。
②雪の合間の川縁を散策する人群れや、傍らで作業する人々の影のような小さな姿(1975年)
[1879] 川と街、冬の公園風景の2点。
③対岸の川岸に横に長く延びる市場の庭(森)と、木立の頂きを超えてその向こうに幽かに読み とれる人々の、集合やあるいは別の場所の個人を点景的に描きこんで、横広がりに仕立て上げられた街風景。
④前景の木立と、木立を透かして背後に控える無言の群像(数人)の、固まりというより一つの気配と言った冬の公園風景。
[1881]  近郊農村風景の1点。
⑤人物を不在としたその間に合わであったのか、代わりを務めるかのように添えられた、枝上に翼を休める一羽の(大形の)鳥の、木立に同化した儚い姿と近郊農村風景。
[1883] 集落の入口風景の1点。
⑥集落に入りこむ道上の人物と、道沿いで作業する人々の、それぞれの点景的姿を入れこんだ集落風景。
[188485] 人物処理に変化を見せる3点。
⑦ルーアンの小高い丘に広がる青い屋根と、その町並みをカンヴァスの隅から眺め渡す一人の人物を配した対角線上に広がる風景画(1884年)。
上掲①~⑥の風景画と較べると、この作品では役割変化が明瞭である。点景処理されていた人物は前景に移動し、対角線上に延びるカンヴァスの視軸の発信源を担わされる。しかし、上半身は後ろ姿である。しかも肩の片側は、カンヴァスに截ち切られ、画幅の片隅からようやくに身を乗り出している程度である。彩色状態も彼が佇む叢と同色化され、風景を相対化するまでの扱いはなっていない。またそこまでの役目は与えられていない。しかし、人物がそこに配置されているといないでは風景に漂う気配が違う。妙な言い方だが、「風景的時間」とでもいうべき気配感が広がっているのである。そうした風景画における人物処理は、形は違うが以下の2点にも確認することができる。
⑧風景(近景風景)の中に大きく寝そべる女性を画面中央に定量的な大きさで描いた作品(1884年)。
⑨人物の大きさの点では退行的ながら、点景処理ではなく、風景を主導する人物を入れ込むことで秩序感ある時空間を得た風景画(1885年)。
水車を背景にしていることもあり、作業を終えて晴れやかに家路につく前進的な歩行感が備わっている。周囲に同化させて輪郭をぼやけさせていても、成年男子と分かる凛々しい身体である。この絵は、妻メットや彼女の親族・友人たちとの不和の挙句に、次男クロヴィスだけを伴ってコベンハーゲンからパリに立ち戻らなければならなったゴーギャンが、その精神的苦悩とともにその苦悩をさらに深めずにはおかない、耐えがたいような極度の困窮生活のなかで描かれたものである。それにもかかわらない画面の輝きである。

 
印象主義からの脱却 以上、駆け足ながら「矛盾」を嵌め込んだ1883年までの一連の風景画(①~⑥)と、その後の、1886年の画期的作品(『4人のブルターニュの女たち』)に至るまでの風景画(⑦~⑨)の二変遷を眺め渡した。あらためて画家の人生のなかに並べ置くと、①~⑤が「日曜画家」段階(187481年)、⑥が廃業年(1883年)の直後、⑦⑧が生活難を回避するためにパリを離れて一家でルーアンに移転した時期(1884年)、⑨がコペンハーゲンを経由してパリに戻った時期(1885年)となる。問題の「矛盾」風景画が位置するのは「廃業年」である。
同年で風景画における人物処理に転機が認められることは、彼の過程の中で何を意味しているのだろうか。より広く同時代絵画史として捉え直せば、印象派からの離脱志向の表れを、より直接的には、絵画上の師であったカミーユ・ピサロからの離反意識のそれを意味することになる。印象派的なタッチとともにピサロの外光的風景画と、その引き立てのために添えられる人物処理に自己矛盾を抱きはじめていたのである。
ルーアン転居時期は、その矛盾が創作的模索に彼を確実に押し上げていたことを教え、パリ帰還を経て、翌年1886年の第1次ポン=タヴェンに至って、人物は風景の主客に転換されることを物語っていると言える。それは、人物たちが画面中央を支配的に占める上掲画だけでなく、人物サイズでは同じ点景的な描写ながら、絵画的中心を演じる処理法になっている同滞在期の別の作品(『ポン=タヴェンの洗濯女』1886年)にも指摘できることである。
いずれにしても、人物風景画を辿り直す限り、タッチとともに人物処理の在り方が、後の「綜合主義」(1888年)の扉を開く上に大きな要因であったことが理解されるが、あらためて、1886年の『4人のブルターニュの女たち』は、後は色面化の深化を待つだけで、すでに色面化を含めて綜合主義のなかにあり、人物に目を向け、人物がつくる画面への対峙方に注目する限りは、本作品をもって綜合主義の記念碑的作品の地位に押し上げることも可能である(ゴーギャンはよしとしないかもしれないが)。そうすれば要らぬ剽窃者呼ばわりからも免れるというものであるが、それはともかく、『4人のブルターニュの女たち』が「ヤコブと天使の闘い」の呼び水以上の作品であり、同時代史的意義(綜合主義的意義)を付されるべき点に今一度思いを致したい。

 
風景と人物 そこであらためて問題となるのが、風景と人物である。絵画史として論じるわけではないが(それに執筆者にとってそのような事柄に言及することに何の意味があるかと懐疑的にならざるをえないが、それはしばらく措くとして)、オランダ絵画黄金期の17世紀に確立した風景画における人物処理から続くゴーギャンへの道が、風景画を通じた絵画の哲学的意味としてゴーギャンの内部問題に転化されていたことがあらためて痛感されるのである。ゴーギャンへの個人的関心を深化させるためには、やはり一度概観しておかなければならない事柄である。なお記述に当たっては、風景画に関する古典的名著であるケネス・クラークの『風景画論(改訂版)』を参照した。 
たとえば、オランダ風景画が獲得した、歴史画や宗教画における風景=背景とは異なるブルジョアチックな人文的広がりと深まりは、画面に点景的に人物を描きこむことで、画面処理的な絵画的効果を超えて、自然と人間との関係を絵画的課題(絵画ジャンル)に引き込む方向に仕向け、多くの風景画家を輩出していくことになる。それは、個人(階層的には市民社会の一個人)が「自然」を内面的に自己所有する近代的感性の醸成過程でもあった。やがてロマン主義を内面としたドイツのフリードリヒ(17741840)の幻想的・観念的な風景画や、自然への畏敬を顕わしたイギリスにおけるターナー(17751851)の登場、あるいは素朴な自然主義者コンスタブル(17761837)、それに続く19世紀中頃のフランスにける写実主義的な絵画運動の盛り上がりがあり、その総仕上げとして印象派の誕生へと展開していく。
とりわけ、パリ近在の小村バルビゾンに拠点を置く一派(バルビゾン派=ルソー(181267)ほか)による、あたかも近代的猥雑を極める都市生活からの逃避的な時空間として描かれたかのような、詩情性に溢れる自然風景を題材とした風景画、あるいは同じ風景画でも古典主義的な雰囲気を新しい光に読み替えて、独特な灰銀色の光と影を生み出したコロー(17961875)によって、自然は、個人的感性の中心的課題となるに至る。印象派は、その感性的内面感を絵画的技法(筆触技法や色彩の光学化)によってカンヴァス上に体現化させた絵画運動であった。「日曜画家」ゴーギャンの師となるカミーユ・ピサロ(18301903)が、その中心的役割を果たした一人であったことはよく知られている。全8回の印象派グループ展(18741886)すべてに亙って出品し続けたのはピサロのみである。
そうした風景画の変遷のなかで、あらためて「風景画のなかの人物」をゴーギャンに向けて辿ると、オランダ風景画以来、ピサロに至るまで、人物(像)が自然とともに在る描かれ方が、あたかも風景画の約束事でもあるかのように脈々と受け継がれてきたことを再確認することができるが、とかく予定調和的で画趣に同調的である。当然である。点景とはいえ、それによって画面全体をダメにする処理がなされるはずがない。ゴーギャンもはじめはそうであった。影のような痕跡程度あっても、あるいは人物を枝上の鳥に置き代えるような新奇を衒ったといえ、視覚的にそこに居ること(在ること)が確かめられる方が、そうでないより予定調和的といえ、あるいはそれ故に画面に安定的な深みが与えられた。奥行きも添えられた。いずれにしても印象派と接触し、自分のものとしていくことは、人物処理の絵画的意味を深く問わなくても、ともかく時代の先端を行く自覚上にも有益だった。「日曜画家」には大事なことだった。

ゴーギャン画と人物像 しかし、印象派的な技法を身につければつける程、彼は「絵」から遠退いていく空虚感を覚えざるを得ない。タッチや色付けは自分に正直である。問題の作品=「矛盾」風景画は、彩色上の筆遣いに秀でている分、彼らしくなくなっていく(「よそよしく」なっていく)。ともかく一人の人物が画面をダメにした。あるいは、意欲的に過ぎて破綻させてしまう。ただし、風景と人物が立場を入れ替えはじめた。そうとも解れなくはない。あるいはそれが真実だったのであろう。しかし、「矛盾」であることには変わりない。そして「矛盾」と読み替えることで、その先にあらたな1886年の人物(『ブルターニュの4人の女たち』)が立ち現れることになる。
いままでにない人物であり、そのフォルムである。「肖像画」や「歴史画」のなかの人物像ではない。「風俗画」内のそれでもない。やはり風景画のなかから誕生した人物像である。あたらしい「ジャンル」である。彼が求めていたものが実感された瞬間である。絵画的実感である。画家のみに許された特権である。すでに「ヤコブと天使との闘い」(1888年)は約束され、仮にその先にタヒチ時代がなかったとしても、絵画史に大きな足跡を残したにちがいないゴーギャンの画業が、眼前に大きく浮かび上がってくるのである。
しかし、ゴーギャンが真実として感じ取った「ジャンル」は、人物像をあらたに得ただけでは充足するものではなかった。再び人物を風景の中に還さなければならないものでもあった。結果としてタヒチが必要であったのか、タヒチがあったから結果が生れたのか、定かではないが、先取りして言えば、約10年後の成果となる畢生の大作『我々はどこから来たのか? 我々とは何か? 我々はどこに行くのか?』(1897年)こそは、「ジャンル」の自己証明であったことは疑いないところである。
この絵画をどう呼ぶべきなのか? 実は画題とされた三つの疑問形は、絵画それ自体の絵画論的疑問でもあったのである。上記絵画史を思い浮かべる時、ゴーギャンが求めていたものとは、絵画史的にも極めて異質なものであったことに新鮮な驚きを覚えなければならない。カンヴァス上に還元されてしまうだけのものではないからである。人生の異質さでもあるからである。そうでなければならなかったような彼の人生に生得的に意味づけられていたもの、あるいはその意味によってしか彼が求めていた絵画的世界の深淵に辿り着けなかったことの創造行為の異質さにおいて、ある意味絶句を禁じえないのである。
一個の個人の上でもそうであったもの、まさにその人生が一つの作品(芸術)であったというべき、未だ予定されたことのなかった未知の生存性と一つのもの、その先に生み出されたもの、あるいはその先に待ち構えていたものに辿り着くためであった一つの人生が、「彼」を選択したのだった。

再び彼の人生に立ち入らなければならない。彼の絵画の理解のためだけではく、それ以上に彼の「ジャンル」の異質さを知るため(知らされるため)にである。彼は多くの文章(散文、手紙など)を残した。人生の苦悩や絶望、あるいは人間関係の瑣事が、その反感反目を含めて躊躇うことなく記されている。作品の自己解説も少なくない。芸術論への言及も旺盛である。
しかし、これ等の記録類は、それが絵画論に及ぶ場合であっても単なる絵画理論に終わるものではない。生活の苦境を綴る書簡とともに、生の記録である。記録のなかに浮かび上がる、生命と交感し合う「創造性」の暴き立てともいうべき独白である。そして表向きそれが「楽園」に被われているだけに、より悲劇性を帯びて、その結果を絵画のなかにカタルシスさせずにはいない。
言葉は、絵筆以前の「絵筆」でしかなかった。しかし真の絵筆を動かすものでもあった。したがってゴーギャンを語るには彼の散文は不可欠である。ゴーギャンの評論の常道でもある。ただここでは(「ノート」でもあることもあり)、そうした散文を駆使しながらゴーギャンを深く解いた評論(①福永1961、②池辺1982、③湯浅1995)に拠りながら、彼の人生の軌跡を辿り直していきたい。なお、参照箇所はほんの一部を除いて明示していない。明示しえないような叙述になっているからだが、本執筆者の再解釈が入っている場合でも、元になるのは上掲諸書(とりわけ全生涯に及ぶ①③)である。また既述箇所と内容が一部重なる。


4 ゴーギャン再探求~年譜に見るゴーギャン~
 
幼年時代とペルー 18486月、ポール・ゴーギャンはパリに生まれる。父クロヴィス・ゴーギャン(オルレアン出身)は、共和党系新聞「ナショナル」紙の記者。母アリーヌ=マリ・シャザールは、女性解放家でその名をヨーロッパに広く知られたフローラ・トリスタンの娘。父クロヴィスは、時代の政治状況(2月革命と第二共和制、6月蜂起と敗北、ルイ・ナポレオンの大統領当選)による弾圧を避けるために南米ペルーへの亡命を企てる。ペルーは妻アリーヌの故郷であった。
しかし、船上でのいざこざ(船長との反目)の心労からか、心臓発作を起して船上で急死してしまう。たちまち未亡人となった母アリーヌが頼ったのは、祖父ドン・マリアノ・トリスタン・イ・モスコーソ(ペリー駐留スペイン軍大佐)の兄ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソで、ドン・ピオはペルー総督をも務めたペルーきっての名族で、さらに本を質せば、スペイン本国の貴族(ボルジア・ダラゴン)の出であった。
大叔父は、母やポールたちのために壮麗な屋敷を与える。首都リマ市内での裕福な暮らしのはじまりである。その生活は6年続く。リマの屋敷で過ごした幼年期の体験は、体内に流れる「高貴」かつ「野蛮」な血に対する潜在意識としてゴーギャンの原点(野生的原点)となる。

少年時代と決意 フランスに戻った一家は、父クロヴィスの故郷であるオルレアンで父方の親族の許に滞在し、ポールは11歳の年に同地の神学中等学校(寄宿生活)に入学する。17歳を迎え、突然進学希望をとり止め見習水夫になると、以後19歳まで下級船員として南米航路(ル・アーヴル―リォ・デ・ジャネーロ間)の周航に従事する。さらに20歳で水兵に転身し、23歳で除隊する。
以後、35歳で画家に転身するまで株式仲買人の仕事に就くが(既述)、きっかけとなったのは、母アリーヌが42歳の若さで亡くなった後(ポール19歳)、ポールたち姉弟の後見人となった銀行家でかつ美術愛好家であったギュスタヴ・アローザの斡旋によるものであった。アローザを後見人としたことは、彼が所蔵する多数の絵画と接する機会をポール・ゴーギャンに提供するもので、結果として絵画への意欲を掻き立てることになるのだが、それはともかく、水夫を経験したことや、海上生活を10代後半から20代前半の多感な時期に送ったことは、幼年期の思い出に繋がる南米航路であったことと合わせ、次に彼の原点となるものであった。

「日曜画家」時代 株式仲買人時代(「日曜画家」時代)は、まず同僚(エミル・シュフネッケル)の勧めとはいえ絵筆を取る機会に遭遇したこと(23歳)、デンマーク出のプロテスタントの信仰心に篤い女性メット・ソフィエ・ガーゾと結婚したこと(25歳)を基点に始められていく。
以下、主だったところを拾うと、株式投資に才能を発揮して高収入を得たこと。すなわち生活の安定。印象派推進役の一人カミーユ・ピサロの訪問と美術学校(アカデミイ・コラロッシ)の夜間部通学による絵画心の醸成。さらに印象派画家たちと知り合い多くの知己を得たこと。同画家たちの作品の収集が開始されたこと。長男エミール誕生(以上26歳)。官選サロンに風景画入選。長女アリーヌ誕生(以上28歳)。アリーヌは母の名前である。
中流ブルジュア階層の生活に見合った新居(フールノー街)への転居。同地で彫刻家ブイヨの面識を得、あらたに彫刻への関心をもつに至ったこと(29歳)。次男クロヴィス誕生。夏季休暇を活かしてピサロとポントワーズに滞在(31歳)。さらにカルセル街に転居。アトリエ獲得。同アトリエで制作に励み、第5回印象派グループ展に出品(32歳)。第6回の同グループ展に出品した「裸体習作」(1880年)がユイスマンスの絶賛を獲得(既述)。三男ジャン誕生。再度ポントワーズにて過ごすピサロとの夏季休暇。そのピサロを通じてセザンヌと接触(33歳)。第7回同グループ展(3月)への出品とユイスマンスの酷評(既述)(34歳)。翌18841月離職(35歳)。
このようにして眺め渡すと、離脱寸前のところまで達していたことがよく分かる。ピサロや彼を介した印象派の人々との多くの出会いや、当時の最先端のグループ展への出品の機会が提供されたこともある。同時代作家の作品(マネ、セザンヌ、ピサロ、ルノワール、モネ、シスレーなど)を数多く手にいれたこともある。「色彩の魔術師」と呼ばれたピサロからの技術的刺激は、印象派的なタッチや色彩の使用を自己矛盾にまで高めさせてくれた。それもある。ユイスマンスの激賞と酷評の両極に立った評価もある。自己葛藤にとってこれ以上にない贈物である。

「画家」の生活と困窮 以上が概ね正の要因であるとすると、今度は負の要因である。なかでも大きいのは離職後加速する妻メットとの確執である。しかし、考えてみれば当たり前である。まだ小さい4人の(離職の年には4男も誕生。したがって5人の)子供たちを抱えて離職が敢行されたのである。妻の立場とすれば、それまで問題にならなった「日曜画家」の夫が我慢ならなくなるのも道理である。
一家を窮乏に追い遣ろうとしているのである。それも「趣味」の絵描きで。1年後には必ず値がつくようになるからと宥めすかされて、致し方なくついていくしかないかった。でももうパリでの生活は望めない。生活費の安いルーアンへの転居しなければならなくなってしまう(18841月)。それでもまだ足らず、今度は自分の故郷コペンハーゲンへの転居。本当なら庇ってあげるべき夫の「本気」も、親族や友人から受ける同情のための話題にしかできなくなる時、彼女は、自分を責める心を育てるよりは、なんの不幸かと、甲斐性のない夫を蔑む自分を正統化する方向に向かうしかなくなっていく。
ゴーギャンは家庭を持つべきではなかった。彼の才能が結婚生活(一般市民的生活)より早くに開花していたなら、この「不幸」は背負いこまなくてもよかった。要らぬ心配からも解放されて自由に絵筆を執れ、絵画的思索に耽けることにも誰からもとやかく言われないで済んだ。しかし、これは結果論かもしれないが、妻メットの存在(と家族の存在)は、画家にとって、ゴーギャンの芸術にとってやはり必要だった。
彼女はその後も夫を否定し続けた。それが正統な否定であるだけに、彼は自分を苛みもした。妻に分かってもらいたいと思い続け、その思いも棄てなかった。虫が好い話かもしれないが、労られたいとも思っていた。しかも妻とは、彼にとって具体的な労りの形態だったのだ。
いうまでもなく妻が果たす役割は大きい。人間関係に置き換えられないほどである。それが、自分の所為で致し方ないことだとしても、ひたすら否定の形で突き返されてくる。そのたびにメットに求めるものが大きくなる。ただそれは一般論的な「メット」であって、固有名詞の彼女ではない。メットから否定されたことで気がつくことのできた彼の中の「メット」――彼のなかの「女性」である。あるいは彼を彼の中で生む「女性」であった。負の要因の最大の「成果」である。自由気ままな画家生活の中ではまるで必要ない「形而上学」でもあった。
でも、まだ絵画的成熟を見込むことがすべてに先行していたので、彼が彼の中に気づくものにはなっていなかい。しかし、生活苦に覆いかぶさる精神的疲労は、次第に彼をして「彼」を見つける方向に誘おうとするのであった。

3次ポン=タヴェン さらに遍歴を辿る。この先を既述では、パリ離脱(18866月、38歳)から第1次ポン=タヴェン滞在(同年611月)、パリ帰還後のパナマからマルティニック島滞在(1887411月、39歳)、そして再帰還後の第2次ポン=タヴェン滞在(1888210月)、ゴッホの呼びかけに応じたアルル滞在(同年1112月)までを辿った。
この先、第1次タヒチ渡航(18916月)に至る間には、第3次ポン=タヴェン滞在(19894月-9011月)とパリでの過渡的生活が介在する。生活状態は相変わらず改善されない。パリでの困窮とポン=タヴェンへの脱出。立ち戻って開いた展覧会でも相変わらず買い手がつかない作品(ただしドガが1点購入)、それでもかろうじて一時的な生活資金の獲得(遺産金)などがありようやく糊口を凌ぐ日々。後の世に綜合主義の輝かしい作品群と認められた18881891年の作品群の雰囲気からはとても想像もつかない現実の悲惨な姿である。
ほとんど二面的である。個人にとってどちらが本当の姿であるかは容易に決しがたい。破乱に満ちた人生は、それを文学作品に翻刻する時、二面的でなくなるが、自画像を描き、これはジャン・ヴァルジャン(『レ・ミゼラブル』)と自ら唱えた時でさえ、その向こうに生活の実態は必ずしも浮かび上がってこない。むしろ確信犯の顔でさえある。
生活は作品化されなかった。彼が試みていたのは、二面性の解き明しではなかった。それどころか二面性の中にはなにもなかった。最初から空洞だった。生活の苦しみも絵画的には空洞意外のなにものでもなかった。生活苦の気休めになることではなかったが、構造的には作品の絶対性を高める一つの枠組みだった。自画像とは枠組みを見詰める顔だった、と見ることも可能である。

イヴの出現 しかし奇跡が起こった。生活が作品になったのである。二面性は前提であってもそれ以上の意味がなくなったのである。だから二面性ではなくなったのである。これは奇跡である。予定項目にも入っていなかった。しかも相手(「生活」)は人物だった。少女だった。準備していたのは、そして予定していたのは絵画だけだった。彼がそこまで描きながらも(ブルターニュ作品群のこと)気がつかなかった彼を超えた世界だった。
後から見れば奇跡ではなかった。超えた絵画世界にとっては必然の一致事項だった。でもそう気づくまでの彼にとっては、幻惑でさえあった。はじめてこの世に生を受けた、それも自分の力で、意志で、母を必要としないで自分を自分で生んだ思いに襲われたので。困惑気味に彼は少女に向い合った。イヴの出現だった。
自分の中に何かがある。自分を生み出す何かがある。かつて意味のなかった生活に向こうから(生活の側から)意味をもたらそうとしているのである。彼の芸術の外に在って、在ることが当たり前であったパリの街の時とは違い、外に在ることが彼の生に疎外感さえ覚えさせる、そういう構造であった。イヴに突き付けられるものでもあった。
存在論的な不在感を伴い、自分そのものである芸術でさえいまや自分の外に在る。自分の外に在るものによって内を生きなければならないことの身体性に彼は立ち竦んだのである。彼は、彼の内部へ、体内へ(「子宮」へ)戻らなければならなかった。そして戻った。母アリーヌが彼ポールをこの世に送り出したように、自分よりはるかに若い自分の子供のような13歳の年齢の一人の現地の少女によって(ただしヨーロッパの社会年齢なら1820歳ぐらいという)。その時、タヒチは固有の意味を帯びた。南海の楽園はどこでも良いわけではなかったのである。タヒチでなければならなかった。その少女との出会いがあったからである。彼女の名前はテハアマナ。『ノア ノア』に登場するゴーギャンのヴァヒネ(「女」)となる少女である。

1次タヒチ パリの話から先に進みすぎてしまった。第3次ポン=タヴェンの滞在から戻って、相変わらずの苦渋に満ちたパリ生活を半年続けた後、再びブルターニュに脱出する。第3次ポン=タヴェン滞在(188949011月)で最後の1か月を過ごしたル・プールデュ(ポン=タヴェン近く)で約半年を過ごし(1890611月)、タヒチ行きを決意する(当初の計画ではマダガスカル島。タヒチ島での生活の経験があったルドン夫人の勧めによる計画変更)。
パリに戻って旅費調達のための作品売立を計画。好条件が重なって売立に成功(30点で約9,860フランを獲得)。売立にも間接的に協力してくれたマラルメ主催による送別会(約30人)の開催を受けた後、189144日にマルセイユを発ってタヒチに向かう。オーストラリアを経由してパペーテ(タヒチ首都)に到着したのは2か月後の189168日。以来約2か年をタヒチで過ごす。所謂、第1次タヒチである。
植民地化したパペーテを嫌って島の反対側のマタイエアに小舎を得て生活を開始。やがて彼の「女」となるテハアマナと生活を共にするようになる。その出会い方*からはじまってゴーギャンを(好い意味で)戸惑わせることの連続となる。その生活振りはタヒチの文化の記述とともに『ノア ノア』に詳しいが、詩情溢れるその書物から浮かび上がるようにゴーギャンにとって、その2年を生きただけで自分の生に意味があったような日々であった。
多くの作品も描かれた。船便でパリに送られた。でも相手にされなかった。吐血による入院、視力の衰えなどの身体的な条件によってもたらされた弱気、さらには滞在資金の欠乏も重なり、遂にフランス帰国を思い立つに至る。そして、最愛のテハアマナとの別れを決意する。彼女は彼の子を身ごもったというのに(ただその後出産した形跡はないという。流産かと指摘されている)。 
なぜ彼女のもとを離れたのか。止むを得なかったからか。彼女の存在の大きさに後から気づいても遅すぎだ。彼は止まるべきだった。本人もそう思っていた。止むなしの思いは結局自分を納得させるものでしかなかった。彼はまだヨーロッパに幻想を抱いていたのである。タヒチの仕事を、成果の程を人々の前に知らしめる必要があった。滞在中、フランスに送り届けていた作品が一向に注目を浴びないのも、制作した当の本人が不在だからだ。作家自身の口から直接語りかけなければならない。それに作品だけのことではない。この2年間に得た芸術論がある。友人・知人の芸術家や詩人・評論家たちに語り聞かさなければならない。遠からず見方が変わるだろう。驚異の眼で見返されることだろう。自分は芸術の最先端に立っているのだ。人々を導かなければならない。使命である。
こんな言い回しで勝手に懐に飛び込まれたのでは、ゴーギャンもさぞ迷惑なことだろうが、これは擁護のつもりである。たしかに彼がこの間に為し得たことは大きかった。自分一人の許に留め置きかねる思いも理解できるというものである。しかし、彼の芸術はすでに先に行きすぎていた。本人による説明でも埋め切れない隔たりになっていた。しかも皮肉なことに、人々の冷笑に晒されてはじめて気がつく溝でもあった。これは、理解できないものを目にした時の人々の無言の抵抗である。けして尊敬には向かわないのである。敬遠で応えられるのである。勇んで進み出たはいいが、いよいよ自作劇(「受難劇」)の最終幕に向け、自分の手で幕を引くことになるのである。

* タイチを訪れて数か月後、ゴーギャンは島探索を思い立つ(実は「女」探し)。ある村で村人に呼び止められる。いっしょに食事でもと誘われる。小屋に入るとその家の女性(40がらみ)から「どこくいくの?」と訊かれる。島のある場所を示す。「何しに?」と。一瞬ためらったが正直に「女を探しに」と答える。そして以下の会話がなされる。――「ヒチア(彼が向かおうとしていた場所・注)にはたくさん、それもきれいなのがいるわ。欲しいのはひとりだけ?」「そう」「よかったら、ひとりあげてもいいのよ。私の娘」「若いのかい」「ええ」「元気はいいのかい」「ええ」「よし。連れてきてくれ」――やがて一人の少女が彼の前に姿を現す。少女との会話――「おれのことが怖くないのか」「アイタ(いいえ)」「おれの小屋に住みたいか、ずっと」「エ(ええ)」「病気にかかったことはないだろうな」「アイタ」――彼は予想外の展開と目の前の少女の魅力に圧せられていた。必要な手続き(内容は不明)を済ませる段になって自分の方が躊躇いを覚えている始末であった。しばらくして外に出る。一家もいっしょについてくる。途中で一件の家に立ち寄る。夫婦が住んでいた。少女(「婚約者」)は彼に紹介する。「母です」と。さっきの女性は? あとで最初の女性(母)から教えられる。二人の母がいるのですと。彼女は実母で、後で紹介された女性は養父母であると。二人の母は島の慣習であった。その養父母から問われる。「あなたはいい人ですね?」そして躊躇いがちに「はい」と答える。言い渡される。「1週間後に、この子を帰らせてください。そのときもし、幸せでなかったら、あなたと別れることになります」と。
そして少女マテアナとの生活(蜜月)が開始されていく。少女の存在だけで彼の芸術は大きく実を結んでいく。
  ――以上はポール・ゴーギャン『ノア ノア』の関係部分(「3」)の要約と補筆。

帰国後の悲惨な日々 189383日、マルセイユに到着したゴーギャンの懐に残っていたのは僅か4フランに過ぎなかった。これではパリに戻ることもできない。それでも彼の帰還を案じていたのだろう、友人モンフレーからの250フランが局留で送られていた。どうにかパリへの帰途を果たすことができた。しかしパリには友人たちはいなかった。出払っていた。帰国を伝えても妻メットからは何の連絡もない。手紙も書いた。一文もないと。必ず返せるから用立てて欲しいと。やはり返信はない。当てはあったのである。もちろん作品が売れるという最も大事な当てが(そのためにタヒチや「イヴ」のもとを離れたのだ)。しかし、偶然が〝幸い〟した。天涯孤独だった叔父(イジドル)が亡くなって遺産が入ることになったのである。彼は彼の親族に救われたのである。
しかし、その一方で、この遺産が、妻メットとの関係を決定的な破局に導くことになる。手にした9,000フランの半額をメットは要求したのである。結局、彼は送金しなかった(ただし後に1,500フランを送金したようであるが)。できなかったのである。余裕がなかったからである。それに自分の意思ではなかったといえ、友人シュフネッフルの「勝手」によって、タヒチ作品やゴーギャンのコレクション(セザンヌほか)がメットの許に送られていたからである。
そして、妻はその一部を無断で売却していたのである。もちろん彼女は正統な権利だと思っていた。一人で5人の子供育てていたのである。しかし、せめてゴーギャンが帰国した時、夫が予定していた(これに懸けていた)タヒチ作品展に思い遣りの手を差し延べて上げなかったのか。手許にあったのは、展覧会に欠かすことのできない作品だった。送り返して欲しいという夫の再三の要請を彼女がようやく聞き入れた時、返送されてきた作品は一部を欠いていた。返事ができなかった訳もこのためであったのだろう。しかし、そうならそうと事情を説明すべきだった。
彼は後に「質問状」を妻宛に送っている。まずはなぜ叔父の遺産を送れなかったのかを、詳細な借金内訳書で示し、その上で「お互いの予算」を明らかにしておこうではないかと呼びかける。自分はこうして内訳を示したのだから、「従ってお前の売った絵に関して、正確に報告してもらわなければならぬ」と綴った。
遺産を見込んでゴーギャンはパリにアトリエを構え、2年間の「(ヨーロッパからの)孤独」を埋め合わすかのようにアトリヘに人々を呼び、呼んでは定期的な夜会を開いた。結局バカ騒ぎにしかすぎなかった。さらに愚かしいのは、「ジャワ女アンナ」と同棲したことである。
悲劇は二度に亙って起こされる。一度はアンナを伴った第4次ポン=タヴェン滞在期間中(1894412月)の出来事(5月の事件)。ペットの猿を肩にしていた彼女ほかの異様な一団(芸術家集団)が鄙びた土地(コンカノール)を練り歩く。からかって石を投げつけた土地の少年を、一行の一人が打ちすえる。やがて親たちが出張ってきて乱闘騒ぎが開始される。巻き沿いを喰ったゴーギャンは足の踝を骨折してしまう。このまま歩くことができなくなってしまうのではないかと危ぶまれる程の重症であった。
二度目は、立ち戻ったパリのアトリヘでの出来事。一足先に帰っていたアンナによる所持品(金目のある品々)の窃盗事件であった。皮肉なことに彼の(一番金目になるはずの)作品には一切手が付けられていなかった。哀憐の情ではない、もちろん値打ちを知らなかった「愚かさ」と同時に彼に対する自己表明(軽蔑)であった。
いずれにしても窃盗事件はともかく、骨折は後々まで彼を苦しめることになる。身体的負傷の苦しみは、彼の自作劇にはおまけのようなもの(〝スケルツォ〟)であったが、相変わらずの精神的苦しみを深めることに加担する点では、実に忌まわしい出来事であった。かくして第4次ポン=タヴェンの「成果」は、タヒチに戻るべき(帰るべき)であるとの思いに彼を転じてさせていくことであった。

苦悩の深まりと最後の決断 ブルターニュでの入院療養期間に彼は何を思い巡らせていたのだろう。帰国後、10か月が経っていた。昨年(1893年)の11月には、念願の個展(場所はデュラン=リュエル画廊)を開催することができた。ドガの尽力によるものである。タヒチ作品38点、ブルターニュ作品6点、彫刻2点の内容であった。しかし売り上げはさんざんだった。購入された作品は計11点で、内6点はブルターニュ作品であった。
しかも期待した作品評価も、以前から高くかってくれていたドガやマラルメ以外はさんざんだった。根本的な否定(嫌悪)にさえ晒された。セザンヌも認めなかった。彼は大変な神経質の気難し屋で、自分に関わりのない世界(ゴーギャンの南太平洋)が、自分の絵画気分に障るのを好まなかった。かつての師のピサロからも敬遠された。またもや剽窃呼ばわりされた(ただし本人に直接だったかは分からない)。
唯一の救いは、ブルターニュ以来彼を尊敬する若い画家たちにさらに刺激をあたえたことであった。だから彼はこう誇らしげに語った――「最も重要なことは、私の個展が芸術的には大成功を収めたことだ」と。その一方で悲しい知らせもあった。マルティニック島行きを共にしてくれた愛弟子ともいうべきシャルル・ラヴァルの死(結核)の知らせであった。やがて彼はタヒチ帰還を決意する。今度は帰らないで永久に暮らす。固い叛意を籠めた決心だった。資金は、パリのアトリエニにある所持品(タヒチから持ち帰った品々)の売却代金だった。彼はまだ知らなかったのである。「窃盗事件」を。
12月、ブルターニュからパリに戻って事件を知った彼に残されていた途は、作品の売立てであった。第1次の際と同じドゥルオ館でその売立ては行なわれた。結果は散々だった。第1次タヒチ作品の傑作の1点である『死霊は見守る』が900フラン(最高額)で売れたほか、ドガによって『オリンピア』(摸作)*450フランで買われた意外は、あまりに不当な安値だった。その直後、彼によって買い戻されることになる。結局、必要経費を差し引くと、残ったのは464フラン80にしかすぎなかった。
不足分を前回のように美術派遣者の特権を得ることで補おと画策するが、待っていたのは新任の美術省長官からの嫌悪感を露わにした激しい拒絶だった。これで終わらなかった。打ちひしがれた彼を待っていたのは命取りとなる梅毒だった。孤独と空しさのなかで連れ込んだ一夜の女から感染させられたのだった。自己責任であるが、なんとも哀れで空しくもある。いずれにしても身体的故障は、骨折だけでは済まなかったのである。
おそらく資金は不足していたこだろう。しかし彼の決断は変わらない。ともかくタヒチに行く。資金不足を推して彼がヨーロッパとの永遠の別れを告げてタヒチに旅立ったのは、18953月のことであった。すでに47歳に達していた。

* ドガは、摸写に深い関心を示し研究もしていた。買われたのは(買ってくれたのは)そのためであろう。


5 ゴーギャンの世界
 
絵画史のなかのゴーギャン ゴーギャンが描こうとしていたもの、それは何であったのか。畢生の大作『我々はどこから来たのか? 我々とは何か? 我々はどこに行くのか?』(以下、単に『我々はどこから来たのか?』とのみ呼称)を前にした時、特にその思いに強く襲われる。何を語ろうとしているのか。それは、風景画を超えた風景画、人物画を超えた人物画――二分できないものである。ではなんなのか。複雑に書かれているわけではない。20世紀の抽象絵画からみれば、鑑賞を妨げる難解さとは無縁である。むしろ個別具体的である。具象の展開である。人物は群像であっても一人々々のポーズに取り立てて不可解な所作はない。動物もいる。人物の近くに場所を占めている。人々と同じ空気を吸っている。どこか島の森に空いた空間。そこだけ開かれた場所。背後には木立を透かして海が覗け、そのすぐ先に別の島が浮かんでいる。彼らを包むのはただ静けさのみ……。
かつて風景画が始まった時も静けさが画面に行き渡っていた。しかし、人々(人物)は参加していなかった。点景でしかなかった。その描かれた世界は、風景画であってそれ以外の何ものでもなかった。それは日曜画家時代にゴーギャンによって描かれていた世界でもあった。その日曜画家は、かつてそういう時期があったことさえ疑われるほどに別の世界のことになっている。すでに記したように、「人物」と出会った彼は、風景のなかではなく風景の前に人物を押し出した。それだけ見ると時代の逆行である。かつての歴史画や宗教画が、人物によって絵を物語っていたからである。前景に人物を配する絵画史的意義である。
今、目の前にしているのは、そういう意味でもヨーロッパ絵画史に深く関わることである。あらためて辿る。17世紀以降の風景画は、まるで約束事のように人物を風景の一部とした。でもこれは風景のための人物である。たとえば人物画の歴史として見れば、風景画以前では人物は絵画主題である。そして前景を占め、ドラマを体現している。風景はドラマのセット(背景)である。風景画が一ジャンルとして成立した17世紀以降の風景画は、風景自体をドラマとすることで人物は内蔵化されることになる。そして無言のままである。しかし無言であっても、ドラマ化された風景との一体のもとに置かれている。したがって同じ点景でも、その姿形は、拡大すれば歴史画のように前景を演じることも可能視されなくもない。コローにも言える。むしろ彼の狙いでもある。コローと同時代のミレーは前景に人物を置く。でもその人物は大きさに制限されることなく、絵画的意味を常に一つにしている。風景の中で必要に応じて採られたポジションであり、絵画的大きさである。
しかし印象派の風景画のタブローのなかの人物は、姿形が崩れて気配化に移行していく。すでに前景的人物像とは役割を異にし、人物(もちろん風景画の中の人物)として取り出してみれば多くは定立しがたい。ディテールではなく、断片(フラグメント)でしかないからである。それでも人物を必要とした。伝統的な自然観の表れであろうか、そうだとすればオランダ風景画から繋がる自然観が、人物から離れる必要を感じさせなかっただけではなく、「感覚」を高めるためには積極的に配置すべき必要素材であったさえと言える。それが、印象派が行き詰った時に人物は連動して絵画的位置を失うに至る。したがってこれは人物を通じた風景画(17世紀オランダ風景画~印象派風景画)の終焉的現象であったとも言える。ゴーギャンの風景画内の人物が抱えていた問題(「矛盾」)でもあったのだ(性急で短絡的かもしれないが)。
かくしてゴーギャンもまた絵画史の一員となって然るべき位置を与えられるが、絵画史的理解は、理解を深めさせ、体系性による安心感を与えてくれる分、画家から我々を遠ざける副作用も含まれている。絵画的苦悩を平準化してしまうからである。ゴーギャンの大作『我々はどこから来たのか?』への道は、絵画史的記述に埋没させてはならない個人的権利である。セザンヌやゴッホとの違い、とくにセザンヌとの違いがそれを教えてくれる(再発見させてくれる)はずである。

ゴーギャンとセザンヌ 印象派への矛盾は、セザンヌのそれでもあった。人物に問題を絞れば、セザンヌは構図自体を絵画化することで人物の前景観を獲得した。「水浴」の人々(とりわけ女性たち)である。裸婦群像(一部男性)とその身体が創りだす、ある角度に支えされて斜めに伸び上がる幹との重層性。限定された三角形の視界を覗き窓にして背後を設える人工的な力学的な構図。セザンヌが辿り着いた自然哲学である。『大水浴図』(1906年)を目にする時、その近代的な知的感性が、同時にもう一つのテーマを追い求めていたことを知る。セザンヌの代名詞とも言うべき「サント・ヴィクワール」の山景と麓の景色を描いた一連の風景画である。「平面立体」ともいうべき二次元性を超えた世界が描出されている。水浴ともども20世紀美術の先駆けとされる作品である。かくして絵画史的意義と位置付けはゴーギャン以上となる。
セザンヌを前にしてあらためてゴーギャンの絵画の特色を知る。到達した絵画的な高さと深さである。セザンヌが別立てでしか達成できなかった絵画世界を、ゴーギャンは一つとして達成していたからである。「大水浴」と「サント・ヴィクワール」はゴーギャンのなかでは一体化していた。二者ではなかった。可能にしたのは人物である。ゴーギャンの人物は、「大水浴」の前景を占める人物たちとはヒューマニズムが異なる。セザンヌは「大水浴」の人物から表情を剥離した。人格を否定し生得性に冷淡であろうとした。セザンヌにとって人物は物体だった。既知の人間であってはならなかった。前景とする条件だった。しかし理知的なものではなかった。感覚の求めに拠ったものである。感覚によって創り出された知性であった。セザンヌに底流していたのは、印象派的内面であった。
一方、ゴーギャンは、タヒチで前景に人間を見出した。出会ったと言い換えてもいい。ブルターニュで獲得した前景観のなかでは、必ずしも人間は必要とされていなかった。必要であったとしても戯画化から先に出るものではなかった。技量の不足ではなかった。彼は人間の形ではなく心の形を求めていたからである。気がつかなかった(気がつけなかった)のである。つまりブルターニュは、知性の範疇であったからである。ケルトの文化とは、近代ヨーロッパの異質であっても異文化ではなかった。異質は、色面の構図化(フォルム化)で彼を自足させた。ブルターニュに止まる限り精神は安定し、色面化によって塗り替えられた個人の世界は、全体性にも行きわたった。究極性も兼ね備えていた。
にもかかわらず、ゴーギャンの体内には次第に精神的な不足感が広がりはじめ、同時に違和感を覚え始めていく。達成された究極性が揺らいだからではない。究極は達成されたのである。ブルターニュは彼によって世界化されたのである。だから違うのである、彼を襲うものは――。なぜならそれは、体内というより「胎内」が覚えた不足感だったからである。ヨーロッパ的な精神とは異質であるだけでなく、まさに異文化的な胎内感であった。彼の血と幼年期体験が再発させたのであった。彼に固有の「特殊」だった。修辞的に言い表せば、彼の「体内」はヨーロッパであっても、彼の「胎内」はヨーロッパではなかった。セザンヌとの決定的な、そして解決のつかない違いだった。

タヒチの意味 そして、結果としてのタヒチだった。南海への回帰だった。回帰を果たしたが時、彼の前に現れたのは、「人間」だった。戯画化の必要のない生得の姿を晒した、彼の中の同血に触れるマオリ人だった。
重要なのは、逆説的かもしれないが、それをゴーギャンが「知性」で感得できたことである。感性ではなかったのである。感性であっても知性によって生成されたものであった。感性なら彼は絵を描く必要がない。楽園の生活に浸るだけで充分である。しかし、ゴーギャンが浸ったのは、マオリ人を胎内に宿して「人間」を産み出す生殖活動であった。それは彼のなかの両性を生きることでもあった。
彼の南海行きは、神の摂理に反する両性具有だった。肉体的なことではない。精神的なことである。故に反ヨーロッパ的であって、反キリスト教的にならざるをえないのである。しかも彼の悲劇は、それがヨーロッパ流には内部解決がつかないことであった。たとえば秘密結社に加担しても彼は癒されなかったであろう。とは言え、南海にあっても両性具有から解かれることはなかった。前者(ヨーロッパ)は「知性」でしかなく、後者(タヒチ)では「知性」がかえって彼を疎外するからである。タヒチ帰住が、彼の生を絵画の中でしか保証しなかった現実は、パリ在住時とはまた違った悲惨の彼を見ることに終わるからである。テハマナの胎内に還ることができていたなら、あるいは、さらに深く広い『ノア ノア』の最中で再生的な生存感と向かい合うことができていたかもしれない。
あらためて彼の畢生の大作『我々はどこから来たのか?』に目を上げる時、結局、両世界を生きられなかった「知性」による作品であることに合点が行く。そこに描かれたマオリ人が、説かれるように実際のマオリ人というより彼であるのも、仕組みは上記のとおりである。すなわち彼の胎内から産み出された人々だったからである。しかし本質的なことは、それが、その行為が、あらたな絵画言語を産み出したことである。彼の「マオリ語」をである。
ここに示されたのは、前景観を得ただけに終わらない、表現を突きぬけた絵画的真実のパノラマである。色彩性と色面化を内蔵した構成感に人物の姿態と表情が叙景されて、人物の個別性を「われわれ」として横並びに同化させる背後の自然は、すでに背景ではなく内景である。カンヴァスの左上に記されたタイトル(フランス語)以上に画面は哲学的である。絵画が辿り着いた哲学であり、哲学が辿り着いた絵画である。ここで哲学というのは、感性ではなく知性だったからである。哲学とすることでより内向性が付加されるかである。しかも南海で哲学と言う時、哲学がもつ一次的なイメージが希薄化されるからである。ゴーギャンが自作解説の締めくくりに使った「一つの哲学的な作品を仕上げた」(18982月モンフレー宛手紙の一節)の意味にも連なるはずである。
かくして哲学として描かれ、描き切ったそのタブローは、絵画芸術上の所与の性状である感覚的獲得に対しては徹底的な正面観で臨んで、感覚的寡黙を漲らせている。また日本の屏風絵のような「多視座」を備えながらも平板化から遠く離れて、壁画のような横長の画幅にも色彩と色面よる奥行きを追加している。ヨーロッパ絵画にあたらしい絵画空間を創成した一作である。悲惨なゴーギャンのためにあえて言挙げしておけば、20世紀を目前にしてその直前に為された人類的遺産の一つである。それ以上にタヒチの意味はないと言えるほどに――。


6 ゴーギャンの最期

タヒチ帰還 再び年譜的記述。それにしてもタヒチ帰住を待っていたのは、〝反ノア ノア〟のような島嶼生活だった。アフリカの枯れた草原で序々に衰弱していくライオンにように、芸術の王者は、事切れる最晩年を孤独の日々の中に送る。
タヒチに戻ったのは、189599日であった。亡くなる年から逆算すると8年前のことである。さらにパペーテは俗化されていた。2か月後、移り住んだ地は、眼前に神秘のモーレア島が浮かぶ西海岸のプノアウイアであった。以後、第2次タヒチと呼ばれる約6年間が開始されていく。
家(小屋)を建てた。女性も来た。でもゴーギャンが再会を求めていたテハマナは、別の男と所帯を構えていた。責められない。それにタヒチでは当たり前のことである。やがて新しいヴァヒネ(「女」)を求めて彼女との生活がはじめられる。14歳のパフラである。彼女との生活をはじめて、テハマナがいかに大きな存在であったかを知らされる。健康状態の悪化(4次ポン=タヴェンで骨折した足の傷の悪化および梅毒の後遺症など)や金銭的窮乏が、それに精神的な追い打ちをかける。終にその年は作品も残せないことになる。
窮状をフランスの友人たち訴えても送金はない。ただし、まるきり援助の手を差し伸べなかたわけではなく、ゴーギャンの求めに応じて画策に走ったモンフレーによる支援会の呼びかけや、シュフネッケルによるゴーギャン援助のための政府宛嘆願書の提出がなされた由である(湯原著200頁)。いずれも不成功に終わるし、いずれにしても直接の現金支援ではなかった。
致し方なく島の唯一の金融機関である農業金庫から二度に亘って借入(1,000フラン)を行なうことになる。本当ならパリの画商たちから送金されてしかるべき権利をもっていた。画商たちが彼の作品を預かっていたからである。しかし一度の例外を除いてほとんど送金らしい送金も果たされなかった。彼等はゴーギャンの作品の値が上がるのを待っていたのである。したたかでかつ悪徳とさえ言えるパリの画商の一面を福永武彦の一節から紹介しておきたい。

アンブロワズ・ヴォラールは當時の若い有能な畫家たちのパトロンとして最も著名な畫商だが、ことゴーギャンに關しては豺狼のように振舞ってゐた。確に彼は催促に應じてちびちびと金を拂いはした。しかし自分の倉庫にゴーギャンの多くの傑作を仕舞ひ込んで、この畫家が異國で死ぬのを徐に待つてゐたわけである。ゴーギャンに眼をつけたことは先見の明には違ひないが、それは同時に未來の華々しい儲けをも約束してゐた。しかしその未來はゴーギャンには約束されてゐなかつた。(同書220頁)

さらに健康は悪化の一途を辿っていく。翌年(1896年)の7月、パペーテの病院に入院せざるをえなくなる。ただし「貧窮者」扱いであったという。入院1か月で小康を得る。そして1点の自画像を描く。題名は『自画像―ゴルゴダ近く』(1896年)。自分の行く末を知っていた受難の姿(自画像)に描かれているで。アルルのゴッホの許に送った交換自画像(『レ・ミゼラブルの自画像』1888年)の、どこか超然としてふてぶてしいまでの面構えはすでにない。
しかし、いつもそうであったように最後のところで不思議と救われる。肖像画と絵の家庭教師の依頼の話が舞い込んできたのである。さらに上記した唯一の例外である画商からのまとまった送金(ヴォラールではない)があり、一時期(18973月まで)とはいえ、困窮生活や精神的苦悩からは解放される。それに合わせせるように作品の数(多くの傑作を含む)も増えていく。しかもその作品は自画像とは異なり、平安と静謐のなかで至福の表情さえ浮かべる画面である。生活の困窮は何一つとして意味をなさない。芸術家にとって作品とは何か、彼の制作行為は、その秘密の入口にいつも佇んでいる。
その彼でも耐えられない精神的苦悩が、安寧な生活を一瞬にして潰えさせるかのように一通の手紙と共にやってくる。最愛の娘アリーヌの死の報せであった。肺炎を患い19歳の若さで急逝してしまったのである。冬の舞踏会の帰りの寒さが引き金であったようである。長く会えないでいてもゴーギャンの心の中にはいつもアリーヌがいた。彼のなかの家族への愛の象徴でもあった。第1次タヒチ時代には娘のために書いた小冊子(『アリーヌための手帳』1892年末~93年初)も用意してあった。ゴーギャンの無償の愛の対象であった。味わったことのない、どうして良い分からない衝撃だった。
待ち倦んでいたかのように生活上の苦悩が舞い戻ってくる。まずは現住地からの退去問題。地主が亡くなって土地を明け渡さなければならなくなったのである。幸いすぐ近くに土地を入手することができた。しかし、そのためには新住居の建築費と合わせてまとまった費用が必要であった。入植者援助の名目で前回と同じ農業金庫から融資を得ることができたが、融資額(借入額)は1,000フランで融資返済期限は1年の契約であった。
当てにしていた母国からの送金は再び途絶えた。長女の死を受けた精神的ショックもあったに違いない、健康がまたまた悪化の兆しを見せることになる。足の傷が潰瘍となり、両足に広がって痛みで眠ることもできない。鎮痛剤依存。時々襲われる心臓発作。その他にも内蔵の痛み。恐ろしい病気になったと噂され、人々も寄り付かなくなる。唯一の慰めは、友人に手紙を認めることであった。

子供時代から、私は不幸に襲われどおしだ。幸運や喜びに恵まれたことは皆無。いつだって、すべてが私に敵対し、私は叫び声をあげる。神よ、もしあなたが存在するなら、不正義に対し、悪意に対し、私はあなたを非難する、と。(中略)
やがて興奮がおさまり、激しい怒りの感情が弱まると、臆病げに、こう考える。あぁ、眠れない長い夜は、何と人を老けさせるのだろう、と。麻痺状態から脱した今になって、ようやく私はアリーヌの死の悲しみをしみじみと感じているのだ。そのうえ、病気がぶり返した。本質的には神経質なので、今では精神的苦悩が肉体的苦悩以上に私を苦しめる。よほど長いこと静養しないと治りそうにない。しかし、いったい、いつ?
                    (モラール宛、18978月)
もはや一銭もなく、中国人の店でさえ、パンを買うのに、もうつけがきかない。歩けさえしたなら、毎日でも山に行って食べ物を探すのだが、それもできず万事休す! 去年、死ななかったのは間違いだった。死んだ方がましだったのに、今じゃ、そうするのもバカげている。でも、もし次の船便で何も届かなかったら、死ぬつもりだ。(……)これはもう生活じゃない。そもそも私が病気を治せないのも、そのせいなのだ」
                   (モンフレー宛、18978月)
画商もなく、年々の食いぶちを私に見つけてくれるものもないとなると、この先、どうなるんだ? すべてから解放してくれる死神以外、見当たらないじゃないか。
                      (同氏宛、18979月)
私の絵は売れないのだから、今後も売れないままでいるのがよい。そのうち、私が神話か、あるいはマスコミのでっち上げだと、世間が信じる時が来るだろう。そうしたら、あの男の絵はどこにある、ということになる。事実、フランスにはまとまって50点もないのだ。
                      (同氏宛、189710月)
私が望むことは、一にも二にも沈黙、ただ沈黙あるのみだ。静かに、忘れられたままで、死なせてほしい。もし、まだ生きていなければならないなら、なおさら、そっとしておいてほしい。私がベルナールやセリュジエの弟子にされたって、かまうものか! もし私の絵がよいものなら、何をもってしても、その価値を曇らせることはできないだろう。もし駄作なら、それに金めっきをし、商品価値をつけて人目をだましたところで何になろう。いずれにせよ、世間は、私が絵空事で暴利をむさぼった、と非難することはできまいよ。
                      (同氏宛、189711月)

一部補足すれば、8月の「子供時代の不幸」とは、亡命中の船上で父親が急逝したこと。ペリーを離れたことも含まれているかもしれない。同様に8月の「中国人の店で」云々の中国人の店とは、植民地政策の過程で1860年代に労働力として導入された中国人が、やがて商業に転じて設けた店のこと。彼らの成功をヨーロッパ人は快く思わなかった。さらなる中国人の入植に対する反対運動も展開された。ゴーギャンも加担している。侮蔑感が籠められた諧謔的な言い廻しとして使われている。序ながら、現在でも「中国人の店」は盛況である。夕方になると、その延長にある屋台がパペーテの港に繰り出され広場を埋め尽くす。11月の「ベルナールやセリュジエの弟子にされたって」は、綜合主義に関する剽窃者呼ばわりされた一件のことであるが、セリュジエ(ナビ派)に関してはゴーギャン一流の自虐であろう。
以上、月を追う形で引いたのは(ただし湯原著の文脈をもとに同書より孫引き)、次の月の12月にゴーギャンが自殺未遂(砒素服用)を企てるからである(「年譜」によっては未遂事件の時期は18982月)。結果は失敗。量が多すぎて吐いたしまったためである。さらにこの間の生活と精神状態が重要なのは、問題の大作『我々はどこから来たのか?』が、自殺未遂を経てその直後から書きはじめられ(正確な月日は不明)、次の年(1898年)の前半期までに完成されたと考えられているからである。なお、従前はゴーギャンの言(手紙)によって、自殺を前にして1か月で一気に描きあげられたとされていたが、近年の研究成果ではゴーギャン一流の虚構化ではないかと考えられている(湯原、218頁)。死の淵から這い上がった後で描かれた方が、より迫真的に思えるのだが……。しかしゴーギャンはそう思わなかったのだろう。

その後の行路 未遂であろうがそのために大作が描けようが、生活は生活であった。相変わらずの貧困生活である。それも傍目も哀れな。そのお陰で土木局の製図係の職にありつくことができるのも相変わらずの最後のふんばりである(日給6フラン)。しかしパペーテまでの通勤は今の彼には荷が重く、パペーテに居所を移すことにする。しかし、パペーテでの生活に馴染めないパフラは新居を出て実家に帰ってしまう。何を思ったのかそのパフラを家宅侵入罪で告訴する。彼の留守を好いことにプナアウイアの家から品物を持ち出してしまうからであった。しかしその後、彼女との生活は再会され、男の子も生れる。エミールの名がつけられる。母国の長男の名である。
再び生活が安定する。パリからの送金(絵の売買代金)もあったからである。健康も味方し小康状態を得た。再び作品が生れるようになる。大作以降の作品は、叙情性に富むもので、大作が畢生の叙事詩だとしたら、精根尽き果てた後に訪れた諦観の境地で彼岸性さえ帯びた作品群(馬シリーズほか)であった。作品だけではなかった。生来の反権力的精神が、タヒチの植民地政策に向けられる。祖母フローラを彷彿させる言論活動(18996月―19008月)への参画であった。
この間、フランスから展覧会への出品の誘いがかかる。かつて(10年前)彼の許に集った若い仲間たちからの誘いである。すでに創作意欲を失っていた彼は、「私の仕事は終わったのだ」という旨の思いを認めて断りの返事を出す。実際のところ、新しいカンヴァスも底をついていたのであった。意欲以前の状況だった。しかし、内心は剽窃呼ばわりした者たちを抱えこむグループに対して、彼のプライドが許さなかったのだった。
そうした折、かの豺狼まがいの画商ヴォラールから突然誘惑の言葉がかけられる(1899年末)。あらたな契約への勧誘であった。年間決まった点数を描けば、月額前払いで300フランを送金するという申し出であった。前年にはその画商から間接的に作品の一括買い取りの誘いもなされていた。友人たちの協力もあってヴォラール画廊で大作『我々はどこから来たのか?』をはじめとしたタヒチ作品8点の展覧会が開催されたからである。ヴォラールは、商才の鼻を利かせて、あらためてゴーギャンの将来性に手応えを覚えていたのである。しかし、8点まとめての額は1,000フランでしかなかった。報告を受けたゴーギャンはこの安値に激怒し間を取り持とうとした友人に不信感さえ抱く。第1次タヒチ滞在費の捻出のために開いた展覧会では1点で1,000フラン近い値がつけられていたのである。
すでにヴォラールへの反感を募らせる思いも湧いてこなかったのだろうか。生活が優先されたのだろう。それに破格の待遇でもあった。かくして19003月、契約が締結されることとなる。

最後の島 タヒチの生活に見切りをつけ、ゴーギャンがあらたに向かった先は、タイチ島の北東1,400キロに位置するマルキーズ諸島であった。同地はフランスの植民地であったが、原始の生活が望める地として移住を決意させたのであった。1901910日パペーテを発って、16日、最後の島となるヒヴァ・オア島に到着する。入港した港で一人の東洋人と遭遇する。定住に当たって世話を受けることになる青年キイ・ドン(通称)である。政治犯として流刑の身であった。もとは東インドシナ半島のアンナンの王族の出で、フランス留学中に革命思想に触れ、フランス植民地であった祖国の解放運動に参加した挙句に逮捕されて島送りとなっていたのであった。
いずれにしても彼との邂逅もあり、当初目指していた島をここヒヴァ・オア島に変え、最後の島の生活を開始していく。拠点確保までにはさらに曲折を経たものの、1か月後には自分の土地を手に入れ、家も新築される。「愉しみの家」と名付けられた2階建ての広々とした住居兼アトリエであった。タヒチ島のゴーギャン美術館に模型が展示されている。
当初はまさに名付けられた家の名前のような日々を送った。多くの人を招き歓談した。夜の来客も繁くあった。デカダンスだった。頽廃的な日々に区切りをつけるように新たなヴァヒナを求め同棲に漕ぎつけた。マリー=ローズという年若い女性だった。それから約10か月、彼は再び精神的にも安定した穏やかな日々を手に入れ、ヴォラールとの契約を果たすための制作にも励んだ。マリー=ローズは女児を出産した。里の親元での出産だった。そのまま戻らなかった。
すでに秒読み段階に入っていた。周期的にやってくる健康悪化も状態の悪化を進行させながら繰り返された。しかし健康悪化に抗するかのように反逆者の血が再び騒ぎ出した。最後の島民を巻き込んでの反権力闘争だった(19023月)。役所だけでなく教会も敵に回してしまった。意気軒昂でも健康の方は悪化の進行を待ってくれない。同年の9月だった。傷口の化膿の進行が著しく痛みも耐えがたいものになった。致命的な結果を招きかねない視力の衰えにも見舞われるようになった。島には正式の医者はいなかった。
治療のために帰国を考えはじめた。しかし相談をかけた相手(モンフレー)からの返事は予想外なものだった。すでに伝説の人物になっている、今帰るべきではない。あなたの「敵」たちのためにも。ともかくあなたはすでに「美術史」のなかに移行してしまったのです、と。その年の12月に受け取った返信だった。
終にゴーギャンは観念したのだろうか、その月から翌年にかけて回想録を書きあげた。同時代画家に対する評言や芸術論をはじめとして文明論などに自由に筆を走らせた。『前後録』と題されて出版を企てた(19032月)。しかし間に合わなかった。刊行は死後を待たなければならなった。
彼の最期は、芸術のなかで迎えられなかった。偉大な足跡に見合うものとは決して言えなかった。再度の反植民地闘争の最中だった。住民側に立った彼は結局逆に被告の立場に立たされることになった。憲兵に対する名誉棄損だった。金庫3か月の判決と罰金が言い渡された。死の1か月前の1903331日である。
控訴を決意する。上級審はタヒチ島であった。直接赴かなければならない。費用は甚大である。しかし残された体力も、決意を実行に移す余力を残していなかった。4月初め、それまで治療を頼んでいたヴェルニエ牧師宛に往診願いの伝言が届けられた。歩けず見えずの状態になってしまったという内容だった。ゴーギャンの面倒は、「愉しみの家」の建築を受け負った大工のティオカだった。隣人でもあった。彼の最期を看取るヴァヒナはもうどこにもいなかった。絵のモデルにもなった「イヴ」たちは、絵のなかから抜け出てこようとしなかった。
モルヒネで痛みを抑えてもらった。裁判資金に当てたいと旧作を送って送金の依頼状をヴォラール宛に認めた。さらに最後の気力を振り絞って、憲兵隊長宛に長文の決意表明の手紙を認めた。発送を終えたのは4月下旬だった。すでに精根が尽き果てていた。
そして、終にその日が訪れた。58日だった。早朝、ティオカが牧師のもとに使いに出された。訪れた牧師の前で意識の朦朧とした画家は、今が昼か夜かも分からなくなっていた。それでも牧師の姿を認めることができた。いつものような文学談議を交わすこともできた。彼の気分が落ち着いたのを見計らって牧師はその場を一端立ち去った。それからほどなくして、呼んでも返事がないのを怪しんだティオカが2階に上がると、そこに見たのは、すでに動くことのなくなっていた画家の姿だった。事切れていた偉大な画家ゴーギャンの姿だった。時刻にして午前11時頃のことだった。
翌日9日、同島のカトリック教会で葬儀が執り行われた。埋葬されたのは丘の上の教会墓地であった。遺言であった「オヴィリ」(両性具有の野人像)の設置は、はるか後年の1973年を待たなければならなかった。
 
 
おわりに

ゴーギャンとは何者なのか。ゴッホではなかった。もちろんセザンヌではなかった。誰でもなかった。小説中の「主人公」であっても、彼自身は何者でもなかった。彼が画家だったからである。文学作品に転化されても絵が生れるわけではない。転化されなければならないのは作品の方だからである。したがってこの道理でいけば、彼から作品が生れたのではなく、作品から彼が生れたのである。ゴーギャンは作品によって創られたのである、ということになる。
しかし、その個性は、作品のためのものだけではなかった。困窮と不安・挫折、異国移住(帰住)と孤独、愛と渇望が、このように剥き出しの人生として送られた作品と等身大の個性は、それが作品の必然と入れ替わる、個別に所有された――創成されたというべきかもしれないが――もう一つの人格を通じて、一人の個人を、人生の途中から画家にしか導かない内部生命の再発見者の役を担わせることになった。多かれ少なかれ画家(芸術家)であるとはそういう個性を分有し合う人々であっても、ゴーギャンであるとは、その個性が作品に直接反映されない分、画家であることの人間の秘密を、その作品が視覚的に訴える一次的な訴え方と表裏の形で合わせもっている存在者であった。
絵は誰にでも描ける。子供でも、知的障害者でも、精神異常者でも。否、むしろ彼らの方が芸術の近くにいる。しかしゴーギャンの芸術の近くにはいない。ゴッホも然り。あるいはもっとも遠い。作品の必然が、精神の過剰と相殺し合わなければならないゴッホ(の晩年)と対極をなして、しかも破綻を知らない側に立つもう一つの生命感の在り様。ゴーギャンの苦しみとは、破綻できない精神の苦しみであったことになる。
ブルターニュ作品の中に『黄色いキリスト』『緑のキリスト』で知られている対になる2点のキリスト像(1889年)がある。ともに磔刑図であるが、前者は十字架に磔けられた、後者は地上に降ろされたキリスト像である。人の罪を背負って死んだキリストは、やがて人の苦しみを救うべく復活する。しかし、ゴーギャンの苦しみは救えるだろうか。少なくとも同じキリスト像は南海の島々では描けない。描けない理由を画家は知っている。それを、「破綻できない精神の苦しみ」故としてしまうのでは、いささか味気ないが、人間精神の苦しみの内、ゴーギャンが遺したそれは、人類の遺産である。やはり、もう一つの掛け替えのない「作品」である。


 ※

渡航記(付記) その船は横浜港を発って、太平洋上を12日余り波に揺られ、払暁の蒼い闇のなかで最初の上陸地となるタイチ島に着いた。船は、着岸を前に島の眠りの醒めるのを待って、パペーテ港の沖合で静かに巨大な船体を浮べていた。長い航海で漂流者に似た思いを味わっていた船上の人々は、デッキの手すりに身を乗り出して、甲板から陸地に目をじっと凝らしていた。夜の明けない島は、気温こそ熱帯を思わせても、その正体をまだ闇に沈めて明かそうとはしていなかった。
火山島だった。それだけは分かった。岩山だったからである。調べてはなかったが、山の高さは、一嶺が2237m(オロヘナ山)、一嶺が2068m(アオライ山)だった。島の大きさに不釣り合いな高さを上空に誇って、火山島に相応しい険しい岩山の稜線を延ばしていたのである。神秘の光景だった。
橙色の街路灯が闇の下で連なっていた。海岸通りだった。少しずつ白みはじめていく闇のなかを、まだしばらく続けられる眠りを妨げないように、船はゆっくりと船体を陸地に寄せていく。街路灯のもとを通過していく一台の車が駆け抜けていく。島の最初の動きだった。でも間歇的で、それも次のライトが現れるより現れない方の時間が長い。
まだ明けるまでにはしばらくかかる。それに明けないでもかまない。火山島のシルエットが薄れてしまうのを惜しんでいる。空けるに抗する思いでいる。乗船者の一人には上陸を急く気持はなかった。その思いは彼だけではなかったろう。
わずか1日だったが、早朝から出航の深夜までたっぷりとタヒチ島に浸かった。島も一周した。決めていたようにゴーギャンの思いで巡った。華やかなパペーテには同じように複雑な思いを抱いた。ゴーギャンの滞在時(帰住時)と変らないだろうエメラルド色の海は、まさしく碧く透けるように美しい南国の海だった。サンゴ礁に当たった海上の浪が、大きな白い盛り上がりを作って島を遠巻きに取り囲んでいる。浪音が海面のきらめきの上を伝わってくる。小舟が海上に漕ぎだされている。
海岸沿いを延びる車道の沿線には、熱帯植物に取り囲まれた家々が並んでいる。背丈を抑えたコンクリート造りの平屋建ての住宅は、黄色や橙色や青色で塗られている。どの家にも車がある。大きな乗用車が横付けされていることもある。ランドクルザーも停車している。プリントの半そでシャツに短パンを穿いて車にホースで水を浴びせている。原色のカラフルなワンピースに身を包んだ若い女性が子供と庭で遊んでいる。子どもたちは裸姿を太陽に晒している。
次第に家の姿が無くなっていく。岩場の海岸線が目の前に延びる。時計回りに島の反対側に向かう。右回りは定石のようである。やがて右手奥に島が見えてくる。「ちいさなタイチ」と呼ばれる、ひょうたん型をしたタイチ島のもう一島(陸続き)である。その島に向かう道を横切りさらに進む。辺りは景観を一変する。山裾から延びた海縁に広がる比較的広い平坦地に人家が散在している。マタイエアである。道路を左に折れ少し奥に入る。すぐに海岸縁に出る。ゴーギャン美術館が待っている。目当ての美術館であり、マタイエアの土地である。美術館は、最初のタヒチ滞在で彼が過ごした場所の近くに建てられている。
でもこれが美術館? 「本館」から受けた強烈な第一印象だった。なにか勘違いしていたに違いない。特別なものが観られると思いっていたのである。出発の前々年、『ゴーギャン展』(国立近代美術館、200979月)で本邦初公開の大作『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこに行くのか? D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons- nous?』を観ていたこともある。ここで(現地)でしか観られない日本未公開が待っていると決めつけていたのである。
なにも観られなかった。それにすべてレプリカだった。でもそれは好い。哀しかったのは、「本館」が美術館の建物構造ではなかったからである。極端に言えば、屋根が架けられているだけの体の良い小屋だった。壁と屋根の間には隙間があり、壁と床の間にも隙間があった。風が吹き抜けるも構ない。その時は吹いていなかったが、でも風と共に戸外の砂や木葉が、部屋の隅や壁際に溜っていたのである。掃き寄せられていたのかもしれない。それほどの量ではない。でも量の問題ではない。
つまるところが美術館ではなかったのである。好いところ野外博物館だった。実際、野外は素晴らしいのである。石造物やモニュメントも緑の芝生のなかに建てられている。回りの雰囲気とも合っている。見方を変えれば好いだけかもしれない。しかし、なんとも侘しい。「愉しみの家」(最後の島ヒヴァ・オア島の住居兼アトリエ)のミニアチュールや写真類の類が唯一の救いだった。
頭の中を切り替えた。今立っているマタイエアの地にゴーギャンが感じたものに想いを致し、『ノア ノア』を著した思いを共有し、彼をカンヴァスに駆り立てたマタイエアの自然だけを思おうと。
ゴーギャンが蔑にされているとは思わない。タヒチの人々にとってゴーギャンが何者であるのか、観光資源だけにしかすぎないのか、かつて植民地政府(側)の一員であった者、結局、他者にすぎないとしか思われていないのか、何一つ知らない。
しかし、たとえばそう思われていたとしても、ゴーギャンにとってそれが不満であるわけではない。淋しいことであっても、本質的なことではないからである。実際、こうして日本からわざわざ観に来ようとしている者たちがいることだって、思いの質に関して言えば、その延長ごとでしかない。むしろ、ここにオルセー美術館がないことこそ、それどころか「野外博物館」しかないことこそ、ゴーギャンの意義が、100年を超えて今に伝えられているにちがいないことの、なによりの実証である。もちろん逆説的であるが。
 タヒチの現状はけして好ましくない。先進国(「先進文明」)の責任である。しかし、その責任に囚われることなく、言い方を換えれば責任転嫁せずに、島の自然(海・山・森など)が心を繋いでくれている。すでにゴーギャンの時代、その心が蝕まれていたとしても、その外形たるパペーテが、海と空の窓口として今も機能しようとしているのは、フランス政府が構えた施設だとしても、引き続きゴーギャンの思いの再現を外に向けて開いていることであった。経済だけではない。それが、気づかれようと気づかれまいと、「心」である。自然を失しってはならない背景――内景となる背景である。
その思いは措くとして、さらに島を回って、美しいモーレア島を前にしたタヒチ博物館を観た。充実していた。出自の文化に誇りを持った展示内容だった。ゴーギャンが第2次タヒチ時代の6年間を過ごした場所、プナアウイアだった。でもゴーギャンの出番はなかった。
港に戻って夕方を待った。おいおい、「中国人の店」(屋台)が立ち並ぶからである。やがて船着き場の広場(結構の面積がある)を埋め尽くすような数多くの屋台が並んだ。同船の数人の若者たちと杯を交わした。土地柄でフランス人の姿も多く見かけた。酔った一人の若者が、日本語を引っ提げて近くに席を取ったフランス人(男女の若者)のテーブルに割り込んだ。招かざる客でもなさそうだった。お互い言葉が通じないことを肴にして、意味が通じないことに一喜一憂しては、そのたびに手を大きく叩きあって笑い声を立てていた。
夜のパペーテの街中をすこし歩いた。ちょっとした「事件」があったが触れないでおく。パペーテの夜は店の閉まるのも早い。夜は神聖なものである。人々の血の中には古代の血が流れている。夜は、ヒナ(月)とテファトゥ(大地の精霊)に還る時間である。
深夜のパペーテ港をゆっくりと離れていく船のデッキの上で、入港時とは異なるタヒチ島の暗い闇に向い合った。再び訪れることがあるかどうか分からない。最期の島ヒヴァ・オア島に赴くことがあるどうかも分からない。
ただこの船が、タヒチ島を離れた後、次に目指すのは、ペルーである。ゴーギャンが幼年期の6年間を過ごしたリマの街である。
 

引用・参考文献
 
池辺一郎『未完のゴーギャン』みすず書房、1982
池田節雄『タヒチ 謎の楽園の歴史と文化』彩流社、2005
ケネス・クラーク/佐々木英也『風景画論 改訂版』美術名著選書4、岩崎美術社、1998年(原書1976年)
中村和雄ほか『ゴーギャン展』図録、東京国立近代美術館、2009
福永武彦『ゴーギャンの世界』新潮社、1961
フランソワーズ・カシャン/高階秀爾監修、田辺希久子訳『ゴーギャン―私の中の野性』「知の発見」双書13、創元社、1992年年
ペギー・ヴァンス/廣田治子訳『岩波世界の巨匠 ゴーギャン』岩波書店、1992
ポール・ゴーギャン/岩切正一郎『ノア ノア』ちくま学芸文庫、1999
ポール・ゴーギャン/岡谷公二訳『オヴァリ 一野蛮人の記録』みすず書房、1980
本江邦夫・大岡 信『アート・ギャラリー現代世界の美術4 ゴーギャン』集英社、1986年
湯原かの子『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』講談社選書メチエ441995

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