2012年6月29日金曜日

[い]3 石川啄木の今~没後100年~

[い]3 「い」音としての石川啄木ではあるが、代表的歌集もたまたま「い」音の『一握の砂』。生誕地は岩手県であるから「い」音の三連符である。表題中に「今」を付けるのは語呂合わせではなく副題を承けたもの。
  ところで石川啄木を取り上げるのは、没後100年であるからだが、啄木の文学を北海道からあらためて見つめ直してみたいため。と言っても記念の年だからというお付き合い程度の気持でいるわけではない。つとめて「インナー」である。
  またそれとは別に身辺に動機付けを得ているため。一つは、古くからの友人(北海道出身)の展覧会が道央の雄大な大自然の麓で現在開催中であること、一つは、新しい友人が滞道中であること。日常のなかに起稿の契機を探ることは大事だし意味あることである。そう思うようにしているし、必要なことだとも考えている。しかも個性的な人たち(大切な人たち)であるから。


1 石川啄木概観

『一 握の砂』採歌 『一握の砂』には詠唱される機会の歌が少なくない。それに捕らわれずに数首を掲げておくが(一部愛唱歌)、歌集冒頭に置かれた一首は歌碑(墓碑)(函館)としても有名な歌。ほか二首は啄木に特有のニヒリズム。なお「/」は改行を表す(以下同じ)。

  東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる
    いたく錆びしピストル出でぬ/砂山の/砂を指もて掘りあてしに
   「さばかりの事に死ぬるや」/「さばかりのことに生くるや」/止め止め問答
                                           (以上「我を愛する歌」)
  郷里岩手を詠った歌。「一」「二」の2節からなる。「一」が進学(岩手県盛岡高等小学校及び盛岡尋常中学校)のために郷里を離れて暮らした盛岡市、「二」が幼少年期を過ごした「実家」(宝徳寺)のあった渋民村を題材にしたもの。

    ふるさとの訛なつかし/停車場の人ごみの中に/そを聴きにゆく
    やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けとごとくに
    ふるさとの山に向かいて/言うことなし/ふるさとの山はありがたきかな
                             (以上「煙」)
 郷里(ここでは再上京後の東京から見た郷里(渋民村・盛岡市))への思いはさらに次章で膨らみ、愁傷に沈みがちである。特に最初に掲げるのは愁傷歌集を地で行く冒頭歌。しかし次歌は漢詩調。愁傷歌集中ではやや異色。

  ふるさとの空遠かも/高き屋にひとりのぼりて/愁ひて下る
  岩手山/秋はふもとの三方の/野に満つる虫を何と聴くらむ
  旅の子の/ふるさとに来て眠るがに/げに静かにも冬の来しかな
                      (以上「秋風のこころよさ」)
 ただし、最終歌では本来の「旅の子」に立ち戻り、すでに晩秋を過ぎ「冬」の季節に佇んでいる。そして、次章が北海道歌集となる。石川啄木が渡道したのは、明治40年(1907)の5月である。旧暦初夏の時季。そして冒頭歌として置かれたのが、浜薔薇の歌(夏の歌)。函館の歌である。同章も「一」「二」からなるが、遍歴順に配されたのは「一」。以下「一」から函館(再掲出)、札幌、小樽、釧路行汽車の車窓、釧路から一首ずつ。

  潮かおる北の浜辺の/砂山のかの浜薔薇よ/今年も咲けるや
  巻煙草口にくはえて/浪あらき/磯の夜霧に立ちし女よ
  札幌に/かの秋われの持てゆき/しかして今も持てるかなしみ
  悲しきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ
  空知川雪に埋れて/鳥も見えず/岸辺の林に人ひとりゐき
   さいはての駅に下り立ち/雪明り/さびしき町にあゆみ入りにき
                       (以上「忘れがたき人人」)
 そして最終章「手套(てぶくろ))を脱ぐ時」。前4章とは一線を画し、章題からして曰くありげな意匠。事実、作詠(作詩)の内容もそれに従う。詳しくは後述。ここでは冒頭歌から一首とその延長にある歌を三首。末尾は出版を前に生後23日で命を閉じた我が子(長男真一)への悲しみの一首(挿入歌)。
  手套を脱ぐ手ふと休(や)む/何やらむ/こころかすめし思い出のあり
  さびしさは/色にしたしまぬ目のゆゑと/赤き花など買はせけるかな
  白き皿/拭きては棚に重ねゐる/酒場の隅のかなしき女
  およそ秋の空気を/三尺四方ばかり/吸いてわが児の死にゆきしかな
                        (以上「手套を脱ぐ時」)
啄木渡道 採歌「東海の小島」と同じく一次的な地理的場所としては函館に始まる北海道時代。この函館を皮切りにその後約4か月先の9月には札幌、その2週間後には小樽、年明けの1月には漂泊最後の地となる釧路へ。同地で約4か月を過ごし、4月には釧路を発って、函館を経て海路を単身上京。慌ただしい約1年にわたる北海道での日々であった。
 渡道の理由は生活の糧を得るため。啄木(当時21歳(年齢は数え、以下同じ))は当時一家(妻と父母)の家計を一身で担う立場に置かれていたが、郷里渋民村にようやく得た臨時教員の職に(身分的にも)飽き足らず最後には校長追放運動に加わって失職となる(ただしその前に渡道決断)。北海道の1年も結局求職につぐ求職の、定まらぬ職を求めての放浪(漂泊)であった。しかし、函館は別格。渡道直後の同地での生活(弥生小学校臨時教員ほか)は、啄木への尊敬の念を集めた文学的環境に恵まれたこともあり、充実した日々の中に啄木を遊ばせていた。そのこともあって後に在函詩人宮崎郁雨(義妹の夫)宛手紙に「死ぬ時は函館で死ぬ」と書かせる。そしてその意思を果たすかのように啄木の墓地(「石川啄木一族の墓」)は函館山から延びる立待岬の入口にあり、墓碑には冒頭歌「東海の小島」が刻まれている。墓所から先、湾曲した大森浜海岸の一画には啄木公園が設けられ、作詠に黙考する啄木像が墓地を背にするかのように建てられている。像の台座には渡道を告げる「浜薔薇」の歌が刻まれている。
 北海道漂泊は、啄木の歌を詩に変えた(詳しくは後述)。ここで「歌」と言うのは、新詩社(与謝野鉄幹・晶子)に憧れてロマンチシズムの冴えをその早熟の才で面白おかしく詠うことのできた一連の作歌群(『明星』ほかの掲載歌)のことである。その出だしの一首。
  血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋
                       (『明星』五号、明治35年)
 内面も露わに誇らかな気負いに包まれた少年啄木の、前(世間)を見据えた立ち姿が目前に浮かび上がるかのようである。

 文学的自信 時に啄木17歳。たしかに単なる投稿歌の域を超えた、自身の才能に酔うに足りる一作である。そして自己の詩才を「さけぶ」に似たる心持の漲る一首でもある。同首の掲載(採用)に自信を深め文学的才能の開花の途を求めて上京。憧れの与謝野鉄幹・晶子の知遇を得てさらに詠歌没入。その一方で上京前の10月には、卒業を目前にして中学校(盛岡尋常中学校)に退学届を提出してしまう(中学5年目の秋)。それが(退学届の提出が)自身にとっては勇躍にも似たる思いで敢行されたことであったかもしれないにしても、人生を決定付ける「元凶」になるかもしれないなどとは考えない。まさに17歳の年齢である所以である。それどころか文学的勇躍として彼をさらなる歌詠みに赴かせ、さらに歌だけではなく詩作への転回をも促すことになる。次の詩は、詩人たる自己を啄木自身に印象付けた作品(明治38年(18歳))であり、詩集刊行の契機となる詩である。

    杜に立ちて
秋去り、秋来る時劫の刻み受けて/五百秋朽ちたる老杉、その真洞に/黄金の鼓のたばしる音伝えて、/今日また木の間を過ぐるか、こがらし姫。/運命せまくも悩みの黒霧落ち/陰霊いのちの痛みに唸く如く、/梢を揺りては遠のき、また寄せくる/無限の潮に漂ふ落葉の声。/ああ今、来りて抱けよ、恋知る人。流転の大浪すぎ行く虚の路、/そよげる木の葉ぞ幽かに落ちてむせぶ。/驕楽かくこそ沈まめ。――見よ、緑の/薫風いづこへ吹きしか。胸燃えたる/束の間、げにこれたふとき愛の栄光(さかえ))
                          (葵卯十一月上旬)
 

 挫折の経歴 同詩を含む処女詩集『あこがれ』が刊行されたのは明治38年(20歳)。世上の評価は賛否両論で相半ば。詩集刊行による印税収入の期待には程遠く、残本も数多で悄然として盛岡へ帰郷。印税収入を目論んでいたのは、前年婚約した堀合節子との結婚資金ほか、父親一禎が渋民村宝徳寺の住職の地位を追われて(宗費滞納)啄木の許(盛岡市内)に身を寄せざるをえなくなったため。すべて生活のためだった。啄木は、予告もなく一家(5人)の扶養者たる立場に立たされることになったのである。
 そして、その後の日々。翌明治39年(21歳)、思いを新たに盛岡から郷里渋民村に転居(農家一間の間借生活)。薄給を甘受しながら母校渋民村尋常小学校代用教員となる一方、父親の復職を画策するものの結局不首尾。境遇脱出を企てて小説執筆に果敢に臨むが中断。年の暮れには長女京子の誕生もあり生活はさらに窮乏へと向かう。そして明けて明治40年の22歳の折、父一禎の再住に反対した村民への憤りも重なって渋民村からの離村を決意。渡道(5月)直前の校長排斥運動による小学校からの免職は、あるいは啄木にはおまけ程度のことであったかもしれない。
 20歳で一家扶養の責任を負いながらも27歳で亡くなるまでの啄木の正業を辿ると、大別3期に分かれる。すなわち1期の臨時教員時代(明治394月~明治408月)、2期の新聞記者時代(明治408月~明治414月)、3期の新聞社校正係時代(明治423月以降)。在職期間の内訳は、渋民村での代用教員期間が約1ヶ年、免職を挟んだ後、函館区立弥生尋常小学校での代用教員期間が約3ヶ月(1期)。代用教員との兼職であった函館日日新聞での記者(遊軍記者)期間が1ヶ月、小樽日報及び釧路新聞での記者期間がそれぞれ約4ヶ月。この後、3期との間に再上京後約1ヶ年の無職時代が介在(ただし若干の稿料(小説)あり)。3期は、この小説執筆(「創作的生活」)を断念した後に訪れるが、生涯中もっともまともな正業に就いた時期(東京朝日新聞校正係)であって、ここに来て(明治42年(24歳))ようやく安定的な収入を得るに至るが、それでも一家を扶養する十分な資力とまでは行かず、家族再集結のために必要な借家費用も縁者(宮崎郁雨)に依存することとなる。
 その後は、定収入の中とは言え自身の健康不調(喀血)との同居状態。また生活苦とは別に母と妻との不和。妻の一時的家出。翌明治43年(25歳)の不幸。すなわち誕生した長男の生後23日での死亡。そして明治44年(26歳)には自身の入院・手術。退院後の自宅療養。症状の肺結核への移行。衰弱。翌明治45年(27歳)の4月、その約1ヶ月前に母親カツの最期を看取っての病没(母親と同じ肺結核)。途中からは薬代にも事欠く逼迫した生活苦のなかでの永眠。

  
 2 『一握の砂』再読
 
 歌集構成と作歌次第 石川啄木の歌は生活の歌、その貧苦を詠った歌として時にそれが生の尊さに繋がることになる。その一方で、というよりそれ(生活苦)を前提にしているためにはるかに郷里を思い遣って詠う歌には哀愁が漂い、人々の故郷への想いを誘い出して自らの歌として読まれることになる。とりわけ『一握の砂』第23章が詠う郷里(渋民村・盛岡市)への一連の愁歌の場合である。
 あらためて同章からいくつかの歌を拾えば、第2章「煙」の冒頭歌はまさに愁歌を表明するかのように歌中に「思郷のこころ」と名指しで詠み込む。
  病のごと/思郷のこころ湧く日なり/目にあおぞらの煙かなしも
 さらに章題「煙」を詠いこんだなかから一首。
  青空に消えゆく煙/さびしくも消えゆく煙/われにし似るか
 次は第3章「秋風のこころよきに」からまずは冒頭歌(再掲)。
  ふるさとの空遠みかも/高き屋にひとりのぼりて/愁ひて下る
 章題中の「秋風」を詠いこんだ一首。
  かなしさは/秋風ぞかし/稀にのみ湧きし涙の繁に流るる
 具体的な作歌時期を知ることは、『一握の砂』(明治4312月刊)を「詩」として読み解く上の鍵となる。なぜなら広く説かれているように『一握の歌』は、歌(詩歌)を棄てた立場で詠まれているからである。したがって第2・第3章は掲出歌以外を含めて、実は「愁歌」ではないのである。思いこんで読んでいるだけである。自らのノスタルジーに重ねるのは勝手で容易でもあるが、その分、啄木からは遠ざかることになる。
 それはともかく、作歌次第に戻れば(以下は『石川啄木』日本詩人全集(新潮社、昭和42年)第8巻「解説」(山本健吉)による)、第1章「我を愛する歌」は大半が明治43年歌(しかも夏に集中)(冒頭の「東海の小島」は41年歌)。第2章「煙」は大半が43年歌。第3章「秋風のこころよさ」は集中唯一の41年歌(主に秋)(一部4243年歌)。第4章「忘れがたき人人」は不詳(ただし上京後の回想歌)。第5章「手套を脱ぐ時」は大半が43年歌(一部4142年歌)。
 

 歌集分析 43年歌を中心にしている点で大事なのは、郷里を直接詠う第2章(2節構成)が43年歌であること、第1・第5章と同年次という年代的重複であること。つまり同じ心持のなかで詠われていたということである。ではその第1章の章題である「我を愛する歌」とはいかなる心持で名付けられたのか。次の問題である。上掲書「解説」では啄木の評語中にそれを求め、「おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何より可愛いから歌を作る。」(「一利己主義者と友人の対話」(明治4311月))を引く。とすれば第1章の作歌群に横たわる「自嘲」もなるほど自愛の変身譚かと見るべきことになる。
 しかしこの「自愛」。はたして幼少年期から続く(早熟に特有の)ナルシズムの成れの果てかと言えば、さにあらず、「血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらひここに野にさけぶ秋」(上出・傍線引用者)に擬えれば、すでに「さけぶ」ことのない、「さけぶ」ことに空しさを覚えた戯れに似た心持で書きつけているからである。
 自己愛は「さけぶ」ことを自分に許し、許すことで自己と等価を保っていた。だから天秤である。一方の皿(詩歌の心)を失った天秤では重さ(自己の心)を量ることはできない。量ることを最初から止めているのである。第5章の「手袋を脱ぐ時」のタイトルこそは、この場合、ナルシズム(自己陶酔)から離れた(醒めた)言葉(歌)を括るに相応しい章題である。
 他愛のない客観(手套を脱ぐ時)がすべてであるような自己。思い込みにも繋ぎ止められないでいてはすでに「自己」たる内実もないもの。一個体でしかないもの。その個体を個体たらしめている外形でしかないもの。まさに「身体」である。そしてこの身体をこそ自己表出とするもの。それが『一握の砂』のもう一つの企図だった。第2歌集『悲しき玩具』に繋がる作歌群であると指摘されている所以でもある(同上山本)。
 したがって、「郷里」(第2・第3章)とは、この「身体」を晒すための脇役だった。言い換えればそれが歌集に見出された構成上の意味であった(台本に見出された配役上の台詞であった)。まさに逆説としての。ノスタルジアは自己執着そのものであり、ここで言う「身体」に対しては等閑視の側に回る。いくら逆説的とはいえ、一見、ノスタルジアとも解とられかねない懸念を他所にノスタルジアであえて「身体」を量る。実は、「身体」が、性来の資質(歌人(詩人))を空しくさせる方向に成長し、成長することでさらに空しさを深めずにはいられないという自家撞着に陥っていたからである。唯一見出した第5章「手套を脱ぐ時」ではまだ空しさ(の重み)は計量化できなかった(量り切れなかった)のである。まさに代役に頼っていたのである。『一握の砂』の限界でもあり斬新さでもあった。

 啄木の意味 啄木は今どのように読まれているのであろうか。彼を読む意味を現代に求めることは可能なのか。彼が特権的に占有していた生活苦は、それだけで文学の永遠に繋がる道を敷くことができるのか否か。その前に彼は永遠なのだろうか。永遠に辿り着くには差し当たって真理に触れるか、生命的な輝きを発する必要がある。
 同じ岩手の宮澤賢治はその両者との契約関係を早々と済ましている。賢治のイーハトーブ(美しい岩手)は文学(さらに芸術一般)の永遠に繋がっている。しかしながら啄木のノスタルジア(渋民村や盛岡市)は繋がっていない。感傷に止まっている。さらに決定的なのは、賢治には詩に加えて憧話(散文世界)があったこと。しかし『一握の砂』の啄木にはそれが(小説)なかったこと。合わせて小説の前で敗北を受け容れられ、その自分をもっとも高い位置に押し上げていたこと。その高み(文学の永遠)からすれば、(「暇ナ時」の)「戯れ」でしかなかった歌(短歌)は、それが短詩形の形を取ることができても最初から永遠とは一線を隠したものにすぎなかったこと。ここに読みとれるのは二つの否定である。賢治にない啄木に占有された「二重否定」である。
 しかし、この二重否定にこそ啄木の文学的意味があり、文学の永遠を問うこともでき、かつ現代に啄木を読む意味も意義も見出せることになる。しかも重要なのはそれが文学的一般論に期せずして背を向けていることである。抜き差しならぬ生活の困窮との対峙が人に歌を詠ませたのではないか、文学を深化させたのではないか、そして生活苦こそは人を文学に連れ出した内的契機ではなかったかという捉え方がある。たしかに文学的一般論として汎用力のある考え方である。
 ここでいきなり「近代」を持ち出すのは唐突かもしれないが、日本近代文学が抱えた文学的テーマの代表的なものである「苦悩」は、この内的契機(文学的一般論)と直結するところに見出されている。しかるに啄木の場合は、この近代的苦悩の図式の外に身を置いている。問題はその置き方である。無意識裡に行なわれているのである。にもかかわらず内的契機になっていることである。それが彼の新しさである。
 あるいは近代を問い直させ、現代にも問題を投げかける彼によって構成された個別の「近代」。文学的テーマとして読み替えられる彼の中の「二重否定」。叙述法への派生。今に繋がる「新しさ」の再確認。そして北海道の1年は、彼を彼の「新しさ」に連れ出す旅であったこと。本稿とすれば、ここに至って一先ず『い』音冒頭に辿り着いたことになる。


 3 「北海道体験」

 北方視点 ところで、自身も含めて北海道から個人を見るということ、その視角をたとえば北方視点とでも名付けるとしたなら、筆の勢いも一気に増すことになるが([]45月ブログ)、最初から広角レンズは使えない。それでも北方視点にとって対義語となる南方視点に反転すれば、『い』3として起筆した背景をなしていないでもない。パースペクティブが横たわっているからである。
 人は見込みの範囲内で活動して、かつ直前の見込みを整序して新たな見込を再生産する頭脳の仕組みに付き従っている。安心である。先にあるものの見当がつき想像を組み立てることができるのは。未知を怪しんでもすでに見込の中である。その中に立って未知に備える自分と向き合ってもいられる。でも一々立ち止まって思い巡らせているかと言えば、たいていは惰性で行っている。
 しかし、見込みと直に向きあうこともある。そうすることでしか先の自分を推し量れない場合である。ではその結果はと言えば、往々にして予想は見込みを超えて立ち現れる。異国体験に顕れるケ-スはその典型である。見込みがディテールで出来上がっていたことを思い知らされる体験である。しかもディテールはその一方で全体に直結している。
 啄木の場合、異国とまで言えるかは議論のあるところだが、別のディテールに釘付けになって、それが一点突破の如くパースペクティブに裏返る仕組みのなかに佇んでいた点では同様である。以下の渡道時の一文(「日記」)にそれが先鋭化されている。

  偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思いを天に向かって訴へむとすらむ。檣をかすむる白鷗の悲鳴は絹を裂くが如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。
  山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠りの如く、死の如し。しかも海動けり、常に動けり。これ不断の覚醒なり。不朽の自由なり。
  海を見よ、一切の人間よ、皆来って此海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民なり。今来って此海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力なり。
  噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。
  我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。
                          (明治4555日)
 郷里渋民村を去って(しかも「石をもて追わるるごとく/ふるさとを出でしかなしみ/消ゆる時なし」(『一握の砂』「煙・二」)の思いを一身に抱いて)、妹光子を伴って津軽海峡を函館に向かう客船(陸奥丸)の未だ朝早い5時の甲板上において、波立つ海峡の海原に臨んだ際の心(魂)の咆哮である。それ以前2度にわたって渡道経験を有していながらも同じ海に向かって劫初の叫びにも似た念を抱けるのは、過去の2度(①明治37928日~1019日(青森~函館~小樽)、②明治3921619日(青森~函館))とは違って、それが(3度目が)「移住」だったからにほかならない。しかも時間的転回においても3度の渡道は1年と約24ヶ月を周期としており、「それはまるで北海道に向かうことを、啄木が運命づけられていたかのようである」と、「時の因縁」のなかに再定位することで、3度目の渡道の運命性が殊さらに強調されるほどである(遊座昭吾『石川啄木の世界』八重岳書房、1987年)。

 小盆地宇宙観 東北地方に限らないが、日本人論を語る中に民俗学的コスモロジーの一つである「小盆地宇宙」観がある。啄木が幼少年期を過ごした渋民村の盆地景観もその例に洩れない。日本人型故郷の源郷の一つともいうべき遠野村も同じ岩手である。上掲『日記』を引いて啄木研究者はこう続ける。「ふるさとの渋民は、じっと動かぬ北上山地と奥羽山脈に迫られた小盆地であった。そしてその両山系の中間を走る北上川の流れは、両側の山々をいっそう動かぬものに感じさせた。岩手山や姫神山という両側の山々を常に眺めて育った啄木には、いまこの世のはじめから瞬時も休まずに波浪を上げる海原を見ることは驚異であった」(遊佐昭吾・同上書)。
 小盆地宇宙観から後退(撤退)する。それまで体質ともなっていた感性と離別する。人の体験の中で内面を更新させる機会としては非日常の部類に入るが、被災とか戦禍の体験が異常体験だとすれば、非日常体験といっても日常とは隣り合わせの関係にある。しかしその分、日常との間に横たわる溝は大河のように大きくまた湖のように深い。その溝のこちら側に立ってしまった者には、寸前まで止まっていた対岸の日々も空しく遠ざかっていく。
 津軽海峡は、本州島との動植物の分布境界線(ブラキストン線)であるとともに心のそれでもある。実はその後の漂泊を思うと、海峡体験はその始まりにしかすぎない。しかし、その時は海峡の今が全てであった。船体に打ち寄せる波浪の砕け散る音は、「移住者」の心の昂ぶりを煽るに充分なシチュエーションであった。「噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。/我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ」の個体を圧するにおいて――。

 内部体験 しかし「北海道体験」はさらにその個体に深く浸透していく。渡道後の新たな日々が充溢していたこともそれに拍車をかける。函館の日々である。幕末開国の異国情緒。大森浜海岸の誘惑的海景。かつてのロマンチシズムを洗い流す磯の白波。あるいは瞼の裏に浮かび上がる故郷の山々や村里の佇まいに連なる生へのノスタルジアを侵食する立待岬の荒波。いずれも彼を救うはずであった詩心の核心部分である。それが今や海峡から先の他所での出来事でしかなくなっていく。
 それから約3か月後の札幌、2週間後の小樽、約4か月後の釧路。それぞれの風土。移動に際しての車窓の景色。北海道の1年は、時間的には彼の27年の生涯の27分の1でしかなくても、彼の生まれ変わりの1年であったことで、ある意味彼の全てであった。それぞれの土地での経験は、彼の人生を後戻りできない方向に体質硬化させていった。その所為もあって時に気分は彼を邪に導いた。後年の回想ながら最後の土地釧路での一場面を彼はこう述懐する。

  会々(たまたま)以前私の書いた詩を読んだという人に逢って昔の話をされると、嘗一緒に放蕩をした友達に昔の女の話をされると同じ種類の不快な感じが起つた。生 味ひは、それだけ私を変化させた。「――新体詩人です。」と言つて、私を釧路に伴(つ)れて行つた温厚な老政治家が、或人に私を紹介した。私は其時程烈しく、人の好意から侮蔑を感じた事はなかつた。
             (「食(くら)ふべき詩」(部分)明治4211月)
 なるほど一般的に言われるように彼の「覚醒」(詩人への自己否定)は、渡道によっても次ぎから次へと職を求めて彷徨い続けなければならなかった(敗北的な)漂泊生活によってもたらされたものかもしれない。しかし決定的だったのは、その敗北が北海道の地を舞台にしていたことであった。なぜなら舞台が体験(敗北)を上回っていたからであった。内地の人間には経験したことがない体験――見込み論を再燃させれば最初から見込みを凌駕する体験――だった。それが北海道で自然を体験するということだった。
 それは過酷である一方で内地とは異なる人の地でもあった。たとえば札幌に対する「札幌は詩人の住む地なり」(明治40915日 日記)と言わしむる「賛歌」。また小樽に対しても「歌をうたうことのなき街よ」と回想歌中では否定的な構えを取りながらも、移り住んだ当初の感想のなかでは、北海道に渡って「初めて真に新開地的な、真に植民地的精神の溢るゝ男らしい活動を見た。男らしい活動が風を起こす。その風が即ち自由の空気である」とやはり「賛歌」を献じている。函館にかんしては繰り返すまでもない、「死ぬ時は函館で死ぬ」(宮崎郁雨宛手紙)とあるとおりである。

「北海道時代」の意味 たとえば或る土地が、人(の心)を変えるためには一方に偏っているようではだめだったのであろう。たとえば肯定と否定。たとえば受容と拒否。さもなければ期待と落胆。二項対立のままに到達する地点。人の心に触れる瞬間。
 それでも啄木の「北海道時代」が、両極端に裂かれていたわけでも一方に偏っていたわけでもない。たとえば期待と落胆から見た釧路行。渡道直後のように期待に胸を膨らませていたわけでないにせよ落胆ばかりを抱えこんでいたわけではない。それでもある一人の画家を思い浮かべると、期待と落胆の再定立による啄木理解が進まないでもない。ゴーギャンである。南国(タヒチ)に対する画家の期待と落胆。その先の孤独と困窮。しかるに芸術における生命再生の日々とその永遠との交流。
しかしゴーギャンを引き合いに出すのは、いくら両者が「北」と「南」という二項対立を孕んでいたとしても、あまりに用意がなさすぎることである。かえって啄木像の再整合の上で混乱を招きかねない。それにもかかわらずこの二項対立に囚われるのは、別に「受容」と「拒否」を引き合いに出した時、それが北海道にしかない二項対立でしかも北海道に普遍的に見出されるからである。自然である。「受容」と「拒否」に極まる大自然と言い換えられる北海道の自然である。それを再び啄木に求めれば、釧路行車窓と現地釧路体験に拾うことができる。
先ずは前者車窓から一くだりを引く。

  程なくして枯林の中から旭日が赤々と上った。空知川の岸に添うて上がる。此処が謂最も北海道的な所だ。石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき大景である。汽車は逶迤たる路を下って、午後三時半帯広町を通過、九時半此釧路に着。
                     (明治41年一月二十一日 日記)
 これを「受容」とすれば、次は「拒否」。釧路の町の厳寒と風雪の様を回想した再上京後の一文からのくだりである。

  釧路は寒い処であつた。然り、唯寒い処であつた。時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえ大方姿を隠した北海道を西から東に横断して、著いて見ると、華氏零下二十―三十度という空気も凍たやうな朝が毎日続いた。凍つた天、凍つた土。一夜の暴風雪に家々の軒の全く塞がった様も見た。広く寒い港内には何処からともなく流氷が集まって来て、何日も何日も、船も動かず波も立たぬ日があった。私は生れた初めて酒を飲んだ。
                     (「食ふべき詩」(部分)前出)
すでに贅言を要しない。内地への思い(故郷への郷愁や東京新詩社への思慕)はあるいはその思い故に突き返された挫折も含めて、凍てつく道東のさいはての地では何らの意味をなさない。「北海道時代」のなかではその手腕を最も期待された仕事先であって、その釧路新聞社首の期待に応える気概を見せながらも、上辺を繕っていただけなのにすぐ気がつく。心は出だしから醒め切っていたのであった。
日を重ねるに従い彼の心を占めていたのは、自分を高みから見下ろしている自分であった。自分への再始動であった。そして前触れもなしに退社し、海路にて再び東京を目指すことになる。唐突なる渡道切り上げであった。しかし上京した啄木は、「帰って来た私は以前の私でなかった」(同上)と自らをして言わしめている。それは単に詩人(「新体詩人」を含むロマンチスト)であることが厭われるような個別具体的な事象に向けた言ではなかった。体質であり生理でもある自己そのものに向けられた内部告発だった。とうの昔に渡道以前の自分ではなくなっていた。たまたま同じ顔をしているだけだった。


4 『悲しき玩具』~早すぎた自己表出~

人生のドラマ 第二詩集『悲しき玩具』は、そういう意味で自己変革した啄木が下した最後の結論だった。同歌集が刊行されたのは、没後2ヶ月後の明治456月のこと。出版決定(契約)は生前の内であるが、それも死を前にしたわずか45日前のこと。生活資金が底をつき立ち行かなくなったため。しかも病床にあった啄木に代わって、出版社(東雲堂)と掛け合ってくれたのも友人の土岐哀果であって、慌ただしい契約もその折衝のお陰であった。土岐哀果は『悲しき玩具』の巻末でその経緯に触れて、東雲堂から支払われた稿料を手にした時のことをこう述べている。「うけとった金を懐にして電車に乗つてゐた時の心持は、今だに忘れられない。一生忘れられないだらうと思う」と。そして稿料を渡した時の啄木について、「石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光からせて、いくたびもうなづいた」と記す。さらに啄木からの“決意表明„を紹介する。「それで、原稿はすぐにわたさなくてもいいのだらうな、訂(なお)さなくちやならないところもある、癒つたらおれが整理する」と。最期を迎えなければならない45日前の決意表明である。
人の生涯にドラマがあるとすれば、まさしく啄木にこそ相応しいストリーであり、その結末である。このように20歳以降、人生の最後の最後に至るまで生活の困窮に苦しめられなければならなかった一人の歌人(詩人)が、最後の1年余にまとめた歌集が『悲しき玩具』である。当然のことながらさらに長く生きてしかるべき年齢であって、ここに彼の結論といっても道半ばにて斃れた者のそれでしかないが、仮にこの先長く彼に命が授けられていたとしても、一つの結論であるその位置は変わらない。その結論なしには次の展開は想定しえないからである。
そして、その結論とは「早すぎた自己表出」であった。 

歌集採歌 『悲しき玩具』収載歌(第一歌集同様の三行書き形式)約200首のなかから思いつくままにいくつかの歌を引く(番号は便宜上)。

 ①旅を思う夫の心!/叱り、泣く、妻子の心!/朝の食卓!
 ②何となく、/今朝は少しわが心明るきごとし。/手の爪を切る。
 ③途中にて乗換えの電車なくなりしに/泣かうかと思いき。/雨も降りてゐき。
 ④考えれば、/ほんとうに欲しいと思うこと有るようで無し。/煙管をみがく。
 ⑤汚れたる手を洗いし時の/かすかなる満足が/今日の満足なりき。
 ⑥ぢつとして、/蜜柑のつゆに染まりたる爪を見つむる/心もとなさ!
 ⑦思うこと盗みきかるる如くにて、/つと胸を引きぬ――/聴診器より。
 ⑧かなしくも、/ 病いゆるを願わざる心我に在り。/何の心ぞ。
 ⑨庭の外を犬ゆけり。/ ふりむきて、/ 犬を飼はむと妻にはかれる。

 作品分析 歌集を通じて言えることは意識的に感情を抑え込んでいること。その感情とは我であると知ってのこと。その「我」から一歩も二歩も退いていること。ところでこの「我」とは、『一握の砂』の「我を愛する歌」(第1章)の『我』からすれば、平易な表記の似合う「わたし」の程度であるが、籠められた思念はその「わたし」に対して禁欲的である。また「一歩も二歩も退いている」とは無理のない程度に距離をとりたいとする諦観的な心の内に発意するものであるが、やはり非妥協的である。
『悲しき玩具』の表題は啄木によるものではく、土岐哀果が東雲堂の願いを容れて生前朝日新聞に発表した歌論(「歌のいろいろ」明治4312月)から採ったものである。「歌は私の悲しい玩具である」――それにしては頗る禁欲的でかつ非妥協的であったわけである。
 ①は、一行の詩行の成り立ち方が目を引いたものである。相殺関係にしかない体言止と感嘆符の用法は、そのために場面停止に効果的である。感情を閉じ込めているからである。こと表記法に限れば時代を先取りしていると見るべきである。『詩と詩論』(1928(昭和3)~1933(昭和8))に見出される詩行である。②は、④とともに短編小説的であるため。しかも家庭内小説でありながら一場面の情感には膨らみがあるからである。戦後小説的である。⑨の「妻」に対する事ありげな振り向き方は、読み方によっては小島信夫の『抱擁家族』(1965(昭和40))と引き合うような一瞬を閉じ籠めている。
③は、児戯に類する泣きごとがしっかりと主題化されているため。歌詞にした場合いかなるメロディーがこの3行詩に付けられるかは不明ながら、「傘がない」(井上揚水、1972(昭和47))を連想するのはいささかジャンプしすぎか。たしかに言われれば声高に泣いているわけではないが。⑤は、虚無を下敷きにしているのが時代先行的であるため。⑥は、抒情的ながらその感性はやはりニヒリスチックである。主題に関する限り梶井基次郎の『檸檬』(1925(大正14))を思わせなくない。深読みか。⑦は、たとえば「聴診器」と題すれば、一篇の内省的な心理小説の書き出しとして通用するため。⑧は、意識の転位が絶妙であるため。そのために『我』(『一握の砂』)に引き戻されそうでいて踏み止まっているからである。その踏み止まりに新しさがあり、さらに可能性を秘めているため。
――以上、「早すぎた自己表出」と副題した所以である。少し性格が違うが、時代を先取りしていた点では一括りとなる「作詠」をさらに一首引いて、最終章への橋渡しとし、手っ取り早く「饒舌」にすぎたこの稿を閉じることとしたい。

  大海の/その片隅につらなれる島島の上に/秋の風の吹く
              (『一握の砂』「手袋を脱ぐ時」中一首)
 このように「島島」として日本列島を外(大海=世界)から捉える逸脱的な視覚と和歌的な「秋の風」が一線を越えて、あらたなパースペクティブ(現代的なグロバール化)を繰り広げている。実際、啄木には渡米計画があった。斡旋依頼の手紙を認めた。それだけでこの歌の解説は成立するようである。



 5 啄木の今~没後100年が語るもの~

「反失語者の文学」 再びパースペクティブが待ち構えている。それとともに啄木の「新しさ」が再掲されようとしている。「二重否定」である。行き場のない自己否定である。しかしそれは、啄木がこの現代日本社会にまで持ち越すことのできる自己表現である。言葉を失うなかに見出される自己とその存在に関わる文学である。
 でも啄木は自分の文学に気付くことはできなかった。『悲しき玩具』の刊行にしろ、自身の薬代を含む生活の資のためでしかなかった。正直、校訂前であることが了解される安易な歌も少なくない。それも自己を他人事のように見つめる視線(脇からの目線)に小気味よさを覚えてしまったためであろう。当たり構わず見廻す目がそれを物語っている。ことばにするのもいとも容易かった。メモのようでさえあった。その先の内的対話(「言葉」)は未だ予定項目に入っていなかった。最初から言葉を失った「ことば」だった。失語者だったのである。しかし確信犯ではなかった。そのためにジレンマが彼を襲う。
 しかしジレンマは、彼に詩を倒置させたような歌(三行歌)を詠ませた。しかもその詩(最短詩)は寡黙のなかに全体を容れなければならない詩形的な制約故に、加えて本人がその創意を「玩具」と笑うが故に、期せずして内面放棄という離れ業をやってのけることになった。
 皮肉な文学である。饒舌を求めて至らず軽んずる寡黙において生に達する。それでもなお饒舌でなければならないとする。驕りなのか。それとも思い違いなのか。いずれでもなかった。言葉が通じないとしたなら、饒舌になるほか現状を説明できかったからである。しかも誰でもない自分自身に対する説明であった。これこそ失語者失語者たる所以であった。しかも饒舌という失語者である。彼が迷い込んだのはいささか妙な言い方かもしれないが、「反失語者の文学」だったのである。





没後100年~越境者~ 啄木が亡くなったのが西暦では1912年。日本文学史は、啄木没後以降、大正・昭和(戦前)・昭和(戦後)・平成と時代を歩み、慌ただしくあらたな文学を切り開いてきた。この100年を見渡すと時代を象徴する個性的な詩人や作家の顔が陸続と浮かび上がってくる。その作品の質や量は啄木を凌いでいる。しかも人々は新たなテーマを前にして啄木を振り返る余裕もない。必要もない。とくに戦後は啄木の社会関係(困窮)を目に見える形で清算してしまったからである。過去でしかないのである。
若者の貧困が叫ばれる現代においても啄木の生活構造は過去でしかない。しかしその文学構造は過去で済まされることを良しとしない。内的契機と手を結ばず内面放棄と一体的になって、その上で一見矛盾するかのような饒舌(文学的饒舌)に没入しているのである。その饒舌をも彼の社会関係の一部に組み入れるとすれば、一個体が経験した分量としては質量ともに時代に超越していたし、偶然だったかもしれないが彼の個体に集中して体現されていたといえる。
遊動生活を条件とした僧侶の家庭に生れたことによる先験的な故郷喪失感(ただし後年)。生誕地の寺院(常光寺)と異なる寺院(宝徳寺)での生育。ただし移籍は啄木の2歳時のこと。したがって生育期の疎外にはならなかったとは言え、結果として村(生育地である渋谷村)を追われた(寺を追われた)ことによる「生地」喪失。男子は啄木(本名は一)のみであった家庭環境であったこと。一家扶養を義務付けられたこと。しかし扶養義務自体はさして珍しくない。問題だったのは予告なし到来だったこと、恵まれた幼少年期との落差が大きすぎたこと。先年の中学退学が人生の債務として大きく圧し掛かり終に債務解消には至らなかったこと。貧困に加え、家庭不和(母親と妻)、妻の家出、自身の疾患、手術、薬代を事欠く中での自宅療養。父親の家出。母親の病気。死亡。
その才能が時にそれを上回る社会関係(故郷喪失・困窮)の中で「失語者」であるだけでは救われず、その内面感を自然主義文学で内済しようと企てる。そして「創作的生活」に没頭して一年。無残な敗北。しかし彼が受け容れたのは敗北ではない。あらたな未知である。自己を保つが故の自己放棄という形を容れ込んだ未知である。
したがって啄木の文学は未知への越境であった。現代がまた一つの定まらない形を容れ込んだ未知であるとすれば、その越境はまだ続けられていることになる。啄木は名実ともに越境者だったのである。没後100年に見る石川啄木像(の一つ)としたい。


付言

北海道には石川啄木を記念する碑や施設が岩手県とともに数多くある。或いは岩手県を凌いでいる。以下はその主な施設。
函館市:「函館市文学館」「石川啄木函館記念館」「函館市立図書館」
小樽市:「市立小樽文学館」
釧路市:「港文館」「石川啄木資料館」
歌碑にいたっては多数。没後100年を機に旭川市(釧路行経由地)でも歌碑建立の計画がある由。渡道者石川啄木に相応しい企画でる。あるいは「アイデンティティ」を共有しているのかもしれない。

2012年6月15日金曜日

[い]2 泉―井の頭公園を経て―

[い]2 泉のことと言えばずいぶん昔のことになってしまう。はじめて会ったのは泉が高校を1年の途中で退学した年、たしか1980年頃のことだったと思う。あれからもう30年以上も経つ。泉ももうすぐ50歳になる。
 あの屋敷はどうなったのだろうか。まだ残っているのだろうか。彼女が屋敷に移って引越し祝いに招待されて以来、その後もたびたび誘いを受けながらも、忙しさに紛れて足を向けられずにいて、結局、そうこうする内に泉は遠く旅立ってしまった。彼女が17歳の時のことである。

 ところで泉の高校退学のことだが、1年の途中でというとなにか勝手な理由をつけられかねないが、特別な事情が絡んでいたわけではない。理由らしい理由はなかった。そう言ってしまうと、いい加減な子であったように思われてしまう。傍目にはそう映っていたかもしれないが、実にあっさりとした、しかし不思議に現実味のある理由を聞かされると、彼女に対する人物評(少女評)は通り一遍にはいかず、それなりの判断を下すには、一歩も二歩も引き下がって、じっくり観察してからでなければならなくなる。立ち入ったことを訊くことも必要になる。でも世間体を重んずる手合いには、バカげているの一言でけりのつく理由だったし、そうでなくても数多多数の一人でしかない少女の評価になんか最初から関心を示さない。
 泉が通っていた学校は、某私鉄の駅から45キロ離れた丘の上にあった。その高校に彼女はほとんど毎回タクシーで乗り付けた。入学直後からだった。遅刻だった。スクール・バスは出てしまい、歩くには遠すぎた。
「もったいなくて」
 そう言った。退学理由だった。単純明快だった。「実にあっさりとした」のこれが内訳であり、すべてだった。
 当然、訊いた。
「中退(や)める方がもっともったいなかったのでは?」と。
 まったくそのとおりという他人事のような顔に、それ以上繋げる言葉は浮かばなかった。いっしょになって笑うしかなかった。

 泉は、いつも母親に振り回されていた。母親は、自分の恋人の話を娘に聞かせた。というより相談していた。若い恋人だった。フラれてしまうのではないかと、自分と恋人との歳の差を気にかけては、不安でたまらないと言った。苦しい胸の内を構わずに曝け出しては、娘の前で涙を浮かべる。大丈夫よ、ママ、とっても素敵だから。娘にそう言ってもらいたかったのだ。言ってもらえば安心した。安定剤だった。もちろん甘え以外のないものでもなかった。子供依存だった。その繰り返しだった。依存症の域だった。しかし娘は、そのたびに見事に母親の甘えに応えてみせた。
 泉の友達が言っていた。どっちが母親か分からない、って。
「でもそうしないとママ薬飲んじゃうから――」
 小学生の高学年までにはもう立派な相談役になっていた。彼女の中には暗さというものがなかった。欠落していた。先天的だった。代わりにとり付いていたのは、天真爛漫なほどのあどけなさだった。愛くるしいほどだった。大きな目を瞬かせ、口許を大きく横に引いて頰を膨らませながら顔全体で微笑んで見せた。
 母と娘二人きりの生活だった。父親は知らなかった。結婚していなかったようだ。経済的にも大変だったはずだ。だからタクシー代はたしかに大問題だった。もちろん、遅刻しなければなんの問題もない。それも実に明快なことだった。しかも簡単なことだった。
 でも遅刻してしまう。たまたま遅刻しなかった時、クラスの生徒たちだけではなく、先生からまで驚らかれてしまい、マズイと思った、そう聞かせてくれた。
 不良であるわけでも、カッコつけてるわけでもなかった。ただ始業時間に行けない、朝起きられない、それだけだった。別に酷い低血圧でもなかった。
 なるほどバイトは毎日している。でも夜8時前には家に戻る。内職したこともある。でも高校に入ってからはしていない。母親も昼の仕事だった。泉がバイトから帰ると、「お帰り」と言って夕食を揃えて待っている。それでも母親の帰りを夜遅くまで待たなければならないこともある。でも年中というわけではない。それに母親の恋愛は流行り風邪みたいなものだった。年がら年中重症になっていたわけではない。それでも重篤になると、結構面倒臭くなる。朝方まで見守ることもある。お酒を与えないためにだった。かわりに添い寝することもあった。でも今に始まったことではない。
 そういう意味でも遅刻に彼女の家庭的な問題は関与していない。たとえ恵まれた環境に育っていたとしても、彼女はおそらく遅刻した。それがお似合いだったからだ。遅刻しない彼女は、彼女らしくさえなかった。
 でも遅刻しようがしまいがどうでもいいことである。それに、なによ偉そうに、と顰蹙を買いかねない。たしかに取り立てて論うほどのことではないかもしれない、実に些細な詰まらないことである。抗うつもりもない。
 でも確実に不利益に繋がることである。とくに遅刻から退学を選択するのは。それに簡単な自己調整で済むことである。しかも教室の空気などという、言ってみれば一過性なことに拘ってまで不利益になることをしない、それが常識というものであるし、社会通念である。そうだからこ実は些細なことではなかった。たまたまそれが「遅刻」という形で現れていた、そういう〝存在形態〟を採っていた、しかも実にお似合いの姿で。そういうことだった。でも大事なのは、それが似合っていたことである。似合いの姿には真実がある、そういう言い方も可能だからである。そうではなく、それが真実だったからである。

 ※
 その屋敷は井の頭公園の近くにあった。昔と違って公園はずいぶん整備されていた。平日だったのに池にはボートが何艘も浮かんでいた。池の真ん中に漕ぎ出して、細長い池の畔に並んだ、新緑の枝を水面側に傾けた木々の緑を眺め渡し、その眺めを占有していた。その一方では、奇声に近い若い男女の解き放たれた甲高い笑い声がボートを揺らしていた。しかし、男女の傍らをすり抜けて行くボートのオールは、女性の顔面を数滴の水しぶきで濡らそうと、したたかに間合いを詰めて頃合いを見計らっている。
 そして実行に及ぶや、してやったりと、目的を遂げた若い男の一人乗りのボートは、素知らぬ顔で悠然とその場を離れて行く。しかし、飛沫のかかった(かけられた)頰をハンカチで拭う仕草も、ボートの二人の楽しみを膨らませることはあっても怒りを誘発することはない。
 ボートから離れて水鳥たちが水面を滑っていた。我関せずで浮かんでいるだけの鳥たちもいる。
 池の畔の遊歩道をさらに進むと、小さな子供がボート(白鳥型の足漕ぎボート)に乗りたいと母親にせがんでいるところだった。
 ――こんどパパとね。
 ――うそつき! パパはお出かけばっかり!
 駄々を捏ねる子供に、ママをこまらせてはだめよという初老の夫婦が傍らを通り過ぎて行く。池の周りを何周するのだろう。日課にしているような足取りである。顔見知りなのかもしれない。母親から笑みがこぼれている。
 池沿いの遊歩道を逸れて公園を横断する。池に沿っては長いが意外と幅が狭い公園である。出るとすぐに住宅街の小奇麗な家々が建ち並んでいる。少し入ると静かけさも広がっている。
 もう住んでいないかもしれない。屋敷も取り払われて跡形もなくなっているかもしれない。普通なら30年程度で家が絶えることはない。むしろ続いている。十分一世代の範囲内である。それを30年に拘るのは、屋敷の主たちに子供がいなかったからだ。一人娘を小学生4年生の時に病気で亡くしていたのだ。
 当時の記憶のなかで歩き回っていたからかもしれない。建て替えられて真新しくなった家々の並びは、建て替えられていない家を残していても記憶を甦らせようとはしない。葉書をもう一度確かめる。住所に間違いはない。昔、夫人からもらった葉書だった。
 それにしても別な場所をさ迷っているようだった。まだ30年というべきか、それとももう30年と言い直すべきか、自分の30年がほとんどなにも変わっていないことが、急に責められなければならないように思えてしまう。でも年だけは確実にとる。夫妻ももう相当の年齢に達しているはずだ。
 亡くなった女の子は、夫妻の遅い時の子だった。二人の悲しみはその分深かったはずだ。子供を亡くした時の年齢は、男主人が50代中頃、女主人が40代後半だった。だから80歳中頃と70代後半になっている。男主人はすでに他界しているかもしれない、あるいは二人とも亡くなってしまっているかもしれない。夫人の悲しみは、すでにその時彼女の命を奪い去っていてもおかしくない程だったからだ。
 葉書の住所を頼りにようやく目的地にたどり着く。その屋敷の前に立ったとき、まるでそこだけ時間が止まっているように昔のままだった。定期的に塗り替えられてはいただろうが、当時のように門扉には錆がすこし浮かんでいた。アプローチの石畳の佇まいも時間を止めたように昔のままの雰囲気を留めていた。玄関先まで延びる両側の植え込みの刈り込みの高さもも昔のままだった。枝先を屋根際近くにまで伸ばしていた屋敷周りの樹々も、たしかに見覚えのある枝振りだった。男主人は離れをアトリエに使っていたが、目に入ってきた佇まいは、記憶の中に浮かぶ姿そのものだった。ただ最近塗り替えたのだろうか、ガラス窓の回り縁だけが、幾分くすんだ板壁の中でコントラストを際立させていた。
 でも表札は違っていた。取りけられている場所が同じだったのが、表示している名前の違いを際出させていた。やはりそうだったのか。

 ※
 母親の再婚を機に泉は母親から離れて暮らすことになった。大丈夫なの? と母親は娘を心配した。しかし気付いていなかっただけで、母親が本当に心配だったのは、娘に出て行かれる自分の方だった。娘は母親の心をしっかり見抜いていた。でも口にはしなかった。ええ大丈夫よ、心配しないでと言って、母親の新しい生活を祝福した。
 事前に話を聞かされていた私は、この屋敷のことを泉に話した。泉を一人にさせたくなかったからだ。事前準備もなしにいきなり自由な生活に移行するには母親との二人切りの生活は長すぎた。反動が心配だったのだ。母親の(心の)世話は、次の日になったらなかったことにしよう、というわけにはいかない。泉はまだ自由に慣れていないのだ。退院した患者が、外の明るさにしばしば目眩みを覚えるように、外の生活に慣れるには時間がかかる。
 それにこの屋敷の主たちのこともあった。一人娘を亡くした夫妻の悲しみの深さが思い遣られたからだ。私はこの家の男主人とは以前からの知り合いだった。お節介を承知で泉のことを持ち出した。そうせずにはいられなかった。
 それと言うのも、夫人の日頃の孤独を知っていて、男主人とだけ付き合いを続けてきたことが、ここに来て一気に負い目に転じていたからだった。夫以上の悲しみを背負っているに違いないその心が、相変わらず夫からの助けを拒み続けている姿と重なる時――夫妻の仲は前々からけして上手くいっていなかった――相変わらず夫の側に回って、夫人を冷ややかに見ている自分に罪深いものを覚えたからだった。それが贖罪のように私を突き上げていた。
 まだ17歳という若さでありながら、およそ考えつくすべての悲しみや苦しみから無理なく遠ざかっていられる一人の子。心の中に仕舞いこんだ思いを封印して誰にも、おそらく自分にも見せないでいられる子。輝きの顔。私にはすでに見えていた。夫妻の驚きの顔、とくに夫人の驚き振りとその時浮かべてくれるに違いない表情が。その驚きの表情に驚かされる心の内が。
 でも家内が何と言うか、そう言って男主人は逡巡した。じゃ僕から話しましょうか、私の申し出に男主人は、うすら笑いを浮かべながら軽く首を振ってみせた。

 泉は約半年間をその屋敷で過ごした。夫人は予想していたように、夫人は泉に驚いた。なんといっても自分の育った境遇をまるで意に介していなかった。生活の苦労も他人事でしかなかった。男親がいないことも、悲しくもなければ負い目でもなんでもなかった。もし哀しいことがあるとすれば、母親が苦しんでいることだけだった。悲しんでいる母親と一つになれないことだった。母親を愛し続けられる泉の心の仕組に、夫人は胸の締め付けられる思いを味わった。しかも話が自分一人のことになると、悲しんだり苦しんだりしないのだ、泉は。そんな手間暇かけてまで大切だと思っていない、自分のことを。
 だからだったにちがいない。男友達はたくさんいても恋人がいない。もちろんまだ17歳だ。恋愛を知らないだけだ。そうかもしれない。でもなにかが違っている。恋愛感情に支えらたいように見えないのだ。気持が動かされていなければ動いてもいない。それ以前の問題として動かされる自分がない。自分と生きていない。
 次第に泉を見ているのが辛くなる。可哀想になる。「自分」が育っていないからだ。自分を大切にする気持ちがすっぽりと彼女の体のなかから抜け落ちていた。それは夫人が泉を見るときの哀しみの底にあるものでもあった。彼女に接するときの源だった。しかし泉本人とは源を共有することができない。やはりそこでも「自分」がなかった。哀しみは夫人の側だけで抱え込むしかなかった。
 その時はそんなつもりではなかったと、夫人は後で打ち明けてくれたが、夫人は知り合いのアメリカ人の家庭に泉を連れて行くようになった。なにかのはじまりを予感していたにちがいない。わずかの時間で泉のことを夫人は理解していたのだ。哀しみの力でもあった。
 その家庭では日本語は通用しなかった。でも泉は英語ができないことに引け目を感じないで済んだ。笑顔の挨拶だけですぐに受け入れられたからだ。それにいま居候中だと夫人を介して話したら、学校は? と聞かれ、遅刻で退学(自主退学)したという話を持ち出すと、それがアメリカ人の夫妻に大いに受け、話は泉のことでさらに盛り上ることになったからだった。
 ナラ米国デ勉強シナサイ、米国デハスベテ自己責任デアル、遅刻モ権利デアル――そう諭すように語られる。途中からは真剣に勧められる。夫人の予感は的中した。その後、確実に泉のなかにアメリカという異国が像を結ぶようになったからだ。なにかが急速に育っていった。しかも育つのを待てなかった。旅立の方が先に決意されていた。
「言葉少し習ってからの方がよくない?」
 夫人の心配に笑顔で応じた泉の瞳には、渡航先での語学学校とアルバイトの生活とに心を躍らせる自分しか映っていなかった。
「送らないでください」
 その日も、そう言って泉は庭先に夫人を押し止めて、門扉を開けて一人で外へ出た。まるで近くに使いに行く感じだった。門扉の外から軽く手を振った。3年後の再会を約して屋敷を後にした。

 ※
 躊躇いながら押したチャイムで玄関先に姿を現したのは中年の女性だった。一瞬、泉をそこに見たかのような錯覚に囚われたが、現れたのは夫妻の養女だった。後で自分は夫人の従姉妹の子だと教えられた。
 夫妻は亡くなっていた。幸せな晩年だったという。
 婦人は泉のことも知っていた。会ったこともあるという。でももう20数年も前のことだという。
 最初に泉を見た時、彼女は、泉のことを帰国子女と思ったと言った。流暢な英語で雰囲気も日本離れしていたからだった。芸能関係の事務所を立ち上げる計画を夫妻に聞かせていたと言った。そして、一年中、アメリカと日本とを往き来する生活を送っていたと言った。モデルがこの屋敷を出入りすることもあったと言う。軌道に乗るまでと、夫妻がこの屋敷に仮事務所を置くよう提案したらしい。部屋は泉が離れた時の3年前のままになっていたようだ。
 でも都内に事務所を構えてから後のことはよく知らないと言われた。それでも夫妻が亡くなるまでは、手紙(アメリカやヨーロッパからの手紙を含めて)がよく来ていたし、定期的に都内のどこかで食事を共にすることもあったらしい。夫人は泉に連れられてアメリカを回ったこともあったという。でも泉がこの屋敷に現れることはなくなった。相当多忙だったらしい。
 義父が亡くなり、後を追うようにして義母が亡くなってしまった後は、葬儀で顔を合わせたのが最後になったらしい。その後の消息は知らないと言った。
「お調べしてみましょうか。泉さんからのお手紙は一緒に棺に納めてしまいましたが、お香典帳を調べれば住所が分かると思います。まだ同じ住所にいらっしゃればですが」
「いやいいんです。それよりか昔のままですね、このお屋敷は」
「ハハは建て替えなさいと言っていました。もっと小さな家にしなさいとも。でも家がなくなってしまったらお可哀想です。私は会ったことはないのですが、私と同い歳だったはずです。口には出しませんでしたが、ハハは心の中でずっと亡くなったお子さんと一緒に暮らしていたのではないかと思います。でも悲しみから解かれていたことは確かです。わずか半年だったと聞いていますが、泉さんがここに居た日々はかけがいのないものだったにちがいありません。泉さんの話をする時のハハは、まるで自分のことのようにそれもすこし興奮気味に喋っていましたから」
 養女である立場に拘りを見せるような女性ではなかった。詰らないプライドにも縛られていなかった。
 もし泉さんと連絡がとれるようなことがあったなら、お尋ねになられたことをお伝えしておきます、女性からそう言われ、またそんなつもりで言ってくれているのではないと分かりつつも、心の中を見透かされてしまったような気恥ずかしい思いを一人勝手に抱いて、女性に見送られながら屋敷を後にした。

 ※
 陽が傾いた井の頭公園には、子供連れの親子の姿の替わりに、ベンチや土留の縁石に腰掛けた若い男女や女性連れの姿が増えていた。ボートの時間も終了したようだった。水面を打つ噴水の音に辺りの静寂が深まっていた。影の延びた池の畔で羽を休めているのか、水鳥の姿も見えなくなっていた。
 泉のことを知りたくなったのは、おそらく自分が歳をとったからだろう。17歳の少女の思い出に触れる。そうすることでいい年をして時間の止まった生活をしている今の自分に弁解を見出すために。そのためにわざわざ出かけて行く。気恥ずかしいことだ。
 それに泉ももう50歳を迎えようとしているのだ。互いの歳を確かめ合うことになるのだ。それとも17歳の少女に出会えるつもりだったのだろうか。泉――君は永遠だとも口にする気だったのか。そうだったに違いない……。

  ――「なにかにこにこしているわね。(この人)いいことでもあったのかしら……」(ベンチ上の子秋*)

 *[あ]1、2(2012年5月)、[い](同年6月)参照