2012年6月7日木曜日

[い] フライ(逆行)

[い] 月が改まる。木々の緑はさらに濃くなる。梢は緑の陰で重たくなる。空が幾分覗ける隙間がまだ残っている。梅雨の前に続く先月来の気温の高い日。時には荒れた日(先月)。毎年のこと。でも今年はひどかった。ここにきて少し落ち着いた所為もあり、梢を軽く揺らしながら吹き抜けていく6月初旬の風が頰に心地良い。木陰の下の微風。暑さと違ってその時季が到来するたびに新鮮に感じられる新しい月の風。6月の風。その風を受けながら考える『い』で始まるもの。

「何かが始まるってそれだけで意味(『い』音)あることなのね」(顕子)
「毎日だって何かが始まるってことなら一日(『い』音)ごとに違うはず。でも人はそうは思わない、同じことの繰り返しだと思っている」(子秋)
「そして、同じことの繰り返し、そうやって過ぎて行くことを私たちは日常と呼ぶ(「行く」が『い』音)。もしそうでなければ(そうやって過ぎて行かなければ)、日常はたちまち立ち往生。それでは非日常。ツネノヒニアラズ――になってしまう」(顕子)
「アラズ――か」 
  そう子秋が最後の「アラズ」だけを溜息つくように復唱すると、その口調が『嗚呼』を思い出させたのか、二人は顔を見合いながら照れ笑いをつくって「今のはなし」(「今」が『い』音)と無言で囁き合う。
  枝から枝へと木々のなかを小鳥たちが勢いよく飛び移る。二人の頭上で交わされる鳴き声。曇りのない生き生きとした張りのある囀り。
  前触れもなく一羽が二人の前に舞い下りてくる。わずか数メートル先。体から半径1m以内の範囲を探るかのように細長い体を二三度左右の方(かた)に振って、自信を得て地面を細い灰褐色の嘴で突つきはじめる。針金のような後肢二本で小刻みに動き回って尾の先でバランスをとる。知らず二人の側に上体が向く。距離を縮めるか逡巡している。
  二人の「おいで」という無言の誘い声が鳥の上体を起こす。「(もっと近くに)おいで」という再びの誘い声。瞬時に体を逸らせて公園の中空(なかぞら)に向かって一気に飛び上がる。軽く跳躍しただけの小さな個体が、力強い羽ばたきで推進力の塊となって中空の高みを捉え、体勢を入れ替えて横向きに空中を滑って行く。
「鳥たちはアラズにアラズか」
「そうよ、アラズにアラズよ」

語義談:「アラズ」(以下「あらず」)。
「あらず」の同義としては「なし」。「なし」の語義。以下に引くのは「哲学的」な本義を顕かにしたもの。

 なし[無・亡]
  形容詞。「あり」の対義語であるが、「あり」に対しては古くは「あらず」ということも多かった。「あり」は「生()る」と関係があり、「なし」はそれに対して形容詞の形をとり、静止的な状態にあることをいう。「生()る」「在()る」ことの欠如態とみてよく、それでまた「あらず」という。(以下略)(()原文はルビ、傍線引用者)
                                                     ――白川 静『字訓』

  次は「あらず」に充てられた漢字である「非」。ただし以下に見るのは「ヒ」と発音する音読上の字義として。なお、「あらず」(訓読した時の義=「訓義」)ではなく「ヒ」(音読したときの義=「字義」)で見るのは、和訓(あらず)の義(語義)との差異あるいは異同を確認するため。

【非】
 解字(冒頭部略)飛ぶ鳥の羽が左右にそむきあっているさまを示す。そむく意をとって、否定の意をあらわした。(傍線引用者)     
                         ――『角川漢和中辞典』

 以上の訓・音読上の両義をもとにした場合の「アラズにアラズ」の意味(再解釈)。「訓義」から採りたいのは、傍線部の「静止的な状態にあること」と「『生る』『在る』ことの欠如態」の2点。すなわち、「(鳥が)アラズにアラズ」とは、静止状態にないこと、つまり活動状態にあること、まさに鳥が鳥たる状態であること。対照的に枝上にある場合の鳥。餌を狙っている姿態ではなく、羽を休めるためにとどまっている姿は、逆に「『生る』『在る』ことの欠如態」を体現することになる。たしかにその時の鳥の姿はか弱く見える。
 しかしその一方で「字義」から「そむく意」を知らされると、枝上に休止する姿さえ違って見えてくる。たちまちに柔らかな羽毛のなかに潜む身体性の秘密を目の当たりにすることになるからである。この身体に抱える込まれる二律背反的なもの、そして背反的なものと一体的にある力学構造。内部構造から生みだされる推進力(飛翔力)。一瞬にして枝上から飛び立てる瞬発力の秘密。すなわち鳥は、「アラズ」だけで「生り」かつ「在る」に至る。これこそが鳥の本来的な姿、「訓義」に隠れた「字義」のなかの姿であった。「非」の字義の先ではそう説かれている。
 そこでこの「非」(ヒ)を以て表される「あらず」。隠された字義から再解釈される「非日常」。つまりは「非日常」とは単に日常でないだけではなく、「日常」に背くことであったこと。生きることは「背く」であったこと。
 でもここで諭されたように(鳥に学んだように)当初から「背く」ことが常態であってそれとして生きること(自己のなかの「そむく意」=「背き」を生きること)が個体の自然な姿であるとしたなら、「日常」の方こそ実は不自然となる。その上で「訓義」を以って穏やかに再考すれば、かえって「日常」こそが「『生る』『在る』ことの欠如態」であり、「静止的な状態にあること」であり、しかも単なる静止状態ではなく「あらず」を内装したそれであることになる。
     ※
 再び地上に舞い下りてきて同じ地面を突きはじめる鳥。後を追うように舞い下りてくる別の一羽。最初に飛びたったラインを跨いで二人の側に向かってその距離を縮めようとしている。都会のただ中。鳥と人との間。公園の中で測り合う距離。あるいは都会のなかの距離より近いもの。自由との距離(であるかもしれない)。
 「そむく意」のこちら側と向こう側――など意に介することもなく繰り変えされていく日々。今日を明日に繋ぐためには「そむく意」をゴミ箱に叩きこんで身軽になるに限る。でも無意識に「そむく意」を分かち合っている間柄であって、その時に備えている二人であることに次第に自覚的になっていく。
 やがて芽生えることになるかもしれない「アラズ」。一度芽生えてしまえば「アラズ」から「ヒ」へ。飛翔へ――「フライ」へと駆け上っていく彼女たちの中の「日常」。

 そこで「フライ」。語尾に回ってしまう『イ』ながら、ひとまず『フライ』に『い』音を求めておくとする。しかし語尾にあることにはやはり抵抗感が残る。そこで逆行『い』音とする。こうすれば辻褄が合う。しかも単に体裁を整えただけでは終わらない。逆行には(「日常」に)「そむく意」(=「背く」)が植え付けられているからである。しかも「背く」には「飛翔」に負けず劣らずの内力がかかり、それを撥ねつけるためにさらなる躍動が生じることになる。躍動感を得た後では自然と、先に『い』音として印し付けておいた「意味」「一日」「行く」「今」も活気づくことになる。助詞に頼る必要もなくなる。「一日」の「意味」とか「今」の「意味」とかのように。
 それでも正統派を貫けば、逆さ読みするしかなくなくなる。因みに「イラフ(いらふ)」を古語辞典に当たれば、①「応ふ・答ふ」②「弄ふ」③「綺ふ・彩ふ」などが拾い出せる。①を採って(「日常」に)「答ふ(!)」と声を上げ正眼に構えるのもかまわないが、断るまでもなく青年向き。「美しくいろどる」「飾る」の意の③は女性向き。でもこの「綺ふ・彩ふ」は、単に「日常」を「美しくいろどる」「飾る」だけではない。彼女等二人の専任事項ながら、「背く」によって「美しくいろどる」「飾る」の意味も趣を異にすることになる。いずれにせよ、残るのは(「日常」を)「もてあそぶ」の意の②――なんとも疲れる一言。情けなくもある。言葉を「もてあそぶ」にとどまらず、「日常」を「もてあそぶ」とは。
     ※
 結局、それ以上近寄ってこなかった小鳥たちは、再び中空に舞い上がり、自由な空を飛び交いながら地上との距離を広げる。ベンチから腰を上げて大きく深呼吸する二人。その先に小鳥たちの姿を捉え返す顕子と子秋。鳥を交えて交わし合った今日の公園。二人の職場は別方向。午後が始まる。
「じゃまた明日」
「ええ明日」
 手を振りながら笑顔で別れる。公園の出口に向かう二人の上空を舞う小鳥たち。流れるような滑降から大きくカーブを描いて反転。鳥たちが泳ぐ6月はじめの空。

                   ――傍らのベンチで見続けるもの一人

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