あの屋敷はどうなったのだろうか。まだ残っているのだろうか。彼女が屋敷に移って引越し祝いに招待されて以来、その後もたびたび誘いを受けながらも、忙しさに紛れて足を向けられずにいて、結局、そうこうする内に泉は遠く旅立ってしまった。彼女が17歳の時のことである。
※
ところで泉の高校退学のことだが、1年の途中でというとなにか勝手な理由をつけられかねないが、特別な事情が絡んでいたわけではない。理由らしい理由はなかった。そう言ってしまうと、いい加減な子であったように思われてしまう。傍目にはそう映っていたかもしれないが、実にあっさりとした、しかし不思議に現実味のある理由を聞かされると、彼女に対する人物評(少女評)は通り一遍にはいかず、それなりの判断を下すには、一歩も二歩も引き下がって、じっくり観察してからでなければならなくなる。立ち入ったことを訊くことも必要になる。でも世間体を重んずる手合いには、バカげているの一言でけりのつく理由だったし、そうでなくても数多多数の一人でしかない少女の評価になんか最初から関心を示さない。泉が通っていた学校は、某私鉄の駅から4~5キロ離れた丘の上にあった。その高校に彼女はほとんど毎回タクシーで乗り付けた。入学直後からだった。遅刻だった。スクール・バスは出てしまい、歩くには遠すぎた。
「もったいなくて」
そう言った。退学理由だった。単純明快だった。「実にあっさりとした」のこれが内訳であり、すべてだった。
当然、訊いた。
「中退(や)める方がもっともったいなかったのでは?」と。
まったくそのとおりという他人事のような顔に、それ以上繋げる言葉は浮かばなかった。いっしょになって笑うしかなかった。
泉は、いつも母親に振り回されていた。母親は、自分の恋人の話を娘に聞かせた。というより相談していた。若い恋人だった。フラれてしまうのではないかと、自分と恋人との歳の差を気にかけては、不安でたまらないと言った。苦しい胸の内を構わずに曝け出しては、娘の前で涙を浮かべる。大丈夫よ、ママ、とっても素敵だから。娘にそう言ってもらいたかったのだ。言ってもらえば安心した。安定剤だった。もちろん甘え以外のないものでもなかった。子供依存だった。その繰り返しだった。依存症の域だった。しかし娘は、そのたびに見事に母親の甘えに応えてみせた。
泉の友達が言っていた。どっちが母親か分からない、って。
「でもそうしないとママ薬飲んじゃうから――」
小学生の高学年までにはもう立派な相談役になっていた。彼女の中には暗さというものがなかった。欠落していた。先天的だった。代わりにとり付いていたのは、天真爛漫なほどのあどけなさだった。愛くるしいほどだった。大きな目を瞬かせ、口許を大きく横に引いて頰を膨らませながら顔全体で微笑んで見せた。
母と娘二人きりの生活だった。父親は知らなかった。結婚していなかったようだ。経済的にも大変だったはずだ。だからタクシー代はたしかに大問題だった。もちろん、遅刻しなければなんの問題もない。それも実に明快なことだった。しかも簡単なことだった。
でも遅刻してしまう。たまたま遅刻しなかった時、クラスの生徒たちだけではなく、先生からまで驚らかれてしまい、マズイと思った、そう聞かせてくれた。
不良であるわけでも、カッコつけてるわけでもなかった。ただ始業時間に行けない、朝起きられない、それだけだった。別に酷い低血圧でもなかった。
なるほどバイトは毎日している。でも夜8時前には家に戻る。内職したこともある。でも高校に入ってからはしていない。母親も昼の仕事だった。泉がバイトから帰ると、「お帰り」と言って夕食を揃えて待っている。それでも母親の帰りを夜遅くまで待たなければならないこともある。でも年中というわけではない。それに母親の恋愛は流行り風邪みたいなものだった。年がら年中重症になっていたわけではない。それでも重篤になると、結構面倒臭くなる。朝方まで見守ることもある。お酒を与えないためにだった。かわりに添い寝することもあった。でも今に始まったことではない。
そういう意味でも遅刻に彼女の家庭的な問題は関与していない。たとえ恵まれた環境に育っていたとしても、彼女はおそらく遅刻した。それがお似合いだったからだ。遅刻しない彼女は、彼女らしくさえなかった。
でも遅刻しようがしまいがどうでもいいことである。それに、なによ偉そうに、と顰蹙を買いかねない。たしかに取り立てて論うほどのことではないかもしれない、実に些細な詰まらないことである。抗うつもりもない。
でも確実に不利益に繋がることである。とくに遅刻から退学を選択するのは。それに簡単な自己調整で済むことである。しかも教室の空気などという、言ってみれば一過性なことに拘ってまで不利益になることをしない、それが常識というものであるし、社会通念である。そうだからこ実は些細なことではなかった。たまたまそれが「遅刻」という形で現れていた、そういう〝存在形態〟を採っていた、しかも実にお似合いの姿で。そういうことだった。でも大事なのは、それが似合っていたことである。似合いの姿には真実がある、そういう言い方も可能だからである。そうではなく、それが真実だったからである。
※
その屋敷は井の頭公園の近くにあった。昔と違って公園はずいぶん整備されていた。平日だったのに池にはボートが何艘も浮かんでいた。池の真ん中に漕ぎ出して、細長い池の畔に並んだ、新緑の枝を水面側に傾けた木々の緑を眺め渡し、その眺めを占有していた。その一方では、奇声に近い若い男女の解き放たれた甲高い笑い声がボートを揺らしていた。しかし、男女の傍らをすり抜けて行くボートのオールは、女性の顔面を数滴の水しぶきで濡らそうと、したたかに間合いを詰めて頃合いを見計らっている。
そして実行に及ぶや、してやったりと、目的を遂げた若い男の一人乗りのボートは、素知らぬ顔で悠然とその場を離れて行く。しかし、飛沫のかかった(かけられた)頰をハンカチで拭う仕草も、ボートの二人の楽しみを膨らませることはあっても怒りを誘発することはない。
ボートから離れて水鳥たちが水面を滑っていた。我関せずで浮かんでいるだけの鳥たちもいる。
池の畔の遊歩道をさらに進むと、小さな子供がボート(白鳥型の足漕ぎボート)に乗りたいと母親にせがんでいるところだった。
――こんどパパとね。
――うそつき! パパはお出かけばっかり!
駄々を捏ねる子供に、ママをこまらせてはだめよという初老の夫婦が傍らを通り過ぎて行く。池の周りを何周するのだろう。日課にしているような足取りである。顔見知りなのかもしれない。母親から笑みがこぼれている。
池沿いの遊歩道を逸れて公園を横断する。池に沿っては長いが意外と幅が狭い公園である。出るとすぐに住宅街の小奇麗な家々が建ち並んでいる。少し入ると静かけさも広がっている。
もう住んでいないかもしれない。屋敷も取り払われて跡形もなくなっているかもしれない。普通なら30年程度で家が絶えることはない。むしろ続いている。十分一世代の範囲内である。それを30年に拘るのは、屋敷の主たちに子供がいなかったからだ。一人娘を小学生4年生の時に病気で亡くしていたのだ。
当時の記憶のなかで歩き回っていたからかもしれない。建て替えられて真新しくなった家々の並びは、建て替えられていない家を残していても記憶を甦らせようとはしない。葉書をもう一度確かめる。住所に間違いはない。昔、夫人からもらった葉書だった。
それにしても別な場所をさ迷っているようだった。まだ30年というべきか、それとももう30年と言い直すべきか、自分の30年がほとんどなにも変わっていないことが、急に責められなければならないように思えてしまう。でも年だけは確実にとる。夫妻ももう相当の年齢に達しているはずだ。
亡くなった女の子は、夫妻の遅い時の子だった。二人の悲しみはその分深かったはずだ。子供を亡くした時の年齢は、男主人が50代中頃、女主人が40代後半だった。だから80歳中頃と70代後半になっている。男主人はすでに他界しているかもしれない、あるいは二人とも亡くなってしまっているかもしれない。夫人の悲しみは、すでにその時彼女の命を奪い去っていてもおかしくない程だったからだ。
葉書の住所を頼りにようやく目的地にたどり着く。その屋敷の前に立ったとき、まるでそこだけ時間が止まっているように昔のままだった。定期的に塗り替えられてはいただろうが、当時のように門扉には錆がすこし浮かんでいた。アプローチの石畳の佇まいも時間を止めたように昔のままの雰囲気を留めていた。玄関先まで延びる両側の植え込みの刈り込みの高さもも昔のままだった。枝先を屋根際近くにまで伸ばしていた屋敷周りの樹々も、たしかに見覚えのある枝振りだった。男主人は離れをアトリエに使っていたが、目に入ってきた佇まいは、記憶の中に浮かぶ姿そのものだった。ただ最近塗り替えたのだろうか、ガラス窓の回り縁だけが、幾分くすんだ板壁の中でコントラストを際立させていた。
でも表札は違っていた。取りけられている場所が同じだったのが、表示している名前の違いを際出させていた。やはりそうだったのか。
※
母親の再婚を機に泉は母親から離れて暮らすことになった。大丈夫なの? と母親は娘を心配した。しかし気付いていなかっただけで、母親が本当に心配だったのは、娘に出て行かれる自分の方だった。娘は母親の心をしっかり見抜いていた。でも口にはしなかった。ええ大丈夫よ、心配しないでと言って、母親の新しい生活を祝福した。
事前に話を聞かされていた私は、この屋敷のことを泉に話した。泉を一人にさせたくなかったからだ。事前準備もなしにいきなり自由な生活に移行するには母親との二人切りの生活は長すぎた。反動が心配だったのだ。母親の(心の)世話は、次の日になったらなかったことにしよう、というわけにはいかない。泉はまだ自由に慣れていないのだ。退院した患者が、外の明るさにしばしば目眩みを覚えるように、外の生活に慣れるには時間がかかる。
それにこの屋敷の主たちのこともあった。一人娘を亡くした夫妻の悲しみの深さが思い遣られたからだ。私はこの家の男主人とは以前からの知り合いだった。お節介を承知で泉のことを持ち出した。そうせずにはいられなかった。
それと言うのも、夫人の日頃の孤独を知っていて、男主人とだけ付き合いを続けてきたことが、ここに来て一気に負い目に転じていたからだった。夫以上の悲しみを背負っているに違いないその心が、相変わらず夫からの助けを拒み続けている姿と重なる時――夫妻の仲は前々からけして上手くいっていなかった――相変わらず夫の側に回って、夫人を冷ややかに見ている自分に罪深いものを覚えたからだった。それが贖罪のように私を突き上げていた。
まだ17歳という若さでありながら、およそ考えつくすべての悲しみや苦しみから無理なく遠ざかっていられる一人の子。心の中に仕舞いこんだ思いを封印して誰にも、おそらく自分にも見せないでいられる子。輝きの顔。私にはすでに見えていた。夫妻の驚きの顔、とくに夫人の驚き振りとその時浮かべてくれるに違いない表情が。その驚きの表情に驚かされる心の内が。
でも家内が何と言うか、そう言って男主人は逡巡した。じゃ僕から話しましょうか、私の申し出に男主人は、うすら笑いを浮かべながら軽く首を振ってみせた。
泉は約半年間をその屋敷で過ごした。夫人は予想していたように、夫人は泉に驚いた。なんといっても自分の育った境遇をまるで意に介していなかった。生活の苦労も他人事でしかなかった。男親がいないことも、悲しくもなければ負い目でもなんでもなかった。もし哀しいことがあるとすれば、母親が苦しんでいることだけだった。悲しんでいる母親と一つになれないことだった。母親を愛し続けられる泉の心の仕組に、夫人は胸の締め付けられる思いを味わった。しかも話が自分一人のことになると、悲しんだり苦しんだりしないのだ、泉は。そんな手間暇かけてまで大切だと思っていない、自分のことを。
だからだったにちがいない。男友達はたくさんいても恋人がいない。もちろんまだ17歳だ。恋愛を知らないだけだ。そうかもしれない。でもなにかが違っている。恋愛感情に支えらたいように見えないのだ。気持が動かされていなければ動いてもいない。それ以前の問題として動かされる自分がない。自分と生きていない。
次第に泉を見ているのが辛くなる。可哀想になる。「自分」が育っていないからだ。自分を大切にする気持ちがすっぽりと彼女の体のなかから抜け落ちていた。それは夫人が泉を見るときの哀しみの底にあるものでもあった。彼女に接するときの源だった。しかし泉本人とは源を共有することができない。やはりそこでも「自分」がなかった。哀しみは夫人の側だけで抱え込むしかなかった。
その時はそんなつもりではなかったと、夫人は後で打ち明けてくれたが、夫人は知り合いのアメリカ人の家庭に泉を連れて行くようになった。なにかのはじまりを予感していたにちがいない。わずかの時間で泉のことを夫人は理解していたのだ。哀しみの力でもあった。
その家庭では日本語は通用しなかった。でも泉は英語ができないことに引け目を感じないで済んだ。笑顔の挨拶だけですぐに受け入れられたからだ。それにいま居候中だと夫人を介して話したら、学校は? と聞かれ、遅刻で退学(自主退学)したという話を持ち出すと、それがアメリカ人の夫妻に大いに受け、話は泉のことでさらに盛り上ることになったからだった。
ナラ米国デ勉強シナサイ、米国デハスベテ自己責任デアル、遅刻モ権利デアル――そう諭すように語られる。途中からは真剣に勧められる。夫人の予感は的中した。その後、確実に泉のなかにアメリカという異国が像を結ぶようになったからだ。なにかが急速に育っていった。しかも育つのを待てなかった。旅立の方が先に決意されていた。
「言葉少し習ってからの方がよくない?」
夫人の心配に笑顔で応じた泉の瞳には、渡航先での語学学校とアルバイトの生活とに心を躍らせる自分しか映っていなかった。
「送らないでください」
その日も、そう言って泉は庭先に夫人を押し止めて、門扉を開けて一人で外へ出た。まるで近くに使いに行く感じだった。門扉の外から軽く手を振った。3年後の再会を約して屋敷を後にした。
※
躊躇いながら押したチャイムで玄関先に姿を現したのは中年の女性だった。一瞬、泉をそこに見たかのような錯覚に囚われたが、現れたのは夫妻の養女だった。後で自分は夫人の従姉妹の子だと教えられた。
夫妻は亡くなっていた。幸せな晩年だったという。
婦人は泉のことも知っていた。会ったこともあるという。でももう20数年も前のことだという。
最初に泉を見た時、彼女は、泉のことを帰国子女と思ったと言った。流暢な英語で雰囲気も日本離れしていたからだった。芸能関係の事務所を立ち上げる計画を夫妻に聞かせていたと言った。そして、一年中、アメリカと日本とを往き来する生活を送っていたと言った。モデルがこの屋敷を出入りすることもあったと言う。軌道に乗るまでと、夫妻がこの屋敷に仮事務所を置くよう提案したらしい。部屋は泉が離れた時の3年前のままになっていたようだ。
でも都内に事務所を構えてから後のことはよく知らないと言われた。それでも夫妻が亡くなるまでは、手紙(アメリカやヨーロッパからの手紙を含めて)がよく来ていたし、定期的に都内のどこかで食事を共にすることもあったらしい。夫人は泉に連れられてアメリカを回ったこともあったという。でも泉がこの屋敷に現れることはなくなった。相当多忙だったらしい。
義父が亡くなり、後を追うようにして義母が亡くなってしまった後は、葬儀で顔を合わせたのが最後になったらしい。その後の消息は知らないと言った。
「お調べしてみましょうか。泉さんからのお手紙は一緒に棺に納めてしまいましたが、お香典帳を調べれば住所が分かると思います。まだ同じ住所にいらっしゃればですが」
「いやいいんです。それよりか昔のままですね、このお屋敷は」
「ハハは建て替えなさいと言っていました。もっと小さな家にしなさいとも。でも家がなくなってしまったらお可哀想です。私は会ったことはないのですが、私と同い歳だったはずです。口には出しませんでしたが、ハハは心の中でずっと亡くなったお子さんと一緒に暮らしていたのではないかと思います。でも悲しみから解かれていたことは確かです。わずか半年だったと聞いていますが、泉さんがここに居た日々はかけがいのないものだったにちがいありません。泉さんの話をする時のハハは、まるで自分のことのようにそれもすこし興奮気味に喋っていましたから」
養女である立場に拘りを見せるような女性ではなかった。詰らないプライドにも縛られていなかった。
もし泉さんと連絡がとれるようなことがあったなら、お尋ねになられたことをお伝えしておきます、女性からそう言われ、またそんなつもりで言ってくれているのではないと分かりつつも、心の中を見透かされてしまったような気恥ずかしい思いを一人勝手に抱いて、女性に見送られながら屋敷を後にした。
※
陽が傾いた井の頭公園には、子供連れの親子の姿の替わりに、ベンチや土留の縁石に腰掛けた若い男女や女性連れの姿が増えていた。ボートの時間も終了したようだった。水面を打つ噴水の音に辺りの静寂が深まっていた。影の延びた池の畔で羽を休めているのか、水鳥の姿も見えなくなっていた。
泉のことを知りたくなったのは、おそらく自分が歳をとったからだろう。17歳の少女の思い出に触れる。そうすることでいい年をして時間の止まった生活をしている今の自分に弁解を見出すために。そのためにわざわざ出かけて行く。気恥ずかしいことだ。
それに泉ももう50歳を迎えようとしているのだ。互いの歳を確かめ合うことになるのだ。それとも17歳の少女に出会えるつもりだったのだろうか。泉――君は永遠だとも口にする気だったのか。そうだったに違いない……。
――「なにかにこにこしているわね。(この人)いいことでもあったのかしら……」(ベンチ上の子秋*)
*[あ]1、2(2012年5月)、[い](同年6月)参照
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。