5月22日(午後9時)、音楽評論家の吉田秀和が亡くなった(急性心不全)。98歳だった。新聞等で公表されたのは5月28日だった。広く知られているようにその評論活動は音楽にとどまらなかった。美術ほか芸術一般で文学に及んだ。豊かな文学的資質を兼ね備えた戦後最大級の芸術評論家の一人だった。
しかも机状の評論にとどまらなかった。実践派でもあった。戦後間もない1948年には、その後の日本西洋音楽の向上に大きく寄与した「子供のための音楽教室」(桐朋学園大学音楽部の基)を創設し、立て続けに現代音楽の向上を目指した研究所(「20世紀音楽研究所」)を立ち上げた。その旺盛な活動歴は晩年にいたっても衰えるところを知らず、水戸芸術館の初代館長就任(1990年)を機に同館の付属楽壇として水戸室内管弦楽団(顧問小澤征爾)を設立するにいたる。そして、その間、多くの俊英を世に送り出し、見出しもし、戦前期と一線を画す日本西洋音楽の芸術の深化に心を砕き、多くの著作をなし(『吉田秀和全集』白水社)その筆を終生擱かなかった(ただし朝日新聞での連載「音楽展望」は昨年6月で終了(大震災を内的に受け止めて下した一つの表現方法(連載終了))。
音楽理論を超えた音楽評論だった。耳ではなく「言葉」で聴いた音楽の評論だった。文学から美術にわたる広範な内省が音楽評論と重なり一つとなていた。叙述法は最初から「文学」の域に達し、あるいは超え、独自の境地を切り拓いて最晩年の「言葉」は「生命」との交感に触れて、生きていくこと(生きていること)の「今」をその淡い光で満たしていた。
手許に一本の録画がある。「芸術劇場」(HFK第2)で放映された小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケスラの「マタイ受難曲」(『小澤征爾のマタイ受難曲』)。放映日は1997年11月2日。恒例になったサイトウ・キネン・フェスティバルのその年のメイン・プログラムである。公演日は、放映日を約2か月遡る9月7日、演奏会場は長野県松本文化会館。そして、その日の「芸術劇場」の解説者が吉田秀和。
その年の同フェスティバルのための1曲ではあったが、同時に先年亡くなった武満徹への鎮魂曲として演奏されたものであった。武満徹が、日頃、小澤征爾に対して「マタイを振ってもらいたい」そう言っていたのが生前には果たすことができなかったからである。武満徹は、自身の作曲に際して「マタイ」から1曲(アリアなど)を選んで聴くのを習わしにしていた(著書にそう書かれている)。バッハの音楽に構想を得ようとしていたというより、作曲に立ち向かうために必要な「音楽の魂」を自らに再生するためであった。バッハの音楽とりわけ「マタイ受難曲」は、神が遣わしたごとき音楽であったからである。
吉田秀和は、このエピソード(武満の依頼)を解説の冒頭においた。これから放映される「マタイ受難曲」に寄せる小澤征爾の想いを代弁するためであった。吉田秀和は代弁者としての自身に気持の昂ぶりを覚えていた。
ともかく小澤征爾にとって吉田秀和は恩師中の恩師のような存在で、今回の訃報にも「吉田先生がいなければ今の自分はない」(某紙)と語っている。小澤征爾の解説に特別な思いを込めることになる背景(二人の関係)である。また武満徹との関係も深い。武満徹は、吉田秀和(所長)らが率いる「20世紀音楽研究所」の作曲コンクールに入賞(1958年)を果たすと、その後、同研究所へ参加することになるからである。
したがって、吉田秀和にとってその日は、特別なテレビ出演だったにちがいない。だからかもしれない、公演経緯(のエピソード)の披歴に続いて行なわれた楽曲解説で、その(神から遣わされた)偉大な音楽の解説をこうまとめたのである。
「もし、この世(地球)が終わることになり、違う星に移らなければならなくなった時、1曲だけ持っていっていいと言われたなら、いろいろと迷うかもしれないが、僕はやはりこの曲(『マタイ受難曲』)を選ぶだろう」(大意)と。
あるいは自身の年齢(その時83歳)を慮って音楽的遺言(の一つを)を言外に含ませていたのだろうか。いやそうではなく(永遠の青年(”文学青年”)であった吉田秀和にとって)、その意味するところは、武満徹がそうであったように(武満とは言い方を変えて)、バッハ(の「マタイ」)に芸術の深淵を覗きこんでいたからであろう。永遠の命をと言い換えても構わないが。
今宵は宇宙に旅立たれた氏の御魂(「芸術の魂」)に向かい、地上からも氏が1曲として選んだ「マタイ受難曲」を流そう。CD化された小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラ版(ただし第2夜版)で。
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