2019年12月21日土曜日

岡田幸文さん追悼3(結)―存在の料紙―

 
創刊号のNo.12018130日発行)まではまだ先がある。No.82019331日発行)とNo.72019131日発行)まで、ちょうどそれは今年分になるのだが、2号分だけを掲げてひとまず擱筆する。〈未了〉のままであらためて岡田さんのことを考えてみたい。そう思ったのである。

ただこうして「竝び机の詩窓」のタイトル(ミッドナイト・プレスHP上に連載してきた筆者の詩論のサイト名)のようにして岡田さんの詩に向かい合ってみて、その存在の在り様にいろいろに思いが至る。思うところをすこしだけ書きとめておきたい。

その前に引き続きの形でNo.8No.7の詩篇と礼状を掲げることからはじめる。まずはNo.8から。

海の思い出                岡田幸文

水平線をながめていると
鎌倉の海だったが
むこうからなにか得体の知れないものがやってきて
ここから先には行けぬという

夢を見ていたのだろうか
メキシコの海岸だったが
津波に襲われたものたちが波間に漂っていた

そのとき
天から垂直に駆け下りるものがあった
それは私の身体を刺し貫き
そして地心に向かった

目が醒めた
丹後の海辺だったが
生まれたばかりの赤子が母親と戯れていた
   (No.8号)

〈礼状〉
拝復 満開の桜の花が処々に咲き乱れている昨今、お変わりなくご健勝にて日々をお過ごしのことと存じます。
 貴個人誌№8ありがとうございました。こうして戴くたびに一紙が一誌として反復されかつ重なりとなっていく様が、なにかしずかに時を刻む漏刻のようにも思われ、忙しさにかまけている心がしばし静まりかつ正される思いです。そう思うときの今回の詩篇――「時」の繰り返しの原初ともいうべき打ち寄せる波に対面する内景。高まる叙景。杳として行方知れない海景の広がり。その異なる海・海岸への思いを膨らませていた最中の、まさに「そのとき」の天地間を貫く一つの覚醒。何事かの思いを「地心」に向けながらも佇むのは再びの海辺。そして目にする眼前の戯れ。循環とも再生ともいろいろに読める本詩篇。「一紙」と共にあることがかえって叙景性を際立たせているようにも思え、あらためて心静まる思いで貴誌を手にしているところです。良寛論、「アフォリズム」**とも味読しました。次号を楽しみに、一言お礼まで。
   201947
                               渡邉 一
岡田幸文様

* 「円通寺(良寛が12年間修行を積んだ寺、現倉敷市。引用者註)を出たとき、良寛は「僧」と、「寺」と、別れたのだと思う」(No.8より)の意味を良寛詩から読み解こうとしていた「良寛論」のこと。
**「〈あとがき〉シオランのアフォリズムに惹かれるのは、箴言のなんたるかを実践しているからだろうか。「音楽とは悦楽の墳墓、私たちを屍衣でつつむ至福」ということばは、my favorite thingsのひとつだが、「アフォリズムというのは瞬間の真実なのです」というアフォリズムもまた味わい深い。(岡田)」

次はNo.7

第二章                  岡田幸文

捨てられているものがある
捨てる人がいたということか
夢を見る
夢を見られたということか

わたしはまたしてもその門の前に立っていた
なぜ あの角を曲がらなかったのか
そこにだれもいないことはわかっていたのだから曲がることはできたのに

門の前は無人だった
捨てられたものはそのまま朽ちていくのか それとも
風に吹かれながら転生していくのか

空を見上げると鴉が西の方に飛んでいくのが見えた
遅れてやってきたものが いまあの角を曲がっていく
No.7号)

〈礼状〉
拝復 このところ寒暖差の激しい日々が続いておりますが、お変わりなくお過ごしのことと存じます。
 この度は、貴個人誌No.7をお送りくださいましてありがとうございました。着実に2年目(あるいは「第二章」にも読むべきでしょうか)に入られたこと、ご同慶の至りです。まさにあらたな幕開けかと存じます。雑然とした世の中にあって、浄福感を味わえるような静謐感漂う誌面に襟を正される思いです。
そして継起的かつ新規にも問いただされるものの、その一回性を担う、詩篇や散文が、今回もいろいろに時間や空間の隙間に働きかけ、「人」の気配をたっぷりと忍ばせて、現代社会に敲くべき「門」があるのかさえまでも問わしめる、そのような視角を切り開かれているかのようです。また1年、貴誌の読者となれる喜びに感謝を抱きつつ、感想にもなりませんが、一言お礼まで。
20192月吉日                    
                             渡邉 一
  岡田幸文様

* 毎号の詩篇は、号によっては明らかに良寛論とのコレスポンダンスとして「合わせ技」として読むことでまた異なる味わいが得られる。この「門」に触れたのは、同号に引かれた良寛詩「五合庵」との照応(交感)の在り様におおいに触発されたからである。「五合庵」は、岡田さんにとって特別な時空である。以下良寛詩を転載したおきたい。


   五合庵     良寛
索々五合庵  (索々たり 五合庵)
室如懸馨然  (室は懸馨(けんけい)のごとく然り。)
戸外杉千株  (戸外には 杉 千株(せんじゅ)
壁上偈数篇  (壁上には 偈 数篇。)
釜中時有塵  (釜中ときに塵あり)
甑裡更無烟  (甑裡さらに烟なし。)
頻叩月下門  (しきりに叩く 月下の門)
 
                   ◇

ここまで詩篇を掲げてきて(読み返しでもあったのだが)、あらためて岡田幸文さんのことを、その存在の在り様として稀なるとろころをしきりに思う。自分のことをほとんど語らない岡田さんが、ある意味、自らを進んで表に出してきたのが、この「岡田幸文個人誌 冬に花を探し、夏に雪を探せ。」である。思うのは、この個人誌の体裁である。岡田さんが、自己表出にあってなにかを自らに許したものがあるとするなら、なによりもこの体裁であったと思われるのである。

送られてきた同誌をはじめて手に取ったとのきの印象はとても新鮮だった。驚きと言い替えた方がいい。とても普通の郵便物には思えなかった。その折の思いを含めて礼状に次のように認めた。

とても美しい紙面。鮮やかな墨跡も麗しく料紙を際立たせるかのようです。良寛の「文筆詩歌」への厳しさが、この、なにか日常の中に予め枠取られたかのような、森閑とした一畳の間の中でどのように読まれ応じられていくのか、次号を鶴首しております。(No1への礼状より)

 すでに記したように個人誌の体裁は、「少し厚手の真白い一紙の表裏を誌面としたもので、表面には自作詩1篇が載せられ、裏面には連載形式の良寛論がおかれている。さらに版組を変えて〈あとがきが〉が加わる」。補足すれば、版型は三つ折り(巻き込み型)のA4版で、誌名となる墨痕鮮やかな「冬に花を探し、夏に雪を探せ。」が、あたかも一幅の掛け軸のようにして折り面の1頁分を表紙としておおきく飾っている。その設え感の端正さもあって、体裁全体をまさに現下のなかにおける「森閑とした一畳の間」と評した所以であるが、新鮮さを際立たせていたのはそれだけではない。紙である。白一色の、白が色として放つ彩である。別の号ではこう書き送った。
 
かく一篇の詩とともに送り届けられる真白いレター(個人誌)。それが疎ましい現下の雑然とした世情のなかで特段に「白さ」を際立たせてならないわけです。(No.56への礼状より)

 郵送には透明なフィルム封筒が使われている。まさに「疎ましい現下の雑然とした世情のなかで」と、その白さを特別なものとして目にとめざるをえなかったのもそれ故である。単なる白さではない。自らを深める白さである。

深めるのは、あるいはフィルム封筒のもつ透明さであるかもしれない。正確には介在としての透明性である。しかしそのことで岡田個人誌はなにかを手中にする。透明性とは、まさしくこの場合、明晰性にほかならないからである。

 岡田さんは多弁を競うことはない。相手を説き伏せる口調にもならない。人の先に立たない。そもそも立とうとしない。人格としてだけでなく思想としてすでにそうなのである。岡田さんのそうした人との対し方、人を前にしたときの内面の保ち方、要するに人としての在り様の前にこの個人誌があるのである。

 明晰性に言及したのも、それが自己の在り方に強いられているからである。しかも強い方そのものが再び明晰性を求めているのである。白としての、一紙としての、その在り方が生む「明晰性」である。すでに明晰性とは存在性の謂いにほかならない。ゆえに思ったのである。この個人誌(真っ白いレター)は、まさに岡田さんにとって「存在の料紙」にほかならなかったと。違いますか、岡田さん。合掌

2019年12月17日火曜日

岡田幸文さん追悼2


ここでは引き続き、No.102019731日発行)と№.92019531日発行)に掲載された詩篇並びに礼状を掲げる。日誌的に記せば、発行日近くでは、No.10の場合、810日(土)にミッドナイト・プレス第15回八木塾(「石川啄木と若山牧水「現代詩に受け継がれるべきその近代性と流浪」」が、No.9の場合、68日(土)に同第14回山羊塾(「金子光晴「松本亮 金子光晴にあいたい』を読んで」)が開かれている(ともに会場は東京芸術劇場ミーティングルームで講師は八木幹夫氏)。

詩塾後の2次会・3次会。とりわけ3次会として定席的になった、池袋駅西口の路地裏の一角にあるこじんまりとした某大衆酒場2階席での、講師を筆頭(?)とした居残り組の懇談。東京芸術劇場が建てられる前のかつての池袋西口公園周辺は、現在とはまるで違った雰囲気で、路地裏を流れる空気には、どこか薄暗い厭世的なイメージがあった。岡田さんや僕らの年代には、それが(どこか世間から離れた隔離的な雰囲気――時代を遡れば闇市からさらには池袋モンパルナスに繋がるかもしれないようなそれが)かえって居心地いいことになるわけだが、構えだけでなく店の主人にも当時の面影が色濃く残っていた酒舗内では、とくに日本酒が好きな人(岡田さんもそのお一人)にとっては自然とお酒の進み具合がよくなってしまうことになる。

ではその折の、ときに現代詩の在り様に熱くなっていた岡田さんを思い浮かべながら、遡及的にまずはNo.10から。

偶作                  岡田幸文

東山に月が出た
それははじめて見る月のようであった
月の光は明らかであった
そのとき明らかにされたものはなにもなかったのだが

気を取り直して川岸のビヤホールに入ると
洞山和尚が生ビールを飲んでいた
なにか見透かされたような気がする
和尚と背中合わせの席を選んで生ビールを注文した

闇は深まるばかりだった
だが闇が深まるにつれて見えてくるものもないわけではなかった
闇が闇を殺すこともあるのだ
そのときすでに和尚はいなかった

外に出ると月の光はいよいよ冴えていた
橋の上から川の流れを眺めると
それは生きている龍のようであった
No.10号)

〈礼状〉
拝復 ようやく猛暑も一段落の気配。その後お変わりなくお過ごしのことと存じます。
 さてこの度は、貴個人誌No.10をお届けくださいましてありがとうございました。まずは10号という節目を迎えられたことに敬意とともに祝意を表します。今号の一篇、思うに、詩題こそは「偶作」とありますが、良寛論を拝読するかぎりは、裏面との「合作」(合わせ技)として読み取るのを許した一篇かと。たとえば「生ビール」のこと、ジョッキを傾ける洞山和尚の姿のこと――それを思わず「受食、乞食」の食(飲)にとってしまうのも、決して不謹慎とは思えず、かえって現代の仏道との縁を巷の一隅にて果たす機会が招来されているかのようで、結果、和尚を挿んだ前後連のもの思いがちな語り口にも、また詩篇全体にも、〝偶(たまたま)〟以上の機縁を孕んだ詩行の挿入が企図されていたのを知ることになります。しかも「闇が闇を殺すこともあるのだ」の穏やかならざる一行などは、「そのときすでに和尚はいなかった」にしても、じつは図らずも「背中合わせ」に交わされていた問答に応答した文句ではなかったかとも思え、牽強付会が過ぎているかしれませんが、読詩を再読へと誘う「縁」としてくれるのです。一言、感想まで。ご自愛のほどを。
2019820
                           渡邉 一
岡田幸文様

* 「これから良寛と托鉢について考えていくのだが、そのテキストとして取り上げるのは、良寛の「請受食文(しょうじゅじきもん)」という詩である。良寛は、このほかに、「勧受食文」という文章も書いているが、いずれも托鉢(受食、乞食)が修行僧のいのちであることを表明していて、ほぼ同じ内容である。念のため、それぞれの冒頭を引いてみよう。/「食を受くるは仏家の命脈なり」(「請受食文」冒頭)/「()れ僧伽の風流は、乞食を活計と為す」(「勧受食文」冒頭)(No.10より部分)


次はNo.9


川に沿うて              岡田幸文

むらさき色のもやがあたりを覆いはじめるころ、私を誘うものがある。そ
のなにげない仕草は、私を愛しているのだろうか、それとも憎んでいるの
だろうか。いや、それはただ、私を誘っているだけであったのかもしれな
い。二度と戻りたくない道へと。それにしても、そんなことをして、いっ
たいどうするのだ。
           川が流れている。川が流れていた。川の流れをしばら
く眺めていると、水がある動きを周期的に繰り返していることに気がつい
た。それは川が終焉に向かっていることを語っているかのようであった。
                                川に
沿うようにして、道を歩きはじめる。それは二度と戻れない道を行くこと
でもあった。すると蠢くものたちがいる。浄化されていない音や映像が川
面を流れていく。そのとき、許されるものがある。価値はなにによっては
かられたのだろうか。
         川の起源をたずねることは可能だろうか。いや、ここでは
それを問うことは禁じられていた。断念ゆえにか。あるいは悔恨ゆえにか。
                                  道
を行くものはすでにひとではない。川を流れるものはすでにものではな
い。名づけられないものたちがさまよっている。さまよいながら、散乱し
ていく。赫く光り輝くものに摂取されていくかのようにして。
No.9号)

〈礼状〉
拝復 真夏日に見舞われている昨今、お変わりなくお過ごしのことと存じます。
貴個人誌No.9ありがとうございました。まずは「川に沿うて」の一詩拝読。まるでそれ自体(詩体の視覚性自体)が川の流れを表しているかのような、しかも途絶えがちな川筋が任意に細流を寄せ集めて未明の先に新たな一本と化した本流の川筋をつけよう(求めよう)としているかのような、いずれにしても自らが先頭だって困惑を深めているあたり――それが「川に沿うて」の、憂愁感漂うタイトルの詩情を見事に裏切ってみせる内容の難解性と合わさって、その位相差を読詩に埋めこむ本詩篇の独自の味わいの仕掛けとなっているようです。加えて待ち受ける良寛詩「托鉢」の高い吟(志)と合わせて読み直すと、それはそれでまた別な味読感に誘うのも本号の詩誌としての企みなのではないでしょうか。五合庵を訪れた由**、良寛との日々がさらに深まるものと次号を鶴首しております。一言お礼まで。
20196月 日
                           渡邉 一
岡田幸文様

* 「我兮亦是釈氏子(われまたこれ釈氏の子)/一衣一鉢迥灑然(一衣一鉢(いちえいっぱつ)はるかに灑然(さいぜん)たり)/君不見(君見ずや)/浄名老人嘗有道(浄名(じょうみょう)老人かつて()うあり)/於食等者法亦然((じき)において等しき者は法もまた然りと)/直下恁麼薦取去(直下(じきげ)恁麼(いんも)薦取(せんしゅ)し去れ)/誰能兀々到驢年(たれかよく兀々(ごつごつ)として驢年(ろねん)に到らんや)」(良寛作「托鉢」の最終6行のみをNo.9から転載)
** 「五合庵をたずねたとき、ここに良寛はいたのかと、その孤絶の相に絶句した。(同〈あとがき〉より)

2019年12月15日日曜日

岡田幸文さん追悼1

  2019129日、岡田さんは逝去された。享年69歳。僕と同年。電車が同じだったのでイベントや催しの2次会、3次会の帰りの車内で「お互い体には気をつけましょう」といつも声を掛け合っていた。よもやこんなことになろうとは。ことばがない。ただただ無念である。

 1214日(土)午前10時、「岡田幸文さんお別れの会」が開かれた。詩人の中村剛彦氏による司会(朗読)。岡田さんと長いお付き合いのある詩人の八木幹夫氏と岡田さん・かず子さんご夫妻と長い親交のあるイタリア文学研究者の鷲平京子氏お二人のお別れの言葉。そして岡田さんの詩の朗読と続けて流された「イマジン」。最後に喪主であるかず子さんのごあいさつ。

中村さんは、元ミッドナイト・プレス副編集長で岡田さんとながくお仕事をともにされて来られた方。岡田さんへの深い敬愛の念が滲み出た、生前の岡田さんに語りかけるような司会は、詩の朗読時もそうだったように(朗読される自作詩に耳を傾けている感じがしてしまい)、死が我々と岡田さんを分かつのをしずかに拒んでいた。

八木さんは、岡田さんが編集長をつとめた『詩学』以来の長いご友人であり、岡田さんが設立した詩の出版社ミッナイト・プレス(1988年設立)から複数の詩集・詩論を出されているだけでなく、詩誌(「midnight press WEB」ほか)上で主要なゲストとして参加されたり、また近年ではミッドナイト・プレス開塾の「山羊塾」(2015.52019.11)で16回にわたって講師を務められたりしてきた。岡田さんが深い信頼を置かれてきた掛替えのないお方(先輩詩人)であった。出会いの折のエピーソドの紹介に若かりし頃の知らない岡田さんの姿を思い、詩社設立にかけた思いの紹介には、詩とともに在った、在り続けられこられた岡田さんの人生をあらためて深く思った。いずれも岡田さんのお人柄を誘い出す滋味溢れた語り口(語りかけ)であった。

鷲平さんは、大きく二つのお話で岡田さんを送られた。一つは、出会いのときの印象を含めたのお人柄の話。一つは、岡田さん・かず子さんお二人の夫婦としての在り様のお話。お人柄のことで印象深かったのは、出会って最初の印象が比叡山の修行僧のような苦行に身を晒しているような面立ちであったということ、それが語らいを重ねていくうちに、外見とは裏腹にお公家さんのような内面をもっていたのでと出会いの頃の印象深い思い出をお話しくださったこと。思わず略歴紹介にあった、岡田さんが幼少期を過ごした土地(京都・下鴨神社の近く)を目に浮かべることになる。もう一つのお話――夫婦というより仲良し同士の男の子と女の子のような関係であったという微笑ましいばかりのお話。お二人を知る者にはよくよく合点がいくところであるが、しかしそれだけに、この間のかず子さんの深い悲しみが胸に迫ることになる。

そして、詩の朗読と流された「イマジン」を聴いた後での、かずこ子さんの喪主としてのご挨拶。憔悴の体から絞り出すために一時を要した発語までの間、途切れがちな声で明かされる入院から亡くなるまでのこの間のこと。あるいはそれ以前の岡田さんが向き合っていた健康状態のこと。無念極まりない早い死。夫が見出した詩人たちや関わってきた若い詩人たちが現代詩の上でさらに活躍してくれるのを願い、早すぎる死のなかで、夫になり替わって夫の篤い志を彼らに託さずにはいられない思いの丈。その披歴。無念極まるお気持ちが終始ことばを詰まらせがちであった。

ところでなぜ「イマジン」が流されたのかといえば、自らを詩人への道に導いた契機であったのが、10代(60年代ただ中)で出会ったビートルズであったということ。そして自作詩「あなたと肩をならべて」(第1詩集タイトルポエム)の「あなた」とはジョン・レノンにほかならなかったということ。

ジョン・レノンの突然の死に寄せた詩であったにちがいないと紹介された、その自作詩の朗読と「イマジン」を聴き、ご親族並びに多くの知人・友人に見守られて後、岡田さんの魂は、当日の抜けるような蒼い空に還られていった。

 式場は、荒川の傍らにあった。われわれ数人は、会が終わった後、ご一人の発案で荒川の土手に登り、そのまま駅方面にしばらく土手上を歩いた。偶然であったのだろうか、その「ご発案」は。岡田さんからの促しではなかったのか。なぜなら岡田さんの個人誌の最終号に載せられた詩篇は、以下のとおり「土堤の論理」だったからである。

 本稿(連載予定)は、毎回送ってくださった個人誌に筆者が送った礼状の転載である。これから号を遡る形で何回かに分けて筆者ブログに随時載せていきたいと思う。岡田さんへの思いを辿り直す作業である。追悼の代わりともさせてもらいたい。

「岡田幸文個人誌」の体裁は、少し厚手の真白い一紙の表裏を誌面としたもので、表面には自作詩1篇が載せられ、裏面には連載形式の良寛論がおかれている。さらに版組を変えて〈あとがき〉が加わる。紹介は詩篇部分しかできないが、本来は表裏で一つの世界である。なお、誌面は、〈あとがき〉を除いて本来縦書きであることをお断りしておきたい。
 
 では以下「岡田幸文さん追悼1」として最終号となった「岡田幸文個人誌 冬に花を探し、夏に雪を探せ。」No.11号(2019930日発行)に掲載された詩(「土堤の論理」)を最初に紹介し、続けて筆者礼状をそのまま掲げる。


土堤の論理                 岡田幸文

いきなりこのわびしい土堤の道が目の前に現われた理由を誰に尋ねればいいの
 だろう
もはや引き返すことはできない
ともかく河口に向かってみよう
歩きはじめると 彼方には何本かの煙突とコンビナートの建物と思しきものが揺曳していた

なにも考えない
それが歩行の原理であり 土堤の論理であった
土堤を行くものはほかに誰もいない
鳥でも飛んでいればいいのに

どのくらい歩いただろう
やがて河口らしきものが見えてきた
それはしかし地上と空との境界を目くらますかのように乱反射する光にさえぎられてかたちをなしていなかった

その光に吸い込まれていくように歩いていくそのとき
これは前に一度歩いた土堤であるということに気がついた
たしか一九六九年の冬であった               
No.11号)

〈礼状〉
拝復 甚大な被害をもたらした今回の台風(註、台風19号)。我が家近くの新河岸川も氾濫寸前でしたが、これといった被害もなく無事に済みました。気候変動による今後が気懸りです。ご無事でしたでしょうか。
 貴個人誌№11、ありがとうございました。〈あとがき〉が重すぎて思うような読詩感とはまいらぬかもしれませんが、一二の感想を掲げるとすれば、まずは「土堤の論理」なる、なにか曰くありげな詩題のこと。意味としては途中で明かされるものの、表題化の意図が終始念頭を離れないままであったこと。なるほど土堤とは「なにも考えない」ものの態となるが如くであって、しかも堤上の者をその在り方で一方向に導くもの。かつその定性を誘因として人の思いを前方の景観に膨らませるもの。ときには期待値となって「どのくらい歩いたのだろう」と感慨的な思いに誘うもの。それも含めて「論理」内として解すべき詩行の連なりかと思いきや、実は最後の一行の伏線でしかなかったこと。その意表を衝く結末――「たしか一九六九年の冬であった」の切り上げ感とその結実度。仮の姿でしかなかった「論理」。ここに至って一気に立ち上がる詩想。あるいは新規の「論理」。かく結末に立ち会ったものは、本詩が回想に辿り着く形を借りながら、じつは回想を生きなおす、はじまりの断定形であったことに思いが至り、それまでの土堤の形状を真似たかのような各連の長行形を前に、それが導くはずだった予定調和に裏切られる形で、実は詩的構造としては短行形にしかるべく軸足が置かれていたこと。仍って、その伏在感に目覚ましい詩的緊張感を味わったこと、等々であった次第です。
再刊の日を鶴首しつつ、御身のご快復を祈念して止みません。
20191023
渡邉 一
岡田幸文様

 *〈あとがき〉突然ですが、この「冬に花を探し、夏に雪を探せ。」は、今号をもって休刊さていただくことにしました。理由は筆者の体調によるものです。身体のことばかりは思い煩っても仕方りません。いまは静養に努めんと思い定めました。短い間でしたが、ご愛読いただき、ありがとうございました。みなさまのご健康をお祈り申し上げます。(岡田)