2019年12月15日日曜日

岡田幸文さん追悼1

  2019129日、岡田さんは逝去された。享年69歳。僕と同年。電車が同じだったのでイベントや催しの2次会、3次会の帰りの車内で「お互い体には気をつけましょう」といつも声を掛け合っていた。よもやこんなことになろうとは。ことばがない。ただただ無念である。

 1214日(土)午前10時、「岡田幸文さんお別れの会」が開かれた。詩人の中村剛彦氏による司会(朗読)。岡田さんと長いお付き合いのある詩人の八木幹夫氏と岡田さん・かず子さんご夫妻と長い親交のあるイタリア文学研究者の鷲平京子氏お二人のお別れの言葉。そして岡田さんの詩の朗読と続けて流された「イマジン」。最後に喪主であるかず子さんのごあいさつ。

中村さんは、元ミッドナイト・プレス副編集長で岡田さんとながくお仕事をともにされて来られた方。岡田さんへの深い敬愛の念が滲み出た、生前の岡田さんに語りかけるような司会は、詩の朗読時もそうだったように(朗読される自作詩に耳を傾けている感じがしてしまい)、死が我々と岡田さんを分かつのをしずかに拒んでいた。

八木さんは、岡田さんが編集長をつとめた『詩学』以来の長いご友人であり、岡田さんが設立した詩の出版社ミッナイト・プレス(1988年設立)から複数の詩集・詩論を出されているだけでなく、詩誌(「midnight press WEB」ほか)上で主要なゲストとして参加されたり、また近年ではミッドナイト・プレス開塾の「山羊塾」(2015.52019.11)で16回にわたって講師を務められたりしてきた。岡田さんが深い信頼を置かれてきた掛替えのないお方(先輩詩人)であった。出会いの折のエピーソドの紹介に若かりし頃の知らない岡田さんの姿を思い、詩社設立にかけた思いの紹介には、詩とともに在った、在り続けられこられた岡田さんの人生をあらためて深く思った。いずれも岡田さんのお人柄を誘い出す滋味溢れた語り口(語りかけ)であった。

鷲平さんは、大きく二つのお話で岡田さんを送られた。一つは、出会いのときの印象を含めたのお人柄の話。一つは、岡田さん・かず子さんお二人の夫婦としての在り様のお話。お人柄のことで印象深かったのは、出会って最初の印象が比叡山の修行僧のような苦行に身を晒しているような面立ちであったということ、それが語らいを重ねていくうちに、外見とは裏腹にお公家さんのような内面をもっていたのでと出会いの頃の印象深い思い出をお話しくださったこと。思わず略歴紹介にあった、岡田さんが幼少期を過ごした土地(京都・下鴨神社の近く)を目に浮かべることになる。もう一つのお話――夫婦というより仲良し同士の男の子と女の子のような関係であったという微笑ましいばかりのお話。お二人を知る者にはよくよく合点がいくところであるが、しかしそれだけに、この間のかず子さんの深い悲しみが胸に迫ることになる。

そして、詩の朗読と流された「イマジン」を聴いた後での、かずこ子さんの喪主としてのご挨拶。憔悴の体から絞り出すために一時を要した発語までの間、途切れがちな声で明かされる入院から亡くなるまでのこの間のこと。あるいはそれ以前の岡田さんが向き合っていた健康状態のこと。無念極まりない早い死。夫が見出した詩人たちや関わってきた若い詩人たちが現代詩の上でさらに活躍してくれるのを願い、早すぎる死のなかで、夫になり替わって夫の篤い志を彼らに託さずにはいられない思いの丈。その披歴。無念極まるお気持ちが終始ことばを詰まらせがちであった。

ところでなぜ「イマジン」が流されたのかといえば、自らを詩人への道に導いた契機であったのが、10代(60年代ただ中)で出会ったビートルズであったということ。そして自作詩「あなたと肩をならべて」(第1詩集タイトルポエム)の「あなた」とはジョン・レノンにほかならなかったということ。

ジョン・レノンの突然の死に寄せた詩であったにちがいないと紹介された、その自作詩の朗読と「イマジン」を聴き、ご親族並びに多くの知人・友人に見守られて後、岡田さんの魂は、当日の抜けるような蒼い空に還られていった。

 式場は、荒川の傍らにあった。われわれ数人は、会が終わった後、ご一人の発案で荒川の土手に登り、そのまま駅方面にしばらく土手上を歩いた。偶然であったのだろうか、その「ご発案」は。岡田さんからの促しではなかったのか。なぜなら岡田さんの個人誌の最終号に載せられた詩篇は、以下のとおり「土堤の論理」だったからである。

 本稿(連載予定)は、毎回送ってくださった個人誌に筆者が送った礼状の転載である。これから号を遡る形で何回かに分けて筆者ブログに随時載せていきたいと思う。岡田さんへの思いを辿り直す作業である。追悼の代わりともさせてもらいたい。

「岡田幸文個人誌」の体裁は、少し厚手の真白い一紙の表裏を誌面としたもので、表面には自作詩1篇が載せられ、裏面には連載形式の良寛論がおかれている。さらに版組を変えて〈あとがき〉が加わる。紹介は詩篇部分しかできないが、本来は表裏で一つの世界である。なお、誌面は、〈あとがき〉を除いて本来縦書きであることをお断りしておきたい。
 
 では以下「岡田幸文さん追悼1」として最終号となった「岡田幸文個人誌 冬に花を探し、夏に雪を探せ。」No.11号(2019930日発行)に掲載された詩(「土堤の論理」)を最初に紹介し、続けて筆者礼状をそのまま掲げる。


土堤の論理                 岡田幸文

いきなりこのわびしい土堤の道が目の前に現われた理由を誰に尋ねればいいの
 だろう
もはや引き返すことはできない
ともかく河口に向かってみよう
歩きはじめると 彼方には何本かの煙突とコンビナートの建物と思しきものが揺曳していた

なにも考えない
それが歩行の原理であり 土堤の論理であった
土堤を行くものはほかに誰もいない
鳥でも飛んでいればいいのに

どのくらい歩いただろう
やがて河口らしきものが見えてきた
それはしかし地上と空との境界を目くらますかのように乱反射する光にさえぎられてかたちをなしていなかった

その光に吸い込まれていくように歩いていくそのとき
これは前に一度歩いた土堤であるということに気がついた
たしか一九六九年の冬であった               
No.11号)

〈礼状〉
拝復 甚大な被害をもたらした今回の台風(註、台風19号)。我が家近くの新河岸川も氾濫寸前でしたが、これといった被害もなく無事に済みました。気候変動による今後が気懸りです。ご無事でしたでしょうか。
 貴個人誌№11、ありがとうございました。〈あとがき〉が重すぎて思うような読詩感とはまいらぬかもしれませんが、一二の感想を掲げるとすれば、まずは「土堤の論理」なる、なにか曰くありげな詩題のこと。意味としては途中で明かされるものの、表題化の意図が終始念頭を離れないままであったこと。なるほど土堤とは「なにも考えない」ものの態となるが如くであって、しかも堤上の者をその在り方で一方向に導くもの。かつその定性を誘因として人の思いを前方の景観に膨らませるもの。ときには期待値となって「どのくらい歩いたのだろう」と感慨的な思いに誘うもの。それも含めて「論理」内として解すべき詩行の連なりかと思いきや、実は最後の一行の伏線でしかなかったこと。その意表を衝く結末――「たしか一九六九年の冬であった」の切り上げ感とその結実度。仮の姿でしかなかった「論理」。ここに至って一気に立ち上がる詩想。あるいは新規の「論理」。かく結末に立ち会ったものは、本詩が回想に辿り着く形を借りながら、じつは回想を生きなおす、はじまりの断定形であったことに思いが至り、それまでの土堤の形状を真似たかのような各連の長行形を前に、それが導くはずだった予定調和に裏切られる形で、実は詩的構造としては短行形にしかるべく軸足が置かれていたこと。仍って、その伏在感に目覚ましい詩的緊張感を味わったこと、等々であった次第です。
再刊の日を鶴首しつつ、御身のご快復を祈念して止みません。
20191023
渡邉 一
岡田幸文様

 *〈あとがき〉突然ですが、この「冬に花を探し、夏に雪を探せ。」は、今号をもって休刊さていただくことにしました。理由は筆者の体調によるものです。身体のことばかりは思い煩っても仕方りません。いまは静養に努めんと思い定めました。短い間でしたが、ご愛読いただき、ありがとうございました。みなさまのご健康をお祈り申し上げます。(岡田)

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