2019年12月11日水曜日

[つ]2 辻 仁成からの遡及~70年代文学の系譜~

20131030日水曜日
[つ]2  はじめに
 どこで読んだか思い出せないのだが、村上春樹の出現によって、文学の意味はまるで違ったものになってしまった、というくだりを覚えている。知られた村上春樹研究者の言であったと思う。また別に村上春樹自身が語っていることで、これもどこで読んだか思い出せないのだが、この世にありえないような世界(物語)だが、それをこの世(現実の世界)にあるように書き表す、それが僕にとって小説を書くことの意味であるし、自分が小説家であることの意味である、というくだりのことも覚えている。「まるで違ったものになってしまった」を、かりに作家の表明的一言と結びつければ、村上春樹以前では、ありえない世界をありそうには書けなかったことになる。文学史に精通しているわけではないが、日本文学には村上春樹に至るまでたしかにそのような小説の「形」はなかったかもしれない。「形」という限りそうに違いない。

この世にありそうにない世界をあるように書くのは、幻想とか夢想とか、あるいは精神疾患の妄想に還されて足許を掬われるような話しではなく、それを日常の仕組みで再日常化させるという点において、まるでバーチャル・リアリティーにも等しい仕業である。仮想だと分かりながらも現実でしかない小説的な時空間――デジタル技術以前に止まる限りいくら頑張っても、足掻いてもどうすることもできない。なにも文学史を持ち出す必要もなかった。科学技術の発達史というべき類だからである。物理学で言えばニュートン力学と量子力学との違いの程の差である。

おそらく「まるで違ったものになってしまった」とは、この意味において新領域の創出として語られたことではなったか。まさに「科学的大発見」の部類である。一新されたのは(されなければならないのは、と言うべきかもしれないが)、既存の小説体系だけではない。文学論もまた更新されなければならない。なぜなら、村上春樹の作品のなかでは、基本的に登場人物には文学論的重みが備わっていないからである。人間を描いているわけではないのである。「人間」を描かない文学――となると「文学論」の逸脱でしかない。新領域の横顔である。更新が必要となる所以である。

 しかし、それが大発見であっても文学は自然科学のようにはいかない。発見を前提としないでも「研究」は進む。作品は発見を他所に生み出されていくのである。それが、村上春樹以降の現状(男性作家の現状)である。以下は「現状」を辻仁成に置き換えて、村上春樹の「発見」の具体的再述や「発見」当時の文学状況を、辻仁成に向けて系譜論的に記述するものである。なお、前置きが長くなってしまったが、記述の目的は、村上春樹にあるのではなく、辻仁成にある。文学の現状に些かの関心を有するためであるが、それ以上に後段言及するように彼の「故郷」のためである。


1 問題の基点

『ニュートンの林檎』の読後感 ところで(前置きは一先ず棚上げにしておいて)、以前から気にかかっていた、標題の遡及的な文学系譜論にあらためて言及しようと思ったのは、辻仁成の最初の長編小説である『ニュートンの林檎』(連載期間199395年、刊行1996年、集英社)に接してからである。文庫本(上・下)では700頁を超える大作である。「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞したのが、1990年の30歳の時であるから、連載はその3年後のことである。文庫本の帯を兼ねた裏表紙の一文(締め括り部分)には、「圧倒的なスピード感とパワーで描く、渾身の長篇。」とある。

なるほどスピード感か、読後感だけではなく、読み進める最中のまさしく実感であった。場面の展開に躊躇がない。なさすぎるほどである。振り返る暇もない。与えられていないというべきか。才能の奔放な発露、あるいは創意の爆発的な発散(〝発狂〟)であることには間違いないが、読み進める内に途中から疑わしい思いを抱きはじめることになる。目覚ましい展開力、否、過ぎたるほどの突発的な発進力故である。こんな世界がはたしてあるのだろうか、あるはずがないという疑問である。それも同じ疑問でも奇異が先立つのである。

個性的に過ぎる個性(ただし主人公ではないし、それが問題なのだが)とその個性がつくる現実離れした事件の数々(極めつけは外国で暗殺者になるくだり)は、それがいくら小説だからでも納得できない飛躍(突飛さ)で、なによりも一人の個人(この場合は語り手でもある主人公)の身辺に矢継ぎ早に惹起される繰り出し方であり、普通の生活の中に起こりうるはずもない、ハードボイルドな事件性の過剰さ・頻発性であるからだ。しかも、小説の書き出しでは、かかる大技を仕掛けられるような作中人物の「個性」はまるで予感もさせなければ予測もさせない、抒情的な青春小説のようなノーマルな語り出しであり、その中での出会いである。

  佐伯元子と出会ったのは、僕が大学1年に春のことで、場所は硝子張りの大きな窓で囲まれた、近代的で、どこか外国の美術館を思わせる瀟洒な造りの学生ホールであった。そこには何かが始まる予感で溢れていた。新入生なら誰もが、これからの大学生活に強く期待を抱いていた前程万里の時期だ。春に暖かい日差しに煽られて、学生たちの顔には滲みだすような笑みが絶えなかった。
                       ――「1978年 春」冒頭部

そして、その後で同じサークルで再度出会う二人(新入生男女)である。再度と言っても普通の出会いを超えるものではない。まさしく絵で描いたようなキャンパス・ライフの一コマにすぎない。それが、気がつくと、まさに小説の中でしか出会えないような超越的にして隔絶的な個性が、出会いの時の姿形のままに目の前に立っていることになる。そして事件が起こされる。起こされるのは構わないが、押し付けてくることである。作品に巻き込まれるのは小説一般の在り方で、むしろあるべき姿であるが、この作品ではどこかが違う。その違和感が遡及へ向けての第一歩であった。


渾身の「ウソ」  読者にとって作中人物は「現実」である。それ故である。決して小説の中の人物では終わらないのである。惹き起こされる事件にしてもまた然り。作品に力がないのなら構わない。同伴者になることも目撃者になることもないからである。こんな言い方をするのは、意に反して冒頭から創作力を高く予感させるものがあるからである。まるで彼の読者であることは、単なる目撃者を超えて共犯的立場を受け容れる関係に近い。引き受ける関係というべきかもしれない。おそらく主人公に一人では受け止める力が不足しているからである。強いられているわけではないのに、自然と同行者たる側に立ってしまっている。

いずれにしても事件の目撃者だけならまだいい。通行人のようにして一瞥を加えて通り過ぎればいいからである。探偵もの、スパイもの、あるいはギャングやヤクザものならこれで済む。同行は求められていない。最初から観客席しか用意されていない。それがこちら側に立ってしまう。同じ歩道上である。それも作品の中に潜りこめたということであるなら前向きに捉えられることになる。そこまではいい。問題は、主人公になり切れないことである。目の前で起こっていることに当の本人が平然としているからである。同行者となることは主人公の人間関係にも深く関わることである。実際のところ「佐伯元子」は、主人公を挟んで傍らにいるのである。居並んでいるのである。

さらに言えば、同じ日常を共有していた共同正犯ともいうべき精神的な間柄なのである。それが知らぬ間に、三者関係を逸脱して助走もないままに一足飛びにはるか彼方に着地してしまう。あるいは横跳びに大きな通りの反対側の歩道の先にまで大きく身を翻らせてしまう。気がついたら彼(主人公)の傍らにいないのである。しかも彼はついていかないのである。それでは紐帯関係に最初から背を向けているようなものである。たまたま横を歩いていた見知らぬ通行人でしかない。でも彼は、佐伯元子を心から愛し、彼女は彼女で唯一の友人と言って、思わせ振りに肉体関係に「友人」の度合いを深めるのである。

事件性もさることながら、どうもこれは違う、そう疑いだすのである。「ウソ」がある。露骨な言い方かもしれないが、そう思ってしまうのである。しかもまっとうな感覚だと思うのである。「日常」は小説に勝る。あるいは小説の「ウソ」を見破ることになる。そして、これは小説論にかかわることと思うことになる。「ウソ」だけならそれで終わるが、それとは違う「ウソ」――言ってみれば「ウソ」に貫かれた「ウソのウソ」ともいうべき「ウソ」、一つの「リアリズム」。「ウソ」を抱えながらも減速感を覚えることなく、なぜこれほどに書けるのか、「圧倒的なスピード感とパワーで描く、渾身の長篇。」の「パワー」は正真正銘のものだからである。「渾身」には「ウソ」はないのである。こんなパワーの源は、小説論と言っても世代論の領域に発する「新しさ」に違いない。新しさだとすれば遡らなければならない。「辻 仁成からの遡及」である。

2 二つの村上文学

世代論上の三者 この場合の世代論とは、具体的には主人公の在り方それも世代的在り方と、主人公が作為可能な物語(世代的物語)との二つの要因に見出されるものの内、とりあえず三者に関わる範囲である。具体的には「個」と「物語」との在り方に見出されるもの、それ以上ではない。

上掲辻作品の長編の起点は「1978年春」にあり、終結点は「1999年春」におかれる。1978年春から1999年春までという辻仁成の長編が設定したこの時間幅は、文学史的年代に置き換えると、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年)の2年後に開始時点を置くことになる。村上春樹の『風の歌を聴け』(1979年)ではその1年前である。また別に、作者間の生年を、1959年(昭和34)生まれの辻仁成から見ると、村上龍が7歳年上の1952年(昭和27年)生まれ、村上春樹が10歳年上の1949年(昭和24)生まれとなる。

世代論で意味があるのは、作家の生きた年代、とりわけ青春期と重なった時代相であるが、60年代後半から70年代前半の村上春樹と70年代前半から中頃の村上龍に対して、70年代後半から80年代前半の辻仁成の場合は、村上龍とは連続的ながらも異世代で捉えられることになる。基準となるのは、全共闘世代か否かである。大学生の時にその最中に在った村上春樹、高校生の時にそうだった村上龍、すでに過去のこととなっていた辻仁成。ここから一気に小説論に持っていけば、体験差(全共闘体験差)とは、思わせ振りながら「ウソ」の差でもある。言い換えれば、三者の処女作(デビュー作)後から最初の長編の在り方の差である。

村上春樹の最初の長編『羊たちの冒険』は、処女作3年後の1982年(33歳)、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』の場合は、4年後の1980年(28歳)、そして辻仁成の『ニュートンの林檎』の場合は、35年後(連載)の199395年(単著本刊行は1996年)である。因みに三者の最初の長編年齢は、2836歳で少し幅があるが、デビュー作との間は35年後で年数の幅は小さい。執筆年齢とともに後述する「物語」を生みだすまでの間として意味のある数字である。

今、この3作を世代論的に比較する際に「基点」となるのは、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年)である。賛否両論の中での物議を交わした芥川賞受賞であったが、賛否が物語るのは、単なる受賞劇上の一エピソードに終わるものではなく、一つの文学史的な出来事、さらに言えば文学史的事件であった。ただし科学の分野と違って一人の天才の発見が惹き起こした個人的な事件というよりは、はるかに大衆的なものであった。遅かれ早かれ誰かの手によって惹き起される「事件」であった。作品に先行していた現実は、遅くとも56年早く「作品化」されていたのである。

70年代体験(個人的) たとえば個人的なことを言えば、ブログ執筆者のかつての友人は、某米軍基地に近い「ハウス」を棲み家にして、競輪に明け暮れていた。その時は生活破綻者的な日々を送っていたが、もとはニューミュージック(ロック)のプロデューサーで羽振りを利かせていた。あまり自分のことを明かさなかったので、創作していたかは知らなかったが、文学的感覚は秀逸だった。以下は、その彼とのかつての付き合いの一コマである。思い出風に綴る。

――「泊って行けよ」そう言ってある日、都心から遠いハウスに案内されたことがあった。ステレオとレコードしかないような何もない寒々とした部屋だった。お前はクラッシクだからな。そう言って、聴きたくなければかけないが、と言われたのをかけてもらった。「西海岸」の音楽だった。友人は寡黙な上に寡黙だった。まるで息継ぎも儘ならないか細い喋り方だった。背中まで下がった長髪の中の蒼白い顔は、髪の中でいつも俯き加減だった。とくにその頃は生活にも疲れていた。曲名もミュージシャンの名もなにも知らなかったが、「ソウル」に直接響き渡る音楽だった。耳元の感触だけが長く残った。

夜道をハウスに向かう途中だった。非番の黒人兵とすれ違った。二言三言、黒人兵たちから声がかけられた。応答する友人は、別人のようだった。生き生きとして声を弾ませていた。その友人が言った。明日、朝方、入口の扉や窓がガンガン鳴らされるが、しばらくじっとしていてくれ、その内に収まるからと。家賃滞納だった。中にいることが分かっている相手(取り立て人)は執拗だった。○○さん! ○○さん! と家の周りを何周もして扉を激しく叩き、カーテンの下がった窓ガラスを強く打ち鳴らした。恐怖を感じるほどだった。

取り立て人が立ち去ると、なにもなかったかのような顔をして、じゃこれから「仕事」だから、と言って「ノート」を小脇に抱えて駅に向かった。「競輪ノート」だった。競輪には「人間」があると言われた。「じゃまた。」友人は「仕事先」の駅で先に下りた。

前提としての時代 誰かがいずれ書くことだった。あるいは友人が先に書いていたかもしれない。しかし、やはり書けたのは村上龍でしかなかった。一義的には個人の文学的才能によるものであったとしても、年齢と年齢が過ごした時代も無関係ではなかった。あるいは世代論上では決定的要因だった。村上春樹によって『限りなく透明に近いブルー』が書かれたわけではないからである。3歳差は、全共闘運動を全体の中で体験したか否かの差である。「全体の中で」とは、自己風景と化した都市(とりわけ首都)の中でという意味である。自身の傍らで自己所有されることになる都市。滅多にある「体験」ではない。それ故(体験の大きさ故)に容易にエクリチュール(散文)には気分が向かわない。実際は都市の抵抗であった。気がつかないだけであった。

おそらく、個人が全体と繋がっていた、ということであった。文学的に言い表せば、逆説に聞こえるかもしれないが、疎外されていなかったことであったはずである。前提となる時代観であった。表向き個別化や差別化が強く求められていても、「個」はこの前提の上に揺るぎなく立っていた。時代のなかにいては気がつかないことであったかもしれないが、今から思えば、先に村上龍が書き、その後で村上春樹が『風の歌を聴け』を書いたのは、実に自然な推移であった。「前提」の意味を読み説くには、個人の資質を超えてそれなりの時間が必要だったのである。

なぜなら「前提」の上に在った「個」は、十分に方法論をもっていたからである。疎外されていないことの何よりの証拠である。友人のアナーキーなニューミュージックも、あるいは別の友人(先輩)のアンダーグランドの演劇も、または別の文学仲間たちもたっぷり「個」に拘り、「個」を内在化に深める入口の前に個々別々に立っていた。気がつかなかっただけである。それが(内在化が)、既存のなかでしかなかったことには――。薄々感づいていたとしても「物語」を生み出せる「方法論」に向い合うまでにはいまだ自覚化されていなかったのである。日々、「個」が試されているかに思いこんで無自覚に混迷を深めていたのである。しかし、錯覚だったのである。「現実」と思い込んでいた「個」は、しっかりと用意されていたものでしかなかったのである。


断線的「事件」 当時、誰がどのように読まれていたかを掲げれば一目瞭然である。たとえば(と言っても一人二人を上げて済む話ではないが)、島尾敏雄であり大江健三郎であれば、それは「個」をまともに引き受けることであったし、三島由紀夫であったとしてもそれはあからさまな「個」に嫌気が差したからではない。逆照射に眩い輝きが見られたからである。安部公房の場合でれば、虚実の境から再び「個」に立ち戻る交錯的なプログラミングを自己演算しながら、「影」や「仮面」を生きることができたからである。

肝心なのは、いずれの「個」も「物語」を伴っていたことである。「個」=「物語」であった。構造化してしまうと味気なくなってしまうが、この等号関係は、近代日本文学の確立期以来の大前提であった。それが崩れたのである。断絶である。断線と言った方がいいかもしれない。これは「事件」以外の何ものでもなかった。ただし、再確認しておかなければならないのは、「物語」で断線させたのではないことである。それが誰かがいずれ書くだろうと言った背景である。それでも「個」の側だけで事件足りえたのは、それ自体が文学史的意義を有していたからにほかならない。そして、それは誰の「個」でもよかったわけではない。等号関係の縛りからより自由でいられた者、縛りを受けていてもより緩やかな程度で済んだ者でなければならなかった。したがって3年の年齢差とは実数以上の大きな実質差であった。しかも文学的才能に有利に働いた3年差であったことは、戦後文学史にとって微妙でかつ決定的なことであった。

それでも村上春樹が、3年後の1979年には、後の物語性を作中人物たちの身辺に漂わせた、それも等号関係を力づくに截ち切る村上龍の外向的な「個」ではなく、内向的な「個」として対照的に書き上げることができたのは、まだ時間がかからなかった方かもしれない。私小説的な「個」と一線を画した「第三の新人」に軸足の一方があったからにちがいない。本人の「第三の新人」論(村上春樹『若い読者のための短編小説案内』、1997年)が具体的に物語るところである。
いずれにせよ、二人の前で戦後文学はいったん「物語」を失ったのである。たんなる「事件」で終わるわけがなかった。辻仁成の「物語」の約15年から20年前のことである。


村上龍の意義 そして新たな「物語」に向かっていく。ここでも先陣を切ったのは村上龍である。1980年発表の『コインロッカー・ベイビーズ』である。まるでその成果を見届けるかのようにして、1982年に村上春樹の『羊たちの冒険』が発表される。その3年後にはさらに大長編(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)の世界へと発展していくことになる。なお村上春樹には中長編の第2作『1973年のピンポール』(1980年)があるが、もっぱら「個」の伸長に費やされたもので、いまだ「物語」以前である。やはり中長編として第2作『海に向こうで戦争が始まる』(1977年)を作り上げた村上龍の場合は、単純に第1作の伸長ではなく、「物語」論からはいささか問題作である。「物語」には至っていないが、「方法論」と意欲的に向き合い、方法論が創り出した新奇さには、創作的な成果が少なからず得られているからである。あるいはこの「方法論」の先に「物語」を生み出していたなら、違った80年代文学史の扉がもう一つ開かれていたかもしれない。

しかし、村上龍が選択したのは、『コインロッカー・ベイビーズ』という題名からも知られるように、社会面的な「現実感」の方であった。作品展開のあり様も構築的で肉体的な律動感に溢れたハードな世界であった。核となるのは「暴力」である。事の過剰性である。暴力のための暴力とさえいえるほどである。倫理は端から損なわれている。日常的な範囲内には普通見出せない世界である。それどころではない。大きく逸脱している。むしろ逸脱するための暴力でさえある。つまるところ、「暴力」に支えられた「現実感」である。同作品を辿るとは「暴力」に試される内的葛藤でもある。

問題は、「暴力」それ自体にあるのではない。「物語」として構成されていることにある。すでに「物語」以前の『限りなく透明に近いブルー』ではないからである。読む側では受け容れられるか否かが試されることになる。文学的段階が違うのである。関係性が試されているのである。関係性以前に止まっている「個」の段階(文学的段階)ではすでにない。「物語」が求めているのは、最初から「全体」である。

いかに関係性を全体として確保しようとしたのか。小説法である。作者が選択したのは、「物語」以上の「現実」だった。単独にそれ自体でも成立するものであった。「捨て子」事件である。題名として採られた「コインロッカー・ベイビー」だった。

単独で成立するのは、単なる捨て子ではなかったからである。遺棄だった。死体遺棄のような遺棄事件だった。しかもほとんどはコインロッカーのなかで息絶えていた。だから遺棄だけではなく「殺人」事件だった。1970年代前半に実際に起こった出来事である。社会問題にもなった。「殺人」性を帯びていたことで、個別の事件性を超えて「全体」に行き亘り、所与の条件を変えて現実を再構成するものであった。すなわち受け容れを拒めない関係性で構築され、それ自体で「物語」と化すものだった。

採られたのは題名だけではなかった。冒頭の一文としても採られていた。最初から一線を踏み越えていた。かくして、「捨て子」の場面から一気に開扉されたことで、冒頭から続いていく以下の出来事は、予め免罪符を得ていたかのように、めくるめく起きる事件のなかでも、関係性(異常を常態とした関係性)は変わることなく維持され、あるいは逆に高められていく。その冒頭部分(一部)。
――「駅に付くと女は一番奥のコインロッカーに段ボールを押し込み、鍵を生理綿に包んで便所に捨てた。熱と埃で腫らんでいる構内を出てデパートに入り、汗がすっかり乾いてしまうまで休憩所で煙草を吸った。パンティストッキングと漂白剤とマニュキュアを買いオレンジジュースを飲んだ。喉が渇いてしようがなかった。洗面所で、買ったばかりのマニュキュアをていねいに塗っていった。」


村上春樹の登場 そこで村上春樹である。いかにして「物語」を手に入れようとするのか。村上春樹が入手したのは、異常のなかではなく、凡庸でさえある平常のなかであった。村上龍と決定的に違う点である。凡庸の中というならなにも村上龍に限らない。たとえば三島由紀夫でも同じだった。創作的発想が「異常」から採られている『金閣寺』で言えば、それを美学的・哲学的な「個」から「異常」を「普遍」に高めていたとしても、「異常」なしには成り立たない「物語」であり、三島の文学世界そのものが「異常」を創作的意欲としている。「異常」との人格関係には差異があるにせよ、「異常」に開始する作品は多い。むしろ創作的自然である。

しかるに村上春樹の場合には、たとえ死のような非日常的な出来事が冒頭に掲げられていたとしても、新聞の社会面のトップをにぎわす死などではなく、交通死亡記事のなかに取り上がられた、それもたまたま業務上過失致死であったために、普通事故よりは少し目立っていたにすぎない。死を蔑にするわけではないが、「異常」とは程遠い事故死でしかない。その上、最初に記事を見出したのも、主人公「僕」ではなかった。「僕」の友人であり、友人にしても偶然に目にしたにすぎなかった。それでも、前置きを控えめに抑えておいて、手の平を返したように物々しく本題にはっていく作為的な「物語」も多い。常套手段でさえある。しかし、村上春樹の場合は、まったくの前置きでしかなく、本筋もそれ以上に高ぶって始められていくことはない。自然な移行状態が保たれる。

――「僕が始めて彼女に会ったのは1969年の秋、僕は二十歳で彼女は17歳だった。大学の近くに小さな喫茶店があって、僕はそこでよく友達と待ちあわせた。たいした店ではないけれど、そこへ行けばハードロックを聴きながらとびっきり不味いコーヒーを呑むことができた。」

なんともとぼけた人をはぐらしたような書き出しである。ハルキ流と評される所以であるが、第1章の実質タイトルも「水曜の午後のピクニック」である。長閑ななんの事件も出来事も――起きてもせいぜい女の子と「寝る」程度で、それもピクニック気分である。無為に流されてなにも起きない。このまま終わるかと思っていると、起きないはずのところへ、会話の延長としては不用意な響きをもった一言が差し挟まれる。

――「25まで生きるの」と彼女は言った。「そして死ぬの」/(改節)/「19787月彼女は26で死んだ。」

11行のみによった章の閉じ方である。彼女のこの一言が、唯一、「物語」の動機になり必要性にもなっている。彼女の真意や意図を測りかねても、それ以上ではない。不用意な違和感はあっても、「異常」の側に分類されることはない。逆である。「平常」の仕組みを下敷きにした、単なる言葉の綾(思わせ振りな女の子の一言)でしかない。

しかし、村上春樹によって開かれていく「物語」は、この「思わせ振り」の先に通路を延ばし、いとも簡単に関係者を日常の裏側に誘いこんでしまう。誘導された自覚もないのに、気がついた時にはすでにそこが「現実」になっている。非日常であるにもかかわらず日常の中でしかないこと。背中合わせでしかなかったこと。あるいはただ回り込みさえすればよかったのに気づかずいたこと。それだけではなくこの現実もそれによって保たれていたこと――要は、その構造性の秘密。否、「発見」の構造性の秘密である。

あるいは、厳密な意味で「裏の現実」ではなく、「現実の裏」であるもの。同時に「現実の表」であるもの。それは「鯨のペニス」と自分の「性」との連携であったり、いとも穏やかな道徳的な「離婚劇」であったり、一人の女性の「耳」との人体的邂逅であったりする。情況次第で表にも裏になる「出来事」――つまり「裏」と「表」とのインターラクティブであり、時にはユーモアに姿を変える仕組みである。

そして十分トレーニングを積んだ後で(積まされた後で)「その男」がやってきる。対面上は「表」を装っているが、おそらく「裏」からの訪問者なのであろう。推理が働くのは、確実に訓練の成果が現れていることを教えている。さらに「迎えの車」が現れる。「先生」なるあらたな世界を予感させて余りある人物へのもとに「僕」を運ぶ車である。


「物語」の導入 このまま辿って行っていく余裕がないが、かくして「現実の裏」に導かれる。問題は導かれ方である。導かれ方自体が文学になっているからである。「現実の裏」だけならいくらでも文学として創られてきた。それに奇想奇抜な作品には事欠かない。しかし人は、夢や幻想あるいは妄想、実態を欠いた時空間のなかでなら、自分たちの立ち位置に動揺を来すことも、不安に脅かされることもない。此岸に立って「物語」は対岸にしかない。見守るだけである。感興をそそられたとしても、それも見込みの内である。これは、創りものの原理というべきであり、既存の「物語」の既定路線でもある。

村上春樹が創り上げたのは、この原理や既定路線への侵入・浸食である。こんな叙述世界はかつてなかった。日本文学の領域だけに止まらない事態であるはずだ。客観的には奇抜であっても「物語」には、倫理があり礼節があり、尊敬・尊厳の念も忘れていない。なによりもヒューマンであるからだである。世界の時空を超えて人間の真性に届いているからである。そして社会の秩序もあるべき姿に再生されるのである。

しかしそれでいて、人間の複雑さにもしっかりと「哲学」で応えているのである。たとえば、未知の距離感の前に立たされるとする。かつて辿ったことのない、始点も終点も知らされていない距離感である。端に立っているようにも真ん中に佇んでいるようにも思われてしまう。測点がないためである。振り返った先にも、反対に頭をもたげた先にも自分が同時にいる。おそらく、生命的な距離感である。手を伸ばせば生命の源にまで届きそうでも、でも届かない。その都度引き離されてしまう。それも他人ならいざ知らず自分の手で引き離してしまう。ようやく気づくのである。距離感は自分のなかの矛盾であったことに。「存在」が形を変えたものであることに。しかも気づいた時には再び距離感の中に佇んでいるのである。

村上春樹の文学は、なにごとも人(社会)の所為にしない。することがあっても比喩(特徴的な比喩)のなかでしかない。「現実の裏」も結局還されるのは自分のなかである。すべてが自己の範囲にある。もちろん「異常」の文学にも自己は必須である。自己追求にしてもシリアスである。村上龍の場合には攻撃的で呵責ない粛清である。痛みには一切手加減がない。しかしそれでも読み手側に止まるかぎりは、事態の推移に自分が巻き込まれることはない。過激であれば過激である程、常軌を逸していればいる程、「物語」に対する位置関係はより観劇的になる。たとえ複雑に考えさせられることになっても、登場人物に人物への悪意を捨て切れずに対峙させられることになっても、それでも向き合っているのは、異質の人格者達である。「読者」の範囲に止まることを内諾する人格者たちである。

だからこそ違う。村上春樹の叙述から現れてくる「自己」は違う。村上龍との場合だけではない。誰とも違うのである。叙述が、「物語」そのものではなく、「物語」を成立させるなかに企図されているからである。まさしく成立が優先しているのである。しかも仕組みとしては、「平常のなか」にとどまっているからである。「僕は普通の人だから」と、そっとしておいて欲しいとマスコミを避ける作家の気持は、その意味からも「本心」であるし、それ以上に創作の原点なのである。したがって、普通の人と違う外見性は、彼の場合、採りたくても採れない。皮肉で言うわけではないが、役者にも映画監督にもなれないのである。なれてもランナー(市民マラソンランナー)止まりである。そして嘯くしかないのである。「一に足腰、二に文体」と。


世代論のなかの「個」 いずれにしても、「成立させるための叙述」それ自体で「物語」たりうる世界が見出されたことの文学史的意義は、さらなる関心に分析者を誘うものであるにせよ、ここで論旨が求めているのは、文学的業績の偉大さであるよりは、「物語の不在」(「物語の一次的不在」)に直面した世代論の方である。言い換えれば文学系譜論の起点となる時代相である。村上春樹に対する関心も、「世界文学史的」作家といえども実は時代から自由ではありえない点にある。むしろ、時代により強く拘束される故に、「物語の一次的不在」であった事態も、「不在」を「不在」のままに克服した点が強調されることになる。世界作家が物語る小説論的逆説である。

全共闘が声高らかに叫んだ「自己解放」や「自己闘争」は、同時代文学にとって「物語」の前提となる「個」に対する自己批判であり糾弾であった。「個」と間に誠実な関係を取り結び、信頼関係のなかで「個」を身体的に受け継いだ世代(戦前・戦中世代)が創る内的文学は、大きな文学的葛藤を演じて見せても、自己対決に「全体の中で」明け暮れる世代には、書くことの意味として疑念としてしか跳ね返って来なかった。巷に溢れかえっていた数多の議論は、ほとんど否定のための否定でさえあった。村上流に言えば、「うんざりするほどに」。時代は真空状態に陥るほかなかった。何も始まらないのである。はじまらないことから始まる。それでも依然としてはじまらない。ほとんど理論以前である。感覚の部類である。

しかし、結論として得られたのが「感覚」、それも手応えのあるそれであったことは、瑣末な言葉にまで人々の疑いを差し挟むことになった。かくして先に村上龍が生まれた。「個」との信頼関係に年齢的に近い側にいた村上春樹には、まだ言葉は生まれなかった。感覚に支配され、「歌」も聴こえてこない。しかし、やがて「個」からの自由が果たされた時、新たに生み出された「歌」は、気の利いた比喩とはいかないが、断線的だった村上龍に対して実に接続的だった。

――「完全な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

この有名な冒頭の一文(『風の歌を聴け』)は、人間に対する優しい心から自由になれない、ただそれがあからさまに出せない「声」の語り主である。継ぐべき大本をもった「個」から生まれた「個」である。接続的の内訳である。

村上龍が優しくないというのではない。暴力が見出す、あるいは暴きだす、虚飾を排した生の人間性に真実を見たいとしているだけである。奪い取られた命に人間愛を直視しようとしたのである。要は真実を見出そうとして剥き出しを厭わなかったのである。それに世代論は、村上春樹ではなく、この村上龍の側に繋がろうとしていく。問題の核心である。しかし、文学系譜論が選択した現実は、その瞬間、なにかを閉ざしてしまった。あるいは必ずしも文学の未来とは言い切れない原野に分け入っていくことになる。今の問題ではないが。


80年代の臭覚 軽口をたたくように囁かれれば囁かれるほど、「優しさ」は彼らの肌に合わない。逆に冗談混じりに告げられた分、異質なものを嗅ぎ取ってしまう。意図的にではない。反射的にである。時代が世代として嗅ぎ取っていたのである。断線した心でなければ嗅ぎとれない臭覚であった。世代論に類する臭覚である。しかも瞬時に嗅ぎとることになったのは、「優しさ」が人格関係に繋がっていたからである。カンヴァスが先に見えていたのである。しっかりと枠止めされたカンヴァスである。透けて見えていたのである。描き出された「人格」(自画像)に同じ気質の人物はいなかったことが。さらなる疎外感や閉塞感がカンヴァスを被っていたのである。閉じ籠めていたのである。

と言っても、これは書くことの意味を問うなかにおいての臭覚であり触覚である。人間的な優しさが希薄しているとか欠落しているとかということではない。むしろ逆に「草食動物」化した世代には、「優しさ」は似つかわしいわけである。それでも、最初から「優しさ」を離れたところにしか見出せなかった。むしろ女性の作家の側に近しいものが感じられるのは、女性が生命的に抱えている「優しさ」から創りだされる「物語」に対して、村上春樹の「優しさ」が、香り高いエキスとなって彼女たちの細胞分裂の働きを活性化しているにちがいないのである。女性作品(80年代以降)を手に取る時、ここで話題にしているような世代論の対極に読み取ろうとしていることがしばしばある。これはこれで、系譜論的なもう一つの読書体験である。

それはともかく、「物語」が作家にとって存在形態を構成する重要な要件であることは、世代の違いを超えたところにある。言うまでもなく辻仁成もその柵から自由であるはずがなく、「個」を「物語」に再編する試練に遭遇することになる。ここに来て村上龍に繋がり、村上春樹に繋がっていかなかったことが問題になる。「ウソ」(文学的手段)の遠因を窺うことにもなる。

3 辻 仁成の文学(90年代)

「ピアニシモ」と「個」 両村上がそうであったように、辻仁成も「個」の段階から出発した。新人賞を受賞した「ピアニシモ」(1989年)である。音楽用語でもあるピアニシモ(ピアニッシモ)の意味は、いうまでもなく「とても弱く」である。一人称主人公である「僕」の「個」である。転校を繰り返し、いじめに遭う「僕」は、弱者である自分のなかに強い味方を生み出す。「ヒカル」というもう一人の「僕」であり、「僕」を応援し同時に批判もする二重化されたもう一人の自己である。受苦受難に対する自己防御が生み出した内的他者である。対照的な性格を生きて常に「僕」を叱咤激励するが、表には顕れない。「僕」は、相変わらず弱者のままである。

作品は、いじめという外界が惹き起こす事象と、「ヒカル」という内的他者との同居状態が生み出す二重奏で繰り広げられ、時には対位法的に葛藤を対極化して見せる。内面と外界を繋ぐのは家庭であるが、家庭のなかでの「僕」は突如主体的に再生し、母親に対して「あんた!」と呼びつけ攻撃性を剥き出しにする。仕事ばかりの父親とは端から疎遠で会話もない。会話以前で父親というよりは「あの人」でしかない。

さらに「世間」がある。しかし、「僕」より大人びた「ヒカル」にとっても世間は、小学生一般にとってそうであるように、直接的な利害関係の外にある世界でしかなかった。実在的な家庭と較べると抽象的な存在で積極的に係わる対象ではない。それに責任関係に乏しい。

それでも責任関係の希薄さは、無責任な立場の許容にも繋がる。妄想的な立場も許容することになる。不平不満を社会(世間)にぶつける。時には破壊に向かう。街の消滅を願う。もちろん街の消滅といっても、小学校の先にあるものでしかない。おおもとにすぎない。大本の消滅である。そうすれば思うようにならないことも、嫌なことも一瞬にしてたち消え去る。もちろん目を瞑っても街が消え去ることはない。目を開ければ同じ街の景色が広がっている。それでも構わないのである。逆に消えてしまったら大変である。重大な責任を取らされることにもなる。なぜそんなことをしたのだ(願ったのだ)、と厳しく問い詰められることになる。言葉に窮して、身体が極まってしまう。子供だからでは最早済されない。特権も奪われてしまう。だから普通は特権の中で守られ、守られたなかで勝手に思うだけである。それが一般の子供論である。


「ヒーロー」と自己内他者 それが、辻人成の「個」では一線を越えてしまうことになる。言うなれば子供であることの逸脱である。秩序の破壊である。駅のプラットホームでその秩序破壊は起こる。導入はノーマルである。ホームにいろいろな「ヒーロー」を探していただけだからである。オーム以前でも探していたが(たとえば見事に切りさばく切符切り)、ホームではそれが自殺志願者の探索に向かうことになる。飛び込みそうな人を探すのである。でも探索と言っても実際には「実演」など見込めない。単なる好奇心にすぎない。普通なら通過する急行電車を見送ってそれでお仕舞いである。

どうしても自殺させたいなら妄想を働かせればよい。その瞬間を演出して演技させればそれで済む。思い描くだけで成果が得られる。駅員の目を盗んでホームに勝手に入りこんだ価値はある。友達と入りこんだなら帰りの路の話も弾む。「やっぱしな、跳びこむと思ったぜ」と人相を分析し合って、一人で足りなければ「(もっと)死ね! 死ね!」と気が済むまで叫ぶ。そのうちに飽きて別の話題になっている。

それがそうならない。当たりをつけた「ヒーロー」は本当に飛びこんでしまうのであった。しかも躊躇いが垣間見えると叱咤激励までする。ただし声をかけるのは「ヒカル」であって「僕」ではない。少なくともその時は。地の文を省略した形でまず会話文だけを拾ってみる。

「あの人、ヒーローになれっかな。」
「今日はラッキーだぜ。」
「そうだ、やれ」
「だめだ。少しためらってやがる。」
「やれよ。迷うな。迷う奴はヒーローになれねえよ。やれっらら。」
「やったぜ。」
「やりやがった。今日はついている。」
「勲章を上げないといけないね。」

 次ぎに地の文を一か所だけ拾ってみる。会話文の「迷う奴は」と毒づく部分と「やったぜ」と歓声を上げる部分の間の文である。

  ゴォーッ。
  凍結された空間を、モンスターの警笛が粉々に砕く。同時に一旦、後ずさりをした男が、誰かに呼び込まれるかのごとく、プラットホームから飛び込んだ。
  一瞬、僕の目には、彼の両手を引っ張る黒い二本の手が見えた。彼は、誰かに引っ張られたのかもしれない。男の存在は、プラットホームの上で電車を待つ人々の頭上に散乱した。ためらった分だけ、勢いよく彼の体は空中をばバラバラに舞った。人々の叫び声と、モンスターの吐き出す警笛で、わずか百メートル程のプラットホームはたちまち、戦場とかわる。赤い血が、ホームの上で英単語を覚えようとしている女学生の顔に、サラリーマン達の白いワイシャツの上に飛び散る。彼の肉体は切断され、何メートルも上空を飛び、予想外の落下地点に転がり、人々を失神させた。彼の元肉体の一部は、プラットホームの上の人々を脅かすことで幕を閉じた。


 破壊的衝動への偏向 破壊や破滅願望が、内側の衝動として作品を繋ぎ止め突き動かしている。同じような場面はこれだけで終わらない。一つは怪我の治療のために出かけた病院での「老人ジュウサー」の話。地下に老人をジュウサーにしてエキスを搾り取る部屋があると信じ込むくだり。一時は関係者と思しき老人が登場し、緊迫したやり取りが交わされるが、結局、老人が精神科に連れ戻されることで一件落着してしまう。したがってこの場面は無難な挿話以上ではないのだが、問題はさらに後半で出てくる乳母車の場面である。「異常」である。度を超えている。

プラットホームでは倫理観が欠損状態にあると言え、直接背中を押したわけではない。手を引いたとしても気持の上だけである。ところが乳母車の場合は、店に入った母親の隙をついて、直接ブレーキを外してしまう。外しただけではない。気付かれないように坂道に押し出してしまう。力を入れたわけではないと言え、少しでも動き出してしまえば、その後どうなるか分かっている。

坂道の先には交通量の多い国道が走っている。少しして母親が坂道を下っていく乳母車に気が付き、狂気に近い叫び声を上げて駆け下っていく。追いつけない。大きく伸ばした手の先をさらに勢いをつけて下っていく。体ごと転んでしまう母親。悲鳴。泣き叫ぶ乳児。

国道に流れ込む手前ですこし緩やかになっている。その分減速したとはいえ、そのまま国道に突っ込み、道の真ん中で止まってしまう乳母車。事態を見守っていた人々の叫び声と凝固した視線。さらに凍りつく現場。乳母車を避けながらその前後を際どく通り過ぎていく車。しかし一台が分離帯に乗り上げてしまう。渋滞となる国道。

この時も「ヒーロー」という言葉が使われる。ヒカルではなく今度は実行者である「僕」によって。――「もしかすると彼は、あの若さでヒーローになれるかもしれない」と。乳母車ははねられることなく終わるが、「母親が、うつぶせになって気絶していた」の記述でこの場面は閉じられる。なぜこんなこと(非道なこと)をしたのか。原因は待ち合わせに女の子が来なかったからである。いってみれば単なる腹いせである。異常である。それとも世代的感覚による脚色なのか。あえてそう見せたのだろうか。
 

「個」と自立 作品は「ヒカリ」を追い出して独り立ちしていくところで終わるが、二重自己の清算も、暴力(いじめへの最終的な盲目的反撃)や裏切りに対する憤り(待ち合わせに来なかった女の子から逆に嘲笑されたことに対する憤り)を媒介的に差し挟んで達成される。清算への過程を含めて、この世界には予定された既存の人間関係は一切ない。何もない。皆無であることを跡付けていくだけであり、それが作品のもう一つのテーマにもなっている。

それでも作品の体はなしているし、叙述力もあって新しい始まりの予感にも溢れている。いずれにしても、小学生という低年齢層の既得的な権利(免罪符)を逆手にとる手法によって、「個」の創出が達成されていると見れば、破壊的衝動もひとまず内済されることになる。ヒカルが去った(「死んだ」という表現が採られているが)あとのマンションの一室から外を眺めている情景シーンで閉じられる。オーソドックスな終わり方も受け容れられる。回復された穏やかな心にとくに疑いを差し挟む必要はないからである。成功作であった証拠である。

――「降り続いていた雨が、いつの間にかやんでいた。(中略)隣のマンションの屋根の間にかすかに見える空が白みはじめている。長い間いすわった雨雲が、このまま消えてしまいそうな空の色をしていた。梅雨が終わって夏が来るのかもしれない。空は再び昇ってくる太陽を待っていた。」


「ウソ」の上の「事件」 ここには「ウソ」がない。破壊的衝動も眉をしかめさせられるとはいえ、事件としてではなく文脈として読んで先に読み進むことも可能である。書く意味の必然が備わっているからである。しかしなによりも「ウソ」と一線を画しているのは、それが(衝動が)、「個」の範囲に止まっていて、それ以上に「物語」を要求していないからである。

しかし、『ニュートンの林檎』ではそうはいかない。「物語」であること(なること)を前提としている。「個」の段階とは次元が異なる。書く意味にしても新しい必然が必要である。釈明文も用意されていなければならない。その前に自己説明も済ませておかなければならない。おそらく釈明文や自己説明の前に才能が一人勝手に突き進んでしまったのであろう。結果として「ウソ」も置き去りにされてしまったのである。

その人達(「物語」を生きる人達)に起きる事件が、平均的な人生を生きる個人にとってはたして身辺に成立するものなのか。しかし反芻する暇もなく次ぎの事件が起きてしまう。自転車操業ではないが、ほとんど収拾の仕組みは同じである。事件のための事件になってしまっている。ハードボイルドではならいざ知らず(上述)、「純文学」である。「ウソ」にしないためには、次ぎの事件で先を切り拓き、埋め合わせていくしかない。もう止まらない。止まったら破綻してしまう。幸いにも埋め合わせてもまだお釣りのくる才能に恵まれている。才能に「ウソ」がなかった分、しかし「ウソ」に繋がっていくことになる。

函館少年刑務所を舞台とした『海峡の光』(芥川賞受賞)が書かれたのは、長編連載が終わった2年後である。舞台も実在すれば、主人公にもモデルとなる実在の人物もいる。実在の人物をインタビューしたことが作品を生むきっかけになっている(『函館物語』中の弁)。短絡的に「ウソ」の苦い体験が前提になっていたなどとは評したくはないが、「個」を「物語」に高めた創作性にはリアリズムがある。緊張感にも溢れている。「ウソ」はない。最初から一線を画している。

では、その後の長編はどうなっているのであろうか。必ずしも熱心な読者というわけではないので、その後(2000年代)の詳細は承知していないが(『右岸』の小説法は押さえているが)、年代記的な叙述にリアリズムを得ながら、堅実な時間軸に支えられている。『ニュートンの林檎』の「リアリズム」が再述されているとは予測していない。


再述の先の「ウソ」 しかし、「ウソ」を擁護すれば、文学論的には「ウソ」の再述の先にこそ、新しい地平が浮かび上がるのではないかと予測されるのである。それというのも「ウソ」が度を越していたからである。「渾身」の「ウソ」であったからである。過ぎたるが幸いすることになるのである。「ウソ」を「ウソ」の先で乗り越えられるのなら、それはそれでまるで知らなかったような人格関係や社会関係が、「衝動」を新たな蘇生力に替えて再整序されていくのではないかと思われたのである。村上春樹の「物語」と世代論を超えた状態で、「同格」に作品を論じられるかもしれない。あるいはこの先、次ぎに言われるような「乗り越え」の道も、はじめて見出されるかもしれない。しかし予め指摘しておけば、今の段階では(辻仁成だけではなく誰にも)乗り越えられないのである。

島田雅彦が次ぎのように言うのである。文庫本の『ピアニシモ』の「解説」のなかである。「もう、村上春樹を葬送してしまおうではないか」と。なぜなら「すでに日本文学は村上春樹が現れた時以上の大転換をいつの間にか通り過ぎた」からであるとも。「大転換」の比喩として「円とドルの交換レート」の時代的変遷を取上げ、レートの段階的下降(円高)のなかに村上龍から山田詠美までを位置付ける。そしてそれは、日本文学におけるアメリカの相対化に対応していると指摘する。暗に「アメリカ」=「村上春樹」を言おうとしているのである。さすがに天下一品の機知を恣にする作家の評言ながら、たとへ「交換レート」で葬り去られたとしても、それは村上春樹の「個」の次元でしかない。

実際、それが「個」であるなら、葬送も、葬り去りによる乗り越えもさして難しいことではない。ある時代の平均的な「個」でしかないからである。作家自身が自分を評して言う「普通の人」の範疇にあるものである。刺激的なところなどない、おそよ「ヒーロー」からもっとも遠い人種である。

村上春樹の「凄さ」は、「個」ではなく「物語」にある。いうまでもなく単なる「物語」ではない。既存の「物語」の水準から一線を画した、「物語」を発見するための「物語」であった。構造的に言えば、「物語の発見」を形容動詞にした「物語」という、それも名詞ではなく「動詞」であるもの――つまり「物語の発見を物語る『物語』」である。したがって葬り去りたくてもできない。次元的には人間による文字の発明のような類だからである。

だから論評の対象でもなければ、乗り越えの対象でもない。存在形態としてはただしくそれ以前であり、先行きの前提となるものである。たとえば、そのことによって(文字が発明されたことによって)はじめて韻文や散文が生みだされるような、そのための前提となるものである。やはり、「村上春樹の出現によって文学の意味はまるで違うものになってしまった」――ということなのである。

矛盾した言い方になってしまうが、正確には「個」も乗り越えられえないのである。乗り越えを乗り越えた「個」であるからである。単純に「個」=「物語」であって一体化した切り離せない関係故と言ってしまっても構わない。ただし「個」を超えた「個」が重みを増したかと言えば、反対である。その分「軽く」なるのである。これも目覚ましい新しさであり、ときに女性たちの顰蹙を買うことにもなるのである。


『函館物語』の再考 ところで、『ニュートンの林檎』を「ウソ」が貫かれた「ウソ」として再評価したとしても、あらたな展望が開けるかといえば簡単ではない。それでも当面、「ウソ」のなかの唯一の「現実」である「函館」が問われることになるであろう。函館と一切縁を切るか、そうしないまでも精神的に遠ざかってしまえば、ほとんど主人公には身の置き所がなくなってしまうからである。居場所を失った主人公からは、荒れ狂う暴力や日常の破綻の最中で存在理由も失われてしまう。なによりも小説中の「居場所」を失うからである。それでもなお主人公たる立場を付与しなければならないなら、その時、函館が再浮上してくることになる。「物語」として描かれているからである。『函館物語』である。読者のための「案内書」とされているが、辻仁成の「自己案内書(「物語」)」である。

しかし、今の函館(文学史的函館)には「物語」がない。無化されてしまっている。佐藤泰志の遺作『灰炭市叙景』(連載198890年)が内実を抉り出してしまったからである。「灰炭市」として読み替えられた「函館(市)」には、「物語」は失われているのである。村上春樹と同年齢の佐藤泰志が創った「個」は、「物語」を必要としない。世代論が創ったもう一つの「個」の価値である。あくまでも「灰炭市叙景」であっても「灰炭市物語」ではないのである。

「物語」を必要としない「個」とは、作家としての存在形態の逆説である。佐藤泰志が再評価されなければならない所以でもあるが、それはともかく、なぜ「函館市」ではなく、「灰炭市」でなければならなかったのか。函館は一度定位されたのである。『函館物語』は再考されなければならない。『ニュートンの林檎』の再述のためにも。それ以上に80年代の「物語」とその再立のためにも。

 おわりに~「函館の文学」のなかの辻 仁成~

作家の年譜には何も触れなかったが、辻仁成は、中学の3年から高校卒業までの4年間を函館で過ごした。転勤族の家庭だった。生まれたのは東京多摩郡日野町で(1959年)、4歳で最初の転居。福岡市だった。同市から次ぎに移ったのは北海道帯広市だった。11歳の時である。そして函館となる。

誕生地を含め4遷を果たしたわけだが、函館は唯一の郷里であるかのように特別の思いで語られ、また幾度となく小説に登場する。作品の舞台そのものともなる。文とインタビューそして自身撮影の写真の「一人三役」で編まれた「案内書」である『函館物語』(集英社文庫、1996年)の冒頭部分でこう記している。

何故、私が函館にこだわるのか。過ごした4年間という短い時期が、私にとっては最も多感な青春期だったことは否定できない。しかし私が函館にこだわる理由はそれだけにはおさまらない。函館というこの歴史ある港町自体が持っている幻想的なトポスが私にいまだに何かを投げかけてくるのである。まるで町自体が一つの生き物のようで、町が発する粘液にからめ捕られ、すっかりその魔力に包囲され、身も心も虜にさせられてしまったかのように。

 そして、その多感なる時期の4年間のうちの3年間を過ごしたのが、函館山の山麓にある函館西高校である。観光地で有名な元町のなかでもその最も高い位置にある校舎からは、函館市街地はもとより函館湾から渡島半島内陸を望むことができる。眺めだけではない。至近距離には函館の文化遺産が目白押しである。旧函館区公会堂や外国領事館が遺る元町公園をはじめ、函館の宗教区ともいうべき一画は校舎の目の前(眼下)に展開している。ハリストス正教会、カトリック元町教会、聖ヨハネ教会、聖パウロ女子修道院といったキリスト教関係教会に加え、仏教寺院(大谷派別院)までが相隣り合って建ち並んでいる。奇観とも言うべき宗教空間である。
 
 しかし、辻仁成を捉えた「幻想的なトポス」は、学び舎の景観や優れた歴史的・文化的環境にあったのではない。元町の坂を下った市街地の一画にあった。あるいは函館湾より反対側の、かつて石川啄木が詠んだ津軽海峡に面したうらぶれた砂州――潮かおる北の浜辺の/砂山のかの浜薔薇よ/今年も咲けるや――の周辺にあった。90年代以降の「純文学」の一旗手たる作家の、心の中に広がる裏側風景であり、4遷して得た「(魂の)故郷」であった。同時に「函館の文学」にとってのあらたな巡り合わせでもあった。

 その「函館の文学」には、作家と環境を共にした先行作家がいた。とりわけ以下の二人である。一人は上掲佐藤泰志であるが、実は同じ高校の卒業者である。もう一人はその函館西高校近くに住家のあった長谷川四郎である。ただし当時の函館西高校は共学ではなかった。函館高等女学校である。女学生のこと(と言ってもラブ・ロマンスではないが)は、四郎のエッセイにも思い出深く書かれている。

佐藤泰志とは中学も共有していている。潮見中学校である。長谷川四郎との「縁」も続く。辻仁成は、旧市街地の面影が残る宝来町やその周辺で4年間を過ごしたが、長谷川四郎も大火で住宅を失った後は、同地に近い谷地頭で暮らしている。宝来町や谷地頭一帯は石川啄木の在函時代の生活地でもあるが、辻仁成にとっては啄木も含めて、「縁故者」のような存在である。

 啄木はともかく、この三者は、世代的に大きくかけ離れた明治42年生まれの長谷川四郎を別にすれば、1959年生まれの辻仁成と1949年生まれの佐藤泰志とは丁度10歳の差である。10歳差による函館感の違いは上記のとおりだが、函館感で外せないのは、長谷川四郎である。

 戦後文学の異端が抱く函館への超然とした態度(超故郷感)は、辻仁成だけではなく佐藤泰志とも一線を画したものである。以前、長谷川四郎については次兄の画家潾二郎と絡めて函館の視点から論じたことがあるが(ブログ外)、今回思い立った結論は、辻仁成から「函館」を奪い去ることであった。結果としては、意識的に「函館」を故郷の外に置いた長谷川四郎と同じ位相である。異質な佐藤泰志を含めて、あたためて三者並んで元町の高台から「函館」を眺め見てもらう。曲者同士である。思いがけないパースペクティブ(「函館の文学」)が開けるかもしれない。侍して俟ちたい。

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