2014年5月31日土曜日

[の] 「ノート」1~5:小川洋子『沈黙博物館』を読むためのノート


緒 言 この「ノート」は、元来、「創作」と組み合わせの形を採って進められたものである。「ノート」の表題も、当初は「講義ノート」だった。「創作」は、「講義ノート」に先行する形で、「講義者」を「彼」として綴られた。形式的には、両者をセット(「創作/講義ノート」)として前後関係を保ちながら進める形を採っているが、時にはいずれか一方が挿入的に参画して、双方向的に交錯する多層的な組立てともなっている。

両者セットをなす併走構造は、筒井康隆の『文学部唯野教授』(岩波書店1990年、その後文庫化(岩波現代文庫・文芸1、2000年)に倣ったものである。その「彼」は、「彼」としていまだに新しい物語を求めている。

今回は、諸般の事情で新稿(〝月極レポート〟)を起こせなかったこともあり、「創作」部分を外して、旧稿の「ノート(「講義ノート」)」部分だけを代わりにアップすることにした。成稿日は末尾に掲げたが、今回アップに当たって適宜加除を施した。

なお、接続関係を高めるために「創作」(無題)の冒頭部分だけを掲げておく。


1 新学期の教員控室(はじまり)

講義を終えて、教員控室に戻る。自動給湯器でお茶を淹れ、閑散とした控室のなかで首筋を伸ばしながらお茶を啜り、講義で渇いた咽喉を潤す。

午前中賑わっていた教員控室のなかは、午後に授業を残している一部の教員だけが丁度昼食を摂っているところだった。話し声もほとんど聞こえてこない。すでに午前中に2コマをこなしている、専ら土曜日を専属としている非常勤講師たちだった。さすがに続けて2コマの後では、出したくても、しばらくは言葉がでてこないにちがいない。

酸素欠乏症に陥っているからである。教室では気圧が低くなるのである。特に閉め切っている場合は。教員控室は気圧調整室でもある。午後に備える教員は食事以上に体内気圧の回復を必要としている。かりに平然としていられるなら、割り当て発表で進められるような、授業慣れしたベテランに違いない。今も臨席の女性教員たちに向かって話題を振りまいている御仁がいる。教授クラスの年配者である。

大学は横の連絡に乏しいが、思いがけないところで、いろいろなところが見える。教員控室はその縮図のような場所である。些細な仕草の向こうに今終えてきたばかりの授業風景までも連想させてくれる。重く引きずった体をそのまま椅子に降ろして小首を傾げる教員もいる。毎回だ。誠実な授業への取り組みが眼に浮かぶ。颯爽と立ち戻ってくる者もいる。でも内面を隠している。目の輝きが出かける時は違う。バックから取り出した眼薬は神経にさしているのだ。中堅の女性教員である。彼女の人生だって想像できないではない。まだまだある。その気にさえなればいろいろに物語が創り出せる。繰り返しになるが、教員控室はまさに人格の縮図でさえある。見方次第では深入りも可能である。

幾人かの新しい顔ぶれも見える。もしかしたら新しい局面が切り開かれるかもしれない。彼の観察眼にとって新学期の最初の頃はとりわけ刺戟的なのである。その一方で彼は端から旧態依然を決め込んでいる。つまらなそうなお方。どこからか自分に向けられた声が聞こえてくるようだった。思わず我に返ったように彼はお茶を啜る。目線を上げて誤魔化すように外を見る。

大きな透きガラスの一枚窓の向こうには、次の校舎との間に調整池が設けられている。一校舎分以上の広い空間が空いている。長閑なキャンパスである。いつも雑踏の中にいる彼にとって、出講日は一日早い「休日」のようだった。それに曜日も土曜だった。土曜の午後の大学は、休日を前にして次第に閑散としていくキャンパスのなかで物悲しい静けさを広げているのである。

窓一面に広がる青空に浮んだ白い雲も止まっている。彼は雲に向かって笑いかける。手を振る。でもテーブルの上に目を移すと、片手が片手を押さえている。手など振ってはいなかったし、笑いかけてもいなかった。いつか手を振って失敗したことがあるのだ。女学生には気を付けなければならない。「女・学生」なのだ。学生ではないのだ。
教室の風景を思い出す。
時たま思い出したように窓の外に目を向ける学生の横顔が思い浮かんでくる。窓の先になにか気にかかるものがあったのかもしれない。違う横顔なのだ。一瞬自分に立ち戻っている学生の内面が思い浮かぶ。不思議に人間関係を感じる彼の好きな一瞬だった。

上辺では教員や黒板に向かって正対している学生の数がひとまず主流を占めている。しかし、その学生たちを含めて、教室の中は様々な想いを包み込んでいる。形式的には、教員だけに許された、一方通行的な言説に一先ず支配される形を教室は受け容れている。

――ここのところはよく覚えていてもらいたい。
そして、この支配感を好いことに教員は念を押すのである。
彼だってそうだ。人のことを言えた義理ではない。でも、彼は、この支配感に忌まわしい思いを募らせるのである。

どことなく自己不在感を伴った一方通行だったからだ。自分しか通行していない通路が延びている。学生たちは、早くも出口側にいる。戻ってこようとしない。来られない。一方通行を逆走することになってしまうからだ。交通法規の遵守である。ならと思って自分の方から近づこうとするが近づかない。違う、そうではなく、出口には近づいても、学生たちに近づいていかないのだった。逆に遠ざかっていくのだ、学生であるより出口の方が。

こうして彼は、新学期が近づくといつも鬱屈気味に学生たちとの人間関係を疑うのだ。別けても「女・学生」たちとの。

繰り返されるこの関係。時には疑念として突き返されてくる自己不信。その累積――いつ頃からか、出口に背を向けてしまう自分を準備している。後ろ向きで近づくのである。前に在るのは本来の後ろだ。正対関係の反転である。一度、彼はそのようして体を廊下に向けながら教室に入ってみた。一番手前の学生(女・学生)が、呆気にとられた顔をして目の前を横切っていく物体を眺めていたが、彼女を含めて笑い声は立たなかった。笑い声以前だった。

彼が受け持っていたのは、博物館資料論だった。この学芸員資格取得のための授業に、必要な単位を取得する以上の前向きな気持で出席している学生は、おそらく彼が考えているより数少ない。彼は一定の出席回数を要求し、それに満たない者には単位授与のためのレポートを書く権利を認めなかった。

自然と出席率は良くなる。自分で課しておいて出席の良さに驚く。学芸員資格を取得するための必須科目である。間違っても再履修で同じ苦痛は味わいたくない。うつ伏せになっているのだって教員が考えているよりきつい。ときにそれが無言の抗議であることも彼には分かっている。背中が寝ていないのだ。でも水準を下げるつもりはなかった。さらに引き上げた。

彼は、学生との内的な繋がりを保つために、「資料原論」という概念論的な世界を授業計画の冒頭に掲げるようになった。

ところで「資料原論」とは、簡単に言ってしまえば、〈資料とはなにか〉である。彼は、関係文献に当たったが、当然のごとくすべからく哲学的である。彼としてはまんざら嫌いではなかったが、考えていたのは形而上的に過ぎる議論ではなかった。しかしそうは言っても、個別具体的な「講義ノート」が予定されていたわけではない。講義として成立する体系立った原論は、意気込みとは裏腹にしばらく手探り状態が続くことになる。

そんな時、彼が出会った『沈黙博物館』(小川洋子)は、そうした漠然とした思いを払拭させただけではなかった。ここには博物館やその資料に対する見事なまでの反対概念があった。覚醒的でさえあった。実際、学生たちの目の輝きがそれを証明していた。学生個人を越えて教室全体が、予想以上の驚きをもってその「反対概念」を迎え入れていたからである。ここにあるのは「死」だった。死の世界で生きる博物館だった。

それは、まるで知らなかった、気がつきもしなかったもう一つの真理が提示されたに近い出来事であったのかもしれないし、あるいは学芸員資格を取得し、どこかの博物館に職を求めることが可能ならと考えている学生にとっては、その将来的自己像が根底から否定されるに等しい類の話であったかもしれない。たとえ一瞬のことであったとしても。 

 生者に立ち向かわない博物館と、その資料が物語る限りなく内向的な世界が創る真理は、真理とは裏腹に、土曜の限の教室を淀んだような気配で包み、教師に対する訝りを含んだ猜疑心を静かに押し広げていくことになる。

――でもこれは博物館とその資料が抱えている一つの真理です。博物館資料の本質とも繋がっています。

ある頁を朗読した後だった。ショッキングな内容だったかもしれない。おそらくそうだったのだろう、ノートを録る女学生の手が止まっている。目ざとく彼は、教壇上から女学生を補足する。

真面目そうな、そして賢そうな女学生は、自分の中に一瞬疑いを抱いた。それまで漏らさずノートを録とっていた、つい先刻までのペンシルの動きが見事に止められている。

教師の言葉はすべて正しいと考えていた、了解事項であったものを前にして女学生はためらっていた。教師の向こうに『沈黙博物館』の漠然とした闇が浮かび上がっていた。感受性が強いに違いない。闇に危険なものが潜んでいることを女学生は肌で感じとっていた。

なにか危険な匂いがする。女学生は、教壇を見詰めながら、そこに佇む教員が浮かべる、勝手に曝け出しておいて自分では平然としている表情に、どこか不遜なものを感じとる。ノートに録るか録るべきでないか、その判断が、そのまま自己選択を迫っているような思いにまで膨らむ。まるで教員を容れるべきかを試されているような。

(『沈黙博物館』小川洋子、ちくま文庫、2004年6月、定価680円)

結局、女学生は、板書された小説名だけを書き取って、それ以上に教員の「言説」は、ノートに書き止めなかった。


ノート1(「資料原論」)

まずは「資料原論」とう呼び方である。聞き慣れない言葉であるが、なにも難しく言おうとして通有の資料論を使わないわけではない。むしろ逆である。たとえばその分野で深い学問性を究める歴史学におけるそれ(「史料論(学)」)を思い浮かべると(石上英一『日本古代史料学』東京大学出版会、1997年など)、一歩も先に踏み出せないからである。ここで扱う「モノ」「コト」論も、あえて原論と呼ぶことで、その重圧から解かれ、手っ取り早く(簡易に)人との関係性の構築を目論みたいとするからである。必ずしも学問性に対して後ろ向きなわけではないが。

ところで、資料には、その漢字表記の違いで「史料」「資料」「試料」がある。辞書の解説を引用すれば(たとえば『広辞苑』)、「史料」は「歴史記述の素材」、「資料」は「もとになる材料」、「試料」は「試験・検査・分析などに供する物質、または生物。生物の場合は、検体と呼ぶことが多い」などとある。一義的にもっとも人との関係が薄いのは、「試料」であるが(ただしそのなかの「検体」には「献体」などという医学造語があり、この場合は他の「シリョウ」を抜いて一気に人に近づくことになるが)、ここでは三様の漢字表記とそれによる意味内容の相違をさらに遡る。そこにあるのは、「モノ」と「コト」の世界である。
 
 資料原論は、史料論(学)とは別な意味で、深入りすると哲学的議論に陥ることになる。そして、議論の方向が異なるために、本旨を逸れることにもなりかねない。本ノートの「モノ」「コト」論は、そのためにも哲学的議論と一線を画した世界を模索しなければならない。『沈黙博物館』(小川洋子)を読むのはそのためである。

博物館は、その表記三語(「博」「物」「館」)の各漢字の布置関係のとおり、「物」を中心に置く(挟みこむ)。したがって、『沈黙博物館』の場合の「物」は、沈黙している(沈黙していなければならない)ことになる。そのために、通常の「物」が、博物館資料としてモノからコトになるのとは別の途を歩む。それではどのような途を辿るのか、沈黙博物館におけるモノとコトの関係は、いかなるものであるのか、沈黙博物館といえどもモノから出発しているではないか、すなわち、同館が収集する博物館資料である「形見」のことである。形見といえども、モノからコトに移行する物質的原理を有している、そうではないのか。

たしかにそうかもしれない。表面的には、形見も展示物として展示ケースに納められ、その手前にキャプション・カードをたて並べられることで、一般的な博物館資料と同質化する。しかし、沈黙博物館が違うのは、まさに決定的に違うのであるが、それが死の世界にある存在、最初から生の世界の対極に位置していることである。

小川洋子の『沈黙博物館』が、死の世界の物語ではなかったのではないだろうかと語ったのは、同書文庫本(ちくま文庫、2004年、単行本2000年)の巻末解説文の「あらたな生への引込み線」の堀江敏幸である。彼は、解説文の最後にこう語る。「(前略)村に残る決断をした『僕』は、じつはもう死んでいるのかもしれない。それどころかこの村は、すでに命のない人々の住む場所なのかもしれず、兄に宛てた手紙が『僕』に送り返されてきたのも、兄が死んだからではなく『僕』が死んでいるせいかもしれないのだ」と。

主人公の「僕」(博物館技師)は、近況を伝え、病弱な兄嫁を気遣う手紙を事あるごとに兄に書き送る。しかし、一度として返事がもたらされたことはない。たしかにこの小説世界では、生と死の境界を「手紙」に仮託していたのかもしれない。死の世界から書き送られた手紙は、そのために「僕」の今を生きる誠実さに対して、なんら返す言葉を知らないまま、終に閉じられた時間のなかで、作品を通底するもう一つの「声」でもある「沈黙の伝道師」の記憶に引き寄せられるように重なり、あるいは触れ、そして失われていく。

しかし、死とは、それが死と気付かれぬままに、生の再構築を企てる反対概念をそのなかに常に抱え込み、あらたな物語に向わせもする。だれも気づいていない。それは、死の世界が無限大に広く、深い闇を背後に控えさせて、その中に潜んでいるからであった。しかも、同時に生と背中合わせであることが、死の側にいることの、各自の立場をも忘れさせている。すでに休むべき、ながく寛ぐべき時を許された自分であることを忘れている者たち。そう思う時、その寛ぎのもっとも近くにいるべき、博物館の主である老婆のたて続く癇癪や苛立ちがひどく痛々しい。

彼女は、死んでなおかつ再生すべきものを「形見」として、自身の遣り残しの、限られた人生の許された(生存の)時間のなかに凝縮し、その「形見」が創るだろう意味の中心に、心臓が送り出す血潮のざわめきを感じ、やせ衰えた身体を巡る血脈の高鳴りに生存の意図を重ねる。彼女は、沈黙を許さない。死を認めない。もっとも永く死(形見の主の死)を生きていることを、自分以外の誰にも知らせない。いずれにしても彼女は我慢がならない。「形見」が、死することも生きることもできずにいるからだ。彼女の癇癪や苛立ちは、彼女の傍らに向けられているのでも、形のうえでは常にその矢面に立たされている主人公の博物館技師である「僕」に向けられているのでもない。漠とした、形になり切らない(なろうともしない)ものに向けられているのだ。

「生」は、その状態の不確かさを問われて、おそらく、老婆がもっとも嫌うその代表的なものの一つであったにちがいない。そのままでは、博物館資料も老婆には目障りなものにしかならない。そして、老婆を館主とするとき、沈黙博物館は、「モノ」をあるべき姿に立ち還らせる時空間そのものとして立ち顕れ、あらためて、「資料原論」にとって、意味のある館としてわれわれの眼前に浮かび上がることとなる。


ノート2(「形見」と展示)

死の世界に繰り広げられる物語(その中核としての博物館資料の整理とさらなる収集に費やされる物語)が、「モノ」にとって興味深いのは(そして意味あるのは)、モノがその一つの存在形態として考古資料の形を採っている状態であり、それが新たな時間的関係で再編されようとしている時である。地中から掘り起こされるモノは、それが工事中や耕作中であれば、残土のなかに再び埋もれるか、地上に顔を晒したとしてもそれがモノにとって意味ある状態に措かれていることはない。むしろ逆である。モノとしての一次的所在地を失われた状態に放り出されているからでる。それに対して、モノが考古資料という存在形態を纏っている場合とは、発掘調査という記録手段によって、その一次的所在地が記憶に焼き付けられた状態を、原則として将来に向けて永く保障されている状態(性状)に在ることを言うとともに、その状態が本来「モノ」にとって予定されていなかったことにある。

この状態(性状)を『沈黙博物館』に擬えれば、死者の所有物(近親者にとっては死者の「形見」となっている物)であった状態から、老婆が収集し自宅に持ち帰ることができた段階の、その物が置かれている現在時の存在形態に相当する。異なるのは、記録手段が考古資料の場合は、図面や写真それを補う文字であるのに対して、『沈黙博物館』では(いいかえれば「形見」では)、専ら収集者(老婆)の記憶に限られている点である。したがって、「形見」には、その一次的所在地が使用状態を含めて客観的状態では記憶されていないことを意味している。

しかし、一方で収集された「形見」が考古資料に「モノ」として勝るのは、それが「形見」という言葉に言い表されているように、一次的所在地と常に一体的であること、すなわち、それそのものですでに「コト」の状態に達している点である。言い換えれば、最初から「モノ」ではない「物」である。それにもかかわらず『沈黙博物館』の「形見」に意味があるのは(「モノ」としての意味があるのは)、それが多くの場合、通常の「形見」が形成する生者とのノーマルな関係(例えば形見分という姿になりうる性状を常に備えた関係)から当初より切り離されていること、しかも、「形見」との関係性において、形見が生成する人間関係(遺族・近親者などとして取り遺される生者との間に取り交す関係)の外側におかれた状態で、それを遺品としてではなく、関係性の外側からの意味付けにおいて再措定された、あるいは、その「物」が抱える一次的所在地とは無関係な関係性において再認識された状態を保持しているからである。これは、一次的に「コト」であったものが、文脈外の作為性によって、見ようによっては短絡的に「モノ」に転化された状態であるとも言える。

しかも、窃盗に近い異常な状態(手段)で収集されていることが(なぜなら老婆は知人であったわけでもない故に)、その「物」にまとわり付いていた一次的な性状(一次的所在地と背中合わせの性状)を一気に削ぎ落とし、収集者の存在形態を他者であったものから主体者に転換させることに大きく寄与する。そして、生者との新たな関係を付与され、その過程で普遍的な「形見」として再生され、その時点、元来一次的に「コト」であった存在形態を再度獲得するに至る。あとは、通常の博物館資料と同じように個別カードが付され、収蔵目録が作成されるだけである。「形見」は、その作業を博物館技師として採用された主人公「僕」によって行われ、「沈黙博物館」の博物館資料として登録され、さらに展示される機会を待つだけの状態にまで資料化される。

続けて指摘しておけば、次の段階として重要視されるのは「展示」である。なぜなら、その展示は、死者の世界に向けられるだけに留まらず、生者の側に向けられているからである。むしろ、生者の眼を意識した展示でさえある。しかし、大前提となる時間的な関係を疾うから絶たれたこの展示は、生者に重苦しく圧し掛かり、場合によっては苛立ちを呼び起こしかねない。関係性を断たれた博物館資料にたち向う術など、準備もない生者には弁える余裕もなければ、かといって学芸員(博物館技師)からも教えられないからである。展示自体の不条理さが問われる。この不条理な関係に固定されたままで、生者は回り込む回路を見出せずに、その博物館資料(「形見」群)に逆に見詰められる。そして、その「形見」のはじまりに引き戻され、すでに他人では済まされない立会人として、「形見」に問いかける役目を負わされることになる。

その場(ある展示室のある展示ケースの前という場)で、たとえば、「貴女の人生など関係ない!」そう突き放すように叫んだとしても構わないが、遠からず、自己嫌悪を伴った空しさが、陰鬱な気分を引きずったまま取り残されることになる。そしてはじめに引き戻される。「そうだったのか」と展示室の入り口に自分を振り返る。否定するにせよ、肯定するにせよ、「彼女(たち)」や「彼(ら)」と内面で出会わなければならない。態度の明確化も必要となる。求められているのは、人生への立ち入りである。それが沈黙博物館の回路に仕組まれた展示の意図だったからである。

そして、二室目ないし三室目にまで進んで、ようやく展示室の暗さに少し慣れてきた目で、この先に博物館からの出口を求めるためには、一度自分も死者の側の回廊に回りこむ必要のあることが理解されるにいたる。生者は、死者を内面でしか捉えられない。しかし、いままでそれを内面に視覚的に捉える必要を感じることも、その機会もなかった。ただそれだけのことでしかなかった(ということかもしれない)。

やがてその私にもパネルが見えてくる。内面に広がる展示空間に掲げられた白い展示パネルである。その展示説明が、閉じられた任意の人生の評価を求めている。あるいは、その記憶を、鑑賞者(内覧者)の内面に転写(転生)させるために、目を閉じた個人の心のステージにジオラマ化され、かつ同一化を促す囁きを音声解説として耳元に流す。気がつくと、その死者の掛け声にも似た囁きは、自分が少し前まで発していた(自分を問う)言葉に応じたものだったことも理解されるに至る。

「あなたと一緒に生きたい」
「わたしを連れて行ってください」
「わたしはさらに強く生きる、生きます」

そんなふうにあからさまにではないが、展示室の壁や天井に響きわたる、高ぶったというよりかは上擦った声が聴こえてくる。誰の声だろうか、形見の主とも、あるいはかつて形見を否定する側に居並んでいた者たちの贖いの声とも、いずれの語りかけとも聴き分けがたい。それが新たな不安を送りこんでくることになる。

しかも、聴き分け方によっては自分が自分に向かって発している声とも疑われなくもない。それも自身の弱さを前にした、苛立ちとしてである。その声が次第に増幅されて、気持ちの高ぶりへと転化する。高ぶる声は、声の先に相手を求めはじめる。重なりたいのだ。救われようとして。でも声はたち消え、求めた相手が「形見」の主であることを予測して身構えさえ出来ていたのに、終に捉え切れないでしまった空しさのなかで、無言のままに「形見」と正対しているしかなくなる。

でも、誰かと話を交わしていたのだ。肌触りもあったのだ。しかし、見回しても、展示室には自分しかいない。その誰かはどう見ても自分自身でしかない。ますます自分が落ち着かなくなる。自分として在るだけではない別な自分を求めなければならない。はっきりしたのだ。しかし、一人の自分としてしか見えない。さらに落ち着かない気分を引きずりながら、再び誰かを求めてその先に耳を傾ける。

私は、乱れた息を整えながら、次の展示室にはいる。並べ置かれた展示品に、彼らが語りかけてくる前に自分の方から言葉をかける。そして再び誰かと話を交わしはじめる。その誰かは、ここでは、はっきりと自分自身ではなくなっている。いまや異なる自分への自覚に覚醒的でさえある。私は、確かめるようにして一つ前の展示室を振り返る。何かを留め置いてきた気がする。わたしの身から離れていったものである。連れ去られたものであったかもしれない。体内に不思議な空洞感を覚えながら私は展示室を出る。

沈黙博物館の外に出た私は、私が立っている博物館の前庭の芝生から不思議な感触が足裏に伝わってくるのを感じる。それは、展示室の床を踏んでいる時と同じ感触だった。その感触からもたらされる浮遊感にも似た想い、それがやがて私の心を柔らかい光の中でさらに別な場所に誘っていく。


ノート3(ミゼラブル)
 

小川洋子の『沈黙博物館』が教えるのは、「モノ」や「コト」を論じること(「モノ・コト論」)が生者の世界の理屈だということである。博物館資料の理論で言えば、「モノ」は「物」として認識され、さらにそれが記録(ドキュメント)を伴っていることで「シリョウ」となり、人文系シリョウであれば、史料や資料となる。博物館資料は、展示(任意の人間への問い掛け=発語)を前提にして、そのシリョウの内部化を促し、博物館資料に仕向けていく。

「モノ」が「コト」になるのは(変容するのは)、ドキュメントが人為的(人文的に)に再編された段階である。具体的にはそれが史料であるのか、あるいは資料であるのかの認識段階である。したがって博物館資料をその文脈(「コト」化への移行過程)で捉えれば、博物館資料とは、「コト」の選択的再編・再解釈・再措定を加えた「コト」的「物」であり、「モノ・コト」論流にいえば「モノ」の「コト」化を経た後の、言い換えれば、事後的な解釈(学)の結果である。一度固定した結果が根底から覆されるにことはない、というよりも博物館資料が備える「解釈学」には、結果(コト)に開始していく理論武装が元来備わっていない、というより備えないで済んでいる、ある意味、恵まれた環境下に置かれているというべきだが、かといって別段「解釈学」が不十分だと言っているのではなく、それが公共性を付与された博物館の限界であり、それ以前にそもそも生者(の側)の生きる仕組みに規定されているのであって、解釈(学)が行き着く当然の帰着点だったからである。

一方、小川洋子が創り上げた死者の世界では、「コト」から始まる。「コト」であることが前提となる。収集対象となった、「手術用メス」「シロイワバイソンの毛皮」「絵具」といった一般名詞的な「物」が、彼女(老婆)のもとで「形見」に再編される。死者の世界の展示は、この「形見」から始まる。「コト」から始まるとはこのことを指す。しかし、「形見」は、外見上「物」にしかすぎない。むしろ「物」でありすぎる。老婆が行う再編は、それが彼女の記憶内にとどまっているかぎり、その外見上の姿は、外に対しては永遠に「物」の範囲を抜け出ることはない(できない)。彼女の日常的な癇癪は、見方によればそれ故ともいえる。「物」であり続けていることへの如何ともし難い(自分の単独の力ではどうにもし難い)苛立ちによるものなのである。

ではなぜ老婆は、それまでして老婆にとって生前交流のない彼女に拘るのか、まるでそのために老醜を晒すことも一向に厭わずに生き永らえてきたかというようにして……。言えるのは、すべてが「形見」に集約していること。事実、形見という言葉なしには成り立たない世界である。肉親や近親者が選択する「形見」は、死者を貶(けな)す要因が作為的に排除されるとき、その「形見」は、死者にとって人生の一面にとどまり、況んや死者の苦悶を掬(すく)いとってはいない。むしろそうした発想は、死者を鞭打つことだと考えている。

死者の人生は、死それ自体によって「免罪」1)されていなければならない。生者は生者で、その存在をすべからく肯定しなければならない。しかし、その肯定は、反対概念としての否定を伴っていない。すでに関係性が絶たれているなかで、そして、死者が肉体的に確実に「モノ」と化していくなかで、人は、それが近しければ近しいほど、死者の人生を否定的に見返すことはしない。故に拾い出しもしない(してはならないと自らに禁ずる)。完結したものは、遺されたものにとっては完済されたものである。そして「形見」は、その完済証明である。

その時、異議を唱えるものの発する声がうち顫える。それはその人生が完済されたこと、されようとしていることへの烈しい怒りでもある。たとえば、(ここに見た)「絵具」という「形見」がある。肢体の不自由により悲しく餓死に追い遣られた、一人の年老いた絵描きの女が、倒れた床の上で、飢えと喉の渇きを癒すかのように歯を立てて咬み搾り出していく絵具、その歯型の残る絵具類が物語るもの、それは絵描きの老女の否定された人生の到達点であるとともに、その人生を終始否定し続けてきたそのものであった。

人は、自らを否定するものを自ら生きる。高校教師(非常勤講師)の時の、教え子の男子生徒との肉体関係とそれによる放校、贋作に手を染めて永遠に失われる画家としての人生、それでも画家としてしか生きられなかった生涯、その最期を締めくくる絵具のなかでの餓死。この人生の悲惨(ミゼラブル)。悲惨の証言者としての絵具。あるいは立ち合い人(びと)。その絵具を収集した老婆の意志と行為。その老婆と老画家の負の遺産。二人の間に取り残された完済されない人生。死者を揺り動かす彼女の叫び、怒り、老婆をつうじて再びの生に向う老画家の叫び声2)

生き切れない者たちの思いが、彼女の心のなかに満ち満ちる。すべてが許しがたく老婆を襲う。彼女は引き受ける。生き切れない人々の思いに身を沈める。生きることの意味を疑う。彼女は救われないものの意味に立ち向かう。彼女が引き受けるもの、それは永らえてなおその意味の苦しさに晒される自分自身。彼女は選択した。その苦悶は残されるべきものであると。別の生の手によって象(かたど)られるべきであると。彼女は、若い命にそれを託す。繋ぐのだ。彼女は、自分の役目を悟る。そして博物館技師が必要だとあらためて痛感する。かくして今、『沈黙博物館』は、あらたな生の語りのはじまりの第一歩に佇むことになる。

1) 「免罪」を「一つの偉業」として内済した取り扱い方がある。生前、交流の途絶えていた父親の最期を見守りながら、亡くなった傍らで呟かれた箴言ともいうべきくだり。「人は死者に自然な敬意を払う。相手はついさっき、死という個人的な偉業を成し遂げたばかりなのだ」(村上春樹『1Q84 BOOK3』(431頁)新潮社、2010年4月、傍線引用者)。集金人をしていた父親は、集金率が上がるからと子供を連れて集金先を回った。小学校の知り合いの家もあった。後年、子供の辛い気持を慮ることがなかった父親と主人公は長く断絶することになる。昏睡状態に陥って意識の回復が見込めない状態になって、はじめてベッドの傍らで「会話」がなされる。「死という個人的な偉業」なるくだりは、その締めくくりともいうべき一文句(「免罪」符)だった。

2) この叫び声は、ジョルジュ・ルオーの「ミセレーレ」((神よ)あわれんでください)の版画集を思い起こさせる。そのフォーヴックな輪郭線、それは、別に一連の『受難』シリーズの厚塗りの油彩画を、わが身のパッシオン(受難)と読むだけでなく、悲惨の意味もあるミセレーレとも読ませることで、盛り上がった絵具のフォーヴィズムがつくる叫びの先に、画家老女の絵具が創生する人生(ミゼラブル)を悲しく、しかしそれ以上に生の尊さとして思い浮び上げることになる。



ノート4(過去に向わない死)

再び死の世界に立ち戻ってみたい。
ところで、実生活のなかで生起する死や死者は、構造上、生や生者と背中合わせになっており、しばしば一体的でさえある。それは、ある任意の時間のなかで前に進みも後に戻りもしない、ほぼ固定化された時間として出現し、多くの場合、その時間の一次性は、死者の側が所有するところとなる。したがってここには、過去という時間軸は成立しない。過去は、死とは異質な概念として、死との相対的関係の外におかれている。

死は、時間を刻まず、時間の経過を前提とする過去とは相容れない。まさに、時間概念から切り離されている。その意味において、死は生を克服している。永遠性の前で生は死の外側に退去する。

それを一つの真理にまで高めたのが宮澤賢治である。彼が『銀河鉄道の夜』で創り上げた死は、まさに常しえの「死」である。ジョバンニは、死を生き、死を生きることの意味を具に我々の前に指し示す。その息遣い、辺りに漂い流れる闇の夜の微かな湿り、その闇の厚みに守られた死者たちが集う光の環、その光のなかでの語り合い、かつて生あった者たちの生への回顧(回想)、彼等の語らいがその向こう岸に浮かべる闇の静寂(しじま)とそのさらなる深まり……。

その生身に触れるような危うい感覚に包まれながら、丘の上の草のなかに眼を開いたジョバンニは、表向き、夢を見ていたのだとしても、言い換えれば生の側に居たのを思い出すことになったのだとしても、その目覚めが、はたして生のなかでの目覚めであったのかと問えば、ほとんどその覚醒は、カンパネルラの死のはじまり時点にまで遡る、時間的な逆行作用と一体的であることに表されているように、すでに一度死を生きてきたことは、生の行き先を見通せることであること、その意味においてジョバンニが目覚めたのは、彼が夢に入る前のその時点ではすでになくなっていたはずである。おそらく、その時点でジョバンニが目にしていたのは、生の前面に立っていた(回り込んでいた)自分自身を見る自分の姿であったと思われるが、それが死者(銀河鉄道の列車のなかのカンパネルラ)の側に引き寄せられた状態であることに、真実、自覚的であることが、すでにジョバンニを夢見前の同じ生の営みなかに引き戻していながらも、もう一人の自分(カンパネルラの死を共に生きる自分)と向かい合う時間の移ろいを抱えこませることになる。

ここには、あらたな「時間」がある。流れている。死と生を合わせ持った時間、しかもその時間は、常に死の側から再生される「時間」である。そして生は、かつて一度として知らされていなかった、生の終わりに繋がる死ではなく、死から呼び戻される再生的な姿形で、死の側に刻まれる「時間」の自己所有に対して、仮託的な立場を保持していくことになる。この時間のなかには、いまや過去も現在もない。その両者(時間的両極性)と一線を画した時間的自覚、それが我々を未知の閾にまで足を踏み入れることを促している。
 
この生と死を生きる、あるいは記憶の奥底に眠っている不思議に懐かしい自覚的想い、しかし、それは、既存(既得)としては見いだし難く、生が直面する最大の悲しみの中にも見いだせないのである。たとえばよく知られた宮澤賢治の一連の絶唱がある。最愛の妹とし子(トシ)の死(大正1111月末、享年25歳)に直面し、その通夜の晩に一気に詠み上げたという兄賢治の、叫び声にも似た慟哭の詩(「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」)である。

けうのうちに
遠くへ行ってしまう私の妹よ
霙が降っておもてはへんに明るいので
(*あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  うすあかくいっそう陰惨な雲から
霙はびちょびちょ降ってくる
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
  青い蓴菜のもやうのついた
これ等二つのかけた陶椀に
おまへが食べる雨雪をとらうとして
  わたくしは曲った鉄砲玉のやうに
このくらい霙の中に飛びだした
     (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
原註* あめゆきをとってきてください
「永訣の朝」冒頭一三行
  
(前略)
  嗚呼けうのうちにとほくへさらうとする妹よ
ほんとうにおまへは一人でいかうとするのか
  わたくしにいっしょに行けとたのんでくれ
泣いてわたくしにさう言ってくれ
    おまへの頬の けれども
なんというけふのうつくしさよ
    わたくしは緑のかやのうえにも
この新鮮な松のえだをおこう
    (後略)
「松の針」中間八行

  こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなればならないのか
  ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたしが青ぐらい修羅を歩いてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするのか
(後略)
「無声慟哭」冒頭七行

 高村光太郎は言う、「こんなにまことの籠つた、うつくしい詩が又とあるだらうか」と。そして地方の言葉(岩手弁)の挿入と、その詩句としての比例的美しさに頷き、さらに詩全体を捉え、「さうしてこの地方の言葉が生きてゐると同程度に彼の詩語全部が生きてゐる。内面から湧き出してくる言葉以外に何の附加物もない。不足もないし、過剰もない。どんな巧妙な表現も此所では極めてあたりまへでしかない。少しも巧妙な顔をしてゐない。此の事は詩の極致に属する」(高村光太郎「宮澤賢治の詩」より)と詠嘆する。そう言われれば、さして異論はない。

しかし、「詩の極致」とまでは思わない。かく吐き出されても、詩語は賢治を貫きも突き抜けもしていない。宮澤賢治がここで向かい合う死は、『銀河鉄道の夜』が向かい合う死とは、同じ個人の内面が関与する同一の対象(意識対象)であるにしても、性質の異なるもの、異質にして溶け合うことのないものである。むしろ別の個人によるものとさえ言うべきである。しかも一度きりのもとして。大事なのは、読む側もそのように読んでいることであり、一回性に届く詩語・詩行として同調的であることである。言い換えれば「詩の極地」とは一回性と契約した態度であり、同時に読む側の了解事項が連体保証人になっていることである。

いずれにしても広義の極致に向う詩想の立場とは認められない。たとえば、妹トシへの想いは、失われる死を生に留め置き繋ぎ置くための必死さであり、そう叫ばなければならないのは、その絆が断たれることがすべてを失うことに繋がる(と決め込んでいる)からである。そして強く呼びかけることで(呼びかけ続けることで=連作することで)、まだトシの生と繋がっていられることを賢治は内面に(トシと共有する現実感、それはトシが居てはじめて達成されるものであるが、その一面的には絶対的でありながらきわめて相対的である現実感の再生を伴いながら)感じとる。

いずれにしても、トシが死という形(姿)で自分との絆を(一方的に)解くことを受け容れることはできない。賢治の愛情は特別だった。しかも愛情が向う対象の側(すなわちトシの側)でその愛情を同じ状態で生き直していたことが、その愛情を過大に膨らませた。しかしながらその双方向的で相乗的な愛情から発する、まさしく激情的なまでの気分の張り叫びは、肉親という血のざわめきがなさしめるものであり、それ以上でも以下でもない。しかるに愛情は、勝れて呪縛的である。

もちろん、その呪縛的部分を含めて、真心が詩語に至らないとまでは言わない。しかし、血のざわめきは、健常人ならだれでも(その強弱や深浅の度合いはあるにしても)嵐が必ず止むように、そして海面が再び凪のなかに静まっていくように、次第に平安を迎え入れる。精神的なものであるとともに多分に生理的なものであるからである。したがって大枠では、治癒感とともに在るもの、その自覚のなかにあるものである。しかるに、ジュバンニの生きた死には、この感覚も自覚もない。生理的な死との対峙ではないからである。

妹トシの死の翌年の大正127月、賢治は青森、北海道、樺太方面へ旅行し、トシへのいくつかの挽歌(「青森挽歌」「オホーツク挽歌」ほか)を創作する。花巻(岩手)からより遠くなるごとに、賢治のなかにも次第にトシの死に対する距離感が芽生えてくる。激情から醒めていくにつれ、詩語は、あらたな発語系に組み替えられなければならない。激情を思い出してもすでに気分は自分を遠退いていく。絶唱に続く言葉を探すこと自体がすでに意味をなくしていく。時間の経過は、トシの死を確実に過去に置き換える。

賢治は、トシの死がそうして過去となることを受け容れるためにあたかも挽歌を創作したかのようである。しかも、その契機がそのように北への旅であったのは、あたかもトシの死を招いた岩手から青森、オホーツクさらに宗谷海峡、樺太へと地理的に遠退くことが内面的な促しになっていただろうことを予想させる。しかもこの促しのなかには、悲しみの深さが唯一死者との距離感の解消を保証していた、その内面性自体をも過去としていくことが含まれている。

かくして過去は、対象(トシの死)それ自体と、その対象と一体的に形成されていた自己を伴いながら過去として完結していく。『銀河鉄道の夜』と比較して興味深いのは、形式的には(表面的には)この過去への橋渡しを列車(汽車)が担っていることである。

こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車のまどはみんな水族館の窓になる
    (乾いたでんしんばしらの列が
せはしく遷ってゐるらしい
     きしゃは銀河系の玲瓏レンズ
巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
(中略)
私の汽車は北へ走ってゐるはずなのに
ここではみなみへかけてゐる
(中略)
  汽車の逆行は希求の同時な相反性
こんなさびしい幻想から
  わたくしははやく浮びあがらなければならない
 (中略)
  あいつはこんなさびしい停車場を
たったひとりで通っていったらうか
  どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
  たったひとりでさびしくあるいて行ったらうか
  (後略)
           「青森挽歌」『春と修羅 第一集』(傍線・波線筆者)

上掲、挽歌(本来長詩作品。引用部はほんの一部)を少し分析してみよう。波線(イ、ロ)は『銀河鉄道の夜』に近い部分、傍線(ad)はその反対の部分である。前者が『銀河鉄道の夜』に近いのは、イの「やみよののはら」が暗澹たる想いのなかに暗く沈むのではなく、逆にロの対位法によって異なる位相の彼方の前に立たされ、あるいはふとした機会に、瞬時にその青白い輝きを浴びて、新たな時空間のなかに迎え入れられる予感を、それとなく滲ませているからである。トシの死も、ここでは別の時空を生きる。しかも、そのことでかえってトシは、自分の死を自身として生きていることが諒解されることになる。「やみよののはら」と「きしゃは銀河系の玲瓏レンズ」、さらに言外の「トシの死」というこの三者は、あたかも無人の演奏会場に別段示し合わせたわけでもなく、気が付くと、結果的に集っていたという、その夜の別の音系に浮ぶ主役たちにも思われる。

一方、傍線部分(a~d)、すなわち『銀河鉄道の夜』とは相容れない発想がここにある。aの「わたくしの汽車」という表現にすでにすべてが表明されている。言葉の上では銀河鉄道の列車に近い汽車と言いながら、この汽車は、賢治自身にほかならない。もちろん傷心を引きずる賢治である。したがって「汽車」は「心」であり、しかも「傷心」であるが、それを「わたくしの汽車」というのは、詩人の発想としてその卑俗(「わたくしの傷心」という直接的な表現)を許さないだけであって――しかしトシの死に直面したその日、そしてその晩では、その傷心は、より次元の高い痛みである慟哭によってかえって直接性として現われ、いまだトシの生身と共にある自分の確認をもたらすのだが――「汽車」に託けようが、その続きに現れる表現行為は、只管、「わたくしの傷心」の内側を経巡ることになる。したがって、傍線部分(ad)はもちろん、その前後でも詩の1行は、「わたくしの傷心」を(多感に)飾るに費やされる。

賢治の詩は、少なからず長い。それが別な内面による「心象スケッチ」である場合、賢治の文学(世界)の豊穣を幾度となく約束するが、ここでの挽歌の場合、かならずしもそうはいかない。かえってその創作行為の通俗性を少なからず曝け出す。しかし、それでも賢治の文学が掛け替えなく天上的にまで高いのは、そうした通俗性をも抱え込んだ同じ個人のなかで、もしくはその傍らで飛躍的に高い創作力に飛び移ることを容易になしうるような、しかもその飛翔する寸前まで気づかれずにいた、まさに未発見の自分が同居しているからである。あるいは見方によれば、自らの通俗性に我慢ならないために、只管、未知の自分を求めていたものとも考えられ、そうであるならば、彼の激しい感情の直截性には、逆に普遍の高みに横滑りできる天才性が傍らに隠され、日常的にも裏腹の関係であったことを教えている。

すなわち、二つの自己、言い換えれば文学的表現行為における二つの叙述(エクルチュール)は、一方を他者とすることの、その再生的現実と賢治が日常のなかで対峙し続けることであり、それを内面化すること、言い換えれば距離化することであったのだと。そしてもう一つの挽歌「オホーツク挽歌」のなかでは、その距離化の萌芽が認められる。おそらくそれは、上記したように賢治の身体が、北方旅行というなかでトシの死を生じた岩手からさらに物理的(地理的)に遠ざかっていることによって、文学的内面のなかの距離化(他者化)をもたらしているのだと認められる。したがって、現実の地理的な具体性から飛躍した文学的内面とは未だ一線を画していると言わなければならず、それは同挽歌の後半がトシに回帰(それは自家撞着を生み出しているはずだが、挽歌であることによって自己容認される、そうした自分に回帰)していることに表出しているとおりである。賢治がこの回帰から外に出るには、別な地理的環境が必要であった。そのことによってしか、一度垣間見た未知のもう一つの自分に、時空を超えて感覚的に還えることはできない。すなわち、それが「イーハトーヴ」であったことに相違ないだろう。

しかし賢治の童話世界は、そのイーハトーヴをも超えている。時空を超越しているからである。予め必要とするものはなにもない。賢治は語り出し、語り出しながら時空を感じ、感じながらその中を突き進んでいく自分を知り、しかもその自分を身体的にも感じとる。身体は今や心をも超越している(付記しておけば、この身体は現代作家では村上春樹が別な形で所有している)。だからここには一切の過去がない。過去は心が創るからである。しかも、新たに生まれた身体は、瞬時にしてその「過去」をも思うままに再生でき、あれほどまでに激しかった賢治の心をその再生のなかに優しく迎え容れながら、賢治をして二人の自分を生きる彼自身の再生へと目覚めさせることになるであった。


ノート5(今を生きる死)

小川洋子の『沈黙博物館』は、さらにわれわれの「過去」(=「心」)を掬いとった状態で、前触れもなくすでに世界を始めている。その当たり前さは、気が付くとなにか空恐ろしい程であり、このようにしてすでに同じ地点に引き寄せられ、同じ符丁に耳をそばだてていることが、なにか他人事のようでさえありながら、やはり振り返るとそこには自分しかいない(見えない)。より立体的に捉えれば、私はもうその用意された内側でしか意味を感じられなくなってしまっていたのである。しかもそれは、ある意味では過去そのものでさえある。ここではあらゆるものがあらたな意味のなかで生きていこうとしている。「過去」もまた例外ではない。宮澤賢治のなかで形成される(されようとしているトシの死という)過去も、ここで始められた日常への参加(参入)を留保される。慟哭も挽歌も立ち止ったままになる。

ここには、気付かれないだけで別な営みがある。それが(その気付かれずにいる営みが)、人々のあらゆる過去を一先ず止めている。時計の針だけは同じように時間を刻みながらも、昼の光も夜の闇もその同じ輝きやその深さを失い、人々のまとっていた生の営みは気づかれないままに「今」を離れ、我々を安定させていたすべて、すなわち、周囲の光景・ざわめきに私たちを向わせる知覚作用、そして、内面を掌る「過去」及び「今」という時間であり、かつ空間としても生きている意識作用から、われわれの身体(すべてを喪った身体)だけを浮かび上がらせて、別な椅子(ベンチ)の上に置き去りにする。気が付いたときには、私たちは知らない町(村)の古びた駅の改札口を前にしていたのである(『沈黙博物館』への帰着)。ここには、この目の前には今現在も過去もない。なにかのはじまりだけが私たちを待っている。

改札口を出て、駅前に広がる町(ただしくは村のなかの町)の光景を目にしたとき、すでに始まっていることのなか(それはどこか遠い記憶のようでもあるどことなくと懐かしい感覚のなか)に踏み出そうとしている自覚的な想いが、同時に私たちの奥深い意識の底に向けて、遠い記憶を意識の彼方に思い浮かべるに似た時間の移ろいを感じさせていく。数歩を踏み出した時、そして、駅前の広場で背後に伸びる自分の影の姿になにか別な自分の気配を感じて思わず振り向いた時、私は自分が乗ってきた列車(あるいは汽車)のことも、その列車がこの町に向っていたことも不思議に遠い記憶の底に沈んでしまっていることを知り、さらにここに至るまでの経緯を何一つ覚えていないことに気が付く。あるいはまだ想い出せるかもしれないが、それが自分にとって何の意味があるのかと考えると、思い出せないこと自体を気にかけないでいられる。別ななにかが始まることの想いの膨らみを感じながら、影から目線を逸らし、顔を上げて視線を虚空に注ぎ、駅舎の屋根の上に降り注ぐ季節の柔らかい光に面を晒す。

私は驚く。太陽は駅舎の斜め後ろにあったからだ。私の「影」は、前に伸びていなければならなかったのだ。驚きからまだ醒めないなかで、私はなにやら今度は自分の人生を思い出せないでいる。それが積み上げてきた本来なら意味あるべき人生の数々の想い出に至る知覚から遠く離れ、さらにそれと連れ添う自分自身を思い出せないでいる。かつて自分とともにあった、ある部分では内的でさえあった時間や光景が失われてしまうと、いとも簡単に自分自身という意識の大枠さえも失われてしまうのだ。

唯一、私を過去と繋ぐ列車、その列車は駅のプラットホームに止まったままだ。いつまでも動き出さない。やはりここは終着駅(終着点)であったらしい。しかし同じ客車の乗客の人々の顔が思い出せない。下り立った人々の顔が思い浮かばない。そうした人々がいたのかも実は先ほどから定かでなくなっていたのだ(私だけが降り立ったということのようだが、そう言われても、それさえ実のところ定かでないのだ)。

でも構わない。そうだった、私はわたしを失い、喪った自分を前にしているだけでよかったのだ。それがわたしに求められたいたことのほとんどすべてだったのだ。私は準備を終えたのだ。やがて一人の少女(沈黙博物館の老婆の養女)が出迎えに来る。私は、はっきりと取り戻した意識のなかで、思い出したようにして体の向きを反転させ、駅前広場に顔を向ける。柔らかい光が同じように広場に降り注いでいる。確かめるように足許に目線を下す。すると、その目の前で、思ったとおり私の前に「影」は徐に回りこみ、陽の高さに応じて影の長さを求めようとする。

すでに驚くには足らぬ。はじまりが私を出迎えている、まさしくその確信によって出迎えられる自分が、私を出迎えに来ている少女の前に向わせている。少女こそ私のはじまりだったのだ。そしておそらく賢治も思う。トシの死を超え、その死からはるかに高い、そしてその高さの成層から横へ横へと延び広がる累々とした時空を、そしてさらにそこに賢治が出会うであろう少女を。賢治は、わたしと同じように少女によって目覚め、その別の世界への案内を少女の招きよって受ける。

しかし、そのはじまりは、実に平凡な当たり前の言葉ではじまっていく。
「ようこそ」
少女は一言そう言った。これがすべてだった。

(前落)
 依頼主からの手紙には駅に迎えにやると書いてあったが、僕の容姿については何も伝えていなかったので、うまく出会えるかどうか心配だった。僕はホームを繋ぐ階段を下り、改札口に出た。ほかにこの駅で降りた人はいなかった。
「ようこそ」
 待合室のベンチに腰掛けていた女性が近づいてきて言った。予想よりもずっと若い、少女と言っていいほどの年頃だった。
 (略)
 季節は春のはじめで、風にはまだ冷たさが残っていたが、彼女はふんわりと裾の広がった綿のワンピース一枚きりで、カーディガンさえはおっていなかった。空は気持ちよく澄み渡り、薄い雲が風の乗って流れ、あちこちの陽だまりにクロッカスや水仙やマーガレットが咲いていた。
                     ――『沈黙博物館』冒頭部

別な時空の前に立ったことに気がついても、なにも変ったことはなかった。特別な言説が用意されているわけではなかった。だから多くの人々は気づかずに傍らを通りすぎてしまうことになる。いつもそうだった。すべては連続しているとしか理解していない人々に、過去をもたないでいる人の存在のことは理解できない。しかし、そういう人はいたのである。まさになにも語らない少女であるその人である。彼女の存在は、彼女が積み上げてきたであろう彼女の人生から欠落している。だからそれは、語る以前の問題というべきであった。少女は、語るべき自分自身を失っている。しかも、悲しみもなしに平然と失っている。

再び彼女の前に立つ。「ようこそ」そう言って、彼女は微笑んでいる。駅前の広場を渡る春の風のように、その声はやわらかく心地良い。陽だまりのなかに招き入れられる私は、自分を出迎える人が自分よりはるかに年若い少女であったことの意味に少しずつ気づいていく。気づかされるというべきか。少女より長い時間を生きてきた自分は、それまでそれが意味あることだと思って生きてきた。後ろに伸びた影は、私の人生とともにあって、わたしはその影とともに成長してきた。そういうことだったと思っていた。

それが、「ようこそ」と、そう言葉をかける彼女に、私の人生も、その人生へ傾けてきたそれなりに重みのある複雑な想いも、ほとんどたいした問題ではなかった。人生を失っていることの方が、はるかに重かった。それにもかかわらず、彼女は微笑みのなかに佇む。それが私を否定に導く。それ以上に気後れを呼び起こす。彼女よりはるかに年上であることに対してである。少女を前にして、まだ自分の人生の意味のなかに佇んでいる、未練にに対してである。

再び沈黙博物館の世界を見渡す。少女だけではない。失われているものの集積の影が、ひっそりとその気配を沈黙の底に沈めている。そうではないところでも、未だに失われずにいるものを失おうとしている。

沈黙の伝道師は、沈黙を呼び込むことのなかで、それと引き換えに言葉を失っていく。言葉を失うなかで、無言に深く沈みこんでいく身体だけが、残された自己証明の痕跡として、最初から沈黙のなかにいるシロイワバイソンの毛皮を纏う。生の営みに繋がろうとするもの、生の先行きを強引に引き寄せようとするもの、ここでは失われたものを過去に送りこまない。過去は、始まりの傍らで影のように寄り添い、もう一人の自分として生の営みを分け合う。少女は、すべてのはじまりを見届ける。彼女は、この町(村)の時空と重なる。光に透けて、彼方にもう一人の自分を浮かべる。彼女には「影」がない。影から見るべき自分がない。影の必要がない。

再び駅の広場に立つ。
「ようこそ」

何度でも同じ言葉がかけられる。彼女は年を取らないで生きている。そう思われてならない。時間を後ろに送らないでいるからだ。彼女とともにはじめられるあらたな時の刻み、それは、私が自分の「影」を踏み込んでいる上に刻まれていく。傍らの少女の眩い微笑が、わたしの新たな生の営みを優しく導く。

はじまりを迎え入れる。ここに得るものに私たちは名前をつけなければならない。その時、すでに私たち自身の過去をも傍らに見据えながら、「形見」は、あらたな生命として呼び起こされることになる。私たちはおそらく生まれ変る。意味あるものの形を前にあらたな生命が導かれようとしているその時に。そして、そのことの自覚のなかに、まさに今、新たな生が目覚めようとしている。言い換えれば、すでに私たちは「沈黙博物館」のなかに再び入りこみ(あるいは回帰し)、その沈黙(まさしく「死」を組み込んでいる沈黙)に包みこまれながら、あらたな「過去」を生み出す日々を前にして、未知なる時が設える在り処に迷い込む不安さえ心地良く迎え容れ、その館の展示室(かつて私の身(身体)から離れていったものを留め置くその展示室)に籠る空気を胸の奥に深く吸い込む。やがて息を整え終えた私の心のなかに、滲むように広がり浸透していくもの。その中でなにかを感じ、感じるままにはじまりのなかに身を委ねる。

――かくして私がわたし(あるいは博物館技師)として始まっていくのだった。

1 この「影」は、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンラーランド』(新潮文庫、1988年。単行本は同社・1985年)に登場する主人公の「僕」と別れさせられた(剥ぎとられた)「影」を意識したものである。


[付記]なお小川洋子には、『沈黙博物館』の「形見」以前に「標本」(『薬指の標本』新潮文庫1998年、単行本1994年)ほか「まぶた」に関する話(『まぶた』(短編集)新潮文庫2004年、単行本2001年)がある。それら「標本」や「まぶた」が象る身体部分に関する逸話は、「形見」の伏線である。
                          (200983成稿)

2014年4月30日水曜日

[ね] 「ネストリウスの夜」小論~ダニール・ワシリスキー(鷲巣繁男)の書・第壱『夜の旅への旅』~


 プロローグ 最初に、表題とした詩の一部(第一聯)を掲げることからはじめる。この詩は、鷲巣繁男が聖名ダニールにワシリスキーを繋げたダニール・ワシリスキーの名前を使って「書・第壱」の詩集とした『夜の果てへの旅』(詩苑社、1966年)のなかの一作品(「ネストリウスの夜」)である。時に詩人、在札幌の身で齢51を数える壮年後期であった。

わたしの眠りに海は遠く、夜はすべての襞を浸す。
年老いた石たちの記憶、神の亀裂。
人間の燥宴を象りつつ、やがて永遠の沈黙の中で、
それらは沙漠へ流れ去るであらう――
果しない苦悩を、純粋の神をも、運び去るであらう。
夢みてはならぬ脳髄よ、一切を。
危ふい映像のそそのかしを拒み、凡ゆる変相の中で唯一のロゴスを愛せよ。
だが、この闇を通して聞える戯れ女の嗄れた恋の唄は、頑なわたしの肉をさい
 なむ。

 拙稿は、鷲巣繁男を詩作品として論じた詩論第一弾である。これまで何回か、詩人について触れてきたが、詩論というよりは「思い出」である。したがってその文中では「鷲巣さん」と「さん」付けだった。題材を五十音順で採っている本エッセイの場合、鷲巣繁男の〝登壇〟の時期は、「わ」音を俟たねばならないから、それでは随分と先のことになってしまう。「思い出」のなかで詩論を試みなければならないとした。課題としながらもそれさえもう大分以前のことになってしまった。前言に偽りありの状態である。これからは機会を作りながらすこしずつ取上げていきたいが、それも今の状況では心許ないので、ここで一度、多少なりとも詩論めいたものを残しておきたいと考えた次第である。
 
 その点、五十音の巡り合わせといいながら、今回が「ね」音であったのは幸いであった。以前「思い出」(「鷲巣繁男とその生命」2007年(私家版に収載))で掲出した詩でもある。詩人の詩的営為を「ロゴス」の飽くなき探求として語るためだった。しかし、ここでは別の思惑によって再掲出している。副題の「ダニール・ワシリスキーの書・第壱」(以下「書・第壱」)を語るためである。「ダニール・ワシリスキー」とは、上記のように詩人の聖名(正教)による「書・第壱」の詩集ということになるが、ただし「書・第壱」と言っても初めての詩集なわけではない。それ以前にすでに5冊の詩集を上梓しているからである。したがった通算では第6詩集となる。それでもあえて「書・第壱」とする。何故か。その訳を知るためにもすこし詩人の詩歴に触れておかなければならない。詩論のための基礎作業でもある。


 1 詩人の誕生

 俳人から詩人へ 鷲巣繁男は、詩人としては遅蒔きのスタートであった。詩作に手を染めたのは34歳時である。それ以前は俳句制作者であり、さらに遡れば、新たな漢詩世界の創造を志望した、漢詩作詩家であった。実に10代前半での文学的野望であった。また10代後半では小説家志望でもあった。作家小島政二郎の門を敲き師事していた。一時のことではあったが単なる夢ではなかった。時代と家の事情(父の急死と一家の経済的柱とならなければならなかった事情)がなければ、目覚ましい筆力や晩年にいたって刊行した、青年時の夢の再現であったかのような小説集の充実度からみて、本格的な小説家として活躍する道も拓かれていたかもしれない。

 旧句集の「あとがき」で、「もともといわゆる詩人になることなど夢にも考えたことはなかつたのに、偶然のことでいつしか他人に『詩人』と言われるやうにやつたのもまこと不思議な思いである。しかし俳句制作者になつたのも全くの偶然であった」として、以下に続く部分で俳句制作までの遍歴を回顧している。再述を厭わずに再確認の意味で「あとがき」を辿ってみたい。

 まず少年の頃は、「ささやかな漢詩作詞家」であり、同時に学問の道に進む腹積もりであったが、小説家を夢見るようになって(16歳)、17歳時には作家小島政二郎に師事。しかし父の急死で家庭は困窮状態となりすべての文学の道を断念。以後青春(の後半生)は兵役に就き、中国大陸にて長い従軍生活を送る。俳句との出会いは傷病兵として帰還した療養先(市川市国府台陸軍病院)での俳人との出会いによるもの(昭和14年)。昭和1711月には再召集で再び中国大陸へ。敗戦後の昭和21年、国府台陸軍病院で句友の間柄となった者たち(自身の家族を含めて3家族)と北海道へ開拓民として入植。開拓の傍ら句作を続け、一冊の句集を上梓する予定にまで進んでいたところで、その計画は詩集(第1詩集)の刊行に入れ替わることになる。同時に句作から詩作へ転向。

 ここに詩人鷲巣繁男の誕生となる。句作者・漢詩作詩家からの新たなスタートであったが、具体的な詩作開始は、俳句の際がそうであったように一人の詩人との出会いであった。「歴程」同人の長光太である。34歳の時であった。句集と入れ替わった第1詩集『悪胤』(北方詩話会、1950年(昭和25)、34歳)以降、4冊を経て「ダニール・ワシリスキーの書・第壱」となった『夜の果てへの旅』(詩苑社、1966年(昭和41))の刊行となる。51歳。何故、「書・第壱」であるか、同詩集の「覚書」にはその言われが記されている。「私は幼児洗礼を受けた。それは私の知らぬところであるが、その故によつて私はダニールとなり、ダニールの名は永遠のものであると信じる。この書はその意味での私の第一詩集である」と。

詩的営為と自己命題 しかし、本人の言であれ、あくまでも「戸籍的」な謂れを言っているに過ぎないのであって、これだけではあえて「書・第壱」としなければならなかった内的な謂れ(内的動機)は見えてこない。なぜなら「戸籍的」な理由であれば、第1詩集『悪胤』当時も当然に「ダニール」の許にあったからである。同じ「覚書」には、俳句から詩へ転換しなければならなかった内的な動機が記されている。今、この内的動機を「書・第壱」への必然として読み替える時、やはり5冊を経る必要があったこと、5冊分の詩的探求は、「書・第壱」の誕生のために欠くことのできない過程であったことが理解される。まさしく鷲巣繁男の詩想と詩論の根幹部分に触れる試行(詩的試行)であった。「覚書」はこう独白する。

二度目の出征の後、敗戦は私の青春と武勲を抹殺し、最も笑ふべく憐れむべきものとした。私は妻子と共に流浪し、悪と生の争奪の東京を逃れて北海道の山に入つて荒々しい開拓に従事した。闇米を買ふ才覚も勇気もない私にとつて精神の亡命であり流刑であつた。やがて共同事業の友人との破綻――病気――私は荒廃の心身を札幌で過ごした。気がつけば三十四歳であった。私は何者でもなかつた。私は死者によつて生きてゐた。ソポクレースはアンチゴネーをして妹イスメーネーに向かい言はしめる。「シツカリオシ、オ前ハ生キテヰルンダョ。シカシ私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ」と。然り、私には死者のみが親しかつた。いや曽て「母が私であつた」やうに私は「死者そのもの」であつた。その時、十年続けてゐた俳句を止め、始めて詩を書いた。私の中に在る死者の憎悪と哀訴をいかにして愛に転じ得るか――それのみがのぞみであり執念であつた。(傍線引用者)

 しかし、そうは簡単にいかなかった。これは5冊を必要とした理由でもあった。「死者によって生きていた」とか「死者そのものであった」とか、一見気の利いた、いかにも詩的営為に相応しい文句(場合によっては虚言めいて聞こえないでもないが)にしか聞えない自己命題が、しかし杳として内奥に詩人を導こうとしない。反対に突き離す。波線は、それだけだと単なる古典の引用に過ぎず、精々気の利いたペダンチックな詩的な引用の技に留まることになる。それが、言葉が「ロゴス」と化した時、詩的宇宙に演じられる詩人の劇(悲劇)となり、その時、詩人は自己命題を生きることになる。では「ロゴス」とはなにか。それには、実作を繙くに限る。たとえば「ネストルウスの夜」のように詩題中に同じ「夜」を入れ込んだ作品を引いてみよう。一目瞭然である。「書・第壱」を遡ること約15年前の初期詩篇中の作品である。

夜の歌
――枝にぶらさがつてゐる腸がうたつた――

酎飲尽歓楽先故些
魂兮帰来反故居些
〈楚辞・招魂〉

重い甘酸つぱい夜がわたしに近づく。
残された地平の光の中で犇いてゐる修羅よ!
一瞬を奪ひあひ、一点の塵のやうな存在をうばひあひ、うめき叫んでゐる生命(ゐのち)よ。
わたしは自由だ、そして深い つきせぬ孤独だ。
わたしにのこされた僅かな時間の中で わたしはうたふ。
断絶の彼方の記憶を、悦楽を、憎悪を。
それらはもうわたしにはいりようがないゆゑに、
わたしはすべてをゆるし、ゆるやかにうたふことができるだらうか――。

ひとは昨日に眼を蔽ふ。
歴史に、深い罪劫に。
墓標は知慧だ。
忘却のための 人間のせいいつぱいの知慧なのだ。
わたしの下にころがつてゐる虚しい片腕、むき出しの眼、男根、
射抜かれた鼻梁、まだ泡立つてゐる血だまりよ。
君等の存在は許されない。君等の存在は憎まれる。
君等は墓標にとぢこめられる。――なごやかな光の下の治癒へのいそぎに。

(間2聯分省略)

本当に無力だつたきみらの形、
かたちのおもひよ。
曙は幾千の鵲をとばすだらう。
わたしを喰い尽すため、きみらの骨をも砕くため。
せめてのぼれわたしのうた、きみらのおもひ。
治癒のいそぎの傷口へ 苦しいゆるしを封ずるため、
深い苦悩をひそかに注ぐため――。       
                                  (括弧内は本来ルビ、以下同じ)

殊更に並べ立ててその出来映を見比べる必要もない。まさに定本詩集で「初期詩篇」として一括掲載(再編)されているとおりである。しかし、それだけに歴然としている、同じ一語々々でも、詩語としての重みとなると、その軽量さが如何ともしがたいことが。順に拾いあげてみよう。「夜」「修羅」「存在」「生命(ゐのち)」「孤独」「悦楽」「憎悪」「罪劫」「墓標」「知慧」「傷口」「苦悩」――これらの言葉とエピグラフの〈楚辞・招魂〉とは、「初期詩篇」以降の緊張関係を知っているからかもしれないが、互いの内側の声の閾で重なり合わない。とってつけたような飾りもの、喩えが適当ではないかもしれないが、文明開化時代の山高帽子のようにそれだけが浮き上がってしまっている。

 副題めいた「枝にぶらさがつてゐる腸がうたつた」も凄惨な戦場の叙景化としてはいかにも技巧(シュールな技法)が勝ち過ぎている。逆効果である。恐らく詩人としても試作の域に留まる水準であるのは分かっていた。あるいは技巧のための技巧にしかなっていないことも。それは「副題」だけではなく、それらはもうわたしにはいりようがないゆゑに、/わたしはすべてをゆるし、ゆるやかにうたふことができるだらうか――。」「かたちのおもひよ。」「せめてのぼれわたしのうた、きみらのおもひ。」のようなひらがなで作る各詩行にしてもである。それでもあえて「副題」も「ひらがな行」も、そして「エピグラム」も必要であった。すべては重い一語々々を得るためである。戦場の「死者」たちに繋がる必要あったからである。その連携への強い思いが、試作品を「作品」として提示することを詩人に許していたのである。先行していたのは、作品以上に死者との邂逅であったからである。

死者との連携 もう一例に当たってみたい。今度は自己命題である「死」を詩題中に入れた作品(「悪胤」収載「沈む汚辱」中の一詩)である。

死の舟

この雪もよひの天から 瑞々しい乳房が垂れ
ひとは一つの恋慕にめくるめき 酒をのむ
すべてはかへりがたい時間のために賭けてしまつたのか
そしてなほ 賭け尽すものが残つてゐる予感のゆゑに
生きねばならぬのか

死の舟を飾り装ひ 纜を断たう――
幻影に憑かれし者やがてよみがへると
ことごとく記憶の鳥を森に還さう
もの皆は己れしづかな座にしづもり
狩人は今運ばれてゆく

乾からびた血痕にあらゆる記憶は封じられ
泯びの〈時〉が泡立つとき
傷口より忘却はたちのぼる
あの恋慕 あの生殖
形はなほもゆめみつつ彷徨ふのか

死の前に面を蔽ふともよ
ああ 死さへもきみが飾りであるならば
なげきのゆゑに生きるがよい

 一見して明らかなように、「夜の歌」よりは直截的に自己命題を詩化している。二項の対峙が効果的である。今と過去である。しかし対立的とは言え、両者は過去(死者)のなかで繋がっている。逆に今のなかでも繋がっている。否、繋がろうとしている。それがこの詩である。しかし、繋がり切れないのである。正確には部分々々では繋がっている。その部分性が作品としての提示を許し、また保証もしているのである。

 では、なぜ繋がれないのか。偏に「今」を構築し切れないためである。「瑞々しい乳房」を掲げ「恋慕にめくるめき 酒をのむ」と「今」のなかに在る欺瞞性を「過去」に向かって論う。「過去」との繋がりを取り結ぶために必要な、言ってみれば告解室での告白でもある。そして、「今」を生きている意味合いを「予感」(こうして生きていることにも意味あると囁きかけてくるその予感)のなかに問い返していくためでもある。

 第一聯最終行の「生きねばならぬのか」との一つの答え。それは、「過去」との向い合いのなかで引き出されたものである。しかし、第一聯がつくる詩的文脈上に乗る「過去」は、抒情と交感して時間の平面上を水平に漂ってしまう。故に「飾り装ひ」に浮かぶ「死の舟」も「纜を断とう」と自らに呼び掛けたとしても、必ずしも「過去」の水面に向かって滑り出して行かない。

 初期詩篇のなかで行なわれた詩的試行は、あるいは俳句がつくる「今」を詩の「今」として再自覚するための「過去」への向き直りであったが――ただし詩的契機としてはその反対であって、「過去」に向き直るための「今」(「詩」の「今」)であり、その必要性であったが――具体的な方法論(詩論)を伴わないなかでの「過去」は、詩的営為の位相では単なる「今」を飾り装う「今」の一部以上ではない。しかし、「覚書」を命題化するためには、「今」が「過去」の一部であるような詩的構造体の創出になっていなければならない。

 見出された方法論が「ソポクレース」(波線)以下である。「古典」の内在化であった。同時に詩情の相対化が達成されなければならなかった。とは言え、詩情(短絡的には「抒情」)から距離を措くことは、詩の本質論に抵触する難題である。「死の舟」の上で言うなら、第二聯に背く行為でもある。同聯は詩情として完結的である。詩情を自らに容れない態度とは、言い換えれば「完成作品」を容れられないことである。それは詩に転化したことに対する自己否定でもあった。「書・第壱」の誕生というより、難解と遠ざけられる詩人の世評のためにも、明かされなければならない「難解」以前の「詩論」的格闘である。


2 「初期詩篇」の世界

詩情の克服 詩への転喚は、たとえ後年から遡る内的契機(聖名)のとおりだとしても、俳句にない言語的誘因が、さらに詩への転換を加速させたと思われるのである。言い換えれば詩情からの誘惑である。「初期詩篇」は、自己命題の傍らでその喜びに満ち溢れている。むしろ傍らの側にあるは自己命題の方である。幾つか掲げてみよう。

朝の歌

樹液よ昇れ 果もなく 梢はふくれ、
彩なすは不安と治癒の予感のふるへ。
兜虫、堅き小さき眼のうらぶれ吹かれ、
朝はなほ、狂へる天使壁に倚り、
凶器の祝祭(まつり)ひしめきて街にあり。
(上掲「沈む汚辱」冒頭詩)

土地の書

蒙昧の煙霧の底の
虚無を拒否する葦の水滴
その日 はじめて鶴はわたつた

遠く火をめぐり悴む獣たち
乳房に下る緑の闇
葡萄の酒は熟す 神々のかどで

おびただしい石斧、石鏃を擲ち去つた先祖(みおや)の流浪
虹を支へる〈土地〉の老いたる幻影
森では今日しづかに木が縊れる
                       (「土地の書」収載「暦日」の一詩)

比較的引用しやすい短い作品を選んだとはいえ偏った選択ではない。いずれにしてもこれらの詩篇に明らかなように、詩人にとって言葉は新しい詩情(抒情)そのものであった。新しい詩情を手にするためにも詩人という立場でいなければなかった。言葉が先にあるのか、立場が先にあるのか、同じことの表裏を問うているにすぎない気がしないでもないが、いずれにしても詩人という存在形態を介して成立する、一方を欠いては成り立たない両義性である。

 しかし詩人は、最初の2年で「詩情」に自己を見出すことができないことに自覚的になる。上掲「死の舟」に戻れば、第二聯の詩情から離れる方向に見出されたのが最終聯であった。「死の前に面を蔽ふともよ/ああ 死さへもきみが飾りであるならば/なげきのゆゑに生きるがよい」。抒情を「存在」の側に傾けた3行である。「死」は独白(詩情的響き)を越えて他者として近づき、それが言葉の上に「自己」として実現されている。

詩と思惟的主体 しかし、実現度はいまだ部分でしかない。加えて「詩情」のほかにも克服すべき大きな課題が残されていた。それが「自己」である。具体的には自己対峙の在り方となる。そう言い換えた方がよいかもしれない。その先には近代詩的在り方との対峙も待ち構えている。「今」・「過去」で言えば、「自己」が「過去」より「今」を主張してしまうからである。あるいは、「今」に再編された「過去」を創ってしまう思惟的主体であるからである。再編に在るのは、私小説的な自己とまではいかないまでもカテゴリーとしては同じ範疇である。近代的詩の在り方との対峙はそれだけでは済まないが、それはともかく、次の作品にその課題(「自己」)の一端が浮かび上がっている。

禿 鷹

死の際に おれは萎びた乳房を拒むであらうか 母よ
おれはおまへの涙を 眼脂を
獣のやうなすすりなきをあざけるであらうか
おれは 死に際にわが童女の捧げる花束を拒むであらうか
おまへの未知の恐怖へのあとずさりと追従の悲しみをあざわらふであらうか
おれの枕辺で 万巻の書を焚くがよい
死後にもなほ日輪がめぐることを信ぜねばならぬ末季の魂のために

おれの視界に薄明は迫り ただいちめんの葦のひろがり
そよぎ をののき
おれはその広茫と蒙昧から ただ一本の思惟をさがしあぐんだ
いま おれを支える無為の折葦の ただ一点の青空――確証よ
烈しい禿鷹をそこより下し おれの肝脾を啄ましめよ
かすかに乳をかもす萎びた天の乳房を しばし思慕ゆゑ 翼はめぐりためらふ
 とも

 言うまでもなくこの詩のなかでの思惟的主体は、「おれ」ないし副助詞「は」とともにある「おれは」(以下「おれは」とも)である。また「おまえ」も単なる客体でなく主体の裏返しである。一つの自己でしかない。この構図化に発声する言葉の質は、「おれ」や「おまえ」を「一本の思惟」として束ねるためにも強張ったものとなる。冒頭から4度に亘って「あらうか」と繰り返される、反語的な言葉の投げつけ。こうした荒々しさを支えるのは、偏に「おれ」に対する信念。あるいは信念を育てた「万巻の書」。その信念は、一つの結論の如くその書を「焚くがよい」と言い放って迷わずにいる。「おれ」を越えたものがあるからである。「末季の魂」である。

 しかし一度、「おれ」の内奥(「末季の魂」)を明かした後では、すでに「おれ」に対する単性の声音だけでは詩篇を編むことができなくなる。作品として成立させるためには、一度「おれ」を包む強勢を離れ、「末季の魂」に沿った文脈で語る必要がある。それが第二聯である。「おまえ」と同化した「おれ」は、すでに「おれ」だけとなって「葦のひろがり」の前に佇み、「一本の思惟」の先に天地二極を大きく吸い込んで、垂直に降下する禿鷹に体を開き、穢れた肉体の聖化のためであるかのようにして、その啄みに肉体を曝け出す。そのとき「禿鷹」は、「おれ」をも啄む。「おれ」に対する批判的態度の提示でもある。しかしながら発語は途絶える。自己批判は、「翼はめぐりためらふとも」と余韻のなかにたち消える。

 したがって「おれ」は、「私は死者によつて生きてゐた」や「私は『死者そのもの』であつた」という自己命題を引き受けることはできない。余韻が呼び戻すのは、はじめに立ち戻ってしまうような、再びの強勢を生き直す「おれ」でしかないからである。しかし、強勢のもとでは、「死者」は「過去」の衣を纏って同じ褥に横たわろうとしない。「おれは」に発する思惟にしろ、あるいは前掲の「詩情」に語りかけるような内なる声にしろ、「過去」を「今」に現在化して「死者」を生き直すことはできない。呼びかけて終わるだけである。呼びかけは、詩の力でもあり特権でもある。しかし、そのまま限界として彼(「詩人」)に立ち塞がるのも、これまた詩の力であり特権である。まさにこの場合がそうである。

「わたし」への転喚(予察) 詩作に転じた鷲巣繁男が、自らの聖名を入れ込んだ「書・第壱」とする詩集に至るまでには、転換時点から17年の歳月を要する。第二詩集『蛮族の眼の下』(昭和29年)は、「おれは」に立ち戻り、「おれは」が放つ強勢振りを詩語の核とした詩集である。強靱な思惟の主体のもとでは「祈り」の影は伸びない。後に聖名を冠したダニール・ワシリスキーが新たな詩人名となり替わるためには、「祈り」を詩想とし詩語とするのは絶対条件だった。しかし「おれは」(第二詩集では「オレハ」)がつくる「嘆き」は、必ずしも「祈り」の精神に基づくものではない。むしろ聖心性としては「祈り」を押し退ける方向に立ってしまっている。

 今はまだ「オレハ」の詩を詳述する段階ではないが、「オレハ」の裏返しでもある「嘆き」は、後に「祈り」に向かう一過程としてもいずれ詩作品に立ち入った分析を必要とするものである。それはともかく、いまだ「祈り」の手前に止まるとしても、おおきく転じる機会であったに違いない次ぎの一つの詩を掲げ、そこで「わたし」が主体化していくなかにあらためて初期詩篇の一部をなす「おれは」の詩論的段階を再確認して、冒頭の「ネストルウスの夜」の詩的世界の前に静かに佇むだけとしたい。掲出するのは第三詩集『メタモルフォーシス』の巻頭詩(序詩を除く)である。

白 鳥

故其地に御陵を作りて鎮り坐さしめき。
……然れども亦其地より更に天翔りて飛
び行ましぬ。        〈古事記〉

はりつめられたわたしの形象よ、
わたしを促す 限られたわたしの輪郭よ、
わたしの羽摶きはわたしを生み、
わたしに触れる物皆の 顫へるあはひ。

おお この間(あはひ)! そこからは果しない無。次々にわたしがみたしてゆく無よ。
わたしから生まれゆく無よ。
そして 私の重さ。
死よ! と呼びかけてわたしは顔あからめる。
愛といふまぼろしが一つの歌となつて わたしを縛る。
化(な)つた! はづかしさ、うしろめたさ、心弱さ。

虚空(あおぞら)の寂しさ。わたしは耳を澄ます。ふたしかな一つの叫びに。
いつの日わたしは深淵から昇つてきたのかと。
わたしと叫びを隔てるのは輝く日輪であるのかと。
いつの日かわたしが又その叫びに還つていかうといふのに。

わたしは〈物〉であるのか。
無へと憑かれた〈物〉の その狂ほしさが荒々しく血を流すのか。
それとも ひとよ、御身らを支へてゐる秩序が、
星々のやうに このわたしをも支へてゐるといふのか。

さうだ。女よ、裳裾の端の月の障りがわたしをおどろかす。
あらがひ難い一つの運行がわたしをみじめにうちのめした。
だが わたしは安らぎを知らず、
わたしの意志は焔と闘ひ、嵐の中でたかぶつてゐた。
わだつみの果に遠く去つた女!
記憶よ わたしの中に累積する御身等の無が、
それらが歌つた ただ愛といふ一つの歌が、
わたしの頬に ひとすぢの涙をながした。

いきのをの流せし血は ああ なべてかの日の熱となるかに。
くるしみは限りもしらず。
なほこのわたしの重さ。わたしの翼に
触れる無よ 限りを知らぬ。
追いすがる者よ、
まろびおらぶひとのひとみよ、
消え失せぬわたしののぞみも、限りを知らぬ。

いつの日かわたしを見たといふ語りつぎは……
わたしのまぼろしを負ひ天翔るわたしの形は……


  「ネストリウスの夜」小論

 詩読の前提 とりわけ「書・第壱」以降の鷲巣繁男の詩読に立ち塞がるのは、世界の古典的叡知を異なる文脈に単独的に組み込んで、再整序していることである。あるいはペダンチックな響きを奏でることから賢しらな趣が疎まれかねないが、あえて自ら引き入れたような衒気さも、上記したような経緯の先のあるとすれば、すくなくともそれが単なる博覧強記の開陳の類とは一線を画するものであることの予想は立つはずである。詩論上の必然でもあるので詳述を要するが、これも後日としたい。

 いずれにしても、その古典的意味を知ると知らないでは、詩読の味わい方が違ってくるだけではなく、深まり方もおおきく違ってくるのはたしかである。たとえば、上掲「覚書」の「ソポクレース」が好い例である。古代ギリシア悲劇の詩人と知るだけでは足りない。棒線した部分とそれ以下の科白、「ソポクレースはアンチゴネーをして妹イスメーネーに向かい言はしめる。『シツカリオシ、オ前ハ生キテイルンダョ。シカシ私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ』の部分。一級の悲劇作品であることを知る必要がある。さらに悲劇が単なる作り話で終わるものではないこと、たとえ架空であっても(当時もそう分かっていてなお感動を齎していたのだが)、深い哲学的リアリズムに満ち溢れた、人間を問う一級の文学であったことを知る必要がある。その時、姉アンチゴネーが妹に向かい語り聞かす、「私ノ魂ハズツト前カラ死ンデヰテ、アノ死ンダ人ニ仕ヘテヰタンダョ」が、2400年前という「過去」を越え、越えた分普遍の重みとなって、「死」や「死者」として「今」に甦えることになるのである。

 「ネストリウスの夜」も同様である。したがって、カタカナの固有名詞を理解しておくことは、詩読の前提であり条件でもある。不要な注記かもしれないが、再確認の意味合いをこめ幾つか「解説」を加えておきたい。
 
「先行注記」 詩題の「ネストリウスの夜」の「ネストリウス」は、異端とされた古代キリスト教の一教派(ネストリウス派)の始祖。彼(381?451)はコンスタンティヌポリスの総主教。431年のエフェソス公会議(「エフェソス公会議」は、通算第3回目の公会議。「全地公会」(正教会)とも言う)。エフェソスは現トルコ)においてその教義は異端の扱いを受ける。

 キリストの「位格(ヒュポスタシス)」を巡る対立である。それ以前の公会議(325年=第1回:ニカイア公会議、381年=第2回:第1コンスタンティヌポリス公会議)では、神と子は「同一実体(ホモウーシス)であり(第1回)、さらに「聖霊」を付加して父・子・聖霊の三位は絶対的な統一体(ウーシア)されたが(第2回)、その後(5世紀)、キリストの神性と人性との結合性の問題が議論されるところとなり、キリストの神性を強調する単性論に対して、神性と人性を別のものとする両性論に脚ってキリストの人性を強調したのがネストリウス派の考えであった。同公会議では、単性論者による神性と人性の結合が確定するところとなり、ネストリウスは排斥されるに至る。

 詩(「ネストリウスの夜」)の後景・前景をなし、やがて極点化される「マリア」の扱いも同時に確定することになる。ネストリウス派ではマリアを人性の裡に見て、「神の母」と見なさずに「キリストの母」とするが、その教義を異端として退けることによってマリアは真に「神の母」(正教で言う「生神女(テオトコス)」)と定められることになる。以上は、オリヴィエ・クレマン『東方正教会』白水社文庫クセジュ、高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫による。

 異端として排斥されたネストリウスの教義は、その後、ササン朝の庇護のもとメソポタミアの地にて、後に「アッシリア東方教会」に繋がる布教を広範に展開し、498年にはクテシフォン・セレウキア(現イラク)に新しい総主教が立てられることになる。異端として排斥されネストリウス自身は、エジプトに追われた後、追放された同地にて客死。
 
 以下は、辞書風。「イシタル」=メソポタミア神話中の性愛の神。『ギルガメシュ叙事詩』(古代メソポタミアの叙事詩)では、ギルガメシュから求愛を撥ね退けられたことに激しく怒り嫉妬心に滾る姿として描かれる。「イシス」=エジプト神話の生と死を司る女神。弟セチに殺害され、ばらばらになってしまったオシリス(夫)の遺体を繋ぎ合せ復活させたことで有名。処女の身のままホリスを身籠ったことからマリアの原型とも。「ラザロ」=イエスによって死後4日目に墓より呼び起こされた人物(「ヨハネによる福音書」11144)。ラザロはヘブル語名エレアザル(「神は助けられた」)のギリシア語音訳。「ステラ・マリス」=聖母マリアを讃える聖歌中の呼び名(「海の星」)。なお、エピグラムのHermannus Contractus(ヘルマヌス・コントラクトゥス、10131054)は、マリアを聖歌に採り入れた最古の作曲家。
  
「ネストリウスの夜」(詩読) 以上ももとに同詩全体を以下に掲げる。

ネストリウスの夜

                                           Ave praeclara Maris Stella……
 〈Hermannus Contracus

わたしの眠りに海は遠く、夜はすべての襞を浸す。
年老いた石たちの記憶、神の亀裂。
人間の燥宴を象りつつ、やがて永遠の沈黙の中で、
それらは沙漠へ流れ去るであらう――
果しない苦悩を、純粋の神をも、運び去るであらう。
夢みてはならぬ脳髄よ、一切を。
危ふい映像のそそのかしを拒み、凡ゆる変相の中で唯一のロゴスを愛せよ。
だが、この闇を通して聞える戯れ女の嗄れた恋の唄は、頑なわたしの肉をさい
 なむ。

怖るべきエロース。夜のイシタル。夜のイシス。
御身は、かうべをめぐらして微笑する。
佇立する古木のやうなわたしの告発は、ついに自らをあざわらふ。
泡立つ群衆は、永劫への回帰の中で、マリアよ御身を崇めつぐであらう。
恋の唄を受納し、幻影を定着するもの、寸断された肉を復元する悲しみの統率
 者、
忌はわしい変形と、吸収と、流転の中の大なる不動の母よ。

ラザロ、ラザロ、おまえはもう蘇らぬであらう。主は心重く立去り給うた。
主よ。関はりなき御身の名は、常に空しい栄光でスフィンクスの上にメッキされるのだ。
――荒涼たる人間の砂漠に傍に。
それとも、私の流謫こそ、この恩寵なき砂々にふさはしいのか。
しはがれた恋の唄が、無縁の弾劾者にまつはり止まぬとき、
万物をさかりゆく頑な心は、孤独なわたしの神とともに眠るしかないのであら
 うか。

おお、硬直する観念。
張りつめられたわたしの星座は、広大な宇宙の中で雄々しく緊張に堪へなが
 ら、
なほ、失墜するサタンの予感にふるへてゐる……
主よ、最も御身を愛すると信じるわたしを、そのとき救ひたまふであらうか。
  
汚辱の世。わたしの微かなまどろみをゆすつてゐるイロニイ!
わたしの眠りに海は遠く、
そこで船人たちはすこやかに歌ふ。
美しきマドンナ! ステラ・マリスを。

 以下のように読み取ることが、はたして詩語・詩行に籠められた詩想を正しく反映しているか危ぶまれるが、予め得た古典的知識で読み進めると、第一聯からは、異端として排斥されて、エジプトに追われたネストリウスの哀しい声が聞こえてくるのである。「わたしの眠りに海は遠く」とは、ボスポラス海峡によって繋がれたマルマラ海・黒海への思いであろうか。砂漠の夜の深い闇。古代文明に栄に繋がる「石たちの記憶」、そのなかの神。すでに深い亀裂のなか。往時の都人の「燥宴」をも刻んで沙漠に埋もれるに任せられている。解かれたのである、かく人々は。今はその唯中に佇むわたし。「果てない苦悩」もわたしを占めていた「純粋の神」も、この広漠とした沙漠の夜に運び去られようとしている。そして、わたしただ一人のために求めるべきもの、すなわち「唯一のロゴス」に囚われなければならないとする声が体内を占める。その一方では「頑ななわたしの肉」に向かう、もう一つの沙漠の夜の「戯れ女の嗄れた恋の唄」が、闇の彼方から伝わってくるのである。
 
 まさにエロス。沙漠の中の「恐るべきエロース」。そのエロスを一身に纏う遠く離れたメソポタミアの地のイシタルの誘惑。激しい愛欲。自分を避けた者に対する激した嫉妬。彼女のなかの男への憎悪。このエジプトの砂漠にあって、愛で生を復活に導くイシス。同じエロスを対極に為す二人の女神。彼女等の「微笑」。そのなかでわたしはなにを告発すべきというのか。「微笑」は自らのへの「あざわらい」に姿を変えるのである。それ故にわたしは、「微笑」を越えて「あざわらい」を包み込むものに面を上げようとする。その時、わたしも群衆のようにして、「永劫の回帰の中で、マリアよ御身を崇めつぐであらう」にちがいない。イシタルやイシスを内に容れても、人性にして「エロース」を超えた存在である「大なる不動の母」マリアよ、御身の愛を求めて。
 
 かくて「マリア」に昇華する絶対的にして永遠なる愛のもとで、わたしは「主」の救いからさえ浮ついた思いで自律的になり、甦らぬ「ラザロ」をも生きようとする。そうしたわたしの態度(驕り)に心を傷めて、「主は心重く立去り給うた」のであった。それもこの「荒涼たる人間の沙漠」にあればこその浮薄な心の為せる業なれば、傲慢にもわたしは口辺に上せてしまうのであった。「主よ。関はりなき御身の名は、常に空しい栄光でスフィンクスの上にメッキされるのだ。」と。しかしその不遜な言葉は、そのまま自分に返されることになる。「わたしの流謫」としてである。なによりも沙漠に相応しい姿であることか、この「流謫」。そして、この深い闇の中で万物から離れた孤独な心の中で、愚かなわたしを容れる神に「流謫」を委ねてともに眠るしかない「わたし」。

 結局、わたしは甘える。故に「失墜するサタンの予感にふるへて」も、なお神に容れらているとして、その救いに心を寄せている。これこそ「イロニー!」――眠れる「まどろみ」を包む、まさしく「汚辱の夜」に突き付けるべき言葉。そして、この叫びの先にさらに遠い海を想う。海上に浮かぶ船とその甲板上の「船人たち」の高らかな歌声に内なる耳を傾ける。その歌。「美しきマドンナ!」(「キリストの母」)マリヤ(「ステラ・マリス」)へ向けた賛歌の響きこそわたしの安らぎ。

 詩作の必然 しかし、このように読んだのだが、問題の本質は、読み方ではなく、読む必要性についてである。つまり疑問としてである。キリスト教に深い関心を持つ向きならまだしも、そうでない人にとって、しかも古代キリスト教となればなおさらのこと、上述のように読む態度が、解釈が外れているとかさらには誤っているとかではなく、現実と照らし合わせて別世界のことにしか伝わって来ないないからである。それなら幻想的な世界としてならどうかと言っても、幻想文学を好む向きには、詩語は直截的で時に断定的である。さらに意味が勝った言葉遣いには、余韻が生まれないどころか逆に言葉の繋がりの中で「詩情」を打ち消している。総じて硬質である。
 
 おそらく詩作としての必然が問われるに違いない。普通は「必然」のなかで書かれるからである。詩人を現存と繋ぐものでもある。現存とは生存性の謂いでもある。したがって「必然」は、生存性への問いであり、問いを深めるなかにさらに「必然」を高めるものでもある。その場合、「必然」は、詩の保証であり同時に目的でもある。その「必然」が無いのである。言葉が重いだけに、その分、詩読を苦痛なものにさえしかねない。事実、そうなっているはずである。
 
 しかし、「必然」が意図的に遠ざけられているとしたならどうだろう。それも遠ざけるために遠ざけているのではなく、それ自体が「必然」だとしたなら。つまり詩人の詩論だとしたなら。それでもやはりこじつけにすぎないと、容れられようとはしないのだろうか。徒に難しくしているだけではないのか、それも詩作が深まっていないことに対する隠蔽工作として。そうは言わないまでも、勢い晦いことに対する取り繕いとして。そうではないのか。

詩読の扉 結局、「説明」を離れて成立するのが詩である。通常は「必然」が「説明」の機能を果たしているのである。しかし、説明機能と矛盾関係をつくるのも「必然」の本質である。むしろその本質から詩が求められることになるとさえ言える。鷲巣詩も同じである。あるいはそれが、「書・第壱」の別の姿であるかもしれない。それならやはり詩読態度に問題があるのだろうか。実はあるのである。詩が詩一般として保証されていないこと自体を、知られていなかった言語空間として詩読上に転化してないからである。ではそうだとしてどう読めば良いといのか。 

 一時、漢詩制作に新しい表現を探ろうとした詩人である。「必然」を欠くというのならその表現態度に近いだろう。漢詩がその形式性によって最初から「必然」と一線を画しているからである。もしそこに詩作態度を認めてよいとしたなら、相当程度訝りが消えるはずである。問い立ても一歩先に踏み出す。それでもどう読めばよいかのという思いは、相変わらず再生されるかもしれないが(しかも累積的に)、どうやら詩作態度としては、詩の根源に触れる本質論を傍らに試みられているのかもしれないと疑うようになる。また詩篇を見る目も変わる。大きな体系下に置かれているのでなないかと怪しむようになる。まさにそのとおりである。実に構築的な詩的営為であったのである。個別の詩読はともかく、個別を越えた大きな詩想を予感するとき、すでに新たな詩読の扉が開かれようとしている。ただ詩人自らが呼びかける形では開こうとしていないだけである。


おわりに~鷲巣繁男の「朝の歌」~

詩集上の位置 今回は「書・第壱」の詩集全体を対象としていないし、当初の目的としては、「書・第壱」を前にしてその詩読のために初期詩集に遡る必要性を目論んでいたので、すでに大方の目的は果たしているのであるが、最後に、さらなる詩読のために、表題とした「ネストリウスの夜」が、「書・第壱」に占める編成上の位置についてだけ確認しておきたい。言うまでもなく詩集のタイトルである『夜の果てへの旅』と同じ「夜」を詩題の一部としていることからも、詩集上の位置的な大きさは自明的であるが、それ以上の役割を担っていることが、目次(『定本詩集』巻末)を繙くことで明らかになる。

 その構成は、大きく三部構成をとっている。すなわち、「夜の歌」「インテルメッソォ」「ゲッセマネ」である。あえて注記すれば、「インテルメッソォ」とは間奏曲のこと、「ゲッセマネ」とは、キリスト最後の祈りの場所であり、また聖母(生神女)マリアの埋葬地として知られた地で、エルサレムのオリーブ山の北麓地の地名。

 三部詩篇中「ゲッセマネ」の最後の詩、したがって「書・第壱」の最後の詩となるが、その詩題を見ると、「ダニールの祈り」とある。しかも、5編構成の同詩「ダニールの祈り」の最後の小詩篇が「ダニールの朝の歌」であることを知る時、この三部かなる大部の詩集の意図と「書・第壱」であったことの必然が、同時に告げられた思いにさせられるのである。

詩集の構成 この「夜」から「朝」、それは「わたし」の新生に相違ないが、そのためにも「夜」の闇の深さが詠われなければならない。その点、「ネストリウスの夜」は、「夜」の連作の最後に措かれているのである。「夜の歌」(詩篇第一部)は、10作品からなる。内、8作品の題が「夜」を使っている。「夜の果への道」「アンチゴネーの夜」「オレステースの旅」「テセウスの夜」「サムソンの夜」「アッシリアの夜」そして「ネストリウスの夜」のとおりである。

 プロローグを果たす冒頭詩「夜の果への道」のエピグラムには、≪ギルガメシュ叙事詩≫の一句(「暗闇はふかく、そこには光がない」)が引かれていることをはじめ、それぞれの詩の題名を横に眺め見ただけでも分かるように、この配列は実に構成的で単独的にも完結性を保っているが、より大きな詩想としてそれぞれが作られ、また叙事詩的な前後関係を保って構成的に並べ置かれていることが痛感される。この構成こそが、鷲巣繁男の叙事詩の深みを生んでいるのであるが、その最後を「ネストリウスの夜」が担っているのである。だからと言って読み方が大きく変わるわけではないが、連続性の中での再読は、自然と先の展開をも射程に入れたものになる。すでに詩読は一歩を踏み出しているのである。

 これ以上の言及は詩集全体の分析になってしまうが、冒頭に「死者たちへの手帖」を置いた第2編「インテルメッソォ」の「死者」との直面を経て、終結篇とも言うべき「ゲッセマネ」の第3詩篇の各作品は、大きな構成力を身に纏い、そのなかで自分以上の力を得て起立することになる。そして、辿り着いた「朝の歌」は、新たな詩人として再出発するうえの宣言詩でもあった中原中也の「朝の歌」でもある。意識的な詩題である。その意味もあり、最後に鷲巣繁男版「朝の歌」を掲げ、再述の時期をいつとは定められないが、一先ず筆を擱く。

ダニールのための朝の歌

わたしの記憶にない、しかし確かにあつた
幼児受洗の日のために

ダニールよ。目を覚ませ。けだるい夢の名残りのてのひらを胸におき……。
はじめて光がおまへを性急に包んだとき、小さなくさめがおまへを主張したや
 うに。
うすあかりの中から、おまへの世界が しだいに形をとらへていつたやうに。
ダニールよ。おまへも亦、出生といふ伝説を負ひ、そして、おまへの名も、
その物語の中で膠づけより強くおまへに固着し、おまへを支配したのだが、
慎しい原始の中で、聖なる水につかつたおまへの肉のゆゑ、
あらがひ難かつたおまへのさだめの日より、
一滴の水も 行為の中で黄金となるであらうから、
ダニールよ目を覚ませ。
数々の記憶の夜から おまへの試煉の昼の光へ。

貧しいものよ、おまへは時間をもつのではない。
おまへの苦しみが時間と呼ばれるのだ。
施された一滴の水の証しへの、おまへの凡ゆる反抗(あらがひ)も、
おまへのささやかな歴史となり、いやはてのクルスへの途となるために……。
そして、朝の歌、みどりごのくさめのやうに、くるめきのやうに、
聖化さるべき予兆の歌が おまへの胸に鳴り出でるべく。

≪主憐めよ。主憐めよ。
われは愚かなるまま 今朝も起き出づるなり。
われらが貧しきカーテンの楽(ねが)ひ垂れる裡にありて、心驕りて止ま
ざるに。
われらがために血を流せしひとを われは羨しむに。
この美しき大気に肺は愕き、
そして又、わが名も驚く!
アーミン≫


[付記] 本ブログ20136月「[号外]ご一読下さい」から拙文「鷲巣繁男の詩―手放さなかった軍隊手帳―」(「Midnight Press WebNo.6「詩人の肖像」)にリンク可能。小文ながら上記で触れなかった(あえて触れなかった)「流謫」なる詩的営為の背景に言及した。参照願えれば幸いである。