2013年6月30日日曜日

[せ] 「聖なる谷」とその奥地~「新インカ王朝」の精神~

[せ] はじめに おそらく、世代的な気風(反体制的な気風)を引きずっているからといわけではなく、纂奪された者たちへの同調的な思いからだったのだろう、あるいは、威厳を保った者たちへの敬いの思いからだったのだろう、マチュピチュの「天空都市」の上に立った時も、誰もが味わう奇跡的な人類史的遺産への感動とは別に、同山頂から望むことのできる、北から北西に広がるビルカバンバの峻険なアンデス山脈の山中に、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国侵攻(1532年)以来、40年間(1572年まで)に亙って王朝(帝国)の威信を保った、「帝国崩壊」後のインカ王と彼らに付き従った人々(その数1万人以上であるとも)とが、深く心に刻んでいたに違いない矜持に似た「精神」を思った。すでに、「聖なる谷(バリエ・サグラード)」の下流側オリャンタイタンボからマチュピチュまでの経路がそうだったように、渓谷は、次第に狭まり、川瀬に繁茂する熱帯性の樹林が、至近な距離さえその向こうに隠して前方を窺わせない。
オリャンタイタンボ駅から乗車したインカ・トレインをマチュピチュ登頂の村(アグアス・カリエンテス)で列車を降りた我々を待っていたのは、狭隘な谷底から上空に聳え立つ岩山群の林立だった。そして、マチュピチュの在り処を探す、切り立った岩肌の上の見えない山頂に向けられた仰視の数々だった。それが、今度は山頂に立った時、さらなる未知へと向けられる凝視となる。秘境ビルカバンバに奥まる、新たな「帝都」の在り処の気配に向けた遠望である。保たれた矜持への畏敬の念である。

「案内書」 以下はその時の思いをいささか歴史仕立てにして、その叙述を通じて「聖なる谷」とマチュピチュ山上から奥地に向かう眺望(まとめて「『聖なる谷』とその奥地」)を再訪(机上再訪)あるいは再現(机上再現)したいとするものである。そのための手立てとなる主な「案内書」(引用・参考文献)を先に掲げておく。
・全体的記述の上で活用したもの。
①高橋 均・網野哲哉『ラテンアメリカの興亡』世界の歴史18、中央公論社、1997年。
②網野徹哉『インカとスペイン 帝国の交錯』興亡の世界史12、講談社、2008年。
・歴史文献(クロニカ等)として参照したもの。
 ③シエサ・デ・レオン/増田義郎訳・注『インカ帝国史』大航海時代叢書第Ⅱ期15、岩波書店、1979年。
 ④ペデロ・ピサロ/増田義郎訳・注「ビルー王国の発見と征服」大航海時代叢書第Ⅱ期16『ペルー王国史』収載、岩波書店、1984年。
 ⑤バルタサール・デ・オカンポ/旦 敬介訳・注「ビルカバンバ地方についての記録」同上文献④収載。
⑥インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ/牛島信明訳『インカ皇統記』2、大航海時代叢書Ⅱエクストラシリーズ2、岩波書店、1986年。
 ⑦ティトウ・クシ・ユパンキ述/染田秀藤訳『インカの反乱』岩波文庫、1987年。
・探訪記として参照したもの。
 ⑧高野 潤『カラー版 インカを歩く』岩波文庫、2001年。
・専門書として参照したもの。
 ⑨染田秀藤・関 雄二・網野徹哉編『アンデス世界 交渉と創造の力学』世界思想社、2012年。
・展覧会図録として参照したもの。
 ⑩総監修・増田義郎『マチュピチュ「発見」100年 インカ帝国展』国立科学博物館ほか、2012年。
・その他引用参照したもの。
 ⑪増田義郎『インカ帝国探検記』中公文庫、1975年。
 ⑫染田秀藤『インカ帝国の虚像と実像』講談社選書メチエ1291998年。
 ⑬網野徹哉「第3章 アンデス世界と植民地社会」増田義郎編『ラテン・アメリカ史Ⅱ』世界各国史26、山川出版、2000年。
⑭高橋 均「第16章 ビルカバンバの新インカ帝国」ほか細谷広美編著『ペルーを知るための62章』明石書店、2004年。
文献⑦は、掲げた歴史文献のなかでは唯一被征服者側からの「記録」(1570年)であるが、見てのとおり「ユパンキ述」と、「述」とあるのは、ユパンキが述べた言葉を、メスティーソ(先住民とスペイン人との混血)の書記役の手を借りて述べた「文書(説明書)」であるからである。ユパンキとは、「新インカ王朝」の第3代王のことである。
その他、たとえば、文献⑤のオカンボ(バルタサール・デ・オカンボ)が、ビルカバンバへ侵攻した第5代副王トレドに付き従った当事者(軍人)の一人であるように、一連の歴史文献は、多くの場合、現地体験者の記録である。機能性は高いと言え、キープ文字しか持たなかった無文字文化であったインカを復元する上に、この「クロニカ」と呼ばれる記録類は、欠かすことのできない歴史史料である。ここに掲げたのはその一部でしかない。ただし、記録とは言え、クロニスタの置かれた立場が、時に事実に優先しているほか、それ以前の問題として、なにが「事実」であるかなどを巡って、テキスト・クリティークに晒されて初めて有用な史料となるものである。文献⑫は、一般向けながら史料批判を通じたインカ実像論である。
 なお、以下の記述は、いささか穏やかではないが、「死」を主役にして綴るものである。また、記述中、文献明示を要するくだりにあっても、本稿の叙述法(「物語」)に鑑みて明示を怠っているが、概ね記述の流れの指針とした文献①②に拠っている部分である。
 
 
 1 コンキスタを巡る「死」

インカの王位 パナマを発ったコンキスタドール(征服者)たちが、エクアドル(サン・マテオ湾)を介して、インカの中部地方都市カマハルカに姿を現したのは、1532年のことであった。当時、インカは、第11代王ワイナ・カパックの死(1525年頃)によって王位継承を巡って、兄弟間(異腹間)で係争が起こっていたところであった。
帝都クスコを拠点とするワスカル(クスコ派)と、北部のキト地方に拠るアタワルパ(キト派)との二王子間での争いであり、同時に両派の争いであった。背景には、先帝が帝都クスコを離れ、長期間北部の主要都市トゥメバンバ(現エクアドル)に滞在し、クスコを空けていたことにあった。インカ王の長逗留は、トゥメバンバをクスコと並ぶもう一方の帝都と化した。この「帝都」を中心にして北部地方で先王と長く行動を共にしていたのが、王子アタワルパであった。部下たちの信任も厚かった。
しかし、ワスカルは、嫡出であるとして一方的に第12代王の就任を宣言してしまう。反旗を翻したアタワルパを撃つべく新王ワスカルは、アタワルパの拠る北部に向けて兵を送り込むが、派遣兵は退けられた上、逆にアタワルパの派遣兵(精鋭部隊だったという)によって帝都は激しく荒らされ、自身も捕縛されてしまうことになる(この間の経緯については、文献③④⑥にそれぞれ応分の紙数が割かれている)。

アタワルパの死 丁度その時であった。クスコに上ろうとしていた新王アタワルパのもとに得体の知れない者どもの情報が寄せられる。スペイン人たちのことである。異様な出で立ちで侵攻してくるという。アタワルパは、数万のインカ兵を引き連れて彼らを迎え撃つべくカハマルカ盆地に赴く。王の前に現れた「赤髪」の人々は、わずかに150名程度でしかなかった。15321116日のことである。たった1日で世界が一変してしまうことになる。奇襲ともいうべき「赤髪」の頭(ピサロ)の突撃によって、衛兵に守られていた新インカ王は、輿から引き摺り下され、時を移さずピサロから声高らかに発せられた、「サンティアゴ(聖ヤコブ=キリスト教の守護聖人)」を合図にして周囲〈広場周囲〉から一斉に放たれた火器によって次々とインカ兵は斃されてしまう。高を括っていたインカ王は兵を武装させていなかった。数千のインカ兵が討ち取られた。そして、あろうことかインカ王は生け捕りにされてしまう。
大量の身代金(金・銀)が支払われる。アタワルパからの申し出である。囚われの身を逆手にとって身代金で彼ら(「赤髪」)を自分の側に取り込んでしまおうと謀ったのである。しかし、アタワルパを待っていたのは、膨大な身代金を無意味に帰して余りある(非道なる)死への突き落としだった。罪名は、スペイン国王への反逆罪と、ワスカル(クスコで幽閉中)に死客を送ったことに対する兄弟殺しの罪名であった。スペイン人とワスカルとが裏で手を結ぶのを懼れ、捕縛中ながらも密使を放って暗殺してしまったのである。先手を打ったのである。
後者の罪状ならともかく、前者を問われて、その罪状を我が身に置き換えて罪名が意味するところを「法的」に解することは不可能であったに違いない*。実際はアタワルパの強大な力(同時に再軍備力)を懼れたからという方が史実であった(文献⑭)。15337月、処刑が行なわれる。捕縛から数えて約8か月が経過していた。すでにその年の3月段階で大量の財宝が各地から届けられていた。そのなかからスペイン王カルロス5世に「5分の1税」として献上されただけでも金3万トン以上であった。したがって、15万トン以上となる。これに銀ほか金製・銀製の容器が加わることになる(史料性のある数字である)。
ところで、多くの「史実」は、征服者側から書かれたもの(クロニカ)である。そうしたなか、貴重なインディオ側文献である上掲ユパンキも、カハマルカの経緯を述べるが、アタワルパに対する口調は、終始、反目的な感情で貫かれている。ユパンキにとって伯父(義伯父)に当たるアタワルパは、ワスカル亡き後、正統な継承者である自分の父マンコ・インカの王位を横取りした、不正を働く邪な者でしかなかった。処刑も当然の報いとして語られる。身代金も本来父の所有であったものが勝手に使われた(身代金に流用された)と語られる。つまり、同じインカ側でも系譜が異なれば、立場が容易に「事実」に優先することになる。
以上であっては、何れにも拠ることができない。一致している死という結果だけが受け入れられるだけである。劇的に記されたものには、事実に基づく場合でも文飾を伴う偏りがある。ましてや、インカの命運を左右した件に関しては、時に脚色が事実より重要となる。
* 姉妹を妻としていたことの罪で処刑された、ともある(文献④)。キリスト教にあっては大罪であっても、妻を姉妹から選ぶのは、血の純潔を神聖視するインカ王統の伝統である。

傀儡王の「死」 さらに「死」を追うと、ワスカル(1533年)、アタワルパ(同年)の死の後、次に死を継いだのは、やはり先王の子であるトゥパク・ワルパ(同年)である。継受する破目になったのは、傀儡王としてピサロに選任されたからである。トゥパク・ワルパは、クスコ派の王子であった。傀儡王とすることでアタワルパ派との対峙や、その後のアンデス統治にその立場が役立てられると見込んだのである。なお、時を措かずしてワルパを選ぶことができたのは、王位を奪取したアタワルパの命によってトゥパク・ワルパらがアタワルパの許に呼び出されていたためであった。
クスコ遠征は、アタワルパ処刑後、到着した援軍(武人アルマグロ)と合わせ、総勢500名(これに反インカ族の助勢が加えられる)で行なわれた。傀儡王となったトゥパク・ワルパの死の詳細については、クロニスタの一人ペドロ・ピサロ(文献④)が記すところによれば、次のとおりである。

アタワルパの死後、侯爵ドン・フランシスコ・ピサロは、王として、グァイナ・カパの子でありグァスカルの兄弟であるトゥバリバ(トゥパク・ワルパの略(引用注))を即位させ、王国は彼に属することになった。彼は、アタワルパの生前会いに来ていたのだったが、アタワルパが生きていた間、ずっと病といつわって居室にこもっていた。こんなことをしたわけは、他の兄弟たちのように、アタワルパがじぶんを殺せと命令するのを恐れたからであった。
こうしてこの土地の住民たちの習わしにしたがって王位についてから、彼がある日、食事をしているとき、チャリクチマ(アタワルパの武将でその頭株。猛者で鳴らしていた(引用注))がはべっていた。チャリクチマはチチャを献盃した。献ぜられたとなると習慣上飲まないわけにはゆかない。ところがそのチチャの中に、彼は毒をいれてトゥバリパに飲ませた。そこで彼はそれにだんだん冒され、7ないし8ヵ月後ハウハで死んだ。これらのインディオは、何ヵ月も、ときによっては何年ものち、のぞむままに人を殺す草を知っていたのである。
――「第13章 カハマルカからハウハへの出発と、トゥバリパを王に任命したこと、および途中の出来事について」の冒頭部分

 記録者ペドロ・ピサロは、征服者フランシスコ・ピサロの従弟であり、いまだ年若かったので従者の資格でピサロの近くにいた。したがって「事実」に近い立場に身を置いていた。しかし、それが「事実」を書くことになるかは別だし、逆に歪曲にその立場を「利用(援用)」するかもしれない。いずれにしてもそれ以上のこと――死亡したことは確かかもしれないが、それ以上のこと(ディテール)は分からない。頭から決め付けてかかることはできない。実際、アンデス史の秀英による筆では、毒殺とは言わず、「謎の死を遂げてしまう」としか言わない(網野徹哉「植民地時代を生きたインカたち」(文献⑩収載))。
著わされたのは、157071年頃(著者567歳時)と推定されている(文献④「解題」)。1569年に着任した第5代副王トレドの副王領統治時代である。同「解題」は、トレドによる本格的な巡察(総巡察)と、その一環として命じられたアンデス各地の歴史・文化の調査・報告を前提に、「ペデロ・ピサロが、副王の関心を知って回想録をものし、ペルー植民におけるじぶんの業績を当時のエスパニャ国王フェリペ二世に訴えようとしたのも当然であろう」としている。
なお、かりに毒が盛られたのだとすれば、主人アタワルパの(間接的な)仇討ということになる。
 
ワイナ・カパックの出現 クスコに迫ったところ(クスコの西約25kmにあるハキハグァナ)でインカ王族を名乗る一人の男が、フランシスコ・ピサロの前に現れる。マンコ・インカ(1516頃―1544)であった。ワイナ・カパック王の子(クスコ派王子)であると言う。本来なら、出自の正しさ(嫡出子であること)から言って、もし相応の年に達してさえいたならば、ワスカルやアタワルパではなく、先王ワイナ・カパック(1525頃死亡)の後を継ぐのは自分であったとも口にする(文献⑦)。
それはともかく、クスコ入城後、ピサロは、彼を新たな傀儡王とすべく王に即位させる。しかし、新たな傀儡王は、単なる傀儡王に留まって大人しくしていなかった。しかも、「死」を継がなかった。それどころか、今までの「死」(コンキスタに伴う「死」)を「生」に転換した。「新インカ王朝(帝国)」(「ネオ・インカ国家」とも言われる)の樹立であった。再生した「生」は、彼の息子たちの間で継がれ、彼を含めて4代を重ねることになる。再び「王朝」に「死」が訪れた時も、後述するようにその「死」は、時間を超えて再生されるまでになる。

 征服者と「死」1 ところで「死」は、インカ側ばかりに起きたのではない。スペイン人側でもいくつかの「死」が、それもコンキスタドールの首魁たちの身の上に起こったのであった。その死は、「新インカ王朝」がその後数十年に亙って存続していく上に、相手側が身勝手に創り出した「死」(自滅的な死)でもあったことで、客観的に見れば歓迎されるべきものだった。
その最初は、フランシスコ・ピサロと相並び立つ地位にあり、武力も保持していたアルマグロが引き受けることになった。内戦であった。ディエゴ・デ・アルマグロは、ピサロの3次にわたるペルー渡航を同格者として、第1次から行動を共にした武人だった。年齢的にも同年配(少し年上)だった。第2次を前に2人に加え、エルナンド・デ・ルーケ神父を加えた、3人による契約書も取り交わされた。役割分担、戦利品(「成果」)の平等分配などに関する契約――資金調達役=ルーケ神父、先鋒役=ピサロ、人員調達及び背面からの軍事支援役=アルマグロ――であった。
この関係が最初に崩れたのは、第3次の際のカハマルカの戦いだった。先鋒役だけで「成果」を上げてしまい、そのために事後到着したアルマグロには、同格者に見合う分け前は支払らわれなかった。契約違反だった。しかし、ピサロにとっては必ずしも契約違反ではなかった。第3次を前にして、第2次の失敗を踏まえ新たな体制作り(増員)のために本国に立ち戻ったピサロは、それとは別に契約を超える「協約書」を独断でスペイン王室と取り交わしていたからである。しかもアルマグロが受け取れる権利を一部に縮小したものだった。
事の次第を知ったアルマグロがピサロに抱いた反感は、しかし、開始されたばかりのコンキスタのなかで一端は胸の中に深く仕舞いこまれたが、やがて倍加されて一大対決へと彼の怒りを導いていくことになる。
クスコ陥落後、体よくチリ方面への遠征(南行)をピサロから受け容れさせられたアルマグロを待っていたのは、どこにも黄金の国を見出せない中での、辛酸を舐めさせられた2年間だった。遠征で多くの命も失われた。あるいは敗残兵に近い思いで立ち戻ったアルマグロを待っていたのは(1537年クスコ帰還)、反旗を翻した傀儡王マンコ・インカによるクスコ包囲(「クスコ包囲戦」(1536年))による強力な攻撃から解かれて間もない、いまだ混沌とした旧帝都の姿だった。ピサロは、新都市リマ建設のためクスコを離れていた。アルマグロは、クスコ領有権を主張して、後を守っていたピサロの異母弟たち(エルナンド、ゴンサーロなど)を捕縛・投獄してしまう。致し方なく異母弟たちの釈放を条件にクスコの領有権をアロマグロに譲る。ピサロの選択だった。
しかし、領有権は1年ともたなかった。釈放されたエルナンドたちは、翌1538年、クスコに攻め上って、クスコ近郊のラス・サリナスの戦いでアルマグロ軍を打ち破り、捕縛しクスコに連行したアルマグロを、自分たちをかつて閉じ込めていた同じ塔に監禁し(文献④)、数か月後、裁判を経て処刑(斬首)してしまう。

征服者と「死」23 再びクスコは、ピサロ派による統治が再開されていく。しかし、「死」は、すでに次のターゲットに狙いを定めてそう長くは待ってくれなかった。向けられた先は、コンキスタの第一の立役者で、かつペルー総督の地位にあったフランシスコ・ピサロであった。
まるで振り子のような「死」だった。アルマグロ処刑後4年を経過した1541626日、ピサロは、無防備になっていたリマ市の自宅でアルマグロ派一党によってあっけなく暗殺されてしまう。一党の首領に担ぎあげられていたのは、アルマグロの遺児ディエゴであった。ディエゴは、さらにペルー総督にも担ぎ上げられようとしたが、再び「死」の振り子は自分の方に戻され、1年後の1542916日、新たに派遣されたクリストバル・バカ・デ・カストロ総督率いる王党軍によって打ち破られてしまう(チュパスの戦)。そして、その年の内に父親アルマグロと同様、クスコで処刑されてしまう。

征服者と「死」4 それでも振り子はまだ止まらなかった。1往復半の状態であった。中途半端だった。2往復目は、ピサロ派の新たな首魁となった異母弟ゴンザーロ・ピサロに向けられることになった。しかし、今度は内戦ではない。内戦に生き残って勢力を増したゴンザーロ・ピサロによる本国への反乱であった。反乱の要因となった大本は、本国による新法(「インディアン新法」)発布(15429月)にあった。
コンキスタドールの既得権であるエンコメンデロ(インディオ領有を委託された権利、あるいは委託そのもの)を一代限りとするこの「新法」に、エンコメンデロ層は猛然と反発する。中心にいた人物は、今や最後の首魁級正統コンキスタドールとなったゴンザーロ・ピサロであった。新法実施を託されて、第1代副王の肩書を以って国王から派遣されたブラスコ・ヌニェス・ベラだが、彼らエンコメンデロ層の反発だけではなく、随伴して来たオイドール(聴聞官)4名からの反発も買って、終にオイドールたちによって本国送還を決議されてしまう。リマ市に入ってまだ4か月も経たない15449月のことであった。1か月後、ゴンザーロは、オイドールたちによって兄と同じペルー総督兼司令官に任命される。混乱回避のためであった。オイドールたちは彼に事態の収拾を任せることにしたのである。新法の実施も一先ず停止された。かくして事態は落ち着くかに見えた。
しかし、副王ベラが巻き返しを図ったのである。送還途上であった。逃亡し体制を立て直したベラは、キト(現エクアドル)でゴンザーロ軍と戦火を交える(15461月)。結果は副王の敗北に終わった。終わっただけでは済まなかった。ベラは敗死させられてしまった。ゴンザーロの勇み足だった。明らかなスペイン王家への重大な謀反行為であった。しかし、副王を破った彼は、いまやペルーの国王にも等しい立場にさえ立っていた。それから2年後の1548年、クスコに入った彼を、あろうことか、インディオたちは歓呼で盛大に出迎える。しかも「インカ! インカ!」の連呼で。さらに噂話とはいえ、高貴なインカの血を引く娘(フランシスカ・ピサロ・ユパンキ(皇女の血を引く女性))との結婚さえ次の日程に上っているという。「スペイン人の王とインカの血を引く娘との結婚は、新しい王国に象徴的な意味をもたらすことになっただろう」(文献①・127頁)。「インカ!」の連呼とは、団結以上を求めた、血の一致に発する声だった。
事態を重く見たスペイン国王は、追討命令を発し、ペドロ・デ・ラ・ガスカを派遣する。国王大権を委ねられた彼は、その大権を活かしてゴンザーロ派の懐柔(エンコメンデロの継続権の付与)を謀り、王党軍を組織すると、頃合いを見てゴンザーロ軍との一戦に臨んだ。しかし、この最初の戦い(ティティカカ湖南東のワリーナの戦い)は、ゴンザーロ軍の圧勝で終わった。「死」の振り子は、回避されるかに見えた。でも止まらなかった。次の戦い(クスコ近郊ハキハナワの戦い)で、今度は本隊を率いて戦いに挑んだガスカによってゴンザーロ軍は壊滅させられてしまう。
翌日(1548410日)、即座にゴンザーロの処刑が執り行われる。ゴンザーロの死によって、一先ずスペイン側の振り子は止まった。同時に四つの「死」によって、ペルーは、コンキスタ(征服)の時代から本格的なコロニアリズム(植民地主義)の時代への足場を固めていく。それから約20年後に第5代副王として赴任したトレドの統治(156981)とは、言うなればその総仕上げ的な植民地政策であったと言える。ただし、そのことは、「新インカ王朝」に立場を移すと、トレドとは新たなコンキスタドールの再来に外ならなかった。同時に中断していた「死」の持参者でもあった。

 
2 「新インカ王朝」の展開

「クスコ包囲戦」 最終的にトレドに繋いでいくためにも時間の針を少し戻さなければならない。傀儡王マンコ・インカのその後(彼の動静)にまでである。既述のとおり傀儡王は単なる傀儡王ではなった。現状を甘受する敗残者などではなかった。クスコの新しい支配者となったピサロの異母弟ゴンザーロたちは、新たな財宝を獲得したいがためにマンコ・インカを捕縛状態にしてしまう。汚されてはならない神聖王への辱めは、やがて在クスコスペイン人を絶体絶命の崖っぷちに追い詰めることになる。上掲「クスコ包囲戦」である。
クスコを脱出したマンコ・インカが、その数2万(文献⑦では40万)にも及ぶとされるインカ兵を率いてクスコを取り囲んだのである。対するスペイン人側の兵力は200人ばかりでしかない(ほかにスペイン人に味方する反インカのインディオ軍が1000名あまりいたというが(文献⑪))。奇跡が起こるしか助かる道はなかったが、その奇跡が起こったのである。
インカの攻撃拠点となっていた砦(サクサワマン砦)を決死隊によって奪い取ったことが、彼らの延命に大きく寄与することになった。執拗な背面攻撃が止み、膠着状態になって数か月が経った頃、インカ兵が少しずつ囲いを解きはじめたのである。いつしか降雨期に入っていた。播種期(農繁期)だった。帰農のために、三々五々、包囲が解かれていく。奇跡だった。キリスト教徒は再び守護されたのである。

オリャンタイタンボ砦の戦い 窮地を脱したと言え、しかし、次の冬季には再攻撃が仕掛けられてくるだろうと予測された。スペイン人とマンコ・インカとの戦いは、彼がビルカンバに退くまでに、この「クスコ包囲戦」(153637)を初戦として、さらに大きく2度戦われる(ただし2度目は対峙だけ)。1度目(包囲戦から数えると2度目)は、「クスコ包囲戦」からあまり時日を措かずに行なわれる。2度目は、「新インカ王朝」樹立時である。まずは初戦(1537年)について。
主戦場は、「聖なる谷」(ユカイの谷)の中心地の一つであるオリャンタイタンボの砦であるが、時系列ではチンチェーロで前哨戦が行なわれた後となる(文献④)。クスコの包囲が解かれた後、ほどなく(23か月後?)新たな攻撃部隊がチンチェーロに集結して、クスコ攻撃を準備していることを知ったエンルナンド・ピサロは、弟ゴンザーロに先制攻撃を命じる。
チンチェーロは、クスコから約25キロメートルにある、「聖なる谷」に下りる高原地帯のインカの施設のある村である。急襲は功を奏すが、その後でさらなる大軍に遭遇し(ハキハグァナ)、報せを受けて急行した兄エンルナンドの援軍に危ういところを救われる。本拠地を潰すしかない。マンコ・インカが拠るタンボの砦(オリャンタイタンボ砦)への攻撃であった。
 しかし、用意万端で繰り出した攻撃軍も、タンボ砦の要害の前ではまるで手も足も出ない。川(聖なる谷を流れ下るビルバンガ川)に突き出したタンボの砦は、両側を切り立った崖で固く守られ、麓をアンデネスで取り囲んだ上に、頭上では大岩が行く手を阻んでいたからである。しかも、入口は一か所しかなく、岩と粘土でがっしりと塗り固められ、這った状態で人が一人やっと通り抜けられる隙間しか残されていなかった。
それでも攻撃を試みるが、案の定簡単に押し返されてしまう。礫や矢が雨霰の如く降り注いでくるのである。一夜を過ごすと、さらに思いがけぬ事態が攻撃軍を待っていた。夜陰にまぎれて、インディオたちが陣地を水没させようと、夜の内に川の流れを変えてしまったからである。気付くのがもう少し遅ければ全滅するところだった。天然の要害に守られたこの砦を陥落させるのは、とうてい無理だった。これ以上損害を出さないためにも撤退しかなかった。ゴンザーロは、追手の背面攻撃を懼れて、夜の帳のなかで全軍に撤退を命じる。

タンボ砦からの撤退とビルカバンバの「王朝」樹立 そして、包囲戦が解かれてから約半年が過ぎる。包囲戦を戦ったスペイン側(ピサロ派)の前に、チリ遠征から引き返してきたアルマグロがクスコに迫っているとの報せが届く。2年振りの帰還であった。マンコ・インカは、今度はもう一派(アルマグロ派)のスペイン人との間で戦わなければならなくなる(ただし対峙戦)。
 クロニスタ(文献④)によれば、アルマグロは、クスコを前にして南約30kmの地点(ウスコス)で一端留まった。マンコ・インカと合流するためだった。彼(とその兵)を伴って、クスコに再入城する腹積もりだったのである。あらためてクスコを確実に手中に納めるためである。タンボ砦に派遣された使者は、砦を出て来て欲しい、とアルマグロが要請している旨をマンコに伝えた。
実は、マンコ・インカは、アルマグロが南征に赴く以前、ピサロに反感を抱いていることを知って、アルマグロの力を利用しようとしていた。アルマグロはアルマグロで、クスコ領有のためにマンコの「権威」を使おうとしていた。実際、アルマグロは、チリ遠征前、王位を盤石なものとしておきたいとするマンコの要請(策謀)に応えて、旧インカ王族の殺害に手を貸していた。
 しかし、使者は歓待したものの、マンコは応じなかった。砦を出ようとはしなかった。逆に使者に向かってキリスト教徒たちがこの国を出て行かないつもりなら、我々は最後まで戦わなければと伝えた。マンコ・インカは、アルマグロが知っている以前の傀儡王ではなくなっていた。インカ帝国の復権に向け、スペイン人に全面対峙を挑む新生王に生まれ変わっていた。
クスコを急いだアルマグロは、その場は一端引き下がった。クスコを手中に納めると、今度は大軍を派遣し、圧力をかけて再折衝に臨む。出てこないなら攻撃するとも告げた。マンコ・インカは出てこなかった。代わりに砦を後にして山奥に退いた。マチピチュより北西に780キロメートルほど奥まったビルカバンバの山中だった。
 ティトゥ・クシ・ユパンキの「述」には、マンコ・インカを追跡する派遣隊とマンコ・インカからの反撃や両軍の山中攻防戦ほか、同書に独自の「戦記」も認められるが、いずれにしても、マンコ・インカは、アンデス山脈の深い奥地(ビルカンバ遺跡。1977年発掘調査)に新しく都を開いた。「新インカ王朝」である。この王朝は、既述のとおりマンコ・インカを含めて4代を重ね、山中に独立を保ち続ける。包囲戦(1536年)から数えると、最後のトゥパック・アルマの処刑(1572年)まで36年間である。この36年間に「死」は各世代に訪れた。しかし、「死」の文脈から見ると、スペイン側のそれと均衡を保つのは、最後のトゥパック・アルマの「死」(処刑)であった。トゥパック・アルマの「死」は、あるいは、象徴性においては「死」の文脈を更新するものであった。

マンコ・インカの死 史料的制約で24代の治世には深く入り込めないが、タンボ砦撤退(1538年)以降、初代マンコ・インカの死(1544年半ば)までについては、その前半代でスペイン人よる新たな攻撃がしかれられたことが分かる(文献④)。ピサロ派との2度目の戦いである。帰還したアルマグロをラス・サリナスの戦いで破って、クスコをアルマグロから奪い返したフランシスコ・ピサロは、ゴンサーロを総指揮官とし精兵を選んでマンコ・インカ探索(捕縛)の命を発する(15394月)。
しかし、タンボ砦(1回目の戦地)までしか知らないゴンサーロにも、補佐するカピタンたちにもビルカバンバは未知の世界であった。ただ未知なだけではなく、先の見えない秘境だった。道が通じていると言っても、人一人しか通れない一列になって進むしかない、両側を危険に晒し続けていなければならない狭く険しい隘路だった。罠も仕掛けられていた。橋だった。いかにも足をかけたくなる架け方だった。実は真新しい橋だった。
経験の浅いカピタンは、それが誘き寄せの橋だとも気が付かず不用意に渡ってしまう。待ち構えていたのは、さらに樹木の生い茂った先を見えなくしている密林と、這い上らなければならない険しい斜面であった。待っていたように頭上から大石が落とされる。弾き飛ばされる兵士たち。危うく壊滅状態に陥るところだった。
退却するしかなかった。一端クスコに戻ってから兵を増員して再攻撃を試みた。全軍を二隊に分け、一隊を背後に回して背面攻撃を仕掛ける作戦だった。成功していれば、マンコ・インカは捕縛されているはずだった。しかし、作戦は見破られ、挟み撃ちされる前にマンコ・インカはさらに山中深く姿を晦ませてしまう。さらに2か月を費やして行方が追い求められるが、クスコ周辺やウルバンガ川上流域のユカイの谷とはと違って、熱帯林に覆われたビルカンバは、彼らの山中行軍をただ徒労に終わらせるだけだった。
それ以後は、上記したようなスペイン人側の内部事情(フランシスコ・ピサロ暗殺(1541年)、インディアン新法発布(1942)、発布と混乱)も重なって、マンコ・インカのビルカバンバ治世は一定の静寂を保つ。そうした中でマンコ・インカに思いがけない「死」が齎される。総督カストロによるアルマグロ派残党の一掃(1542年)以後、マンコを頼ってその庇護を求めていた旧アルマグロ派のスペイン人にビルカバンバの居所(ビトコス)で殺害されてしまうのであった(1544年半ば)。単なる揉め事(刃傷沙汰)とも(文献⑭)、暗殺であったとも記されるが(文献⑦「解説」)、その死が、「死」の文脈に沿わないのが解せない(納得ゆかない)。それはともかく、「新インカ王朝(帝国)」(「ネオ・インカ国家」とも)は、その後も3兄弟の間で継続され王朝は保たれる。内、2代王と4代王が嫡出子、3代王が庶子であった。

宥和策と「新インカ王朝」 一方、スペイン側は、内乱が一応収集し、植民地支配が副王統治として安定的に始動し始めると(ちなみに初代副王赴任は1544年。その後17世紀を迎えるまではアウディエンシア(総督を補佐する合議体兼高等裁判所)や総督との交互的統治)、マンコ・インカ亡き後のインカ王に対して宥和政策で臨み、繰り返しスペイン国王への帰順を働きかける。その説得(和解)を容れ、1558年、第3代副王カニュテ侯アンドレス・ウルタード・デ・メンドーサ(155660年統治)とリマ市で会見した2代王インカ・サイリ・トゥパクは、恭順の意向を示し、インカ王が伝統的に所領や館を所有するユカイの地にエンコミエンダを与えられる。
しかし、恭順は結果として個人的なものでしかなかった。王を欠く状態ではあったといえ、「新インカ王朝」の実態は引き続きビルカバンバにあったからであり、そこにはサイリ・トゥパクより10歳ほど上の兄(異母兄)ティトゥ・クシ・ユパンキが覇権を握っていたからである。そして、2年後、サイリ・トゥパクが、20代そこそこの若さでユカイの地で死亡(1560年)すると(死亡説には病死、毒殺説がある)、直ちに3代目の王に立つことになる。その治世は、4代中最も長く、1571年までの約10年間続く。

「アコバンバ協定」 植民地当局からの宥和政策はこの後も続き、時の総督カストロ(統治期間156981年)は、3代王ティトゥ・クシ・ユパンキのもとに使節や布教団を送り込む。両者の思惑に一致を見た1565年、一つの協定が結ばれることになる。「アコバンバ協定」と呼ばれる和平協定である。①死亡したサイリ・トゥパクの財産や土地(ユカイ)等を息子キスペ・ティトゥに相続させること。その前提として息子のキリスト教改宗を受け容れること。②後見役としての自身への「年金」が①のなかから支払われること。③自身の現地(ビルカバンバ)逗留権利と同地を自身のエンコミエンダとすること。④以上に対してビルカバンバにエスパニヤ聖職者やコレヒドールを受け入れること。⑤以後、エスパニヤ人や領地への攻撃は行なわないこと。以上の内容であった(文献⑤「補注」)。
「新インカ王朝」の威厳から見ると、一見、日和見的協定であるが、そこにスペイン人の向こうを張って交渉を演じてみせたインカの強かな交渉能力を読み取る見方もある(文献⑪・219頁)。しかも、「アコバンバ協定」の現地当事者である総督カストロが離任してスペイン本国に帰還することを知った3代王は、協定書の永続が図かられるよう、上掲書(文献⑦『インカの反乱』(別名『説明書』))の作成にとりかかる。スペイン王室との交渉をカストロに託するためだった。そのための思い丈の吐露だった。なるほど、混沌としたなかで10年に亙って独立インカ王朝(「新インカ王朝」)をまとめ上げて来られたわけである。
 そのティトゥ・クシ・ユパンキも死亡(1571年)してしまう。天然痘での急死であった。終始ビルカバンバに留まって彼の側にあり、快癒を一心に祈った修道士ディエゴ・オルティと、早い段階から彼の通訳を務め『説明書』の筆記役をも務めたメスティーソのマルティン・デ・バンドの二人が、インディオから責任を取らされる。悲劇の死だった。
 
トゥパク・アマルの登場 4代王に就いたトゥパク・アマルは、2代王サイリ・トゥパクと同じ嫡出子であって、本来なら3代王を引き継ぐ立場にあったが、兄サイリ・トゥパクとは大きく年の差が離れていた。そのために年長で初代マンコ・インカの信任も厚かった庶子の兄ティトゥ・クシ・ユパンキが代わって王位を継ぐことになり、自身としては、別に秘密の山頂に建てられた太陽神殿(「ピトコスの要塞」)で、最高司祭としてアクリャ(太陽の処女)やママコーナ(最高司祭と太陽の処女や神聖王の世話をする女性)たちに見守られながら、治世の外(すなわち現世を超えたところ)で生きていた。彼にとって、「アコバンバ協定」はインカの神への冒瀆だったに違いない。協定の背景をなす宥和的態度もキリスト教への容認的態度も、純粋精神の前では否定されるものでしかなかった。再び敵対行動がとられ、ビルバンバを外界(スペイン人)から遮断した(文献⑦「解説」)。父である初代マンコ・インカに立ち戻ったのである。それ以上であったかもしれない。
 着任(1569年)間もない第5代副王トレドは、また事態を十分把握できていなかった。3代王ティトゥ・クシ・ユパンキの死も知らなかった。ビルカバンバの異変を最初に知らされた時も、前任者の総督カストロが敷いた宥和路線を踏襲しようとしていた。なんと言っても、「アコバンバ協定」に対するスペイン王室の批准書が手元に届けられていたからである。しかし、最終的には派兵に踏み切ることになる。圧倒的な武力を以ってビルカバンバを制圧する道を選択したのである。15723月、宥和策の延長として派遣した使節が、ビルカバンバの入口(チュキチュカ橋)でインディオの戦士(隊長)に殺害されてしまったからである。遡れば悲劇の死を遂げた二人のこともあった。完全主義者のトレド(文献⑬070175頁)もまた宥和策を否定したのである。
 
サパ・インカの「死」 トゥパク・アマルは、強力な布陣でトレド軍を迎え撃った(19724月)。しかし、最新鋭の火器の威力の前に敗走を余儀なくされてしまう。追討軍は執拗だった。追跡の手を緩めなかった。ジャングルの奥で部下に守られていたトゥパク・アマルの捕縛に終に成功する。多くのインカ兵士とともにクスコに連行されたトゥパク・アマルは、略式の裁判にかけられ、反逆罪で処刑されることになった。
その日(15729月)、新インカ王朝4代王であるサパ・インカ(唯一の王=神聖王)・トゥパク・アマルは、多くの「死」を経てきたクスコの大広場(プラザ・マヨール)の処刑台(断頭台)に彼の魂を天上に導こうとする神父たちとともに上がった。広場には立錐の余地もないほど大勢の人々(インディオやスペイン人)が集まっていた。
まさに刑が執行されようとしたその時、大地を揺るがす程の悲痛な呻き声が一斉に上げられた。サパ・インカの右手が、広場の意志を素早く悟って空高く突き上げられる。まるで直前の悲痛な呻き声が嘘であったかのように広場は一瞬にして鎮まりかえる。深い沈黙に占められた広場にサパ・インカの声(ケチュア語)が響き渡る。死に対する釈明と民衆への教諭であった。しかし、ケチュア語を解せないクロキスタが伝えるその内容は、あまりにキリスト教的で俄かには「構文」として信じがたく、また「死」の文脈に合わない。以下引用するクロキスタ=オカンボ(文献⑤)の記述は、サパ・インカの「声」の手前までであえて押し止めたものである。

  屋根という屋根、辻広場、窓、そして、カルメンガとサン・クリストーバルの教会区はすっかり人で埋まり、人々はひどく窮屈にぴったりとくっつきあっていたため、たとえオレンジを投げ落したところで、地面に落ちまいと思われるほどだった。そして、死刑執行人(カニャーリ族インディオだった)が、トパ・アマロ・インガの頭を切り落とすために用意された切れ味鋭い刀を取り出すと、ある驚くべきことが起こった。原住民の全員が大声で悲鳴と叫びをあげたのである。それは、世界に審判の日がきたのかと思われるほどで、エスパニャ人は誰もが悲しみと同情から涙が流れるに任せて、心情を露わにしないわけにはいかなかった。こんなにも大きな嘆きの声を聞いたインガは、堂々たる心持で落ちつきはらったまま、右手を高く挙げ、そして、降ろした。するとそれだけで、悲鳴は極めて大いなる沈黙に変わり、生きた者は誰ひとりとして身動きもしなかった。これは、遠くにいる者も、広場にいる者も同様だった。そしてインガは、次のようなことを(これから死のうとしている人とは思えぬ様子で)語ったのだった――(以下中断)。
                       オカンボ「ビルカバンバ地方についての記録」
                      (『ペルー王国史』収載、336頁)

 かくしてサパ・インカ=トゥパク・アマルに齎された「死」は、以上の歴史的展開の終極に位置するとともに、本稿に限って言えば、「死」の文脈を完結するものである。しかし、広場に集った人々の悲痛な呻き声は(広場にいた別なクロキスタも同じ内容を記録に留めているので、一連の出来事が文飾ではなかったことが分かるが)、単に「死」に抗議すだけのものではなかった。「死」が完結しようとしていることへの怒りだった。あるいは完結させてしまったことへの無念だった。すなわち自責の念だった。
 
再生としての「死」 この「死」の意味については、約200年後に起きた、コンキスタ以降最大のアンデス住民による反乱であった「トゥパク・アマルの大反乱」(178081年)で決起したホセ・ガブリエル・コンドルカンキが、トゥパク・アマル2世(処刑されたトゥパク・アマルの末裔を自称)を名乗ったように、一人の死にとどまるような一回性で終わるものではなかった。象徴的なものだった。したがって、「16世紀のトゥパク・アマルの精神は、現在でもなおペルーの民の心に生きていると言っていいのである」(文献⑪・230頁)とされるのである。一方では「インカ」が永久化されていく基点だったとも言える。それも単なる文化的範疇ではなく、アンデスの人々が植民地時代と対峙する歴史的現在を生き抜いていく上でのアイデンティティだった。「征服」の再解釈(文献⑨)などを含めて、インカ研究はあらたな段階を迎えている(文献②)。

 
おわりに
 
数年前、機会あってペルーほか南米北部を船(大形客船)で訪ねた。低料金である(念のため)。洋上期間を含めても10日間あまりの短い旅である。カリブの海も印象的だったが、何処も素晴らしい土地だった。薄れる記憶にずっと抗していたかった。それにはなにかカタチが必要だった。いろいろな方法があるかもしれないが、ここでは「歴史」を借りることにした。
なぜ「歴史」なのか。叙述の質は不問に付すとしても、「歴史」を語法とすることは、再体験的な行為でもあるし、別に創られる内部体験者と日々を共にすることでもある。とは言っても、ペルーの征服時代から植民地時代のそれも一部を辿っただけである。それに、このままなにもしなければ、内部体験者も自然と体の中から離れていく。それはそれで仕方ないことかもしれないが、当分そういうことにはならないだろう。

 

渡航記(付記) 

詩の朗読会 タヒチを後にしたオセアニック号は、太平洋を南米に向け進路を東にとる。再び長い洋上生活である。その間、船内では様々な企画が組まれ、タヒチの「屋台」(18時から毎日開店(出店)する岸壁屋台「ルロット屋台レストラン」([]20132月の付記「渡航記」参照))で〝声〟を恃まれて(見込まれて?)スカウトされた小生も、図らずも詩の朗読会に出演することになる。ノーベル文学賞受賞詩人のパブロ・ネルーダの朗読会である。本格的であった。メンバーにはプロの大物新劇俳優までいた。見識の高いコーディネーター(船内講師)も気合十分であった。それに応えようと、集まった個性的なメンバーも燃えていた。何度かリハーサルも持たれた。しばらくの間、朗読会しか頭になかった。デッキの長椅子で寝そべって、太平洋の波のうねりを耳にしながら、船体に打ちつける飛沫の砕け散る音に隠れて、繰り返し朗読に励んだ。途中からパブロ・ネルーダになっていた。自分の声が恃まれたことと合わせ稀有なる体験だった。

船内の海図 フンボルト海流に船は時に大きく揺れた。目の前には南米大陸が待っている。船内に貼り出された海図には、現在地がいつも記されている。未知なる土地に向かう感覚には、刺激的なものが潜んでいる。気分の高揚に海図は無言の働き掛けをしてくれる。若かった頃、大航海時代叢書という浩瀚なシリーズの出版があって目を惹いたが、将来、同様の船旅に出るなどと予想だにしなかったなかで、その大部でかつ年代物を思わせる、しかもクロニカルな装丁に包まれた書物の一冊を、図書館の新刊本コーナーで手に取っては、見開きに刷られた「世界図」に海図に似た思いを寄せていたことがあった。それが机上ではなく、現実として今や毎朝の日課にさえなっている。海図の前で立ち止まる人々(常連も少なくなかった)も似たような思いを抱いていたにちがいない。
船内の生活も大分慣れた。数多く組まれた各種講座も日々を刺激的なものにしてくれた。スペイン語の講座にも出た。朗読会も無事終わった。別段自分が出演したからではなく、心に残る良い朗読会だった。後は上陸を待つばかりである。想いは次第にペルーに膨れ上がっていった。時には高ぶった。「北」と異なるものの前に立つ。なかに分け入っていく。そのリアリズム感のなせる業だった。

リマからクスコ移動 パペーテを発って12日目、夜の暗闇の海の彼方にオレンジ色が膨らみとなって浮かび上がる。リマの輝きである。深夜のカヤオ着岸。程なくして下船。バスに分乗してリマ国際空港へ。深夜のリマ市街。800万人を超える大都市。広がる街路灯の橙色は、時間帯もあって、どこか侘しげな輝きを放っている。その上を覆う都市の青黒い闇。やがて空港。ターミナルでの手続き。予定時刻どおりにはいかない(それが当たり前)という南米(ペルー)事情。それでもそれほど遅れることなく搭乗。そして離陸。行き先はクスコ。所用時間は約1時間15分――。
窓際から「山よ、山よ」という声。眼下に姿を覗かせた山々の頂と稜線。4,000メートル級を数十座も数えるアンデスの山々である。6,000メートルを優に超える高峰もある。高度が下がるに従って次第に晒す山肌。見慣れている日本の山はどこにもない。樹木を育てない粗い山肌。さらに高度が下がる。今度は岩塊と緑(植生群)と礫交じりの土の三色の取り合わせに変わる。険しい山肌に朝日が照りつける。鮮やかな三色配合である。

朝のクスコ 海上から一気に陸地へ。それも3,000メートルを超えた高地への移動。正確には3,400メートルの高地である。降り立ったクスコ国際空港の朝の外気は、空気の薄さを感じさせない爽やかさだった。空港から先の周囲の山々には、黄茶色に統一的な屋根が取りついている。山の中腹まで続く住宅街の屋根。山頂にまで届いている処もある。この街並み。高地盆地の景観。盆地を取り囲むさらに背後の山々の連なり。降り立った地上から見た三色の配合のさらなる鮮やかさ。加わる山稜上の深い青色。アンデスの空。インカ帝国の首都クスコの上空に高く広がる蒼穹――斯くの如く、心は奪われっ放しである。
そのまま、バスに分乗。クスコ見学を翌日に回して、マチュピチュ見学のために、その起点駅(ただし始発駅はクスコ。バスを使ったため)であるオリャンタイタンボ駅に山越え(高原超え)で向かうのである。クッションの硬い中型バスの座席は、時に石畳の道路の凹凸で腰を直撃する。朝のクスコ。忙し気に仕事に向かう車と人々の群れ。バスは、出勤時の市街地を通り抜けて、背後(裏手)の山に向けて少しずつ上がって行く。まだ山に取りついたばかりだが、早くも市街地の広がりが眼下に広がっている。一等の景観である。道路沿い(山側)に学校らしき年代物の建物が現れる。透かさず現地ガイド(日本語を堪能に使いこなすケチュア人的風貌の中年男性)のアナウンスが入る。上流階級の子弟が通うカソリック教会系列の付属高校であるという。そのクラシカルな校舎の傍らを通り過ぎ、さらにクスコ市街が一望できる高さにまで上がったバスは、やがてクスコ市街を後にして、さらに空気の薄い高原地に入っていく。オリャンタイタンボ駅までは約2時間の行程である。

高原地帯 道路沿いの高原地帯(ペルーの地理学者ハビエル・プルガル・ビダルのアンデス生態環境7区分で言う「スニ」「プーナ」)には一面に畠が広がる。広大である。数十キロの広がりである。実際、ユカイの谷(「聖なる谷」)まで永遠の同時性とも言うべき高原風景が延々と続くことになる。
高地では作物も限定されている。まるで同じ畠風景である。根菜類(ジャガイモ、オユコ、マシュワ、マシュワ、オカなど)や雑穀(キヌア)が植えられているという。農作物から得られる収入は限られているにちがいない。でも貧しさは感じられない。思い出したように現れた農家は、クスコと同じ黄茶色の屋根で統一されている。広い屋敷地を取り囲んだ壁のなかには幾棟もの建物が並んでいる。軒を接するような集村形態は採られていない。一軒の農家が偲ばせる、慎ましやかな日々の生活が眼に浮かぶ。開墾はインカ時代に遡る。ユカイの谷と合わせ帝都クスコの穀倉地帯である。
 引き続き高原風景が車窓を流れていく。合わせて山裾とその麓にまで延びた畠や点在する農家が流れていく。高原地帯を限る山裾から稜線に目線を上げる。高原自体の標高がすでに3,500mを超えている。最高地点は3,800mに達する模様である。したがって、山体も4,000mに届こうとしている。あるいは超えている山々の連なりである。背面には5,000mを超え6,000mに届こうとする、万年雪に覆われた峻嶺が時たま顔を覗かせる。頂きには、アンパト山やユヤイヤコ山などで発見されたインカの神々に捧げられた聖少女(氷の少女)のミイラ(凍結ミイラ)が凍土の下で永久の眠りに就いているかもしれない(『ヨハン・ラインハルト/畔上 司訳『インカに眠る氷の少女』二見書房、2007年)。
アンデスの文化は、水平感を幾層にも積み重ね、海岸地帯(コスタ)から始まって山岳地帯(シエラ)のペルーの最高峰6,768m(ワスカラン山)にまで届く垂直感とも同化している。どのように頑張ってみても、我々日本人が創り上げた自然観の体系下では、手の届かない高さである。高さだけではない。それ以上に独自かつ「四季」的自然に対して超絶的なのは、水平感と垂直感が同化した重層性の顕現である。

チンチェーロ通過 それまで何もなかった高原の広がりの前に村が現れる。歴史を感じさせる風景だった。地図で確かめると、バスはクスコ市街を出て約28キロメートルでチンチェーロの町に至り、さらに29キロメートル進んでウルバンバに到着する。「聖なる谷」観光の名所(途次の名所)であるチンチェーロの町(村)のようである。バスは立ち寄らなかった。
翌日、クスコ市内で求めた案内書(『CUSCO SACRED VALLEYINCA TRAILMACHU PICCHC』)に載る「CHINCHERO」(チンチェーロ)の頁を開くと、マーケット(Chinchero Market)と教会(Chinchero Temple)が紹介されていた。マーケット(工芸品市)は、週に3日(火・木・日)開かれるようである。商われているのは、地方独自の製品(布地)で、その織方はインカ時代を受け継いだものであるという。掲載された写真には、露天で商いをする、民族衣装に身を包んだアンデスの婦人たちが映し出されている。自分が真ん中に座って周囲には、赤・青・黄・緑色の原色を配したストライブの手織の布地がたくさん広げられている。
チンチェーロ教会は、インカの遺跡(宗教・政治・軍事基地を兼ねた施設(宮殿))の上に建てられている。トゥパク・インカ・ユパンキ(第10代王、1471-93年)が1478年頃に建てたとある。第10代王は、一地方王権にすぎなかったインカ勢力を帝国に導いた第9代王パチャクティ(「革命者」、1438-71年)の後を承けて、その版図を南北3,000キロメートルに延ばし、インカ帝国の最盛期を築いた王である。その宮殿跡を敷地内に留める現教会は、第5代副王フランシスコ・トレド(就任期間156990年)の要請によって“Nuestra Senora de Monserrat”として建てられる。教会にはインカの建物(宮殿)の一部が遺されている。新旧からなる建物の構造説明に加え、現教会の宗教絵画や金箔で飾られた内部装飾の鮮やかな写真が載せられている。
 
「聖なる谷」 やがて道路(幹線道路)は、高原の直線道路と別れを告げ、いよいよ下り坂に向かっていく。蛇行を繰り返しながら少しずつ標高を下げていくバスの車窓下方に大きな谷が現れる。「聖なる谷」(ユカイの谷)である。谷幅を広く捉えた視界のなかを悠然と流れ下る川の延長方向に向け、川岸には豊かな緑が広がる。ウルバンバ川とその川岸に開かれた緑の畠の広がりである。インカ王族たちの食糧庫ともなった農園地帯で上質なトウモロコシが育つという。
両岸には視界をさらに拡大するかのように、段丘面を持たない山裾が川岸から高く立ち上がって、渓谷感を深めている。中腹から山頂にかけては険しい岩壁が剥き出しになっている。樹木の生い茂らない山体の上辺部である。その一方で、標高2,800mを流れる川は、まるで低地帯を流れ下るかのように悠然としたゆるやかなカーブを見せ、山体の情景とは同調しようとしない。知らない谷景観である。
ウルバンバの町に出た道は、川に沿って谷間を進む。途中には規模的には数段程度ながら長い階段畠(アンデネス)が川岸に延びる。ようやくオリャンタイタンボに到着。クスコから約100キロメートルの行程であった。ここからは鉄道でマチュピチュへ向かう。2時間程度とはいえ、バネが硬く揺れも激しい道中。到着を待っていたかのように車内には一気に開放感が広がる。

オリャンタイタンボ~広場からの景観と姉妹~ 到着地は、オリャンタイタンボの中心広場である。ここから56分歩くと駅。駅で昼食と休憩であるが、しばらく広場見学である。それに、広場が周囲の山々との間でつくる景観から目が離せない。圧倒されるロケーションである。広場を囲繞する建物の屋根の背後から迫り来るように聳え立つ岩肌が、目の前を塞ぐ。その合間をユカイに向けて谷が延びる。それまで開放的だったユカイの谷は、ここで一度谷口を強く狭めて、隔絶的な空間をつくっている。しかし、内側には、ウルバンバ川が蛇行によって解析した大きな平坦地が広がっている。町は、この閉ざされた谷口の内側に独立空間を保って造られている。石造りの町並みである。インカ時代に遡る。
 オリャンタイタンボは、「インカ道」に設けられた宿駅(タンボ)の一つである。インカの遺跡が周囲を取り囲んでいる。まず目に付いたのが、上記迫り来る急崖上に遺された石造物。位置する高さは中腹である。そこだけわずかに切り拓いて建てられた建造物の一部。それとも石壁? いずれにせよ選りによって急傾斜を選んだものである。造成の目的や石造建築物の正体は不明。また対岸の中腹にも別の遺跡がある。やはり急崖上である。上掲案内書によれば、高さ150mにも及ぶ石の彫刻である。宇宙と光の神を表した彫刻であるとも。ペルーの古代習俗に関係した特別に重要な彫刻のようである。
車内からの解放感も手伝って、人々は賑やかな広場やその周辺で散策を愉しむ。土産店も軒を連ねている。愛らしい土地の子供たちが遊んでいる。ピンク色の服を身につけた幼い姉妹が水遊びに興じている。鮮やかな原色の衣服に、黒髪と濃い褐色の艶のある肌が映えている。
はるか数万年前(約4万年前)、最終氷期で陸橋化したベーリング海峡(ベーリンジア)を、無氷回廊の形成(1400013500年前)を俟って北米大陸に渡った、北東アジアからシベリア南部に居住していた「アメリカ先住民の祖先集団」は、最終到着地点である南米大陸の先端にまで早々と到達してしまう(約12000年前)*。アンデスの先住民とは、我々極東アジア人にとっては人種上の隣人である**。したがって子供たちの笑顔とは、我々の子供たちのそれに近いものである。先進国の一員として自分たちの人種的面貌を慮ることのなくなった、どこかの国で頂いた「名誉白人」の称号も、この子供たちの笑顔の前では、おのずからDNAによる原点回帰を呼び覚まされることになる。
すでに袂を分かって1万年以上の時間が流れ、その間、異なる自然環境のなかで異なる文化と社会の中を生きて来て、なお近しいものを感じるとすれば、それは、誤解を招くかもしれないが、人間史的次元ではなく人類史的次元においてである。場合によっては1万年さえも必ずしも長い時間ではなくなる。我々の議論する比較文化論は、まだすべてを語っているわけではない。アンデスとその住民は、圧倒的な自然とそのなかで創られた超越的な文化において、隣人的人種としての我々に何を語っているのであろうか。否、聴くべきであろうか。
* 無氷回廊以前に遡る遺跡が、北米大陸ほか南米大陸(チリのモンテ・ベルデ遺跡:14500年前)から発見されている。別の理解が要請されることになるが、海岸線ルートだろうと想定されている(篠田謙一「DNAが解明する新大陸集団の起源と成立」『図録 マチピチュ「発見」100年 インカ帝国展』国立科学博物館、2012年)。
 ** 最終氷期に陸橋を伝って日本列島へ渡った人類(旧石器時代人=マンモスハンター)の原郷の一つは、シベリア南部にある(佐々木高明『日本史誕生』日本の歴史①、集英社、1991年)。

オリャンタイタンボ遺跡 広場を出て駅に向かう緩やかな下り道の傍らを、道に沿って小川が勢いよく流れている。小川と言え落ちたらそのまま流されてしまいそうな水量である。雨上がりなのだろうか、ひどく濁っている。反対側の道沿いには、気の利いた飲食店、酒場が長く延びている。裏手には瀟洒なホテルも何軒か見える。さすがにマチュピチュや「聖なる谷」観光の拠点の一つである。
顔を小川の向こうに上げると、大規模な重層する石垣群が山裾を取り巻いているオリャンタイタンボ遺跡が目に入る。スペインに対して反旗を翻したマンコ・インカ・ユパンキ(最後の王にして新王)が立て籠った難攻不落の要害(砦)として知られている。石段を上がった正面には侵入者を威圧するように6枚の大きな一枚岩が立て並べているはずである。山腹の平場上部には太陽神殿があり、付属施設として女王の温泉もあるという。インカ遺跡を代表する一つである。残念ながら遠望見学である。
一度はスペイン軍(ピサロ異母弟のエルナンド・ピサロ指揮)を追い返したが、最終的には大軍で再来襲したスペイン軍(ディエゴ・デ・アルマグロ派遣軍)と戦わずして砦は放棄される。奥深い山に閉じこもったマンコ・インカは、その後、征服者と厳しく対峙していくことになる(「新インカ王朝」)。

マチュピチュヘの車窓 やがて列車が、マチピュチュに向けオリャンタイタンボ駅をゆっくりと離れていく。鮮やかな青に塗られたブルートレインである。大きな天井窓が取り付けられており、谷沿いに延びる険しい山並みを頭上に仰ぎ見ることができる。線路は、ウルバンバ川に沿って川縁を延びる。途中何度か岩を粗く刳り抜いただけでのトンネルに遭遇する。荒々しい剥き出しの岩肌が天井窓すれすれに迫る。安全性に関心が払われているようにはとても思えない。基準が違うのかもしれない。おそらくそうだろう。
しかし、トンネルを抜ければ再び絶景である。岩塊を連ねる稜線が、蒼穹との間にスカイラインをくっきりと延ばす。山頂から降る裸地と化した山肌の寂寥感。その山肌に貼りついた緑の植生群。生い茂った木々がつくる緑の山とは趣の異なる山塊の重層。間を流れ下るビルバンガ川。アンデス山脈の深い谷間。
その谷間の景観も次第に谷幅が狭められていく。それに合わせて川の流れも早さを増していく。さらに川筋も直線的でなくなっていく。行く手は、急峻な山体に遮られてその先を隠している。植生もいつか熱帯性に変わって川瀬に被さるように茂った樹木が、車窓の眺めを疎外するようになる。マチュピチュを侵入者から守った閉ざされた渓谷の視界である。
もちろん、谷筋から入るのは正規なルートではない。マチュピチュへの道(インカ道)は、オリャンタイタンボを起点とした迂回気味の山道である。しかし、征服者たちはその道を知らなかったし、「新インカ王朝」への侵攻には、ビルバンガ川対岸の山脈(ベロニカ山群)ルートが利用されていた(高野 潤『カラー版 インカを歩く』岩波新書、2001年)。
かりにビルバンガ川流域を下ってマチュピチュに辿り着いたとしても、マチュピチュはさらに崖上にその姿を隠している。麓から見上げる視界の先にその姿は見出せない。途中まで木々が蔽って視界を遮っているからである。かりに近くまで見上げることができたとしても、まさかその上に人工物があるなどとは気が付くことができない。人為の限界を超えた山頂である。それ以前に山頂に至る斜面の険しさである。

マチュピチュの景観 いきなりだが、マチュピチュの凄さとは、「天空都市」である以上にその立地にある。ほぼ離宮説に固まりつつあるが(網野徹哉「マチュ・ピチュの歴史的意味」同著『インカとスペイン 帝国の交錯』講談社、2008年)、聞こえのいい〝離宮〟の響きはここにはない。マチュピチュ発見者のハイラム・ビンガムが当初思い込んだように、征服者との対決の道を選択したマンコ・インカ・ユパンキが拠った山中宮殿(ピトコス)、あるいは遺児トゥパック・アルマが籠った山頂の要害(太陽の神殿)の景観にこそ相応しい孤絶性である。それほどに隔絶しているのである。
 
 いうまでもなく山頂で最初に囚えられた思いは、渡航記のための創作でしかない。その思いは、やがて「創作」から離れて、マチュピチュの頂きから北西ビルカバンバの山中へと向けられていく。ここに至って(「『聖なる谷』とその奥地」への)冒頭回帰となる仕儀である。

2013年6月12日水曜日

[号外] ご一読ください 


 このたび、ウェブ版詩誌「midnight press WEB」(詩の出版社 ミッドナイト・プレス発行)の第6号に小文を掲載していただきました。ご一読いただければ幸いです。私淑していた詩人です。

 ◆タイトル 「鷲巣繁男の詩―手放さなかった軍隊手帳―」(渡辺はじめ)
                 
        http://www.midnightpress.co.jp/mpweb-6.pdf

 70年代から80年代にかけて多くの読者を得ていましたが(?)、今は、「詩文庫」(思潮社「現代詩文庫」)の1冊を飾っているのを知っている以上に、詩の内容を詳しく知っている人はだんだん少なくなってきました。

 ①1915年(大正4)  横浜市で正教徒の家に誕生。洗礼名ダニール。
 
 ②1923年(大正12) 関東大震災で母・弟を失う。
 ③1936年(昭和11)
  ~43年(昭和18) 入営・従軍(中国大陸)。途中傷病のため一時帰還。
 ④1946年(昭和21)
  ~47年(昭和22) 北海道移住。雨竜郡沼田町五ケ山(原始林)に開拓入植。失敗。
 ⑤1948年(昭和23)
  ~72年(昭和47) 札幌市に流寓。各種職業を転々とした後、印刷刷会社に就職(校正係)。
 ⑥1972(昭和47)  
  離道。埼玉県与野市に移住。その後大宮市に転居(77年(昭和52))。旺盛な 詩作、文筆活動を 展開。この間、『定本・鷲巣繁男詩集』(国文社)が第10程賞受賞(72年)、第12詩集『行為の歌』(小沢書店)が第12回高見順賞受賞(82年)。詩集ほか著作多数。                      
 ⑦1982年(昭和57) 永眠(享年67歳)。東京御茶ノ水のニコライ堂にて葬儀。

 なお、サブタイトルにある「軍隊手帳」は、昨今の「右傾化」とはまるで違う意味です。念のため。

2013年5月31日金曜日

[す] 『砂の女』のなかの「女」

[す] はじめに たしかに唐突だった。『砂の女』が、その口から語られたのは。脈略もなかった。正確には、スクリーンに写し出された一カットの説明(解説者自身による渡航地先の写真説明)に使われた一句――「安部公房の『砂の女』のような砂の中」(やや記憶曖昧)であったので、説明の用をなしていたのである。別段、不用意に持ち出されたわけではない。でもその場限りで、一言を残して次のカットに移ってしまう。カットとともにそのまま立ち消えるはずだった。
そうならなかった。何か気にかかった。後で確認したが、「特に(深い)意味はない」と聞かされた。でもすっきりしなかった。内面からの一言なはずなのに、そうであっても剥き出しになるのを好としないで、前後関係を断った喋り口になる、そういうタイプなのではないかと疑った。疑えば余計気にかかることになる。しかも、直接には両者(解説者と『砂の女』のなかの「女」)に接点が見出せない。その取り合わせが二重に疑いを深めることになる。そのまま、「『砂の女』のなかの「女」」のタイトルとなった。

1 『砂の女』と「女」論 

諸言 説明するまでもなく、『砂の女』は、作者安部公房を世界的作家にした作品である。刊行後数年で数か国語に翻訳刊行されたが、今やその数は数十か国に及ぶ。昭和44年にはフランスの最優秀外国文学賞を受賞している。世界に広く受け容れられているのは、日本近代小説以来の日本臭をとどめない、出だしから日本との内縁関係を断った、「世界語」で書かれた作品であったからであるが、資質としても、それが余すところなく果たされている点が、世界文学者たる安部公房を日本文学史に稀有な存在とした。
書かれたのは、芥川賞を受賞した「壁―S・カルマ氏の犯罪」(昭和25年(1950)、26歳)から12年後の昭和37年の38歳時である。デビュー時のシュールレアリスチックな時空間には、作品のなかに張り巡らされたフレーム(絵画で言えば、古賀春江の作品に張り巡らされたようなフレーム)が透けて見え、非現実感がやや独り歩きしていた感があったが、『砂の女』には、作り物のはりぼて感はまったくといってよいほどない。むしろ、シュールレアリスチックな時空間に主人公とともに一度闖入してしまった後に待ち構えているのは、生々しい人間ドラマと現実味を増すばかりの小説舞台である。

「女」論への階梯 主人公は、ある一人の「男」である。名前は付けられていない*。「男」あるいは「彼」として呼ばれて、三人称的な意志によって場面を展開していく。場面展開は「男」に委ねられているが、終始、受動態である。閉じ込められた空間のなかでもがくだけである。苛立ちとなって返される徒労の連続である。もう一人の主人公は、「女」である。やはり名前は付けられていない。もし「女」以外の呼び方があるとすれば、この場合、タイトルの「砂の女」しかない。
一方、「男」には「男」以外に相応しい呼び名はないが、砂の壁に閉じ込められた「男」の話であるから、元来、「男」の別名は、「砂の男」である。タイトルとしても構わない。「女」を残して、『砂の男と女』あるいは『砂の女と男』でもよい。しかし、そう仮定してみてあらためてこの作品のタイトルが、『砂の男』でも『砂の男と女』/『砂の女と男』でもなく、やはり『砂の女』でなければならないことが再確認される。合わせて「女」には「砂の女」の別名が許されても、「男」にはそれが許されないことも。これは、作品の核心に触れる部分である。
しかし、安部公房は、「男」を正面に立てる作家である。タイトルにしても『棒になった男』(昭和44年(1969))、『箱男』(昭和48年)、『飛ぶ男』(平成5年(1993)、遺作)が物語るとおりであるし、それ以外の代表作を見ても、「男」の話である。たとえば、『他人の顔』は、「ぼく」であるが、一人称と三人称「彼」との重層である。はじまり方も、実際が「彼」からである。『密会』(昭和52年)では冒頭から「男」――「性別 男、(中略)、以下の報告は、右の男に関する報告である」と続いていく。個人名詞を使う場合でも『壁―S・カルマ氏の犯罪』(昭和26。年芥川受賞作ほかで再編刊行)のとおり男名である。
人称の重層形も、また男名も用いず、単純一人称(?)「ぼく」の場合(『燃えつきた地図』(昭和42年))は、一人称話者であるため、「女」との相克もより弁証法的になるが、それでも「男」の観念体系より前に出ることはない。結果として「女」(の観念体系)に操られていたとしても、また、人格的にも後れを取っていたとしても(『他人の顔』)、結論として導き出されるのは、それが肯定、否定のいずれであっても、「男」の枠内である。
『砂の女』も原則同じである。正面に立つのは「男」でしかない。そればかりか、『砂の女』の「女」の場合は、「男」の饒舌性の前で言われるままに控えていて、物言わぬ一個の物のようでさえある。にもかかわらずタイトルを勝ち取ったのは、「男」ではなく「女」の方である。それ以外には考えられない題名であった。この違いが、安部作品のなかの「女」の扱われ方でも、「砂の女」に特徴的な点である。決定的な相違でもある。「女」が、無言の中にあり、その一方で生身を晒すからである(後述)。以下は、「砂の女」が語る「女」論である。

*正確には名付けられている。ただし巻末にである。家庭裁判所が発行した「失踪に関する届出の催告」書と、失踪者と認めた「審判」書の「不在者」および「失踪者」としてである。記された名前は、仁木順平である。でも、その名前は、見てのとおり「後付け」である。本稿では、名前はないものと見立てた。見立てることが、小説的意味でもあると理解するからである。

  2 『砂の女』に見る「男」

運命との邂逅 「男」の運命は、一夜の宿を提供されるところから始まる。夕暮を前にして、「男」は、昆虫採集に興じていた。汽車で半日の遠い辺鄙な場所だった。休暇を利用した採集旅行だった。三日月状の砂丘に取り囲まれた漁村だった。彼を怪しんだ土地の老人が近寄ってきた。県庁の役人だと思ったからだった。なにか漁村の調査をしているのではないかと探りを入れに近寄ってきたのである。「県庁?……とんだ人違いだよ……」名刺を差し出した「男」に老人は、「ははあ、学校の先生かね……」と安心し、やがて「男」に「当たり」をつけたと見え、「捕縛」に向けた誘いをしかける。その切り口である。
――「ときに、あんた。これからどうなさるつもりですな?」宿の斡旋に話もっていくためだった。そうとも知らず、「男」は、老人の術中にまんまとはまっていくことになる。バスもお終い、宿泊所もない、そう言われ、では隣の町まで歩きます、そう返したところで、待っていたように斡旋の一言が発せられるのである。「ごらんのとおり、貧乏村で、ろくな家もないが、あんたさえよけりゃ、口をきくくらい、わたしがお世話してあげるがね。」獲物は、ものの見事に針に食いつく。喜んで「好意」を容れる「男」。運命の扉は、今まさに開かれようとしていた。
案内された場所は、砂丘のなかに造られた、大きな穴の縁であった。「天然の要害」のような穴の中に一軒の家が建っていたのである。すでに暗闇が支配している。「男」は促されるままに長い梯子を使って穴のなかに下りていく。再び上がれなくなることなど思いも及ばない。当然である。鄙びた漁村には、善意はあっても、個人の人生を奪い去る悪意が潜んでいるはずがない。一晩の宿(善意の宿)でしかない。明日になれば、また、その梯子を使って地上に戻るのである。しかし、運命は、すでに始まっていた。「男」が下りたのを確かめた後、暗闇に紛れるようにして引き上げられてしまったのである。再び吊り下げられることのない梯子(縄梯子)だった。
まさに運命の梯子だった。あるいは運命へのかけ橋だった。そして、かけ橋の先に待っていたのは、「砂の女」だった。運命との邂逅であった。

「女」との毎日 なぜ砂の穴の中なのか、それは、海風が絶え間なく砂を運んでくるからである。砂を除けないと、家は砂に埋まってしまうのである。除けた砂も最初は土手程度だったのだろうが、やがて屋根の高さを越え、終には砂丘のなかの大穴となって、その中にすっぽりと家を沈める深さになっていたのである。沈んだ状態は、完了形とっているわけではない。現在進行形である。案内された家(宿)で、砂除けの労働に勤しんでいるのは、一人の女だけであった。「砂の女」である。「男」は、そうとも知らず――砂除けの労働力として囚われの身となるとも知らず、闇の底に向け、「民家」での一夜の情趣を楽しむかのように降り下ってしまうのであった。
物語は、砂の穴から出て行けなくなった自分の運命(災難)を、日ごとに深刻な状態として自覚していく形で進められる。運命からの脱出が様々に試みられ、その度にもがき苦しむことになる。ほとんど蟻地獄である。その一方で、「砂の女」は、自分が何をしているのか、犯罪行為(誘拐)に対する罪意識にも乏しいまま、他人行儀に気の毒そうな顔を見せることはあっても、人さらいに見合う悪意の表情を覗かせることなど一度としてない。それどころか、「男」の窮地を他所に、何一つ変わったことがないようにして、同じ日常を漫然と繰り返すのみの風情以上でも以下でもない。男のもがき、苛立ち、懊悩が、強まれば強まるほど、逆に女の無為さが、さらに際立つことになる。
「砂の女」は、描かれるところによれば、「三十前後の、いかにも人の好きそうな小柄の女」で、独り住まいである。でも、最初からそうだったわけではない。1年前の台風で、夫と娘を亡くしてしまったのであった。寡婦だったのである。あるいは砂との同居した寡婦だった。
砂の穴のなかの生活では、如何に砂から身を守るかが第一に優先されるべき事項である。着物を着て寝てしまうと、雨水のように天井から洩れてくる砂で、肌は「砂かぶれ」を起こしてしまう。だから寝姿は、顔だけを手ぬぐいで蔽った以外は素裸である。男が泊っていてもやはり同じスタイルであることが優先される。別段、丸裸に口実をつけようとしているわけではなかった。女の身に無頓着になるには、まだ十分若すぎるし、反対に「砂かぶれ」に事寄せてふしだらな思いを抱いていたわけでもない。翌朝、先に眼覚めた男からその姿が見られてしまった時、しっかりと恥じ入って見せたからである。咄嗟に背を向けたのである。勘違いしたに違いない「男」に対しても、淫らな姿態に関する事の次第を悟らせる。納得した「男」も、なるほどとシャツを脱ぎ去ることになる。

「男」の煩悶 囚われの身になったと分かった瞬間から、「男」の頭の中にあるのはただ一つである。如何にしてこの窮地から我が身を救い出すかである。色々に策略を練る。仮病を使ってみる。上手くいかないと知ると、今度は「砂の女」を縛り上げてしまう。逆人質である。でもそれも徒労に終わる。何をしても上手くいかない。「男」のもがきの傍らで、「砂の女」は、相変らず何も変わったことがないようにしか振舞わない。停滞感を引きずり続けるだけである。その中で決まり事のように「男」に食事を用意し、砂と汗で汚れた体を手ぬぐいで拭ってあげる。
しかし水が断たれる。「男」の逆人質をさらに逆手にとった兵糧攻めであった。村からの水の配給を受けるには、砂上げの労働を再開するしかなかった。交換条件だった。致し方ない。でも音を上げたわけでも野望が潰えたわけでもない。逆である。さらに強まる。忍びのような真似(紐付き投げ鋏?)を使う。計略が功を奏して終に穴の上に出ることができる。しかし、それも一時のことに終わる。逃げ出せたかに見えたが、情けなくも再び連れ戻されてしまう。底なし沼のような砂場に足を掬われてしまい、危うく命を落としかけたところを、村人に救出されるのであった。
 「男」は、物のように穴の底に吊り下げられて、「砂の女」のもとに戻される。翌朝、「男」は、「女」のすすり泣きで目が覚める。「女」は、悲しみと喜びの入り混じった感情で、「失敗した」男の疲れ切った寝顔を傍らから見詰めていたのである。「何を泣いているんだ?」屈辱であった。でも、泣き顔を見破られないように咄嗟に後ろ向きになって、「男」にお茶を淹れようとしている女の姿を見ながら、「男」は、自分に対する哀れさのなかで、「女」の優しさに心が動かされる。
無限とも言っていい抱擁感である。包摂感と言い直すべきかもしれない。大本では村の悪意に加担して、そのおこぼれに預かっていながらも、悪意の「あ」の字もない一人の女である。この女――「砂の女」が、今、男を捉えはじめている。何かが変わりつつある。まだその正体は見えない。ただ、同じ女を思う時、男の妻(あるいは別れた妻、もしくは恋人、愛人……)のことが、不図、頭を過る。「(あいつ、今ごろ、なにかしているだろうな?)……昨日までのことが、何年も昔のことのように感じられた。」述懐にも似た想いを抱いていたのであった。
 
「男」の終着点 最終場面で、縄梯子が吊り下げられたままになり、自由に外に出られるようになっても、「男」のとった行動は、一度登りかけた縄梯子をまた下りてしまうことだった。逃亡失敗の後、しばらく経ってのことである、男は、家の外に据えておいた鴉の仕掛け用の瓶に水が溜っていることを発見する。砂の毛管現象だった。さすがに理科の先生である。穴の中だからこそ起きる現象だった。大発見だった。最大4リットル/日を記録した。これで水の配給に頼る必要もなくなる。
彼は狂喜した。「こうして、蒸水装置の研究が、あらたな日課としてくわえられることになる。」まだ、女には教えていなかった。そうこうするうち、夏に捕えられ、秋に脱出に失敗し、再び砂の穴の生活を始めてから冬が過ぎ、春のはじめになって女が妊娠する。「男」の子供である。「砂の女」は、同じ頃、念願のトランジスターラジオを(内職の甲斐があってようやく)手に入れることになる。砂の穴の中で唯一の楽しみとしていた宝物の入手だった。
しかし、二重の喜びを抱えた「砂の女」の様子は、一切描かれない。二人の関係の変化もまだ明かされようとしない。むしろ「男」は、旧態を引きずっている。さらに2か月が経つ。突然、女が下腹部に激痛を訴える。子宮外妊娠だろうということで(「親類に獣医がいるという部落の誰かが」下した診断で)、町の病院に入院させることになる。
縄梯子が下ろされ、搬出の準備が始まる。やがてサナギのようにくるまれた女が引き上げられ、オート三輪に載せられて運ばれていく。問題はこの後である。用が済んだ後でも、縄梯子は引き上げられずに垂れ下がっていたからである。自由への縄梯子だった。「待ちに待った、縄梯子なのだ……」手を掛けて穴の上にまで登る。遠くに砂煙が立っている。女を載せたオート三輪だった。まだ「研究」(蒸水装置のこと)を教えてなかったことが頭を過る。「……そうだ、別れる前に、罠の正体だけでも教えておいてやればよかったかもしれない。」そう思う。
その時、穴の底で何か動くものを背後に感じる。自分の影だった。影に目を止めると、傍らの「蒸水装置」(「鴉の罠」)にも目が移る。木枠が一本だけ外れている。さっきの引き上げの時だったのだろう。誰かに踏まれてしまった様子である。「男」は縄梯子を下りていく。修理のためである。家の中では、女のトランジスターラジオが、女の不在を他所に勝手に歌い続けていた。無償に悲しくなる。「泣きじゃくりそうになるのを、かろうじてこらえ」、「男」は、水のなかに手を浸してみる。「水は、切れるように冷たかった。」そのままその場にうずくまる。「べつに、慌てて逃げだしたりする必要はないのだ」と呟やいてみる。今、「男」は、「蒸水装置」の前で終着感のなかに蹲っていた。快癒した女を待つ新たな自分を抱きしめていた。「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」脱出を中断した現実的な理由が見つけられたことに安堵していた。

3 「砂の女」の「女」像

 「女」論の始発点 安部公房の文学は、冒頭のとおり「男」を正面に立てた世界である。立てられるのは、観念的世界と一体的な「男」である。したがって、知的な内面をもった、もしくはそうした操作が好きな「男」が多い。職業的にもそうである。知的職業――と言ってもそれも状況次第で、すべからく職業は「知的」であるが――に就いている人物が少なくない。「砂の男」の場合は、たまたま学校の教師であったことになる。
砂は、それが土壌学的な研究対象から、住処の存続を左右する物理的条件に様変わりした時、やがて一義的な知をも粒状化して、内側から崩していく。そして、崩壊後に新たな知を育む。小説世界で言えば、「鴉の罠」であった蒸水装置である。一度解体された地上の知(理科)は、「砂の女」との新たな生活に向けて、別な枠組みで再生されようとする。「男」は、「女」と同じように、いまや「砂の」の冠詞を戴くことの許された、一人の人間に生まれ変わろうとしていた。「砂の男」――この固有名詞こそは、観念的世界の終着点でもあった。同時に「女」論の始発点に還されるものでもあった。
 何故か。それは、「女」が「男」と違って、最初から「砂の女」でしかなかったからである。はじめから「結論」を身にまとっていた、そう言い換えられる存在だった。「砂の女」を我が身に引き寄せる時、我々は、普段、「女」が身にまとっていた「結論」に気付いていないこと、あるいは見過ごしていることを思い知らされるのである。
独り身の女が、宿屋でもない自分の家に男を迎え入れるのは、たとえ明るい日中であっても普通にはないことである。しかも「砂の女」の場合は、夕暮れ時と言え、灯りが必要な暗闇の中に身を潜めているのである。年齢も30歳前後である。見ず知らずの男を泊めることなど、到底及びもつかない。もしそんなことをしたなら、世間からだけではなく、自分のなかの「女」の常識を大きく逸脱してしまう。
しかし、「砂の女」は、あろうことか、翌朝には、「素裸」を晒していた。たとえ就寝中に天井から降り注いだ砂で体が薄く被われていたとしても、そして、それを以って決して丸裸などではないと言い張ったとしても、あまりに生々しすぎる姿である。そんな姿態を男に露わにできるのは、いうまでもなく、肉体関係をもった男女でなければならない。これは道徳でもなければ倫理でもない。生物学的な次元(原理)である。「女」論の原理(始発点)でもある。

「女」の原理 「砂の女」は、この原理にいとも簡単に背を向けている。しかも背理に見合う理由と言っても、「砂かぶれ」以外にそれらしい理由が見出せない。皮膚の障碍を懼れて、全身を晒すことを好としてしまう。まずは羞恥心を疑うことになる。長い砂の穴の生活で、女としての羞恥心が麻痺してしまったのだろうか。そんなわけがない。繰り返すまでもなく、普通の羞恥心を持っていたのである。男の目に晒されていることに気が付いて、咄嗟に背を向け、その視線から逃れて見せたからである。と言うことは、話は逸れるかもしれないが、大胆に肌を露出させておきながら、電車の対面座席の男を蔑むように見返す若い女の子の、確信犯的な「矛盾」の延長だろうか。つまり、目を向けた方が咎められることなのであろうか。女の子たちにとっては、「矛盾」ではなく「逆説」であるのかもしれないが。
でも小説のなかでは、「男」には、女を目覚めさせなければならない切羽詰まった理由があった。梯子が見当たらなかったからである。それに、話を「矛盾」に戻せば、「砂の女」は、遮蔽物で仕切り、中を隠した一間ではなく、開放的でかつ共有的なイロリの横で体を横たえていたのである。しかも仰向けになったままのもっとも無防備な姿で。単なる「矛盾」ではないのである。
どうも我々の常識は通用しないようである。「砂の女」が特殊だからではない。逆である。実に普通だからである。でも普通と言い切っても、それだけでは理解は得られない。説明にもなっていない。「普通」の基準を問い直さなければならないからである。基準が違うのである。「普通以前」なのである。だから余計に世間を逸脱することになるのである。しかし、男と女の在り方とはなにか。異常(「素裸」)も、「普通」がつくり出しただけではないのか。男女間に「正常」も、事の「真相」もない。なにもない。でも「女」の原理は、男女間に優越する。それ自体が秩序である。「普通」も「普通以前」も、そのなかのことであるにすぎない。だから、「実に普通」であってもいいことになる。

 「砂の女」の条件 男女とも思春期を迎えて異性にときめき、恋心も芽生え、さらに成長してより深い関係を求め始める。恋人を得ては恋愛関係から多くを学ぶ。その分傷きもする。結婚しても同じである。離婚もある。そのまま生涯を独身で過ごす者もいる。最初から独身を通す者もいる。今の世では一派を形成する勢いである。
簡単にはいかないのが男女の仲であるが、それとは違う意味合いで「砂の女」に居場所が見出せない。「砂の女」にも思春期はあったであろう。でも、男女間の紆余曲折が見出せないのである。なるほど本人が語って聞かせたところによれば、結婚し子供をもうけていた。一人娘だった。でも自然災害で亡くなってしまった。台風から鶏舎を守ろうとした父親とともに、砂に生き埋めになってしまったのだった。まだ昨年のことだった。中学生だったというから、逆算すると、10代で結婚したことになる。もし中学3年だったとすれば、あるいは「砂の女」は、中学を出て間もなく結婚し出産したことになる。思春期年齢からいきなり「女」となった。そして、30前後の若さで今度は寡婦の身にもなった。何も見出せないわけである。
それに、繰る日も繰る日も家の周りの砂掘りと、地上から縄で吊り下げられたドラム缶に掘り上げた砂を詰め込んで運び上げてもらう作業の繰り返しである。男が現れることが確実視されていたわけではない。それに「届け物」のことは、自分一人ではどうすることもできない。村人の力に頼るしかない。いつ届けられるかも分からない。届けられないかもしれない。そのような中でどのように心を保つのか。最初から「届け物」とは無関係なのか。ヒントは「素裸」である。
その日の夜から開始された男との新しい生活は、男女間の手練手管を知り尽くした女であっても戸惑うものである。それが、唐突に「素裸」で次の朝を迎えていたのである。本当に「砂かぶれ」のためだけだったのだろうか。体(裸)を晒すことが、男女にとっていかに重大事であるかなど、言わずと知れたことである。でもそうなっていないのは、小説では「砂の女」の内面を覗こうともしないし、覗くことを拒んでもいるが、すべからく砂の穴のためであったに違いない。砂の穴が創る生態的な条件のためである。男女間の関係は生まない環境下であった。とても心の説明にはならないが、ひとまず状況説明にはなるだろう。
綺麗に着飾り、入念に化粧を施し、男の気を引く術を身に付け、男の誘惑には簡単に応じない。「砂の女」は、際どい男女間の駆け引きも、「肉体」の深い意味も知らないまま、思春期からいきなり結婚・出産へと肉体的階段を一気に駆け上がってしまった。しかもその年齢で寡婦をも生きていた。「砂の女」に限定的なことではないにしても、問題は、今の寡婦とどう向き合っているかである。自分事としていたか怪しいからである。
喪明けを待って再婚を考えている風でもないし、今の境遇に身の不幸を哀れんでいる風でもない。寡婦を含めてすべての自覚らしい自覚に乏しい。さらに遡って、結婚したことも出産したこともそうである。事実であってもそれ以上ではない。自分が変わる契機にはなっていない。実は事実ではなかったのである。
躊躇いもなく男の前に立ち、男のことを「お客さん」と呼び、他人である「事実」に立脚している風であっても、現れた瞬間から家の一員としてしまっている。「男」がいることが、不思議とも思わないで済まされてしまう。実は「男」も「事実」ではなかったのである。それが「砂の女」(の心)である。「砂の女」の条件でもあった。

4 『楢山節考』の「女」たちと「砂の女」

「女」たちの姿1 「砂の女」以上に思春期などさえ思い浮かばない存在に、同じ閉じ込められたような場所で生きる、ある山間の村の女たちが思い浮かぶ。『楢山節考』の「女」たちである。ここでは結婚という言葉も通用しない。「嫁に行く」「嫁に貰われる」である。したがって、具体的な存在形態としても「女」と言うよりは「嫁」である。あるいは嫁に行く前であれば「娘」である。歳をとれば「おばあやん」である。おばあやんが「おりん」、嫁が「玉やん」、娘が「松やん」である。ここでまず問題になるのは、玉やんが後妻としておりんの倅の許にやってくるまでの経緯である。
おりんは、69歳。はやくお山参り(姥捨て山参り)に行きたいことばかりを考え、そのためにも寡夫になってしまった倅に早く後妻が来ることを願う日々のなかにいる。そこに運よく嫁が見つかる。玉やんである。向こう村の女だった。まだ3日前に夫の葬式を上げたばかりらしい。それなのに次の嫁入り話である。寡婦となった嫁の「始末」を早くつけてしまいたい、どうもそういうことらしい。
それにしてもこの後妻話は、おりんからはまるで臓器移植を待っていたようなものである。どこかに後家でもあったら声を掛けてくれと頼んでおいたからである。そんなおりんものとに、良い話がある、と実家から報せが来たのである。当人たちは知らない話である。決めたのは、おりんと、その知らせを携えて実家の使いとしてやってきた飛脚(実は玉やんの実兄で、下調べをかねて飛脚の役を買って出た模様)とである。報せだけでなくその場で二人して決めてしまったのである。なんとも手際の好い婚姻話であることか。
それをおりんは、まるで「手柄話」でも知らせるかのように仕事から帰ってきた息子(辰平)に話して聞かす――「おい、向こう村から嫁が来るぞ! おととい後家になったばかりだけんど、四十九日がすんだら来るっちゅうぞ」「そうけえ、向こう村からけえ、いくつだと?」「玉やんと云ってなあ、おまんと同じ四十五だぞ」「いまさら、色気はねいだから、あっはっはっ」――こうしてあとは玉やんが来るのを待つだけとなる。
別に変ったことではない。この村々では結婚とはこの程度のことである。すべて当事者なしで取り決めらてしまう。面倒なことはなにもない。「ただ当人がその家に移ってゆくだけである。」ほとんど「引っ越し」と変わらない。実際のところ、「玉やん」の嫁入りの「儀」も、祝い事もなければなにもない。なさすぎるほどであった。
ある日、大きく膨らませた信玄袋を提げた「玉やん」が、前触れもなく現れる。家の前の根っこに腰掛けていたのである。嫁ぎ先の家であるか決めかねている。家の中から姿を認めたおりんが、嫁ではないかと検討をつけ声を掛ける。
すると、「辰平やんのうちはここずら」と返ってくる。「玉やんじゃめねえけ?」(「ええ」)「さあさあ早く入らんけえ」と促さるままに上がりこんで、それで一件落着。済んでしまったのである、儀式事は。しかも夫となるおりんの息子はまだ山に行っていて帰っていない。
玉やんの前に御馳走が並べられる。その日はたまたま村の祭日だった。「さあ食べておくれ、いま辰平をむかえに行ってくるから」。そんなことより玉やんはもう御馳走に気が取られている。「うちの方のごっそうを食うより、こっちへ来て食った方がいいとみんあが云うもんだから、今朝めし前に来たでよ」。失笑ものである。しかもその後の肝心の辰平との対面場面は描かれない。食べ物に押されて省略された形である。

 「女」たちの姿2 食べ物の話はこれで終わらない。今度は「松やん」の話である。おりんの孫(けさ吉)も、急遽、嫁(松やん)を貰らうことになったのである。同じ村の娘である。どうやら〝できちゃった婚〟らしい。でも玉やんと五十歩百歩である。その後、結納があった訳でも結婚式があったわけでもない。事実婚の延長でしかない。
ある日、松やんが家の前に腰掛けている。昼飯になるとなぜか孫のけさ吉と並んで食べている。夕飯も食べる。今度はけさ吉とじゃれあいながら食べる。孫も大人になったものだと感心していると、そのまま帰らず泊っていってしまう。しかも孫の布団の中にもぐり込んでしまう。そのまま居ついてしまう。
どうも子ができているらしい。おりんは最初の日から5か月以上と見抜いていた。そのとおりだった。晩婚が多いこの村では珍しいことだったが、子ができたことも、二人で同じふとんで休んでしまうことも(はしたないことも)、なに一つとして咎められない。そのままおりんの家の一員(孫=跡取りの嫁)になってしまう。嫁入りである。
相手の家からも早く行けと言われていたに違いない、おりんはそう思った。ところが、あまり大食なので(最初の昼飯からそうだった)、ある時、ふと思った――「けさ吉の嫁に来たのじゃねえ、あのめしの食い方の様子じゃあ、自分の家を追い出されて来たようなものだ」と。
村は冬を越せるかいつも命がけだった。実は失笑ごとでは済まされない現実問題だった。此処には、言ってみれば「食べ物」(食糧事情)を超えて若い男女の恋愛は存在しない。松やんだけではない。玉やんにしても、そして家族の食いぶちを減らそうと、早いお山参りを一心に願うおりんにも通じる、男女事に先行する生存条件だった。男・女のことなど入口にすぎなかった。この「女」たちの姿には、はるかに人間存在を超越したものがある。人間の感情など取るに足らぬものであることを思い知らされる。かつてそれを「真理」の範疇でとらえたことがある(私家版2007)。『砂の女』にも言えることである。

名義性と匿名性 しかし、『楢山節考』には全員に名前がある。「おりん」「玉やん」「松やん」のとおりである。名義性(名辞性)の世界である。不思議なことに名前があると顔がある。『楢山節考』を成り立たせているリアリズムの一つでもある。「女」たちの顔の前では、譬えは悪いかもしれないが、フェミニズムもジェンダー論下の女性も立場を失う。胸をときめかした思春期の思慕も、燃え上がった成年期の恋愛も、まるで用をなさない。焚火ほどにもならない。結納や結婚式もまた然り。厳粛さも神聖さもあったものではない。時間の無駄である。ほとんど男女のことは物寸前である。しかし、それが(物化が)おりんたちに引き受けられた時、真実がものの見事に抉り出されることになる。ほとんど女として生れてきたことに意味があるのかとさえ思われるなかで、なお、玉やんや松やんが、女であることである。しかも最初から。逆に思春期や成年期に遡る脈略を断っていることが(松やんはすこし違うが、それでも「普通」の思春期ではない)、生の空間を無限大に押し広げている。
その一方で、男の側に存在感が乏しい。主人公がおりんだからかもしれないが、おりんに集約される年輪が、男に刻まれていなからである。同じ様に物化されながら、女には物化なかでの純化がある。無欲さである。しかもその無欲さの大半が、後の時代の「女性」であることに対するものである。しかし、繰り返せば、この無欲さは、名義性によって成し遂げられている点を忘れてならない。『砂の女』では、同じ無欲さを「砂の女」の匿名性によって勝ち取っていたからである。ただし最後局面で「砂の女」は、「女性」を胚胎することになる。そして、我々が最初に知っているのも、「女」ではなく「女性」である。肉体性が、逆説的に高い文学性を獲得する同時代としての「女性」である。
『楢山節考』は、女の先に「生」を覗かせる。『砂の女』は、女の先に「女性」を覗かせる。おりんたちの時空間に下りていくことはできない。前近代の時空だからというだけではない。かりに身近な存在であっても会話が見出せないのである。相手から話し掛けられたとしても同じである。会話は保てない。方言が使われているからではない。おりんたちが完結しているからである。民俗的な閉じられた環である以上に、我々との間で「女性」であることを断っているからである。しかも、それは本人たちの地声である。否、生得的な声であるからである。我々に振り返ることない後ろ姿である。
しかし、「砂の女」は違う。最終場面でオート三輪の荷台に乗せられて町の病院に向かう最中でも、もし手が振れるなら、たとえ縄梯子から地上に顔を出していなくても、その手の平で、別れの挨拶ではなく、再会の約束を男に送り届けようとしただろう。男もそれに応えることになる。いまや「男」は、我々の思いの集約である。あらたに「女性」を発見しようとする、「男」と同体化した我々の眼差しである。しかし、『砂の女』の世界は、そこで終着点を迎えてしまう。「砂の女」は、「砂の女性」とは入れ替わらない。入れ替わるべきかにも直接触れられない。判断を同時代性の中に任そうともしていない。

物語の終焉 しかし、すでに作品世界は、作者の範囲を超えている。女が戻ってきた時、女は以前のように「砂の女」のままでいられるだろうか。いられない。本人の意志とは無関係に多分に「女性」を生きることになる。「砂の男」に容れられるのである。愛おしい存在(「女性」)になるのである。
でも、それでは『砂の女』の逸脱である。文学的裏切りである。「男」が「砂の男」になるための引き換え条件などであってはならないからである。それが『砂の女』の文学的野心である。したがって、「砂の女」は、あくまでも「砂の女」のままでなければならない。「砂の女」であるとは、砂の穴で暮らす「女」に引き換え条件として与えられたものであった。しかし、一度「女性」を意識し始めた「砂の女」にとって、「女性」になる誘惑から身を引くことは容易ではない。おそらくできない。この際、無欲さは脆弱さだったのである。
それがヒューマニズムであったとしても、砂の穴に地上の世界は持ち込めない。砂の穴が、「女」を生み、「砂の女」を創ったのである。それ以上でも以下でもない。「男」を容れられても、「男」に容れられた時から、言い換えれば、同じ「砂の」の関係性を纏った時から、砂の穴は、世界としての意味を失い、その壁は四方から崩れ、埋め尽くされてしまう。物語は終わるのである。

5 『燃えつきた地図』のなかの「彼女」

「彼女」の顔 安部公房の文学世界に戻れば、「男」は、地上に再帰する必要があった。再び物語を始めなければならないからである。あらためて「女」が必要になる。しかし、再開された物語のなかの「女」は、「砂の女」とは逆向きに佇んでいた。逆向きとは、「女性」の側から「女」に回線を繋いでいたことである。「砂の女」の場合は、「女」から「女性」だった(正確には未了状態で留まっているが)。「女性」から「女」への典型例が、5年後に書かれた「依頼人の女」である。『燃えつきた地図』(昭和42年)のもう一人の主人公である。
作品中では、「依頼人」「彼女」「女」で通されるが、作品の冒頭部分に挿し込まれた、いささか思わせ振りな枠付1頁には、事の発端を告げるかのように、一枚の「《調査依頼書》」が認められており、見ると、末尾に「依頼人氏名 根室波瑠」とある。失踪した夫根室洋(34歳)の調査を興信所に依頼した1枚のペーパーである。しかし、固有名詞としてはこの場限りである。以下の本文では、一切根室波瑠の名前は出てこない。多くは、「彼女」であり、時に観察場面になると、「女」が使われ、あるいは、客観的な場面では「依頼人」となる。私情を抑えるためであった。その点からも冒頭1頁に引かれた枠線は、別枠であるのを意図的に明示しようとしている。根室波瑠と「砂の女」との間を分ける1頁にも見えるが、そこまで意図されていたかは判らない。
根室波瑠は、名前を持ちながらも、名義性に背を向ける必要があるかのように名前を背後に沈めて、主人公の興信所の調査員(「男」)との間で、「彼女」「女」あるいは「依頼人」の関係しか結ばない。たちまち匿名性に還されていたのである。地上に生きる「女」の生存条件は複雑多義で、「砂の女」のままでは生きられないが、「砂の女」の匿名性は、同じ匿名性を通じて「彼女」(根室波瑠)の顔でもある。だから「彼女」は、根室波瑠の肢体から自由になれない「女」に立ち返る時でも、その顔を匿名性でメークし、「砂の女」がそうであったように「男」から自由である。
たとえば、調査を依頼しておきながら(それも安くない費用を承知で)、終始、失踪者(夫)に対して他人の関係でしかない。調査を依頼したのは、妻であっても「彼女」ではなかった。妻という社会関係だけで行なったことであった。調査員(主人公)も、次第に妻=「依頼者」ではない、私情に冷ややかな「彼女」に向き合うことになる。見えないものが、調査範囲を超えて、調査員を深入りさせていく。「この女は、化粧によって、ますます透明になり、よけいに内部が透けて見えるのだ。」しかし、透ければ透けるほどますます見えなくなる透け方だった。見えなくなったことによる不在感が、「女」の背徳性を暴きたてるかのように調査員をさらに探索にのめり込ませ、果ては探しているものが、「彼女」を通じて、自分のなかに潜んでいたものであったことに気付くことになる。
「砂の女」も化粧していた。「おりん」「松やん」「玉やん」は化粧をしない。前近代の奥深い山村である。3人のことは分かる。「砂の女」はなぜ化粧をしていたのだろう。それも乾燥してかえって醜悪になるような化粧を。30前後だからだろうか。いつか「男」が届けられるからだろうか。根室波瑠はどうだろう。おりんたちのことが分かるように、彼女のことも分かる。対極だからである。でも「透けて見える」と分かっていて化粧するだろうか。自覚の程度は分からないが、結果は、化粧する側もその顔を見る側も、双方を裏切るものだった。でもすぐに気が付くことではなかった。

三人称の顔 それとも、根室波瑠は、最初から納得済みだったのだろうか。自分がなろうとしている顔に。夫を捜しながらも捜していない「女」の顔、それをあからさまに見せないでいられる顔、そういう顔になろうとしていることに。なんのために? 失踪を機会に妻の関係性から解かれたいため? それとも、そのためにも調査員の気を引きたいため? でも媚態はない。「砂の女」の化粧の場合とは逆なのである。「男」が来るのではなく、去るのを(去り続けているのを)待つ顔だったからである。
そういう化粧顔が実際あるのか知らないが、一度透けて見えた向こうに浮かぶ顔は、透けてしまった分、見る側には立ち入ることのできない顔だった。結局、それが「男」を容れない顔にもなっていた。ただし根室波瑠本人にしても、相手(「男」)に見えなくなった顔が、はたして自分に見えていたのかは分からない。いずれにしても、その顔は、「女」であるよりは「彼女」である顔であった。根室波瑠に始まる顔だった。
その顔も、別に探せば、『燃えつきた地図』を数年遡る『他人の顔』(昭和39年)のなかの主人公(「男」)の妻の顔でもあった。「妻」の顔の場合は、根室波瑠と違って「男」を容れた顔でありながら、「男」との距離感は根室波瑠以上だった。「男」にはけして超えられない距離感だった。
自分(『他人の顔』の主人公)は、「他人の顔」(仮面)で姿を隠しておきながら、「他人」として妻を誘惑して、その誘惑に簡単に乗った妻を軽んじながら、実は、試したつもりで試されていたのは夫(「男」)の方だった。「妻」のなかの「女」しか知らない「男」になど、真似のできようもない「哲学」である。すでに「妻」の前では、「女」論はあたらしい段階を迎えていたと言わなければならない。しかし、『砂の女』のなかの「女」は、「哲学」のはじまりであった。「女」論の始原である。そのことは再述する場合でも変わらない。

おわりに

その口から『砂の女』を聞いた時、聞いた者としてどこまで事態を把握できていたのだろうか。本文として捉え返せば、「すでに『女』論は、あたらしい段階を迎えていた」のさらに先に聞いた声であり、耳元に残る響きであったにちがいない。
しかもそれだけではない。文脈が違うのである。いつか、我々の知らない間に、「日本」の女性たちは、途中経過を十分詳らかにすることなく、勝手に袂を分かってしまったのである。勝手と言うのは、安部公房の「彼女」たちとの繋がりを明かさないという意味である。疾うに清算済みのことかもしれない。そうだとすれば、さらに『砂の女』の世界に親和的なのかもしれない。まやかしの風景ではない、むき出しな感じが、原初的な感情を掻き立てるのである。『砂の女』のなかの「女」とは、その源として読み替えられたことになる。
   ならば、本文は何も語っていなかったことになる。冒頭の疑問も依然解かれなかったことになる。それでも構わない。再びその場面に立ち戻ればよいことである。まだ航海は長いのである。