2014年3月31日月曜日

[ぬ] ヌーヴォー・ロマンを読むということ

 [ぬ]はじめに~「中央の地下」~

 その部屋・その街・その時代――今から振り返ると、それはヌーヴォー・ロマンに似合いの、特別の装いをもった舞台だったような気がする。しかし同時に一回切りのものであった気もする。恐らくそうだったにちがいない。60年代後半から70年代前半(下っても中頃)までのことである。

その頃(の後半)、筆者は我々が「中央の地下」と呼んでいた、都会の真っただ中の文芸サークルの一室で文学談義に日々明け暮れていた。部室には雑記帳のような自由ノートがあって、読書感想文や折々の断想を思い思いに勝手に書きつけていた。すでに遠い昔のこと、具体的な内容は思い出せないが、当然、最新のフランス文学にも筆が及んでいたはずである。ノート記入者の一人であった筆者が、具体的に何を書きつけていたのか、最新のフランス文学、すなわちヌーヴォー・ロマンに筆を走らせる機会があったのか、一向に思い出せない。

故あって一度文学関係の書籍を処分してしまったが、書棚の一隅でそれら一群の作品が誇らしげに背表紙を見せつけながら一画を占めていたはずである。フランス文学関係で今手許に残っているのは、わずかな冊数でしかないが、そのなかに4冊セットの『現代フランス文学13人集』(新潮社、196566年)がある。ヌーヴォー・ロマンの主要な作家を中核に据えた最新の出版企画である。一人一作ながらヌーヴォー・ロマンを代表する作家が一堂に会していることからも、ヌーヴォー・ロマンの紹介にとっては、意欲的かつ意義深いシリーズであった。なお、同シリーズでは「ヌーヴォー・ロマン」の文学用語はまだ使用されておらず(第1冊の「解説」では「(フランスでは、ヌーヴォー・ロマン、つまり「新小説」なる呼称が一般化しているが、ロブグリエは私(白井浩司・注)に、呼称はどちらでもさしつかえないといった)」と括弧内ながら言及しているが)、「アンチ・ロマン」(サルトル)である。参考までに第1冊(カミュ、ソレルス、ジュネ)の「帯」を掲げておこう。

カミュ、ジュネ他、ここに紹介する13の作品は、ジッド、プルースト、ジョイス等が、20世紀前半に果たした文学的遺産を継承しつつ、虚無と解体の危機に瀕している現代人の意識を、形式への鋭く執拗な探求を通じて描いている。アンチ・ロマン、アンチ・テアトルと呼ばれる一群の作品の集成であり、明日の豊饒な文学を用意する注目のシリーズである。 

今回、久しぶりに手に取ってみて、処分してしまったものを含め、どこまで分かっていて読んでいたのか、読破しきれなかった作品も少なくなかったのではないか、おそらく相当に無理をしていたのではないかと、若輩の身に背伸びを強いていた当時の心境(〝文学青年〟の思いの丈)が気恥ずかしく甦るような気分だった。難解であるというより、実際難解と言うなら哲学書や思想書の方がはるかに難解であるので、けっして難解なわけではなかったが、取っ付きにくさのためである。それなのに次の作品、次の作家と手に取らずにはいられなかったのも事実である。今読み直してみて、相変わらず取っ付きにくい事体に大きな変更はないが、すこしは相対的な読み方が出来るような年齢になったなかで、あらためて思うのは、ヌーヴォー・ロマンのもつ非日本的な文学性であり、それ故であったにちがいない当時の読書欲の正体――作品側から突き離されてしまうことを良しとしない思いに発していた、言ってみればその思いの裏返しであった読書欲についてである。

以下、シリーズ中の諸作品に対する断想から筆者の中での現在のヌーヴォー・ロマン観を確認することとする。当時の思いを再定着しておきたいがためである。なんのために? と問えば、ほとんど〝自分史〟の域と答えるしかない。なぜなら恥ずかしながら一度は(?)仏文学の専攻生だったからである。


*なお第1巻の作家は、ソレルス以外はヌーヴォー・ロマンの作家ではない(ただしソレルスも周辺作家)。とくにカミュは世代的にも一世代前でヌーヴォー・ロマンにとっては、影響を受けながらも乗り越えるべき世代である。また帯中の「アンチ・ロマン」は、よく知られたことではあるが、シリーズ第2冊収載のヌーヴォー・ロマンを代表する作家の一人サロートの『見知らぬ男』(1947年、1956年再刊)の「序文」(サルトル)で使われた言葉である。




1 ヌーヴォー・ロマンの文学世界(瞥見)

識者の苦言 日本における尖鋭的なヌーヴォー・ロマン研究の一人で、近年(20112月)還暦をわずかに超えた若さで亡くなった江中直紀の遺稿集『ヌーヴォー・ロマンと日本文学』(せりか書房、20122月)に、ヌーヴォー・ロマンを読み論ずるということの奥義(難しさ)に触れる件がある。具体的には吉本隆明によるヌーヴォー・ロマンの読みと批評に対する批判的記述である。これは吉本と名指しされていても、分かりやすく固有名詞として掲げているだけであって、その批判の矛先は、広く「日本の読み方」に向けられている。その旧態依然とした通有の文芸批評的な読み方にである。

作品には真実や真理があること、読むとはその真理・真相を普遍的に読み取ることであること、それが批評であること。そして、同時にそれが批評行為の保証としても自覚されていて、自信に溢れた言説の数々が繰り出されることになること。江中は、そうした彼らのことを「探偵」と呼び、職業的習性によって真実を嗅ぎまわる探偵の徘徊を揶揄してこう語る。「それにしても(略)、真相に固執し、しかも真相をきまってさぐりあててしまう探偵がなぜこうもはびこっているのだろうか」と。そして、このシニカルな一文を前置きにして問題の吉本隆明の批評(ロブ=グリエ『嫉妬』へ評言)を引き、さらにこう綴る(72~73頁)。

吉本はもとよりロブ=グリエを読んでいるわけではない。問題のテクストは『嫉妬』ではないのだ。一義的にそう訳されてしまったjalousieとはどうじにブラインドでもあって、この書題にはあきらかな二が決定しがたい一としてゆらぎつづけている。そのことを考慮にいれるとしても、「現存する風景」「人間の動きを描き出している」「視線の現前」等々、まるでひとむかしまえの新刊紹介文さながら、とうてい信じられないほど型どおりに退屈な物語ではないか。(略)たとえ翻訳で読んだとしても、描写されない間隙こそ『嫉妬』と訳されたこの物語全体をささえていて、時間的秩序をまったく無視した描写の断片がいかに配列されてゆくか、とぎれとぎれの断片がいかに照応し、機能するようになってゆくか、そこに函数としてあらわれるテクストが一目瞭然ろこつに目をうたずにはいられないだろう。

 そして、江中自身による読み方(「非現前をたえずよびだしてしまう構造」への視座)の一端を窺わせながら、まるで的外れな読み方をして堂々たる態度でいる大探偵たる吉本の「真相に固執」する在り方に対して、あえて辛辣に語り出してしまうのである。もちろん、繰り返せば、手厳しいのは、数多多数の探偵に向けるために、あえて声高になる必要があったからである。

  べつに吉本の誤読をあげつらっているつもりはない。耄碌した探偵がよせばよいのに唯一の真相をみぬこうとしたら、なんともヒサンな推理譚を語ってしまっただけの話であって、なにしろ発見された真相なるものがまずあまりといえばあまりに陳腐すぎる。この「嫉妬」云々はまるで番組案内にのったメロドラマの要約さながらではないか。まさにロブ=グリエが戯れたようとしたステレオタイプそのものを、ただそれだけを、ずらそうとする契機も実践もみないままにおおまじめで逮捕してしまっている。だからある閉塞のなかでは気恥しいほど正解なのかもしれず、吉本ひとりの症例よりも、むしろその閉塞じたいをあげつらわねばならないのだろう。すなわち律義に、臆面もなく、あいもかわらぬ真相をどこにでも発見してしまう(発見させられてしまう)心性は、「『嫉妬』という作品のすべて]などと書きうる文春的心性こそなによりもずらされねばならない。

「あなたの誤読」 このくだりを読んでまず突き付けられるのは、「吉本の誤読」と言われるときに、それを「あなたの誤読」と言われているような気分にさせられてしまうことである。実は気分だけではなく、実際そう読んでいたかもしれないからである。たとえば次のような思いこみに関する部分である。読むことによって自動的になにかが得られる。読む前と後とでは違った自分になれる。読むと読まないでは内面に大きな差が生じる。それが読むということ、すなわち読書の本質であること。疑問を差し挟むこともなければ、そもそも疑う対象にさえなっていなかったこと。この大前提が揺らぐのである。ヌーヴォー・ロマンと一口に言っても多様であるが、ひとまず内容如何に関わらずとすれば、読むこと自体が揺らぐ読書体験、それこそが実にヌーヴォー・ロマンを読むということの実態である。


 人称関係 それでも最初は困惑が待ち受けている。まだ読むことの大原則が生きているからである。作品世界には意味があり、意味への参加が約束されていなければならない。当然登場人物の人間論的な試行があり、存在論との共感も試されるべき読書行為である。やがて日常を越えたところで普遍的な内面が立ち顕れ、読み手自身の前に晒されることになる。晒し方自体は、小説論的な(自然主義とか浪漫主義とか)の要素が強く、どちらかと言えば作者側の専権事項であるが、晒されること自体は、作品を書く側と読む側双方に意味をつくる。その共通事項に読書は行為として安定する。それが、猶予期間もなしに不安定の側に席を譲らなければならないことになる。
たとえば、第2冊収載の『迷路のなかで』(ロブ=グロエ、1959年)の場合。その人物たちと場面との関係。書き出しは、「いま私は、ここに、ひとりで、まったく安全なところにいる」であると、一人称で書き表される。普通ならこのまま「私」を語りとする一人称で進められることになるが、「男」「彼」「兵士」「少年」が主格として登場し、気がつくと「私」による一人称ではなくなっている。そうかと思うと、また戻されている。しかしよく辿り直すと、どうもそうではない。戻っているように思わされているだけである。正確なところは判然としないのである。年齢差の歴然としている「少年」が主格になり替わった瞬間はともかく、あとの三者(「男」「彼」「兵士」)と「私」との関係(移行関係)は、別人なのか同人なのか、どちらでもないのか、そんな区別は不要なのか、そんな状態である。つまり意図的に整序されていないからである。

移行関係に伴う途中の場面描写も誰が語っているのか、誰がその光景を見ているのか、そんな小説世界の初歩的な約束以前のことさえ、明確に打ち出されていないのである。すでに人称の次元では読めなくなっている。小説構造は解体的である。否、解体している。ただしノーマルな解体ではない。解体が目的ではないからである。解体していること、あるいは繰り返し解体に傾斜し移行しつつあることが、一種の無意識状態をつくっているのである。

いずれにしても人間論に参画するためには、前提となる関係(人称関係)の取り結びが必要である。それが書き手の二次的存在でもある読み手に向けて、はっきりと面を上げているのか、あるいは後ろ姿を晒しているだけなのかさえ分からなくさせているのである。それも人称が定まらないためである。複合人称なるものがあるとすれば、まさにそうした混沌に近いが、それでは三次元の秩序までも逸脱しかねない。でも逸れてしまっているのである。にもかかわらず場面は通常に展開していく。展開には人が関わり、関わりのために人は環境的諸条件を課せられなければならない。佇んでいるか座っているか、一人なのか人々とともにしているのか、その場所は部屋の中なのか戸外なのか、昼なのか夜なのか、連続的な諸条件から解かれることはない。

時制の揺らぎ これは単なる外形ではない。小説という形式のテクスト性を構成する基因・内因であり、それから自由になることは、人体から血液を抜き取ってしまうようなものである。それが同じ人間論に関与する場合であっても、小説と他の散文との違いであり、同時に他と入れ替わることのできない小説の固有性でもあり差別性でもある。しかるにこの固有性(差別性)が揺らぐのである。この場合、揺らぎの元となるのは、人称の錯綜とそれがつくる混沌だけではない。人称以上に小説の固有性を保証するかもしれない、もう一つの要因である時制である。この時制さえも揺らいでいるのである。それも在り来たりの時制の操作ではない。

 たとえばドアをあけたら過去になっていたとか、あるいは逆に未来になっていたとかという、いまではアニメチックなエンターテイメントに墜しかねない単純な切り替えではないのである。それならむしろ安心感に繋がっている。それが、人称の位相の場合のように気がついたらそれまでの既知の時制ではないのである。そこには切り替えのドアもない。自分が内側なのか外側なのかも分からないのである。失われた時制のなかに放り出されたままなのである。

 かくして読むだけでも揺らぐのに、それを今こうして言葉に転換しようすると、さらに揺らいでしまう。正直放擲してしまいたい思いにさえ囚われる。訳もなく締めつけられる頭の内側から発する命令である。その内圧も引き受けなければならないのが、しかし、ヌーヴォー・ロマンを読むということのようである。

クロード・シモンの「難解性」 斯様にここには小説の既存体系がないのであるが、既存がないとは、あらためて文学論的に言い表すなら、形式が形式性を喪失していることである。これが単に喪失だけを目指すなら、それは「アンチ・ロマン」(サルトル)かもしれないが、結果として喪失するだけであって、しかも喪失しているという現在完了形にならないで、喪失するという現在進行形のなかに見出されるエクリチュールであること、さらにそれが「テクスト」として新規に定着していることである。本来なら単なるヌーヴォー(新しい)だけでは済まされない、このバーチャルな事体とどう向き合えばよいのか、否、入り込めばよいのか。どう読めばよいのかという基本事項を難しくしているだけなのであろうか。でもそれだけでは何も始まらないし、はじまらないままでいることがどういう状態なのかさえ、実に漠然としたままなのである。まさに進退ここににきわまるに近いのかもしれない。

これがクロード・シモンでは、さらにセンテンスの次元で事態を複雑にしてしまう。一行の読み進みさえままならないのである。しかも意味が解れないためではない。難解性の対極にある日常的な話し言葉のレベルにおいてである。一つの思念や動作に別の思念や動作が同時性で重なり、センテンスで重要になるのは、意味の区切りとなるひとまとまりの分節でもなく、別の思念を挿入するための括弧やダッシュとなる。しかも使用頻度としても挿入句の域を超えて平気に数行(以上)に亘る。むしろ普通なら意味の補足にすぎないはずの挿入句の方が、知らぬ間に主文であるかのように延々と引き延ばされ、まるで自分の立場を弁えない。しかもその頻度は全編に及び、一歩たりとも踏み出してはいけない気分にさせられるなかで、読む前から次に身構えてしまっているのである。これは地の文だけのことではない。会話は会話で壊れたレコードを聴いている気分にさせられるのである。以下に引くのは、シリーズ第4冊の『草』(白井浩司訳)の地の文の一部(あまりに長いので一部しか引けない)とその後に続く会話の一節(引くには適当な一節)である。

 (前略)サビーヌ(弟の妻)は、もう一つの肱掛椅子に大の字なってよりかかり、扇を使っている、指輪をはめたその手が動くたびに、冷たい、色さまざまの鉱物的な同じきらめきを投げかける、彼女は扇のうしろから義姉――サビーヌと同じ性ながら、いくらか性がなくなったみたいなこの被造物(彼女はまちがいなく、深い哀れみ、軽蔑、そして――誰が知ろう?――羨望などの混った気持で考えているのだ)――に、当惑気で、考え深そうで、途方に暮れたような眼ざしを投げかけていう、「でもあの家が、あのなかには、あすこには……」
  すると彼女が、「ええ、ええ……」
  するとサビーヌが、「でも家をもう一ぺんごらんになりたくはないの? せめて一度、手放す前に、見にもどったら……」
  すると彼女が、「そんなことしてなんになるの? これでいいのよ、ほんとうに……」
  するとサビーヌが、「でもいままでずっと……」
  すると彼女が、「ええ、そうよ。もちろんよ。でも、行ってどうなるっていうの? わたし達の家では、ああいうことには、絶対に気を回さないのよ。話にもあがりゃしない。それに、ウージェニーが死んでから、あすこでわたしは一人ぼっちだった……。そうよ。これでいいのよ」
  するとサビーヌが、「でも……」
  すると彼女が、「これでいいのよ」
  (後略)                        (傍線引用者)

 傍線部分が括弧・ダッシュを使った挿入句的な叙述(かりに「挿入叙述」)として例示したものであるが、本来はさらに長い叙述に亘る、頁越えも厭わないもので、上記のように引用し切れないので会話部分が上手く後続することから便宜的に引用したものである。4年後に発表された『ル・パルス』(1962年、平岡篤頼ほか訳『世界の文学23 シモン』集英社、1977年)ではさらに複雑化する挿入叙述は、括弧の中に括弧がつく入れ子状態の頻発で、あまりに長いので括弧の始まりと終わりの対応関係をその都度視認することになる。しかも頻繁にである。上掲の会話部分も会話と言えば会話かもしれないが、遣り取りから自然に齎される緊迫感や緊張感に背を向けた感じである。ほかの会話も程度の差はあるが、〝盛り上がり〟を嫌っている。


「反思考」の文学 このように細部に至るまで作為的で「既存」を失なわせる。上掲江中直紀の論(「クロード・シモン論」)では、「まず問題になるのは、シモンの文体である」として挿入叙述についてこう語る。「記読法に対して宣戦布告をしたような長い分の中に踏み込んだ読者は、自分のなかでの自分の位置を忘れてしまうのだ」と。そして「括弧」については、「括弧が叙述の流れを中断し、それが創造であることを思い出すように強制する」として、その多用がつくる文体上の特徴に触れる。すなわち、「この括弧も非常に多用されており、時には括弧の中の括弧が数ページにわたる場合さえある。『……のように』などによって導かれる従属節や言換えが異常とも思える長さになり、比喩や仮定であった筈のものがいつの間にか主題になることも終始ある。いわば文章自体が絶えず枝分れを起こすので、そうして主題が次々と転換されていく結果、読者は自分の立つ地盤が流動的であり、いつ足の下からなくなるか解らないという印象を抱くのである」と。

今このくだりを思考の在り方として読み替えれば、思考自体が「枝分かれを起こすので」ということになるが、それだけならまだしも大本となる幹との一体性までもが失われるのである。すでに枝と幹との関係ではなく、枝であった筈の枝が、気がつくと別の幹になっている。言ってみれば、思考とは、幹と枝との位階制でもある。枝が幹になってしまう、両者関係(従属関係)の失われたなかでは思考は成り立たない。これにロブ=グリエのように時制の転位が絡まるのである。最早、正体としては作品以前のなにか、名付けようのないもの、「小説を問う小説」(菅野1993年)とも言われる、読むことさえも儘ならぬヌーヴォー・ロマンの世界である。

といってもそれがその世界のすべてではない。クロード・シモンやロブ=グリエが特別なのである。そのなかでもクロード・シモンはとりわけ尖鋭的である。しかし、それ故にヌーヴォー・ロマンの深淵に立たせてくれるのである。なにか健常のまま異常であるのを強いられている気分でさえある。中江の論中に「人間の意識の忠実な報告ではない」(30頁)という一文があるが、忠実を誠実に置き換えれば、不誠実を誠実とする思考作用に類するもので、かかる仕儀となっては為すすべもない。既述したような内圧による脳内の締め付けのさらなる強まりを再自覚するばかりである。なにか健常のまま異常であるのを強いられている気分でさえある。

読書はその先になにかが得られることを無条件の条件(約束事)としている。これでは繰り返しになってしまうが、得るべきものが何もなかった場合にこの原則を適用すれば、得られなかったことを得たことになる。このような言い回しは普通なら逆説でしかないが、こんな修辞がヌーヴォー・ロマンに似つかわしいのは、ヌーヴォー・ロマンを読むということは、読書体験の外に置かれる体験のようなものであるからである。それでいて一方ではたしかな読書体験である実感を伴っていて、その思いからも外に出られない。実に困ったことである。なにも始まっていないのに始まっていないことが始まっている。詭弁を弄するつもりはない。ヌーヴォー・ロマンの紹介者(翻訳者)の一人である菅野昭正は、その叙述の在り方を「不連続に連続する記憶の動き」(109頁)と評する。ヌーヴォー・ロマンは、「反小説」ではないかもしれないが、まさしく「反思考」である。

 ヌーヴォー・ロマンを読むこととは(?)をかりに「反思考」を読むこととするなら、なぜそのような「反思考」を読もうとするのかという、また別の問いが誘発される。その際、ヌーヴォー・ロマンの「反思考」で驚かされるのは、作品の長さ(分量)である。次から次へと矢継ぎ早に言葉が生み出されてくるような創作的想像力の刺激に対しては努めて淡白であるにもかかわらずである。また「反思考」と言っても別段論理的記述を必要としているわけではない。したがって、哲学思考によるような、意味の連鎖で次の言葉が潤沢に生み出される論述の上昇性や、言い換えによる意味の再現性もない。むしろロジックには背を向けている。にもかかわらずその分量を確かめると(かりに400字原稿用紙として計算すると)、ロブ=グリエの『迷路のなかで』が約340枚、クロード・シモンの『草』『ル・パラス』がともに約400枚である。普通ならそれほどの枚数でもないかもしれないが、実際に当たれば、この分量は思考の脅威ともいうべき枚数であることが実感される。そしてこの尋常ではない「反思考」の思考力の持続性から学ぶのは、フランス文学による言語力でありその拡張度の著しさである。

 
文字による思考 ここには文字を発明したことによって、それを持たない場合の思考では切り拓くことのできない、一つの究極の姿が開示されている。言語論ではないが、人と言葉、言葉と認識の深層には、日常では必要としない、それを欠いても特に生活に支障をきたすことのない認識論が隠されている。人類史からみれば文字の歴史はいまだ最近時のことである。したがって、本来呪術的であった文字が散文的に利用され、その過程で得た文字を通じた思考などは、ほとんどつい昨日のこととさえ言える。人類史上の新種に類する文字による思考は、しかし、今に続く文字によらない思考(「野生の思考」はその一形態)を異種と見做すかのようにして、人類史の基幹(ただし思考系統)から離れて、極言すれば、その言語体験は異なる惑星の住人が使うそれであるかのようである。

 そして、同じ文字による思考に生きる住人でも、ヌーヴォー・ロマンという惑星の住人とは、文字の持つ機能性をそれが機能しない方向で最大限に発揮した人々である。おそらくそのような逆説的な使い方は、まったく予定されていなかったはずである。文字に求められた機能は、韻文であれば、声だけでは得られない感性の高まりの定着と、定着に上積みされるさらなる情感の高まりである。散文であれば、さらなる意味の展開と、そのために必要となる蓄積された意味への自由自在な立ち戻りであり、総合化に向けた再編である。

意味は実在を離れて文字として形象化される。視覚的には映像化でもある。しかし意味の形象化である文字は、それ自体は実在の錯覚でしかないが、あらたな実在と化して思考の表面で再映像化される。その場合の映像は、状態的には具象画である。一次的に意味と離れる抽象画的な在り方としては映像化されない。もしこれが離反した状態下で一次状態を維持するとするなら、精神異常に親和的な内面の保持者と見做されることになる。

  机の冬は、病み上がりの色できしみつづけ、
  妙なる屍は、新たなる酒を飲むであらう。

 これはソシュール研究者としてひろく知られた丸山圭三郎が、ソシュールの優れた概説書でもある一書(同著『言葉とは何か』ちくま学芸文庫、2008年(初出1994年))のなか(080頁)で、言葉とは何かを説明するために著者がみずから試行的に「作詩」した二行である。次ぎの一文は、「詩作」に付された著者による解説及び読者への問いかけである。「次の二行を見てください。いずれも独特の連合関係からの選択がその効果を生み出していますが、一行目は失語症患者の文、二行目はシュルレアリストの実験詩であるとしたら、いかかがでしょうか」。ここに言う「連合関係」とは、言語行為における諸項(コード内の音素・単語など)の選択(コード的選択)のことである。いずれも言語学内のことであるが、その関連で選択能力に障害があることを「連合関係」がこわれると言い、失語症の一症例を言い表す言葉と解説される。

 丸山が失語症患者になり替わって作った一行目は、はたして丸山が言うように「独特の連合関係からの選択がその効果を生み出していますが」と評価できるかと言えば、実は解説は逆説であって、「独特の連合関係からの選択」であっても「その効果」はそれに見合わないどころか効果以前であることを言外に言おうとしているのである。それはシュルレアリストの二行目がそれなりに「その効果」を上げているからである。

付言するまでもなく、「机の冬は、病み上がりの色できしみつづけ」には「意味」が不在である。詩的にも掬いとることができない。掬いとれなければ詩語にも詩の一行にもなれない。この一行にそれでも「意味」を与えられるとすれば、それは文字ではなく、色あるいは音によってである。「抽象絵画」は、あくまでも色の先にある存在形態であっても(もちろん色は線や面として形態化しているが)、文字の先に実現されるものではない。文字による思考は、それが二行目のようなシュルレアリストの手によるものであっても、原則「意味」から離れられない。繰り返しになるかもしれないが、具象画であるとはその原則を言い換えたもの、すなわち「意味」から離れられない(断絶できない)存在形態のことである。


「文字体験の逆説」 ヌーヴォー・ロマンの作家たち、とりわけ上記二者(ロブ=グリエ、クロード・シモン)による「反思考」とは、一行目の在り方(「連合関係」の瓦解)を、ディテールとしてではなく(したがってエクリチュールとしては「連合関係」は維持されているが)、その積み上げの先にテクストとして実現したものである。本来散文の中では思考のためであった文字が、すなわちその手段であったものが、思考過程との対立関係を誘発し、実際に相克状態を生み出したのである。これは我々が知る限り、文字による思考が、極限まで推し進められた在り方であるが、ヌーヴォー・ロマンを読むということは、「文字体験の逆説」を体験することでもある。

 この逆説体験が意味あるのは、日本文学に立ち返って、我々の近代小説から我々(「私」)を最も遠くに連れ出してくれるからである。なぜなら、意味の累積に背を向けた「反思考」では「私」(近代的自我)は最初から成立しようがないからである。もっとも我邦らしい文学で言えば、「私小説」の不存立ということになる。それは私小説の否定の立場に立っている場合でもそれだけでは「不存立」から免れられるわけでない。とかくこうした議論は概念論的になってしまう。それを避けるためにも具体的事例に当たってみたい。大江健三郎の文学論である。


 2 大江健三郎の「私小説」

私小説の解体者 以下に引くのは、『私という小説家の作り方』(新潮社、1998年)という大江の作家としての自己表明書中に認められた「私小説論」の一節である。
『懐かしい年への手紙』への展開で、その後の私の小説の方法に重要な資産となったのは、自分の作ったフィクションが現実生活に入りこんで実際に生きた過去だと主張しはじめ、それが新しく基盤をなして次のフィクションが作られる複合的な構造が、私の小説のかたちとなったことである。この点において、私は日本の近代、現代の私小説を解体した人間と呼ばれていいかも知れない。  
           (傍線引用者)(「8章 虚構の仕掛けとなる私」)

 傍線部分のように私小説を「否定した人間」とではなく「解体した人間」と呼ぶのは、この章のなかでも触れられているが、自らの小説経験が、私小説を真正面から否定する形として開始されたことが前提になっている。「小説を書きはじめた時、(略)すくなくとも意識的にいうかぎり経験に立って書こう、という気持はなかった。むしろ私はフィクションを書く、ということに徹底したかった。とくに私小説について、(略)非文学と見なす態度が私にあった」のとおりである。

大きなテーマとなる障害を抱えた長男との関係も、当初は私小説的な取り結び方とは別な対象化(フィクション化)だった。それが長男との関係を深く生きるなかで、彼との関係の先に出会った在り方は、かならずしもフィクションの側に立つ姿ではなく、かつての姿(フィクションを求めた姿)を一つの経験として再体験化する「自分」であり、その「自分」を主体とする表現者の在り方であった。具体的には次のよう語られることになる。「その作品(フィクション作品・注)の総体が、この世界で生きる私のもうひとつの経験として積み重なることにもなったのだ」と。

以上の小説家論(=存在論)が、傍線部分の先駆けになる「私小説」的作品(『新しい人よ眼ざめよ』)の、文学論的位置の確定を自らに課する中で、あらたな方法論(先行文学者の注釈を作品に取り込んでそれを一つの柱とする方法)を得て、<非私小説的私小説>の文学世界を切り拓くことになる。「私小説を解体した人間」に向けての歩みである。


「後期の仕事」と「私」  文字による思考の形象化(作品)を実存的な生きた過去として捉え直すことは、言ってみれば文字による思考の二重化である。その意味において「反思考」の側に寄っており、その思考態度はヌーヴォー・ロマン的である。とりわけ、「後期の仕事(レイト・ワーク)」と括られる小説作品は、「小説を問う小説」(菅野昭正)、「物語についての物語」(江中直紀)とされるヌーヴォー・ロマンのような実験的要素が濃厚で、実験的要素がそのまま小説になったとも言える世界である。

ちなみに、上掲13人集シリーズの第2冊(サロート、ロブ=グリエ、イヨネスコ)の「帯」には大江健三郎の一文が寄せられている(大江3 0歳)。その最後を引くと、「いま、ここに厳選されて新訳される、最前衛の13の小説は、サルトル、カミュ以後のフランス文学が、真に文学的な冒険の試みを、いかに多彩に続けてきたかということを、一挙に明らかにする実力をそなえるものである」。障害を持った長男が誕生した2年後の一文である。代表作の一点である『個人的な体験』(1964年)は、前年の刊行である。

ところで、ここで問題となるのは、「実験」による「私」の超克である。その「私」とは、世間から「私小説」と見なされがちな作品にはまり込んで、いまや創作活動の原点としている「小説家」である「私」のことである。一体に奇異な感のする題名をつけるとりわけ「後期の仕事」中の一作である『さようなら、私の本よ!』(講談社、2005年)の「私の本」とは、まさに「小説家」という存在形態に規定され、そのなかでしか生きられなかった限定的な生を受け持つしかなかった「私」の外形を指したものであり、「さようなら」とはその存在論的な超克を指し示している。いずれも「私小説」の解体に発想された、つとめて尖鋭的な「小説論」的題名である。そうしないと必ずしも「奇異」ではなく、普通の意味ありげなになってしまう。

 ただし、思考態度やそれに基づく作品の実験性には、ヌーヴォー・ロマンに類似なものがあるが、言葉の次元では相違がある。ヌーヴォー・ロマンでも難解さを代表する上記二作家が創り出した言葉の次元は、まさに言葉のための言葉で、最初に原因であったものがいつまでも原因のままに原因を再生し続け、原因と結果との対応関係をとらないでその発話状態に終始する。しかしそれが、言ってみれば一極的な発話が、作品を運動体として臨界状態を保ったまま推進していくことになる。その作品(たとえば『嫉妬』)は、「ことばの運動じたいが物語を産出していく装置」(江中、同書17頁)であること以上にテクスト化することを最初から求めていないのである。従来の作品では、「物語」の完成のために「ことば」が予定されている。ヌーヴォー・ロマンが「ヌーヴォー」であるのは、物語の(劇的な)完成が見込まれているわけではないからである。むしろ物語も原因化の発生に組み込まれ、原因化をより純化する役回りに終始する。

その点、大江文学(「後期の仕事」)のなかの言葉は、「私小説」の「私」を内部から否定(解体)することに向けて、同じように「物語」を一次的な目的にしていないが、言葉に向かう在り方に限って言えば、作為的な言い回しで跛行状態を文節間に凝固するセンテンスのディテールは、あるいはそれ故に、つまり物語を目的としていないなかで点綴される文体の凝固性故に、実は「私」を否定(解体)する在り方にしても、範囲としては脚本家や演出家の「私」までで、もう一人の属性である役者(現実との交錯者)である「私」はその外に留め置かれることになる。

外に置かれるからと言って「解体」から無傷であるわけではなく、それはそれで存在論的であり、「私」の内部分離がもたらす「私」への一体化への要請が、次の作品の動機に繋がっていることは十分予想され、事実、「後期の仕事」をより個性的なものとしているが、この物語以前に物語がある大江作品の構造(上掲「複合的な構造」)に宿命的とも言うべき「私」のなかの「分離」は、必ずしもヌーヴォー・ロマン的ではない。ヌーヴォー・ロマンがつくる「分離」は、「私」の内側(自己)というより、外側(人称・時制など)を舞台としているからである。しかしその相違を超えて、大江健三郎の「私小説」を読むことには、ヌーヴォー・ロマンを読むことに近いものがある。

                      *
自分史への立ち返り いきなりまとめになってしまうが、それは我々の「複合的な構造」の意味を自分に引き付けて見詰め直す機会を提供してくれることになるにちがいない。なぜなら、冒頭で述べた「中央の地下」とは、「複合的な構造」の中核となり起点となるものだからである。それを大江作品(「私小説」)を介してヌーヴォー・ロマン的に問い直す。それが自分史的なヌーヴォー・ロマンを読むということでもあるはずである。強引な冒頭への立ち返りであるが、再出発のための着地点としてひとまず筆を擱く。


◆引用・参考文献

菅野昭正・平岡篤頼(兼解説)・大久保輝臣訳『現代フランス文学13人集』2、新潮社、1965
清水 徹(兼解説)・菅野昭正・白井浩司訳『現代フランス文学13人集』4、新潮社、1966
松崎芳隆・平岡篤頼(兼解説)訳『世界の文学23 シモン』集英社、1977
菅野昭正『セイレーンの歌 フランス文学論集』小沢書店、1993
大江健三郎『私という小説家の作り方』新潮社、1998
丸山圭三郎『言葉とは何か』ちくま学芸文庫、筑摩書房、2008
江中直紀『ヌーヴォー・ロマンと日本文学』せりか書房、2012

2014年2月28日金曜日

[に] 二眼レフ


K子/わたし

 お互いに意味のないことこれ以上止めない? なにか間違えたのよ。仕方がなかったとしてもね。だれの所為でもなく、ただ若かったということ。そういうこともあるのよ。
 なるほど、と夫。
他人行儀な口振り。それ以上によそよそしさを装って、当事者であることを認めるつもりはないかのように突き放したように繋げる。
それで、と。
この期に及んでまだ「好い男」だと自惚れている。一つ覚えのようにそれしか芸がない。うろたえることなどどんなことがあってもできない。曝け出せない。間違っても妬ましい姿など。自分が女に嫌われることなどありえない。自信に満ち溢れた顔。ほどほど憐れとしかいいようがない。
結婚する前、夫は言っていた。俺に声を掛けられるのを待っている女はいくらでもいた。そのために会社に来ている、そんな女が俺の周りにはいくらでもいた。かける気がしなかったが、付き合おうと言って断る女はいなかった。ホントさ、自惚れなんかではなくてさ。 
で、お前の方はどうなんだ?
私?
どうでもよかったの。とりあえずそこあにあるもので、まわりで一番と、そう思っているものが手に入れば。それが最高というわけでもなくてもね。それだけ。たしかに、いい加減と言われれば、そうかもしれないけれど、分かりやすいわけ。そういう手の入れ方って。面倒でなくて。目に見えないもの探すの、私の柄じゃないから。
そうでしょう、どこかにいるかもしれない知らない人のことなど考えても、実感が湧かない。ピンとこない。世間ナンテナンボノモノカシラ。つまりが関西弁以下なわけよ。いわゆる世間体みたいなものを気にしながら、好い方といっしょになられてと羨ましがられて、それがなんだとわけ。クダラナイ! っていうこと。実にもって意味ない、ってそう思っているわけ。マジで純粋によ。その場、その場でしかない、たとえそうだと分かっていてもね。
で、自分を知るわけ。呆れた自分をね。その度ごとに。バカみたいな自分をね。強がりと言われても仕方がないけど。それもそれで良しとしてしまうわけ。後悔はするけど、嫌いじゃないの、そんな自分のこと。だめ? なんとも救いようがない? そういうことね。
確かに。異議なし。最初から分かっていそうなものよね。ほんと、あなたの言うとおり。いなかったのよ。私の周りにはあなたのようなジンセイ(人生)を知っている人がね。わたしに忠告してくれる人がね。わたし自分で思っている以上になにも自分のことが分かっていないみたい。言われてみないとだめなの。そういうこと。後でないとわからないのよ。いろいろ考えるの好きだけど、頭だけではダメなの。そのたびに痛い目に会わないと。
もちろん、いろいろ言われたわ。諭してくれる人もいたわ。でもわたしすぐ顔に出てしまうみたいなの。それも反発心ならまだよかったんだけど、違うの。逆なの。聞いてなかった、というそんな顔になってしまうの。だから親身になってくれる人には、逆に無視されたみたいになってしまうわけ。そんなつもりまるでないのに。
バカ正直なの、言葉にね。突き刺さない言葉に冷淡なの。打ちのめされないとだめなの。それが顔に出てしまうの。気づくより先に。で、そこが難点なわけ。自分でもよく分かってる。だから次はなし。
でも、最初から次なんかなかった、それだけのことよ、とそう割り切ってしまう、さらにいけないところ。
でもあなた、まだ3日目よね。知り合って。それなのにわたしのことオダヤカに非難してくれる。そして、わたしったらすっかり納得の気分なわけ。なるほどそういうこと、わたしの方がいけなかったんだ。そうなんだ? そういうことね。 

羨ましい。この弾けるような気分が。
はじめてK子を見た時、とっつきにくそう、そう思っていたけど、なにか気にかかって、ついつい仕草を見てしまった。
なに考えているのかしら? まわりを見てのるか見てないのかもはっきりしない目線。でも内に籠っているわけではない。不用意にそのまま止まってしまったような顔おもて。外側にも内側にも向いてない顔面。どことなく貼りついているだけの顔とその表情。それが美形なだけに困ったもの。なにか複雑な気分。仲良くできるのかしら。
それが、まるで別人。裏切られた。自己紹介に立ち上った彼女。正直驚いた。だったらいままでの、寸前までのその顔はなんだったわけ。

――手っ取り早く言うと、30超えたバツイチ。すべてを投げ出して1年。いろいろ放浪してました、各地を。それまでは化粧バッチリで、ブランド品で着飾って脚線美で闊歩して、高収入のエリート旦那囲って。その前はバー行って踊りまくって、ちやほやされて、言い寄ってくる男には、趣味テツガクよって、嘲るように言って。うそじゃないわ、此処にきているのもそのため、お話しする? シューペンハウエル、ウィトゲンシュタイン? ヘーゲルでもいいわよ、弁証法、どう? こんな調子の浮かれ女でしたが、夫と別れた後は、身に付けていたモノ棄てまくって、すべて断ち切って、何か月も日本も飛び出しました。そして1年振りの日本。日本再発見。居る所には居る。皆さんとのご邂逅。思っていたとおりでした、ツワモノぞろいだってこと。ここでは言いづらいこと、いろいろお話します。追い追いと。
次の人が立ちあがる。K子に負けまいとテンション上がっている。火付け役だったこと、 自覚しているの? 意図的? でも素知らぬ顔のK子。再び裏返したような顔。頬杖して遠目になにか見ている。夜で外は見えないけど。別れた旦那のこと? なぜかそう思えて、後日、確認した。
「そう見えたの?」
「ええ、どこか無理しているみたいだったので」
「それ違うと思うけど。だってわたしから縁切ったのよ。別れてって」
「それで、なんて言われたの?」
「良く考えた方が好いんじゃないの、みたいに言われて。なにそれ、相談に乗っているつもり。当事者同士の話よ。別れましょうって言っているわけ。わたしがあなたに。言われているのよ、あなたはわたしに。そのあなたは何のつもりだとも少しも怒ろうとしないで、『よく考えた方が好いんじゃないの』って、まるで人ごとみたい。それ別れたくないということ? ならダメだといったら。別れないぞ、と言えば」
「そう言って迫った?」
「迫ったって?」
「本当は別れたくなかったんでは?」
「えっ? わたし、別れたくなかったんだ? そういうこと言われているわけ? それはありえない話よ」
「あなた叩かれたことある? 男に?」
ないだろうと思った。だから自分で叩いている、叩こうとしている、気付いていないだけ。
わたしたちは、朝方まで飲み明かした。正確に言えば、K子はまるでお酒飲めなかったのでわたしがひたすら飲んだ。でも彼女は、言葉だけで十分酔うことができた。過激だから。容赦のない言葉。これって才能?
K子が吐き出す言葉。嘘つかない言葉。つけない言葉と言った方がいいかもしれない。だから言葉で自分が確かめられる。嘘がないかを。そのまま嘘の人生でないかまでも。一息に。
「そうよ、別れたくなかったのよ、あなたは。それはないというなら、別れた旦那ではなく、旦那一般とよ。そうよ、一般とよ」
 酔いに任せた言い草になっていた。「旦那様一般」と言って、自分でも何のことだかはっきり分かっていなかった。ともかくすこし癪だったのだ。まるで手加減がないから。ときに辛辣だから。それにK子の結婚生活を聞いているうちに少し「旦那様」が可哀想に思えてきた。無理よ。彼女の気持ちに応え続けることなんて。だって彼女自身ができないんだから。3年か、よく頑張ったわ、旦那様は。違う、旦那様一般は。

N子/わたし

わたし達の中でN子だけがみんなと少し距離を置いていた。ほかの者たちは前からの知り合いだったようにすぐに心を開いて深い話に時間の経つのを忘れていた。気がつくとN子の姿が途中から見えなくなる。
N子は庭に広げられたパラソルのなかだった。わたしはアイスコーヒーを二つ手にして傍らに腰掛けた。
「シロップ入ってないけど」
そう言って、よかったらとN子に促した。N子は受け取った。受け取りながら、「あッ、あッ、ありがとう」といって顔を強張らせた。
 わたくしは自分の笑顔に自身がある。
「いいのよ」そう言って「お邪魔じゃなかった」と微笑みかけた。
 N子は言葉にすこし詰まる。軽い吃音だった。でも、彼女の語学力は、抜群でしかも吃音にならない。
「インド楽しかった? でもインド英語、大変よね、地方の。私も経験あるけど。ついていくのがやっと。全部通訳するなんてとても無理。あんなに困惑したことはじめて。冷や汗かきっぱなし。もうこりごり。でも土地は好き。人も好き。仕事でなければ訛りの英語も全然気にならない。かえって親しみやすいくらい。でもまた行ってみたい、仕事でなくね。とくに行きたいのは、南インドの純農村地帯――」
 でもN子は話に乗ってこない。自分の方の体験談は口にしなかった。でも大丈夫よ。少しも気を悪くしたりしないから。わたしはまた微笑みかける。もっと親愛の情を籠めて。
 ところでN子は、自己紹介を用意しておいたペーパーで行なった。K子ではじまって一気に高まった即興的な臨場感との落差は大きかったけれど、読み上げられた吃音気味の声を聞いていて、みんな事情を理解した。順番を最後にして欲しいと申し出たことも。そして好意的な気分を確かめ合った。
 N子もここに集まった人たちのことが好ましかったようだった。自己紹介のときの警戒心も次ぎの日の朝からすこしずつ解いていった。先入観と縁のない女たちだったからだ。吃音だからといってそれが彼女自身をつくっているわけではない。関心は内側にしか向いていない。もし外側に興味があるとした、吃音でもなければ、化粧でもない。服装だけだ。と言っても着飾っていようがいまいが関係ない。内的体験を纏っている服装であるかだけ。
どこで何をしてきたのか、自分にとって意味ある体験だったのか、男との付き合いに関しても、それが今の彼女をどう創っているのか、専らの関心はそれだけ。好い男だったのかも、今の彼女に活かされているのかでしか興味がない。リッチやイケメンなど最初から問題外。
世俗に興味や関心がないではなくて、世間に世間以上の意味を認めていない。しかもいちいち口にしない。ホンモノだ。猛者揃いだ。負けそう。わたしどこか変に世間に気遣っているから。
 でもそのわたしだからこそN子に特別の関心が向けられる。とくに男の嫌い方に。内面に潜む嫌悪感に。当の本人はそんなこと口にしないし、彼女たちの男遍歴も驚いたような顔で楽しそうに聞いているけど、どこか無理した笑い方。嫌悪感が仕舞いこまれているため。気づいていないだけ。その時見せる横顔を見逃さない。見逃さないだけではない。彼女の中の神経回路にわたしを繋げてしまう。
そして回路を辿って行ったとき、その回路が男へ嫌悪感の裏返しとして、同性に向けられているのをわたしは知ることになる。それもK子にである。K子が男を悪し様に言うからである。容赦ないからである。
ほかの誰もが真正面から見つめるように、N子もそんなK子を見詰める。男をさっさと物体化してしまうK子。小気味よいほどの結論の早さ。N子の知らない同性世界。N子は不安になる。同じ女である自分に息苦しくなる。
今度はK子の心のなかを覗くような眼差し。気づかれないようにしてるけどダメ。わたしは見逃さない。そして教える、見ているわよと。でも見られていることにも気づかないN子。「女」と闘っているその心の内。
一方のK子は、そんなことは(どう見られているかなどには)平気で、ともかく口ぶりは終始具体的で、はじめから変わることなく何ごとにつけ固有名詞で話を組み立てる。しかし、普通の人なら囚われがちになってしまう固有名詞に対しても、しっかり清算されているから、自分自身と一体であったはずのかつての固有名詞にもすこしも拘束されない。かえって突き離すこともできる。再びN子の眼差し。K子に囚われた心
――そんなことないのよ。K子だって大変なのよ。
Kッ、K子さんて、私と同じと思えない。べッ、別の人、とN子は言う。言いながら気持ちを高ぶらせている。アイスコーヒーに手を伸ばしても、カップを手にしたままいつまでも口をつけずにいる。
次ぎの日、またわたしたちはパラソルのなかにいた。わたしを見るN子の表情がK子の話題を期待していた。話題を変えよう。自分の話をすることにしよう、固有名詞を使って。わたしはわたしでK子に学んでいたのだった。
私たちの同棲生活はもう長い。結婚しようかとダンナは言ってくれるけど、「いい」と私は答える。ダンナはいつも優しくて、私を傷つけない。でも滅多に会わない。1年も会わないでいることある。二人の仕事の所為だけど、それだけではない。会わないでいるような仕事の組み立て方をしてしまう。とくに私の方で。
10年目。でもいっしょに暮らしたのは、合計しても1年にも満たない。正確に言うと妻問い婚。ダンナは在外研究者。文化人類学者。所属は海外研究機関。久しぶりに半月いっしょに暮らした。ここに来る前。「別れたかったらそう言えよ。俺の方は覚悟できているんだから」そう言うの。「アンタこそ別れたかったらそう言ってよ。私に言わせないで」。言い返したの。「俺が? そんなわけがない」。ダンナは異議を申したてるように言うわけ。
好い人(女)いたらもらってもらおうかなと思うことあるの。たとえば今のあなた……。ダメ? だってあなたなら会えないでいてもきっと平気だと思ったから。違う? 誤解しないで。あなたの優しさだからよ。それに本心でダンナのこと解放してあげたいと思っているの。大事な人(男)だけどそれだけになおさら。
N子は冗談を言われているのか、からかわれているのか、困った顔して落ち着かない感じで唇を噛んでいる。
ダンナとN子。まんざらではないかもしれない。本気で突き出してしまおうかしら。ダンナの前に。人類学者は未知に憧れる。囚われる。N子あなたはまるで「未知」ね――知らないでしょう自分のこと。
「ス、ス、ステキな」と呟くような小さな声で言って、わたしが差し出したダンナの写真に恥ずかしそうに見入る。顔が赤らんでいる。勝手に困惑している。本当に危ないN子。

管理人/わたし達

「ハウス」には一人の老人がいた。管理人である。食事の準備もする。最初わたしたちは、女だけの場所で、管理だけではなく食事の賄いもすることを知ってすこし躊躇ったが、出された食事の味に驚いた。プロの料理人の腕前だった。年若い自分たちはいただくばかりで、毎回、申し訳ない思いにすこし気づまりを感じたが、あまりの美味しさに次ぎの食事を楽しみにするようになった。
70代だろうか。それが65歳だった。「老人」ではなかったが、そう見えたのは、料理の味に反して影が薄く、どことなく疲れた感じだったからだ。生命感にも乏しかった。でも女性ばかりの「ハウス」で寛げる時間をつくる上では、異性を感じさせない適格の管理人(賄い人)だった。
一週間経った時だった。一度自分たちで食事を用意しようということに話がまとまった。管理人へのお礼の気持を形にして現したかったからだが、お互いを理解し合いたいという思惑もあった。自活者揃いだった。料理もそれなりに自身があった。それだけに毎回美味しい食事を出され、自分の味と比較してしまう。折角だからプロに学んで帰りたいという欲にもなっていた。
「今夜は私たちに準備させてください」
そう申し出ると、これが自分の仕事だからそんな気遣いはしないで欲しいと管理人は、まるでわたし達が自分を哀れんでいるかのように解る。違います、味を試してもらいたいだけです。美味しくする助言をいただきたいのです。「別にワタシなんかが」と、それでも応じようとしなかった。
わたしは言ってしまった。こんな美味しい食事をいただいて本当にみんな感激している。でも自分たちも料理には自身があるんです。本当です。挑戦させてください、と。呆れたという顔をしているみんなの顔が、でもわたしを応援していた。
――なら当てさせて下さい。どなたがお作りになった料理か……。
試食会にさせてもらいたいというのだった。奇異な感じがしたが、なにかおもしろそうと、管理人の「条件」を容れることにした。

試食用に取り分けられた料理の皿や鉢が並ぶ。テーブルの前にわたし達が立ち並ぶ。だれもが本当に分かるのかしらと思っている。わたしが管理人を呼んでくる。わたしなのはわたしが一番年長者だったからである。
ダイニングルームに管理人が現れる。テーブルを見詰めている。計5品が並べられている。そう、今この「ハウス」には5人の女性が同宿している。わたしはK子と同室だった。
管理人は、一口ずつじっくり食べた。その都度管理人の表情を見守る女性たちに面を上げだ。2順目にはいる。最初の判定を確かめている。今度は面を上げない。3順目で椅子に背中をつけて、薄眼で彼女たちの顔を一人一人確かめるように眺めた。確信的な顔になっていた。
「どうして分かったんですか」
 誰彼からともなく声が上がる。全品正解だった。
 はじめて管理人の顔から笑みが漏れた。ウソみたいという声に照れ笑いを浮かべた。満足そうだった。いつも料理の味を称えられても「それはどうも」程度で、特別なことをしているわけではないからと、わたし達の賞賛にはどこか冷めた感じだったので、その笑みを浮かべた顔を見ていると別な人のようだった。
それに食事時、別のテーブルで食事を摂っていた管理人に同席を促しても「ここで」と同じテーブルには着こうとしなかった。わたし達を嫌っている風ではなかったし、それに「ハウス」の趣旨から言ってもそんな人を管理人に就けるはずがなかったので、たんに人づきあいが苦手なだけなのだ、一人でわたし達の笑い声を聞いている方が楽に違いない、そう思ったわたし達は、別テーブルの管理人に遠慮なく自分たちの食事を愉しんだ。
しかしそうではなかった。たしかに愉しんでいたが意味が違っていた。それがこの試食会で判明することになった。わたし達は誰一人、自分たちがそのようにして見られていることには気づいていなかったが、管理人はわたしたちの食べ方を見ていたのだった。それも観察だった。
当たった理由もその成果だと聞かされても、まだ次ぎの食事のためだったとしか思えなかった。少しでも美味しい料理を出したい。口では美味しい美味しいと言われても、自分への労りでそう褒めてくれるだけだ。でも料理を頬張る口許は違う。ウソはつけない。そういうこと。やはり本物の料理人だ。管理人さんは。
管理人は言った。表向きはたしかにそうかもしれないが、と。
――ワタシは女性の食事する姿が好きなんですよ。そっと見ているのが。
そう言って困ったような顔をし、やがて赤らんだ顔を隠すかのように薄くなった額に手をやってバツ悪そうに軽く叩く。さらに知らない管理人の姿だった。
 その仕草を見て、誰もが一瞬そう思ったことを管理人は自分の口から申し出た。
 ――いやらしいですか? いやらしいですよね。
 誰も答えようがないといった困惑気味の顔になって、すこし項垂れた管理人を見詰めていた。
 ――もうこの歳だからいいですけど、昔はこれでずいぶんと失敗しました。レストランでは苦情を言われたこともありました。気づいていないと思ってすこし大胆になっていたら、連れの男から胸座を掴まれたこともありました。
いつ頃からでしょう、若い女性が電車の中で平気で物を口にするようになったでしょう。私には嬉しいかぎりでしたが、でもどうかと思いますよ、そんなウソをつく口しかできない食べ方では、人間不信というか女性不信というか、気持が萎んでしまいますよ。きっとそんな顔になっていたんでしょうね。ある時、たまたま一緒の駅で降りることになってしまい、降り際に「キミワルッ!!」って蔑むように罵られて、回りにいた人たちに勘違いされてしまい、「痴漢ですか!」と腕をねじ上げられてしまいました。その後、駅の事務室で警官まで来てさんざんでしたよ。
でも一番の失敗は、会社を辞めることになってしまったことでした。噂が立ってしまったんです。見られているっていう噂が。そのうちに社員食堂で女性社員が食べなくなってしまいました。すぐに呼ばれました。総務課長から言われました。社員食堂出入り禁止だって。でもそれだけでは済みませんでした。薄気味悪いって、女性は生理感覚が強いから、仕方ない、そう言われても。仕事に支障が出てしまったんですよ。辞表を出しました。受理の際、一言、バカな奴だと言われました。
 管理人の話は続いた。その後も同じことになってしまった、と。見ていても気づかれない仕事に就いたのにと。レストランのウエーターだった。なるほど来店者の食事姿を見守るのも仕事の内だった。たとえそれ以上に見ていて見方が変だと思われても、軽く頭を下げれば、それで事なく済まされることになる。それに客は他にもいる。大勢いる。対象者には事欠かない。客にはそれで済んだが、今度は店長から言われてしまうことになる。内から食中毒ださんでくれ。いきなりそう言われたというのだった。その眼は黴菌の目だ。不潔で汚らしいしいやらしい。お客さんから患者が出ない内に消えうせてくれ。嫌ならいい、保健所に突き出してやる、そう恫喝されたと。保健所? ええ、保健所だそうです。もちろん店を辞めました。迷い込んだ野良猫でも追い払うようにして追い出されました。でもいいですそれでも、と。
 それから次ぎは、と言いかけたところだった。
「わッ、わたしの食べ方は、きッ、汚いですか」
 突然、N子が口を挟んだ。だれもがその先行きを確かめようと身構えていたところだった。一瞬わたしを含めて皆の咎めるような眼差しが向けられた。困ったようにN子は俯いた。
 N子が口を挟んだのは、管理人が可哀想でならなかったからだ。さらに続くのを誰かに止めてもらいたかったのだ。
――ここにいる皆さんはだれもがみんな綺麗な食べ方です。もちろんN子さんもね。N子さんはとくに綺麗ではないかと。
「わッ、わたしが、だッ、黙って食べているからですか」
 自分を失敗者だと決めつけているN子にとって自分が一番になるのは認められないことだった。
「じゃ、わたしが一番汚いじゃない!」
 C子が怒ったように口を開いた。たしかに一番のおしゃべりだった。でも今度はC子の優しさだった。N子がまた困ったまま下を向いてしまった。
――C子さんの食べ方はステキですね。お口に力と張りがおありです。言葉が料理と一緒になっているからかな。絡められているんですね。違和感がないんです。両方を咀嚼するのに。幸せな料理です。作った者としてもありがいことです。
なるほど。そう言われると納得の気分だった。管理人は続けた。
――それだけではありません。同じ食事の席についているものも幸せにします。デートの時はどうなんでしょうか? 同じですね。きっとそう思います。食べるということは、ウソをつけなということです。口を使わないで食べられたらマジックです。その口をどう使うかと言えば、まず口に運んだ料理を頬張るために、口を開かなければなりません。そして閉じなければなりません。その後は口を動かさなければなりません。飲みこむ時には喉元が膨らみます。頬の筋肉と動きが繋がっています。当たり前だから誰も一々に気に止めることなどしません。
でもそれだけに、どこかにウソがあれば、隠せません。気になるのです。そのウソが。ウソというのは違和感のことです。とくに口の動かし方です。その人の心とのアンバランスです。アンバランスに私は胸が苦しくなるのです。自信をなくすのです、自分に。他人のことなのにそんなことどうでもいいことなのにと誰もが思います。自分でもそう思います。それがだめなんです。自分ならまだ我慢ができます。その口がウソだと思ったら、噛み締めたまま口許を解かなければいいです。ですから、勘違いされてしまいます、目許で応じるでけですから。バカにしているのかと思わわれてしまいます。友達もできませんでした。女性からは気味悪がられてしまいます。ですから恋人どころか、女友達もできませんでした。
病気かも知れません。きっとそうでしょう。でも慣れました。それに今はこの仕事に就くことができました。今、ワタシの気持ちは楽なんです。ここに来られる皆さんがワタシの安心なのです。自分に対する自信なんです。どなたの口許にもウソがありません。ウソのない沢山の口許に出会えるのです。
ウソがないのは普段にそれがないからです。普段が見えるのです。C子さんを例にして申し訳なかったかもしれませんが、C子さんなら皆さんに分かっていただけるかと思いましたので。
ええたしかに、単純脳みそですから。C子は皮肉で返したが、もちろん怒ってなどいなかった。
N子には話が戻らなかった。でも誰もが分かっていた。いつも自分の口が「失敗」しているのに、最初にその口が開いたのは、自分の傷みより他人の痛みに敏感だったからで、しかもその痛みに我慢がならないからだった。
「でも料理の味と食べ方は直接関係ないんでは……?」
理論派のO子だった。同時に現実派だった。だから上辺は一見ドライな感じだった。でも実際はその分ウエットだった。
――そう思われるかもしれませんが、それが最初に分かったのはO子さんのお料理でした。すぐにと言ってしまうと、お気を悪くなされるかもしれませんが。
O子は解説を求めなかった。不満でもなさそうだった。N子やC子の時がそうであるようにそれだけで何となく分かった気がしたからだった。ではわたしの場合は? と咄嗟に疑ったが、わたしもK子も「解説」は求めなかった。いままで気づいていなかった自分が露わにされる、そんな思いは、どこか気恥ずかしいものだった。羞恥心だったかもしれない。

でもK子の場合は違っていた。後でこう告げるのだった。
「面白くない。そうでしょう、なんで、口許で私のことが分からなければならないの。人格無視っていうわけ。性格や雰囲気で言えないわけ。だってそうでしょう。自分を表現することでしょう、お料理するってこと。違う?」
 わたしが責められているようだった。
「あなたが弁護するからよ。知らない自分を教えてもらえるかもしれないなんて言うから。知りたくないわ、そんな自分!」
K子の言うことは分かる気がする。K子の料理が凄く美味しかったからだ。意外なほどだった。でも管理人は見抜いた。料理を当てたと言うことは人格を当てたことなのだ。私には気付けなかったことである。そんなに料理が上手なんて。
怒るだろうな、こんなことを言ったら――K子、あなた、見かけとはとがって意外と男との関係を大事にするのね。でもそんな自分を出そうとはしない。見せようとしない。見せるくらいなら見せない方を選んでしまう。それじゃ、一体誰が見てくれるの。なにもしないで現われるのを待っているわけ。待つ? 失言々々。待つわけがないか。でも出さないし、待たないとなると、どうなるのかしら、あなたの「人生」は?
訊いたわよね、あなた旦那とちゃんとシェアしていたの、お互いの気持? って。でもそう訊いたこと、ここで撤回するわね。K子、あなたは、しっかりシェアしていた、シェアどころか、与えるだけ与えて相手からもらえないでもなお与える、平気でね。そして、結局、テイクアウトされた。持ち去られた。それは美味しい料理だからね。そういうことなのよ、当てられたといことは……。そして、それでいいというわけ。テイクアウトするよりされた方で。ますます素敵になるというもの。強がり? とんでもない。さらに料理がおしくなるからよ。あなた流に言えば人格がね。きっと、最後まで分からなかったのは、K子あなたの料理だったはず。
わたし、管理人さん見ていたの。口許。管理人さんのようにしてね。目許は見ないで口許だけをね。

男/鈍色の虚空

二重巻きにしてマフラーを耳たぶにまで持ち上げる。太陽を遮った鈍色の空。人影の途絶えた冬の公園の中をポケットに両手を突っ込んで前屈みに進む。冬空の男女。並んで歩く。少な目の言葉に時々触れ合う肩が二人の距離を縮める。枯れ枝を飛び交う雀たちの自由闊達な囀り。ベンチの下に舞い下りた一羽が一人勝ちに啄ばむ小餌。公園の冬の昼下がりなりけり。
近づく猫の気配。すんでのところで枯れ枝に飛び移って、難を逃れ、そのまま乱舞。危機の源は、すでに地上で羨ましげに小枝を見上げるほかなく、所在無げに幹の根本に体を擦りつける。気がつくと彼(野良猫)の傍らに一人の男が佇んでいる。
(猫)ドウダッタ?
(男)このとおりさ。
 そう言ってさらに深くポケットに手を突っ込み、首をすくめる。
(猫)思ウヨウニハイカネイナ。
(男)君の言うとおりだった。
(猫)元気ダッテコトヨ。ナニヨリノ便りダ。ソウ思ウコトダナ。
 野良猫は男の足許に体を擦りつける。男は腰をかがめて猫の背中を擦る。煩い! 猫が軽く手の平を噛む。わざとらしく痛がって見せる男。いかにも疲れた中年男。
 噛んでいた男の手から猫の口が離れ、彼方に首を回すと、釣られるように男も小首を巡らす。カメラを胸元に抱えた女性が近寄ってくる。
(女)写真をやっています。
(男)撮られたのかな?
(女)すみません、無断で撮らせてもらいました。
(男)かまいません。でもなにか景色になっていたんですか。
(女)お話してましたよね。ネコちゃんと。なんか本当に話しているようで。
(男)そうです話していたんです。僕の親友です。腐れ縁ですが。
 女性は頬笑みを浮かべて、猫に話しかける。
(女)そうなんだ、話せるのね。一枚撮らせてもらっていい。
(猫)ダメ! 撮ルナ!
(女)イヤだ、本当に話せるんだ。
(男)照れているんですよ。撮ってあげて下さい。
(猫)勝手ニ決メルナ!
 男の影に隠れる野良猫。カメラを構えて回りこむ女性。シャッターを押される寸前でタイミングを外す猫。再び構える女と素早く身をかわす猫。今度は逆回りで不意を衝くと、「ヤバイ!」という猫の反転を許さずにバシャリと押しこまれたシャッター。そのなんとも小気味よい響き――猫の負け(なりき)。
 ダカラ若イ子ハ苦手ナンダ。
猫はそう言うと、女性に向かい「ジャーナ」と言う代わりに「ニャ~ア」と一声鳴くと、反転勢いよく駆け出して公園を後にする。
 その猫を目で追いながら女性が言う。
私、今、男と別れてきたんです。
そう言えばさっきの男女。そうだったのか。ならさっきまでの笑い声。無理していたんだ。アイツ(猫)は分かっていたのか。この子のことが。
私なら離さない。あなたのようなお嬢さん。見る目がないというか、その男、それともあなたの方で愛想つかしたのかな。そうでしょう、そうですよ、そうなのに違いありません。たっぷり後悔させてあげましょうよ。どれだけ大事なものを失ったのか、ザマヲ見ロデスヨ。まあこれは、アイツの言い方ですが。
こういう時は、暖かい飲み物が一番。珈琲でも如何ですか。アイツと一杯やるつもりだったんですが、またお説教に決まっている。デリカシーがない奴でね。ともかく傷心というものを知らない。ナンダソレ、腹ノ足シニナルノカ? ですから。
いい年をしてお恥ずかしいのですが、あなたとアイツが私の回りを回っていたとき、目に涙を溜めていたんですよ。いつまで経ってもデメです、成長というものがありません。
 ファインダーに浮かび上がっていました。悲しいお顔が? で、なにか自分を見ているようで、同じ悲しみだと思えて、自然とシャッターにかけた指先に力が入っていました。気がついたら押していました。取り込みました。お悲しみ。いただいてよろしいですか。大切にしますから。
見れば二眼レフだった。縦に並んだ二つの眼。ファインダーレンズと撮影レンズ。使ったことも使い方も知らないが、なるほど、一眼レフとは映し出されるものが違うのだろう。見えたのだ、自分では見えないものが。

 彼女ははやく現像したいからと立ち去った。一度振り返ってなにか言いかけて、「いいです」と思い直したように言った。アイツへの言伝だろう。なにが、若イ子ハ苦手ダ、だ! アイツ、お嬢さんに一目惚れか。今度は俺からの逆襲だ。
 最後まで見守っていた女性の後ろ姿が消えると、男はまたマフラーを耳元に巻き付けた。両手をポケットに深く突っ込んで、首を引っ込め気味に前屈みになって女性とは別の方向に歩み出した。男は遠く思いを馳せた。そこで生きる者への思いだった。