2016年7月10日日曜日

[ろ]3 ロマン(連載3) 取調室


婦警は、男の取り調べに立ち会うことになった。理由があって制服のままだった。しかし、女刑事の真似をしているのではなく、実は正真正銘の女刑事だった。婦警の格好は、カモフラージュだった。
街頭刑事という特別任務に就いていたのである。主に性犯罪や痴情犯の焙り出しだった。彼女には特別の能力が備わっていた。道行く人を見分けられるのである。だから交番勤務を装っていた。あるいは巡回の名目で街に繰り出す。街角で屯する輩から怪しい人物を見分けられるのである。
自身から進んで囮になることもあった。怪しい人物を見つけると、素早く私服に着替え、肉薄をも厭わない。体を張っての職務遂行である。美形の上に抜群のプロポーションだった。すべてを職務に捧げていた。
「いつまで黙ってるんだ!」
 刑事の声は威嚇的で、その都度男を怯えさせた。できれば協力的な態度を取りたかった。でもできない。何も答えられない。名前も明かせない。そんなつもりはなかったのに黙秘になってしまっていた。
たとえば名前のこと。明かさなかったのは、明かしたくなかったからではない。明かすべき名前を持たなかったからである。
だからいささか妙な話だが、怯えのなかに喜ばしさを抱え込んでいたのである。嬉しかったのである。久しぶりに名前を問われたので。それも執拗に、何度も何度も「名前は! 名前は!」と、「名前も言えないのか!」と声を荒立てられながらも、その度にまんざらでもない気分を味わっていた。でもそんな内実を悟られてしまっては火に油を注ぐことになってしまう。ひたすら怯えに徹していたのである。
いつも「おい、お前!」とか「貴様!」とか、場合によっては「其処の(奴)!」とか二人称にもならぬ「愛称」で呼びつけられたり、呼び捨てられたりしていたのである。
それが一人前に扱われた気分になる。そうか名前か。そうだ自分だって名前があるんだ。納得する。思わず、満足げな顔を覗かせてしまうことになる。
案の定、刑事を刺激し激高させてしまう。刑事には侮られた顔にしか見えなかったからである。
机が激しく叩かれる。刑事の顔は怒りで震えている。
黙秘には慣れている。でも黙秘には黙秘で意志がある。人がある。人格が感じられる。でもない、意志も人格も。これは黙秘ではない。あるのは黙秘を真似た、ただの嘘つきの顔つきである。俺さまをこれ以上怒らせるな!
男にも刑事の気持は分かっていた。理解できた。自分で自分を責めた。怒られるのも仕方ない。当然である。
当然だが、実は当然でない状況下にある。それが事実だったし、事実だったことが、本人にも刑事にも問題となる。でもどうにもならない。
それというのも明かすべき名前を本当に持っていなかったのである。正しくは持っていたが、今はもっていないのである。明かしたくても明かせないのである。どうにもならないのである。
「なんだ、名前を付けてくださいとは!」
 言うまいと思っていたことを口にしてしまう。怯えがそうさせたのである。
「ふざけているのか!」
 刑事の拳に力が入る。
「馬鹿にしているのか!」
 明らかな侮辱だった。限界だった。叩かれた。
 でも刑事からではなかった。女刑事からだった。取り調べの机を挟んで対面していたのは婦警姿の女刑事の方だった。救ってくれたのである。
 それほど強くなかったが、痛そうに頬に手を遣りながら、女刑事ではなく傍らの男の刑事に面を上げて、「ふざけているわけでも馬鹿にしているわけでも」と、萎れ気味に項垂れる。
そして、「付けてくださいと申し上げたのは、実は」と言う。自分も黙秘はいやです。怒られたくありません。でもお願いですから、我慢して下さい、しばらくの間ですから、真実をお聞き下さい、その間は怒らないでください、そうでないと黙っているしかできなくなってしまいます。でもそれが(黙秘が)一番嫌なのは自分ですから。本当です、と哀願顔をつくる。
刑事は、「ともかく言え! なんでも好いから!」とさらに威圧気味になる。黙秘などと抜け抜けと言われたからである。しかも脅しのようにして。
だめだと男は思う。また怒鳴られてしまうと。
「少し休憩をいただけますか。必ずちゃんとお話しますから」
 回答は迅速果敢だった。
「いいだろう、その代わり正直に話すんだ、いいな! また同じような態度だと、分かったな!」
 一撃を加えるように厳しく言葉を浴びせた刑事は、書記係の若い刑事を一人残して女刑事を伴って退室したのである。図らずも男と刑事両者の呼吸は合っていたのである。

 30分の休憩は、人の気持を鎮める。鬼刑事にしてもそうである。でもそれだけではなさそうだった。休憩の間、女刑事からなにか言われていたのだろう。たとえば、「大丈夫ですよ、もう」と自白を確信してもいいようにとか、それも「さすがですね」とか、適度に煽てられながら。
だから「我慢して聞きましょう」と言われても「そうするか」とかまんざらでもない顔を浮かべることになる。さらに「どうしてもダメなら、また私がなんとかしますから」と声をかけられると、髭の濃い頬がだらしなく弛むことになる。心得ている、まったくのところ、鬼刑事の扱いなどなんでもなかった。すこし目配せを交わせばいいのである。たとえ妖しかったとしても。
実際、再開を告げた時には、もう刑事は、男の肩を揉み解して見せるほどになっていたのである。
「じゃ聞かせてもらうか!」
 そういいながら男から椅子をすこし引いて、間を取る。女刑事の位置は変わらない。 
「実は落としてしまったのです。届け出ました。交番に行って。受付してくれませんでした。『そうか、そうか、それは気の毒に』としか言ってくれませんでした」
 少し間があったが、刑事は「それはそうだろう」と言った。いきなりの話だったが、怒気は籠っていなかった。それを明かすように、「俺でもそう言う」と軽くあしらうように言う。しかも無理に笑って見せる。
「だから別の交番に行きました」
「今度はなんと言われた? やはり『気の毒に』か、それとも『それはご不便なことで』とか?」
 そう言って女刑事を見ながら苦笑いを浮かべる。少し自信がなくなってきたのである。またぞろもたげ出した怒気を早めに女刑事に知らせる必要がある。判断を仰いだのである。
いうまでもなく軽く首を横に振られる。まだ始まったばかりなのだ。
「怒らないから話してみろ」と代わりに言う。
「真剣な顔をしてくれました」
「新米だな、そいつは」
そうではなかったが、刑事に同調した。
「本当は盗られてしまったんです。最初からそう言えばよかったんですが、恥ずかしかったんです。盗ったのは女ですから。押し倒されて首絞められて『分かったわね! その名前を二度と口にすんじゃないのよ!』『マイクを埋め込んでおいたからね。どんな小さな声だって駄目だから。超高性能の集音マイクだからね』『相手の声も入るからね』――教えたどうかすぐ分かるからね、ばれるからねって威すんです」
「新米は付き合ってくれたんか?」
「ええ、だからずっと黙っていてくれました」
「そうか、それはそうだろう」
 少し落ち着きを取り戻したらしい刑事に言う。
「筆談することにしました、これならばれませんから。マイクはカメラではありませんから」と自信顔で。
 刑事が腰を浮かす。
「聞こえるんじゃなかったのか? こんな話していていいのか!」
 我慢しているんだぞ、相当な、と分からせるようとしていた。この先もこんなんじゃ、と一喝しておくべきだと思ったからだが、女刑事と目が合う。腰をおろす。まあいいかと思う。つき合ってやろうかと思う。あとで慰めてもらおうと思っていたのである。帰り際に一杯付き合わせて。
「大丈夫なんです。電池が切れているんです。本当は出頭しなければならないんです。女のところにです。このまま放っておくと、マイクから有害物質が流れ出てくるんです。だから1週間以内に連絡を取らなければならないんです。でも連絡も、出頭もしなかったんです。いいと思ったんです。それで体の調子が悪くなっても、重症になっても。死んでしまっても。ほとんど拷問ですから。名前なしで生きていかなければならないなんて。お分かりでしょう? 普通の生活は送れません。就職も、結婚も。仕事を選らなければ就職は偽名でも大丈夫ですけど。偽名だと犯罪ですかね」
「まあ、ケースバイケースだが」
「有印文書なんとかとか、文書偽造とか、そういうことですか」
「まあそういうことだ」
どうでもよかった。刑事は「それで?」と先を急がせるしかないと思う。
「だから問い詰められたら『筆名』ですと言い直します。大丈夫でしょうかね?」
「まあそうだな。でも今はそれでは通用せんぞ。それに『盗られた名前』だが、それと今回のことは関係しているのか?」
「筆談の話に戻っていいですか」
すこし溜め気味に言って、「手短にしろよ」という刑事に、男は「はい」と子供のように弾んだ声で返す。
刑事はすぐに自分の優しさに後悔したが――柄にもない真似だったので――でも黙りこくられるよりかいいか、と自分を納得させる。
男は、いろいろしゃべり続けた。男は男なりに刑事の苛立ちに気を遣っていたつもりだが、巡り巡って辿り着いたところは、またもや女刑事の手を借りなければならない寸前だった。
でも刑事は、「いいから、いいから、なんでもいいから!」と、もう投げやりを通り越した諦めの気分で、後は若い刑事にいつ任せようか、とそのタイミングを見計らうことでこの場の忍耐力に自分なりの整合性を見出そうと努める。
――手術シテ外シテモラッタラ如何デスカ?
――マイクガ出テキタラ証拠品ニシテモラエマスカ?
――エエソウイウ運ビニナルデショウ。
この一言、正確には一筆がその後を決めたと男は唇を噛みしめる。そして「紹介シマショウカ」と言われたと。
総合病院だった。精密検査ならぬ総合検査が必要だと言われ、数日かかるので入院して欲しいと。
事情は巡査が伝えてあったので、申請書の氏名欄ほか氏名は「筆名」で済んだ。「名無(ななし)」だった。名が姓、無が名だった。事情を聞かされた医師もそれ相応に応じてくれた。
最初は問診だった。予め記しておいた質問表をもとに健康状態がチェックされた。
――ご家族は皆さんお元気のようですね。名無さんだけですかね。オジサンやオバサンに同じようなお悩みを持たれた方はいらっしゃいますか?
――先生、あの?
――分かっていますよ。でももう少し調べてみましょう。外科的なことは外科的なこととして置いておいて、内科的には遺伝的なことも考えられます。頭から処置方法を決めてかかってはよくないと思います。女性のこともです。潜在的な恐怖心をお抱えのようですが、そのことをもう少し内科的にですね、いろいろと。
回りくどく訊かれましたが、結局、女性のことでした。女性環境でした。現在だけではなく小さいときからの。実は被害妄想ではないかと。女性にマイクを埋めこまれたのも。埋め込んだ女性そのものも。そう言われるんです。
見せました。先生に。写真を。送られてきた写真です。これから胸を閉じようとしている前の写真です。はっきりとマイクが見えます。傍らの女も。ほくそ笑んでいる顔も。いかにも冷たい感じです。
すると先生は言われるんです、私には見えないんですが、と。
こんなにはっきり写っているのにこれが見えないなんて、なにか馬鹿にされている気分になって、それで抗議の声を上げました。
すると医師は、回転いすを一回り、二回りさせて言うんです。
――私がだれか分からないの? って。
急に女声になって。でも顔は男です。同じ男の医師です。
目を瞑って、と言われました。言われる通りに目を瞑りました。耳もとで囁かれました。
――変な真似すんじゃないよ。
と、ナイフのような鋭利な声で。
「例の女だったのね」
口を開いたのは、女刑事だった。孤立無援に耐えていた男は、なにか女刑事の手を執りたい衝動にかられる。すぐ近くにまで腕を伸ばすが、刑事がいることを思い出す。男は続ける。
 見破られていたんです。外科手術を受けようとしていたことが。
――自業自得だ、自分を恨むんだね。
また言われました。女声で。そして、今度は完全に奪われました。名前です。根っこから。もう記憶にありません。それまでは口に出すことだけが禁じられていただけなので、頭の中で呼びかけることはできました。許されていました。でも自分を憐れむためです。女の無慈悲は、私の弱点を容赦なく衝いてきます。それでも好いもんです。喩え頭の中だけだとしても名前があるのは。でもそれも許されなくなりました。
――もうこれで言いたくても言えないからね。でも却ってよかっただろう。びくびくする必要はこれでなくなったんだ。
気がついた時には脳外科病棟の病室に横たわっていました。頭部は、幾重にも巻かれた包帯で白く覆われていました。目を開けると、外科医がベッドの脇に佇んでいました。女医でした。満足そうにしていました。
――○○さん、大成功ですよ。ご安心ください。この分だと回復も早いでしょう。
――先生?
――なんですか、○○さん。
――そこだけ聞こえないんですが……。
――だから大成功なんですよ。好いんです。聞こえなくて。そのための手術だったんですから、ねっ名無さん。
――先生は誰なんですか!
――誰って? わたしは名無さんの担当医ですよ。それよりそんな大きな声を出すと痛むでしょう。今は手術の後だからいろいろ心配になるのは分かりますが、大丈夫ですよ。安心してお休みください。
――頼まれたんですか!
――頼まれた? ええそれはもちろん頼まれましたよ。
――あの女にですか!
――なにおっしゃってるの? 変な方ね。ご自分に決まっているでしょう。『名前を捨てたい。お願いします』って。普通なら遣らない手術です。倫理的な問題だけでなく、技術的にも難しい手術ですから。ご事情を窺って、審査会で致し方ないでしょうということになって、私が選任されたわけです。術前におっしゃられたでしょう。『良かった、先生がご担当くださると知らされて。この方面では先生の右に出るお方はいらっしゃらないそうですね。本当によかった、どうぞよろしくお願いします。先生に全部お任せします』って、でもいいんですよ、混乱しているんです。それも予定の範囲内ですから。でも大丈夫。それもすぐ治まります。自然と落ち着きますからね。ご安心下さい。たしかにこの手術に関しては、名無さん、私が担当したことに、後々、必ず満足していただけるはずですから。
何を言いている! 満足も安心もできるわけがありません。絶対にあの女だと思いました。
混乱している? そう女医は言う。ならその混乱ぶりを逆に利用してやろう、そう考えるようになりました。だから頼みました。
――回って下さい。
と。一回転、二回転、三回転。
「で、どうだった?」
 刑事が突然口を挿む。
「変わりません。女医のままでした」
 単細胞だった。その刑事の性格が幸いする。
「まぁ、あえて訊くが、それも、なんだ、お前さんの、つまり、内科医が言うところの女環境というか、ちがうか、『女性環境』だったか、そうか、そうだったな、どうも口が汚くて、お前さんみたいなやつばかりで、本当に、自分で自分が嫌になってくる。で、それだが、結局、それなんじゃないのか。いや、それだ、それだ、そういうことだ」
 自信満々である。
「女への妄執、だ」
そして、こう言い出すのだった。
「おかしいと思っていたんだ。俺の勘から言っても、普通の痴漢には見えなかったかなら。(どういう意味だろう?)そうか、そうだったのか、勘違いだ、俺の。違う、女たちのだ、女性たちのだ。回って欲しかっただけなんだろう? でも回ってくれない。それはそうだ、ベンチの脇に座っただけだ。それだって、いつも女性が座っている場所だ、お前さんは言ってみれば新参者だ。ほかに空いていたんだ。だから移って欲しかっただけなんだ。『すいません、連れが来るんでよろしかったら席譲ってもらえませんか?』そこでお前さんは言った。『回って下さい』って。何度も。怖くなる。当然だ。ベンチを離れようとする。それをお前さんは、前に立ちはだかる。女性の肩に手を掛ける。女性が悲鳴を上げる。お前は驚いて逃げる。何日かしてまだ戻る。女性はいない。怖くて来ない。来れない。気にいっていた公園なのに。で、次はなにも言わないで、黙って女性の後ろに立つ。囁くように声をかける。『回って下さい』って。回るわけがない。やはり悲鳴を上げて逃げ去る。お前さんも立ち去る。そして次だ。今度は自分からだ。そうなんだろう? 回そうと思ったんだろう。抱きついたわけではない。逃げないで下さいって、怖がらないで下さいって。でも無理だ、それは、どう考えても。だから悲鳴を上げられる前に口を塞いだ。『怖がらないで下さい』『なにもしません』『回って欲しいだけです』――いろいろ好き勝手に言ったそうだな。何にもの女性が同じように言いていた。『助けて下さい、ぼくを! ぼくを!』って、そう叫んでいたと。助けてくれるわけがない。助かりたいのは自分の方だ」
 刑事は、徐に椅子から腰を上げて、後ろから両手で男の肩を押さえた。そして、回転力を加えた。椅子に座ったまま男は半回転した。男が椅子を押さえていたからである。刑事と正対することになった男に刑事は真正面から覗きこむように言った。
「そんな手の込んだことを言って、本当の目的は何だったんだ? まさか痴漢したかったわけじゃないだろう。肩触りでも痴漢と言えば痴漢だが、それとも脅迫か? でも『回ってください』じゃな?」
 刑事は喜んでいた。余裕しゃくしゃくだった。
 それを男は簡単に裏切ってしまう。そうではない、結果として裏切ってしまう。男には刑事の話が耳に入っていなかった。入っていたかもしれないが、聞こえていなかたった。別なものが入っていたからだ。
話は戻されることになる。
「やはり思っていた通りだったんです。女医さんではなかったんです。看護師だったんです。回診カードを押さえたボードが裏返されたんです。『見ているからね』そう書かれていたんです。あの女でした。笑い顔です。目の奥に浮かぶあの嘲笑うような笑い顔です。埋め込んだ時と同じ。女医さんは操られていただけなんです」 
 目は刑事を見ていた。でも男の眼には刑事の姿は浮かんでいなかった。
 刑事は肩に置いていた手に力を加えた。半回転して男を正位置に戻す。時間を稼ぐためだった。作戦の練り直しである
「でも正確には女はいませんでした。看護師さんは乗り移られていたんです。優しそうな女性でした。ですから最初はまさかと思いました。でも間違いありません。あの女が体の中にいます。きっと先回りしていたんです。交番に行った時から。そして、分かっていたんです。この病院のことも。内科医のことも、外科医のことも。選んだんです。油断させるためです。相手を看護師さんにしたのは――」
 嘆き悲しんでいるのか、男は両手で顔を覆った。泣いていた。
でも泣いている意味を刑事には理解できない。我が身を儚んでいたのではなく逆だったからだ。感激して泣いていたのである。好いように振り回われてしまう。でもクライマックスだった。
男が立ち上がったからだ。そして振り向いたのである。刑事をしっかり見つめていたのである。刑事も負けず睨みつけたのである。
「初めてでした。回ってくれたんです」
 勇んでいた。自分で演じ出しかねなかった。
「しかも『女』でなかったんです。何度回ってもらってもそうなんです。乗り移っていないんです。分かったんです。探していた女性だったと。出会えたんです。『もう一人の女』に! それが彼女だったんです!」
「で、感激のあまり思わず抱き付いてしまったわけだ!」
 刑事は同じように男を抱きしめていた。現場の再現だった。そして、肩越しに女刑事を見る。予想外に無表情だった。むしろ迷惑そうだった。
 刑事は勘違いしていた。嫌なことを思い出させてしまったかなと。後で慰めんといかんな、これはと。

女刑事は、別な世界のことのように二人を見ている。男に抱きついている刑事の格好は、茶弁劇にも近い滑稽事でしかなく、そう思うと、この取調室そのものが別の世界のように思えてしまう。
それに女刑事が思い出していたのは、抱きつかれた瞬間などではない。男に手錠を掛けた瞬間だった。感じたのである、なにかを、抱き付かれた瞬間に遡って。
その瞬間から「これで!」と、事件が終了したと思った安堵感と感激は、身体の中から消え去っていたのである。どこにもない。残っていたのは消え去った感覚だけだった。
そのためだった。立ち会ったのは。上司から後はいい、あいつ(鬼刑事)に任せるからと言われていたのを、直接の関係者ですから、と自分から強く申し出たのである。
でも途中からなんだか不安になってしまったのである。出鱈目の話を聞かされたからではない。男の状態では起訴できそうにもないからではない。
違う。反対である。男になにかを衝かれた感じなのである。あの時と同じなにかである。『出会い』『もう一人の女』などと思いがけないことを言われた。バカバカしい。そんなわけがない。でも女刑事は怖くなる。
言われるままに回っていた、何度も回り続けていた、あの公園の一角が浮かんでいたからである。そして意外なことを思い始めていたからである。
 自分から抱き付いていたのではなかったか、と――。

2016年7月2日土曜日

[ろ]2 ロマン(連載2) 男と組長


数週間が経つ。
――あの……。
と男は近寄ってくる。応接を求められた組長は、またいつものぼやきかと思う。だめだ、だめだ、と相変わらず情けないのである。
それがその日はそうではなかった。名前のことだった。名乗った方がいいでしょうか、と神妙な顔で質されたのである。
――名前?
――いまさらとは思うんですが……。
申し出を受けて、そう言えば、一度も名乗っていなかったのを思い出す。思い出したのは、それだけではない。だれも男の名前を知ろうとしなかったこともである。
知ろうとしなかったのは、必要がなかったからである。「オ前サン」だけで十分だった。ほかの猫たちも「サン」は付けないが、「オ前」と親しみを込めて呼んでいる。呼びかけられた男も嬉しそうにしている。
――キシカイセイ、です。
漢字では「来止開盛」と書くと説明される。
意味としては、〈来て止まって開いて盛り上がる〉だった。ふざけたような名前である。ありそうにもない、取って付けたような漢字の並びだった。
――ペンネームなんです。本当の意味は「起死回生」なんです。
それなら大違いである。
でも、と男は言う。それではお恥ずかしいわけですね。あからさますぎて。露骨ですから。なにか裸を晒してしまっている感じです。それで当て字でカモフラージュしているのです、と。
さらに言う。ともかく、ここに来てからの話ではありません。付けたのはずっと前からです。そんな風に思われてしまっても、たしかに最初が最初でしたから仕方ないのですが、そうではありませんから。それに今までは、漢字は同じでも読み方は違っていました。「ライシカイセイ」と発音してました、と。
――どうです、なかなかいい響きでしょう。
そう言って、聞かされた人は、敬うような眼差で「なんか凄そう」とか言ってくれました。もっと自信をもって胸を張っておられてはいかがです。偉そうにしていても。とくに若い奴らの前では、などと言ってくれるのです。そう言って、嬉しそうに付け足す。
――自分でも調子に乗ってしまい、「そうですか……」なんて自分でもまんざらでないと思って、照れ笑いを浮かべてしまって。
男はその当時の自分になっている。憎めないが、いつもの大きな子供をあらためて見せつけられた感じだった。そう思うと組長は、思わず警戒してしまうのだった。
――デハ、本名ノ方ハ?
きっと男一流の前置きだと思ったからだった。「実は」とか言って、もっと凄い名前が出てくるのでは? 驚かせようとしているのでは?
――棄てたんです、と言いたいところなんですが、忘れてしまいました。
それが意外なことを言う。あるいはもっと不遜なことを言おうとしている。組長は疑う。
でもそうではなかった。一身に関わることだった。どうもそのようなのである。
――思い出したいのですがダメなんです。どうにもなりません。記憶装置が毀れてしまっているようです。医者からも見離されています。本当です。組長さんを侮っているなどありえないことですから……。
――ソンナコトハ思ッテナイガ。ソレトモ儂ノ顔ニハソウ書イテアルノカナ。
そう言われた男は慌てたように、リックサックから一枚の封筒を取り出してみせる。診断書を入れた封筒だった。
手渡された診断書に組長は目を通す。
――「先天的にして後天的な悪質海馬障害」
と解せない顔をしながら声に出し読む。男から求められたからである。「治癒の見込み欄」に眼を移す。しかし読み上げなかった。そこには「残念」と認められていたのである。
組長から返された診断書を封筒に戻しながら、
――ですから本当は「残念無念」にでもしようかと思ったのですが、その方がぴったりですし……。でもそれではいかにも投げ遣りなので……。
と口籠りながら言う。組長は聞き流した。
――何故ココニ来ルコトニナッタノカナ? 立派ナ身ナリデ、カクシャクトシテオイデデアッタノニ。
もちろん過去形であった。
男の顔が曇る。涙目になっている。
組長は、執りなす。ソンナツモリデ訊いたわけではないのだと。答えたくなければそれで構わないと。
いいえいいんです。気になさらないでください。過去のことを思うとこんな情けない顔になってしまうんです。過去が暗いからでも、辛くて思い出したくもないからでもなく、なにが過去なのか分からなくなってしまうからなんです。
――アマリ思イ詰メナイヨウニ。体ニモ悪イシ。
そうは言ったものの、男の過去にはいろいろありそうだった。
男は言った。
――あのときのこと(「砂掛け」のこと)をお話ししておきたいんです。
どうしてあんなに落ち込んでしまったかを説明しておきたい、そう言うのであった。
たしかに組長は不思議に思っていた。組長だけではなかった。誰もがどうしたんだろうと不思議がっていた。
――組長さんだけにお話ししますから、どうかほかの方たちには黙っていてください。
――安心ナサイ。
組長は請け合う。でもそれがすこし張り切ったような口調になっていたのに思わす苦笑いを浮かべることになる。
男が言うには、同じことをされたからだという。
そうやって、後ろ足でされたんです。蹴られたんです。荒々しく。自分に対してではありません。できればそうしたかったんでしょうが、部屋の扉に対してです。すごい音で閉まりました。毀れるくらいに。でも毀れません。厚い丈夫な扉ですから。
――ナンノ話ナノカナ?
――閉じ込めの話です。
――閉ジ込メノ? 何カ閉ジ込メラレタノデスカ?
――ええ閉じ込められたのです。この自分が。もう二度と表には出さないからねと。
組長は言い方が気になった。。ドウモソノ言い方ダト、女ニデモ閉ジ込メラレタノカナ? と声にならないくらいの呟くような声で訊く。
――そうです。女にです。女に閉じ込められたんです。そして蹴られたんです。
釈明からはいる。誤解しないでください。囲われているわけではありませんから。そんな関係ではありませんから。でも支配されているんです。女の考え次第で、自分などいとも簡単に消されてしまいます、と。
――消サレル?
――ええ。でも消されませんでした。お陰さまで。その代わりがこれです。閉じ込めです。今もこうして閉じ込められているんです。
――でも閉じ込められているのは自分だけですから。皆さんとは関係ないことです。
 ――ワシノ頭デハヨク理解デキソウモナイガ……。
 一身上のことだと思ってあげたが、見込み違いのようだった。組長は渋い顔で男の真意を疑わないわけにはいかない。
 ――でも真実なんです。今もあの時の蹴られた音が、厚い扉が固く締まる音が、耳もとに残っているんです。襲ってくるんです。あの時がそうだったんです。砂掛けです。音と言ってもただの砂です。さらさらした摩擦音です。大したことはありません。だから目に堪えたんです。皆さんの後ろ足が、あの時を思い出させたんです。音を呼び覚ましたんです。
そう言って男は耳もとに手を遣って見せる。耳を塞いだというのだった。
――音を音で消すためだったんです。泣き喚いたのも。
そう言われればえそうだったかもしれないが、本心から泣き喚いていたようにしか見えなかった。
男は言う。これも天罰です。皆さんに酷いことを言い続けてきました。得意になっていたのです。最初は絶望していたのですが、取り方によっては解放されたように思えたからです。女からです。自由を謳歌したかったのかもしれません。それで好い気になって、皆さんに悪態ついて。情けない奴です。この程度の男だったのかと思うと、悲しくて泣きたくなります、と。
組長は男に飲み物を勧めた。一気に飲み干してしまう男にもう一杯勧めた。
――マァ、少シ、落チ着イテ飲ンダラ。
そう言う間に二杯目も飲み干そうとしていた。
涙ぐんでいる。
好キナヨウニサセヨウ。組長はそのまま容れ物を膝もとに置いた。

差し支えなければもう一つだけと言って、男は膝を詰め寄る。「猫だまし」の件だった。
皆の見ている前で消えたはずなのが、振りむくと後ろに立っていた、いまだに目を疑うようなあの一件である。
 それが次に語られた話は、聞かされただけでは、人格者の組長といえども、眉をさらにしかめることになっただろう。あまりに荒唐無稽だったからである。しかし、今回は現実が先行していた。自分の方から聞かせて欲しいくらいだった。
そして、経緯を聞かされて納得する。ほっとする。どおりで気が付かないわけだ。「猫だまし」でも次元が違う。「超猫だまし」だった。否、違う。その超も超えていたのだった。
時空が欠落していたのだった。男が閉じ込められた場所は、圧縮された時空だった。圧縮度を高めるためだったらしい。女が強く足蹴りしたのも。ただそれなら前足で蹴ってもよかったが、あるいはその方が効果があったかもしれないが、そうしなかったのは、「顔も見たくない!」と言われたからだったらしい。
男に言わせれば、公園にいて公園にいないのだった。では部屋にいるかといえば、そうともいえない。断定できるようなことはどこにもない。公園にいるのも部屋にいるのも同じだった。何処にいても同じだった。意識次第だった。明日も明日もなかった。それも意識が決めた。
本当はその意識も失うところだった。それが唯一、意識だけが残る。ミスだった。女は男の記憶を支配していた。奪った。具体的には過去を取り上げた。記憶と意識は一体だった。女はそう思っていた。ミスがあったのは閉じ込めた時だった。子猫が紛れこんでいたのを気がつかずに蹴ってしまったことである。
女が飼っている猫の子だった。遊び盛りだった。気持が高ぶっていて、子猫を部屋から出すのを忘れてしまったのだった。そうではなく一度は外に連れ出したのに、その後も続けられていた二人の言い争いの隙をついて、遊び盛りだった子猫が、女の足元をすり抜けるようにして部屋に潜り込んでしまったのだった。
――デハアノ子ガ?
――そうです。若竹と言います。
竹のようにしなやかだからだった。組長の目にあの時の、幹を一気に駆け上がる子猫の姿が蘇る。
――若竹からは奪えません。時空も意識も記憶も。
そう言ってこう語る。
わたしがいま意識をかろうじて所有していられるのも、若竹がいるからです。若竹によって自分は自分でいられるのです。それでも時空は復元できません。それに自分一人では何もできません。前に進めなければ後下がりもできません。どうも前も後ろもないのです。それも奪われてしまいました。
空間の中と時間の中と、以前なら両者が絡みあって、今の自分と少し前の自分、もっと前の自分、昨日、一昨日、一週間前、一か月前、半年前、一年前、今が夏だとすれば春の自分、冬の自分、去年の秋の自分と、思いだせる限りの自分と繋がっていて、大事なのは、それが今の自分とは違う自分だということです。別の時間、別の空間にいる自分であることです。誰もが疑ったことのない、それが時空間の仕組みです。空気みたいなものです。生きているのと一つのことという意味です。
それが、自分と自分がいつも一つになってしまっているんです。変な気分というよりか、落ち着かないのです。自分と自分がいつも同時にいるのです。それが自己同化なら文句もないのですが、同化ではなく異化なのです。自分による自分の異化作用です。しかもそれと同化してしまっているのです。
まるで始終鏡の前に立たされているようです。しかも普通の鏡のなかの自分ではないのです。写っているのが後ろ向きだからです。それだけではありません。体の大きさのこともあります。いつも同じ大きさです。離れても接近してもです。
でも鏡です。右手を上げると右手を上げます。首をかしげると傾げます。それも落ち着かない原因です。鏡なら自分に終始忠実でなければならないからです。それが一部だけです。すべて忠実としてあるかそうでなければ不忠としてあるか、二者のいずれかであって欲しいのです。だめです、何をしても同じです。かならず一部しか反映しません。
やめさせようと思い鏡の後ろに回りこもうとしました。それができないのです。回りこめません。必ず前に立っているのです。
我慢できずに目を閉じます。効果がありました。鏡から逃れられました。鏡から自分が出てきたのです。でも後ろ向きです。そのままの格好で自分と重なろうとします。入りこみます。でも実感がありません。一体感がありません。どこか他人事です。それでも他人事と感じられる(捉えられる)だけましです。
同じことを何度も繰り返しました。閉じたり開けたりです。そうすれば目を開けているときにもなにか変化があるのではないかと、だめでもなにか違う兆しが感じられるのではないかと。しかし何度繰り返しても同じです。
開けると後ろ向きに写っています。閉じると中に入ってきます。でも両者の間には経過がないです。移行感です。それが欠落しているのです。
なるほどと思いました。感心させられました。時間を奪い取られたとはこういうことだったのかと。自分があって自分がないのです。これまで自分が自分でいられたことに感謝したくなりました。
自分を振り返る、思い起こす、自問自答する、こんな当たり前のことが、いかに大事なことであったのか、感謝に値することだったのか。でもそれが自分で自分に感謝する、それもできません。すべてが奪われたのです。
堪えられなくなり、再び目を閉じます。永遠に閉じていたいと思うようになります。身体だけではなかったのです。閉じ込められたのは。気持もです。自分で自分のなかに閉じこもってしまうのです。仕向けられていたのです。そうなるように。女には分かっていたのです。笑い声が聞こえてくるようでした。
そう言って男は絶望感と向き合って見せる。
その仕草に、ナルホド、と組長は思う。それが、アノ時ノべんちノ上ノ姿ダッタノカ、と。
でも組長は組長で振り返る。そして安堵する。大丈夫ダ、自分ハ自分ヲ振リ返ラレル、と。
若竹に話が戻される。
――足首をなでてくれていたのです。何度も何度も。ときには見上げてくれるんです。
そして、弾むように言う。
――「閉ジコモッテイテハヨクナイネ。外ニデヨウヨ!」と言うのです。
声を掛けられたのだった。そのときからだった、言葉が交わせるようになったのはという。
驚いたのは意志の疎通だけでなかった。それだけではなく、若竹が傍らにいると、前のような実感が戻ってくることだった。そのときは「鏡」の後ろ向きの自分も消えている、一人の自分に戻っている、そういうのだった。
気がつくと公園にいる。ベンチに座っている。一瞬のことだった。扉が開けられたわけでもない。壁を通り抜けたのでもない。同じようにここにも経過というものがない。
そうか、事態は変わっていなかったのだ。圧縮されたままだったのだ。現実を直視しなければならない。
デモ好イジャナイカ、ソレデモ、と言われる。
若竹が言うならそれでいい。男は若竹に任せることにする。でもその若竹から言われてしまう。
――戻ルヨ。ソウシナイト気ガツカレテシマウカラネ。
と。女が、扉越しに子猫の鳴き声を確かめに定期的に来るのだという。
――行かないで。どうすればいいかのか分からないよ、置いておかないでくれよ。
縋るような思いで必至に訴えかけたと言う。
でもつれなく若竹に言われてしまう。男はその声を真似るように言う。
ダメ、と。
 でもまた戻ってきた。それがあの時だった。
――ヒトマズソコマデニシヨウ。
組長は話を止めた。

2016年6月24日金曜日

[ろ]1 ロマン(連載1) 公園の男


男は悲観していた。傷ましさが全身に取り憑いていた。背中を丸めベンチに重く座っていた。へたり込んでいた。永遠にベンチから離れられない感じだった。
ベンチは、ベンチ一つ分を間にして三脚が横並んでいた。男は最初、一番端(公園の入口から見て一番奥側)の一脚の、さらにその端に腰掛けていた。空いた2人分のスペースを荷物が占めていた。数日が経つと真中のベンチに座を占めていた。
 緑の梢が涼しげに男の体の上に影を落としていた。奥まっているけれど、見方によっては公園の一等地だった。すこし気分が回復したようである。知り合いもできたのである。猫だった。でも最初から会話ができたわけではなかった。しばらくはお互いに牽制し合っていた。敵対関係だったかもしれない。原因は男の方にあった。
その間は蟻だった。男の足許に零れおちたパン屑がきっかけだった。
気がつくと蟻が群れていたのである。体の何倍もの餌を移動しようとしていた。男は蟻になる。蟻の一匹になって力を貸す。巣の近くにまで運ぶ。容易いことだった。巣はベンチの鉄脚の内側に造られていたからだった。
いたく感謝される。
――代リニ運ンデ上ゲラレレバ良ノデスガ……。
礼儀正しい蟻たちだった。
――気持ちだけで十分だよ。
今の男にはなによりの元気づけだった。
男は知り合いになれたことを喜んで見せる。座っていたベンチも真中のベンチに移す。男がそこにいたのでは蟻に危険が及ぶからである。
蟻が「代ワリニ」と言ったのは、男の荷物が嵩張っていたからである。男は行商人だった。
なによりも商売道具の荷物が蟻たちの関心を惹いたのだった。といっても中身のことではない。美味しい餌が詰まっているなどと勘繰ったわけではない。自分たちと同じように身体が隠れてしまいそうな大きさだったからである。親しみを覚えたのである。男が声をかける前から仲間のような親密感を抱いていたのである。
男は男で蟻の心がけの良さに心を打たれる。パン屑を用意しようとすると、労働意欲が削がれるので、お気遣いなしにお願しますと言われたからである。
それに対して猫たちにはこう言う。なにもしないでごろごろしている。男にはそう見えたからである。
――これは喰い物ではないからな。爪をたてたり噛みついたりするんじゃないぞ。
この悪態のつきようである。それでも猫たちが男を容れたのは、威張り散らしに子供染みたところがあったからである。ただそれももとを質せば、猫生来の戯れ心によるものだった。ともかくからかうとますます向きになるのである。
ある時、男がながいトイレから戻ると、小鳥が荷物に群がっている。男は目を吊り上げて鳥たちを睨みつける。
実はそれまでにはこういう経緯があったのである。
――ちゃんと番をしておけよ、いいな!
後でまとめて給金を払うから、と言ってしばしば荷物の番を言い付けられたのである。分かったと言って猫たちは荷物の上に座って男の帰りを大人しく待っていたのである。
しかし、どうもただ働きをさせられている感じなのである。それはそれでいい。別に給金が欲しいわけではなかった。でも感謝の言葉ぐらいかけてもらいたかった。それだけだった。
そこで一計を案じて鳥たちに集まってもらったのである。
小鳥たちは、男とは一線を画していた。憎たらし気に見つめてくるからである。でもこれも男の身勝手さである。鳥たちの自由そうな姿が気にくわない。面白く思わない。これも男の子供のような一面を表していたが、それはともかく、猫たちは男が鳥たちを敬遠しているのを知っていてそれを使ったのである。
男を見ても鳥たちは飛び立つ気配を見せない。楽しそうに囀っている。男が近づくにつれ、囀りは一段と高まる。まるで親しい隣人の帰りを待ち侘びていたかのようにである。
――なんだ、お前らは!
何をしているのだとこれ以上にない不機嫌顔で詰問する男に、呼ばれたんだよ、猫ちゃんたちに、と平然と答える。
――なにを頼まれたのだ!
――見テ分カラナイノ?
しかも小首を地面に向けて、下を見ればと誘導される。
促されるように地面に目を向ける。ほとんど足許だった。小さく丸を描いた円のなかに猫が二匹いる。絡み合っている。レスリングだった。
男が腰を屈める。気にする様子もなく取っ組み合いを止めない。
男が文句を言おうとすると、示し合せたように手足を離して二匹して寝ころび、大きく腹を見せて、覗きこんだ男の顔に向けて言う。
――ソンナコトダカラ下手ナ商売シカデキナインダ。
男が一番気にしていることだった。
分かっていて口にしたのである。強ばった顰め面がそこにある。苦々しい顔で睨みつけている。二匹は愉快でたまらない。
――そんなことよりなんだ、こいつらは!
分からないのか、と二匹は口を揃えて言う。鳥と同じことを言われる。
――「ショウーの際中」?
――ソウダヨ、鳥チャンタチハ観戦中ナノ。れすりんぐノ試合ノネ。特設観覧席デネ。
――特設観覧席? なんで俺の荷物がそうなるんだ?
――勘違イシナイデ欲シイナ。大事ナ預カリモノダロウ?
――そうだ。だから契約金(?)も弾んだんだ。なんだ、それが。番もしなければ、勝手に観覧席になんかして!
――観テイテモラッタ方ガヤル気ガデルジャナイ?
男は怒りで肩を震わせている。
――怒ラナイデヨ。違ウヨ。ソンナコトガアル訳ナイダロウ。ソウジャナインダヨ。イザトイウ時ノ予行演習ダヨ。
そう言って、身体を起こすと、ベンチに飛び乗り、男の目線と同じ高さで、
――イロイロ考エテイルンダヨ。
と言うと、両手を顔の間で合わせてみせる。
――モシ万ガ一ノコトガアッタラ、マァソウナラナイコトヲ願ウケド。
そう言ってこう続けたのである。以下は要約である。
お宅さん何をしでかすか分からないからね。鳥ちゃんたちも心配してるんだ。いつも木を見上げてるじゃないか。まるで手頃な枝ぶりを探しているかのように。そうやって虚勢を張っているのも実は危ない印なんだ。いつ切れるんではないかとね。嫌なんだよ。それに困るんだよ。ここでその縊死でもされちゃ。でも万が一のことがあったら、そのときは懇ろに弔ってあげよう、そうみんなで話し合ったんだ。
もう分かるだろう、鳥ちゃんたちがなにをしてるか。分からないのか? 魂を運ぶ演習なんだよ。一番大切なものなんだろう。お宅のこの荷物。魂みたいなものじゃないのかい。もちろん、鳥ちゃんたちでは、その荷物を運ぶのは体力的にムリだ。
でも魂が運べるのは鳥ちゃんたちにしかできないことなんだ。そうだろう。だからいまから霊を身体に容れておこうということになったのさ。足の裏からね。なにが入っているのか知らないが、鳥ちゃんたちの本能なんだろうね、なにか感じるんだそうだ。いままで感じたことがないような。みんな感動してるんだ。だから違うだろう、いつもと。
荷物の上の鳥に顔を向けると、翼を前に合わせて拝んでいる。亡くなった者に対してするような仕草だった。

これにも経緯があったのである。いつだったか男が地面に仰向けになってなにか叫んでいたのである。どうも空に向かって叫んでいるふうなのである。
その時、猫たちはベンチの上から男を覗きこんでいたのだった。ただ寝ころんで叫んでいるだけではなかったからである。腹から胸にかけて大きな荷物を抱えていたのである。抱えているというよりはまるで押しつぶされそうになっている感じだった。それで助けてくれとでも叫んでいるように見えたのである。
助けてあげようか迷ったが、猫たちはお互いに顔を見合わせながら、ムリ・ムリと確かめあい――ともかく男が隠れてしまうほどの大きさだったので――では最期だけでも見取ってあげようということになったのである。
気の早い奴は、もう手を合わせだしたのである。それを見て男は口を極めて呪い事を発する。でもまともな日本語になっていなかった。断末魔のうめき声だった。猫たちの耳にはそうとしか聞こえなかった。
もっと頭数が揃っていれば、なんとかなるかもしれなかった。でも仲間を呼び集める考えにはだれもならなかった。ともかく男の日頃の態度のためだった。自業自得。猫たちの共通した意見だった。
しかし男は根に持ったのである。そして、レスリングの一件である。
堪忍袋の緒が切れたと言って、三台のベンチの回りに杭を打ち長くロープを張ってしまったのである。立ち入り禁止の紙を何枚も垂らして、俺さまの縄張りだと一方的に主著しだしたのである。
ロープを潜ろうとすると、「入るな!」と、汚らしいものを追い払うような手付きで怒鳴りちらすのである。
一日目が経ち、二日目が立ち、ついに一週間が過ぎる。
――なんだその格好は!
男は腹を抱えて笑いこける。猫たちの格好がいたく気に入ったようなのである。
団結。闘争。勝利貫徹。無謀ヲ許サナイゾ! 徹底抗戦。
ねじり鉢巻き上の標語だった。
――だからどうした?
団体交渉に応じようとしない。それどころかさらに横柄なのである。そんなに退いて欲しいなら、分かった、適当に空けてやるから、毎日肩を揉め。肩叩きもだ。それだけでは駄目だ。全身マッサージもだ。それにバック磨きだ。つるつるにな。荷物の番も言われないでもやるんだ。一人では駄目だ。何人もでだ。
――いいな、それが嫌だったら絶対退かない。決裂だ。
そして、馬鹿の一つ覚えのように、決裂、決裂、と繰り返す。そのたびに笑い声をおおきする。
猫たちも退くわけにはいかなかった。睨みあいとなる。闘志を鼓舞するかのように鉢巻きを締め直して見せるものもいる。肩を組み直すものもいる。
――なにか欲しいんだろう。分かった。タダだと言っているわけではない。
堪え切れなくなったのだった。信玄袋から菓子パンを取り出す。
――ひとまずこのパンをやる。特製品だぞ。その辺で売っている安物ではないぞ。お前たちがいままで食べたこともないような。
突き出されたパンは、もう日数も経っていて、味は落ちているはずである。それでも男の言うように見かけは高級そうだった。でも手を出すはずがない。たとえ焼き立てであってもだ。
そうか要らないのかと、舌打ちするように言い捨てると、パンを小さくちぎってまるで鯉に餌をやるかのように放り投げる。猫たちの足元にちぎられたパンが散らばっていく。
――もっと欲しいか! 遣るぞ! もっと遣るぞ!
続けて取り出そうとする。
そのときだった。猫たちはその一瞬を待っていたかのように、一斉に振り返ると、後ろ足で砂をかけてやったのである。パンくずはあっという間に砂に埋もれる。
――サァドウスル!
一匹が小首を巡らせて、同ジコトニナルゾ、サァヤルガイイ、ともう片足を上げている。臨戦態勢である。ほかの猫たちも前足に体を沈め待ち構えている。
それからだった。急転直下、事態は思わぬ方向に動いて、男との意志の疎通がはかれるようになったのである。
なぜなら、それまでの威勢のよさが嘘のように、突然、泣き出したからである。しかも泣きやまないのである。あまりの泣きわめきに、仕方がなく手を差し出すことになる。宥めるためである。泣き止むのを待つわけにはいかなかった。世間体もあった。
握手を求める。分かったからと。もういいからと、ここに居てもいいし、荷物の番も必ずするからと。なにも要らないからと。

それにしてもなんて情けない奴なんだ。公園でたくさんの人間を見できたからなおさらだった。
たいていの人間なら想像がつく。見当もつく。どんな生活を送ってきたのか。ときには過ごしてきた人生までも。家族のことも。家庭のなかの立場も。どのような扱いを受けているのかも。妻や子供たちから。立ち直れるか、このままなのか。それも大抵は、身なりが物語っている。
それが、見事な三つ揃えでなにかの間違いではないかと思わるような出で立ちで公園に何処からともなく現れたのである。狐に包まれた感じだった。猫の研ぎ澄まされた神経からして誰か気づきそうなものを、誰も気づかない。気づいた時にはベンチにいたのである。
それでも一時のことだろう、適当に休息を取ったら立ち去るだろう、まぁこういうこともあるのだろう、と猫たちは、場違いな三つ揃いの立ち寄り人にそれ以上関心を向けなかった。出現がそうなら退去もそうなる、気がついた時には姿が見えなくなっている、消えている、そんなことになるだろう、それに印象もとても薄かったのである。
それがくだんのごとしである。いつまでもその場所を離れないのである。相当の荷物である。重くて動けなくなってしまった感じである。辺りは暗くなっていた。このまま夜を明かすつもりか。仕方ない一晩貸してやるか。そして一夜が過ぎる。男は現れた時のように背中を丸めて座り続けている。陽はもう大分上がっている。立ち去る気配はない。
一体、何者なのか、一流企業のエリートにも見えるし、学校の先生にも見える。役人かもしれない。もしかしたら取締官かもしれない。演技かもしれない。あたらしい公園条例を作ろうとしてそのための下調べ? 実態調査? 一晩を過ごしたのもそのため? そうなのか、ならいずれ我々を一掃するつもりなのか。
しかし、どうもそうではなさそうである。2日目の夜だった。することやることが理解を超えていたからである。妙なのである。尋常でないのである。寝姿である。キャリー・バックの保管法と言い換えた方がいいかもしれない。自分の体との一体化を図っていたのである。滑稽極まりない。最初の夜も、気がつかなかっただけでそうしていたにちがいない。
首に首輪、足に足枷なのである。一個ずつ鎖で繋ぎ、鍵掛けも厳重でナンバー式を2個、計4個である。傍らには背負いのリックサックを密着させ、それはそれで、上下のキャリー・バックと鎖で何重にも繋ぎ、さらにその鎖をベンチに固定する。腰に幾重にも重ねたタオルを置き、頭と足許に置いたキャリー・バックを枕と足乗せにして少し沈み加減に仰向けになる。傍らのリックサックは、ベンチからの落下防止も兼ねる。
別のバスタオルを掛けた腹の下には手錠を嵌めた手がある。どうやら貴重品のようである。手錠で繋いでいるのである。用心深いのもここまでくると見上げたものである。
安心しきって眠りに就いている男の眠顔を拝んでやろうと猫たち近寄る。その時である。金属質な警報音が頭部と足許の二か所で突然鳴りだす。同時に青い光を放射する回転灯が勢いよく回り出す。
――来るだろうと思った。愚か者めが。
そう言って、どうだと言わんばかりに、満足げな笑い声を暗闇に上げたのである。
試運転に利用されたのである。猫たちは引っかきたくなったが、またぞろ鳴りだしてしまう。引き下がるしかなかった。
それがいまはこの泣き喚きである。たかが砂を掛けられたくらいで。まさに子供だった。子供が三つ揃いを極めていたのである。

しかし、男の意気消沈は一日ともたない。翌日のラジオ体操である。早朝から携帯ラジオのスイッチを入れて大音量でラジオ体操を鳴らし出したのである。
うるさいと言うと、好いじゃないか、友達同士じゃないか。いっしょにやろうよ、早く起きなよという。
見ていると、音楽に合わせて大きく体を揺り動かし、一気に屈みこみ、そうかと思うと一気に身体を解いて飛び上がる。体操競技の着地よろしく両脇をしめて手をまっすぐ伸ばし、「よし」と一声上げる。
でたらめである。バタバタ手を振ったり、ぴょんぴょん飛び跳ねたり、子供にも達していない幼児の遊戯だった。
握手なんかするんじゃなかった。悪かった。俺が軽率だった。最初に手を差し出した若猫は、皆と顔を合わせられないと、両耳を固く閉じる。
数日後の朝だった。今朝は特別ラジオ体操だ、皆起きるんだ、見逃してしまうぞ、後悔するぞ、さぁ起きた、起きた、とが鳴り声を立てて起こしまわる。
ラジオ体操第二が始まろうとしていた。バタフライだった。なんだ、それは! つまらなさに憤懣やるかたない。両手で空気を掻き分け、それに合わせて、一歩飛びさらに二歩飛ぶ。
水上バタフライと違うのは、前に飛んだ分を取り戻すかのように、後ろ向きに3回飛ぶ。逆飛である。でもそれだけである。もういい、勝手にやらせておこう、だれもがそう思う。
しかし逆飛び(後ろ飛び)では元の距離を挽回できない。大分足りない。それでも構わず同じ動作を繰り返す。当然ながらその距離はだんだん離れていく。みるみる内に元の位置から遠ざかってしまう。
これはいい。誰からとなく声が上がる。モット飛ベ! モット飛ベ! と。できればこのまま飛んで行って消えてくれと。
一つ飛ぶたびに歓声が上がる。頑張れ! と掛け声が上がる。
猫神さま、悔い改めます。どうか愚かな我等をお導きくださいますように。だれもが信心の篤い猫になっていた。
それが驚いたことに願いが適う。向こう側の木陰に姿を消した男が、そのまま姿を現さない。まさかと互いに顔を見合わせるが、いつまで経っても姿を現さない。本当に消えてしまったのである。まるで神隠しだった。
喜ぶべきことだった。祈りが通じたのである。でも不思議とだれも喜んでいない。それに猫神さまはそのようなことはなされない。人間との豊かな交際に心を砕かれても人の不幸を喜ぶような、ましてや招き寄せるような真似をなされるはずがない。
ともかく心配になっていたのである。知らない間に男に気持が移っていたのである。馬鹿げたことや滑稽なことをやってもどことなく可愛気がある。それに威張り散らしても悪意がない。
なにをやっても一緒のつもりでいる。区別がない。差別心など一欠けらもない。持ち合わせない。自分を猫の一員だとさえ思っている。一緒になって遊びたがっているのもそのためだった。そうだったに違いない。
だれか見行って様子を確かめてこいよ。誰からともなく声が上がる。でも誰も行かない。向こう岸は危険地帯だからである。仕方ないと一人の子猫が大人たちの後ろから前に出て、優柔不断や意気地のなさを詰るかのように一同を睥睨して自分が行こうと申し出る。でも知らない子猫だった。
隣同士で詮索が始まって、その場をまとめなければならない組長が問いかけようとした瞬間、子猫が大きく飛び跳ね宙を舞うようにして幹を一気に駆け上がり、そのまま木陰の中に姿を隠してしまう。一堂呆気にとられて木陰の中に目を凝らすが、一向に子猫の気配はない。小鳥たちが梢から梢へと飛び跳ねているだけである。
――それは「猫だまし」ならぬ、めくらましだな。
猫たちが振りかえるとそこにはスーツに着替えを済ませた男が立っている。なにか悦に入っている。スーツの襟を両指に挿んでこれ見よがしに引き絞めて見せる。いかにも余裕たっぷりといった感じで、振り返ったまま唖然としている猫たちに、「さあ元に戻って」とでも言いたげだった。
男はやはり男のままでしかなかった。してやったりといった感じだった。一時ではあれ心配したことがあほらしくなる。なにが親しみだ。そんなものがあったら、犬でもくれてやれ! ともかく憤懣やるかたない。
というのも次の朝もその次の朝も男は、これ見よがしに同じ真似をして有頂天になっているからである。今度は最初から子猫を登場させる。傍らに座らせている。猫を使って猫を騙す。信義に悖る行いである。
遠巻きに見つめる猫たちを他所に、いつものように消えては――と言ってもバタフライはそれ以来やらないが――思いがけないところから現れて見せる。やはり子猫が同じように幹を一気に駆け上がってそのまま梢のなかに姿をくらませてしまう、その隙を衝いて。分かっていてもつい見てしまう。子猫がトリックだとわかっていても。憎たらしいくらいに可愛い子猫だったからである。
――教えて欲しいのか? 仕掛けを。種明かしとは違うぞ。そんな低俗なもんではないからな。神聖なもんだ。どうだ、知りたいだろう。
踏ん反り返った身体は、支えでもないとそのまま後ろに倒れてしまいそうだった。それだってよかった。倒れても猫たちが支える筈だ。確信に満ちた、そんな顔だった。
でも思いあがりだった。猫たちを甘く見すぎていた。これも生来の浅はさかだった。
よしこの時だ。今だ。待ちに待っていたように猫たちは一斉に駆けだしたのである。男が消えた同じ向こう側の茂みに向かって。
危険は承知だった。領海侵犯だった。でも予め申し入れしてあった。相手方も事情を汲んで今回は黙認する手筈になっていた。安くない代償も払った。それでも男に一泡吹かせてやらなければならなかった。
――馬鹿なやつらが……。
男は笑っている。しかも早くも背後を指差していたのである。そして、こう言おうとしていたのである。同じように現れて見せるつもりかと。できるものならやって見せろと。可笑しくてならないといった感じだった。
猫たちは声を潜めて対岸の茂みから男を見守った。
物音ひとつ立たない向こう側の茂みに向かって、さもありなんと突き出すように胸を張った男は、確信に自信を深めて、今一度勝ち誇ったかのように睥睨してみせると、もうそろそろ現れていなければならない背後の猫たちに向かい、それが不在であることをあらためて確信したかのように、堪えていた笑いを抑えきれず吐き出してしまう。恥ずかしいような品のない大笑だった。
男は過ったのである。早合点が過ぎたのである。あと一、二秒の辛抱でよかった。待てない時間ではなかったはずである。振り向いてからでも良かった。是非そうすべきだった。彼等の不在を実際に自分の目で確かめてからでも遅くなかったのだ。
そうすれば中途半端に間抜けな形を晒さずに済んだ。それが哀れにも半開きの口は、唇を閉じるようには作動せず、痴呆状態を演じさせる方向に唇だけでなく口蓋全体を固定化してしまう。
それにもかかわらずなにかを呟こうとしていたのである。でも声にならない。ぼこぼこ口から泡を吹いている感じである。
――ソウダオ前ダ! オ前ダ! ソコニ居ルノハ!
代わりに言ってくれたのは猫たちだった。それもあの静まり返った対岸からだったのが、男のもとに伝わってくるまでに大きく波調を増幅して、塊のような響きになって襲いかかってくる。
振り向いた男を待っていたのは、たしかに自分だった。自分自身がいたのである。男は男を見たのである。確信していた猫たちの不在状態ではなかった。不在状態を自分が埋めていたのである。
まだ猫たちの勝ちを見せつけられる方がよかった。なかなかやるじゃないか、それで済んだからだ。それなら更に手の込んだ芸を見せてやればいい。競争心が掻き立てられる。望むところだ。
そこにあるのは自分であったとしても、一個の人工物だった。絶命してしまったように硬直した一体の屍だった。生きた屍の自分自身だった。

その時からだった。見るも哀れなほどに男が憔悴していったのは。ラジオ体操も取り止めになる。もはや動くこともままならず、肩を落としてベンチに座り込む。茫然としている。
それでも夜の自己警備だけはなんとか続けている。しかし朝になっても鎖を外すのも忘れている。ネクタイのように鎖が垂れ下がっている。その姿は、まるで鎖に繋がれた動物のようだった。
実際、飼うことになる。話し合ったのである。このままここで死なれたら困る、だからと組長は自分たちで飼うべきか皆に諮ったのだった。
放っておこうという意見も少なくなかったが――その場合は懇ろに弔ってやれば清められるだろう、それに魂は鳥たちが運んでくれるんだから、と。
それでも最終的には飼うことに意見が傾いた。やはり神聖なこの場所を人間の死で汚すのだけは避けなければならなかった。顧問も同意する。
その顧問も最初は思案していた。「見返り自身」の秘儀――化け猫の奥義の一つ――を若い猫たちに授けたのは自分だったからだ。予想外だったのである。男の憔悴振りが。鼻を圧し折ってやればそれで十分だった。それが生命的危機をもたらしかねないほどに男を追い詰めてしまう。自分には賛否を云々する資格はない、皆で決めて欲しいと。
それでも顧問の一言なしに物事は進まない。しかも重大事項となると。ぜひ顧問のご意見をお聞かせください。それならと顧問は言う。
――飼ッテ上ゲヨウ。
ただ「飼ウ」ではなく「保護」としてもらいたいと。さらに無理でなければ――プライドが許すならと言う。
――男ニハ自分タチガ飼ワレテイルヨウニ思ワセテオイテ上ゲタイ。ダメダロウカ? 
一匹が発言を求める。それではまた図に乗って横柄になるのではと。インテリの白黒の斑猫だった。
――心配ハ当然。デモソレハナイハズ。
顧問はきっぱりと言った。理由は述べなかった。白黒の斑も訊き返さなかった。だれもが顧問のことを信頼していたからである。そう言われるのならそうなのだろう。心配することはないと。
たしかに顧問の言うとおりだった。自分たちが飼われている振りをしても男はそんな素振りはまるで見せない。逆である。まるで飼って欲しいと言うかのようである。
呼びかけもいまや「さん」づけである。一方で自分のことは「君」でも「お前」でもいいと。飼われているのは自分だと決めつけている。そうして欲しいというふうなのであった。
                               (つづく)