2013年4月12日金曜日

[し]「島」~神女たちの島・久高島~

[し] はじめに 島国に始まって島国に終わる。それが日本である。グローバル化が叫ばれても「島国日本」である。日本を島国から解放するはずのメディア論のなかでさえも指摘している。曰く、「日本のメディア(マスメディアに限らず、ネット・メディア)も、90年代より閉鎖的」であると。2011年刊行本のなかの一節である。閉鎖的と島国とが直結するわけではない。また、著者の意図もナショナリズム化への警戒にあったのかもしれないが、「島国」という生態的なフレームは、「ネット・メディア」のそれであるとも読めたのである。この最先端ともいうべき学門を前にして考えさせられたのが、「神の島」と呼ばれる久高島のことだった。具体的には、その「島」体験と体験の意味だった。


 訪問の契機 今年(2013年)2月後半、久高島を訪れた。前日には世界遺産でもある斎場御獄(せーふぁうたき)の三庫理(サングーイ)から正面に久高島を見た。自然に組み合わさった大岩の三角形の狭い隙間を潜り、潜り抜けた拝所から先に見えるのが、海面に貼り付いたように浮かぶ久高島である。因みに斎場御獄は琉球開闢神話にも登場する琉球王国で最重要視されていた聖地(御獄)であるが、沖縄(琉球)にとって聖なる方位の東に向けて、首里府から遠く離れた地に大岩潜りの遥拝所を設けているのは、その先に琉球のクニ創りの本となった神の島・久高島が眼前に浮かぶからである。17世紀以降、琉球国王は、聞得大君(最高神職者)を伴って、同拝所から久高島を遥拝するのである(それ以前では直接参詣)。
 久高島に本格的に強く惹かれたきっかけは、一人の写真家を特集した「日曜美術館」(Eテレ)だった。「沖縄 母たちの神―写真家・比嘉康雄のメッセージ―」(20101212日放送)がそれであった。強烈な白黒写真の世界だった。2000年に61歳で亡くなった沖縄の写真家である。沖縄県立博物館・美術館の美術館側で開かれた回顧展を、写真家の再評価に焦点を当てながら、日本の源郷を問う形で取上げた番組であった。
白黒写真の世界を貫くのは、沖縄の歴史の矛盾を人生の転機とした写真家の、自分自身を蔽っていた陰影でもあり内声でもあった。フィリッピンで生まれ(1938年)、敗戦後に沖縄に引き上げてきた比嘉康雄は、高校卒業後、嘉手納警察署に10年間勤務するが、民衆デモに対峙しなければならなったような自己矛盾を抱えなら、終にB52爆撃機の墜落事故に遭遇したのを機に警察官を辞職する。退職後、鑑識業務で覚えた写真技術を生かすべく東京写真専門学校に学ぶ。同時に広範な写真活動を開始し、1971年に「生まれ島沖縄」展を開催して以来、沖縄(琉球列島)の古層を撮り続け、多くの写真集を刊行する。同時にここで取り上げる久高島に関する貴重な著書を残す。
なかでも久高島は、彼が追い求めた沖縄の古層の根幹をなすものであった。白装束に身をやつした島の女性たちによって顕現された厳かな祭列や祭祀のなかの神舞。背後の森や空・海との間に浮かぶ神女たちの陰影。その陰影は、まさしく神々の世界を生きている人々が、その精神を今に繋げていることの証でもあり、その写真の数々だった。ならば写真のなかに写しだされていた「精神」とは何であったのか。写真家が魅せられた魂の原郷とはなんであったのか。その思いは、さらにそれ以前、同じ「日曜美術館」(20071月)で取り上げられていた沖縄の陶芸家國吉清尚を、普通なら結びつかない組み合わせのなかで不思議と回想させるものであった。おそらくそれは、國吉のなかにある魂の原郷が呼びかけるものであり、その声から連想するものであったにちがいない。
炎の陶芸家として遂には自らの身体を作品として自死せしめるほどの、彼にとって「原郷」であったもの。それはなんであったのか。彼は灯油を被って自らを焼いた。時に55歳。1999年のことである。おそらくそれは、彼が追い求めた沖縄の土の世界が行き着く、辿り着いてはいけない一つの結論であった。釉薬に拠らない焼き締め陶が創る土肌の自然美に、彼は、「源」を見た。自身を捉えた「(土の)美」は、そのまま生命でもあり、その生命を焼くことなしには完結することのなかった魂でもあった。しかし、この懼れるべき生存形態が、沖縄(琉球列島)の原郷からもたらされる魂の「動(あるいは激)」であったとしたなら、写真家比嘉康雄によって写し出された(捉えられた)神女である久高島の女性(カミンチユ)は、まさにその「静(あるいは鎮)」の存在形態であった。
 
「海峡」渡航 朝一番の船で渡った。対岸の知念岬の一角に築かれた安座真(あざま)港と久高島徳仁(トウクウジン)湾を結ぶ高速船である。渡航時間20分。船体に打ちつける波の衝撃音は、予想以上に攻撃的であった。船の速度の所為だけではなさそうである。それ以上に波の力が強いのである。比嘉康雄が最初に渡った頃(1975年)は、まだ安座真港から連絡船は出ておらず、より時間のかかる馬天港からであった。小1時間を要したという。そのためにさらに高く強い波を体験しなければならなった。本島知念岬とは目と鼻の先にありながらも、実は本島と久高島との間には海底に深い溝が延びており、海峡的な速い流れになっていたのであった。比嘉は、その時(最初の渡海時)の乗船体験を次のように記している。

  久高島と沖縄本島のあいだには深い溝があり、そこは海流が速く、とくに冬期には波が荒くなるが、そのときも小山のような大波がうねっていた。船が波のあいだに入ると、波頭が頭上に見える。船が沈んでしまうのではないかと船べりにしがみつき、たまらず見上げると、船長は表情一つ変えず平然としている。大きい波をいくつも越え、大ゆれにやっとの思いで久高島に着いたときには船酔いのふらふら状態であった。渡海は小一時間であったが、時化の海をやってきたせいか、なんだか、遠いところにきたという気がした。
   比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年、123

 船酔いこそしなかったが、揺られたことで「遠いところへきた気がした」との思いは、高速船でも実感される。この深い溝は、海上の波の高さや強さを生むだけではなかった。島の地形とそれによる人々の心の中につくられた方位感のおおもとになるものでもあった。「海峡」による激しい波よって島の西側(本島側)に断崖を延ばしているからである。白浜をつくり、その先にサンゴ礁の礁湖(イノー)を広げる東側海岸とは別世界のこの景観には、島が小さいだけに同じ島とは思えない、隣り合わせの両極性の展開を見せられる思いであった。もし、両者の地形が逆であったとしたなら、はたして「神の島」が創成されていたかさえ疑問である。しかし、島はまさしく神の島であった。しかもそれが小さな島の、特別な仕掛のない時空間のなかに成立していた。驚くべきことは、この無為の自然な姿(島の生活)にもあった。

 久高島の概況 久高島は、沖縄本島の知念岬から約5kmの東海上に浮かぶ隆起珊瑚礁によって形成された、島の面積も1.38k㎡にすぎない小島である。海岸線の総延長は8km足らずで、歩いても3時間程度で一周できてしまう。南北長4km弱、東西幅は最大でも0.6kmほどの細長い島で、標高も17m程度である。起伏はほとんどなく、島の北端から南端までほぼ平坦である。それでも南端の集落域や、それに続く畠地から先の島の大半を占める北側は、樹高の高低差の異なる三階層の風衝植物群落(「久高島カベールの植物群落」県天然記念物)に厚く被われていて、景観は単調でない。島の人口は、平成17年国勢調査時で295人/125世帯数を数え、昭和45年時のそれ(424人/112世帯)と比べると、3割減少している。逆に世帯数では増加に転じている。
地表面は、島尻(しまじり)マージと呼ばれる赤土で薄く被われていて、島中央の「内陸地」には畠が広がっているが、石灰岩が地表に貌を出していて深耕には向かない。また保水性に乏しい陸地には井戸が設けられず、かつては西海岸の崖下まで降りて、石灰岩から染み出してくる雨水を汲んで生活用水に利用していた。島で「井(ガー)」と呼ばれる天然湧水場(水場)である。古からの祭祀用の潔斎場でもあった。
 もう少しだけ島の様子を記しておく。人家は、島の南寄りに偏っており、かつ密集している。沖縄特有の低い棟造りの住宅を、風除けの石灰岩の石垣と屋敷林のフグイが取り囲んでいる。人家以外の公共施設には、小さな郵便局と公民館、久高島離島綜合センター(ただし常駐者がいるか不明)、幼稚園が1園、小学校と中学校が一つになった学校が1校ほかは、来島医師による不定期開院と思われる簡易診療所がある。従来にない建物に近年開館した2階建てのモダンな「久高島宿泊交流館」があるが、素泊まり施設である。スーパー・コンビミの類は(もちろん)なく、3軒の小さなお店があるのみである。食堂はある。交通機関はない。見学は、徒歩か貸自転車であるが、車(普通車)を使った有料の島体験ガイドが行なわれている模様である。因みに、団体客や旅行会社の募集型ツアーはお断り、と案内されている(「NPO法人久高島振興会」HP*)。港湾施設には、本島との連絡港である徳仁港とは別に西海岸の南端に魚港(久高漁港)がある。
島の歴史や祭祀のことを何も知らなければ、俗化していない、素朴な生活感に溢れる静かで長閑な島で終わってしまう。しかし、この島を訪れる人(あえて訪れる人と言い直すべきかもしれないが)は、誰でもここが神の島であることを知っている。なかでもイザイホーの祭が行なわれる島として知悉している。12年に一度行なわれる神女式である。琉球王府が定めた祭祀組織(ノロ制度)に起源があるが、神女(ノロ)の原型はさらに古代に遡ると考えられている。
45日間かけて島総出で行なわれる大がかりな祭祀である。1978年を最後に以後途絶えている。次の1990年段階に神女式の対象となる3041歳の女性が不在であったこと、祭を構成する司祭者に欠員が生じたことなど、複合的な要因が重なったためである。現在では関係図書と記録写真・映画でしか概要を知ることができない。本執筆者もそうした「情報」を介して島を訪れた一人である。
*「貴重な自然が残り、聖域であり生活の場でもある久高島を守る為に、大人数でのガイドはお断りさせて頂く事があります。特に、旅行社等による募集型ツアーの予約はご遠慮下さい。」が正式な案内文(部分)である。
 
 集落内巡(うちめぐ)り 徳仁港を降りて少し上がると、久高島海運事務所の船待合い所があり、自転車が借りられる。同時に手渡された1枚の手作り地図(A4版両面)を片手にまず集落に自転車を漕ぎ出していく。港から見て最も奥側(北側)に一連の祭祀空間が設けられている。始祖にまつわる家々も同様に北側にまとまっている。スタートし出した頃は見通しも利いていた進行方向も、人家の密集した集落の中央部に入ると、入り組んだ道と人家を取り囲んだ石垣で先も思うように見通せなくなる。
迷いながらも辿り着いたそこは、まず集落の二つの重要な祭祀殿の一つ「外間殿(ウプグイ)」であった。祭祀殿(祭祀場)は、「殿」(外間殿(フカマトゥン))と「庭」(ミヤ)からなり、殿の脇には相並ぶように一回り小さい建物が建っている。三山時代(1322年頃~1429年)の一国である中山の英祖王統五代西威王(推定1336年-1349年)の産屋跡と言い伝えられている建物である。殿の中には久高島にとって重要な神々(天の神、太陽神、月の神、竜宮神(海の神)、国造りの神(アマミキヨ神)、穀物の神など)が祀られ、また「大香炉(ミウプグイミンナカ)」が納められている。祖霊と結びつく各家単位の「香炉」の大本となる香炉である。
 外間殿を後にして次の祭祀場に向かう。「久高殿(ウドゥミャー)」である。見通しが利きさえすれば、指呼の間である。ここはイザイホーの主祭祀場である。外間殿と同じように殿と庭からなるが、建物の性格は異なる。まず棟数が異なっていて三棟構成を採っている。一列上に並んでいるが、性格上は向かって左側の一棟と右側の二棟に別れる。左側の一棟は、「バンカンヤー」と呼ばれるイラブー(海蛇。ただし「イラブーウナギ」とも呼ばれる)の燻製小屋である。したがってイザイホーとは直接関係しない。しかし、久高殿を管掌する祭祀家(ノロ家)の権威を象徴する小屋であり、その意味において祭祀場の付属的な小屋と言える。配列上も右二棟とは間がすこし離れて建てられている。
主棟となる右二棟は、共に「宮」であるが、性格はそれぞれ異なる。右端の一棟は、祭祀家(久高ノロ家)で主宰する宮(「シラタル宮」:島の人創りの神)であるが、中央の宮は、イザイホーの祭に占有的な空間となる「神の宮(ハンアシヤギ)」である。現世と他界の中間に位置する宮である。イザイホーの際、宮の裏側に特設される「七ツ屋」と呼ばれる仮小屋がある。この「七ツ屋」を他界として、現世と化している「庭」とを繋ぐ建物(「宮」)である。越境時の時空間を囲い込んだ建物として機能している。神女式に臨む3041歳の女性たちは、この「神の宮(ハンアシヤギ)」への出入りを七度繰り返した後、「七ツ屋」に三夜籠って、祖母霊(ウプテイジン)を体内に容れ、合体して新たに神女となるのである。七度の出入りをはじめ、各場面は極めて厳粛であるが、時にドラマチックかつダイナミックである。この祭の絶対性や超越性をさらに際立たせている。

 ノロ制度と久高島 ところで、なぜ密集した小さな集落空間に二つの祭祀場が設けられているかということ――これには、琉球の歴史が関係している。琉球王国の黄金時代を築いた第二尚氏王統第三代の尚真王(14651527年) による宗教改革(祭政一致政策)の一環として布かれたノロ制度にはじまるからである。ノロ制度とは、首里府の「聞得大君(きこえのおおきみ)」(王妹、後には王妻)を最高位として、その下に高級神女の「三十三君」を置き、さらにその下に支配下の各「間切(マギリ)」(町村)や島々に「ノロ」(沖縄・奄美)、「司」(ツカサ)(宮古・八重島)を置いた神女の階梯的組織である。「ノロ」(及び「司」)」は、土地を給付された官人女性神職であった。久高島では、この琉球王府の定めに応ずる形で、島の血族関係を代表する二家(外間家、久高家)から外間家を公のノロ(「公事ノロ」)とし、久高家を島内の非公式ノロ(「シマノロ」)とした。前者が外間根家(フカマニーヤー)、後者がタルガナー家と呼ばれる島の元屋となる二家である。両ノロ家には「殿」が設けられる。それがシマレベルの祭祀場として現在に至る「外間殿」及び「久高殿」である。
 なお、島では草分けの家(ムトゥ(元屋))を中心に親族組織が派生的に形成され、さらに祭祀組織のそれとしているが、この「ムトゥ」は、古(フル)ムトゥと中(ナカ)ムトゥに分かれる。前者は島の大本となったムトゥである。八家からなり、同家をもとにして後者中ムトゥが析出されていく。一八家を数える。なお古ムトゥ八家中には、上記の二ノロ家以上に古い伝承を有する島最古のムトゥである大里家(ウプラトゥ)があり、場所も御嶽のイザイヤマを背にするようにして集落の最北(最上手)を占めている。現在、無住であるが、建物は島の人々によって管理され、同家の祖霊神(=島の祖霊神)である五穀伝来神話の神*が祀られている(見学も可能である)。この大里家**をはじめ各古ムトゥは、長い年月の内に多くは家系が途絶え、現在(2000年段階の記録で)残るのは、外間殿を傍らにした外間根家のみである。したがって、ノロ家としての伝統もそれぞれ中ムトゥに属する外間ノロ家、久高ノロ家に受け継がれ、同家を中心にしてシマレベルの祭が遂行されている。その両ノロ家も、今や、時代によってもたらされた深刻な継承問題に晒されている模様である。
* 島に五穀を齎したアカツミー(男)とシマリバー(女)の伝説的(神話的)二人である。二人は大里家の住人であったという。
** 大里家には島で最古の家に相応しいノロ制度を遡る伝承が遺され、島全体で共有されている。琉球王朝第一尚氏王統の最後の王、第7代尚徳王(144469年)が久高島を参詣した帰り、島の娘クゥンチャサンヌルと恋に落ちたという言い伝えである。娘との別れを惜しみしばらく島に留まった王は、やがて城内で起こった革命を帰船中で教えられると、悲嘆の余り海に身を投じてしまうが、それを知った娘もまた悲しみのあまり命を断ってしまう。いかにもありそうな「伝説」であるが、比嘉康雄の解釈は一歩踏み込んだ史的解釈を見せており、単なる伝説に終わらせていない(比嘉・上掲書11820頁)。
 
すなわち、ノロに遡る「ヌル」と同時代の神女(超能力者=シャーマン)の役割(特に戦の際に発揮される敵方の戦意喪失を導きだす神力など)に注目して、クゥンチャサンヌルも神力を備えた女性ではなかったかと解釈したのである。クゥンチャサンヌルは、したがって、綴り方を再分解するとヌル・クゥンチャサン(神女・クゥンチャサン)となるが、クゥンチャサンとは国司の意で、クゥンチャサンヌルとは、まさしく「国司ヌル」のことであると説く。そして国司ヌルである娘は、大里家の娘で、現在も同家(同時に島全体)で祀られている。いずれにしても、この「伝説」にその一端が窺われるように、琉球国王の歴代の参詣場所であった久高島と女性の宗教的関係は、濃密かつ深遠である。

ヤマ入り さらに集落内の要所々々を辿りながら一巡した後、集落を離れ、島の北東先端に突き出たカベール岬に向けて、島の「ヤマ」に分け入っていく。景観は一変する。標高にさしたる差はないのに、不思議と高いところにやって来た気にさせられる。中を窺うこともできないほどに植物群落が密生している。あるいは、植物群落が深めた(高めた)孤立感によるものであったかもしれないが、おそらくそれ以上に、御嶽(うたき)の存在感によるものであったのだろう。御嶽「巡礼」を前にした気持の高まりである。気持によって近くも遠くも感じることは日常的で、とり立てて論う必要もないかもしれないが、このように高さだけを足許に感じる感覚は稀である。比嘉康雄の写真の力も遠因をなしていたに違いない。
すこし進むと、今度は大きく切り拓かれた原と畠が広がる。視界の先も四周も植物群落で遮られている。その先は海だと分かっていても、今は土地(「内陸」)の広がりしか目に入ってこない。今度は目線である。高さの次には目路が試されていたのである。
不意を衝いたこの広がりも、しかし、意図的につくり出されていたわけではない。潮風に晒されないためには、耕作地はここに開くしかない。一般的に言って、人の住む処には、土地条件に応じた自然との関わり方があり、それに伴って個別の景観を広げている。それが、時には予知しえない立ち現れ方をとる。それ相応の驚きも伴われる。随所で味わうことである。でもそうした際の驚きとは内容が違うのである。とくに変った景観ではないからである。むしろ「凡庸」でさえある。にもかかわらず、実際以上の広大感が伴う。それが、個別の地上感にも繋がっている。
やはりカミを感じるからなのであろうか。しかし、霊感によるものではない。霊感は強くないし、無いと言ってもいいくらいである。したがって、肌(肌合い)で感じるカミではなく、頭で感じるカミであった。どこが違うのかと問われると、明確には答え切れないが、一度だけ似たような体験がある。出雲だった。感じ方は違っていたが、肌ではなく頭で感じるという感得の仕方(フレーム)では同じだった。その再体験だった気がしたのである。その時も実は別の「比嘉康雄」がいた。引率してもらったのである。その所為だったかもしれないが、相乗効果だったに違いない。
それはともかく、「内陸」を進む。畠の奥に設けられた拝所がある。「ハタス」である。上掲大里家が祀る伝説の二人、アカツミー(男)とシマリバー(女)によってもたらされた五穀の種は、ここに植えられたという。また五穀が入っていた壺も同時に埋められたという。シマリバーの助言でアカツミーが浜(東海岸の伊敷浜(イシキハマ))に流れ着いたのを拾い上げた壺である。最初はなかなか拾い上げられなかった壺である。シマリバーが授けた助言は、身を清めて白衣を纏えばよいというものであった。果たせるかな、それまで容易に手で触ることもできなかった壺(白い壺)は、壺の方からアカツミーの白衣の袖に流れ込むように入ってきたのであった。中には五穀の種が入っており、ハタスに植えられ種は、やがて島に広がったのである。

 ナグルガー その潔斎場が次のナグルガーである。西海岸の岩場の下に設けられた「井」(ガー)である。断崖状である。階段が設けられている。手すりを頼りに下り立つと、背後には岩に打ち寄せる荒い波が砕け散っている。浸み出した雨水が石灰岩の隙間に溜っている。潔斎時にはここで身を清めるのである。今に続く潔斎場である。先細りになった岩の空間の先は、人一人がやっと膝をつけるだけの幅しか残っていないが、却って潔斎場の臨場感を高めている。しかも背後には荒々しく打ち寄せる波音である。潔斎者の心に轟き渡る他界の音である。いやが上にも身が清まっていく思いが高まることになる。
それにしても背後に砕け散る波とその強い波音は、断崖状の西海岸がつくる、現生からの孤絶感を高め、その先に浮かぶ本島との距離感までも実際以上に遠いものにしている。まさしく、死者の崖である。葬られた死者(風葬)が、この島を離れる際の方位(最初の方位)に相応しい断崖を海面上に延ばしている。

 フボー御嶽 ナグルガーから地上に戻り、北に500mばかり進むと、そこがフボー御嶽である。久高島最高の聖域であり、琉球七御獄の最高位として篤く信仰されている。琉球国王が聞得大君を伴って参拝する聖地でもあった。なお、対岸知念岬の世界遺産に指定されている斎場御獄(せーふぁうたき)内に設置されている遥拝所は、冒頭に記したように国王や聞得大君の従来の直接参詣に替わる遥拝所(代替遥拝所)であった。波の荒い「海峡」渡海に危険が伴っていたからである。いずれにしても東方を聖方位とする琉球神話にとって、久高島は琉球のはじまりの地(創世地)であり、なかでも太陽の神と一体的なフボー御獄は特別な聖地であった。
 しかし、大和の国ならば伊勢神宮ともいうべきその場所は、ただ樹高10mほどの聖樹ビロウ(クバ)や、その下層で縫うように枝を伸ばしたアデン、さらには最下層に密生した下草類などの緑の濃い亜熱帯植物群で被われた、切れ目のない一続きの森の一画でしかない。結界を示すような宗教的な地上標識は一切ない。そこに説明板と立入禁止の立て看板が設置されていなければ、場所を特定することはほとんど不可能である。しかし、一切の進入を認めないとする「立て看板*」を目にしたとき、「警告」を前に此処が絶対に冒されてはならない聖域であることを厳しく受け止めることになる。
厳粛な面持ちで立て看板の脇に立て並べられた、見取図付きのフボー御獄の説明板の前に立つ。それでもあらためて特定の範囲を囲った場所ではないことが再確認される。磐座もない。小さな手の平大の依代の石(イビ)が円座の最奥に置かれているだけである。それ以外にはなにもない森の中に円形にぽっかりと空いただけの空間である。森の内側の一か所でしかない。やはりこの局面でも、比嘉康雄の写真が力を発揮することになる。あらかじめ、円形に居並んだ神女(タマガエー)の姿を写真に知っていたからである。見えないその先にも確かな「聖域」を感じることがきる比嘉写真の力(神力)であった。しかも、白衣を際立たせる強い陰影の効いた白黒写真だった。深まりゆく奥行きであった。その眼前に立っていたのである。
沖縄最高位の聖域は、かく島の日常的な自然風景と同居し、同時に日常性の奥に深く引き籠って、「何人たり」との同居を厳しく拒んでいた。許されるのはイザイホーで神女となった30歳以上70歳までの島の女性=神女(神人)(70歳を迎えると退任。退任式はこのフボー御獄のなかで執り行われる)たちだけである。
* 立て看板の文面(表題は「ご協力ください」)は、以下のとおりである。
「久高島フボー御獄は、神世の昔から琉球王府と久高島の人々が大事に守ってきた聖地です。神々への感謝の心と人々の安寧を願う場所であるため、何人(なんぴと)たりとも出入りを禁じます。
                    久高神人・久高区長・島民一同/沖縄県南城市教育委員会」

島の祭祀 年間40回を超える年中行事(祭祀)を執り行う久高島であるが、フボー御嶽で行なわれる祭は、島全体にとって重要な祭祀で占められている。その一つ、「ハンサァナシー」の様子が比嘉康雄によって詳細に記されている(比嘉・上掲書16569頁)。フボー御嶽と神女との関係を具に教えてくれる内容である。同著の記述を大まかに辿ってみよう。
 ハンサァナシーは、年に2回(旧暦4月と9月)行なわれる、あの世から島にやってくる神々の祭である。来臨した神々によって島は祓い清められ、人々には平安が齎らされる。アカハンザァハシー(太陽の色彩を反映した「アカ」を冠にした「明るい神様」の意)と呼ばれる来訪神は、「ムトゥ(草分け家・注)に帰属する神々で、各ムトゥの始祖的神格」であり、祭祀に現人神として顕れて子孫と会うことになる。特別なイザイホーを別にすれば、年中行事でももっとも大きなものの一つで、祭には4日間(準備、迎え、顕現、送り)を要する。1日目の準備(神饌と祭場の準備)を経て、2日目には新任神女を除く全神女がフボー御嶽に赴く。すでに来着してフボー御獄に留まっている来訪神に集落へのお出ましを要請するためである。同要請儀式をンチャメーヌフェ(「神の御前に礼拝する」の意)と呼ばれる。3日目の朝、いよいよ神々の集落来臨である。以下は比嘉康雄の記述を引く。

  3日目にいよいよ神々の顕現がある。午前34時ごろの暗い中で、各ムトゥの神職者はホーイホーイ(神の掛け声・注)の声を発しながらムトゥを出て久高ノロ家に集合したあと、またホーイホーイを連呼しながらフボー御嶽へ行く。フボー御嶽に到着すると、雑事役(ソージャク)が持参した神衣(ウブジン)(彩色神衣・注)を着る。この神衣着装の時点で、あの世の神々アカハンザァハシーがそれぞれの依代となる神職者に憑依合体する。つまり神職者は、各ムトゥの始祖的神格の現人神になる。(改行)フボー御嶽で神歌(テイルル)を歌って円舞した後は、ホーイホーイを連呼して集落に向かう。時刻はまだ夜明け前である。(改行)集落のはずれでは、白装束の神女たちがあの世の神々の一行を出迎え、あの世の神々は神女たちに伴われて外間殿(フカマトウン)の祭場に登場する。

 取材時(1976年)段階でのあの世の神々は、最高神の「東り大主(アガリウブヌシ)」以下4神であったが、戦前では20数神で構成されていたようである。彩色神衣に包まれてホーイホーイを連呼しながら集落を目指すその様(行列の姿)は、まさに壮観の一語だったいう。
 外間殿に到着した神々は、神女が奏でる神歌と円舞のなかで、「東り大主」(女神)の命で各神々が順次神事を行ない、その後、神女に先導されて集落の祓いに赴く。最初は港のお祓いである。ユウラハ浜である。浜での祓いを終えると、今度は二手に別れて集落を練り歩き、集落内を祓い清める。再び外間殿に合流してその日の行事を終える。あの世の神々は、夜、子孫の各々のムトゥに滞留する。同じムトゥに帰属する同族の人々は、始祖神に会うために各ムトゥを訪問し、礼拝する。4日目に神々を送る儀式が外間殿で行なわれ、祭は終了する。

 久高島の神女 すなわち、フボー御嶽とは、あの世から神船で島に来訪した神々の来臨の場であるとともに、神女と神々との身体化(現人神化)が実演・実行される場であった。写真集に「主婦が神になる刻」の題名(副題)がつけられた比嘉康雄の久高島祭祀の写真集(比嘉康雄『神々の古層』⑤、1990年)があるが、まさしく「神になる」の位相は、ただ事ではなく、本土のなしえる域(集落・在町等で執り行われる祭祀の域)をはるかに超えている。次元の違いを痛感するばかりである。
イザイホーを経て神女となった久高島の女性たちは、役割は多様ながら神々と生きる一年を毎日の如く過ごし、70歳で退任するまでの間、神女の日々を再生し続けるのである。生涯が神の中にある、あるいは神のなかに生涯があると言える。しかも驚異的なのは、それが日常生活のなかに平然と同居していることである。
主婦の字義が、一家の主人の婦(妻)であるとしたなら、久高島の神女の世界のなかでは、こう説く辞書は通じない。主(あるじ)たる婦(女)の意味の主婦と読み替えなければならないからである。「根人(ニーチュ)」なるクニガミに列される男性神職者(ノロ家の男性)ほかが存在していても、男性神職者は、終始祭の外で補佐的な役割しか果たさない。神職役を含む久高島の男にとって、補佐的あるいは客体的な立場にしか置かれていないことも、「事」が次元的に創世的なことであるかぎりは、生業的な夫婦間の役割分担を超えた、生得的な範疇に属することであった。受け容れる受け容れられない以前のことである。それにこの島は、ア・プリオリに「女が男を守るクニ」(比嘉康雄、1989年写真集の副題)なのである。人の「知」が生まれる以前に由来する決まり事である。まさに神意に外ならなかった。
祭祀の外縁に置かれ、精神面で生得的に女(神女)に守られなければならないからと言え、島の男たちは海人(ウミンチュ)として独立的な人格を有している。当然男権も有している。しかし、久高島の神女とは、言ってみれば男権を含めた「人権」に超越する存在である。卑俗に釈とられたら話は進まないし、止まってしまうが、今の日本に知らない「人格関係」なのである。この関係を含みこんだ久高島によって繰り広げられてきた時空間がある。かつ永く在った。その世界観と事実が、任意の小島のなかで、小島の範囲内で繰り広げられていたことに立ち往生した――これが今回の久高島体験であった。

「島」哲学 執筆者は、日本を代表する盆地の一つで生まれ育った。正確にはその盆地の周辺の丘陵地帯で。四周を明確な「限り」が取り巻いていた。しかも高い山々は峻厳でその先に他空間さえ感じさせないような独立性を保っていた。それかあらぬか盆地は内向きで、それがために無意識に閉鎖的な気風が育まれていた。今もそうかもしれない。
しかし、これは生れ故郷に限ったことではない。おそらく、列島各地(北海道を除く)は内向きである。外部に対してだけではない。内部に対してでもある。それが長い歴史的時間をかけて日本がつくりだした精神体系である。それがないのである。ないのが当たり前の時空間が、しかも特別の地貌を備えていない普通の自然と同居しているのである。峻厳な山岳も神秘の湖も激越の瀑布もないなかでの事態である。
特徴的なのは、綺麗な海に取り囲まれた小島だということだけである。しかし繰り返せば、その水準にしても他を差別化できるほどに特別なわけではない。むしろ、琉球弧における碧い海の水準では平均的である。それに沖縄本島から56キロ先程度の地理的条件では絶海性の意識も育たない。本島周辺の小島でしかない。島外だけでなく島内に育まれた地理的感覚でもあったはずである。その条件下で創りだされた、本土的な「限り」とは縁遠い精神世界が、今に引き継がれていたのである。「限り」の民俗とは異なる時空間を創成したのは、一義的にはカミ(祖霊神を含む)と共ある精神体系であるのかもしれない。でもそれだけだろうか。「島」であったことは関係していないのだろうか。この思い(「島」哲学)に再び立ち止まるのである。

「民俗」世界 晒されていたのである。たしかに視界を遮るものはなにもない。山も丘もない。山間や丘陵の谷あいに住む人々(「常民」)の民俗から見れば、耐えがたいほどの剥き出し状態である。民俗を構成するような所与の条件下にはない。はたしてこれは「民俗」なのだろうか。すくなくとも盆地世界の民俗構造とは世界の成り立ちが異なる。
構造と言うなら、むしろ「民族」(エスノロジー)に近い。よりパースペクティブであり、同時により身体的である。時空間も遠大であり同時に至近である。合理主義者を困惑させる足りる異種の因子が合一されている。したがって空間性も時間性も単なる非日常を超えてより越境的であり、かつ異界と交感的でもある。カミや魂・霊が視覚化され、隣接的な緊張関係を常態化している。時には同化する。神話空間のダイナニズムの原則が生きている。しかし、それでもなお「民族」ではない。他者ではないからである。隣する世界だからである。同根的に源を揺す振るからである。
ただし、揺す振られるのは、同根が創る逆説でもある。資源的潜在力においてはるかに優勢でありながらも、文化鎖国しか創りだせなかった本土(「島国日本」)に組みこまれている自分たちの存在がもたらす逆説である。島国を枠組みとした文化(日本文化)は、オリエンタリズムに対して互角以上にアイデンティティを発揮しながらも、同根の小島一島によってなんなく相対化され、しかも超越されているのである。訝しく思われてしまうに違いない。相対化はともかく、超越されてしまうとまで言われたのでは。それも理由も明かされないで。なら告げなければならない。思考過程である。思考過程そのものが超越されていたのである。

詩学的立場 「島」の思考過程には普遍が備わっている。詳細を問う前に総体が語っている。如何ともしがたいほどである。一方、日本文化のそれは、歴史過程を経て気がついて見ると、閉鎖的な思考過程を完成時の姿として定位している。閉鎖的な思考過程の先に出る出られない以前の段階である。ネット・メディアの指摘(「より閉鎖的」)は、卑近な一例かもしれないが、それ故に「島国日本」の思考過程の根幹に触れている。グローバル化は、それ自体が思考過程であるからである。しかも異文化的である。閉じた思考過程(アナグロニズム)に親和的な心性は、容易にはデジタル変換されない。される必要もない。そこまで遡らなければならない新世紀的課題に繋がっているはずだからである。
とは言え、執筆者の関心は、もっぱら詩的なものに留まる。詩学の範疇と言い換えてもよい。したがって「思考過程」も言葉としては詩語でしかない。しかし、一次的に「思考過程」の外に置かれている立場(執筆者の立場)にとって、外に置かれていることの自己発見は、同時に自己否定として返されるものでもある。したがって詩学的な立場は、同根に在ることから齎される贖罪感にも似た自己認識によって二重にも揺す振られる故に、さらに強まるのである。その強さが、失われた時間の回復を求めることにもなる。回復とは、自己回復だからである。しかし、自己回復は、矛盾を引き受けることでもある。時間の本質が矛盾だからである。久高島が持ち越したものが、「時間」(古代的時間)であるとすれば、久高島とは「矛盾」を生き続けられる「島」であったことになる。詩学的感動によって向い合う所以である。

内在者の写真 その時、比嘉康雄の写真が「感動」に語りかけてくるのである。地形上、ダイナミックなアングルを期待できない構図のなかで、神女の表情と姿態とそれを包む陰影のコントラストだけで浮かび上げられた世界が、同根に繋がる我々の、「かつてのなにか」を揺さ振るのである。しかも島を訪れて、その白黒世界とは別の総天然色に浸かった後でも、写真が撮り込んだ世界は、より深まりも高まりもするのである。残念ながら同じ1978年のイザイホーの「記録映画」(約100分)には、同じものは感じ取れない。出発点が違うと言われてしまえばそれまでかもしれないが、しかし、記録化の聖性が、禁制への立ち入りにはたして勝るものなのかを考える時*、記録性を前にして、同根者側に立つ者には、「(自分たちの)かつてのなにか」までが冒された思いに囚われてならないのである。
 しかし、比嘉康雄の写真は違う。しかも彼の写真(禁制のなかの写真(フボー御嶽))は、最高位神女(クニガミ)の一人であるウメーギの誘いによるものである。当然のことながら立ち入ることなど思いも浮かばなかった彼の許に、「かまいませんよ」と言って御嶽に招き入れ、祭祀の円座の末端外側に同座を許し、かつ撮影をも許したのである。まだ本格的な交流を開始する前であった。すでにウメーギにとって比嘉康雄は、男子禁制の外に立つ者であったのである。他者ではなかったのである。内在者だった。ウメーギは見抜いていたのである。自分たちの魂を新たな「ニライカナイ」に導くものであったことを。
* 禁制の地や屋の前でカメラを止め、止めたままその先はナレーションに替えていた方が、映像としてもより迫真性が発揮されていたように思われる。記録と言え、「創作」であるからである。

おわりに~真正な体験~ 久高島を体験するとは如何なることであるのか。今では現地訪問という直接体験だけでなく、ネット上でも間接的な訪問(ネット訪問)ができる。沖縄県や地元南城市のホーム・ページ上のそれも丁寧な内容で、知識だけでよいなら現地訪問以上のものを授けてくれる。しかも知識によってもたらわれる体験は、それはそれで一回性的な体験(ただし擬似体験)でもある。単なる旅行案内書での誌上体験に終わらない。以前なら考えられない体験(デジタル体験)が、我々のデスク上に瞬時に齎らされる。これはこれで「現実」(リアリズム)である。
 しかし、ネット体験はくまでもネット体験である。最初から限界がある。断るまでもないことである。誰しも限界を折り込んでパソコン画面を開くのである。それでも知識は次の知識との間で連携智として増殖していき、やがて当初の前提事項(折り込み事項)も上書きされて元の姿をとどめなくなる。別に内部体験者が誕生し、可視者となって未体験者に取って代わるのである。極めつけがバーチャル・リアリティーである。別に情報論やメディア論に言及しようとしているのではない。否応なしに「体験」の位相が問われる時代だからである。しかも、ますます本来的な体験を自覚する機会が失われていく(希薄化していく)日常生活を思うからである。もしそれ(今回の体験)が、沖縄本島に留まっていたなら、誤解を招きかねない言い方かもしれないが、ネット体験と実際の体験との違いに決定的な落差を感じていなかったかもしれない〝マヒ〟を思うと時、久高島体験に体験とは別にメディア論の本質にも繋がる問題(日本(人)論)を知らされたのであった。
いずれにしても、実際に訪問していなかったら、上記した同根的な揺す振りに晒されることもまずなかったにちがいない。それ以上に「島」の意味を教えられることも。もしこれが、「真正な体験」に連なる一つの機会だとされるのなら、「真正な」を常にキー概念とする、未来の矛盾を見抜いていたベンヤミンの複製時代論(アウラ的存在様式論)を実習していたことになっていたのかもしれない。〈いま―ここ〉を本質とするアウラ体験である。

[付] 本稿の多くは、比嘉康雄の著書(『日本人の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年)に導かれて記したものである。全編を通じて志の高さに貫かれている。ブログ執筆者の若い知り合いにも「島」の体験者がいる。高い志に生きる一人である。この先の「健全」(尾崎翠「太田洋子と私」昭和16年7月5日付『日本海新聞』)を祈りたい。

2013年3月14日木曜日

[さ] 散策~あるいはKa子の自伝~

 [さ] 3月の公園にはようやく暖かさが戻ってきた。小鳥たちも葉を落とした枯れ枝のなかを次の枯れ枝へと忙しく飛び移っている。その下のベンチには、例年になく厳しかった冬を部屋のなかで過ごしていた人々が、三々五々出て来て、待ち焦がれた春の空気を吸い込んでは、体の中に溜ったストレスを吐き出していた。
 影子(ようこ)もその一人だった。今、子供の受験がようやく終え、子供以上に開放感に浸っていた。
――合格しましたか。おめでとうございます。
――ありがとう。
――しかも第一志望で。将来が楽しみですね。
――まだ中学受験ですよ。この先どうなることか。
――でもどうなろうと、ここに見本がいますから。見本ではなく、最低保証かな。
――サイテイホショウ?
――はい。まさに。
――相変わらずね。でもあなたに付けていただいた「影子(ようこ)」のこと、結構、気に入っているのよ。
――それは光栄です。もう「影」のことなどお忘れかと思っていました。
――指切りしたのに。
――そうでした。指切りを。「影の指切り」を。たしかにしました。お陰で、僕の乏しい想像力にも灯を点すことができました。「影」を研究した成果も生れそうです。
――アンソロジー(「影」のアンソロジー)のこと? 私もいただいた「名前」のこともあるし、他人事には思えないので、挙げていただいた本、読んでいたのよ。
――気に入った「影」はありましたか?
――ええ、あったわ。でも今はまだ自分のなかにしまっておくわ。それより、先日の、といっても昨年の10月以来ですけど、お話の続きって、なんなのかしら。なにを聞かせてもらえるのかしら。
――お時間大丈夫ですか?
――ええ、十分にあるわよ。1年分も。もっとかしら。
――大変ですね、母親は。精神的な負担も子供より大きかったんではないですか。今日の影子さんには解放感があります、別人のようです。
 ――別人? そう、たしかに別人かも。苛立っている自分に苛立つ。そんな感じだったわ。子供への愛情でもなんでもないわ。子供から、「ベンチのあなた」のこと聞かされた時も、ただ敵対者にしか思えなかったわ。誰もが私を疎外するようにしか思えなくて。結局、自分で自分を疎外していたのね。それも分かっているのよ。でも分かれば分かるほど、ますます疎外感が強まってしまう、まるで蟻地獄。いろいろ考えたわ。自分を見詰め直すこともできたわ。私のなかの私をね。最初は嫌な女の部分しか見えなかったけど。子供から離れられる自分が見えてきた時、すこし自分が取り戻せそうな気になれたの。受験に失敗した時のことよ。もう一度、本当の母親になれる気がしたの。女としてももっと良い女にね。でも合格してしまったし、機会は奪われてしまったわ。でもこれも合格した余裕かしら。また嫌な女に戻っていくのかしら。
 影子の話を聞いている方が面白そうだった。それでもよかったが、影子から「私のお話ではないでしょう」と質された。そうでしたと言って彼は始めた。「仮面劇」(2012.10[か])の続きだった。
具体的には、Ka子のその後と同時にそれ以前だった。過去の話だった。つまりKa子の自伝だった。

 ※

〔承前〕「仮面劇」(2012.10])

 5

 また同じ日常に戻った。場所も同じ街中だった。抱えているカメラもナップサックを下げた格好も日焼け止めを塗っただけであとはノーメイクの素顔も、のど飴を持っているのも同じだった。やはり同じように午前と午後にその場所に立っていた。
違うのは、巡回中の婦警が立ち寄ってくれるようになったことだった。知り合いになったのだ。相変わらず同じ場所に立っていたKa子に、巡回中だった婦警が自転車を寄せて声を掛けてくれるのである。
「今日も〝空撮影〟ですか」
1か月ばかり経ったある日、Ka子は思い切って誘った。婦警が非番の時、会って欲しいと。本当の話をしたかったからだ。最初からしても好いと思っていたが、あの時は交番のなかだったのでそんな話をしても分かってもらえないと思って、事情を説明するのが躊躇われたのだ。
そうは申し出てみたものの、婦警はなかなか応じてくれなかった。私人としてお会いするのは……。当然である。
そこで「現場」で話したかったと、そうしないと分かってもらえないからと職業意識をくすぐってみると、婦警はすぐに関心を示したが、それならなおさら仕事として聞かせて欲しいと切り返された。
「今ではだめなのですか、時間なら大丈夫ですよ」と自転車を降りようとする。
「その制服姿ではだめなのです」
決然とした口調だった。
どうしてですか、やはりなにか後ろめたいことでも? そう言いたげだった。交番の時に見せたような被疑者に向けた不審者を見る眼付きだった。
沈黙が続いた後、なにか思い当たることがあったのか、婦警の口元がすこし緩むと、「そうですか、分かりました」と、一気に同意に転じた。
婦警のなかの「自分」が、Ka子に個人的な興味を抱いたのだった。
実は、Kaが撮っていたのは自分自身だった。自分の「姿」だった。そして、そのための前提条件として、まず「影」を補足する必要があった。先行条件と言ってもよかった。なにかにカメラを向けていたのは、「影」を見つけるためだった。肉眼では見えない(補足できない)からだ。特殊なフィルターが必要だった。フィルターを透かしてはじめて捉えられる「影」だった。Ka子がじっと立ち尽くしていたのもそのためだった。その瞬間に狙いを定めていたのである。これが真相だった。
しかしいくら事情がそうだったとしても、いきなり切り出してすぐに分かってもらえる話ではなかった。それに、当たり障りなく世間話から始めて次第に相手の関心を自分に引き寄せられる気の利いた話術は持ち合わせていなかった。核心部分から入るしかなかった。案の定、疑われた、というより、折角非番に出てきたのにいきなりそんなことを聞かされるなんて、と少し不機嫌な顔もされてしまった。
――じゃ、私が今こうして話をしているKa子さんは、本当のKa子さんではないんだ。その時、乗っ取られたKa子さんなんだ。乗っ取り犯が「影」なんだ。ここがその場所(「現場」)なんだ。「影」を補足(「逮捕」)しないと自分に戻れないんだ。特殊なフィルターがあるんだ。「影」を補足できる。ともかく制服姿ではだめというのはそういうことだったんだ。警戒されてしまうから。後がやりづらくなるから。
なるほど、と言って婦警は納得して見せた。でも我慢していただけだった。
――そんな「事件」があったんだ。交番に見えられた方、なるほどどこか親近感が湧いたけど、やはり警察の関係者だったんだ。でも、50年前の事件でしょう。その時の刑事さんと言われても、やはりね、すぐにそうだったんだとは言えないでしょう。だって、そうだとしたなら刑事さんその時20代だったとしても、もう780歳でしょう。でもまだどう見ても50代前半にしか見えないし、それにその時の「被害者」がKa子さんなわけでしょう、被害時年齢が17才だということであれば、今の年齢は67歳になっていることになります。でも目の前のあなたはどう見ても20代でしょう。そうですか、26歳ですか、もっとお若いかと思いましたが、私よりお姉さんなんですね、でも40歳分足りません。どのように理解すればよいのですか。
Ka子は、婦警が自分に同情しはじめていたのが分かった。より正しく言えば憐れみはじめていたのが。なぜなら、あの時、交番を出た後、中でどのような話がされていたのか、容易に想像がついたからだ。頭のおかしい人間ぐらいにされていたに違いないからだ。〈その人〉のこともそうだった。二人で同じ施設に入っているとでも思っていたに違いない。やはり先輩が言っていたとおりだったのか、今ではその時の、ka子を前にした自分の熱の入った対応が愚かしく思えて、自己憐憫の思いにさえ襲われはじめていたのだった。
仕方がなかった。Ka子は余り強くない程度に催眠術を掛けた。10回目の玉を回すだけで済んだ。心のなかが純粋な証拠だった。かかり具合を確かめた。スイッチはカメラのシャッター音だった。さすがに世界の***のシャッター音は違っていた。すぐに効果は現れた。
――じゃ何かあった時は今度から(Ka子さん)=括弧Ka子さん、と呼べばいいわけね。了解!
私服姿だったが、婦警は背筋を伸ばして敬礼をした。Ka子も敬礼で返した。因みに括弧で括るのは、乗っ取られているという意味だった。
それから婦警が巡回してくるたびにカメラを向けた。すこし離れていてもその機械音は聴きとれた。その内にカメラを向けるだけでもスイッチが入った。婦警は、「では聞き込みに行ってきます」と、目を大きく見開きながら自転車を力強く漕ぎ出していった。数時間後、再び戻ってきた婦警によってその日の成果が毎回報告された。
解除の方法は、「のど飴」だった。「お疲れ様」そう言って、Ka子はナップサックの脇ポケットから取り出したのど飴を一粒手渡した。その場で口に含ませた。溶け切った時に解除されるようにしておいた。交番に戻る頃には元に戻っているはずだった。

Ka子は、その時17歳だった。街の風景は50年前と大きく変わってしまったが、まだその時と同じセーラー服姿の女子高校生が街中を歩いている。伝統を重んじる女子校だった。Ka子がその私立女子校の3年生の時だった。いつもの帰宅道を「現場」の通りに差し掛かった時、Ka子は消えたのである。正確に言うと自分ではなくなってしまったのである。
今でもはっきりと覚えている。立ち止まるつもりはなかったのに自然と足が止まってしまい、体から急に力が抜けていき、大きな眩暈が襲ってきたのだった。そのまま倒れてしまいそうになったKa子を、誰かが背後から支えてくれた。その時だった、一瞬、電流が走った。全身を駆け巡った。Ka子は懸命に堪えた。なんとか昏倒せずに済んだ。
支えてくれた人にお礼を言おうと、振り返ってみると誰もいなかった。見回しても誰もいない。どこにも人の気配がなかった。それが「事件」だった。Ka子がKa子でなくなる。
だれも信用してくれなかった。自分でも信じられなかった。顔かたちが変わってしまったわけではないからだ。何度も鏡を覗いた。いつ見ても同じ顔しか映っていなかった。
あなたなにか悩みごとでもあるの?
母親の直感で娘の様子がおかしいのを心配したが、もともと気持をあまり面に出さない娘だったので、母親もそれ以上は深く立ち入ることもできず、そのまま月日だけが過ぎて行った。それにその後も変わったことは何も起きなかった。
それが、やはり自分ではなくなっているのがはっきりしたのは、自分の姿が写真に映っていなかったことが判明したからだった。
卒業が間近に迫っていた時のことだった。一人の子がカメラを学校に持ってきた。まだ誰もがカメラを持てる時代ではなかった。発売されて間もないライカ判ニコン一眼レフカメラだった。父親のカメラだった。
クラスの中は大騒ぎになって、撮って! 撮って! の連呼だった。Ka子は窓辺に体を寄せて騒ぎを背中で聞いていた。カメラのシャッター音がした。これがカメラの音か、撮ってもらった子たちはカメラを取り囲んでいた。しばらく撮影会が続いた。騒ぎが収まりかけたのを見計らって教室の中に向き直ると、振り向き様を撮られた。仲間に加わろうとしないKa子を狙っていたのである。
何日かして今度は写真会になった。焼き付けられた印画紙でまたクラスの中は大騒ぎになった。騒ぎのなかを抜け出してKa子の傍に近づいてきたカメラマンのその子が、「おかしいわね。あなたの写ってないのよ。ほかは一枚も失敗してないのに」そう弁解気味に言って、少しだけ灰色がかった白いままの印画紙をKa子に差し出した。「これじゃ日本製のカメラもとても世界に通用しそうにないわね。」クラスメイトは自分の腕前ではなくカメラの性能を詰った。
そうではない、腕前でもカメラでもない。原因は被写体の方にあったのだ。Ka子は直感で分かった。白くなってしまったのは、被写体に陰影がないからだった。体のなかに空洞感が広がっているのも原因はこれだった。表情だけではなく、体内もなにか無表情な感じになっていたのだ。メリハリ感がない。質量が感じられない。重みが体内にないのだった。
一度原因が分かると、Ka子は、重力を無性に欲するようになった。次第に飢餓状態に陥っていった。渇きが癒せる――つまり重力が得られる場所は決まっていた。あの「現場」しかなかった。そこは普通の民家の前だった。民家に面している通りだった。
家人からの応答がなかった。留守だった。何度訪れても同じだった。最早限界だった。致し方なく無断で入らせてもらうことにした。鍵は訳なく開けられた。二階の屋根から物干し台に上がった。下を覗いた。まだ高さが足りなかった。やはり屋根の上まで上がらなければならなかった。
手頃な踏み台を見つけて一気に屋根の棟まで上がった。棟を跨いで妻側にゆっくり体を移動した。家は角地に建てられていた。真下は「現場」とは少しだけずれていたが、高さの方が大事だった。
立ち上る前に地面を覗きこんだ。気持が癒されるようだった。そっと立ち上って全身を空に向けて伸ばした。大きく息を吸い込んでそのまま体を前に預けるように傾けた。でもそれ以上傾かなかった。力を入れたが同じだった。体は向こう側に倒れこんでくれなかった。
後ろから誰かに抱き抱えられていた。気がつくと大勢の人が下から見上げていた。布団を広げている人もいた。
警察署に連れて行かれた。事情聴取だった。捜査課の一画に設けられた応接間だった。中年の刑事だった。最初は腫れ物に触るようにして問い質されていたが、何度問い質してもka子から同じ答えしか返ってこないのが分かると、見る見るうちに表情が変わっていって、人差し指を頭に当てて、「これか」と言って、回りにいた刑事たちと一斉に笑いだした。
特別被害があるわけでもないし、家屋への無断侵入も心の病では問えないからと家の人に納得してもらうと、警察は、後のことは精神病院に任せることにした。「事件」はそれで終了するはずだったが、すでに話が町中に広まってしまっていたこともあり、噂を聞きつけた(正確にはもの好きのご注進を受けた)新聞社が、丁度、「時代と女性」を特集していたこともあって、これも新しい時代の感覚(少女の感覚)と解れなくもないと、Ka子のことをコラム爛に報じた。
一般論に書き換えられてはいたが、無理だった。「心の乗っ取り犯!」とか「重力からの生還」とかいう小見出しもいかにも挑発的だった。Ka子は家に戻れなくなった。長い入院生活を送ることになった。実は今も続けている。家族にもその方が安心だった。別段、世間体のためではなかった。娘のためだった。まだ娘が重力を必要としていたからだった。

婦警は、(Ka子)がカメラを首や肩から下げてさらにバックも背負っているのが、これで完璧に得心がいった。「影」の補足と同時にこの問題もあったのだ。むしろ現実的な必要に迫られていたのは、「重力」の方だった。体に重さが必要だったのだ。持たせてもらって分かったのだが、たしかに重いカメラだった。バックの中身はさらに重い。両方合わせると結構な重量になった。
それにしても賢い婦警だった。さしたる混乱もなく67歳の問題にも解決がついているようだった。この分だと昇進試験もなんなく合格だ。スピード出世だろう。でも婦警は捜査課への異動がなによりの希望だった。夢だった。警察官を目指した理由だった。そのためにも異動の援けになる実績のことばかり考えていた。今が好いチャンスだった。疾うに時効は過ぎていたと言え、未解決事件に変わりはない。しかし詰めていくと時効とばかりも言えない。交番勤務の今だからこそ自由に動ける。巡回連絡の機会が活かせるからだ。この好機を逃してはならない。
でもと婦警は思う。それでは自己中心的に過ぎる。その前に人でなければならない。「被害者」を目の前にして、婦警である前に一人の人間でなければならない。人として黙っていられないはずだ。難事件だから解決できないかもしれない。たとえ解決できなかったにしても相談に乗って上げる。誰かに分かってもらえるのは大事なことだ。それだけで気持も楽になるのだ――婦警は思った通りの善人だった。
これまで誰にも理解されずに来たに違いない。私が最初の理解者になる。これも悪くない響きだった。でも分かっている。最初ではない、正確には第二の理解者だった。あの「刑事」がいたからだ。あの人が最初の理解者だった。Ka子を屋根の上で抱きかかえた人だったかもしれない。おそらくそうだろう。でも事件は解決できなかったのだ。資格はない。やはり私が第一の理解者だ。
そこで問題の67歳の件――カメラさえ下げていれば戸外にいても心配ない。重力の問題から免れられるからだ。これが大前提。次に年齢のことだが、これもこれでいいのだ。たしかに67歳なのだ。そして(Ka子さん)も26歳なのだ。これも間違いないのだ。67歳がKa子さんで、26歳が(Ka子さん)ということには。つまり二人は別人なのだ。だから二重被害者というのが、この「乗っ取り事件」の真相で、実は時効ではなかったのだ。
でもKa子さんは、いま(Ka子さん)のなかにいる。だから正しくは一重括弧と二重括弧の関係なのだ。おそらくきっかけはカメラだったのだろう。混乱するのでとりあえず26歳の((Ka子さん))を「鹿子さん」とする。鹿のような感じがするからだが、読み方としては「カコさん」ではなくひとまず「しかこさん」とする。67歳の(Ka子さん)を「過去さん」とする。故人みたいな言い方になってしまっているかもしれないが、50年前を強調しただけだ。
でも身体間移行の経緯としては、「過去さん」が意図的にしたことではなかったにちがいない。それにもともとそんなことは思ってもいなかったはずだ。「過去さん」とはそういう人だった。おそらく「鹿子さん」の方から声をかけたに違いない。「過去さん」がカメラを下げていたからだ。「鹿子さん」は、あまり友達がいなかった。いかにもそんなタイプだ。何度か見かける内にいつも同じ場所にいる「過去さん」に声をかけたのだろう。
途中の経過は省くけれど、「過去さん」は、「影」を撮っている、撮ろうとしている、撮れるのを待っていると答えた。それも自分の「影」を。それに「鹿子さん」は、モノクロ写真を通した白黒の世界をテーマにしていた。こうして次第に話が合っていった。
もともと「鹿子さん」も写真とは自分の「影」のことだと考えていたからだ。二人の「影」の内容にはずれがあったが問題はなかった。「鹿子さん」は、次第に「過去さん」に自分の将来を見るようになった。自分も生涯を掛けて自分の「影」を撮ろうと思った。彼女のような写真家になりたいと思った。そしてなった。なると、「過去さん」のなかに未来だけではなく自分の過去も見えた。「過去さん」は「過去さん」で「鹿子さん」に自分の未来が見えた。そしてなった。自分の未来に。二人は無意識のうちに合体していたのかもしれない。
「過去さん」は、床に伏せるようになった。実は病を抱えていたのだ。これまで気力で生き抜いてきたのだった。「鹿子さん」に譲ったカメラに命が繋がれたことを確かめながら、やがて「過去さん」は静かに世を去った。
「影」を撮れる(捕縛できる)カメラだった。特別のカメラだった。「鹿子さん」にとっても、かつて「自分」を撮れなかったライカ判ニコン一眼レフだった。おそらくあの時の事情聴取の際も、どこか見えないように身に付けていたにちがいない。いまや二重露光を可能にするカメラだった。
「過去さん」の乗っ取り犯は、影を奪い損ねた。事の次第はこうである。
ka子さんは振り返った。その時、誰もいなかったはずの背後に、もう一つの別な「影」が伸びていたのを見た。自分の影に覆いかぶさっている「影」だった。こうして「影」は、予想外に「過去さん」に思いのほか早く振向かれてしまったのだった。乗っ取り犯は、おおいに慌てた。諦めるしかなかった。致し方なく身(「影」)を引っこめた。そしてka子さんとしてみれば、自分の影を残すことができたのだった。
昭和30年代のことだ。町は大きく変貌した。コンクリートがすべての地面を覆った。「影」は舗装され尽くしたのを好いことに地面の下に潜んでいる。誰かの影に隠れるようにして時たま気づかれないように身を乗り出す。まるで潜水艦の潜望鏡だ。「影」は「影」で、それ以来、「自分」に不足していた。完璧に一体になるとは、「影」にとっても自分を取り戻すことだった。そのためにも「現場」を放棄することはできないが、一か所に留まっていては窮屈だったし、それに逆襲に遭いかねない。「過去さん」から逃げ回っている。そして今度は「鹿子さん」を見ている。「過去さん」が亡くなった今、魂がまだこの世に留まっている内になんとかしなければならないからだ。狙っている、「鹿子さん」を。
――ソウワサセナイ。ワタシハ警察官ダ。目ノ前デ起コロウトシテイル犯罪ヲ黙ッテ見過ゴスコトナドデキルワケガナイ。思ウヨウニハサセナイ。サセテナルモノカ!

Ka子は、彼女に昇進試験を受けて欲しかった。自分のことは自分でするから。十分だから、そう言った。彼女の人生を奪いたくなかった。
彼女は、これは自分の問題でもあるのだと言い張った。そして、ついには交通課への異動を願い出た。異動は短期間で叶えられた。地域住民から彼女の交番勤務について不審な情報が寄せられていたからだった。不審がられようがどう思われようが、今や彼女の預かり知らないことだった。頭の中にあったのは交通取り締まりの第一線に立つことだけだった。そしてそうなった。駐車違反の取り締まりである。いよいよだ。
ミニパトで街に繰り出す。駐車違反車の下は隠れ蓑になる。彼女は違反車輌の回りをまわる。チークで印を付けまくる。違反車を一掃する。隠れ蓑を取り去る。追いつめる。不意を衝く。待ち構えているKa子の願いを適える。その瞬間のために警察官になったのだ。 これは最早使命だった。歩道上でカメラを構えるKa子を背中に感じ、彼女は、さらに気持を高ぶらせずにはいられないのだった。

 一言だけ付け加えておくと、実は、「のど飴」は疾うに無くなっていて、彼女は途中からかかりっ放しになっていたのだが、いつかそれが(催眠術にかかっている時の方が)、以前より彼女らしくなっていて、本人はもとより、回りでも婦警になるべくして生れてきた女性だと、やり過ぎなことを含めて、彼女の成長ぶりにひとしきり感心させられていたのだった。

 ※

 ――その私立校って、もしかしたら私の出た女子校なのかしら?
 たしかに影子は女子校出だった。伝統挍だった女子校は、公園のある街のシンボルでもあった。公園のなかを連れだって歩く女子校生たちは輝いていた。「私の母校よ」そう言って懐かしんでいた影子に、その時、彼は何かを(あるいは彼女のなかの「過去」でも)感じ取っていたのかもしれない。
 ――ご案内しましょうか?
 彼は「ぜひ」と言って、影子の誘いに応じた。
 ――その代わりに、「現場」に連れて行って下さる?
 彼は「望むところです」と言って、自分からも誘った。
 そうしてその日、彼は影子との散策に次の展開を探った。

2013年2月28日木曜日

[こ] ゴーギャンのためのノート


[こ]はじめに~乗船の決断~ 

その船に乗った理由の一つは「南」だった。日頃、頭に在ったのは「北」だった。「北方志向である」とは若かりし頃の自己表明の一つだった。いささかペダンチックを気取っていたのかもしれないが、一極を体内に囲うことは無意味ではなかった。今に至るも「北を向く」ことは少なくない。だから乗船の契機としては反対概念からなされたものだった。あえて「南」に向くことで、「北」を再措定するための。しかも、最初に向かう場所は、タヒチだった。
いうまでもなく、南海の楽園である。「南」をイメージする上で象徴的な島嶼の一つである。加えて「南」が放つ生命的なイメージを芸術に転生させた一人の人物がいた。ゴーギャンである。彼の楽園でもある。しかもタヒチにはゴーギャン美術館がある。彼が生活した場所(第1次タヒチ時代の場所=マタイエヤ)の近くに建てられている。第2次タヒチ時代に生活した場所にはタヒチ博物館もある。両地を訪問することもできる。これで決まり。乗船の決断に向け舵を取ることとなる。奇しくも船名は同じオセアニック号であったが、これは後で知ったことだった。
 
 
1 最初のゴーギャン像
 
ゴッホを仲介してのゴーギャン ところで、ゴーギャンと言えば、上記を引き合いに出すまでもなく南海の楽園タヒチの画家というイメージが誰しも湧くはずで、その後に続く印象はといえば、ゴッホとのアルルでの一件ぐらいであろうか。株の仲買人から突然画家に転身した変わり種という経歴がさらに思い浮かぶとすれば、おそらくその人は絵画通である。
当初、ゴーギャンへの関心の程度は、絵画通にも達しないものだった。敬遠していたからである。今から思うと、安易とも言うべき理由であった。北方志向を楯にとって、タヒチの画家であるという、地球上の地理的要因だけで遠ざけてしまっていたのであった。それが転じて一気に関心を深めることになっていく。きっかけはゴッホだった。
自身の西洋絵画への関心を若い頃に遡れば、環境に左右されていた部分が少なくない。周囲に美術を本格的に行なう友人・知人が少なからずいて、彼らとの交流――内一人とはその後「身内」になることになったが――を通じていろいろな刺激を受けたからである。ゴッホもその一人だった。交友関係者の一人には、自作への影響を含めて、ゴッホを熱く語る者がいた。いつしか感染した。よくある話である。
ゴッホへの関心は、多くのゴッホ愛好者がそうであるように、彼の強烈な、まさに「狂気の画面」というべき色とタッチであった。その狂気を地で行く事件(アルル事件)はゴッホファンならずとも関心を抱く事件であるが、ブログ執筆者がとりわけ関心を示したのは、二人の競作であった。同一画題による競作である。ゴッホをやがて激情に駆り立てる違う手に関心が向いたのである。ゴーギャンの手(筆触)である。そのタッチや色彩が創るゴッホとの違い(距離感)は、事件を育んだ一因にも思われたのであった。
ところでゴッホに関心を寄せたより内発的な理由は、印象派へのもの足りない思いからだった。絵画的主張の在り処を、いま一つ確かなものとして感じ取れないからであった。浅薄な絵画観によるものだったが、若い頃のことである、必要以上に対極的な姿勢になる。理由付けを欲してセザンヌやゴッホを味方につけようとしたのである。
セザンヌの色彩的知性が象った実在感や構成感、あるいはゴッホの色彩的過剰が現出させた夢幻的・眩暈的な魂のエネルギーは、印象派への思いに対して、不足感を覚えるのも、観る側の鑑賞力不足ではなく、作品側のそれであると、自己納得的にしてくれるのであった。しかし、印象派に覚えた不足感は、二人の画家の中においても決定的には解消されない。形は違うが印象派の場合のような思いが、二人の画家の上にも再現されてしまう。今度こそ自己責任が問われなければならない。そう思いはじめた時、ゴッホを通じてゴーギャンを知り、再び作品側に責任を問う形で、自己肯定的に二人の偉大な画家にも向き直れることができたのである。いうまでもなく作品側の責任とは、この場合は、観る側の限界性を再確認させるものであって、しかも、限界性の中に自己発見を約束するものである。自己発見はやがて自己成長を促すことにもなる。そういう逆説的な「作品側の責任」である。
 
競作画 いずれにしても、それがアルルでの1888年の一連の競作的な作品(『アスカリン』『アスカリンの並木道、アルル』『洗濯する女たち、アルル』『アルルの公園を歩く女たち』など)であった。あるいは「共同生活者」が互いを描いた肖像画(『ひまわりを描くファン・ゴッホ』)であった。そこにあった「違う手」の画面に行き亘っていたのは、色彩でありながら見慣れていた既得的な色彩ではなく、別様の色彩感覚だった。時間的なものだった。色合いが訴える視覚的効果ではなかった。目に捉えられる時間感覚だった。しかも動きを失った停滞した時間だった。だから目で見ること、つまり補足することができた。色彩は後付け的だった。後付けになるような色彩処理(色面化)だった。フォルムが先行していた。
対するゴッホの画面は、色彩に始まり、しかも始まったままでいて終っていない。終えられないでいる。かといって未了とか未完ではない。結論がない、最初から結論に向かえない、そういう意味で終えられないでいるのである。その焦燥感によって絵筆が執られている。荒々しいタッチである。「色彩分割」は心意の分割を招いている。逆かもしれない。両者一体かもしれない。いずれにしても、画面の四辺でようやく分割を物理的に止めている。留めている。封じ込めて筆を擱かせている。
補足などしえない。捉え切れない。違和感として残されるものを含めて、それがゴッホなのだ。そう思って、色遣いとタッチに距離を置かざるをえなかったところへ、同じ主題で表された別の絵画世界が、予期しない形で現れたのであった。南国の画家と決めつけていた画家の手によるものだった。
 南国どころか、南仏さえも彷彿とさせない内向きの色彩であり、どこか沈んだ階調である。ゴッホにあってはタッチと画面は一つであって、画面はタッチの単位にまで還元化されていたが、ここでは画面に対して色彩もタッチも無言である。部分的に見ると、印象派のように一筆の筆触をカンヴァスに留めながらも、色面のなかでタッチは平準化されている。筆跡を残しても、筆触を残すことが技法化される描き方ではない。したがって筆触(タッチ)を極限的にまで画面化したゴッホに対して、一見平面的であるが、画面の構えは一面的ではない。単純に時間が停滞しているわけでもない。ただなにかの理由で息を継がないでいるのである。それが緊迫感を呼び込むことになる。
まさしく、内向きのタブローそのものであった。ゴーギャンへの関心が一気に高められた瞬間だった。アルル以前に彼を尋ねる旅の始まりでもあった。とりわけブルターニュ時代の作品を尋ねることとして。そして、そこで出会ったのは、タヒチのイメージでしか捉えていなかった画家のもう一面であった。実にそれは、「北」の琴線にも触れるような絵画世界だった。
 
 
 2 ゴーギャン探求
 
 画家と人生苦 ゴーギャンにとっては、作品と共に人生も一つの作品であった。彼をモデルにした小説も著された。代表的なものを上げれば、古くはS.モームの『月と六ペンス』(1919年)、近年ではバルガス=リョサの『楽園への道』(世界文学全集102、河出書房新書、田村さと子訳、2008年、原書出版2003年)がある。前者に関しては、「これは完全な創作で、ゴーギャンと大して関係はない。小説としてはうまいが、ゴーギャンにとつては迷惑な話だろう」(福永1961XLⅡ)の寸評がある。そのとおりである。後者は、ゴーギャンと祖母フローラ・トリスタン(一世を風靡した19世紀の女性解放家)の二本立てで、交互に進められている。大作である。この機会にと思って読み始めたが、まだ途中である。ただし、資料が渉猟された手応えある筆致で、さすがに『緑の家』の作家の手になる確かな叙事性を備えている。モームとは次元を異にしている。
画家の人生は単調でない。多くの苦難を背負っている。また生前に評価が得られるとは限らない。そうでない場合も少なくない。ゴーギャンもそうした画家の一人であるが、彼の場合は、人生のドラマと作品が密接に関わる点で、分けても激越的である。まさに彼の場合にあっては、人生も一つの作品であった。彼にのみ所有が許された、唯一無二の人生であった。
しかも創造行為と一体であり、芸術のための人生であり、人生のための芸術であった。それだけに彼の人生には、いくつかの区切りがあり、それが、同時代の他の画家以上に彼の創作上の転換を画期性のあるものとしていた。大きくは、タヒチ以前と以後に区切られるが、タヒチ以前の転喚となったのがブルターニュである。
ブルターニュが、彼を画家とし、かつ絵画的必然としてタヒチをも選び取らせる結果になった点では、ある意味、ブルターニュはタヒチ以上に重要な場所であったとも言える。ブルターニュなしには画家ゴーギャンも印象派かその周辺に止まって、彼一流の芸術的反骨もパリ美術界の否定程度に終わっていたかもしれない。そうならなかったのは、彼の求めるものの大きさからであったが、彼はまだ自分がどれほど大きなものを求めていたのか、しばらくは気づくことはできなかった。
 
画家への衝動 ゴーギャンを美術の世界へ仕向けたのは、最初はおそらく衝動だった。それも作品から突き上げられるというより、絵を描くという行為自体からもたらせる、日曜画家を少しだけ超えた衝動だったに違いない。しかし、その衝動だけで一気に彼は人生を転換させることができた。画家への一大転身である。
すでに年齢も35歳に達していた。家庭もあり、豊かな(贅沢とさえいえる)生活を送られる仕事にも就いていた。株仲買人であった。株取引の才覚も備わっていたようである。一方絵の方は、もともと趣味として開始されたものであった。始めた年齢も職に就いた年の23歳であった。しかも自分の意志というより、勤め先の同僚(ただし生涯の付き合いになるシュフネッケル)に勧められて始めたものだった。それから12年、結婚からなら10年、誕生した子供もすでに4人を数えていた。その家庭生活の行く末を慮ることなく、誰に相談もせずに勝手に職を擲って、これからは絵を描くと宣言したのである*
ただし宣言に見合う実績も着々と積んでいた。作品は、趣味の域を疾うに超えて、一部で注目を浴びるほどの「画家」になっていた。なかでも33歳の折に描いた一作への注目だった。「裸体習作」(1881年)である。同作品が、批評家兼神秘的自然主義作家で知られたユイスマンスの目に留まったのである。しかし同作品は異色作だった。普段描いていたのは、彼の師であったピサロの影響内に止まる作品(とくに風景作品)だった。印象派展への出品の機会も得ていたのであるが(ただしピサロの推薦)、目立った反響らしい反響もなかった。そこでの評価であった。
ユイスマンスの目に留まったのは、従前の裸婦像ではなかったからである。自然主義に適った肉体だった。モデルは彼の家の家政婦であった。美しい体つきでもなければけして美形でもない。ベッドに腰掛けて繕いものをしているだけの、なんの変哲もない姿(横向きの姿)を描いたものである。これがユイスマンスの目に留まったのである。「美」で脚色していないからだった。
ユイスマンスの評価(絶賛)は、彼を画家として一歩前に押し出したに違いない。しかも皮肉なことに同じユイスマンスによって次回の展覧会では不評を買ってしまうのであった。今回は従前の風景作品であった。不評というより期待が裏切られたことで倍加させられた酷評であった。絶賛や酷評という両極に分かれた批評が、彼のその後にどのように作用したかは定かでない。直接の引き金になったかのかもしれない。それ以前から計画していたことの決断を早めたのかもしれない。いずれにしても、離職の決断は、酷評が出されたその翌年(1883年)の1月のことであった。
 
* 「年譜」(『岩波世界の巨匠ゴーギャン』1992年)のなかには「絵を描く傍ら画商として生計を立てる道を模索」とあるほか、別の評論(福永1961)では、1年間の休業の約束で復職を念頭に置いた離職であったと解説されている。いずれにしても直前で金融恐慌があり株の大暴落があったことは、そのことで離職したのではなかったとしても、画家転身を後押しするに〝役立てられた〟のであろう。
 
1次ボン=タヴェン 彼の一大転機は、彼の楽観主義にも支えられていた。1年もすれば自分の絵に値が付くはずだと見込んでいたのである。しかしそうはならなかった。作品も評価されなかった。それまでの貯えに支えられていた生活も次第に欠乏生活に向かいはじめ、それに合わせて家庭も破綻の方向に次第に舵が切られていく。生活の拠点を生活資金の不足からパリからルーアンに移したが、1年も経たないうちに今度は妻メットの故郷であるコペンハーゲンに転出しなければならなくなる。
妻の故郷で彼を待っていたのは、妻の親族たちの蔑みの眼や町の人たちの冷たい眼であった。妻の親族達との不和も重なり、半年後には次男だけを伴ってパリに立ち戻ることになる。しかし、そこで今パリで彼を待っていたのは、さらなる生活の窮乏であった。最後の印象派展となる第8回(188656月)への出品作品も期待した評価は得られずに終わってしまう。生活状態は改善されない。窮乏は深まっていく一方であった。終に次男を預けて(寄宿)、単身パリを離れる決意を固めるに至る。
向かった場所がブルターニュであった。半島の先端側に寄ったボン=タヴェンという小さな町である。大西洋から少し中に入った自然豊かな場所だった。ゴーギャン年譜で「第1次ボン=タヴェン」と呼ばれる滞在地である。
滞在期間は、1886年の6月から11月である。約半年間であったが、後のゴーギャンを強く予感させる作品の誕生となって、彼の決意(パリ離脱)に報いることになった。『4人のブルターニュの女たち』(1886年)がそれである。色面化が強く呼び込まれていない点を除けば、配色と構図、特に人物間のポーズを支配する様式化によって一種の倦怠感が創出されている点は、すでに印象派の出自とは異なる内面から生み出されたものであるイメージを強くしている。
何が彼を一気呵成に自己発見に赴かせたのだろうか。生活費が極端に安いブルターニュの生活環境により齎された生活苦からの解放、妻メットとの確執から解かれた単身生活による開放的な日々、その開放感をより高めてくれる〝芸術村〟ボン=タヴェンの自由な空気と芸術的刺激。おそらく、日曜画家の時代には思い描くに止まっていた、芸術的人生の芳しい現実がここにあったのである*。しかし、これは作品が生み出されるための外的条件ではあっても内的条件ではなかった。ブルターニュという土地が必要だった。
 では、ブルターニュには何があったのか。何が内的条件足りえていたのか。この大西洋に突き出したフランス西端の半島の地は、地理的位置だけでもなにか違うものを予感させるが、それ以上に同じフランスのなかにあっても、文化・風土ともに異なる著しい地域性を内包し土地であった。巨石文化の痕跡を今に止める原始性に加え、それ以上にケルト文化の濃厚な遺存があった。言語もブルトン語とフランス語の両言語が使われていた。ブルターニュは、アイルランドとともにヨーロッパの中でもっとも濃密にケルト文化を受け継ぐ地であった。キリスト教もその特異な文化・風土を反映したものだった。また歴史的にもフランス革命とは一線を画し、フランス共和国に対して背反的であったことから、歴史展開の埒外に置かれて、停滞的な歴史の中を生きていた。半島特有の気候や地形が、さらに異境感を強めていた。ゴ-ギャンの跡を追って同地を尋ねた、優れたゴ-ギャン研究者の一人は次のように記す。
 
  ブルターニュは、ヨーロッパ大陸の西端に三方を海に囲まれて突き出したアルモリック半島に位置し、先端部分はその名も「地の果て」を意味するフィニステール県と呼ばれる。複雑に入り込んだ海岸線には切り立つ断崖と砂浜が続き、内陸にはヒースとハリエニシダがはいつくばる荒野と丘陵、そして暗い森と緑地が広がる。半島を吹きすさぶ強い風、分厚い雲がたちこめて雨が降ったかと思うと、目もくらむ青空が現れる温暖だが変わりやすい天候――。ここはフランスでもきわめて独特な風土をもつ地方である。
     ――湯原かの子『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』1995年(64頁)
 
 しかし、ブルターニュの風土的特徴が、ゴーギャン芸術に自己発見過程として吸収されていくためには、第2次ボン=タヴェン滞在を待たねばならなかった。

* ただし187981年の夏休暇を使ってピサロとポントワーズ(印象派と縁の深い土地)に出かけている。芸術の空気を先行的に吸い込んでいたのである。

マルティニック島体験 ボン=タヴェンからパリに戻った数か月後、再度パリ離脱が試みられる。相変わらずの生活苦とそれによる絶望感である。向かった先は、今度はパナマである。義兄(姉マリーの夫でパナマで商社を経営)の誘いを頼ったのである。生活の再建を図る試みもあった。芸術的野望もあった。いずれにしても憧れていた「原始的」な生活が待っているはずだった。しかし、待っていたのはさらなる生活苦だけだった。頼りにしていた義兄に裏切られたのである。
致し方なく、マルティニック島への渡航費用を捻出するために、パナマ運河開発の土木人夫の仕事を選ぶ。過酷な肉体労働であった。ようやくにして2か月後、マルティニック島に辿り着くことができる。待ちに待った楽園であった。しかし長くは続かなかった。約半年の滞在期間で終わった。彼を慕って付いてきたラヴァルが患ったマラリヤにゴーギャン自身も感染してしまい、さらに赤痢にもなってしまったったからである。一時は命も危うい深刻な容態であった。ようやくにして体力を回復したゴーギャンに、しかしパリに戻る旅費はなかった。選択された帰還方法は、水夫になることだった。10代の折の経験がここで生かされた。17歳から23歳の間に、水夫と水兵の経験を積んでいたのであった。
 しかし、パリに辿り着くことができても、生活窮乏が待ち構えているだけだった。唯一の救いは、多くの画家仲間(特に彼に尊敬の念を抱く若い画家たち)に取り囲まれていたことだった。そのなかにはゴッホもいた。ゴッホとの接触(1886年)は、有名な画商(クールビ)の支配人をしていたゴッホの弟テオとの接触でもあった。テオを通じて画商クールビによって作品が購入されたのである。ゴーギャンが自信を取り戻す上になによりの即効薬だった。パリ脱出の資金も得られることになった。

2次ボン=タヴェン かくして第2次ボン=タヴェン滞在(1888210月)を迎えることになる。ここに至って絵画史に一時期を画す「綜合主義」の誕生とゴーギャンの芸術世界の確立が果たされていくことになる。その作品が世に「ヤコブと天使の闘い」の副題で知られている『説教の後の幻影』(1988年)である。後に綜合主義の確立者の地位を巡って、ボン=タヴェン派の一員である、ゴーギャンより16歳も年下のベルナールから剽窃者扱い――ベルナールが同じ年に描いた『牧場にいるブルターニュの女たち』の模倣にすぎないと――されることにもなる一作である。ゴーギャンは相手にしなかったし、構図的にも色彩的にもベルナールから暗示を得た点については、確かにそう指摘される類似性を感じさせないでもないが、作品の芸術性の差は歴然としている。歴然としているから問題にもしなかったし、ゴーギャンにはいままでがそうであったように、またその先もそうなるように、常に一過程でしかなかった。しかも後述するように、ゴーギャンの綜合主義は、2年前に確かな産声を上げていたのである。
 
 
3 ゴーギャン芸術へのアプローチ

 風景画のなかの矛盾 では、ゴーギャンにおける一過程とはいかなるものであったのか。その時代に照準を合わせれば、それは風景だった。風景を超えることだった。しかし、風景を超えるとは如何なることなのか。外形的には異なるものが描かれるようになったこと、つまり、それまで数多く手がけてきた「風景画」とは内容が異なる作品に手が染められるようになったことであるが、それだけではまた風景を描けば元に戻ってしまうことになる。したがって風景を超えるとは、再び風景を描いたとしても、「風景画」に戻らないことであった。
 今、手許にある画集や展覧会図録、さらにはネット上(ウィキメディア・コモンズなど)で確かめられる、「日曜画家」の作品から「ヤコブと天使の闘い」までを風景描写に着目して辿り直すと(必ずしも十分な点数とは言えないが)、「なぜこの絵(「風景画」)を自分は描かなければならないのか」「目に見える景色とは自分にとって何なのか」「なんのために色付けを行なうのか、行なおうとしているのか」そんなーギャンの焦燥感が伝わってくるのである。後の展開を承知しているからかもしれないが、あらためて「日曜画家」からの脱皮とは、彼の画家への過程として評価すれば、風景画に対する焦燥感の裏返しであったのではないかと捉えられることである。
脱皮直前に描かれた同年代の作品(印象主義の作品)2点――1点は「オスロー村の入り口」(188283年)、1点は「雪の日の情景」(1883年)。前者はまだしも後者の作品では、未知の自分に立ち向かう緊張感が少しも感じられない。制作の動機にしても、技量の程を自他ともに認めさせるためにしか思えない。日曜画家でないことの、画家を選択したこと(すること)にいかにも正統性があることを顕示するためである。
画面の8割程度を占める、白く降り積もった雪と雪空とを同一絵具(白・紫・緑)で描き分けるタッチの違いは、彼に何を得させようとしていたのであろうか。この絵に内面はあるのだろうか、必要なかったのであろうか。なぜ人物を画面に置いた(配置した)のだろう。最前景とされて足許をカンヴァスの下辺に隠した二人の女。一人(鍋を片手にぶら提げた直立姿勢をとる女)はともかく、もう一人の女は、外景との整序を著しく欠いている。動きが無理に添えられているからである。女は猫背に背中を丸めて片足を前に(画面側に)踏み出している。後景の左端につき出した3本の煙突や画面中央の枯れ木がつくる垂直感を一人で容赦なく乱している。
試しに手で被ってみよう。落ち着く。思い切って二人とも蔽ってみよう。なんとすっきりとすることだろう。だから手の平の蔽いを外すと、そこに不用意に現れる姿は、違和感そのものである。まるで予定外に最後に貼り付けたかのようである。あえて「風景画」をダメにしている。おそらく意図的であった。そう思えてしまうのである。人物を外してしまうと、画面が創造性を語らないからである。すっきりしすぎてしまうのである。間延びした静寂にしかならないのである。彼のもっとも嫌うところであろう。しかも人物を入れ込むと、それはそれで彼を裏切ってしまうのである。
結局、この人物入り風景画を意図的に矛盾として描くことで、これまでの自作品に対する対決を果たそうとしていた、と解るのは、深読にすぎるのだろうか。そうだとしても、ここに「矛盾」を読みとることは、彼が自分に至る軌跡を、観る側の立場としても辿り直すことに他ならない。そのためにもあえて深読みの必要があった。しかも実は、人物を入れない作品が同時に存在している。自身としても迷っていたのである。深読みではなかったのである*
それはともかく、仮定を立てることで、いまだ予定もされていなかったはずの5年後の「ヤコブと天使の闘い」や、さらにはタヒチのゴーギャンまでもが、その先(「矛盾」の先)に浮かび上がってくるのである。あらためて「風景画」を見返すことが必要になってくる。とくに風景画と人物の関係がポイントとなる。

* この作品に対する図版解説を掲げておく。「(前略)この作品が描かれたのは1882年から83年にかけての冬、仲買人廃業前後であろう。幾分かピサロの筆触をおもわせるこの寒々とした光景が、妙によそよそしさを感じさせるのはおそらくこのことと無縁ではない。この印象はほとんど同じ光景を描いた、ただし人物のいない別の作品に目を移すとき、よりはっきりしたものとなる。しかし、それ以上に特徴的なのは、前景におかれた二人の人物によって後景とのあいだに引きおこされるある距離感であり、これこそ画家自身の屈折した心理の反映であろう」(本江邦夫「5 カルセル街の雪」『アート・ギャラリー現代世界の美術 4ゴーギャン』集英社、1986年、傍線・引用者)。題名の付けられ方は違うが同じ作品である。
 
 
ゴーギャンの風景画 限られた作品にしか当たれないが(日曜画家段階で百数十点が制作された模様)、ゴーギャンの風景画の大多数には人物が伴う。しかしほとんどが点景処理で存在感は痕跡的である。以下、当たった作品を年代順に掲げる。
[18745] 画歴45年で描かれたセーヌ河とその川沿い風景の2点。
①土手際を後ろ向きに行く親子(父と少年)の寂しげな点景(1874年)。
②雪の合間の川縁を散策する人群れや、傍らで作業する人々の影のような小さな姿(1975年)
[1879] 川と街、冬の公園風景の2点。
③対岸の川岸に横に長く延びる市場の庭(森)と、木立の頂きを超えてその向こうに幽かに読み とれる人々の、集合やあるいは別の場所の個人を点景的に描きこんで、横広がりに仕立て上げられた街風景。
④前景の木立と、木立を透かして背後に控える無言の群像(数人)の、固まりというより一つの気配と言った冬の公園風景。
[1881]  近郊農村風景の1点。
⑤人物を不在としたその間に合わであったのか、代わりを務めるかのように添えられた、枝上に翼を休める一羽の(大形の)鳥の、木立に同化した儚い姿と近郊農村風景。
[1883] 集落の入口風景の1点。
⑥集落に入りこむ道上の人物と、道沿いで作業する人々の、それぞれの点景的姿を入れこんだ集落風景。
[188485] 人物処理に変化を見せる3点。
⑦ルーアンの小高い丘に広がる青い屋根と、その町並みをカンヴァスの隅から眺め渡す一人の人物を配した対角線上に広がる風景画(1884年)。
上掲①~⑥の風景画と較べると、この作品では役割変化が明瞭である。点景処理されていた人物は前景に移動し、対角線上に延びるカンヴァスの視軸の発信源を担わされる。しかし、上半身は後ろ姿である。しかも肩の片側は、カンヴァスに截ち切られ、画幅の片隅からようやくに身を乗り出している程度である。彩色状態も彼が佇む叢と同色化され、風景を相対化するまでの扱いはなっていない。またそこまでの役目は与えられていない。しかし、人物がそこに配置されているといないでは風景に漂う気配が違う。妙な言い方だが、「風景的時間」とでもいうべき気配感が広がっているのである。そうした風景画における人物処理は、形は違うが以下の2点にも確認することができる。
⑧風景(近景風景)の中に大きく寝そべる女性を画面中央に定量的な大きさで描いた作品(1884年)。
⑨人物の大きさの点では退行的ながら、点景処理ではなく、風景を主導する人物を入れ込むことで秩序感ある時空間を得た風景画(1885年)。
水車を背景にしていることもあり、作業を終えて晴れやかに家路につく前進的な歩行感が備わっている。周囲に同化させて輪郭をぼやけさせていても、成年男子と分かる凛々しい身体である。この絵は、妻メットや彼女の親族・友人たちとの不和の挙句に、次男クロヴィスだけを伴ってコベンハーゲンからパリに立ち戻らなければならなったゴーギャンが、その精神的苦悩とともにその苦悩をさらに深めずにはおかない、耐えがたいような極度の困窮生活のなかで描かれたものである。それにもかかわらない画面の輝きである。

 
印象主義からの脱却 以上、駆け足ながら「矛盾」を嵌め込んだ1883年までの一連の風景画(①~⑥)と、その後の、1886年の画期的作品(『4人のブルターニュの女たち』)に至るまでの風景画(⑦~⑨)の二変遷を眺め渡した。あらためて画家の人生のなかに並べ置くと、①~⑤が「日曜画家」段階(187481年)、⑥が廃業年(1883年)の直後、⑦⑧が生活難を回避するためにパリを離れて一家でルーアンに移転した時期(1884年)、⑨がコペンハーゲンを経由してパリに戻った時期(1885年)となる。問題の「矛盾」風景画が位置するのは「廃業年」である。
同年で風景画における人物処理に転機が認められることは、彼の過程の中で何を意味しているのだろうか。より広く同時代絵画史として捉え直せば、印象派からの離脱志向の表れを、より直接的には、絵画上の師であったカミーユ・ピサロからの離反意識のそれを意味することになる。印象派的なタッチとともにピサロの外光的風景画と、その引き立てのために添えられる人物処理に自己矛盾を抱きはじめていたのである。
ルーアン転居時期は、その矛盾が創作的模索に彼を確実に押し上げていたことを教え、パリ帰還を経て、翌年1886年の第1次ポン=タヴェンに至って、人物は風景の主客に転換されることを物語っていると言える。それは、人物たちが画面中央を支配的に占める上掲画だけでなく、人物サイズでは同じ点景的な描写ながら、絵画的中心を演じる処理法になっている同滞在期の別の作品(『ポン=タヴェンの洗濯女』1886年)にも指摘できることである。
いずれにしても、人物風景画を辿り直す限り、タッチとともに人物処理の在り方が、後の「綜合主義」(1888年)の扉を開く上に大きな要因であったことが理解されるが、あらためて、1886年の『4人のブルターニュの女たち』は、後は色面化の深化を待つだけで、すでに色面化を含めて綜合主義のなかにあり、人物に目を向け、人物がつくる画面への対峙方に注目する限りは、本作品をもって綜合主義の記念碑的作品の地位に押し上げることも可能である(ゴーギャンはよしとしないかもしれないが)。そうすれば要らぬ剽窃者呼ばわりからも免れるというものであるが、それはともかく、『4人のブルターニュの女たち』が「ヤコブと天使の闘い」の呼び水以上の作品であり、同時代史的意義(綜合主義的意義)を付されるべき点に今一度思いを致したい。

 
風景と人物 そこであらためて問題となるのが、風景と人物である。絵画史として論じるわけではないが(それに執筆者にとってそのような事柄に言及することに何の意味があるかと懐疑的にならざるをえないが、それはしばらく措くとして)、オランダ絵画黄金期の17世紀に確立した風景画における人物処理から続くゴーギャンへの道が、風景画を通じた絵画の哲学的意味としてゴーギャンの内部問題に転化されていたことがあらためて痛感されるのである。ゴーギャンへの個人的関心を深化させるためには、やはり一度概観しておかなければならない事柄である。なお記述に当たっては、風景画に関する古典的名著であるケネス・クラークの『風景画論(改訂版)』を参照した。 
たとえば、オランダ風景画が獲得した、歴史画や宗教画における風景=背景とは異なるブルジョアチックな人文的広がりと深まりは、画面に点景的に人物を描きこむことで、画面処理的な絵画的効果を超えて、自然と人間との関係を絵画的課題(絵画ジャンル)に引き込む方向に仕向け、多くの風景画家を輩出していくことになる。それは、個人(階層的には市民社会の一個人)が「自然」を内面的に自己所有する近代的感性の醸成過程でもあった。やがてロマン主義を内面としたドイツのフリードリヒ(17741840)の幻想的・観念的な風景画や、自然への畏敬を顕わしたイギリスにおけるターナー(17751851)の登場、あるいは素朴な自然主義者コンスタブル(17761837)、それに続く19世紀中頃のフランスにける写実主義的な絵画運動の盛り上がりがあり、その総仕上げとして印象派の誕生へと展開していく。
とりわけ、パリ近在の小村バルビゾンに拠点を置く一派(バルビゾン派=ルソー(181267)ほか)による、あたかも近代的猥雑を極める都市生活からの逃避的な時空間として描かれたかのような、詩情性に溢れる自然風景を題材とした風景画、あるいは同じ風景画でも古典主義的な雰囲気を新しい光に読み替えて、独特な灰銀色の光と影を生み出したコロー(17961875)によって、自然は、個人的感性の中心的課題となるに至る。印象派は、その感性的内面感を絵画的技法(筆触技法や色彩の光学化)によってカンヴァス上に体現化させた絵画運動であった。「日曜画家」ゴーギャンの師となるカミーユ・ピサロ(18301903)が、その中心的役割を果たした一人であったことはよく知られている。全8回の印象派グループ展(18741886)すべてに亙って出品し続けたのはピサロのみである。
そうした風景画の変遷のなかで、あらためて「風景画のなかの人物」をゴーギャンに向けて辿ると、オランダ風景画以来、ピサロに至るまで、人物(像)が自然とともに在る描かれ方が、あたかも風景画の約束事でもあるかのように脈々と受け継がれてきたことを再確認することができるが、とかく予定調和的で画趣に同調的である。当然である。点景とはいえ、それによって画面全体をダメにする処理がなされるはずがない。ゴーギャンもはじめはそうであった。影のような痕跡程度あっても、あるいは人物を枝上の鳥に置き代えるような新奇を衒ったといえ、視覚的にそこに居ること(在ること)が確かめられる方が、そうでないより予定調和的といえ、あるいはそれ故に画面に安定的な深みが与えられた。奥行きも添えられた。いずれにしても印象派と接触し、自分のものとしていくことは、人物処理の絵画的意味を深く問わなくても、ともかく時代の先端を行く自覚上にも有益だった。「日曜画家」には大事なことだった。

ゴーギャン画と人物像 しかし、印象派的な技法を身につければつける程、彼は「絵」から遠退いていく空虚感を覚えざるを得ない。タッチや色付けは自分に正直である。問題の作品=「矛盾」風景画は、彩色上の筆遣いに秀でている分、彼らしくなくなっていく(「よそよしく」なっていく)。ともかく一人の人物が画面をダメにした。あるいは、意欲的に過ぎて破綻させてしまう。ただし、風景と人物が立場を入れ替えはじめた。そうとも解れなくはない。あるいはそれが真実だったのであろう。しかし、「矛盾」であることには変わりない。そして「矛盾」と読み替えることで、その先にあらたな1886年の人物(『ブルターニュの4人の女たち』)が立ち現れることになる。
いままでにない人物であり、そのフォルムである。「肖像画」や「歴史画」のなかの人物像ではない。「風俗画」内のそれでもない。やはり風景画のなかから誕生した人物像である。あたらしい「ジャンル」である。彼が求めていたものが実感された瞬間である。絵画的実感である。画家のみに許された特権である。すでに「ヤコブと天使との闘い」(1888年)は約束され、仮にその先にタヒチ時代がなかったとしても、絵画史に大きな足跡を残したにちがいないゴーギャンの画業が、眼前に大きく浮かび上がってくるのである。
しかし、ゴーギャンが真実として感じ取った「ジャンル」は、人物像をあらたに得ただけでは充足するものではなかった。再び人物を風景の中に還さなければならないものでもあった。結果としてタヒチが必要であったのか、タヒチがあったから結果が生れたのか、定かではないが、先取りして言えば、約10年後の成果となる畢生の大作『我々はどこから来たのか? 我々とは何か? 我々はどこに行くのか?』(1897年)こそは、「ジャンル」の自己証明であったことは疑いないところである。
この絵画をどう呼ぶべきなのか? 実は画題とされた三つの疑問形は、絵画それ自体の絵画論的疑問でもあったのである。上記絵画史を思い浮かべる時、ゴーギャンが求めていたものとは、絵画史的にも極めて異質なものであったことに新鮮な驚きを覚えなければならない。カンヴァス上に還元されてしまうだけのものではないからである。人生の異質さでもあるからである。そうでなければならなかったような彼の人生に生得的に意味づけられていたもの、あるいはその意味によってしか彼が求めていた絵画的世界の深淵に辿り着けなかったことの創造行為の異質さにおいて、ある意味絶句を禁じえないのである。
一個の個人の上でもそうであったもの、まさにその人生が一つの作品(芸術)であったというべき、未だ予定されたことのなかった未知の生存性と一つのもの、その先に生み出されたもの、あるいはその先に待ち構えていたものに辿り着くためであった一つの人生が、「彼」を選択したのだった。

再び彼の人生に立ち入らなければならない。彼の絵画の理解のためだけではく、それ以上に彼の「ジャンル」の異質さを知るため(知らされるため)にである。彼は多くの文章(散文、手紙など)を残した。人生の苦悩や絶望、あるいは人間関係の瑣事が、その反感反目を含めて躊躇うことなく記されている。作品の自己解説も少なくない。芸術論への言及も旺盛である。
しかし、これ等の記録類は、それが絵画論に及ぶ場合であっても単なる絵画理論に終わるものではない。生活の苦境を綴る書簡とともに、生の記録である。記録のなかに浮かび上がる、生命と交感し合う「創造性」の暴き立てともいうべき独白である。そして表向きそれが「楽園」に被われているだけに、より悲劇性を帯びて、その結果を絵画のなかにカタルシスさせずにはいない。
言葉は、絵筆以前の「絵筆」でしかなかった。しかし真の絵筆を動かすものでもあった。したがってゴーギャンを語るには彼の散文は不可欠である。ゴーギャンの評論の常道でもある。ただここでは(「ノート」でもあることもあり)、そうした散文を駆使しながらゴーギャンを深く解いた評論(①福永1961、②池辺1982、③湯浅1995)に拠りながら、彼の人生の軌跡を辿り直していきたい。なお、参照箇所はほんの一部を除いて明示していない。明示しえないような叙述になっているからだが、本執筆者の再解釈が入っている場合でも、元になるのは上掲諸書(とりわけ全生涯に及ぶ①③)である。また既述箇所と内容が一部重なる。


4 ゴーギャン再探求~年譜に見るゴーギャン~
 
幼年時代とペルー 18486月、ポール・ゴーギャンはパリに生まれる。父クロヴィス・ゴーギャン(オルレアン出身)は、共和党系新聞「ナショナル」紙の記者。母アリーヌ=マリ・シャザールは、女性解放家でその名をヨーロッパに広く知られたフローラ・トリスタンの娘。父クロヴィスは、時代の政治状況(2月革命と第二共和制、6月蜂起と敗北、ルイ・ナポレオンの大統領当選)による弾圧を避けるために南米ペルーへの亡命を企てる。ペルーは妻アリーヌの故郷であった。
しかし、船上でのいざこざ(船長との反目)の心労からか、心臓発作を起して船上で急死してしまう。たちまち未亡人となった母アリーヌが頼ったのは、祖父ドン・マリアノ・トリスタン・イ・モスコーソ(ペリー駐留スペイン軍大佐)の兄ドン・ピオ・トリスタン・イ・モスコーソで、ドン・ピオはペルー総督をも務めたペルーきっての名族で、さらに本を質せば、スペイン本国の貴族(ボルジア・ダラゴン)の出であった。
大叔父は、母やポールたちのために壮麗な屋敷を与える。首都リマ市内での裕福な暮らしのはじまりである。その生活は6年続く。リマの屋敷で過ごした幼年期の体験は、体内に流れる「高貴」かつ「野蛮」な血に対する潜在意識としてゴーギャンの原点(野生的原点)となる。

少年時代と決意 フランスに戻った一家は、父クロヴィスの故郷であるオルレアンで父方の親族の許に滞在し、ポールは11歳の年に同地の神学中等学校(寄宿生活)に入学する。17歳を迎え、突然進学希望をとり止め見習水夫になると、以後19歳まで下級船員として南米航路(ル・アーヴル―リォ・デ・ジャネーロ間)の周航に従事する。さらに20歳で水兵に転身し、23歳で除隊する。
以後、35歳で画家に転身するまで株式仲買人の仕事に就くが(既述)、きっかけとなったのは、母アリーヌが42歳の若さで亡くなった後(ポール19歳)、ポールたち姉弟の後見人となった銀行家でかつ美術愛好家であったギュスタヴ・アローザの斡旋によるものであった。アローザを後見人としたことは、彼が所蔵する多数の絵画と接する機会をポール・ゴーギャンに提供するもので、結果として絵画への意欲を掻き立てることになるのだが、それはともかく、水夫を経験したことや、海上生活を10代後半から20代前半の多感な時期に送ったことは、幼年期の思い出に繋がる南米航路であったことと合わせ、次に彼の原点となるものであった。

「日曜画家」時代 株式仲買人時代(「日曜画家」時代)は、まず同僚(エミル・シュフネッケル)の勧めとはいえ絵筆を取る機会に遭遇したこと(23歳)、デンマーク出のプロテスタントの信仰心に篤い女性メット・ソフィエ・ガーゾと結婚したこと(25歳)を基点に始められていく。
以下、主だったところを拾うと、株式投資に才能を発揮して高収入を得たこと。すなわち生活の安定。印象派推進役の一人カミーユ・ピサロの訪問と美術学校(アカデミイ・コラロッシ)の夜間部通学による絵画心の醸成。さらに印象派画家たちと知り合い多くの知己を得たこと。同画家たちの作品の収集が開始されたこと。長男エミール誕生(以上26歳)。官選サロンに風景画入選。長女アリーヌ誕生(以上28歳)。アリーヌは母の名前である。
中流ブルジュア階層の生活に見合った新居(フールノー街)への転居。同地で彫刻家ブイヨの面識を得、あらたに彫刻への関心をもつに至ったこと(29歳)。次男クロヴィス誕生。夏季休暇を活かしてピサロとポントワーズに滞在(31歳)。さらにカルセル街に転居。アトリエ獲得。同アトリエで制作に励み、第5回印象派グループ展に出品(32歳)。第6回の同グループ展に出品した「裸体習作」(1880年)がユイスマンスの絶賛を獲得(既述)。三男ジャン誕生。再度ポントワーズにて過ごすピサロとの夏季休暇。そのピサロを通じてセザンヌと接触(33歳)。第7回同グループ展(3月)への出品とユイスマンスの酷評(既述)(34歳)。翌18841月離職(35歳)。
このようにして眺め渡すと、離脱寸前のところまで達していたことがよく分かる。ピサロや彼を介した印象派の人々との多くの出会いや、当時の最先端のグループ展への出品の機会が提供されたこともある。同時代作家の作品(マネ、セザンヌ、ピサロ、ルノワール、モネ、シスレーなど)を数多く手にいれたこともある。「色彩の魔術師」と呼ばれたピサロからの技術的刺激は、印象派的なタッチや色彩の使用を自己矛盾にまで高めさせてくれた。それもある。ユイスマンスの激賞と酷評の両極に立った評価もある。自己葛藤にとってこれ以上にない贈物である。

「画家」の生活と困窮 以上が概ね正の要因であるとすると、今度は負の要因である。なかでも大きいのは離職後加速する妻メットとの確執である。しかし、考えてみれば当たり前である。まだ小さい4人の(離職の年には4男も誕生。したがって5人の)子供たちを抱えて離職が敢行されたのである。妻の立場とすれば、それまで問題にならなった「日曜画家」の夫が我慢ならなくなるのも道理である。
一家を窮乏に追い遣ろうとしているのである。それも「趣味」の絵描きで。1年後には必ず値がつくようになるからと宥めすかされて、致し方なくついていくしかないかった。でももうパリでの生活は望めない。生活費の安いルーアンへの転居しなければならなくなってしまう(18841月)。それでもまだ足らず、今度は自分の故郷コペンハーゲンへの転居。本当なら庇ってあげるべき夫の「本気」も、親族や友人から受ける同情のための話題にしかできなくなる時、彼女は、自分を責める心を育てるよりは、なんの不幸かと、甲斐性のない夫を蔑む自分を正統化する方向に向かうしかなくなっていく。
ゴーギャンは家庭を持つべきではなかった。彼の才能が結婚生活(一般市民的生活)より早くに開花していたなら、この「不幸」は背負いこまなくてもよかった。要らぬ心配からも解放されて自由に絵筆を執れ、絵画的思索に耽けることにも誰からもとやかく言われないで済んだ。しかし、これは結果論かもしれないが、妻メットの存在(と家族の存在)は、画家にとって、ゴーギャンの芸術にとってやはり必要だった。
彼女はその後も夫を否定し続けた。それが正統な否定であるだけに、彼は自分を苛みもした。妻に分かってもらいたいと思い続け、その思いも棄てなかった。虫が好い話かもしれないが、労られたいとも思っていた。しかも妻とは、彼にとって具体的な労りの形態だったのだ。
いうまでもなく妻が果たす役割は大きい。人間関係に置き換えられないほどである。それが、自分の所為で致し方ないことだとしても、ひたすら否定の形で突き返されてくる。そのたびにメットに求めるものが大きくなる。ただそれは一般論的な「メット」であって、固有名詞の彼女ではない。メットから否定されたことで気がつくことのできた彼の中の「メット」――彼のなかの「女性」である。あるいは彼を彼の中で生む「女性」であった。負の要因の最大の「成果」である。自由気ままな画家生活の中ではまるで必要ない「形而上学」でもあった。
でも、まだ絵画的成熟を見込むことがすべてに先行していたので、彼が彼の中に気づくものにはなっていなかい。しかし、生活苦に覆いかぶさる精神的疲労は、次第に彼をして「彼」を見つける方向に誘おうとするのであった。

3次ポン=タヴェン さらに遍歴を辿る。この先を既述では、パリ離脱(18866月、38歳)から第1次ポン=タヴェン滞在(同年611月)、パリ帰還後のパナマからマルティニック島滞在(1887411月、39歳)、そして再帰還後の第2次ポン=タヴェン滞在(1888210月)、ゴッホの呼びかけに応じたアルル滞在(同年1112月)までを辿った。
この先、第1次タヒチ渡航(18916月)に至る間には、第3次ポン=タヴェン滞在(19894月-9011月)とパリでの過渡的生活が介在する。生活状態は相変わらず改善されない。パリでの困窮とポン=タヴェンへの脱出。立ち戻って開いた展覧会でも相変わらず買い手がつかない作品(ただしドガが1点購入)、それでもかろうじて一時的な生活資金の獲得(遺産金)などがありようやく糊口を凌ぐ日々。後の世に綜合主義の輝かしい作品群と認められた18881891年の作品群の雰囲気からはとても想像もつかない現実の悲惨な姿である。
ほとんど二面的である。個人にとってどちらが本当の姿であるかは容易に決しがたい。破乱に満ちた人生は、それを文学作品に翻刻する時、二面的でなくなるが、自画像を描き、これはジャン・ヴァルジャン(『レ・ミゼラブル』)と自ら唱えた時でさえ、その向こうに生活の実態は必ずしも浮かび上がってこない。むしろ確信犯の顔でさえある。
生活は作品化されなかった。彼が試みていたのは、二面性の解き明しではなかった。それどころか二面性の中にはなにもなかった。最初から空洞だった。生活の苦しみも絵画的には空洞意外のなにものでもなかった。生活苦の気休めになることではなかったが、構造的には作品の絶対性を高める一つの枠組みだった。自画像とは枠組みを見詰める顔だった、と見ることも可能である。

イヴの出現 しかし奇跡が起こった。生活が作品になったのである。二面性は前提であってもそれ以上の意味がなくなったのである。だから二面性ではなくなったのである。これは奇跡である。予定項目にも入っていなかった。しかも相手(「生活」)は人物だった。少女だった。準備していたのは、そして予定していたのは絵画だけだった。彼がそこまで描きながらも(ブルターニュ作品群のこと)気がつかなかった彼を超えた世界だった。
後から見れば奇跡ではなかった。超えた絵画世界にとっては必然の一致事項だった。でもそう気づくまでの彼にとっては、幻惑でさえあった。はじめてこの世に生を受けた、それも自分の力で、意志で、母を必要としないで自分を自分で生んだ思いに襲われたので。困惑気味に彼は少女に向い合った。イヴの出現だった。
自分の中に何かがある。自分を生み出す何かがある。かつて意味のなかった生活に向こうから(生活の側から)意味をもたらそうとしているのである。彼の芸術の外に在って、在ることが当たり前であったパリの街の時とは違い、外に在ることが彼の生に疎外感さえ覚えさせる、そういう構造であった。イヴに突き付けられるものでもあった。
存在論的な不在感を伴い、自分そのものである芸術でさえいまや自分の外に在る。自分の外に在るものによって内を生きなければならないことの身体性に彼は立ち竦んだのである。彼は、彼の内部へ、体内へ(「子宮」へ)戻らなければならなかった。そして戻った。母アリーヌが彼ポールをこの世に送り出したように、自分よりはるかに若い自分の子供のような13歳の年齢の一人の現地の少女によって(ただしヨーロッパの社会年齢なら1820歳ぐらいという)。その時、タヒチは固有の意味を帯びた。南海の楽園はどこでも良いわけではなかったのである。タヒチでなければならなかった。その少女との出会いがあったからである。彼女の名前はテハアマナ。『ノア ノア』に登場するゴーギャンのヴァヒネ(「女」)となる少女である。

1次タヒチ パリの話から先に進みすぎてしまった。第3次ポン=タヴェンの滞在から戻って、相変わらずの苦渋に満ちたパリ生活を半年続けた後、再びブルターニュに脱出する。第3次ポン=タヴェン滞在(188949011月)で最後の1か月を過ごしたル・プールデュ(ポン=タヴェン近く)で約半年を過ごし(1890611月)、タヒチ行きを決意する(当初の計画ではマダガスカル島。タヒチ島での生活の経験があったルドン夫人の勧めによる計画変更)。
パリに戻って旅費調達のための作品売立を計画。好条件が重なって売立に成功(30点で約9,860フランを獲得)。売立にも間接的に協力してくれたマラルメ主催による送別会(約30人)の開催を受けた後、189144日にマルセイユを発ってタヒチに向かう。オーストラリアを経由してパペーテ(タヒチ首都)に到着したのは2か月後の189168日。以来約2か年をタヒチで過ごす。所謂、第1次タヒチである。
植民地化したパペーテを嫌って島の反対側のマタイエアに小舎を得て生活を開始。やがて彼の「女」となるテハアマナと生活を共にするようになる。その出会い方*からはじまってゴーギャンを(好い意味で)戸惑わせることの連続となる。その生活振りはタヒチの文化の記述とともに『ノア ノア』に詳しいが、詩情溢れるその書物から浮かび上がるようにゴーギャンにとって、その2年を生きただけで自分の生に意味があったような日々であった。
多くの作品も描かれた。船便でパリに送られた。でも相手にされなかった。吐血による入院、視力の衰えなどの身体的な条件によってもたらされた弱気、さらには滞在資金の欠乏も重なり、遂にフランス帰国を思い立つに至る。そして、最愛のテハアマナとの別れを決意する。彼女は彼の子を身ごもったというのに(ただその後出産した形跡はないという。流産かと指摘されている)。 
なぜ彼女のもとを離れたのか。止むを得なかったからか。彼女の存在の大きさに後から気づいても遅すぎだ。彼は止まるべきだった。本人もそう思っていた。止むなしの思いは結局自分を納得させるものでしかなかった。彼はまだヨーロッパに幻想を抱いていたのである。タヒチの仕事を、成果の程を人々の前に知らしめる必要があった。滞在中、フランスに送り届けていた作品が一向に注目を浴びないのも、制作した当の本人が不在だからだ。作家自身の口から直接語りかけなければならない。それに作品だけのことではない。この2年間に得た芸術論がある。友人・知人の芸術家や詩人・評論家たちに語り聞かさなければならない。遠からず見方が変わるだろう。驚異の眼で見返されることだろう。自分は芸術の最先端に立っているのだ。人々を導かなければならない。使命である。
こんな言い回しで勝手に懐に飛び込まれたのでは、ゴーギャンもさぞ迷惑なことだろうが、これは擁護のつもりである。たしかに彼がこの間に為し得たことは大きかった。自分一人の許に留め置きかねる思いも理解できるというものである。しかし、彼の芸術はすでに先に行きすぎていた。本人による説明でも埋め切れない隔たりになっていた。しかも皮肉なことに、人々の冷笑に晒されてはじめて気がつく溝でもあった。これは、理解できないものを目にした時の人々の無言の抵抗である。けして尊敬には向かわないのである。敬遠で応えられるのである。勇んで進み出たはいいが、いよいよ自作劇(「受難劇」)の最終幕に向け、自分の手で幕を引くことになるのである。

* タイチを訪れて数か月後、ゴーギャンは島探索を思い立つ(実は「女」探し)。ある村で村人に呼び止められる。いっしょに食事でもと誘われる。小屋に入るとその家の女性(40がらみ)から「どこくいくの?」と訊かれる。島のある場所を示す。「何しに?」と。一瞬ためらったが正直に「女を探しに」と答える。そして以下の会話がなされる。――「ヒチア(彼が向かおうとしていた場所・注)にはたくさん、それもきれいなのがいるわ。欲しいのはひとりだけ?」「そう」「よかったら、ひとりあげてもいいのよ。私の娘」「若いのかい」「ええ」「元気はいいのかい」「ええ」「よし。連れてきてくれ」――やがて一人の少女が彼の前に姿を現す。少女との会話――「おれのことが怖くないのか」「アイタ(いいえ)」「おれの小屋に住みたいか、ずっと」「エ(ええ)」「病気にかかったことはないだろうな」「アイタ」――彼は予想外の展開と目の前の少女の魅力に圧せられていた。必要な手続き(内容は不明)を済ませる段になって自分の方が躊躇いを覚えている始末であった。しばらくして外に出る。一家もいっしょについてくる。途中で一件の家に立ち寄る。夫婦が住んでいた。少女(「婚約者」)は彼に紹介する。「母です」と。さっきの女性は? あとで最初の女性(母)から教えられる。二人の母がいるのですと。彼女は実母で、後で紹介された女性は養父母であると。二人の母は島の慣習であった。その養父母から問われる。「あなたはいい人ですね?」そして躊躇いがちに「はい」と答える。言い渡される。「1週間後に、この子を帰らせてください。そのときもし、幸せでなかったら、あなたと別れることになります」と。
そして少女マテアナとの生活(蜜月)が開始されていく。少女の存在だけで彼の芸術は大きく実を結んでいく。
  ――以上はポール・ゴーギャン『ノア ノア』の関係部分(「3」)の要約と補筆。

帰国後の悲惨な日々 189383日、マルセイユに到着したゴーギャンの懐に残っていたのは僅か4フランに過ぎなかった。これではパリに戻ることもできない。それでも彼の帰還を案じていたのだろう、友人モンフレーからの250フランが局留で送られていた。どうにかパリへの帰途を果たすことができた。しかしパリには友人たちはいなかった。出払っていた。帰国を伝えても妻メットからは何の連絡もない。手紙も書いた。一文もないと。必ず返せるから用立てて欲しいと。やはり返信はない。当てはあったのである。もちろん作品が売れるという最も大事な当てが(そのためにタヒチや「イヴ」のもとを離れたのだ)。しかし、偶然が〝幸い〟した。天涯孤独だった叔父(イジドル)が亡くなって遺産が入ることになったのである。彼は彼の親族に救われたのである。
しかし、その一方で、この遺産が、妻メットとの関係を決定的な破局に導くことになる。手にした9,000フランの半額をメットは要求したのである。結局、彼は送金しなかった(ただし後に1,500フランを送金したようであるが)。できなかったのである。余裕がなかったからである。それに自分の意思ではなかったといえ、友人シュフネッフルの「勝手」によって、タヒチ作品やゴーギャンのコレクション(セザンヌほか)がメットの許に送られていたからである。
そして、妻はその一部を無断で売却していたのである。もちろん彼女は正統な権利だと思っていた。一人で5人の子供育てていたのである。しかし、せめてゴーギャンが帰国した時、夫が予定していた(これに懸けていた)タヒチ作品展に思い遣りの手を差し延べて上げなかったのか。手許にあったのは、展覧会に欠かすことのできない作品だった。送り返して欲しいという夫の再三の要請を彼女がようやく聞き入れた時、返送されてきた作品は一部を欠いていた。返事ができなかった訳もこのためであったのだろう。しかし、そうならそうと事情を説明すべきだった。
彼は後に「質問状」を妻宛に送っている。まずはなぜ叔父の遺産を送れなかったのかを、詳細な借金内訳書で示し、その上で「お互いの予算」を明らかにしておこうではないかと呼びかける。自分はこうして内訳を示したのだから、「従ってお前の売った絵に関して、正確に報告してもらわなければならぬ」と綴った。
遺産を見込んでゴーギャンはパリにアトリエを構え、2年間の「(ヨーロッパからの)孤独」を埋め合わすかのようにアトリヘに人々を呼び、呼んでは定期的な夜会を開いた。結局バカ騒ぎにしかすぎなかった。さらに愚かしいのは、「ジャワ女アンナ」と同棲したことである。
悲劇は二度に亙って起こされる。一度はアンナを伴った第4次ポン=タヴェン滞在期間中(1894412月)の出来事(5月の事件)。ペットの猿を肩にしていた彼女ほかの異様な一団(芸術家集団)が鄙びた土地(コンカノール)を練り歩く。からかって石を投げつけた土地の少年を、一行の一人が打ちすえる。やがて親たちが出張ってきて乱闘騒ぎが開始される。巻き沿いを喰ったゴーギャンは足の踝を骨折してしまう。このまま歩くことができなくなってしまうのではないかと危ぶまれる程の重症であった。
二度目は、立ち戻ったパリのアトリヘでの出来事。一足先に帰っていたアンナによる所持品(金目のある品々)の窃盗事件であった。皮肉なことに彼の(一番金目になるはずの)作品には一切手が付けられていなかった。哀憐の情ではない、もちろん値打ちを知らなかった「愚かさ」と同時に彼に対する自己表明(軽蔑)であった。
いずれにしても窃盗事件はともかく、骨折は後々まで彼を苦しめることになる。身体的負傷の苦しみは、彼の自作劇にはおまけのようなもの(〝スケルツォ〟)であったが、相変わらずの精神的苦しみを深めることに加担する点では、実に忌まわしい出来事であった。かくして第4次ポン=タヴェンの「成果」は、タヒチに戻るべき(帰るべき)であるとの思いに彼を転じてさせていくことであった。

苦悩の深まりと最後の決断 ブルターニュでの入院療養期間に彼は何を思い巡らせていたのだろう。帰国後、10か月が経っていた。昨年(1893年)の11月には、念願の個展(場所はデュラン=リュエル画廊)を開催することができた。ドガの尽力によるものである。タヒチ作品38点、ブルターニュ作品6点、彫刻2点の内容であった。しかし売り上げはさんざんだった。購入された作品は計11点で、内6点はブルターニュ作品であった。
しかも期待した作品評価も、以前から高くかってくれていたドガやマラルメ以外はさんざんだった。根本的な否定(嫌悪)にさえ晒された。セザンヌも認めなかった。彼は大変な神経質の気難し屋で、自分に関わりのない世界(ゴーギャンの南太平洋)が、自分の絵画気分に障るのを好まなかった。かつての師のピサロからも敬遠された。またもや剽窃呼ばわりされた(ただし本人に直接だったかは分からない)。
唯一の救いは、ブルターニュ以来彼を尊敬する若い画家たちにさらに刺激をあたえたことであった。だから彼はこう誇らしげに語った――「最も重要なことは、私の個展が芸術的には大成功を収めたことだ」と。その一方で悲しい知らせもあった。マルティニック島行きを共にしてくれた愛弟子ともいうべきシャルル・ラヴァルの死(結核)の知らせであった。やがて彼はタヒチ帰還を決意する。今度は帰らないで永久に暮らす。固い叛意を籠めた決心だった。資金は、パリのアトリエニにある所持品(タヒチから持ち帰った品々)の売却代金だった。彼はまだ知らなかったのである。「窃盗事件」を。
12月、ブルターニュからパリに戻って事件を知った彼に残されていた途は、作品の売立てであった。第1次の際と同じドゥルオ館でその売立ては行なわれた。結果は散々だった。第1次タヒチ作品の傑作の1点である『死霊は見守る』が900フラン(最高額)で売れたほか、ドガによって『オリンピア』(摸作)*450フランで買われた意外は、あまりに不当な安値だった。その直後、彼によって買い戻されることになる。結局、必要経費を差し引くと、残ったのは464フラン80にしかすぎなかった。
不足分を前回のように美術派遣者の特権を得ることで補おと画策するが、待っていたのは新任の美術省長官からの嫌悪感を露わにした激しい拒絶だった。これで終わらなかった。打ちひしがれた彼を待っていたのは命取りとなる梅毒だった。孤独と空しさのなかで連れ込んだ一夜の女から感染させられたのだった。自己責任であるが、なんとも哀れで空しくもある。いずれにしても身体的故障は、骨折だけでは済まなかったのである。
おそらく資金は不足していたこだろう。しかし彼の決断は変わらない。ともかくタヒチに行く。資金不足を推して彼がヨーロッパとの永遠の別れを告げてタヒチに旅立ったのは、18953月のことであった。すでに47歳に達していた。

* ドガは、摸写に深い関心を示し研究もしていた。買われたのは(買ってくれたのは)そのためであろう。


5 ゴーギャンの世界
 
絵画史のなかのゴーギャン ゴーギャンが描こうとしていたもの、それは何であったのか。畢生の大作『我々はどこから来たのか? 我々とは何か? 我々はどこに行くのか?』(以下、単に『我々はどこから来たのか?』とのみ呼称)を前にした時、特にその思いに強く襲われる。何を語ろうとしているのか。それは、風景画を超えた風景画、人物画を超えた人物画――二分できないものである。ではなんなのか。複雑に書かれているわけではない。20世紀の抽象絵画からみれば、鑑賞を妨げる難解さとは無縁である。むしろ個別具体的である。具象の展開である。人物は群像であっても一人々々のポーズに取り立てて不可解な所作はない。動物もいる。人物の近くに場所を占めている。人々と同じ空気を吸っている。どこか島の森に空いた空間。そこだけ開かれた場所。背後には木立を透かして海が覗け、そのすぐ先に別の島が浮かんでいる。彼らを包むのはただ静けさのみ……。
かつて風景画が始まった時も静けさが画面に行き渡っていた。しかし、人々(人物)は参加していなかった。点景でしかなかった。その描かれた世界は、風景画であってそれ以外の何ものでもなかった。それは日曜画家時代にゴーギャンによって描かれていた世界でもあった。その日曜画家は、かつてそういう時期があったことさえ疑われるほどに別の世界のことになっている。すでに記したように、「人物」と出会った彼は、風景のなかではなく風景の前に人物を押し出した。それだけ見ると時代の逆行である。かつての歴史画や宗教画が、人物によって絵を物語っていたからである。前景に人物を配する絵画史的意義である。
今、目の前にしているのは、そういう意味でもヨーロッパ絵画史に深く関わることである。あらためて辿る。17世紀以降の風景画は、まるで約束事のように人物を風景の一部とした。でもこれは風景のための人物である。たとえば人物画の歴史として見れば、風景画以前では人物は絵画主題である。そして前景を占め、ドラマを体現している。風景はドラマのセット(背景)である。風景画が一ジャンルとして成立した17世紀以降の風景画は、風景自体をドラマとすることで人物は内蔵化されることになる。そして無言のままである。しかし無言であっても、ドラマ化された風景との一体のもとに置かれている。したがって同じ点景でも、その姿形は、拡大すれば歴史画のように前景を演じることも可能視されなくもない。コローにも言える。むしろ彼の狙いでもある。コローと同時代のミレーは前景に人物を置く。でもその人物は大きさに制限されることなく、絵画的意味を常に一つにしている。風景の中で必要に応じて採られたポジションであり、絵画的大きさである。
しかし印象派の風景画のタブローのなかの人物は、姿形が崩れて気配化に移行していく。すでに前景的人物像とは役割を異にし、人物(もちろん風景画の中の人物)として取り出してみれば多くは定立しがたい。ディテールではなく、断片(フラグメント)でしかないからである。それでも人物を必要とした。伝統的な自然観の表れであろうか、そうだとすればオランダ風景画から繋がる自然観が、人物から離れる必要を感じさせなかっただけではなく、「感覚」を高めるためには積極的に配置すべき必要素材であったさえと言える。それが、印象派が行き詰った時に人物は連動して絵画的位置を失うに至る。したがってこれは人物を通じた風景画(17世紀オランダ風景画~印象派風景画)の終焉的現象であったとも言える。ゴーギャンの風景画内の人物が抱えていた問題(「矛盾」)でもあったのだ(性急で短絡的かもしれないが)。
かくしてゴーギャンもまた絵画史の一員となって然るべき位置を与えられるが、絵画史的理解は、理解を深めさせ、体系性による安心感を与えてくれる分、画家から我々を遠ざける副作用も含まれている。絵画的苦悩を平準化してしまうからである。ゴーギャンの大作『我々はどこから来たのか?』への道は、絵画史的記述に埋没させてはならない個人的権利である。セザンヌやゴッホとの違い、とくにセザンヌとの違いがそれを教えてくれる(再発見させてくれる)はずである。

ゴーギャンとセザンヌ 印象派への矛盾は、セザンヌのそれでもあった。人物に問題を絞れば、セザンヌは構図自体を絵画化することで人物の前景観を獲得した。「水浴」の人々(とりわけ女性たち)である。裸婦群像(一部男性)とその身体が創りだす、ある角度に支えされて斜めに伸び上がる幹との重層性。限定された三角形の視界を覗き窓にして背後を設える人工的な力学的な構図。セザンヌが辿り着いた自然哲学である。『大水浴図』(1906年)を目にする時、その近代的な知的感性が、同時にもう一つのテーマを追い求めていたことを知る。セザンヌの代名詞とも言うべき「サント・ヴィクワール」の山景と麓の景色を描いた一連の風景画である。「平面立体」ともいうべき二次元性を超えた世界が描出されている。水浴ともども20世紀美術の先駆けとされる作品である。かくして絵画史的意義と位置付けはゴーギャン以上となる。
セザンヌを前にしてあらためてゴーギャンの絵画の特色を知る。到達した絵画的な高さと深さである。セザンヌが別立てでしか達成できなかった絵画世界を、ゴーギャンは一つとして達成していたからである。「大水浴」と「サント・ヴィクワール」はゴーギャンのなかでは一体化していた。二者ではなかった。可能にしたのは人物である。ゴーギャンの人物は、「大水浴」の前景を占める人物たちとはヒューマニズムが異なる。セザンヌは「大水浴」の人物から表情を剥離した。人格を否定し生得性に冷淡であろうとした。セザンヌにとって人物は物体だった。既知の人間であってはならなかった。前景とする条件だった。しかし理知的なものではなかった。感覚の求めに拠ったものである。感覚によって創り出された知性であった。セザンヌに底流していたのは、印象派的内面であった。
一方、ゴーギャンは、タヒチで前景に人間を見出した。出会ったと言い換えてもいい。ブルターニュで獲得した前景観のなかでは、必ずしも人間は必要とされていなかった。必要であったとしても戯画化から先に出るものではなかった。技量の不足ではなかった。彼は人間の形ではなく心の形を求めていたからである。気がつかなかった(気がつけなかった)のである。つまりブルターニュは、知性の範疇であったからである。ケルトの文化とは、近代ヨーロッパの異質であっても異文化ではなかった。異質は、色面の構図化(フォルム化)で彼を自足させた。ブルターニュに止まる限り精神は安定し、色面化によって塗り替えられた個人の世界は、全体性にも行きわたった。究極性も兼ね備えていた。
にもかかわらず、ゴーギャンの体内には次第に精神的な不足感が広がりはじめ、同時に違和感を覚え始めていく。達成された究極性が揺らいだからではない。究極は達成されたのである。ブルターニュは彼によって世界化されたのである。だから違うのである、彼を襲うものは――。なぜならそれは、体内というより「胎内」が覚えた不足感だったからである。ヨーロッパ的な精神とは異質であるだけでなく、まさに異文化的な胎内感であった。彼の血と幼年期体験が再発させたのであった。彼に固有の「特殊」だった。修辞的に言い表せば、彼の「体内」はヨーロッパであっても、彼の「胎内」はヨーロッパではなかった。セザンヌとの決定的な、そして解決のつかない違いだった。

タヒチの意味 そして、結果としてのタヒチだった。南海への回帰だった。回帰を果たしたが時、彼の前に現れたのは、「人間」だった。戯画化の必要のない生得の姿を晒した、彼の中の同血に触れるマオリ人だった。
重要なのは、逆説的かもしれないが、それをゴーギャンが「知性」で感得できたことである。感性ではなかったのである。感性であっても知性によって生成されたものであった。感性なら彼は絵を描く必要がない。楽園の生活に浸るだけで充分である。しかし、ゴーギャンが浸ったのは、マオリ人を胎内に宿して「人間」を産み出す生殖活動であった。それは彼のなかの両性を生きることでもあった。
彼の南海行きは、神の摂理に反する両性具有だった。肉体的なことではない。精神的なことである。故に反ヨーロッパ的であって、反キリスト教的にならざるをえないのである。しかも彼の悲劇は、それがヨーロッパ流には内部解決がつかないことであった。たとえば秘密結社に加担しても彼は癒されなかったであろう。とは言え、南海にあっても両性具有から解かれることはなかった。前者(ヨーロッパ)は「知性」でしかなく、後者(タヒチ)では「知性」がかえって彼を疎外するからである。タヒチ帰住が、彼の生を絵画の中でしか保証しなかった現実は、パリ在住時とはまた違った悲惨の彼を見ることに終わるからである。テハマナの胎内に還ることができていたなら、あるいは、さらに深く広い『ノア ノア』の最中で再生的な生存感と向かい合うことができていたかもしれない。
あらためて彼の畢生の大作『我々はどこから来たのか?』に目を上げる時、結局、両世界を生きられなかった「知性」による作品であることに合点が行く。そこに描かれたマオリ人が、説かれるように実際のマオリ人というより彼であるのも、仕組みは上記のとおりである。すなわち彼の胎内から産み出された人々だったからである。しかし本質的なことは、それが、その行為が、あらたな絵画言語を産み出したことである。彼の「マオリ語」をである。
ここに示されたのは、前景観を得ただけに終わらない、表現を突きぬけた絵画的真実のパノラマである。色彩性と色面化を内蔵した構成感に人物の姿態と表情が叙景されて、人物の個別性を「われわれ」として横並びに同化させる背後の自然は、すでに背景ではなく内景である。カンヴァスの左上に記されたタイトル(フランス語)以上に画面は哲学的である。絵画が辿り着いた哲学であり、哲学が辿り着いた絵画である。ここで哲学というのは、感性ではなく知性だったからである。哲学とすることでより内向性が付加されるかである。しかも南海で哲学と言う時、哲学がもつ一次的なイメージが希薄化されるからである。ゴーギャンが自作解説の締めくくりに使った「一つの哲学的な作品を仕上げた」(18982月モンフレー宛手紙の一節)の意味にも連なるはずである。
かくして哲学として描かれ、描き切ったそのタブローは、絵画芸術上の所与の性状である感覚的獲得に対しては徹底的な正面観で臨んで、感覚的寡黙を漲らせている。また日本の屏風絵のような「多視座」を備えながらも平板化から遠く離れて、壁画のような横長の画幅にも色彩と色面よる奥行きを追加している。ヨーロッパ絵画にあたらしい絵画空間を創成した一作である。悲惨なゴーギャンのためにあえて言挙げしておけば、20世紀を目前にしてその直前に為された人類的遺産の一つである。それ以上にタヒチの意味はないと言えるほどに――。


6 ゴーギャンの最期

タヒチ帰還 再び年譜的記述。それにしてもタヒチ帰住を待っていたのは、〝反ノア ノア〟のような島嶼生活だった。アフリカの枯れた草原で序々に衰弱していくライオンにように、芸術の王者は、事切れる最晩年を孤独の日々の中に送る。
タヒチに戻ったのは、189599日であった。亡くなる年から逆算すると8年前のことである。さらにパペーテは俗化されていた。2か月後、移り住んだ地は、眼前に神秘のモーレア島が浮かぶ西海岸のプノアウイアであった。以後、第2次タヒチと呼ばれる約6年間が開始されていく。
家(小屋)を建てた。女性も来た。でもゴーギャンが再会を求めていたテハマナは、別の男と所帯を構えていた。責められない。それにタヒチでは当たり前のことである。やがて新しいヴァヒネ(「女」)を求めて彼女との生活がはじめられる。14歳のパフラである。彼女との生活をはじめて、テハマナがいかに大きな存在であったかを知らされる。健康状態の悪化(4次ポン=タヴェンで骨折した足の傷の悪化および梅毒の後遺症など)や金銭的窮乏が、それに精神的な追い打ちをかける。終にその年は作品も残せないことになる。
窮状をフランスの友人たち訴えても送金はない。ただし、まるきり援助の手を差し伸べなかたわけではなく、ゴーギャンの求めに応じて画策に走ったモンフレーによる支援会の呼びかけや、シュフネッケルによるゴーギャン援助のための政府宛嘆願書の提出がなされた由である(湯原著200頁)。いずれも不成功に終わるし、いずれにしても直接の現金支援ではなかった。
致し方なく島の唯一の金融機関である農業金庫から二度に亘って借入(1,000フラン)を行なうことになる。本当ならパリの画商たちから送金されてしかるべき権利をもっていた。画商たちが彼の作品を預かっていたからである。しかし一度の例外を除いてほとんど送金らしい送金も果たされなかった。彼等はゴーギャンの作品の値が上がるのを待っていたのである。したたかでかつ悪徳とさえ言えるパリの画商の一面を福永武彦の一節から紹介しておきたい。

アンブロワズ・ヴォラールは當時の若い有能な畫家たちのパトロンとして最も著名な畫商だが、ことゴーギャンに關しては豺狼のように振舞ってゐた。確に彼は催促に應じてちびちびと金を拂いはした。しかし自分の倉庫にゴーギャンの多くの傑作を仕舞ひ込んで、この畫家が異國で死ぬのを徐に待つてゐたわけである。ゴーギャンに眼をつけたことは先見の明には違ひないが、それは同時に未來の華々しい儲けをも約束してゐた。しかしその未來はゴーギャンには約束されてゐなかつた。(同書220頁)

さらに健康は悪化の一途を辿っていく。翌年(1896年)の7月、パペーテの病院に入院せざるをえなくなる。ただし「貧窮者」扱いであったという。入院1か月で小康を得る。そして1点の自画像を描く。題名は『自画像―ゴルゴダ近く』(1896年)。自分の行く末を知っていた受難の姿(自画像)に描かれているで。アルルのゴッホの許に送った交換自画像(『レ・ミゼラブルの自画像』1888年)の、どこか超然としてふてぶてしいまでの面構えはすでにない。
しかし、いつもそうであったように最後のところで不思議と救われる。肖像画と絵の家庭教師の依頼の話が舞い込んできたのである。さらに上記した唯一の例外である画商からのまとまった送金(ヴォラールではない)があり、一時期(18973月まで)とはいえ、困窮生活や精神的苦悩からは解放される。それに合わせせるように作品の数(多くの傑作を含む)も増えていく。しかもその作品は自画像とは異なり、平安と静謐のなかで至福の表情さえ浮かべる画面である。生活の困窮は何一つとして意味をなさない。芸術家にとって作品とは何か、彼の制作行為は、その秘密の入口にいつも佇んでいる。
その彼でも耐えられない精神的苦悩が、安寧な生活を一瞬にして潰えさせるかのように一通の手紙と共にやってくる。最愛の娘アリーヌの死の報せであった。肺炎を患い19歳の若さで急逝してしまったのである。冬の舞踏会の帰りの寒さが引き金であったようである。長く会えないでいてもゴーギャンの心の中にはいつもアリーヌがいた。彼のなかの家族への愛の象徴でもあった。第1次タヒチ時代には娘のために書いた小冊子(『アリーヌための手帳』1892年末~93年初)も用意してあった。ゴーギャンの無償の愛の対象であった。味わったことのない、どうして良い分からない衝撃だった。
待ち倦んでいたかのように生活上の苦悩が舞い戻ってくる。まずは現住地からの退去問題。地主が亡くなって土地を明け渡さなければならなくなったのである。幸いすぐ近くに土地を入手することができた。しかし、そのためには新住居の建築費と合わせてまとまった費用が必要であった。入植者援助の名目で前回と同じ農業金庫から融資を得ることができたが、融資額(借入額)は1,000フランで融資返済期限は1年の契約であった。
当てにしていた母国からの送金は再び途絶えた。長女の死を受けた精神的ショックもあったに違いない、健康がまたまた悪化の兆しを見せることになる。足の傷が潰瘍となり、両足に広がって痛みで眠ることもできない。鎮痛剤依存。時々襲われる心臓発作。その他にも内蔵の痛み。恐ろしい病気になったと噂され、人々も寄り付かなくなる。唯一の慰めは、友人に手紙を認めることであった。

子供時代から、私は不幸に襲われどおしだ。幸運や喜びに恵まれたことは皆無。いつだって、すべてが私に敵対し、私は叫び声をあげる。神よ、もしあなたが存在するなら、不正義に対し、悪意に対し、私はあなたを非難する、と。(中略)
やがて興奮がおさまり、激しい怒りの感情が弱まると、臆病げに、こう考える。あぁ、眠れない長い夜は、何と人を老けさせるのだろう、と。麻痺状態から脱した今になって、ようやく私はアリーヌの死の悲しみをしみじみと感じているのだ。そのうえ、病気がぶり返した。本質的には神経質なので、今では精神的苦悩が肉体的苦悩以上に私を苦しめる。よほど長いこと静養しないと治りそうにない。しかし、いったい、いつ?
                    (モラール宛、18978月)
もはや一銭もなく、中国人の店でさえ、パンを買うのに、もうつけがきかない。歩けさえしたなら、毎日でも山に行って食べ物を探すのだが、それもできず万事休す! 去年、死ななかったのは間違いだった。死んだ方がましだったのに、今じゃ、そうするのもバカげている。でも、もし次の船便で何も届かなかったら、死ぬつもりだ。(……)これはもう生活じゃない。そもそも私が病気を治せないのも、そのせいなのだ」
                   (モンフレー宛、18978月)
画商もなく、年々の食いぶちを私に見つけてくれるものもないとなると、この先、どうなるんだ? すべてから解放してくれる死神以外、見当たらないじゃないか。
                      (同氏宛、18979月)
私の絵は売れないのだから、今後も売れないままでいるのがよい。そのうち、私が神話か、あるいはマスコミのでっち上げだと、世間が信じる時が来るだろう。そうしたら、あの男の絵はどこにある、ということになる。事実、フランスにはまとまって50点もないのだ。
                      (同氏宛、189710月)
私が望むことは、一にも二にも沈黙、ただ沈黙あるのみだ。静かに、忘れられたままで、死なせてほしい。もし、まだ生きていなければならないなら、なおさら、そっとしておいてほしい。私がベルナールやセリュジエの弟子にされたって、かまうものか! もし私の絵がよいものなら、何をもってしても、その価値を曇らせることはできないだろう。もし駄作なら、それに金めっきをし、商品価値をつけて人目をだましたところで何になろう。いずれにせよ、世間は、私が絵空事で暴利をむさぼった、と非難することはできまいよ。
                      (同氏宛、189711月)

一部補足すれば、8月の「子供時代の不幸」とは、亡命中の船上で父親が急逝したこと。ペリーを離れたことも含まれているかもしれない。同様に8月の「中国人の店で」云々の中国人の店とは、植民地政策の過程で1860年代に労働力として導入された中国人が、やがて商業に転じて設けた店のこと。彼らの成功をヨーロッパ人は快く思わなかった。さらなる中国人の入植に対する反対運動も展開された。ゴーギャンも加担している。侮蔑感が籠められた諧謔的な言い廻しとして使われている。序ながら、現在でも「中国人の店」は盛況である。夕方になると、その延長にある屋台がパペーテの港に繰り出され広場を埋め尽くす。11月の「ベルナールやセリュジエの弟子にされたって」は、綜合主義に関する剽窃者呼ばわりされた一件のことであるが、セリュジエ(ナビ派)に関してはゴーギャン一流の自虐であろう。
以上、月を追う形で引いたのは(ただし湯原著の文脈をもとに同書より孫引き)、次の月の12月にゴーギャンが自殺未遂(砒素服用)を企てるからである(「年譜」によっては未遂事件の時期は18982月)。結果は失敗。量が多すぎて吐いたしまったためである。さらにこの間の生活と精神状態が重要なのは、問題の大作『我々はどこから来たのか?』が、自殺未遂を経てその直後から書きはじめられ(正確な月日は不明)、次の年(1898年)の前半期までに完成されたと考えられているからである。なお、従前はゴーギャンの言(手紙)によって、自殺を前にして1か月で一気に描きあげられたとされていたが、近年の研究成果ではゴーギャン一流の虚構化ではないかと考えられている(湯原、218頁)。死の淵から這い上がった後で描かれた方が、より迫真的に思えるのだが……。しかしゴーギャンはそう思わなかったのだろう。

その後の行路 未遂であろうがそのために大作が描けようが、生活は生活であった。相変わらずの貧困生活である。それも傍目も哀れな。そのお陰で土木局の製図係の職にありつくことができるのも相変わらずの最後のふんばりである(日給6フラン)。しかしパペーテまでの通勤は今の彼には荷が重く、パペーテに居所を移すことにする。しかし、パペーテでの生活に馴染めないパフラは新居を出て実家に帰ってしまう。何を思ったのかそのパフラを家宅侵入罪で告訴する。彼の留守を好いことにプナアウイアの家から品物を持ち出してしまうからであった。しかしその後、彼女との生活は再会され、男の子も生れる。エミールの名がつけられる。母国の長男の名である。
再び生活が安定する。パリからの送金(絵の売買代金)もあったからである。健康も味方し小康状態を得た。再び作品が生れるようになる。大作以降の作品は、叙情性に富むもので、大作が畢生の叙事詩だとしたら、精根尽き果てた後に訪れた諦観の境地で彼岸性さえ帯びた作品群(馬シリーズほか)であった。作品だけではなかった。生来の反権力的精神が、タヒチの植民地政策に向けられる。祖母フローラを彷彿させる言論活動(18996月―19008月)への参画であった。
この間、フランスから展覧会への出品の誘いがかかる。かつて(10年前)彼の許に集った若い仲間たちからの誘いである。すでに創作意欲を失っていた彼は、「私の仕事は終わったのだ」という旨の思いを認めて断りの返事を出す。実際のところ、新しいカンヴァスも底をついていたのであった。意欲以前の状況だった。しかし、内心は剽窃呼ばわりした者たちを抱えこむグループに対して、彼のプライドが許さなかったのだった。
そうした折、かの豺狼まがいの画商ヴォラールから突然誘惑の言葉がかけられる(1899年末)。あらたな契約への勧誘であった。年間決まった点数を描けば、月額前払いで300フランを送金するという申し出であった。前年にはその画商から間接的に作品の一括買い取りの誘いもなされていた。友人たちの協力もあってヴォラール画廊で大作『我々はどこから来たのか?』をはじめとしたタヒチ作品8点の展覧会が開催されたからである。ヴォラールは、商才の鼻を利かせて、あらためてゴーギャンの将来性に手応えを覚えていたのである。しかし、8点まとめての額は1,000フランでしかなかった。報告を受けたゴーギャンはこの安値に激怒し間を取り持とうとした友人に不信感さえ抱く。第1次タヒチ滞在費の捻出のために開いた展覧会では1点で1,000フラン近い値がつけられていたのである。
すでにヴォラールへの反感を募らせる思いも湧いてこなかったのだろうか。生活が優先されたのだろう。それに破格の待遇でもあった。かくして19003月、契約が締結されることとなる。

最後の島 タヒチの生活に見切りをつけ、ゴーギャンがあらたに向かった先は、タイチ島の北東1,400キロに位置するマルキーズ諸島であった。同地はフランスの植民地であったが、原始の生活が望める地として移住を決意させたのであった。1901910日パペーテを発って、16日、最後の島となるヒヴァ・オア島に到着する。入港した港で一人の東洋人と遭遇する。定住に当たって世話を受けることになる青年キイ・ドン(通称)である。政治犯として流刑の身であった。もとは東インドシナ半島のアンナンの王族の出で、フランス留学中に革命思想に触れ、フランス植民地であった祖国の解放運動に参加した挙句に逮捕されて島送りとなっていたのであった。
いずれにしても彼との邂逅もあり、当初目指していた島をここヒヴァ・オア島に変え、最後の島の生活を開始していく。拠点確保までにはさらに曲折を経たものの、1か月後には自分の土地を手に入れ、家も新築される。「愉しみの家」と名付けられた2階建ての広々とした住居兼アトリエであった。タヒチ島のゴーギャン美術館に模型が展示されている。
当初はまさに名付けられた家の名前のような日々を送った。多くの人を招き歓談した。夜の来客も繁くあった。デカダンスだった。頽廃的な日々に区切りをつけるように新たなヴァヒナを求め同棲に漕ぎつけた。マリー=ローズという年若い女性だった。それから約10か月、彼は再び精神的にも安定した穏やかな日々を手に入れ、ヴォラールとの契約を果たすための制作にも励んだ。マリー=ローズは女児を出産した。里の親元での出産だった。そのまま戻らなかった。
すでに秒読み段階に入っていた。周期的にやってくる健康悪化も状態の悪化を進行させながら繰り返された。しかし健康悪化に抗するかのように反逆者の血が再び騒ぎ出した。最後の島民を巻き込んでの反権力闘争だった(19023月)。役所だけでなく教会も敵に回してしまった。意気軒昂でも健康の方は悪化の進行を待ってくれない。同年の9月だった。傷口の化膿の進行が著しく痛みも耐えがたいものになった。致命的な結果を招きかねない視力の衰えにも見舞われるようになった。島には正式の医者はいなかった。
治療のために帰国を考えはじめた。しかし相談をかけた相手(モンフレー)からの返事は予想外なものだった。すでに伝説の人物になっている、今帰るべきではない。あなたの「敵」たちのためにも。ともかくあなたはすでに「美術史」のなかに移行してしまったのです、と。その年の12月に受け取った返信だった。
終にゴーギャンは観念したのだろうか、その月から翌年にかけて回想録を書きあげた。同時代画家に対する評言や芸術論をはじめとして文明論などに自由に筆を走らせた。『前後録』と題されて出版を企てた(19032月)。しかし間に合わなかった。刊行は死後を待たなければならなった。
彼の最期は、芸術のなかで迎えられなかった。偉大な足跡に見合うものとは決して言えなかった。再度の反植民地闘争の最中だった。住民側に立った彼は結局逆に被告の立場に立たされることになった。憲兵に対する名誉棄損だった。金庫3か月の判決と罰金が言い渡された。死の1か月前の1903331日である。
控訴を決意する。上級審はタヒチ島であった。直接赴かなければならない。費用は甚大である。しかし残された体力も、決意を実行に移す余力を残していなかった。4月初め、それまで治療を頼んでいたヴェルニエ牧師宛に往診願いの伝言が届けられた。歩けず見えずの状態になってしまったという内容だった。ゴーギャンの面倒は、「愉しみの家」の建築を受け負った大工のティオカだった。隣人でもあった。彼の最期を看取るヴァヒナはもうどこにもいなかった。絵のモデルにもなった「イヴ」たちは、絵のなかから抜け出てこようとしなかった。
モルヒネで痛みを抑えてもらった。裁判資金に当てたいと旧作を送って送金の依頼状をヴォラール宛に認めた。さらに最後の気力を振り絞って、憲兵隊長宛に長文の決意表明の手紙を認めた。発送を終えたのは4月下旬だった。すでに精根が尽き果てていた。
そして、終にその日が訪れた。58日だった。早朝、ティオカが牧師のもとに使いに出された。訪れた牧師の前で意識の朦朧とした画家は、今が昼か夜かも分からなくなっていた。それでも牧師の姿を認めることができた。いつものような文学談議を交わすこともできた。彼の気分が落ち着いたのを見計らって牧師はその場を一端立ち去った。それからほどなくして、呼んでも返事がないのを怪しんだティオカが2階に上がると、そこに見たのは、すでに動くことのなくなっていた画家の姿だった。事切れていた偉大な画家ゴーギャンの姿だった。時刻にして午前11時頃のことだった。
翌日9日、同島のカトリック教会で葬儀が執り行われた。埋葬されたのは丘の上の教会墓地であった。遺言であった「オヴィリ」(両性具有の野人像)の設置は、はるか後年の1973年を待たなければならなかった。
 
 
おわりに

ゴーギャンとは何者なのか。ゴッホではなかった。もちろんセザンヌではなかった。誰でもなかった。小説中の「主人公」であっても、彼自身は何者でもなかった。彼が画家だったからである。文学作品に転化されても絵が生れるわけではない。転化されなければならないのは作品の方だからである。したがってこの道理でいけば、彼から作品が生れたのではなく、作品から彼が生れたのである。ゴーギャンは作品によって創られたのである、ということになる。
しかし、その個性は、作品のためのものだけではなかった。困窮と不安・挫折、異国移住(帰住)と孤独、愛と渇望が、このように剥き出しの人生として送られた作品と等身大の個性は、それが作品の必然と入れ替わる、個別に所有された――創成されたというべきかもしれないが――もう一つの人格を通じて、一人の個人を、人生の途中から画家にしか導かない内部生命の再発見者の役を担わせることになった。多かれ少なかれ画家(芸術家)であるとはそういう個性を分有し合う人々であっても、ゴーギャンであるとは、その個性が作品に直接反映されない分、画家であることの人間の秘密を、その作品が視覚的に訴える一次的な訴え方と表裏の形で合わせもっている存在者であった。
絵は誰にでも描ける。子供でも、知的障害者でも、精神異常者でも。否、むしろ彼らの方が芸術の近くにいる。しかしゴーギャンの芸術の近くにはいない。ゴッホも然り。あるいはもっとも遠い。作品の必然が、精神の過剰と相殺し合わなければならないゴッホ(の晩年)と対極をなして、しかも破綻を知らない側に立つもう一つの生命感の在り様。ゴーギャンの苦しみとは、破綻できない精神の苦しみであったことになる。
ブルターニュ作品の中に『黄色いキリスト』『緑のキリスト』で知られている対になる2点のキリスト像(1889年)がある。ともに磔刑図であるが、前者は十字架に磔けられた、後者は地上に降ろされたキリスト像である。人の罪を背負って死んだキリストは、やがて人の苦しみを救うべく復活する。しかし、ゴーギャンの苦しみは救えるだろうか。少なくとも同じキリスト像は南海の島々では描けない。描けない理由を画家は知っている。それを、「破綻できない精神の苦しみ」故としてしまうのでは、いささか味気ないが、人間精神の苦しみの内、ゴーギャンが遺したそれは、人類の遺産である。やはり、もう一つの掛け替えのない「作品」である。


 ※

渡航記(付記) その船は横浜港を発って、太平洋上を12日余り波に揺られ、払暁の蒼い闇のなかで最初の上陸地となるタイチ島に着いた。船は、着岸を前に島の眠りの醒めるのを待って、パペーテ港の沖合で静かに巨大な船体を浮べていた。長い航海で漂流者に似た思いを味わっていた船上の人々は、デッキの手すりに身を乗り出して、甲板から陸地に目をじっと凝らしていた。夜の明けない島は、気温こそ熱帯を思わせても、その正体をまだ闇に沈めて明かそうとはしていなかった。
火山島だった。それだけは分かった。岩山だったからである。調べてはなかったが、山の高さは、一嶺が2237m(オロヘナ山)、一嶺が2068m(アオライ山)だった。島の大きさに不釣り合いな高さを上空に誇って、火山島に相応しい険しい岩山の稜線を延ばしていたのである。神秘の光景だった。
橙色の街路灯が闇の下で連なっていた。海岸通りだった。少しずつ白みはじめていく闇のなかを、まだしばらく続けられる眠りを妨げないように、船はゆっくりと船体を陸地に寄せていく。街路灯のもとを通過していく一台の車が駆け抜けていく。島の最初の動きだった。でも間歇的で、それも次のライトが現れるより現れない方の時間が長い。
まだ明けるまでにはしばらくかかる。それに明けないでもかまない。火山島のシルエットが薄れてしまうのを惜しんでいる。空けるに抗する思いでいる。乗船者の一人には上陸を急く気持はなかった。その思いは彼だけではなかったろう。
わずか1日だったが、早朝から出航の深夜までたっぷりとタヒチ島に浸かった。島も一周した。決めていたようにゴーギャンの思いで巡った。華やかなパペーテには同じように複雑な思いを抱いた。ゴーギャンの滞在時(帰住時)と変らないだろうエメラルド色の海は、まさしく碧く透けるように美しい南国の海だった。サンゴ礁に当たった海上の浪が、大きな白い盛り上がりを作って島を遠巻きに取り囲んでいる。浪音が海面のきらめきの上を伝わってくる。小舟が海上に漕ぎだされている。
海岸沿いを延びる車道の沿線には、熱帯植物に取り囲まれた家々が並んでいる。背丈を抑えたコンクリート造りの平屋建ての住宅は、黄色や橙色や青色で塗られている。どの家にも車がある。大きな乗用車が横付けされていることもある。ランドクルザーも停車している。プリントの半そでシャツに短パンを穿いて車にホースで水を浴びせている。原色のカラフルなワンピースに身を包んだ若い女性が子供と庭で遊んでいる。子どもたちは裸姿を太陽に晒している。
次第に家の姿が無くなっていく。岩場の海岸線が目の前に延びる。時計回りに島の反対側に向かう。右回りは定石のようである。やがて右手奥に島が見えてくる。「ちいさなタイチ」と呼ばれる、ひょうたん型をしたタイチ島のもう一島(陸続き)である。その島に向かう道を横切りさらに進む。辺りは景観を一変する。山裾から延びた海縁に広がる比較的広い平坦地に人家が散在している。マタイエアである。道路を左に折れ少し奥に入る。すぐに海岸縁に出る。ゴーギャン美術館が待っている。目当ての美術館であり、マタイエアの土地である。美術館は、最初のタヒチ滞在で彼が過ごした場所の近くに建てられている。
でもこれが美術館? 「本館」から受けた強烈な第一印象だった。なにか勘違いしていたに違いない。特別なものが観られると思いっていたのである。出発の前々年、『ゴーギャン展』(国立近代美術館、200979月)で本邦初公開の大作『我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこに行くのか? D'ou venons-nous? Que sommes-nous? Ou allons- nous?』を観ていたこともある。ここで(現地)でしか観られない日本未公開が待っていると決めつけていたのである。
なにも観られなかった。それにすべてレプリカだった。でもそれは好い。哀しかったのは、「本館」が美術館の建物構造ではなかったからである。極端に言えば、屋根が架けられているだけの体の良い小屋だった。壁と屋根の間には隙間があり、壁と床の間にも隙間があった。風が吹き抜けるも構ない。その時は吹いていなかったが、でも風と共に戸外の砂や木葉が、部屋の隅や壁際に溜っていたのである。掃き寄せられていたのかもしれない。それほどの量ではない。でも量の問題ではない。
つまるところが美術館ではなかったのである。好いところ野外博物館だった。実際、野外は素晴らしいのである。石造物やモニュメントも緑の芝生のなかに建てられている。回りの雰囲気とも合っている。見方を変えれば好いだけかもしれない。しかし、なんとも侘しい。「愉しみの家」(最後の島ヒヴァ・オア島の住居兼アトリエ)のミニアチュールや写真類の類が唯一の救いだった。
頭の中を切り替えた。今立っているマタイエアの地にゴーギャンが感じたものに想いを致し、『ノア ノア』を著した思いを共有し、彼をカンヴァスに駆り立てたマタイエアの自然だけを思おうと。
ゴーギャンが蔑にされているとは思わない。タヒチの人々にとってゴーギャンが何者であるのか、観光資源だけにしかすぎないのか、かつて植民地政府(側)の一員であった者、結局、他者にすぎないとしか思われていないのか、何一つ知らない。
しかし、たとえばそう思われていたとしても、ゴーギャンにとってそれが不満であるわけではない。淋しいことであっても、本質的なことではないからである。実際、こうして日本からわざわざ観に来ようとしている者たちがいることだって、思いの質に関して言えば、その延長ごとでしかない。むしろ、ここにオルセー美術館がないことこそ、それどころか「野外博物館」しかないことこそ、ゴーギャンの意義が、100年を超えて今に伝えられているにちがいないことの、なによりの実証である。もちろん逆説的であるが。
 タヒチの現状はけして好ましくない。先進国(「先進文明」)の責任である。しかし、その責任に囚われることなく、言い方を換えれば責任転嫁せずに、島の自然(海・山・森など)が心を繋いでくれている。すでにゴーギャンの時代、その心が蝕まれていたとしても、その外形たるパペーテが、海と空の窓口として今も機能しようとしているのは、フランス政府が構えた施設だとしても、引き続きゴーギャンの思いの再現を外に向けて開いていることであった。経済だけではない。それが、気づかれようと気づかれまいと、「心」である。自然を失しってはならない背景――内景となる背景である。
その思いは措くとして、さらに島を回って、美しいモーレア島を前にしたタヒチ博物館を観た。充実していた。出自の文化に誇りを持った展示内容だった。ゴーギャンが第2次タヒチ時代の6年間を過ごした場所、プナアウイアだった。でもゴーギャンの出番はなかった。
港に戻って夕方を待った。おいおい、「中国人の店」(屋台)が立ち並ぶからである。やがて船着き場の広場(結構の面積がある)を埋め尽くすような数多くの屋台が並んだ。同船の数人の若者たちと杯を交わした。土地柄でフランス人の姿も多く見かけた。酔った一人の若者が、日本語を引っ提げて近くに席を取ったフランス人(男女の若者)のテーブルに割り込んだ。招かざる客でもなさそうだった。お互い言葉が通じないことを肴にして、意味が通じないことに一喜一憂しては、そのたびに手を大きく叩きあって笑い声を立てていた。
夜のパペーテの街中をすこし歩いた。ちょっとした「事件」があったが触れないでおく。パペーテの夜は店の閉まるのも早い。夜は神聖なものである。人々の血の中には古代の血が流れている。夜は、ヒナ(月)とテファトゥ(大地の精霊)に還る時間である。
深夜のパペーテ港をゆっくりと離れていく船のデッキの上で、入港時とは異なるタヒチ島の暗い闇に向い合った。再び訪れることがあるかどうか分からない。最期の島ヒヴァ・オア島に赴くことがあるどうかも分からない。
ただこの船が、タヒチ島を離れた後、次に目指すのは、ペルーである。ゴーギャンが幼年期の6年間を過ごしたリマの街である。
 

引用・参考文献
 
池辺一郎『未完のゴーギャン』みすず書房、1982
池田節雄『タヒチ 謎の楽園の歴史と文化』彩流社、2005
ケネス・クラーク/佐々木英也『風景画論 改訂版』美術名著選書4、岩崎美術社、1998年(原書1976年)
中村和雄ほか『ゴーギャン展』図録、東京国立近代美術館、2009
福永武彦『ゴーギャンの世界』新潮社、1961
フランソワーズ・カシャン/高階秀爾監修、田辺希久子訳『ゴーギャン―私の中の野性』「知の発見」双書13、創元社、1992年年
ペギー・ヴァンス/廣田治子訳『岩波世界の巨匠 ゴーギャン』岩波書店、1992
ポール・ゴーギャン/岩切正一郎『ノア ノア』ちくま学芸文庫、1999
ポール・ゴーギャン/岡谷公二訳『オヴァリ 一野蛮人の記録』みすず書房、1980
本江邦夫・大岡 信『アート・ギャラリー現代世界の美術4 ゴーギャン』集英社、1986年
湯原かの子『ゴーギャン 芸術・楽園・イヴ』講談社選書メチエ441995