2013年5月31日金曜日

[す] 『砂の女』のなかの「女」

[す] はじめに たしかに唐突だった。『砂の女』が、その口から語られたのは。脈略もなかった。正確には、スクリーンに写し出された一カットの説明(解説者自身による渡航地先の写真説明)に使われた一句――「安部公房の『砂の女』のような砂の中」(やや記憶曖昧)であったので、説明の用をなしていたのである。別段、不用意に持ち出されたわけではない。でもその場限りで、一言を残して次のカットに移ってしまう。カットとともにそのまま立ち消えるはずだった。
そうならなかった。何か気にかかった。後で確認したが、「特に(深い)意味はない」と聞かされた。でもすっきりしなかった。内面からの一言なはずなのに、そうであっても剥き出しになるのを好としないで、前後関係を断った喋り口になる、そういうタイプなのではないかと疑った。疑えば余計気にかかることになる。しかも、直接には両者(解説者と『砂の女』のなかの「女」)に接点が見出せない。その取り合わせが二重に疑いを深めることになる。そのまま、「『砂の女』のなかの「女」」のタイトルとなった。

1 『砂の女』と「女」論 

諸言 説明するまでもなく、『砂の女』は、作者安部公房を世界的作家にした作品である。刊行後数年で数か国語に翻訳刊行されたが、今やその数は数十か国に及ぶ。昭和44年にはフランスの最優秀外国文学賞を受賞している。世界に広く受け容れられているのは、日本近代小説以来の日本臭をとどめない、出だしから日本との内縁関係を断った、「世界語」で書かれた作品であったからであるが、資質としても、それが余すところなく果たされている点が、世界文学者たる安部公房を日本文学史に稀有な存在とした。
書かれたのは、芥川賞を受賞した「壁―S・カルマ氏の犯罪」(昭和25年(1950)、26歳)から12年後の昭和37年の38歳時である。デビュー時のシュールレアリスチックな時空間には、作品のなかに張り巡らされたフレーム(絵画で言えば、古賀春江の作品に張り巡らされたようなフレーム)が透けて見え、非現実感がやや独り歩きしていた感があったが、『砂の女』には、作り物のはりぼて感はまったくといってよいほどない。むしろ、シュールレアリスチックな時空間に主人公とともに一度闖入してしまった後に待ち構えているのは、生々しい人間ドラマと現実味を増すばかりの小説舞台である。

「女」論への階梯 主人公は、ある一人の「男」である。名前は付けられていない*。「男」あるいは「彼」として呼ばれて、三人称的な意志によって場面を展開していく。場面展開は「男」に委ねられているが、終始、受動態である。閉じ込められた空間のなかでもがくだけである。苛立ちとなって返される徒労の連続である。もう一人の主人公は、「女」である。やはり名前は付けられていない。もし「女」以外の呼び方があるとすれば、この場合、タイトルの「砂の女」しかない。
一方、「男」には「男」以外に相応しい呼び名はないが、砂の壁に閉じ込められた「男」の話であるから、元来、「男」の別名は、「砂の男」である。タイトルとしても構わない。「女」を残して、『砂の男と女』あるいは『砂の女と男』でもよい。しかし、そう仮定してみてあらためてこの作品のタイトルが、『砂の男』でも『砂の男と女』/『砂の女と男』でもなく、やはり『砂の女』でなければならないことが再確認される。合わせて「女」には「砂の女」の別名が許されても、「男」にはそれが許されないことも。これは、作品の核心に触れる部分である。
しかし、安部公房は、「男」を正面に立てる作家である。タイトルにしても『棒になった男』(昭和44年(1969))、『箱男』(昭和48年)、『飛ぶ男』(平成5年(1993)、遺作)が物語るとおりであるし、それ以外の代表作を見ても、「男」の話である。たとえば、『他人の顔』は、「ぼく」であるが、一人称と三人称「彼」との重層である。はじまり方も、実際が「彼」からである。『密会』(昭和52年)では冒頭から「男」――「性別 男、(中略)、以下の報告は、右の男に関する報告である」と続いていく。個人名詞を使う場合でも『壁―S・カルマ氏の犯罪』(昭和26。年芥川受賞作ほかで再編刊行)のとおり男名である。
人称の重層形も、また男名も用いず、単純一人称(?)「ぼく」の場合(『燃えつきた地図』(昭和42年))は、一人称話者であるため、「女」との相克もより弁証法的になるが、それでも「男」の観念体系より前に出ることはない。結果として「女」(の観念体系)に操られていたとしても、また、人格的にも後れを取っていたとしても(『他人の顔』)、結論として導き出されるのは、それが肯定、否定のいずれであっても、「男」の枠内である。
『砂の女』も原則同じである。正面に立つのは「男」でしかない。そればかりか、『砂の女』の「女」の場合は、「男」の饒舌性の前で言われるままに控えていて、物言わぬ一個の物のようでさえある。にもかかわらずタイトルを勝ち取ったのは、「男」ではなく「女」の方である。それ以外には考えられない題名であった。この違いが、安部作品のなかの「女」の扱われ方でも、「砂の女」に特徴的な点である。決定的な相違でもある。「女」が、無言の中にあり、その一方で生身を晒すからである(後述)。以下は、「砂の女」が語る「女」論である。

*正確には名付けられている。ただし巻末にである。家庭裁判所が発行した「失踪に関する届出の催告」書と、失踪者と認めた「審判」書の「不在者」および「失踪者」としてである。記された名前は、仁木順平である。でも、その名前は、見てのとおり「後付け」である。本稿では、名前はないものと見立てた。見立てることが、小説的意味でもあると理解するからである。

  2 『砂の女』に見る「男」

運命との邂逅 「男」の運命は、一夜の宿を提供されるところから始まる。夕暮を前にして、「男」は、昆虫採集に興じていた。汽車で半日の遠い辺鄙な場所だった。休暇を利用した採集旅行だった。三日月状の砂丘に取り囲まれた漁村だった。彼を怪しんだ土地の老人が近寄ってきた。県庁の役人だと思ったからだった。なにか漁村の調査をしているのではないかと探りを入れに近寄ってきたのである。「県庁?……とんだ人違いだよ……」名刺を差し出した「男」に老人は、「ははあ、学校の先生かね……」と安心し、やがて「男」に「当たり」をつけたと見え、「捕縛」に向けた誘いをしかける。その切り口である。
――「ときに、あんた。これからどうなさるつもりですな?」宿の斡旋に話もっていくためだった。そうとも知らず、「男」は、老人の術中にまんまとはまっていくことになる。バスもお終い、宿泊所もない、そう言われ、では隣の町まで歩きます、そう返したところで、待っていたように斡旋の一言が発せられるのである。「ごらんのとおり、貧乏村で、ろくな家もないが、あんたさえよけりゃ、口をきくくらい、わたしがお世話してあげるがね。」獲物は、ものの見事に針に食いつく。喜んで「好意」を容れる「男」。運命の扉は、今まさに開かれようとしていた。
案内された場所は、砂丘のなかに造られた、大きな穴の縁であった。「天然の要害」のような穴の中に一軒の家が建っていたのである。すでに暗闇が支配している。「男」は促されるままに長い梯子を使って穴のなかに下りていく。再び上がれなくなることなど思いも及ばない。当然である。鄙びた漁村には、善意はあっても、個人の人生を奪い去る悪意が潜んでいるはずがない。一晩の宿(善意の宿)でしかない。明日になれば、また、その梯子を使って地上に戻るのである。しかし、運命は、すでに始まっていた。「男」が下りたのを確かめた後、暗闇に紛れるようにして引き上げられてしまったのである。再び吊り下げられることのない梯子(縄梯子)だった。
まさに運命の梯子だった。あるいは運命へのかけ橋だった。そして、かけ橋の先に待っていたのは、「砂の女」だった。運命との邂逅であった。

「女」との毎日 なぜ砂の穴の中なのか、それは、海風が絶え間なく砂を運んでくるからである。砂を除けないと、家は砂に埋まってしまうのである。除けた砂も最初は土手程度だったのだろうが、やがて屋根の高さを越え、終には砂丘のなかの大穴となって、その中にすっぽりと家を沈める深さになっていたのである。沈んだ状態は、完了形とっているわけではない。現在進行形である。案内された家(宿)で、砂除けの労働に勤しんでいるのは、一人の女だけであった。「砂の女」である。「男」は、そうとも知らず――砂除けの労働力として囚われの身となるとも知らず、闇の底に向け、「民家」での一夜の情趣を楽しむかのように降り下ってしまうのであった。
物語は、砂の穴から出て行けなくなった自分の運命(災難)を、日ごとに深刻な状態として自覚していく形で進められる。運命からの脱出が様々に試みられ、その度にもがき苦しむことになる。ほとんど蟻地獄である。その一方で、「砂の女」は、自分が何をしているのか、犯罪行為(誘拐)に対する罪意識にも乏しいまま、他人行儀に気の毒そうな顔を見せることはあっても、人さらいに見合う悪意の表情を覗かせることなど一度としてない。それどころか、「男」の窮地を他所に、何一つ変わったことがないようにして、同じ日常を漫然と繰り返すのみの風情以上でも以下でもない。男のもがき、苛立ち、懊悩が、強まれば強まるほど、逆に女の無為さが、さらに際立つことになる。
「砂の女」は、描かれるところによれば、「三十前後の、いかにも人の好きそうな小柄の女」で、独り住まいである。でも、最初からそうだったわけではない。1年前の台風で、夫と娘を亡くしてしまったのであった。寡婦だったのである。あるいは砂との同居した寡婦だった。
砂の穴のなかの生活では、如何に砂から身を守るかが第一に優先されるべき事項である。着物を着て寝てしまうと、雨水のように天井から洩れてくる砂で、肌は「砂かぶれ」を起こしてしまう。だから寝姿は、顔だけを手ぬぐいで蔽った以外は素裸である。男が泊っていてもやはり同じスタイルであることが優先される。別段、丸裸に口実をつけようとしているわけではなかった。女の身に無頓着になるには、まだ十分若すぎるし、反対に「砂かぶれ」に事寄せてふしだらな思いを抱いていたわけでもない。翌朝、先に眼覚めた男からその姿が見られてしまった時、しっかりと恥じ入って見せたからである。咄嗟に背を向けたのである。勘違いしたに違いない「男」に対しても、淫らな姿態に関する事の次第を悟らせる。納得した「男」も、なるほどとシャツを脱ぎ去ることになる。

「男」の煩悶 囚われの身になったと分かった瞬間から、「男」の頭の中にあるのはただ一つである。如何にしてこの窮地から我が身を救い出すかである。色々に策略を練る。仮病を使ってみる。上手くいかないと知ると、今度は「砂の女」を縛り上げてしまう。逆人質である。でもそれも徒労に終わる。何をしても上手くいかない。「男」のもがきの傍らで、「砂の女」は、相変らず何も変わったことがないようにしか振舞わない。停滞感を引きずり続けるだけである。その中で決まり事のように「男」に食事を用意し、砂と汗で汚れた体を手ぬぐいで拭ってあげる。
しかし水が断たれる。「男」の逆人質をさらに逆手にとった兵糧攻めであった。村からの水の配給を受けるには、砂上げの労働を再開するしかなかった。交換条件だった。致し方ない。でも音を上げたわけでも野望が潰えたわけでもない。逆である。さらに強まる。忍びのような真似(紐付き投げ鋏?)を使う。計略が功を奏して終に穴の上に出ることができる。しかし、それも一時のことに終わる。逃げ出せたかに見えたが、情けなくも再び連れ戻されてしまう。底なし沼のような砂場に足を掬われてしまい、危うく命を落としかけたところを、村人に救出されるのであった。
 「男」は、物のように穴の底に吊り下げられて、「砂の女」のもとに戻される。翌朝、「男」は、「女」のすすり泣きで目が覚める。「女」は、悲しみと喜びの入り混じった感情で、「失敗した」男の疲れ切った寝顔を傍らから見詰めていたのである。「何を泣いているんだ?」屈辱であった。でも、泣き顔を見破られないように咄嗟に後ろ向きになって、「男」にお茶を淹れようとしている女の姿を見ながら、「男」は、自分に対する哀れさのなかで、「女」の優しさに心が動かされる。
無限とも言っていい抱擁感である。包摂感と言い直すべきかもしれない。大本では村の悪意に加担して、そのおこぼれに預かっていながらも、悪意の「あ」の字もない一人の女である。この女――「砂の女」が、今、男を捉えはじめている。何かが変わりつつある。まだその正体は見えない。ただ、同じ女を思う時、男の妻(あるいは別れた妻、もしくは恋人、愛人……)のことが、不図、頭を過る。「(あいつ、今ごろ、なにかしているだろうな?)……昨日までのことが、何年も昔のことのように感じられた。」述懐にも似た想いを抱いていたのであった。
 
「男」の終着点 最終場面で、縄梯子が吊り下げられたままになり、自由に外に出られるようになっても、「男」のとった行動は、一度登りかけた縄梯子をまた下りてしまうことだった。逃亡失敗の後、しばらく経ってのことである、男は、家の外に据えておいた鴉の仕掛け用の瓶に水が溜っていることを発見する。砂の毛管現象だった。さすがに理科の先生である。穴の中だからこそ起きる現象だった。大発見だった。最大4リットル/日を記録した。これで水の配給に頼る必要もなくなる。
彼は狂喜した。「こうして、蒸水装置の研究が、あらたな日課としてくわえられることになる。」まだ、女には教えていなかった。そうこうするうち、夏に捕えられ、秋に脱出に失敗し、再び砂の穴の生活を始めてから冬が過ぎ、春のはじめになって女が妊娠する。「男」の子供である。「砂の女」は、同じ頃、念願のトランジスターラジオを(内職の甲斐があってようやく)手に入れることになる。砂の穴の中で唯一の楽しみとしていた宝物の入手だった。
しかし、二重の喜びを抱えた「砂の女」の様子は、一切描かれない。二人の関係の変化もまだ明かされようとしない。むしろ「男」は、旧態を引きずっている。さらに2か月が経つ。突然、女が下腹部に激痛を訴える。子宮外妊娠だろうということで(「親類に獣医がいるという部落の誰かが」下した診断で)、町の病院に入院させることになる。
縄梯子が下ろされ、搬出の準備が始まる。やがてサナギのようにくるまれた女が引き上げられ、オート三輪に載せられて運ばれていく。問題はこの後である。用が済んだ後でも、縄梯子は引き上げられずに垂れ下がっていたからである。自由への縄梯子だった。「待ちに待った、縄梯子なのだ……」手を掛けて穴の上にまで登る。遠くに砂煙が立っている。女を載せたオート三輪だった。まだ「研究」(蒸水装置のこと)を教えてなかったことが頭を過る。「……そうだ、別れる前に、罠の正体だけでも教えておいてやればよかったかもしれない。」そう思う。
その時、穴の底で何か動くものを背後に感じる。自分の影だった。影に目を止めると、傍らの「蒸水装置」(「鴉の罠」)にも目が移る。木枠が一本だけ外れている。さっきの引き上げの時だったのだろう。誰かに踏まれてしまった様子である。「男」は縄梯子を下りていく。修理のためである。家の中では、女のトランジスターラジオが、女の不在を他所に勝手に歌い続けていた。無償に悲しくなる。「泣きじゃくりそうになるのを、かろうじてこらえ」、「男」は、水のなかに手を浸してみる。「水は、切れるように冷たかった。」そのままその場にうずくまる。「べつに、慌てて逃げだしたりする必要はないのだ」と呟やいてみる。今、「男」は、「蒸水装置」の前で終着感のなかに蹲っていた。快癒した女を待つ新たな自分を抱きしめていた。「逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。」脱出を中断した現実的な理由が見つけられたことに安堵していた。

3 「砂の女」の「女」像

 「女」論の始発点 安部公房の文学は、冒頭のとおり「男」を正面に立てた世界である。立てられるのは、観念的世界と一体的な「男」である。したがって、知的な内面をもった、もしくはそうした操作が好きな「男」が多い。職業的にもそうである。知的職業――と言ってもそれも状況次第で、すべからく職業は「知的」であるが――に就いている人物が少なくない。「砂の男」の場合は、たまたま学校の教師であったことになる。
砂は、それが土壌学的な研究対象から、住処の存続を左右する物理的条件に様変わりした時、やがて一義的な知をも粒状化して、内側から崩していく。そして、崩壊後に新たな知を育む。小説世界で言えば、「鴉の罠」であった蒸水装置である。一度解体された地上の知(理科)は、「砂の女」との新たな生活に向けて、別な枠組みで再生されようとする。「男」は、「女」と同じように、いまや「砂の」の冠詞を戴くことの許された、一人の人間に生まれ変わろうとしていた。「砂の男」――この固有名詞こそは、観念的世界の終着点でもあった。同時に「女」論の始発点に還されるものでもあった。
 何故か。それは、「女」が「男」と違って、最初から「砂の女」でしかなかったからである。はじめから「結論」を身にまとっていた、そう言い換えられる存在だった。「砂の女」を我が身に引き寄せる時、我々は、普段、「女」が身にまとっていた「結論」に気付いていないこと、あるいは見過ごしていることを思い知らされるのである。
独り身の女が、宿屋でもない自分の家に男を迎え入れるのは、たとえ明るい日中であっても普通にはないことである。しかも「砂の女」の場合は、夕暮れ時と言え、灯りが必要な暗闇の中に身を潜めているのである。年齢も30歳前後である。見ず知らずの男を泊めることなど、到底及びもつかない。もしそんなことをしたなら、世間からだけではなく、自分のなかの「女」の常識を大きく逸脱してしまう。
しかし、「砂の女」は、あろうことか、翌朝には、「素裸」を晒していた。たとえ就寝中に天井から降り注いだ砂で体が薄く被われていたとしても、そして、それを以って決して丸裸などではないと言い張ったとしても、あまりに生々しすぎる姿である。そんな姿態を男に露わにできるのは、いうまでもなく、肉体関係をもった男女でなければならない。これは道徳でもなければ倫理でもない。生物学的な次元(原理)である。「女」論の原理(始発点)でもある。

「女」の原理 「砂の女」は、この原理にいとも簡単に背を向けている。しかも背理に見合う理由と言っても、「砂かぶれ」以外にそれらしい理由が見出せない。皮膚の障碍を懼れて、全身を晒すことを好としてしまう。まずは羞恥心を疑うことになる。長い砂の穴の生活で、女としての羞恥心が麻痺してしまったのだろうか。そんなわけがない。繰り返すまでもなく、普通の羞恥心を持っていたのである。男の目に晒されていることに気が付いて、咄嗟に背を向け、その視線から逃れて見せたからである。と言うことは、話は逸れるかもしれないが、大胆に肌を露出させておきながら、電車の対面座席の男を蔑むように見返す若い女の子の、確信犯的な「矛盾」の延長だろうか。つまり、目を向けた方が咎められることなのであろうか。女の子たちにとっては、「矛盾」ではなく「逆説」であるのかもしれないが。
でも小説のなかでは、「男」には、女を目覚めさせなければならない切羽詰まった理由があった。梯子が見当たらなかったからである。それに、話を「矛盾」に戻せば、「砂の女」は、遮蔽物で仕切り、中を隠した一間ではなく、開放的でかつ共有的なイロリの横で体を横たえていたのである。しかも仰向けになったままのもっとも無防備な姿で。単なる「矛盾」ではないのである。
どうも我々の常識は通用しないようである。「砂の女」が特殊だからではない。逆である。実に普通だからである。でも普通と言い切っても、それだけでは理解は得られない。説明にもなっていない。「普通」の基準を問い直さなければならないからである。基準が違うのである。「普通以前」なのである。だから余計に世間を逸脱することになるのである。しかし、男と女の在り方とはなにか。異常(「素裸」)も、「普通」がつくり出しただけではないのか。男女間に「正常」も、事の「真相」もない。なにもない。でも「女」の原理は、男女間に優越する。それ自体が秩序である。「普通」も「普通以前」も、そのなかのことであるにすぎない。だから、「実に普通」であってもいいことになる。

 「砂の女」の条件 男女とも思春期を迎えて異性にときめき、恋心も芽生え、さらに成長してより深い関係を求め始める。恋人を得ては恋愛関係から多くを学ぶ。その分傷きもする。結婚しても同じである。離婚もある。そのまま生涯を独身で過ごす者もいる。最初から独身を通す者もいる。今の世では一派を形成する勢いである。
簡単にはいかないのが男女の仲であるが、それとは違う意味合いで「砂の女」に居場所が見出せない。「砂の女」にも思春期はあったであろう。でも、男女間の紆余曲折が見出せないのである。なるほど本人が語って聞かせたところによれば、結婚し子供をもうけていた。一人娘だった。でも自然災害で亡くなってしまった。台風から鶏舎を守ろうとした父親とともに、砂に生き埋めになってしまったのだった。まだ昨年のことだった。中学生だったというから、逆算すると、10代で結婚したことになる。もし中学3年だったとすれば、あるいは「砂の女」は、中学を出て間もなく結婚し出産したことになる。思春期年齢からいきなり「女」となった。そして、30前後の若さで今度は寡婦の身にもなった。何も見出せないわけである。
それに、繰る日も繰る日も家の周りの砂掘りと、地上から縄で吊り下げられたドラム缶に掘り上げた砂を詰め込んで運び上げてもらう作業の繰り返しである。男が現れることが確実視されていたわけではない。それに「届け物」のことは、自分一人ではどうすることもできない。村人の力に頼るしかない。いつ届けられるかも分からない。届けられないかもしれない。そのような中でどのように心を保つのか。最初から「届け物」とは無関係なのか。ヒントは「素裸」である。
その日の夜から開始された男との新しい生活は、男女間の手練手管を知り尽くした女であっても戸惑うものである。それが、唐突に「素裸」で次の朝を迎えていたのである。本当に「砂かぶれ」のためだけだったのだろうか。体(裸)を晒すことが、男女にとっていかに重大事であるかなど、言わずと知れたことである。でもそうなっていないのは、小説では「砂の女」の内面を覗こうともしないし、覗くことを拒んでもいるが、すべからく砂の穴のためであったに違いない。砂の穴が創る生態的な条件のためである。男女間の関係は生まない環境下であった。とても心の説明にはならないが、ひとまず状況説明にはなるだろう。
綺麗に着飾り、入念に化粧を施し、男の気を引く術を身に付け、男の誘惑には簡単に応じない。「砂の女」は、際どい男女間の駆け引きも、「肉体」の深い意味も知らないまま、思春期からいきなり結婚・出産へと肉体的階段を一気に駆け上がってしまった。しかもその年齢で寡婦をも生きていた。「砂の女」に限定的なことではないにしても、問題は、今の寡婦とどう向き合っているかである。自分事としていたか怪しいからである。
喪明けを待って再婚を考えている風でもないし、今の境遇に身の不幸を哀れんでいる風でもない。寡婦を含めてすべての自覚らしい自覚に乏しい。さらに遡って、結婚したことも出産したこともそうである。事実であってもそれ以上ではない。自分が変わる契機にはなっていない。実は事実ではなかったのである。
躊躇いもなく男の前に立ち、男のことを「お客さん」と呼び、他人である「事実」に立脚している風であっても、現れた瞬間から家の一員としてしまっている。「男」がいることが、不思議とも思わないで済まされてしまう。実は「男」も「事実」ではなかったのである。それが「砂の女」(の心)である。「砂の女」の条件でもあった。

4 『楢山節考』の「女」たちと「砂の女」

「女」たちの姿1 「砂の女」以上に思春期などさえ思い浮かばない存在に、同じ閉じ込められたような場所で生きる、ある山間の村の女たちが思い浮かぶ。『楢山節考』の「女」たちである。ここでは結婚という言葉も通用しない。「嫁に行く」「嫁に貰われる」である。したがって、具体的な存在形態としても「女」と言うよりは「嫁」である。あるいは嫁に行く前であれば「娘」である。歳をとれば「おばあやん」である。おばあやんが「おりん」、嫁が「玉やん」、娘が「松やん」である。ここでまず問題になるのは、玉やんが後妻としておりんの倅の許にやってくるまでの経緯である。
おりんは、69歳。はやくお山参り(姥捨て山参り)に行きたいことばかりを考え、そのためにも寡夫になってしまった倅に早く後妻が来ることを願う日々のなかにいる。そこに運よく嫁が見つかる。玉やんである。向こう村の女だった。まだ3日前に夫の葬式を上げたばかりらしい。それなのに次の嫁入り話である。寡婦となった嫁の「始末」を早くつけてしまいたい、どうもそういうことらしい。
それにしてもこの後妻話は、おりんからはまるで臓器移植を待っていたようなものである。どこかに後家でもあったら声を掛けてくれと頼んでおいたからである。そんなおりんものとに、良い話がある、と実家から報せが来たのである。当人たちは知らない話である。決めたのは、おりんと、その知らせを携えて実家の使いとしてやってきた飛脚(実は玉やんの実兄で、下調べをかねて飛脚の役を買って出た模様)とである。報せだけでなくその場で二人して決めてしまったのである。なんとも手際の好い婚姻話であることか。
それをおりんは、まるで「手柄話」でも知らせるかのように仕事から帰ってきた息子(辰平)に話して聞かす――「おい、向こう村から嫁が来るぞ! おととい後家になったばかりだけんど、四十九日がすんだら来るっちゅうぞ」「そうけえ、向こう村からけえ、いくつだと?」「玉やんと云ってなあ、おまんと同じ四十五だぞ」「いまさら、色気はねいだから、あっはっはっ」――こうしてあとは玉やんが来るのを待つだけとなる。
別に変ったことではない。この村々では結婚とはこの程度のことである。すべて当事者なしで取り決めらてしまう。面倒なことはなにもない。「ただ当人がその家に移ってゆくだけである。」ほとんど「引っ越し」と変わらない。実際のところ、「玉やん」の嫁入りの「儀」も、祝い事もなければなにもない。なさすぎるほどであった。
ある日、大きく膨らませた信玄袋を提げた「玉やん」が、前触れもなく現れる。家の前の根っこに腰掛けていたのである。嫁ぎ先の家であるか決めかねている。家の中から姿を認めたおりんが、嫁ではないかと検討をつけ声を掛ける。
すると、「辰平やんのうちはここずら」と返ってくる。「玉やんじゃめねえけ?」(「ええ」)「さあさあ早く入らんけえ」と促さるままに上がりこんで、それで一件落着。済んでしまったのである、儀式事は。しかも夫となるおりんの息子はまだ山に行っていて帰っていない。
玉やんの前に御馳走が並べられる。その日はたまたま村の祭日だった。「さあ食べておくれ、いま辰平をむかえに行ってくるから」。そんなことより玉やんはもう御馳走に気が取られている。「うちの方のごっそうを食うより、こっちへ来て食った方がいいとみんあが云うもんだから、今朝めし前に来たでよ」。失笑ものである。しかもその後の肝心の辰平との対面場面は描かれない。食べ物に押されて省略された形である。

 「女」たちの姿2 食べ物の話はこれで終わらない。今度は「松やん」の話である。おりんの孫(けさ吉)も、急遽、嫁(松やん)を貰らうことになったのである。同じ村の娘である。どうやら〝できちゃった婚〟らしい。でも玉やんと五十歩百歩である。その後、結納があった訳でも結婚式があったわけでもない。事実婚の延長でしかない。
ある日、松やんが家の前に腰掛けている。昼飯になるとなぜか孫のけさ吉と並んで食べている。夕飯も食べる。今度はけさ吉とじゃれあいながら食べる。孫も大人になったものだと感心していると、そのまま帰らず泊っていってしまう。しかも孫の布団の中にもぐり込んでしまう。そのまま居ついてしまう。
どうも子ができているらしい。おりんは最初の日から5か月以上と見抜いていた。そのとおりだった。晩婚が多いこの村では珍しいことだったが、子ができたことも、二人で同じふとんで休んでしまうことも(はしたないことも)、なに一つとして咎められない。そのままおりんの家の一員(孫=跡取りの嫁)になってしまう。嫁入りである。
相手の家からも早く行けと言われていたに違いない、おりんはそう思った。ところが、あまり大食なので(最初の昼飯からそうだった)、ある時、ふと思った――「けさ吉の嫁に来たのじゃねえ、あのめしの食い方の様子じゃあ、自分の家を追い出されて来たようなものだ」と。
村は冬を越せるかいつも命がけだった。実は失笑ごとでは済まされない現実問題だった。此処には、言ってみれば「食べ物」(食糧事情)を超えて若い男女の恋愛は存在しない。松やんだけではない。玉やんにしても、そして家族の食いぶちを減らそうと、早いお山参りを一心に願うおりんにも通じる、男女事に先行する生存条件だった。男・女のことなど入口にすぎなかった。この「女」たちの姿には、はるかに人間存在を超越したものがある。人間の感情など取るに足らぬものであることを思い知らされる。かつてそれを「真理」の範疇でとらえたことがある(私家版2007)。『砂の女』にも言えることである。

名義性と匿名性 しかし、『楢山節考』には全員に名前がある。「おりん」「玉やん」「松やん」のとおりである。名義性(名辞性)の世界である。不思議なことに名前があると顔がある。『楢山節考』を成り立たせているリアリズムの一つでもある。「女」たちの顔の前では、譬えは悪いかもしれないが、フェミニズムもジェンダー論下の女性も立場を失う。胸をときめかした思春期の思慕も、燃え上がった成年期の恋愛も、まるで用をなさない。焚火ほどにもならない。結納や結婚式もまた然り。厳粛さも神聖さもあったものではない。時間の無駄である。ほとんど男女のことは物寸前である。しかし、それが(物化が)おりんたちに引き受けられた時、真実がものの見事に抉り出されることになる。ほとんど女として生れてきたことに意味があるのかとさえ思われるなかで、なお、玉やんや松やんが、女であることである。しかも最初から。逆に思春期や成年期に遡る脈略を断っていることが(松やんはすこし違うが、それでも「普通」の思春期ではない)、生の空間を無限大に押し広げている。
その一方で、男の側に存在感が乏しい。主人公がおりんだからかもしれないが、おりんに集約される年輪が、男に刻まれていなからである。同じ様に物化されながら、女には物化なかでの純化がある。無欲さである。しかもその無欲さの大半が、後の時代の「女性」であることに対するものである。しかし、繰り返せば、この無欲さは、名義性によって成し遂げられている点を忘れてならない。『砂の女』では、同じ無欲さを「砂の女」の匿名性によって勝ち取っていたからである。ただし最後局面で「砂の女」は、「女性」を胚胎することになる。そして、我々が最初に知っているのも、「女」ではなく「女性」である。肉体性が、逆説的に高い文学性を獲得する同時代としての「女性」である。
『楢山節考』は、女の先に「生」を覗かせる。『砂の女』は、女の先に「女性」を覗かせる。おりんたちの時空間に下りていくことはできない。前近代の時空だからというだけではない。かりに身近な存在であっても会話が見出せないのである。相手から話し掛けられたとしても同じである。会話は保てない。方言が使われているからではない。おりんたちが完結しているからである。民俗的な閉じられた環である以上に、我々との間で「女性」であることを断っているからである。しかも、それは本人たちの地声である。否、生得的な声であるからである。我々に振り返ることない後ろ姿である。
しかし、「砂の女」は違う。最終場面でオート三輪の荷台に乗せられて町の病院に向かう最中でも、もし手が振れるなら、たとえ縄梯子から地上に顔を出していなくても、その手の平で、別れの挨拶ではなく、再会の約束を男に送り届けようとしただろう。男もそれに応えることになる。いまや「男」は、我々の思いの集約である。あらたに「女性」を発見しようとする、「男」と同体化した我々の眼差しである。しかし、『砂の女』の世界は、そこで終着点を迎えてしまう。「砂の女」は、「砂の女性」とは入れ替わらない。入れ替わるべきかにも直接触れられない。判断を同時代性の中に任そうともしていない。

物語の終焉 しかし、すでに作品世界は、作者の範囲を超えている。女が戻ってきた時、女は以前のように「砂の女」のままでいられるだろうか。いられない。本人の意志とは無関係に多分に「女性」を生きることになる。「砂の男」に容れられるのである。愛おしい存在(「女性」)になるのである。
でも、それでは『砂の女』の逸脱である。文学的裏切りである。「男」が「砂の男」になるための引き換え条件などであってはならないからである。それが『砂の女』の文学的野心である。したがって、「砂の女」は、あくまでも「砂の女」のままでなければならない。「砂の女」であるとは、砂の穴で暮らす「女」に引き換え条件として与えられたものであった。しかし、一度「女性」を意識し始めた「砂の女」にとって、「女性」になる誘惑から身を引くことは容易ではない。おそらくできない。この際、無欲さは脆弱さだったのである。
それがヒューマニズムであったとしても、砂の穴に地上の世界は持ち込めない。砂の穴が、「女」を生み、「砂の女」を創ったのである。それ以上でも以下でもない。「男」を容れられても、「男」に容れられた時から、言い換えれば、同じ「砂の」の関係性を纏った時から、砂の穴は、世界としての意味を失い、その壁は四方から崩れ、埋め尽くされてしまう。物語は終わるのである。

5 『燃えつきた地図』のなかの「彼女」

「彼女」の顔 安部公房の文学世界に戻れば、「男」は、地上に再帰する必要があった。再び物語を始めなければならないからである。あらためて「女」が必要になる。しかし、再開された物語のなかの「女」は、「砂の女」とは逆向きに佇んでいた。逆向きとは、「女性」の側から「女」に回線を繋いでいたことである。「砂の女」の場合は、「女」から「女性」だった(正確には未了状態で留まっているが)。「女性」から「女」への典型例が、5年後に書かれた「依頼人の女」である。『燃えつきた地図』(昭和42年)のもう一人の主人公である。
作品中では、「依頼人」「彼女」「女」で通されるが、作品の冒頭部分に挿し込まれた、いささか思わせ振りな枠付1頁には、事の発端を告げるかのように、一枚の「《調査依頼書》」が認められており、見ると、末尾に「依頼人氏名 根室波瑠」とある。失踪した夫根室洋(34歳)の調査を興信所に依頼した1枚のペーパーである。しかし、固有名詞としてはこの場限りである。以下の本文では、一切根室波瑠の名前は出てこない。多くは、「彼女」であり、時に観察場面になると、「女」が使われ、あるいは、客観的な場面では「依頼人」となる。私情を抑えるためであった。その点からも冒頭1頁に引かれた枠線は、別枠であるのを意図的に明示しようとしている。根室波瑠と「砂の女」との間を分ける1頁にも見えるが、そこまで意図されていたかは判らない。
根室波瑠は、名前を持ちながらも、名義性に背を向ける必要があるかのように名前を背後に沈めて、主人公の興信所の調査員(「男」)との間で、「彼女」「女」あるいは「依頼人」の関係しか結ばない。たちまち匿名性に還されていたのである。地上に生きる「女」の生存条件は複雑多義で、「砂の女」のままでは生きられないが、「砂の女」の匿名性は、同じ匿名性を通じて「彼女」(根室波瑠)の顔でもある。だから「彼女」は、根室波瑠の肢体から自由になれない「女」に立ち返る時でも、その顔を匿名性でメークし、「砂の女」がそうであったように「男」から自由である。
たとえば、調査を依頼しておきながら(それも安くない費用を承知で)、終始、失踪者(夫)に対して他人の関係でしかない。調査を依頼したのは、妻であっても「彼女」ではなかった。妻という社会関係だけで行なったことであった。調査員(主人公)も、次第に妻=「依頼者」ではない、私情に冷ややかな「彼女」に向き合うことになる。見えないものが、調査範囲を超えて、調査員を深入りさせていく。「この女は、化粧によって、ますます透明になり、よけいに内部が透けて見えるのだ。」しかし、透ければ透けるほどますます見えなくなる透け方だった。見えなくなったことによる不在感が、「女」の背徳性を暴きたてるかのように調査員をさらに探索にのめり込ませ、果ては探しているものが、「彼女」を通じて、自分のなかに潜んでいたものであったことに気付くことになる。
「砂の女」も化粧していた。「おりん」「松やん」「玉やん」は化粧をしない。前近代の奥深い山村である。3人のことは分かる。「砂の女」はなぜ化粧をしていたのだろう。それも乾燥してかえって醜悪になるような化粧を。30前後だからだろうか。いつか「男」が届けられるからだろうか。根室波瑠はどうだろう。おりんたちのことが分かるように、彼女のことも分かる。対極だからである。でも「透けて見える」と分かっていて化粧するだろうか。自覚の程度は分からないが、結果は、化粧する側もその顔を見る側も、双方を裏切るものだった。でもすぐに気が付くことではなかった。

三人称の顔 それとも、根室波瑠は、最初から納得済みだったのだろうか。自分がなろうとしている顔に。夫を捜しながらも捜していない「女」の顔、それをあからさまに見せないでいられる顔、そういう顔になろうとしていることに。なんのために? 失踪を機会に妻の関係性から解かれたいため? それとも、そのためにも調査員の気を引きたいため? でも媚態はない。「砂の女」の化粧の場合とは逆なのである。「男」が来るのではなく、去るのを(去り続けているのを)待つ顔だったからである。
そういう化粧顔が実際あるのか知らないが、一度透けて見えた向こうに浮かぶ顔は、透けてしまった分、見る側には立ち入ることのできない顔だった。結局、それが「男」を容れない顔にもなっていた。ただし根室波瑠本人にしても、相手(「男」)に見えなくなった顔が、はたして自分に見えていたのかは分からない。いずれにしても、その顔は、「女」であるよりは「彼女」である顔であった。根室波瑠に始まる顔だった。
その顔も、別に探せば、『燃えつきた地図』を数年遡る『他人の顔』(昭和39年)のなかの主人公(「男」)の妻の顔でもあった。「妻」の顔の場合は、根室波瑠と違って「男」を容れた顔でありながら、「男」との距離感は根室波瑠以上だった。「男」にはけして超えられない距離感だった。
自分(『他人の顔』の主人公)は、「他人の顔」(仮面)で姿を隠しておきながら、「他人」として妻を誘惑して、その誘惑に簡単に乗った妻を軽んじながら、実は、試したつもりで試されていたのは夫(「男」)の方だった。「妻」のなかの「女」しか知らない「男」になど、真似のできようもない「哲学」である。すでに「妻」の前では、「女」論はあたらしい段階を迎えていたと言わなければならない。しかし、『砂の女』のなかの「女」は、「哲学」のはじまりであった。「女」論の始原である。そのことは再述する場合でも変わらない。

おわりに

その口から『砂の女』を聞いた時、聞いた者としてどこまで事態を把握できていたのだろうか。本文として捉え返せば、「すでに『女』論は、あたらしい段階を迎えていた」のさらに先に聞いた声であり、耳元に残る響きであったにちがいない。
しかもそれだけではない。文脈が違うのである。いつか、我々の知らない間に、「日本」の女性たちは、途中経過を十分詳らかにすることなく、勝手に袂を分かってしまったのである。勝手と言うのは、安部公房の「彼女」たちとの繋がりを明かさないという意味である。疾うに清算済みのことかもしれない。そうだとすれば、さらに『砂の女』の世界に親和的なのかもしれない。まやかしの風景ではない、むき出しな感じが、原初的な感情を掻き立てるのである。『砂の女』のなかの「女」とは、その源として読み替えられたことになる。
   ならば、本文は何も語っていなかったことになる。冒頭の疑問も依然解かれなかったことになる。それでも構わない。再びその場面に立ち戻ればよいことである。まだ航海は長いのである。

2013年4月12日金曜日

[し]「島」~神女たちの島・久高島~

[し] はじめに 島国に始まって島国に終わる。それが日本である。グローバル化が叫ばれても「島国日本」である。日本を島国から解放するはずのメディア論のなかでさえも指摘している。曰く、「日本のメディア(マスメディアに限らず、ネット・メディア)も、90年代より閉鎖的」であると。2011年刊行本のなかの一節である。閉鎖的と島国とが直結するわけではない。また、著者の意図もナショナリズム化への警戒にあったのかもしれないが、「島国」という生態的なフレームは、「ネット・メディア」のそれであるとも読めたのである。この最先端ともいうべき学門を前にして考えさせられたのが、「神の島」と呼ばれる久高島のことだった。具体的には、その「島」体験と体験の意味だった。


 訪問の契機 今年(2013年)2月後半、久高島を訪れた。前日には世界遺産でもある斎場御獄(せーふぁうたき)の三庫理(サングーイ)から正面に久高島を見た。自然に組み合わさった大岩の三角形の狭い隙間を潜り、潜り抜けた拝所から先に見えるのが、海面に貼り付いたように浮かぶ久高島である。因みに斎場御獄は琉球開闢神話にも登場する琉球王国で最重要視されていた聖地(御獄)であるが、沖縄(琉球)にとって聖なる方位の東に向けて、首里府から遠く離れた地に大岩潜りの遥拝所を設けているのは、その先に琉球のクニ創りの本となった神の島・久高島が眼前に浮かぶからである。17世紀以降、琉球国王は、聞得大君(最高神職者)を伴って、同拝所から久高島を遥拝するのである(それ以前では直接参詣)。
 久高島に本格的に強く惹かれたきっかけは、一人の写真家を特集した「日曜美術館」(Eテレ)だった。「沖縄 母たちの神―写真家・比嘉康雄のメッセージ―」(20101212日放送)がそれであった。強烈な白黒写真の世界だった。2000年に61歳で亡くなった沖縄の写真家である。沖縄県立博物館・美術館の美術館側で開かれた回顧展を、写真家の再評価に焦点を当てながら、日本の源郷を問う形で取上げた番組であった。
白黒写真の世界を貫くのは、沖縄の歴史の矛盾を人生の転機とした写真家の、自分自身を蔽っていた陰影でもあり内声でもあった。フィリッピンで生まれ(1938年)、敗戦後に沖縄に引き上げてきた比嘉康雄は、高校卒業後、嘉手納警察署に10年間勤務するが、民衆デモに対峙しなければならなったような自己矛盾を抱えなら、終にB52爆撃機の墜落事故に遭遇したのを機に警察官を辞職する。退職後、鑑識業務で覚えた写真技術を生かすべく東京写真専門学校に学ぶ。同時に広範な写真活動を開始し、1971年に「生まれ島沖縄」展を開催して以来、沖縄(琉球列島)の古層を撮り続け、多くの写真集を刊行する。同時にここで取り上げる久高島に関する貴重な著書を残す。
なかでも久高島は、彼が追い求めた沖縄の古層の根幹をなすものであった。白装束に身をやつした島の女性たちによって顕現された厳かな祭列や祭祀のなかの神舞。背後の森や空・海との間に浮かぶ神女たちの陰影。その陰影は、まさしく神々の世界を生きている人々が、その精神を今に繋げていることの証でもあり、その写真の数々だった。ならば写真のなかに写しだされていた「精神」とは何であったのか。写真家が魅せられた魂の原郷とはなんであったのか。その思いは、さらにそれ以前、同じ「日曜美術館」(20071月)で取り上げられていた沖縄の陶芸家國吉清尚を、普通なら結びつかない組み合わせのなかで不思議と回想させるものであった。おそらくそれは、國吉のなかにある魂の原郷が呼びかけるものであり、その声から連想するものであったにちがいない。
炎の陶芸家として遂には自らの身体を作品として自死せしめるほどの、彼にとって「原郷」であったもの。それはなんであったのか。彼は灯油を被って自らを焼いた。時に55歳。1999年のことである。おそらくそれは、彼が追い求めた沖縄の土の世界が行き着く、辿り着いてはいけない一つの結論であった。釉薬に拠らない焼き締め陶が創る土肌の自然美に、彼は、「源」を見た。自身を捉えた「(土の)美」は、そのまま生命でもあり、その生命を焼くことなしには完結することのなかった魂でもあった。しかし、この懼れるべき生存形態が、沖縄(琉球列島)の原郷からもたらされる魂の「動(あるいは激)」であったとしたなら、写真家比嘉康雄によって写し出された(捉えられた)神女である久高島の女性(カミンチユ)は、まさにその「静(あるいは鎮)」の存在形態であった。
 
「海峡」渡航 朝一番の船で渡った。対岸の知念岬の一角に築かれた安座真(あざま)港と久高島徳仁(トウクウジン)湾を結ぶ高速船である。渡航時間20分。船体に打ちつける波の衝撃音は、予想以上に攻撃的であった。船の速度の所為だけではなさそうである。それ以上に波の力が強いのである。比嘉康雄が最初に渡った頃(1975年)は、まだ安座真港から連絡船は出ておらず、より時間のかかる馬天港からであった。小1時間を要したという。そのためにさらに高く強い波を体験しなければならなった。本島知念岬とは目と鼻の先にありながらも、実は本島と久高島との間には海底に深い溝が延びており、海峡的な速い流れになっていたのであった。比嘉は、その時(最初の渡海時)の乗船体験を次のように記している。

  久高島と沖縄本島のあいだには深い溝があり、そこは海流が速く、とくに冬期には波が荒くなるが、そのときも小山のような大波がうねっていた。船が波のあいだに入ると、波頭が頭上に見える。船が沈んでしまうのではないかと船べりにしがみつき、たまらず見上げると、船長は表情一つ変えず平然としている。大きい波をいくつも越え、大ゆれにやっとの思いで久高島に着いたときには船酔いのふらふら状態であった。渡海は小一時間であったが、時化の海をやってきたせいか、なんだか、遠いところにきたという気がした。
   比嘉康雄『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年、123

 船酔いこそしなかったが、揺られたことで「遠いところへきた気がした」との思いは、高速船でも実感される。この深い溝は、海上の波の高さや強さを生むだけではなかった。島の地形とそれによる人々の心の中につくられた方位感のおおもとになるものでもあった。「海峡」による激しい波よって島の西側(本島側)に断崖を延ばしているからである。白浜をつくり、その先にサンゴ礁の礁湖(イノー)を広げる東側海岸とは別世界のこの景観には、島が小さいだけに同じ島とは思えない、隣り合わせの両極性の展開を見せられる思いであった。もし、両者の地形が逆であったとしたなら、はたして「神の島」が創成されていたかさえ疑問である。しかし、島はまさしく神の島であった。しかもそれが小さな島の、特別な仕掛のない時空間のなかに成立していた。驚くべきことは、この無為の自然な姿(島の生活)にもあった。

 久高島の概況 久高島は、沖縄本島の知念岬から約5kmの東海上に浮かぶ隆起珊瑚礁によって形成された、島の面積も1.38k㎡にすぎない小島である。海岸線の総延長は8km足らずで、歩いても3時間程度で一周できてしまう。南北長4km弱、東西幅は最大でも0.6kmほどの細長い島で、標高も17m程度である。起伏はほとんどなく、島の北端から南端までほぼ平坦である。それでも南端の集落域や、それに続く畠地から先の島の大半を占める北側は、樹高の高低差の異なる三階層の風衝植物群落(「久高島カベールの植物群落」県天然記念物)に厚く被われていて、景観は単調でない。島の人口は、平成17年国勢調査時で295人/125世帯数を数え、昭和45年時のそれ(424人/112世帯)と比べると、3割減少している。逆に世帯数では増加に転じている。
地表面は、島尻(しまじり)マージと呼ばれる赤土で薄く被われていて、島中央の「内陸地」には畠が広がっているが、石灰岩が地表に貌を出していて深耕には向かない。また保水性に乏しい陸地には井戸が設けられず、かつては西海岸の崖下まで降りて、石灰岩から染み出してくる雨水を汲んで生活用水に利用していた。島で「井(ガー)」と呼ばれる天然湧水場(水場)である。古からの祭祀用の潔斎場でもあった。
 もう少しだけ島の様子を記しておく。人家は、島の南寄りに偏っており、かつ密集している。沖縄特有の低い棟造りの住宅を、風除けの石灰岩の石垣と屋敷林のフグイが取り囲んでいる。人家以外の公共施設には、小さな郵便局と公民館、久高島離島綜合センター(ただし常駐者がいるか不明)、幼稚園が1園、小学校と中学校が一つになった学校が1校ほかは、来島医師による不定期開院と思われる簡易診療所がある。従来にない建物に近年開館した2階建てのモダンな「久高島宿泊交流館」があるが、素泊まり施設である。スーパー・コンビミの類は(もちろん)なく、3軒の小さなお店があるのみである。食堂はある。交通機関はない。見学は、徒歩か貸自転車であるが、車(普通車)を使った有料の島体験ガイドが行なわれている模様である。因みに、団体客や旅行会社の募集型ツアーはお断り、と案内されている(「NPO法人久高島振興会」HP*)。港湾施設には、本島との連絡港である徳仁港とは別に西海岸の南端に魚港(久高漁港)がある。
島の歴史や祭祀のことを何も知らなければ、俗化していない、素朴な生活感に溢れる静かで長閑な島で終わってしまう。しかし、この島を訪れる人(あえて訪れる人と言い直すべきかもしれないが)は、誰でもここが神の島であることを知っている。なかでもイザイホーの祭が行なわれる島として知悉している。12年に一度行なわれる神女式である。琉球王府が定めた祭祀組織(ノロ制度)に起源があるが、神女(ノロ)の原型はさらに古代に遡ると考えられている。
45日間かけて島総出で行なわれる大がかりな祭祀である。1978年を最後に以後途絶えている。次の1990年段階に神女式の対象となる3041歳の女性が不在であったこと、祭を構成する司祭者に欠員が生じたことなど、複合的な要因が重なったためである。現在では関係図書と記録写真・映画でしか概要を知ることができない。本執筆者もそうした「情報」を介して島を訪れた一人である。
*「貴重な自然が残り、聖域であり生活の場でもある久高島を守る為に、大人数でのガイドはお断りさせて頂く事があります。特に、旅行社等による募集型ツアーの予約はご遠慮下さい。」が正式な案内文(部分)である。
 
 集落内巡(うちめぐ)り 徳仁港を降りて少し上がると、久高島海運事務所の船待合い所があり、自転車が借りられる。同時に手渡された1枚の手作り地図(A4版両面)を片手にまず集落に自転車を漕ぎ出していく。港から見て最も奥側(北側)に一連の祭祀空間が設けられている。始祖にまつわる家々も同様に北側にまとまっている。スタートし出した頃は見通しも利いていた進行方向も、人家の密集した集落の中央部に入ると、入り組んだ道と人家を取り囲んだ石垣で先も思うように見通せなくなる。
迷いながらも辿り着いたそこは、まず集落の二つの重要な祭祀殿の一つ「外間殿(ウプグイ)」であった。祭祀殿(祭祀場)は、「殿」(外間殿(フカマトゥン))と「庭」(ミヤ)からなり、殿の脇には相並ぶように一回り小さい建物が建っている。三山時代(1322年頃~1429年)の一国である中山の英祖王統五代西威王(推定1336年-1349年)の産屋跡と言い伝えられている建物である。殿の中には久高島にとって重要な神々(天の神、太陽神、月の神、竜宮神(海の神)、国造りの神(アマミキヨ神)、穀物の神など)が祀られ、また「大香炉(ミウプグイミンナカ)」が納められている。祖霊と結びつく各家単位の「香炉」の大本となる香炉である。
 外間殿を後にして次の祭祀場に向かう。「久高殿(ウドゥミャー)」である。見通しが利きさえすれば、指呼の間である。ここはイザイホーの主祭祀場である。外間殿と同じように殿と庭からなるが、建物の性格は異なる。まず棟数が異なっていて三棟構成を採っている。一列上に並んでいるが、性格上は向かって左側の一棟と右側の二棟に別れる。左側の一棟は、「バンカンヤー」と呼ばれるイラブー(海蛇。ただし「イラブーウナギ」とも呼ばれる)の燻製小屋である。したがってイザイホーとは直接関係しない。しかし、久高殿を管掌する祭祀家(ノロ家)の権威を象徴する小屋であり、その意味において祭祀場の付属的な小屋と言える。配列上も右二棟とは間がすこし離れて建てられている。
主棟となる右二棟は、共に「宮」であるが、性格はそれぞれ異なる。右端の一棟は、祭祀家(久高ノロ家)で主宰する宮(「シラタル宮」:島の人創りの神)であるが、中央の宮は、イザイホーの祭に占有的な空間となる「神の宮(ハンアシヤギ)」である。現世と他界の中間に位置する宮である。イザイホーの際、宮の裏側に特設される「七ツ屋」と呼ばれる仮小屋がある。この「七ツ屋」を他界として、現世と化している「庭」とを繋ぐ建物(「宮」)である。越境時の時空間を囲い込んだ建物として機能している。神女式に臨む3041歳の女性たちは、この「神の宮(ハンアシヤギ)」への出入りを七度繰り返した後、「七ツ屋」に三夜籠って、祖母霊(ウプテイジン)を体内に容れ、合体して新たに神女となるのである。七度の出入りをはじめ、各場面は極めて厳粛であるが、時にドラマチックかつダイナミックである。この祭の絶対性や超越性をさらに際立たせている。

 ノロ制度と久高島 ところで、なぜ密集した小さな集落空間に二つの祭祀場が設けられているかということ――これには、琉球の歴史が関係している。琉球王国の黄金時代を築いた第二尚氏王統第三代の尚真王(14651527年) による宗教改革(祭政一致政策)の一環として布かれたノロ制度にはじまるからである。ノロ制度とは、首里府の「聞得大君(きこえのおおきみ)」(王妹、後には王妻)を最高位として、その下に高級神女の「三十三君」を置き、さらにその下に支配下の各「間切(マギリ)」(町村)や島々に「ノロ」(沖縄・奄美)、「司」(ツカサ)(宮古・八重島)を置いた神女の階梯的組織である。「ノロ」(及び「司」)」は、土地を給付された官人女性神職であった。久高島では、この琉球王府の定めに応ずる形で、島の血族関係を代表する二家(外間家、久高家)から外間家を公のノロ(「公事ノロ」)とし、久高家を島内の非公式ノロ(「シマノロ」)とした。前者が外間根家(フカマニーヤー)、後者がタルガナー家と呼ばれる島の元屋となる二家である。両ノロ家には「殿」が設けられる。それがシマレベルの祭祀場として現在に至る「外間殿」及び「久高殿」である。
 なお、島では草分けの家(ムトゥ(元屋))を中心に親族組織が派生的に形成され、さらに祭祀組織のそれとしているが、この「ムトゥ」は、古(フル)ムトゥと中(ナカ)ムトゥに分かれる。前者は島の大本となったムトゥである。八家からなり、同家をもとにして後者中ムトゥが析出されていく。一八家を数える。なお古ムトゥ八家中には、上記の二ノロ家以上に古い伝承を有する島最古のムトゥである大里家(ウプラトゥ)があり、場所も御嶽のイザイヤマを背にするようにして集落の最北(最上手)を占めている。現在、無住であるが、建物は島の人々によって管理され、同家の祖霊神(=島の祖霊神)である五穀伝来神話の神*が祀られている(見学も可能である)。この大里家**をはじめ各古ムトゥは、長い年月の内に多くは家系が途絶え、現在(2000年段階の記録で)残るのは、外間殿を傍らにした外間根家のみである。したがって、ノロ家としての伝統もそれぞれ中ムトゥに属する外間ノロ家、久高ノロ家に受け継がれ、同家を中心にしてシマレベルの祭が遂行されている。その両ノロ家も、今や、時代によってもたらされた深刻な継承問題に晒されている模様である。
* 島に五穀を齎したアカツミー(男)とシマリバー(女)の伝説的(神話的)二人である。二人は大里家の住人であったという。
** 大里家には島で最古の家に相応しいノロ制度を遡る伝承が遺され、島全体で共有されている。琉球王朝第一尚氏王統の最後の王、第7代尚徳王(144469年)が久高島を参詣した帰り、島の娘クゥンチャサンヌルと恋に落ちたという言い伝えである。娘との別れを惜しみしばらく島に留まった王は、やがて城内で起こった革命を帰船中で教えられると、悲嘆の余り海に身を投じてしまうが、それを知った娘もまた悲しみのあまり命を断ってしまう。いかにもありそうな「伝説」であるが、比嘉康雄の解釈は一歩踏み込んだ史的解釈を見せており、単なる伝説に終わらせていない(比嘉・上掲書11820頁)。
 
すなわち、ノロに遡る「ヌル」と同時代の神女(超能力者=シャーマン)の役割(特に戦の際に発揮される敵方の戦意喪失を導きだす神力など)に注目して、クゥンチャサンヌルも神力を備えた女性ではなかったかと解釈したのである。クゥンチャサンヌルは、したがって、綴り方を再分解するとヌル・クゥンチャサン(神女・クゥンチャサン)となるが、クゥンチャサンとは国司の意で、クゥンチャサンヌルとは、まさしく「国司ヌル」のことであると説く。そして国司ヌルである娘は、大里家の娘で、現在も同家(同時に島全体)で祀られている。いずれにしても、この「伝説」にその一端が窺われるように、琉球国王の歴代の参詣場所であった久高島と女性の宗教的関係は、濃密かつ深遠である。

ヤマ入り さらに集落内の要所々々を辿りながら一巡した後、集落を離れ、島の北東先端に突き出たカベール岬に向けて、島の「ヤマ」に分け入っていく。景観は一変する。標高にさしたる差はないのに、不思議と高いところにやって来た気にさせられる。中を窺うこともできないほどに植物群落が密生している。あるいは、植物群落が深めた(高めた)孤立感によるものであったかもしれないが、おそらくそれ以上に、御嶽(うたき)の存在感によるものであったのだろう。御嶽「巡礼」を前にした気持の高まりである。気持によって近くも遠くも感じることは日常的で、とり立てて論う必要もないかもしれないが、このように高さだけを足許に感じる感覚は稀である。比嘉康雄の写真の力も遠因をなしていたに違いない。
すこし進むと、今度は大きく切り拓かれた原と畠が広がる。視界の先も四周も植物群落で遮られている。その先は海だと分かっていても、今は土地(「内陸」)の広がりしか目に入ってこない。今度は目線である。高さの次には目路が試されていたのである。
不意を衝いたこの広がりも、しかし、意図的につくり出されていたわけではない。潮風に晒されないためには、耕作地はここに開くしかない。一般的に言って、人の住む処には、土地条件に応じた自然との関わり方があり、それに伴って個別の景観を広げている。それが、時には予知しえない立ち現れ方をとる。それ相応の驚きも伴われる。随所で味わうことである。でもそうした際の驚きとは内容が違うのである。とくに変った景観ではないからである。むしろ「凡庸」でさえある。にもかかわらず、実際以上の広大感が伴う。それが、個別の地上感にも繋がっている。
やはりカミを感じるからなのであろうか。しかし、霊感によるものではない。霊感は強くないし、無いと言ってもいいくらいである。したがって、肌(肌合い)で感じるカミではなく、頭で感じるカミであった。どこが違うのかと問われると、明確には答え切れないが、一度だけ似たような体験がある。出雲だった。感じ方は違っていたが、肌ではなく頭で感じるという感得の仕方(フレーム)では同じだった。その再体験だった気がしたのである。その時も実は別の「比嘉康雄」がいた。引率してもらったのである。その所為だったかもしれないが、相乗効果だったに違いない。
それはともかく、「内陸」を進む。畠の奥に設けられた拝所がある。「ハタス」である。上掲大里家が祀る伝説の二人、アカツミー(男)とシマリバー(女)によってもたらされた五穀の種は、ここに植えられたという。また五穀が入っていた壺も同時に埋められたという。シマリバーの助言でアカツミーが浜(東海岸の伊敷浜(イシキハマ))に流れ着いたのを拾い上げた壺である。最初はなかなか拾い上げられなかった壺である。シマリバーが授けた助言は、身を清めて白衣を纏えばよいというものであった。果たせるかな、それまで容易に手で触ることもできなかった壺(白い壺)は、壺の方からアカツミーの白衣の袖に流れ込むように入ってきたのであった。中には五穀の種が入っており、ハタスに植えられ種は、やがて島に広がったのである。

 ナグルガー その潔斎場が次のナグルガーである。西海岸の岩場の下に設けられた「井」(ガー)である。断崖状である。階段が設けられている。手すりを頼りに下り立つと、背後には岩に打ち寄せる荒い波が砕け散っている。浸み出した雨水が石灰岩の隙間に溜っている。潔斎時にはここで身を清めるのである。今に続く潔斎場である。先細りになった岩の空間の先は、人一人がやっと膝をつけるだけの幅しか残っていないが、却って潔斎場の臨場感を高めている。しかも背後には荒々しく打ち寄せる波音である。潔斎者の心に轟き渡る他界の音である。いやが上にも身が清まっていく思いが高まることになる。
それにしても背後に砕け散る波とその強い波音は、断崖状の西海岸がつくる、現生からの孤絶感を高め、その先に浮かぶ本島との距離感までも実際以上に遠いものにしている。まさしく、死者の崖である。葬られた死者(風葬)が、この島を離れる際の方位(最初の方位)に相応しい断崖を海面上に延ばしている。

 フボー御嶽 ナグルガーから地上に戻り、北に500mばかり進むと、そこがフボー御嶽である。久高島最高の聖域であり、琉球七御獄の最高位として篤く信仰されている。琉球国王が聞得大君を伴って参拝する聖地でもあった。なお、対岸知念岬の世界遺産に指定されている斎場御獄(せーふぁうたき)内に設置されている遥拝所は、冒頭に記したように国王や聞得大君の従来の直接参詣に替わる遥拝所(代替遥拝所)であった。波の荒い「海峡」渡海に危険が伴っていたからである。いずれにしても東方を聖方位とする琉球神話にとって、久高島は琉球のはじまりの地(創世地)であり、なかでも太陽の神と一体的なフボー御獄は特別な聖地であった。
 しかし、大和の国ならば伊勢神宮ともいうべきその場所は、ただ樹高10mほどの聖樹ビロウ(クバ)や、その下層で縫うように枝を伸ばしたアデン、さらには最下層に密生した下草類などの緑の濃い亜熱帯植物群で被われた、切れ目のない一続きの森の一画でしかない。結界を示すような宗教的な地上標識は一切ない。そこに説明板と立入禁止の立て看板が設置されていなければ、場所を特定することはほとんど不可能である。しかし、一切の進入を認めないとする「立て看板*」を目にしたとき、「警告」を前に此処が絶対に冒されてはならない聖域であることを厳しく受け止めることになる。
厳粛な面持ちで立て看板の脇に立て並べられた、見取図付きのフボー御獄の説明板の前に立つ。それでもあらためて特定の範囲を囲った場所ではないことが再確認される。磐座もない。小さな手の平大の依代の石(イビ)が円座の最奥に置かれているだけである。それ以外にはなにもない森の中に円形にぽっかりと空いただけの空間である。森の内側の一か所でしかない。やはりこの局面でも、比嘉康雄の写真が力を発揮することになる。あらかじめ、円形に居並んだ神女(タマガエー)の姿を写真に知っていたからである。見えないその先にも確かな「聖域」を感じることがきる比嘉写真の力(神力)であった。しかも、白衣を際立たせる強い陰影の効いた白黒写真だった。深まりゆく奥行きであった。その眼前に立っていたのである。
沖縄最高位の聖域は、かく島の日常的な自然風景と同居し、同時に日常性の奥に深く引き籠って、「何人たり」との同居を厳しく拒んでいた。許されるのはイザイホーで神女となった30歳以上70歳までの島の女性=神女(神人)(70歳を迎えると退任。退任式はこのフボー御獄のなかで執り行われる)たちだけである。
* 立て看板の文面(表題は「ご協力ください」)は、以下のとおりである。
「久高島フボー御獄は、神世の昔から琉球王府と久高島の人々が大事に守ってきた聖地です。神々への感謝の心と人々の安寧を願う場所であるため、何人(なんぴと)たりとも出入りを禁じます。
                    久高神人・久高区長・島民一同/沖縄県南城市教育委員会」

島の祭祀 年間40回を超える年中行事(祭祀)を執り行う久高島であるが、フボー御嶽で行なわれる祭は、島全体にとって重要な祭祀で占められている。その一つ、「ハンサァナシー」の様子が比嘉康雄によって詳細に記されている(比嘉・上掲書16569頁)。フボー御嶽と神女との関係を具に教えてくれる内容である。同著の記述を大まかに辿ってみよう。
 ハンサァナシーは、年に2回(旧暦4月と9月)行なわれる、あの世から島にやってくる神々の祭である。来臨した神々によって島は祓い清められ、人々には平安が齎らされる。アカハンザァハシー(太陽の色彩を反映した「アカ」を冠にした「明るい神様」の意)と呼ばれる来訪神は、「ムトゥ(草分け家・注)に帰属する神々で、各ムトゥの始祖的神格」であり、祭祀に現人神として顕れて子孫と会うことになる。特別なイザイホーを別にすれば、年中行事でももっとも大きなものの一つで、祭には4日間(準備、迎え、顕現、送り)を要する。1日目の準備(神饌と祭場の準備)を経て、2日目には新任神女を除く全神女がフボー御嶽に赴く。すでに来着してフボー御獄に留まっている来訪神に集落へのお出ましを要請するためである。同要請儀式をンチャメーヌフェ(「神の御前に礼拝する」の意)と呼ばれる。3日目の朝、いよいよ神々の集落来臨である。以下は比嘉康雄の記述を引く。

  3日目にいよいよ神々の顕現がある。午前34時ごろの暗い中で、各ムトゥの神職者はホーイホーイ(神の掛け声・注)の声を発しながらムトゥを出て久高ノロ家に集合したあと、またホーイホーイを連呼しながらフボー御嶽へ行く。フボー御嶽に到着すると、雑事役(ソージャク)が持参した神衣(ウブジン)(彩色神衣・注)を着る。この神衣着装の時点で、あの世の神々アカハンザァハシーがそれぞれの依代となる神職者に憑依合体する。つまり神職者は、各ムトゥの始祖的神格の現人神になる。(改行)フボー御嶽で神歌(テイルル)を歌って円舞した後は、ホーイホーイを連呼して集落に向かう。時刻はまだ夜明け前である。(改行)集落のはずれでは、白装束の神女たちがあの世の神々の一行を出迎え、あの世の神々は神女たちに伴われて外間殿(フカマトウン)の祭場に登場する。

 取材時(1976年)段階でのあの世の神々は、最高神の「東り大主(アガリウブヌシ)」以下4神であったが、戦前では20数神で構成されていたようである。彩色神衣に包まれてホーイホーイを連呼しながら集落を目指すその様(行列の姿)は、まさに壮観の一語だったいう。
 外間殿に到着した神々は、神女が奏でる神歌と円舞のなかで、「東り大主」(女神)の命で各神々が順次神事を行ない、その後、神女に先導されて集落の祓いに赴く。最初は港のお祓いである。ユウラハ浜である。浜での祓いを終えると、今度は二手に別れて集落を練り歩き、集落内を祓い清める。再び外間殿に合流してその日の行事を終える。あの世の神々は、夜、子孫の各々のムトゥに滞留する。同じムトゥに帰属する同族の人々は、始祖神に会うために各ムトゥを訪問し、礼拝する。4日目に神々を送る儀式が外間殿で行なわれ、祭は終了する。

 久高島の神女 すなわち、フボー御嶽とは、あの世から神船で島に来訪した神々の来臨の場であるとともに、神女と神々との身体化(現人神化)が実演・実行される場であった。写真集に「主婦が神になる刻」の題名(副題)がつけられた比嘉康雄の久高島祭祀の写真集(比嘉康雄『神々の古層』⑤、1990年)があるが、まさしく「神になる」の位相は、ただ事ではなく、本土のなしえる域(集落・在町等で執り行われる祭祀の域)をはるかに超えている。次元の違いを痛感するばかりである。
イザイホーを経て神女となった久高島の女性たちは、役割は多様ながら神々と生きる一年を毎日の如く過ごし、70歳で退任するまでの間、神女の日々を再生し続けるのである。生涯が神の中にある、あるいは神のなかに生涯があると言える。しかも驚異的なのは、それが日常生活のなかに平然と同居していることである。
主婦の字義が、一家の主人の婦(妻)であるとしたなら、久高島の神女の世界のなかでは、こう説く辞書は通じない。主(あるじ)たる婦(女)の意味の主婦と読み替えなければならないからである。「根人(ニーチュ)」なるクニガミに列される男性神職者(ノロ家の男性)ほかが存在していても、男性神職者は、終始祭の外で補佐的な役割しか果たさない。神職役を含む久高島の男にとって、補佐的あるいは客体的な立場にしか置かれていないことも、「事」が次元的に創世的なことであるかぎりは、生業的な夫婦間の役割分担を超えた、生得的な範疇に属することであった。受け容れる受け容れられない以前のことである。それにこの島は、ア・プリオリに「女が男を守るクニ」(比嘉康雄、1989年写真集の副題)なのである。人の「知」が生まれる以前に由来する決まり事である。まさに神意に外ならなかった。
祭祀の外縁に置かれ、精神面で生得的に女(神女)に守られなければならないからと言え、島の男たちは海人(ウミンチュ)として独立的な人格を有している。当然男権も有している。しかし、久高島の神女とは、言ってみれば男権を含めた「人権」に超越する存在である。卑俗に釈とられたら話は進まないし、止まってしまうが、今の日本に知らない「人格関係」なのである。この関係を含みこんだ久高島によって繰り広げられてきた時空間がある。かつ永く在った。その世界観と事実が、任意の小島のなかで、小島の範囲内で繰り広げられていたことに立ち往生した――これが今回の久高島体験であった。

「島」哲学 執筆者は、日本を代表する盆地の一つで生まれ育った。正確にはその盆地の周辺の丘陵地帯で。四周を明確な「限り」が取り巻いていた。しかも高い山々は峻厳でその先に他空間さえ感じさせないような独立性を保っていた。それかあらぬか盆地は内向きで、それがために無意識に閉鎖的な気風が育まれていた。今もそうかもしれない。
しかし、これは生れ故郷に限ったことではない。おそらく、列島各地(北海道を除く)は内向きである。外部に対してだけではない。内部に対してでもある。それが長い歴史的時間をかけて日本がつくりだした精神体系である。それがないのである。ないのが当たり前の時空間が、しかも特別の地貌を備えていない普通の自然と同居しているのである。峻厳な山岳も神秘の湖も激越の瀑布もないなかでの事態である。
特徴的なのは、綺麗な海に取り囲まれた小島だということだけである。しかし繰り返せば、その水準にしても他を差別化できるほどに特別なわけではない。むしろ、琉球弧における碧い海の水準では平均的である。それに沖縄本島から56キロ先程度の地理的条件では絶海性の意識も育たない。本島周辺の小島でしかない。島外だけでなく島内に育まれた地理的感覚でもあったはずである。その条件下で創りだされた、本土的な「限り」とは縁遠い精神世界が、今に引き継がれていたのである。「限り」の民俗とは異なる時空間を創成したのは、一義的にはカミ(祖霊神を含む)と共ある精神体系であるのかもしれない。でもそれだけだろうか。「島」であったことは関係していないのだろうか。この思い(「島」哲学)に再び立ち止まるのである。

「民俗」世界 晒されていたのである。たしかに視界を遮るものはなにもない。山も丘もない。山間や丘陵の谷あいに住む人々(「常民」)の民俗から見れば、耐えがたいほどの剥き出し状態である。民俗を構成するような所与の条件下にはない。はたしてこれは「民俗」なのだろうか。すくなくとも盆地世界の民俗構造とは世界の成り立ちが異なる。
構造と言うなら、むしろ「民族」(エスノロジー)に近い。よりパースペクティブであり、同時により身体的である。時空間も遠大であり同時に至近である。合理主義者を困惑させる足りる異種の因子が合一されている。したがって空間性も時間性も単なる非日常を超えてより越境的であり、かつ異界と交感的でもある。カミや魂・霊が視覚化され、隣接的な緊張関係を常態化している。時には同化する。神話空間のダイナニズムの原則が生きている。しかし、それでもなお「民族」ではない。他者ではないからである。隣する世界だからである。同根的に源を揺す振るからである。
ただし、揺す振られるのは、同根が創る逆説でもある。資源的潜在力においてはるかに優勢でありながらも、文化鎖国しか創りだせなかった本土(「島国日本」)に組みこまれている自分たちの存在がもたらす逆説である。島国を枠組みとした文化(日本文化)は、オリエンタリズムに対して互角以上にアイデンティティを発揮しながらも、同根の小島一島によってなんなく相対化され、しかも超越されているのである。訝しく思われてしまうに違いない。相対化はともかく、超越されてしまうとまで言われたのでは。それも理由も明かされないで。なら告げなければならない。思考過程である。思考過程そのものが超越されていたのである。

詩学的立場 「島」の思考過程には普遍が備わっている。詳細を問う前に総体が語っている。如何ともしがたいほどである。一方、日本文化のそれは、歴史過程を経て気がついて見ると、閉鎖的な思考過程を完成時の姿として定位している。閉鎖的な思考過程の先に出る出られない以前の段階である。ネット・メディアの指摘(「より閉鎖的」)は、卑近な一例かもしれないが、それ故に「島国日本」の思考過程の根幹に触れている。グローバル化は、それ自体が思考過程であるからである。しかも異文化的である。閉じた思考過程(アナグロニズム)に親和的な心性は、容易にはデジタル変換されない。される必要もない。そこまで遡らなければならない新世紀的課題に繋がっているはずだからである。
とは言え、執筆者の関心は、もっぱら詩的なものに留まる。詩学の範疇と言い換えてもよい。したがって「思考過程」も言葉としては詩語でしかない。しかし、一次的に「思考過程」の外に置かれている立場(執筆者の立場)にとって、外に置かれていることの自己発見は、同時に自己否定として返されるものでもある。したがって詩学的な立場は、同根に在ることから齎される贖罪感にも似た自己認識によって二重にも揺す振られる故に、さらに強まるのである。その強さが、失われた時間の回復を求めることにもなる。回復とは、自己回復だからである。しかし、自己回復は、矛盾を引き受けることでもある。時間の本質が矛盾だからである。久高島が持ち越したものが、「時間」(古代的時間)であるとすれば、久高島とは「矛盾」を生き続けられる「島」であったことになる。詩学的感動によって向い合う所以である。

内在者の写真 その時、比嘉康雄の写真が「感動」に語りかけてくるのである。地形上、ダイナミックなアングルを期待できない構図のなかで、神女の表情と姿態とそれを包む陰影のコントラストだけで浮かび上げられた世界が、同根に繋がる我々の、「かつてのなにか」を揺さ振るのである。しかも島を訪れて、その白黒世界とは別の総天然色に浸かった後でも、写真が撮り込んだ世界は、より深まりも高まりもするのである。残念ながら同じ1978年のイザイホーの「記録映画」(約100分)には、同じものは感じ取れない。出発点が違うと言われてしまえばそれまでかもしれないが、しかし、記録化の聖性が、禁制への立ち入りにはたして勝るものなのかを考える時*、記録性を前にして、同根者側に立つ者には、「(自分たちの)かつてのなにか」までが冒された思いに囚われてならないのである。
 しかし、比嘉康雄の写真は違う。しかも彼の写真(禁制のなかの写真(フボー御嶽))は、最高位神女(クニガミ)の一人であるウメーギの誘いによるものである。当然のことながら立ち入ることなど思いも浮かばなかった彼の許に、「かまいませんよ」と言って御嶽に招き入れ、祭祀の円座の末端外側に同座を許し、かつ撮影をも許したのである。まだ本格的な交流を開始する前であった。すでにウメーギにとって比嘉康雄は、男子禁制の外に立つ者であったのである。他者ではなかったのである。内在者だった。ウメーギは見抜いていたのである。自分たちの魂を新たな「ニライカナイ」に導くものであったことを。
* 禁制の地や屋の前でカメラを止め、止めたままその先はナレーションに替えていた方が、映像としてもより迫真性が発揮されていたように思われる。記録と言え、「創作」であるからである。

おわりに~真正な体験~ 久高島を体験するとは如何なることであるのか。今では現地訪問という直接体験だけでなく、ネット上でも間接的な訪問(ネット訪問)ができる。沖縄県や地元南城市のホーム・ページ上のそれも丁寧な内容で、知識だけでよいなら現地訪問以上のものを授けてくれる。しかも知識によってもたらわれる体験は、それはそれで一回性的な体験(ただし擬似体験)でもある。単なる旅行案内書での誌上体験に終わらない。以前なら考えられない体験(デジタル体験)が、我々のデスク上に瞬時に齎らされる。これはこれで「現実」(リアリズム)である。
 しかし、ネット体験はくまでもネット体験である。最初から限界がある。断るまでもないことである。誰しも限界を折り込んでパソコン画面を開くのである。それでも知識は次の知識との間で連携智として増殖していき、やがて当初の前提事項(折り込み事項)も上書きされて元の姿をとどめなくなる。別に内部体験者が誕生し、可視者となって未体験者に取って代わるのである。極めつけがバーチャル・リアリティーである。別に情報論やメディア論に言及しようとしているのではない。否応なしに「体験」の位相が問われる時代だからである。しかも、ますます本来的な体験を自覚する機会が失われていく(希薄化していく)日常生活を思うからである。もしそれ(今回の体験)が、沖縄本島に留まっていたなら、誤解を招きかねない言い方かもしれないが、ネット体験と実際の体験との違いに決定的な落差を感じていなかったかもしれない〝マヒ〟を思うと時、久高島体験に体験とは別にメディア論の本質にも繋がる問題(日本(人)論)を知らされたのであった。
いずれにしても、実際に訪問していなかったら、上記した同根的な揺す振りに晒されることもまずなかったにちがいない。それ以上に「島」の意味を教えられることも。もしこれが、「真正な体験」に連なる一つの機会だとされるのなら、「真正な」を常にキー概念とする、未来の矛盾を見抜いていたベンヤミンの複製時代論(アウラ的存在様式論)を実習していたことになっていたのかもしれない。〈いま―ここ〉を本質とするアウラ体験である。

[付] 本稿の多くは、比嘉康雄の著書(『日本人の原郷 沖縄久高島』集英社新書、2000年)に導かれて記したものである。全編を通じて志の高さに貫かれている。ブログ執筆者の若い知り合いにも「島」の体験者がいる。高い志に生きる一人である。この先の「健全」(尾崎翠「太田洋子と私」昭和16年7月5日付『日本海新聞』)を祈りたい。

2013年3月14日木曜日

[さ] 散策~あるいはKa子の自伝~

 [さ] 3月の公園にはようやく暖かさが戻ってきた。小鳥たちも葉を落とした枯れ枝のなかを次の枯れ枝へと忙しく飛び移っている。その下のベンチには、例年になく厳しかった冬を部屋のなかで過ごしていた人々が、三々五々出て来て、待ち焦がれた春の空気を吸い込んでは、体の中に溜ったストレスを吐き出していた。
 影子(ようこ)もその一人だった。今、子供の受験がようやく終え、子供以上に開放感に浸っていた。
――合格しましたか。おめでとうございます。
――ありがとう。
――しかも第一志望で。将来が楽しみですね。
――まだ中学受験ですよ。この先どうなることか。
――でもどうなろうと、ここに見本がいますから。見本ではなく、最低保証かな。
――サイテイホショウ?
――はい。まさに。
――相変わらずね。でもあなたに付けていただいた「影子(ようこ)」のこと、結構、気に入っているのよ。
――それは光栄です。もう「影」のことなどお忘れかと思っていました。
――指切りしたのに。
――そうでした。指切りを。「影の指切り」を。たしかにしました。お陰で、僕の乏しい想像力にも灯を点すことができました。「影」を研究した成果も生れそうです。
――アンソロジー(「影」のアンソロジー)のこと? 私もいただいた「名前」のこともあるし、他人事には思えないので、挙げていただいた本、読んでいたのよ。
――気に入った「影」はありましたか?
――ええ、あったわ。でも今はまだ自分のなかにしまっておくわ。それより、先日の、といっても昨年の10月以来ですけど、お話の続きって、なんなのかしら。なにを聞かせてもらえるのかしら。
――お時間大丈夫ですか?
――ええ、十分にあるわよ。1年分も。もっとかしら。
――大変ですね、母親は。精神的な負担も子供より大きかったんではないですか。今日の影子さんには解放感があります、別人のようです。
 ――別人? そう、たしかに別人かも。苛立っている自分に苛立つ。そんな感じだったわ。子供への愛情でもなんでもないわ。子供から、「ベンチのあなた」のこと聞かされた時も、ただ敵対者にしか思えなかったわ。誰もが私を疎外するようにしか思えなくて。結局、自分で自分を疎外していたのね。それも分かっているのよ。でも分かれば分かるほど、ますます疎外感が強まってしまう、まるで蟻地獄。いろいろ考えたわ。自分を見詰め直すこともできたわ。私のなかの私をね。最初は嫌な女の部分しか見えなかったけど。子供から離れられる自分が見えてきた時、すこし自分が取り戻せそうな気になれたの。受験に失敗した時のことよ。もう一度、本当の母親になれる気がしたの。女としてももっと良い女にね。でも合格してしまったし、機会は奪われてしまったわ。でもこれも合格した余裕かしら。また嫌な女に戻っていくのかしら。
 影子の話を聞いている方が面白そうだった。それでもよかったが、影子から「私のお話ではないでしょう」と質された。そうでしたと言って彼は始めた。「仮面劇」(2012.10[か])の続きだった。
具体的には、Ka子のその後と同時にそれ以前だった。過去の話だった。つまりKa子の自伝だった。

 ※

〔承前〕「仮面劇」(2012.10])

 5

 また同じ日常に戻った。場所も同じ街中だった。抱えているカメラもナップサックを下げた格好も日焼け止めを塗っただけであとはノーメイクの素顔も、のど飴を持っているのも同じだった。やはり同じように午前と午後にその場所に立っていた。
違うのは、巡回中の婦警が立ち寄ってくれるようになったことだった。知り合いになったのだ。相変わらず同じ場所に立っていたKa子に、巡回中だった婦警が自転車を寄せて声を掛けてくれるのである。
「今日も〝空撮影〟ですか」
1か月ばかり経ったある日、Ka子は思い切って誘った。婦警が非番の時、会って欲しいと。本当の話をしたかったからだ。最初からしても好いと思っていたが、あの時は交番のなかだったのでそんな話をしても分かってもらえないと思って、事情を説明するのが躊躇われたのだ。
そうは申し出てみたものの、婦警はなかなか応じてくれなかった。私人としてお会いするのは……。当然である。
そこで「現場」で話したかったと、そうしないと分かってもらえないからと職業意識をくすぐってみると、婦警はすぐに関心を示したが、それならなおさら仕事として聞かせて欲しいと切り返された。
「今ではだめなのですか、時間なら大丈夫ですよ」と自転車を降りようとする。
「その制服姿ではだめなのです」
決然とした口調だった。
どうしてですか、やはりなにか後ろめたいことでも? そう言いたげだった。交番の時に見せたような被疑者に向けた不審者を見る眼付きだった。
沈黙が続いた後、なにか思い当たることがあったのか、婦警の口元がすこし緩むと、「そうですか、分かりました」と、一気に同意に転じた。
婦警のなかの「自分」が、Ka子に個人的な興味を抱いたのだった。
実は、Kaが撮っていたのは自分自身だった。自分の「姿」だった。そして、そのための前提条件として、まず「影」を補足する必要があった。先行条件と言ってもよかった。なにかにカメラを向けていたのは、「影」を見つけるためだった。肉眼では見えない(補足できない)からだ。特殊なフィルターが必要だった。フィルターを透かしてはじめて捉えられる「影」だった。Ka子がじっと立ち尽くしていたのもそのためだった。その瞬間に狙いを定めていたのである。これが真相だった。
しかしいくら事情がそうだったとしても、いきなり切り出してすぐに分かってもらえる話ではなかった。それに、当たり障りなく世間話から始めて次第に相手の関心を自分に引き寄せられる気の利いた話術は持ち合わせていなかった。核心部分から入るしかなかった。案の定、疑われた、というより、折角非番に出てきたのにいきなりそんなことを聞かされるなんて、と少し不機嫌な顔もされてしまった。
――じゃ、私が今こうして話をしているKa子さんは、本当のKa子さんではないんだ。その時、乗っ取られたKa子さんなんだ。乗っ取り犯が「影」なんだ。ここがその場所(「現場」)なんだ。「影」を補足(「逮捕」)しないと自分に戻れないんだ。特殊なフィルターがあるんだ。「影」を補足できる。ともかく制服姿ではだめというのはそういうことだったんだ。警戒されてしまうから。後がやりづらくなるから。
なるほど、と言って婦警は納得して見せた。でも我慢していただけだった。
――そんな「事件」があったんだ。交番に見えられた方、なるほどどこか親近感が湧いたけど、やはり警察の関係者だったんだ。でも、50年前の事件でしょう。その時の刑事さんと言われても、やはりね、すぐにそうだったんだとは言えないでしょう。だって、そうだとしたなら刑事さんその時20代だったとしても、もう780歳でしょう。でもまだどう見ても50代前半にしか見えないし、それにその時の「被害者」がKa子さんなわけでしょう、被害時年齢が17才だということであれば、今の年齢は67歳になっていることになります。でも目の前のあなたはどう見ても20代でしょう。そうですか、26歳ですか、もっとお若いかと思いましたが、私よりお姉さんなんですね、でも40歳分足りません。どのように理解すればよいのですか。
Ka子は、婦警が自分に同情しはじめていたのが分かった。より正しく言えば憐れみはじめていたのが。なぜなら、あの時、交番を出た後、中でどのような話がされていたのか、容易に想像がついたからだ。頭のおかしい人間ぐらいにされていたに違いないからだ。〈その人〉のこともそうだった。二人で同じ施設に入っているとでも思っていたに違いない。やはり先輩が言っていたとおりだったのか、今ではその時の、ka子を前にした自分の熱の入った対応が愚かしく思えて、自己憐憫の思いにさえ襲われはじめていたのだった。
仕方がなかった。Ka子は余り強くない程度に催眠術を掛けた。10回目の玉を回すだけで済んだ。心のなかが純粋な証拠だった。かかり具合を確かめた。スイッチはカメラのシャッター音だった。さすがに世界の***のシャッター音は違っていた。すぐに効果は現れた。
――じゃ何かあった時は今度から(Ka子さん)=括弧Ka子さん、と呼べばいいわけね。了解!
私服姿だったが、婦警は背筋を伸ばして敬礼をした。Ka子も敬礼で返した。因みに括弧で括るのは、乗っ取られているという意味だった。
それから婦警が巡回してくるたびにカメラを向けた。すこし離れていてもその機械音は聴きとれた。その内にカメラを向けるだけでもスイッチが入った。婦警は、「では聞き込みに行ってきます」と、目を大きく見開きながら自転車を力強く漕ぎ出していった。数時間後、再び戻ってきた婦警によってその日の成果が毎回報告された。
解除の方法は、「のど飴」だった。「お疲れ様」そう言って、Ka子はナップサックの脇ポケットから取り出したのど飴を一粒手渡した。その場で口に含ませた。溶け切った時に解除されるようにしておいた。交番に戻る頃には元に戻っているはずだった。

Ka子は、その時17歳だった。街の風景は50年前と大きく変わってしまったが、まだその時と同じセーラー服姿の女子高校生が街中を歩いている。伝統を重んじる女子校だった。Ka子がその私立女子校の3年生の時だった。いつもの帰宅道を「現場」の通りに差し掛かった時、Ka子は消えたのである。正確に言うと自分ではなくなってしまったのである。
今でもはっきりと覚えている。立ち止まるつもりはなかったのに自然と足が止まってしまい、体から急に力が抜けていき、大きな眩暈が襲ってきたのだった。そのまま倒れてしまいそうになったKa子を、誰かが背後から支えてくれた。その時だった、一瞬、電流が走った。全身を駆け巡った。Ka子は懸命に堪えた。なんとか昏倒せずに済んだ。
支えてくれた人にお礼を言おうと、振り返ってみると誰もいなかった。見回しても誰もいない。どこにも人の気配がなかった。それが「事件」だった。Ka子がKa子でなくなる。
だれも信用してくれなかった。自分でも信じられなかった。顔かたちが変わってしまったわけではないからだ。何度も鏡を覗いた。いつ見ても同じ顔しか映っていなかった。
あなたなにか悩みごとでもあるの?
母親の直感で娘の様子がおかしいのを心配したが、もともと気持をあまり面に出さない娘だったので、母親もそれ以上は深く立ち入ることもできず、そのまま月日だけが過ぎて行った。それにその後も変わったことは何も起きなかった。
それが、やはり自分ではなくなっているのがはっきりしたのは、自分の姿が写真に映っていなかったことが判明したからだった。
卒業が間近に迫っていた時のことだった。一人の子がカメラを学校に持ってきた。まだ誰もがカメラを持てる時代ではなかった。発売されて間もないライカ判ニコン一眼レフカメラだった。父親のカメラだった。
クラスの中は大騒ぎになって、撮って! 撮って! の連呼だった。Ka子は窓辺に体を寄せて騒ぎを背中で聞いていた。カメラのシャッター音がした。これがカメラの音か、撮ってもらった子たちはカメラを取り囲んでいた。しばらく撮影会が続いた。騒ぎが収まりかけたのを見計らって教室の中に向き直ると、振り向き様を撮られた。仲間に加わろうとしないKa子を狙っていたのである。
何日かして今度は写真会になった。焼き付けられた印画紙でまたクラスの中は大騒ぎになった。騒ぎのなかを抜け出してKa子の傍に近づいてきたカメラマンのその子が、「おかしいわね。あなたの写ってないのよ。ほかは一枚も失敗してないのに」そう弁解気味に言って、少しだけ灰色がかった白いままの印画紙をKa子に差し出した。「これじゃ日本製のカメラもとても世界に通用しそうにないわね。」クラスメイトは自分の腕前ではなくカメラの性能を詰った。
そうではない、腕前でもカメラでもない。原因は被写体の方にあったのだ。Ka子は直感で分かった。白くなってしまったのは、被写体に陰影がないからだった。体のなかに空洞感が広がっているのも原因はこれだった。表情だけではなく、体内もなにか無表情な感じになっていたのだ。メリハリ感がない。質量が感じられない。重みが体内にないのだった。
一度原因が分かると、Ka子は、重力を無性に欲するようになった。次第に飢餓状態に陥っていった。渇きが癒せる――つまり重力が得られる場所は決まっていた。あの「現場」しかなかった。そこは普通の民家の前だった。民家に面している通りだった。
家人からの応答がなかった。留守だった。何度訪れても同じだった。最早限界だった。致し方なく無断で入らせてもらうことにした。鍵は訳なく開けられた。二階の屋根から物干し台に上がった。下を覗いた。まだ高さが足りなかった。やはり屋根の上まで上がらなければならなかった。
手頃な踏み台を見つけて一気に屋根の棟まで上がった。棟を跨いで妻側にゆっくり体を移動した。家は角地に建てられていた。真下は「現場」とは少しだけずれていたが、高さの方が大事だった。
立ち上る前に地面を覗きこんだ。気持が癒されるようだった。そっと立ち上って全身を空に向けて伸ばした。大きく息を吸い込んでそのまま体を前に預けるように傾けた。でもそれ以上傾かなかった。力を入れたが同じだった。体は向こう側に倒れこんでくれなかった。
後ろから誰かに抱き抱えられていた。気がつくと大勢の人が下から見上げていた。布団を広げている人もいた。
警察署に連れて行かれた。事情聴取だった。捜査課の一画に設けられた応接間だった。中年の刑事だった。最初は腫れ物に触るようにして問い質されていたが、何度問い質してもka子から同じ答えしか返ってこないのが分かると、見る見るうちに表情が変わっていって、人差し指を頭に当てて、「これか」と言って、回りにいた刑事たちと一斉に笑いだした。
特別被害があるわけでもないし、家屋への無断侵入も心の病では問えないからと家の人に納得してもらうと、警察は、後のことは精神病院に任せることにした。「事件」はそれで終了するはずだったが、すでに話が町中に広まってしまっていたこともあり、噂を聞きつけた(正確にはもの好きのご注進を受けた)新聞社が、丁度、「時代と女性」を特集していたこともあって、これも新しい時代の感覚(少女の感覚)と解れなくもないと、Ka子のことをコラム爛に報じた。
一般論に書き換えられてはいたが、無理だった。「心の乗っ取り犯!」とか「重力からの生還」とかいう小見出しもいかにも挑発的だった。Ka子は家に戻れなくなった。長い入院生活を送ることになった。実は今も続けている。家族にもその方が安心だった。別段、世間体のためではなかった。娘のためだった。まだ娘が重力を必要としていたからだった。

婦警は、(Ka子)がカメラを首や肩から下げてさらにバックも背負っているのが、これで完璧に得心がいった。「影」の補足と同時にこの問題もあったのだ。むしろ現実的な必要に迫られていたのは、「重力」の方だった。体に重さが必要だったのだ。持たせてもらって分かったのだが、たしかに重いカメラだった。バックの中身はさらに重い。両方合わせると結構な重量になった。
それにしても賢い婦警だった。さしたる混乱もなく67歳の問題にも解決がついているようだった。この分だと昇進試験もなんなく合格だ。スピード出世だろう。でも婦警は捜査課への異動がなによりの希望だった。夢だった。警察官を目指した理由だった。そのためにも異動の援けになる実績のことばかり考えていた。今が好いチャンスだった。疾うに時効は過ぎていたと言え、未解決事件に変わりはない。しかし詰めていくと時効とばかりも言えない。交番勤務の今だからこそ自由に動ける。巡回連絡の機会が活かせるからだ。この好機を逃してはならない。
でもと婦警は思う。それでは自己中心的に過ぎる。その前に人でなければならない。「被害者」を目の前にして、婦警である前に一人の人間でなければならない。人として黙っていられないはずだ。難事件だから解決できないかもしれない。たとえ解決できなかったにしても相談に乗って上げる。誰かに分かってもらえるのは大事なことだ。それだけで気持も楽になるのだ――婦警は思った通りの善人だった。
これまで誰にも理解されずに来たに違いない。私が最初の理解者になる。これも悪くない響きだった。でも分かっている。最初ではない、正確には第二の理解者だった。あの「刑事」がいたからだ。あの人が最初の理解者だった。Ka子を屋根の上で抱きかかえた人だったかもしれない。おそらくそうだろう。でも事件は解決できなかったのだ。資格はない。やはり私が第一の理解者だ。
そこで問題の67歳の件――カメラさえ下げていれば戸外にいても心配ない。重力の問題から免れられるからだ。これが大前提。次に年齢のことだが、これもこれでいいのだ。たしかに67歳なのだ。そして(Ka子さん)も26歳なのだ。これも間違いないのだ。67歳がKa子さんで、26歳が(Ka子さん)ということには。つまり二人は別人なのだ。だから二重被害者というのが、この「乗っ取り事件」の真相で、実は時効ではなかったのだ。
でもKa子さんは、いま(Ka子さん)のなかにいる。だから正しくは一重括弧と二重括弧の関係なのだ。おそらくきっかけはカメラだったのだろう。混乱するのでとりあえず26歳の((Ka子さん))を「鹿子さん」とする。鹿のような感じがするからだが、読み方としては「カコさん」ではなくひとまず「しかこさん」とする。67歳の(Ka子さん)を「過去さん」とする。故人みたいな言い方になってしまっているかもしれないが、50年前を強調しただけだ。
でも身体間移行の経緯としては、「過去さん」が意図的にしたことではなかったにちがいない。それにもともとそんなことは思ってもいなかったはずだ。「過去さん」とはそういう人だった。おそらく「鹿子さん」の方から声をかけたに違いない。「過去さん」がカメラを下げていたからだ。「鹿子さん」は、あまり友達がいなかった。いかにもそんなタイプだ。何度か見かける内にいつも同じ場所にいる「過去さん」に声をかけたのだろう。
途中の経過は省くけれど、「過去さん」は、「影」を撮っている、撮ろうとしている、撮れるのを待っていると答えた。それも自分の「影」を。それに「鹿子さん」は、モノクロ写真を通した白黒の世界をテーマにしていた。こうして次第に話が合っていった。
もともと「鹿子さん」も写真とは自分の「影」のことだと考えていたからだ。二人の「影」の内容にはずれがあったが問題はなかった。「鹿子さん」は、次第に「過去さん」に自分の将来を見るようになった。自分も生涯を掛けて自分の「影」を撮ろうと思った。彼女のような写真家になりたいと思った。そしてなった。なると、「過去さん」のなかに未来だけではなく自分の過去も見えた。「過去さん」は「過去さん」で「鹿子さん」に自分の未来が見えた。そしてなった。自分の未来に。二人は無意識のうちに合体していたのかもしれない。
「過去さん」は、床に伏せるようになった。実は病を抱えていたのだ。これまで気力で生き抜いてきたのだった。「鹿子さん」に譲ったカメラに命が繋がれたことを確かめながら、やがて「過去さん」は静かに世を去った。
「影」を撮れる(捕縛できる)カメラだった。特別のカメラだった。「鹿子さん」にとっても、かつて「自分」を撮れなかったライカ判ニコン一眼レフだった。おそらくあの時の事情聴取の際も、どこか見えないように身に付けていたにちがいない。いまや二重露光を可能にするカメラだった。
「過去さん」の乗っ取り犯は、影を奪い損ねた。事の次第はこうである。
ka子さんは振り返った。その時、誰もいなかったはずの背後に、もう一つの別な「影」が伸びていたのを見た。自分の影に覆いかぶさっている「影」だった。こうして「影」は、予想外に「過去さん」に思いのほか早く振向かれてしまったのだった。乗っ取り犯は、おおいに慌てた。諦めるしかなかった。致し方なく身(「影」)を引っこめた。そしてka子さんとしてみれば、自分の影を残すことができたのだった。
昭和30年代のことだ。町は大きく変貌した。コンクリートがすべての地面を覆った。「影」は舗装され尽くしたのを好いことに地面の下に潜んでいる。誰かの影に隠れるようにして時たま気づかれないように身を乗り出す。まるで潜水艦の潜望鏡だ。「影」は「影」で、それ以来、「自分」に不足していた。完璧に一体になるとは、「影」にとっても自分を取り戻すことだった。そのためにも「現場」を放棄することはできないが、一か所に留まっていては窮屈だったし、それに逆襲に遭いかねない。「過去さん」から逃げ回っている。そして今度は「鹿子さん」を見ている。「過去さん」が亡くなった今、魂がまだこの世に留まっている内になんとかしなければならないからだ。狙っている、「鹿子さん」を。
――ソウワサセナイ。ワタシハ警察官ダ。目ノ前デ起コロウトシテイル犯罪ヲ黙ッテ見過ゴスコトナドデキルワケガナイ。思ウヨウニハサセナイ。サセテナルモノカ!

Ka子は、彼女に昇進試験を受けて欲しかった。自分のことは自分でするから。十分だから、そう言った。彼女の人生を奪いたくなかった。
彼女は、これは自分の問題でもあるのだと言い張った。そして、ついには交通課への異動を願い出た。異動は短期間で叶えられた。地域住民から彼女の交番勤務について不審な情報が寄せられていたからだった。不審がられようがどう思われようが、今や彼女の預かり知らないことだった。頭の中にあったのは交通取り締まりの第一線に立つことだけだった。そしてそうなった。駐車違反の取り締まりである。いよいよだ。
ミニパトで街に繰り出す。駐車違反車の下は隠れ蓑になる。彼女は違反車輌の回りをまわる。チークで印を付けまくる。違反車を一掃する。隠れ蓑を取り去る。追いつめる。不意を衝く。待ち構えているKa子の願いを適える。その瞬間のために警察官になったのだ。 これは最早使命だった。歩道上でカメラを構えるKa子を背中に感じ、彼女は、さらに気持を高ぶらせずにはいられないのだった。

 一言だけ付け加えておくと、実は、「のど飴」は疾うに無くなっていて、彼女は途中からかかりっ放しになっていたのだが、いつかそれが(催眠術にかかっている時の方が)、以前より彼女らしくなっていて、本人はもとより、回りでも婦警になるべくして生れてきた女性だと、やり過ぎなことを含めて、彼女の成長ぶりにひとしきり感心させられていたのだった。

 ※

 ――その私立校って、もしかしたら私の出た女子校なのかしら?
 たしかに影子は女子校出だった。伝統挍だった女子校は、公園のある街のシンボルでもあった。公園のなかを連れだって歩く女子校生たちは輝いていた。「私の母校よ」そう言って懐かしんでいた影子に、その時、彼は何かを(あるいは彼女のなかの「過去」でも)感じ取っていたのかもしれない。
 ――ご案内しましょうか?
 彼は「ぜひ」と言って、影子の誘いに応じた。
 ――その代わりに、「現場」に連れて行って下さる?
 彼は「望むところです」と言って、自分からも誘った。
 そうしてその日、彼は影子との散策に次の展開を探った。