2017年1月5日木曜日

[ろ]5 ロマン(連載5) ゴーストライター



 そして始まっていった物語。
某刻。某所。そして某氏。違う。某男・某女たち。でもその前に――

 彼女は今年で四二歳。ライター。窓辺の机。窓の外に広がる公園。都会の中の公園。大きくもなければ小さくもない。自分の公園。彼女はそう思っている。だから公園と言わないで時には親愛の情を込めて「お庭」と言う。そして声をかける。
――「お庭」に出てくるわ。
 でも誰からも返事が返ってくるわけではない。それを承知で続ける。
 ――一緒に行く?
 返ってこない返事。でも返されない返事にまた声をかける。
 ――たまには外に出てみるものよ。そうやって部屋に閉じこもってばかりでは、思い浮かぶものも浮かばなくなってしまうわ。空気って、人の体に摂りこまれるとき、空気と言わないで酸素と呼ばない。そうでしょう。成分的には同じではないわけ。だから部屋の空気ではなく部屋の酸素と言われたらどんな気分? なにか息苦しくならない。足りないような感じがして。でしょう、だから外に出ましょう! 酸素を補給しに。摂り入れに。
 表に出た彼女は、「お庭」から自分の部屋の窓を見上げる。誘ってもついてこなかったあの人に手を振る。レースのカーテンが揺れる。早く戻ってきて、と頼りなさそうにしている。
――分かったわ。
と背中を見せながら手を振る。
でも実際にはカーテンは揺れていない。揺れないことが最初から分かっている人は、だからその振る舞いを危ぶむ。いかにもお互いに手を振っているといった感じだった。だからそれだけに精神状態に疑いを差し挟む。そして憐れむ。上辺を普通に装っている分、深い心の傷を抱え込んでいるに違いないのを。
弁解すれば、最初からそうだったわけではない。仕事を始めるようになってからである。年齢的には三五歳過ぎから。それでも五年以上になる。怪しい精神状態なのは。
部屋を出るときだけではない。在室中も同じである。何かあるとすぐ話しかける。返事は気にしない。構わない。あろうがあるまいが、お構いなしに話しかける。話しかけるだけではない。「それとって」とか「手が離せないから電話に出てとか」「テレビの音小さくして」とか「電気消して」とか、そのたびに「ほんとうに何もしてくれないのね」と、そのときは睨みつけることになる。
――前はそうではなかったのに、どうして? なにが気に入らないの? あなたと私の関係よ。隠し事なし。約束だったわよね。
もちろん分かっている。なにを言っているか、しているのかは。「前はそうではなかったのに」と言っても、すべて自分に向かって言っていることだった。承知の上のこと。
だから人からとやかく思われるようなことでも、心配されるようなことでもない。心など病んでいない。笑ってしまう。もしそう思われていたとしたら。
なぜなら正反対だったからだ。精神状態はすこぶる活発。気力も充溢。
でもそれも「話し相手」を得たことによる。それはそれで確か。訂正不要。だから結局人の疑いは晴れない。しかたがないわね。打ち明けましょう。
ともかく空想上の相手ではないの。目の前にあるの現実なの。でも本物の現実ではないの。必用に迫られた「現実」なの。少なくとも私にとっては。そいうこと。
言い換えれば仕事だったのである。それが彼女の。同じライターでもゴーストライターだったのである。相手はいつもいたのである。なり切らなければならない相手として。そういうこと。

でもはじめからゴーストライターだったわけではない。それが唐突に言われたのである。
「お願い。一回だけ。助けると思って。長い付き合いじゃない。そりゃ分かってる、貴方のしたい仕事ではないこと。もしかしたら傷つけてるかもしれないこと。それも分かっていてお願いしたいの。あなたでないと頼めないの。だからさ――」
 決まっていた人が直前になって廃業を宣言してしまったというのだった。随分無責任ねと言うと、しかたなかったの、と言われてしまう。病気だったの。心の……。
それでどんな本なのと尋ねると、待ち構えていたように大きな本だと返される。ただ大きな本と言っても、本の厚みのことではない。大きなとは、「著者」のことを指していた。社会的立場のある人の本だという。それに切迫しているのは、出版日も決まっているからだという。大きな出版記念パーティーが開催される。間に合わせるだけではなく、見合う本にしなければならない。こういうことよ。分かるでしょう、お願い。
代役を探したが、それぞれ仕事を抱えていて手の空いているゴーストライターはみつからない。ライターならいくらでもいる。でもこの仕事には信頼関係が要る。人間的に信用できる人でなければならない。特に今回の「著者」の場合は。
 たしかに彼女がこれまで定職にもつかずなんとかライターだけでやってこられたのは、いつも彼女のことを気に留めてくれた編集女史のお陰だった。たとえ雑文でも割のいい仕事を優先的に回してくれたのである。
彼女も期待を裏切らなかった。記名もされない文でも心血を注ぐ。たとえば趣味や旅行などの一般誌でも、若い女性を対象にしたファッション誌でも、彼女の気持ちのなかにあったのは世間に名の通った一流の文芸誌を飾る紙面だった。その一頁を思い浮かべながらの執筆になる。
コラムも担当するようになる。文末にはイニシャルが添えられる。未記載のままでもよかったが、イニシャルを付けるよう求められる。本名のイニシャルではなく、筆名を真似たそれにする。
ライターを気取ったからではない。気恥ずかしかったからである。文章にも以前より力が入っていたとすれば、それも気恥ずかしさのためである。個人を文の裏側に隠す。沈める。浮かび上がらせない。それが結果として読者を惹きつける力に変わる。
編集部に届く読者カードには、〈なんかイイんだよね〉〈読んじゃう〉〈読まされたよね〉などと彼女の文に対する好ましいコメントが毎号寄せられる。なかには〈このコラムだけで買っちゃうの〉〈これってもしかしてブンガクじゃん〉などと書き寄せて来るものもある。
そこに持ち込まれたのが、ゴーストライターの仕事だった。引き受けるしかなかった。決めるのは彼女ではなかったから。
 今回限りという約束は守られた。でもほどなくして準ゴーストライターのような仕事が回されてくる。結局守られなかった。ただ女史は守ったつもりでいる。仕方なかった。
「本当に素晴らしい文章力!」
 煽てられる。
「なにかしら、今度は?」
添削だった。自費出版関係の。編集女史の付き合い先の仕事だった。正確には女史の副業だった。社長の一代記や個人史の類や、自分は金儲けだけではない、文学・芸術にも造詣が深いんだ、研究だってやる、の成功者のステータス向上書の類である。
再び引き受ける。もちろん、そうせざるを得ないからだった。それはいいとしても今回は問題を引き起こしてしまう。彼女の性分の所為だった。妥協を許せないからだった。
適当な朱入れで済ましてしまえばいいものを、それでは気が済まない。そのために大胆に書き替えてしまう。代筆に近いくらいに。「無礼者!」と〝お手打ち〟を覚悟しなければならなくなるかもしれない。編集女史にも迷惑がかかってしまう。関係も悪化してしまう。場合によっては解消しかねない。それでも彼女の文学的誠実さが頑として許容しようとしない。
それが杞憂とはまさにこのことだったようにして、心配とは裏腹に特別ボーナスが弾まれる。もともと関係者だけに贈呈する私家本(非買本)だった。それに本人の自尊心を云々する以前の文章力だった。むしろ本人は大胆な添削を望んでいたのである。大喜びだったという。一度会いたいと持ちかけられる。出版契約ではそれはできないことになっていた。代わりに用意されてたのが、誠意を表したいという著者からの特別ボーナスだった。
たしかに彼女の技量は、元の文章の雰囲気を最大限活かした至芸品だった。まるで本人による書き替えだった。
「私としても鼻が高いわ」
編集女史も満足げだった。彼女のポストにも貢献した様子だった。大物はどこで繋がっているか分からない。どうもそういうことだった。編集部での女史の立場が上がったのである。念願の文芸誌担当のチーフへの昇進だった。
さらに仕事が増える。いよいよ編集女史の裏方だった。生原稿の手直し(加除筆)の仕事が回されてきたのである。チーフでなければ割り振れない仕事である。目にするのは、普通の生原稿ではない。「一流」の原稿だったからである。でも一流でも、ときには一流であればあるほど、編集部での手直しを見込まれた状態で送られてくる。生原稿以前の状態で。もちろん「一流」だからである。超多忙なためである。いずれにしても生原稿は、彼女の手によって成稿となる。その「手」を仰せつかったわけである。
編集女史にかんして一言付け加えておけば、女史は副業から足を洗うことになる。将来に自信が持てるようになったからである。それまでは左遷(部署替え)も覚悟の日々だった。そうなったら退社する。その時のための副業(保険)だった。そのときはわたしの処の専属社員よ、あなたは。引き抜きじゃなくヘッドハンティング。真顔だったので彼女は笑えない。でも女史にはそんな暇もなくなる。それに心配も。
女史の編集部での地位は、盤石なものとなる。いまや押しも押されもしない辣案編集者だった。作家からの信頼も大きくなる。女史の下で充実した誌面が作られていく。
彼女のもとに回されてくる仕事の分量もさらに増える。致し方なく、自費出版の添削(準ゴーストライター)の仕事から足を洗わなければなくなる。
「貴方には本物の〝直し〟の方がお似合い」
 おそらくゴーストライターやリライターのことを女史は勘違いしている。辞めたくて辞めたわけではない。彼女は、女史が思っているのようにはゴーストライターのことを考えていなかった。はじめる前だけだった。たとえそう思うこと(低く思うこと)があったとしても。今では、「著者」と一体になる代筆役は、味わったことのない刺激となって彼女の心の支えにさえなっていた。辞めたくなかった。できれば女史の仕事を断りたかった。
こうして彼女のゴーストライター業は終わったかに見えた.。気持ちも切り替えなければならなかった。「一流」との関係から。でもできない。味わうのは虚しさだけだった。疎外感にも襲われる。さらに切り替える。女史のためだと。

その女史から思いがけなくゴーストライターの話が持ち出される。
一瞬、彼女は、日頃見せたはずもない心を読み取られていたような気恥ずかしさに襲われる。もとの仕事に戻りたがっているような、現状をよしとしていないような、そんな不満な思いでいる心を。それは違うわ。勘違いよ。赤らめたことのない顔を赤らめる。
でも女史は気がついていなかった。彼女を襲った動揺には。むしろ逆だった。女史の方だった。心の内を見せることになるのは。
実はゴーストライターと言っても現役作家のそれだったからである。下書きをしてもらえないかというのである。
下書き? 
意味がわかない。ええ分からなくて当然。上書きのための下書きよ。
それでも分からない。プロの作家でしょう、その作家がなにをしようとしているの?
「誰?」と言いかけた口を閉じる。
名前は教えられなかった。
Ⅹ氏としておくわね」そう言って一通りの説明が加えられる。でも一通りの話ではない。込み入った、訳の分からない話だった。
「そのⅩ氏だけど、無名の作家を発掘するのが趣味なの。発掘と言ってもその人を世に売り出すためではなく、自分のため。言葉は悪いけど〝餌〟にするため」
しかもそれが発想の源になっているというのである。
「書き替えるのよ。文も筋も。大きく。でも「原作者」が読めば分かるかもしれない。分かるようにしてあると言ったら言いすぎかもしれないけど、ともかく微妙な問題だから。でもどこかに「原作」を叩きのめしたいと思っているところはあるわね」
 なぜそんなことを?
「優越感ね。書き替えの見事さを味合わせたいのね。とても叶わないと思わせるために。プロとアマチュアの差を見せつける。見せつけたい。偏執的と言えば偏執的かも。でも悪くは取らないで欲しいの。それに普通に読んでいたなら気がつかないはず。でも気づくと打ちのめされるわけ。思い知らわれるの。どうにもできない、自分の力では。そのくらいレベル差があるわけ。だから、盗作ではないし、当人も盗作されたとは思わない。思っても名乗り出る気力は残っていない。それくらい気力が削がれてしまっているはずだから。いずれにしてもすべて純粋な創作的行為の範疇。そういうこと」
にわかには信じがたい話だった。でもなんでそれが自分のところに回されなければならないの。餌にされるという話なのに。
「あなたのこと気に入ったみたいなの」
そう言って昔の雑誌をバックから取り出し彼女の前に置く。
「X氏が言うの。どうしてプロを目指さなかったのかって。これだけの文章力があって、内容もストーリーテラーを思わせるような、発想力の豊かさも持っていて、その気になればいいものが書けるはずだって」
 女史はページをめくりながらこうも言う。
「どうして勧めなかったのかって。そう言われたわ。灯台下暗しだって。ほんと。X氏のいうとおりだわ。これを貴方に勧めるのは、言ってみれば編集者としてのわたしの仕事」
 平然と言い放つ。これまで感じたことのない、不誠実を感じる。でもまだ話は見えていなかった。なぜX氏の目などにとまらなければならなかったのか。作家が読むような雑誌ではないはず。
「題材を探していたのね。資料として当たっていたというわけ」
 雑誌も記事も探そうと思えばいくらでもある。そのなかからわざわざ自分の書いたものを選ぶ。不誠実だけではなく策謀めいたものを感じる。女史は答えなかった。
「どう、挑戦してみたら? 餌だなんて言葉が悪かったわ。でも単なる〝餌〟じゃないのよ。自分の〝餌〟。どう書き換えられたか。打ちのめされたと思ったらそれはそれでいいじゃない。発奮材料になるかもしれないし、無理だと思ってもこれからの仕事にきっと役立つはず。それに逆にプロでこの程度ってということもあるかもよ。そうすれば自信つくじゃない? 作家目指しましょう」
 疑ったことのない女史の心を疑う。なぜ疑わなければならないのか。疑うこと事体が我慢ならない。
意味が分からないと返す。でもそれ以上になんて返せばいいの。
「意味なんかないわ。もし気になるなら、単純に仕事と思ってもらえればいいの。ともかく下書きでいいんだから。それに原稿料も悪くないはず」
 原稿料と言われて、たしかに原稿料かもしれないが、〝材料費〟じゃないの、と腹立たしくなる。
 それに正確に答えてもらってない。
 潰したいんでしょう。餌にするってこと。要するにそういうことじゃないの。そのⅩ氏とかいう作家は。「原作者」のことを。
 わたしはどうなの? 「原作者」じゃないの? 言っていること。そういうことよね。どこが作家になる道なわけ。
 潰されるのが怖いわけではない。それに潰されるなんて思わない。自分がそんなに軟だなんて思ったことがないから。ただ我慢ならないだけ。
 でも彼女は精一杯我慢する。女史を信じていたからだ。
 訊いてもいい? 彼女は口を開く、口らしい口を。もしかしたならその日はじめての。
 でも訊こうなどと思っていたことではなかった。
 口にしたのは原稿料の支払い元のこと。会社なのか、作家なのか。さらには税関係のことも。確定申告の税項目のこと。
訊きながら自分が訊いていると思えなくなる。それにこれではまるで引き受けるのを前提にしているみたいではないか。
 女史も意外な顔をする。訊こうと思って訊いているわけではないのが分かる。でもつとめて事務処理的に応じてみせる。
支払いは作家であること。「もちろんだけど」と付け足して。でもなぜもちろんなのだろう。よく考えれば答えに窮する。どうでもいい。こんな話。
次は支払い項目。「正確に言うと、原稿料とは少し違うかも」そう前置きして「実質は原稿料であっても、作家から原稿料が支払われるのはおかしいから、取材に対する対価か、執筆に対する協力費、したがって名目としては報償費ということになるはず」と答える。
次は税関係。確定申告のことね。スマフォの画面を見せる。開いたのは国税庁のホームページ。説明されていたのは、個人が支払者の場合の税の取り扱い関係。今回のような場合(個人が支払者の場合)であれば、源泉徴収しなくてよいと説明されている。
「それに領収書も出ないんだから確定申告は必要ないんじゃない」
名前は出ないはず。言いそうになってしまう。
説明はしたものの、なんのための説明だったか分からなくなる。分かっていたのである。彼女の憤りが。不信感が。女史は女史で。自分の理不尽を。
しばらく二人の口は閉じる。待っていたように重い沈黙が二人の間に流れこむ。
「訊きたいことがあるけど」
 もう訊いたんじゃなかったの? まだなにかあった?
「当面はって?」
 女史は、事務的な説明の中で「当面は」という言葉遣いをしていた。どこで? そんなことを言った覚えはないけど。気がつかなかったのは本人だけだった。
「一回では終わらないということ?」
「X氏次第。あるかもしれない。おそらくあなたならあるかもね」
投げ遣りになっている。言わなくてもいいことまで言ってしまう。
「でもそうなったら作家への道は近いってわけ」
 なんて嫌な笑い方。見たくないわ。もう我慢がならなかった。彼女は断罪するように言う。
「会社は承知していることなの?」
「今日は質問攻めね」
そう言ってはっきりと不満げな顔をつくってみせる。そして言う。
「絶対の秘密事項よ!」
 当り前じゃない。これ以上言わせないで。
彼女は、そうなのとも、それでいいのとも言わなかった。言ってはいけないことだった。いくら彼女と女史との仲であっても。
 疲れたわ。
 再び沈黙が流れ込む。でも今度は二人して沈黙を受け入れた。待っていたようにして。


話は一〇年近く前に遡る。
X氏の担当だった女史は、提案したのである。X氏がもう書けそうもないと弱音を吐いたからである。弱音どころではなかった。絶望的なほどの落ち込み方だった。即座に「異変」を感じ取った女史は、一計を案じたのである。それが「手直し」だった。
X氏の泣き言は今に始まったことではなかった。これまでもさんざん聞かされてきたのである。ただこれまでは創作意欲と背中合わせになっていて、始動を告げる前触れのようなものだった。癖だった。だから喜ばしいほどだった。
女史は分かっていて言う。言いたいことがあるなら何でも言って欲しいと。作家と編集者は一心同体なのだからと。
それも少し芝居がかっているくらいがよかった。母親から認めてもらえばそれで気が済む駄駄っ子。しばらくすればペンが走り出す。その程度でいいのならお安いもの。なんだって言える。いくらでも演じて上げられる。
いつ頃からだったのか。担当編集者としての務めと思っていたものが、編集者の仕事の範囲を超えて、女史の個人的な野心に変質してしまう。スイッチ役程度にしか考えていなかったのが、いつか作家(X氏)の体を流れる電流となっているのを、そして電圧ともなって本人を衝き動かしているのを自覚する。
書くのはX氏でも書かせているのは自分。最初は助手だったかもしれないが、今では全体を見守る演出家。衝き動かすだけではなく意のままに操る側。そう思うと気持ちの高ぶりが抑えられなくなる。さらに昂じて精神的な征服感までもが芽生える。
野心と言えば野心かもしれない。しかし、これこそ正当な「文学行為」。そして編集者の行き着くところ。間違っても邪ななどとは誰にも言わせない。

実は女史を個人的に問いただせば、着想においては、女史は一流の作家だったからである。問題は叙述力だった。ついていかない。女史の抱く着想にはそれに見合う独創的な叙述が必要だった。あると信じて疑わなかったが、いつも裏切る方向に作用しても実現する方向には作動していかない。
文学少女だった女史は、女子高生の頃から始めていた執筆熱が昂じて、所属した大学の文芸サークルでは中心的役割を演じてサークル誌には欠かさず作品を掲載し、文学新人賞にも果敢に応募を繰り返した。でもいつも一次通過止まりだった。
卒業後も筆を止めるつもりはなかった。ずっと書き続けるつもりだった。それが中断してしまう。断ち切り状態で。
念願の出版社への就職が決まって仕事に忙殺される日々だった。それもあった、でも直接の理由は、卒業後に参加した同人誌だった。打ちのめされてしまったのである。
プロと変わらない実力者揃いだった。その合評会の席だった。責められたわけではない。逆だった。責められなかった。それがかえって堪える。追い詰められることになる。無批判の意味を自覚しなければなくなる
大学サークルのように好き勝手に言い合っていた合評会は、批判が発奮材になることもあっても自己否定に転化することはない。何も分かってないくせに、の一言で済む。そもそも自分の作品に目をつぶって、自作品に裏切られるような批評を平気で展開できるのが学生の批判レベルである。
でも本物の同人誌のなかでは誰も何も言わない。たくさん書いてこられたご様子、次も楽しみですね。次も楽しみ? 顔にはそう書いてない。発言者だけではない。参加者の誰の顔にも。発言者にしても沈黙が気詰まりだったからにすぎない。そうですねという遅ればせながらの、ほかの参加者からの相槌にも。
季刊誌だった。例会は毎月開かれる。女史は欠かさず出席する。合評会の月とは雰囲気が違う。和気あいあいとしてそのまま二次会に移行する。多くの言葉がかけられる。親近感のある語り掛けだった。女性会員も少なくない。それが合評会になると誰もが別人になる。とくに女史の作品の番を迎えると。例会の折の親近感は、そのまま疎外感となって女史を襲う。
五作目は寄せなかった。出さなかった。脱会を選ぶ。ちょうど二サイクル目をむかえるところだった。選考性を布いていた。毎回掲載してもらえたのは、会として新入会員を育成したいためだった。女史だけが特別扱いされたわけではない。「ライバル」もいた。ライバルを含め、「新入会員の作品」と銘打った頁は、組み方もほかと違って二段だった。
一年が過ぎると選考対象に移行する。顔を知っている選考者である。文芸誌への応募の時のような、顔も見えない影の読み手ではない。
渋い顔だけではない。ため息をつく顔さえ浮かぶ。耐えられないことだった。それにライバルが拍車をかける。育っていたからである。
仕事を口実にした。都合がつくようだったら月例会だけでも顔を出してください。優しい言葉に追い打ちをかけられる。行きたくても行けなった。

Ⅹ氏の担当になったのは入社して一〇年近くが経った頃だった。専任となる最初の担当作家だった。Ⅹ氏も駆けだしだった。いまの地位は一緒になってつくったものだった。簡単な道のりではなかった。
高く評価された新人賞の後、たて続けに発表した数作は、新しい文学の到来ともてはやされ、新たな文学賞を獲得したものの、受賞作を限りにそれを超える作品が生みだせないまま数年が過ぎる。筆力は衰えなかかったが、テーマもマンネリ化し、筆の冴えにも次第に陰りが見えてしまう。芳しい批評も受賞作品を最後に寄せられない。数年が経つうちに世間の話題からも遠ざかってしまう。
文章力は秀でていた。新人賞の受賞作も新しい叙述世界だとテーマの新しさとともに高い文章力に注目が集まった。より大きな文学賞の受賞作品は、近年にない快挙とまで評された。Ⅹ氏の将来を高く買っていたのは女史だけではなかった。
それが受賞作を最後にⅩ氏の新作が雑誌に載るたびに文芸誌担当チーフの渋い顔が浮かぶようになる。そのうちに編集部でⅩ氏の名前が呼ばれるたびに、女史は、それが自分に向けられていたような気詰まりな思いを覚えなければならない。皮肉っぽい呼び方だったからである。
良いものを生み出せないのは自分の所為だと思い詰める。作家を育てられない無能な編集者。編集者失格。重圧に押し潰されそうになる。
一計を案じる。でもまともな編集者が思いつくようなことではなかった。実に奇抜な策だった。追い詰められていた証拠だった。
学生時代の自分の作品を読ませたのである。ただ読ませるだけではなかった。書き直させるためだった。最終的には作品化させる。Ⅹ氏のものとして。
どう? と何げない顔で話を持ち出す。勧める。X氏は憤りを露わにする。当然である。
「違うわよ。なにか勘違いしてない」女史はそう言って、発表用にしてもらいたいわけではないと宥める。
「目先を変えてもらいたいだけ。言ってみれば少し趣向を変えた筆の遊び。単なる気分転換。自分でもよく分かっているはず。いまのままでは刺激が足りないこと。でもこれなら少しは文学的刺激にならない? こういうことよ。勘違いしないで」
 これまでもⅩ氏の気分転換を図るために、女史はいろいろに考案した。スポーツクラブに通わせた。趣向を変えて音楽教室を勧めた。ともかく文学を少し離れさせた方がいい。
運動の方はだめだったが、音楽教室は覿面だった。効き目があった。副産物が生まれる。音楽を題材にした作品だった。
上向きかけたかに見えた創作力も次に続かない。かえって削いでしまう。書けない言い訳にされてしまう。楽器ばかりの毎日になってしまう。プロを目指そうか。馬鹿なことまで言われてしまう。なにをしても裏目に出るばかりだった。ついに原稿にも向かわなくなってしまう。
 女史は言った。「どうして私には文学賞は獲れなかったのかしら? 教えてもらえない」と。
 文学賞という一言がX氏に眠っていた闘争心を呼び起こす。それにどことなく験されている気分である。癪に障る。反発心が湧く。
「サークル誌のなかでは結構高く評価されていたんだけど」
 この一言がX氏を活気づかせる。
 案の定、計略どおりに返ってくる。獲れるわけがないと。だいたいお飯事みたいなサークル誌と文学賞を一緒にするなんってと。
X氏の添削は、文章の添削に終わらなかった。プロットにも及ぶ。筋の入れ替え、それに伴う大胆な削除、加筆の断行に及ぶ。
添削・改変は、当初の目的を変える。知らぬ間に日頃の鬱憤晴らしになっている。女史に攻め続けられてきたからである。
書けないわけがないわよ、気持の集中が足りないのよ、もっとハングリーにならなければと。前はそんなじゃなかったわ。
そんなふうに言われる筋合いはない。この程度のもしか書けなかったくせに。よく編集者をやっていられるものだ。担当だったから我慢していただけ。意見を言うなんて一〇年早い。
女史の前には二種類の異なる版が差し出される。B6版の原版は、A3版に拡大されている。余白が必用だったからである。でもそれ以上に見せつけるためだった。
真っ赤な版面に女史は溜息を漏らす。漏らしながらも満足する。予想以上にX氏の顔は輝いている。紅潮していたと言っても嘘ではなかった。
次にもう一つの版を手に取る。添削版をもとにした改変版(書き直し版)だった。最初の数ページに目を通す。期待していた以上の出来栄えだった。大きく溜息をつく。溜息はそのままX氏の満足感に生まれ変わる。誇らしげだった。見たい顔だった。「自作品」として発表したがっているのは明らかだった。
幸い女史の卒業とともに廃部となったサークルだった。本物を求めすぎた結果だった。もともと女史を中心に新しくできた同好会程度の小さな集まりだった。卒業時には「永久欠番」の称号が贈られる。賛美ではなかった。廃部を予告する後輩たちからの「送る言葉」だった。
半年も経たないうちにサークル活動休止の通知が入る。あらたなサークル活動を模索中であると。その後、連絡は途絶えた。同窓から廃部したようよと知らされる。
参加した同人誌への力の入れようにはこんな背景もあったのである。文学を甘く見ないでとの憤りにも似た後輩たちへの思いが。活躍ぶりを見せつけてやりたかったのである。後輩たちだけでなく、女史を煙たく思っていた同窓たちに対しても。
女史は苦笑する。一時は憤慨した「廃部」が、こんな形で役立とうとしていることに対して。サークル誌も屑扱いされているに違いない。さ程出回っていない。かつての部員でその後熱心に文学を続けている者がいる話も聞かない。だれも気がつかない。「底本」があるなどとは。

 これがきっかけだった。見違えるような創作欲に燃える。くすぶっていた分を合わせて。評判も上々だった。新しい境地が切り拓かれたと評価される。この間の停滞もいわばこの日を待っていたのだ。やはり本物の才能だった。褒め過ぎと思えるものもあった。
女史は穏やかではなかった。純粋な創作欲ではない。改変欲がもたらしたものにすぎない。次は自分の内面から生み出してもらわなければならない。
嫌な予感が当たる。あらたな「底本」が要求される。
次を求められたとき、女史は躊躇った。きっかけづくりで考案したことにすぎない。一回限りのつもりだった。次は黙っていても本人の中から自然と生み出される。そうならなければ困る。文学行為の見地から見ても。本人にも当然分かっていることである。
でも欲しいと迫られる。ないなら書けない、書かない、書くつもりもない、と言われる。ほとんど脅迫だった。
 女史を決断させたのは「自作品」だった。文芸誌のなかの「自分」だった。大きく改変されていたとはいえ、それでも自分の痕跡はそこ彼処に拾えた。拾えただけではない。自分で書き替えた気分になる。単なる改版版ではなかった。
事実、手渡された添削版を浄書してみて女史に分かったのは、さらに新しいストーリーの展開だった。改変版と比べても見劣りしない。上を行く。だから思う。「改変版」も「自作品」みたいなものだと。
女史は浸る。文学的興奮の中に。世に知られた文芸誌のなかの「自分」に。編集者ではない作家としての姿に。
考え方は一八〇度変わる。自分の「作品」であることを微塵も疑わなくなる。紙面に溢れているのは自分のDNAだった。自分なしにはX氏は存在しない。しえない。そうであるなら、そうか、自分は「ゴーストライター」なのだ。しかも普通のゴーストライターでなければ編集者でもない。ゴーストライターと編集者との一人二役。誰にでもなれるものではない。
女史は、運命的なものを感じる。かつての副業が回りまわってこんな形で戻ってきたのである。たんなる副業ではなかった。救い手になってくれたのである。
それでも後ろめたさは消えない。残る。否が唱えられる。心の迷いを断ち切るためも女史はさらに偏執的になる。ゴーストライターとしての立場に。
女史は自作品を提供する。積極的に。文芸誌に「自作品」を見るたびに女史は現実との見境がつかなくなってしまう。次はいいと言われないか心配になる。
――これは自信作よ。
そう言って挑発する。
心配は不要だった。挑発も要らなかった。Ⅹ氏の方だった、女史以上に心配していたのは。。
――まだある?
不安げに訊く。次を出してもらえないのではないかと。
――そっちの方は心配ないから。多作だったのよ。
嘘だった。勢いで言ってしまう。執筆に集中させるためだった。数は限られていた。でも先のことは考えない。考えないようにしてしまう。
でも来るべきものが来る。それが現実だった。分かっていても考えないようにしていただけだった。残りが二作となる。筆の勢いを落としてもらいたい、そう思ってしまう。
現実を明かせない。残り一作となってこれで最後と告げられた時の、最後通牒を突きつけられたようなⅩ氏の困惑と狼狽ぶりが目に浮かんでしまう。絶望感に晒された姿を見なければならない。そんな情けない姿は見たくない。させたくもない。追い詰められたⅩ氏が女史を突き動かす。
奇策だった。再びの。「書きおろし」だった。ただし書くのは(先ず書くのは)女史の方。
必要な時間は、短篇集の刊行で稼ぐ。「改変作」をまとめた短編集は、当初からの計画だった。分量としても一冊では厚すぎる。二冊分がとれそうである。話を持ちかければ、すぐにその気になるはず。時期が早まっただけだから。それに本人としても次の展開を望んでいる様子だから。
再編には相応の時間を要する。足りなければ随筆でいく。旅行記でもよい。音楽体験記ならもっと面白い。勧める。いずれ随筆集も必要になるのではと。今の地位から見ても、作家としての幅の大きさを見せる必要があるのではと勧めて。
その間を活かして「新作」を書き上げる。これで行く。行ける。
その日から筆を執る。温めてきたテーマもあった。でも書けない。楽観的になっていた気分は急速に萎む。
構想だけでは昔は戻ってこなかった。誌上の人になってしまっていたからだ。女史はもう一流の「作家」だった。それが実際に筆を執ろうとすると、たちまち「作家」でなくなってしまう。
すべては文章だった。必要な叙述力が伴わない。もともと不足していたものだ。あの真っ赤にされた添削版が、不足に追い打ちをかける。筆を擱かざるをえない。文学からのしっぺ返しだった。拒絶反応だった。ゴーストライターを否定されたのである。
編集部の書庫には各地の同人雑誌が多数保管されている。いよいよ禁じ手だった。分かっていながら人目を忍ぶように漁る。これなら、という目ぼしい作品がみつかる。知らない地方雑誌である。手を出したくなる。感覚が麻痺している。女史だけではない。Ⅹ氏もだった。大丈夫、分からないように書き替える。言いながら喜びを抑えきれない顔が浮かぶ。
だめだ、できない。やってはいけない。
罷り間違って剽窃の疑いがけられでもしたならそれでお終い。全てを失う。X氏だけではない。自分も。業界から永久追放される。それでは済まない。社会的に抹殺される。人に知れてはならない。これだけは。二人だけの秘密、永久の。
編集者の良心が女史を止める。踏みとどまらせる。忘れていたのだ。本来のあるべき立場を。感謝する。自分に。編集者だった自分に。
でもそうではなかった。止めたのは自分ではなかった。感覚の麻痺していた女史ではもう自分は、止められなかった。止められたとしても一時だけ。それが証拠に気がついたときには書庫から持ち出している。忍ばせるようにして机の抽斗にしまい込まれている。止めるどころではない。具体的に進めようとしている。同人誌の周辺調査を始めていたのである。
要するに、再び書庫に戻すように促したのは、女史ではなかった。言い聞かせたのは別の個人だった。ある人物だった。それが彼女だった。自分で止めたのだと、後追いで自分自身に言い聞かせただけだった。それに彼女だったとしても、思い浮かべていなければはじまらない。思い浮かべたのは彼女ではない。自分である。自分が止めたことに違いない。
 理屈だった。それでもこの理屈なしには次に進まない。女史の面子を立てるなら、そういう意味でこれが始まりだった。 

2016年7月29日金曜日

[ろ]4  ロマン(連載4) 旧市街地の公園~とある南米の港街~


年代を感じる石造りの家。壮麗なアパートメント。重々しくても親しみを覚えるのは、カラフルに彩られた窓枠が、家々のファサードを飾っているためであるが、街全体としてもそう感じられるのは、アーケードのように歩道に大きく迫り出したベランダのためであって、それも窓枠と同色だからである。個々の家を超えて街のファサードとなっているのである。
思い思いに大きな鉢が置かれ、鉢から伸びた濃い緑の植物で覆われたベランダは、歩道に程よい日陰をつくっている。なかにはベランダだけでは足らずに、蔦状の植物を屋根上に高く伸ばしている家もある。歩道上に置かれた鉢植えの緑とともに、街全体には言い知れない、肌触り感のある親しみが広がっている。
この懐かしさを内側に漂わせた雰囲気は、いまでは観光産業にも一役買って街をさらに開放的で賑わいのあるものにしているが、観光のために急拵えでつくり出された上辺だけのものではない。もともとのものである。
それを教るのが、並びが家並の一部と化している街の教会の佇まいである。
たとえば、その前に来てはじめて分かる、今、教会の前にいるのだという不意を衝かれた感じ。予告を欠いた刹那的な告知の前に立たされた感じ。しかも好ましいのである、意外感が。時空を異にした遠隔地でなければ味わえない、深い繋がりの覚醒感となって還ってくるからである。
観光客にさえそうであるなら、街の人にとってはなおさらである。自分たちの一部になっているはずで、ほとんど皮膚感覚にも近いはず。教会が日常と化している何よりの証拠である。だから今に始まったわけではない。
しかもまだこれには先があって、「親しみ」とは、これを(つまり先の話を)含めた上でのことで、むしろ問題なのは、この先にある。家並と化していることの別の意味。核心であって魂に触れる部分。例外なく襲ってくるのである。前に立たされた者には。
これが固く扉を閉じているなら別だった。でも正反対である。開け放たれていたのである。大胆に。その分、堪えるのである。一歩を踏み入れただけで。待ち受けているのが、「親しみ」がつくる〝罠〟だったからである。
いとも簡単である。立ち入ること事体は。家並の一部だから。扉は両側に大きく開け放たれているのである。
しかし一歩足を踏み入れるや否や、瞬時に覚えるのは、身の内に惹き起こされる違和感である。背中を日常に向けながら正面を別世界に晒すという両極に向き合う自分。それが前触れもなく襲いかかってくるのである。肝心なのは、違和感も襲来感も自分の思いによって生じていること、自分を境界としていること。
現実にはそこにある天を衝く高い天井によってはじまっていく。目眩に襲われるのである。一歩を踏み入れた次の瞬間に。襲うのは目眩だけではない。瞬時にして変わる気圧もである。外気に馴染んでいた肌はとても敏感になっている。
そのまま頭上に高さを感じながら正面を見据える。奥深い教会堂の内部。奥行きの深さを演出するアーチ状の柱列。足取りを硬い床に一歩々々確かめるようにして進む。
近づく身廊の先の大きな石造りの祭壇。祭壇の前衛をなす厳かな十字架。磔刑のキリスト像。像は磔の十字架と同色の農茶褐色に彩られている。十字架の両側には、キリストの創を負った胸元の高さに届く、計6本の大蝋燭が左右三本ずつ立て並べられている。背面には、磔刑像の背景をなす灰白色の、石製祭壇の後衛が聳え立ち、蝋燭を含めて磔刑像の前面性(受難性)を否応なしに際立たせている。
後衛をなす石製像の圧倒的な大きさ。それは、磔刑像を数倍も上回り、どこかの国の山上から街を見下ろすキリスト像のそれを思わせるが、その像とは違い、両手は胸許に重ね合わさる。復活したキリストに相応しい端正な佇まいである。
識っている人は思う。あのゴルゴダの丘でキリストが叫んだ最期の言葉を。
〝エリ エリ レマ サバクタニ!〟(私の神よ、私の神よ、なぜわたしを見捨てられたのか!)
これで終わってしまったなら、絶望的とも言える世界に突き落とされてしまうことになるが、それが最期ではなく、はじまりだったことをさし示すかのように、今、こうして復活し、高い明かりとりから採りこまれた、淡い外光を頭上に浴びながら、前衛の磔刑像を慈愛で包みこむようにして立つのである。
祭壇のドームが演出する採光法は、しかし見る人によっては、受難を生き続ける十字架上のキリストの受難をさらに際立たせてしまう。前衛ではなく、永遠の孤絶化を突き付けられた感じに。故に孤独に受難を生き続けるのである。
復活したキリスト像の上、高い祭壇の最上部。向き合う一対の天使。さらにその上部には、ステンドグラスがはめ込まれている。地色を淡い灰白色にして、その上に三人の聖人の姿を色鮮やかに浮かび上げている。
祭壇を一体として覆う円形ドーム。ドームを飾る色鮮やかなステンドグラス。淡い陽の光に浮かび上がる宗教画。
 開放感の真後ろに待ち受けていた凝縮の世界(内界)。もう罠などと安直なことは言っていられなくなる。言うなら「囚われ」だった。

その教会(「境界」)を出る。再び街中。ふたたび「親しみ」が出迎えてくれる。濃くなった同血感で。
真っ直ぐに延びる石畳の街路。街路沿いのフラッグ。黄色、青色、赤色、の三色旗。今は昼の暑さでしなだれているが、夕暮に流れ込む潮風を待っている。
建物に遮られて気配も感じられないが、目と鼻の先には、海岸が迫っているのである。海賊から街を守る高い防塁も辺り一帯を巡っている。ここは歴史ある港街である。なかでも古い市街地として知られた歴史地区。そこに女はいる。
さらにその一角。ひとつの曲がり角。女は、角を曲がって路地に入ろうとしている。同じ石畳みの続き。両側には店が建ち並んでいる。洒落たレストランが客を待っている。なかを知りたくなる。
身体が正面に向かいかけたところで、待ち構えていたようにドアが開く。白い前掛けを腰元に強く絞めた店員が姿を現わす。瞬時に足が止まる。呼びこまれるのではないかと身体が硬くなる。顔を逸らす。
でも杞憂で終わる。出てきたのは、出迎えではなく見送りのためだった。程なくして数人の客が現れる。一人の年配の白人男性は、満腹感にお腹を大きく突き出している。傍らの婦人は、赤らんだ頬を両手で押さえている。酔いを隠すためだけではなさそうである。それ以上に零れ落ちそうな笑みを頬の上に支えるためだった。
満足そうに店員の肩を叩く者もいる。ひと時を楽しんだ笑顔は、これから何処に入ろうか決めかねている者たちにとっての誘い水となる。実際、辺りを窺っていた一団が、店員が中に入る前にと足早に近寄って来たのである。
もう心配する必要もない。大胆に歩み寄ってなかを覗く。壁一面を埋め尽くす壁掛けの絵や額入りの写真が目に飛びこむ。数人からなる生演奏者の姿も目に入る。
座席は混みあっている。満席に近い。評判の店なのだろう。入ろうか。感じの良さそうな店員だった。丁寧に応対してくれるだろう。でも混雑している。時間を取らせることになる。注文の決められない客になりたくない。

散策を続ける。別の路地に入る。カメラを取りだす。撮りたいがものが目に入ったのである。一対の全身を黒褐色に塗り固めた、合成樹脂かなにかで作られた人工の人体像だった。近寄る。構えたカメラを縦長に傾ける。背景も好い。文句なし。白っぽい石壁に黒色の人体像の輪郭が際立つ。ピントも問題ない。
シャツターに手応えを感じた瞬間だった。動くはずのない人体像からおもむろに腕が伸びてくる。一体は、ポロシャツに丈の短いパンツ姿の長身痩躯の青年像だった。伸びてきた手には、さっきまで被っていた麦わら帽子が握られている。麦わら帽子も身体と同色である。裏返される。料金の請求だった。なかに入れて欲しいと待っている。内側も同じ黒色だった。
端から疑わなかったのである。どこからどう見ても作り物にしか見えなかったのである。女は両手を広げて、「アラ、マッ!」という仕草をつくる。
オウム返しに青年像がパントマイム風に同じ仕草を見せる。でも今度は帽子の方ではない。傍らのもう一体の方だった。帽子を差し出した一体と対照的に、背の低い、女とあまり背丈の変わらない、だぶつき気味のシャツを長く垂らした青年像の方だった。表情を知らないはずの黒一色の顔面の奥の眸に、小さな笑みを控えめに浮べてみせる。生きている。生きた「作り物」だった。
外国紙幣だと金銭感覚が鈍る。日本円だと千円札相当だったのかもしれない。ワンショット千円。撮ってもらうのではなく、撮ってしまったための。相場を大きく超えるこの金額への返礼として、「作り物」は、大きく手を広げ、片膝をついて胸許にその手を引き寄せて見せる。もちろんパントマイム風にである。
その仕草につい嬉しくなってしまい、女は、思わず手を差し伸べてしまう。温かい手で握り返される。正真正銘の人間の手だった。人工の無機質な手ではなかった。
気持ちが一気に昂ぶり、味わったことのない愛おしさを感じてしまう。でも自分の方から差し出してしまったはしたなさが、後追いとなって、愛おしさを感じる以上に女を気恥かしさのなかに捉え返してしまう。もうそんな年でもないのにと、自嘲気味になったとしても。
青年像は、一時前から一連の光景を見ていた通路上の人(若者)を呼び寄せると、自分たちを撮るようにと促す。それでも無言劇は崩されない。
真ん中に女を入れて、青年像たちはもとの「二体」に戻る。
――でも「三体」。
女は言う。自分に。そのとき身に纏っていたのは、麻の白色のワンピース。頭には大きめのサングラス。手には茶色の波打ったキャプリーヌの帽子。
――モウ一枚。
と撮影者から言われた時、女はサングラスを目許におろし、帽子を被る。別のスナップが欲しかったというより、青年たちの一員になり切りたかったからだ。
道行く人が、つられて「三体」にカメラを構えはじめる。インパクトのある取り合わせだったにちがいない。
数分間、女は作り物の人体像の一員を演じる。
観光客たちは、手慣れた感じだった。近寄ってきては小銭を受け取るようにと差し出す。帽子を取ろうとしない青年に代わって女は手の平をひろげる。置かれたコインを握りしめながら、機械仕掛けを真似たような仕草でぎこちなく空いた右手を伸ばす。握手を返すためである。
――アリガトウ。
言葉をかけるのは、撮影者の方だった。女は手に力をこめるだけ。表情も変えない。姿勢も揺るがさない。
最初に呼び止められた、地元の若者らしい青年は、面白そうに女と観光客のやり取りを傍らから撮り続ける。
クローズ。
途切れたところを見計らって「一体」からバツ印がだされる。青年からカメラが手渡される。彼もパントマイムを真似てみせる。
それでも最後は堪えられなかったように笑い顔に戻る。笑いながらパントマイムの真似を続ける女と握手を交わしながら、顔見知りだったのだろうか、
――ジャ、マタ!
のような言葉を「二体」にかけてその場を離れる。
女は手にしていたコインを帽子の「一体」に差し出す。帽子を取ってもらわなければならない。
――要ラナイ。
と、小さく片手が振られる。
もう「一体」も同じ仕草を見せる。
――貴方ノ取リ分。
と言っている。
――ならもう一度。
と、女は人体像にカメラを向ける
撮り終えると、コインを差し出す。意味は分かっているはず。でも人体像は微動だにしない。
――ゴメンナサイ。
という断りの仕草をみせながら、女は自分から帽子に手を伸ばす。
――分カッタヨ。
「帽子」は言う。溜め息交じりに。仕方なく三体で稼いだ撮影料を受け取る。帽子に入れさせる。
 再撮影料を入れようとしたとき――今度は少額だったが――寸前で帽子は引き上げられてしまう。
 ――ダメ。
「帽子」は言う。言おうとしていた。
彼は、先端に国旗を取り付けた長い棒を片手に掲げていた。つまり両手は塞がっていた。
女の思いは、もう「一体」の彼が受け止めてくれた。
ハグしてくれたのである。最初からそうしたかったかのようにして。分からせるように抱きしめられたのである。ハグを超えた強さで引き寄せて。
背中にまわされていた腕が解かれた時、女は思わず口走ってしまった。
――あなたッ!
「彼」は「彼」ではなかった。「彼女」だった。
だぶだぶシャツの下に女を隠していたのである。でも「彼」だった。「彼」として秘密を明かしたのだった。感謝の印だった。本物の。
その後、表通り戻ると、ちょうど時代がかった馬車が観光客を乗せてゆっくりと通過していくところだった。乗っていたのは仲が良さそうな老夫婦だった。妻の肩には夫の手がやさしく回っていた。「彼」から受けた強くて軟らかい「ハグ」が、まだ女の身体を痺れるように包んでいた。

女は、ツァー旅行の自由時間中を一人で過ごしているところだった。集合時間にはまだしばらく間があった。
街路をもとの入り口側に戻る。目的は公園だった。解放感に溢れていて休憩するには手頃な場所だった。
偉人たちの胸像が、公園の一画に建ち並んでいる。港街の防御や街の発展に功績のあった人たちである。撮影済みである。
その際には見かけなかった、広場の芝生に円陣を組んだ小学生たちの一団が目に入る。学年別なのだろう、男子女子の別以外にも2色ずつに分かれた制服を身につけている。
円陣のなかには、引率の教師が立っている。腰回りの豊かな、日本だったら十分肥満体形にカテゴライズされてしまう、大柄の中年女性だった。この国の言語独特の強いイントネーションをフル回転して大きな声を出している。
一人の少女が、ベンチの見慣れない外国の女に気がついて、円陣のなかから覗き見を止めない。制服姿から見て下の学年のようである。同じ制服の他の子たちにはまだ幼さが残っているのに、その子だけは少し大人びていて、もう十分に自分の美貌を意識している感じだった。
ここは世界に知られた観光地。世界各地から多くの人が訪れる。外国人が珍しいわけではない。少女が見ようとしていたのは、女が異邦人だったからではなく。女として火照っていたからだ。それも決して若いとは言えない、少女の担任ぐらいの年齢。それなのにと。なぜそんなに上気している? そうやって見ていたのである。
教師に見咎められて、輪のなかに顔を戻すが、隙を見てはベンチを窺い続ける。見つめ返すと、慌て気味に異邦の女の視線を逃れ、なにもなかったかのように円陣の一員に戻る。
でも口にしている。やはりそうだったのね、どうもヘンだと思ったわ、と。でももういい、見ないわ、と。それからはなごともなかったかのように先生の話に集中している。違う。見せつけようとしている。
なにもかも考えすぎだった。目を惹いたのは、なにか別なことだったのだろう。そうだと思っても、相手が年端もいかない少女だったことで、かえって「罪」の意識が増殖してしまう。
先生の身ぶりや指差し方からして歴史街の説明のようだった。熱の入った話し振り。野外授業。同じだ。なにか懐かしくなる。でも時間から見て見学は終わったはずなのだ。なら締めくくりなのだろう。それとも宿題? そうだ、きっと宿題が出されているところなのだ。見学の感想文の。明日までに書いてこなければならないのだ。

ここでこのまま時間を過ごそうと深く腰を掛けなおす。公園の向こうには高い石壁。防塁である。その上に広がる夕暮の接近を予告する、幾分か赤みを帯びた空。でも上空には、まだ青みを残したままの空が高く広がっている。その下の椰子の緑。こんもりとした常緑樹の濃い茂み。辺りが静寂に包まれるなら、今すぐにでも防塁の向こうから聞こえてきそうな海の音。
聞こえるかもしれない。耳に手を翳す。でも聞こえてくるのは、やはり走行音だけ。海岸沿いには、交通量の多い幹線道路が走っている。自分たちもその道を来たのである。
野外授業の円陣といい、どこか日本の公園の風情を思い出していた女に、訝しげな光景が目に飛びこんでくる。方角としては円陣の少し斜め奥である。早くから気づいていてもおかしくない近さである。あの子の所為である。
奇怪な光景は、実に厳粛に繰り広げられていた。「実に」と念を押すのは、そうでもしないかぎり、演じられている現実の光景が、子供たちから程遠からぬ場所であることの説明がつかないからである。
それにしてもなんという共存・併存!
裏切られた感じだったのである。日本と同じだなどと、ノスタルジーに浸っていたことが。
ソルジャーだったのだ、そこにいたのは。迷彩服に身を包み、部厚い軍靴を固く締めて、肩からは自動小銃を重々しく下げている。一人は黒人兵だった。痩身の体躯が、黒褐色の地肌を一段と引き締めている。首筋は妖しく輝いている。見るからに頑強そうだった。
でもそれだけではない。迷彩服が、背後の空に浮かべる輪郭は、夕暮を間近に控えていたこともあって、どこか艶めいている。美しいのである。
深い褐色のもう一人の兵士もだった。負けずに美しい。ともに男の美しさだった。
都市部は、平和で安全だが、山岳部は違う。場所によってはゲリラの支配地である。そういうお国事情を抱えている。知っていたし、ガイドにも尋ねた。安全について。それとなく。
地元のガイドは、遠く霞んで見える山岳をはるか彼方に指差しながら説明した。
――エエタシカニアノ山ハ……。
と、そこが治外法権であることを隠さない。
――デモココハトテモ安全デスカラ。
不安そうにしていた女に、心配しないでくださいと、顔面の笑みを絶やさないようにしながら太鼓判を押す。それもガイドの大事な務めであるかのようにして。
それなのに兵士が居る。配備されている。そうだ、今日は誰か要人が街を訪れている。よく聞き取れなかったが、そんなことを言っていた。そうだったのか、大統領だと言っていたのだ。なら特別警護だった。
だからなおさらだった、奇怪なのは。もし警護というなら、そのとき兵士が就いていた「警護」である。ありえないというしかない光景だったからだ。実際はそれでもまだ足りないくらいだった。警護していたのは、なんと若い女たちだったのである。しかも普通の「警護」ではなかったのである。
問題の舞台は、船の錨のモニュメントを据えた、数人が腰掛けられる石の基壇上だった。錨を背に兵士たちは腰かけていた。一人の女は、兵士の膝を枕にして壇上に若々しい肢体を長く伸ばしていた。黒髪に手を差し入れて優しく櫛いている兵士は、無言でじっと女の顔を覗きこんでいる。黒人兵の方だった。
彼だけではなかった。もう一人の兵士も同じようにカップルになっていた。違うのは、女が座っていることだった。でもただ座っているわけではなかった。片足を兵士の膝の上に大きくかけている。兵士は兵士で女の腰に手を回し、空いた手で女の腿を押さえている。五十歩百歩。二組に「警護」の程度の差はない。
女教師の大きな声は、「見ないで!」であったのだろうか。違う。そんなふうに思ってしまうのは自分だけだ。やはり自分は日本人なんだ。女は嘆く。情けなくなる。
それに時間は、夕方の5時を回っているではないか。時間外だった。もちろん大統領がまだ滞在中ならそうはいかない。だから大統領は、もう街を後にしたのだ。正真正銘のフリータイムだったのだ。
回収車を待っていたにちがいない。その間を使ってガールフレンドを呼び寄せたのだ。予め決めてあったのかもしれない。彼女たちにとってもここは観光地だった。観光させていたのだ。彼女たちだけを。
――モウOK! 公園デ待マッテル!
携帯電話で連絡したのだ。
でも大胆すぎる。回収車には同僚たちだけではなく上官も乗っているかもしれない。糺される。きつく。いくら日本でなくても。
公園を見渡すと、木陰にカーキ色のバイクが一台停まっているのが目に入る。マウンテンバイクだった。一台しか見当たらない。とするなら2人で一台。二人乗りだ。回収車は来ない。待っていたのではない。
返す言葉が見つからない。勤務時間外ならなんでも許されるのだ。個人の時間として。恋人とのひと時に費やすことを、迷彩服も肩の自動小銃も邪魔しない国。平和な国? 違う。山岳地帯にはゲリラがいる。ゲリラ戦に出撃することもあるかもしれないのだ。なら本物の男たちだ。
女の心はベンチを離れ、兵士に近づく。兵士からの抱擁を待っている。違う。勘違いしないでよと言う。待っているのは自動小銃の方。銃の台尻や銃身の先が、肩や腰に当たるのを。そのときの感触を。生きている感触を。血の流れを。そう言い聞かせようとしていた。弁明のようにして。忍び寄る大きな虚しさを一方に感じながら。

そろそろベンチを離れなければならない時間だった。
生徒たちはまだ輪を作っている。スクールバスがまだ来ないのだ。
あの子は、あどけない少女に戻っている。きっとあのときも実はそうだったように。
質問が出されている。われ先にとあの子も大きく手を上げている。
なかなか当ててもらえない。さらに大きく挙げている。
同じだ。子供たちは。しかめっ面のところも。
だからだ。思い知らされるのだ。
思い出してしまうのだ。
でもいいそのことは。
帰国してからのこと。